20世紀前半ドイツのホワイトカラー -ジーメンス社従 url...

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Meiji University Title 20�� -�1897-1947�- Author(s) �,Citation �, 168: 99-123 URL http://hdl.handle.net/10291/21021 Rights Issue Date 2020-02-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Page 1: 20世紀前半ドイツのホワイトカラー -ジーメンス社従 URL DOI...駿台史学第168号 99-123頁. 2020年2月 SUNDAI S田GAKU(Sundai Historical Review) No. 168, February

Meiji University

 

Title20世紀前半ドイツのホワイトカラー -ジーメンス社従

業員の回想録(1897-1947年)から-

Author(s) 秋山,千恵

Citation 駿台史學, 168: 99-123

URL http://hdl.handle.net/10291/21021

Rights

Issue Date 2020-02-28

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

Page 2: 20世紀前半ドイツのホワイトカラー -ジーメンス社従 URL DOI...駿台史学第168号 99-123頁. 2020年2月 SUNDAI S田GAKU(Sundai Historical Review) No. 168, February

駿台 史 学 第 168号 99-123頁. 2020年2月SUNDAI S田GAKU(Sundai Historical Review) No. 168, February 2020. pp. 99-123.

【史料紹介】

20惟紀前半ドイツのホワイトカラー

ージーメンス社従業員の回想録 (1897-1947年)から一

秋山千恵

はじめに

ドイツで「職員」(技術・商業職員)と呼ばれるホワイトカラーは,世紀転換期に高度工業

化に伴い.大規模経営を中心として急増した。職員層の研究は,ヴァイマル文化(I)を特徴づけ

るもののひとつである都市大衆文化の担い手あるいは享受者という面と. 19世紀末の職員層

の生成過程およびその職場内地位の展開に焦点が当てられてきた。消費という観点からは,ヴァ

イマル時代の諸調査に基づいた消費傾向や,大衆文化のひとつである映画を対象とする研究が

少なからず職貝層に焦点をあてている叫職員層の生成と発展の問題については.世紀転換期

からの独占資本の集中と企業内再編の進展およびこれに伴う「構想と執行の分離」,並びに経

営側の職貝・労働者に対する人事・労務管理について.企業ごとに詳細な研究がなされている (3)0

本稿は,ジーメンス社のジーメンス文書館の史料群の中にある元職員の回想録から.ー技術

職員の同想を紹介する。この回想録は.ジーメンス社が 1909年 11月に退職した職長に職業生

活をふり返る覚え書きを依頼したことから始まる。ジーメンス社は会社の歴史を元従業員の目

からも顧みようと.退職した職員から会社での「思い出」を依頼した。ジーメンス社が集めた

回想録は.数十年にわたって長短さまざまな各個人の「思い出」や「回想」を集積したもので

ある。この回想録は前述の企業研究でも取り上げられている(4)。ジーメンス社が執筆者を選ん

だことと.会社についての思い出という点で.これらの同想には史料上の制約がある。当然の

ことながらその内容は執筆者自身の仕事内容や職場経験に限られており.会社に批判的なこと

は記されておらず,職場外の生活についてはほとんど触れられていない。この回想録のなかか

ら.ジーメンス社に 50年余勤務 (1897-1947年)し.独学で製図・設計の知識を身につけて上

級技師 Oberingenieurになったヴァルター・バルチュ WalterBartschの回想(5)(執筆は 1948

年4月8日)を紹介したい。バルチュはドイツ帝国時代から第二次世界大戦直後までを追想し

ていることから.ー企業の一従業員が政治経済的な激変と管理主義が進展するなかで. 自分の

職場で何をどのようにみていたのかという情報を得ることができよう。

技術職員についての研究は.世紀転換期以降の工科大学を中心とした技術教育制度の整備.

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秋山千 恵

この資格整備過程と関わる官僚制を基礎とした技術者の専門職としての同権化運動.その運動

の中で萌芽した(ナチ期に通じる)技術的思考の展開を議論してきた。技術職員は,被雇用者

であるが給与形態などから労働者とは異なるという中間層意識を商業職員と共有しつつ,技術

の専門職としてのアイデンテイティを構築してきた。技術職の需要を満たしたのはエ科大学出

身者や中等の技術学校出身者であったが, 20世紀に入って供給過剰となると,技術中等教育

制度の整備問題も加わって,教育=資格の差による利害対立が技術者の中にもたらされること

になった(6)0

ドイツにおける独占資本の形成とともに進む企業内の再編問題については,「構想と執行の

分離」が直線的に進展したわけではなく,業績志向の資本の意図に反する事態をうみだしつつ,

19世紀末には「職長経済」から「技師経済」への移行で職長の職場規制力が弱まり,経営側

の統制の強化過程が始まるとされる (7)。20世紀に入ると機械,電気工学.化学,建築などに

おいて統制強化が進展する。技術職員の仕事内容もまた構想と執行とに分離していくが.これ

は教育資格の差とともに給与とも連動した企業内階層を生み出していく (8)0

バルチュはまさしく経営側の統制強化とともに進む企業内階層化のなかにいた。まずコッカ

や今久保の詳細な研究に依拠してジーメンス社の第一次世界大戦前の組織改編を略述し, ドイ

ツ革命以降世界恐慌までの全体的状況を概略して(9),次にバルチュの回想を紹介する。バルチュ

はその生涯を「見習い期間」「発展の時代」「技師 lngenieur」「終章」に分けて記している。

1. ジーメンス社の発展と組織改編

1.1 第一次世界大戦前までのジーメンス社

ジーメンス社は 1847年に陸軍歩兵中尉ヴェルナー・ジーメンス WernerSiemensと機械工

ヨハン・ゲオルク・ハルスケ JohannGeorg Halskeによって電機工業のジーメンス&ハルス

ケ社(以下 SH) として設立された。 SHは設立後 50年を経て 1897年に株式会社に改組され

るが家族企業的性格を持ち続ける。 1899年にケーブル工場がノンネンダムに移転し,同時

にベルリンに中央技術管理局が新設された。 1900/01年には, SHはシャルロッテンブルクエ

場(ダイナモ工場),照明・動力部,真鍮鋳造工場,白熱電球工場, ヴィーン工場 I, ヴィー

ン工場II, 電気鉄道部,ベルリン工場,閉塞信号機工場,ジーメンス兄弟会社から構成されて

いた。 1903年に SHの強電部門とシュッケルト社が合併して,ジーメンス&シュッケルト有

限会社(以下 SSW)が設立された。 SSWは1927年に株式会社となる。合併で SHは弱電部

門の会社として再編されるとともに, SHとSSWは相互に持ち株会社となった。 SHとSSW

は経営的に強固な統一性を保ち,一体となってコンツェルンの中核をなした(以後両社を総称

してジーメンス社)。 SHとSSWは単独または共同でドイツ国内外の多数の会社に資本参与を

行って親会社となり,ベルリンに本拠を置いて枇界全域におよぶ子会社・孫会社群からなる重

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

層的編成のコンツェルンを形成した。

SSWは次々と工場を新設し, 1913年には,小型品製造工場,大型電機製造作業場, 自動車

工場電気機関車組立ホール,ケーブル工場シャルロッテンブルク工場(ダイナモ工場),

電動機工場,変圧器工場,非鉄金属鋳物工場,ニュルンベルク工場,ノンネンダム発電所,ノ

イハウスガラス工場を有した。 SHは,ヴェルナー工場,閉塞信号機工場,白熱電球工場,ノ

ンネンダム建設本部からなっていた。

SHは1890年代に主力である強電のシャルロッテンブルク工場と弱電のベルリン工場を含

めて,独立採算の事業部制をとった。この 2 つの工場は,それぞれ管理・経営•生産・販売の

単位である事業部となった。 SHはこの事業部間競争を軸に電機工業の製品市場における資本

間低価格競争を展開し, 1900/01年には恐慌を経験する。 1890年以降シャルロッテンブルクエ

場から電気鉄道部が営業部として分離し,さらに 1896/7年には同じくシャルロッテンブルク

工場からさらにひとつの営業部が事業部として分離した。同時に分離後のシャルロッテンブル

ク工場はダイナモ工場と改称され,分離した事業部は 1899年にベルリンに移転し, 1900年に

照明・動力部(以下 Afbuk) と改称された。営業部門が独立採算の事業部となることは,技

術部門の中核である設計・計算部門が製造部門・工場と切り離され,その利害が工場利害に優

位することを意味した。 SSWは, 1913年に事業部制の組織原理を貰きつつ経営組織を体系化

した。内部組織を製造・技術営業財務に 3区分し,それぞれを工場管理本部 (ZW),営

業管理本部 (ZV) ,財務管理本部 (ZF) が管理・調整した。工場管理本部は技術—製造調整機

能を受け継ぎ,ベルリンとニュルンベルクの製造所と「製造部門」を管理・調整して 15の事

務所 (ZWlから ZW15まで)に統合した。さらに本社管理課を備えた総括管理部がこれら 3

組織を統轄した。この組織改革により SSWは中央集権化された管理体制を確立した。

この経営規模の拡大は,生産工程に導入された半流れ作業に応じた職場作業組織への変革と

並行して行われた。この変革は,生産現場における労働力構成を手工業職人的ガ能熟練エから,

速成訓練工や不熟練エヘと移動させた。このことは, 1880年代半ばまでの現場出身の職長と

手工業職人的な万能熟練エとが担う自律的・分散管理的ないわゆる「職長経済」的秩序を解体

させることになった。また,「職長経済」は企業の拡張と従業員数の増大による新たな管理問

題には対応しきれなくなっていたため, SHは工場管理機構を改革し,直接生産管理と賃労働

を把握するための経営技師制度を導入して,上級技師がそれまで職長が有していた統制機能を

吸収して,職長の作業場での機能を大幅に削減した。同時に連続労働時間制を導入することで

労働時間の短縮と濃密化(昼休みを 30分に短縮して作業中断による労働能率低下を減らす)

