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21 世紀 COE プログラム「史資料ハブ地域文化研究拠点」(C-DATS) 在地固有文書班代表 二木博史編 文書史料からみた前近代アジアの社会と権力 東京外国語大学大学院地域文化研究科

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  • 21 世紀 COE プログラム「史資料ハブ地域文化研究拠点」(C-DATS)

    在地固有文書班代表 二木博史編

    文書史料からみた前近代アジアの社会と権力

    東京外国語大学大学院地域文化研究科

  • 目 次

    歩いて作った村の境界

    ――19 世紀中部ビルマにおける土地境界紛争とその調停―― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斎藤照子 (1)

    モンゴル国立中央図書館所蔵「トルグート王統記」について

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮脇淳子 (21) 裁判関係文書から見た徽州社会の一側面

    ――夫の死後、寡婦はいかにして生きたか――

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・臼井佐知子 (47)

    チベット人活仏がモンゴル国王として即位するための条件

    ――19 世紀すえのモンゴル語文書史料の分析――

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二木博史 (71)

    「家」の記録

    ――信濃国『熊谷家文書』の史料的検討――

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田ゆり子 (100)

  • 歩いて作った村の境界

    ―19 世紀中部ビルマにおける土地境界紛争とその調停―

    斎藤照子 1. はじめに 1-1 折畳み写本(パラバイッ)1の中の訴訟関連文書

    ビルマ最後の王朝コンバウン時代(1752-1885)に、広く庶民の間にまでその使用が普及していた筆写媒体である折畳み写本は、当時の人々の日常生活、経済状況、慣習、信仰、

    そして文化など多方面にわたるさまざまな記録をその中に含んでいる。とりわけ宮廷を中

    心に用いられた高価な白色パラバイッではなく、階層を問わず用いられた安価で丈夫な黒

    色パラバイッは、当時の人々の生活の具体相を知るための第一級の資料と言ってよい。こ

    の黒色パラバイッに記された多種多様な記録の中には訴訟関連の記事も含まれているが、

    これらの記事には、王権によって編纂された慣習法典(ダンマタッ)からは必ずしも窺う

    ことのできない地方社会の紛争の様相、そしてその解決の方法が具体的に示されている。

    実際に管見のかぎりでは、地方の紛争解決においてはダンマタッへの言及やその参照がま

    ったく見られないのであり、地方社会の紛争解決システムのあり方は、慣習法典からその

    具体的な姿は浮かび上がってこない。 しかし、折畳み写本には資料として用いる上で困難さも多々ある。折畳み写本は、帳面、

    備忘録、雑記帳のような使われ方をしているので、1冊の写本の中に記載されている内容

    は多様であり、断片的な記述が多い。訴訟関連では、訴状のみ、判決文のみ、あるいは、

    裁判費用のメモだけが残されている場合が多く、ことの顛末を長期にわたり記録してある

    ものは例外的である。さらに普及版の黒色パラバイッでは、文字は柔らかいソープストー

    ンによって書かれているため、摩擦や水に極めて弱く、折畳み写本が損耗していなくとも

    文字が薄れてしまって判読が困難な場合も多い。加えて、手書きの文字の癖や、誤記、地

    方限定慣用句など判読上の困難は多々ある。 また、多くの折畳み写本が見つかるのはそれが書かれたオリジナルな場所からではなく、

    現在残っているものの多くは僧院から収集されたものである。一家、一族の中で長年月に

    わたって保存されていたものとしては、サリン・ミョ・ダガウン文書などがあるが例外的

    である。したがって記録が書かれた背景を知ることはきわめて難しい。しかしこうした種々

    1 折畳み写本(パラバイッ)は、主としてシャン州マインカインの町で産出された厚手の紙をアコーディオン状に折畳んだ筆写媒体であり、コンバウン時代には一般庶民にまで広く

    普及した。一枚のものから64折のものまでさまざまな厚みと、サイズがある。U Thaw Kaung, “Myanmar Traditional Manuscripts and their Preservation and Conservation”. Myanmar Historical Journal. No. 1,1995.

    1

  • の制約にもかかわらず、折畳み写本とその中に出現する訴訟関連文書の歴史資料としての

    価値は、大変大きいと思われる。 それでは、折畳み写本の中で訴訟文書の出現頻度はどのぐらいあるだろうか。東京外国

    語大学の C-DATS による 2005 年度の文書収集保存事業によって中央ビルマにおいてデジタル化された採録文書数計 706 点の中では、22 点(1801 年~1904 年)が訴訟関連文書(約3%)だった。また古くは、1973-74 年にマイクロフィルムに収録された鹿児島大学調査団による採録文書 全 114巻 約 1000点強の手書き文書数のうち 81点が訴訟文書である。ただし訴訟とはっきりわかるタイトル(ahmu-ahkin, pyat-sa, taya-siyinchet、 kauk-chet、sit-yei など)以外にも契約文書、証文の一般分類(テッガイッと総称する分類)の中に訴訟関連文書を含むことがありうるのでこれらは、正確な数字ではない。筆者の得ている感

    触では、質入、売却などの契約文書の 10~数 10 枚のうち 1 枚の訴訟文書にぶつかると言う程度である。必ずしも多くはないが、決して少ない数ではない。 これら訴訟関連文書の内容としては、コンバウン時代の後期、19 世紀の半ばになると土

    地関連訴訟が最も多数となってきている。C-DATSの 2005 年度のコレクションでは、離婚訴訟、親の借金の負担をめぐる相続人の間の争いなどの例が含まれるが、7 割強が土地関連の訴訟である。より古い時代の訴訟関連文書を見ると、たとえば 17-18 世紀には、奴隷の帰属をめぐる訴訟がかなり頻繁に見られたことがわかるが2、その時代には土地の帰属をめ

    ぐる訴訟は比較的少ない。また 17~18 世紀の訴訟においては、世代を超えて長期にわたって決着がつかない場合、しばしば潜水審判が行われたことも勅令集に見るとおりである。 1775 年 9 月 4 日、1785 年 9 月 1 日、1787 年 11 月 12 日および 1810 年 12 月 29 日の勅令では、土地紛争においても潜水審判が行われたことが記されている3が、小論で扱う 1840年代の土地紛争では、もはやこうした方法は行われなくなっている。しかしのちに見るよ

    うに小論の事例でも、70 年前に(すなわち 1770 年ごろに)、同じ土地をめぐる争いがあって潜水審判が行われたことが明らかになっている。

    コンバウン後期の訴訟の内容として、最も多い土地をめぐる紛争は、農地の帰属をめぐ

    る争い、あるいは領地の境界争いとして現れている。農地の帰属をめぐる争いがこの時代

    に目だって増えている背景としては、土地をめぐる権利関係の複雑化が当時急速に進んで

    いることがあげられよう。ビルマの慣習に基づく均分相続によりひとつの田畑に対する権

    利者が複数存在する上に、コンバウン時代中~後期には、土地の質入、売却などにより土

    地の権利関係がさらに複雑化したのである4。こうした争いは基本的には個人対個人あるい

    2 Than Tun ed., The Royal Orders of Burma, A.D. 1598-1885, 10 vols.→ROB, 18/11/1657, 9/4/1692, 20//6/1718, 21/5/1743 の日付に奴隷の帰属をめぐる訴訟が見られる。 3 ROB, Vol. IV p.672. ROB vol. X p. 61. 4 Teruko Saito, “Rural Monetization and Land-Mortagage Thet-kayits in Kon-baung Burma”, in A. Reid ed., The Last Stand of Asian Autonomies, Responses to Modernity in the Diverse States of Southeast Asia and Korea, 1750-1900, London: Macmillan, New York: St. Martin’s Press, 1997, pp. 153-184.

    2

  • は複数の人々の間で争われる人と人との紛争である。 一方、領地の境界争いは、村落対村落、あるいは村落の上に位置するより大きな地方社

    会単位であるミョ対ミョと言う形で争われる。ミョ対ミョの争いは、上記勅令集にかなり

    の数が見られる。それに対してここで検討する村落対村落の争いの記録は極めて少ない。

    しかし、村落の境界をめぐる紛争とその解決の記録は、当時の村落のあり方を考える上で

    多くの貴重な手がかりを含んでいるのである。 1-2.前近代東南アジア社会と領域・境界に関する議論 前近代の東南アジア社会における領域・境界に関する議論としては、0. W. ヴォルタ

    ーズの曼荼羅国家論の中での王国の領域に関する議論5、そしてシャム王国を対象に「地

    理的身体」(ジオボディ)と言うキータームを使用して、その近代的領域の形成を論じ

    たトンチャイ・ウィニチャックンの議論6が大変示唆的である。 地図の上に表現される境界線で区切られた領域に排他的な主権が存在するという観

    念は、近代国民国家というシステムの創出と表裏一体の関係にある。こうした観念や、

    近代地理学による地図作成という技術を受容していなかった時代の東南アジアでは、ひ

    とつの王国の支配の及ぶ領域は、境界線で明確に区切られた空間として観念されている

    わけではなかった。ヴォルターズの議論が指摘するように、いくつかの王国の接する境

    界領域は、複数の支配力が働く重層的な場であり、領域は揺れ動く可変的なものであっ

    た。たとえ石柱が境界の標識として置かれていても、あるいは川や丘などの自然物が境

    界をなしていると見なされていても、それらを結ぶ線が存在するという意識は存在しな

    かったと考えられる。トンチャイ・ウィニチャックンは、その著書、Siam Mapped - a history of the geobody of a nation (1994)で、他の東南アジア諸王国と同じく、このように地理上の境界線を持たなかったシャム王国が、19 世紀後半にかけて、英・仏列強との接触の中で、測量、地図作成という近代技法を取り入れ、国民国家としての地理的

