たのである。...

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一九七五年に黒田俊雄によって提唱された「顕密体制 論」は、中世仏教研究界に大きな波紋を投げかけた。そ のスケールの雄大さと視野の全体性において、顕密体制 論は容易に他の追随を許すものではなかった。この理論 の提唱を機として中世仏教史研究は、その流れがほとん ど一変した、といってよいほどの転換を遂げるに至った。 以後この理論を肯定するにせよ批判するにせよ、顕密体 制論は中世仏教の研究を志すものが必ず突き当たるべき 巨大な壁として、研究者の前に立ちはだかることになっ たのである。 はじめに 中世仏教研究と 研究史 黒田は社会構成史を研究の主軸とする日本史プロ の研究者であるが、その顕密体制論は思想史の分野 く関わるものであった。日本思想史上の一大ピークをな す鎌倉仏教・中世仏教の思想をいかに捉えるかという点 をめぐっても、黒田の説は大きな影響力を持つものだっ たのである。 顕密体制論が提示されてからすでに四半世紀が過ぎた。 その後、この説は多くの賛同者をえる一方、数えきれな いほどの批判も寄せられた。顕密体制論を克服すべく、 鎌倉仏教・中世仏教の全体的な再構築を試みる研究も一 つや二つには止まらない。顕密体制論をめぐっては、い まなお研究者の間で激しい議論が続けられているのであ る。 佐藤弘夫 日本思想史学33<2001> 7o

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Page 1: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

一九七五年に黒田俊雄によって提唱された「顕密体制

論」は、中世仏教研究界に大きな波紋を投げかけた。そ

のスケールの雄大さと視野の全体性において、顕密体制

論は容易に他の追随を許すものではなかった。この理論

の提唱を機として中世仏教史研究は、その流れがほとん

ど一変した、といってよいほどの転換を遂げるに至った。

以後この理論を肯定するにせよ批判するにせよ、顕密体

制論は中世仏教の研究を志すものが必ず突き当たるべき

巨大な壁として、研究者の前に立ちはだかることになっ

たのである。

はじめに

中世仏教研究と顕密体制論

研究史

黒田は社会構成史を研究の主軸とする日本史プロパー

の研究者であるが、その顕密体制論は思想史の分野と深

く関わるものであった。日本思想史上の一大ピークをな

す鎌倉仏教・中世仏教の思想をいかに捉えるかという点

をめぐっても、黒田の説は大きな影響力を持つものだっ

たのである。

顕密体制論が提示されてからすでに四半世紀が過ぎた。

その後、この説は多くの賛同者をえる一方、数えきれな

いほどの批判も寄せられた。顕密体制論を克服すべく、

鎌倉仏教・中世仏教の全体的な再構築を試みる研究も一

つや二つには止まらない。顕密体制論をめぐっては、い

まなお研究者の間で激しい議論が続けられているのであ

る。

佐藤弘夫

日本思想史学33<2001> 7o

Page 2: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

宗教改革論から鎌倉新仏教論へ

戦後の中世仏教研究を貫く共通の問題意識は、宗派史

的視点の克服だった。

鎌倉仏教を含む日本仏教研究には、江戸時代以来の長

期間にわたる各宗宗学の歴史があった。祖師の墨跡鑑定

や遺文への引用文献の考証など、祖師の思想の基礎的研

本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

に位置づけることを試みるとともに、顕密体制論以降の

中世仏教研究史とそこで交わされた議論を整理すること

によって、残された問題点および課題を明らかにするこ

とを目的としている。

はじめに、戦後を中心とする鎌倉仏教・中世仏教研究

の流れを振り返り、その中で黒田説のもつ意義を考える。

次いで黒田の中世国家論である「権門体制論」を視野に

収めながら、「顕密体制論」の具体的内容と、そこに込

められた黒田の意図を探ることにしたい。そして最後に、

顕密体制論以降にそれを克服すべく提示されたさまざま

な研究の歴史を回顧し、今後この分野の研究を次の段階

に進めるにあたっての、問題点と課題を考えてみたい。

一、敗戦から顕密体制論まで

究という点において、宗学の果たした役割は決して小さ

いものではない。

しかし、宗学はあくまで祖師を聖なる「宗祖」と捉え

ることを前提として、一宗の歴史の枠内でその意義を論

ずるものだった。それは個々の宗派の内部で完結するも

のであり、そこには祖師の行実を広く当時の時代思潮の

中に位置づけ、他宗の祖師と比較しながらその歴史的位

置を明らかにするという視点はなかった。宗学がこうし

た方法に立脚するものであるかぎり、それをいくつつな

ぎあわせようとも、鎌倉仏教・中世仏教を宗派を超えた

総体として捉える、という問題意識は生まれるべくもな

かったのである。

戦後、皇国史観の呪縛から解放されて科学的研究の重

要性が叫ばれるなかで、この分野でも研究史に画期をも

たらす一冊の本が刊行された。家永三郎の『中世仏教思

想史研究』である。

鎌倉仏教に関する客観的な立場からの先駆的研究は、

明治末に発表された原勝郎の「東西の宗教改革」にまで

遡ることができる。家永はこの本に収められた諸論文に

おいて、鎌倉仏教の成立を西欧の宗教改革になぞらえる

原以来の宗教改革論を継承しながら、鎌倉時代に相次い

で成立する親鷲・道元・日蓮らの宗教が、わが国の思想

[研究史]中世仏教研究と顕密体制論7'

