ニコラウス・クザーヌスの前提について...

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< ニコラウス・ クザーヌスの前提について I 方法論の反省を手がかりとして一I ニコ ラ ウス・ クザーヌス(1401-1464)はその著Idiotade s apientia (1450)第2巻の中で次のように言っている。 Deus es t ips a abs oluta praes uppos itio omnium quae qualiter cumque praes upponunturj s icut in omni effectu praes upponitur caus a. (Nicolai de Cus ae Cardinalis Opera , Pari s, 1514: Unverãnderter Nachdruck , 19 62, 1 fo1 . LXXV- III このような「およそ前提される あらゆるものの絶対的前提」であ る神とは , いったいどのようなものであったろうか。 小論はこの問題につ いて若干の与察を試みようとするものである。 *以下このパリ版からの引用はParisとしておこなう。 古来の哲学者が何等かの大前提から出発したこと , 又 その大前提の多く が絶対者 , 超越者ないし神にするものであったことはあまねく認められ るであろう。 就中, 中世の哲学の殆んどは神 学と一応は区別されながらし かもこれとの結びつきの強いものであり, 神の問題に積極的な関与を試み るものであった。 グザーヌ スの場合もこの例外ではない。 神に関 する察 は初期の作 De docta ignorantia (1440) をはじめ , 彼の生涯 の作品を 一貫するものであった。コフ。ル ストンによれば, 中世のキリ スト教思想家た ちはそれぞれの啓示を信じ, その啓示を前提として各自の思を形成した (F. C. Coples tonMediev al Philos ophy , TorchBook , 19 61, P. l1f. )0 vera religioがvera philos ophia にほかならぬという スコトゥス・ エリウ ゲナの主張(c f . E. Gils on, La philosophie au moyenâge , 2 éd. P. 206)

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ニコラウス・ クザーヌスの前提について I

一一方法論の反省を手がかりとして一一

清 水 富 雄

I

ニコラ ウ ス・ クザーヌス(1401-1464)はその著Idiotade s apientia

(1450)第2巻の中で次のように言っている。 Deus es t ips a abs oluta

praes uppos it io omnium quae qualiter cumque praes upponunturj s icut

in omni effectu praes upponitur caus a. (Nicolai de Cus ae Cardinalis

Opera, Paris , 1514: Unverãnderter Nachdruck, 19 62, 1, fo1. LXXV­

IIIの このような「およそ前提されるあらゆるものの絶対的前提」であ

る神とは , いったいどのようなものであったろうか。 小論はこの問題につ

いて若干の与察を試みようとするものである。

*以下このパリ版からの引用はParisとしておこなう。

古来の哲学者が何等かの大前提から出発したこと , 又 その大前提の多く

が絶対者 , 超越者ないし神にT苅するものであったことはあまねく認められ

るであろう。 就中, 中世の哲学の殆んどは神 学と一応は区別されながらし

かもこれとの結びつきの強いものであり, 神の問題に積極的な関与を試み

るものであった。 グザーヌスの場合もこの例外ではない。 神に関 するJ5-察

は初期の作 De docta ignorantia (1440) をはじめ , 彼の生涯の作品を

一貫するものであった。コフ。ル ストンによれば, 中世のキリ スト教思想家た

ちはそれぞれの啓示を信じ, その啓示を前提として各自の思想、を形成した

(F. C. Coples ton, Mediev al Philos ophy, Torch Book, 19 61, P. l1f. )0

vera rel igioがvera philos ophia にほかならぬという スコトゥス・ エリウ

ゲナの主張(c f., E. G ils on, La philos ophie au moyen âge, 2 éd. P.206)

=コヲウス・ クザーヌスの前提について l 29

は1�1世思想における哲'千と神'字との密着をi1古示すわものであり , この傾向

はグザー ヌスにも妥当するよう に忠われ る。

しかもケザーヌスの場介, 神は神 学と根強 く密着するものであ ると共に,

他方では宇宙論の原 理をも合むものであ った。 ルネッサンス人の一人であ

るグザーヌス において , Christo lo gie は新プラトン派の伝統と深く結びつ

くものであったが , それ は叉当時の自然学をも原理的に 包むものであ った

のであ る。 血液循環や尿の研究 , 秤の改正,impetusの:考察, 暦の改訂,

地図の改良な ど彼によって開拓 され た自然学的業績 は多岐 に 亘 る(c f., P.