    身体(geobody)を獲得していくさまを描き出している。そこでは多くの史書では、英国やフランスによるシャム王国の領土割譲と書かれてきたプロセスが、従来朝貢関係で

    結ばれてきた地方の中小王権、在地勢力をシャムという国家の不可分の一部として取り

    込み、シャムが近代的国民国家としての地理的身体を獲得していく過程であったことが

    見事に描かれている。 筆者は、前近代の東南アジアのより小さい社会単位、村落あるいはその上の単位、ビ

    ルマではたとえばミョ、タインなどと呼ばれていた地方社会の性格に関心を持っている

    が、このウィニチャックンの地理的身体という言葉に触発されて、村落に即して境界と

    いう問題を考えてみたい。 5 O. W. Wolter, History, Culture, and Region in Southeast Asian Perspectives, Singapore: Institute of Southeast Asian Studies, 1982. の議論を参照。 6 O. W. Wolter, History, Culture, and Region in Southeast Asian Perspectives, Singapore: Institute of Southeast Asian Studies, 1982. の議論を参照。

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  • 一人の人間の身体感覚を遥かに超える王国という広大な世界ではなく、人々が日常生

    活を営むより小さい社会空間においては、境界はどのようなものだったのだろうか。村

    落という場では、人々は自分が属する村とそのほかの村についてどのような境界意識を

    持って行動していたのだろうか。王国の境界をめぐる議論が、東南アジアの王国・王権

    のあり方を鮮やかに示したように、植民地支配を受ける以前の東南アジアの村落社会を

    考える上でも、境界というテーマは、過去の村落像を再構成する上で重要なひとつの切

    り口になると思われる。 19 世紀のバリについてクリフォード・ギアツが論じた劇場国家論では、王国の秩序をめぐる観念は王権の存在様式、とりわけ儀式や儀礼を通じて下位の社会単位にも模倣

    され深く浸透していたと解釈されている7。しかし秩序とその観念をめぐる議論をその

    まま境界とその観念に関する議論に適用して、王国の境界、境界概念と地方社会の境界、

    境界概念が同心円状にあったと仮定することはできない。またなによりも下位社会、こ

    こでは村落に由来する史資料(テキスト)を用いずに議論を展開することはできない。 小論では、コンバウン時代(1752-1885)後期に上ビルマの村と村の間に起こった領域紛争の事例を取り上げて、村と村の境界がどのようなものであったかという問題

    を考える。さらに境界をめぐる争いが起こったときに、どのように紛争が解決されたか、

    すなわち秩序を回復するどのようなシステムが地域社会に存在していたかという問題

    もあわせて考えたい。そしてその解決に至る過程でどのように新たに境界が創出された

    か、さらに新たな境界を地方社会が認知・共有するためにとられた方法についても注目

    したい。 事例としては、ビルマの近世写本文書の収集・研究の先駆者であるトーフラ氏(DR.

    Toe Hla)がザガイン地方から収集され、氏の著書Konbaung Hkit Myanma Luhmu Apwe Asyi hnin Tayahmu Mya 8 (ミャンマー・コンバウン時代の社会組織と訴訟:2004 年)に、その折畳み写本原典の内容が詳細に紹介されているサガイン地方の村の境界紛争 2 件を取り上げる。したがってここで利用する資料は、原典そのものではなく、刊本にすでに紹介されているものである。 村落境界紛争の顛末を記録した例としては、

    前後関係、顛末がかなりの程度明らかになる他に例を見ない貴重な記録であり、使用さ

    せていただいた。記録内容の分析、解釈に関しては、すべて筆者の見解であり、責任を

    負っている。

    2.村落境界紛争の事例 2-1.タウンジャー村・村長 対 イーンサダー村・村長 7 Clifford Geertz, Negara:the theatre state in the nineteenth century Bali, Princeton, N. J.: Princeton University Press, 1980. 邦訳は、クリフォード・ギアツ著 小泉順二 訳『ヌガラ:19 世紀バリの劇場国家』みすず書房。 8 Toe Hla, Konbaung Hkit Myanma Luhmu Apwe Asyi hnin Tayahmu mya, Yangon: Tekkatho mya Thamain Thutei Thana Oosi Htana, 2004.

    4

  • この紛争の舞台は、中央ビルマの王都マンダレーに近く、エーヤーワディ河を挟んで

    その西に位置するザガイン地方、時は 1840 年、コンバウン王朝第八代王ターヤーワーディ(r.1837-1846)の治世のことである。

    折畳み写本に記録された最初の事件は、ザガイン地方のとある村の村長が他の村の村

    長によって王国行政の最高位に位置する、王に直属する枢密院(フルットー)に告訴さ

    れたところから始まっている。実は紛争には前史があったことがわかるが、その部分に

    ついては、書かれた記録がない 訴えられたのは、タウンジャー村9の村長、ミンズィー(騎兵隊長)のドゥインゼー

    ヤボゥである。ドゥインゼーヤボゥというのは、王からその功績によって個人に与えら

    れた欽賜名、称号(bwe)10で生得の名前ではない。騎兵隊長が村長(ダヂー)であるということから、タウンジャー村はかって騎兵隊に下付された村で、代々騎兵隊が居住

    している村であると推測することができる。 訴えたのは、イーンサダー11村の村長、ガ・サンニェインという人物である。ガ・サ

    ンニェインは個人の名前で、彼については職位や称号を示すような記述がない。この村

    の性格についての手がかりは、この事件の目撃記録を記した写本の中に、“45 年のシッターン12を提出した村長(ミェダイン13)のガ・タートゥンの孫の下士官(アヤーガン)

    であるガ・サンニェイン”14とあり、この村長もまた軍人であることがわかる。二つの

    村の位置するサガイン地方は河を隔てているとはいえ王都マンダレーに隣接している

    9 タウンジャー村:原典の中で、ときにゼーテッ・タウンジャー村とも表記されている。この村は 1901 年に刊行された上ビルマ、シャン州の地誌のなかでは、Taung-gya村として、ザガインの町から北西 24.5 マイルにある 73 戸の村として紹介されている。J, G. Scott ed., Gazetteer of Upper Burma and the Shan States, Part II, vol.3, p.235. また製塩業の存在についても言及されている。 さらに 1974 年に発行された州管区の郡別町村リストのザガイン管区の巻には、ザガイ

    ン・タウンシップの 1 村落としてタウンジャー村が記載されている。そして隣村として、イーンサ村、タウンミョ村の名が見える。Pyi daunzu Soshelit Thammada Myanma Naingngan Daw Pyi Hte Yei hnin Thathanayei Wungyi Htana, Pyi ne hnin Taing mya Shi Myo ne alai Myo, Yakwet, Che ywa ok su hnin Che ywa mya, Sagaing Taing, 1974, p.3. 10 称号(bwe)は、一代限りで王から個人に対してその働きに対して送られるもの。称号を賜ったものは、その称号で記録されることが多く、ここでも村長の個人名はまったく記

    載されていない。 11 イーンサダー村:この村の名前も、ときにミーンサダー村あるいはイーンサ村と表記されている。 12 45 年のシッターン。ボードーパヤーの治世(1782-1819)に行われた王国の地方社会センサス。緬暦 1044-45 年(西暦 1782-83 年)に実施されたこの調査は、もっとも多くの地方社会をカバーしており、このシッターンの記録がこうした裁判においてはきわめて重

    要な参照枠組みになっている。 13 ミェダイン:そもそもは土地を測るという意味で土地配分を行ったものを言ったと思われる。転じて村長の意味でもしばしば使用されている。 14 Toe Hla, op.cit., p.128.

    5

  • 王国の核心地域であるので、王権に対する世襲の職務を担うアフムダーン(Ahmudan)人口の比重が高く、18 世紀の 80 年代には、世帯数の 8 割近くがアフムダーンであったことが知られる15。