Page 3: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

史上どのような意味をもつものであるかを考察した。

家永によれば平安仏教(旧仏教)の本質は、天皇と国

家の消災招福の機能を果たすことに存在意義を見出す

「鎮護国家」にあった。ところが平安時代も後半に入ると、

保元・平治などの戦乱を通じて同時代を末法悪世とみる

意識や罪業意識が民衆の間に定着し、人々の間に魂の救

済を願う声が強く沸き起こった。それを受けて、末法の

世に生まれあわせた苦悩を同時代人と分かち合いながら、

いかにすれば罪深き人々が救われるかという課題に取り

組んでいったのが、親鴬を始めとする新仏教の祖師たち

だった。新仏教の各宗派が専修・易行・在家主義・悪人

往生といった「民衆的性格」をその共通の性格としても

つことになったのは、そうした成立の背景に規定されて

のことだったのである。

新仏教の成立を、それ以前の貴族的・護国的仏教に対

する民衆仏教の成立と捉える家永のシェーマを継承しつ

つ、その問題を浄士教について具体的かつ克明に追及し

たのが井上光貞である。井上の研究の特色は、古代の被

支配階層の中から武士が勃興し、やがてみずからの政権

を樹立していく歴史過程を、「古代国家の解体と中世国

家の形成」という明確な理論的枠組みでもって捉え、そ

の社会変動の中に、浄士教の展開と中世的宗教としての

中世史像の転換

家永l井上によって形成された新仏教Ⅱ中世仏教Ⅱ民

衆仏教論は、多くの研究者の圧倒的な支持を得て、以後

長きにわたって定説の地位を保持することになった。だ

が、この説についてはやがて、その根幹を突き崩すよう

な疑問が提起されてくる。それは中世史研究の新たな展

開をふまえて、日本史研究者の側からなされたものだっ

た。

井上が、貴族の支配が崩れて新たな統治者として武士

が台頭する過程を、「古代国家の解体と中世国家の形成」

という図式で把握した背景には、戦後の中世史研究を

リードした石母田正の影響があった。

石母田はその著『中世的世界の形成』において、伊賀

国黒田荘(三重県名張亜という山間の一荘園を舞台とし

て、その領主である東大寺の古代的な荘園支配の中から、

新仏教を位置づけていった点に求められる。家永の構想

は井上の実証的な研究によって裏打ちされ、鎮護国家を

旨とする古代的な貴族仏教が古代国家の没落と武士層の

勃興によって形骸化し、やがて「民衆的」な新仏教Ⅱ中

世仏教に主役の座を奪われるというシェーマは、以後研

究者に圧倒的な影響を及ぼしていくのである。

日本思想史学33<2001〉 72

Page 4: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

武士団という形をとって在地領主が自立していく過程を

描きだした。そして彼は、この在地領主層の台頭とそれ

に並行する農民層の成長(奴隷から農奴へ)こそが、「領

主制」という中世固有の社会的関係の形成を示すものと

考えたのである。

荘園制を古代的なものと捉え、その解体と領主制の展

開に中世的世界の形成を見出そうとする石母田の「領主

制理論」は、戦後の一時期中世史研究の主流を占めるに

いたる。しかし、石母田のこの説はやがて一九六○年代

に入ったころから、集中的な批判を浴びることになった。

それらの批判の論点は一様ではない。だが、石母田が荘

園制と領主制を対立的に捉え、前者を後者によって克服

さるべき運命にある古代的な体制とみる点を突くことで

は、それぞれの主張は一致している。そしてこのような

論争を通じて、荘園制をただちに封建的なものとみなす

か、あるいは封建制への過渡的な形態とみるかの相違は

あっても、それを中世前期(院政・鎌倉期)社会の骨格を

なす体制と捉え、当時の社会を「荘園制社会」「荘園公

領制」と規定することが、中世史研究者の共通の理解と

なっていくのである。

古代国家の解体と武士層の成長という歴史過程との対

比において、浄士教の発達を論じた井上の視座と方法は、

石母田の領主制理論を下敷きにしたものであった。それ

ゆえ、石母田の古典的領主制理論の大幅な修正は、それ

に依拠して構築された鎌倉仏教像に対しても、根本的な

見直しを迫るものだったはずである。しかし、実際には

日本史・仏教史相互の学問的交流の場が少なかったこと

もあって、すぐさま仏教史研究者側の問題意識を喚起し、

定説の見直しへと走らせるには至らなかった。

八宗体制論

井上光貞の視角を継承しつつ、重要な論点を提示した

研究として見落とすことができないものに、田村圓澄の

「八宗体制論」がある。

田村は一九六九年の「鎌倉仏教の歴史的評価」におい

て、興福寺衆徒が法然の専修念仏禁止を求めて朝廷に提

出した「興福寺奏状」にみえる、「八宗同心の訴訟」と

いう言葉に着目した。そして、伝統仏教八宗がこのよう

に一味同心して法然を排撃する背景には、新興の念仏に

対してみずからのもつ特権を守り抜こうとする彼らの意

図が存在したとし、そうした共通の利害に基づいて共存

する伝統仏教界の秩序を「八宗体制」と命名した。

全九ヵ条からなる「興福寺奏状」はその冒頭、日本に

はいにしえより八宗のみがあり、それ以外の新宗を立て

[研究史]中世仏教研究と顕密体制論73

Page 5: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

ることは絶えてなかったと述べる。その上で奏状は、た

とえ法然が立宗に堪えるだけの学識と能力をもっていた

としても、まず公家に上奏して勅許をえるべきであると

説く。またそこには、仏法(八宗)と王法(公家政権)の

共存共栄を主張する論理(仏法王法相依論)もみられる。

田村は八宗側が相依相即の関係にあるとする王法Ⅱ公

家政権を、律令国家の系譜を引く「古代」国家であると

捉えていた。そのため古代国家との相即不離を公言し、

その首長である天皇の認可を立宗のための不可欠の条件

であるとするこの奏状の論理は、鎌倉時代に表明された

ものであっても、八宗体制の「古代的」性格を何よりも

雄弁に物語るものとみえたのである。

伝統仏教八宗の連合を「古代的」な体制の残存と捉え、

他方では法然に始まる新仏教の運動を「中世的」なもの

と規定した田村の「八宗体制論」の背後には、鎌倉仏教

についての当時の定説的な見解があったことは明らかで

ある。ただし田村説の場合、ややもすればまったくの混

乱と分裂のイメージで捉えられていた鎌倉期の旧仏教諸

宗間に、共通の利害に基づく一定の共存の秩序(八宗体制)