Mennicken, Nikolaus vo n Kues, 1932, S. 23 ff; E. Ho f fmann, Niko -

laus vo n Cues : Zw ei Vo rträge, 1947, S . 25, Unity and Re fo rm: Se­

lected Writings o f Nicholas de Cusa, edited by J. P. Dolan, 1962,

p. 4 )。 周知のよう に De do cta igno rantia 第2巻 は地球の自転を , しか

も思弁的根拠 から導き 出して論じている。 又 数 学者としてのグザーヌスは

円の求積法において微積分学の先駆者の一人とみ な され るのであ る ( c f. ,

J. E. Hoffmann, Geschichte der Mathematik, Bd. ß. 1953, S. 98 )

が , 1J皮の場合円の求積j去は村Iの問題といつも深く結びつい てい る Cc f. , Ni-

kolaus von Cues, Die mathematischen Schriften, Philo so phische Bib­

l iothek, 1952, S. 135, 159, 161)0 1458 年の作品De mathematica per­

fectione の中で彼は言うCf穿点は筆者 )0 I私の努力は反対の一致から数 学

の完成を得ることにあ る 。 そ し てこの完 成は就 中直 線と曲 線とを均ら すこ

とにあ るから , 私の次の課題は , 弦とその上に立 つ弧のよう な二線の関係

を求めることに な るJ(op. cit., s. 161)。

してみると , グザーヌスの神は神学にも 字宙論にも深く根ざ し たもので

あ る。 そのような神とはいかな る性格のものであ ったか。

グザーヌスの神については従来およそ二つの見方がおこな われ ている。

一つは汎神論の神であ り , 他は有神 論の神であ る。 前者についてはす でに

彼の生存中ハイデ、ルベル ク の神学教授ヨハネス ・ ウtングが De do cta

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ignorantia をとりあげてその汎 神論的性格をはげし く非難し, これに 対・す

るグザーヌスの反駁文が Apologia doctae ignorantiae ( 1449 )として 苫ーか

れ ている。 ところで ウェングの 見方は現代にも引きつがれ た。 ベットはク

ザーヌスの 神 を 汎 神論のそれと見る CH. Bett, Nicholas of Cus a, 1932,

p. 112f. )。 ハウプストは グロスナーの研究 書(M. Gloßner, Nikolaus von

Kues und Marius Nizolius als Vorläufer der neueren Philos ophie, 1889 )

もこの 見方で 書かれていると言って い る CR. Haubs t, Die Chris tologie

des Nikolaus von Kues , 19 56, S. 2f. )。 汎 神論者グザーヌスという 見方

は 近世思想、 の 先駆者グザー ヌスという 見方と結びつき , 多くの 人の 支持 を

受けている よ う で あ る ( cf. , R. Haubs t, Das Bild des einen und

dreieinen Gottes in der Welt nach Nikolaus von Kues , 19 52, S. 4f . )。

これに対して , クザーヌスの 神 を有神論者のそれと見る 見方が最近輩出 し

て き た 。 ハウプスト の 書(前掲二書〉は明らかにそれ であ り( cf., Haubs t,

Die Chris tologie d. N. v. Kues , S. Vll ), ブメルの研究(Ch. Hummel,

Nikolaus Cus anus , 19 52, S. 27) もその 線に 沿っている。 ツェリンガー

やドランの 見 方 も 同様である (E.Z ellinger, Cus anus -Konkordanz, 19 60 ,

S. XVI ;ドランは前掲の 訳書 で , De docta ignorantia については , キ

リスト論の 出てくる 第三部を 訳出している 〉。

ところで 上記の事柄には思想史における グザーヌスの位置づけに も関連

しているようである。 ファルケンベルヒ ( R. Falckenberg, Ges chichte

der neueren Philos ophie, 9 Auf1. , 1927 , S. 16ff. ) とカッ シラー(E.

Cas s irer, Das Erkenntnis problem in der Philos ophie und Wis s ens chaft

der neueren Z eit, Bd. I. 3 Auf1age, 1922, S. 21 ff. ; Ders elbe, I ndivi­

duum und Kos mos in der Philos ophie der Renais s ance, 1927, S. 8 ff. )

