る ら い の え 運 ま こ ス 本 学 わ 思 る 動 り の ー …...研 究 論 文 4 〉...

9
――神秘主義思想からの 『宗教と倫理百科事典』ではJonesが、神秘主義について、神人 59 1 褝とイスラム神秘主義思想における共通性について

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〈研

禅とイスラム神秘主義思想における共通性について

――神秘主義思想からの考察――

本小

論で

は、禅

思想とイ

スラ

ム神秘主義思想と呼ばれる

いわゆ

るスーフィズ

ムの思想的共通性を神秘主義思想

に見

いだし、両者

をこの視点から考察し、そ

の共通性の大きいことを明ら

かにす

る。

つまり、禅とスー

フィズ

ムと

いう宗教上ほとんど関連性

のない思

想運動について、神秘主義思想

を共通項とすることで

、両者

の思

想運動の共通性というより

、実質

的に両者の基礎を

なすと

筆者が

考える神秘主義思想の思想

的広がりを明ら

かにし、

さら

にこの研

究の思想研

究領域におけ

る有効性

につ

いて考察した

い。

いわゆる神秘主義思想

につ

いて

は、本用語が日常的

なレヴェル

から学問的なレヴ

ェルに至

るまで多様

に用

いられて

いるこ

ともあ

り、又、その言葉の定義や内容が不明瞭となりやす

いことも

あり

保 坂 俊 司

まず本論文内において用いる神秘主義思想

に関して、まず筆者な

りの基

礎作業としての作業仮説レヴェルであるが、その一応の定

義を行い、後

に禅ならびにスーフィズムとの共通性を考えて

ゆき

い。

義思

の背

『宗教と倫理百科事典』ではJonesが、神秘主義について、神人

合一体験

を第

一とし、さら

に究極的な存在

と個我との

一体化の可

能性を論じ

る神学

的形

而上学

の二つの方向が

あると

して

いる。

Jones

はさら

に細かな議

論を行

っているが神

秘主義思

想、特に今

回のよう

な東

洋の宗教思潮

における神秘主

義思想

の比較検討にお

いて

は、

インド思想におけ

る神秘主義思

想、就中、神秘主義思想

の典型で

あるウパニ

シャッドの検討が有益であ

る。

59 1 褝と イスラム神秘主義思想におけ る共通性につい て

パニシャッドの研究

佐保田鶴

治氏は、「神秘主

義思想

は、

第一に世俗的世界からの峻別を要

求す

る。通常

の論理

意識

に支配

される自然理性の世界で

は神秘思

想は生き

られない。通常

の世界

からは質的

に、価値的に超越し

た世界

を体験し

、あ

るいはその実

現を希望し、企画し、また

は少

なくともかかる世界

の実在

を信じ

る者にと

ってのみ神

秘主義

は可

能で

ある。」

しかも、神

秘主義思

想が成立するためには「文化が相

当に高い段階

に達し

た社会

に於

いてでなければ生まれな

い。文化

があ

る程度

の高さ

にまで向上し

、個人の独立性が意識され、個人が社会的全体性の中へ埋没す

るこ

を免れ

る状態

いて

めて

、神

秘思

想的

は発

生する」と指摘する。

というのも

神秘主義思想が成立するた

めには、固定化された価

値観が、特に自己を含めた存在世界の形而上学的な世界観、

いわ

ゆる「一般概念」が成立していなければならず、またその形而上

学的な個々人の意識や文化として社会

に共有されねばならな

いか

らである。さらにこの一般概念化されて共有される形而上学的世

