2.2 博士課程の実現に向けて 上がるようになったものの、予算は...

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124 2.2 博士課程の実現に向けて (1) はじめに 明治維新で世界に目を聞いた日本は、先ずこれ からの国の形を決めることから始めなければな らなかった.このため明治 5 年、岩倉・大久保・ 木戸・伊藤ら明治政府の大幹部が揃って米欧先 進国の視察に出掛けた.そしてこれら先進国の政 治・経済・文化・教育・産業・交通・軍備等々 あらゆる面において学ぶべきことの余りに多い ことを痛感させられて、一年十ケ月にわたる視察 を終えて帰国した.その結果、殖産興業・富国強 兵等を政策とし、この国の進むべき方向をアジア 的停滞から脱して欧米先進諸国に追いつき、やが て追い越して行く方向へと設定した.教育につい ても欧米の制度をどんどん取り入れた壮大な構 想に基づいて、小学校から大学までの教育制度を 構築し、当時の貧弱な財政のなかで随分背伸びし た予算を組んで将来に夢を託したのであった.こ の明治の人達の理想主義とも見える教育に賭け た夢が百年後の今大きな成果を上げ、世界一の識 字率・国民の教育レベルの高さを誇り、それを基 礎として経済大国に成り上がったのである. 教育制度の得失はこのような長期的な視点か ら見ていくべきことで、明治時代に比し昭和の時 代が日本の教育の進歩にどれだけの貢献をした のであろうか.たしかに新制大学の設置は大いに 国民の教育レベルの向上に役立ってきた.駅弁大 学等と心無い悪口を叩かれながら、大学関係者は 劣悪な環境を耐え忍んでなんとか向上への道を 指向し、努力を重ねてきた.しかし特に理工系の 大学にとって積算校費・資格坪数の多年にわた る固定化(物価上昇、大型機械・留学生の入学等 により実質的にはかなりの低下)により忍耐の限 界に達し、大学院の設置に一縷の望みを託した. (2) 博士課程設置への動き 修士課程の設置による成果は、院生の存在によ って研究室の雰囲気はより良くなり研究成果も 上がるようになったものの、予算は微増・有効建 物面積は院生の増加により却って激減となり、研 究環境はより厳しいものとなった.この行き詰ま りを打開するため、遥かに条件のよい博士課程を 持つことが唯一の打開策と考えられた。 東京農工大学にも博士課程を設置しようとい う計画は農学部で川村亮教授を中心として進め られ、「連合大学院」というユニークな構想が纏 められつつあった.工学部では大野泰雄教授が主 唱されて、持ち前の粘り強さで横浜国大・千葉 大・宇都宮大・群馬大・埼玉大・茨城大・電気 通信大・山梨大学に呼び掛けて、関東地区の工学 部で連合大学院を作る為の連絡協議会(略称 関 博協)ができ活発な活動がなされた.しかし文部 省の方針で農学系は連合大学院が本学に 1985 (昭和 60 )に設置されたが、理工系では連合方式 は難しいことが見えてきて、横浜国大・千葉大・ 電通大が次々に関博協から脱退するに到った. (3) 本学部の胎動 本学部では当時学部発展のため新しい構想の 「システム工学部」を設置すべく、教授会をあげ て熱心な討論が繰り返され、繊維系の学科を材料 システム学科に改組、機械系にシステム系の学科 を新設し、その方向へ発進していた.しかし各大 学の単独大学院への動きをうけて、その方向に踏 みきらざるを得ないと言うことになる.この分岐 点となった教授会で発議して、参考のため投票で 全メンバーの意見を求めたら七割が踏み切るこ とに賛成だった.一旦方向が定まれば喜多学長、 田中・乙竹両学部長を中心として、博士課程設置 準備委員会の中田委員長のすぐれた運営のもと、 着々と構想がまとまり多くの教官方・事務方の 尽力により、細部にわたる素案も出来、概算要求 も第一段階の準備費がつけられた. 中田教授はご自身が学部長になって当然の方 なのに、あえて三代にわたる学部長を支える委員 長の立場に立たれて、博士課程の設置を達成した. その功績は長く校史に残されなければなるまい.