は グザーヌスを 近世思想、の 先駆者として 位置づけ , リヴォー(A. Rivaud,

His toir巴 de la philos ophie, tome ß, 19 50, p. 274 ff. ) は グザーヌスの思

想をルネッザンス のそれに数えた。 しかしクザーヌスを11 if止末期の, しか

=コ弓ウス・ クザーヌスの前提について l 31

も生粋の中世思想家と見る者も す くなくない 。 ハウプスト (R , Haubs t,

op . cit. ), ファンステンベルク(E.Vans teen berghe, Le cardinal Ni­

colas de Cues , 1 921 )やシュヴァリエ(]. Chevalier, His toire de la

pens 白, n, 1 956, p. 5 33 ff. ), コプルストン(op. cit . , p .153 ff. ) はその例

と言えるであろう 。

コフ。ルストンは クザーヌスの思想、を思弁的神秘主義として特色づけ , 彼の

思想とエッグハルト , タ ウラー , ズーゾ{のそれとの緊密な関係を説くと

ともに , 彼とライブニyツとが個体の考えにおいて親 近関係にあることを

強調する(op. cit ., p. 163, また A. Demp f, Meis ter Eckhart, 1 960,

S. 117 ff. , Das Werk des Nicolaus Cus anus , hrs g . von G. Hei nz-Mohr

und W. P. Eckert, 1 963, S . 28参照〕。 これはグザー ヌスの思想、に対して

中世から近世に亘る過渡的 位置を認めようと するものであろう 。 この見方

を示す解釈は , コフVレストンのほかにもフオルグ マン・ シュルック(K. H .

Volkmann -Schluck, Nicolaus Cus anus , 1 957),フメル(Ch . Hummel,

op. cit . ), ヤスパース(K. ]as pers , Nikolaus Cus anus , 1 963) をは じめ

数多い 。

さらにまた , グザー ヌスの神に関しては新プラントン派特にプログロス

や偽ディオニシウス ・ アレオパギタとの深いつながりが考慮 されねばなら

ない 。 これらに対 するグザーヌスの傾倒には 並々ならぬものがあったから

である。 マ ルシリオ・ フィチーノに見られるようなプラト ニズムとキ リ ス

ト教との融合という時代的傾向(E. Sichel, The Renais s ance, 1 957, p .

46) は グザーヌスの作品の到るところに認められる。 また最近の研究では

ライムント ・ ルルスと クザーヌスとの深いつながりも 強 調 さ れ て き た

(E. Colomer, Nikolaus von Kues und Raimund Lull, 1 961)。 コ ロマに

よると , クザーヌスは27 才頃から ルルスの作品に接している(op. cit ., S.

47 )。 クザーヌスは ドミニコ派のエッグハルトとフランシスコ 派の ルルス

という両思想家のい ずれに対し でも深い 理解を示していたと思われる。 そ

32

のことはケザー ヌス哲学の複雑 さの一端を示すものといえよ弓。

このようにし てみると, グザーヌスの前提した神はfrïJであったかという

問いは難問であると言わねばならないであろう 。 教会統一�i\j題をめぐって

生涯苦闘を続けた多忙な聖職者であるといl時に神 学者, 教会法学者, 数字

者, 物理学者, X_文学者, 地.flj!学?í, 医学者, 古典学者をも兼ねていた碩

学クザーヌスの前提していた神について思いめぐらすことは難 事である。

試みに次の|討し、を提出してみよう。 彼の科iは超自然的tH:界と自然的世界,

宗教と宇宙論, 理性と信仰といったようなものをどのように結びつけるも

のであったろうか。 これは, 彼の立場を 汎神論と且るか有神論と見るかと

いう問題に対しても, 又彼の思想、史的な位置づけをどう見るかとい今問題

に対しても重要な怠味を持つにちがいない。

この難問をどう考察していったらよいか 。 これに取組むための一つの試

みとして筆者はクザーヌスが次のように述べているところを手がかりとし

だい。 Nunc s ive praes en tia complica t tempus . Prae ter tum fui t prae ­

s ens , fu turum erit praes ens : nihil ergo reperi tur in tempore nis i prae ­

sen tia ordina ta. Prae teri tum igi tur e t fu turum es t explica tio praes en­

tis . (De doc ta ign ., ß . 3 Nicolai de Cus a Opera Omnia, ediderun t *

E. Ho ffmann e t R. Klibans ky, 1, 1 932, p. 69)。 現在は時聞を内含 する

ものであり, 過去は「現在であったものJ, 未来は 「現在であろうと する

もの」であるということは中世思想を客観的に, つまり思想家自身の立場

に立って研究しようと する方法論に対して中核的な意義を持つことではな

かろうか。

キ以下このハイテ‘ルぺルグ版からの引用はop.omn. としておこな今。

客観的研究という場合, 我々は普通主観性をで、きるだけ後 退ないし消去

させて対象をよく見つめることだと考える。 これはたしかに正当な考え方

である。 しかし一体主観性の消去とか対象の熟視ということは, 思想研究

の場合具体的にはどんな内容を持つのだろうか。

ニコヲウス ・ クザFヌスの前援について l 33

客観的ということばの意味を「相手の立場に充分立つ」と解 するとき ,

宗教に関連した思位!の客観的研究は油断のならない問題を7JIんでいる。 こ

の種の研究におし、て , 果して我々は自分自身の現在の姿を表現 する ことな

しに相手の立場を客観的に把握 することができるだろうか。 一見それはで

きることのように見える。 し かしょく考えてみるとそれはできない相談で

あって, 宗教に関連した思想の研究では無意識的にせよ必ずそ の背 後 に

「研究者自身の現在」が裏打ちされていると筆者は考える。 以下その点を

すこし考えたkでクザーヌスに面してみたいと思う。

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現代に生きる我々の場合 , 宗教というものは我々自身の態度を保留した

