ハンガリー・ポピュリズムの起源

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ハンガリー・ポピュリズムの起源 ―ユダヤ史の観点からー 寺尾信昭 [email protected]

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ハンガリー新保守主義の系譜。ハンガリー系ユダヤ人。ハンガリー・ポピュリズムの起源。ハンガリー政党(フィデス、ヨッビク)。

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ハンガリー・ポピュリズムの起源

―ユダヤ史の観点からー

寺尾信昭[email protected]

1

-目 次-

はじめに …………………………………………………………………………………………3

第一章 ハンガリーの近代化とユダヤ人 ……………………………………………………5

帝国内の人口移動(5)東方ユダヤ人(5)近代産業の担い手たち(7)なぜユダヤ系との同

盟か(9)ブダペストの肖像(10)企業家精神と教育(11)

第二章 ジェントリ国家と新保守主義 ………………………………………………………13

ジェントリ国家(13)農業者同盟(14)カトリック人民党(16)キリスト教社会党(17)

独立党(18)カーロイ・ミハーイと戦後革命(19)

第三章 市民的急進主義 ……………………………………………………………………21

社会科学協会(21)フリーメイソン(22)市民急進党(22)農村からの人口流出(24)ハ

ンガリー化政策(24)強権的同化政策批判(25)農地解放と民族解放(26)「東方のスイス」

構想(27)ティサの市民的急進主義批判(28)ベトレンの市民的急進主義批判(29) セク

フュー=ヤーシ論争(29)知識人の責任(31)

第四章 二〇世紀初頭のユダヤ人論 …………………………………………………………33

1917 年のアーゴシュトン(33)難民の急進主義(35)トルマイ・セシル(37)改革派のユ

ダヤ人論(39)

第五章 セクフューの『三世代』 ……………………………………………………………41

筆禍事件(41)『三世代』の執筆動機(41)自由主義と東方ユダヤ人の流入(43)リベラ

ル幻想(44)ジェントリの衰微(45)都市文化のユダヤ化(46)セクフューの社会復帰(46)

異化提言(48)

第六章 ベトレン・システム ………………………………………………………………50

右翼急進主義との対立(51)就学制限法(51)クレベルスベルグの新民族主義(52)農村

人民作家(53)

第七章 ホロコースト ………………………………………………………………………56

反ユダヤ法(56)ドイツ軍の占領(58)ベトレン派としてのセクフュー(59)ユダヤ資産

の略奪(60)ビボーのホロコースト論(61)共産党政権下の略奪(63)

2

終章 二一世紀初頭のポピュリズム ………………………………………………………64

体制転換後の政治地図(64)フィデスの右旋回(65)チョーリの民族論(66)ヨッビク試

論(68)シフ=バイェル論争(75)結語(76)

あとがき ………………………………………………………………………………………79

注 ………………………………………………………………………………………………81

人名解説 ………………………………………………………………………………………106

3

はじめに

一八世紀末、ドイツ民族主義の理論家ヘルダーは『人類史哲学の理念』で、「四囲を他

言語民族に囲まれたハンガリー人の言語は、百年も経てば消滅してしまうだろう」と予言

した(1)。事実、オスマン帝国やハプスブルク帝国との長年にわたる戦闘の結果、ハンガリ

ー人は一説によると二百万台まで激減したと言われている。これに伴い歴史的ハンガリー

領*(i)の人口比が逆転した。最初の人口調査(1784 年)の概算によると、支配民族であるハ

ンガリー人は四十パーセント、一二世紀以降、ハンガリー王冠領になったクロアチア・ス

ラヴォニア地方を除いても、四八パーセントしかいなかった。

ハンガリー議会は、こうした人口比の逆転現象を是正すべく、1844 年にハンガリー語を

国家語と制定した。歴代政府はその後、移民政策と領内諸民族への言語的同化政策を中心

課題に据えた。ユダヤ人はこの政策に進んで応じた。彼らは、ヨーロッパの他の国々がユ

ダヤ人を法的に束縛していた時期に、経済的・社会的発展の大きな機会を与えたハンガリ

ー国家と緊密に一体化した。近代化を歓迎した改革派ユダヤ人はハンガリー語を母語とし、

伝統的習俗から離れて異教徒と結婚するケースが増えた。ユダヤ教が国家公認の宗教にな

った 1895 年以降、第一次ユダヤ法案が上程された 1938 年までに、混合婚は二三・九パー

セントに増加している(2)。ハンガリー語使用者は 1910 年までに七五・六パーセントに達し

た。ユダヤ人以外では、一八世紀にハンガリー中・南部とドナウ川西域に入植したシュワ

ーベン人(ドイツ系)や、一二、三世紀にスロバキア北部に定住したチプス人(ドイツ系)

並びにスロバキア人小貴族が、この政策を積極的に受け入れた。

シュワーベン人とユダヤ人は、カラーディ(Karády Viktor)の表現を借りれば、歴史的

ハンガリーに到来した「最後の異言語集団」であった(3)。一九世紀末、ハンガリーはドイ

ツ系やユダヤ系市民の活躍によって、経済的に離陸した。ところがこの頃から、政府の移

民政策や産業優遇策に反対する農本主義、あるいはキリスト教民族主義(ハンガリー史学

では新保守主義と呼ぶ(4))が勢力を伸張し始めた。本稿はユダヤ史の観点から、「内なる

敵」を創出する扇動政治(ポピュリズム)を検証し、ハンガリー史学が「新保守主義」と

呼ぶ世紀転換期の政治潮流にその起源を見出した。

本稿で扱った論者の言説に見られるように、ハンガリーの中産階級は大別して二種類あ

る。一方は土地を失い官僚化した中小貴族(ジェントリ)や中規模土地所有者、もう一方

はドイツ系やユダヤ系を中心とする産業ブルジョアジーである。世紀転換期の新保守主義

を代表する農業者同盟は、「諸外国のくずが国内に流入し、真のハンガリー人を国外に流

出させるのを許すな」と東方ユダヤ人の移住を非難することで、ユダヤ系経済エリートと

対峙した。

セクフュー・ジュラも新保守主義を継承し、「移民を同化してハンガリー人人口を

増やし、もう一度ハンガリー人を多数派にする」というリベラル幻想を断罪した。そ

して、東方ユダヤ人にはシオニズム、改革派ユダヤ人にはマイノリティ原理に基づく

4

「異化」を提言した。一九世紀前半に導入された移民奨励策のせいで歴史的中産階級

(ジェントリ)が衰微し、中欧の大都市文化が「ユダヤ化」されたと説くセクフュー

の『三世代』(5)は、現代ハンガリー・ポピュリズムの教則本と言えよう。

新保守主義は、第一次大戦後のセゲド思想やクレベルスベルグ・クノーの『新民族

主義』、及び 1930 年代の農村人民作家からチョーリ・シャーンドルのエッセイ「真昼

の月」(1990 年 9 月)に至る扇動政治の源泉であった。新保守主義の系譜は国民概念を

矮小化するが、ハンガリー史には包摂的な国民概念に立脚し、排外主義を自制する人々が

いたことも忘れてはならない。

*(i) 西暦 1000 年、ローマ教皇が授けた王冠(聖イシュトヴァンの王冠)に象徴される、ハ

ンガリー王国領。

5

第一章 ハンガリーの近代化とユダヤ人

帝国内の人口移動

1840 年、ハンガリー議会は不可分の帝国の原理に基づき、ハプスブルク帝国内のユダヤ

人に「居住の自由」を保障し、「ユダヤ教徒の若者を雇用して」産業振興を奨励する法律

を発布した(1)。同年の法律第一七号で、ギルドに属さなくても企業活動が可能になった。

法律第一八号で、会社の設立が許可制から届出制に緩和された。四年後にはユダヤ人の長

期借地も解禁された。また 1852 年には弁護士資格が、1859 年には通商・産業権とキリス

ト教徒の徒弟や使用人を雇用する自由が、翌年には土地所有権が認められた(2)。1867 年の

ユダヤ人解放令(3)には、ヨーゼフ二世の寛容令(1781-83 年)以来の長い序曲があった。

ユダヤ人の流入経路は、一つはボヘミア・モラヴィア(現在のチェコ)とシレジア(大

部分はポーランド領)に住むユダヤ人の妻帯を長男に限定したカール六世の家長法(1726

年)を契機とする北方ルート、もう一つは主としてポーランド分割(1772-95 年)を契機と

する東方ルートであった。1830 年代に入ると、モラヴィア及びシレジアの石炭や岩塩とド

ナウ川流域を結合すべく、ロートシルト家の資金援助で北部鉄道が敷設された。

こうした法制度と交通網の整備が、ハプスブルク帝国内の人口移動を促進しただけでな

く、アレクサンドル二世の暗殺(1881 年)を機に吹き荒れたポグロムを避け、ロシア帝国

から脱出するユダヤ人難民の受け皿となった。1910 年の統計によれば、ハンガリーのユダ

ヤ人は九十万人を超えていた。すなわち、「長い一九世紀」にハンガリーのユダヤ人人口

は十倍以上膨張した。もっとも、ユダヤ人の人口増加には、移住に加えて東方ユダヤ人の

出生率の高さも寄与した。アウスグライヒ*(i)後の四十年間、ユダヤ人の人口増加率(六八・

四パーセント)はキリスト教徒の二倍であった(4)。

*(i) 1867 年の妥協法(十年ごとに更新)。同法は、国内問題におけるハンガリーの自律性

を保障する一方、帝国の他の領邦との一体性を確認した。外交・軍事・財政は共通事

項。

東方ユダヤ人

ハプスブルク帝国におけるユダヤ人社会の構図は、改革派が主としてボヘミア・モラヴ

ィア地方、並びにドナウ川中流域とそれ以西の大都市に居住したのに対して、正統派やハ

シディズム派*(ii)は、ガリツィアやブコヴィナ(共にポーランド分割後オーストリア領)、

及びトランシルバニアやカルパート=ウクライナ(共にハンガリー領)といったカルパチア

山麓とそれ以東の、もっぱら農村地帯や小都市に集中した。それゆえ正統派やハシディズ

ム派は、東方ユダヤ人と呼ばれる。

近代化を歓迎する改革派も、両親の信仰を受け継いで宗教的祭日を祝ったが、古い宗教

戒律を守ることには拘泥しなかった。彼らはホスト社会の他の住民と同じような衣服を身

6

に付け、同じような習慣を守った。ドイツ語とヘブライ語の混じりあったイディッシュ語

に替えて、居住地域の支配言語を使用した。これに対して、近代化や世俗主義を拒否する

正統派やハシディズム派は、イディッシュ語を使用し続け、ラビ(ユダヤ教指導者)の周

りに集住し、慣習的に既婚女性は剃髪し、男性はもみあげを切らなかった。近代主義と伝

統主義の確執は、コミュニティを分断し、夫婦を離縁させるほど激しく、多くの暴力事件

を引き起こした(5)。

ハンガリー系ユダヤ人社会の最大の特徴は、当局の中央集権的な監督を認めた改革派と、

完全な自治を要求する正統派が独立した教団として併存したことである。より正確には、

両者の中間に小規模な第三の教団も存在した。ところが、シオニズムに対しては正統派も

改革派と合同で、テオドル・ヘルツルらがスイスのバーゼルで第一回シオニスト大会を終

えた直後の 1897 年 9 月 8 日、次のような声明を出した。

パレスチナに新たなユダヤ人国家を建設せんとする政治的シオニズムは、常軌を逸し

た危険な狂信主義である。[中略]ユダヤ教徒からユダヤ民族を創出せんとするシオ

ニズムは、ハンガリーでは決して支持されないだろう。ユダヤ教徒のハンガリー人は

存在するが、ユダヤ民族は存在しない。この点では、改革派も正統派も意見が一致し

ている(6)。

ハンガリーの東部は、経済的に後進的なガリツィアやブコヴィナと隣接していた。1900

年のガリツィアのユダヤ人人口は約八一万、ブコヴィナは九万余りである。両地域の後方

には五二〇万のユダヤ人人口を抱えるロシア帝国が控えていた。それゆえ、ハンガリーの

背後には六百万以上のユダヤ人人口が存在したことになる。彼らの多くは近世西欧の爆発

的な都市人口増加を支えた、ポーランド王国のアレンダ制ユダヤ人の後裔である。

アレンダ制とは、国王や大貴族が領主権をユダヤ人商人や中小貴族に賃貸するシステム

である。国王領や貴族領を管理するアレンダ制ユダヤ人は、所領に付随する諸権利を分割

して他のユダヤ人に転貸した。その中に酒類の生産を独占し、農民の余剰所得を吸収せん

とする「プロピナツィアの権利」(居酒屋営業権)も含まれていた(7)。

アレンダ制はポーランド人貴族のウクライナ植民活動に伴い、ハンガリー東北部でも普

及した。アレンダ制への依存度は、一九世紀前半になるとハンガリー全体では三分の一に

低下したが、東北部では依然として過半数がこれに依拠した(8)。1910 年の統計によれば、

ハンガリーに三万軒近くあった居酒屋の四割以上(一万二三四三軒)がユダヤ人の経営で

あった(9)。セクフューはアレンダ制を、「農村ユダヤ人が穀物商に成長する跳躍台である」

と呼んでいる(10)。

1882 年 4 月 1 日、ハンガリー東北部のティサエスラールで、十四歳のカトリック教徒の

少女が失踪した事件に関連して、十五名のユダヤ人が殺人と殺人幇助の罪で起訴された。

ユダヤ教の過越祭の直前だったため、彼らに儀式殺人の嫌疑がかけられた。結審までの十

7

五ヵ月間、ハンガリーは反ユダヤ感情で激した。全員無罪となったが、この中傷事件はハ

ンガリー系ユダヤ人に、フランスのドレフュス事件(1894 年)に匹敵するほどの衝撃を与

えた。

その裁判中に自由党党首のティサ・カールマン首相[1875-90 年]は、ユダヤ人は「ハ

ンガリー社会で最も勤勉かつ建設的な人々である」と議会で証言し、反ユダヤ主義に対し

ては「民族の名誉を傷つける、恥ずべき野蛮な行為だ」と警告した(11)。コシュート・ラヨ

シュも亡命先から、「一九世紀の人間として反ユダヤ的扇動を恥しく思う。ハンガリー人

として残念だ。愛国者として非難する」とのメッセージを送った(12)。

*(ii) ハシディズム派は一八世紀の東欧で生まれた超正統派。宗教的恍惚感によって安らぎ

を求める。ハンガリー東北部やトランシルバニア以東で普及した。

近代産業の担い手たち

ブダは小高い丘陵地帯で、ペストは平坦部である。ルカーチ(John Lukacs)は『ブダペ

ストの世紀末』の第二章で、ドイツ系職人の多いブダ二区(ヴィジヴァーロシュ)と、ユ

ダヤ系経済エリートが集中する対岸のペスト五区(リポートヴァーロシュ)の盛衰を、印

象的に描いている(13)。

一九世紀中葉まで、ブダとペストの商工業者はほとんどがドイツ人で、彼らのギルド(職

業別組合)がユダヤ人の営業免許や商取引に制約を加えていた。ところが、アウスグライ

ヒ後(1872 年)に閉鎖的・特権的なギルド制が廃止された。自由党政府は、オーストリア

やバルカン市場におけるハンガリー製品の競争力を高めるため、補助金と優遇税制でもっ

て新興企業を支援した。その結果、全国工業者連盟設立時(1902 年)の会員五十名のほぼ

六割は、ホリン・フェレンツ(シャルゴータリャン炭鉱社長)やチェペル・コンビナート

の社主ヴァイス・マンフレードをはじめ、ユダヤ系の企業家で占められた(14)。

全国工業者連盟の初代理事長ホリン・フェレンツは、1842 年トランシルバニアのアラド

(現ルーマニア西部の都市)で生まれ、弁護士業の傍ら『大平原アルフェルド

』という政治新聞を発行

した。1867 年、二五歳の若さで衆議院議員に当選して以来、ティサ・カールマンと対立し

た一時期を除き、自由党に所属したハンガリー工業界の重鎮である。

連盟創設者の一人であるハトヴァニ=ドイッチュ・シャーンドル(全国製糖協会理事長)

の祖父は、アラドで雑貨商を営んだ後、貸金業を始めた。1852 年、事業拠点をペストに移

し、四年後にドイッチュ商会を立ち上げ、穀物取引や金融のみならず鉄道事業にも進出し

た。

父親は 1881 年、蒸留酒の製造を始め、澱粉工場も作った。シャーンドル親子が新たな

製糖法を開発すると、1880 年代の中頃には政府も製糖業に助成金を出した。彼らは 1897

年、ハトヴァニ=ドイッチュと改姓し、1908 年に男爵位を授与された。苗字も 1911 年に

はドイッチュを取り、ハトヴァニとした。ハトヴァニ家は 1895 年 1 月から 1905 年 6 月ま

8

で四内閣にわたり蔵相を務め、皇帝の信頼が篤いルカーチ・ラースロー首相[1912-13 年]

の娘を嫁に迎えている(15)。

チェペル・コンビナートを経営するヴァイス・マンフレードの祖父は、一九世紀初頭、

ペスト郊外でパイプの金具店を営んでいた。穀物ブローカーであった父は、ブダ北部の財

産家カーニツ家の娘と結婚した後、製粉業を始めた。ヴァイス家が注目され始めたのは、

マンフレード兄弟が 1882 年、ハンガリー軍用にグヤーシュの缶詰を手掛けてからである。

1890 年代に入ると薬きょうの製造を開始し、ドナウ川の中州チェペル島に火薬工場を建設

した。建国千年祭を祝う 1896 年にヴァイス家は貴族の称号を得た。チェペル・コンビナー

トはオーストリア=ハンガリー軍の弾薬の四分の一を常時供給するまでに成長し、1911 年

には鋼鉄生産に入った。軍需王の異名を取ったヴァイス・マンフレードは、第一次大戦末

期の 1918 年、男爵に叙された。

建国千年祭は新装されたドハーニュ通りのシナゴーグ(1854 年創建)でも祝われた。以

下は、ユダヤ教改革派の週刊紙『平等』の 1896 年 5 月 15 日付の記事である。

幾本もの旗で飾られたシナゴーグの前に、貴婦人や白いネクタイ姿の紳士が乗って来

た馬車が所狭しと並んだ。きらびやかに飾られた馬車から、剣を携え、肩から装飾ディース

外套マジャル

を掛け、毛皮の帽子に白鷺の羽根を差したハンガリーの伝統的盛装に、宝飾品を散り

ばめ、派手な長靴に金や銀の拍車を付けた同胞が降りて来た。最も豪華な衣装は、ヴ

ァイス・ベルトルトや、ドイッチュ・シャーンドルや、メジェリ=クラウス・ラヨシ

ュであった(16)。

ヴァイス・ベルトルトはマンフレードの兄で繊維産業連盟の理事長、メジェリ=クラウス・

ラヨシュは父親から酒造工場を相続した工業者連盟の重鎮の一人であった。彼らが誇示し

た衣装とは、カルパチア盆地征服時の族長アールパードやオスマン軍と戦った一六世紀の

貴族をモデルに、一九世紀の民族主義が「創造した伝統」に他ならない(17)。

ユダヤ人の貴族化の先行例は、ヴォディアネル・シャームエルである。父親はモラヴィ

ア出身で、旧姓はヴァイドマンと言った。一八世紀中葉ハンガリー南部に移住し、ナポレ

オン戦争時に綿花や穀物やタバコで財をなした。1841 年にはペスト商業銀行を開設し、三

年後に改宗してハンガリーの貴族位を得た(18)。1863 年にはオーストリアの男爵位も授与さ

れた。男爵はユダヤ人にとって最高の称号である。戦間期の摂政ホルティ・ミクローシュ

は、ヴォディアネル家の娘と結婚している。反ユダヤ主義的風潮が強まると、「レベッカ

は王宮から出て行け」との落書がブダペストのあちこちで見られた(19)。

一九世紀前半の「鉄と蒸気エネルギー」による経済システムは、1870 年代以降「鋼鉄と

電気」という新技術に転換した。1890 年代に入ると、電気やガスや自動車といった新たな

産業が一斉に登場する。電信・電話の普及や、汽船の定期航路及び鉄道網の拡大など、情

報・輸送技術の革新がこれと並行した。1860 年代後半に政治的解放を得たユダヤ系経済エ

9

リートは、このような技術革新の波に乗り、成長・発展していった。二〇世紀初頭のブダ

ペストに彩りを添えた、ペスト商業銀行頭取ラーンツィ・レオが所有するハンガリー製の

電気自動車は、まさに新時代のシンボルであった(20)。

工業者連盟設立の二年後に全国商業者連盟も設立された。しかしながら、商業資本は工

業や金融資本と比べて経済力が劣っていたため、支配階級と同盟できなかった(21)。ハンガ

リー西部のシュメグという小さな町から上京し、ペストで弁護士をしていたヴァージョ

ニ・ヴィルモシュは、1901 年、この商業資本を支持基盤として衆議院議員に当選した。カ

ルテルの厳格な監視や大資本に対する優遇策の撤廃、また小規模事業者や小売商に対する

保護を訴えた彼は(22)、ユダヤ人社会に対しては正統派の伝統的ラビ支配や改革派の金権支

配を、ハンガリー社会に対しては封建エリートと経済エリートの癒着を批判した(23)。

なぜユダヤ系との同盟か

1848 年春、ハンガリーはオーストリアやドイツと並んで、中欧革命の渦中にあった。オ

ーストリアからの独立を志向するリベラル急進派にとって、革命を前進させるためには、

ギルド会員のみならず非ギルド商工業者の支援が緊要であった。だが、ドイツ系ギルドが

ユダヤ人の追放や行商の禁止*(iii)を要求していたため、革命議会は独立戦争が鎮圧される直

前の翌年 7 月末になってやっと、ユダヤ人の法の下での平等を認めた。実効性はなかった

が、ユダヤ人解放の最初の試みであった。

1867 年、アウスグライヒによって主権を回復したハンガリーの近代化は、封建エリート

とユダヤ系経済エリートとの黙示的同盟でもって始まる。アウスグライヒ自体は、前年プ

ロイセンとの戦争に敗れたウィーン宮廷が、王朝の延命策としてとったハンガリー貴族と

の政治同盟である。それは、ハンガリー中小貴族の地方自治を廃し、帝国全体を中央集権

化せんとしたヨーゼフ二世の国家構想からの後退であったが、他方、連邦化を要求してい

たオーストリア・スラヴ主義への拒否回答でもあった。当初、ウィーン宮廷のジュニアパ

ートナーでしかなかったハンガリーも、1892 年にはオーストリアと対等の玉座を持った。

ハプスブルク家の紋章の「双頭の鷲」のように、ウィーンとブダペストは王朝を維持する

上で不可分の関係になった。ウィーン宮廷がハンガリー貴族を戦略的パートナーに選んだ

ように、ハンガリーの封建エリートは近代化を促進するユダヤ系経済エリートと提携した。

ハンガリー貴族の最も恐れていたものが、農民の土地飢餓と領内諸民族の分離・独立運動

であったことを考えれば、遠心的ベクトルを持たないユダヤ人が重用されたのは容易に理

解し得る。

では、なぜ封建エリートはドイツ系と同盟しなかったのか。一つは、ギルド制の実権を

ドイツ系が握っていたため。今一つは、バラーニ(George Barany)によれば、ドイツ文化

に対する彼らの劣等感と汎ドイツ主義への警戒心からである(24)。それゆえ、ユダヤ系経済

エリートとの黙示的同盟は、一九世紀前半以来、ブダやペストの市政を牛耳っていたドイ

ツ系富裕層への対抗措置であったと言えよう。ウィーン宮廷主導のシュワーベン人招致策

10

への反発がそれを後押しした。いわゆるシュワーベン人とは、一七世紀末から一八世紀初

めにかけての対ハプスブルク戦争後、過疎化した地域にウィーン宮廷が招致したドイツ系

の、それもカトリック教徒の農民であった。その後、一九世紀後半には、ドイツ系都市民

の移住がピークに達した。その意味で、同化ユダヤ人の任務は多重であった。つまり、同

化ユダヤ人は領内諸民族の人口圧に対抗するだけでなく、伝統的なギルド制に替わる近代

産業の担い手として、またスラヴ系やドイツ系知識人への平衡力として期待された。貴族

化した経済エリートの一人、コルンフェルド・モーリツは、第二次大戦末期に亡命先のポ

ルトガルで、「ユダヤ人はドイツ語を話すブダペストをハンガリー語化した」と書いてい

る(25)。

*(iii) 市場を通さず、直接消費者に商品を供給するユダヤ人の行商活動は、ギルドにとって

危険な競合を意味した。なぜなら、ギルドに属さない彼らは、最低価格を定めたギル

ドの規約に拘束されず、ギルドの目録にない古着や羽毛や古紙を売買できたからであ

る。

ブダペストの肖像

二〇世紀初頭のハンガリー社会は、大貴族を中心とする大土地所有者と経済エリートが

人口の一パーセント、土地所有中貴族や土地を失ったジェントリと都市中産階級や小市民

層が十九パーセントを構成する一方、自営農(三八パーセント)と農業労働者(二四パーセ

ント)が六二パーセント、熟練・未熟練の都市労働者が十八パーセントを占めた(26)。ユダ

ヤ人の大半(七二・五パーセント)は商工業に、非ユダヤ人の圧倒的多数(八三・一パーセ

ント)は農工業に集中したが、工業ではユダヤ人が非ユダヤ人の二倍以上、知的職種では

三倍以上を占めた。

詳述すれば、首都人口の四分の一近くと首都有権者の半数を構成するユダヤ人は、二十

人以上の従業員を抱える工業経営者の八割以上、また都市銀行の所有者ないし頭取の九割

を擁する一方、全国の自由業のほぼ半数から六割(ジャーナリストの四八・四パーセント、

医師の五八・八パーセント、弁護士の六一・五パーセント)を占めた(27)。金融資本や全国工

業者連盟に属す三四六家族(二六家族が男爵)が貴族の称号を授与されたが、その六割以

上はハンガリーの産業革命期に当たる世紀転換期の二十年に集中している(28)。1910 年時の

衆議院議員の二二パーセント(八四名)、あるいはハザイ国防相[1910-17 年]やテレスキ

ー蔵相[1912-17 年]、またハルカーニィ通商相[1913-17 年]やヴァージョニ司法相[1915-17

年と 1918 年]といった閣僚は、まさに黙示的同盟の所産である。中でもヴァージョニは、

非改宗の閣僚であった。改革派の週刊紙『平等』(1917 年 6 月 15 日)は、ヴァージョニ

の司法相就任を愛国的同化運動*(iv)の賜物であると論じた(29)。「我々はよそ者ではない。

ここが我々の祖国だ」との文言からは、改革派ユダヤ人の感きわまった声が聞こえてきそ

うだ。

11

世紀転換期のキリスト教社会主義者でウィーン市長のカール・ルエガーは、このような

ブダペストを「ユダペスト」と揶揄した。首都ユダヤ人社会の繁栄は「ユダペスト」の名

に恥じず、トリアノン条約後も変らなかった。1920 年の統計によれば、ユダヤ人社会は全

工業施設の四〇・五パーセントを所有する一方(30)、全国の自由業の三分の一から六割(ジ

ャーナリストの三四・三パーセント、弁護士の五〇・六パーセント、医師の五九・九パーセン

ト)、また都市部のホワイトカラーの過半数や小規模商業者の三分の二を占めた(31)。更に、

ブダペストの街並みを見れば、二階建て建造物の三八・二パーセント、三階建ての四七・

二パーセント、六階建て以上の五七・五パーセントが彼らの所有であった(32)。

ユダヤ人社会もトリアノン条約によって戦前の人口の五一パーセントを失ったが、それ

でもトリアノン・ハンガリー部では 1910 年時の人口(四七万一三五五名)水準を 1920 年

時(四七万三三一〇名)も維持しており、1910 年(二十万三六八七名、首都人口の二三・〇

パーセント)と 1920 年(二一万五五一二名、二三・二パーセント)のブダペストの人口比も

変りない(33)。その上、統計に表れない五万から六万二千の改宗ユダヤ人が存在し、この中

に経済エリートの多くが含まれていた。

*(iv)『平等』主筆のサボルチ・ミクシャは、建国千年祭を機に三千名のユダヤ人を改姓させ

た。

企業家精神と教育

第一次大戦までの半世紀、ブダペストは近代化の中心地であると共に、ユダヤ系知識人

の前線基地であった。ハンガリーにおける大都市文化の誕生は、ユダヤ系知識人の活動と

不可分の関係にあった。1900 年 10 月、ナジヴァーラド(現ルーマニア領オラデア)の日刊

紙『サバッチャーグ』の記者で詩人のアディ・エンドレによれば、カトリック人民党の機

関紙『アルコトマーニュ』はユダヤ人社会の教育熱を非難して、ギムナジウムのユダヤ系

学生の比率(二二・六四パーセント)がカトリック以外のキリスト教各派を超えたと報じた

(34)。

その後の進路に関して言えば、ジェントリの子弟が国家機関に就職するため大学の法学

部に進学したのに対して、ユダヤ人の子弟はもっぱら高等専門学校を選択した。中でも商

業専門学校は、中堅幹部養成機関として最も自由な精神に富んでいた。両大戦間期の経済

エリートの学歴を調査したレンジェル(Lengyel György)は、ユダヤ系の三割強(三一・八

パーセント)が高等商業の出身である点を強調している(35)。ドイツ系の高等商業出身者は

一〇・五パーセント、マジャール系では四・六パーセントである。他方、法学部はマジャ

ール系が五六・九パーセント、ドイツ系が五十パーセントであるのに対して、ユダヤ系は

三一・八パーセントであった。また同調査によれば、二十歳未満で就業した者がドイツ系

とユダヤ系では三三パーセント強であったのに対して、マジャール系では十二パーセント

にとどまった。

12

マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905 年)

で、プロテスタントは実業的な教育を志向し、カトリックは教養的な教育を志向すると論

じたが、企業家精神や経済的合理性は、ハンガリーのプロテスタントを代表する中小貴族

(主流はカルヴァン派)には当たらない。実学優先で経済的合理性を追求したのは、歴史的

中産階級ではなく、新興中産階級を代表するユダヤ系やドイツ系市民であった。

13

第二章 ジェントリ国家と新保守主義

ユダヤ人が封建エリートの戦略的パートナーとして重用された一九世紀末に、中小貴族

の経済的零落が加速した。ヒダシュ(Peter I. Hidas)の研究によれば、中小貴族の中でも一

千から五千ホルド[575-2875 ha]の土地を所有する上層部(nobiles bene possessionati)は、

十三万六千世帯、五五万人を擁した特権階級のせいぜい二割どまりで、後の八割は二百か

ら一千ホルド[115-575 ha]の中規模農地を経営していた中層部(nobiles possessionati)か

ら、家系を記した犬皮のみを誇りとし、免税特権を持たない下層部(armalista)まで様々

であった(1)。彼らの大半は、賦役を廃止した 1848 年革命の農奴解放で土地経営が困難にな

った。加えて、1850 年代のクリミヤ戦争や 1860 年代の南北戦争による農業ブームが終り、

ヨーロッパ市場にロシアや北米産の安い小麦が大量に流入すると、競争力のない小規模経

営は破綻した。一九世紀半ばに三万あった彼らの所有地は、二〇世紀初頭には三分の一以

下まで減少した(2)。

ジェントリ国家

しかしながらハンガリーの中小貴族は、土地を失った後も政治エリートとしての自意識

が強く、イギリスの紳士階級をまねてジェントリと称し、伝統的な生活様式に固執した。

その特異なメンタリティから商工業や金融業を嫌い、医師や教師を地位の低い職業と見て、

ひたすら国家機関の中で官僚化した。第一次大戦前の国家公務員の三分の一から二分の一、

地方公務員の三分の二から四分の三が彼らによって占められた。官僚機構は、1909 年には

十五万三千人に肥大化し、モーチ(István I. Mócsy)によれば「合理的限度を超えて」いた

(3)。

このジェントリ国家の建設者こそ、リベラル派大貴族とアウスグライヒ容認派の中小貴

族が合同して出来た自由党である。自由党政権下で、ユダヤ系経済エリートとジェントリ

官僚(宗教的にはプロテスタント)及び大貴族(主としてカトリック)が、官民の分業を前

提とする戦略的パートナーシップを形成し(4)、封建エリートがユダヤ系経済エリートに必

要な法律的・行政的援助を提供した。

だが、ユダヤ人社会の中から財閥が誕生し、その一部が貴族化するにつれ、『ペスト日

報』などはこれら新貴族を「株屋の騎士」とか「焼酎貴族」と揶揄した。株取引や酒造業

で蓄財し、貴族の称号を買い取ったとの意である。これに対して改革派の週刊紙『平等』

(1884 年 9 月 7 日)は、旧来の貴族を「女衒の騎士」とか「馬屋番貴族」あるいは「山賊

伯爵」と中世の闇の彼方に起源を持つ彼らの家系を皮肉った(5)。建国千年祭が敢行された

1896 年には既に、政権与党とユダヤ系財閥との癒着が衆議院で問題になった(6)。戦略的パ

ートナーシップは、農産物加工に代表される新興の工業界が、小麦の国内供給を独占した

い農業経営者の思惑を超えた時、すなわち北米産の安い輸入小麦を加工し、再輸出するこ

とに利益を見い出した時点できしみ始めた(7)。

14

産業革命と農業不況が交錯する世紀転換期、封建エリートは産業推進派と、これに批判

的な農本主義派に分かれた。産業化を積極的に推進したグループからは、ホリンやヴァイ

スやラーンツィ、あるいはフェルネル家やウルマン家やコルンフェルド家が所有する工業

や金融や鉄道事業の理事や監査役に、八八名の伯爵と六四名の男爵が名を連ねた(8)。

一方、農本主義派は商品投機の制限、大手製粉業者への穀物輸入優遇策の撤廃、低廉な

信用供給の確保、負債を抱えた農業者への補助、及びより保守的な農業関税など、政府が

積極的に自由主義経済に介入して農業を保護するよう求めた。小規模生産者の零落を産業

資本の犠牲と捉える農本主義は、「移動的資本」の世界主義に「定住的資本」の愛国主義

を対置し、前者をユダヤ資本と同一視した。

農業者同盟

農本主義の先駆けは、1881 年、アポニィ・アルベルトが結集したアウスグライヒに反対

する民族派(国民党の前身)である。建国千年祭の 1896 年、カーロイ・シャーンドルは農

本主義派を糾合して、農業者同盟を結成し代表に就任した。ドイツでは三年前から、同名

の政治団体が中規模経営の増設を求めて、内地植民論を展開していた。小規模経営の増加

は、政治的な不安定要因になるとの判断からである。農業者同盟は、ドイツの内地植民論

の影響を受けて誕生した(9)。

農業者団体としては、既に全国農事協会が存在したが、同協会はもっぱら大貴族が持つ

大規模所有地の保護を目的とした。それゆえ農業者同盟は、潜在的に大土地所有制との対

立軸を持ったが、大所領からの土地分配が無理だと分かると、もっぱら耕作放棄地や不適

地の開墾を目的とした。彼らは農業者の不満を産業資本の土地所有に転ずべく、農業者同

盟のスローガンを次のように設定した。一つは、「土地を持つ者が国家を支配する。」今

一つは、「ハンガリーはハンガリー人のものだ」である(10)。土地が産業資本の手に渡れば、

ハンガリーは外国人に支配されるとの意である。1917 年当時、全国農事協会の事務局長で

あったブダイ・バルナ(カーロイ・シャーンドルの信奉者)によれば、過去五十年間でユダ

ヤ人は四百万ホルドの農地を買収し、借地を合せれば全耕作地の五分の一を経営していた

(11)。

一九世紀末、自由主義やマルクス主義に対抗する勢力として登場した新保守主義は、そ

れまで左翼の専売特許であった人民や民衆、あるいは社会主義といった用語を使って「大

衆運動を組織し、社会的デマゴギーや近代的宣伝技術を駆使する」新しい政治潮流であっ

た(12)。封建エリートや聖職者が主導するハンガリーの新保守主義は、同時期のアメリカの

人民党(1891-1908 年)に典型的な「下からのポピュリズム」ではなかった。それでもコヴ

ァーチ(Kovács M. Mária)は、「社会の片隅に追いやられた小規模農業者やジェントリの

立場を理解し、支援を表明することで、市場経済の自由競争原理に農業社会全体のルサン

チマンを対置した」ところに、彼らの強さがあったと指摘する(13)。ここに筆者は、新保守

主義が持つ「上からの」ポピュリズムの祖型を見るものである。

15

ポピュリズムの定義は種々あるが、ここでは「エリートと危険な『よそ者』に、高潔で

同質的な民衆を対峙させる」政治手法とする(14)。エリートと危険な「よそ者」とは、産業

化を推進する封建貴族とユダヤ系経済人のことである。他方、新保守主義のキーワードの

一つが「有機的」であったことを考えれば、「高潔で同質的な民衆」とは、ハンガリー資

本主義の「非有機性や外来性」を批判する中小規模の農業者や手工業者の意である(15)。

農業者同盟は、「外国資本」の工場が莫大な収益を上げている一方で、「農業者や手工

業者はアメリカへの移住を余儀なくされている」として、小規模生産者の救済を訴えた(16)。

「諸外国のくずが国内に流入し、真のハンガリー人を国外に流出させるのを許すな。この

国は一千年間ハンガリー人のものだったし、これからもハンガリー人のものだ」と綱領

(1896 年 10 月)で宣言した(17)。そして、「我々はこの地で生き、この地で死なねばなら

ない」とヴェレシュマルティ・ミハーイが 1836 年に発表した『ハンガリー人に告ぐ』(18)