界観は、文化という形

で「自分で一

々分節しなくても、現実

は初

めから分節されている。」のである。

つまり、我々の日常的な認識世界を形成して

いる知的営み

は、

あらゆるレヴェルで

固定化され、それ故

に文化として共有され、

現実社会で機能する。しかし、その一方で、文化として与えられ

た知的

概念

は、時代

や地域

ある

いは社会、

さら

は伝統

など

って

極めて

限定的に形成されて

いるのである。ところが「一つ

の文化の枠組み

の中に生まれ、そこに育

った人はそれになかなか

気付かない。己

の文

化が分節した通り、現実とはそういうものだ

と思いこんで

いる」

もので

ある。

それは、日常レヴェルのみ

なら

ず世界

の「本質」

を問題とするよ

うな宗教の領域において

も同様

である。つまり

普遍

性を目指す宗

教の領域において

も、文化的

固定化

、限界性

は同

様に存在するのである。

しかし

、神秘主義思

想は、そのよ

うに限定された価値体系、つ

まり文化

によ

って形成

され

た限定的な知の体系の限界性

を超え、

に普遍的な価値体系

の構

築を目指す知的運動、更

に言えば宗教

運動と

いうことができ

る。

しかも「神秘主義思想が他の宗教思想から区別される根本要点

は、人間の主体即ち自我

に対する深い反省

をも

って

いること」が、

不可欠でもある。その

ために神秘主義思想は、固定化された呪術

や祭式、さらに

は「われ

に対する汝として

の人格神

の存在を信じ、

神と人を絶対的

に区別

する。」

このよ

うな一般的宗教信

仰、つま

り受動的な信仰形態と

は、根本的に異なる方向性を持つ。つまり

神秘思想

は「霊と神と

の完全な合一、または人間

の成神

(神

にな

る。ある

いは仏などの宗教的な思想)を最高

の福祉、至上の理想

としてあこがれを追求するものである。」

とな

る。

故に神秘主義思想で

は、神あるいは仏と

いうような宗教的至高

存在へ向かって「自己

の全体を投帰

しようとし」、その結果

とし

て神秘体験を重視す

る。し

かも、その神や仏と呼ばれ

る絶対

的な

存在が、他ならぬ他者で

はなく、自己の内

に内在す

る、あ

るいは

その延長線上

に存在する、という世界観を基本とす

る。

例え

『チ

ャンドギ

ーヤ・ウ

パニ

シヤッド』

にお

いて

シャ

ヴァパッティ王はア

ート

マンについてバラ

モンに対して「あ

なた

方は、この一切人我(アート

マン)を種

々なる特殊物であ

るかの

ごとく考え、これを説き生活している。しかし、もしこの一切人

我を全宇宙に等しく、無限定なものとして崇拝される

ならば

(い

わゆるブラフ

マン)、一切

の世

界、一切

の生類、

一切

の自我

の内

にある」

と説

いて

いる。この一文

に典型

的なように、神秘主義思

想の基

本は、神や仏、あるいは法

と呼ばれる超越的存在、あるい

は絶対存

在と

呼ばれるものが、内在

化して

いるという世界観であ

る。そ

して

、神秘主義思想の「究極的目的は、自己の内

において至

高至善

なものに会い、そして

それと合一

する至上楽を獲得する」

こと

を目指す

ことにある。

但し

、神

秘体験がそのまま神秘

主義思

想になるわけではない。

いわゆ

る宗教

に共

通な神秘体験、例えば忘

我あるいは、脱魂(い

わゆる純粋経

験、エクスタ

シー、脱自、法

悦、合一体験などと表

現され

る)