を図り,出来高賃金制を導入して労働能率を増進させる政策をとった。こういった方法で現場

労働者の自律性をも解体することで,「職長経済」から「技師経済」への移行をすすめ,資本

主導の工場内労使関係を再編した。この工場内労使関係の再編に際して労働者側からの抵抗に

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秋山千恵

対応するために, SHはすでに 1872年に労働者・職員年金,寡婦・遺児金庫を設置し,労働

者と職員の代表を含む管理委員会を併設した。この年金金庫は勤続年数の多い労働者・職員を

優遇する措置でもあった(10)。

惟紀転換期に一方で労働能率の推進が厳密に行われ,さらに経営組織の諸改革がすすめられ

ると,他方では 1900年に入って,賃上げ・休暇・超過労働時間の制限・割増支払の要求や,

職長の恣意的な出来高賃率引き下げに対する抗議から,労働争議が頻発する (11)。会社側は常

設の労働者委員会制度を全工場に導入し,労資間の対立の緩和をはかった。この労働者委員会

の選挙は普通・直接・秘密投票であったため, 1903年以降社会民主党あるいはドイツ金属労

働者組合の委員が多数を占めるようになった。ジーメンス社は, 1904年に, SHとSSW共通

の経営委員会を設置して経営・労働問題を全社的に統一するとともに,ベルリン金属工業家連

盟に加盟し,扉用者側が統一して労働問題を解決する方策をとった。

1905年に SHヴェルナー工場労働者委員会の 15%の賃上げ要求が拒否されると同時にね

じ切り旋盤工のストライキ,およびAEGケーブル工場倉庫労働者のストライキが発生して,

大争議となった。これはベルリン金属工業家連盟側の勝利に終わり,経営側の統制が強化され

た。ジーメンス社は 1906年に「黄色」会社組合を設置し,組合員数は翌年 7,600人(全労働

者の 46%),1913年に全労働者の 82%の 24,727人を擁するようになった。 1906年には労働者

委員会の選挙方法を変更して, 1910年以降はこの労働者委員会委員の多数を黄色組合員が占

めるようにした。とはいえ,その後も労働争議は頻発し,その労使関係は不安定なまま第一次

世界大戦にいたることになる (12)0

ジーメンス社の全従業員数は, 1890年労働者2,540人,職員 360人, 1895年労働者3,470人,

職員 685人, 1912年労働者44,378人 (SH15,058人, SSW29,320人),職貝 12,502人 (SH2,909

人, SSW9,593人)で, 20世紀に入って急増する。労働者対職員の割合は,およそ 7対 l,5

対L3.5対 lと変化した。世紀転換期の 20年間で,労働者数は 16倍,職員数は34倍となった。

ジーメンス社の全職貝の 4分の 3がSSWで働いていた(13)0

管理組織の発展による「構想と執行の分離」過程は職員の職場にもおよんだ。職員は正式な

職員 (Beamte),試用雁員(Dia.tare),週賃金雇員 (Wochenlohner,下級職員 Unterbeamte)

とに 3区分された。この職員層内の分化は,構想への参加者と執行者との分離が進んだことを

示している。とくにそれは,単純な定型作業に従事する職員の出現に現れている。週賃金雇員

の職務は,定型化された計算,製図,簡単な記録,資材管理,事務所雑役,守衛などであり,

自律的な仕事内容を持たない単純労働職員であった。試用雇貝は日当で, どの職員もはじめは

この試用扉員として雇用された。ある程度の期間を経て勤務に支障がなければ,職員に昇格し

た(14)。試用扉員には休暇はなく,年金金庫加入も認められていなかった。正規職員もジーメ

ンス社の用語で言う上級職員 (Oberbeamte) とその他の職員とに区分される。上級職貝も,

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

中級管理職に相当する利益参加有資格者 (Beteiligte) と上級管理職に相当する利益配当参加

者 (Tantiemisten) とがあり,利益配当参加者は, 1890年代半ば以降の人的管理組織の拡大

と上下の分業の進展によってつくられた (IS)。1912年SH職貝 2,909人うち,上級職員は83人(全

体の 2.85%),その他の職員は 2,826人 (97%以上)だった。管理職職員は,高額の固定給の他

にそれを大きく上回る利益配当を受け,その平均所得は 15,910マルクだった。その他の職員

は月々の給与のみ,あるいは 1896年以降は 13月目の給与として期末賞与を得た。職員の給与

規定は 1905年になってようやく改訂された。 1909年12月にジーメンスの職貝は請願書を提

出し, SHとSSWの経営陣に給与の増大を申請した。 1912年以降会社はいわゆる物価手当

15-25マルクを家族状況や子供の数に応じて支払った。非管理職職員 1,281人,試用扇員 892人,

週賃金雇員 650人の平均給与は,それぞれ3,043マルク, 2,010マルク, 1,720マルクだった(16)0

ジーメンス社の性格上,技術職関連の職員数が商事実務職員数を上回っていた。 1910年の

外国と出張所を除いた全社の職員数(職員,試用雇員+週賃金雇貝) 3,708人 (1405人, 1,303

人)の内訳は,工科大学教育を受けた技術職員 743人 (463人, 280人),中等学校・技術専門

学校教育を受けた技術職員 1,295人 (751人, 544人),職長336人 (271人, 65人),商事実

務職員 911人 (562人, 349人),不熟練職員 423人 (358人, 65人)である。技術職員の占め

る割合は,職長を含めると 64%に達した。この数値の背景には, 1890年代の工科大学の急速

な拡大・整備とそれによる大卒者の急増がある。教育制度からみて,技術職員は, 1年間の企

業実習を終えた工科大学卒業者,中等教育修了資格 (1年志願兵資格)取得後2年間の企業実

務を経験し,中等技術学校で機械工学・電気工学などの専門教育を受けた者,民衆学校卒業後

に企業内で3年間見習いとなりその後夜間の専門学校あるいは独学で技術を身につけた者の 3

グループに分けられる (17)。ジーメンス社では,技術高等教育を受けた技術職員は 20%と高い

割合を占めていた。

上記の内訳に従って各職員(職員,試用雇員+週賃金雇員)の平均年齢と平均給与を比べる

と,工科大学卒業の技術職員 33歳, 3,770マルク, 28歳, 2,431マルク,非大卒技術職員 34歳,

2,795マルク, 27歳 2,106マルク,職長43歳 3,016マルク, 39歳, 2,483マルク,商事実務

職員 35歳, 2,808マルク, 28歳, 1,963マルク,不熟練職貝 35歳, 2,496マルク, 29歳, 1,820

マルクである (18)。職貝は採用の時に,教育資格,需要と供給,実務経験,職種,そして年齢・

家族状況から給与が決定され,勤続累進的な給与体系の中に位置づけられた。

職員に対する時間的統制は連続労働時間制による勤務時間の緊密化という形で現れる。 1914

年までに事務所の勤務時間は,午前8時から午後4時までの 1日7.5時間,職員会館施設の食

堂での 30分の昼休み,土曜日は午前8時から午後1時まで,という週42.5時間に体系化された。

職員の勤務時間は厳密に監視されるようになり,第一次世界大戦直前には午前 7時55分から

午後4時10分までとされたが,このような厳密さは1870年の職員には考えられないことであっ

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秋山千 恵

た。さらに 1890年代から職員の行動が徐々に規制されていく。休暇規定が厳しくなり,出張

時には各担当部局長への申告が義務化され, 1899年には出張旅費が等級づけされて全般的に

規定された。様々な禁則(事務所でビールを飲むこと,アルコールランプでコーヒー,ミルク,

ココアを人れ,あるいは持参のバター付きパンを食べること,電話を私用で使うこと,メッセ

ンジャーボーイに私用を頼むことなど)が出された。コーヒーは各事務所で沸かされ, l杯目

は10プフェニヒ, 2杯目以降は 5プフェニヒを支払わねばならなかった。上級職員とその他の

職員は目に見える形で差異化された。 1888年のベルリン工場の職員会館では,全職員が区別

なく, 25プフェニヒで暖かい朝食を立ったままとっていた。 1900年ごろには職員の食堂には

上級職員専用のテーブルがあった。一方,他のすべての職員は入り乱れて座りそそくさと食事

を済ませねばならなかった (19)。1906年の SHの就業規則の補足ではすべての工場部局に立ち

入ることができるのは上級の職員のみとされた。職員は職場に入るときには証明書を提示しな

ければならなくなった。これは職員が大企業では匿名化したことを示している (20)。技術職員

の場合には,契約時にはあらゆる種類の発明・改良に対する権利を放棄する旨を明言した契約

書にサインしなければならなかった(21)。これは,職員による発明とその特許の権利を会社の

権利に属するものとすることで,職員の自律性の基盤を取り除き,経営主導の特許・管理体制

のもとに組み込んで,管理の集中によって経営側の職員に対する支配統制権を確立することを

意味した(22)。

1.2 第一次世界大戦後のジーメンス社

第一次世界大戦の敗戦と革命のなかで, ドイツ国内では労働争議が頻発し,ベルリン労働者

のストライキにジーメンス社の労働者も多数参加した。 1918年 11月15B. 社会革命への進

展を阻止してドイツ資本主義を再編するために資本家側団体と労働組合との間で中央労働共同

体協定が締結され,この協定にジーメンス社も加わった(23)。

ヴェルサイユ条約によって, ドイツは領土の割譲により重工業に関連する原料資源と工場設

備を大きく失った。この条約はさらに国際通尚関係にも介入し, ドイツは 1925年 1月10Bま

で連合諸国に最恵国待遇の供与を義務づけられ, ドイツの関税自主権は奪われた(24)。ジーメ

ンス社はイギリスとロシアにおける在外資産を喪失し,さらにドイツ電機工業の世界市場にお

ける地位は敗戦で低下した。ジーメンス社は,社会化問題,賠償問題,在外資産の喪失補償問

題など,会社再建に重大な影響を持つ経済政策および社会政策の諸問題に対処しなければなら

ず,このふたつの問題を扱う経済政策部と社会政策部が独立部局となった。経済政策部は SH

とSSWの共通事項を扱う他の部局とともに,ジーメンス社全機構の中の財務本部ついで

SSW/SH合同本部の管轄下に入る。この部局は経済政策活動の他に,ジーメンス社の窓口と

して外部諸団体や政府諸機関との仲介,広報,資料蒐集,情報活動も行うようになる。 1913

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

年の機構改革で生まれた SSWの3本部制は基本的に維持されるが, 1930年代に営業本部から

産業部 AI. 鉄道部 ABなどの現業部門 (AZ~SKG)が分離されて.これらは総合営業管理

本部 ZVの下におかれた(25)。

1919年にカール・フリードリヒ・ジーメンス KarlFriedrich SiemensがSHとSSWの監査

役会会長を兼務 (1941年まで)し,ジーメンスシュタットに高層の管理棟を建設し,コンツェ

ルンの統一的意思決定機構の強化を図った。ロシアの資産は喪失したが,まもなく東方技術事

務所を設置して革命ロシアでの業務の回復を図り,イギリスや大陸諸国に子会社または資本参

与の形態で多数の営業拠点を設置した。電機工業は発電所や市街電車の建設などを通じて自ら

市場を創出しつつ発展してきたが, X線など電機医療機器,鉄道・信号安全装置,電気通信.