の一節を綱領に書き込んだ。農業者同盟が「諸外国のくず」と名指したのは、東方ユダヤ

人に対してである。彼らは圧力団体の域を越えた扇動機能を持っていた。

農本主義派は、カーロイの盟友のダラーニィ・イグナーツが 1895 年から 1910 年までの

間の十二年半、農相の地位にあったことで勢いづいた。ダラーニィ農相は、国家主導で強

制力を持つ内地植民法案を次のように説明した。「農民や手工業者の国外移住、各地に蔓

延する少子化問題や土地飢餓、これらは全て土地所有制度と関連している。それを解決す

るには、強力な国民的規模での土地政策しかない」と(19)。この法案に対しては、全国農事

協会副理事長のゼレンスキ・ローベルトが、財産権の侵害であると廃案化運動の先頭に立

った(20)。ゼレンスキらの反対運動を考慮して、ダラーニィ農相はカルパート=ウクライナ

最大の土地所有貴族であるシェーンボルン家から、二五年契約で一万三千ホルド弱を賃借

し、四一郡に住む四三〇三軒の農家に分配(平均三ホルド弱)した(21)。

ダラーニィの内地植民法案は、彼が農相を辞した後の 1911 年、議会を通過した。同法の

成立に伴い、1914 年までに、およそ一三四〇軒の農家に一万七千ホルド弱の農地が分与さ

れた。内訳は、十ホルド以下が全件数の八六・四パーセントを占める一方、十ホルドから

五十ホルドまでが十一・九パーセント、五十ホルドから百ホルドまでは一・七パーセント

であった(22)。およそ「強力な国民的規模での土地政策」とは言い難い。

農業者同盟のポピュリズムを象徴する今一つは、反高利闘争である。農業者同盟の綱領

は問う。「小規模農業者や手工業者の経営はなぜ破綻したのか」と。それは「重商主義者

が言うような経営能力の問題ではなく、多くの場合、廉価な信用供給がなかった」からだ

(23)。それゆえ農業者同盟は、農民や手工業者に低利で融資する信用事業、通称「ハンジャ

;蟻」

を創設した。ハンジャは農村の疲弊に乗ずる貸金業者から農民や手工業者を救済するもの

と位置づけられた。最大の出資者はカーロイ・シャーンドルであった。

農本主義派が協同組合運動を始めた背景には、1870 年代以降の農村の疲弊がある。ウィ

ーン万国博開会直後に株価が大暴落し、経済活動が停滞した。このため、農村の労働力を

大量に吸収していた鉄道敷設や河川整備事業が急速に縮小した。また凶作と黒死病の大流

16

行で、農村部を中心に五十万人が死亡し農村人口を激減させた。だが、疲弊した農村で困

窮した農民が支払いを滞らせると、貸金業者は貸付額の二倍から三倍もの高利を請求した。

ハンジャは 1905 年、ブダペストに四階建ての大型店舗を建設し、都市住民を対象とす

る消費協同組合を設立し、第一次大戦までに一二七六支部、会員二十万人を擁した。農本

主義派は、農村における高利貸のみならず、全国規模の工業・金融資本とも対決する意志

を明確に示した (24)。しかし、協同組合名(キリスト教全国中央協同組合 Keresztény

Szövetkezetek Országos Központja)に、なぜ「キリスト教徒 Keresztény」とわざわざ冠した

のか。異教徒を共通の敵に据えることで、彼らはキリスト教社会の融和を図ったのであろ

う。

カトリック人民党

1894 年 11 月、「ハンガリー社会のキリスト教的価値観を維持すべく」カトリック人民

党が旗揚げされた。農業者同盟に一年余り先行する。セーケシュフェヘルヴァールの司教

プロハースカ・オットカルが提案し、ジチ・ナーンドルとエステルハージ・ミクローシュ・

モーリツが創設した同党は、教会と国家の分離に基づく民事婚(1894 年法律第三一号)の

導入やユダヤ教徒との混合婚(同年法律第三二号)、並びにユダヤ教の公認化法案(1895

年法律第四二号)に対するカトリック教会の危機感の象徴であった。初代の党首にはジチ・

ナーンドルが就任したが、実質的には甥のジチ・ヤーノシュ(二代目党首)が当初から指

導した(25)。

カトリック人民党も農業者や手工業者を大資本から保護するため、国家の介入を要望し

た(26)。十四ヵ条からなる党綱領(1895 年 1 月)は、第一条で民事婚の導入に、第二条でユ

ダヤ教の国家公認法案に反対し、カトリック教会の自治権(第三条)や国家と教会の役割

分担(第十二条)を求めた(27)。これらカトリック教会の既得権の保全に加えて、同綱領は

第五条で「ハンガリーは農業国である」と宣言し、第六条で「農民が祖国で生きてゆける」

対策を求めた(28)。そして第七条で、農業者や手工業者への国家による財政支援のみならず、

自ら協同組合などの方策を立てるべきだと提言した(29)。

第七条で提起された協同組合構想は、農業者同盟のハンジャになった。また、第六条で

言及された「農民の国外移住」問題は、メーレイ(Mérei Gyula)によれば「生活基盤のな

い移住者」の入国禁止論に帰着し(30)、「諸外国のくずが国内に流入し、真のハンガリー人

を国外に流出させるのを許すな」と明記した農業者同盟の綱領に収斂した。人民党創設者

のジチ・ナーンドルが農業者同盟の結成にも関わり、副代表に就任していることや、1903

年以降、人民党の党首を務めたジチ・アラダール(創設者の長男)が、農業者同盟のメン

バーでもあったことを考慮すれば(31)、東方ユダヤ人の流入に対するあけすけな農業者同盟

の文言は、人民党綱領を特化し発展させた政治表現であったと言えよう。両者の密接な関

係は、末端組織に至るまでカトリック系の諸団体によって担保された(32)。

1901 年の春、祖国や宗教を軽視する思想を蔓延させたとして、ブダペスト大学で民族派

17

学生がピクレル・ジュラ(社会科学協会副理事長)の講義や著書を弾劾した(33)。この件は

議会でもカトリック人民党によって取り上げられ、宗教・教育相にピクレルの解任を求め

た。人民党を代表してジチ・アラダールが、「私は無知を擁護する者と呼ばれるだろうこ

とは承知している。だが、告白しよう。知識や科学は少なければ少ないほど良い。敬虔さ

や祖国への愛着は多ければ多いほど良い」と新保守主義の思考様式を開陳した(34)。翌年に

は、ナジヴァーラドの商業団体が「教会領の世俗化」を提唱するヴァージョニを招待した

のに対して、カトリック団体が派遣した四、五十人の青年たちが「ヴァイスフェルトは帰

れ」(ヴァイスフェルトはヴァージョニの旧姓)と罵声を浴びせた(35)。1903 年にはナジヴァ

ーラドの法科学院で、ピクレル門下のショムロー・ボードグ(社会科学協会書紀)に対す

る言論弾圧事件が引き起こされた。ショムローは同年 3 月、ブダペストの社会科学協会で

「社会発展の理論と実践」と題する講演を行ない、それを同協会の機関誌『二〇世紀』に

掲載した。国家の干渉を排するスペンサー流のリベラリズムと進化論に対して、法科学院

の同僚たちは「神と国王と国家」の名誉を汚す行為だと非難した(36)。

騒動のきっかけは、『ナジヴァーラド日報』に移籍したアディが書いた「ショムロー・

ボードグの進化論」であった。(カトリック人民党の機関紙は『ナジヴァーラド日報』を、

ユダヤ人のリベラル急進派新聞あるいはフリーメイソン新聞と中傷していた(37)。)その後

の顛末を 5 月 29 日付の記事「ナジヴァーラド法科学院の企て」で見ると、教授会ではアー

ゴシュトン・ペーテルとマジャリ・ゲーザの二人が反対したが、他の五人の教授は「祖国

なき悪党、無神論者、無政府主義の破壊活動分子といった安っぽい民族的スローガンでも

って」ショムローを糾弾し、宗教・教育相に彼の罷免を求めた(38)。こうした政治潮流の出

現は、官僚化したジェントリを模倣する下級官吏や小市民の増加と軌を一にしている(39)。

カトリック人民党が 1907 年に設立した大衆組織(カトリック人民連合)は、六年後に

二八八六支部に達し、三十万人を擁した。人民党のフサール・カーロイ[1919-20 年、首

相]は、1918 年 3 月カトリック人民連合の集会で、「我々は新しいハンガリーを求めてい

る。新来のハンガリー人たちのハンガリーではなく、聖イシュトヴァン以来のハンガリー

人によるハンガリーを希求するものである」と、国民概念の変更を力説した(40)。新来のハ

ンガリー人とは、シュワーベン人やユダヤ人の意であるが、彼が国民概念から排除しよう

としたのは、キリスト教徒のシュワーベン人ではなく、あくまで異教徒のユダヤ人であっ

た。

キリスト教社会党

1905 年、プロハースカの後援により、キリスト教社会党がカトリック人民党から誕生し

た。プロハースカの狙いは、新保守主義の拡大と基盤強化であった。彼は「混乱と無秩序

をもたらす」社会主義や「外観を変えた貪欲な高利貸」たる資本主義と戦うよう指示した、

教皇レオ十三世の回勅「レールム・ノヴァールム」(副題は「資本主義の弊害と社会主義

の幻想」1891 年)に従い(41)、ブダペストの退廃や「ユダヤ的資本主義」に挑むキリスト教

18

社会主義の闘士であった。

政党としての評価はカトリック人民党に及ばず、人民党の別働隊の観を免れない。にも

かかわらず同党は、綱領から見る限り、よりキリスト教社会主義らしい政党であった。そ

れはキリスト教社会党が、労働者階級を視野に入れていたからである。社会問題の処方と

して、彼らは普通選挙権を求めた(42)。その一方で、「子供と台所と教会」が女性の居場所

であるという当時の保守的な女性観から、「我々には女性解放も社会民主主義が唱える自

由恋愛も不要である。」女性は家庭で夫に仕え、祖国に有用な男児を育てることが本分だ、

と近代主義的風潮に反対した(43)。加えて、彼らはキリスト教主義者らしく、「資本が異教

ならキリスト教化しなければならない」(44)、なぜなら社会の隅々にまでキリスト教原理が

浸透して、初めて地上に平和が訪れるからであると綱領に明記した(45)。

他方、小規模自営農を「民族の屋台骨」と捉え、これを強化するために広範な土地分配

と内地植民を訴えた(46)。そして、相互扶助による小規模生産者の協同組合化を経済政策の

中心に据えた(47)。小規模自営農を単なる保護・救済の対象と見ていない点が、四年後に結

成された小農業者党とパラレルである。

ドナウ川西域の自営農民を支持基盤とする小農業者党は、普通・平等の選挙制度や秘密

投票、及び封建的身分関係の解消を標榜し、ハンガリー社会の「屋台骨である小規模自営

農」と農業労働者の共存共栄を提唱した(48)。彼らは、大規模な土地を国家が買い上げ、そ

れを小規模農業者に貸与するよう要求した。また、こうした土地の活用によって、農・工

業労働者の雇用を安定させ、農村人口の国外流出を阻止せんとした。更に同党は、教会財

産を国家の管理下に置き、この資本を農業信用の供給財源にあてるよう提言した(49)。こう

した急進性を持つ小農業者党は、1918 年 11 月の共和国宣言*(i)を支持した(50)。

1918 年 2 月、キリスト教社会党はカトリック人民党と再合同したが、彼らが「大資本の

独占的権力」を規制し、相場師が暗躍する「株取引所の改革や高利貸に対する厳格な処分」

を求めたのは、まさに世紀転換期の新保守主義の再確認であった(51)。

*(i) 戦後革命の母体となった国民会議は、1918 年 11 月 16 日、「ハンガリーは如何なる国

にも属さず、独立した人民共和国である」と人民決議第一条で宣言した。

独立党

第一次大戦後、共和国の初代大統領になるカーロイ・ミハーイは、従祖父カーロイ・シ

ャーンドルの下で農本主義や協同組合運動を学び、1909 年、全国農事協会の理事長に就任

した。全国農事協会は、カーロイ・シャーンドルが提起した株取引所の廃止を求めていた

(52)。カーロイ・ミハーイは所属政党まで従祖父の後を追い、1904 年独立党に入り、1913

年以降は同党の党首を務めた。だが、大戦半ばの 1916 年 7 月、民族主義陣営の中核をなす

独立党は、アポニィ派とカーロイ派に分裂した。独立党カーロイ派は新綱領で、伝統的な

土地所有制度を以下のように批判した。

19

党は我国の不健全な土地所有制度を、徹底した土地政策でもって改善する。最近十数

年の政府の方針で最も悲惨な結果は、領内諸民族が、中でもハンガリー人がとりわけ

窮乏したことである。大規模な国外移住が急激に増加した主たる原因の一つは貧困で

ある。移住は大戦後も、これまで以上の規模で続くだろう。戦争による多大な人的損

失に加え、農民の国外移住による新たな人的損失が、ハンガリー民族の存在を脅かし

ている。党はこの脅威を解消するため、農民への土地分配が絶対に必要だと考えるも

のである(53)。

これに対して、カーロイの党首就任以来、独立党を支持してきた『新世代』の編集主幹

ミロタイ・イシュトヴァンは、「独立党綱領に寄せて」の中で、ラーンツィ・レオ(金融

資本)よりゼレンスキ・ローベルト(大所領)を批判するカーロイと袂を分かった。カー

ロイ派の土地分配案がどの程度のものであったか知らないが、未完のダラーニィ改革の継

承を想定していただろうことは推察できる。それも、第一次大戦半ばの「強いられた状況

下」においてである。1916 年半ば、同盟国側に勝利の展望はなかった。8 月にはルーマニ

ア軍がトランシルバニアに侵入した。協商国側は「民族自決」を戦争目的の一つに据えて

いた。新皇帝カール一世(フランツ・ヨーゼフ帝は 11 月に死去)は、講和を模索した。翌

年 3 月に帝政ロシアが革命で倒れ、4 月にはアメリカが参戦した。このような状況下で、

協商国と講和交渉に入れそうな人物として、カーロイが浮上した。

カーロイ・ミハーイと戦後革命

新皇帝がカーロイを首班に指名した 1918 年 10 月末の政変は、ハプスブルク帝国から落

ちた熟柿のようなものであったが、王制を廃し共和制を宣言したという意味では、革命以

外の何物でもない。

共和国政府は自らを人民政府と呼び、発布した法律を人民法と称した。しかし、それは

領内諸民族を含めた人民の代表の意である。共和国政府の目的は、あくまで歴史的領土の

保全であった。それは、文化的優越感と民族的孤立感の漂うカーロイ党綱領*(ii)が、ヤーシ・

オスカルの「東方のスイス」構想を介して復活させた、コシュートの大ハンガリー主義で

あった。このようなハンガリーの古典的民族主義が、チェコやルーマニアの若い民族主義

と衝突するのは必至であった。

独立党(カーロイ派)は、共和国宣言後、再び分裂した。カーロイはこれに伴う人民政

府の危機を、社会民主党閣僚の倍増(二閣僚から四閣僚)と戒厳令の発動でもって終息さ

せる一方、1919 年 1 月半ば、この「少し左傾した」新内閣に農民出身の小農業者党党首を

入閣させることで、「都市のデモクラシーへの平衡力」とした(54)。小農業者党もこれに応

えて、農業党との関係を清算した。前年 12 月、全国農事協会の肝いりで結成された農業党

の目的は、「土地の国有化や社会化」を阻止することであった(55)。

しかし、戦勝国の理解が得られず、領内諸民族の分離・独立運動によって領土保全が出

20

来ないと分かると、カーロイは労働組合を支持基盤とする社会民主党に政権を丸投げした。

ルカーチはここに、「放蕩の限りを尽くし、賭けでさんざん大損した揚げ句」政治の道に

進んだ、「かつてのギャンブラーの無責任さ」を見る(56)。カーロイはその後、反革命陣営

から「売国奴」と刻印された。

*(ii)「スラヴやゲルマンの大海に浮ぶ民族的孤島にも似たハンガリー人の使命は、諸大国の

膨張主義から東欧の弱小民族を保護することである」とカーロイ党綱領は謳っていた。

21

第三章 市民的急進主義

社会科学協会

前章でカトリック人民党から糾弾された社会科学協会は、ユダヤ系知識人とドイツ系の

同化推進論者、及び与党リベラル派が構成するシンクタンクで(1)、一八四八年革命とアウ

スグライヒのわだかまりを払拭せんとしていた。初代理事長はプルスキ・アーゴシュト、

二代目はアンドラーシ・ジュラ二世が務めた。副理事長にはピクレル・ジュラとヘゲドゥ

シュ・ローラーント、書記にはショムロー・ボードグとグラッツ・グスターヴというふう

に左右の、あるいはユダヤ系と非ユダヤ系のバランスを取った。四十名の理事も、民族派

のラーコシ・イェネーや保守派のコンチャ・ジェーゼーから市民的急進派まで、雑多であ

る(2)。

社会科学協会はスペンサーやコントやデュルケムら、英仏系の自由主義や実証主義を紹

介した月刊誌『二〇世紀』*(i)の寄稿者たちによって、1901 年に創設された。しかし、五年

後には同協会から保守派や民族派が離脱した。協会の分裂は、フェイェルヴァーリ内閣

[1905-06 年]のクリシュトーフィ内相を、ヤーシ・オスカルら市民的急進派が協会の理

事に選出したことから始まる。ハンガリーの民族主義を封殺するようウィーン宮廷から命

じられていたとは言え、普通選挙制度の導入を進めたクリシュトーフィ内相を市民的急進

派は歓迎した。これに反発した民族派や保守派が分裂を工作した。分裂の仕掛け人は、保

守派のヘゲドゥシュとグラッツであったと言われている(3)。社会科学協会からアンドラー

シやヘゲドゥシュやグラッツら有力な保守派が大量に離脱したことで、同協会は巨大なシ

ンクタンクから急進的なユダヤ系知識人のクラブに急落した。

市民的急進派の指導者であるヤーシは東北部のサトマール県で、カルヴァン派に改宗し

た医師の子として生まれた。祖父の代まではヤクボビッチと名乗っていたが、1881 年に改

姓した。母方の伯父のリーベルマン・レオは、1905 年に貴族位を得た高名な医・化学者で、

大学教授のかたわら農務省関連の役職も兼ねていた。彼はブダペスト大学卒業後、伯父の

勧めで農務省に就職したものの、ジェントリ的な雰囲気に嫌気がさして退職し、社会科学

協会の事務局長として『二〇世紀』の編集にたずさわった。フランスに滞在した 1905 年に、

いわゆるドレフュス革命*(ii)を体験した。

*(i) 1900 年 1 月 1 日創刊。初代編集長はドイツ系のグラッツであった。

*(ii) ドレフュス事件が対独民族主義を背景とする軍部や右翼の陰謀であることが判明する

と、フランスは急進主義の時代に入った。フランス第三共和制期(1870-1940 年)に

最も影響力のあった急進社会党は、ジョルジュ・クレマンソーがドレフュスを擁護し

た進歩的共和派を糾合して、1901 年に結成した。

フリーメイソン

22

ハンガリーのフリーメイソン運動は 1870 年代に再導入され、ドナウ川流域諸国で最も

強力な運動の一つになった。第一次大戦末期には一二六支部、一万三千人を擁した。政界

からはアウスグライヒ推進派の重鎮アンドラーシ・ジュラ一世やドイツ系の平民宰相ヴェ

ケルレ・シャーンドル、ブダペスト市長のバールツィ・イシュトヴァン、民主市民党党首

のヴァージョニ、カトリック人民党のラコフスキ・イシュトヴァン、またホリン家やヴァ

イス家やコルンフェルド家の財界人、更に学術・文学界では法哲学者のピクレル、詩人の

アディ、作家のコストラーニィ・デジェーなど広範な著名人が名を連ねた(4)。1903 年、全

国工業者連盟の会員の十九パーセント(一〇四名中、二十名)がフリーメイソンであった

が、ユダヤ系ではおよそ三分の一を占めた(5)。これに対して、独立党は保守的ないし反動

的なロッジを設立し(6)、カトリック人民党もユダヤ色の濃いロッジに加入することで対抗

した(7)。

1908 年はハンガリーのフリーメイソンにとって大きな分岐点であった。同年 11 月、「象

徴」大ロッジはそれまでの非政治的な姿勢を改め、普通・平等の選挙制度や秘密投票、あ

るいは宗教色のない公教育といった民主化路線を鮮明に打ち出した(8)。1874 年に制定され

たハンガリーの選挙法は、参政権を成年男子の約四分の一(総人口の六%)に制限してい

た。それも記名投票である。しかし、当時既に西欧諸国では平均して国民の二、三十パー

セントに参政権が与えられ、秘密投票であった。

ヤーシは社会科学協会が分裂した 1906 年「民主主義」ロッジに入会し、二年後に七名

の同志と新ロッジを結成した。その際、一八世紀末のジャコバン主義者で連邦化論者の名

を冠したのが象徴的である。「マルチノビッチ」ロッジにはアディの他、社会民主党のク

ンフィ・ジグモンドやヴァルガ・イェネー、また 1918 年革命時の兵士評議会議長ポガーニ・

ヨージェフや外務副大臣のディネル=デーネシュ・ヨージェフ、1919 年のソビエト共和国

憲法起草者のローナイ・ゾルタン、それにナジヴァーラド法科学院教授のアーゴシュトン・

ペーテルが加入した。民族派学生からピクレルを守るために集ったガリレイ・サークルか

らは、ポラーニ・カーロイら学生運動の指導者たちがこれに準じた。

1914 年 6 月に結成された市民急進党の綱領作成には、クンフィやヴァルガやローナイと

いったマルチノビッチ会員も加わった。婦人参政権を含む急進党綱領は、こうした知的交

流の産物であった。

市民急進党

ヤーシは 1907 年、「新生ハンガリーに向けて」と題する論文を『二〇世紀』に発表し

た。その中で彼は、普通選挙制度や秘密投票、集会・結社・報道及び宗教の自由、国家と

教会の完全分離、公教育の無償化、民族問題の民主的な解決策に加え、大貴族の世襲領地

制度の撤廃や教会領の世俗化、それに地方政治の脱ジェントリ化を提唱した(9)。

世紀転換期に飛躍的な近代化を遂げたブダペストと異なり、封建制の残る地方では、ア

ウスグライヒ後も司法と行政が未分化なままであった。とりわけ議会も自治権も持たない

23

郡では、司法と行政を一手に掌握する郡長が、町村選挙(町村長の立候補者は郡長の推薦

を要した)や下級官吏(村書記)の任命、あるいは農業労働者の賃金にまで関与した。官

僚制の中位に位置する郡長の八十パーセント以上が、ジェントリの出身であった(10)。ユダ

ヤ系は改宗後も、ジェントリの牙城たる地方行政に参入することが出来なかった(11)。

他方、ヤーシの言によれば、ハンガリーでは産業ブルジョアジーの大半が「貴族階級や

教権主義に従順な協力者」であった(12)。彼はハンガリー社会の経済的・道徳的不健全さを、

ジェントリの「横柄さとわがまま、 怠惰と虚栄に満ちた」精神と、リポートヴァーロシュ

(ペスト五区)に君臨するユダヤ系経済エリートの「倫理観が欠如した享楽主義と冷笑的

言動」の奇妙なアマルガム、あるいは「専制的な郡長精神と強欲な資本家精神、封建主義

と高利貸の融合」の中に見た(13)。そして、そのような社会・経済システムを、「貴族階級

とユダヤ人とカトリック教会の三位一体」と呼んだ(14)。大戦末期の 1918 年 10 月 2 日、社

会科学協会の副理事長であったサボー・エルヴィンへの弔辞で、この国は今後「略奪騎士

団の国でも、両替商の国でも、不信心な司祭の国でもない」(15)とヤーシが述べた時の三者

は、まさにこの伝統的抑圧体系における「三位一体」を指している。

こうした用語法のせいであろう。ヤーシは「自己憎悪するユダヤ人」の典型と見られて

いる。彼はまるで「人種主義者のような口調で」ユダヤ人の寄生的行動を、農村住民に対

する高利貸の悪影響を、富裕層の享楽主義や不道徳を、更にはブダペストのユダヤ系知識

人の過失や欠陥を言いつのった、とヴァーゴー(Béla Vágó)は指摘する(16)。マッキャグ

(William McCagg)はヤーシを「反ユダヤ的ユダヤ人」と呼んだ(17)。ハナーク(Hanák Péter)

によれば、このような自己否定的な反ユダヤ主義は、一九世紀末に教育を受けた同化ユダ

ヤ人の子弟の間では珍しくなかった。それは東方からのニューカマーに自らのルーツを見

た、同化二世・三世の知的防御反応であったとハナークは分析している(18)。

そんな中から、官僚化したジェントリとも支配階級に奉仕する産業ブルジョアジーとも

異なる、市民的エートスを持った新中間層が登場した。ユダヤ人社会では、二八パーセン

トが新中間層に属した(19)。ヤーシらが標榜する市民的急進主義は、この勤労中産階級の「物

質的・精神的・道徳的生産性向上運動であり、これらの生産力を組織化し発展させ、不労

所得を廃絶すること」を目的とした(20)。ヤーシはこの文脈で、「ユダヤ系勤労知識人によ

るユダヤ的寄食生活の抑制」を、ユダヤ人問題の理性的な解決と見た(21)。

東方ユダヤ人の流入問題については、1917 年 3 月のロシア革命に期待を寄せた。「ロシ

アの民主主義はユダヤ人問題を平和的な同化精神でもって、西欧民主主義諸国のように苦

もなく解決するだろう。これによって中欧が、中でもハンガリーが真っ先にユダヤ人問題

から最終的に解放される」と(22)。ロシアの民主化によって東方ユダヤ人の流出が止まり、

ハンガリー系ユダヤ人は同化に専念できるとの意である。ジュルジャーク(Gyurgyák János)