の状態

が、そのままで神秘主

義思

想になるわけで

はな

いのであ

る。つ

まり佐

保田が

いうよ

うに神秘主

義思想は「一

度純

粋経験の世界を出

た後

の反省

の世界

に属す

るも

ので」

あり、さら

に神秘主

義思

想は「非合理的体験の世界から出て

、再び非合理的

世界へもどろ

うとする意識的努力に由来す

る」と

いうことになる。

のために神

秘主義思想は「人間の主体即

ち自我

に対する深い省

察を持

って

いる」

ことが求められることになる。

だから神秘

主義思想

は独特の言語表現を必要とす

る。つまり神

秘主義思

想家

には、一見不自然な、あるいは非合

理で矛盾する言

葉で対象

を表現

するが、その背景

には「も

のをそ

の名

(つまり日

常的な概念

に基因す

る呼称=引用

者注)で呼

んで分節しながら、

同時にそれを絶対無分節者としてみ

る目が働

いて

いる」のであ

る。

上を整理す

ると神秘主義思想は、内向的な性格でなければな

らない。しかも「宗教者がそ

の相手とすべき聖なる対象を、宗教

者個人の内

に求めなければならな

いとする態度が神秘主義思想の

第一条件であ

る。」そして

、第二

には、「神秘的体験の内容は、人

格性を帯びると否とを問わず

、いつも一味平等すなわち純粋に一

的な存在として自覚される」

こと

になる、ということである。

このような基本的な神秘主

義思想

の理解を行うことにより、仏

教における禅、イ

スラー

ムにおけ

るスーフィズムという異なる宗

教において、殆ど別個に発生し、発展した二つの宗教思潮の内

通の視点を見

いだすことができる、と筆者は考えている。但し、

ンドの学者は、両者の内

にイ

ンド思想、特にウパ

ニシャッドや

ヴェーダン

タ思想の共通性を主張する。しかし、本稿

はそこまで

踏み込

んだ視点は取らな

い。

61 1 禅と イスラム神秘主義思想におけ る共通性につい て

スラ

ム神

イスラ

ム神秘主義を表す言葉

は、一般

にスー

フィズ

ムと呼

ばれ、

日本でもイスラ

ムへの関心

の深まりと共

に、その名称が用

いられ

るよう

にな

ってきた。し

かし

、スーフィズ

ムと

いう呼

び名は、い

わば俗称である。と

いうよりむしろ

、ヨーロで(

のイ

スラム研

者が、イ

スラ

ム教徒

の中

に後

述す

るように「神と

の合一

をひたす

ら願

い、日

々祈りを捧げ

る人

々」

を指してこのよ

うに命名したも

のと

いわれる。事実、イ

スラム世界で

はスーフィーより

も同

じ言

葉から派生した「タサッウフ(Tas"awwuf)」という言葉が一般

的である。

この

スーフィーと

は、現世

的な欲

求を捨て、ひ

たすら

神への畏

怖を基に、一途に祈り、禁欲する人々であり、彼等はアッラーを

ら体験

あるいは感

得することを目

指して、事物の外面より内面

に注視

しよ

うとする人々、つまり彼等は「世俗的要

素をす

っかり

てさり、いわば素裸にな

って神に面し、肉欲・情欲の誘惑を退

、そうした努力により神のうちに帰一し合一して魂の救済

を体

験しようとする」人々である。彼等

スー

フィーたち

は、純粋

な宗

教的情熱をもち、直向きに神

への祈りに生き、多くの

ムスリ

ムの

宗教心に大いに訴える存在でもあ

った。

ところでス

ーフィ

ーのごと

く、極

めて個人的な神秘的

体験

を通

じて、神と合一できる、あ

るいはそ

うしようとす

ると

いうことは、

「預

(kh’atama;最後の預言者の意味)」(『コーーラン』三三―40)という

に抵

れて

る。

つま

ムで

たと

使

介と

ても

、神

使徒

のみ

あり

ハン

マド

がイ

ム神

の神

(一

秘体

る、

のが

わゆ

スー

ィズ

ムであ

る。

り、「我

造し

者。

(さ

っかり

って

る。

の血管よりも近くい」(『コーラン』五〇―15)として、唯一絶

は、

に内

ると

いう

の矛

スラ

ム法

学者

つま

レヴ

ルで

うと

者や

一般

スリ

はそ

理解に頭を悩ませてきた。しかし、その一方でスーフィーたちは、喘

一説

た。

ハン

マド

に神

の啓

が、

の洞

おけ

修行

の最

った

ば、

ハン

(ス

ナ)