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2.2 博士課程の実現に向けて

(1) はじめに 明治維新で世界に目を聞いた日本は、先ずこれ

からの国の形を決めることから始めなければな

らなかった.このため明治 5 年、岩倉・大久保・

木戸・伊藤ら明治政府の大幹部が揃って米欧先

進国の視察に出掛けた.そしてこれら先進国の政

治・経済・文化・教育・産業・交通・軍備等々

あらゆる面において学ぶべきことの余りに多い

ことを痛感させられて、一年十ケ月にわたる視察

を終えて帰国した.その結果、殖産興業・富国強

兵等を政策とし、この国の進むべき方向をアジア

的停滞から脱して欧米先進諸国に追いつき、やが

て追い越して行く方向へと設定した.教育につい

ても欧米の制度をどんどん取り入れた壮大な構

想に基づいて、小学校から大学までの教育制度を

構築し、当時の貧弱な財政のなかで随分背伸びし

た予算を組んで将来に夢を託したのであった.こ

の明治の人達の理想主義とも見える教育に賭け

た夢が百年後の今大きな成果を上げ、世界一の識

字率・国民の教育レベルの高さを誇り、それを基

礎として経済大国に成り上がったのである. 教育制度の得失はこのような長期的な視点か

ら見ていくべきことで、明治時代に比し昭和の時

代が日本の教育の進歩にどれだけの貢献をした

のであろうか.たしかに新制大学の設置は大いに

国民の教育レベルの向上に役立ってきた.駅弁大

学等と心無い悪口を叩かれながら、大学関係者は

劣悪な環境を耐え忍んでなんとか向上への道を

指向し、努力を重ねてきた.しかし特に理工系の

大学にとって積算校費・資格坪数の多年にわた

る固定化(物価上昇、大型機械・留学生の入学等

により実質的にはかなりの低下)により忍耐の限

界に達し、大学院の設置に一縷の望みを託した. (2) 博士課程設置への動き 修士課程の設置による成果は、院生の存在によ

って研究室の雰囲気はより良くなり研究成果も

上がるようになったものの、予算は微増・有効建

物面積は院生の増加により却って激減となり、研

究環境はより厳しいものとなった.この行き詰ま

りを打開するため、遥かに条件のよい博士課程を

持つことが唯一の打開策と考えられた。 東京農工大学にも博士課程を設置しようとい

う計画は農学部で川村亮教授を中心として進め

られ、「連合大学院」というユニークな構想が纏

められつつあった.工学部では大野泰雄教授が主

唱されて、持ち前の粘り強さで横浜国大・千葉

大・宇都宮大・群馬大・埼玉大・茨城大・電気

通信大・山梨大学に呼び掛けて、関東地区の工学

部で連合大学院を作る為の連絡協議会(略称 関

博協)ができ活発な活動がなされた.しかし文部

省の方針で農学系は連合大学院が本学に 1985 年

(昭和 60 年)に設置されたが、理工系では連合方式

は難しいことが見えてきて、横浜国大・千葉大・

電通大が次々に関博協から脱退するに到った. (3) 本学部の胎動 本学部では当時学部発展のため新しい構想の

「システム工学部」を設置すべく、教授会をあげ

て熱心な討論が繰り返され、繊維系の学科を材料

システム学科に改組、機械系にシステム系の学科

を新設し、その方向へ発進していた.しかし各大

学の単独大学院への動きをうけて、その方向に踏

みきらざるを得ないと言うことになる.この分岐

点となった教授会で発議して、参考のため投票で

全メンバーの意見を求めたら七割が踏み切るこ

とに賛成だった.一旦方向が定まれば喜多学長、

田中・乙竹両学部長を中心として、博士課程設置

準備委員会の中田委員長のすぐれた運営のもと、

着々と構想がまとまり多くの教官方・事務方の

尽力により、細部にわたる素案も出来、概算要求

も第一段階の準備費がつけられた. 中田教授はご自身が学部長になって当然の方

なのに、あえて三代にわたる学部長を支える委員

長の立場に立たれて、博士課程の設置を達成した.