はこれを、当時の「左翼知識人の幻想」と呼ぶ(23)。

農村からの人口流出

24

急速な経済発展は、窮乏した零細農や土地なし農民の多くを国外に流出させた。国外流

出人口の四分の三は貧農層であった。当時、五ホルド以下の零細農と土地なし農民を合せ

ると五百万以上*(iii)に上った。農業不況が深刻化し始めた 1870 年代半ば以降、第一次大戦

までに二重君主国から流出した人口は三五〇万人ほどであったが(24)、この内二百万人が世

紀転換期の十数年間、つまりハンガリーにおける産業革命のピーク時に集中している。メ

イ(Arthur J. May)によれば、1907 年だけで三三万八千余人が二重君主国から渡米したが、

その六割は歴史的ハンガリー領の出身であった(25)。彼らの多くは、中西部のシカゴ(イリ

ノイ州)やデトロイト(ミシガン州)やクリーブランド(オハイオ州)に定住した。

ところが、アウスグライヒ後のハンガリーでは世襲領地制度が乱用され、売買が規制さ

れた農地の面積が、1890 年代の中頃までに約五倍に増えている。これは二重君主国期に

大貴族の数が倍増したこととパラレルであるが、第一次大戦前、九二件あった世襲領地の

内、六十件はアウスグライヒ後に認定されたものである(26)。セーチェニィ・イシュトヴァ

ンは、既に一九世紀前半、このような世襲領地制度の廃止を提唱していた。産業界も広大

な土地の自由な売買を望んでいた。1907 年 7 月、全国工業者連盟の大会は、農村からの

人口流出は資本主義の発展に対する「最大の脅威」であると決議した(27)。同連盟専務理事

のヘゲドゥシュ・ローラーントは、人口流出が農村の貧しさのみならず、封建制度や教権

主義による「社会的流動性のなさ」に起因することを認めた(28)。新保守主義への対抗力た

るヤーシらの運動が、その急進性にもかかわらず財界から経済的援助を受けられたのは(29)、

封建遺制を打破するという両者の暗黙の合意があったからである。両者にとって大土地所

有制は、産業の発展や社会の流動化を阻害する半封建社会の病弊に他ならなかった。

*(iii) 世紀転換期の統計によれば、五ホルド以下の零細農(一二八万人弱)に加え、四百万

近い土地なし農民(二七四万二千人弱の農業労働者と一二一万一千余人の農場下僕)が

存在した。

ハンガリー化政策

大土地所有制のみならず、領内諸民族へのハンガリー化政策も問題の種であった。1868

年の少数民族法は、ハンガリー語を国家語と規定していたものの、領内諸民族に対して母

語による教育を保障し、同年の公教育法もハンガリー語を必修科目とはしなかった。にも

かかわらず、少数民族法に明記された「不可分の政治的民族」という擬制は、民族意識に

目覚めた領内諸民族には受け入れ難いものであった。

その後、第二言語としてハンガリー語の修得を義務づけた 1879 年の教育法を機に、全て

の少数民族学校と師範学校でハンガリー語教育が義務づけられた。この言語政策は中等教

育機関にも適用され、1907 年のいわゆるアポニィ教育法で頂点に達した。初等教育の無償

化や教員給与の増額と引き換えに、教育内容のハンガリー化を求めたアポニィ宗教・教育

相は、少数民族地域の全ての初等学校でハンガリー語を必修とし、民族主義精神を強調す

25

る認定教科書のみを許可した。こうした一連の同化主義政策は、少数民族地域の初等学校

を半減させた。すなわち、1899 年に六千校あった民族語で授業する学校は、1914 年には三

千三百ほどになった(30)。

同化政策が強権的な運動に変質してからは、少数民族地域で中間者的地位にあった農村

ユダヤ人が、民族自決を標榜する諸民族への平衡力となった。この点に関してはマッキャ

グが、「ブダペストの改革派のみならず地方の正統派ユダヤ人もルーマニア語やスラヴ語

を捨て、ハンガリー語を母語とすることによって、領内諸民族との対決を選択した」と述

べている(31)。少数民族地域の小さな町や村では、時として唯一ハンガリー語を話す農村ユ

ダヤ人が、仲買人として「農民の買うもの全てを売り、農民が売るもの全てを買った(32)。」

商人のみならず、医師や弁護士も少数民族地域の同化政策の橋頭堡となった。

二〇世紀初頭までに約二百万の言語的同化が報告されているが、その内訳は、おおよそ

ユダヤ人七十万、ドイツ人六十万、スロバキア人四十万、南スラヴ人十万である(33)。クロ

アチア・スラヴォニア地方を除く 1910 年時のハンガリー語人口は、辛くも過半数(五四・

五パーセント)に達した。しかしながら、強権的同化政策はハンガリー語人口をたった一

割増やしただけである。

このようなハンガリー化政策の急先鋒として、『ブダペスト新聞』編集主幹のラーコシ

やスロバキアの副知事グリュンヴァルド・ベーラの名が挙げられる。ラーコシはバーンフ

ィ内閣[1895-99 年]の強権的同化政策に呼応して、「三千万の大ハンガリー帝国」(クロ

アチア・スラヴォニアを除く 1900 年時の人口は千六百万余り)を鼓吹した。一方、1871 年に

ゾーヨム県の副知事に選出されたグリュンヴァルドは、汎スラヴ的と判断したギムナジウ

ムを廃校にしただけでなく、学校教育全体を巨大な「ハンガリー人製造機」に変えた(34)。

ドイツ系のラーコシやグリュンヴァルドに共通する点は、領内諸民族に対するハンガリ

ー文化の優越性と、その同化力を信じていたことである。グリュンヴァルドは 1878 年に出

版した『上ハンガリー』(スロバキアの意)の中で、1868 年の少数民族法は「ハンガリー

人の権利の放棄」に他ならないと断じた(35)。彼の言に従えば、ハンガリー人は精神的にも

道徳的にも「卑屈なスロバキア人」に勝っている(36)。それゆえ、「我々は領内諸民族を同

化し、我々自身を強化しなければならない。我々は、彼らが分離目的で近親集団と連携す

ることを許さない。とりわけスロバキア人をスラヴ系諸民族から引き離さなければならな

い。ハンガリーのスロバキア人は、フランスにとってのアルザス・ロレーヌ地方のドイツ

人である」(37)。スロバキア人を他のスラヴ系諸民族から引き離しさえすれば、ドイツ系の

アルザス住民が忠実なフランス国民になったように、スロバキア系住民も忠実なハンガリ

ー国民になるだろうと彼は考えた。

強権的同化政策批判

二〇世紀初頭の市民的急進主義を代表するヤーシや、イギリス外交に多大の影響を与え

たロバート・シートン=ワトソンがハンガリーの少数民族政策を批判する時、異民族支配

26

のジュニアパートナーとして農村ユダヤ人の役割が指摘された。シートン=ワトソンは

1908 年に出版した著書で、地方政治の伝統的かつ実質的支配者たるジェントリと提携した

ユダヤ人が「ハンガリー人の仮面」を被り、ハンガリー語を解さぬ領内諸民族の日常生活

を牛耳っていると非難した(38)。

他方、伝統的な支配階級に自らを強く印象づけんがために、また新参者の旺盛な闘争心

と才気ゆえに、「ハンガリー人以上にハンガリー人的な集団」に変貌したユダヤ人の中に

(39)、ヤーシは異民族支配の共犯関係を見た。独立後、チェコスロバキアの教育相になるア

ントン・シュチファーニクが、「農村ユダヤ人はハンガリー人の手先であり、郡長や村書

記や憲兵隊の補助部隊である」(40)と書いた『二〇世紀』誌上の記述(1917 年のユダヤ人問

題アンケートへの回答)は、1929 年の『ハプスブルク君主国の崩壊』に引用された(41)。ハ

イドゥ(Hajdu Tibor)の言葉を借りれば、農村ユダヤ人は常に、「専制的な」村書記や「暴

力的な」憲兵隊将校と同行していた(42)。もっともシートン=ワトソンは、領主権を賃借す

るアレンダ制ユダヤ人が、地方豪族に対していかに無力であるかを承知していた(43)。逆ら

えば営業権の剥奪である。とまれ、君主国の崩壊後、大貴族や上級官吏がいち早く逃亡し

た少数民族地域で、直接民衆と接した下級官吏と共に、農村ユダヤ人が旧体制のスケープ

ゴートにされたのは、このためである。

しかしセクフューは、ハンガリーの民族政策はヤーシが言うような「強権的同化」政策

ではなく、有害な影響はもっぱら「ハンガリー人を全て邪悪」ときめつけ、「領内諸民族

は純粋無垢だ」と擁護するヤーシや(44)、イギリスのジャーナリズムが捏造したものだと反

論した。「ヤーシは民族問題で、我々ハンガリー人をまるで審問官のように批判する」が

(45)、「我々は、ヤーシやシートン=ワトソンが言うほどハンガリー化がおぞましいもので

なかったことを知っている。子供じみた内容や感情的かつ現実離れした著作のせいで、激

痛をこうむったのは領内諸民族よりも、むしろ我々ハンガリー人である」と(46)。

農地解放と民族解放

伝統的な抑圧体系に自由や民主主義や進歩の源泉たる「ヨーロッパ文化」と、当時フリ

ーメイソンの間で広まっていた土地分配による「生産性の向上」をもって対峙したヤーシ

は、これをリベラル社会主義と称した(47)。もっとも、ここで言う社会主義とは「不労所得

の廃絶」以上のものではないが、彼は封建的な土地所有制度に基づく「不労所得」を廃絶

する中に、社会進化の契機があると考えた(48)。

彼は大所領の解体と土地分配、及び普通選挙制度の導入でもって、民族問題が解決でき

ると確信していた。小規模農業者が農業革命の担い手であったフランスやベルギーやバイ

エルンと同様、デンマークも土地分配を実施して、第一次大戦前にはハンガリーの二倍の

小麦を生産した(49)。そのようなデンマークの農民は、「卑劣で卑屈なハンガリー農民に比

べて、都会的で教養があり、開放的で勇敢な文化人であった」と 1911 年、デンマークを視

察した時の印象を述べている(50)。デンマークの事例から、彼は民族の区別なく零細農や土

27

地なし農民に土地を分配することが「国民形成のモラル」であり、「民主主義のバロメー

ター」であると論じた。

ヤーシは、「自営農の創出と協同組合化」というデンマーク・モデルの農地解放と、「民

族自決と連邦化」というスイス・モデルの民族解放でもって、国家再編を構想した。民主

主義原理に基づく「分離の上の再組織化」という理念は、「人は民族が解放されて初めて

国際主義に到達できる」(51)という彼の信念に裏打ちされていた。しかし、それが領内諸民

族の聖なるエゴイズムや農民の土地飢餓とどう調和するのであろうか。この点、諸民族の

エゴイズムや農民の土地飢餓は、二〇世紀初頭の世界的な革新思想の中で解決されるべき

「封建制の負の遺産」に過ぎない、と彼は楽観的であった。

「東方のスイス」構想

ハプスブルク帝国を二重主義から歴史的民族(ドイツ人・ハンガリー人・ポーランド人・

チェコ人・南スラヴ人)による五重主義に再編せんとするヤーシの国家構想は、オースト

リア・スラヴ主義への応答であったが、彼は歴史的ハンガリーの連邦化には否定的である。

その論拠の第一は、ハンガリー人の文化的・経済的ヘゲモニーは、強権的同化主義をやめ

さえすれば障害とはならないだろうとの楽観論(52)。第二は、連邦化に必要な現実的前提の

欠如である。すなわち、地理的・経済的分離性や領土的自治の伝統、それに何よりも多民

族国家としての自覚が歴史的ハンガリーにはない、というものであった(53)。このような二

重基準の背景には、ヤーシをはじめ戦後革命の指導者たちが、いつまでも一九世紀的な歴

史的民族中心の発想を捨て切れず、「歴史なき」諸民族の若いダイナムズムを過小評価し

ていたこと。また、その原因であり結果でもあるが、彼らが歴史的ハンガリー概念に対し

て全く無批判であったという事実が挙げられる(54)。ヤーシの再編構想は、キラーイ(Király

K. Béla)の言葉を借りれば、「半世紀遅れのコシュート案」に他ならなかった(55)。

ティサ・イシュトヴァンの右派ブレーンの一人であるレーズ・ミハーイは、ヤーシの「東

方のスイス」構想の中に、歴史的ハンガリー概念を否定するルーマニア民族主義や汎スラ

ヴ主義の危険性を敏感にかぎとった(56)。1918 年の夏、彼は『二〇世紀』に「政治学的観点

から見た民族問題」と題する論文を寄稿し、掲載された。ヤーシは次号に「社会と個人の

発展から見た民族問題」と題する論文を発表して、これに反論した。そして、レーズと自

身の論文に十二名の論評を加えた小冊子を翌年 1 月に刊行した。

コンチャはレーズ=ヤーシ論争に触れて、「レーズは人間を知らず、支配や権力の基礎

を自由と分離しているが、これは誤りである。一方、ヤーシは民族を半分しか理解してお

らず、人間の自由についての理解が足りない」と断じた(57)。双方に距離を置いたコンチャ

の論評に対して、ラーコシはレーズに与してヤーシを酷評した。ヤーシは「強制と異民族

支配」を解除すれば、「合意と対等な協同」が生まれると信じているが(58)、彼の構想は「無

分別にも民衆を武装させ、貪欲な隣人たちの目的に奉仕し、ハンガリー民族を大混乱に陥

れるものである。ハンガリー民族の弱体化によって、歴史的ハンガリー王国の国家維持能

28

力は停止するだろう。ヤーシの構想は美しくも興味深いが、政治的には無価値な上、危険

でさえある」と(59)。

ティサの市民的急進主義批判

貴族やブルジョア階級の社交場は、1883 年以前は大貴族の「ネムゼティ・カシノ」と、

ジェントリの「オルサーゴシュ・カシノ」、それにブルジョア階級の「リポートヴァーロ

シュ・カシノ」の三件のみであった。「ネムゼティ・カシノ」や「オルサーゴシュ・カシ

ノ」もユダヤ系市民を受け入れたが、入会はいずれも改宗を前提とした(60)。それ以降 1910

年までに社交場が九件増えた。アンドラーシ通りに面した「テレーズヴァーロシュ・カシ

ノ」もその一つである。ユダヤ系経済エリートの住むペスト五区に隣接した六区(テレー

ズヴァーロシュ)は、ヴァージョニの支持基盤であるユダヤ系小市民の多い地区であった。

1905 年 1 月の総選挙で予想外の惨敗を喫する三ヵ月前、ティサ・イシュトヴァンはこの

社交場カ シ ノ

で、「アウスグライヒ前の 1866 年と建国千年祭の 1896 年を比べてみよ。この三十

年で我国がどれだけ強大になり、物質的・精神的・道徳的能力を高めたか、想像してみる

が良い。このような繁栄を築いた体制を、どうして簡単に手放せようか」と誇らしげに語

った(61)。それはヤーシらが唱える市民的急進主義のみならず、アウスグライヒ体制からの

脱却を求める民族派への痛烈な批判でもあった。ティサの目に、ブダペストの肖像(社会・

経済発展)と民族の自画像(国民概念)の焦点は合致していた。

ティサ・イシュトヴァンは、ジェントリ国家の建設者で十五年間首相を務めたティサ・

カールマンを父に持ち、二五歳で衆議院議員に当選し、二千ホルドの土地と伯爵位(1897

年、叔父の爵位を相続)を手に入れた上、二度も首相[1903-5 年、1913-17 年]の座に着

いたジェントリの出世頭である。五年後、自由党を国民労働党に改組・改称し、1910 年の

総選挙で与党に返り咲いた後は、社会科学や文芸界に蔓延する市民的急進主義―彼の表現

を借りれば「重病のフランス文化に感化された退廃」を一掃すべく、ドイツ系の作家ヘル

ツェグ・フェレンツを編集主幹とする雑誌『ハンガリーの番人』を発行し、ヤーシの市民

的急進主義やアディの「退廃」と全面的に対決した。

ティサは 1911 年の『ハンガリーの番人』で、ブダペストを「軽薄なおしゃべりや皮相

な議論と、傲慢な態度や無気力で陰気な雰囲気に満ちた」カフェの街にしてはならないと

警告し、カフェは「よそ者」たちの娯楽の場であり、ハンガリー人は「家族や友人たちの

集う団らんの場」に戻ろうと提言した(62)。ティサにとって、猥雑なカフェの寵児となった

アディは「ジェントリの裏切り者」であった。彼は翌年、「ヴェレシュマルティの円熟し

た倫理的世界観や論理的思考、それに清廉で高貴で卓越した感情生活と、精神的無政府状

態や心と知性の空虚さを秘めたアディの無意味な大言壮語を比べることなど、誰が出来よ

うか」と同誌に書いた(63)。ティサの支持者であると同時にアディの賛美者でもあったヘゲ

ドゥシュによれば、後者の話題になるとティサは、「アディと『西方ニュガト

』は、ハンガリー文

化という棕櫚の木に付く害虫だ」とはき捨てた(64)。『西方ニュガト

』は、財界二代目のホリン・フ

29

ェレンツ二世やハトヴァニ・ラヨシュ(砂糖王ハトヴァニ・シャーンドルの息子)らと全

国工業者連盟の創設者たちが共同出資し、1908 年 1 月に創刊した文芸誌である。

アディはトランシルバニアに近い東北部のジェントリ出身で、ヤーシとはギムナジウム

の同窓であった。1912 年にヤーシの著書『国民国家の形成と民族問題』が出版されると、

民族問題を解決すべき民主主義の金字塔だと絶賛した(65)。そんなアディを、「半同化状態

ゆえにハンガリー人の心の琴線に触れられない連中が、拡声器として彼のハンガリー的出

自を利用したのだ」とセクフューは『三世代』に書いた(66)。しかしながら、ティサは父親

と同様、扇動的政治手法に対して厳正であった。1911 年の衆議院での演説で、彼はユダヤ

人と急進主義を短絡させる議論に対して、「ユダヤ人社会には、コチコチの頑迷主義から

無神論まで様々な傾向が存在するが、我々はその事を扇動の材料に利用して、ハンガリー

社会を煽るべきではない」と注意を喚起した(67)。

ベトレンの市民的急進主義批判

戦間期の政界で重要な役割を演じたベトレン・イシュトヴァンも、1918 年 7 月の議会演

説で、急進的知識人の危険性に警鐘を鳴らした一人である。ベトレンによれば、「政治的

急進化の背景には労働者階級だけでなく、ニューカマー出身の知識人の一部も絡んでいる。

彼らはハンガリー国家に順化しきれない知識人である。彼らの倫理観や世界観からすれば、

ハンガリー民族の伝統や理念や歴史認識は受け入れられないであろう(68)。」ジェントリは、

こうした急進的知識人が「国家の主導権を握ることのないよう、彼らと対峙しなければな

らない」と結ぶ一方(69)、彼はカーロイ・ミハーイに対して、市民的急進主義や領内諸民族

との同盟は極めて危険であると忠告した(70)。これは明らかに、戦後革命への警告であった。

ベトレンは 1925 年の議会でも、「民族には民族感情や伝統、学識、経験、愛国心とい

った観点から、民族の指導者と見なし得る知識階級が必要だ。民族の生活には、独立した

財産を持つ知識階級が不可欠だ。ハンガリー社会には、独立した財産を持つ階級が二つあ

る。一つは土地所有貴族で、もう一つは都市のユダヤ人である。しかしながら、ラテイネ

ル(知的専門職)は独立した財産を持つ階級とは言えない。ヤーシらが標榜しカーロイら

が同調した急進主義は、ハンガリー民族の生活様式を無視するものであった」と述べてい

る(71)。

セクフュー=ヤーシ論争

ヤーシは 1912 年の著書で、近代化過程における全ての政治的、民族的、社会・文化的成

果は「都市から発信された」と述べた(72)。セクフューは、これを全くの誤りであると言う

(73)。セクフューに言わせれば、大都市文化の「過度の西欧自由主義」と移り気な上に生産

労働を軽んじる「ハンガリー人の民族的罪」が、「ユダヤ人の腐食的な急進主義や国際主

義」と結合して、歴史的ハンガリーの崩壊という悲劇を生んだのである(74)。ヤーシはこう

した主張に対して、1929 年の著書で以下のように反論した。

30

「過度の西欧自由主義」という表現は、自己欺瞞の最たるものである。セーチェニィ

が「民族的罪」と指摘したジェントリの「虚飾やうぬぼれ、根気のなさ、誇張癖、自

己欺瞞、現実無視、ものぐさ、生産労働の軽視」は、好戦的な半封建社会の歴史的結

果に過ぎない。また、高利貸や経済的搾取や排外主義の助長といったユダヤ人の有害

な影響力は、「民族的」問題というよりも、時代錯誤的な階級支配でもって農民や労

働者を飢餓や精神的腐敗に導く社会的病弊である(75)。

市民的急進派は自由主義の最先端に位置し、進歩と革新を信じた世代である。そのため

か、英米先進国の民主主義を過大評価した。大所領を解体することで、農村の民主化が「ア

メリカ並みのスピード」で普及すると信じていた(76)。強権的な異民族支配をやめれば、自

発的な同化が「土の香りのする農村的な価値」をその国の文化に注入すると説いた(77)。だ

が、ケンデ(Kende Péter)が言うように、彼らの運動には「生活の匂い」さえしなかった

(78)。彼らは、あくまで都市の知識人であった。ジュルジャークによれば、改宗ユダヤ人家

庭出身のヤーシにユダヤ的アイデンティティはなかったが、世間の目に彼の交友関係は「ユ

ダヤ的サロン」と映じた(79)。

またヤーシは、戦後革命を総括した 1920 年の著書で、「共産党指導部の少なくとも九五

パーセントはユダヤ人であった」と書いた(80)。彼はその理由を、「西欧のユダヤ人に比べ

てハンガリーのユダヤ人は同化の程度が低く、社会の中で別個の集団を形成し、ハンガリ

ー古来の精神風土と接したことがないからだ」と断じた(81)。いかにもステレオタイプなユ

ダヤ人論である。こうした古色蒼然たるユダヤ人論で戦後革命を総括したこと自体が、彼

の敗北主義を物語っている。

これに対してセクフューは、「私の見るところ、ハンガリーに古くから定住しているユ

ダヤ人家族には不当な見解であるが、東方からのニューカマーについては当たっている」

と『三世代』の増補版(1934 年)で答え、「このような見解を読むと、これまでのハンガ

リー人に対する偏見に満ちた主張でもって彼を非難することは出来ないようだ」と締めく

くった(82)。これが両者の和解である訳はない。それは不倶戴天の論敵に対する冷笑的な凱

歌であった。セクフューは、ヤーシに言及する際には必ず、ヤクボビッチと旧姓を併記し

た。それが彼の論争スタイルだった。

ヤーシが挙げた「九五パーセント」という数値の典拠は不明だが、あまりにデマゴギッ

クな記述である*(iv)。共産主義と「半同化」ユダヤ人を短絡させるために、「ユダヤ人社会

の大多数が共産主義思想とは無縁であったという平明な事実」を(83)、敢えて無視したのだ

ろう。これは明らかに、後世のハンガリー研究に対するヤーシの大罪の一つである。

*(iv) ユダヤ人比は七〇パーセント前後が定説である。七〇パーセント前後という数値は、

ヤーシと同時代のグラッツの記述(四五名中、三二名)と合致する。

31

知識人の責任

知識人の責任という意味では、セクフューも例外ではない。ラアブ=エプスタイン(Irene

Raab Epstein)が指摘したように、彼には『三世代』が与えた悪影響についての反省が全く

見られない(84)。セクフューの最後の論文は「戦後知識人の変容」であるが(85)、彼自身が最

も変容した一人である。セクフューは共産党員ではなかったが、公使としてモスクワに赴

任(1946 年 3 月)する直前、オペラ劇場でレーニンについて講演した。一年前には、ハン

ガリー人の「ほとんど誰もが知らなかった」ソビエト連邦の建設者レーニンを顕彰するた

めである。主催はハンガリー=ソ連文化協会であった。

そこでセクフューは、レーニンに最大級の賛辞を呈した。「レーニンは五大陸で最も影

響力のある政治指導者で、政治を芸術の域にまで高めたマエストロである。それゆえ、我々

はレーニンに近代世界の創造精神を見い出すものである」と(86)。第一次大戦後、ブダペス

トのソビエト共和国を最も非難した彼が、「プロレタリア独裁は党の独裁ではない。前衛

としての党の背後には、プロレタリア総体がいる。独裁は強制力を持つ権力体制であるが、

党はその権力をプロレタリア大衆の信任なくして執行できない」とソ連のプロレタリア独

裁を礼賛した(87)。彼はこの講演で、馴染みのない語句の間に「三世代」や「亡命」といっ

た自著の表題の一部を散りばめることで(88)、自身の変容を粉飾した。セクフューによれば、

ソ連は一年前、多大の犠牲を払ってハンガリーを解放してくれた。それゆえ「我々ハンガ

リー人は、レーニン主義とその後継たるスターリン主義を学習することで、少しでもソ連

を理解する必要がある」と言う(89)。まさに御用学者の弁である。

ネーメトの診断によれば、セクフューは筆禍事件(第五章参照)の教訓として「極めて

慎重な便宜主義」を学んだ (90)。セクフューや門下のコシャーリ・ドモコシュと対立したビ

ボー・イシュトヴァンは、次のようなインタビュー記録を残している。

私はセクフューの業績を知悉しているが、極めて悪質だと思った。1945 年以降の経歴

を含めて、計り知れない権力へのすり寄りと卑劣さの証しを私は見た。[中略]「極

めて慎重な便宜主義」というネーメトの診断の正しさを、はっきりと見た。ショック

だった(91)。

一方、亡命者ヤーシは、1956 年革命の前年に書き上げた『専制政治に抗して』で、「共

産主義国家というマルクス主義の理想は、民主的な方法と精神では実現できなかった。ロ

シアに共産主義革命を移植したレーニン主義は、ボルシェヴィキの権力を維持するため、

民主主義制度の芽をあらかじめ摘んでいた。すなわち、レーニンは公然とマルクス主義の

『プロレタリア独裁』を、その『前衛』たる党の独裁に矮小化したのだ」と痛罵し、レー

ニン主義の後継たるスターリン主義を「真正の専制政治」と断罪した(92)。ハンガリーの近

代化をめぐるセクフューとヤーシの論争は、第二次大戦後、冷戦下の国際政治に舞台を移

して続けられた。

32

第四章 二〇世紀初頭のユダヤ人論

1911 年、シオニストの月刊誌『過去と未来』がパタイ・ヨージェフによって創刊された。

二年後、カトリック人民党の機関紙『アルコトマーニュ』は、ユダヤ民族主義や分離主義

を助長するとして、同誌を糾弾した(1)。ハンガリー系ユダヤ人社会においては、極めて少

数派であったにもかかわらず、前世紀来のハンガリー化政策に対する大胆な挑戦と受け取

られたのであろう。第一次大戦が始まると、ロシア軍に占領されたガリツィアから多数の

東方ユダヤ人が着の身着のまま流入した。パタイは、「新聞や議会での反ユダヤ論議と、

東部地域からの避難民の流入は全く関係がない。彼らはガリツィア出身の末裔であるハン

ガリー系ユダヤ人全体を非難しているのだ」と、増幅する反ユダヤ感情を分析した(2)。1918

年 8 月、ティサ・イシュトヴァンは議会で、ユダヤ人と戦時利得者を短絡させる反ユダヤ

的風潮を遺憾だと表した(3)。

1917 年のアーゴシュトン

ヤーシが主宰するフリーメイソンのロッジや社会科学協会の会員であったアーゴシュ

トンは、軍需景気で莫大な利益を上げた大資本やガリツィア難民への反ユダヤ感情が増幅

する 1917 年 3 月、『ユダヤ人の針路』と題する著書を出版した(4)。同著は六部から成る。

最大の特徴は第三部で、十二章の内「二種類のユダヤ人」に一章を、「ユダヤ的ユダヤ人」

関連に五章を当てたことである。その際アーゴシュトンは、「肉体労働を可能な限り避け

ようとする」ユダヤ的ユダヤ人にとって、「ホスト社会は搾取の対象たる植民地である」

と書いて物議を醸した(5)。

アーゴシュトンによれば、ユダヤ人社会には近代化に順応しようとする非ユダヤ的ユダ

ヤ人と、伝統を墨守するユダヤ的ユダヤ人が存在するが、現下の問題は、近代化した非ユ

ダヤ的ユダヤ人が「東方から流入するユダヤ的ユダヤ人を短期間で文明化するだけの力が

ないこと、またハンガリー社会も彼らを融合するだけの能力を持ち合せていない」点にあ

る(6)。このような状態が続けば、「ハンガリー系ユダヤ人社会が非文明化するのは必至で

ある。そうなれば領内諸民族の数を一つ増やすことになるゆえ、ハンガリー人にとっては

危険きわまりない(7)。」そこで彼は当面のユダヤ人問題を、ハンガリー社会に同化しよう

としない「不適応ユダヤ人」の問題、あるいはキリスト教徒のみならず、近代化に順応し

ようとする非ユダヤ的ユダヤ人をもこの地上から一掃せんとする「狂信的な」ユダヤ的ユ

ダヤ人の問題であると定義し、非ユダヤ的ユダヤ人に「思考や倫理や感性が全く異なるユ

ダヤ的ユダヤ人」と関係を断つよう提言した(8)。

こうした「二種類のユダヤ人」論の先行例は、「学習意欲や向上心がなく、風呂にも入

らず、ただただ商売と子作りに励む」東方ユダヤ人との関係断絶を改革派ユダヤ人に提唱

したバルタ・ミクローシュ(独立党所属の衆議院議員)である(9)。彼は 1901 年の著書『ハ

ザールの大地にて』で、カルパート・ウクライナの惨状は、当地で「ハザール人(ガリツ

33

ィア・ユダヤ人の意)の高利貸が健全な中産階級の形成を妨げたからだ」と説く一方、「詩

歌や音楽に優れ、知識欲と向上心を持ち合わせたユダヤ教徒のハンガリー人」と「虫のよ

うに増殖し、雀のように機略に富み、鼠のように破壊的な」東方ユダヤ人は別人種である

と断じた(10)。

チョルノキ・イェネーもバルタやアーゴシュトンと同様、「二種類のユダヤ人」の存在

を指摘した。一方はハンガリー化したユダヤ教徒であり、他方は「くずれたドイツ語」(イ

ディッシュ語の意)を話す「低俗・無知な」ガリツィア・ユダヤ人である。前者は純粋に

宗教集団であるが、後者は「奇妙な」長衣をまとい、側頭部に「趣味の悪い」巻毛をほど

こした民族集団である。彼らは家庭を顧みず、男も女もカフェに入り浸り、路上を徘徊し、

店頭にたむろする。そのため、子供たちのしつけが放置されている。これは由々しき事態

だ、と移民文化に対して嫌悪感を露わにした。彼らと「人種的に別系統」である同化ユダ

ヤ人がこの問題を解決できれば良いが、それが出来ないところにユダヤ人問題の危険性が

あるとチョルノキは言う(11)。

それゆえ、このような「低俗・無知な東方ユダヤ人の移住を、あらゆる手段でもって阻

止しなければならない」と彼は続けた。移住後も同化しないユダヤ人は「民族」と見なす。

これは既に市民権を持つ非同化ユダヤ人についても同様だ。ハンガリーの伝統をないがし

ろにするコスモポリタンや国際主義を標榜する社会学者は、大部分がユダヤ人である。伝

統的な美しさや偉大さや神聖さを愚弄し、侮蔑する作家や芸術家の大半はユダヤ人である。

貴族の称号を手に入れることも、改宗することも必要ない。必要なのは、キリスト教社会

の真の文化を学び、愛国的感情を次世代に教育することだ。ところが現実は、「ハンガリ

ー社会に真に融合することのない東方ユダヤ人が陸続と押し寄せ、我々がユダヤ人問題と

呼ぶところの傷口を広げている」と彼は結論づけた(12)。

「小規模農業経営の大半がユダヤ人の工業者や金融業者の手に渡った結果、困窮したキ

リスト教徒が国外に移住せざるを得なくなった」と嘆くコンチャも、新保守主義の系譜に

属したが、コンチャはチョルノキより冷静だった。コンチャによれば、1848 年革命以来ユ

ダヤ人はハンガリー人と共闘してきた。アウスグライヒ後は国民生活の水準を引き上げる

ことに貢献した。彼らは他の領内諸民族よりも言語的に早く同化し、少数民族地域でハン

ガリー人の文化的・政治的代理人を務めた。大戦勃発後は、戦場でも銃後の福祉活動でも

忠実に任務を果した(13)。

そうしたユダヤ人の功績を認めた上で、ユダヤ人問題の原因は「世紀転換期のユダヤ人

社会の変容にある」とコンチャは言う。すなわち、「ユダヤ人社会の若い世代が全く別方

向を向くようになったからだ」と。それは明らかに、ヤーシの市民的急進主義やハトヴァ

ニが主宰する『西方ニュガト

』を念頭においての発言である。コンチャにとって、西欧的価値観で

もって伝統的なハンガリー文化を嘲弄するユダヤ人は「よそ者」であり「内なる敵」であ

った。彼の表現を借りれば、「ユダヤ人問題は世界観の問題」であり、民族精神に関わる

問題である。コンチャの目には、キリスト教社会が王道を行くのに対して、ユダヤ人社会

34

は覇道であった(14)。経済領域のみならず精神文化の領域にまでユダヤ人が進出してきたこ

とで、知識階級としてのジェントリの指導的地位が危うくなった。これを見てコンチャは、

ユダヤ系エリートの譲歩によるジェントリの復権を提案した。

コンチャによれば、ジェントリの指導力の低下は、一つには彼らを見下す大貴族に原因

があるが、今一つは独自の社交場カ シ ノ

を持つユダヤ系経済エリートとの競合の結果である(15)。

ジェントリの復権は、オルサーゴシュ・カシノとリポートヴァーロシュ・カシノという「異

質な二つの社交場の機能を停止して、初めて完全なものになる。果して、両者を対等な関

係に出来るだろうか。そのためには、どのような手段が考えられよう。必要なのは、ハン

ガリー人の民族的・キリスト教的理念を増強し、ユダヤ人を同化させる時間だ。それが出

来ずに、ユダヤ系エリートが国際主義的・反キリスト教的路線を取り続けるなら、一つの

国に二つの指導階級が存在することになる。これは非常に危険なことだ。その時は、民族

的・キリスト教的精神の優越性を賭けて戦うことになるだろう。常識があれば、ユダヤ人

社会もそうした対立を避けるべく、国家の指導権を握ろうなどとは考えまい。彼らはハン

ガリー人に欠けている才能や美徳を、ハンガリー国家に注入するという役割に徹すべきで

ある(16)。」前述したベトレンと同様、これも戦後革命への警告と受け取れよう。

難民の急進主義

歴史的ハンガリーの解体後六年余りの間に、旧領土から引き揚げて来た難民の数は、登

録者だけでも三五万人、実数は四二万人以上と推定されている(17)。その最大グループ(四

二・九パーセント)は村書記や教員、あるいは警察官や憲兵といった国家及び地方公務員、

第二グループ(三四・四パーセント)は銀行員や商工業従業員、ないし小商人や職人であり、

第三グループ(十八・一パーセント)に官僚や大貴族がいた(18)。これより難民の七五パー

セント以上が下層中産階級に属していたと言えよう。この中に、官僚化したジェントリの

補助部隊である下級官吏(ジェントロイド)がいた。教育を受けた領内諸民族出身者で構

成されたが、大部分はドイツ系都市民であった(19)。住む家や職を失ったジェントロイドは、

旧体制崩壊後の一番の被害者であった。彼らの身分は国家機関に全面的に依存していたた

め、国家の崩壊で彼らは経済的・心理的に極度の不安に陥った(20)。

コズマ・ミクローシュ[1935-37 年、内相]は、異民族支配の代理人として直接住民と

接した村書記の悲惨な運命を目撃した。東北部のルシン人地域で、住民たちが自然死した

村書記の遺体をわざわざ掘り返し、墓地の側溝に投げ捨てたと彼は書き残している(21)。こ

のような記録の中に、異民族支配の凄まじさを見て取ることが出来よう。ある統計によれ

ば、1918 年 11 月前半、全国平均で四十パーセントの村書記が追放されたが、現ルーマニ

ア領のテメシュ県では六六パーセントに上った(22)。別の資料によれば、ハンガリー人の村

から追放された村書記は約三分の一であるが、スロバキア人地域では五割、ルーマニア人

地域ではほぼ九割であった (23)。村書記のみならず、権力構造の末端で直接住民と接した警

察官や教師も、上級官吏の帰国後、旧体制の象徴として標的にされた。

35

ところが、引き揚げ後に難民グループが見たものは、専門職分野におけるユダヤ人の寡

占状態であった。ここにユダヤ人(1920 年時、四七万三千余人、総人口の五・九パーセント)