まま扱われている時が比較的多い。 その場合 , 自分自身が一種の神(代用

神〕の座に着いていながら , しかもそのことが意識にはっきりとはのぼっ

ていないときも多い。 そしてこれと反対に神を現在の問題と する立場とい

うのは , これまで自分自身が代用神の役を果してきた ことについての機悔

から生まれてくる場合が多いのではなかろうか。 その場合 , 自分の生活感

情に根ざ す存在としての神が意識されていることが多いであろう。 宗教が

他の対象的な認識や学問と遣うのは, そういう自己認識, つまり自分自身

の現在のあり方に関 する反省が前提や出発点になると ころにあると言えよ

う。 宗教が過去的なものであるか現在的なものであるかはいわゆる対象的

に決まることではなく , 自分自身の態度ないし意欲によって決まる ことで

ある。 そして更に考-えてみると , 宗教を過去的に見る前提と現在的に見る

前提とは極めて有機的な関係に置かれているようである。 なぜなら , 宗教

を現在的なものとして前提 する基盤には, 宗教を過去的なものとして眺め

来った自分自身についての厳しい反省がひそんでいることが多いから。

今述べたことは過去の思想に対 する我々の研究方法や内容と密接なつな

がりを持っている。 過去の思想家が神を扱っていたとしよう。 これは一面

たしかに「過去の思想」であり , 事実"Èた過去的な特徴や制約をも数多く

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含んでいる。 しかしそういう過去の思想家に面する我々の態度は前述のよ