    さて、イーンサダー村の村長のフルットーへの上告の訴状は、以下のようなものだっ

    た。 ミンガラー・シュエマウン歩兵隊長ガ・ボオヤ16とイーンサダー村の村長、 ガ・サン

    ニェインの申し立て

    私どもの領地にある椰子を枢密院のお求めに答えて伐採しようとしたところタウンジャ

    ー村の村長、マヂーゴウン村の村長らがこれを妨害して枢密院に訴えたので、私どもは管区

    騎兵隊長官17に拘束されました。ボー(ドー)バヤー王、ナウンドーパヤー王の御世にも妨

    害があり、当時の裁判の判決によって明らかに得ていた土地を、後々の現在になって、こう

    した判決の存在にもかかわらず再び妨害してきたのです。

    .......管区騎兵隊長官による拘禁を解いて、領地の件について証拠を調べてください。

    証拠の力が同等だったら、奪われた土地を均分に分配するという判決を下してください。茶

    を交わして食べる18必要があります。

    ボードーパヤー王、ナウンドーパヤー王の御世から、今上陛下の現在に至るまで引き続き

    手放すことなく治めている領地でございます。過去の土地争いでは、タウンジャー村が水か

    ら現れて敗訴しました。イーンサ村は水の中に潜っていることができました19。勝訴した判

    決を記録した判決文などもあります。シンビューシン王(から)今上陛下まで 70 年以上の

    間.....、タウンジャー村の村長が異を唱えて争うことはありませんでした。 45 年のシッ

    ターンにおいても村の土地とされている範囲に、この砂糖椰子の林が含まれておりました。

    ドゥインゼーヤボゥも、タウンジャー村の 45 年シッターンのリストに載っているものの子

    孫代々の村長ではありません。20

    15 緬暦 45 年(ビルマ暦 1245 年、西暦 1783 年)のシッターンによれば、ザガイン地方の人口構成は、アフムダーン世帯が全世帯数の 79%を占めていて、王国の全領域の中でも最もアフムダーン人口の比率の高い地域となっている。 William Koenig, The Burmese Polity, 1752-1819:Politics, Administration, and Social Organization in the Early Kon-baung Period, Center for South and Southeast Asian Studies, The University of Michigan, 1990, p.245. 16 ガ・ボオヤという歩兵隊長は、記録の中でここでのみ現れ、ガ・サンニェインとの関係、村との関係は不明。 17 管区(taik)とは、17 世紀末に勅令を持って定められた、村、ミョ、タインを越える広域の行政範囲であり、当時は王国を 7 つの管区に分割した。Than Tun, The Royal Orders of Burma, A.D. 1598-1885, Part I, 1983, pp.xi-xiii.参照。 管区の騎兵隊すべてを統括する長官をミーンダッ・ボゥと呼び、この事例では、当時のミーンダッ・ボゥは、ネーミョ・

    シュエダウン・チョオドゥ・ノオヤターという称号で呼ばれる人物であった。 18 この茶とは、発酵させた茶の漬物。茶を交わして食べるということは双方が同意したという意味を持ち、コンバウン時代の裁判では、判決の後にこうした儀礼が行われた。 19 この記述から、数十年前の判決は潜水審判によるものであったとわかる。 20 Toe Hla, op. cit., pp.116-117.

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  • すなわち、イーンサダー村村長、ガ・サンニェインの訴えをまとめると、その要点は以

    下のようになる。 1)70 年以上前にもこの土地をめぐる争いがあり、そのときに行われた潜水審判に勝

    利したイーンサダー村が得た土地であること、その判決の記録もあること。 2)係争の砂糖椰子林は、1782/83 年に行われたシッターンにおいても村の土地の範

    囲に含まれている。 3)現在のタウンジャー村の村長ドゥインゼーヤボゥは、正しい村長の血統の者では

    ない。 4)管区騎兵隊長官による拘禁を解いてほしい。 これに対してタウンジャー村の村長は以下のように反論している。 ビルマ暦 1202 年カソン月白分 10 日21のタウンジャー村村長のドゥインゼーヤボゥの供述

    私どもの管轄地(スィーインズ)であるタウンジャー村の中にある私の村の者が所有してい

    る砂糖椰子をイーンサ村村長ガ・サンニェインが伐採しようとしておりました。……タウンジ

    ャー村の中にある私どもの住民の所有する椰子でしたからこれを阻止しました。

    この土地問題が解決しませんので、管区騎兵隊長官へ訴えたところ 45 年の両村のシッター

    ンに照らして審査し、その判決に双方が同意し茶を交わして食したのですが、イーンサ村の村

    長ガ・サンニェインは決着したと認めず、長期間にわたってここに居座っておりました。それ

    ゆえ管区騎兵隊長官が彼を監禁したのです。この件については、すでに同意して茶を取り交わ

    して食した判決があります。

    タウンジャー村の正統な(村長の)血脈ではないガ・チョオフラと潜水審判をしたといって、

    わがタウンジャー村の正統な村長が負けたのだと主張することはできません。....それについ

    ては、ガ・チョオフラとイーンサ村の村長ガ・アウンミョウとガ・ウー3 人を尋問して、ガ・

    ウーがタウンジャー村の正統な村長であることが究明されています。正統な(村長)でないガ・

    チョオフラとイーンサ村の村長ガ・アウンミョウらが潜水審判を行った、そしてその判決文が

    あると言わせるわけにはいきません22……。

    タウンジャー村村長の反論の要点は、 1) 砂糖椰子の土地はタウンジャー村の村人の所有地である。 2) 椰子葉の伐採をめぐって係争となり、管区騎兵隊長官に訴えた。その判決には双方

    の村が同意した。(茶を交わして食した) 3) しかるにイーンサダー村の村長ガ・サンニェインは、これを無視してこの土地に 3

    ~4 ヶ月居座っているので、管区騎兵隊長官が拘束した。

    21 西暦 1840 年 5 月 10 日。 22 Toe Hla, op.cit., pp.118-120.

    7

  • 4) 過去に潜水審判を行ったものは、タウンジャー村の正統な血筋の村長ではない。(したがって潜水審判の結果は無効である)

    ということになろう。 フルットーはこの事件を受理し、1840 年 6 月 6 日にパガン大臣の役所において、騎兵隊管轄大臣、サレー・パカンゲー・ミョウザー23大臣らが参集し、アテー管轄副大臣

    24が陪席する中、過去の判決文等をフルットーへ提出したうえ、上告するようにと命じ

    た。一週間後の 6 月 13 日(ビルマ暦 1202 年ナヨン月白分 13 日)には、ウンシンドー・ヨー・ミョウザー大臣、騎兵隊管轄大臣、サレー・パカンゲー・ミョウザー大臣の三人

    がアテー管轄副大臣の陪席するところで以下の決定を下している。 (フルットー)判定25

    イーンサ村の村長ガ・サンニェインとタウンジャー村の村長トゥインゼーヤボゥらの取調べ

    の中で、両村が提出した 45 年シッターンにより(下された)管区騎兵隊長官の判決を両者が

    茶を取り交わして食べたとおり、最終的に受け入れよ26。

    この判定そのものは、きわめて短くあっけない。しかし、この境界紛争が現実に決着

    するためには、むしろその後に行われた一大ページェントが大きな意味を持っていた。 フルットーの裁定がでた約2ヶ月後の 1840 年 8 月 18 日、イーンサダーとタウンジ

    ャー村の村長、各村の長老たち、そしてフルットーから派遣された書記、管区騎兵隊長

    官の書記らが参集して、村の境界を定めるために以下のような盛大な行事が執り行われ

    た。その記録の見出しは以下のとおりである。 管区騎兵隊長官による決定、その茶を交わして食した判決に従って最終決着にせよと命じ

    たフルットーの判決により、フルットー書記のガ・ティーン、見習いの27ガ・マー、管区騎兵

    隊長官、書記のガ・カー、見習いのガ・パロウッ、両村の村長、長老たちがそろったところ

    で 45 年のシッターンに記されている領域の標識どおりにミーンサダー村の村長ガ・サンニェ

    インが誓約文を持って行進した道筋の記録28。

    つまり、訴訟の当事者が多くの関係者の見守る中で、誓約文を掲げ、誓詞を唱えなが

    ら、村の境界線となるべき道筋を(おそらく騎乗して)歩いてみせたのである。最初に

    23 サレー地方、パカンゲー地方の領主(ミョウザー)である大臣という意。 24 アテー(athi) とは、租税負担はあるが、世襲の職、役務を課されていない人々。自由民、平民と訳されることもある。 25 ここでは、判決文(ピャッサー)という語ではなく、要点、論点などの意味で使われるカウッチェッという語が使われている。この語も判決の意味で使用されうる。 26 Toe Hla, op. cit., p.120. 27 原語はlu-lin、従者、若者、小使などの意。 28 Toe Hla, op.cit., p.121.

    8

  • イーンサダーの村長、ガ・サンニェインが、ビルマ暦 1202年ワーガウン月黒分 6日(1840年 8 月 18 日)、誓約文を掲げて誓詞を唱えながら行進した。45 年シッターンに記録されている池の傍を最初の標識とし、そこからガ・サンニェインは西に向かって歩をすす

    め、参集した関係者も後について行進した、とある。 その道筋が以下のように記録されている。 西方には、ミッピョウ川に向かって歩き、タマリンドの池にぶつかるモゥソゥのタマリンド

    の樹まで。

    西南に向かって水田が尽きるところのハネビロバランの樹まで。

    アナウットーグン・パゴダ、 北へ歩いてタマリンドの三辻まで。

    そこから西南に向きを代えて、塩田のココ椰子まで

    西の方角へ牛車道を歩いて石積みのところまで。

    西の方角へその牛車道を歩いてポンナ29の大きな水田まで

    池の間のコゥコゥの樹、パンカーの樹、ベンガル菩提樹まで

    そこから西北方向に、田畑、ザウンチャンの樹、さらに西北にガ・パッウンの田を横切って、

    ズィービンの丘、タナウンの樹、西北に向かって、砂糖椰子の二差路。30

    続いて翌日、ワーガウン月黒分 7 日(1840 年 8 月 19 日)にはタウンジャー村の村長ドゥインゼーヤボゥが誓約文を持ち、誓詞を唱えながら同じように歩いた。参集した

    のは、同じく当事者の村長二人および同じ顔ぶれ、すなわちフルットーの書記、従者、

    管区騎兵隊長官の書記と従者、そして両村の長老たちである。ここで、ドゥインゼーヤ

    ボゥは、45 年のシッターンに記されているベンガル菩提樹が、遥か昔に川水に流されて失われていることを参集した関係者たちに説明し、タラインジュン村の北方、マンゴ

    ー樹の丘を流れる川の上方の畑の柵を最初の標識とした。ドゥインゼーヤボゥは誓詞を

    唱えながら、そこから東に向かって進んだとある。その行進も以下のように記録にとど

    められた。 東方向に向かってタマリンドの樹、東に進んでチークの雄木と石柱、

    東南方向に進んでラセモサの樹の切り株、東南にアセンヤクの低木。

    東南方向に砂糖椰子三本、単一のクゥン、手斧(?)、東南方向に牛車道の北側に、ゴバン

    ノアシの樹、東南に田畑、ウダノキ、長刀1丁、その方向に畑地の柵、ナベーの樹、砂糖椰

    子 手斧1丁、牛車道まで。その牛車道を歩いてマジーカン川まで。マジーカン川をイーン

    サ村の水田を通り抜けて、ミッピョウ川に添って川の終点まで。

    29 ポンナとはバラモンを指すビルマ語。「モウソウ(猟師)のタマリンドの樹」と同様、「ポ

    ンナの大きな水田」についても名の由来はわからないが、当時の近隣の人々には、標識に

    なるほどよくわかる名前だったのだろうと推測される。 30 Toe Hla, op. cit., p.122.