と難民(推定四二万六千人、総人口の五・三パーセント)の労働市場における軋轢が生じた。

経済対立を政治的反ユダヤ主義に変えた決定的要因は、戦後の二つの革命、とりわけユダ

ヤ人が「過剰に」参加したソビエト共和国のトラウマだった。彼らは宗教施設を映画館に

建て替えるよう命じたり、農業を知らない都会の若者がコミッサール(政治委員)として

やって来て、「四月に小麦の種を播くよう」指導した(24)。このような都市文化への違和感

が、農村における反ユダヤ感情を助長した。農村の反ユダヤ感情をセゲド思想と呼ばれる

戦間期の体制イデオロギーにまで高めたのは、難民のルサンチマンである。

セゲドは革命期に対抗政府が樹立された南部の都市である。キリスト教民族主義に反共

主義と反ユダヤ主義を融合させたセゲド思想は、ユダヤ系中産階級の犠牲の上にキリスト

教徒の復権を追求した。だが、「罪深いブダペスト」を指弾し、大胆な社会改革を掲げた

この右翼急進主義は、ユダヤ人のみならず、人生の大半を国外で過す大貴族にも敵愾心を

露わにした。コスモポリタンな風貌と親ユダヤ的な大貴族は、急進右翼の目に外国人と映

ったのである。

セゲド思想は無数の秘密結社の中で醸成された。秘密結社は指導的な将校たちが重層的

に関与することで、一大ネットワークを形成した。最大の秘密結社はエテルケズ連盟であ

った。エテルケズはカルパチア盆地征服前に、七部族がアールパードを盟主に選んだと言

われる血盟の地である。プロハースカはこのような地下組織で暗躍した(25)。

秘密結社の一部は、トゥラニズムと称する復古思想と結び付いた。トゥラニズムは一九

世紀末の建国千年祭を機に台頭し、汎ゲルマン主義や汎スラヴ主義に対抗して非アーリア

語族を結集せんとした思想運動である。トゥラン協会の初代会長(1910-18 年)はテレキ・

パール[1920-21, 1939-41 年、首相]、第二代会長(1921-37 年)はペカール・ジュラ、第

三代会長(1939-44 年)にはチョルノキ・イェネーが就任した。運動は主として農本主義

団体の幹部が担った(26)。反革命運動の中で再建されたトゥラン協会は、「ユダヤ的腐敗や

アーリア的退廃」と戦うため、「西欧への盲従」を拒否すると言明した(27)。

セゲド思想は、軍事行動を担当する全国防衛者連合(1919 年 11 月設立)と、宣伝活動に

従事する覚醒ハンガリー人連合(同年 12 月設立)によって担われた。主として軍人で構成

された前者は、相互扶助組織でもあった。後者には文官や知識人や学生が加わった。モー

チによれば、覚醒ハンガリー人連合の二九名の指導者の内、十四名は旧領土の生まれか、

敗戦当時旧領土に居住していた者であった(28)。ブラハム(Randolph L. Braham)は、全国

防衛者連合より覚醒ハンガリー人連合の方が、はるかに狂暴であったと書いている(29)。

ゲンベシュ・ジュラ[1932-36 年、首相]は、こうした運動の指導者であった。彼の父

親はプロテスタントでジェントリ出身の教師だったが、母親は村でも指折りの裕福なシュ

ワーベン人家庭の出身であった(30)。参謀本部では中尉に過ぎなかったが、セゲド対抗政府

で陸軍次官に抜擢された。ゲンベシュを筆頭に、ドイツ系軍人は軍隊で重きをなした。

36

ハンガリー系ドイツ人は、しばしばユダヤ人に対するキリスト教徒の戦いを口にした。

一つには、封建エリートの戦略的パートナーに選ばれなかったこと、また一つには、ユダ

ヤ人の目覚しい社会進出と飛躍的に増大した影響力への反発が挙げられよう。バラーニが

指摘するように、中産階級の反ユダヤ主義は、経済が上昇し国家機関がジェントリを十分

吸収している限り、またユダヤ人の同化が民族主義の先兵として利用できた間は激化しな

かった(31)。(ここで言う中産階級とは、ジェントリと彼らを補佐するジェントロイドの意

である。)ところが、1920 年のトリアノン講和条約によって国家が三分の一に縮小すると、

国家機関に依存したジェントリやジェントロイドと、民間部門に集中するユダヤ人の棲み

分けが終焉した。

トルマイ・セシル

世紀転換期の新保守主義は「東方ユダヤ人の流入とハンガリー人の国外流出」を短絡さ

せたが、第一次大戦後は「革命とユダヤ人」を同一視した。1920 年 12 月に出版されたト

ルマイ・セシルの日記風のエッセイ『亡命者の書』は、大戦後の扇動政治の典型である。

書名は、反革命を支持する婦人団体の指導者であった著者が、ソビエト共和国の成立を機

に地下に潜り、逃避行を続けたことに由来する。同著は、ベトレン内閣[1921-31 年]で

十年近く文化・教育行政に君臨したクレベルスベルグ宗教・教育相の発案で、英・独・仏

語に翻訳された。第二次大戦後は発禁処分を受け、図書館でも閲覧禁止になったが、1998

年にハンガリーでも再刊された。

トルマイはユダヤ人をロシア革命(ボルシェヴィズム)の伝令と見た。「トロツキーや

ラデックやヨッフェは、ブダペストに住むユダヤ人の親戚だ」と彼女は言い切る(32)。この

記述は、日記の日付で言えば「11 月 2 日」のものである。歴史的には、まだハンガリー共

産党も結成されていないが、彼女はこの時点で「ボルシェヴィキの代理人」たるユダヤ人

像を創作した。

トルマイはこれにドイツの匕首伝説を加味した。「恐れていた事が現実になった。敵は

私たちの中に潜み、前線で出来なかったことを我国で実現しようとしている。敵はフリー

メイソンの学術団体であり、国際主義的な自由思想の巣窟と化した高等専門学校だ。そこ

で結成されたガリレイ・サークルの会員は、大半がユダヤ人青年である」と(33)。ここで指

摘されたフリーメイソンの学術団体が、社会科学協会であることは明らかである。

トルマイの計算によれば、共和国革命の母体となった国民会議は、財閥出身のハトヴァ

ニ・ラヨシュを筆頭とする十一名のユダヤ人と、カーロイ・ミハーイを含む八名の「罪深

い」ハンガリー人で構成された(34)。そして、「革命政府には三名、否、実質的には五名の

ユダヤ系閣僚がいる」と彼女は指摘する(35)。五名のユダヤ系閣僚とは、急進党のヤーシ(少

数民族担当相)とセンデ・パール(蔵相)、それに社会民主党のクンフィ(厚生・労働相)、

ガラミ・エルネー(通商相)、及びディネル=デーネシュ(外相代理)である。(この当

時、ハンガリーに独立した外務省はなく、外相はカーロイが兼任した。)確信的な反ユダ

37

ヤ主義者らしく、トルマイは人名の後に括弧して旧姓を併記した。

「仮面を取れ」とトルマイは幾度も叫んだ。リベラル急進派の新聞記者が仮面を取った。

「何てこと。仮面の下の素顔は、断じてハンガリー人の顔ではなかった(36)。」「仮面で偽

装した」ユダヤ人の革命行動に対して、彼女は怒りを込めて書いた。

何十年にもわたりガリツィア・ユダヤ人の侵入を受けたブダペストは、巨大な胃袋み

たいだった。そのブダペストが今、吐き気をもよおすような状態にある。[中略]シ

リア人(ユダヤ人の意。ドイツの人種理論に基づく表現)らしき顔と体形をした群衆の

間で、赤いハンマーやプラカードが宙に舞った。フリーメイソンや女性解放論者、ジ

ャーナリストやガリレイ・サークルの会員、場末のカフェの常連客や株取引所の連中

が、表通りに出て来て混乱を引き起こしている。ドブ通りのゲットー出身の兵士たち

が、赤・白・緑の民族色をほどこした帽章を付けて行進している(37)。

トルマイの攻撃の矛先は、名門貴族のカーロイではなく、「カーロイに知恵をつける」

ヤーシに向けられた(38)。ヤーシが共和国革命の首謀者だった。「我国を東方のスイスに再

編しようとするガリツィア出身の国際主義者」は、ハンガリーのあらゆる文物を憎んでい

る(39)。まるで意図的に、全てを破壊せんとするかのように(40)。だが彼は、「ハンガリーに

ついて語る時、自分の種族への配慮も怠りない(41)。」すなわち、有機的統一体たるハンガ

リーに「東方のスイス」構想を押し付けて、ガリツィアに隣接する東北部の「マーラマロ

シュやベレグ、ウング、ウゴチャなど豊かな森を持った諸県を、独立した州にしようと企

てている」と彼女は言う(42)。

トルマイにとってのユダヤ人像は、一方では「ロシア革命の伝令」であったが、他方で

は「スロバキア東部の町カッシャ(現スロバキア領コシツェ)に着くと側頭部の巻毛を切り

落とし、ハンガリー東北部のミシュコルツまで来るとカフタンを破り捨て、ブダペストで

金満家の男爵になる」ユダヤ人である(43)。しかし、これは「二種類のユダヤ人」論ではな

い。トルマイに「良きユダヤ人」と「悪しきユダヤ人」の区別はない。トルマイは、彼女

の表現に従えば、「ユダヤ人からあふれ出る官能」に恐怖した。「ユダヤ人の狂暴さの源

泉は、彼らの官能にある。この官能から、彼らは空想力や活力を獲得するのだ」と(44)。ト

ルマイが「悪魔の実験室」と呼んだソビエト共和国の学校教育に対する扇情的な記述も(45)、

ユダヤ人の「官能」に対する生理的嫌悪感に由来する(46)。

1875 年生まれのトルマイは、カーロイやヤーシやクレベルスベルグやグラッツと同い年

である。革命時には四十歳をいくつか超えていた。獣医学の権威であった父親は、建国千

年祭の年に貴族の称号を得、農務省の次官にまで上りつめた。祖父の代まではクレンミュ

ラーというドイツ語姓であった。(母方の曽祖父もシュピーゲルというドイツ語姓。)こ

の点では、トルマイもヤーシと同様、同化二世であった。再刊された『亡命者の書』の巻

末には、家系にドイツ人やフランス人の血が混っていると書かれているが、コヴァーチは

38

はっきりとドイツ系移民の家系であると言い、ユダヤ系に対するトルマイの強烈なハンガ

リー人意識は、ホスト社会の民族主義に同化したマイノリティ出身の知識人に共通する「改

宗者的情熱」に他ならない、と指摘する(47)。

トルマイは、同著の日付で言えば 1919 年 1 月 11 日に、「祖国と家族と宗教を護る」婦

人国民連合を旗揚げした(48)。その場に、「反革命の最高指導者の一人」である大司教ミケ

シュ・ヤーノシュが同席していた(49)。ミケシュ大司教は、彼女らの思想と行動に最も理解

ある人物の一人であった(50)。一説によれば、同年 3 月までに婦人国民連合は三十万の賛同

者を得たと言われるが、こうした動員力はカトリック教会の後援なしには考えにくい。

改革派のユダヤ人論

改革派の歴史認識を代表するヴェネティアネル・ラヨシュの『建国から第一次大戦まで

のハンガリー系ユダヤ人史』(1922 年)は(51)、愛国心や祖国への献身を強調し、戦後革命

とユダヤ人社会は無関係であると主張した。同著がキリスト教社会向けに書かれたのに対

して、1929 年にはユダヤ人社会向けに『ユダヤ・レキシコン』(執筆者三四名)が編纂さ

れた。

ヴェネティアネルはカトリック人民党について十三頁を割いた。彼には、扇動的で反ユ

ダヤ主義的な人民党が結党以来「国の平安」を乱した、との認識があった(52)。支持層の中

核に「土地を失い、ルサンチマンに満ちた官吏(ジェントリの意)がいる」ことも指摘し

た(53)。だが、反ユダヤ主義の台頭には農業不況や中小貴族の零落といった経済的要因を挙

げるのみで、その分析にセクフューの『三世代』を長長と引用した(54)。(すなわち、彼は

『三世代』を読んでいたのだ。)にもかかわらず、セクフューと新保守主義の関係には立

ち入らなかった。また、「マーラマロシュのユダヤ人やロシア及びガリツィアからの移民

は、ハンガリーに住むユダヤ人のような真正のユダヤ人ではない。彼らはユダヤ人ではな

く、ハザール人の末裔である」と断じた政府委員の報告書に触れながら(55)、それに反駁し

なかった。これはユダヤ人社会上層部の「二種類のユダヤ人」論の承認に他ならない。第

二次ユダヤ法案を審議していた 1939 年の上院で、ラーング・ラヨシュも同様に、「我々は

カフタンを着た、いわゆる東方ユダヤ人とは何の関係もない」と切り捨てた(56)。

ユダヤ人社会のアイデンティティを修復せんとする『ユダヤ・レキシコン』は、古今の

著名人の業績や改宗歴の有無を記録しただけでなく、二〇世紀最大の偽書である『シオン

長老の議定書』を批判し、シオニズムや混合婚について態度を明らかにした(57)。アイデン

ティティ修復の書であるがゆえに、シオニズムに対して敵対的な表現は避けたが、反対者

がいることも明記した。また、混合婚については禁止説を強調した。これは、ヴァージョ

ニの司法相就任を愛国的同化運動の勝利と豪語したサボルチ・ラヨシュが、二年三ヵ月後、

すなわちソビエト共和国崩壊直後から続出する改宗者に対して、棄教を思いとどまるよう

『平等』紙上で訴えなければならなかった事態と類似する(58)。改革派の同化戦略のジレン

マであった。

39

『ユダヤ・レキシコン』も反ユダヤ主義の項目でカトリック人民党を論じているが、「人

民党はイシュトーツィの反ユダヤ党ほど騒々しく不寛容ではなかった」と書くにとどめ(59)、

「人種主義指導者の大半は土着のマジャール人ではなく、スラヴ系やドイツ系移民の後裔」

であると記した(60)。こうした点も含めて、同著はハンガリー系ユダヤ人の「民族主義的幻

想」の一部であった、とラーンキ(Vera Ranki)は言う(61)。

40

第五章 セクフューの『三世代』

セクフューは 1883 年、ドイツ系住民の多いドナウ川西域のセーケシュフェヘルヴァー

ルで生まれた。プロハースカ司教の地元であり、カトリック人民党が旗揚げした古都であ

る。セクフュー家はカトリックのハンガリー人で、父親は独立党系の著名な弁護士であっ

たが、人民党の結党時には発起人の一人に名を連ねた。

筆禍事件

セクフューは大学卒業後、ブダペストの博物館や公文書館に勤務した後、1908 年から十

七年間ウィーンの公文書館の研究員として働いた。この間、1913 年 11 月に出版した『国

を追われたラーコーツィ』で、神格化されたクルツ指導者の亡命生活を「海賊の首領に憧

れる賭博宿の経営者」と書いたため(1)、世論の反感を買い迫害された。セクフューにとっ

て、ラーコーツィ二世やコシュートといったクルツの指導者は、独立を希求するあまり現

実政治を無視してハンガリーを荒廃させた元凶であった。ドイツで『ハンガリー国家』を

出版した 1917 年以降も、筆禍事件の再燃があやぶまれた。このため、1920 年末に『三世

代』を上梓した後もウィーンにとどまった。

処女作『国を追われたラーコーツィ』による筆禍事件は、1905 年の総選挙で政権を奪取

した独立党が、翌年ラーコーツィの遺灰をトルコから持ち帰り改葬した七年後のことであ

る。クルツ神話*(i)と対立したセクフューは、「オーストリア政府に買収されてハンガリー

の英雄を意図的に貶めた」と非難された。同著を祖国への裏切りと指弾する急先鋒は、独

立党所属のブダペスト大学教授で改宗ユダヤ人二世のバッラギ・アラダールだった(2)。科

学アカデミーは、執筆者とも批判勢力とも一線を画して調停役にはならなかった(3)。「学

問研究の自由」を盾にセクフェーを擁護したのは、『二〇世紀』グループと『平等』グル

ープだけだった。アポニィの後援を得たバッラギの狙いは、同著の出版に責任を負うリベ

ラル派の同僚リエドゥル・フリジェシュを叩くことであった。『平等』紙の主筆サボルチ

は、恩師リエドゥルのためセクフューを弁護し続けた(4)。

*(i) クルツとは、トランシルバニアを拠点とした中小貴族の反ハプスブルク運動を指す。

一九世紀末、ロマン主義的歴史学が、一七世紀後半の独立戦争を代表するラーコーツ

ィ二世を国民的英雄に仕立て、クルツ神話を創造した。

『三世代』の執筆動機

二〇世紀初頭、ハンガリーの言語的同化政策は、ハンガリー語を領内諸民族の言語と同

列に扱う共通軍と激しく対立した。このため、アウスグライヒの更新を二年後に控えた

1905 年の総選挙では、オーストリアとの関係が与野党間の一大争点になった。

自由党支持者の大半は、野党の民族主義的主張に同調しても混乱は起きないだろうと楽

41

観していた。ところが、結果は大波乱であった。三十年間政権を担当してきた自由党は、

四一三議席の内、一五九議席にとどまった。これに対して独立党は一六六、アンドラーシ・

ジュラ二世率いる憲政党が二七、カトリック人民党二五、バーンフィ・デジェーの新党十

三で、野党連合は二三一議席を獲得した。アポニィの国民党も選挙後、野党連合に加わっ

た。こうした政局の転換は、都市の知識人層も建国千年祭以降の民族主義的熱狂に飲み込

まれ、クルツ神話に敢然と立ち向かえなかったからだ、とグラッツは述懐している(5)。

政権は 1910 年の総選挙でティサの国民労働党に奪還されたが、クルツ神話の火は消え

なかった。否、民族派は祭壇に捧げるべき犠牲の山羊を物色していたと言えよう。セクフ

ューは神殿の中庭に迷いこんだ子羊だったのか。とまれ、筆禍事件は彼の生涯のトラウマ

になった(6)。『三世代』は、このトラウマからの脱出の書である。同著の前書きで、彼は

次のように述べた。「本著は私の個人的な体験である。1918 年 10 月の政局の激変が、我々

ハンガリー知識人に最も深刻な衝撃を与えた。没落過程の最終段階で、このような大混乱

に我々を陥れた原因を究明するまで、我が民族を健全な成長過程から逸脱させた勢力の正

体を暴くまで、私は再生できないと考えた(7)。」

だが、果してセクフューは、純粋に知的かつ精神的カタルシスからのみ同著を執筆した

のだろうか。ジュルジャークによれば、『三世代』以前、セクフューはユダヤ人問題に言

及することはなかった(8)。伴侶がユダヤ系であったこととは無関係だろう(9)。彼はティサ

親子の自由主義を批判することで民族派と和解し、社会復帰を図ったのではないか。筆禍

事件以来ウィーンの公文書館で鬱々と「亡命生活」を送っていた彼自身が、難民と同様、

抑えがたいルサンチマンを抱えていたのだ。セクフューは三十章からなるこの著書を、ハ

ンガリーの衰退とユダヤ人の関係を論じた三章*(ii)のためにのみ書いた、と第二版(1922

年)の序文で率直に告白している(10)。

トルマイの『亡命者の書』と同様、セクフューが『三世代』を出版した 1920 年末は、

戦後継起した二つの革命と反革命、及びトリアノン条約による国家の縮小でハンガリー社

会が混迷し、国民が新たなアイデンティティを模索していた時期である。彼はこのような

国民の欲求に応えて、難民のルサンチマンをすくい上げ、体系化し、歴史的説明を加えた。

歴史的ハンガリーの解体は、同化ユダヤ人が兄弟民族のない孤独なハンガリー人に「民族・

国家幻想」を振りまき、領内諸民族の力を過小評価させた結果であると(11)。そして、労働

市場でユダヤ人と旧領土からの引揚者が競合し始めると、ユダヤ人の移住と同化を奨励し

た歴代政府の自由主義的移民政策を叱責した。セクフューに言わせれば、戦後「反民族革

命」を担った知識人の多くは、市民的急進主義を標榜するヤーシら「同化ユダヤ人の子弟」

であった(12)。「知的水準の低いハンガリーの労働者階級を率いて、ボルシェヴィキの実験

を行なった不道徳なロシア系ユダヤ人の子弟」であった(13)。

*(ii) 第二部第九章「自由主義とユダヤ人問題」、第三部第七章「資本主義の始まりとユダ

ヤ人の役割」、第四部第五章「ユダヤ人の役割とブダペストの文化」の三章。

42

自由主義と東方ユダヤ人の流入

表題の「三世代」とは、1825 年から 1918 年までのほぼ一世紀を指す。セクフューはそ

れを三期に分けた。第一期はセーチェニィの民族復興運動で始まり、コシュートの 1848-49

年革命で終わる。第二期はティサ・カールマンやアンドラーシ・ジュラなど、アウスグラ

イヒ推進派の世代である。ティサはユダヤ人を「ハンガリー社会で最も勤勉かつ建設的な

人々」と言い、アンドラーシは「物流を盛んにするにはユダヤ人と鉄道が必要だが、我国

にはユダヤ人が不足している」と語った(14)。第三期は建国千年祭を機に、ハンガリー経済

が離陸した世紀転換期の二十年。ユダヤ系経済エリートが最も貴族化した時期である。象

徴的に言えば、「コシュートとティサ親子」の三代にわたる自由主義の百年を、セクフュ

ーはリベラル幻想の一世紀と捉え、一九世紀前半に導入された移民奨励策のせいでハンガ

リーは衰退したと論じた。

ハンガリーのユダヤ人社会にガリツィア出身者が合流した結果、ユダヤ人社会が肥大

した。[中略]ロシアやポーランドやウクライナの政府と住民は、自国に住むユダヤ

人の問題を解決できなかった。それゆえユダヤ人は、衛生状態の悪さや貧困から解放

されるため、ガリツィアやロシアを脱出するしかなかった。ユダヤ人のこの新たな離

散の歴史は、人間として十分理解できる。ロシア・ポーランド領での抑圧から逃れて

ユダヤ人社会の一部は渡米したが、大都市のユダヤ人街で祖先から受け継いだ低級文

化を固守して、同化しないまま暮らしている。しかしながら、大半は近隣諸国を選び、

ルーマニア以外の国に入って来た。ルーマニアは彼らを受け入れなかったが、ドイツ

とオーストリアとハンガリーのリベラル派はユダヤ人の移住を制限しなかった。それ

ゆえ、これら三国の国民は現在、似かよった状況に置かれている。すなわち、過去三

十年間、東部国境を開放したため、奇妙な倫理観を持ったニューカマーが数百年前か

ら定住しているユダヤ人を圧倒した。それゆえ、これら三国が現在ユダヤ人問題を抱

え込んでいるのも当然だ。国民は至る所でこの問題を目にしている。労働市場の独占

状態とこうした問題が、必然的にユダヤ人への敵意に変るだろう。中欧三国は、ユダ

ヤ人の離散で西欧諸国とは全く異なる経験をした。英仏や北欧諸国でも数百年前から

同化ユダヤ人が定住しているが、新たなユダヤ人の大規模な流入を経験しなかったた

め、ユダヤ人問題が理解できないのだ。中欧三国では、ユダヤ人の大量流入に対して

リベラル派が東部国境の閉鎖を許さなかったため、最初の移住地となったカルパート

=ウクライナを窮乏させた(15)。

その結果、「ユダヤ人人口が 1914 年には百万を突破した。国民はハンガリー人に変身

したユダヤ人が総人口の一割に達した時、初めて事の重大さに気付いた。百万の内、五十

万はここ二、三十年間に流入した東方ユダヤ人である」とセクフューは断定する(16)。ユダ

ヤ人は「スロバキア東部の町カッシャに着くと側頭部の巻毛を切り落とし、ハンガリー東

43

北部のミシュコルツまで来るとカフタンを破り捨て、ブダペストで金満家の男爵になる」

とトルマイは憤ったが、セクフューも、ユダヤ人は「マーラマロシュの居酒屋から身を起

こし、ブダペストで事業を発展させ、ウィーンの銀行家になるのだ」との認識を示した(17)。

リベラル幻想

「リベラル派の主たる問題点は、ユダヤ人を民族としてではなく宗教集団として扱った

ことだ。このために問題の解決が遅れた。移住制限が出来ないのも、そうした認識に原因

がある」とセクフューは断じた(18)。彼の見るところ、第一世代の急進的自由主義は、「全

ての人間を平等化すべく宗教的・民族的差別を否定し、ユダヤ人商人にこれまで望むべく

もなかったような可能性」を与えた(19)。だが彼らは、大量に流入した東方ユダヤ人が文化

変容を引き起こす危険性を想定しなかった。コシュートは「マーラマロシュ出身のくず」

による犯罪には言及したが、「ガリツィア移民とハンガリー人の間の差別」を認めなかっ

た(20)。セクフューは、コシュートらを幻惑した民族・国家幻想、すなわち「移民を同化し

てハンガリー人人口を増やし、もう一度ハンガリー人を多数派にする」(21)というリベラル

幻想を、以下のように叱責した。

我国のリベラル幻想は、ロシアやポーランド系ユダヤ人の流入の第一歩を、他の国で

は考えられないほど容易にした。アジア的状態にあったガリツィアやロシアのユダヤ

人が、カルパチア山脈を越えてやって来た。[中略]彼らは快適な環境に狂喜して、

民族衣装(カフタンの意)を脱ぎ捨て、日常生活に困らない程度のハンガリー語を習

得した。するとリベラル派は、彼らがすぐにも良きハンガリー人に、ハンガリー民族

の一員になれると考えた。何世代も前から定住するユダヤ系市民のように、あるいは

ハンガリー土着の古い家系の貴族や農民のように(22)。

我々は移住者たちに、上辺だけの急激な外形的変貌を要求した。内面を見ずに、衣

服や日常語といった外観の変化に満足して、我々は惨めな過ちを犯した。これはセー

チェニィが一番心配していたことだ。[中略]我々は民族性と言語を取り違えていた。

ハンガリー語でのおしゃべりがハンガリー人の民族性であり、ハンガリー人風の外見

をしておれば不滅の民族精神が宿っていると思い込んでいた。我々は計り知れない間

違いを犯したようだ(23)。

この文脈でセクフューは、東方ユダヤ人の移住制限を提唱したイシュトーツィ・ジェー

ゼー(カトリックでジェントリ出身)と、彼がティサエスラール事件を機に結成した全国反

ユダヤ党を次のように評した。すなわち、「イシュトーツィは正しい認識に基づいて、東

方ユダヤ人の移住制限を何年にもわたって要求し続けた。全国反ユダヤ党は東方ユダヤ人

の流入と資本主義の蔓延に対して、手工業者や小規模農業者の利益を擁護した。しかし、

ハンガリーの病理はユダヤ人問題にあるとの診断を下すだけで、断固たる処置や社会・経

44

済的な展望を欠いていた。それゆえ、ハンガリーの反ユダヤ主義は蕾の内に摘み取られた

のである」と(24)。

全国反ユダヤ党は 1884 年の綱領で、出版、金融、商工業、運輸及び農業部門における「ユ

ダヤ権力の排除」を明記した。そして、農業経営者と農業労働者の利益を保護するため、

ユダヤ人の経済活動を規制し、刑法を厳罰化し、アルコール販売や居酒屋経営を禁止する

こと。非ユダヤ人との係争時に法廷で課すユダヤ人宣誓*(iii)を復活し、キリスト教徒との

婚姻を認める法案を廃棄すること。更に、ユダヤ人の流入を阻止すべく、ユダヤ人社会が

管理する住民登録簿を行政当局に移管することを提言した(25)。彼らは同年の国政選挙で十

七議席(この中にカトリック司教代理のジマーンディ・イグナーツもいる)を獲得したが、

党勢はその後急速に衰えた。だが、社会的緊張をユダヤ人の流入や彼らの旺盛な経済活動

に帰する同党の政治手法は、カトリック人民党や農業者同盟に継承され(26)、セクフューの

『三世代』に集約された(27)。

*(iii) ユダヤ人宣誓は、中世以来ユダヤ人が強いられた屈辱的な儀式。ドイツでは 1846 年に

廃止されたが、オーストリアでは新絶対主義の成立に伴い 1852 年に復活した。

ジェントリの衰微

セクフューは、コシュートとティサ親子が誤って自由主義を迷走させたため、ハンガリ

ーは一九世紀以降、衰退の一途をたどったと説く。彼は自由主義や資本主義とユダヤ人の

脅威を悪の連鎖と捉え、ジェントリの衰微と解放令後のユダヤ人の社会進出を絡めた。す

なわち、「資本主義の波に乗れなかった知識階級(ジェントリの意)は貧窮し、財産が残

っている中貴族も創造的な精神活動から離れた。ユダヤ人は実利的感覚からジェントリと

の闘争を避け、彼らに官庁や地方行政のポストを譲り、収入の良い将来性のある弁護士や

医者や、あらゆる種類の商工業分野に進出した」と(28)。

これは官民の分業、あるいはジェントリとユダヤ人の棲み分けを言っているのだが、セ

クフューはジェントリの特異なメンタリティが、ひたすら国家機関の中に新天地を求めた

事実には触れていない。にもかかわらず彼は、「第二世代で経済分野のユダヤ化が進み、

第三世代では文化領域にまでユダヤ化が浸透しつつある」と憤慨する(29)。そして、「ユダ

ヤ人をハンガリー文化の中枢に押し上げたのは、ジェントリが無能で組織的な行動が取れ

ず、幻想に逃避したからだ」と断じ(30)、セーチェニィの警告を引用した。「セーチェニィ

は繰り返し語った。ハンガリー人のバラ色のアジア的夢想癖は民族的罪であり、虚栄心の

派生物である。虚栄心は自己欺瞞に変異し、冷酷な現実世界で自己愛を踏みにじられると、

ハンガリー人は楽しい夢の世界へ逃避すると(31)。」

ジェントリのこのような弱さを知った上で、彼はなお問う。「若いハンガリー資本主義

の無尽蔵とも思える活力源は、昨日まで外国人だった(今日から名前だけハンガリー風に

変えた)階層の手に委ねられた。これによって次のような疑問が現実味を帯びてくる。果

45

して、外国人がハンガリー経済を支配し物質面での影響力を獲得した後、文化面や精神面

にまで影響力を行使していいものかどうか」と(32)。伝統的エリートの専管事項であった文

化領域までユダヤ人社会に「侵食」されたことは、セクフューにとって極めて衝撃的な事

件であった。

都市文化のユダヤ化

ベルリンやウィーンやブダペストといった中欧三大都市の文化は、「ユダヤ資本主義と

ユダヤ系知識人の皮相な産物である。彼らの最大の関心事は、大都市のユダヤ人とユダヤ

化したキリスト教徒の文化的需要を満たすことである」とセクフューは言う(33)。セクフュ

ーの言に従えば、ユダヤ系知識人はリベラル幻想を自己目的のために利用し、彼らの「精

神的拠点としてブダペストを制した」(34)。「ドイツ人にはウィーンやベルリンのユダヤ文

化と並行して、古来のドイツ文化が存在した。ドイツ文化はユダヤ化に対抗する方途を懸

命に模索した。ところがハンガリーでは、極めて遺憾なことだが、ブダペストの大都市文

化を民族の文化に昇格させてしまった(35)。」

「根なし草のユダヤ文化」(36)があまりに深くハンガリー社会に浸透したため、「愚直な

ハンガリー人はハンガリー語の新聞記事を、まるで聖書のように信じた」とセクフューは

嘆く(37)。自身ジェントリの出身で、衆議院議員を務めた作家ミクサート・カールマンも、

1897 年の作品『だて男たち』の中で、「商業と新聞を外国人の手に委ねた国は、ポーラン

ドのように滅びるのだ。今、国民が為すべきことは、トルコ軍から軍旗を奪うことではな

く、ユダヤ人の子弟からペンを奪うことだ」と作中のジェントリに言わせている(38)。トル

マイも、「新聞はこの三十年間、完全に外国人の破壊的な手に握られている。バンガ司祭

は、この種族(ユダヤ人の意)の独占を極めて危険であると見ていた」と、イエズス会所

属の宗教政治家でジェントリ出身のバンガ・ベーラと会った日の感想を書き留めた(39)。こ

うしたミクサートやトルマイやバンガやセクフューの危機感は、ドレフュス事件を機に登

場したユダヤ系知識人の「フランス文化乗っ取り」に対する同時代の作家、アンドレ・ジ

ッドの危機感(1914 年 1 月 24 日の日記)とも通底する(40)。

セクフューの社会復帰

1921 年 7月、クレベルスベルグ宗教・教育相は、セクフューを『西方ニュガト

』に対抗すべき『東方ナプケレト

(1923 年 1 月創刊)の編集者として招聘した。

貴台の『三世代』とトルマイ・セシルの『亡命者の書』、それに[中略]ホルヴァー

ト・ヤーノシュの『アラニュからアディまで』というキリスト教精神を具現する三著

書でもって、『西方ニュガト

』と対決していただきたい。ハンガリー人の精神は、とりわけ建

国千年祭以降の四半世紀に西欧的思潮が蔓延した結果、軟弱になってしまった(41)。

46

クレベルスベルグの一声で、セクフューは社会復帰を果した。二年後、今度はバッラギ・

アラダールの後任として、ブダペスト大学に招聘したいとの書簡を受け取った(42)。バッラ

ギはセクフューの処女作『国を追われたラーコーツィ』がクルツ神話の逆鱗に触れた際、

同著を「祖国への裏切り」と指弾した急先鋒である。バッラギの定年を機にとは言え、セ

クフューにとってバッラギのポストを奪うことは、明らかに筆禍事件への雪辱であった。

セクフューがウィーンから帰国して歴史学教授に就任した 1925 年、ウィーンに亡命し

ていたヤーシは渡米し、オハイオ州のオーバーリン大学で教鞭をとった。この間、ユダヤ

系・非ユダヤ系を問わず、戦後革命に参加した多くの知識人が国外に流出した。ショムロ

ーは 1920 年 9 月、母親の墓前で縊死した。

社会復帰を果したセクフューは、1921 年 11 月、四一頁にわたる長い序文を『三世代』

第二版のために書いた。『三世代』の「扇情的手法」を批判するコンチャや(43)、筆禍事件

で支援を受けたサボルチ陣営からの批判に答えるためである。ユダヤ人社会からの批判に

対して、セクフューは以下のように反論した。

ユダヤ人の政治週刊紙(『平等』)の主張に従えば、私は「騒々しい扇動家」として

低級な情熱のはけ口を提供し、「自由主義の偉大な世紀やユダヤ人への憎悪に駆られ

て」本著を書いたことになる。[中略]しかし私は、ユダヤ人だけでなくペテーフィ

もコシュートも、エトヴェシュもアンドラーシもティサも、自由主義的腐敗菌である

と非難した。それゆえ同紙の論説は、幸いにも「我々だけが被告席に座っている訳で

はない」と理解してくれた(44)。

ユダヤ人社会の指導部が難しい立場にあるのは分かる。[中略]ユダヤ人社会でも

キリスト教社会でも、強烈な革命の記憶が安定した共生の回復を妨げている。[中略]

しかしながら、リベラル派がユダヤ人を解放した後、彼らは自力で現在の地位を得た

と考えているとすれば、それは大間違いだ。自由主義時代、ユダヤ人はハンガリー政

府に保護され、特権を与えられていたのだ(45)。

セクフューは、ユダヤ人に関する三章を修正する気は毛頭なかった。「しかし、なぜ彼

らは突然ヒステリックになるのか」とセクフューは不可解であった(46)。それでも、サボル

チらを融和すべく、「ユダヤ人問題の核心は東方からの危険分子の流入」であり(47)、「ド

ナウ川西域には真のハンガリー人と化したユダヤ人が住んでいる」と論じた(48)。ドナウ川

西域に数世紀にわたり定住している「善良なハンガリーのユダヤ人と、ガリツィア出身の

ニューカマーを同列に扱うのは危険だ」との論法は、初版でも見られる(49)。彼が言う「善

良なハンガリーのユダヤ人」とは、一七世紀末以降、領主直営地を拡張し商品生産を図る

ため、大貴族が入植を奨励したユダヤ人の後裔である。二種類のユダヤ人論は『三世代』

の主題の一つであるが、セクフューはバルタやアーゴシュトンやチョルノキと同様、正統

派やハシディズム派のユダヤ文化を全面的に悪であるときめつけていた。

47

異化提言

セクフューは上述したユダヤ人論の延長線上に、1934 年の増補版(第五部「トリアノン

条約後」)で、東方ユダヤ人にはシオニズム、改革派ユダヤ人にはマイノリティ原理に基

づく「異化」を提言した。そして、東方ユダヤ人がパレスチナに大量移住した後は、「ド

ナウ川西域の善良で文化的な同化ユダヤ人」とハンガリー人との良好な関係が復活するで

あろうと考えた。

昨日今日ハンガリーに来た東方ユダヤ人は、祖先の生活様式を捨て切れないだろう。

彼らはエルサレムに戻れば良い。同化ユダヤ人でもシオニズムに共鳴する者は、エル

サレムに入植してシオニズムを実践すれば良いし、そうでない者はマイノリティ原理

に従って異化してもらう。

東方ユダヤ人がこの論理的帰結を受け入れるなら、大都市のユダヤ文化はすぐにも

希薄になるだろう。

これによって文化的な同化ユダヤ人とハンガリー人との関係も良くなり、近い将来

キリスト教国家の最終的な安泰が期待できる(50)。

異化提言はゲンベシュやエックハルト・ティボルの持論である。エックハルトが指導す

る覚醒ハンガリー人連合の小冊子『ハンガリーの反ユダヤ主義』は、次のように異化を提

言していた。すなわち、「ユダヤ人は何千回洗礼を受けても民族性を払拭できない。良き

ユダヤ人なら、父祖の信仰を棄てないがゆえに尊敬されるだろう。我々はユダヤ人が改宗

したとたん、対等な同胞と見なされる理由が分からない。ユダヤ人は、我々を犠牲にして

特殊な民族益を追及するな。改宗などせずにユダヤ教徒であり続けよ」と(51)。

エックハルトは、ゲンベシュらとブダペストで世界反ユダヤ会議を開催した直後の 1925

年 11 月、改宗者を含めユダヤ人を民族的少数派と規定する法案を国会に提出した(52)。増

補版におけるセクフューの異化提言は、これに呼応したものである。増補版は、ヒトラー

政権が成立した翌年に出版された。「現在、中欧ではドイツの影響下で、同化に替って異

化が語られている」(53)と、政治的潮流の変化を読んだ上での提言である。

セクフューの異化提言に対して、ユダヤ人のペスト・コミュニティは、「我々は異化と

いう新しい標語を必要としない。我々はいかなるユダヤ民族のキメラにも興味がない」と

して、次のように決議した。

政府公認の歴史学者セクフュー・ジュラは、『三世代』の最新版で、[中略]我々が

ハンガリー化したのではなく、逆に我々がハンガリー人をユダヤ化したのだと主張す

る。我々は、このような主張に対して断固戦う。セクフュー教授が我々に対する弁明

として、ユダヤ人社会が「既にハンガリー化した」ユダヤ人たちと融合出来ないのは、

「今もなおガリツィアからの移民が止まないからだ」と言うが、我々はそのような弁

48

明は無用だときっぱり言おう。我々はこの国の他のハンガリー人と全く同じハンガリ

ー人である。ガリツィア移民に対するそのような非難は、まさに歴史の捏造と言わざ

るを得ない。それゆえ我々は、セクフュー教授が提言するシオニズムか民族的少数派

かといった二者択一を拒否するものである(54)。

49

第六章 ベトレン・システム

1921 年春、最後のハプスブルク皇帝(ハンガリー国王カーロイ四世)の復位運動が失敗

し、ハンガリー国内の王党派が失脚したのを受けて、ベトレン内閣が成立した。ベトレン

内閣の閣僚の六割以上は封建エリートだったが、その権力基盤は性格を異にする二つの集

団から成る。すなわち、革命期にウィーンに亡命した大貴族や経済人(ウィーン派)と、

セゲドに対抗政府を樹立した軍人や官僚(セゲド派)、及びこれに合流したウィーン派内

の右翼急進グループである。カトリック人民党の急進派も、このグループに属した。ホル

ティは両陣営のバランサーであった。

ベトレンは首相就任演説で、経済的に弱体化した歴史的中産階級の復権を主たる任務に

掲げたが、同時に「いかなる反ユダヤ主義とも無縁である」と言明した(1)。ベトレンには、

過激化した下層中産階級は危険な存在であった。また経済的にも、彼にとっては「大土地

所有階級が民族の屋台骨」であり(2)、全工業施設の四割を傘下に収める「都市ユダヤ人社

会への平衡力」であった(3)。しかしながらベトレンは、ユダヤ系経済エリートとの提携な

くして、国民経済の再建も外国からの信用もないことを最も良く理解していた政治家の一

人であった。

難民の急進主義を背景に、下層中産階級が最初に独立した勢力として登場したのは、

1920 年の総選挙である。有権者を戦前の約六パーセントから一挙に四十パーセント近くに

拡大したこの選挙では、多くの経験豊かな政治家が無名の新人候補にしばしば敗れた(4)。

そこでベトレンは、いわゆる「秩序法」(1921 年法律第三号)で共産党を非合法化し、農

民や公務員の間での政治活動を禁じたベトレン=ペイエル協定(1921 年 12 月)でもって社

会民主党を穏健野党に変えた後、過激化した下層中産階級を封じ込めるべく、選挙法を改

訂(有権者は二八・四パーセントに減少)した。更にベトレンは、1922 年の総選挙にあた

って、前回九一議席を獲得した小農業者党を与党の国民統一党に吸収した。

反革命後の農地改革に関して言えば、全国農事協会の元理事長であるルビネク・ジュラ

農相は、1920 年 8 月、小農業者党党首のナジアターディ=サボー・イシュトヴァン*(i)を後

任に指名した。ナジアターディはルビネクが準備した法案を実施した(5)。この農地改革は、

受給者に傷病兵や戦争未亡人、あるいは戦争孤児といった農村の戦争犠牲者に加え、三十

万余りの土地なし・零細農民(一人あたり約一ホルド給付)を含んでいたが、最大の名宛人

はホルティ体制の建設に功労のあったジェントリや自営農出身の「勇士ヴィテーズ

」であった。自営

農民の立身出世モデルになったこの「ヴィテーズ地」は、1930 年代末まで拡張が続けられ、

将校の受給地は平均五十ホルド、兵士のそれでも十二ホルドになった(6)。

*(i) ナジアターディはソビエト共和国時代、便宜上とは言え社共合同党(ショモジ県支部)

