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17 職業訓練 黒澤昌子 本稿では,バブル期以降のわが国における能力開発の実態について,記述 統計ならびに実証研究から得られる知見を明らかにしたうえで,1990 年代 以降に展開されてきた新たな人的資本理論を踏まえながら,今後わが国の能 力開発に生じうる問題点を議論する.2004 年以降,バブル崩壊から減少し 続けてきた民間企業における訓練量に回復が見られるが,能力開発の在り方 は,着実に従来の在り方から変わりつつある.今後の能力開発施策は,とく に個人主導の能力開発への直接的支援やそれをとりまく環境整備と企業内訓 練への支援とのバランスに留意しながら,慎重に検討されていく必要がある.

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17 職業訓練

黒澤昌子

要 旨

本稿では,バブル期以降のわが国における能力開発の実態について,記述統計ならびに実証研究から得られる知見を明らかにしたうえで,1990 年代以降に展開されてきた新たな人的資本理論を踏まえながら,今後わが国の能力開発に生じうる問題点を議論する.2004 年以降,バブル崩壊から減少し続けてきた民間企業における訓練量に回復が見られるが,能力開発の在り方は,着実に従来の在り方から変わりつつある.今後の能力開発施策は,とくに個人主導の能力開発への直接的支援やそれをとりまく環境整備と企業内訓練への支援とのバランスに留意しながら,慎重に検討されていく必要がある.

1 はじめに

最適な人材育成・能力開発の在り方は,その企業や労働者をとりまく外的環境や労働市場の在り方に規定される部分が大きい.少なくともバブル期までの日本では,長期雇用を前提に企業内訓練,とりわけ仕事をやりながら学ぶ実地訓練(OJT:On-the-job training,職場内訓練)によって熟練労働者に育てるという職業教育・訓練のやり方が大勢を占めてきた.豊富な若年人口と右肩上がりの成長のなかで,短期的な景気の悪化に対しても,企業内あるいは企業グループ内での再訓練・配置転換を通して余剰人員に対処するといった方法には合理的な面も少なくなかった.こうして維持された非流動的労働市場を背景に,労働者の技能形成は,企業特殊的な技能を大宗としつつ,他の企業に通用するような一般的な技能のかなりの程度までもが,企業主導によって効率的に遂行され,それが「高い生産性」をもたらす原動力のひとつであるとも指摘されてきた.

しかしながら,バブル崩壊以降,日本の経済は長期的な停滞に陥った.その背景には,経済活動のグローバル化にともなう国際競争の激化や情報化を軸とした技術的要求の急変,そして人口の少子・高齢化の急速な進展がある.これらの環境変化はそれ自身,また経済の停滞を通して,企業内訓練による投資効果を低下させ,長期的雇用を維持するコストを高める一方で,個人が企業に人材育成をゆだねることのリスクを高め,労働者が自発的に企業外の機関で職業教育を受ける需要を高めると考えられる.すなわち,これまでの能力開発が,企業主導によってふんだんかつ効率的に行われてきたとしても,これらの市場環境の変化は,企業から個人へと能力開発の主体をシフトさせる方向へと圧力をかけているといえる.

全国レベルでわが国の民間企業における教育訓練の実態を把握した調査として代表的な,旧労働省による「民間教育訓練実態調査」ならびにそれを引

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き継いだ「能力開発基本調査」を見るかぎり,たしかに,正社員に対して企業内訓練を実施した企業あるいは事業所比率には,1990 年代以降 2004 年に至るまで,顕著な減少傾向が見られた.ところが 2004 年以降,日本経済の景気が回復基調に移行するのにともない,企業内訓練の実施率は高まり,あたかもバブル期の水準にまで回復するかに見える.

しかしながら,景気が回復したからといって,能力開発の在り方がバブル期までのそれに戻るとはかぎらない.なぜなら,その後もグローバル化,情報化,高齢化など,わが国企業の生産市場や労働市場をとりまく環境はこれまで以上に激しく変化し続けており,そのベクトルは,依然として長期雇用の対象となる社員を減らし,労働市場や製品市場の圧力が企業の,そして労働者の行動をより強く規定するような方向に向かっているからである.

今後そうした傾向が進展しても,効率的な能力開発は行われ続けるのであろうか.そのために必要な施策は何か.こうした問いかけに答えるためには,そもそも能力開発=人的資本への投資がどのようなメカニズムで行われるのかについての理解を深める必要がある.本稿ではまず,バブル期以降のわが国における能力開発の実態について,記述統計ならびに実証研究から得られる知見を明らかにしたうえで,90 年代以降に展開されてきた新たな人的資本理論を踏まえながら,今後わが国の能力開発に生じうる問題点を議論する.最後にそれを解消する方策としての能力開発支援のあるべき姿について若干の考察を加える.

2 バブル期以降の能力開発

2.1 能力開発状況の推移―― 2つの全国調査からわが国における民間事業所の教育訓練の状況を,全国規模で継続的に把握

した調査には,費用の面から見た「就労条件総合調査」(厚生労働省,1999 年

までは「賃金労働時間制度総合調査」)と実施状況から見た「能力開発基本調査」(厚生労働省,1998 年までは「民間教育訓練実態調査」)の 2 つがある.

前者の調査は,厚生労働省が常用雇用者 30 人以上の企業に対して実施しているもので,労働費用の総額とその内訳が数年おきに調査されている.この調査から,パートを除く常用労働者 1 人当たり労働費用総額に占める教育

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訓練費用比率,ならびに 1 人当たり訓練費用の推移を示したものが図表 17-1 である.ここでいう「教育訓練費」とは「教育訓練施設の費用,講師への謝礼,講演会等への参加費,国内外留学の費用等をいう」と定義されていることから,この数値は,いわゆる Off-JT(Off-the-job training,職場を離れて行う訓練)に係る費用を計上したものといえよう1).その推移を見ると,バブル期にあたる 1988 年の 38%をピークに 90 年代前半に急減しているが,その後は上昇に転じ,2005 年までには,訓練比率を見ても,1 人当たり訓練費を見ても,バブル期が始まった時期の水準にまで回復していることがわかる.

次に,「能力開発基本調査」(1998 年までは「民間教育訓練実態調査」)に基づく教育訓練の実施状況に注目する.これは職場(1998 年まで,および2005 年以降は事業所調査,その間は企業調査)とそこで働く従業員(2003

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1) 同調査における「労働費用」は現金給与ならびに退職金や法定内外福利費用,現物給与,教育訓練費用,募集費用等を含む.「教育訓練費用」とは労働者の教育訓練施設に関する費用,指導員に関する手当・謝礼,委託訓練に関する費用などの合計であり,社内で訓練を担当した者の人件費や訓練の延べ時間など(すなわち訓練の機会費用)は含まれていない.

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(年)1982 85 88 91 95 98 2001 05

実質1人当たり教育訓練費(右軸)労働費用総額に占める教育訓練費比率

図表 17-1 労働費用総額に占める教育訓練費比率および従業員 1 人当たり実質教育訓練費

注) 1.労働省「賃金労働時間制度総合調査報告」および厚生労働省「就労条件総合調査報告」から作成.

2.パートを除く常用労働者 1 人 1 カ月当たりの平均値から計算.実質化には全国の消費者物価指数(総合指数)を利用.

年までは正社員,2004 年以降は非正社員も対象)の双方に 1 年間の能力開発活動やそれに関する制度等を聞いた調査である.前述の調査と異なり,調査の主体や対象,調査方法が何度か変わったため,経年的な変化を見るには限定的といわざるをえないが,「計画的 OJT」「Off-JT」ならびに「自己啓発」の実施状況についてはほとんどの年で尋ねており,その全国平均的な傾向の把握には貴重なデータとなっている2).