が存在したことを指摘したことは重要である。中世にお

ける伝統教団の共存の体制とその意義をめぐる問題は、

黒田の顕密体制論に引き継がれていくことになる。

仏教学研究の伝統

私はこれまで、主として歴史学の立場からの鎌倉仏教

研究の足跡を辿った。しかし日本仏教研究には、そのほ

かにもう一つの有力な伝統があった。仏教学研究の系譜

である。

この分野でもすでに戦前において、宗派史的視点の克

服という点で注目すべき論文が発表されていた。島地大

等「日本古天台研究の必要を論ず」である。島地はこの

論文において、江戸期の安楽による天台復興以前を「古

天台」の時代と規定し、そこに一貫する一つの思潮に着

目した。いわゆる天台本覚思想がそれである。

島地はさらに進んで、本覚思想が天台宗という枠を超

えて、鎌倉時代に成立する禅・念仏・日蓮らの仏教の共

通の母胎となっていたこと、この思想が仏本神通説から

神本仏迩説への転換の背景にあったこと、平安期の文化

を考える場合に古天台の思想を無視することはできない

こと、などを指摘する。その上で、日本哲学史上の仏教

哲学時代における「思想上のクライマックス」を、古天

台の本覚思想に設定すべきことを主張するのである。

こうした島地の問題提起を受けて、本覚思想を軸に日

本仏教史を構想したのが硲慈弘である。その遺稿集であ

日本思想史学33<2001> 74

Page 6: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

る『日本仏教の開展とその基調』は、平安から鎌倉期に

かけての諸思想を論じた上巻と、中古天台(島地のいう「古

天台」と重なる概念)を論じた下巻からなる。

上巻では「諸行往生思想より一向専修への開展」とい

うテーマのもと、平安仏教から鎌倉仏教への展開が詳細

に跡付けられ、また「一乗思想」「絶待三学」「真俗一貫」

「信心為本」を鎌倉新仏教の「四大基調」として、その

伝統と特色が論じられている。下巻では、本覚思想が中

心テーマとしてとりあげられる。硲は院政時代から江戸

中期までを「中古天台の時代」と規定し、本覚思想の高

揚・発展という視覚からそれを、「発生成立」「発達堕落」

「伝承持続」の三期に分かって、綿密な考察を加えている。

島地・硲と続く本覚思想研究の伝統を継承しつつ、本

覚思想の全面的な解明を試みるとともに、その鎌倉仏教

への影響を論じたのが田村芳朗である。田村の特色は、

インドから日本に至る広い仏教学の流れの中に、日本仏

教を位置づけることのできる視点をもっていたことであ

る。

本覚思想を考える場合、まず問題となるのはテキスト

の成立年代である。本覚思想関係の文献は、そのほとん

どが先師に仮託された偽作であった。田村は本覚法門の

さまざまなテキストを詳細に比較対照して相互の影響関

係を整理した上、各テキストの成立年代と著者について

の詳しい考証を行った。また相即思想の発展という視点

を導入して、「本覚思想」の定義を確定するとともに、

その時期区分を試みている。

田村はさらに、天台本覚思想が鎌倉仏教だけでなく、

中世の諸分野の思想l神道や文芸・芸道論lにまで

広く影響を与えたことを具体的に指摘していく。そして、

高度な思想的達成と広範な影響力からいって、絶対一元

論に立つ天台本覚思想こそは日本仏教のピークに位置づ

けられるものである、と主張するのである。この結論は、

新仏教こそが日本仏教の至高の達成であるとする常識を

共有していた当時の研究界に、真っ向から対立するもの

だった。

ここにおいて、鎌倉仏教は本覚思想という共通の背景

の中で把握され、思想的な座標軸ともいうべき本覚思想

との関係性において、各祖師の位置を論じることが可能

になった。島地の提言は、硲や田村の研究をまってよう

やく具体的な姿を現すことになったのである。

鎌倉仏教の総体的把握

以上、戦後の鎌倉仏教・中世仏教研究を回顧し、そこ

に家永l井上という歴史学の方面からの研究と、硲l田

[研究史]中世仏教研究と顕密体制論7ラ

Page 7: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

村に代表される仏教学的研究との、二つの主要な流れが

あったことを確認した。

これ以外にいま一つ見落とすことのできないものが、

この両者いずれからも距離を置いたところで独自の鎌倉

仏教論を構築した大隅和雄がいる。大隅は一九六五年の

「遁世について」から、七五年の岩波講座日本歴史のた

めに書き下ろされた「鎌倉仏教とその革新運動」にいた

る諸論考の中で、徐々にその構想を具体化していった。

大隅がこの問題を考えるに当たって課題としたことは、

いかにすれば新旧仏教の枠を超えた「鎌倉仏教の全体像」

の把握が可能となるか、という問題だった。

大隅がこの課題を追及していた六○年代後半から七○

年代前半は、家永l井上の鎌倉新仏教論が圧倒的な影響

力を持っていた時代だった。大隅は一定の指標にもとづ

いて新。旧仏教をはっきりと区分する両氏のシェーマに、

安易に便乗することを拒んだ。代わりにとったのが、平

安から鎌倉期に至る思考方法や価値観の展開の中で、鎌

倉仏教の成立をとらえようとする方法である。それはま

た、仏教史を超えた時代精神の中に鎌倉仏教を位置づけ

ようとする試みにほかならなかった。

大隅によれば平安時代の中期から、律令的な秩序の解

体に伴って、それを支えていた価値観の動揺が始まった。

顕密体制論

一九六○年代に始まる中世史像の大幅な転換を承けて、

家永l井上の鎌倉新仏教論に真正面から批判を加えたの

が黒田俊雄である。

そうした動向の中で、新たに析出された階層である「知

識人貴族層」は、しだいに律令的な価値体系の外にある

ものに関心を向けるようになった。それは律令的な価値

体系の空洞化と、既成の価値基準では捉えることのでき

ない、自然であるがままの人間の発見につながった。貴

族社会に生じたこの精神革命は、やがて寺院社会にも波

及した。もはや既存の教学が社会の変化を追うことがで

きなくなったとき、教学そのものへの疑問と信仰重視の

立場が成立した。宗教体験を深化させることによって、

人間・仏法・現世等に対する思想の転換が行われ、鎌倉

仏教の革新運動が生起する。l大隅はこのように論じ

るのである。