に在籍していたため、反革命軍の暗殺の対象になった。彼はこれを察知してか、1919

年 9 月、農村青年の銃剣で首都を制圧せんとするホルティの軍門に下り、「キリスト

50

教的ハンガリー社会をユダヤ人の搾取から解放するため」前述した農業党と 11 月末に

再合同した。

右翼急進主義との対立

体制固めを終えたベトレンの次の目標は、国際連盟に加入し、再建のための借款を獲得

することであった。しかし、それには幾つかクリアすべき関門があった。西欧のユダヤ人

団体が、就学制限法(1920 年法律第二五号)のゆえに連盟への加入に反対していたし、近

隣諸国は領土修正要求を警戒した。また、借款を申請するには、国家機構のリストラが前

提条件としてあった。そこで彼は、領土修正要求を棚上げし、公務員の人員削減に着手し

た。三年間で戦前の半数ほどまでスリム化できた。解雇の対象は、まず第一に難民の教師

や鉄道員であった。このためベトレンの再建計画には、失地回復を断念させられたばかり

か支持基盤までも失いかねない、右翼急進主義との対立が付きまとった。

借款と引き換えに強化される外的規制を嫌うゲンベシュは、セゲド思想を強調すること

でルサンチマンに満ちた下層中産階級を糾合した。これに対してベトレンは、1923年 7月、

ルーデンドルフやナチ党など、ドイツの極右勢力に支援された覚醒ハンガリー人連合の政

府転覆計画が発覚したのを機に、右翼急進主義への弾圧を強めた。封建エリートが右翼急

進派に圧力をかけ、ユダヤ人社会の上層部がユダヤ系知識人の左傾化を封じることで、ベ

トレンは戦前の戦略的パートナーシップを再構築した。だが、少数民族地域におけるハン

ガリー化の橋頭堡というユダヤ人の役割が不要になったため、ジュニアパートナー間(郡

長や村書記と農村ユダヤ人)の共生システムは再起動しなかった。

就学制限法

高等教育における学生数を、その学生の所属する「人種あるいは民族」の人口比以下に

圧縮する就学制限法は、まぎれもなくセゲド思想の産物であった。ユダヤ人に対する就学

制限は、既に 1918 年 5 月、プロハースカによって提案されていた(7)。1920 年 9 月の議会

で、彼はこの法案を「人種的自己防衛」と規定している(8)。しかしながら、この制限法は

1921 年・25 年・27 年と三度にわたり、トリアノン条約に付帯する「マイノリティ保護条

項」に違反しているとの理由で、英仏のユダヤ人団体から国際連盟に提訴された。

国際連盟における「ハンガリー問題」について、元蔵相のヘゲドゥシュが、国内のユダ

ヤ人を介して西欧ユダヤ人に提訴を取り下げてもらってはどうかとベトレンに進言したと

ころ、クレベルスベルグは敢然とこの提案に異議を申し立てた。国内のユダヤ人であれ西

欧ユダヤ人であれ、彼らの助力を得ることは制限法の撤廃につながるであろう。それゆえ、

ユダヤ人の助けを借りずに問題を解決するよう彼はベトレンに進言した(9)。すなわち、制

限法の基準を「人種・民族」概念から「職業」概念に変換することによってである。クレ

ベルスベルグの修正案によれば、まず第一に戦災孤児や復員兵及び公務員の子弟に最優先

権が与えられた。次に「農業国ゆえに」農業者の子弟への優遇策が強調され、商工業者や

51

金融業者や自由業者の子弟は最後尾に回された。商工業や金融業や自由業におけるユダヤ

人の依存度を考えれば、この修正法もまた多くのユダヤ人学生を締め出すものであった。

それでも、1920 年から 1935 年までのユダヤ人学生の平均比率は九・九パーセントで、ユ

ダヤ人の人口比を上回っていた(10)。

クレベルスベルグの新民族主義

クレベルスベルグが描く民族の自画像は、1928 年初頭に発表された一連の論説に凝縮さ

れている。彼は大戦後の革命も反革命も、共に「非生産的」であると見なしただけでなく、

ゲンベシュらの人種主義も否定した。なぜなら、人種主義はハンガリーから大量の少数民

族を排除することになるからである。1848 年革命の市民蜂起を鼓舞した詩人のペテーフ

ィ・シャーンドル(父親はセルビア人、母親はスロバキア人)をはじめ、優れた少数民族

の出身者なくして祖国ハンガリーの偉大さは想像できない、とクレベルスベルグは言う(11)。

以下は、1 月 1 日に発表した「ハンガリーの新民族主義」の要旨である。

我々ハンガリー人にとって世界大戦の敗北という悲劇は、「革命も反革命も我々には

不毛であった」という意味で二重の悲劇である。革命も反革命も、国民生活を活性化

するような理念や思想を生み出さなかった。カーロイ・ミハーイやクン・ベーラの政

変は単なる反乱であって、革命ではなかった。もっとも、反革命も例外ではない。反

革命後に選出された国民議会は、有益で建設的な意見を提起することなく、戦前の二

重主義体制を全面的に否定するだけだった。

私は教育行政を通して、国民に二つの事を訴えてきた。すなわち、道義的基礎の上

に立つ民族主義と経済的生産性の理念である。過去四百年間のハンガリー民族主義と

は何であったろう。まず第一に、オーストリア帝国の中央集権化とドイツ化に対する

戦いであった。この問題は 1867 年のアウスグライヒで決着した。次に、対オスマン・

対ハプスブルク戦争時代に多数派となった領内諸民族に、ハンガリー国家の理念を叩

き込むことがハンガリー民族主義の課題となったが、これもまたトリアノン条約が諸

民族を我々から引き裂いたがゆえに無意味になった。このようにしてハンガリーの民

族主義は、最も重要な目標を失った。

私はファシズムの本質をイタリアの新民族主義と見る。現在、イタリアでは海岸地

帯を干拓して耕地に変え、余剰人口が故郷と思えるような入植地を全土に創出してい

る。かつてヴェニスが東地中海沿岸やバルカン半島やレヴァント地方で果した役割を、

復活させようとしている。中世末期のイタリアの豊かな都市、ヴェニスやジェノアや

フィレンツェが持っていたものの復活である。

対照的にハンガリーでは今日でも、トランプで一夜にして全財産を失った一九世紀

半ばのギャンブラーを英雄視しがちである。これなど浪費と冒険を人生のロマンと見

る思考の典型である。我国の経済史家も、生産活動で成功した人々に注目することが

52

なかった。ところが最近、中央大平原ではオスマン帝国時代に耕作放棄地となった土

地を購入ないし賃借することで、散居式農場が形成されつつある。こうした富の創造

たる内地植民こそ、ハンガリー人に出来る最も実り多い労働である。

我々はいつまでも埋れ木でいたくはない。いつまでも苦痛に耐えて、その日暮らし

の生活を送りたくはない。道徳と知識に基づく実りある労働の成果として、我々はよ

り豊かに発展し、自立的かつ意識的なハンガリー人になりたいのだ。これが新民族主

義の健全な目標である(12)。

このような目標を達成するには、ハンガリー人の生活様式を改善する必要がある。すな

わち、多弁なギャンブラー型のハンガリー人ではなく、「寡黙で勤勉なハンガリー人」を

育成しなければならない、とクレベルスベルグは考えた(13)。彼はセーチェニィが民族的罪

と呼ぶジェントリの見栄や浪費癖を戒め、新たな富を創造する内地植民運動を提唱した。

中央大平原の開拓をイタリア中世末期のヴェニスやジェノアやフィレンツェの復活にな

ぞらえた彼は、明らかに世紀転換期の農本主義の継承者であった。

新民族主義の最終目標は、歴史的領土の回復であった。だが、それはあくまで最終目標

であり、次世代に委ねられた。それゆえ、クレベルスベルグは次世代の青年たちに、経済

的生産性の理念のみならず、道義的基礎の上に立つ民族主義を期待した。古来の愛国心を

喚起してハンガリー人を強くし、祖国を復活させることこそ新民族主義の本質である、と

彼は訴えた(14)。そのための民族主義は、「優れて人民的でなくてはならない」(15)。クレベ

ルスベルグの概念規定に従えば、人民主義とは選挙権の拡大や共和制の意ではなく、「政

府や行政の民衆化」に他ならない(16)。一九世紀の民族主義が王朝に対する戦いであったの

に対して、二〇世紀の民族主義は「社会主義によって組織された大衆の中に敵を見い出す

ものである」と彼は言う(17)。ここにクレベルスベルグの「上からの」ポピュリズムが透け

て見える。セクフューが社会復帰できたのも、こうした「内なる敵」と戦うためであった。

農村人民作家

世紀転換後に生まれた若い農村人民作家は、クレベルスベルグが宗教・教育相時代、サ

ボー・デジェーの『廃村』(1919 年 5 月)やセクフューの『三世代』で思想形成した世代

である。彼らは農村人口の国外流出を民族の危機と捉え、その原因たる大土地所有制に関

心を寄せた。

農村人民派の主題は「土に帰れ」だった。サボーにとって都市は腐敗した外国人(主に

ドイツ系やユダヤ系市民)の生活空間であり、健全な民族精神は農村にあった。トランシ

ルバニアのジェントリ出身である『廃村』の主人公は、一度は都会で暮らしたが、居心地

の悪さを感じた。そこで故郷の「農民の中へ」飛び込み、民族的純潔さの象徴である農民

娘と結婚して村の復興に献身した。主人公の決断は、上述した内地植民運動を想起させる。

1901 年生まれのネーメト・ラースローは、新世代の農村人民作家の理論的支柱であった。

53

彼は、自由主義が伝統的エリートを衰微させたと説くセクフューの理論を借用しながら、

有機的なサボーの民族概念を発展させた。ネーメトが考える有機的な民族概念とは、農民

から土着的な中産階級を創出することである。それと並行して、「城から領主を、銀行か

ら経営者を、カフェから西欧かぶれの知識人を追放する」ことであった(18)。

ネーメトは「ハンガリーの民族精神は自国で何ゆえ少数派に転落したのか」との問いか

ら、「深遠なハンガリー人」と「浅薄・皮相なハンガリー人」という二項対立的なハンガ

リー人像を考案した。浅薄・皮相なハンガリー人とは、ハンガリー社会の無機質なブルジ

ョア化を助長した新来のハンガリー人の意である。彼は深遠なハンガリー人の転落原因を、

都市に住む新来のハンガリー人の「植民地主義」に見出した。

ネーメトの二項対立的なハンガリー人像は、『マジャールオルサーグ』紙に発表した「俗

物と農民」(1934 年 3 月 29 日)に象徴的に述べられている。俗物とは、まるで植民地に

でもいるかのようにハンガリーで暮すユダヤ人を指す。彼らはハンガリー人の関心事には

ほとんど興味を示さず、パリやロンドンに憧れ、西欧文明をひけらかす(19)。他方、農民と

は、西欧的教養と無縁な知識人や農村人民作家を意味する。ネーメトにとって、『西方ニュガト

を主 宰し戦後革命を支持したハトヴァニは、浅薄・皮相なハンガリー人の代表であった。

特筆すべきは、ネーメトの議論に「二種類のユダヤ人」論が見られないことである。つま

り、ニューカマーのガリツィア・ユダヤ人のみならず、ハトヴァニ家のようにモラヴィア

出身でオールドカマーの改宗ユダヤ人も批判の対象とされた。そして彼は、『三世代』の

増補版に呼応して、新たなユダヤ人の流入には「国境の閉鎖」を、非同化ユダヤ人には「国

外移住」を、残留するユダヤ人には「異化」を提言した(20)。その際、ハンガリー人は大土

地所有制を、残留ユダヤ人は資本主義を清算する過程で、両者は和解できると主張した(21)。

まさにポピュリストの面目躍如たるレトリックである。

1930 年代後半、ネーメトはセクフューと対立し始めるが、それはネーメトに言わせれば、

セクフューが既に「体制側の歴史家」に転向したからである(22)。セクフュー批判の理由は

二つあった。一つは「過度な客観性」のゆえに、ユダヤ人が引き起こす問題と格闘しなが

ら懸命に生きる民衆にセクフューが共感できないため、二つにはセクフューの「偏見から、

彼がドイツ系やスラヴ系中産階級の悪影響を等閑視した」からである。ネーメトはサボー

の後継者として、ユダヤ系のみならずドイツ系やスラヴ系の中産階級も敵視した。「この

偏見は何だ。ユダヤ人の男爵を批判して、スロバキア人の司教を批判しないのか。ユダヤ

系作家のブローディ・シャーンドルを批判して、ドイツ系作家のヘルツェグ・フェレンツ

を批判しないのか」と(23)。

セクフューは、スロバキア人やドナウ川西域のシュワーベン人を支持基盤とするカト

リック人民党に、ハンガリーの再生を託した。しかし、ハプスブルクに忠実な聖職者

のキリスト教社会主義は、大土地所有制には口を閉ざしたまま、ユダヤ人の小規模な

借地について言いつのる(24)。

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こうした批判に対してセクフューは、1939 年の論文「叙情的歴史観」でネーメトを、「農

民の服装をしていないからといって人形を壊す駄々っ子のような文化人」だと批判した(25)。

セクフューは続けて、「ホルヴァート・ヤーノシュをはじめ浅薄・皮相な先達に共通した

罪は、『東方ナプケレト

』誌でトルマイ・セシルと共同戦線を張り、右翼的不毛性を助長したことで

ある。もちろん私にも別の罪がある。親ハプスブルク的・カトリック的歴史記述や、ベト

レン・イシュトヴァン伯爵が主宰する『ハンガリー評論』で、アディの民族性を疑問視し

たことなどは恥じている」と自己批判した(26)。セクフューは同年、自らが編集した『ハン

ガリー人とは何か』の最終章で、「ハンガリー民族に潜り込んだ外国人が、本来のハンガ

リー人の民族的可能性を阻害している」との持論を堅持しつつも(27)、「新世代の誤りに責

任のない人々が、歴史的伝統に則って行動する新しい指導部を形成しなければ、我々知識

人がその義務を果さねばならない」と結んだ(28)。しかしながら、彼の戦略的調整にもかか

わらず、セクフューが『三世代』で展開した反ユダヤ的扇動機能は、あまりにも深く新世

代の知識層に浸透していた。

ハプスブルク君主国の東半分からトリアノン・ハンガリーへの移行過程で、二〇世紀初

頭のユダヤ人論は同化推進論から同化否定論に変異し、ハンガリー人像を変貌させた。そ

れまで合致していた「ブダペストの肖像」と「民族の自画像」の焦点がぶれたのである。

「ペテーフィをはじめ優れた少数民族の出身者なくして、祖国ハンガリーの偉大さは想像

できない」と述べたクレベルスベルグは、同化を肯定した。これに対して、「ペテーフィ

さえ自由主義的腐敗菌である」と断じたセクフューは、同化を否定する。その際、セクフ

ューが『三世代』で展開したジェントリ衰弱説は、ネーメトによって「深遠なハンガリー

人」と「浅薄・皮相なハンガリー人」という民族論に変換された。それは第一次大戦後、

政治の軸足が中小貴族から下層中産階級へ移動した結果である。

55

第七章 ホロコースト

1932 年 10 月、人種防衛党を解散し政権与党に復帰したゲンベシュは、首相に就任する

条件として、反ユダヤ的法規を導入しないようホルティから言い渡された(1)。そこで彼は、

改革派代表団との交渉後、それまでの反ユダヤ主義を修正し、ユダヤ人社会が政府の経済

再建策を支援するなら、彼らの物質的利益を侵害しないと約束した。彼はそれを就任演説

で表明した。

率直に言おう。プロテスタントとして、私はキリスト教陣営内の平和を心から願って

いる。だが、ユダヤ人とも同様の関係を築きたいと思う。この問題について私は、従

来の見解を改めた。ハンガリー民族と運命を共にするユダヤ人を、私は兄弟と見なす。

[中略]ハンガリー民族に同化できなかったり、同化しようとしないユダヤ人を、彼

らがまっ先に非難することを私は知っている(2)。

ゲンベシュはここで、「二種類のユダヤ人」論を受け入れた。その一方で、国家機関の

上級幹部にドイツ系の右翼急進主義者を多数登用した。これはドイツ系閣僚の増加とパラ

レルである。ドイツ系閣僚は、二重君主国期には二十パーセント前後(1887-1901 年:十

八・二パーセント、1901-1918 年:二二・三パーセント)で推移したが、第一次大戦後

(1920-1932 年)に三十パーセントを超え、ナチ政権の成立後は四二・一パーセントに跳

ね上がった(3)。ドイツ系閣僚や上級幹部の急増は、失地回復のためヒトラーに接近したハ

ンガリー外交の結果である。

1936 年 10 月、ゲンベシュがミュンヘンで客死したため、ダラーニィ・イグナーツ農相

を伯父に持つダラーニィ・カールマンが後継首班[1936-38 年]に指名された。彼は当初、

右翼陣営と一定の距離を保ったが、翌年 11 月の訪独後はドイツとの連携を強めた。貿易に

占める対独輸出比と輸入比が、1939 年には 1937 年の倍に急伸したことからも(4)、ドイツ

との親密度が推察できる。こうした文脈でダラーニィは、ドイツのオーストリア併合(1938

年 3 月 13 日)直前に、経済や文化領域におけるユダヤ人の影響力を削減する新政策を発表

した。

反ユダヤ法

二ヵ月後、議会は第一次ユダヤ法を制定した。同法はユダヤ人の知的影響力を全国一律

二十パーセントに圧縮し、ソビエト共和国が崩壊した 1919 年 8 月 1 日以降の改宗を無効と

した。一年後に第二次ユダヤ法が議会を通過した。同法はユダヤ人比を六パーセントに引

き下げると共に、たとえキリスト教に改宗していても、「両親の一方ないし祖父母の内、二

名がユダヤ教徒である者」をユダヤ人と規定した。1941 年 8 月に可決された第三次ユダヤ

法は混合婚を禁じ、ユダヤ人と非ユダヤ人の人間関係を断ち切った。1942 年 7 月には、ユ

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ダヤ教を国家公認の宗教とした 1895 年法律第四二号が廃棄された。ニュルンベルク法

(1935 年)をモデルとする一連のユダヤ法は、ウィーン裁定(1938 年及び 1940 年)で失

地を回復したことへの返礼であった。

第一次ユダヤ法が衆議院で審議されていた 1938 年 5 月 5 日、作曲家のバルトークやコダ

ーイ、それに農民出身の作家モーリツ・ジグモンドら六一名の著名な文化人が、「民族の

良心に訴える」と題する抗議声明を出した。声明は、ユダヤ人の法の下での平等を否定し、

彼らの市民権を剥奪することで、キリスト教徒の生存を保障しようというのであれば、そ

れはキリスト教徒の尊厳を貶めるだけだ、と法案のセゲド思想的発想を批判した(5)。

ユダヤ人社会では改革派代表のシュテルン・シャムが、ユダヤ法に抗議する小冊子で、

「ユダヤ人はハンガリーへの新来者ではない。エステルゴムで発掘された三世紀の墓標は、

カルパチア盆地を征服したアールパード王朝の成立以前から、ユダヤ人がこの地に住んで

いたことの証拠である。加えて、ハンガリー人のカルパチア盆地征服時にも、ユダヤ教徒

の部族長がいたと歴史学が証明している」と論じた(6)。

シュテルンが言う「ユダヤ教徒の部族長」とは、ハザール帝国のユダヤ教徒のことであ

る。ハンガリー人は九世紀末にカルパチア盆地を征服する前、強大なトルコ系ハザール帝

国の支配下にあった。同帝国の上層部は、イスラム勢力とビザンツ帝国のはざまでユダヤ

教に帰依した。ユダヤ教は民衆の間にも広がったが、戦士の大半はイスラム教徒であった

し、領内の非ハザール系部族はユダヤ教に改宗しなかった。歴史家で首席ラビのコーン・

シャームエルは、帝国内の武力闘争に敗れてハンガリー人居住地に保護を求めた部族がカ

ルパチア盆地まで同行したが、その中にユダヤ教徒がいたと説く(7)。もっとも、その後の

宗教政策を考慮すれば、キリスト教への改宗は容易に想像できるが、プレプク(Prepuk

Anikó)によれば、コーン説はハンガリー社会における共生イデオロギーとして、改革派の

みならず正統派にも受け入れられた(8)。ユダヤ人社会はこの仮説を、ハンガリー国家の正

当な構成員たる論拠として、積極的に採用したとカツブルグ(Nathaniel Katzburg)も述べ

ている(9)。

他方、ベトレンは 1939 年 1 月、独立小農業者党のエックハルト党首(人種防衛党から転

身)やティルディ・ゾルタン(1946 年 2 月、大統領に就任)など、前年 11 月に与党を離れ

た十名の議員と共に、「軍需産業が一時的に景気を下支えしても、ユダヤ系企業の清算で

数万ないし十数万のキリスト教徒が失業する」とホルティに反対意見を具申した(10)。ユダ

ヤ法を審議していた議会では、ベトレン派のグラッツがユダヤ人のハンガリー経済への貢

献を力説したが、親ナチ派のライニシュ・フェレンツ(後年、矢十字党政府の教育相)は「国

家の補助金を使ってだ」とか、「農民を搾取した結果だ」と野次を飛ばした(11)。矢十字党

指導者のフバイ・カールマンは、東方ユダヤ人の流入とハンガリー人の国外流出を絡めて、

ユダヤ人の「侵入」を防ぐ法律の制定を煽った(12)。カトリック教会を代表してシェレーデ

ィ大司教は、「ユダヤ教が国家公認の宗教になって以来、言論・文芸・芸術分野で一部の

ユダヤ人がリベラル派に同調して、キリスト教徒が神聖視するものを懐疑し、キリスト教

57

的倫理を破壊した」と供述した(13)。

ドイツ軍の占領

1942 年 3 月、カーライ・ミクローシュがドイツ軍のハンガリー占領までの二年間、政権

を担当した。カーライは大戦下の政府の中で最も枢軸陣営と距離を置いた首相である。彼

の在任中、ハンガリーはドイツの戦争軌道から徐々に離脱を図った。だが、ドイツは最終

的にハンガリー政府の自主的判断を容認せず、ホルティにカーライを解任させた。

ドイツ軍がハンガリーを占領する 1944 年 3 月、ハンガリーには二度のウィーン裁定の

結果、約七六万の「法的にユダヤ人種」と規定された人々が住んでいた。すなわち、1938

年にスロバキアを、1939 年にカルパート=ウクライナを、1940 年にトランシルバニアを、

1941 年にユーゴスラビアの一部を奪回したことで、三二万四千名のユダヤ人が加わった(14)。

この内、およそ十万はキリスト教への改宗者であった。

イシュトヴァン・デアーク(István Deák)によれば、ドイツ軍の占領まで、ハンガリー

系ユダヤ人は自宅に住み、差別的な記章を着けることなく全国を自由に移動できた。だが、

ウィーン裁定後ハンガリーに編入された地域では、それまでに六万余りのユダヤ人が消失

した。ハンガリー政府は対ソ戦の開始直後、ハンガリー国籍を証明できなかったスロバキ

ア在住の一万五千から二万のユダヤ人をガリツィアに移送した。彼らは地元(カメニェツ

=ポドルスキー)のユダヤ人と共にドイツ親衛隊やウクライナ民兵によって殺害された。

また翌年 1 月には、ハンガリー軍がユーゴスラヴィア北部のパルチザン掃討作戦で四千人

の市民を虐殺したが、その中に千人のユダヤ人が含まれていた。残りは東部戦線に派遣さ

れた武器を持たない労働奉仕隊である。彼らは十分な衣服や食糧を与えられないまま戦場

に送られ、戦闘行為のみならず寒さや上官の残忍さの犠牲になった。ソ連軍の捕虜になっ

た者も、大半が死亡した。

ドイツ軍の占領後、5 月中旬から 7 月上旬までの短期間に、地方から順次移送が開始さ

れ、四十万人以上がアウシュヴィッツで殺された。それはハンガリー政府の「献身的な協

力」なくして出来ることではなかった。内務副大臣に就任したエンドレ・ラースローとバ

キ・ラースロー、及び憲兵隊中佐のフェレンツィ・ラースローは、アイヒマンに協力した

内務省の「移送トリオ」と呼ばれている。

移送の事実が発覚すると、戦線離脱を図るベトレン派だけでなく、ローマ教皇ピウス十

二世やスウェーデン国王グスタフ五世やアメリカのルーズベルト大統領など、世界の指導

者たちがホルティに抗議文を送り、ユダヤ人の保護を訴えた。国際世論に加え、連合国軍

のノルマンディ上陸作戦(1944 年 6 月)とソ連軍接近の報に接したホルティは、7 月初め、

首都在住ユダヤ人の移送を中止させた。移送は 10 月にホルティが摂政位を剥奪され、ドイ

ツに連行されるまで実施されなかった。

もっとも、ホルティの中止命令は、地方在住ユダヤ人の移送が完了し、首都在住ユダヤ

人しか残っていない時期に発せられた。エル・アラメイン(カイロ北方の砂漠地帯、1942

58

年 11 月)やスターリングラード(1943 年 1 月)におけるドイツ軍の大敗を考慮すれば、ホ

ルティの動機には疑問符が付く、とラーンキは懐疑的である(15)。それでもデアークは言う。

1944 年当時のハンガリー領に住んでいたユダヤ人の三分の二が犠牲になったことに対し

て、「我々は主として、ハンガリー政府と国民に彼らの死の責任を求める。だが、残りの

三分の一が生存できたのも、政府と国民の努力の結果であることを認めなければならない。

二十万から三十万の生存者は、単に運がよくて殺されなかった人々ではなく、大半が政府

の職員や軍の将校、聖職者、それに多くの非ユダヤ系個人が命がけで救った人々である」

と(16)。デアークは同論文で、カトリック修道女のシュラフタ・マルギットやルター派牧師

のステーロー・ガーボル、及びジャーナリストのシュトッラール・ベーラの名を救済者と

して挙げている。エレーニィ(Erényi Tibor)も移送に反対した複数のカトリック司教や上

記シュラフタに加え、シャルカハージ・シャーラ(修道女)やヤーノシ・ヨージェフ(イ

エズス会士)といった教会関係者の名を挙げた(17)。スイス領事館のカール・ルッツ副領事

やスウェーデン公使館員のラウル・ワレンバーグ、またバチカン大使のアンジェロ・ロッ

タの救援活動は良く知られている。

その一方で、大戦末期、僧衣に矢十字党の腕章を付け、ユダヤ系病院を襲ったり、保護

下にあるユダヤ人を連行し拷問して、五百人以上を殺したクン・アンドラーシュ修道士の

蛮行も忘れてはならない(18)。

ベトレン派としてのセクフュー

セクフューは英米との単独講和を模索するベトレン派として、1941 年末、社会民主党機

関紙『ネープサヴァ』のクリスマス号に「自由の概念」と題する論説を寄稿した。これは

セクフューが、ナチズムに反対する社会民主党や共産主義者、また一部の農村人民作家や

独立小農業者党のバイチ=ジリンスキ・エンドレ(人種防衛党からの転身)らと企画したも

のである。それは『ハンガリー人とは何か』の中で彼が表明した、知識人としての義務観

の発露であった。二年後の 1943 年 11 月から翌年 2 月にかけて、『マジャール・ネムゼト』

紙に「我々はどこかで道を誤った」と題する論説を連載したが、二つの論説は時局を扱っ

たものでもなければ、あからさまにナチズムを批判したものでもない。にもかかわらず、

題名が彼の意志を反映していた。「ムッソリーニの罷免を機に、ハンガリーで民主主義勢

力が勢いづいた。ベトレン伯爵に近い歴史家のセクフューが、政府と労働者階級の仲介役

を務めている」とドイツ情報機関の報告書(空軍調査局、1943 年 7 月 30 日)にある(19)。こ

のため、セクフューはドイツ軍の占領後、ゲシュタポの追及を逃れて西ハンガリーにある

パンノンハルマの修道院に身を潜めた。一連のユダヤ法に反対したグラッツやドイツの戦

争軌道から離脱を図ったカーライ首相、また第一次ユダヤ法の成立以来、内相としてユダ

ヤ人の保護に努めたケレステシュ=フィッシャー・フェレンツは、ドイツ軍の占領後、リ

ンツ近郊のマウトハウゼン収容所に送られた。

59

ユダヤ資産の略奪

1944 年 5 月、ストーヤイ内閣[1944 年 3-8 月]の内相ヤロッシュ・アンドルは、ナジヴ

ァーラドでユダヤ資産に対する政府の新方針を表明した。

私は声を大にして言っておく。貪欲なユダヤ人が自由主義時代に蓄えた全財産は、

もはや彼らのものではない。それはハンガリー民族の財産である。民族全体を豊か

にするために使わねばならない。額に汗して働く気高いハンガリー人全てが共有で

きるよう、それは国民経済の流通過程に組み入れられねばならない(20)。

こうした考え方は、既に第一次大戦直後から見られた。グラッツによれば、ホルティの

「国民軍」がブダペストに入城した二週間後の 1919 年 11 月 30 日、覚醒ハンガリー人連合

は大会決議として、創設者の一人であるザーカーニ・ジュラ(三十歳のカトリック司祭)の

提案を採択した。一つはユダヤ人をパレスチナへ移送するか、人口比に従って文明国に配

分すること。二つにはユダヤ人の所有する全ての食糧と燃料を、キリスト教徒に分配する

というものであった(21)。これは強制収容所への移送と、その過程での略奪を旨とするホロ

コーストの論理を先取りしたものであった。

地方在住ユダヤ人のアウシュビッツ収容所への移送、及び首都在住ユダヤ人の「ダビデ

の星」の付いた建物への移動と並行して、ユダヤ資産の略奪が始まった。国家機関がユダ

ヤ人の経営する企業や商店の高価な物品を収用する一方、個人が所有する貴重品の確保に

は、地元の教師や官吏が警察の補助要員として動員された。家財道具は民衆の取り分とし

て残された。ブラハムが指摘するように、中央であれ地方であれ、略奪行為のあらゆるレ

ベルに行政当局が関与し合法性を演出した(22) 。6 月に入ると、ベトレンはホルティに対し

て、移送と略奪に対する道義的反対意見を述べた。移送はハンガリー人の名誉を汚し、ユ

ダヤ資産の私物化は「最も醜悪な腐敗の元凶となっている。それに我国の知識人(ジェン

トリの意)の相当部分が関与しているとは何たることか。ハンガリーのキリスト教社会は、

まもなく取り返しがつかないほど堕落するであろう」と(23)。

第二次大戦後、セクフューは公使(後に大使)としてモスクワに赴任したが、大使時代

に出版した著書の中で、ホロコースト期の略奪に言及している。セクフューによれば、ゲ

ンベシュ内閣当時から、とりわけ国家の経済部門で汚職が広がった。「軍の将校や特定の

国家機関における高級官僚の社会倫理は、ユダヤ人問題の扱いで地に落ちた。彼らは窮地

に陥ったユダヤ人から、二束三文で農地を手に入れた。ハンガリー人の経済的復権を標榜

する国家の指導層が、実際は移送後のユダヤ資産で私腹を肥やした(24)。」このような上層

部の行為をまねて、民衆がユダヤ人の財産を漁った(25)。農村では、収用したユダヤ資産を

上層部がどのように「活用」するか、農民たちが注目していた。つまり、「国家の指導層

がユダヤ人の財産を合法的に略奪するのであれば、彼らも早晩、領主の大所領を強奪して

構わないと学習するだろう」と彼は警告した(26)。その上でセクフューは、次のように論考

60

を締めくくった。「これが国家だろうか。ハンガリー人の国家だろうか。そして社会は、

ハンガリー人の社会だろうか。もはや国家でもなければ、社会でもない。国家は崩壊し、

社会は腐敗しきっている。長く苦難に満ちた歴史過程の果てが、みじめで不名誉な、恥知

らずの、グロテスクで血生臭い悲喜劇とは。こうした状態から国家を再建し、社会を再生

する道は、革命しかあるまい」と(27)。

「革命しかあるまい」という末尾の文言こそ、第二次大戦後のセクフューの偽らざる心

境であっただろう。それは『三世代』で社会復帰したセクフューの、体制イデオローグと

しての敗北宣言であった。(同著の前書きで見せた、野心的な意気込みと比べてみるが良

い。)彼の「革命」は、決して自身が希求したものではない。アディの革命には希望があ

ったが、セクフューの「革命」は絶望の産物だ。セクフューは、ヤーシら市民的急進派の

共和国革命を支持したアディ*(i)を、「1848 年革命で衰弱した貴族を象徴する病わく

葉らば

だ」と酷

評したが(28)、第二次大戦後のセクフューこそ病わく

葉らば

であった。彼は大戦後、ユダヤ資産の略

奪に言及した。しかし、それは他人の財産を漁る「キリスト教徒」のあさましい光景に耐

えられなかったからだ。

*(i) 病床から 1918 年 10 月の急進党大会に宛てたアディの連帯声明には、「諸兄の決議は

全て私の支持するところです。封建的・民族主義的罪をあがなって下さい。ハンガリー

人と全ての領内諸民族を救済して下さい。人民の権利よ、来たれ。人民の同盟よ、来た

れ。民主主義よ、来たれ。私は民主主義を信じる。諸兄の信念と結束力が勝利するよう、

懸命に祈っています」と記されていた。

ビボーのホロコースト論

1946 年法律第二五号で、戦前のユダヤ法が廃棄された。にもかかわらず、ホロコースト

生存者の帰国に伴い、ハンガリーでも反ユダヤ主義が再燃した。これに危機感をつのらせ

たビボー・イシュトヴァンは、1948 年、農村人民派の雑誌に百頁の論文を発表した。この

論文の中で、彼はユダヤ人の犠牲の上に「キリスト教徒の幸福」を追求するセゲド思想を、

以下のように批判した。

戦間期の政治体制は二つの大原則の上に立っていた。一つは、政治と行政へのユダヤ

人の参加を制限すること。今一つは、独占資本を有するユダヤ人の経済的地位を強化

することであった。一方で政治的反ユダヤ主義を煽り、他方でユダヤ人が握る資本主

義を保護するといった二律背反が、社会的緊張を高めた。このため、ユダヤ人問題と

ユダヤ人の経済支配を清算することは同義であった(29)。

ユダヤ人の経済支配を清算する「ユダヤ人問題の解決」を、大抵の人は社会・経済

構造を変えることなく、ユダヤ人の儲けを少なくし、非ユダヤ人の儲けを多くすると

いった子供じみた恣意的措置の導入と理解した。1930 年代、ユダヤ人を除いてハンガ

61

リー社会の誰もが、抑制を失った反ユダヤ的社会感情、つまり他者を不平等化するこ

とによって繁栄しようとする民族差別が、ユダヤ人の迫害や殺戮に容易につながると

の歴史的洞察力を持たなかった(30)。

ビボーにとって許し難い事態は、歴史的洞察力の欠如のみならず、「他者を不平等化す

ることによって繁栄しようとする」ハンガリー社会のモラルハザード(倫理の欠如)であ

った。

ユダヤ法に対して道義的に妥協するようになると、同法への同意以上に深刻な問題が

生じた。すなわち、これらの措置を講ずる過程で明らかになったハンガリー社会のモ

ラルハザードである。ユダヤ法によって小市民のみならず中産階級全体が、個人的な

努力をしなくても、他者の犠牲の上により良い物質的環境を享受する機会を与えられ

た。[中略]ハンガリー社会の広範な階層はその時、労せずして生活水準を上げる方

法を知ったのである。彼らは他人の恵まれた社会的地位をねたんで、その人を密告し、

その人の祖父母が誰であるかを調べあげ、職場を解雇させ、商取引を妨害し、移送さ

せることで、彼らの社会的・経済的地位を引き継ぐことが出来た。こうした機会がハ

ンガリー社会のモラルハザードを助長し、多くの人々の中にある貪欲さや破廉恥、あ

るいは控えめに言っても冷酷な日和見主義を露呈させた。それはユダヤ人のみならず、

良識あるハンガリー人にも深刻なショックであった(31)。

モラルハザードの淵源を求めて、ビボーは一九世紀中葉まで遡った。彼の歴史認識に従

えば、その淵源はアウスグライヒという欺瞞にあった。すなわち、「1848 年革命の敗北後、

ハンガリーの指導層や知識人は、歴史的ハンガリーを維持することに全力を傾注した。こ

れが土地所有階級の保身的な態度と相まって、アウスグライヒという欺瞞に満ちた体制を

構築することになる。それによって、この国の活力が枯渇した。戦後革命やトリアノン条

約によって歴史的ハンガリーの解体という恐怖感が増幅し、最終的には失地回復運動や反

共主義といった政治的閉塞状況に迷い込んでしまった」のだ(32)。しかし彼は、欺瞞的なア

ウスグライヒのせいでハンガリーは弱体化したと言うだけでなく、ハンガリー社会とユダ

ヤ人の共生も「欺瞞的な条件下で結ばれた協定」に過ぎなかったと説く(33)。そして、ハン

ガリー社会とユダヤ人社会の双方に自己欺瞞を見た(34)。

ハンガリー社会はユダヤ人の同化問題を、歴史的版図全体をハンガリー化するという

一九世紀ハンガリーの政治的大幻想に適合させるため、自欺した。[中略]この時点

でハンガリーにおける同化は、ハンガリー語の習得、ないしは人口調査時にハンガリ

ー人であると自己申告するだけの行為になった。建国千年祭当時、ハンガリー社会が

言語的同化の進展に狂喜したのは、このためである。同化したのは、大半がドイツ系

62

とユダヤ系の都市民であったが、ハンガリー社会は彼らの同化を歓迎した。彼らの同

化がスムースに進んだことから、全国規模のハンガリー化も二、三十年で達成できる

だろうとの幻想がハンガリー社会に生まれた。領内諸民族の言語的同化は、歴史的ハ

ンガリーを保全する決定的な要因であった。しかし、少数民族地域の農民の同化は遅々

として進まなかった(35)。

バーンフィ内閣[1895-99 年]の強権的なハンガリー化政策やアポニィ教育法[1907 年]