スリ

ムの

認識

され

ので

れば

フィ

のご

スラ

おけ

る宗

景と

ると

マド

(消

(daqi qgha’m

id')は

(nu'rila'hi')により事物を把握できるまでに神の恩寵を享受した

。」

(faniya ’a

nnafasi ― hi)の

。」

このファナーの状態は「いまや神がその僕('abd)の心の世話

役となり、叡智('ilm)の光で心を照らし出すに至る。神が僕の心

の世話

を引き受け

、{神の}恵み

がその上

に満ち溢れ、光が

差し

込んでくると、心が開き、神の国(malaku't)の神秘が顕示

され

る」と

いう具

合である。

さら

にガザーリ

ーはファナーの

状態

を神を表す焚

き火

スー

フィーを表す蛾

の比喩で表現する。つまり火

の周りに集まり旋回

る。最後

に焚き火に飛

び込み

、一瞬の内

に燃え、焚き火の一部

とな

るよう

に、

スーフィーも

神の中

に消滅し、神と合一でき

ると

するのであ

る。

このように、

ファナーの状態

は一切

の束縛を超え

た世界である。

そして、現実世

界において形成

され

た価値観を超越するところ

に、

真実の世界、神の世界を

見よ

うとす

るのが、このスーフィズムの

基本であり、それが神秘

主義思

想と

の強

い共通性として認識でき

る、と筆者

は考えている。

主義

いわゆる神秘主義思想と禅仏教、あ

るいは禅の思

想(以下禅と

簡略に表記)の関係は、神秘主義思想の定義にもよるが、未確定

な部分も存在する。し

かし、本小論で

は、前述のような一応の定

義を前提に禅思

想を神秘主義思想の一類型、あるいは仏教におけ

る神

秘主義思想の典型的な事例という視点をまず検証する。

禅とイス ラム神秘主義思想におけ る共通性について63

岩波の

『哲学・思想

事典』の禅宗

の項目

によれば

、「彼

らはま

た自

の立場

〈宗

教〉

と称

して

る。

は究

的真

(宗)の言語表現

(教)の

意で

あるが、も

ともと

究極的

な真理

言語化できな

いから、宗教それ自体がすで

にジレンマの中

にあ

る。

その矛盾を

〈信〉

によ

って実践的

に止揚す

ること

を目指す

のが彼

等の立場であ

る。」

とし

て、その

立場

を象

徴的

に「教

外別伝、不

立文字、直指人

心、見性成仏」と

いう四句格言で

表して

いる。

に、ここで

注目

され

るのは、禅が

いわゆ

る「定言的結論や、

二項対立

的概念

をも

って正

を選択的

に捉え

る合理性」(同)

前提とす

る、経

典や教

理の固定化し

た解釈

、あ

るいはその思

想、

それはあ

る意味で文化として

日常世界を表現す

る概念

レヴェルに

まで固定化されてしま

って

おり、真

の宗教性

を表

して

いない、と

いう認識

を前提

として

いることであ

る。

この前

提に則って

、褝で

は禅特有

の「言語行

為つまり詩文

や固

定的概念

打破のための否定辞、あるいは象徴的表現はむしろ多用

る」

ので

ある。そこには従来の仏教の「言語による整然とした

理体

系の形

成というこれまでの宗派のありようにた

いする強烈

なアンチテー

ゼ」がある、といわれている。

つまり、文化的に構築された言語表現や常識を超越し、宗教性

の抜け

殼となり、本来の宗教がもとめた真理を固定化し形骸化し

た知の体系から自由

になり、真実世界に肉薄す

るた

めに、知性も

性も極限まで磨きつくしたその結果、生まれ

たものが褝

におい

は詩文で

あり

、象徴的

な言葉遣いということになる。

それ

『無門

関』

の冒

頭の「習庵序」において陳墳が

「説道無

門、尽大

地人得入。説道有

門、無

阿師分。(仏教

の悟り、つまり

真実

の法

を体得する特別

の方法

はな

い、説いてしまうと全てのこ

が悟り

にな

ってしまう。逆

に、特定の方法がある、とす

るなら

悟りが

固定化

されてし

まい、本

来の悟り

の道から

外れて

しま

う)」、あるいは

『無門関』第

一九の

南泉、因みに趨州問

う「如何

なる果こ

れ道」。泉曰く

「平常

心是

道なり」。州云く、「還

って趣向すべきや」。泉曰く、「向

わんと儀すれば即ち乖

く」。州

云く、犠

せずんば、争で

か是

道なりことを知らん。」泉曰く、「道は知

にも属せず、不知

も属

せず。知は是れ妄覚、不知

はこれ無記。若し真に不義の

道に達せば、猶お太虚の靡然として洞豁なるが如し、豈に強

いて是非す可け

んや」。……頌

に曰く春

に百花あり、秋

に月

有り……年じ

ゅうこの世は極楽

さ。

この話

は、南泉和尚が、弟子

の趨州

から「道」

つまり悟りの方

法、ある

いは、「悟りそ

のもの、つまり真実」、こ

れを合わせて悟

りの状態

について訊

ねられた時の

会話であ

る。

南泉和尚

は、「道

(悟り)」

は、既

存の文化

レヴ

ェルで固定化された知で

は表しえな

いものであり、

かと

いってそれを知る(言語で捉える)ことがで

きな

いわけでも

またない、とする。ここでは、日常的な固定化さ

た言語

レヴェルで

は、道

つまり悟りは表現することはできない

64

が、し

かし、神秘主義思想

レベルの知、というより智

から生まれ

る言葉

によ

って

は、

これを表現

でき

るとして

いる。し

かも、「道

(悟り

)」

は、それを客観的

な言葉

として

表現す

ること

はでき

ず、

結果として象徴的な、

それ

は新し

い言葉

の用例以外

には不可

能で

ある、と

教えて

いる。

つまり、悟り

の境地

は「言語道断」で

あり、これを表現す

るこ

とは竜樹の『中論』に展開される八否の論理や、臨済の「仏に逢

えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、……」などに顕著に現

れて

いるよう

に非日常的言語表現

のみ可

能と

いう思想で

ある。

また、このような禅の思想

は、日

本思想

にも大きな影響を与え

いることは衆知のこ

とで

るが、『佛道を

なら

うと

いうは、自

己をならう也。自己をならふと

いう

は、自己をわするるなり。自

をわす

るると

いふは、満法

に証せら

るるなり。万法

に証せら

ると

いうは、自己の身心およ

び他己

の身

心をして脱落せしむ

るな

り。悟迹

の休歇なる悟迹を長長出

ならしむ。」(現成公案)