ラジオで一層展開し.さらに電気化学工業に新しく進出した(26)。このドイツの電機工業の戦

後復興はアメリカ資本に依存した。ジーメンス社の資金調達は社債とくに外債であった。 SH.

SSW両社の社債の約 75%はアメリカ債で,金融機関からの借入れは少な <,1927年度まで資

金状況はきわめて良好だった。 1928年以降国際起債市場が逼迫して資金調達が困難になると,

これが国際競争力を制約した四)。

相対的安定期の合理化運動の担い手はジーメンス指導下の全国経済性本部であった。この合

理化運動はインフレーション後のドイツ独占資本の復活・強化•発展過程における一連の技術

的・金融的・経済的組織の徹底的な再編成運動であり合理化の名のもとで企業集中と労働の

強化が推進された(28)。ジーメンス社で「合理化」を主導したのは, SSW取締役会会長兼工場

管理本部長のカール・ケトゲン KarlKottgenだった(29)。彼は技術発展を重視し,製品の規格

化を進めて生産の合理化を図った。ケトゲンを含めてジーメンス社の経営幹部の多くを技術者

が占めており.技術重視の営業政策がとられた。ケトゲンは.アメリカ産業の成功の要因を

原料基盤の豊富さよりも高賃金・低価格の原則による市場の拡大ととらえた。アメリカ産業に

おける高賃金・高生産性・低価格という原則が,賃金引下げによる生産コスト低減を原則とす

るヨーロッパでの支配的見解よりも優れていると考えていた。ケトゲンは,価格の引き下げに

よる販売の拡大と純利益の増大,販売組織の構築と販売の迅速化,労働節約機械による生産能

カの拡大,労働過程の合理化,大企業間の特許の交換,生産の規格化などにより,労働生産性

が上昇するとみた。そこで彼は 1924年にまず家庭電器生産部門に「流れ作業」を導入して,

運搬コストを低減させて労働過程の合理化を進め,企業間で特許使用協定を締結し,製品の規

格化をすすめた。さらに上限のない出来高賃金制を採用して,労働意欲の増大と生産過程の改

良促進をはかった(30)。一方 1924年度に注文が減少したとき一定数の年長職員を解雇した(31)。

世界恐慌の影響が現れるのは, SSWは1929年度から, SHは1930年度からである。国内市

場が収縮して受注額が大きく減少し, 1928年度をそれぞれ l()()とすると, SSWは1931年度

に33.9,SHは1932年度に 53.6となった。売上高は受注とほぼ同一の傾向を示した(表参照)。

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秋山千 恵

表 1928年度を基準年とした SH(上)と SSW(下)の受注高・売上高・従業員数の推移(%)

SH 1928年度受注高300億マルク売上高318億マルク 労働者25,580人職員 10,840人

受注高① 売上高② 労働者数③ ②/③ 職員数④ 総従業員数⑥ ②/⑤

1927 82.6 97.3 84.9 87.5 94.4 87.5

1928 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

1929 100.0 101.6 69.9 145 91.2 76.2 76.2

1930 94.9 94.6 65.4 145 85.6 71.6 71.6

1931 54.2 66.2 49.2 135 66.9 54.5 54.5

1932 53.6 50.8 52.2 97 63.7 55.6 55.6

1933 86.8 65.6

SSW 1928年度受注高 580億マルク売上高 571億マルク 労働者38,900人職員 16,830人

受注高① 売上高② 労働者数③ ②/③ 職員数④ 総従業員数⑥ ②/⑤

1927 95.8 93.3 110.0 84.8 97.4 106.2 87.9

1928 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

1929 75.9 93.8 78.3 120 90.1 81.9 115

1930 55.8 65.6 61.6 107 76.9 66.2 99

1931 33.9 42.0 47.8 88 60.6 51.7 81

1932 34.9 35.2 50.0 70 57.0 52.1 68

1933 48.3 44.2

出典: P.Czada, Die Berliner Elektroindustrie in der Weimarer Zeit, Berlin 1969, S.192.および晴見濤子「世界恐慌期におけるジーメンス社の営業状況」「宮城学院女子大学研究論文集』 66号 (1987). 2頁より作成。

SSWでは.電力消費の後退による発電関係の需要が停滞し.鉄道部門の電化の遅れや地下・

高架鉄道建設の遅れに伴って需要が減退した。SHでは.郵政省関係の電気通信需要が落ち込み.

公共的投資需要が縮小し,大口受注の減少とそれに伴う固定経費・営業経費の増大が.生産コ

スト削減への圧力を加重した。 1931年度にはジーメンス社の輸出業務も後退する。このよう

な輸出不振.製品価格の低落や受注の停滞によって.両社はコスト削減の方策を検討した。

1926年度以降の報奨金拡充などで労使協調体制をうたっていたが. 1929年度には.縮小した

事業水準に見合うよう労働者の削減を行い. 1933年2月まで大量解扉が続いた。解雇の対象

はまず若年労働者で,高年齢者については年金受給者への移行を早めた。また.租税および社

会保障経費のために国際競争力が減殺されるとして.給与経費削減の圧力を強めた。解雇は管

理職を含む古参の職員層にも及び.同時に労働時間も短縮された。ただし.技術優位を確保し

続けて.研究開発経費の削減は最後の手段とされた。この経費は 1931年度に有望な見通しの

あるものだけに限定された。株式発行や株式交換はジーメンス社の経営権に対する侵害を招く

として.巨額の資金を調達するために社債発行を選び. ドル社債を発行した。この社債発行に

より資本力と営業資金を強化した。 1931年度以降参与企業の業績悪化による無配当・欠損を

補填するため. SSWは特別積立金の大半を取り崩した。 1931-32年は無配当になった。 1932

年秋から国内市場は同復に向かう (32)。従業員数も以後第二次世界大戦末まで増大する。

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2.バルチュの回想から (33)

2.1 見習い期間

ヴァルター・バルチュ (1883年5月19日生)は 1897年に民衆学校を出ると SHで製図員

見習いとなる。 1897年 10月12日の SHの創立 50年祭に SHの全職員・労働者が参列し. SH

で働いていた父親も参加した。バルチュは 6人家族で.民衆学校を出るとすぐに見習いとなら

ねばならなかった。当時のベルリンはまだ枇界都市ではなく.「全体的な電気照明はまだなかっ

た。それどころか建物全体がまだガス照明ですらなかった。 1.2の路面電車以外は馬車鉄道

であった。自動車はなかった。ラジオ・映画もなかった。人は確かに生き生きと仕事に励んで

いたが.忙しさと慌ただしさは後になってからだった。」

1897年秋父親はバルチュがSH社の機械工の作業場での見習いとなれるよう掛け合ったが.

あと 2年待たねばならないといわれる。 SHの見習いや使Tの斡旋をしていたハッセ Hasseか

ら製図員見習いの職を勧められ.父もバルチュ自身も喜んで受ける (34)。1897年 11月3日にバ

ルチュは「まだ全く定かには輪郭の描けない職業へ重々しく歩み出した。」彼は.「残念なこと

に」SH本社の建物ではなく.マルヒシュトラーセとザルツウーファの角の建物の 3階にある「送

電課 Kraftiibertragungs-Biiro」⑮)に配属された。自分用の製図机はなく,同年齢の 2, 3人と

交替でいくつかの工程の仕事や電話交換室での仕事をさせられた。彼ははじめは失望したが.

他の「命令」を受ける必要がないこのような仕事の合間に,時間を見つけては製図室に入って

製図員の仕事を見た。バルチュは送電課で働きつつ.平日の夕方と日曜日の 9時から 13時ま

で補習学校でドイツ語・英語・数学.そして製図を習った。そのうちに製図員の目にとまり,

未整理の製図の記録を託される。送電課の若い課長がケトゲンで,当時からあごひげを生やし

前屈みの姿勢であった。大部屋のひとつに技師 Ingeniuerたちがいた。

1898年春に本社管理棟が新設され.送電課は照明・動力部 Afbukに編入されて.フランク

リンシュトラーセに移った。送電課はいくつかに分かれ (KBlから 6一筆者).バルチュはそ

のうちのひとつ KB2に配属される。そこで初めて自分の製図机(架台を 2つ並べた上に製図

板をおいたもの)を持つ。数か月後に KB3に配置換えされ.ここで正真正銘の 2mの大きさ

の製図机を得「私の本来の夢はこれで満たされた」と喜んだ。

管理棟は新築であったがシャルロッテンブルク工場には鉄道本線へのレールの接続がなく.

完成した発電機を馬でひいた平底車で運んだがそばの運河にかかる橋が木製でこの発電機の

重量に耐えなかったので.シャルロッテンブルク貨物駅には.モアビートを通って迂回しなけ

ればならないという短所があった。削岩機課GBに当時技術の仕事をする女性がいた。バルチュ

はこの女性が喫煙するのに驚く。バルチュは圧延機工場の配置計画にかかわり.ここに 1901

年に世界初の圧延電動機が設備された。工場構内の赤煉瓦の建物の事務所には事務所宛の手紙

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や費用の見積もりの苑名を能書法で作成する数人の年老いた人々がいた。バルチュはその達箪