この調査での「Off-JT」とは,「通常の仕事を一時的に離れて行う教育訓練(研修)のこと」とされているが,日常の業務につきながら行われる教育訓練で,教育訓練に関する計画書を作成するなどして教育担当者,対象者,期間,内容などを具体的に定めて段階的・継続的に実施する訓練についても,

「計画的 OJT」としてその実施状況を調査している3).まず,図表 17-2 は事業所(企業)レベルでの正社員への Off-JT および計

画的 OJT の実施率の推移を示したものである.これによると,1980 年代後半からバブル期までは 70-80%の事業所で Off-JT や計画的 OJT が実施されていたが,景気後退にともない減少し,2004 年まではいずれも 40-60%の水準で推移してきたことがわかる.その後,景気回復期に入り,90 年代に急減した計画的 OJT については,回復の兆しが見えず,低迷したままであるが,Off-JT の実施率はバブル期の水準にまで回復しつつあり,この点は図表 17-1 と共通している.

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2) 同調査は「民間教育訓練実態調査」として,旧労働省によって 1979 年に調査が開始された.当初は常用労働者 30 人以上の民営事業所に対して毎年実施されてきたが,2000 年についての調査より「能力開発基本調査」と名称を変え,日本労働研究機構等に調査が委託されるようになった.その後 2005 年についての調査からは調査の実施主体が厚生労働省に戻ったが,委託されている間は企業ベース(従業員 30 人以上の民間企業が対象)の調査になったことや,事業所従業員サンプル抽出の方法が異なっていたこと,公表数値が母集団復元数値ではなかったこと,ならびに有効回収率に大きな違いが生じたことなどから,国が実施主体となっていた年の統計との比較は限定的となっている.とくに,有効回収率は 1997 年の事業所調査では 56.3%,従業員調査で 54.5%であったのに対し,2003 年の企業調査では 14.1%,従業員調査では 11.5%にまで落ち込んだ.その後,調査主体が厚生労働省に戻ったのにともない,調査対象は事業所ベースに戻され,従業員サンプルの抽出も事業所規模に準じる形になり,回収率も回復した(2006 年の回収率は事業所で 60.9%,従業員で 44.6%).なお,2004 年についての調査から,非正社員に対する調査が始まったが,2004 年は常用以外の非正社員も対象であったのに対し,2005 年以降は常用の非正社員に限定されている.

3) 2000 年から 2004 年についての「能力開発基本調査」の従業員調査では,Off-JT の定義に,「会社・上司の命令,もしくは命令に基づき自ら選択して受けたもの」という条件が加えられている.

一方,従業員調査から見た Off-JT の実施比率はどうであろうか.訓練を実施した職場が増えたとしても,その対象が限定的であれば,訓練を受けた従業員比率は必ずしも高まらない可能性がある.しかし,図表 17-3 に示されるように,こちらにも事業所(企業)の Off-JT 実施率と同じような傾向が見られる.ただし,2000 年から 2004 年までの比率がとくに低くなっている点については,その間,調査対象を事業所規模 30 人以上から企業規模 30

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1986 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04 05 (年)06OffJTまたは計画的OJT実施 OffJT実施 計画的OJT実施

図表 17-2 民間事業所・企業の Off-JT および計画的 OJT 実施率の推移

注) 1.労働省「民間教育訓練実態調査」および厚生労働省「能力開発基本調査」.2.2000-2004 年までは実施企業比率,他の年については実施事業所比率を示す.98 年以降は各年度の状況を示す.

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(年)901989 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04 05 06OffJT実施 自己啓発実施

図表 17-3 民間企業従業員(正社員)の Off-JT および自己啓発実施者比率の推移

注) 1.労働省「民間教育訓練実態調査」および厚生労働省「能力開発基本調査」.2.98 年以降,2003 年以外は各年度の状況を示す.

人以上に変更したことや,従業員サンプルの抽出方法を変えたことの影響が少なくないと思われるため,留意が必要である4).

このように,わが国の企業内訓練の実態を示す代表的なデータに基づく趨勢を見るかぎり,企業内訓練の実施率はバブル崩壊とともに減少に転じたが,その後の景気回復とともにバブル期以前のレベルにまで上昇しているように見える.この傾向は,労働者や企業の属性別に掘り下げてもおおむね同様であり,職種経験年数では 1 年未満,職種では販売・営業ならびに生産工程において,企業内訓練実施率の回復傾向が鈍くなっているという特徴は見られるが,2005 年時点までには,総じて企業内での Off-JT 機会がバブル期以前のレベルに戻る傾向が見られる.たとえば事業所規模別では,不況期の下落幅がもっとも大きかった中小企業においても,2005 年までにはバブル期以前のレベルに Off-JT 実施率が回復している.業種別では,景気後退期には業種間で Off-JT 実施率にばらつきが見られたが,2005 年までにはバブル崩壊以前と同様,金融・不動産業を除いた業種における実施率がおおむね同じ

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4) 1998 年までは事業所規模に応じた従業員サンプルの抽出がされていたが,2000-2004 年については 1 企業につき 3 名の従業員サンプルを無作為抽出するようになっていた.結果として 2000-2004 年の従業員サンプルは小規模企業の比率が高くなっているはずであるが,集計は母集団復元数値ではないため(少なくとも 93 年以降はそのように報告書に明記されている),サンプルの事業所規模構成の違いが制御されていない.

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図表 17-4 業種別 Off-JT 実施事業所(企業)比率の推移

注) 1.労働省「民間教育訓練実態調査」および厚生労働省「能力開発基本調査」.2.2005 年以降は旧産業分類に合わせるため,サンプル数を用いた加重平均を計算している.98 年以降は各年度の状況を示す.

レベルの 75%程度に収束している(図表 17-4).一方,性や年齢,職種経験年数別に見た従業員の Off-JT 実施率は,景気後退期にもばらつきはなく,みな同じような U の字型をしている.したがって,たとえばバブル崩壊後は入社後数年たった社員だけでなく,新入社員の訓練機会も減少したが,その後は双方ともに訓練機会が増えているようである.「能力開発基本調査」では,従業員に対して個人主導の訓練活動(自己啓

発)についても調査している.これは「職業に関する能力を自発的に開発し,向上させるための活動で,職業に関係ない趣味,娯楽,スポーツ,健康の維持増進等は含まない」と定義されており,図表 17-3 には正社員に占める自己啓発実施者比率の推移も示している.この比率はバブル期の最中もそれほど高まることなくほとんど一定に推移してきたが,2000 年についての調査で大きく落ち込んだ後,2004 年からは上昇傾向が見られる.この比率にも調査対象等の変更による影響があるかもしれないが,04 年にはすでに増加傾向が始まっているため,調査方法の変更以外の要因の方が大きいと考えられる.この動きは,図表 17-5 に示されるように,従業員に教育訓練を行う

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(年)2000 01 02 03 04 05

企業より個人責任 底上げより選抜教育重視

図表 17-5 能力開発の方針の推移

注) 1.労働省「民間教育訓練実態調査」および厚生労働省「能力開発基本調査」.2.A「従業員に教育訓練を行うのは企業の責任」B「教育訓練に責任をもつのは従業員個人」に対し,「A である」「A に近い」「B である」「B に近い」のなかから,「これまで」の方針として前者 2 つを選んだ企業比率,および A「選抜教育を重視」,B「社員全体の底上げ教育を重視」に対し,「A である」「A に近い」を「これまで」の方針として選んだ企業比率.2005 年については設定文が若干異なり,「これまで」でなく,

「現在」を聞いている.