その功績は長く校史に残されなければなるまい.

Page 2: 2.2 博士課程の実現に向けて 上がるようになったものの、予算は …web.tuat.ac.jp/~history/his120/pdf/d222.pdf · 電通大が次々に関博協から脱退するに到った.

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(4) 文部省との交渉 農工大工学部は、新制大学では学科数が も多

いほうで 12 学科ある.博士課程設置に当って、

大蔵省の意向で少数の大学科・大講座制にしな

さいという文部省の指導があった.始めの頃の各

学科の意見を集約した素案に対しては、もっと学

科数を減らした案を出すようにと以前から言わ

れていた.しかし他大学はいざしらず、本工学部

では各学科とも教育・研究・人事等それぞれユ

ニークな方向を目指して努力を積み重ねて成果

を挙げており、世上いわれているような「小学科

制の行き詰まり」を感じている学科は一つも無か

った.従って極端な大学科制へ移行せねばならぬ

必然性は認められなかったので、委員会の討議を

経て従来の案を一寸手直しした案をもって、文部

交渉に望んだ.ところが 初の中田教授の内容説

明が済むやいなや、実力者といわれる課長補佐が

「それでは農工大さんは前と同じなんですね.じ

ゃあ今日はこれで」とすぐに席を立とうとするの

で、何とか引き止めていろいろやり取りをしたが、

第一回で前途の多難を思い知らされた. 何回かの遣り取りで結局 3大学科を押しつけら

れた形になった.「それぞれの大学に、それぞれ

の事情があるのを無視して一律に同じような大

学科は困る.」といろいろ事情を言って、向こう

ももっともと思っても『農工大に認めると、あと

「きりが無くなる」から認められない.』という

霞が関の論理で押し切ってくる.このような画一

主義ではユニークな発想は殺されてしまう.けし

からん!とは思っても、博士課程をつくりたい大

学は次々に控えていることとて、涙を呑んで大学

科・大講座にそった案を建て直すこととなる.大

学としては全部の教官が審査に通るような名称

と内容の学科・講座にすることが一番の希望で

あった. しかし総論はそうでも各論になると各学科の

教官の血の滲むような努力と犠牲的精神を必要

とし、全教官が苦労を重ねて何とか通りそうな案

が纏まってきた.案が纏まれば上申する文書とし

て纏めなければならず、今までの一学科の増設と

は規模が違い工学部・大学院全体の徹底的な改

組となるので、必要な文書の量も莫大なものとな

った.この膨大な書類の作成は、機械系の西脇・

堤両教授の徹夜徹夜の献身的な協力が無かった

ら到底不可能であった.当時はレーザープリンタ

ーが漸く一台入った時代でプリントの速度も遅

く、よく両教授が目を腫らして小川事務長の所へ

書類を持っていき、打ち合わせをしていた.小川

事務長は根気良く書類をチェックし、サポートし

てくれた. 当面のライバルは九州工大・長崎大(1988

年)・京都工繊大・埼玉大(1989 年)・群馬大

(1990 年)等でつば競り合いの状況であって、

農工大は 1989 年(平成元年)を目標に走っていた.

〔括弧は実際の設置年〕 そこで喜多学長がお知り合いの文教関係の C代議士にも、議員会館や某庁の長官室に学長始め

関係者一同で伺って側面からの協力を依頼した.