に驚嘆したものの,このような仕事には見通しがないとみた。

「消費組合」は古い建物の地階にあり,そこではシュールタイスのビール 1瓶が8プフェニヒ,

暖かい牛乳が6プフェニヒ,たっぷりの量のハムや直腸詰めソーセージがのっている厚くバ

ターを塗ったシュリッペが 10プフェニヒだった。ビール 1瓶はベルリンでは 10プフェニヒな

ので,ここの食事は安く,それゆえ収入の乏しいバルチュもここをしばしば利用した。

このころは,まだ昼休みあるいは仕事が許すときには自分の職場を抜けて工場を散策するこ

とができた。そこにはみるべき旋盤や工作台,削岩機械などが多くあった。サイレンによって

時間が区切られていた。工場では始業サイレンがモアビートまで聞こえるほど鳴り響き,朝きっ

かり 7時に電動装置が動き出した。 9時の朝食時間と 12時の昼休み,工場の終業時にサイレ

ンが鳴った。昼休みは午後 2時までだった。事務所の就業時間は工場とは異なり,朝の 8時

45分から 4時半までだった。勤務時間は 30分の昼食時間を入れると 1B 7時間 45分あるい

は週約 46時間だった。 30分の昼食時間はしばしば長くなった。 KB3の技師でベルリン出身の

ジーファース Sieversという若者がある日の午前に同僚の机に半分腰掛けたまま朝食を食べて

いた。そこヘフロックコートを着たややまるまるとした背の低い男性が入ってきて,事務所の

机で食事をしている彼を見て驚いた。「彼はあっけにとられ,鋭くジーファースを見て,彼に

すべきことがないのかと尋ねた。「ありますよ』とジーファースは言った,『朝食を食べてい

ます。』」このフロックコートを着た人物が「私はベルリーナー Berlinerだ!」というと,ジ一

ファースもすぐに答えて「私もです!」彼は Afbukの部長の Dr.ベルリーナーだった。この

問題はそれ以上大きくはならなかった。

バルチュは 1901年に見習いを終えて製図貝になった。同年シャルロッテンブルク工場の管

理棟がアスカーニッシャープラッツに新たに建設され Afbukも移転する。送電課KB3の 12

名の人員のなかにオランダ出身のフィツァー Huizer氏がいた。彼は社会民主党の機関紙『前

進 Vorwarts』の「こちこちの読者」で「この時代そしてこの環境においては全く人目をひいた。」

バルチュは緊急の仕事で人手不足のときに何度か KB5に「貸し出され」た。運河の船曳を

電動で行う仕事を請け負うために,内務省に提出するための製図の仕事を手伝った。見積書と

製図,必要書類を持った上司が辻馬車に飛び乗り時間ぎりぎりで内務省に提出し,ジーメンス

社は他社との競争に勝ち,この仕事を受注できた。ケトゲンはほっと息をついた。このような

緊急の仕事のときには夜 8時あるいは 9時まで製図台に座っていたし,休日出勤もあった。こ

の分の報酬は支払われた。バルチュは送電課の指導的な人々とくにケトゲンから大きな影響を

受けた。ある日ケトゲンから記録簿を手渡された。そこには三相交流発電機がわずか 8本から

10本の線で約 3cmの大きさで描かれていた。これをみてバルチュは自分の仕事をおぽつかな

く思い始めた。ケトゲンは「際だって上品」であり,またジーメンス社の名声を高めた強電部

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門について「広い視野と計画能力」を持ち,「生まれながらの設計者」だった。ケトゲンの存

在から大きな影響を受けて,バルチュは不屈の努力をした。

小括

1890年代から 1903年にかけて,シャルロッテンブルク工場の諸企画部門が再度改編される

がそれとともに組織的にも拡大する。バルチュが属した Afbukは, 1896/7年にシャルロッ

テンブルク工場から事業部として分離した営業部が 1900年に改称した部門であり, 1903年に

は18の部課を持ち,総職員数381人(職員 185人,試用扉員 129人,週賃金雇員 67人)を擁

した。送電課は総職員 61人(職員 22人,試用雇員 29人,週賃金雇貝 10人)であった (36)0

おそらくバルチュは 1898年に送電課が移転したときには見習い期間中で,見習い期間を経て

1901年に週賃金雇員として製図貝になったと思われる。

他の職員も回想で言及しているように,この Afbukの各課の代表者たちは,その理解カ・

能力ゆえに「アフブーカー」としてシャルロッテンブルク工場では有名であった(37)。このこ

とは送電課の上司であるケトゲンの人柄と能力に対するバルチュの称賛からもうかがえる。

Afbukの組織は大きいが,送電課では技師たちと職員の序列で下位にある製図貝とが日頃接

する機会は少なくなかったようである。

管理棟が新設されたとはいえ, 20世紀初頭にはまだ電化が進んでいたわけではなく,建物

などの諸設備は整備進行中で,社内の運送はすべてが不便であったこと,文書の宛名は能書法

で書かれていたこと,すでに女性の技術職員がいたことがわかる。手書きの書き手が高齢化し

ていることから,この仕事はまもなくなくなることが予想される。工場設備が整備されていく

とともに,職員の就業規則が定められるなど,労働者のみならず職貝への管理が強化されてい

くなかで,事務所の机に腰掛けての朝食や昼食時間の延長などにみられるように職員は必ずし

もその規則を守っていないこと, Afbukの部長も厳しく対応しなかったことが書かれている。

職員たちの統制強化に対する個人的な抵抗とみなすことができるかもしれない。また, この時

期は自由に工場や事務所を見て回ることができたという記述から,その後他の職場への出入り

禁止など就業規則が徐々に細かく厳しくなることがわかる。

オランダ出身の同僚に対する描写では,ジーメンス社内に社会民主党員がいることが珍しい

ことがうかがえる。あるいは社会民主主義者であることを公然と表明することが難しい雰囲気

があるのか。ジーメンス社は,職員がButiBに所属することに関しては厳しく監視していた (38)。

2.2 発展の時代

1903年に SHの強電部門とシュッケルト社とが合併して SSWとなると,ニュルンベルクか

ら技師たちがきて Afbukの人員は一時2倍になるが,すぐに元に戻り KB3は「均質」になった。

バルチュは南ドイツの人々が各技術事務所に配属されたのか,ニュルンベルクに戻ったのかを

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知らない。バルチュは 20歳になり, KB3で朝から夕方まで設計図と配線図の製図をした。

1902年に父親が病気のために 17年勤めた SHを退職し年金生活に入ったため,経済的に両親

の生活を支えねばならず,夜学のある工業専門学校に行くための資金を調達できなかったので,

電気工学の知識を独学で得ようと努めた。バルチュは電気工学の基本的文献(『電気工学の物

理学的基礎』『直流ー技術」『交流ー技術』)を読み,理解できないところは同じ課の技師たちに

質問した。また日頃から技師たちが理論的な問題を議論し,その理論を目の前の紙面で実際に

応用するのをみながら,関心を高めていった。このころには簡単な指示だけで,複雑な配線図

を描くことができるようになった。民衆学校の教材は「実際に人生を戦い抜くには十分であっ

たが,次の次元に進むには不十分」であった。 3年間補習学校に通ってこの次元を自分のもの

とした。こうして技術を身につけるのに多くの時間を費やしたが,いつか技師として働くこと

ができるに違いないと考えるようになった。その後関心は配線図の製図と設計を越えて技師の

仕事そのものに向いた。バルチュは毎H技師たちの計算尺の扱い方やどのように図面化するの

かをみたり,工場とのやりとりを聞いたりした。そして数マルクで厚紙製の計算尺を購入した。

記録グラフの分析に必要な応用計算を学び.モーター面積計の記録線条を有効活用して反転ー

圧延モーターの仕事をこなした。この時期に機械工学・電気工学の基礎を身につけた。

KB3には大学卒だけではなく,小規模の工業専門学校を卒業した技師もいた。当時このよ

うな技師たちは,社会的に認められると,基礎知識の有無は問われずに対等の立場になった。

彼らは夕方の飲み会やボーリングやクリスマスパーティーを定期的に仲間内で開いていた。バ

ルチュは職場ではこれらの人々からほぼ同僚として扱われ敬意を受けていたにもかかわらず,

職場外ではこれらの社交的催しに招待されたことはなかったので「ときどきどんな気持ちでい

たかは想像してもらえるだろう」と記している。バルチュは,自分には意思の疎通が可能な同

じレベルの教育水準が不足していること,大多数の技師たちは 20歳代から 30歳代の初めで,

バルチュは 20代の初めであることにその理由があると考えている。このような状況で,職場

の同僚たちは確かによい技師であったが自分の人間としての発展を彼らから期待してはいな

かった。

続く数年間,バルチュは,縮尺200分の 1で圧延機の駆動装置と生産数値が定められている

何百という「規定の図面」を書き上げた。この「規定の図面」は圧延領域における後の知識の

基本材料になった。圧延工場が静止状態に陥ると製錬所が経済的な損失を受けることになり,

送電課の労働のテンポ,納入時期・計画策定にも影響を及ぼした。アスカーニッシャープラッ

ツとシャルロッテンブルク工場との連絡は電話であったが,回線が少なくつながりにくかった

ので,緊急の問題がありかつ電話で処理できない場合には,工場へ行かなければならなかった。

その場合,ポツダム広場からクニーまでは高架鉄道と地下鉄が,クニーからフランクリンシュ

トラーセの工場のすぐ前の停留所まで路面電車が利用された。ところが後には会社に請求でき

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るのは高架鉄道の運賃だけとなった。それゆえクニーから工場まで歩かなければならず,シャ

ルロッテンプルク工場にはとくに天気の良い日に行くことになったが,これははるかに時間が

かかった。

バルチュは 1908年に結婚するが.給与だけでは生活は苦しく,夜中まで製図のアルバイト

をした。この製図のアルバイトによる副収入はかなりの額になり.彼は.本を買い.講演など

を聴きに行き,毎日十分に食べていくことができた。結婚後の 1, 2年は「職場では何も飛躍

することはできず」数年間「規定の図面」を製図し続けた。

1910年に仕事の領域が増えてからチャンスがめぐってくる。それまでは圧延回路の駆動装

置を扱っていたが.圧延ロールの穴型設計図の測定の仕事も課にまわってきた。しかしそのた

めの技師がすぐには配属されなかったので.バルチュも本来は技師の仕事であるこの測定の仕

事をすることになった。同年にケトゲンがロンドンのジーメンス兄弟会社の社長として栄転す

ることになり.その送別会が催されたが.これにバルチュも招待された(39)。この招待によって.