    9

  • 以上、タウンジャー村村長トゥインゼーヤボゥが誓詞を唱えて歩いた道31。

    二人が歩いて示した領地の境界は地図に書かれたとあるが32、地図は残っていない。 その後再び、45 年シッターンと照合し 9 月 22 日には、フルットーが最終決定を行っている。その内容は、両村長が歩いた道筋、そして提出した証拠は同等であるので、管区

    騎兵隊長官の判決を受け入れ、争いの生じた土地を半分に分けて治めよというものだっ

    た。33 この判決に従って領地の分割が行われ、1840 年 9 月 29 日付けで以下のよう分割記録が残されている。 分割予定地にミーンサダー村の村長、ガ・サンニェインと村の長老5名と対するゼイテッタ

    ウンジャー村の村長ドゥインゼーヤボゥと村の長老 6 名らと、管区騎兵隊長官の命により分

    割に当たった書記ガ・カー、ガ・ウンと見習いのガ・プレー、当事者がそろって集まり、同意

    の下に分割した。(中略)

    村長二人が誓約して歩いた道筋の中のガ・ターサン、ガ・タートゥンら二人が所有する土地

    の境界の畑地、垣根、小川のそばに、訴訟の当事者の二人、村の長老たちが同意して最初の標

    識を中央に置き、(中略) ミーンサダー村長ガ・サンニェイン、ゼイテッタウンジャー村の

    村長ドゥインゼーヤボゥの両名が同意して記録した領地の区分、垣根、樹木、丘、扇椰子、パ

    ゴダ、樹木と川の泊り、両名が誓いを立てて歩いた道の中、ガ・サンニェインが誓いを立てて

    歩いた道の尽きるところ、菩提樹の傾斜地から北へタウンジャー村の村長が誓いを立てて歩い

    た道のそばのチービン樹までしるしを定めた。誓約の道の中の中央の、ガ・サンターとガ・タ

    ートゥンらが所有している土地、垣根と川のそばを最初の標識として、書記、見習い、村長両

    名、両村の長老たちが同意して分割記録した。

    管区騎兵隊長官の下で、(中略)村長両名、両村の長老、書記の青年らが分割したとおりに

    誓約の道を真ん中にして北側をミーンサダー村長ガ・サンニェインのミーンサダー村の土地

    に入れて統治させなさい。誓約の道の中央に上って分割したとおり、南側をゼイテッタウン

    ジャー村の土地に編入して、ゼイテッタウンジャー村の村長ドゥインゼーヤボゥに治めさせ

    なさい。

    以上のように領域を分割した。両名、両村は満足し受け入れ同意した。茶をともに交わして

    食した。その日は、1840 年 9 月 29 日(ビルマ暦 1202 年ダディンジュ月白分 4 日)であった。

    茶を供したのは見習いのガ・プゾ-である34。

    31 Toe Hla, ibid., p. 122. 32 Toe Hla, ibid., p. 124 33この判決は、パカン大臣が下したもの。陪席したのは、ウンシンドオ・ヨーミョウザー大

    臣、騎兵隊管轄大臣、サレー・パカンゲー・ミョウザー大臣、イェイナンジャオン・ミョ

    ウザー大臣の 4 名であった。Toe Hla, ibid., p. 124-25. 34 Toe Hla, Ibid., pp.127-128.

    10

  • 目撃記録 この事件については、当事者による記録のほか、両村長が誓約を掲げて行進したのを目

    撃した記録も残されている。“ビルマ暦 1202 年タザウンモン月、シュエボー王の時代、領地争いでミーンサダー村長ガ・サンニェインとゼイテッ・タウンジャー村の村長ドゥイン

    ゼーヤボゥが誓約書を掲げて行進したとき、参集した人々、ついて歩いた人々に知らしめ

    るため事情を記録させた文書”35というタイトルで記録されている。それによると、この誓

    詞を唱えながら行われた行進は、訴訟の当事者、村の長老、フルットーの書記と見習い、

    管区騎兵隊長官の書記と見習いのみならず、近隣の村落を巻き込んでの、一大イベントで

    あったことがわかる。タウンジャー村のドゥインゼーヤボゥが行進した 8 月 19 日についての記録は以下のとおりである。

    ・・・1202 年ワーガウン月黒分 7 日(1840 年 8 月 19 日)の吉祥の刻に周辺の村の村長、

    長老、男も女も大勢やってきて、タラインジュン村、マヂーゴン村の男も女もみな大変喜ん

    で、景気よく楽器を打ち鳴らし、踊り跳ねた。タラインジュン村では祭りを催した。

    タラインジュン村はやってきた人々を充分にもてなし、ご飯、菓子、飲み物などを振舞った。

    (中略) (行進には)村人がキンマや水を左脇に抱えて 20 人から 30 人ほど参加した。

    ミーンサダー村の村長、ガ・サンニェイン、村の長老たちもそれを見届け同行した。タウン

    ジャー村のパゴダ建立施主ウー・シュエウーは村の若い者たちを率いて演奏し、踊りながらつ

    いてきた。周囲の村の村長、長老も好意を示して、見物が 300 人から 400 人ほどついて歩い

    た。

    ムー川の岸の泊の最初の標識から出発して、(中略)石柱から歩いて樹木、扇椰子、マジー

    コン川、イーンサ村の中央を通って進んだ。イーンサ村の土地の東端の川のそばにタウンジャ

    ー村の住人のパゴダ建立施主、マウン・フマイン、ウー・シュエミーン、パゴダ建立施主メー・

    イー、メー・アウン、メー・フラエイ、メー・エインビエ、メー・ヤウらと男女青年娘たちが

    出迎えて祝った。マジーカン川を歩いてミッピョウ川の尽きるまで誓約文を持って歩いたとき、

    陽も暑からず、雨も降らず、障害物も無く平穏にミッピョウ川の端まで到着した。書記の見習

    いが誓約の文書を持って歩く事業が完了したとつげ誓約文を預かった。誓約文の書記若者らが

    受け取り、同行した馬も手綱、飾りをつけており、そのうえ 3 度大きな声で嘶いたのを、大

    勢の見物たちが聞いて驚き、褒め称えた36。

    村に帰ってくると、村の入り口では女性のパゴダ建立施主ら 6 人が立ち並び、吉祥の請願を行い潅水供養した、家に到着したときも村長は身にまとっていた衣装装身具のまま

    で、家人知己らが吉祥の誓願を唱え水を降り注いだ、とある。 記録は、“終わり近くになると大雨が降ってきた。見物たちも村に帰っていった。誓

    願文を携えて道を歩いたとき瑞祥があったことを明らかにして、後々の子孫が覚えてお

    35 Toe Hla,ibid., pp.128-132. 36 Toe Hla, ibid., p.141.

    11

  • くようにしたためた文書”という言葉で終わっている37。

    2-2.タウンミョ村・村長 対 タウンジャー村・村長 第二の事例はパガン王の時代に起こったタウンジャー村とタウンミョ村の領域争い

    である。この事例では、堰での漁労をめぐってこの堰がどちらの村に属するかというこ

    とが争われた。双方とも騎兵隊の村であり、タウンミョ村の村長はドゥインイェーティ

    ン38と言うブエ(欽賜名)で記されている。タウンジャー村の村長は、事例 1 に登場したのと同一人物ドゥインゼーヤボゥである。 原告のタウンミョ村の村長、ドゥインイェーティンの訴えは次のようだった。

