歴博 研究者紹介v01 02 0313していたのは、倭の 人々だった可能性が...

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約 1700 年前からおこなわれていた 沖ノ島のお祭り リニューアル後の第1展示室「沖ノ島」の展示について 教えてください。 玄界灘に浮かぶ沖ノ島は、島全体が宗像大社の御神体 である「神宿る島」として知られ、2017 年にはユネスコ世 界文化遺産にも登録されました。それだけではなく、古代 においてもこの島は大切なお祭りの場だったのです。その 祭りは、4 世紀から 9 世紀にかけての約 500 年間続いたこ とがわかっています。歴博では、その重要性に注目し、開 館当初から、沖ノ島の展示をおこなってきました。今回の リニューアルでは、従来の視点に加え「国際交流」という コンセプトから、東アジアにおける沖ノ島、世界の中での 沖ノ島を考えていただけるよう、一部展示を変えています。 沖ノ島のような小さな島から、古代の国際交流の様子 がわかるのですか? そうなんです。最大のポイントは場所です。九州と朝鮮 半島の間に位置するこの島は、日本、朝鮮半島、中国大陸 の人々が海を渡って行き来する上で重要な位置にありまし た。海を行き交う人々は、航海の途中でこの島に立ち寄り、 いつしか「無事にたどり着けますように」とお祭りをする ようになったのです。 古代の航路というと、いわゆる魏志倭人伝に登場する、 帯方郡(朝鮮半島中西部にあった郡)→対馬→壱岐→九 州北部というルートが有名です。その航路だと沖ノ島は通 りません。ところが島の遺跡を調べると、少なくとも 4 世 紀後半にはここで大規模な祭りが始まっていることがわか る。なぜここに立ち寄ったのか。さまざまな解釈が可能で すが、わたしは対馬から壱岐や北部九州を経由せず、沖ノ 島に向かうもう 1 つの古代航路があったと考えています。 なぜなら、4 世紀後半は、古代日本に誕生した倭の王権(大 和王権)が、朝鮮半島にあった百済(くだら)や新羅(し らぎ)と交流し始めた時期と重なるからです。倭の拠点は 今の近畿地方にありましたから、対馬から瀬戸内海方面に 入っていくことになる。その場合、沖ノ島は有力な立ち寄 り先になるのです。 海の上に船の通った跡は残りませんよね。それなのに 航海ルートがわかるのですか? 各地域の遺跡から推察することができます。たとえば朝 鮮半島海岸沿いの遺跡、集落からは日本列島産の土器や 須恵器が見つかっている。また、北部九州と同じ形や様式 沖ノ島の位置と海の道 沖ノ島を中心にした古代朝鮮半島と北九州をつなぐ古代航路には、主航 路(ピンク)と副航路(黄色)があった。古代航路としては、魏志倭人伝に 出てくる航路の方が有名で、沖ノ島は通過しない。 「神宿る島」沖ノ島での 祭りの変遷と国際交流 の歴史を探る 高田貫太 TAKATA Kanta 大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館研究部准教授 専門分野考古学 おもな研究5 ~ 6 世紀の日本と朝鮮半島の歴史 総合資料学の実践 研究者紹介

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Page 1: 歴博 研究者紹介v01 02 0313していたのは、倭の 人々だった可能性が 高い。ただ、日本では 貴重だった鉄鋌(てっ てい。鉄ののべ板)も

約1700年前からおこなわれていた沖ノ島のお祭り─リニューアル後の第1展示室「沖ノ島」の展示について教えてください。 玄界灘に浮かぶ沖ノ島は、島全体が宗像大社の御神体である「神宿る島」として知られ、2017 年にはユネスコ世界文化遺産にも登録されました。それだけではなく、古代においてもこの島は大切なお祭りの場だったのです。その祭りは、4世紀から9世紀にかけての約500年間続いたことがわかっています。歴博では、その重要性に注目し、開館当初から、沖ノ島の展示をおこなってきました。今回のリニューアルでは、従来の視点に加え「国際交流」というコンセプトから、東アジアにおける沖ノ島、世界の中での沖ノ島を考えていただけるよう、一部展示を変えています。─沖ノ島のような小さな島から、古代の国際交流の様子がわかるのですか? そうなんです。最大のポイントは場所です。九州と朝鮮半島の間に位置するこの島は、日本、朝鮮半島、中国大陸の人々が海を渡って行き来する上で重要な位置にありました。海を行き交う人々は、航海の途中でこの島に立ち寄り、いつしか「無事にたどり着けますように」とお祭りをするようになったのです。 古代の航路というと、いわゆる魏志倭人伝に登場する、帯方郡(朝鮮半島中西部にあった郡)→対馬→壱岐→九州北部というルートが有名です。その航路だと沖ノ島は通りません。ところが島の遺跡を調べると、少なくとも4世紀後半にはここで大規模な祭りが始まっていることがわかる。なぜここに立ち寄ったのか。さまざまな解釈が可能ですが、わたしは対馬から壱岐や北部九州を経由せず、沖ノ