大隅は他方では、時代思潮の変動との関わりという観

点に立って、鎌倉仏教を前期と後期に二分するという注

目すべき時期区分の試みも行っている。

二、顕密体制論の提唱とその意義

日本思想史学33<2001〉 76

Page 8: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

黒田は、一九七五年に刊行された『日本中世の国家と

宗教』所収の「中世における顕密体制の展開」という論

考において、「顕密体制論」と呼ばれる学説を提唱した。

黒田がまず強く主張したのは、社会的勢力・宗教的権

威・思想的影響力いずれの面でも、中世において旧仏教

の保持していた圧倒的な力である。その際、黒田は「新

仏教・旧仏教」といった区分が近世以降の宗派を基準に

してなされたものであるとして、分析概念としてのその

有効性に疑問を投げかけた。代わって、歴史的に実在し

た中世の正統を示す概念として「顕密」という語を提示

した。

黒田によれば延暦寺・興福寺・東大寺などの古代以来

の伝統を誇る有力寺院Ⅱ顕密仏教は、通説でいわれるよ

うに、平安後期から一方的な衰退と退廃の道を辿ったわ

けではなかった。彼らは従来の後援者であった古代国家

が変質するや、それに代わる新たな財政基盤として、積

極的に荘園の獲得に乗り出した。その結果、諸大寺院は

十二世紀末には巨大な荘園領主(権門寺院)として再生

することに成功し、古代以上の強力な権力を体現して世

俗界に権力を振るうに至った。と同時に、仏教界におい

てもその盟主としての地位を強化していった。しかも、

それらの権門寺院はたんに個別領主として分立し対抗し

っっ存在していたのではない。彼らは「顕密主義」とも

いうべき共通の理念を媒介として、共存の秩序を作り上

げるとともに、国家権力と新たな形で癒着してみずから

支配体制の一翼を担ったのである。

黒田はこのように、顕密主義を基調とする諸宗が国家

権力と癒着した形で宗教のあり方を固めた体制を、「顕

密体制」と命名した。そして、「独自の社会集団と国家

体制によって裏付けられた、世俗的実体さえ含む」[黒田・

一九七七]この顕密体制こそが、中世仏教界の「正統」

であり、支配的位置を占めていたと主張するのである。

それでは黒田説においては、それまで中世仏教の主役

として扱われてきた新仏教諸派はどのような位置を与え

られるのであろうか。黒田によれば、十二世紀末から始

まる一連の仏教改革運動(いわゆる新仏教の勃興)は、支

配的位置にあるこの「顕密」仏教に対し、それが生み出

す時代的・社会的諸矛盾を、さまざまな部分的・特殊的

形態で表現する「改革」、ないしは「異端」の運動とし

て位置づけられるのである。

中世国家論と「権門体制論」

黒田の提唱した顕密体制論の背後には、「権門体制論」

と呼ばれる黒田独自の中世国家像があった。

[研究史]中世仏教研究と顕密体制論77

Page 9: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

すでに述べたように、戦後の中世史研究界で一世を風

塵したのは石母田の領主制理論だった。石母田は都市貴

族や大寺社が行う荘園制支配を古代的なものと捉え、そ

れを在地レベルで根源から突き崩していく新たな動きを

在地領主制の形成に求めた。当然のことながら石母田に

とっては、在地領主層の力を結集し、それを基盤として

成立した鎌倉幕府こそが中世国家であった。

中世国家の主役を鎌倉幕府と捉える一方、公家政権を

最終的には打倒さるべき古代的存在とみなし、両者の相

克のうちに鎌倉期の政治過程をみようとする「二重政権

論」は、六○年代まで中世国家論の主流だった。黒田が

権門体制論によって主たる批判の対象としたのは、まさ

しくこの二重政権論だった。

一見すると、鎌倉時代が公武の激しい対立と相克の時

代にみえることはまぎれもない事実である。しかし、黒

田はこうした表面的な対立の背後に一定の秩序が保たれ

ていたことに着目する。たとえば、武家政権は次々と公

家側の権益を侵犯していくようにみえながらも、在地領

主の荘園侵略に対しては一貫して荘園領主側を擁護する

立場に立った。武家政権が存在しなければ、荘園体制は

あのように永らえることはできなかった、という評価が

生まれるゆえんである。

公武両政権は表面的には常に反目しあっていた。しか

し、それはどこにでもある権力内部の主導権争いにすぎ

ない。むしろ重要なのは、支配される民衆の側の問題で

ある。二つの権力は人民に対しては、相互に補完しあっ

て彼らの上に厚く覆いかぶさっていたのではないか。

黒田はこうした見通しに立って中世国家を、大土地所

有Ⅱ荘園制支配を共通の基盤とする荘園領主階層Ⅱ権門

勢家が、国家権力を分掌しつつ支配を遂行する体制と規

定した。すなわち天皇家は国王を輩出する家としての役

割を、武家権門は軍事・警察の権限を、寺社権門は国家

支配のイデオロギーを提供するという役割を、それぞれ

担っていた。これらの諸権門は国政上の一定の役割を司

りながら、あいよって国家支配を遂行していたとされる

のである。

これまでしばしば黒田の権門体制論は一つの国家論で

あり、諸権門が国家権力を分掌する体制と説明されてき

た。しかし、私はこうした規定は誤りとはいえないまで

も、権門体制論の本質を必ずしも的確に言い当てていな

いように思われる。黒田が第一義として論じようとした

のは、たんなる権力の分掌のシステムではなかった。

「中世国家が、当時の人民にとって、いかなるものであ

ったか」[黒田・一九七七]という、下からの視点の重要

日本思想史学33<2001〉 78

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顕密体制論の意義

黒田の顕密体制論の研究史上の意義については、すで

に平雅行をはじめ多数の研究者が論じている。全体的な

総括はそこにゆだねて、ここでは一、二、考えるところ

を述べておきたい。

冒頭でも述べたように、戦後の鎌倉仏教研究に共通す

る問題関心は、いかにすれば宗派史を超えたその総体的

な把握が可能になるかという点にあった。この課題に対

して、先学はおおよそ三つの方向から解答を模索した。

すなわち、新仏教に共通する革新性に着目するもの、本