うにごつあり , それに応じて , 過去の思想、に関する我々の把握内容も二つ

に分かれるであろう。

第一は , 我々研究者が神に関する態度を保留し , 神を何となく知的興味

の対象としている場合である。 この場合 , 神が過去の思想家自身の生活感

情に根ざすものとして意識的に前提されていたか否かという聞いは , 我々

の積極的関心事とはならないであろう。 極言すれば , 神がその思想家自身

にとって現在的なものであった場合の考察は , 我々にとって無用であろう。

そこでこの場合 , r客観的研究」の名のもとに落着く 先はといえば , 神が

その思想家において積極的意味を持たなかった場合 , 或いは神がその思想

家自身の生活感情に根ざすものとして意識的に前提されてはいなかった場

合の解明である。 それは正に , 宗教に対する態度を保留している我々研究

者自身の似姿にほかならないと言えるかもしれない。

第二は , 我々研究者が神を現在的なものと前提している場合である。 こ

の場合には次の聞いが我々にとって切実な意味を持つ。 神は過去の思想家

自身にとって過去的なものであったか , それとも現在的なものであったか。

この二者択一的な問いについて根拠ある判定をすることが何よりも大切と

なる。 そしてこの判定の結果「思想家は神を現在的なものと前 提 し て い

る」ということになった場合 , r客観的研究」の内容はどうなるか。 それ

は , 神がその思想家自身において現在の問題であった場合 , つまり神が思

想家自身の生活感情に根ざすものとして意識的に前提されていた場合の究

明である。 それはまた , 宗教を現在的なものと前提している我々研究者自

身の似姿であるということになろう。

こう考えてみると , 過去の思想家について客観的研究ということの意味

は , これを「研究者ひとり一一思想家ひとりの対話的な向かい合い」とい

うところまで絞った場合 , 多義的となるばかりか研究者自身の似姿という

制限をまぬがれ得ないように思われる。

ニコヲウス ・ クザーヌスめ前提について l 35

この制限は, 我々が宗教に関連した思想、を研究しようとする限り決して

逃れ主-ることのできないものであろう。 そしてその制限は , この種の研究

の非常なむ ずかしさを示している。 神ということばは元来 , 生活感情や対

人感情に根ざ す)立合いを強めれば強めるほど個性的性格の強い も の と な

る。 神ということばが現代最もやっかいなことばのーっとなっている こと

をM・ プーベーが説いている(M. Buber, I ch und Du ; Die Schri ften

uber das dialogis che Prinzip, 1 954, S. 78 )0 1"生活感情に根ざ す神」 と

いうことばの意味白体が , 従って「神は現在の自分の問越だ」ということ

の意味自体が, 研究者の立場の相違に応じて多義的であろう。 そして この

多義性は「過去の思想家の立場」の意味の多義性へと波及 するのである 。

そうしてみると, グザーヌス研究を志 す筆者は筆者自身の神が何である

かをまずふりかえらねばならないことになる。 筆者の言う神とは , 自分自

身が眼前の人間と「見る一見られる」相対関係にあるという事実に即して,

人間的次元の外から我々ひとりひとりに全体的な人間像をもたら す絶対者

キ リストのことである。 この意味で神は現在の自分の問題であると筆者は

考えている。 自分の生活感情に底結した神を このように考える理由につい

ては既に他のと ころで述べた( u'日常の日本語と哲学の言語』東京教育大

学文学部紀要No. 35 ; 1 962 年〉から, こ こではこれ以k立入らない ことに

する。 くわしくはそれを参照して頂きたいと思う。

こうして筆者の場合, 自分自身の前提たる神を上記のように解する こと

は, 過去の思想家の前提した神に関する把握内容自体に密接な関連を持つ

にちがいない。 筆者の胸中に懐 く神の観念は筆者自身にまといついた枠と

もいうべきものであるが , その枠は「思想家の神」として筆者の描き出 す

内容自体に波及し , 両人の枠は結局類似したものになる場合が多いであろ

う。 そ こから類推してみると, 過去の思想家における神の問題を内容に立

入って理解しようと する場合, 研究者は自分自身というものを出さないわ

けにはL、かない。 神の問題においては研究者自身の姿が裏側でどうしても

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表現されるからである。 そこで神の問題に関する限り, í研究の客観性」

といってもそこには科学におけるような客観性(あるいは科学との類比で

考えられる客観性〕とは著しく遣ったものが要求されてくる。 それは何だ

ろうか。 それは恐らく , 研究者が「自分の似姿を描く」という不可避的な

事態について対話的な責任をとるということであろう。 つまり研究者の似

姿として描き 出された解釈を批評者の自由な批判に供し , その忌僚ない批

評に対してどこまでも対話的に耐えられる像, 説得力ある像にまで自分の

研究を一歩々々鍛え上げていくということであろう。 そういう意味の客観

性 , í解釈者自身がいわば実験に供されていくような過程を含んだ客観性」

に , 大切な意義が感 じられるゆえんである。

そこで , こうした過程的な客観性は同時に仮定的なそれであると言い得

ょう。 前述の通り , こと神の問題に関 する限り , 研究者自身の前提はどこ

までもいわゆる「思想家の前提」自体につきまとう。 そして , 研究者の前

提や仮定に基いた解釈は果して十分納得いくものであるかを検討 する過程

が , 即ち客観性の検討に他ならない。 そこから考えてみると , 思想の研究

者は研究の客観性を求めれば求めるほど , 独自の大きな不安をまぬがれ得

ない。 思想家に充分語ってもらいつつ研究者自身を語るという対話的な道

こそ研究者のたどるべき道であるが , この道は一歩誤まれば , 研究者だけ

のひとりごとに終ることにもなりかねない。 思想家が研究者とは質的にま

るで違った立場にいる結果研究者がひとりよがりの独語に明け暮れ する ,

といった場合を想定 することは充分に可能だからである。 研究者自身の前

提についての反省がどこまでも要求されるのはそのためであろう。

III

以上のような観点は多分に懐疑的なものであると言えるかもしれない。

しかしこの観点からグザーヌスの前提について考えを進めていきたいとい

うのが筆者の意図である 。

周知のように クザーヌスは De do ct a ignor ant ia の冒頭で神を「反対

=コラウス・タザ戸ヌスの前提について l 37

の一致J(co incid entia o ppo s itorum) として規定した 。 比較を絶した無限

者 である神においては最大と 最小とが一致 するというの である(1. 4, o p.