バルチュは自分がある程度「騎士の位を授けられた」と感じた。さらにまた. 1912年に送電

課のクリスマスパーティに招待された。そこで.課長から技術者 Technikerとしての職務に

つくことが伝えられた。つまりバルチュは.仕事内容は圧倒的に製図が多くても.もはや製図

員ではなくなった。しかし.この任命は文書で通達されなかった。

小括

1903年にバルチュの職場は SSWに属することになった。合併によって一時的にニュルンベ

ルクから技師たちがくるが.その後彼らがどこに配属されたのか不明ということから.職員は

職場異動についての詳しい情報を共有していなかったらしい。

送電課所属の技師たちは大卒者も非大卒者も.共に議論し.同じ仕事内容を分け持っていた

こと.また.会社内の地位が同じであれば.学歴に関係なく対等の立場であったことがわかる。

技師 Ingenieurはジーメンス社では大卒者および中等技術学校出身者の両方に区別なく.ある

いはジーメンス社での職名として使用されている (40)。ただし.製図員はあくまでも製図員(下

級職員)であって. Techniker技術者とは認められていなかった。職場ではバルチュを「対等」

の同僚と認めていても.技師たちは彼を私的な付き合いに誘わなかった。技術職員の職場内階

層では下層に位置する「執行」を担う民衆学校出身の単なる製図員とはプライベートな関係を

もつことはなかったようである。このことでバルチュの気持ちが傷ついていたことは想像でき

る。バルチュと比較して.大学卒のムンダーの場合には. 1907年 1月1日にシャルロッテン

ブルク工場の計算課に配属されたその日の夜に同僚たちに「ベルリンの秘儀」へと誘われて

いる (41)。バルチュ自身は.年齢差と教育水準にその理由を見いだしている。 1910年のケトゲ

ンの送別会と 1912年のクリスマスパーティーに呼ばれたことで.彼は自分が公私ともに技師

たちに認められたと感じることができた。

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「規格化」が進んでいる様子は製図員の仕事に現れている。「規定の図面」の製図は細分化さ

れた単純労働のひとつになった。逆にバルチュは勉学への意欲をもってこの「規格化」を自分

の製図の技術を高めることと,圧延領域の知識を獲得することに役立てた。バルチュが聴講し

た技術についての講演が,会社内の講演か協会・学会の講演かは不明である (42)。1888年に SH

のベルリン工場を経てシャルロッテンプルク工場の設計課に入社したミュンヘン工科大学卒の

ゲルラハは,電気工学協会およびドイツ技師協会員であったが(43),バルチュは学歴と職場内

の地位からこれらの団体に所属することはできなかった。

ジーメンス社のコスト削減の試みは職場間の移動の交通費という細部にまでわたっている。

しかしここでは会社側の諸経費節減がかえって仕事に支障をきたしていることが示されてい

る。経費の削減は従業員の現場に矛盾を発生させている。また,各部課に職務・給与内容の裁

量権があったということが、文書化されない口頭のみの昇進という給与や昇進に関わる記述か

らわかる。個人の業績と能力に応じて給与が決められたということは,反面,これはその部課

長がある意味で恣意的に決定する可能性があるということでもあろう。

労働者であった父親が年金生活に入ると金銭的に余裕がなくなるということから,ジーメン

ス社の一般の労働者の年金が少額であったことがうかがわれる。バルチュは結婚後,製図のア

ルバイトで生計をまかなったが,このような副職は黙認されていたらしい。非大卒技術職員の

平均収入は 27歳で 2,106マルク,不熟練職員のそれは, 29歳で 1,820マルク,週賃金雇員は 1,720

マルクということから類推すると,バルチュの給与はおおまかにおよそ 1,700マルク内外であ

ろう。 ButiBは大ベルリンの生活に必要な最低年収を 1,800マルク, とくにシャルロッテンブ

ルクでは最低月収を 181マルクと算出している (44)0

2.3 技師 lngenieur

1913年 12月1日に 3回目の事務所移転があり.数年の間にほとんどの工場がノンネンダム,

のちのジーメンスシュタットに移った。 Afbukも工業部(Abteilungfiir Industrie)と改称され,

KBはAJへと変わった(45)。移転するまで送電課1~6のいずれにもそれぞれに製図員がいたが,

すべての製図員が共同製図課に移動させられることになった。バルチュは自分も共同製図課に

行かせられるのかと心配したが, AJ6にとどまった(46)。バルチュは AJ6では製図机を持たず,

電話機用の回転腕がついている事務机を持った。もはや製図の仕事ではなく.注文を受けての

複雑な配線の設計の仕事であった。設計に参加できるようになって.遠い目標であったものが

達成されバルチュは喜んだ。「正規の学問を受けていればおそくとも 25歳でする仕事を私は

およそ 30歳を越えてした。」大学あるいは専門学校の勉学で得た知識のうち実地に応用できる

のは 10%ほどにすぎないということを同僚から聞いて.バルチュは「この 10%を専門的に有

効に働かせるなら特殊な領域のスペシャリストとして十分に働くことができる。重要なことは

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機械の作動方法や作動条件に精通しそれに応じた電力を測定することだ」と考えた。このとき

助けとなったのが.以前数百となく描いた「規定の図面」だった。バルチュはそれを精確に描

くことができた。バルチュが受ける注文は次第に規模の大きいものになった。文書係員が費用

の見積もりを作成した。文書係員は.価格.重量.効率.性能要素などすべての技術的数値を

手書きで下書きとして作成し.この下書きをもう一人の同僚がチェックした。チェックが終わ

ると下書きがタイピストによって清書され, もう一度下書きとの照合が行われた。この時期に

は手書きの清書は(男女の)タイピストが行った。「この時代にはまだ職員のための労使協定

による俸給支払いはなく.どの人ももっぱらその個人的な業績と能力に応じて上司から支払わ

れていた。」一般には他のものがどれほどの給与を受け取っているのか知らなかった。給与の

領収書にサインするときには他の人の視線を避けた。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると 8月3日には課の半数が召集され.設計士の人数が