性なのである。

権門体制論の提唱後、黒田説には多くの批判が寄せら

れた。二重政権を擁護する側からは、公武両政権の階級

的な異質性をあいまいにしているという反論がなされた。

また、そもそも中世には統一的な全国支配の秩序など存

在しなかったとする中世無国家論も提示された。だが、

これらは支配されるものの目線から権力構造を捉えよう

とする黒田国家論の核心を、内在的に理解したうえでの

批判とは思えない。この「底辺からの視座」という問題

は、顕密体制論を考える場合にも見落とすことのできな

いものだったのである。

覚思想を諸思想把握の座標軸とするもの、時代思潮の中

で鎌倉仏教の成立を考えようとするもの、である。

こうした立場に対し、黒田がとったのは、中世に出現

する宗教そのものの分析からその「中世的」性格を探り

出そうとする方法だった。黒田によれば、戦後の中世仏

教研究の中心となった鎌倉新仏教論は、宗派という枠は

超えたものの、近世以降に確定する後世の宗派観念をそ

のまま中世に持ち込むという誤りを犯していた。これを

克服するためには、なにゆえにそれぞれの宗教が中世的

であるかを、同時代の歴史的状況をふまえてそれ自体に

即して解明していく必要があった。

そして黒田の場合、彼が考える中世宗教としての指標

は、中世という固有の歴史状況の中で、それが特定の役

割を担っていることでなければならなかった。こうした

立場から黒田は、中世的な支配体制Ⅱ権門体制に即応し、

それをイデオロギー的に支える機能を果たしたものを中

世宗教の正統、その矛盾を突いて出現する運動を異端と

規定するのである。

黒田が「中世の人民にとって宗教とはなんだったのか」

という問題視覚から、宗教研究にイデオロギー論の方法

を導入したことは、その理論にもう一つの重要な特色を

付与することになった。そのことによって仏教史研究に、

[研究史]中世仏教研究と顕密体制論79

Page 11: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

頂点的思想家論を超えて、歴史の全体的動向や生きた民

衆との関わりを追及する道が開かれた。従来の中世仏教

研究をはるかに凌駕する顕密体制論のスケールは、こう

した彼独自の方法から生み出されることになったのであ

う(》O

黒田の顕密体制論はこれまでしばしば、思想の「質」

から「量」へと視点を転換したところにその意義がある

とされた。しかし、「量」的影響力という点からいえば

旧仏教が中世仏教の主流であることは、すでに戦前から

の常識であったし、家永をはじめとする従来の中世仏教

研究者も等しく認めるところであった。彼らがそこに着

目しなかったのは、それがしょせんは古代仏教の残骸で

あり、思想的にみるべき価値がないという認識があった

からである。

それに対して、黒田は旧仏教を明確に「中世的」宗教

と規定し、それが果たした歴史的・イデオロギー的機能

を明示した。黒田の指摘によって、それまで古代仏教の

残津にしかすぎないと考えられていた中世の旧仏教に、

一躍スポットが当てられることになった。寺領荘園や寺

院機構などについては戦前からの研究の蓄積はあったが、

顕密体制論以後は、「古代寺院の中世的転生」という角

度から、改めてその意義が問い直されることになった。

顕密体制論の深化

顕密体制論は思想や教学研究にも強い影響を与えた。

鎌倉時代の旧仏教が、決定的な自己変革を経て新時代に

転生した中世仏教であるとすれば、「中世仏教」として

の特色はどこに見出すことができるのであろうか。従来

中世仏教の主役とみなされてきた新仏教は、どのように

捉え直されることになるのかI。

この問題をめぐる数多い研究の中で、黒田以降一貫し

てこの問題を正面から受け止め、新たな中世仏教像の全

体像構築を意図してきた研究者に平雅行がいる。

黒田の問題提起を受けて、平がまず取るべき研究の方

向性として強調したのは宗派史的視点からの脱却だった。

それを実現するために、平は、宗教史は何よりもまず総

かくして黒田以降、顕密寺院の生態についての研究が飛

躍的に進展していくのである。

顕密体制論の最大の意義は、けっして新仏教から旧仏

教へ、「質」から「量」へという視点の転換にあったの

ではない。いかに宗教を捉えるかという、その方法と視

座の独自性にこそ存したのである。

三、顕密体制論以後

日本思想史学33<2001> 8o

Page 12: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

合史・全体史として構想される必要があると主張した。

平によれば、古代や中世の社会は生産・経済と宗教の

未分離を特色とするゆえに、宗教史もまた全体史として

叙述される必要があった。平は黒田と重なるこのような

問題意識を下敷きにして、黒田が中世仏教の「正統」と

規定した顕密仏教との対比において、「異端」とされた

法然や親鶯の思想の構造と、その歴史的位置の解明を目

指すのである。

すでに述べたように、黒田は正統としての顕密仏教像

を提示し、新仏教をそれに対する改革ないし異端の運動

として位置づけた。しかし、黒田は「顕密主義」ついて

「密教を統合の原理とした顕密仏教の併存体制」とする

だけで、その中身をめぐってはほとんど具体的な記述は

していない。黒田のいう「顕密体制」「顕密主義」概念

の不透明さ、あいまいさは、それと対時する異端側の思

想的特色をも不鮮明にすることにつながった。

平は黒田の残したこうした課題を総括し、顕密仏教側

の論理と対比しながら法然や親鶯の思想を分析し、その

異端たるゆえんを解明することを試みた。平によれば、

民衆の解放願望を封殺する中世的イデオロギー形態の登

場こそが中世宗教の成立であり、異端はそれに対する中

世的な解放のイデオロギーであった。平の考察によって、

顕密体制と東国政権

黒田の顕密体制論をふまえつつ、そこに欠けていた正

統・異端両者の思想の対象化を進めたのが平であるとす

れば、その大幅な修正によって独自の中世仏教像を提示

しようとしたのが佐々木馨である。

黒田の顕密体制論は、一つの国家論Ⅱ権門体制論と表

裏一体の関係にあった。黒田によれば、鎌倉幕府もまた

基本的には権門体制に組み入れられた一権門だった。そ