    私の治める領土の中で、タウンジャー村の住人のガ・シュエヌ、ガ・シュエニェイン、ガ・ト

    ゥ、ガ・シュエフモンら総勢 20 人を超すものたちが堰の中で魚を盗み獲り食べております。彼

    らはならず者で制止することができません。 法に添って尋問し、彼らと戦うため申し立てまし

    た。

    私の祖父母が亡き後、私まで 4 代の王の御世を通じ、シュエダイに納められた 45 年のシッ

    ターンにあるとおり、今に至るまで引き続き租税、訴訟費用などを徴収し納めてまいりました。

    いかなる年にも、タウンジャー村の村長が主張する領土の中で統治したり、租税を徴収したりす

    ることはありませんでした。シッターンによる私の領土は、北は沼の取水口のタマリンドの樹の

    境界、もう一方は白い宿坊、ガ・カレーの…退役騎兵隊の土地に接し、東北は、レイッタウンの

    洞窟とタウンジャー村の土地、ガ・ニェインのポンサウン騎兵隊の土地と接し、東は、水牛を飼

    うフサナリイチヂクの樹の境界でタウンジャー村の土地と接し、南はコンチンナアカシアの茂み

    の境界でタウンジャー村と接しており、この中の領域で川をせき止めて魚を取っていたわけであ

    ります。39

    これに対してタウンジャー村村長ドゥインゼーヤボゥは以下のように反論している。 (1210 年ナヨン月白分 2 日(1848 年 5 月 4 日)、タウンジャー村村長ドゥインゼーヤボゥ、

    息子ガ・クー、ガ・シュエヌ、ガ・シュエニェイン、ガ・ウー、ガ・シュン、ガ・シュエフモ

    ンらの弁解)

    我々の村の住民 20 数名は、タウンミョ村の村内の堰で魚を取ってはいません。タウンジャ

    ー村内の堰でのみ魚を取っているのです。この堰は、老若の力を合わせてせき止めた堰です。

    この主張は 45 年のシッターンの記録するとおりであり、領域の区分と一致しています。タウ

    ンミョの村長トゥインイェーティンが新しく区画した領域はわれわれの 45 年のシッターンに

    含まれている領地の中にあり、われわれが現在までずっと代々の王の御世に渡り長期間、統治

    し租税を徴収してきた土地であります。 37 Toe Hla, ibid., p.142. 38 ドゥインイェーティン:称号(bwe)であり、欽賜名。この村長についても生得の個人名は、記載されていない。 39 Toe Hla, op.cit., pp. 133-34.

    12

  • 領地は水牛の放牧地のフサナリイチジクの樹からヌワクーチービン、そこからオーボー(?)

    タマリンドの樹、パウッ川の岸、そこからウエッタウンガーの取水口、そこからボーミンジー・

    ナッの宿るタマリンドまで。これらの標識で区切られた土地の中ではタウンミョの村長トゥイ

    ンイェーティンが治めていたことはありません。われわれタウンジャー村の村長の 45 年のシ

    ッターンに含まれている土地は、南は石門まで、ガ・ボージーの土地に接し、西南は、チー村

    のパウッ川まで、西は小川が曲がって流れる丘のティッニョウの樹までが、45 年のシッター

    ンに含まれている領地です40。

    この紛争を最初に取り調べたのは、両村長の上司にあたると思われる騎兵隊長(myin gaung)であり、彼は、両村の村長に 45 年シッターンを提出するように命じた。しかし、タウンジャー村の村長と、その息子や仲間は、管区騎兵隊を統括する騎兵隊長官の

    下で調べを受けたいと法廷の変更を申し出た。この申し出に対し、騎兵隊長は直ちに許

    可を与え、村長二人もその決定に同意したしるしに茶を交わして食べたとある。41

    管区騎兵隊長官42は、この件を受理して 1848 年 6 月 10 日、両村の村長に 45 年のシッターンの提出を命じた。両名はそれぞれシッターンを提出、6 月 26 日にこれらの提出されたシッターンをシュエダイッ43にあるシッターンとつき合わせて調べたところ、

    真正のものを提出したものとわかった。

    管区騎兵隊長官の判決は、7 月 29 日に下され、以下のとおりだった。 欲望、恐怖、怒り、愚昧の四種の悪業の中で、愚昧の悪を除く三種の悪業に従ってはならな

    い。・・・・

    両者を取り調べ、その言い分を法に照らして聴取したが、タウンミョ村とタウンジャー村は

    他人ではなく、となりあって暮らす隣人同士である。訴訟で徹底的に争ってはならない。事を

    大きくしてとことん訴訟で争えば、費用もかかるし、疲労もすることを省みて、現在の係争の

    領地をヌワクーと呼ぶチャウッの樹から西北にセッタウンカーの沼、タウンナカーンの用水路

    の堤防、スィッピンの樹、そこから西北にペーディーと呼ぶタマリンドの樹、そこから西北に

    ボーミンジーのナッの宿るタマリンドの樹、チュエッケー・パゴダ、文書に記載されているス

    ィッピンから南側をタウンミョ村の村長トゥインイェーティンが統治し、タウンミョ村の土地

    としなさい。 北側をタウンジャー村村長が統治しタウンジャー村の土地とせよ。・・・

    費用は使ったものが支払うこと。領地の問題、漁撈の問題でまだ言い分があるといわず、こ

    40 Toe Hla, ibid., pp.135-136. 41 Toe Hla, ibid., p.137. 42 この時の管区騎兵隊長官は、“ディンメーのミョウザー、イェーベッ騎兵隊将校閣下、マハーミンティンミンガウン”とも書かれている。ディンメー地方の領主であり、マハーミ

    ンティンミンガウンという称号の持ち主であったことがわかる。 43 シュエダイッ:王宮宝物殿と訳されることもあるが、当時の行政文書を集約、収蔵するアーカイブズでもあった。

    13

  • れにて解消しなさい44。 この判決を両村長とも受け入れ、茶を交わして食した。そのとき同席した立会人たちは、タウンミョ

    村の住人、尖塔の施主ウー・ベイ、パゴダ建立施主ウー・シュエウー、僧院施主ウー・カンヤ、タウン

    ジャー村の住人パゴダ建立施主マウン・シュエトゥ、僧院施主マウン・ミャッハン、僧院施主マウン・

    シャンチー、パゴダ建立施主マウン・タヨゥ。茶を供したのは、タウンミョ村住人ガ・ミャッケー、書

    記はガ・パウン45。

    この裁定では、判決文(ピャッサー)と言う言葉が使われているが、その内容は上に見る

    ように説諭から始まり、和解を促すものである。事実認定についてはほとんど触れず、係

    争地を線引きし折半して両村に分割せよという結論であり、裁判費用についても折半する

    ようにというもので、和解勧告あるいは説諭文(ソーンマ・ザー)のように読める。 3. 村の領域・境界

    以上の二つの事例から見る限り、1840 年代の中部ビルマの村落では、隣り合う村と村の間の境界は、必ずしも明確なものではなかったことが窺われる。こうした村の領域

    を巡る紛争が裁判沙汰になったとき、裁判官が騎兵隊長であれ、フルットーの大臣であ

    れ、最初に訴訟の当事者たちに提出を命じているのが、ボードーパヤー王の時代に行わ

    れたビルマ暦 1145 年(西暦 1783 年)のシッターンである。村長らが保持しているシッターン(写本)が提出されると、そのシッターンが本物であるか否か確認するために

    シュエダイッに保管されているシッターンの原典と照合される。 過去の判決や当事者

    の尋問以上に、領土紛争解決のためにもっとも重要な参照枠組みとなっているのがこの

    シッターンである。シッターンは当該の村長が過去に王権によって安堵された正しい村

    長の系譜に属するものであるかどうか、そしてまた係争の地がどちらの村に属するかに

    ついての判断の最大の根拠として扱われている。 しかしシッターンという文書は、最後に添付したタウンジャー村とタウンミャ村の

    45 年シッターンに見られるように、領地の確定という点から見ると実際には大きな困難を抱えている。 なぜならば、シッターンは当該のミョや村落の領域を以下のように示すからである。

    つまり、シッターンは、ミョや村の領域を、 ミョや村の中心46から東の方角へ向かっては、(特定標識A)まで、東南に向かっては

    (標識B)まで、南に向かっては(標識C)まで、南西に向かっては(標識D)まで、というように、四方あるいは、八方に向かってそれぞれの標識までを提示し、その標識の地点

    44 Toe Hla, op. cit., p. 142-43. 45 Toe Hla, ibid., p. 144. 46 中心地というのは地理的な中心ではなく、ダヂー(長)の居所を指していると考えられる。う

    14

  • での隣接する他者の土地を明示しているだけだからである。標識となるのは、川、池、

    樹木などの自然物のほか、パゴダ、石柱、あるいは田畑の柵などの人造物でもありうる。

    タウンジャー村の村長が示した川に流された菩提樹のように、これらの標識はときに失

    われたり、動いたりもする。 タウンジャー村のシッターンの場合は、中心からそれぞ

    れの方角の標識までの距離が 1 タイン強、1 タイン200などと記させているが、これらの数字はおよその概数で実測とは思われない。

    以上のようにシッターンに記録されたミョや村の領域は、決して境界線によって区切

    られ完結した空間としては存在していない。東西南北の方角に、それぞれ境界標識が他

    の村落や集団に属する土地との接点として認識されているだけであり、その点と点の間

    には明示的な境界線は存在しない。 具体的なある特定の地点において複数の村の利害の衝突が生ずると、その帰属を定め

    るため線引きの必要が浮上する。しかし、こうした境界線はそもそも存在していないし、

    シッターンも四方八方の標識や、その地点での隣接地を記すのみで、必ずしも解答を与

    えることができない。 そこで、事例 1 ではシッターンに記された標識を参照しながらも、多くの聴衆の見守

    る中で訴訟の当事者である双方の村長が誓詞を唱えながら行進してつくられた道筋が、

    新たに境界線を形成している。この行進は、当事者と少数の関係者によって行われるだ

    けでなく、近隣の村落を巻き込んで音楽と踊り、そして饗応が付随するにぎやかな行事

    として営まれ、そのことによってこの新しい道(=境界線)が立ち会った関係者、周辺

    の村々の有力者そして村人たちの聴衆の記憶の中に刻みこまれる。紛争当事者の村の間

    に了解を形成するだけでなく、近隣の村落の参加、了解、記憶を得たことがこの新しい

    境界線の存在を確かなものとして保証しているのだと考えられる。 しかし、このページェントによって新たに創出された境界線は、おそらくタウンジャ

    ー村とイーンサダー村の間だけの境界線だったと思われる。行進の出発点と、終着点が

    異なった地点として記録されていることから、行進によって作られた新しい道=境界線

    が、それぞれの村の完結した境界線を作るものではなかったことがわかる。村の地理的

    身体(ジオボディ)は未完成のまま残されているのである。 事例の 2 の紛争でもシッターンが提出され、参照されるが、係争の堰の帰属という問題の回答はそこには見当たらない。裁判に当たった管区騎兵隊長官の裁き=調停は、争