に顕

であ

るし、西田幾多郎の

『禅

の研究』

における「絶対矛盾

の自己

同一」と

いう言葉で表現されて

いる境地も、神秘主義思想の系譜

として師理解可能であろう。

ィズ

ムの

禅の超越的、脱日常的思考や言語表現は、スー

フィー文献

にも

頻出する。

何も

って

「ば」「ら」

から

った

つけ

る。

なら

って

づけ

た実

い!

水の中にではなく、大空に月を探し求めなさい!………中略。

や文

超え

た所

に登

と願

なら

から

自由

なり

い。

うす

れば

は自

の輝

るだ

う。

また、「あなたは知るべきである。魂(al -ru'h')の存在に関す

的了

は、

角的

性で

はそ

るこ

い。」

こと

、『無

関』

の第

「問

多く

人が

た。

く恥

の春

。」

うな

日常

の限

立場

から

言葉

が発

おり

ー双

的な立場が、神秘主義思想を媒介に結びつけることの可能性を示

る。

たち

の深

い思

心、

ーの

体的

・文

禅とイスラ ム神秘主義思想におけ る共通性について65

してきた。つまり両者は既存の文化伝統の枠を超えたレヴェル

ら独自の言語表現を用いて、宗教体験を表してきた。その方法も

精神も両者

に共通であり、さらにそのな

かには。優れた珠玉の箴

言集、あ

るいは詩集、思想書がとな

って

いるも

のもすくなくな

い。

つまり、悟りや

ファ

ナー体験

から生まれ

た境地

は、深遠

にして、

広大、自由

にして柔軟な禅の思想や

スーフィー思

想を生み出し、

それは多く

の優れた文学作品のみならず、

絵画や芸術、建築さら

には現実政治

にまで広く展開された

のであ

る。

その意味で両者

は共通の宗教的境地、普遍精神世界を共有して

いると言え

るので

はないだろうか。そして、この思想

は、褝や

フィ

ーの活動を通じて神秘主義文明とでも呼べ

るような包括的

な文明現象

にまで拡大してゆくのである。

(1) 佐保田鶴治『ウパニシャッドからヨーガヘ』平河出版社、昭和五

二年、三

六頁。

(2

) 同

「イ

ンドの神秘思

想」『道友』(N0.5) ヨー

ガ禅

導院、昭和五

年、三~四頁。

(3) 井

筒俊彦『意識

の形而上学』

中央公

論社、一九九三年

、五

九項。

(4) 同

『意識と本質』(『井

筒俊彦

著作集』六巻) 一九九二年、一〇

(5) これ

を端的

に示し

たの

がE

・サイー

ドである。板

垣雄三

ほか訳

『オリ

エンタリズ

ム』平凡社、一九

八六年。

(6

) 神秘主義思想は、思

想の流動性を生み出すものであり、既

存の思

想や社会にと

って

は時に破壊

的な運動ともなる。多くの思想運動は、

(7) 佐保田前出書『ウパニシャッドからヨーガヘ』四三頁。

) 

) 

(10

) 

(11) 『チャンドギーヤ・ウパニシャッド』に関しては、佐保田訳に現

(12) 佐保田『ウパニシャッドからヨーガヘ』五二頁。

(13

) 

(14

) 

15

) 

(16

) 

(17

) 

1 8

) 

S.

 

izv

i. 

”A

 

is

to

ry

 o

f Su

fism

 in

 In

ia

” 

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i. 

19

75.

(19

) 

(20

) 

(21

) 

(22

) 

(23

) 

西

(24

) 

(25

) 

(26

) 

66

(27) 

. H

jwiri ”K

ashf a

l-M

ahaju

b" Laho

le

. H

1398. p

. 176

(28) 

(29) 著者の宗教と文明の関係に関する考えは拙著『インド仏教はなぜ

67 1  禅とイスラム神秘主義思 想における共通性に,ついて