omn., 1, P. 10 )。 グザーヌスの思想の前提となったのはこのような神 であ

る。 この書においてグザ{ヌスは全三巻を 次のように扱っている。 第一巻,

絶対的にーにして 最大なる者(unum abs o lut e ma ximum) としての神 。

第二巻,多性(plura li tas ) における最大者としての 字宙 (univers um)。

第三巻,絶対的な且 つ凝縮せる最大者 (maximum abs o lutum pariter et

c ontract um) としての イエス・キリス ト 。 第一巻 では絶対的最大者として

の神の 永遠性や三位一体的性格が悟性的概念、による理解を越えていること,

それは無限な直線や三角 形など の数学的比喰によってのみ解明されること,

神の本性に関しては肯定的神学(theo logia aff irmativa) だ け では不充分

であり否定的神学(theo logia n egativa) で補われるべきこと , など が説か

れている。 第三巻 では被造物が神の co mp li ca tio 及びexp licatio たる字宙

であること,字宙が運動より成ること,地球は自転 するものであることな

どが説かれる。 第三巻はキリス ト論 であり,被造物且 つ創造者,神且 つ人

間という二 重性を持 つ救世主キリストについて述べられている。

クザ{ヌスの前提していた神は何か 。 この 間 いについて考え る た め に

は,前述した通り 何よりもまず 次のような原始的な問いかけが必要であろ

う。 神はグザーヌスにとって現在的な意味を持 つもので あったか,それと

も過去的な意味を持 つものであったか 。 これに関して前者の場合を想定 す

ることは一応自然である。 グザーヌスの 生涯はカトリッグ聖職者としての

活動に満ちている(cf. , E. Meuthen, Die let zt en Jahr e des Niko laus

von Kues , 1958) 。 その彼が彼 自身の生活感情に根ざした神キリストを意

識的に前提しており, その意味 で 彼の神は彼にとって現在的な意味を持 っ

ていた。 この想定は自然だと言えよう。 しかしそれなら彼の神は汎神論の

それ ではなかったと言い切ることができるであろうか 。 これについてはっ

きりした 判定を下 すことは必ずしも容易ではないようである。

38

そこで今, 一応有神論者グザーヌスという想定から出発してみよう。 グ

ザーヌスは信仰 が知識の始 まりだと言っている( F ides init ium intellectus

e s t . De doct a ign. , m. 1 1, op. omn. , 1 p. 151)0 1"我々のイエスには学問

と知恵のあらゆる宝が含 まれているJ ( De docta ign., m 4. et 11, op. omn.,

1. P. 1 32 et 152 )。 信仰者グザーヌスを示す 個所は De docta ignorant ia

をはじめ伎の著作 の到るとこ ろに見出される。 �'創世士記解釈.Jl De Genes i

の中で彼は , 神に等しい 知を得ょうと した人間の欲求から人間の堕落が生

じた旨を強調 している( op. omn. , N. edidit P. Wilpert, p. 12 3)。 これ

は, 代田神の役を果してきた自分自身につい ての繊悔から信仰 が始 まる点

を示す個所と して興味深い。 また 彼の信仰 の境地を示すものとしては次の

個所を挙げなければならない。 Nulla creatura es t actu id, quod es s e

potes t . ( De pos s es t, C us anus - Konkordanz, hrs g. von E. Z ellinger, S.

177による )。 被造物の偶然的性格についての自覚が彼の忠也、の基底にあ る

と言えよう。 偶然的とはライプニッツ流に言えば反対が可能なことである。

今此処に存在 することがどうしても必要であるような 必然的存在ではなく ,

存在しないことも可能であるのに , 現に今存在しているというところに偶

然性の特質がある 。 グザーヌスの思想は , そうした 偶然性を負った 主体の

集合を被造物の世界として受けと め直す信仰者の立場から 出発しているよ

うである。

このことは次の事柄と相蔽うものであ ろう。 前述のとおり, 偽ディオニ

シウ ス ・ アレオパギタに対 するグザーヌスの傾倒には著しいものがあるが ,

1462年の作 Direc ti o s pec ulan t is s eu de non aliud はそのことを最もよく

示す作品の一つである。 グザーヌスはこの作品でアレオパギタの文章をか

なりくわしく引用 しつつアレオノミギタを称賛しているが , そうした 引用 の

中に次の一節がある。 Divina oportet non intelligamus humano more,

s ed toti integere a nobis ips is 巴xcedentes atque prors us in Deum tran­

s euntes . (Op. omn. , XIII, ed. L. Baur et P . Wilpert, 1 944, P.