を嫌って、少数民族地域では子弟を就学させないケースも少なくなかった。

共産党政権下の略奪

モスクワ帰りのレーヴァイ・ヨージェフは、1947 年 10 月、『マルクス主義・農村人民

主義・ハンガリー民族』と題する著書を出版した。その第三版(1949 年 4 月)の前書きで

彼は、戦前、共にファシズムと戦うべく農村人民主義運動の左派を支持したが、戦後、状

況が大きく変ったと断わった上で、「労働者階級に敵対する似非え せ

人民主義たるハンガリー

のナロードニキを粉砕する時が来た。[中略]農村人民主義は今や反動的イデオロギーだ。

[中略]自営農のみを救済すべきだと主張する農村人民派は、帝国主義的反共主義の手先

である」と断じた(36)。

同著第三版の前書きは、1947 年以降の共産党の政策転換を反映している。1945 年 11 月

の総選挙で、独立小農業者党が五七パーセントの絶対多数を獲得し、農村人民主義運動か

ら生まれた全国農民党も七パーセントを得た。これに対して社会党と共産党は、両党合せ

ても三四パーセントにとどまった(37)。共産党はそれまで、小農業者党との連立政権に甘ん

じていたが、1947 年 5 月、小農業者党のナジ・フェレンツ首相を辞任させ、同時に他政党

の指導者たちをサラミ戦術でもって次々と無力化し、翌年 6 月に社共が合同して一党制を

完成させた。1949 年 2 月にカトリック教会のミンドセンティ枢機卿を国外に追放した後、

9 月にはライク裁判で共産党内部を粛清した。彼らはソ連駐留軍の威光を背景に、1950 年

代初頭、「好ましからざる分子」として貴族階級の、また「旧体制の搾取者」として中産

階級の住居や私財を奪い、辺地へ強制移転させた(38)。ホロコースト生存者の両親が、戦前

裕福な中産階級に属していたとの理由で、事業や住宅を収用されたコンラード・ジェルジ

の事例も、その一つである。こうした措置は、何の前触れもなく深夜ひそかに実施された

(39)。エレーニィによれば、貴族や資本家やホルティ時代の高官を含め、約五万人(この内、

十五から二十パーセントがユダヤ人)が強制的に移転させられたが、選別は「極めて恣意

的」であった(40)。それは戦前のソ連における富農クラーク

撲滅政策をまねた、共産党によるハンガ

リー版「夜と霧」であった。

63

終章 二一世紀初頭のポピュリズム

体制転換後の政治地図

1989 年 10 月、ハンガリーはソ連のスターリン憲法をモデルとした人民共和国憲法を改

正し、翌年春(3 月と 4 月)に議会選挙を行なった。知識人を二分した農村人民派と都会派

が、民主フォーラムと自由民主連盟を結成して選挙を戦った。両者の決定的な違いは、自

由民主連盟がヤーシと彼らの市民的急進主義を、自らの先駆とした点である。

第一党になった民主フォーラムは、独立小農業者党やキリスト教民主人民党と右派連立

内閣を構成した。だが、民主フォーラムのアンタル首相が問題発言の多い小農業者党党首

を閣僚に起用しなかったため、1992 年、独立小農業者党が連立政権から離脱した。離脱の

背景には、政府の農地改革に対する不満も挙げられる。連立政権の亀裂は、民主フォーラ

ムの内部対立によっても助長された。穏健派のアンタル首相と対立する副党首のチュル

カ・イシュトヴァンは、1992 年 8 月 20 日の同党機関紙で、体制転換の勝者は旧共産党の

ノーメンクラトゥーラ(特権的幹部)であると「エリートの連続性」を指摘する一方、確

信的な反ユダヤ主義者らしく、「モスクワに替ってニューヨークとテルアビブがハンガリ

ーの支配者になった」と持論を展開した(1)。民主フォーラムは、こうした政権内部の確執

(1993 年 6 月、チュルカを除名)に加えて、同年 11 月、アンタル首相を突然失った結果、

1994 年の総選挙で大敗した。

その後の四年間は、旧共産党(改革派)系の社会党と自由民主連盟が政権を担当した。

民主フォーラムは中央集権を、社会党と自由民主連盟は地方分権を強調したが、両政権と

も民営化と市場経済を支持し、北大西洋条約機構(NATO、1999 年加盟)や欧州連合(EU、

2004 年加盟)に加盟することを政治目標とした。ブダペストの高学歴者を支持層に持つ自

由民主連盟は、市場原理に基づくアメリカ型の自由主義を提唱した。しかし、急激な市場

化と民営化で失業者が増大し、インフレが急上昇した。法制度の不備や未熟な市場を背景

にニューリッチが誕生する一方、貧富の格差が拡大した。リベラル=左派連立内閣による

緊縮政策(いわゆるボクロシュ・パッケージ)は、輸出促進や輸入制限と並んで、社会福

祉の縮小や年金の削減、公務員のリストラや住宅・扶養・児童手当の抑制などで、財政収

支を改善した。だが、賃金カットや社会保障費の縮減は国民に不評で、フィデス(Fiatal

Demokraták Szövetsége 青年民主連盟、略称 Fidesz)を政権の座に就ける原因となった。

1998 年 5 月の総選挙で第一党になったフィデスは、民主フォーラムや独立小農業者党と

連立内閣を形成した。だが、独立小農業者党は 2002 年以降議席がなく、民主フォーラムも

2010 年の総選挙で議席を失い、翌年解散した。民主フォーラムを除名されたチュルカが結

成した正義・生活党は、1998 年の総選挙で十四議席を獲得したが、四年後には議席を失い、

「第三の道」という名でヨッビクと共通名簿を作成した 2006 年の総選挙でも敗北した。一

方、一部の議員が正義・生活党と関係していたことから、1997 年に分裂したキリスト教民

主人民党は、2002 年末、フィデス議員を党首や幹部に迎えて再出発した。2006 年の総選挙

64

ではフィデスと政党連合を結成し、以後ジュニアパートナーとして機能している。フィデ

スはキリスト教民主人民党を介してカトリック教会と提携し、支持基盤を強化した。他方、

自由民主連盟は 2002 年に政権を奪回した社会党と連携したが、改革の進め方をめぐって

2008 年に連立政権を離脱した後、翌年の欧州議会選挙にも 2010 年の総選挙にも敗れ消滅

した。

フィデスの右旋回

1988 年、ブダペスト大学法学部の学生と卒業生が中心になって結成したフィデスは、

1990 年の総選挙を機に自由民主連盟とリベラル・ブロックを組んで議会へ進出した。だが、

思うように党勢を拡大できず、1994 年の総選挙では最下位に終った。党勢が減速した背景

には、チュルカを除名した後フィデスに急接近し、ポストと引き換えに同党を自陣営に引

き入れようとした民主フォーラムの画策と、これに応じたフィデス指導部の右旋回が指摘

される。彼らは多数派になるため右傾化を選んだ、とデッケ(Dieter Dettke)は言う(2)。同

党は翌年、フィデス=市民党と改称し、民主フォーラムと連携すべく協議に入った。創設

メンバーのフォドル・ガーボルらはフィデスを離れ、自由民主連盟に加わった。

その後のフィデスは、「外国資本と非ハンガリー的価値観」に満ちたブダペストを批判

し、地方に住む中産階級への富の再分配を標榜した。主たる支持層は、生活水準の高いド

ナウ川西域(オルバン・ヴィクトル現党首はセーケシュフェヘルヴァールの出身)の壮年

である。右派政党にとって最大の懸案たる隣接諸国の同胞問題(トリアノン・シンドロー

ム)に対して、フィデス政権は 2001 年の地位法(法律第六二号)で、国境外のハンガリー

系住民を潜在的自国民の一部と認定し、彼らに準市民的権利を与えた。社会党はこれに賛

成したが、自由民主連盟はヨーロッパ統合の理念に反するとの理由で反対した。

しかしながら、フィデスは 2002 年の総選挙で政権を失った。フィデス・民主フォーラム

選挙連合(188 議席)と社会党及び自由民主連盟(合計 198 議席)の差は、わずか十議席

であった。民主フォーラム(24 議席)以外の右派政党は壊滅状態であった。(因みに 2006

年の選挙結果は、社会党 190 議席、自由民主連盟 20 議席、フィデスは前回と同じ 164 議席、

民主フォーラム 11 議席。)そこでフィデスは、政権奪還のため愛国心に訴える市民運動を

組織し、翌年党名をフィデス=市民連合と変更した。当時フィデスの党員であったヴォナ・

ガーボル(ヨッビク現党首)も、この民族派市民運動の中で頭角を現した一人である。

フィデス=市民連合の設立趣意書(2003 年)によれば、彼らは第一条で、「愛国心に目

覚めた」一万以上の市民サークル(推計十六万人)が、体制転換後初めて自発的に街頭に

出て、世論を形成していると認めた(3)。デアーク・アンドラーシュ(Deák András)の表現

を借りれば、「街頭はフィデスが 2002 年に発見した政治的闘技場」であった(4)。第二条で

は、各国のポピュリスト政党が所属する欧州人民党に合流すると謳った。(オルバンは 2002

年から十年間、欧州人民党の副議長を務めた。)フィデスは 2007 年綱領の「新多数派路線」

の中でも、旧共産圏において「比類なき右派連合」を樹立したと自賛し、社会党や自由民

65

主連盟と対峙する「愛国心に目覚めた市民」の結束こそ、フィデスの力の源泉であると言

明した(5)。しかし、2007 年時点でのフィデスは、あくまで「西欧志向の党」であると自己

規定し、ロシアとの関係についても、市場を求めてロシアに接近し、再びロシアの勢力圏

内に入ることはないと明記している(6)。

フィデスが組織した愛国的市民運動の最大の成果は、2008 年 3 月の国民投票である。そ

れはリベラル=左派政権が導入を企図した医療・教育改革(入院費や受診料や授業料の国

民負担)の賛否を問うものであったが、同時に、国民によるジュルチャーニ内閣の不信任

投票をも意味した。それと言うのも、「我々は選挙に勝つため、ハンガリー経済の実態を

国民に知らせず、嘘ばかりついてきた」とのジュルチャーニ首相のオフレコ発言が、外部

に漏えいし、2006 年秋の暴動に発展したからである。フィデスが国民投票を申請したのも、

この渦中である。国民投票では、80 パーセント以上が政府案に反対した。このため、自由

民主連盟が連立政権を離脱し、ジュルチャーニも翌年、首相を辞任した。2008 年の国民投

票は、二年後のフィデスの政権復帰に直結した。

2010 年 4 月の総選挙で政権に返り咲いたフィデスは、翌月、地位法の延長線上に国籍法

を改訂し、在外同胞に自国の国籍を付与した。隣接諸国に住む同胞への国籍付与は、ロシ

ア、ブルガリア、セルビア、クロアチア、ポーランド、ルーマニアでも実施されている(7)。

ハンガリー系住民が人口の一割近くを占めるスロバキアは、自国民保護を名目とするハン

ガリーの政治介入を恐れて、二重国籍を禁じる対抗措置を取った。

もっとも、2010 年の選挙綱領たる『民族的諸課題を解決する政治』を見る限り(8)、フィ

デスのポピュリズム色はヨッビクのそれに比べ概して薄い。(一説によるとオルバンは、

権力を掌握するまで手の内*(i)を明かさなかった(9)。)だが、一九世紀末の新保守主義陣営

におけるカトリック人民党と農業者同盟の関係と同様、両者は相互補完的である。それゆ

え、現代ハンガリーのポピュリズムは、体制転換直後に物議を醸したチョーリのエッセイ

や、ヨッビクの一連の綱領と突き合せて、初めて理解できよう。

*(i) 権力掌握後、オルバンは国家予算の赤字を削減すべく、GDP の十パーセントに相当す

る民間の年金基金を国有化し、多国籍企業に法外な重税を課す一方、隣接諸国のハンガ

リー人コミュニティを巻き込むエリートの入れ替えや、政権寄りの報道を優遇するメデ

ィア規制法、及びゲリマンダー的な選挙区の改定を行なった。そのためか、2010 年に

四、五十パーセントあった支持率は、二年で二十パーセン前後に急落した。

チョーリの民族論

民主フォーラムの理論誌『信用ヒ テ ル

』(1990 年 9 月号)に掲載されたチョーリのエッセイ「真

昼の月」は、トルマイの『亡命者の書』を真似てか、日付の入った日記の形式を取る。物

議を醸したのは、「ハンガリー人の痛みを共感できる者だけがハンガリー民族の一員であ

る」という民族規定や、「第一次大戦で同化ユダヤ人との共生は終った」との歴史認識、

66

そして、今や「ユダヤ人による逆同化」が始まったとする 7 月 3 日付の記述である。

アディの周りにハトヴァニやヤーシらユダヤ系の知識人が集まり、それぞれの関心事

を共有した。ユダヤ人がハンガリー民族の死活問題を真剣に考えたのは、アディの時

代が最後だった。その頃のユダヤ人はハンガリー語だけでなく、その背後にあるハン

ガリー人の痛みまでも学び取った。だが、ソビエト共和国やホルティ時代、とりわけ

ホロコーストを経験したことによって、彼らはハンガリー人との精神的連帯感を失っ

た。[中略]現在、逆同化傾向が次第に顕著になりつつある。すなわち、リベラル派

のユダヤ人がハンガリー人を思考や行動様式で「同化」している。このために彼らは、

今まで作れなかった議会用の跳躍台を作ったのだ(10)。

上述した民族規定の後に、自由民主連盟の友人たちは新たな政治的民族概念の形成を望

んでいるが、それは「古い感傷」に裏打ちされたものではなく、法律や経済学や市場の知

識に基づく「冷徹な良識」によってである、との記述が続く(11)。自由民主連盟は、チョー

リの表現に従えば、「逆同化」目的でユダヤ人が作った政治的跳躍台であった。ここで「古

い感傷」を代表するのは、隣接諸国の同胞の「民族的自己喪失」にハンガリー人の死滅を

予感する民主フォーラムのチョーリであり、在外同胞の窮状に共感できない「冷徹な良識」

は自由民主連盟の主知主義的ユダヤ人のものである。「数百年来ハンガリーに住んでいる

ドイツ系のチプス人やシュワーベン人は我々に共感できるが、アウスグライヒ後に移住し

てきたユダヤ人は共感できないのだ」と彼は難じた(12)。「痛みを共感できる者だけがハン

ガリー民族の一員である」という内向きの論理を純化することで、ハンガリー人は圧倒的

な存在感を誇示できる、と彼は確信していた。

我々ハンガリー人は世界中に離散し、深刻な人口減少に見舞われている。在外同胞も

母国にいる我々も、日々「平和な日常の中の戦争」という新たな事態によって衰弱し

つつある。フランス人もイギリス人も、イタリア人もロシア人も、自分の民族が翌日

までに死滅するかも知れないという事態を想像できないだろう。しかし我々ハンガリ

ー人には、そうした事態が起きるかも知れないのだ。我々はまるでテロリスト集団の

ような、我々自身の人口統計に付きまとわれている。[中略]

だが、我々は在外同胞を守るために、再び戦争を始めることは出来ない。新しい芸

術作品のように、まだ知られざる傑作のように、再建され刷新されたハンガリー民族

のみがカルパチア盆地で、また編成途上の統合ヨーロッパで底知れぬ影響力を行使し

得るのである(13)。

チョーリはカーダール時代の 1960 年代、在外同胞の民族的自己喪失を感知し、ハンガ

リー人意識の再構築を試みた。「私が民衆文化の再生に着手した時、それでもって失われ

67

たハンガリー人意識を回復させようという私の意図に気付いた者は、ほとんどいなかった

(14)。」だが、「トランシルバニアの舞踊教室に足を運び、民衆文化を復活させる過程で、

新農村人民派あるいは新民族派とも言うべき一群が登場した。その後、彼らがハンガリー

東部のラキテレクに集い、民主フォーラムを結成することになる(15)。」

チョーリにとって、「民族とは国境を越えた共通の伝統と行動様式を持った、精神的・

言語的・歴史的構成体の意である(16)。」それは身体的概念ではなく精神的概念であると彼

は言うが、在外同胞の窮状に共感できないコスモポリタン勢力を「内なる敵」と見なすチ

ョーリの排外主義は、現代ヨーロッパのポピュリズムに通じる位置にあった。

チョーリは民族の死滅を予感させるものとして、在外同胞の民族的自己喪失のみならず、

共産党政権下の生活を挙げる。「カーダール体制は罪の呵責から、あるいは論理的帰結と

して、1956 年革命が提起した多くの要望を実現したが、我々を道義的に救った革命の高邁

な精神をこの民族から奪い取った。彼らはラーコシ・マーチャーシュ時代よりも家庭生活

や限定的な自己実現や私生活のための余地を与えた。しかしながら、こうした私的領域に

自由を拡張する一方で、生命力そのものを削いだ。唯一残されたのは、生物学的生存であ

る」と(17)。

このようなチョーリの生命観と民族論を、ヨッビクは継承した。彼らは 2003 年 10 月の

結党宣言で、共産党独裁の四十年のみならず、体制転換後は「開かれた社会」というウル

トラ自由主義のせいで、家族の絆や民族的アイデンティティや愛国心が希薄になったと嘆

じた(18)。そして、歴史や伝統が持つ力の「再発見」に、ハンガリーの復活を託す。

我々はハンガリーの将来を、家族や生まれ故郷や教会や民族といった、伝統的な共同

体の力を再発見することの中に見る。[中略]より豊かなハンガリーを欲するなら、

我々が共有するルーツを再発見しなければならない。個人としてではなく、先人たち

の事績を共有する民族として、我々は世界に誇れる存在になれるのだ(19)。

彼らにとって、誇るべきは個人でなく、あくまで民族であった。

ヨッビク試論

ヨッビク Jobbik は 1999 年、ブダペスト大学のキリスト教系学生を中心に組織された右

翼青年同志会(Jobboldali Ifjúsági Közösség)の略称である。民族派を糾合するフィデスの

呼びかけに応じて、2002 年に「ヨッビク=ハンガリーのための運動」という市民サークル

を結成し、翌年政党として登録した。初代党首のコヴァーチ・ダーヴィッド(2008 年離党)

は正義・生活党の出身である。彼らは 2006 年の総選挙で正義・生活党と連携したが、議会

進出は果せなかった。

しかし、ヨッビクは 2009 年の欧州議会選挙で三議席を獲得し、翌年の総選挙でも四七議

席を得て第三党に躍進した。得票数は 2009 年度が四二万七千票余り、2010 年度が八五万

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五千票余りと倍加している。ヨッビクが躍進した背景には、ハンガリーが 2008 年の世界金

融危機に直撃され、失業率が十パーセントを超える経済状態があった。ハンガリー政府は

同年 10 月半ば、国際通貨基金と EU、及び世界銀行に総額二百億ユーロの緊急融資を申請

した。失業率は 2012 年時点でも十一・一パーセントであるが、二五歳以下の青年層では二

八・三パーセントに上る(20)。2015 年 2 月時点で七・四パーセントに下がったものの、二五

歳以下では十九・二パーセントと依然高い。

ヨッビクは 2006 年の綱領で、体制転換後の社会の上位五、六パーセントを構成する「グ

ローバル化のエリート」と最下位の三割を占める貧困層との所得格差が三十倍に拡大した

と指摘し、これを南米化と呼んだ。そして、南米化はキリスト教主義に基づく「国家の介

入」でもってのみ解消すると説く(21)。

フィデスが主として経済的に豊かなドナウ川西域を支持基盤としたのに対して、ヨッビ

クは貧しい東部と東北部(共に旧共産党の支持基盤)の、年齢的にはフィデスの支持者よ

り若い小市民や労働者階級の不満を吸収した。2010 年の選挙における地域別得票率を見れ

ば、ドナウ川西域が十三・五パーセントから十四・九パーセントなのに対して、ハンガリ

ーの中央部と大平原南部が十六パーセント台、大平原北部から東北地方にかけては二二・

一パーセントから二四・三パーセントと、東北高西低を示している(22)。

ハンガリー経済の悪化がヨッビクの飛躍を助長したことは確かだ。しかし、それだけで

は彼らの政治的浮上を説明しきれない。イギリスの独立系シンクタンク『デモス』は、2012

年 1 月、ヨッビクの支持層を分析して、西欧のポピュリスト政党と同列に扱うことは出来

ないと論じた(23)。同報告書によると、ヨッビク支持層の中核は、低学歴の失業者といった

「転換の敗者」ではなく、高卒と専門学校卒の平均より裕福な、四十パーセントが三五歳

以下の就労者である。ヨッビクの「キリスト教原理主義」にもかかわらず、宗教に関心の

ない者(三三パーセント)が他の政党支持者よりも多い。また、かつてフィデスを支持し

ていたか、それまで支持政党のなかった地方の小都市出身の男性が圧倒的に多く、支持理

由は社会・政治思想や文化的価値観からというのが特徴的である。

『デモス』の報告書の共著者である『政治資本研究所』のクレコー(Krekó Péter)は、

ヨッビク躍進の背景として興味深い世論調査の結果を紹介している。それはフィデスが民

族主義的な大衆運動を展開し始めた 2002 年から 2009 年までの世論の変化である。「偏見

と福祉ショーヴィニズム」は、2002 年の三七・三パーセントから 2009 年には五二・四パ

ーセントに増大している。また「将来に対する不安」も、2002 年の一九・一パーセントか

ら 2009 年には二七・二パーセントに増加した。ところが、「右翼的価値」に共感すると回

答した者は、2002 年が二七・八パーセント、2009 年が二七・三パーセントと固定的である

(24)。すなわち、このデータを複合的に見ると、二七パーセント台の固定的な右翼支持層に、

「偏見と福祉ショーヴィニズム」の一五・一パーセント増と「将来に対する不安」の八・

一パーセント増が加わり、右傾化を助長したことになる。

ヨッビクの社会・政治思想や文化的価値観を見れば、彼らは新自由主義の名の下に効率

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や競争力のみを追求し、「外国人の利益」を擁護するグローバル化を嫌う。2009 年の欧州

議会選挙綱領の表題『ハンガリーはハンガリー人のものだ』と、綱領中の「土地を持つ者

が国家を支配する」という文言は(25)、共に農業者同盟のスローガンであった。

彼らは 2010 年の綱領『ラディカルな変革:民族自決のために、社会正義のために』の第

三章で、リベラル=左派連立政権内の旧共産党幹部や旧体制の専門官僚、あるいは新自由

主義を高唱する「転換の勝者」が私腹を肥やした民営化過程や、安い労働力と潜在的市場

のみを求める多国籍企業の存在を再検討すると論じ、汚職やネポティズムの元凶たるエリ

ートの連続性を清算すると公約した(26)。旧特権階級の子弟が多い自由民主連盟と社会党の

連立政権は、こうしたエリートの連続性の象徴であった。2014 年の選挙綱領の第三章「形

骸化した文化闘争」でも、ソ連型の共産主義者から西欧風の自由主義者に突然変異した「カ

ーダール・ユーゲント」を、文化領域の要職から追放せよと訴える(27)。

また、2010 年綱領第三章の「農業保護」においては、農地を投機の対象としか見ない外

国人から農業を守るため、EU との協定を見直すとした。その上、歴代政府と結託して自

国の良質な農作物を輸出し、外国の粗悪な代用品を消費させる、外国資本の植民地主義を

拒否すると宣言した。加えて、これまでの政府は大企業やアグリビジネスの利益を優先し

て、地方の利益を等閑視してきたと批判し、農業者同盟を想起させるような、長期にわた

り低金利で融資を提供する金融機関の設立を明記した(28)。(2006 年と 2009 年の綱領は、

ハンジャという文言でもって、小資本の協同組合化による家族経営の強化を国民戦略の一

つに据えている(29)。)更に、若者が新たに地方で就業したり、農業で生計が立てられるよ

うな振興策を論じた。これなどは、「富の創造たる内地植民こそハンガリー人に出来る最

も実り多い労働である」というクレベルスベルグの新民族主義を彷彿させる。彼らが同章

で論じた「誠実かつ勤勉で子だくさんの家族」の肖像は、クレベルスベルグが『新民族主

義』の中で提起した「期待されるハンガリー人像」に他ならない。

外交及び防衛を論じた 2010 年綱領第六章では、最重要課題と位置づけた「在外同胞の再

統合」で、隣接諸国のハンガリー系住民への国籍付与を提言し、あらゆる政治的手段でも

って彼らの「自決」を援護すると公約した(30)。その際、ハンガリーを切り裂かれた国

csonkaország と記述したのは、国民のトリアノン・シンドロームを煽る極めて扇動的な表

現である。(2009 年綱領では、切り裂かれた民族 megcsonkított nemzet と記述。)

このような民族主義的扇動に加えて、ヨッビクは自由主義批判に基づく反グローバリズ

ムや反エリート主義や反知性主義、あるいは EU 懐疑論(2009 年 12 月に発効したリスボ

ン条約への反対を明示(31))といった現代ヨーロッパのポピュリズムに共通する特徴を備え

ている。反移民論もその一つである。彼らは 2006 年の綱領に、大規模な移民の流入による

文化変容から伝統的共同体を防衛すべく、移民反対を明記した(32)。ヨーロッパ各国のポピ

ュリスト政党と足並みを揃えたという文脈とは別に、大量の移民が流入した訳でもない二

一世紀初頭のハンガリーで彼らが移民反対を標榜するのは、「歴史上の大量移民」を念頭

に置いてのことだろう。彼らの歴史認識においては、ユダヤ人とロマ人の流入である。一

70

三世紀、モンゴル軍の撤退後ベーラ四世が中央大平原に招致したクマン人や、一八世紀に

ウィーン宮廷が入植を勧めたシュワーベン人は、このカテゴリーに入らないようだ。

ロマ人は一五世紀後半、武器の製造や拷問に従事する奴隷としてハンガリー史に登場す

る。マリア・テレジア(ハンガリー女王)は 1761 年、彼らを「新ハンガリー人」として同

化を図った。息子のヨーゼフ二世は 1783 年、すなわちハンガリー系ユダヤ人に対する寛容

令の発布と同じ年に、「ロマ人の子供は四歳になると農民の養父母に預ける。里親に対し

ては十年間、養育費が支給される」との勅令を発した。ロマ語を使用すれば罰則として「二

四回杖で打たれ」、同族結婚も厳禁であった(33)。聖職者には子供たちに信仰を教え、無料

で教育する義務が課された。

中・東欧に約六百万いると言われるロマ人の一割が、ハンガリーの東北部やティサ川中

流域に集住する。1960 年代初頭、政府はロマ人団体との交渉後、ロマ人は「民族的マイノ

リティ」ではないとの見解を発表した。一方、共産党指導部も、労働や住宅や学校教育と

いった社会政策でもって「ロマ人問題は解消する」と見ていた(34)。1970 年代には二割であ

った彼らの失業率が、1990 年代の中頃には七割台に達した。それは経済の自由化で未熟練

工がまっ先にリストラされた結果である。加えて、今世紀半ばにはハンガリーの総人口(現

在、約九九五万人)が八百万人に減少すると予測されているのに対して、ロマ人は倍増し、

人口比が十五パーセントに達すると見られている。ヨッビクを支持する小市民や労働者層

の心理を推察すれば、ロマ人はハンガリー国家の福祉政策に「寄生」しているとの福祉シ

ョーヴィニズムが、悪化する経済状態の中で彼らに激情のはけ口を提供したのであろう。

カラーチョニ(Karácsony Gergely)はヨッビク躍進の背景に、2009 年のハンガリー社会に

おけるロマ人と非ロマ人の「内戦もどき状態」を挙げている(35)。

1998 年、カール・マルクス大学(現コルヴィヌス大学)の社会学者ジェネイ(Gyenei Márta)