うした政治支配体制と重なり合うように、思想世界では

顕密主義ともいうべき宗教イデオロギーが、中世の列島

を広く覆っていたのである。

佐々木は黒田のこうした構想に対して、鎌倉幕府は当

初から顕密主義とは異質な思想空間を作り上げていたこ

とを指摘する。佐々木はその独自性を反叡山・親禅とい

う点に求め、それを「禅密主義」と命名した。その上で、

幕府の精神的な支柱であった鶴岡八幡宮や禅寺を中心に、

禅密主義の具体的内容の解明を試みるのである。

こうした考察をふまえ、佐々木はさらに黒田の提示す

彼らの思想的特色が浮き彫りにされ、また「悪人正機」

などいくつかの鍵となる概念の意味が、根底から問い直

されることになったのである。

[研究史]中世仏教研究と顕密体制論81

Page 13: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

る「正統」「異端」という分析概念の有効性そのものに

疑問を投げかけた。そして、それに替わって神祇に対し

てどのような態度を取るかという視点から区分を行うべ

きであるとし、鎌倉時代には、武家的体制仏教Ⅱ「禅密

主義」と公家的体制仏教I「顕密主義」からなる〈体制

仏教〉、専修主義に立脚する〈反体制仏教〉、遁世門を内

容とする〈超体制仏教〉、の三つの思想世界が存在して

いたと論ずるのである。

佐々木の論点は多岐にわたるが、私見によればもっと

も重要な問題提起は、顕密体制が鎌倉幕府支配下の東国

世界を包摂しうる概念か、といった点にあるように思わ

れる。東国政権下の宗教世界の独自性を明らかにすると

いう問題意識は、明らかに黒田には欠落した視点だった。

また、鶴岡八幡宮や、幕府祈祷寺、禅・律について個別

に論じた研究は数多いが、そうしたものが総体としてい

かなる宗教空間を作り上げていたのかといった問題関心

は、従来の研究にはほとんどなかった。

それゆえ佐々木の突きつけた疑問は、顕密体制論その

ものの有効性を根本から問い直す大問題だった。佐々木

の「禅密体制論」は、まぎれもなく顕密体制論の盲点を

突くものだったのである。

なお佐々木説については、鎌倉の宗教空間が顕密主義

思想史としての日本仏教史

顕密体制論を基本的には受け入れつつその深化と改正

を目指す立場に対し、そこから距離を置いた形で、独自

の日本仏教像の構築を目指したのが末木文美士である。

島地I田村芳朗の仏教学の系譜に連なる末木は、みず

からの研究が仏教学の立場によるものであることを明言

する。ただし、末木は自分の研究を「仏教」の範晴に留

めようとはしなかった。日本仏教をインド以来の仏教思

想史の流れに位置づけることによって、仏教史上におけ

る日本仏教の独自性を明らかにしうるとともに、その作

業を通じて、時代精神や民族文化の特質を照らし出すこ

とが可能になる、とするのである。思想史としての仏教

学研究の提唱である。

こうした見通しに立ったうえで、末木は宗派史的研究

の限界を指摘する一方、返す刀で、これまで研究を主導

してきた歴史学的視座からの日本仏教研究を厳しく批判

する。末木によれば、歴史学が思想を政治や社会の動き

に従属させた結果、宗教を捉える視点が政治的な関心に

偏ったり、教理・思想の内容に深く立ち入れない、とい

とは異質ではなかったとする、平の詳細な反論が発表さ

れている[平.二○○○]。

日本思想史学33<2001) 82

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った弊害が生じたという。その上で、「宗教はあくまで

宗教として、思想はあくまで思想として解明」[末木・一

九九三]される必要があると主張するのである。

鎌倉仏教に関していえば、末木に一貫しているものは、

新仏教偏重主義に対する批判的立場である。末木によれ

ば、「現世主義」ともいうべき日本仏教の基本的性格を

規定する決定的な転換点は、最澄と空海であった。彼ら

を起点とする現世主義の流れは、安然における台密理論

の大成や本覚思想の興隆に伴っていっそう発展し、日本

仏教を貫く一本の機軸を形成した。しかし、平安中期か

らそうした方向に歯止めをかけるかのように、仏教の現

実否定の精神を取り戻そうとする動きが現れた。末木は

この二つの潮流の織りなす紋様として、日本仏教の展開

を構想するのである。

末木はこのように、日本仏教全体の動向を展望するな

かで、鎌倉仏教を把握する立場をとった。加えて末木は、

歴史学のように過去を現在から切り離して捉えようとす

ることには批判的だった。過去はあくまで現代につなが

るものとして、主体的な捉え方が求められるべきだとす

る。こうした立場をとる末木の目には、黒田や平の研究

にみられる、古代と中世、正統と異端といった明確な区

分は、かえって既存の研究の枠組みに縛られているもの、

総体的把握論の展開

先にあげた黒田・平・佐々木らは、歴史学的立場から

の研究に連なるものであった。他方、末木は仏教学研究

の伝統を汲んでいた。彼らはそれぞれ史学と教学という、

仏教研究の二つの代表的な方法に立脚して、その研究を

深化させていったのである。

これに対し、大隅と重なる問題意識を抱いて研究を進

めたのが高木豊である。日蓮研究から出発した高木は、

顕密体制論の発表と符節を合わせるように、鎌倉仏教に

対する広い視野からの多角的な考察を発表し始める。

高木はまず研究の前提として、井上らの主導する従来

の鎌倉仏教研究が、浄土教を中心とする新仏教を主たる

対象として進められてきたことを指摘する。その上で、

既成仏教もまた古代から中世への変革を正面から受け止

め、中世への対応を成し遂げていたこと、それゆえ鎌倉

期の仏教界においても、既成仏教が「主流・正統」の地

位を占めていたのであり、新仏教はそこから自立した「傍

流・異端」にすぎなかったことを説く。そして、この両

者の「拮抗関係とその構造の解明」こそが、「歴史とし

ての鎌倉仏教に対する総体的考察」の、重要な手がかり

と映ることになったのである。

8〕 [研究史]中世仏教研究と顕密体制論

Page 15: たのである。 中世仏教研究と顕密体制論ajih.jp/backnumber/pdf/33_01_11.pdf祖師の墨跡鑑定 本稿はこの顕密体制論を取り上げて、それを学説史上