    いの無益さを説いて聞かせたうえ、係争が生じた区域の土地を西北の線で二つに区切り、

    その北と南の半分ずつを両村にそれぞれ取らせて解決すると言うものだった。この事例

    では、近隣の村を巻き込んだページェントなどは行われていない。しかし両村から、パ

    ゴダ建立施主に代表される複数の有力者を証人として立ち合わせ、係争地における新し

    い境界線の認知を地域社会の中にもたらそうとしている。ここでも村全体を包括する境

    界線が創造されたのではなく、係争地点の線引きが行われたにとどまっている。

    15

  • 4.境界紛争の解決・調停のシステム 4-1.シッターンの参照 上に見たように事例 1 でも、事例2でも、紛争が生じた特定の土地、砂糖椰子林や堰

    がどちらの村落に所属するかという点について、45 年シッターンは明確な解答を与えていない。事例 1 では誓詞を唱えて両村長が歩いた道を境界線として、その北側と南側をそれぞれの村の領地として配分している。事例 2 では、結局争いが生じた区域の土地を半分に分けて治めよという判決となっている。 このように実際の判決内容に対しては、必ずしも解答の指針を与えることができない

    シッターンではあっても、その参照がきわめて重要なこととして重んじられている。こ

    こから推測されるのは、当時、複数の地方社会の間に生じた紛争、とりわけ境界紛争の

    解決のためには、最終判決の内容と同等にあるいはそれ以上に、解決に至る道筋が重要

    であったということではないだろうか。 王権と地方社会を結ぶ文書であるシッターン

    とその参照は、紛争解決の手続きに正統性と権威を与えるために、欠かすことのできな

    い文書であり、手続きであったと考えられる。つまり、争いの当事者たちに裁きの権威

    を感得させ、裁定を無理なく受け入れる心理的状況を生みだしてゆく装置の一つとみな

    すこともできる。 4-2.裁判官=調停者 タウンジャー村とタウンミョ村は、ともに騎兵隊の村であった。イーンサダー村は、

    下士官が村長を務めている村と書かれているので、この村もまた王権に対して世襲の役

    務(軍役)を義務付けられた階層であるアフムダーンの村であったと推定できる。こう

    した村の間に生じた紛争は、両者にとっての上官が裁くことが多い。事例1では、過去

    に管区の騎兵隊長官が裁定し、両村長は茶を交わして食した、つまりその裁定に同意し

    たことが記されている。にもかかわらず、実際には不服を抱えていたイーンサダーの村

    長が、フルットーに上告している。フルットーによる裁定は、過去の判決(裁定)を覆

    すものではなく、基本的に管区騎兵隊長官の裁定(その具体的内容はここでは不明だが)

    を踏襲するものだったことがフルットーの裁定文から窺える。しかしフルットーでこの

    件が取り上げられ審理を受け、さらに近隣村落を動員したページェントを経ることによ

    り、裁定の内容が両当事者に納得されるものになる、と同時に地域社会にも受け入れら

    れてゆくと言うプロセスが見て取れる。 事例 2 では、まず騎兵隊長のもとで裁判が開始されているものの、タウンジャー村側が、法廷の変更を申し出ている。より上級の管区騎兵隊長官の下での裁判を受けたいと

    言うのである。この申し出が騎兵隊長にも即座に受け入れられ、そして相手側のタウン

    ミョ村の村長にも受け入れられている。このように民事の訴訟において、誰の裁きを受

    16

  • けるかと言う点が、訴訟当事者の合意にゆだねられている例は、他にも見られる。 1856 年か 57 年にかけてシュエボー地方の隣り合う村の二人の人物、ガ・チャウッケ

    ーとガ・イーンが水田の帰属を争った事件47では、同じ事件が何度も裁判官を変更して

    長期間争われている。裁きに当たった人物は、パゴダ建立施主、ミョ・ザー48、村長、

    そして騎兵隊長などでいずれも地方社会の中で影響力を有した人々と思われるが、その

    身分や地位は多様であり、パゴダ建立施主のように尊敬の対象ではあっても、行政権力

    とは関係のない人物もふくまれている。一連の裁判のうち、騎兵隊長のもとでの裁判で

    は、一方に水田の権利を与えたうえ、裁判費用の負担を他方=敗者に命じる判決が出て

    いる。この騎兵隊長の判決に対して、敗れたものは茶を交わして食することを拒否して

    不服を表明した。すると、訴訟の両当事者は相談の上、両者が合意できる裁判官を選び、

    そこを次の法廷とすることに合意している。こうした事例から、コンバウン時代後期の

    民事訴訟においては、訴訟の決着点だけではなく、どこで裁判を受けるかというその開

    始時においても紛争当事者の合意が重要な意味を持っていたことが推測される。同時に、

    ミャ・セイン49らの過去の研究において民事裁判権が、所属する地方社会の長、村落で

    あれば村長、ミョであればミョ・ダヂーにあったとされている点は、かなり修正されね

    ばならないことがわかる。 地方社会の紛争においては、その裁きに当たるものは、必ずしも固定していたわけで

    はなく、可変的だったと考えるべきだろう。 4-3.茶を交わして食すことの意味 コンバウン時代の民事の裁判記録の最後には、茶を交わして食した(laphet hlan sa: )と言う文言が書かれていることが多い。訴訟の当事者双方がこの判決を受け入れ合意し

    たと言う意味である。たまに、laphet ma sa: (ya) (茶は食せず)と書かれることもあるが、これは同意が成立しなかったということである。合意が成立した判決を laphet sa: pyat sa (茶を交わし食した判決)と言う呼び方もある。ここでいう茶は、茶葉を発酵させた漬物であり、現在では広くピーナッツ、上げにんにく、ゴマ、油、魚醤などと混ぜ

    て、お茶請けとして食べられ、来客にも必ずと言っていいほど供される日常生活に欠か

    せない食品となっている。こうした茶の漬物の生産と消費の起源や歴史は不明だが、コ

    ンバウン時代には、茶の葉を産するシャン高原で生産され、行商人によって平野部ビル

    47 原典は、University Central Library、parabaik no. 151105。 Teruko Saito, “Enriching Early Modern Hiistory: the infinite potential of manuscripts”, in Teruko Saito & U Thaw Kaung eds., Enriching the Past, Preservation, Conservation and Study of Myanmar Manuscripts, 東京外国語大学大学院 21 世紀COE 「史資料ハブ地域文化研究拠点」2006 年 10 月、19 頁を参照されたい。 48 ミョ・ザー:特定のミョからあがる税を自己のものとする権利を与えられたもの。この権利は王族や大臣らに主として王より与えられる。 49Mya Sein (Ma) The Administration of Burma, London: Oxford University Press, 1938. p.66.