は、『ネープサバッチャーグ』紙に「戦略的児童-我国ではなぜ乳幼児の死亡率が高いの

か」と題する論説を発表し(36)、中央大平原の農村におけるロマ人社会の問題点に触れた。

表題になった戦略的児童とは、児童手当やその他の給付金目当てに、家族の戦略として誕

生した子供たちの意である。論説は言う。「子供たちの一部は、戦略的理由でこの世に生

を受けた。それは、他に収入のない大人たちの生活を助けるため、自力で住宅やアパート

を買ったり借りたり出来ない両親を、屋根の下に住まわせるためである」と。彼女が 1993

年に調査した農村の事例では、「六三パーセントが戦略的児童」だった。内訳はロマ系が

六七パーセントで、非ロマ系は二九パーセントであった。論説の主旨は、そうした「戦略

的」出産が不就学や非行、病気や失業といった負の連鎖を再生産し、人口減少が激しいハ

ンガリー社会の負担を増大させているというものである。彼女の真意がどのようなもので

あったのか、また、どのような経緯で大学を辞したのかは分からないが、ヨッビクやその

支持者の目に、ロマ人社会の「戦略的」人口爆発がハンガリー社会への挑戦と映じたこと

は否めない。こうした「ジプシー問題」に対して、ヨッビクは戦略的出産を認めないと 2014

年綱領に明記した(37)。

71

ヨッビクもフィデスも共に権威主義的で、キリスト教主義ではあるが、彼らの特徴は何

と言っても東方志向であろう。東方志向も、欧米諸大国への経済的依存度を軽減せんとす

る措置であったり、全方位外交である限り、何ら特異なものではない。だが彼らは、経済

や外交のみならず、東方起源のハンガリー人の歴史的・文化的固有性にまで踏み込む。と

りわけヨッビクにその傾向が強い。

ヨッビクは 2010 年綱領の第三章で、過去二十年間、中国・インド・ロシア・トルコ・

カザフスタン・インドネシアといった東方諸国と資本・業務提携の機会があったにもかか

わらず、歴代政府は何ら有効な措置を取らなかったと言う。「ハンガリーはこれら東方諸

国と EU 市場の紐帯たり得る」と彼らは考え、これまでの西欧及びアメリカ一辺倒から東

方世界と西欧との中継国になることを提言した。その際、ハンガリー民族との文化的・血

縁的親和性に基づき、中央アジアとの地政学的戦略関係の構築が力説された。(こうした

観点から、またユダヤ人やイスラエルとの関係から、ヨッビクは親イスラムでパレスチナ

支持を標榜する。)この議論は世界第二の経済大国たる中国や、「数年後には世界経済の

中心地になるであろう」(38)東南アジアにまで広がる。フィデスも「経済再建」を論じた 2010

年綱領の第一部で、東方諸国(中国、ロシア、インド、その他のアジア諸国)との通商関

係に言及し、地政学的観点からハンガリーが EU 諸国とアジア地域の中継基地たり得ると

論じる(39)。

東方起源の歴史的・文化的固有性を強調するヨッビクは、競争原理の新自由主義を「一

種の文化的テロ」ないしハンガリー人の民族意識を意図的に破壊する「ソフトな独裁」と

捉え、これに対抗すべく聖イシュトヴァンの王冠や歴史的な旗やトゥルル(アッチラの剣

を掴む伝説の鳥)といった古来の民族的シンボルを法制化するよう求めた(40)。聖イシュト

ヴァンはキリスト教を国教化した初代国王で、その王冠は歴史的版図を象徴した。歴史的

な旗の一つは、カルパチア盆地を征服する前、七部族の首長に選出されたアールパードの

紅白縞の旗(ヨッビクは 2006 年 12 月、これを党旗として採用)で、トゥルルは建国神話

に出てくる霊鳥である。1200 年頃成立した『アノニムスの年代記』によれば、エメシェと

いう娘が夢の中で、トゥルルが舞い降りるのを感じて懐妊する。トゥルルは生まれてくる

男児アーモシュとその子孫(アールパード家)がハンガリーの王になる運命だと告げ、ハ

ンガリー人をカルパチア盆地まで先導した。トゥルル神話はハンガリー人をフン族の末裔

とする。

このような建国神話は、不幸にも右翼・民族派運動に利用された。イムレーディ・ベー

ラ首相が 1939 年 1 月、ハンガリー生活運動のシンボルに『ハンガリー人の事績』(1282-85

年)が伝える不思議な鹿神話を使ったように、トゥルルも戦間期最大の民族派学生団体の

名称(トゥルル同盟、1919 年 8 月結成)となった。ブラハムによれば、1920 年代初め一万

を越す秘密結社や半秘密結社が生まれたが、トゥルル同盟もその一つである(41)。彼らはド

イツ系の大貴族を「最も非ハンガリー的な少数民族」と揶揄し、カトリック聖職者に対し

ては「シュワーベン人的・スロバキア人的性行」を指弾した(42)。

72

ヨッビクの主張がフィデス政権の政策に与えた影響は大きい。彼らは 2006 年及び 2009

年綱領で、ソ連モデルの押し付け憲法(制定当時から「暫定憲法」と目された)を排して、

「聖イシュトヴァンの王冠」の精神に基づく自主憲法を要求している(43)。2010 年の総選挙

で、フィデスとキリスト教民主人民党が、前回より九九議席多い二六三議席(一院制の議

会〔三八六議席〕の三分の二以上)を獲得し、改憲作業に着手した。ハンガリー議会は一

年後の 4 月 18 日、新憲法(名称は基本法)を採択した。新憲法は前文たる「国民の信条」

で、「キリスト教は民族を維持する要である」と謳い、「聖イシュトヴァンの王冠はハン

ガリー国家の連続性とハンガリー民族の統一を具現する」と規定した(44)。議会に鎮座する

王冠が歴史的ハンガリー領土を具現する限り、それは近隣諸国から失地回復のシンボルと

受け取られよう。新憲法はまた総則 D 条で、「ハンガリーは在外同胞の運命に責任を負い、

彼らの生存とコミュニティの発展を助成する。ハンガリーは、彼らがハンガリー人らしさ

を保つ努力を支援し、現地のハンガリー人同士、また彼らとハンガリー本国との協力関係

を促進する」と言明した(45)。

ヨッビクは 2010 年の綱領で、過去の「負の遺産」を清算すべく、彼らの歴史認識に合わ

ない銅像を撤去(コシュート広場のカーロイ・ミハーイ像もその一つ)し、代りにホルテ

ィ、テレキ、プロハースカ、トルマイ、並びにヴァシュ・アルベルトやハンバシュ・ベー

ラらを顕彰する記念碑の建立を提言する一方、道路や公共施設に付された共産党やソ連関

係の名称を変更するよう求めた。また、屈辱的なトリアノン条約を忘れないために、調印

日を国民の記念日にするよう提起し、これを実現した。ルーズベルト広場をセーチェニィ

広場に改称せよとのヨッビクの要望も、2011 年春、フィデスのブダペスト市議団は了承し

た。マルクスやレーニンやクン・ベーラといった名前や彼らの銅像が姿を消し、ブダペス

ト二区のモスクワ広場(ラーコシ時代の 1951 年に命名)は、旧名のセール・カールマン広

場に戻った。三区の公有地にハンバシュ・ベーラの名が、十七区の広場の一つにヴァシュ・

アルベルトの名が冠された。共産党やソ連関係の名称に替えて、オリンピックで金メダル

を獲った選手の名前が道路のあちこちに付けられた。また、チェペル島のある通りは、1956

年革命に参加して逮捕され、十八歳の誕生日前に処刑された少年の名前を取って、マンス

フェルド・ペーテル通りと命名された。八区のトランシルバニア通りも、「プラハの春」

を圧殺したソ連の軍事介入に抗議して、十七歳になる直前(1969 年 1 月)に焼身自殺した

少年の名前から、バウアー・シャーンドル通りに変更された。道路名の改称が、全てフィ

デス政権やヨッビクの指示によるものではなかろうが、フィデスの民族主義運動が誘発し

た歴史修正主義の帰結であることは否定できない。

歴史修正主義は、教育分野においてもかまびすしい。ヨッビクは、戦後六十年間の学校

教育が伝統的な価値観を「プロシア的」ときめつけ、ないがしろにしてきた結果、ハンガ

リーは権威を無視する不健全な国になったと断じる(46)。教育省は 2012 年 6 月、ヴァシュ・

アルベルトをはじめニレー・ヨージェフやシンカ・イシュトヴァンやサボー・デジェーの

著作を推奨する新教育課程を発表した(47)。ユダヤ人団体は反ユダヤ的な彼らの著作を図書

73

リストから除外するよう求めた。教員組合も、サボーやニレーやヴァシュは「保守ではな

く急進的民族派である」ゆえ、彼らの作品を課題図書として学校教育で取り上げるのは適

切でないと抗議した。

ヨッビクはまた、初等学校の上級生には、同胞が住む歴史的ハンガリー領の実態を見て

くる義務がある、と 2010 年の綱領に記した(48)。隣接諸国への修学旅行の必修化は、同年

10 月の議会で採択された。しかし、オルバン政府はヨッビクの提言を換骨奪胎する、と正

義・生活党出身でヨッビク副党首のバルツォー・ゾルタンは不満をもらす(49)。確かにフィ

デスは、ヨッビクをはじめ右翼の主張を取り込むことで、保守・右翼陣営を代表してきた。

だが、今や最大のライバルになった極右のヨッビクと民族主義路線で競合しても、フィデ

スに勝ち目はない。フィデスの右傾化戦略のジレンマである。

2013 年 5 月にはまたしても、ブダペスト二区のある道路をトルマイ通りと命名する旨ブ

ダペスト市議会が議決した。ユダヤ人団体は翌日、トルマイの反ユダヤ的言説を理由に、

この決議を撤回するよう市長に申し入れた。社会党もこれに同調した。市長はユダヤ人団

体や社会党の要求にやむなく同意し、6 月初め市議会に再考を促す一方、科学アカデミー

の意見を求めた。検討課題は懸案の道路名が、「二〇世紀の専制的な政治体制(矢十字党

や共産党独裁の意)の形成・発展に寄与したり、支援した人物」の名前を公道や公共施設

の名称とすることを禁じた、2011 年法律第一八九号(2013 年 1 月 1 日発効)の条項に抵触

しないかどうかであった。科学アカデミー(人文科学研究センター)は検討の結果、「ト

ルマイは確信的な人種主義者で、反ユダヤ主義者やファシストであることを自負しており、

彼女が主宰した婦人国民連合も 1920 年の就学制限法の成立を支持した」ため、たとえ 1937

年に死亡し、その後の矢十字党独裁に直接関与していなくても、上記の法律に抵触すると

回答した(50)。これを受けてブダペスト市議会は同年 9 月、当該決議を撤回した。もっとも、

名称にこだわるヨッビクは、七区にあるテオドル・ヘルツル広場もハンガリー社会に相応

しい名前かどうか議論すべきで、科学アカデミーの見解を問えと反発した。

ヨッビクはなぜ、これほどまで名称変更にこだわるのか。名称変更は 2011 年の春から

夏にかけて急増した。必ずしもイデオロギー色の濃いものばかりではない。フェリヘジュ

(地域名)空港からリスト・フェレンツ国際空港への変更は、その最たるものである。だ

が、モスクワ広場の改称には、ロシア外務省が不快感を表明しているし、ルーズベルト広

場の名称変更には「失望した」との書簡が、親族からブダペスト市長に送られた。米露の

不信を買ってまで断行すべき政策であるとは思えない。

歴史修正主義は新憲法にも見られる。新憲法は同性婚や中絶を禁止するなどキリスト教

(特にカトリック)的、かつ総則 D 条に見られるような民族主義的傾向を特徴とする。し

かし、新憲法の最大の問題点は、1944 年 3 月のドイツ軍による占領以降、議会が自由な選

挙によって選出された 1990 年 5 月まで、ハンガリーは「外国の占領下にあったため、自決

権を喪失していた」との歴史認識でもって(51)、負の過去に対する責任はないと断言したこ

とである。過剰な被害者意識と自己欺瞞以外の何物でもない。新憲法前文のこの記述は、

74

国内外で大きな反響を呼び起こした。ユダヤ人社会にとって、これはホロコーストに対す

るハンガリー国家の責任回避を意味する。否、ユダヤ史の観点からだけではない。歴史家

のウングヴァーリ(Ungváry Krisztián)はじめ四一名の有識者が、「我国の歴史の一部を剥

奪するもの」として新憲法の歴史認識を質した(52)。アメリカの歴史学者イシュトヴァン・

デアークも、上記の四六年間、ハンガリーは「主権国家」でなかったがゆえに、その間の

出来事に責任はないと主張する人々は、ドイツ軍の占領後も摂政がおり、政府や議会が機

能していたことを忘れていると批判した。そして、現在ハンガリーに対して国際世論が辛

辣なのは、「ハンガリー人は一度たりとも過ちを犯したことはない」とヒステリックに無

謬性を強弁するからだ、と指摘する(53)。

これに対して、民主フォーラム政権の外相で、フィデス政権時に駐米大使を務めた歴史

家のイェセンスキー(Jeszenszky Géza)は、「ドイツ軍の占領後、バイチ=ジリンスキや

グラッツがゲシュタポに逮捕され、独立小農業者党のナジ・フェレンツや社会民主党のペ

イエル・カーロイら三千人が人質となり、ベトレンが地下に潜伏した。知事の七割が、ま

た市長の三分の二が入れ替えられ、軍の要職もドイツ系や矢十字党寄りの人物で占められ

たハンガリーを、主権国家と呼べようか」と新憲法の歴史認識を擁護した(54)。他方、イェ

センスキーは、ヨッビク副党首のバルツォーが改憲作業末期の 2011 年 2 月、イスラエルや

内外のユダヤ人団体との関係を修復せんとするフィデス政権とオルバン首相を論難した際

(55)、「ホロコーストを否定する者は、私に言わせれば監獄ではなく、精神病院に行くべき

だ」と批判した(56)。

イェセンスキーには後日談がある。ノルウェー大使在任中の 2012 年末、コルヴィヌス大

学での講義用に書いた英文の教科書に、ロマ人社会への偏見があるとして問題になった。

ロマ系のイアン・ハンコックをはじめ、三名のラフト人権賞受賞者が糾弾したのは、「ロ

マ人社会に精神障害者が多いのは、近親婚や親族間の性交渉を許容する文化のせいだ」と

の記述である(57)。同公開状は、イェセンスキーの見地はハンガリー社会全体が持つ反ロマ

的偏見*(ii)の反映であると評していた(58)。公開状に署名した一人は、フィデス創設メンバー

のモルナール・ペーテルである。彼は 1989 年、共産党の人権抑圧と戦うフィデスの代表と

してラフト人権賞を受賞した。しかし、その後フィデスが右傾化したため、フォドルらと

共に離党し、自由民主連盟に移った。

*(ii) 上記ラフト人権賞受賞者への反駁であろう。フィデス創設メンバーでジャーナリスト

のバイェル・ジョルトは、2013 年 1 月 5 日付の日刊紙『マジャール・ヒールラップ』

に、「ジプシーの大半は、人間と共生できない動物だ。連中は極めて動物的な行動をと

る。人を見れば発情し、抵抗されると殺してしまう。[中略]こんな連中は、この世に

存在してはならない。手段を選ばず、即刻始末(megold)すべきだ」と書き、物議を醸

した。その際、彼はナチの最終解決(ハンガリー語で végső megoldás)を連想させる単

語を使っている。同紙はこのようなコラムを掲載したとして、メディア評議会から二五

75

万フォリントの罰金を科された。

シフ=バイェル論争

バイェルは上記のコラムを発表する二年前、すなわち 2011 年 1 月、フィレンツェ在住の

ピアニスト、シフ・アンドラーシュに対して反ユダヤ感情を爆発させた。論争のきっかけ

は、『ワシントン・ポスト』の論説「ハンガリーのプーチン化」(2010 年 12 月 26 日)に

共鳴したシフの投稿である。

『ワシントン・ポスト』の論説は、オルバン政権を「ポピュリストで権力に飢えた」集

団と規定し、彼らの権威主義に都合の良いメディア規制法の導入に不快感を示した(59)。シ

フは、人種主義やロマ人に対する差別、反ユダヤ主義や排外主義の兆候が著しいハンガリ

ーに、予定されている EU 議長国の資格があるだろうかと問う。そして、EU やアメリカが、

ヨーロッパ共通の価値観をハンガリーに尊重させるよう、指導しなければならないと結ん

だ(60)。

バイェルは、シフの投稿が掲載された三日後、「同じ悪臭がする」と題するコラムを『マ

ジャール・ヒールラップ』に発表した。彼はトルマイにならって、シフを亡命左翼の「知

的・精神的親戚だ」と断じ(61)、シフには亡命左翼と「同じ悪臭がする」と生理的な嫌悪感

を隠さない。同コラムの大部分は、1919 年のソビエト共和国における赤色テロと、共和国

崩壊後の指導部の亡命に割かれている。西欧諸国は、反革命期の白色テロに関する亡命左

翼の主張を鵜呑みにして、ハンガリーを非難するとバイェルは言う(62)。本稿に登場する人

物に限っても、クンフィとローナイが最大の売国奴と名指しされている。クンに至っては

言わずもがなである。それでは、これら亡命左翼とシフがどのように関連するのか。バイ

ェルら民族派の論者にとって許せないのは、両者とも外国で母国を批判することである。

この文脈で、コンラード・ジェルジやダロシュ・ジェルジといった、国外で活躍する知識

人の「反ハンガリー的」言動が、民族派の神経を逆撫でする。

結語

最後に、現代ハンガリー・ポピュリズムの危うさを論じて結語とする。

フィデス政権は、地域経済を活性化し「十年間で百万人の雇用を創出する」(2010 年選

挙綱領)ため、2012 年 1 月、「ダラーニィ・イグナーツ計画」なる地域振興策を打ち出し

た。地方開発省でオルバン首相は、同計画は農村地域の生活水準を向上させるもの、とり

わけ中小規模の農業者に利益をもたらすであろうと語った。加えて、ハンガリーの大地は

都会に劣らぬ快適な生活を保障し、安心して飲める水や安全な食材を我々に与えてくれる。

劣悪な輸入食品ではなく、安全な国産品を享受することこそ、独立国の国民の権利である

とした。

ところが、上記計画を起草したアーンジャン・ヨージェフ副大臣は、計画が発表された

三日後に辞意を表明した。メディアは背景に、小規模農業者寄りのアーンジャンと大規模

76

農場との紛争を避けたい当局との対立があったと分析し、ダラーニィ計画の実効性に疑問

を呈している。アーンジャンは同年 4 月 27 日のインタビューで、ハンガリー農業は投機的

な大規模経営グループの寡占状態にあるが、ヨーロッパ農業の基本は三十から三五ヘクタ

ール(五十から六十ホルド)の家族経営であると持論を展開した。小規模な家族経営が大規

模経営と競合できるだろうかとの質問に、彼はオーストリアにおける家族経営の協同組合

を紹介し、これがヨーロッパ方式であって現状のハンガリー農業は南米方式だと批判する。

アーンジャンによれば、ハンガリー西部の地価はオーストリア(ブルゲンラント)の五分

の一、ハンガリー東部に至っては五十分の一であるため(63)、ハンガリーの農地が外国人の

手に渡るのではないかと危惧する向きがあるが、農地に関する法律で「外国人とは EU 域

外の市民を指すため、五億の EU 市民はハンガリー人と同じ条件でハンガリーの農地を購

入できる。」家族経営の強化を目的とする新戦略からすれば、「外国人の農地購入よりも

ハンガリー国内の投機的な経営グループの方が問題だ」と、彼は 2013 年 6 月 21 日のイン

タビューで答えた(64)。それでもヨッビクは、2014 年綱領の第一章で、農産物の大半を輸出

し、加工品の一部を国内消費のために輸入するハンガリー農業の現状は、政治的には「植

民地化」の第一歩だと煽る(65)。小見出しの「奴隷の運命」といい、政治的「植民地化」と

いう文言といい、ヨッビクはあまりにも言葉をもてあそび過ぎる。

東方志向に関して言えば、ヨッビクもフィデスも東方諸国と EU 市場の中継地たらんと

する。だが、それはセーチェニィが民族的罪と呼ぶ「バラ色のアジア的夢想」に終らない

だろうか。「我々は蜃気楼を追わず、現在の困難な状況から始めなければならない」と、

オルバンは 2010 年綱領の冒頭で言明しているが。中国・インド・ロシアは、今世紀の世界

経済を主導すると目されるブリックスの内の三ヵ国である。BRICS(ブラジル・ロシア・

インド・中国の四ヵ国に、2011 年 4 月、南アフリカが参加)は 2050 年までに、アメリカ・

日本・ドイツなど主要七ヵ国(G7)をしのぐ経済規模になると予測されている。世界人口

の四割強が集中する巨大な消費市場である。地政学的優位性だけで世界経済は動くまい。

地政学的観点だけなら、他の国の可能性だってある。更に言えば、経済的な合理性や安全

性のない冒険主義の国に、国際的な信用は集まらない。第一次大戦後、社共が合同してソ

ビエト共和国を樹立する際、社会民主党幹部のガルバイ・シャーンドルは、「我々は西か

ら得られなかったものを東から手に入れるため、前進しなければならない」と語った(66)。

ポピュリスト政党の東方志向が、困難なハンガリー経済からの「前方への逃走」でないと

言い切れようか。

他方、ヨッビクとフィデスの違いは、例えば治安維持に関して前者は憲兵隊の復活を要

求し、後者は刑法の厳罰化と警察力の強化を説く。こうした各論の相違は少なくないが、

教育に対する両者の姿勢の違いが最も象徴的である。ヨッビクは、戦後教育が伝統的な価

値観をないがしろにした結果、ハンガリーは不健全な国になったと嘆じ、宗教教育の必要

性を強調する(67)。ヨッビクの復古主義的な教育観に対して、フィデスは「西欧の高い規範

と経済の期待に応える教育制度を創出する」と未来志向である(68)。

77

もっとも、ヨッビクの宗教教育待望論とは裏腹に、カトリック教会はホームページで、

「右翼運動の中に潜む新異教主義」を強く非難する。すなわち、「キリスト教と東方世界

の諸原理」を融合させた民族派が、「キリスト教原理と異教時代のハンガリー人の信仰は

調和し得る」と語り、「聖母マリアは古代ハンガリー人と近い血縁関係にあった」と吹聴

していることに対してである。ハンガリー人はシュメール起源で、イエスはハンガリー人

の血を引くといった、かつて矢十字党の指導者サーラシ・フェレンツが唱えたフンガリズ

ム(トゥラニズムの変種)を想起してのことであろう。

ヨッビクは 2010 年 12 月の総会でトゥラニズムを党是とした。それは本稿の文脈で言え

ば、「ニューカマーの流入によるハンガリー民族の文化変容や彼らの植民地主義、あるい

は虚偽的なアウスグライヒのせいでハンガリーは弱くなった」と憤慨するセクフューやネ

ーメトやビボー、あるいは「共産主義によって生命力が削がれた」と悲嘆するチョーリの

後継者として、「戦後教育で不健全化した」ハンガリー人を東方回帰させて「強いハンガ

リー」を取り戻すためである。すなわち、クレベルスベルグが次世代に託した、新民族主

義の最終目標である。この点はフィデスも共有している。

だが、ヨッビクが提案した「トゥラン諸民族を祝賀する日」の制定にフィデス政権と社

会党は反対した。これに対して、ヨッビク党首のヴォナ・ガーボルは、「ハンガリー語の

フィン・ウゴル語説には科学的論拠がないが、トゥラン諸民族との血縁関係は次第に認知

されつつある」と反論し、「我々は共にアッチラの末裔だ」と 2013 年 4 月 15 日、同党の

ホームページに書いた。2014 年綱領第三章の「文化政策」では、同党の東方志向を「ユー

ラシア主義」と呼んだ(69)。それは多分に、ロシアのユーラシア主義、すなわち反西欧主義

と呼応する。異教主義の強い右翼運動やトゥラニズムを党是とするヨッビクは、カトリッ

ク教会の戦略的パートナーたるフィデス政権の試金石となるだろう。それは権力奪取のた

め、抑制のきかない民族派を解き放ったフィデスの付けである。フィデス政権がこの「付

け」をどう清算するかが、国際的な信頼回復のバロメーターとなる。ハンガリー史の文脈

で言えば、排外主義を自制したティサ親子やベトレンの先例に立ち返ることこそ、オルバ

ン政権の取るべき道であろう。二〇世紀初頭、都市の知識人も「民族主義的熱狂に飲み込

まれ、クルツ神話に敢然と立ち向かえなかった」とのグラッツの記述は、極めて貴重な歴

史的証言である。

78

あとがき

本稿を構想するに当たっては、拙訳書の著者たちから多くの示唆を得た。『ロシア、中・

東欧ユダヤ民族史』のプレプク女史(Prepuk Anikó)からは、第一に人口移動、すなわち

移民としてのユダヤ人の歴史である。ユダヤ人の「居住の自由」を保障した 1840 年の法律

第二九号は、この著書で知った。第二に、受容の一九世紀と排除の二〇世紀というコンセ

プトである。第一次大戦が民族主義と反ユダヤ主義を助長したことは良く知られているが、

これはハンガリーに限ったことではない。だが、ハンガリーの場合、これに国家の縮小と

大量の難民が加わる。

『ホロコーストと国家の略奪』のツヴァイグ氏(Ronald W. Zweig)からは、ともすれば

肉体的抹殺のみを想起しがちなホロコーストのもう一方の側面、すなわち公権力による略

奪の実態である。ハンガリーでは第一次大戦直後から、ユダヤ資産略奪の思想が芽生えた

ようだ。覚醒ハンガリー人連合の大会決議で、ユダヤ人の所有する食糧と燃料を接収する

よう提言したカトリック司祭を思い出してほしい。本稿では、それらを総称してセゲド思

想、あるいは難民のルサンチマンと言う。第一次ユダヤ法の制定に反対したバルトークや

コダーイら六一名の文化人、また第二次大戦末期のベトレンや大戦後のビボーは、ユダヤ

人の地位と財産を奪うことで幸福を得ようとするセゲド思想を非難した。

『ハンガリー西欧幻想の罠』のフランク氏(Frank Tibor)からは、戦間期のイデオロー

グとしての、あるいはベトレン派としてのセクフューの活動や、ホルティの役割について

知識を得た。また、ヤーシやクレベルスベルグやチョーリの民族論に関する氏の考察「二

〇世紀ハンガリーの民族、民族的少数派、及び民族主義」には大いに触発された。

更に、家田修氏の論文「ハンガリー『近代』における『農業危機』と農業政策」からは、

世紀転換期の農本主義を学んだ。とりわけ、東方ユダヤ人に対する農業者同盟のあけすけ

な表現は、刺激的であった。メーレイ・ジュラの政党綱領集で、これが農業者同盟の綱領

に明記されていることを「発見」したのが、新保守主義への関心の始まりである。しかし、

サボー・ミクローシュの遺著『新保守主義と右翼急進主義』-ブダペストの旧友親子(Fejős

Csaba, Fejős Gergely)が手配してくれた-がなければ、新保守主義の文脈で現在のポピュ

リズムを論じることは出来なかった。加えて、「ハンガリーではセクフュー研究の多くが、

ユダヤ人との関係に言及していない」というカツブルグ氏(Nathaniel Katzburg)の指摘(拙

訳「ハンガリー・ユダヤ史研究の問題点」)が、『三世代』研究の原動力になった。

資料面では、桑名映子氏から『二〇世紀』誌の「ユダヤ人問題アンケート」を、また丸

山珪一氏からは長年にわたり多くのハンガリー語文献をちょうだいした。チェレシュニェ

ーシ・ラースロー氏(Cseresnyési László)には帰国時に、カラーディ論文「ハンガリーは

如何にしてハンガリー語使用国になったか」のコピーをお願いした。セクフューの『革命

後』は、当時大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)の学生であった岩﨑恒平氏のブダペ

79

スト土産である。これら諸賢のご厚意に感謝の意を表したい。

なお、終章ではネット配信された文献を多数利用した。フィデスやヨッビクの一連の綱

領、また新憲法や新異教主義を批判するカトリック教会のホームページ、その他ハンガリ

ー政治の現状を分析した論文がなければ、終章は書けなかった。(引用したネット文献は、

現時点で機能していることを確認した。)グリュンヴァルトの『上ハンガリー』(1878 年)

やミクサートの小説『だて男たち』(1897 年)、あるいはバルタの『ハザールの大地にて』

(1901 年)やアーゴシュトンの『ユダヤ人の針路』(1917 年)も、ネット上で配信されて

いるものを読んだ。

最後になったが、留学時に師事した歴史学研究所のナジ・ジュジャ女史(L. Nagy Zsuzsa

後年デブレツェン大学教授)に本稿を捧げる。筆者は二〇世紀初頭のブダペストの政治文

化を理解する上で、「ハンガリー学としてのユダヤ学」の必要性を痛感した。ナジ・ジュ

ジャ先生には、帰国後もこうした分野の文献をご教示いただいた。筆者のハンガリー学の

原点である。

2015 年 8 月 29 日

寺尾信昭

80

はじめに

(1) Johan G. Herder, Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit (Wiesbaden: R. Löwit,

1985), p.429.(2) Vera Ranki, The politics of inclusion and exclusion. Jews and nationalism in Hungary (New

York / London: Holmes & Meier, 1999), p.116.(3) Karády Viktor, "Egyenlőtlen elmagyarosodás avagy hogyan vált Magyarország magyar nyelvű

országgá"[ハンガリーは如何にしてハンガリー語使用国になったか]Századvég (no.2, 1990),

p.5.(4) Hanák Péter ed., Magyarország története 1890-1918[ハンガリー史第七巻](Budapest:

Akadémiai Kiadó, 1978), p.944-946.(5) Szekfű Gyula, Három nemzedék: egy hanyatló kor története [三世代:ある没落時代の歴史]

(Budapest: "Élet" Irodalmi és Nyomda R. T. Kiadása, 1920). 増補版の復刻版 Szekfű Gyula,

Három nemzedék és ami utána következik[三世代とその後](Budapest: Maecenas, 1989). 以

下、Szekfű, Három nemzedék [三世代] 初版、第二版、復刻版と略す。

81

第一章 ハンガリーの近代化とユダヤ人

(1) 1840 年法律第二九号(A zsidókról[ユダヤ人について])。Gonda László, A zsidóság

Magyarországon 1526-1946[ハンガリーにおけるユダヤ人](Budapest: Századvég Kiadó,

1992), pp.269-270.(2) Ujvári Péter ed., Magyar zsidó lexikon[ユダヤ・レキシコン](Budapest: A Magyar Zsidó

Lexikon Kiadása, 1929), pp.126-127.(3) 1867 年法律第一七号(Az izraeliták egyenjogúságáról polgári és politikai jogok tekintetében

[ユダヤ教徒の市民的・政治的平等性について])。

(4) Robert A. Kann, "Hungarian Jewry during Austria-Hungary's constitutional period (1867-

1918)", Jewish Social Studies (vol.7, no.4, 1945), p.380.(5) Lucy S. Dawidowicz, The golden tradition: Jewish life and thought in Eastern Europe (New

York, Syracuse: Syracuse University Press, 1996), pp.27-28. Livia Elvira Bitton, A decade of

Zionism in Hungary, the formative years—the post World War I period: 1918-1928(ニューヨ

ーク大学の未公刊学位論文、1968 年)p.110.(6) Venetianer Lajos, A magyar zsidóság története. Különös tekintettel gazdasági és művelődési

fejlődésére a XIX. században[経済及び文化の発展から見た一九世紀ハンガリーのユダヤ人

史](Budapest: Könyvértékesítő Vállalat, 1986. 初版は 1922 年), p.318.(7) Hillel Levine, Economic origins of antisemitism. Poland and its Jews in the early modern period

(New Haven / London: Yale University Press, 1991), pp.140-143.(8) Michael K. Silber, "A Jewish minority in a backward economy: an introduction", Michael K.

Silber ed., Jews in the Hungarian economy 1760-1945. Studies dedicated to Moshe Carmilly-

Weinberger on his eightieth birthday (Jerusalem: The Magnes Press, 1992), p.13.(9) Venetianer, op. cit., p.483.(10) Hóman Bálint・Szekfű Gyula, Magyar történet, vol.5 [ハンガリー史第五巻] (Budapest: Királyi

Magyar Egyetemi Nyomda, 1936), p.250.(11) Andrew C. Janos, "The decline of oligarchy. Bureaucratic and mass politics in the age of

dualism (1867-1918)", Andrew C. Janos・William B. Slottman eds., Revolution in perspective.

Essays on the Hungarian Soviet Republic of 1919 (Berkeley, Los Angeles: University of

California, 1971), p.36.(12) Romsics Ignác, Magyarország története a XX. században[二〇世紀のハンガリー史]

(Budapest: Osiris Kiadó, 2000), p.73.(13) John Lukacs, Budapest, 1900. A historical portrait of a city and its culture (New York:

Weidenfeld & Nicolson, 1988), pp.35-36. 早稲田みか訳『ブダペストの世紀末』(白水社、

1991 年)53-54 頁。

(14) George Deak, "The search for an urban alliance. The politics of the National Association of

82

Hungarian Industrialists[GyOSz]before the First World War", Silber ed., op. cit., p.211.(15) William O. McCagg Jr., Jewish nobles and geniuses in modern Hungary (Boulder: East

European Monographs, 1986), p.36.(16) István Deák, "The Holocaust in Hungary", The Hungarian Quarterly (vol.45, no.176, 2004), pp.

53-54.(17) Ibid., p.68, n.8.(18) McCagg, op. cit., pp.55-56.(19) Raphael Patai, The Jews of Hungary: history, culture, psychology (Detroit: Wayne State

University Press, 1996), pp.378-379.(20) Lukacs, op. cit., p.59. 早稲田訳『ブダペストの世紀末』80-81 頁。

(21) Zsuzsa L. Nagy, The liberal opposition in Hungary 1919-1945 (Budapest: Akadémiai Kiadó,

1983), p.12.(22) Csergő Hugó・Balassa József eds., Vázsonyi Vilmos beszédei és írásai[ヴァージョニ演説・著

作集](Budapest: Az Országos Vázsonyi-Emlékbizottság Kiadása, 1927), vol.1, pp.155-156.(23) McCagg, op. cit., p.200.(24) George Barany, "‘Magyar Jew or Jewish Magyar?’ Reflection on the question of assimilation",

Béla Vágó・George L. Mosse eds., Jews and non-Jews in Eastern Europe 1918-1945

(Jerusalem: Israel Universities Press, 1974), p.61.(25) Kornfeld Móric, Trianontól Trianonig: tanulmányok, dokumentumok[論説・資料集](Budapest:

Corvina Kiadó, 2006), p.188.(26) Romsics, op. cit., p.52. Ignác Romsics, Hungary in the twentieth century (Budapest:

Corvina-Osiris Kiadó, 1999), p.42.(27) Andrew C. Janos, Hungary: 1867-1939. A study of social change and the political process(プ

リンストン大学の未公刊学位論文、1961 年)pp.168-169, fn.67.(28) William O. McCagg, Jr., "Hungary's ‘feudalized’ bourgeoisie", Journal of Modern History

(vol.44, no.1, 1972), p.74.(29) Szabolcsi Lajos, Két emberöltő. Az Egyenlőség évtizedei 1881-1931[『平等』紙の五十年]

(Budapest: MTA Judaisztikai Kutatócsoport, 1993), pp.201-202.(30) R. Patai, op. cit., p.368.(31) Ezra Mendelsohn, The Jews of East Central Europe between the World Wars (Bloomington:

Indiana University Press, 1987), p.101. Janos, loc. cit.(32) Thomas Karfunkel, "The impact of Trianon on the Jews of Hungary", Béla K. Király・Peter

Pastor・Ivan Sanders eds., Essays on World War I: Total war and peacemaking, a case study on

Trianon (New York: Brooklyn College Press, 1982), p.468.(33) Andrew C. Janos, The politics of backwardness in Hungary, 1825-1945 (New Jersey: Princeton

University Press, 1982), p.223. Ujvári ed., op. cit., pp.153, 553.

83

トリアノン・ハンガリー部のユダヤ人人口は、Randolph L. Braham, The politics of

genocide. The Holocaust in Hungary (New York: Columbia University Press, 1994), vol.1,

p.28, table 1.3 を参照。

(34) Szabadság[1900 年 10 月 23 日]Ady Endre, "A zsidó gyerekek bűne"[ユダヤ人子弟の罪]

Ady Endre összes művei[アディ・エンドレ全集]CD-ROM (Budapest: Arcanum Adatbázis Kft.,

1999), összes prózai művei[散文集]1-490.(35) György Lengyel, "The ethnic composition of the economic elite in Hungary in the interwar

period", Yehuda Don・Victor Karady eds., A social and economic history of Central European

Jewry (New Brunswick / London: Transaction Publishers, 1990), p.236.

84

第二章 ジェントリ国家と新保守主義

(1) Peter I. Hidas, The metamorphosis of a social class in Hungary during the reign of young Franz

Joseph (Boulder: East European Quarterly, 1977), pp.64-65.(2) Berend T. Iván・Szuhay Miklós, A tőkés gazdaság története Magyarországon 1848-1944[ハン

ガリーの資本主義経済史](Budapest: Kossuth Könyvkiadó / Közgazdasági és Jogi Könyvkiadó,

1978), p.141. Berend T. Iván, Válságos évtizedek. Közép- és Kelet-Európa a két világháború

között[戦間期中・東欧の危機の時代](Budapest: Gondolat, 1983), p.37. Iván T. Berend,

Decades of crisis. Central and Eastern Europe before World War II (Berkeley, Los Angeles /

London: University of California Press, 1998), p.27.(3) István I. Mócsy, The effect of World War I. The uprooted: Hungarian refugees and their impact

on Hungary's domestic politics, 1918-1921 (New York: Brooklyn College Press, 1983), p.73.(4) Romsics, Magyarország története a XX. században[二〇世紀のハンガリー史]p.72; Hungary in

the twentieth century, p.57.(5) McCagg, Jewish nobles and geniuses in modern Hungary, p.36.(6) 1896 年、ラコフスキ・イシュトヴァン(カトリック人民党)の衆議院での証言によれば、

一四一名の自由党員が鉄道・運輸・銀行・工業部門で一七〇の役職に就いていた。Janos,

"The decline of oligarchy", p.22.(7) G. Deak, "The search for an urban alliance", p.211.(8) Iván T. Berend・György Ránki, Economic development in East-Central Europe in the 19th and

20th centuries (New York / London: Columbia University Press, 1974), p.164. 南塚信吾監訳

『東欧経済史』(中央大学出版部、1978 年)202-203 頁。

(9) Kerék Mihály, A magyar földkérdés[ハンガリーの土地問題](Budapest: Mefhosz Könyvkiadó,

1939), p.41.(10) Szabó Miklós, Az újkonzervativizmus és a jobboldali radikalizmus története (1867-1918)[新保

守主義と右翼急進主義の歴史](Budapest: Új Mandátum, 2003), p.276, fn.478.(11) "A zsidókérdés Magyarországon: a Huszadik Század körkérdése"[ユダヤ人問題アンケート]

Huszadik Század (vol.18, no.2, 1917), p.64.(12) Hanák ed., Magyarország története 1890-1918[ハンガリー史第七巻]p.945.(13) Mária M. Kovács, Liberal professions and illiberal politics: Hungary from the Habsburgs to the

Holocaust (New York / Oxford: Oxford University Press, 1994), pp.27-28.(14) Daniele Albertazzi・Duncan McDonnell, "The sceptre and the spectre", Daniele Albertazzi・

Duncan McDonnell eds., Twenty-first century populism. The spectre of Western European

democracy (New York / London: Palgrave Macmillan, 2008), p.3.(15) Péter Hanák, "The anti-capitalist ideology of the populists", Joseph Held ed., Populism in

85

Eastern Europe: racism, nationalism, and society (Boulder: East European Monographs, 1996),

p.154.(16) Mérei Gyula, A magyar polgári pártok programjai (1867-1918)[二重主義体制下の政党綱領

集](Budapest: Akadémiai Kiadó, 1971), p.176.(17) Ibid., p.178.(18) Vörösmarty Mihály, "Szózat"[ハンガリー人に告ぐ]Vörösmarty Mihály összes költeményei

[ヴェレシュマルティ・ミハーイ全詩集](Budapest: Szépirodalmi Könyvkiadó, 1978), vol.1,

pp.291-292.(19) Kerék, op. cit., p.96.(20) Ibid., p.111.(21) Gyurgyák János, A zsidókérdés Magyarországon: politikai eszmetörténet[ハンガリーにおける

ユダヤ人問題:政治思想史](Budapest: Osiris Kiadó, 2001), p.351.(22) Kerék, op. cit., p.117.(23) Mérei, op. cit., pp.177-178.(24) 農本主義については、家田修「ハンガリー『近代』における『農業危機』と農業政策:

中小地主の農本主義と協同組合運動」(広島大学経済論叢第 10 巻第 2 号、第 3 号、第

4 号、第 11 巻第 1 号、第 2・3 号、1986-87 年)から貴重な示唆を受けた。

(25) Ujvári ed., Magyar zsidó lexikon[ユダヤ・レキシコン]p.48.(26) Mérei, op. cit., p.149.(27) Ibid., pp.148-149.(28) Ibid., p.148.(29) Ibid., pp.148-149.(30) Mérei Gyula, Magyar politikai pártprogrammok (1867-1914)[1867-1914 年の政党綱領論]

(Budapest: Ranschburg Gusztáv Könyvkereskedése, 1934), p.167.(31) Ibid.(32) Hanák ed., op. cit., p.179.(33) Litván György, Jászi Oszkár[ヤーシ・オスカル](Budapest: Osiris Kiadó, 2003), p.36.(34) M. Kovács, op. cit., pp.34-35.(35) Nagyváradi Napló[1902 年 4 月 13 日]Ady Endre, "Vázsonyi Vilmos Nagyváradon"[ナジ

ヴァーラドのヴァージョニ]Ady Endre összes művei: összes prózai művei[散文集]3-29.(36) Litván, op. cit., pp.36-37.(37) Nagyváradi Napló[1903 年 1 月 23 日]Ady Endre, "Prohászka és vidéke"[プロハースカと

地方の支持基盤]Ady, op. cit., összes prózai művei[散文集]4-12.(38) Nagyváradi Napló[1903 年 5 月 29 日]Ady Endre, "Merénylet a nagyváradi jogakadémián"

[ナジヴァーラド法科学院の企て]ibid., összes prózai művei[散文集]4-56.(39) Hanák ed., op. cit., p.457.