官僧と遁世僧

顕密体制論以降、これまであげたような区分では捉え

きれないような、新たなタイプの鎌倉仏教研究が生まれ

つつある。その代表が松尾剛次と袴谷憲昭である。

になるものである、とするのである。高木と黒田はつい

に本格的に斬り結ぶには至らなかったが、高木が顕密体

制論を強く意識していたことはこうした記述に窺うこと

ができる。

また、高木は、それまでの鎌倉仏教の総体的把握の仕

方の一つに、新仏教に内在する共通の特質の指摘があっ

たとした後、そうした視点に加えて、鎌倉仏教が自己に

対して外在するものl具体的には「歴史」と「国家」

lにどのように対時し、いかなる思想的営為を行った

かを探ることによって、鎌倉仏教の総体的考察への新た

な視座を確立しうる、と主張する。以上の二つの基本的

な視座に立って、高木は鎌倉仏教に対する縦横な論述を

展開していくのである。

このように、高木の学風の特色は、鎌倉仏教に直接の

焦点を合わせながらも、時代的には平安時代から近世に

至るまでの長いスパンの中に、分野的には仏教を超えた

時代思潮の中に、それを位置づけようとする手法にあった。

黒田の顕密体制論に対して痛烈な批判を加えつつ、特

色ある鎌倉仏教像を示したのが松尾剛次である。松尾は

もともと日本史畑の研究者であり、その学風も堅実な実

証を基本とする歴史学的な手法に拠っている。だがこと

鎌倉仏教の研究に関しては、その方法はきわめて独自の

ものがある。

松尾はまず、井上・黒田に代表される従来の鎌倉仏教

の研究は、たとえば荘園制と寺社のように、政治・経済

と宗教が一体不可分の関係として捉えられてきたことを

あげ、こうしたものはひとまず区分されべきであるとす

る。そしてその上で、宗教はそれ自体として考察される

べきであり、「鎌倉新仏教」という概念もまた、宗教そ

のものを基準として規定さるべきである、と主張するの

である。

それでは、松尾のいう基準とはなにか。それは「個人」

の救済であった。松尾は「旧仏教」が共同体に埋没した

人々の救済を目指すものであったのに対し、「新仏教」

は商業の展開を前提として生まれた都市民「個人」の救

済を目指すところに、その特色があると論じる。

松尾はその新仏教の担い手を「遁世僧」と規定した。

官僧の世界から二重出家を遂げた彼らは、天皇とは無関

係な入門儀礼システムを創設し、祖師信仰をもち、女人

日本思想史学33<2001〉 84

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批判仏教

歴史学的立場から中世仏教を考える際には、通常それ

が同時代においていかなる意義を有するかといった視点

をとり、たとえ現代的な関心や主体的な問題意識をもっ

ていても、それを完全に論証に内在化させて、表面に出

さないのが常だった。それに対し、末木はそうした消極

的な立場に疑問を表明し、個人救済に着目する松尾もま

た、現代までを視野に入れた議論を展開している。さら

に近年、自身の立脚点をはっきりと打ち出してさらに明

確な問題提起を行っている研究者がいる。「批判仏教」

救済・非人救済に従事するところに共通性を有したとい

う。こうした見通しをもとに、松尾はさらに巨視的な視

点から、日本の宗教の展開を共同体宗教↓第一個人宗教

(新仏教)↓第二個人宗教薪宗教)という形で捉えうる、

という壮大な構想を立ち上げるのである。

鎌倉仏教の特色を個人救済に認めることは、民衆救

済・個人救済を新仏教の指標とする家永・大隅らに共通

する視点だった。松尾はそうした見方に立ちながらも、

親鶯を新仏教の典型とする見方を退け、従来の新旧仏教

を横断する形で、個人救済という視座からみずからのい

う「鎌倉新仏教」の特色を論じていくのである。

という視点から独自の日本仏教論を展開している袴谷憲

昭である。

「批判仏教」は一九八○年代半ばに、駒沢大学の松本

史朗・袴谷憲昭らによって提起された問題である。「批

判だけが仏教である」というテーゼを掲げるその主張は、

仏教研究界に大きな衝撃を及ぼすことになった。袴谷は

もともとはインド哲学を専門とする研究者だったが、や

がて「批判仏教」の立場から、日本仏教を正面に見据え

た研究を発表するようになった。

松本l袴谷の基本的な主張は、思想的な立場から「仏

教」の範晴を明確にすることであった。そこでは仏性の

万人への内在を説く如来蔵説のように、何らかの普遍的

な基体の存在を想定する説は、「無我」を説く仏教の基

本的立場を逸脱するものとされた。日本中世に圧倒的な

影響力をもち、田村芳朗が「東西古今の諸思想の中で最

も究極的なもの」[田村・一九七三]と評した本覚思想も、

袴谷にいわせれば「仏教」の名に値しないものだったの

である。袴谷の批判の刃はさらに、本覚思想を日本独自

のものとしてもてはやし、その現代的意義を再発見しよ

うとする梅原猛らの日本学研究者にも向けられていくの

である。

なお、袴谷のいう「本覚思想」は、土着思想と合体し

8ラ [研究史]中世仏教研究と顕密体制論

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顕密体制論への批判

以上、私たちは顕密体制論以降に発表された、鎌倉仏

教・中世仏教を全体的に捉えようとする研究の歴史を回

顧してきた。その多くは、独自の立場から、黒田の説を

視野に入れつつその克服を目指そうとするものだった。

そのためそれらの研究は、必然的に顕密体制論に対する

厳しい批判を伴うことになった。

顕密体制論は一種の仮説の提示であり、明らかに論証

の不十分な部分や論理的に詰められていない記述が存在

する。それゆえ、それに対してさまざまな批判があるの

て定着した思想すべてを指すものであり、本来の「仏教」

に対時するものとして規定された独自の概念である。

批判仏教の独自性は、仏教とはなにか、それはいかに

あるべきか、という強烈な問題意識をあえて正面に打ち

出した点にある。その根底には差別戒名のような重大な

問題を起こしながらも、みずからの果たしてきた歴史的

役割に目を向けようともせず、根本的な反省も自己変革

も行わない日本の仏教界に対する、強い憤りの念がある

ように思われる。

四、中世仏教史研究の課題

は当然だった。しかし、顕密体制をめぐるこれまでの論

争は、この分野を専門としない研究者にはもちろん、中

世仏教の研究者にとってさえ必ずしも分かりやすいもの

ではなかった。その一つの原因は、従来の顕密体制論批

判が、必ずしもその核心を突いたものとはなっていなか

った点にあるように思われる。

たとえば、顕密体制論は宗教の量的影響力に着目した

ものであって、宗教を宗教として評価することができて

いない、という黒田説への代表的な批判を取り上げてみ

よう。中世仏教を考える際には思想の「質」を重視すべ

きであるという主張[家永・一九九四]や、黒田説では思

想が歴史に従属させられているという指摘も、基本的に

は同様の認識に基づくものと思われる。

黒田が思想の量的影響力やそのイデオロギーとしての

側面を重視することは紛れもない事実である。しかし、

それは黒田が思想そのものの「質」を軽視したためでは

ない。先にも述べたように、宗教を通じてこそ中世の国

家や社会の仕組みがもっともよく見えてくるという前提

に立つ、黒田の方法の必然的な帰結なのである。宗教を

機軸とした中世の全体史を構想する黒田にとって、思想

が歴史や政治に従属させられているという批判はなんの

意味もないものだった。思想・政治・歴史の一体的把握

日本思想史学33<2001〉 86

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にこそ、顕密体制論の独自性は存在したのである。