著しく減少した。バルチュは兵役不適格とみなされた。減少した人員で仕事をしなければなら

ず,バルチュも膨大な量の注文を受け設計しなければならなかった。フランスとベルギーの一

部を占領したことで.精錬所と圧延工場は大車輪で操業し.戦争の続行に重要な緊急の納品を

迫られた。 1914年 11月の終わりに.ディリンゲン製錬所の建設中のガス中央発電所の配電施

設用装置の取り付け配電図と発電機の自動並列配線装置を完成させるべく最初の出張をした。

このディリンゲン精錬所には KBで仕事をしていたころ親密だった技師が.電気操作のために

発電所副所長として 1910年に移動していた。この副所長のおかげであらゆる作業場に入るこ

とができた。しかし装甲板ー圧延工場には入ることはできなかった。元同僚ですら精錬所に来

て2年経ってからようやく認められたのだ。ある日偶然出会ったディリンゲン技術事務所長が

バルチュをみて驚いた。バルチュは出張時当該技術事務所に申告するという義務を知らず届け

出ていなかったからである。この 3週間の出張で製錬所や圧延工場で.高炉をはじめとしてす

べての機械や装置が作動しているのを見た。事務机で考えあるいは書物から得たことを実際に

目にすることで AJ6の仕事を理解した。戦時経済への転換によって戦時造船技術部の人員が

補填されることになった。バルチュは 1915年春この部の設計課KS8に配属されたが. AJ6と

KS8の人員の取合いの結果AJ6に戻った。

バルチュは 1915年8月17日に召集され 1918年12月4日まで電報大隊に配属された。 1917

年4月にアメリカ合衆国が参戦したときには.この戦争の最悪の終わりを予見した。 1916年

に娘を授かってからは.早く家に帰って建設的な仕事をするということが希望であった。

バルチュは復員した翌日 1918年 12月5日に. AJ6に戻っていた上司のマライカ Maleyka

に復員を報告した。ほとんどがまだ復員していない補助動カグループに配置されたが.すぐ圧

延グループにまわされた。まだ仕事になじんでいないときに.工科大学卒のリース RieBがやっ

てきて.バルチュを ButiBに誘った。「共和国においては当然のことながら.企業家に対して

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秋山千 恵

自分たちの利害を主張できるように技術者たちも組織されねばならない。この組織化はすでに

広く進捗していて, AJでは上から下まですべてがButiBに参加している。」リースはロシア

革命後かの地の勤労者たちの利害が守られていることを引き合いに出すが,これに対してバル

チュは,聞き及んだ限りでは革命ロシアは何百万という人々を不幸にしている,革命後どんな

道をたどるかはまだわからない, どんな組織にも入らないと答える。社会主義・共産主義・ア

ナーキズムなどについての比較的長い議論をするが.そもそもリースはこれらについての主要

な著作を読んでいなかった。バルチュはこれらの思想を理論的には論駁することはできないが,

それらの理想は人類が存在して以来けっして実際に実現することはないだろうという。技術者

の仕事は政治とは全くかかわっていないし,将来においても関わるつもりはない,とリースの

誘いを断った。また自分は会社と契約を結んだのであり,自分の利害はこれまでのように自

ら主張すると答えた。「十分な能力を備えた技術者は,常に個人主義者でしかないし,何らか

の色合いの社会主義者であり得る。」「(組織に加わった人々は一筆者)残念ながら違ってしまっ

た,そして技術者身分(強調原文)の利益にはならなかった。」

職員協議会と会社側とによる賃金協定をめぐってバルチュは一時的に上司と気まずくなっ

た。はじめ会社側からの提案では,バルチュは T3/10(自律的ではあるが責任を伴わない仕事,

10年の実務経験)給与グループに編入された。その際に T4(自律的で責任ある仕事)とはみ

なされないと言い添えられた。ただしこの措置の埋め合わせに T4/3に相当する特別手当を受

け取るということで,バルチュは了承した。その 2日後に職員協議会はバルチュを呼び出して,

バルチュは T4に属しているので T3グループという会社側の等級付けを承知しないと説明し

た。バルチュは会社側とすでに了解し合っている旨を伝えた。しかし,職員協議会は相当する

措置をとることを通告し,彼に無断で会社側と折衝した。結局バルチュは T4/3の等級に区分

された。このことでバルチュの上司は一時機嫌を損ねるが,職員協議会と彼の意思との麒鮪を

バルチュが説明したことで納得する。とはいえ,バルチュ自身はこの等級が正当だとみなした。

第一次世界大戦後の電機工業は堅実に復活し,精錬部門および圧延部門での要請が高まった。

戦後数年間は賠償のための様々な注文が AJ6を活気づけ, 1920年代はじめには多くの技師が

配置された。このときの最後の上司のひとりがリッター Ritterであり,個々人の人間性を尊

重することを心得ている人であった。 AJ6の圧延工場ー主駆動装置の班の技師たちはすべて難

しい転換駆動装置の注文を仕上げた。 1920年から 1924年までこの班には一時的におよそ 18

人の技師がいた。新たに AJ6を率いたのはキューン Kiihnだった。国が領土喪失による工場

の弁償をした精錬所のひとつがアウグスト・ティッセン精錬所であった。ロートリンゲンの精

錬所を失った代わりにデュースプルクーハンボルンに新たに精錬所を建設することになり,

1918年に転換回路の電化のための案を提出していた AJ6に1920年8月駆動装置の注文がきた。

設計をした者がこの注文を仕上げるというのが慣例であったが,バルチュ自身が設計したにも

114

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

かかわらず担当者が決まらなかった。バルチュは自分以外の者が担当になったならば何らかの

抗議行動をとるつもりであった。結局バルチュが担当になり熱意をもってこの当時世界で最大

の電機装置を作成し, 1924年 1月に運転を開始した。 1年後さらに別の駆動装置の注文を受け

た。駆動装置を取り付けるときにはハンボルンにしばしば赴いた。デュースプルクの技術事務

所が仕事でも仕事後のビールでも支援してくれた。この間にバルチュは 1922年5月にアウグ

スト・ティッセン精錬所の注文を最後まで完成させるという命令つきで, AJ6の班長に任命さ

れた。戦時中のディリンゲン精錬所での経験から.実地に目で確かめるべく若い技師たちを彼

らが設計した装置の取付けに派遣した。これは若い技師たちによい経験となった。

1923年のインフレーションによるマルクの下落で.注文品引渡しに伴う計算が困難になっ

た。午前に計算された額が夕方引渡しの時には計算し直され.それがさらに先方へ引き渡され

るときにまた計算し匝されるという事態になった。職員の給与は分割払いとして 3日ごとに支

払われた。

精錬部門および圧延工場部門での要請が高まるにつれ.新しい課題が発生した。それは,必

要な機器の制御や設計に関する新しい型を多くの特許にいたらしめることであった。このよう

な1920年代の忙しい仕事の合間に.同じような信条を持った同僚と.専門以外の哲学や芸術

や学問について議論し意見を交換した。これがさらなる進歩をもたらした。

1926年5月19日に勤続25周年(見習い期間の 3年は差し引かれている)を「AJ6のタベ」

というかたちで祝われた。お祝い状の他に同僚から本棚を贈られた。 1926年から 1930年の間,

頻繁にドイツ西部とオーバーシュレージエンに出張した。それぞれの精錬所や圧延工場で様々

な型や配置を学ぶことで,知識を豊富にすることができた。圧延工場の電動駆動装置の専門家

として自他共に認められ, 1930年に正規の利益参加有資格者 (Normalbeteiligte)に任命された。

賞与は会社が決めた配当金になった。この待ち望んでいた豊かな金銭上の幸福はしかしさしあ

たり生じなかった.というのは続く数年はほとんど配当金がなかったからである。

1933年以降「状況は全く変わった。」「失業者が最高数となった 1932年以降 12年のライ

ヒのつかの間の興奮は,経済の急速な活況によってパッと燃え上がった。」再軍備のために「全

工業が動員され」,とくに重工業から再軍備が始まったので. AJ6の売上げは不自然なほど伸び.

ジーメンス社も 1933年から 1939年まで注文数が著しく増大し技術も進歩した。ドイツ軍が占

領した地域の工業がドイツの目的のために修復された。このためバルチュは東部占領地域に

度々出張した。このような時代の愉快な出来事は,マネスマン真空管工場長が.イエルザレム

(Jerusalem)からヴェルター (Welter)へとユダヤ的な響きを持たない氏名へと改称したこと

で.会社内で人物認知の混乱が起こったことである。戦争が始まって 1940年春まで20%体重

が減った。ベルリン空襲の影響で 1947年には体重が30キロも減少する。戦時下の 1941年5

月19日に勤続40周年が祝われた。職場に引き続いて自宅でも心地よい祝賀会が催され,かつ

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ての同僚や上司が訪れた。

小括

秋山千恵

バルチュは職場での役職にもとづいて記述しているので,この技師の章は,第一次世界大戦

直前から第二次世界大戦までの期間にわたっている。

第一次世界大戦直前には男女のタイピストがいたことから,当時はタイピストは女性の仕事

という性別役割分担はまだ確定していなかったようである。また, 20世紀はじめに設定され

た出張規定が大戦中も職員の間に浸透していなかったことがわかる。しかし,社員であっても

自由に敷地内の工場見学はできず,戦時ということもあろうが,企業秘密に触れることはけっ

して許されないことは徹底されていた。

開戦直後の召集で,ジーメンス社では労働者だけではなく技師たちも不足し,戦時経済の影

響で仕事量が増大するなか,少ない人員の取り合いが同じ会社内でも行われていたことがうか

がえる。バルチュも召集され敗戦まで 3年以上軍隊にいたが,アメリカ参戦時には敗戦を予見

していたというその軍隊内での体験については書かれていない。

敗戦直後のドイツ革命については,革命という言葉は使わないが,その影響をジーメンス社

内での技術職員労働組合への参加勧誘や,職員協議会という形でみることができる。それまで

バルチュはジーメンス社の経営陣が警戒していた職貝の組織化,たとえばButiBについては

言及していなかった。これは戦前においては,ジーメンス社が,企業内の宜伝者を解雇する

ことによって(47),また 1908年のバイエルン金属工業家連盟による ButiB所属者のブラックリ

ストの回状(48)によって所属員を採用しないことで,職員の組織化を抑えることに成功したか

らともいえる。 ButiBのジーメンス社内への浸透は,資本による職員の仕事の規律化,徹底化,

統制などの直接的支配の下で非人格化された技術職員をまず経済的・社会的に引き上げる (49)

という試みに,技術職貝たちが共感したことの現れであろうし,これに戦時中の経験やドイツ

革命,ヴァイマル共和国の誕生が関わっているだろう。

バルチュの記述は全くジーメンス社のストライキに触れていない。ゲルラハによると,ジ一

メンスシュタットで第一次世界大戦後しばしばストライキが発生した。一度は下級職員による

ストライキがあり,下級職員が本部管理棟の正面入り口を占拠し,上級職員を入れようとしな

かった。このストライキ後工場安全対策部が設置されて会社は「再び工場を硬く手中におさめ

た」(50),とこのストライキが失敗したことをゲルラハは記している。

バルチュは職員協議会と会社側との折衝で自身の給与ランクが「自律的かつ責任ある」ラン

クヘと上がったことに満足したものの,職員協議会とは距離を置いている。

第一次世界大戦後ドイツ電機工業は,海外の拠点を敗戦で喪失しながらも急速に回復してい

ることが,代替工場の建設など賠償による注文の増大,バルチュの班長への昇進という記述か

らわかる。バルチュには自分が立案し設計した製品が実際に駆動すること,自分の経験を通し

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

て獲得したやり方で若い技師たちの教育を行えるということ.この「構想」に関与できること

が大きな喜びであった。 1923年 11月には製品引渡しの際に請求書を 1Hで3回も計算し直さ

ねばならなかったこと.会社側の給与支払いが3日ごとであったことから,インフレーション

の急激な悪化が記されているが,ジーメンス社はこのハイパーインフレーションで逆に利潤を

増大させていた。

相対的安定期の合理化についての記述はない。バルチュは 1926年に勤続25周年を職場で祝

われ.この時期に圧延工場の駆動装置の専門家としてその業績が認められて. 1930年に「利

益参加有資格者」となり.それとともに会社内では上級技師に昇進し.中級管理職となった。ジ一

メンス社では特許は会社の所有となっているものの.その特許にいたるまでの個人的な業績の

話として.他の技師たちの回想に様々な特許についての具体的な話が頻繁にでてくる。しかし.