のは企業よりも個人の責任とする企業比率の増加に沿うものでもあるが,何らかの自己啓発支援制度をもつ事業所比率は 94 年同調査の 80.0%から 2005年の 77.3%(06 年は 79,7%),なかでも受講料等の金銭的援助のある事業所比率は同時期 70.2%から 63.5%(06 年は 58.3%)とかえって減少している.

2.2 能力開発状況の変化――実証研究に基づく知見前節に示された観察事実を見るかぎり,景気の回復にともない,企業の能

力開発投資も回復し,その在り方もバブル期以前のそれに戻ったかのようである.だが,はたしてそうか.本節では企業内訓練の規定要因を分析した実証研究をサーベイし,そこから企業における能力開発投資の在り方に近年見られる変化について得られる知見を明らかにする.

企業内訓練の実施率が上昇傾向に転じた 2004 年以降における訓練の規定要因を分析する必要があるが,それはデータの制約上,まだなされていない.しかしながら,80 年代,90 年代,2000 年代(2003 年まで)の Off-JT 受講率を,独自調査から得られた非正社員を含む従業員データを用いて分析した原[2007]は,2000 年に入り,訓練の規定要因にいくつかの変化が見られることを指摘している5).たとえば,2000 年以降,大規模企業(300 人以上)とそれ以外における Off-JT 実施率の差は拡大したが,一方で,男女差や学歴間差は統計的に確認されなくなり,代わりに非正社員と正社員の格差が有意になったという.

また,女性に限定されるが,家計経済研究所が実施しているパネル・データを用い,1994 年から 2002 年の 2 年ずつのデータをプールして「会社等から派遣された研修会や講習」を受講した確率を分析した戸田・樋口[2005]においても,2000 年以降,学歴間格差は消滅しており,週労働時間が 35 時間以下の短時間労働者の受講確率が有意に低下している.また,年齢や学歴,企業規模や勤続年数,業種・職種,労働時間をコントロールしてもなお,受

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5) この研究で用いられたのは能力開発に関する研究会(経済産業省委託事業)において実施された「働き方と学び方に関する調査」であり,その成果はみずほ情報総研[2005]を参照.この調査は 2005 年に全国の万 25 歳以上 54 歳以下の男女をランダム抽出して実施された.とくに,ここでの Off-JT とは,「年間 5 日以上のまる 1 日かけた教育訓練」と定義されている.

講確率は 94 年以降,とくに 95,96 年,そして 2002 年と段階的に低下してきたことが示されている.

企業単位のデータを用いた研究としては,2000,2002,そして 2003 年についての「能力開発基本調査」を用い,企業による Off-JT および計画的OJT 実施率の規定要因に年によってどのような違いが見られるのかを分析した小杉[2006]がある.そこでは,製造業では計画的 OJT, そして情報・専門サービス・金融業では Off-JT の重視される傾向がいずれの年についても共通して観察されたとしている.ほかにも,中途採用比率が多い企業や外部からの雇い入れを効率的と考えている企業や,正社員比率の低い企業,そして企業規模が小さい企業ほど,Off-JT も計画的 OJT も実施しないという傾向が一貫して見られたという.同研究では,過去 5 年間の経常利益増減の影響についても分析しているが,2002 年においては Off-JT の実施率にも計画的 OJT の実施率にも影響を与えていたが,2003 年には計画的 OJT のみに影響を与えており,過去 5 年間の業績の変化が訓練の実施・不実施に及ぼす影響は大きなものではなく,企業業績の低迷以上に,外部労働市場の発達や非正社員構成の変化が,2000 年代初頭の企業による教育訓練実施を規定している可能性があると結論づけている.

ただし同じデータを用いた分析でも,より詳細な従業員属性をコントロールすると,若干異なる結論が得られている.2002 年のみのクロスセクション分析ではあるが,「能力開発基本調査」の従業員(正社員)データに企業票の情報をマッチさせ,従業員の Off-JT 受講率や実施した場合の延べ時間をより詳細に分析した黒澤[2006]では,職種などの従業員属性をコントロールすると,Off-JT 受講率は,大企業や中途採用比率の低い企業,残業の少ない企業,そして製造業で高いが,受講した場合の延べ時間はむしろ金融・サービス業や過去 5 年間に正社員数を拡大している企業,そして大企業で長いという結果が得られている.すなわち,訓練投資の量に注目するならば,やはり残業時間や雇用調整をともなう企業業績の変動は重要な規定要因になるということである.そのほか,職業能力評価を行っている企業や従業員の能力を把握していると自覚している企業ほど Off-JT 実施率は高く,能力評価を行っている企業や賃金の年功度の低い企業ほど Off-JT の延べ時間が長いという結果も示されている6).この研究ではさらに,同一企業に勤める従

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業員同士を比較することを通して,企業属性を完全に制御した分析も行っているが,それによると,興味深いことに,学歴間格差や職種間格差(営業・販売以外)が有意ではなくなり,逆に男女差が拡大している.すなわち,高学歴や専門・技術職に見られる高い Off-JT 受講率は,そうした人々がそもそも企業内訓練の活発な企業に勤めやすい(採用されやすい)ことに起因していると考えられる.さらに女性の場合,企業内訓練機会における男女格差の小さい企業に勤める傾向が強いが,同一企業内では,女性よりも男性に訓練資源の配分される傾向が強く,その傾向はとりわけ大企業や情報・専門サービス・金融業等で強いという実態が浮かび上がった.

以上の研究結果すべてに整合的な結論を出すのは難しいが,中途採用者比率や企業の成長指標が企業の訓練投資の量に影響を与えているという結果は,外部労働市場の発達や企業業績,とりわけ将来見通しの回復が,近年の能力開発動向を決定づける要因の 1 つになっていることを示唆するものである.2000 年初頭不況期のクロスセクション・データを用いた分析では,訓練の実施率に過去 5 年間の業績変化の影響は見られなかったが,それは過去 5 年間の業績の動向が,必ずしもその時点における将来の見通しを的確に反映していなかった可能性もある.

また,原[2007]では 2000 年以降,訓練機会の男女差が統計的に確認されなくなったとしているが,2002 年におけるデータを用いた同一企業内の比較からは,訓練投資量の多い大企業や業種ほど,女性よりも男性に訓練資源の配分される傾向の強いことが示されている.98 年以降,女性の正社員比率が急減したことを考えれば,男女間格差の消滅は,正社員として働く女性がより選別されたことの現れなのかもしれない.同様に,そもそも非正社員比率の増大自体が,豊富な人的投資を行う対象者を絞りこんでいる査証ともいえる.

前出の戸田・樋口[2005]でも,訓練資源がより選別的に配分されるという傾向と整合的な結果が示されている.同論文では,90 年代後半以降,短時

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6) ここでの年功度は「給与総額に占める年功給比率」(「従業員全体の給与原資総額を『①個人や組織の能力や業績に連動せず,各従業員に保証されている部分(例:年功給)』,『②個人や組織の能力や業績で決定される部分(例:能力給)』に分けた場合の①の割合はどの程度(%)ですか」に対する回答)によって表されている.

間労働者の訓練受講率が低下し,同時に企業内訓練を受けた後の離職率は低下し,賃金上昇率が高まったと分析しており,90 年代後半以降,企業は訓練投資をコア人材に集中的に配分するようになっていると指摘している.