農学部農場の植木なぞを手土産にするが、なんと

か工学部らしいものをと、宮田教授の透明スピー

カーの試作品など持ち込んで鳴らして見せ、これ

は面白い研究をやっているねと喜ばれ、いずれ製

品になりましたらお持ちしますと言って、とうと

うそれきりになっている. 1987 年(昭和 62 年)の暮れ学長から電話で、工

学部ではどうしても 1988 年度に設置したいの

か?との質問であった.恐らく C 代議士からの問

い合わせで、希望すれば本省へ推薦すると言って

いると推察された. この重大な岐路に立たされて、学部の出来るだ

け多くの教官が博士課程の恩恵に与かることを

目標とした.審査に向けて一生懸命に纏めの実験

や報文の作成に連日連夜努力している若い何人

もの教官のことを思い出し、あと一年余裕があれ

ば恐らく希望者の全部が審査に通るだろうと考

え、一年待つことにした.時間的な余裕が全然無

かったので、学長には 1989 年度で宜しいと返事

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をした.あとで喜多学長から C 代議士から「農工

大はまだ万全の体制では無かったのかい.」と言

われたとのこと、好意を裏切り学長のお顔をつぶ

した.また一日でも早く設置をと期持されていた

教官方にも、一年も待たせてしまったことになる.

結果として、1988 年度に審査を申請した教官の

ほぼ全員が○合で合格し、関係各方面から農工大

の教官のレベルの高さを評価された. (5) 大きな問題 1988 年(昭和 63 年)になると見通しは極めて明

るくなり、農工大がトップを走っていることは他

大学でも認めざるを得ない状況になってきた.学

部内でも仕上げ的なカリキュラムの摩り合わせ

や、設置決定後の経過措置や新学科の運営等が主

な作業となってきた. 一安心と思って秋の岐阜で開かれた工学部長

会義に出席したら、あちこちの大学からお宅はも

う大丈夫で結構ですなと羨望の目を注がれた.ま

た以前きついことを言われた担当の課長補佐か

らも、今年には農工大さんは見通しが明るいです

よと耳うちされた.そのすぐ後に、某大学の学部

長にとんでも無いことを知らされた. それは論文審査・研究指導の主査となりうる

いわゆる○合の資格を持つ教官中、6 割の人数に

しか博士後期課程の研究教育指導を行うことが

認められない.実質的には 6 割の人にしか、後期

課程の為の手当てや予算は付けてくれないとい

うことであった.有資格者の中から 4 割を削る等

という作業はどの学科でも、どんな委員会でも出

来るはずは無いので、結局学部長一任と言うこと

になり、胃に孔の明くような眠れぬ夜を続けたと

言う.あちこち問い合わせると、本学も 6 割制限

のグループとなっていることが判った. これを何とかしようという文部省交渉で、中田

教授が喧嘩腰のやりとりを行った(付録 3.2).「一

寸前に設置が認められた電通大は10割認められ、

農工大は 6 割とはどういう理由か.電通大と農工

大でそれほど内容に差があると思っているのか.

一体どういうことなんですか.」と中田先生が詰

め寄り、担当官もたじたじで予算がどうのこうの

逃げの姿勢だった.帰って皆さんと協議して、「予

算」と言うことは大蔵省の圧力と言うこと、文部

省に押しても無理だからせめて○合教官は全員

参加できるが、予算的には 6 割で我慢するという

線で押すことにした.これなら文部省から出る経

費は同じ事になるので良かろうと交渉すると、例

の農工大だけ認める訳にはいかないという「きり

がない論」である.そこで喜多学長の筋にお願い

したところ、たしか 5、6 日して全員参加・予算 6割の線が認められたと本部から連絡があった.工

学部として、担当教官を 4 割削減する作業をしな

くて済むことになった. (6) 博士課程の実現 こうして工学部の改組・博士課程は、1989 年

(平成元年)からの発足が認められた.工学部の

教官・事務官は勿論,学長・事務局長を始め本部

の事務官の総力を挙げての努力で一応の目的を

達成した.しかし博士課程の専攻数はともかく、

学部の大学科の数はやはり極端過ぎ、文部省の担

当官が替わってから徐々に緩和された. 参考資料 校史編纂だより 第 3 巻 (2000 年)