バルチュの回想は特許については触れていない。

経済恐慌は配当金がなかったと表現されているだけである。ジーメンス社は 1930年から

1932年まで配当金をストップし,前述の表のように従業員を大規模に解雇して.一人あたり

の収益を上げるという対策をとった。バルチュはジーメンス社の大最解雇について全く触れて

いない。

ナチ時代については政治的な意見は述べず,経済の活況による「ラィヒのつかの間の興奮」

と表現する。全工業が再軍備のために動貝され,ジーメンス社は軍需で仕事が増えた。第二次

世界大戦中の占領地域出張先や, 1941年以降増大する外国人労働者や戦時捕慮の強制労働に

ついては書かれていない(51)。バルチュの記述からはナチズムがどのように社内に入り込んで

きたのかを知ることはできない(52)。ユダヤ的な名前を改名することによる笑い話を記してい

ることで,ユダヤ人の運命についての企業内の冷淡さが逆に伝わってくる。

2.4 終章

1942年8月 1Bにバルチュはジーメンス・シュッケルト工場の技師長に任命された。この

日満足してこれまでの自分の仕事を振り返りつつ,技師長にふさわしい前提条件(=教育)が

なくても粘り強さと思考力を鍛えることで目標を達成できることを確認する。バルチュ自身は

アメリカ合衆国の参戦でこの戦争は最終的に負けることを予想していたが, AJ6の事務所長も

1943年の末には戦争が有利に終結することをほとんど信じなくなっていた。

AJ6の管理部が 1938年に賃金協約職員のための給与リストを作った。バルチュは, これに

よって他の班に属している職員の業績をみることができるようになったが,他方賃金協約の規

定は所属部課の管理部が個々人の業績に対する支払いを困難にしているとみる。「平準化は普

通の人が高められるよりはむしろ能力ある者を下へとおしつける。」

1944年2月15日,爆撃によってバルチュはこれまで得た全財産を失った。同日,ジーメン

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秋山千恵

スシュタットの工場も 21時25分に空襲によって大きな損害を受けた。

1945年4月末の破局の後, 6月に時給75プフェニヒの運搬労働者として管理部の建物の清

掃作業の仕事につき,不平を言わずに勤めを果たした。バルチュたちはこの期間にかなり熟練

してストーブを設置し,窓を厚紙でつくり,食糧を運び込んで分配しつつ簡素に生活した。そ

うしてジーメンス社を再興した。これに少なからず貢献したのが取締役ミュラー Mullerの楽

観主義とユーモアだった。バルチュは 1946年半ば以降技師として AJで働き,かつての二人

の同僚と仕事を分担した。

1947年 11月3日にバルチュの勤続50周年が祝われた。退職することは状況が許さなかっ

たので,ジーメンス社の復興に若者たちと一緒に働いた。第一次世界大戦中に生まれた二人の

子供のうち息子は大学を卒業して 1946年から共にジーメンス社で働いており,娘も 12年前か

らジーメンス社に勤務している。 3世代にわたってジーメンス社と結びついている。息子が大

学を出たことで自分が近づけなかったことが実現した。

最後に手本であり教師である人々,取締役会会長 Dr.ケトゲン, Dr.マライカ,支配人ロ―

デ Rohde, リッター,取締役ミュラーに謝意を示す。そして,人生を振り返って自分の職業

は自分を全く満足させてきた.エンジニアほど創造的な人間と個人とが密接に結びついている

職業はないと記して筆をおく。

小括

バルチュは管理部が賃金協約職員の給与リストを作成したことに賛否両方の意見を持った。

このリストから管轄外の職員の業績をみることができるが,他方で,このような平準化は能力

ある者の意欲をそぐとみている。このような平準化に対して,彼は業績主義を主張している。

戦後すぐにジーメンス社再興のために働いたことが書かれているが,連合国の占領について

の記述はない。親子 3代にわたってジーメンス社と結びついていること,ジーメンス社での技

師としての自分の仕事に大いに満足している。

おわりに

19世紀末から 20世紀前半までのドイツの政治的経済的激変の時代に,独占資本主義が進む

とともに資本の集中再編が繰り返され,各企業は組織的な再編をとおして職務を細分化しつつ

労働者・職員に対する統制を強化していった。そのまっただ中にいる一従業員の視野は限られ

ているが,ここから言えることをいくつか挙げてみる。

バルチュの経歴はジーメンス社に入社してからほとんど同じ部署である。これは分業化が進

展するにつれ,技術者が特殊化され狭く専門分化されたがゆえであろう。一方で,横の流動性

は著しく狭い。バルチュは,たとえ大学や中等専門学校で専門教育を受けていなくてもその専

門に精通するなら,企業内である程度の地位の上昇を達成することができた稀な例である。

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

バルチュの回想に労働者の記述は出てこないが,労働者の回想では技師と労働者の関係につ

いて触れられている。労働者にとって,専門領域に秀でた技師としてだけではなく,実践家と

して職長や労働者たちと密接に協力して働き,職場の状況にいくつかの改善を導くのが,有能

な技師であった。反対に,仕事に熱心ではなく,自分が尊敬を集めることのみに腐心している

技師は軽蔑された(53)。バルチュもまた製図員だったころ技師たちを観察して,仕事面ではよ

い技師たちはいるが,知識と能力並びに創造性をもったエンジニアとしてだけではなく,人間

としても尊敬できる人間は少なかったという。後日バルチュ自身は技術的学問と現場の実践の

重要性を認識したがそれは技師たちが設計した機械・器具を実際に操作する人々との関係に

はつながらず,設計者自身の自己実現のひとつとして重視され,それが彼の自意識の高まりに

も反映されている。

バルチュは技術者の能力と人格を評価すべき業績主義・能力主義により重心を置いている。

これは一部バルチュ自身が技術の専門教育を学校で受けていないということからきているとい

える。彼は創造的な人間と個人とが密接に結びついている職業はエンジニアだという誇りを

持っている。この誇りは彼が向学心を持ち努力することによって得た達成感がもとにあるが,

狭い専門領域内である程度の自律した機能を果たすことができた満足感もあろう。そして, こ

の企業内での一定の地位が,社会的な承認と一致した。

一方でこの専門分化は大卒の技術者には資格過多の危険性があった。 1909年設立のドイツ

学士技師連盟の設立は,企業の企画・設計部門の仕事に大部分雁用された大卒の技師たちが,

中等技術学校出身の技術者と仕事と給与の面では同じひとつの階梯に置かれていたことに対す

る不満に由来する。バルチュの職場では学歴間の対立は描かれてない。むしろ中等以上の技術

専門教育の有無で,これはひいては労働者階級出身かどうかで,一定の線が引かれていたよう

である。

これまでのドイツ技術者についての研究は,利己的な利益追求を批判する反資本主義と専門

職としての技術信仰が結びつく方向,あるいは技術的思考を核とするテクノクラート的ユート

ピアの方向,そしてこの両方からナチスの技術的合理性と反資本主義的感情を融合させるレト

リックによってナチズムに順応しやすかったことが指摘され(54),一方で資本に対決的姿勢を

とる労働組合的動きにも注目してきた。バルチュの回想からは, もはや資本家とは「仕事仲間

Mitarbeiter」という意識は持たないながら,一定の自律的な仕事を通して自己を承認し,「我

が上司」「我が社」として企業と一体化し,個人としては「非政治化?」へと向かう傾向を具

体的にあらためて確認できる。そのなかにあっては,合理化の時代や両大戦時のジーメンス社

という巨大独占企業の存在そのものを問うことは難しいであろう。労働者・職員の労働組合へ

の組織化を考える場合,あるいは「消費」生活に眼を向ける場合に,女性については他の要素

も重なることをふまえて⑮),労働現場でのそれぞれの具体的経験に目を向ける必要があろう。

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秋山千恵

ジーメンス社元職員の回想録はその具体像をみる上で,また.労働者と職長・技師との関係.

職長と技師との関係を探る際に有益な情報を提供していると思われる。

(1) ヴァイマル文化の定義については熊野直樹「ヴァイマル・モデルネをめぐる相克一都市ヴァイマルを

事例として一」田村栄子・星乃治彦編「ヴァイマル共和国の光芭ーナチズムと近代の相克」昭和堂 2007年,

185-214頁。「ヴァイマル文化」は,文化的アヴァンギャルド,大都市大衆(消費)文化,そしてヴァイ

マル共和国期の文化全般を指すと理解される。

(2) Roiger Schettler, Arbeiter und Angestellte im Film, Bielefeld 1992.とりわけ女性を主人公とするある

いは女性を描いている映画の分析や,女性ホワイトカラー層にとっての「モダン・ガール」の意味づけ

などの研究が多く進められている。田丸理砂「「女の子」という運動:ワイマール共和国末期のモダンガー

ル」春風社 2015年;同「髪を切ってベルリンを駆ける!ワイマール共和国のモダンガール」フェリス女

学院大学2010年など。

(3) この時期に顕現化したこの階層をめぐる法的・社会的問題については, E.Lederer, Die Privat-

angestellten in der modernen Wirtschaftsentwicklung, Tiibingen 1912.邦語文献では,雨宮昭彦「帝政期

ドイツの新中間層ー資本主義と階級形成」東大出版会 2000年。多くの研究は,職員層問題を裔業職員を

中心にとくにナチズムにいたる問題として取り上げている。たとえば, JurgenKocka, Angestellte

zwischen Faschismus und Demokratie, Gottingen 1977; Ders.. Angestellten in der deutschen Geschichte

1850-1980,⑮ ttingen 1981.ジーメンス社の研究では Ders..Unternehmensverwaltung und Angestellten-

schaft am Beispiel Siemens 1847-1914, Stuttgart 1969;今久保幸生「19世紀末ドイツの工場」有斐閣

1995年。クルップ社については田中洋子「ドイツ企業社会の形成と変容』ミネルヴァ書房 2001年。

(4) Siemens Archiv Akten(以下SAA)12/Lh 583 Erinnerungen.ここにジーメンス社の元職貝の回想が

年代順ではなく,執筆者名のアルファベット順にファイルされている。形式などは一様ではなく用紙も

さまざまである。ジーメンス社の性質上,技術職員の回想が主で,内容は技術に関するものが多い。すべ

てを閲覧したわけではないので,女性職員の手記の存在は不明である。ジーメンス社についての研究では,

ジーメンス文書館の諸史料が使われている。 Kocka,Unternehmensverwaltungおよび今久保,注 (3)。

今久保は組織再編の裏付けのひとつとしてこの回想録を用いている。

(5) SAA 12/Lh 583 Erinnerungen Walter Bartsch, Ein halbes Jahrhundert im Dienst der Elektrotechnik.

Erinnerungen aus dem Werdegang eines Autodidakten im Hause Siemens(以下 SAA12/Lh 583

Wartsch).

(6) C. E.マクレランド著望田幸男監訳「近代ドイツの専門職J晃洋書房 1993年; KeesGispen, New

Profession, Old Order: Engineers and German Society, 1815-1914, Cambridge 1989.

(7) 今久保注 (3)。

(8) このような状況のもと,それまでの専門的資格をよりどころに社会的認知と評価を求める技術者の専

門職運動とは異なって,全技術職員の階級的連帯をめざした労働組合(技術工業職員同盟 Bundder

technisch-industriellen Beamten以下 ButiB)が設立された。 ButaB,25 Jahre Techniker Gewerkschaft,

10 Jahre Butab, Berlin 1929, S. 24. ButiBは 1919年に改編されて,技術職員官吏同盟 Bundder

technischen Angestellten und Beamten(以下 ButaB)になる。ちなみに上記の技術職員の労働組合

である ButiBの設立に,ジーメンス&ハルスケ社と AEGの技術職員も加わっていた。 ButiB,Bericht

1904 und 1. General=Versammlung 1905, S. 3-6.

(9) ジーメンス社は,独占資本主義研究において多くとりあげられている。 PeterCzada, Die Berliner

Elektroindustrie in der Weimarer Zeit, Berlin 1969 ;栗原優「ナチズム体制の成立ーワイマル共和国の

崩壊と経済界一」ミネルヴァ書房 1997年;加藤栄ー「ワイマル体制の経済構造」東京大学出版会 1973年;

松葉正文「金融資本と社会化」有斐閣 1984年;春見濤子「ジーメンス社「経済政策部」の成立事情とそ

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

の活動」:同「第一次世界大戦後におけるジーメンス・コンツェルンの編成上の特質」;同「世界恐慌期

におけるジーメンス社の営業状況」「宮城学院女子大学」 62(1985), 1-26頁, 64(1986).1-32頁,66(1987).

1-30頁。以下の概観は,第一次世界大戦前については, Kocka,Unternehmensverwaltungおよび今久保,

注(3) に依拠し,大戦以降の組織改編については両書以外の上述の研究に拠っている。

(10) 今久保,注 (3).593-610頁;Kocka,Unternehmensverwaltung, S. 81.年金支給年齢は労働者が70歳,

職員が65歳で,職員は勤続25年でひと月 150マルクの年金を得た。 1920年代に職員年金は最後の所得

に従って計算されるようになり年金額は増大する。 SAA12/Lh 583 Erinnerungen Richard Gerlach,

Erinnerungen aus meiner Tlitigkeit bei der Firma Siemens & Halske und bei den Siemens-

Schuckertwerken(以下 SAA12/Lh 583 Gerlach), S. 2, 30.

(11) 以下労働争議に関しては Kocka,Unternehmensverwaltung, S. 347-363.

(12) Heidrun Homburg, Rationalisierung und Industガearbeit.Arbeitsmarkt-Management-Arbeiterschaft im

Siemens-Konzern Berlin 1900-1939, Berlin 1991. S. 383-402.

(13) Kocka, Unternehmensverwaltung, S. 468-469.労働者対職員の割合は, 1920年2.9:1 (SH), 2.3: 1 (SSW),

1925年2.9:1(SH), 2.6:1 (SSW), 1930年2.0:1(SH, SSW), 1935年2.1:1 (SH), 2.5: 1 (SSW), 1940

年 2.4:1(SH), 2.7:1 (SSW)。ChristophConrad, Erfolgsbeteiligung und Vermogensbildung der

Arbeitnehmer bei Siemens (1847-1945), Stuttgart 1986, S. 39.

(14) SAA 12/Lh 583 Gerlachによると,一般的には約 1年で試用雇員から職員に昇格したが,勤続25年直

前にようやく職員に任命される場合もあった。

(15) 今久保,注 (3),426,481-490頁; Kocka,Unternehmensverwaltung, S. 306.

(16) Ibid, S. 493-498. 573.