このことは,訓練機会の学歴間格差が確認されなくなったという結果と相容れないとも思われるが,訓練の延べ時間で見れば 2002 年時点を分析した黒澤[2006]において,大学・大学院卒(とくに理系)で有意に長いことが確認されており,また,2003 年に全国の製造業事業所(工場)を対象に実施した独自調査に基づく黒澤・有賀・大竹[2007]においても,高卒新入社員の質が高い事業所ほど,Off-JT の強度の高くなる傾向が示されている7).2000年から 05 年までの「能力開発基本調査」で継続的に問われた「選抜教育か底上げ教育か」についての回答からも,選抜重視の強まる傾向が見られる

(図表 17-5).さらに,年功度の強い給与体系は,それが後払い賃金体系を意味するかぎ

りにおいて,労働者の離職を抑制し,企業内訓練の収益を高め,結果として人的投資の促進に貢献してきたはずである.しかしながら,Off-JT の実施強度(延べ時間)が,大企業や職業能力評価を実施している企業,ならびに能力・業績が給与に反映される度合いの強い企業ほど高いという観察事実は,そうした補完性が今や崩壊しつつあることを示唆しているのかもしれない.

2.3 能力開発状況の変化――非正社員の動向上記の記述統計や実証研究の結果のほとんどは正社員・正職員を対象とし

たものであるが,そうした人々の経済全体に占める割合は,景気回復後も低下し続けていることを忘れてはならない.全雇用者における正規雇用者比率は,1987 年の 82.4%から 2001 年には 72.8%へと年々低下しており,その後の景気回復を迎えても低下傾向は止まらず,2005 年には 67.4%,2007 年には 66.5%にまで低下している.この数値は雇用者に占める非正社員とし

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7) 黒澤・有賀・大竹[2007]では,最近の高卒新規採用者の質を表す順序変数ならびに技術専門職の従業員比率が Off-JT 強度(Off-JT にかかる内部費用)に有意な影響を与えていることが示されており,これらは従業員の質が高いほど Off-JT が多くなされる傾向を示している.なお,1994 年から 98 年までの家計経済研究所の女性雇用者のパネル・データを用いた Kawaguchi[2006],ならびに 1994 年に北九州地域の企業に勤める正社員へ実施した調査から得られたデータを用いた Kurosawa[2001]においても,高学歴者ほど Off-JT 受講率が高まることが示されている.

て見たものであるが,いわゆる非正規労働者のなかでも請負労働者や派遣労働者数の増加はとくに顕著で,とくに派遣について見ると,常用換算した 1年間に派遣された労働者数は 93 年の約 23.6 万人から 2001 年には 61.2 万人となり,その後も急増し続け,2006 年度には約 151.8 万人に達している8).

非正社員は離職確率が高く不安定な就労形態であることから,企業が能力開発投資を行う動機は薄くなることが予想されるが,その実態を明らかにした調査は必ずしも多くない.先の「能力開発基本調査」は常用雇用の非正社員に限って 2005 年から調査をし始めたばかりであるが,それによると,非正社員に訓練を実施した事業所比率は Off-JT では 05 年に 37.9%,06 年に40.9%,計画的 OJT では 05 年に 32.2%,06 年に 18.3%と,いずれも正社員の約半分の比率となっている.従業員側から見た Off-JT 受講比率は,05年に 31.0%,06 年は 27.6%とこちらも正社員の約半分である.

同調査における非正社員が常用雇用者であることを考えると,短期契約で働くパート・アルバイト社員や派遣労働者も含めた非正社員全般における企業内訓練の機会は,いっそう乏しいものになっていると考えられる.原[2007]で示されたように,非正社員と正社員間の訓練機会格差が近年拡大しているとすれば,その懸念はいっそう重要である.原論文で用いられた調査は常用雇用以外の非正社員についても調査していることから,そのデータから得られる非正社員の Off-JT 受講率を見ると(図表 17-6),やはりそうした人々の受講率は「能力開発基本調査」が示す数値よりも低く,その傾向はとくに若年男性において強くなっていることがわかる.

この傾向が常用雇用の非正社員に限定した場合でも観察されることは,2005 年についての「能力開発基本調査」の従業員データを事業所データとマッチさせたデータを用い,非正社員の能力開発の実態を記述的に整理した原・黒澤[2008]に示されている.さまざまな事業所や従業員属性を制御したわけではないので,限定的な結果ではあるが,同論文では,学歴や性別など,正社員においては Off-JT 受講率に大きな違いの見られる従業員の個人属性

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8) 『労働者派遣事業報告』(厚生労働省)に基づく数値.常用換算派遣労働者数とは,一般労働者派遣事業における常用雇用労働者数および常用雇用以外の労働者数(常用換算),ならびに特定労働者派遣事業における派遣労働者数の合計.常用換算とは,常用雇用以外の労働者の年間総労働時間数の合計を常用雇用労働者の 1 人当たりの年間総労働時間数で除したものである.

が,非正社員の Off-JT 機会には見られないこと,ならびに非正社員の場合,勤続年数を重ねるほど Off-JT 受講率の低下する傾向が強いことを明らかにしている.

また,同じように非正社員を多く雇用する業種でも,小売・卸売・飲食に比べてサービス業では非正社員の Off-JT 実施率が高く,正社員の能力開発へも積極的な職場ほど非正社員の Off-JT 実施率が高いというように,積極的に Off-JT の機会を与える業種や職場特性の存在が推察された半面,やはり平均的に見ると,若い頃に非正社員として勤続を重ねても,企業による継続的な能力開発機会の得られない実態が示されたといえる.

企業による能力開発機会が乏しいとなると,非正社員の能力開発には,個人主導で行われる部分が期待されるが,そちらの実態はどうなっているのだろうか.2005 年についての「能力開発基本調査」を特別集計した図表 17-7を見ると,非正社員では自己啓発も正社員に比べて低調であることがわかる.訓練にかかる資金調達の困難さは,非正社員の方で大きいと考えられるが,2006 年についての能力開発基本調査によれば,自己啓発を実施した従業員のうち,勤め先や国,組合から何らかの費用補助を受けた割合は正社員では

17 職業訓練 605

0

10

20

30

40

50

60

正社員(役なし) 正社員(役あり)

(%)

非正社員

男性,40歳未満 女性,40歳未満男性,40歳以上 女性,40歳以上

図表 17-6 就業形態別 Off-JT 受講率(2004 年)

注) 1.みずほ総研「働き方と学び方に関する調査」.2.2004 年 1 年間において,「勤務先(会社)の指示で,仕事から離れて参加する訓練・研修を受けた」比率.25 歳以上 54 歳以下対象.非正社員には臨時雇用・パート・アルバイト・派遣・契約社員・嘱託が含まれる.

31.5%であったが,非正社員では 19.5%と低い.また,同調査では自己啓発の問題点を自己啓発の実施の有無にかかわらず聞いているが,それに「やるべきことがわからない」と回答した比率は 24.0%と正社員の 12.7%を大きく上回っている.同調査 2005 年の特別集計は,こうした問題がとくに若年非正社員で顕著であることを示している.

3 能力開発活動の理論的視点

以上では,わが国の労働者における能力開発の実態を,バブル期以降の変化に注目しながら探ってきた.以下では,そうした動向を踏まえたうえで,今後の能力開発への政策的関与がどうあるべきかを考察するが,その前段として,本節では不完全労働市場における能力開発活動(人的投資)についての理論に基づきつつ,日本のこれまでの能力開発の在り方を支えてきた条件を整理する.

3.1 不完全競争的な労働市場における人的投資活動完全競争的な労働市場および資本市場のもとでは,転職しても同じように

606

0

10

20

30

40

50

(%)60

男性若年 男性中高年 女性若年 女性中高年非正社員 正社員

図表 17-7 就業形態別自己啓発実施率

注) 1.厚生労働省「能力開発基本調査」(2006 年度)より作成(原・黒澤[2008]).2.母集団は常用労働者を 30 人以上雇用する民間事業所に勤める常用雇用の正社員および非正社員.若年とは 35 歳未満,中高年とは 35 歳以上 60 歳以下の従業員として定義.