島に向かうもう1つの古代航路があったと考えています。なぜなら、4世紀後半は、古代日本に誕生した倭の王権(大和王権)が、朝鮮半島にあった百済(くだら)や新羅(しらぎ)と交流し始めた時期と重なるからです。倭の拠点は今の近畿地方にありましたから、対馬から瀬戸内海方面に入っていくことになる。その場合、沖ノ島は有力な立ち寄り先になるのです。─海の上に船の通った跡は残りませんよね。それなのに航海ルートがわかるのですか? 各地域の遺跡から推察することができます。たとえば朝鮮半島海岸沿いの遺跡、集落からは日本列島産の土器や須恵器が見つかっている。また、北部九州と同じ形や様式

▲沖ノ島の位置と海の道沖ノ島を中心にした古代朝鮮半島と北九州をつなぐ古代航路には、主航路(ピンク)と副航路(黄色)があった。古代航路としては、魏志倭人伝に出てくる航路の方が有名で、沖ノ島は通過しない。

「神宿る島」沖ノ島での祭りの変遷と国際交流

の歴史を探る高田貫太TAKATA Kanta

大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館研究部准教授

専門分野:考古学おもな研究:5~6世紀の日本と朝鮮半島の歴史

総合資料学の実践研究者紹介

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していたのは、倭の人々だった可能性が高い。ただ、日本では貴重だった鉄鋌(てってい。鉄ののべ板)も見つかっています。倭の人が百済や加耶でもらったものを奉献したのかもしれませんが、百済の人々が沖ノ島に来ていた可能性も否定できません。 5世紀後半、お祭りの場所が岩上から岩陰(岩陰祭祀)になります。この時期の遺跡からは国際色豊かな品々が見つかりました。たとえば新羅でつくられた金銅製の馬具、ササン朝ペルシャ製のカットグラス椀なども出土している。活発な国際交流がおこなわれていたことがうかがえます。 その後、祭祀の場は岩陰の外へ移動し、8世紀頃からは平らな地面でおこなう露天祭祀が始まりました。お供えも変化し、国際色がうすれます。日本列島各地のお祭りと同じ、土器や滑石でつくられた形代(かたしろ。馬や人などに似せたお供え物)が見つかっています。この流れをどう解釈するかも、おもしろいところです。なお、これらの奉献品も精巧なレプリカを厳選して展示していますので、ぜひご覧ください。

でつくられた古墳もあります。これらは倭の人々がこの地を訪れていた痕跡です。こうした痕跡の残った時期や背景を丹念に調べれば、考古学的に航路を復元していくことが可能になります。今回のリニューアルでは、その一例として、朝鮮半島西海岸にある扶安(プアン)の竹幕洞(チュンマクトン)遺跡についての展示もつくりました。5世紀頃、この地は百済が管理していたのですが、倭の祭りと同じ石製の道具が出土しているのです。おそらく百済に向かう倭の人々がここで祭祀をおこなったのだろうと考えています。

立ち入ることのできない沖ノ島を「感じられる」展示─沖ノ島の遺跡について教えてください。 沖ノ島の中腹には大きな岩がそびえる場所があります。古代の人々はこの付近に祭場をつくったようで、多くの遺跡がここに集中しています。歴博では代表的な祭祀遺跡の実物大模型をつくり、開館当時から展示してきました。沖ノ島は原則的に立ち入り禁止ですから、遺跡を直に見られる機会はほぼありません。ちなみに5~ 6世紀の日本と朝鮮半島の歴史を研究しているわたしも、現地を調査できたのは一度きり。ですから、この模型も非常に貴重な資料といえます。リニューアル後も引き続き展示しますので、貴重な遺跡の様子を感じてください。─遺跡の出土品からどんなことがわかるのでしょう。

 沖ノ島の遺跡からは、お祭りでお供えされた品々(奉献品)が数多く見つかっています。 4世紀後半から5世紀まで、彼らは岩の上でお祭り(岩上祭祀)をしていました。お供えされたのは、銅鏡や碧玉(へきぎょく)の腕飾りなどで、畿内地域にある大型古墳の副葬品とよく似ています。つまり、この時期にここでお祭りを

▲リニューアルされた、総合展示第1展示室「沖ノ島」波あらい海上から沖ノ島を望む、ワイドなスクリーンが迎えてくれる。

▲沖ノ島の巨岩群(模型)沖ノ島の社殿、沖津宮は、古代祭祀の場であった巨岩群の間に築かれています。

▲5号祭祀遺跡の実物大模型5世紀後半には祭礼の場所が、岩上から岩陰になる。遺跡からみつかる品々は国際色豊かになり、活発な国際交流がうかがえる。

総合資料学の実践研究者紹介

〒285-8502 千葉県佐倉市城内町 117043-486-0123(代)

(2019年3月発行)