(17) Wilhelm Mertens, Zur Bewegung der technischen Privatbeamten, Archiv fur Sozialwissenschaft und

Sozialpolitik, Bd. 25. H. 3, 1907, S. 665-668.ベルリン全体の技術職員の調査では, 2/3が中等教育を受け

ていた。これに対して商事実務職員のその割合は, 21.3%であった。

(18) Kocka, Unternehmensverwaltung, S. 574. Tabelle 17. 1907年の大ベルリンの技術職員の平均年収は,

大卒で2,630.22マルク,非大卒で2,092.23マルクである。 EmilLederer, Kapitalismus, Klasssenstruktur

und Probleme der Demokratie in Deuschland 1910-1940, Gottingen 1979, S. 66-67.

(19) SAA 12/Lh 583 Gerlach.

(20) Kocka, Unternehmensverwaltung, S. 476, 480-481.

(21) Ibid, S. 492-493,505.

(22) 今久保注 (3),490-492頁。

(23) 松葉正文,注 (9).60-62頁。この協定で資本家側の団体として 1919年4月12日に発足したのがド

ィッ工業全国連盟Reichsverbandder Deutschen Industrie (RDI)で, ここに 1918年3月に成立したド

イツ電機工業中央連盟Zentralverbandder deutschen elektrotechnischen Industrie (Zendei) も加わっ

た。ジーメンス社は Zendeiの一員であった。この協定に基づき, 1918年11月13B産業労働者の労働

時間規制令, 1919年3月18日職員の労働時間規制令が暫定的に制定された。この立法は労働保護にで

はなく,労働時間を限定することで復員に伴う失業増大を緩和することに重点がおかれていた。

(24) 加藤栄一,注 (9),107-108頁。アルザス・ロレーヌやルクセンプルクからの輸入は無関税で,ポー

ランドからの輸入も 3カ年は無関税とされた。 1921年に欧米諸国は関税率の引き上げや関税の新設で,

この条約の片務的規定を大いに利用した。

(25) 春見濤子,注 (9),1985年, 2,20-21頁。この部局の前身は社会問題対策経営委員会で社会民主党系

労働組合の影響力の増大に対処するために設置され, SHとSSWの工場責任者からなっていた。従業員

の現実的利害に沿って社会政策上の問題を全社的に解決することを目的としていた。外国業務の増大に

ともない,通商政策関連事項の業務も扱うことになり, 1917年国民経済部 Volks-Wirtschaftliche

Abteilungとなった。部局長は 1904年以来フェリンガー Dr.Richard Fellinger。

(26) SH, SSW, AEGが同率出資で 1928年に共同鉄道信号会社を設立し,この分野の生産の 70%を占めた。

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秋山千恵

また電球製造オスラム.無線電信テレフンケンは SHとAEGの共同参与会社である。ジーメンス社と

AEGはこうして国内生産の独占を図った。 1928年には炭素製品生産のため. SHの工場の一部を切り離

して Ri.itgerswerkと合併してジーメンスープラニア会社を設立した。春見濤子.注 (9).1986年 9頁。

(27) 加藤栄一.注 (9).329頁。ジーメンス社は貸借対照表では参与・有価証券勘定の比率が大きく,固

定資産の比重が極端に低い。償却資産を極端に低く見積もって計上し.ここに厖大な秘密積立金を形成

しておくのが慣例であった。市場が有利なときに証券発行を行い. これを銀行その他の金融機関に預金

しておき.必要に応じて設備の拡充に充用していった。これはあくまでも潤沢な外債を前提にしたもの

であった。会計年度は 10月 1日から翌年の 9月30日である。

(28) 栗原優.注 (9).259-260頁。大橋昭ー「ドイツ経済民主主義論史」中央経済社 1999年, 97-106頁。

(29) カール・ケトゲンは古参の社員で. 1894年23歳でシャルロッテンプルク工場に入社。カール・フリー

ドリヒがイギリス・ジーメンス社の経営幹部修業時代の腹心であった。カール・フリードリヒがSSWの

取締役会会長になると.ケトゲンはロンドンのジーメンス兄弟会社の社長になった。 1919年 3月帰国し.

1920年 1月SSW工場管理本部長代理 1920年 12月SSW工場管理本部長, 1923年SSW取締役会会長

兼務。春見濤子.注 (9).1985年. 10頁; 1986年. 6頁。

(30) 春見濤子.注 (9).1985年. 20頁。

(31) SAA 12/Lh 583 Gerlach.ゲルラハは 1926年 6月退職した。年金は職員の最終所得にしたがって計算

された。

(32) 春見濤子,注( 9). 1987年. 1-30頁。政府が求める雇用政策遂行の前提として労使協調をうたい,

1926年に報奨金Pr却 1ienを復活させ. 10年勤続者に年収の 5%の賞与. 1927年には対象者を 8年勤続

者にまで広げて労使の一体性を強化しようとした。また.見習い期間の労働者に対する報奨金の拡充等

も行なわれた。

(33) SAA 12/Lh 583 Bartsch.この回想は前置きと前述の 4章からなっている。以下各章ごとに記述する。

(34) この人物は.今久保注 (3).422頁の 1890年代初頭のシャルロッテンプルク工場商事事務部の人

員編成簿に出てくるハッセと同一人物かは不明。

(35) 送電課は 1894/95年に設置され.全電気設備に関する諸工業部門からの照会の処理がその業務であっ

た。同じ建物の 2階に企画課が入っていた。今久保.注 (3).423頁。

(36) 今久保注 (3).471-473頁。女性職員の割合は年金共済金庫加入率から推定される。 1901年年金共

済金庫加入者は男性職員 1,469人に対して 13人. 1914年女性職員の加入率は 5%,1924/25年-1926/27年

に女性労働者と同じように増加するが.その後は 10%以下 (SH). 7 % (SSW)に落ち着く。女性職員

の多くは. 1年未満の雇用かあるいはすぐに転職していった。 Conrad,注(13).s. 40.

(37) SAA 12/Lh 583 Erinnerungen L. Munder Dipl.-Ing., Ein alter Siemens-Indianer in RI. (1952年 6月

17日付)ムンダーは 1907年1月1日にシャルロッテンプルク工場の計算課に配属された。「アフプーカー」

の各種ダイヤグラムを読図する高い能力に感嘆している(以下 SAA12/Lh 583 Munder)。

(38) SAA 14/Lm 766 Bund der technisch-industrielen Beamten. ここに ButiB の集会の日時・場所•発言

者等の報告書ならびに関連する機関紙記事等が集められている。

(39) 注 (29)参照。

(40) 一般に社会的にも IngenieurとTechnikerの厳密な定義はなされていなかったが. 1910年前後には

Ingeieurという呼称を大卒のみに限定しようという動きも出ていた。 ButiB, Technik und Wirtschaft,

Jg. 1 (1908). s. 224.

(41) SAA 12/Lh 583 Munder.

(42) 1907年にジーメンス社はジーメンス職員協会を設立した。この協会は会社の資金援助を受けて. コン

サート,講演会.美術館探訪.映画上映などの広範にわたるプログラムを提供した。 1920年代末には.

ベルリンのジーメンス職員およそ 2万人のうち 1万人弱が協会員だった。その他に. ドイツで最大のも

のの一つに数えられる工場付属図書室があり.定期的な講習会.講演.上映が開催された。会社から助

成金を受けたジーメンスシュタット書籍室は割引価格で本を販売した。 1932年 3月に職員協会に

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20世紀前半ドイツのホワイトカラー

カール・フリードリヒ・ジーメンスからクラプハウスの建物が譲られた。 CarolaSachse, Siemens,

der Nationalsozialismus und die moderne Familie. Eine Untersuchung zur sozialen Rationalisierung in

Deutschland im 20. Jahrhundert, Hamburg 1990, S. 199.

(43) SAA 12/Lh 583 Gerlach.

(44) ButiB, 5. Bundestag 1911, S. 14.

(45) SAA 12/Lh 583 Bartsch.工業部は企画・設計部やジーメンスシュタットの通商部と共にドイツ内外の

すべての支所を統括する営業管理本部zwに組み入れられた。工業部はすべての工業の需要品を供給す

ることを目的とした。 WilfriedFeldenkirchen, Siemens 1918-1945, Ohio 1999, S. 59.

(46) バルチュがいつ KB6に配属されたかは定かではないが,おそらく圧延ロール穴型の測定をした (KB6

での仕事であった) 1910年頃だと思われる。

(47) Kocka, Unternehmensverwaltung, S. 509.

(48) ButiB, Bericht und Abrechnung 1907/8 und 3. Bundestag 1909, S. 6-7, 59-6l; ButaB,注(8)s. 31-34.

(49) ButiB, 4. Bundestag 1910, S. 67-68など。

(50) SAA 12/Lh 583 Gerlach.

(51) 1941年SSW全労働者81.847人(外国人8,823人,ユダヤ人 1,832人,戦争捕虜 818人), 1942年81,435

人(外国人 14,906人,ユダヤ人 l,544人,戦争捕虜 2.417人), 1943年85,623人(外国人20,605人,戦争

捕虜 l,903人), 1944年85,458人(外国人 20,949人,戦争捕虜2,263人,囚人 1290人)。 Feldenkirchen,

注 (45),p. 281.強制労働については矢野久「ナチス・ドイツの外国人:強制労働の社会史」現代書館

2004年。

(52) ジーメンス社とナチズムとのかかわりについては Sachse,注(42)参照。

(53) SAA 12/Lh 583 Erinnerungen Adam Imhof.

(54) P. Lundgreen/ A. Grelon (Hrsg.), lngenieure in Deutschland 1770-1990. Frankfurt a M. 1994.ジェフ

リー・ハーフ著中村幹雄・谷口健治・姫岡とし子訳「保守革命とモダニズム」岩波書店 1990年;小野

清美「テクノクラートの世界とナチズム」ミネルヴァ書房 1996年。

(55) 男性職員の場合は 45歳以下まで年齢的に調和がとれているが, 1930年時点で女性職員は勤続 1年未

満が4割以上, 25歳以下が4割, 30歳までが6割以上である。また 1931年から 1941年まで既婚男性職

員は 6割を超え続けて 7割以上になるが,社会全体の傾向より既婚女性の割合が多いとされているジ一

メンス社ですら女性は 1938年まで8割以上9割近くが独身であった。 Sachse,注(42).s. 117-122.女性

ホワイトカラーが直面していた男性との給与格差や,スキルアップや昇進の不可能性,年齢による就職

差別や職場でのハラスメント,「モダンガール」に対する「社会」の「視線」なども併せて考慮しなけれ

ばならないだろう。

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