役立つ「一般的」な技能の訓練は従業員が,それに対してその企業でしか通用しない「企業特殊的」な技能の訓練は,従業員と企業とが共同投資することが知られている(Becker[1964]).なかでも政策的介入の在り方を探るうえで重要なのは,過小投資の生じやすい一般的な訓練であるから,以下ではそうしたタイプの訓練に注目し,そのメカニズムを Acemoglu and Pischke[1999b]で紹介された簡単なモデルを用いて整理しよう.

1 期目に訓練を行い,2 期目にその成果が生産性の向上として表れる簡単な 2 期モデルを想定する.まず,1 期目の訓練量を τ,2 期目の生産性をf (τ ),企業での賃金を w(τ ) とし(いずれも 1 期目は 0),訓練費用を C (τ )

としよう9).完全競争的な労働市場においては,訓練後の生産性に等しくなるまで賃金が引き上げられるため,

f (τ )=w(τ )

となる.つまり,訓練によって向上した生産性の増分がそのまま賃金の増加に結びつくのであるから,そうした訓練の費用を企業が負担する動機は起こらない.資本市場が完全競争的で,契約上の困難がなければ,投資の全収益を獲得する本人(労働者)がその全費用を負担することができるため,結果として訓練の限界便益が限界費用と等しくなるレベル[f '(τ )=c'(τ )]まで訓練投資が行われることになる.これは社会的にも望ましい投資レベルとなる.

ところが,一般的技能の訓練によってもたらされる生産性の向上に対して,労働者の賃金を相対的に抑制できるような状況があると,企業にも一般的技能への訓練費用を負担するインセンティブが生じる.90 年代半ば以降に展開されてきた一連の理論的研究によると,このような状況が生じる主な要因としては,労働者の職業能力(あるいはこれを規定する潜在的能力や受けた訓練の質や量)を求人企業が正確に見抜くことが難しく,労働者も求人企業の実態等について十分な情報をもたないという情報の非対称性や,転職先探しにともなうその他摩擦の存在といった労働市場の不完全性にあるとされる

(Acemoglu and Pischke [1998,1999a, b],Katz and Ziderman [1990],Bishop

17 職業訓練 607

9) 割引率 0,全員がリスクに対して中立であることを仮定する.

[1991]).そうした不完全性のある労働市場では,転職や採用にコストがともなう.

このコストを ∆ と呼ぶと,これは特定の企業と労働者の組合せから生じるレントであり,その分だけ労働者が外部企業で発揮できる生産性より低い賃金が支払われていても[w(τ )=f (τ )−∆],従業員が外部企業に引き抜かれる危険性が小さいのであるから,企業にも投資収益を回収する余地が生まれる.しかも,訓練を行うたび,それにともなう生産性の増分ほど賃金を上げなくて済む[f '(τ )−w'(τ )>0]のであれば,企業はそうした訓練を増やすインセンティブをもつ10).結果として,企業特殊的技能の場合と同じように,企業側にも労働者と共同で一般的人的投資を行う動機が生じる.その際,不完全性が大きいほど(∆'(τ ) が大きい),企業の負担割合は大きくなる.

したがって,労働者が資金制約や契約の困難性に直面しているため,まったく訓練コストを負担できないような経済においては,労働市場の不完全性が強いほど,企業による一般的人的投資量が大きくなるため,社会全体における過小投資の度合いは小さくなると考えられる(Stevens[2001]).

ただし,企業による一般的人的資本への投資は,社会的見地からすると過小になる11).不完全な労働市場では,一般的技能の訓練を受けた労働者の転職後の賃金は,限界生産性より低くなる.すなわち,転職先の企業はその労働者の雇用から便益を得るのであるが[離職率を q とし,外部企業の支払う賃金が w(τ ) であれば,その企業に流れる期待便益は q∆(τ )],企業や労働者はそうした第三者に流れる便益(引き抜きの外部性と呼ぶ)を考慮せずに訓練量を決定するために,従業員の転職可能性が高いほど,一般的人的資本への投資は社会的に最適なレベルに比べて過小になる(Bishop[1994],

Acemoglu[1997]).

3.2 バブル期までの日本における能力開発の在り方ひるがえってバブル期までの,いわゆる日本的雇用慣行のもとでの能力開

発の在り方を考えてみよう.職業上の技能形成はもっぱら企業内訓練によっ

608

10) f '(τ ) は f (τ ) の導関数であり,f '(τ )−w'(τ )>0 であることは,しばしば「圧縮された賃金構造」と呼ばれる.一般的なケースでは,∆'(τ )>0 が条件となる.

11) この市場の失敗は,資本制約がなく,雇用契約上の問題がない場合にも生じる.

て行われてきた.そのうえ,企業の実施する労使協議制,ジョブロテーション,QC サークルなどは,企業内コミュニケーションの促進やチームワークの効率化を通して賃金の柔軟性を高め,内部労働市場での柔軟な配置転換などを可能にし,それが非効率な自発的離職や解雇の発生を食い止めてきたとされる(Hashimoto[1991]).また,集団主義を基調とした仕事のやり方における企業特殊的技能の重要性,ならびに年功的な賃金プロファイルや退職金制度などは,転職した労働者の賃金を大幅に低下させるということで転職に高いコストを課した.こうした体制は,労働者と企業との雇用関係をより頑強なものとし,企業内訓練の収益を高めることに貢献してきたといえる.長期にわたる高い経済成長を背景に,日本の企業における積極的な人的投資と長期雇用とは,補完的に互いをいっそう増強してきたと見られる.

また,長期雇用を前提とした固定的な雇用慣行のもとでは,企業内の職場訓練で培われた労働者の能力情報を企業外に伝達する必要が少ないために,そうした情報を完備する機能が中途採用労働市場に整備されてこなかった可能性が高い.この点については,中小企業に中途採用された人々と採用した企業に対するアンケート調査を用いて,同一企業・同一業務に採用された人を比較した分析から興味深い結果が得られている.入社前のキャリアや訓練歴のなかでも,専門学校や民間の教育訓練機関での研修経験など,外部企業に認識されやすい訓練や修学経験をもつ者の場合は,入社直後の訓練費用を差し引いた生産性に比べて給与が高く設定される傾向が見られるが,業界団体での研修経験や転職後の業務に関連した就業経験をもつ者の場合は,反対に給与が低く設定されるという傾向が,少なくとも入社後 2-3 年間にわたって観察された(黒澤[2002]).これらの結果は,わが国の中途採用市場では,外部教育機関での研修経験さえもが職業能力の正確なシグナルとして有効に機能しておらず,とくに企業内で培われた技能は,たとえそれが外部労働市場で通用するものであっても,その生産性に見合った賃金が支払われていない状況を示唆したものといえる.

これら一連の状況,すなわち労働市場での情報の非対称性や高い転職コストの存在,ならびに非効率的な離職に抑制的な作業組織の発達などを考えれば,少なくともこれまでの日本では,∆'(τ ) が大きく,企業による一般的人的資本投資へのインセンティブは小さくなかったと考えられる.

17 職業訓練 609

しかも雇用が安定し,労働者の離職確率が低い状況では,企業特殊的技能への訓練も雇用がより流動的な社会に比べてより多く実施される.一般的な技能と企業特殊的な技能とは補完的に労働者の生産性を高めるであろうし,個々のスキルが一般的であっても,スキルの組合せ(スキル・ミックス)としての有用性はそのスキル・ミックスが培われた職場でもっとも高くなるであろう(Bishop[1996]).これらの点を考慮すると,一般的技能への訓練は企業特殊的な生産性をも高めることになるから,豊富な企業特殊的技能への訓練は,企業が一般的技能の訓練投資を行う動機をよりいっそう高めたはずである(Acemoglu and Pischke[1999a]).不完全性の高い労働市場と低い雇用の流動性は,先に示したような引き抜きの外部性を小さくする.したがって企業による一般的技能への訓練が社会的に見て過小になるという問題もそれほど深刻ではなく(中馬[1999]),むしろ後述するように,労働者主導の能力開発投資が効率的になされる条件が整っていなかった状況において,能力開発投資への過小投資を最小限に抑える有効なシステムとして機能していたと考えられる.