=コラウス ・ クザ戸ヌスの前提について I 39

35)日常的な世界観から信仰者のそれへの移行は連続的なものではなく ,

決断的な飛躍によることが多いであろう。 この個所はそのことを暗示する

と共に , 偶然性について クザーヌスの言っていること(前 出〉とのつなが

りをも示しているように思われる。

グザーヌスは自分の思想、が「上からの贈物J (s upernum donum) によ

って成立したと言う (De docta ign. , Epis tola auctoris , op . omn., 1.

p. 1 63)。 彼の神は体験された神であって , 単なる思考や学問の対象とし

て扱われるような神でなかったように思われる。 それは , イエス ・ キ リス

トに対するグザーヌスの熱烈な呼びかけを見てもわかることであ る (De

vis ione Dei, cap . X IX ff . , Paris 1. fol. CIXr. ff . )。 その彼が意欲し

たのは, De docta ignorantia その他で見られるように , rキリスト教信

仰の中から合理的な把握の可能なものをとり 出 すこと」であり , r神の秘

密を rat ionalis ieren すること」であったとハウプストは解釈し て い る

( R. Haubs t, Die Chris tologie des Nikolaus von Kues , 1 956, S. 8 7 ,

306)。 実際彼におけるキ リスト教合理化の意欲は烈しいものである。 Cri­

bratio Alcholan (1460) や De pace f idei (1453)を見ても, 様々の異教

徒ないし未信者との対質においてキ リスト教の真理性 ・ 合 理性をとり 出そ

うと する彼の意欲には並々ならぬものがうかがわれるのである。 こういう

意欲の源泉にある彼自身の神の体験は強烈なものであったと考えられよう。

さて信仰者 クザーヌスが rationalis ierenしようとした神の性格は何か。

その点に すこし触れてこの序論的な小論を一先ず、終ることにしたい。 彼の

神は第一に超越と内在のい ずれにも徹した神であり , 第二に人間相互の対

話を力強く支 える神 , 第三に孤独感と連帯感という矛盾した両極をつなぐ

神である。

(1) グザーヌスの神は被造物の世界に対して超越と内在の両面で極めて

徹底したものである。 「無限者と有限者との聞に比例が存しないこと は お

の ずから明らかであるJ(Ex s e manifes tum es t inf initi ad f initum pro-

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porti on em n on es s e. D e d octa ign. , I. 3 , op. omn., 1. p. 8 ) 。 このこ

とはこの作品をは じ め D e vis i on e D ei (Pariis 1. f ol, CX IIr.) , D e

pac e f id ei (op. omn. , VI. ediderun t R. Klibans k y et H . Bas c our p. 7) ,

Pr edig ten (D eu ts che üb ers etzung en von ]. Sikora und E. Bohn en­

s tädt, 1952, S. 384) など , 彼の作品の到るところで強調された 。 しかも

その反面, 超越的な神がど こまでも被造物の世界に内在 する。 それを端的

に示すのが c omplica ti o及びexp lica tioの概念、である。 「神は, すべての

ものが神の中にあることにおいてすべてのものを含む 。 そして神が すべて

のものの中にあることにおいて , 神はすべてのものを 展開 するJ(D eus est

omnia complicans in h oc, qu od omnia in eo; es t omnia exp licans in

h oc, q u od ips e in omnibus . D e d octa ign., 11. 3 , op. omn. , 1, p . 70)