    17

  • マにも浸透するようになり、裁判においては欠かせない儀礼上の食物となっていた。紛

    争のあとに、双方がともに茶葉の漬物を食することは、和解と合意を表現するものとさ

    れた。 茶がなぜ和解、合意を象徴する食品となったかについては、つまびらかにし

    ないが、訴訟の着地点が、判決の言い渡しにではなく、訴訟当時者の合意形成にあった

    ことが窺われる。 4-4. 近隣社会の立会い、参加そして証人の存在 事例1の境界紛争の解決においては、裁判だけでなく紛争の両当事者が、新たに境界

    線となるべき道を、誓詞を唱えて行進してみせるというイベントによって作り出された

    「誓いの道」=新たな境界の形成とその地域社会による認知がきわめて重要な役割を果

    たしていた。このイベントには、近隣村落の積極的な参加があり、歌や踊りで場をさら

    に盛り上げる人々や、参加者に饗応を行う村などが見られ、地方ぐるみで行う祭典のよ

    うな様相を呈している。世代を超えて持ち越されてきた二つの村の境界争いの解消、調

    停の成立が、近隣村落を含めた地方社会にとって大いに歓迎すべき事態であったこと、

    また当事者を超えたより広い範囲での合意の成立が、この和解を支えていることがわか

    る。 このようにコンバウン時代の地方における紛争、訴訟の解決においては、当事者以外

    の人々による認知や支持が重要な役割を担っていたと考えられる。 事例2では、管区

    騎兵隊長の判決を両村長が受け入れたとき、立会い人(=証人)が7名同席し、その名

    前が明記されている。そのほかには書記と、茶を供したものがそれぞれ1名存在する。

    立会人は、タウンミョ村から3名、タウンジャー村から4名出ているが、いずれも宗教

    施設の施主(ダガー)であったことが注目される。パゴダの建立施主が3名、僧院施主

    が3名、尖塔の施主が1名である。 ダガー(女性の場合はダガーマ:施主、檀家)と

    は、宗教施設や井戸や池、宿坊の寄進者に対して使用される言葉で、本人の名前の前に

    尊称としてつけられる。ダガーであることは、当時のビルマ仏教徒社会においては、社

    会的尊敬の対象であることと同義であり、文書資料の中でこれらの人々は単に名前だけ

    でなく、必ずダガーと言う尊称とともに記されている。 両村の紛争の解決を見守るにふさわしい、村の中の有力者つまり影響力と威信を持つ

    人々としてダガーが立ち会って、紛争の解決を実効有らしめ、それを保障する役目を担

    っているのだと考えられる。 以上のことから、当時の地方社会の訴訟の解決のプロセスには、以下のような特色が

    あったと言えるだろう。地方社会に起こった紛争が裁判という場に持ち込まれたとき、

    いずれの法廷でも、事実の究明と言う側面も探求されているものの、それ以上に重要な

    目標は、合意をいかに形成していくかということにあった。事実認定によって勝敗、正

    邪を明らかにすると言うより、いかにもつれた争いに調停をもたらし、それを当事者を

    18

  • 含む社会的な広がりの中に定置させてゆくかと言うプロセスが中心となっているよう

    に思われる。すなわち争いあう心の状態を沈静化する方向にむけて発達したシステムで

    あり、それが地方社会に生じた争いを解決する主要な方法でもあった。 王朝ビルマの

    裁判においてよく指摘される”大きい訴訟は小さく、小さい訴訟は解消するように50“と

    いう格言が実際に紛争解決の場における生きた指針であったことが確認されるのであ

    る。

    附 タウンジャー村およびタウンミャ村の 45 年シッターン (事例 2 において、管区騎兵隊長官に提出されたもの)

    1)タウンジャー村村長トゥインゼーヤボゥが示した 45 年シッターン テッガイッ 1145 年タバウン月白分 10 日に北方管区にあるゼーテッ・タウンジャー村の村

    長ガ・ウー、日曜日生まれ(No.0)45 歳が調査に回答しました。この村をナンダヤが治め

    てきました。ナンダヤの亡き後、息子のガ・アウンボオが治め、その亡き後は弟のガ・スンボオ

    が治めました。彼の亡き後は息子幼名ガ・トゥエチー(ガ・フラチーと称す)が治めた。その亡

    き後は息子である私が治めております。

    領地は、東はおよそ 1 タイン51強はなれたティッパガン樹52、タマリンドの樹まで。パウッ

    トオ・サー(タインネッ53)のリンダルー騎兵隊の土地に背中合わせとなり、東南方面は、およ

    そ 1 タイン強離れたコンダンイェーレーのレーダウン池まで。ガ・ボオジーのダバイン・クエ

    ー村と背中合わせ。南には 1 タイン強ほど離れた石の門まで。ガ・ボオジーのダバイン・クェ

    ー村の土地と背中合わせとなり、南西では 1 タイン 200 ほど離れたところのチー村、パウッの

    小川まで。それらの土地に隣り合わせる。西方は、1 タイン強はなれた小川が曲がって流れてい

    るパウッフラ丘のティッニョウの樹まで、ガ・プのチャオンティン騎兵隊の土地と隣り合わせ、

    南西方面は 1 タイン強ほど離れた渡し場の菩提樹、小川の接岸所、チーク(の雄)の樹、石の

    柱まで、ガ・サンターのピンスィン騎兵隊の土地と接し、北へはマジーカン川まで、ガ・シュエ

    オーのサダー村の土地と背中合わせ。北東は、タンドゥイン丘陵まで。パウッ・トオサーのリン

    ダルー騎兵隊の土地と背中合わせ。

    われわれの領地の中には、シュエグー・パゴダの寺領地が 10 ペー、未墾地(マトゥインド

    オ?)ケインナヤの湖、その周辺に戦船 300054の土地、19 ペー、丘 1 ペー、(マトゥインドオ)

    砂糖椰子が一叢、三宝奴隷の土地 10 ペー、(マトゥインドオ)北側に騎兵隊の土地一箇所、村

    に居住する騎兵隊の食邑地、ガ・トゥンフラのトゥバーヨン・パゴダの寺領地 57 ペーのうち未 50 “kyi di zaga nge aun, nge di zaga pyauk aun siyin” 51 距離の単位。1 タイン=1000 ター=約 2.8 キロ弱。 52 樹木の和名、学名不明。 53 この用語がシッターンの中に頻出しているが、正確な意味はわからない。 54 3000 が何の単位かは不明。

    19

  • 墾地が 10 ペー、残りの 47 ペー、砂糖椰子一叢、パガン・シンビューシン王の黄金寺院の寺領

    地 29 ペー、未耕地の砂糖椰子5叢があります。ソーミンジーの寺院領地 1 箇所、シュエグー・

    パゴダ寺領地、トゥバーヨン・パゴダ寺領地、パガン王寺領地、戦船の土地からは、1 ペーにつ

    き、主税が銅 250 チャット、合金 25 チャット、イェーザー(?)25 チャット、?タインザー

    ()籾米 1 籠、贈り物として精米 1 籠、茶 1 包み、砂糖椰子税は椰子一叢につき寺領地、戦船

    の土地も同様の割合。ソーミンの寺領地、北側の騎兵隊の土地は、籾米 100 籠につきシュエグ

    ーの寺領地、戦船の土地も同率。奴隷の人頭税(ガウングエ)は1マッ、水牛は1ムー、牛は1

    ペー、水牛や牛が死んだら、アナン・ダヂーが食べることになっている。水牛、牛、馬が迷い込

    んで三年たっても持ち主が現れなかったら、長官に半分をお渡しする慣例である。1030年、

    1041年、1126年にいたるまで(以上のように)実行しております。以上お調べを受けて

    提出したリスト。

    2)タウンミャ村、村長トゥインイェーティンが示した 45 年シッターン ビルマ暦 1145 年トオダリン月白分 7 日(1782 年 9 月 2 日)バドゥン管区タウンミョ村の王の

    認証をいただいた村長、ガ・ミャッタテイ、月曜日生まれ(No.1) 46 歳にたずねたとこ

    ろ答えた。タウンミョ村を私どもの祖父ガ・カラーガ治めておりました。その亡き後、祖父の弟

    のガ・パンイェーが治めました。彼の亡き後、その息子である私の父、ガ・トゥンサンが治めま

    した。父の亡き後、私がまだ幼かったのでガ・ターノゥが治めました。ガ・ターノゥはチャウッ

    カー鉄砲隊の隊員ですので、鉄砲隊の招集を受けた後、私が伝統にそって子孫でありますので、

    引き継いで治めています。ほかにミェダインなどはおりません。

    村の土地は、東にはタパンの大樹、タウンジャー村のガ・ニェインのポンフニャウ騎兵隊の

    土地と接し、東南方向ではニャウンチャッ55の樹、ガ・ニョウウーのタバインクエー騎兵隊の土

    地と接し、南方面にはイェーレー丘陵の石柱、ダバインクエーの土地と接し、西南方向には宿坊

    と、同上のダバインクエーと接し、西方では、小川の西側の岸に沿い、沼とガ・ルンベッのスタ

    ウンピェ・パゴダの寺領地と隣接し、西南方面では小川の入り口の菩提樹、ガ・プのムーダー・

    チャオンティン騎兵隊の土地と接し、北方では水溜りのタマリンドの樹、白い宿坊、ガ・カレー

    のピンズィン騎兵隊の土地と接し、東北方面ではレイッタウンの窟、タウンジャー村の土地、ガ・

    ニェインのポンフニャウ騎兵隊の土地と接している。

    この八方の境界の中に、トゥパーヨゥン・パゴダの仏塔奴隷の土地があります。水田(耕地)

    はありません。地租は籾 100 篭につき主税が 10 篭、水利税が 1 篭と 1/4、タインサー56も、1

    篭と 1/4、贈り物 1 篭、干し肉一束、タバコ一掬い、サンガに僧衣を渡す習慣です。(以下略)

    55 クワの一種。Ficus Obtusifokia Ficus Cordifolia。 56 タインサー:この地方の慣行上の税、手数料の一種と考えられるが不明。