4 バブル期以降の能力開発と今後の政策的介入の方向性

4.1 企業主導の能力開発への支援このように,引き抜き外部性を小さくさせていた環境が,これまでの豊富

な企業内訓練の要因になっていたとするならば,今後のわが国の能力開発の在り方を考える上で重要なのは,そうした環境の変化である.とくに注目すべきは,引き抜き外部性[q∆(τ )]に影響を与える企業と労働者とのレント

(∆)および離職率(q)のいずれもが,労働市場の効率性・競争度に依存する点である.引き抜き外部性と労働市場の競争度との関係を簡単なグラフに表すと,図表 17-8 のようになるが,この図において,少なくともバブル期までの日本は左端の方に位置していたと考えられる.

労働市場における情報伝達機能が未整備であるなど,市場の不完全性が強いほど,互いに満足度の高いマッチングが成立しにくく,質の悪い雇用関係が維持され続けるといった非効率が生じやすい一方で,企業による一般的な人的資本への投資意欲は高くなる.そうした市場では雇用の流動性も低くな

610

りやすいため,企業特殊的人的資本への投資レベルも高くなる反面,引き抜き外部性が減少する.したがってバブル期までの日本においては,マッチングの非効率性を相殺して余りある積極的な人的資本投資が実施されてきた可能性がある.

ところがわが国をとりまく経済環境の変化は,これまでの雇用慣行に組み込まれた人的資本投資の在り方にも影響を与えている.たとえば国際競争の激化にともなう製品市場の変化や情報化のスピードの速まりは,必要となるスキルを長期的視野から計画的に育成することのコストを高めると同時に,企業による定年までの雇用保障を困難にする.さらに,情報通信技術の進展は,仕事の幅の拡大や質的向上をもたらす一方で,仕事の標準化・モジュール化を通して非正規社員の活用を促すとも考えられる12).もちろん,職種や企業による違いはあるであろうが,これらの環境変化は,いずれも長期雇用を前提とした豊富な企業内訓練の対象となる労働者を減らし,外部労働市場からの人材の調達を一段と増やす方向へ,そして労働者の貢献度をより短期間で賃金に反映させる方向へと企業の戦略をシフトさせることになると思われる.先に見た非正社員比率の増加傾向は,これと整合的である.

17 職業訓練 611

12) このことは従業員規模 30 人以上の企業に対する調査に基づいた実証分析によって統計的にも確認されている(阿部[2001]).

日本 米国

期待収益

離職率

労働市場の効率性・競争度

離職率低

企業特殊的投資多

マッチング効率低

企業による一般的投資多

図表 17-8 引き抜き外部性と労働市場の競争度との関係

注) 筆者作成.

このように,今後,外部労働市場のいっそうの発達が生じ,長期雇用を前提とした就業機会がますます縮小すれば,図表 17-8 における日本の労働市場の位置は右の方に移動することになる.そのような状況では,引き抜き外部性が高まるため,企業の一般的人的投資が社会的に望ましい水準を下回る傾向が強まることになる.経済が長期的停滞から脱却すれば,それ自体は訓練量を増やす方向に作用するはずであり,たしかに 2005 年以降,企業の正社員への Off-JT 実施率はバブル期以前のレベルに戻っている.しかし非正社員比率の拡大を考慮に入れれば,経済全体における企業の人的投資量が減っていることに間違いはないだろうし,第 3 節の一連の実証研究が示すような,以前より離職確率の低いグループに訓練資源が選択的に配分されるようになっている傾向もこの動きと整合的といえる13).これらの観察事実は,今後の政策的介入において,企業への一般的人的投資の支援が以前にも増して重要になることを示唆している.

その具体的方策として,Stevens[2001]は「利潤」に対する税を財源とした訓練への補助金制度あるいは訓練税制度が望ましいとしている.その運営には税率の決定から訓練内容・レベルの決定,モニタリングの方法など,いろいろな問題がともなうが,Greenhalgh[1999]はとくにフランスのシステムの有効性を指摘している.フランスには 10 人以上の従業員をもつ企業に対し,給与総額の一定割合以上を汎用的な企業内訓練(汎用性の条件を満たす Off-JT)に費やさないと,訓練税を支払わなければいけないという訓練税制度がある.そこでは労使によって主に業界別に運営される組織が中心となり,税の徴収や基金の運用を行うだけでなく,訓練内容やレベルを決めているほか,労働者の自己啓発活動も訓練税の基金から支援される仕組みがある.つまり,訓練に熱心な企業だけでなく,熱心でない企業からも訓練コストを徴収し,業界特殊的な技能の訓練を提供するというこの仕組みは,総じ

612

13) 実証的には,企業内訓練を受けた後に離職率が高まっているかどうかを検証することが,引き抜き外部性が増大していることの 1 つの査証になりうる.前述の戸田・樋口[2005]によると,企業内訓練とその後の離職率には負の関係があり,しかもその効果は 2000 年以降拡大しているという.このことは,2000 年以降においても,少なくともわが国の正社員市場における引き抜き外部性がそれほど大きくないことを示しているのかもしれないが,より厳密に引き抜き外部性の検証を目的とするためには,労働者の質を一定とした上での訓練と離職確率の関係を推計する必要がある.欧州 10 カ国のデータ(ECHP)を用い,個人の固定効果を除去しながらその関係を推計した Brunello and De Paola[2004]は,正の効果を得ている.

て業界特殊的な訓練の成果を業界単位で内部化する枠組みになりうるという点で参考になる.

この制度が有効に機能するならば,引き抜き外部性が緩和され,少なくとも業界特殊的な訓練は増えるはずであるが果たしてどうだったのか.この点を直接的に検証した研究はなされていないようであるが,少なくともフランスにおける企業の訓練への支出額は,同制度の始まった 70 年代初頭以降,景気の変動に影響されることなく増加の一途をたどっており14),労働者 1人当たりの訓練量はヨーロッパ諸国のなかで最多であるという(Greenhalgh

[1999]).企業内訓練活動に対する公的介入のほとんどなくなった英国と比べた Greenhalgh[2001]によれば,転職率の高い若年層においてとくに企業内訓練の訓練時間が長く,訓練が公的資格に結びついている確率も高いという.若年層は資金制約に見舞われる可能性が高いことを考慮すれば,訓練税制と若年層向けの資格の充実というポリシーミックスが,企業と労働者双方による一般的訓練への過小投資の緩和に有効であることを示唆しているといえよう.しかしながら他方で,訓練税制度は単に訓練サービス供給者の余剰を増やし,その質については問題があるとする見解もある.また,成人については英国と比べても訓練量の違いは少なく,公的資格に結びつく確率も低い.

わが国でも人材投資促進税という税額控除制度が 2005 年度から 2008 年度までの時限措置で実施された.ただし,これはあくまで黒字を出した法人にしか適用されず,しかも補助は訓練費用の増加分に対して行われる.また,企業内の人材が訓練を実施した場合の機会費用は訓練費用として認められない.これは補助される訓練の汎用性を担保するための方策と思われるが,訓練成果が何らかの市場で認識される資格制度等の能力評価指標に結びついていないかぎり,質の悪い訓練の拡大と訓練サービス供給者の余剰を増やすことにつながりかねない点が懸念される.