私は研究の視点や方法は多様でありうると考えている。

また、根っからの善玉の思想・悪玉の思想というものも、

基本的には存在しないと思っている。同じレトリックが、

それを行使する人間の動機や行使される対象、時代的・

思想的背景によってまったく異なる役割を果たすことは、

私たちがしばしば目にする現象である。新仏教を至高の

思想的達成と捉える立場も、本覚思想を哲学史のピーク

とする見解も、あるいは宗教を通じて国家支配のメカニ

ズムを解明しようとする立場も、いずれも可能性として

は十分に成り立ちうるものである。

だからといって私は、どのようなタイプの研究でも許

されるという極端な相対主義の立場はとらない。研究の

進展のためには、各自の学問分野や立場を超えた、方法

と視点をめぐる相互の厳しい錬磨が必要である。だがそ

れは、それぞれの研究者が、自己の立場を基準として相

手を両断するというものであってはなるまい・

建設的な批判のためには、研究者はまず自身の方法と

批判すべき相手の方法を対象化することが求められる。

そしてその上で、相手の方法に即してその内在的な批判

を行わなければならない。その際に、その批判が根本の

方法レベルのものか、個別の論証・叙述に対するものか

といったことも、はっきりと自覚する必要があるだろう。

顕密体制論についていえば、私はそのもっとも重要な

意義は、新仏教から旧仏教への視点の転換ではなく、底

辺の視座から国家や宗教のもつ意味を問い直そうとした

点にあると考えている。方法レベルの問題提起にこそ、

その重要性は存するのである。顕密体制論の具体的な叙

述は、すべてこの基本的な認識の上に積み上げられたも

のにほかならない。それゆえ、私たちが方法としての顕

密体制論が提起する問題を正面から受け止め、それと対

決したときにこそ、真の意味でその克服の道筋が見えて

くるのではなかろうか。

仏教研究の現在と今後

今回は紹介できなかったが、顕密体制論以前から現在

に至るまで、この分野ではほかにも多数の労作が発表さ

れてきた。なかでも戸頃重基、川添昭二、藤井学、中尾

堯らの仕事は、看過しえないものである。

それに加えてもう一つ見落とすことができないものが、

近年の海外の研究動向である。サイードの『オリエンタ

リズム』などの問題提起を受けつつ、既存の仏教研究の

限界を鋭く批判するベルナール・フォールやロバート・

シャープ、本覚思想を軸に日本仏教を捉え直そうとする

87 [研究史]中世仏教研究と顕密体制論

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ジャクリーン・ストーンらの研究をみると、もはや日本

仏教研究の分野において、日本人が特権的地位に安住で

きなくなったことを痛感させられる。欧米の研究は、最

新の批評理論を大胆かつ自覚的に活用していく点におい

てとくに刺激的である。

伝統的な仏教研究からすれば周辺分野であった民俗

学・美術史・文学・建築学などの方面でも、近年の中世

仏教研究の充実ぶりは著しい。また、アジアという広い

場の中で中世仏教の成立を考えるべきであるという提言

もなされ、それに基づく具体的な成果が示されつつある

[上川・二○○二。顕密体制論を契機として新たな段階を

迎え中世仏教研究は、いまやかつてないほどの盛況ぶり

をみせている。

しかし、研究素材と成果が豊富になればなるほど、そ

れらを総合して新たな仏教像を描きだすためには、研究

者側の透徹した問題意識と卓越した力量が求められるこ

とも事実である。今日の中世仏教研究の盛行を一時の

ブームに終わらせないためには、私たちも新たな資料の

掘り起こしや実証面での精綴さの追及に加え、方法レベ

ルで問題意識をさらに研ぎ澄ましていく必要があるだろ

う。その上で、周辺分野の成果を吸収しつつ、よりスケー

ルの大きい中世仏教像の構築を目指していくことが求め

られているのである。

[引用文献]

家永三郎『中世仏教思想史研究』(法藏館、一九四七)

l「書評・平雅行著『日本中世の社会と仏教』」

(『日本史研究』三七八、一九九四)

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訂版は東京大学出版会、一九五七)

井上光貞『日本浄土教成立史の研究』(山川出版社、一九

五六)

大隅和雄「遁世について」(『北海道大学文学部紀要』一三

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「鎌倉仏教とその革新運動」(『岩波講座日本歴

史』五、一九七五)

上川通夫「中世仏教と「日本国」」(『日本史研究』四六三、

二○○こ

川添昭二『日蓮とその時代』(山喜房、一九九九)

黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』(岩波書店、一九七五)

l『現実の中の歴史学』(東京大学出版会、一九七七)

佐々木馨『中世国家の宗教構造』(吉川弘文館、一九八八)

島地大等「日本古天台研究の必要を論ず」(『思想』六○、

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末木文美士『日本仏教思想史論考』(大蔵出版、一九九三)

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平雅行『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九三

I「鎌倉山門派の成立と展開」(『大阪大学大学院文

日本思想史学33<2001> 88

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澪目四a菌員の(ベルナール・フォール)弓言お宮ごミら具

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三畳§色房舅のミミ。爵旦一言画塁員言.ご己ぐ胃望ごg○三s,

唱卑のののゞご雷.(邦訳は「禅と日本のナショナリズム」

『日本の仏教』四、法藏館、一九九五)

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松尾剛次『鎌倉新一

新版は一九九八)

「鎌倉新仏

硲慈弘

藤井学

房、

戸頃重基『日蓮の思想と鎌倉仏教』(冨山房、一九六五)

中尾堯『中世の勧進聖と舎利信仰』(吉川弘文館、二○○一)

袴谷憲昭『本覚思想批判』(大蔵出版、一九八九)

I『法然と明恵』(大蔵出版、一九九八)

原勝郎「東西の宗教改革」(『芸文』二’七、一九二・の

ち『日本中世史の研究』同文館、一九二九、所収)

硲慈弘『日本仏教の開展とその基調』(三省堂、一九四八)

藤井学「中世宗教の成立」(『講座日本文化史』三、三一書

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高木豊『鎌倉仏教史研究』(岩波書店、一九八三

田村圓澄「鎌倉仏教の歴史的評価」(『鎌倉仏教形成の問題

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田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』(平楽寺書店、一九六五)

I「天台本覚思想概説」(日本思想大系『天台本覚

論』岩波書店、一九七三)

一九六二)

教の成立』(吉川弘文館、一九八八、

諒叱ミ、ミミミ色員言、弓昌員きき昌註ミミミミ奇ご具冒曾ミ馬

画震ここ言のミ.ご己く①『凶ご旦困gご巴一も蔚協.』の④p

(東北大学教授)

89 [研究史]中世仏教研究と顕密体制論