と言っているからである。 彼はまた可視的なもの vis ibi1ia と不可視的な

もの invis ibi1ia との関係を強調し , 前者が後者の影像 imag oであると

する(D ed octa ign. , 1. 11, op. omn. , 1. p. 22) 。 これなども , 彼の

思想において超越者の内在が 重視されたことを示す個所といえるであろう。

位) 対話を支 える神という点に関しては次のことを考え合わせなければ

ならない 。 Idiota d e m en te, Idi ota d e s apien tia, Idiota d e s ta ticis ex­

p erim en tis の三部作 (145のをは じめ D e n on aliud (1462) , D e伊s s es t

(1460) , D e ludo g lobi (1463) , D e apic e theoria e (1 463) など , 対話

的に綴られた作品は多いが, そこに登場する人物は 皆神についての自 説を

強調して譲らない人ばかりである。 そこで彼の対話篇では 主人公ひとりが

大 きな圧力で同席者を説き伏せるという道でなく, どこまでも対話的な話

し合いを通した辛抱強い真理探究の道が 展開される。 その辛抱強さこそ ,

グザーヌスの前提した神の観念の根強さを物語るのではなかろうか。

コンスタンチノーフ。ル陥落直後に 書かれた D e pac e f id eにおいてグザ

ーヌスは una r eligio in rituum di vets i ta teという標語 を 掲 げてい る

( op. omn. , vn. p. 7) 。 これは plurali ty of r eligion に関する伎の心境を

=コヲウス・ タザ戸ヌスの前提について l (1

端的に物語っている。 それは , 自分の信ずるものが深いだけに他人の信仰

への思いやりも深いという心境であり , 神に支 えられた対話に傾倒する者

の心境であったと解されよう。 また彼の従事した宗教政策と関連づけるな

ら , 彼の掲げた標語は , ホフ マンのいうように, キリス ト教だけが唯一絶

対の宗教ではないこと , 現存 するあらゆる宗教が唯一の真理をちがった角

度から表現 するものであることなどを暗示しているように思わ れ る(cf. ,

E. H offmann, Nikol aus von Cues : Zw ei Vorträge, 1947, S. 3 0)。

(3)彼の思想、における孤独感と連帯感との共存は De doc ta igno ranti a

によく現われている。 まず現実の存在である個体について彼の説くところ

を且ょう。 彼によれば , 無限者と有限者との聞にp roportio がない結果 ,

完全な同一性は現実には不可能であり , し、かなるものも形や大きさにおい

て他のものに全く一致することはありえない(De do cta ign. , n 1, o p.

o mn. , 1. p. 61)。 全く相似て等しい 二物は存在しない い p. cit. , 1. 3

o p. o mn. , 1. P . 9)。 あらゆるものは異なった度合いにおいて 存 在 す る

(op. cit. , 1.5 o p. o mn. , 1. p. 78)。 たとい誰かが何かのことで他人を

千年間真似して , 感覚的な区別は最早存在しない程になったとしても , 完

全な一致が到来することは決してないであろう(o p. ci t. , n. 1, o p. o m­

n. , 1. p. 63)。 これらの引用文はグザーヌスの自然観のみならず彼自身の

孤独感をも示していると解される。 神の限は人間一般にではなく個々の人

間に向けられる。 人間と神との関 係は徹頭徹尾個体的 , 人格的である。 ク

ザーヌスは「汝(神〉が我と共にある限り我は存在する。 汝の祝福が汝の

存在であり , 汝が我を見るがゆえに我は存在する。 もしかりに汝が我より

顔を遠ざけるなら , 我は最早存在 することはできないであろうJ(De vis i­

o ne Dei, Paris fo l. C r.) と言っている。 ところで , クザーヌスにあっ

ては孤独感と連帯感とは切り離し得ない関連にある。 彼の場合 , 神と個別

的, 人格的な関 係に置かれた各個人が教会の構成員と考えられたからであ

る。「教会は多くの人間の統一体( unitaのである。 しかもその際 , 各人は

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各人の人格的真理( pers o nali s verit as)を保存し , 各人各様の本性( nat ura)

や度合い( gradus) を混ぜ合うことはないJ (De do ct a i gn. , m. 12 o p.

o mn., 1. p . 1 61 )0 íーなる教会即ちー者における多者の集まりJ ( uni o

ecc1 es i a s ive co ngregatio mult o rum i n uno, o p. cit . , m. 12. o p. o mn. ,

1. p.1 58) という言葉ーっとってみても, そこにグザーヌスの連帯感が示

されている。 しかもその連帯感はイエス・ キリストを仲介者とした上での

ものである。 キリストは perfecti s s i mus ho mo (De do ct a i gn. , m. 6 . o p.

o mn. , I. p. 1 38) , maxi mus ho mo (Sermo 1 6) , abs o lut us medi at o r

(De vi s i one Dei, X IX, Pari s , I . fo l. CIX r. ) , s alvat o r (o p. cit . ,

XXIV, Pari s , 1. fo1 . CXIII r. ) などの名で呼ばれた。 そういう呼び

方のうちに クザーヌスの連帯感が示されていると考えることができる。

IV

以上の瞥見は有神論者グザーヌスとしづ見方に立っている。 しかしさき

にも触れたように』 グザーヌスの思想、の中に 汎神論的要素を認めることも

可能である。 これらの相反するこ要素はグザーヌス自身の前提においてど

のような関係に置かれていたか。 筆者はこの点についてよく考えてみたい

と:思っている。 ハウプストの考証によると , グザーヌスがi宣した説教はお

よそ 300篇あるが, そのうち約 50篇は題目をヨハネ伝からとってある( R.

H aubst, o p. cit . , S. 5, 22)。 それは確かに , ハウプストの指摘 する通り,

ヨハネ伝に対 するグザーヌスの熱烈な関心を , 従ってまた彼の強い有神論

的傾向を示 す事柄と言よえう( cf. , o p. cit, S. 22 ff. )。 この傾向に力点を

置くと , 彼における 汎神論的傾向には力点が置かれなくなってくる。 しか

し本当の事態はどうだったろうか。 この聞いは彼の思想における神学と 字

宙論とのつながり如何という問題に関連を持っている。

また, グザーヌスの前提した神は新プラトニズムのそれ(前 出〉とど う

結びついていたか。 これについても今後よく考えてみたいというのが筆者

の念願である。