さらに,市場の不完全性が大きいほど,一般的訓練への企業負担の度合いが大きいが,それも不完全性が緩和されるに従って減ってくる.それにとも

17 職業訓練 613

14) 同国における訓練費用の給与総額に占める割合は 1972 年の 1.35%から 1989 年の 2.89%にまで増加しており,平均値だけを見れば,訓練税制を課す下限を上回っているが,小規模企業には下限を下回るものも多いとされている(Verdier[1994]).

ない,労働者が資金制約あるいは契約の困難さなどで訓練費用を負担できないことがもたらす過小投資の問題も重要性を増すことになる.この点については次節で論じる.

4.2 個人主導の能力開発への支援――資金制約への支援と訓練情報の整備もう 1 つ,今後の政策を考えるうえで重要なのは,個人主導の人的資本投

資の在り方である.第 3 節で見たように,企業内訓練だけでなく,自己啓発の実施においても,非正社員は正社員を大きく下回っている.したがって,非正社員比率の拡大自体が,日本経済全体の一般的,企業特殊的を合わせた人的投資量の減少に拍車をかけていることに間違いはないが,そのこと自体が政策的介入を必要とするわけではない.それよりも問題は,企業主導による能力開発が主流だった日本において,労働者個人による人的資本投資が社会的にも望ましい水準,すなわち効率的な水準まで行われる素地が整っているといえるのかという点である.そうした素地が整っていないとすれば,離職確率の高い非正社員というグループの拡大は,それだけ経済全体での過小投資を拡大させることになる.

第 3 節で見たように,資金の面から見ればより強い制約に直面しているはずの非正社員への費用支援比率が低く,非正社員ほど「やりたいことがわからない」を指摘する比率が高いという結果は,とくに非正社員において,効率的に人的投資を行う条件が整っていない可能性を示唆している.前節で述べたように,不完全性があったからこそ実施されてきた一般的訓練への企業と従業員との共同投資における企業のインセンティブは,不完全性の緩和およびそれにともなう雇用の流動性の向上とともに減少するため,それだけ労働者個人の人的投資環境が,社会全体の人的投資の効率性に与える影響が大きくなる.そうした観点からこれまでの政策を振り返り,今後の政策の方向性について考察してみよう.

労働者個人による人的資本投資が効率的に行われるためには,個人が訓練費用を負担する能力をもち,かつ個人の実施した訓練投資の収益がすべて個人に還元されるような環境が必要である.

訓練にはかなりの費用が必要であるが,個人が将来の人的資本を担保に訓練費用を借り入れるのは難しい.こうした資本市場の不完全性があるために,

614

人的資本への投資は,とくに企業よりも労働者個人において,また正社員よりも非正社員において過小になりやすい.就業者については,訓練期間中に限界生産力よりも低い賃金を受け取ることで一般的訓練の費用を負担させることもできる.しかしながらその場合にも,企業内訓練の実態が外部から把握されにくいかぎり,低い賃金を支払っておきながら,その後訓練を約束どおり実行しないという企業の行動を抑制するような契約を結ぶことが困難になるという問題がある.とくに安定的雇用関係が崩れると,そうした契約は成立しにくくなり,それは同時に,企業特殊的訓練の過小投資の要因にもなる.

借り入れ資金の制約を緩和するためには,労働者個人への財政支援が必要であるが,そのやり方としてもっとも直接的なのは,補助金よりも貸付における信用保証や利子に対する補助であろう.現在政府の実施している教育訓練給付は,労働者個人への補助金(バウチャー)制度であるが,この制度の場合,補助金を利用して無駄な訓練の行われる可能性が高いだけでなく,そもそも資金制約にもっとも強く直面している長期失業者や非労働力からの参入を試みる人々すべて,ならびに若年未熟練層やその他の非正社員の多くが制度対象外にされているという問題がある.そのうえ,同制度の規模は大きく,制度の存在が訓練市場の価格を押し上げ,資金制約の緩和という支援目的から見れば優先順位の高い人々にかえって不利益をもたらしている可能性もある.資金制約以外にも,個人の行う能力開発に一定の外部性がともなうことを考慮すれば,こうしたバウチャーのように,貸付より積極的な支援が正当化されるとも考えられるが,その辺りも対象者によって柔軟に支援を組み合わせられるような体制が求められる.

さらに,訓練資金の支援は,どういった知識や技術が将来どれだけの収益をもたらすのか,そしてそれらの技術を身に付けるにはどうしたらよいか,などについての情報の整備と補完的に進められるべきである.そうした情報が労働者個人にとってたやすく入手できなければ,個人の選択が十分に機能せず,競争による良質な訓練サービスが供給されにくくなり,結果として訓練への投資も過小になる可能性があるからである15).とくに個人への財政支援といった,個人の選択に直接支援する場合には,一方ではさまざまな訓練機関で提供されているコースの内容情報の提供やクオリティ・コントロー

17 職業訓練 615

ル,他方では訓練受講前のカウンセリングやコンサルティングなどのサービスを給付の条件とすることなどが考えられる.たとえば米国の労働力投資法

(WIA)に基づく訓練バウチャー制度(ITA)では,ワンストップ・センターでカウンセリングを受けることが義務づけられており,いくつかの州では訓練の効果を高める観点から,訓練受講者についての情報管理システムを構築し,それをカウンセラーが共有していたり,カウンセリングにおいて訓練希望者に 3 つの訓練を選択させ,訓練受講希望者自ら訓練機関を訪問し,訓練についてのリサーチを義務づけることによって自発的選択を促している例などが見られる(内閣府[2005]).

なお,上記に示したような個人補助のほかにも,訓練サービスの供給機関への財政的支援(機関補助)や公的訓練機関による訓練の直接供給も支援方法として考えられる.外部性の大きな訓練内容や訓練対象者,訓練の質が担保されにくい訓練内容,あるいは民間訓練サービスの集積の少ない地域など,条件によっては直接提供等の支援方法が望ましい場合も考えられるが,訓練供給者間の競争を通した訓練サービスの質の向上が見込まれにくく,非効率になりやすいという大きな問題がある.

4.3 個人主導の能力開発への支援――不完全情報の緩和労働者個人の訓練投資が効率的になされるために必要な条件は,自らの負

担で行った訓練の収益を労働者自身が余す所なく獲得できることである.しかしながら,企業に一般的な技能の訓練費用をも負担するインセンティブをもたらす労働市場の不完全性は,逆に労働者にとってはその自主的な訓練意欲を削ぐ要因となる.訓練を通して生産性を高めても,それが労働市場で正しく評価されると確信できないかぎり,労働者がそうした訓練を自らの負担で行おうというインセンティブは必然的に小さくなる.

これを緩和する方策の 1 つは,習得された技能が外部企業にも客観的に評価されるような技能検定や資格,そして自分の就業経験や実績についての

「共通言語」など,職業能力の基準を社会的に樹立することである.訓練を

616

15) これはさらに,高等教育機関をはじめとする職業教育サービスの供給主体の間に,競争を妨げる規制が存在しないことも必要である.しかしたとえば大学などは,いまだに多くの規制に縛られている.

受けたあとの職業能力が正しく市場で報われることがわかっていれば,その期待収益が投資コストより大きい限り労働者は進んで訓練を受けるであろう.資格等の制度化には,訓練中に低い賃金を受け取ることを通して労働者が訓練費用を負担する契約を成立しやすくする効果もある(Acemoglu and

Pischke[1998]).企業内で提供される訓練でも,資格と対応していればその内容は外部から容易に確認できるので,低賃金を支払っておきながら後で訓練を提供しないという企業側のモラルハザードが生じにくいからである.職業能力評価の基準はまた,技能の標準化を通して,仕事につくために必要な技能についての情報を労働者に提供するという役割をも担うことができる.労働市場で正確に伝達される職業能力を培うような一般的技能の訓練であれば,それを優れた労働者の確保や定着に活用することもできる.