    20

  • モンゴル国立中央図書館所蔵「トルグート王統記」について

    宮 脇 淳 子

    0 はじめに

    本論は、報告者がモンゴル国立中央図書館で調査した、縦書きモンゴル文字で書かれた

    古文書にまつわる物語である。報告者が「トルグート王統記」と名づけた、この古文書は、

    かつてモンゴル高原で暮らしていたトルグート遊牧民が、1630年にヴォルガ河畔に移住し、

    ジューンガル帝国崩壊後の1771年、再びヴォルガ河畔からイリ地方に帰って、清朝の家臣

    になった歴史と、始祖から清朝末期に至る一族の系譜を記した書物である。古文書が清朝

    支配下で書かれたものである証拠に、系譜が表であらわされていることが挙げられる。

    続いて、古文書に記載された歴史内容を理解するため、報告者がこれまで研究してきた

    オイラト史の概説を述べながら、古文書の翻訳を試みる。

    次に、ヘディンの中央アジア探検隊に参加したデンマーク人ハズルンドが、1929年正月

    に天山山中のトルグート寺院で見た古文書「トレグト・ラレルロ」が、ウラーンバートル

    にある「トルグート王統記」と同じ内容であることを証明する。ここでは「ラレルロ」が

    何を指しているのかを考証し、ハズルンドの経験と新疆トルグート部の運命を述べる。

    中華人民共和国成立後、「トレグト・ラレルロ」は新疆で再発見され、1985年に縦書き

    モンゴル文字の活字体に直されて刊行された。そこで、モンゴル所蔵本と新疆本の二つの

    写本の比較をおこない、最後に「トルグート王統記」の著者の執筆の動機と、成立年代を

    考察する。本論の目次は以下の通りである。

    1 モンゴル国立中央図書館所蔵「トルグート王統記」

    2 トルグート部がヴォルガ河畔に移住するまでのオイラト史概説

    3 ジューンガル帝国崩壊後、トルグート部がヴォルガ河畔からイリに帰る

    4 「トルグート王統記」の内容紹介

    5 ハズルンドが新疆トルグートで見つけた古文書「トレグト・ラレルロ」

    6 ハズルンドが見つけた「トレグト・ラレルロ」の正体

    7 新疆で再発見された「トレグト・ラレルロ」とモンゴル所蔵本の比較

    8 「トルグート王統記」の執筆の動機と成立年代の考察

    参考文献

    付図(4枚)

    1 モンゴル国立中央図書館所蔵「トルグート王統記」

    モンゴル国の首都ウラーンバートルの中心部、スフバートル広場の南にあるモンゴル国立

    21

  • 中央図書館(Ulsyn Töv Nomyn San)に、伝統的な縦書きのモンゴル文字で書かれた一冊の

    古文書が所蔵されている。題名をラテン文字転写すると、次のようになる。

    Ünen sUsUGtU qaGucin torGud ba, basa cing sedkiltU sin−e torGud ayimaG−un qaGan noyad−yin

    uG UndUsUn−ni iledkil tUUki−yin bicig bui

    日本語訳をすると、「真の(ウネン)信仰を持つ(スジュクト)旧(ハグチン)トルグー

    トと、また、誠の(チン)心を持つ(セトキルト)新(シネ)トルグート部(アイマグ)

    の、君主(ハーン)領主たち(ノヤド)の根源(ウグ・ウンドゥスン)の表(イレトキル)

    歴史(トゥーキ)の書(ビチグ)である」となる。本論では、これからあと、この題名を

    略して「トルグート王統記」とする。

    この古文書は、手書き写本であるが、縦35センチメートル、横27センチメートルの39枚

    の洋風の紙の表裏に書かれ、書物として綴じられている。題名は、表紙の中央、二重線に

    囲まれた中に3行の縦書きで記されており、1行目と3行目は朱文字で書かれている。本文は、

    2枚目表(2a)から39枚目表(39a)にいたる75頁から成っているが、12a、13b、14b、15a、

    20a、25a、29a、37aは何も書かれていない。この理由については、あとで考証する。

    記載のあるうち、2bと38aの三分の二、38bと39aの計約5頁は、縦書きモンゴル文字の文章

    で全頁が埋められているが、3aから38aまでは、各頁五段の表から成っている。上記の白紙

    頁を引くと、63頁の表が記載されていることになる。もとの題名に「表」と「歴史」とあ

    るのは、そのためである。つまり、ほとんどの系譜の部分は、説明文とともに、同世代の

    兄弟と従兄弟などが同じ段になるように、表で書きあらわされているのである。

    表部分の見本として、本論文末尾に、筆者がモンゴル国立中央図書館の古いコピー機械

    で撮った、白黒コピーの頁(付図1)と、筆者自身がもとの三色の色分けがわかるように手

    書きをした頁(付図2)を掲載するので、参照してほしい。国立図書館のコピー機械が、ひ

    じょうに古くて調子が悪かったことと、文書の全頁をコピーする許可は当然出なかったた

    め、半分ほどの頁は手書きをし、持参した三色のボールペンを使って、原文書の朱色を赤

    で、緑色の部分を青で書き分けた。コピーをした部分にも、あとから赤のボールペンで傍

    線を引いて、朱色部分を明らかにした。日本の図書館と違って、ボールペン使用を禁止し

    ていなかったことを付け加えておく。

    約5頁ある文章の頁については、例えば、冒頭のお祈り部分、仏教を誉め称えた部分、チ

    ベットの高僧ツォンカパの名前、チンギス・ハーンなどの諸ハーンの名前、清朝の康煕帝、

    乾隆帝、さらにコロフォンの最後に記されている本文の著者、トイン・ゲロン・ゲルク・

    チョグデン Toyin GelOng GelUg ČoGden の名前などは朱書きである。3枚目から始まる系譜

    の中でも、部分的に人名が朱書きされているものがある。系譜中の朱書きの人名は、のち

    に詳しく述べるが、清朝から爵位を与えられた王公の名前であって、他と区別がつくよう

    に朱で書かれたのである。

    22

  • 白黒コピーの系譜の中で点線であらわされている部分は、緑色で書かれていた。説明の

    文章が長かったり、頁をまたがった父子関係があったりするために、緑色の点線を使って、

    父子関係を明らかにしたのである。

    さて、このように、系譜を表としてあらわし、祖先から何世代目であるか、また、兄弟

    や従兄弟などの同輩を明らかにしようとする思想は、じつは、モンゴル系遊牧民としては、

    きわめて新しい考え方である。

    あとで歴史の概説と文書の内容の考証をおこなうが、この「トルグート王統記」は、1771

    年にヴォルガ河畔からイリ地方に帰還したあと、清朝から爵位を与えられ、新疆に牧地の

    領有を認められた、新・旧トルグート両部の系譜である。ところで、ヴォルガ河畔に残さ

    れた、かれらの同族であるカルムィクに伝わっていた系譜を、フィンランドの著名なアル

    タイ学者、グスタフ・ヨーン・ラムステッド Gustav John Ramstedt (1873-1950) が、1903年

    の現地調査の折に、自ら筆写して持ち帰ったものが存在する。

    2003年にウラーンバートルで開催された、本COE主催のモンゴル史における文書資料研

    究調査に関する国際会議において、筆者はそのヴォルガ・カルムィクの系図と、カザン所

    蔵のジューンガルの系図について発表をおこなった。それらの系図のコピーはすでに報告

    書として刊行されている(宮脇 2005)が、そのカルムィク系図のコピーを、比較のために、

    やはり本論文末尾に掲載する(付図3)。このヴォルガ河畔に伝承された系図を見ると、生

    まれた順番がまったくわからず、始祖から何世代かについても無関心であることが明らか

    である。

    もともと伝統的な遊牧民の文化は、実力を重んじる世界で、長幼の順序は考慮しなかっ

    た。中国文明で顕著である、先祖からの世代の順位を示す「輩行」の思想も存在しなかっ

    た。父が死んだ後、実母以外の妻を娶るレヴィレート婚や、息子の嫁と結婚する、叔母と

    結婚する、などは、遊牧民世界ではごく当たり前の文化であったのである。

    ところが、本論で取り上げている「トルグート王統記」は、「輩行」を明らかにする表

    の形で、自分たちの祖先からの系譜を記している。このような思想は、清朝支配下におい

    て、はじめてモンゴル系遊牧民に生まれたものであると断言できる。

    1755年に「最後の遊牧帝国」ジューンガルを滅ぼし、1771年にヴォルガ河畔からトルグ

    ート部がイリに帰還したあとの1779年、清の乾隆帝は旨をくだして、『欽定外藩蒙古回部

    王公表伝』(以下、『王公表伝』と略す)の編纂を命じた。満洲語・漢語・モンゴル語の

    三体(三種類の言語)で記された各120巻の内容は、清朝支配下に入ったモンゴル諸部、チ

    ベット、回部の王公の封爵の承襲と、各部の総伝と列伝からなっている。

    題名に「表伝」とあるように、この欽定本の巻首から第16巻までは、清朝から爵位を与

    えられた各部の王公の名前を、各頁十行に分けた表にしてあらわしている。そのあとにつ

    づく総伝は、まず各部の住地を説明し、各王公の祖先をわかる限りさかのぼって文章で叙

    述する。本書は、清朝の宮殿である紫禁城の武英殿という印刷所から刊行されて、外藩の

    各部に頒布された。もっとも新しく清朝の家来になった新疆のトルグート部にも、爵位の

    23

  • ある王公に宛てて何部かが届いたはずである。

    この書物のモンゴル語の題名は、JarliG−iyar toGtaGaGsan GadaGadu MongGol Qotong ayimaG−un

    vang gUng−Ud−Un iledkel Sastir.「お言葉(ジャルリグ)によって定められた(トクタガクサン)

    外の(ガダード)モンゴル・ホトン(回)部(アイマク)の王(ワン)公(グン)たちの

    表(イレトケル)伝(シャスティル)」 と言い、モンゴル人の間では、「イレトケル・シ

    ャスティル」と呼ばれて、ひじょうに有名になった。「トルグート王統記」のもとの題名

    にある「イレトキル(表)」が、この言葉を借りていることから考えても、系譜を表であ

    らわしたのは、『欽定外藩蒙古回部王公表伝』の影