ただし実際に有効な制度を樹立することは大変困難である.たとえば公的機関が勝手に資格を打ち立てても,それが企業のニーズにマッチしたものでなければ,あるいは資格取得とそれが示唆する職務能力との関連がわかりやすいものでなければ,労働者にとってそのような資格を取得する動機は生まれない.この点については,関連性のある業務での就業経験や業界団体による研修などが,転職後の生産性を有意に高めるという実証分析の結果が示唆するように(黒澤[2002]),業界内で職業能力基準を確立することが有効な手立てになりうると考えられる.米国では,カリフォルニアのホテル業界や自動車修理業界などにおいて,業界単位で教育訓練を共同で実施し,そうした訓練コースに対応する形でさまざまな技能基準や資格を整備する動きが活発化しているという(Cappelli[1999]).

ただし,企業が一般的な技能への訓練投資の大勢までをも担っていたと考えられるわが国の場合,個人の投資行動を支援する一連の施策,とくにこうした資格化等の動きが企業による訓練投資に与える影響には留意する必要がある.

労働市場における情報機能の整備が進められ,労働市場の不完全性が緩和されてゆくと,そうした不完全性の存在がインセンティブとなって労働者に一般的人的資本投資を行っていた企業の投資意欲は減退する.これは,先の図表 17-8 における右への移動にともなう引き抜き外部性の増加を意味する.たとえば資格制度の導入は,資格に対応する一般的技能の所有権を労働者に

17 職業訓練 617

帰属させることになるから,そうした技能についての外部企業との非対称性が訓練投資を行うインセンティブとなっていた企業の一般技能への投資意欲を減少させてしまう(Katz and Ziderman[1990]).上記のような方向性をもつ政策が結果的に労働者の流動化に拍車をかければ,企業による人的資本への投資は一般的なものも,企業特殊的なものもよりいっそう減少することになってしまう.そしてそのことが流動性をさらに高めると,引き抜きの外部性の拡大と企業による人的資本投資の減少を促し,それが市場の流動化にさらに拍車をかけるという悪循環に陥ってしまうのではないかということが懸念される.

しかしながらこのことは,決して労働者個人への一連の支援の重要性を低下させるものではない.前述したようなわが国の市場をとりまく環境の変化は,すでに労働市場の競争度を高める方向へ働いているのであって,その潮流を無視することはできない.さらに,図表 17-8 は「他の条件一定」のもとで描かれたものであって,資格等の整備が進展しても,実際にすべての企業が一般的人的投資を減らすともかぎらない.

たとえば労働者の習得したスキルについての情報は資格等で伝達できたとしても,やる気や潜在能力についての情報は資格のような形での標準化が困難である.そうした情報についての非対称性があるかぎり,企業は個人のやる気や能力を外部企業よりも正確に把握する(Acemoglu and Pischke[1998]),あるいは能力の高い人材を集める手段(Autor[2000],Cappelli[2002])として一般的人的資本投資を行うインセンティブをもつ16).しかも訓練の成果を出すには,労働者の努力や時間的負担が不可欠であることを考えると,訓練内容を少なくとも部分的に資格化するなどして訓練の収益の一部を労働者に帰属させることが,労働者を訓練に参加させるために必要な条件になる場合もある(Acemoglu and Pischke[2000]).資格制度の発達しているドイツにおいて,なぜほかの欧米諸国に比べても豊富な企業内訓練が企業負担によっ

618

16) これは人材派遣企業が登録社員に一般的な技能の訓練を提供する根拠にもなるという(Autor[2000]).この理論的枠組みによると,派遣企業間の競争が激しいほど,派遣企業は登録社員への訓練を増やすことが予想され,米国のデータでそれが統計的にも確認されている.このことは,職業訓練を通して労働者の能力(の少なくとも一部)を適切に評価し,その情報をもとに質の高い労働者と雇用主とのマッチングを図る人材ビジネスの発展が,一般的人的資本への投資を拡大させるだけでなく,職業能力情報の伝達を促進し,労働市場の適材適所配置の効率性を高めてゆく可能性を示唆しているといえる.

て行われているのかもこれによって説明できる.将来の離転職確率が高まれば,企業外部で認められない技能の習得に労働者の努力を注がせることはいっそう困難になるであろうから,そうした資格化の重要性はいっそう高まるであろう.

また,先にも述べたように,企業特殊的技能と一般的技能が補完的に生産性を高める状況での企業特殊的人的資本への投資やスキル・ミックスの企業特殊性も,企業に一般的技能への訓練を行う動機をもたらす.たとえば従業員の平均的な職業能力が高く,より複雑な作業組織や高度な技術を扱う職場ほど,訓練によって他の職場よりも高い生産性の向上を達成することができるために,企業の負担で訓練が行われやすくなるという17)(Booth and Zoega

[2000]).

5 結び

本稿では,バブル期以降のわが国における能力開発の傾向を記述統計ならびに実証分析に基づきサーベイしたうえで,不完全競争下における人的資本の理論的分析を踏まえながら,わが国の今後の能力開発の在り方,とりわけ能力開発投資への政策的支援の在り方について考察してきた.

労働市場での労働者と企業間の情報伝達機能が未整備な状況では,互いに満足度の高いマッチングが成立しにくく,質の悪い雇用関係が維持され続けるといった非効率が生じやすい.しかしながらそうした市場の不完全性が強いほど,企業による一般的な人的資本への投資意欲は高くなる.しかも雇用の流動性が低いと,企業特殊的人的資本への投資レベルも高くなる反面,引き抜き外部性が減少する.したがってこれまでの日本においては,マッチングの非効率性を相殺して余りある効率性が積極的な人的資本投資によって維持されてきた可能性さえある.

ところがわが国をとりまく経済環境の変化が,これまでの雇用慣行に組み込まれた人的資本投資の在り方にも影響を与えている.とくに,企業主導に

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17) 米国や日本のデータからも,自主管理活動などの作業組織上の工夫が見られる職場ほど Off-JT 形式の訓練がふんだんになされていることが統計的にも確認されている(Lynch and Black[1999],Kurosawa[2000]).

よる人的資本投資の機会が失われつつあるなかで,今後は個人の訓練投資行動を支援する仕組みとして,資金制約や未整備な訓練情報の改善や,労働市場の情報機能の整備などが重要な課題となる.

そうした方向性をもつ制度改革・整備は,労働者自身による人的資本投資へのインセンティブを高めると同時に,これまでの職業能力開発の主流から外れてきた人たち,つまり高齢者や女性の雇用機会の平等化を図るうえでも有効であると思われる.技能・能力情報の伝達が促進されることを通して,労働市場全体での適材適所配置の効率性は高まるであろう.

しかしながら不完全競争下の理論的分析は,個人主導の人的資本投資やマッチングがより効率的に行われるために必要な市場の整備が,必ずしも社会全体で行われる人的資本投資の量を増やすわけではないことを示唆している.とくに,引き抜き外部性の増大にも目を向けなければならない.そうした市場の整備が,社会全体での人的資本投資行動にどのような影響を与えるのかを明らかにするためには,企業ならびに労働者それぞれへの影響を実証的に計測するしかない.今後の能力開発施策は,それらの結果を踏まえながら,とくに個人主導の能力開発への直接的支援やそれをとりまく環境整備と企業内訓練への支援のバランスに留意しながら,慎重に検討されてゆく必要がある.

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