86

(40) カトリック人民党機関紙 Alkotmány[1918 年 3 月 12 日]。Bihari Péter, Lövészárkok a

hátországban. Középosztály, zsidókérdés, antiszemitizmus az első világháború Magyarországán

[第一次世界大戦時のハンガリーにおける中産階級・ユダヤ人問題・反ユダヤ主義]

(Budapest: Napvilág Kiadó, 2008) の 第 六 章 を 短 縮 し た

http://beszelo.c3.hu/cikkek/antiszemitizmus-az-elso-vilaghaboru-magyarorszagan からの引用。

(41) Rerum Novarum "Rights and duties of capital and labor" 第 三 節及 び 第十 五 節

(http://w2.vatican.va/content/leo_xiii/en/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_15051891_rerum

_novarum.html), pp.1, 5.(42) Mérei, A magyar polgári pártok programjai[二重主義体制下の政党綱領集]pp.165-166.(43) Ibid., p.165.(44) Ibid.(45) Ibid., p.164.(46) Ibid., p.169.(47) Ibid., p.165.(48) Ibid., pp.350-352.(49) Ibid., p.351.(50) Mérei Gyula, A magyar októberi forradalom és a polgári pártok[ハンガリー十月革命と市民

政党](Budapest: Akadémiai Kiadó, 1969), p.188.(51) Mérei, A magyar polgári pártok programjai[二重主義体制下の政党綱領集]pp.174-175.(52) Károlyi Mihály, Egy egész világ ellen[全世界に抗して](München: Verlag für Kulturpolitik,

1923), vol.1, p.44.(53) Mérei, op. cit., p.310.(54) クーリッジ使節団報告(1919 年 1 月 16 日)中のカーロイ談。U. S. Department of State,

Papers relating to the foreign relations of the United States, 1919: The Paris Peace

Conference (Washington: United States Government Printing, 1947), vol.12, p.381.(55) Mérei, A magyar októberi forradalom és a polgári pártok[ハンガリー十月革命と市民政党]

p.195.

ポピュリズムの文脈で言えば、農業党は「高利貸」の条項で「有害な移住者を国外追放

し、高利貸的不当利得者に厳罰を科す」ことを掲げた点が特徴的である。Ibid., p.197.(56) Lukacs, Budapest, 1900, pp.86-87. 早稲田訳『ブダペストの世紀末』115-116 頁。

87

第三章 市民的急進主義

(1) McCagg, Jewish nobles and geniuses in modern Hungary, p.194.(2) Mérei Gyula, Polgári radikalizmus Magyarországon 1900-1919[ハンガリーの市民的急進主

義](Budapest: Karpinszky Aladár könyvnyomdája, 1947), p.14.(3) Ibid., p.24.(4) L. Nagy Zsuzsa, Szabadkőművesség a XX. században[二〇世紀のフリーメイソン](Budapest:

Kossuth Könyvkiadó, 1977), pp.26-27.(5) Lengyel, "The ethnic composition of the economic elite in Hungary", p.241.(6) Szabó, Az újkonzervativizmus és a jobboldali radikalizmus története[新保守主義と右翼急進主

義の歴史]p.165.(7) Fejtő Ferenc, Magyarság zsidóság[ハンガリー人とユダヤ人](Budapest: História・MTA

Történettudományi Intézete, 2000), p.165.(8) Romsics, Magyarország története a XX. században[二〇世紀のハンガリー史]p.75; Hungary in

the twentieth century, p.59.(9) Oszkár Jászi, "Az új Magyarország felé"[新生ハンガリーに向けて]Huszadik Század (vol.8,

no.1, 1907), pp.11-12.(10) Hanák ed., Magyarország története 1890-1918[ハンガリー史第七巻]p.451.(11) R. Patai, The Jews of Hungary, p.375.

ティサ・カールマン政権[1875-90 年]下のユダヤ人書記の比率は、一・八パーセント

に過ぎなかった。György Borsányi, The life of a communist revolutionary, Béla Kun (New

York: Columbia University Press, 1993), p.1. Kubinszky Judith, A politikai antiszemitizmus

Magyarországon 1875-1890[ 1875-90 年の政治的反ユダヤ主義] (Budapest: Kossuth

Könyvkiadó, 1976) からの引用。

(12) Jászi Oszkár, Magyar kálvária magyar föltámadás. A két forradalom értelme, jelentősége és

tanulsága[ハンガリー人のゴルゴタ、ハンガリーの復活:二つの革命の意義と教訓](Wien:

Bécs Magyar Kiadó, 1920). 復刻版は、1969 年のミュンヘン版(München: Aurora Könyvek)

と 1989 年のブダペスト版(Budapest: Magyar Hírlap Könyvek)がある。ミュンヘン版 p.88,

ブダペスト版 p.88. 英語版は Oscar Jászi, Revolution and counter-revolution in Hungary

(New York: Howard Fertig, 1969. 初版は 1924 年), pp.75-76.(13) Ibid., ミュンヘン版 p.156, ブダペスト版 p.160; 英語版 p.189.(14) Oscar Jászi, The dissolution of the Habsburg monarchy (Chicago / London: The University of

Chicago Press, 1971. 初版は 1929 年), p.234.(15) Szabó Ervin, A szocializmus. Szindikalizmus és szociáldemokrácia[社会主義:サンジカリズム

と社会民主主義](Budapest: Az Új Magyarország Részvénytársaság, 1919), p.10.

88

(16) Béla Vágó, "The attitude toward the Jews as a criterion of the left-right concept", Vágó・Mosse

eds., Jews and non-Jews in Eastern Europe, p.32.(17) William O. McCagg Jr., A history of Habsburg Jews, 1670-1918 (Bloomington: Indiana

University Press, 1992), p.195.(18) Hanák Péter, Jászi Oszkár dunai patriotizmusa[ヤーシ・オスカルのドナウ愛国主義]

(Budapest: Magvető Könyvkiadó, 1985), p.10.(19) Ránki György ed., Magyarország Története: 1918-1919, 1919-1945[ハンガリー史第八巻]

(Budapest: Akadémiai Kiadó, 1978), p.786.(20) Jászi Oszkár, Mi a radikalizmus?[急進主義とは何か](Budapest: Országos Polgári Radikális

Párt Kiadása, 1918), pp.17-18.(21) Jászi, Magyar kálvária magyar föltámadás[二つの革命の意義と教訓]ミュンヘン版 p.157,

ブダペスト版 p.160; 英語版 p.189.(22) "Huszadik Század körkérdése"[ユダヤ人問題アンケート]p.100.(23) Gyurgyák, A zsidókérdés Magyarországon[ハンガリーにおけるユダヤ人問題]p.503.(24) Jászi, The dissolution of the Habsburg monarchy, p.233.(25) Arthur J. May, The Hapsburg monarchy 1867-1914 (New York: The Norton Library, 1968),

p.235.(26) Kerék, A magyar földkérdés[ハンガリーの土地問題]p.126. Hanák ed., op. cit., p.435.(27) Mario D. Fenyo, Literature and political change: Budapest, 1908-1918 (Philadelphia: The

American Philosophical Society, 1987), p.19.(28) G. Deak, "The search for an urban alliance", p.215.(29) Fenyo, op. cit., p.20.(30) Karády, "Egyenlőtlen elmagyarosodás avagy hogyan vált Magyarország magyar nyelvű

országgá"[ハンガリーは如何にしてハンガリー語使用国になったか]p.10.(31) McCagg, A history of Habsburg Jews, p.190.(32) May, op. cit., p.243.(33) László Katus, "The status of ethnic minorities in Hungary during the age of dualism

(1867-1918)", Peter I. Hidas ed., Minorities & the law from 1867 to the present (Montreal:

Dawson College Publications, 1987), p.10.(34) グリュンヴァルトはハンガリー語で授業を行なう学校を、「スロバキア人の児童を投

入すれば、ハンガリー人の紳士が出て来る」製造機と名付けた。Grünwald Béla, A

Felvidék: politikai tanulmány[上ハンガリー](Budapest: Ráth Mór, 1878), p.140.(35) Ibid., p.78.(36) Ibid., p.112.(37) Ibid., p.22.(38) Robert W. Seton-Watson, Racial Problems in Hungary (New York: Howard Fertig, 1972. 初版

89

は 1908 年), pp.173, 331-332.(39) Jászi, The dissolution of the Habsburg monarchy, p.325.(40) "Huszadik Század körkérdése"[ユダヤ人問題アンケート]p.139. (41) Jászi, op. cit., p.175.(42) Hajdu Tibor, A magyarországi tanácsköztársaság [ハンガリー・ソビエト共和国] (Budapest:

Kossuth Könyvkiadó, 1969), p.215.(43) Seton-Watson, op. cit., p. 286, fn.499.(44) Szekfű, Három nemzedék [三世代] 初版 p.310. 復刻版 pp.358-359.(45) Hóman・Szekfű, Magyar történet, vol.5 [ハンガリー史第五巻] p.597.(46) Szekfű, op. cit., 初版 p.261. 復刻版 p.297.(47) Jászi, Mi a radikalizmus?[急進主義とは何か]p.13.(48) Richard Edwin Allen, Oscar Jászi and radicalism in Hungary, 1900-1919(コロンビア大学未

公刊学位論文、1972 年)pp.334-335.

十月革命後、急進党は社会民主党と共同で農地改革案を作成したが、そこでヤーシは「不

労所得」たる地代を社会に還元すべく、百パーセントの土地課税を主張するヘンリー・

ジョージの学説を紹介した。ヘンリー・ジョージは、土地を人類の共有財産と見なし、

土地を解放することで不労所得を廃絶できると考えた。マルチノビッチ会員で、急進党

綱領の起草者でもある社会民主党指導部のクンフィはこれを支持し、ヴァルガも「実践

的には唯一可能な解決策である」と評価した。Varga Jenő, Földosztás és földreform

Magyarországon[土地分配と農地改革](Budapest: Népszava, 1919), p.50.(49) Buza Barna,"Az októberi földreform"[十月革命政府の農地改革]Nagy Vince ed., Öt év multán.

A Károlyi korszak előzményei és célja[カーロイ政権の前提条件と目的](Budapest:

Globus-nyomda, 1923), p.43.(50) Fukász György, A magyarországi polgári radikalizmus történetéhez 1900-1918: Jászi Oszkár

ideológiájának bírálata[ヤーシの急進主義批判](Budapest: Gondolat, 1960), p.276.(51) Jászi Oszkár, A nemzetiségi kérdés és Magyarország jövője[民族問題とハンガリーの将来]

(Budapest: Galilei Kör, 1911), p.27.(52) Jászi Oszkár, A monarchia jövője. A dualizmus bukása és a dunai egyesült államok[君主国の将

来:二重主義体制の崩壊とドナウ合衆国] (Budapest: Az Új Magyarország Részvénytársaság,

1918), p.38.(53) Ibid., p.52.(54) Ránki György, "A hit, az illúzió és a politika"[信念・幻想・政策]Valóság (no. 9, 1977), p.62.(55) Béla K. Király, "The Danubian problem in Oscar Jászi's political thought", The New Hungarian

Quarterly (vol.5, no.1-2, 1965), p.124.(56) Réz Mihály,"A nemzeti államok kialakulása és a nemzetiségi kérdes"[国民国家の形成と民族問

題]Magyar Figyelő (no.2, 1912), p.328.

90

(57) Jászi Oszkár, A nemzetiségi kérdés a társadalmi és az egyéni fejlődés szempontjából[社会と個

人の発展から見た民族問題](Budapest: Az Új Magyarország Részvénytársaság, 1919), pp.44,

46.(58) Ibid., pp.39-40, 92-93.(59) Ibid., p.95.(60) Hanák ed., op. cit., p.447.(61) Tisza István, Küzdelem a parlamentarizmusért[議会主義のための闘争](Budapest: Athenaeum,

1904), pp.17-18.(62) Gabor Vermes, István Tisza. The liberal vision and conservative statecraft of a magyar

nationalist (New York: Columbia University Press, 1985), pp.164-165.(63) Ibid., p.166.(64) Ibid. Hegedüs Lóránt, Ady és Tisza[アディとティサ](Budapest: Nyugat, n.d.) からの引用。

(65) Ady Endre, "Jászi Oszkár könyve"[ヤーシの著書]Nyugat (no.10, 1912), Ady Endre összes

művei: összes prózai művei[散文集]10-95.(66) Szekfű, Három nemzedék[三世代]初版 p.314, 復刻版 p.363.(67) Vermes, op. cit., p.173.(68) Bethlen István, Bethlen István gróf beszédei és írásai[ベトレン演説・著作集](Budapest: Génius

Kiadás, 1933), vol.1, p.137.(69) Ibid., p.138.(70) Ibid., pp.141-142.(71) Ibid., vol.2, p.57.(72) Jászi Oszkár, A nemzeti államok kialakulása és a nemzetiségi kérdés[国民国家の形成と民族問

題](Budapest: Grill Károly Könyvkiadóvállalata, 1912), p.383.(73) Szekfű, Három nemzedék [三世代]初版 p.73, fn.1. 復刻版 p.69, fn.1.(74) Jászi, The dissolution of the Habsburg monarchy, p.239, fn.10.(75) Ibid.(76) Jászi, A nemzeti államok kialakulása és a nemzetiségi kérdés[国民国家の形成と民族問題]

pp.512-513.(77) "Huszadik Század körkérdése"[ユダヤ人問題アンケート]p.98.(78) Kende Péter, Az én Magyarországom[私のハンガリー](Budapest: Osiris Kiadó, 1997), p.108.(79) Gyurgyák, A zsidókérdés Magyarországon[ハンガリーにおけるユダヤ人問題]p.489.(80) Jászi, Magyar kálvária magyar föltámadás[二つの革命の意義と教訓]ミュンヘン版 p.127,

ブダペスト版 p.129; 英語版 p.122.(81) Ibid. ミュンヘン版 p.127. ブダペスト版 p.129; 英語版 p.123.(82) Szekfű, op. cit. 復刻版 p.361, fn.1.(83) Gyurgyák, op. cit., p.504.

91

(84) Irene Raab Epstein, Gyula Szekfű: a study in the political basis of Hungarian historiography(イ

ンディアナ大学の未公刊学位論文、1974 年)p.289.(85) Szekfű Gyula, "Az értelmiségiek átállása a felszabadulás idején"[戦後知識人の変容]Csillag

(vol.9, no.8, 1955).(86) Dénes Iván Zoltán, Szekfű Gyula[セクフュー・ジュラ](Budapest: Új Mandátum, 2001), p.140.(87) Ibid., p.138.(88) Ibid., pp.136-137.(89) Ibid., p.140.(90) Németh László, Szekfű Gyula[セクフュー・ジュラ] (Budapest: Bólyai Akadémia, 1940), p.15.(91) Litván György・S. Varga Katalin eds, Bibó István életút dokumentumokban[資料で見るビボ

ー・イシュトヴァンの生涯](Budapest: 1956-os Intézet・Osiris-Századvég, 1995), p.263.(92) Oscar Jászi・John D. Lewis, Against the tyrant. The tradition and theory of tyrannicide (Glencoe,

Illinois: The Falcon's Wing Press, 1957), p.220.

92

第四章 二〇世紀初頭のユダヤ人論

(1) R. Patai, The Jews of Hungary, p.446.(2) Patai József, "Az antiszemitizmus Magyarországon. A galiciaiak és a morál" [ハンガリーにお

ける反ユダヤ主義:東方ユダヤ人と道徳] Múlt és Jövő (vol.8, 1918), p.283.(3) Vermes, István Tisza, p.430.(4) Ágoston Péter, A zsidók útja [ユダヤ人の針路] (Nagyvárad: Társadalomtudományi

Társulat, 1917).(5) Ibid., pp.270, 296.(6) Ibid., p.6.(7) Ibid., pp.6-7.(8) Ibid., pp.8, 16, 296-297.(9) Bartha Miklós, Kazár földön[ハザールの大地にて](Budapest: Stadium Kiado, 1939. 初版は

1901 年), p.89.(10) Ibid., pp.34, 90.(11) "Huszadik Század körkérdése"[ユダヤ人問題アンケート]pp.71-74.(12) Ibid., pp.72, 74-75.(13) Ibid., pp.80-81.(14) Ibid., pp.81-83.(15) Concha Győző, "A gentry"[ジェントリ](1910), Concha Győző, A konzervatív és a liberális

elv: válogatott tanulmányok 1872-1927[コンチャ・ジェーゼー選集](Máriabesnyő—Gödöllő:

Attraktor, 2005), p.152.(16) Ibid., p.153.(17) István I. Mócsy, "Partition of Hungary and the origins of the refugee problem", Király・Pastor・

Sanders eds., Essays on World War I, p.494.(18) Ibid., p.495, table 3.(19) Janos, Hungary: 1867-1939, p.102.(20) Ibid.(21) Kozma Miklós, Az összeomlás 1918-1919[歴史的ハンガリーの崩壊](Budapest: Athenaeum,

1933), p.64.(22) Pölöskei Ferenc・Szakács Kálmán, Földmunkás- és szegényparaszt-mozgalmak

Magyarországon 1848-1948[ハンガリーの農業労働者・貧農運動](Budapest: A

mezőgazdasági és erdészeti dolgozók szakszervezete, 1962), p.506.(23) Hajdu Tibor, Az 1918-as magyarországi demokratikus forradalom[1918 年のハンガリー民主

革命](Budapest: Kossuth Könyvkiadó, 1968), p.98.

93

(24) A tanácsok országos gyűlésének naplója: 1919 június 14-június 23[1919 年 6 月の全国ソビエ

ト大会議事録](Budapest: Athenaeum, 1919), pp.20, 70.(25) Mócsy, The effect of World War I, p.159.(26) Szabó, Az újkonzervativizmus és a jobboldali radikalizmus története[新保守主義と右翼急進主

義の歴史]p.294.(27) トゥラン協会の機関誌 Turán(vol.8, 1921) "A Magyar Turáni Szövetség céljai és

tevékenysége"[トゥラン協会の目的と活動]Janos, The politics of backwardness in Hungary,

p.274.(28) Mócsy, op. cit., p.222, n.34.(29) Braham, The politics of genocide, vol.1, p.20.(30) Romsics Ignác, Ellenforradalom és konszolidáció[反革命と体制固め](Budapest: Gondolat,

1982), pp.23-24.(31) Barany, "‘Magyar Jew or Jewish Magyar?’", p.80.(32) Tormay Cécile, Bujdosó könyv[亡命者の書](Budapest: Gede Testvérek, 2003. 初版は第一巻

が 1920 年、第二巻は 1922 年), vol.1, "Feljegyzések 1918-1919-ből"[共和国革命期の覚え

書]p.40.(33) Ibid., p.38.(34) Ibid., p.12.(35) Ibid., p.77.(36) Ibid., p.23.(37) Ibid., pp.13-14.(38) Ibid., p.55.(39) Ibid., p.113.(40) Ibid., p.112.(41) Ibid., p.113.(42) Ibid., p.144.(43) Ibid.(44) Ibid., vol.2, "A proletárdiktatúra"[プロレタリア独裁]p.415.(45) Ibid., p.352.(46) Ibid., p.353.(47) Mária M. Kovács, "Hungary", Kevin Passmore ed., Women, gender and fascism in Europe

1919-45 (New Brunswick, New Jersey: Rutger University Press, 2003), p.87, n.12.(48) Tormay, op. cit., vol.1, p.195.(49) Ibid., p.217.(50) Ibid., p.195.(51) 同著は『経済及び文化の発展から見た一九世紀ハンガリーのユダヤ人史』と改題して、

94

1986 年に復刊された。

(52) Venetianer, A magyar zsidóság története[一九世紀ハンガリーのユダヤ人史]pp.440, 441.(53) Ibid., p.439.(54) Ibid., pp.330-338.(55) Ibid., p.448.(56) Nathaniel Katzburg, Hungary and the Jews 1920-1943 (Jerusalem: Bar-Ilan University Press,

1981), pp.138, 151. Felsőházi Napló[上院議事録](1935-1939 年)からの引用。

(57) Ujvári ed., Magyar zsidó lexikon, pp.173-174, 174-175, 943-944.(58) Egyenlőség[1919 年 9 月 18 日]Szabolcsi Lajos, "Szózat a kitérőkhöz"[棄教者に告ぐ]

Gyurgyák, A zsidókérdés Magyarországon[ハンガリーにおけるユダヤ人問題]p.237.(59) Ujvári ed., op. cit., p.48.(60) Ibid., p.255.(61) V. Ranki, The politics of inclusion and exclusion, pp.128-129.

95

第五章 セクフューの『三世代』

(1) Dénes, Szekfű Gyula[セクフュー・ジュラ]p.179. Ballagi Aladár, Az igazi Rákóczi[真実のラ

ーコーツィ] (Budapest: Rényi Károly kiadása, 1916) からの引用。

(2) Szabolcsi, Két emberöltő[『平等』紙の五十年]p.161.(3) Pók Attila, A Huszadik Század körének történetfelfogása[二〇世紀グループの歴史観]

(Budapest: Gondolat, 1982), p.388.(4) Szabolcsi, op. cit., pp.161-162.(5) Gratz Gusztáv, A dualizmus kora: Magyarország története 1867-1918[二重主義時代]

(Budapest: Magyar Szemle Társaság, 1934), vol.2, p.58.(6) Németh, Szekfű Gyula[セクフュー・ジュラ]p.5.(7) Szekfű, Három nemzedék [三世代] 初版 p.4. 復刻版 p.6.(8) Gyurgyák, A zsidókérdés Magyarországon[ハンガリーにおけるユダヤ人問題]p.304.(9) Ibid., p.309.(10) Szekfű, op. cit., 第二版序文(1922 年)p.25.(11) Ibid., 初版 p.294, 復刻版 p.336. (12) Hóman・Szekfű, Magyar történet, vol.5 [ハンガリー史第五巻]pp.596-597.(13) Szekfű, op. cit., 初版 p.309. 復刻版 p.358.(14) Romsics, Magyarország története a XX. században[二〇世紀のハンガリー史]p.73.(15) Szekfű, op. cit., 初版 pp.288-289. 復刻版 pp.329-330.(16) Ibid., 初版 p.288. 復刻版 p.329.(17) Ibid., 初版 p.218. 復刻版 p.246.(18) Ibid., 初版 p.220. 復刻版 pp.248-249.(19) Ibid., 初版 p.144. 復刻版 p.155.(20) Ibid., 初版 p. 146. 復刻版 p.158.(21) Ibid., 初版 p.289. 復刻版 p.331.(22) Ibid., 初版 p.289. 復刻版 p.330.(23) Ibid., 初版 pp.289-290. 復刻版 p.331.(24) Ibid., 初版 pp.304-305. 復刻版 pp.348-349.(25) Mérei, A magyar polgári pártok programjai[二重主義体制下の政党綱領集]pp.145-146.(26) Romsics, op. cit., pp.73-74; Hungary in the twentieth century, p.58.(27) Hanák, "The anti-capitalist ideology of the populists", p.150.(28) Szekfű, op. cit., 初版 p.291. 復刻版 p.333.(29) Ibid., 初版 p.220. 復刻版 p.249.(30) Ibid., 初版 p.287. 復刻版 p.328.

96

(31) Ibid., 初版 p.29. 復刻版 pp.18-19.(32) Ibid., 初版 p.219. 復刻版 p.247.(33) Ibid., 初版 p.296. 復刻版 p.339.(34) Ibid., 初版 p.292. 復刻版 p.334.(35) Ibid., 初版 p.299. 復刻版 p.342.(36) Ibid., 初版 pp.297-298. 復刻版 p.341.(37) Ibid., 初版 p.293. 復刻版 p.336.(38) Mikszáth Kálmán, A gavallérok[だて男たち](Budapest: Mercator Stúdió Elektronikus

Könyvkiadó, 2000. 初版は 1897 年), p.11.(39) Tormay, Bujdosó könyv[亡命者の書]vol.1, p.218.(40) Paul Johnson, A history of the Jews (London: Weidenfeld & Nicolson / New York: Harper &

Row, 1987), pp.390-391. 石田友雄 監修『ユダヤ人の歴史』(徳間書店、1999 年)下巻

141 頁参照。

(41) クレベルスベルグのセクフュー宛書簡[1921 年 7 月 23 日]Lackó Miklós, Korszellem és

tudomány 1910-1945[時代精神と学問](Budapest: Gondolat, 1988), p.73.(42) クレベルスベルグのセクフュー宛書簡[1923 年 7 月 7 日]ibid., p.76.(43) コンチャは、民族復興運動が始まる改革期に「既に衰退の萌芽が見られ、自由主義が

これを助長した」という主張には合理的な根拠がないと評した。Concha Győző, "A

konzervatív és a liberális elv"[保守的原理と自由主義原理](1920) Concha,, Válogatott

tanulmányok 1872-1927[コンチャ・ジェーゼー選集]p.217.(44) Szekfű, op. cit., 第二版序文 p.26.(45) Ibid., p.28.(46) Ibid., pp.27-28.(47) Ibid., p.36.(48) Ibid., p.30.(49) Ibid., 初版 p.290. 復刻版 p.332.(50) Ibid., 復刻版 p.444.(51) Association of Awakening Hungarians (Ébredő Magyarok Egyesülete[覚醒ハンガリー人連

合]), Antisemitism in Hungary (Budapest: Bethlen Gábor Society, 1920), p.15.(52) Katzburg, Hungary and the Jews, pp.85-86.(53) Szekfű, op. cit., 復刻版 p.443.(54) Lévai Jenő, Zsidósors Magyarországon[ハンガリーにおけるユダヤ人の運命](Budapest:

Magyar Téka, 1948), pp.19-20.

97

第六章 ベトレン・システム

(1) Bethlen, Bethlen István gróf beszédei és írásai[ベトレン演説・著作集]vol.1, p.161.(2) Ibid., p.162.(3) Ibid., vol.2, p.57.(4) William M. Batkay, Authoritarian politics in a transitional state: István Bethlen and the Unified

Party in Hungary 1919-1926 (Boulder: East European Monographs, 1982), p.17.(5) 1920 年法律第三六号(A földbirtok helyesebb megoszlását szabályozó rendelkezésekről[適正

な土地分与の実施に関する指示])。

(6) Kerék, A magyar földkérdés[ハンガリーの土地問題]pp.177-178.(7) N. Szegvári Katalin, Numerus Clausus rendelkezések az ellenforradalmi Magyarországon[反革

命期ハンガリーの就学制限法](Budapest: Akadémiai Kiadó, 1988), p.86.(8) Karsai László ed., Kirekesztők: antiszemitaírások 1881-1992[排斥者の反ユダヤ文献]

(Budapest: Aura Kiadó, 1992), p.45.(9) Szinai Miklós・Szűcs László, Bethlen István titkos iratai[ベトレン秘録](Budapest: Kossuth

Könyvkiadó, 1972), pp.256-257.(10) M. Kovács, Liberal professions and illiberal politics, p.64 , table 8.(11) Pesti Napló[1928 年 1 月 8 日]Klebelsberg Kunó, "Reálpolitika és neonacionalizmus"[現実

政治と新民族主義]Klebelsberg Kunó, Neonacionalizmus[新民族主義](Budapest: Athenaeum,

1928), pp.129-130.(12) Pesti Napló[1928 年 1 月 1 日]Klebelsberg Kunó, "A magyar neonacionalizmus"[ハンガリ

ーの新民族主義]ibid., pp.120-126.(13) 8 Órai Ujság[1928 年 2 月 5 日]Klebelsberg Kunó, "Új magyar típus"[新しいハンガリー人

像]ibid., p.142.(14) Nemzeti Ujság[1928 年 1 月 29 日]Klebelsberg Kunó, "Neonacionalizmus"[新民族主義]ibid.,

p.135.(15) Klebelsberg, "Reálpolitika és neonacionalizmus"[現実政治と新民族主義]ibid., p.132.(16) Ibid.(17) Ibid., p.131.(18) Németh László, "Sznobok és parasztok"[俗物と農民]Nagy Sz. Péter ed., A népi-urbánus vita

dokumentumai 1932-1947[都会派と農村人民派の論争資料](Budapest: Rakéta Könyvkiadó,

1990), p.58.(19) Ibid., p.57.(20) Gyurgyák, A zsidókérdés Magyarországon[ハンガリーにおけるユダヤ人問題]pp.564-565.(21) Ibid., p.564, fn.46. Németh László, "A magyar élet antinómiái"[ハンガリー生活の対立点]

98

Válasz (no.2, 1934) からの引用。

(22) Németh, Szekfű Gyula[セクフュー・ジュラ]p.64.(23) Ibid., pp.57-58.(24) Ibid., p.62.(25) Szekfű Gyula, "Lírai történetszemlélet"[叙情的歴史観]Magyar Szemle (no.36, 1939), Dénes,

Szekfű Gyula[セクフュー・ジュラ]p.163.(26) Ibid.(27) Szekfű Gyula, "A magyar jellem történetünkben"[歴史におけるハンガリー人の個性]Szekfű

Gyula ed., Mi a magyar?[ハンガリー人とは何か](Budapest: Magyar Szemle Társaság, 1939),

p.493.(28) Ibid., pp.555-556.

99

第七章 ホロコースト

(1) Thomas L. Sakmyster, Hungary′s admiral on horseback. Miklós Horthy, 1918-1944 (Boulder:

East European Monographs, 1994), pp.170-171.(2) Katzburg, Hungary and the Jews, pp.86-87. Karsai László ed., Befogadók: írások az

antiszemitizmus ellen 1882-1993[受容者の親ユダヤ文献](Budapest: Aura Kiadó, 1993), p.126,

fn.(3) Janos, Hungary: 1867-1939, p.190.(4) Berend・Ránki, Economic development in East-Central Europe, p.282. 南塚監訳『東欧経済史』

340 頁。

(5) Karsai ed., op. cit., p.80.(6) Stern Samu, A zsidókérdés Magyarországon[ハンガリーのユダヤ人問題](Budapest: A Pesti

Izraelita Hitközség, 1938), p.5.(7) Ujvári ed., Magyar zsidó lexikon[ユダヤ・レキシコン]pp.509-510.(8) Prepuk Anikó, "A zsidóság a Millenniumon"[建国千年祭期のユダヤ人社会]Századvég 17

(2000/2), p.92.(9) Nathaniel Katzburg, A magyar-zsidó történetírás problémája. Miért nem volt magyar Dubnov,

zsidó Szekfű?[ハンガリー・ユダヤ史研究の問題点]ÉRTESÍTŐ (MTA Judaisztikai

Kutatócsoport, 1995), p.4. 拙訳「ハンガリー・ユダヤ史研究の問題点:なぜハンガリーの

ドゥブノフやユダヤ人のセクフューが出なかったのか?」(大阪外国語大学『ロシア・

東欧研究』第 4 号、2000 年)228 頁。

(10) Szinai Miklós・Szűcs László, Horthy Miklós titkos iratai[ホルティ秘録](Budapest: Kossuth

Könyvkiadó, 1963), p.210. Miklós Szinai・László Szűcs, The confidential paperes of admiral

Horthy (Budapest: Corvina, 1965), p.117.(11) 衆議院議事録(1938 年 5 月 9 日)Karsai ed., op. cit., p.88.(12) 衆議院議事録(1939 年 3 月 13 日)Ibid., p.125.(13) 上院議事録(1939 年 4 月 15 日)Karsai ed., Kirekesztők [排斥者の反ユダヤ文献], p.104.(14) Randolph L. Braham, "The rightists, Horthy, and the Germans: Factors underlying the

destruction of Hungarian Jewry", Vágó・Mosse eds., Jews and non-Jews in Eastern Europe,

pp.151-152, n.1.(15) V. Ranki, The politics of inclusion and exclusion, p.149.(16) I. Deák, "The Holocaust in Hungary", p.65.(17) Erényi Tibor, A zsidók története Magyarországon[ハンガリーにおけるユダヤ人の歴史]

(Budapest: Útmutató, 1996), pp.89-90.(18) Braham, The politics of genocide, vol.2, pp.1194, 1319.

100

(19) Ránki György et al eds., A Wilhelmstrasse és Magyarország. Német diplomáciai iratok

Magyarországról, 1933-1944[ドイツ外務省とハンガリー:戦間期のハンガリーに関するド

イツ外交文書](Budapest: Kossuth Könyvkiadó, 1968), p.737.(20) Karsai ed., Kirekesztők[反ユダヤ文献]p.130. Lévai, Zsidósors Magyarországon[ハンガリ

ーにおけるユダヤ人の運命]p.138.(21) Gratz Gusztáv, A forradalmak kora: Magyarország története 1918-1920[革命時代]

(Budapest: Magyar Szemle Társaság, 1935), pp.254-255.(22) Braham, The politics of genocide, vol.1, pp.549-553.(23) Szinai・Szűcs, op. cit., p.460; pp.309-310.(24) Szekfű Gyula, Forradalom után[革命後](Budapest: Gondolat, 1983), pp.57-58.(25) Ibid., p.58.(26) Ibid., p.59.(27) Ibid., pp.74-75.(28) Szekfű, Három nemzedék [三世代]初版 p.315. 復刻版 p.364.(29) Bibó István, Zsidókérdés Magyarországon 1944 után[1944 年以降のハンガリーにおけるユダ

ヤ人問題](Budapest: Katalizátor Iroda, 1994), p.12. Károly Nagy ed., Democracy, revolution,

self-determination. István Bibó selected writings (New York: Columbia University Press, 1991),

pp.156-157.(30) Bibó, ibid., pp.18-19. Nagy ed., ibid., p.164.(31) Bibó, ibid., pp.19-20. Nagy ed., ibid., pp.164-165.(32) Bibó, ibid., p.31. Nagy ed., ibid., p.177.(33) Bibó, ibid., p.117. Nagy ed., ibid., p.273.(34) Bibó, ibid., p.111. Nagy ed., ibid., p.267.(35) Bibó, ibid., pp.111-112. Nagy ed., ibid.(36) Révai József, Marxizmus népiesség magyarság[マルクス主義・農村人民主義・ハンガリー民

族](Budapest: Szikra Kiadás, 1949), p.6.(37) Ervin Pamlényi ed., A history of Hungary (London / Wellingborough: Collet’s, 1975), p.545.

田代文夫・鹿島正裕訳『ハンガリー史』(恒文社、1980 年)下巻 293 頁。

(38) Steven Béla Várdy, Historical dictionary of Hungary (Lanham, Maryland: Scarecrow Press,

1997), p.240.(39) Steven Béla Várdy, History of the Hungarian nation (Astor Park, Florida: Danubian Press,

1969), p.310.(40) Erényi, op. cit., p.107.

国立公文書館(Magyar Országos Levéltár 276. f. 65/183)の資料を基に、ジェーリ=サボ

ーはユダヤ人の比率を十五パーセントから二十パーセントと算定している。Győri Szabó

Róbert, A kommunista párt és a zsidóság[共産党とユダヤ人](Budapest: Windsor, 1997, 初

101

版は 1995 年), p.189.

終章 二一世紀初頭のポピュリズム

(1) 民主フォーラム機関紙 Magyar Fórum[1992 年 8 月 20 日]Csurka István, "Néhány gondolat

a rendszerváltozás két esztendeje és az MDF új politikai programja kapcsán"[民主フォーラム

の新綱領に関する雑感]Karsai ed., Kirekesztők[反ユダヤ文献]p.191.(2) Dieter Dettke, Hungary's Jobbik Party: the challenge of European ethno-nationalism and the

future of the European project (Warszawa: Center for International Relations, 2013), p.23.(3) Fidesz, "Fidesz - Magyar Polgári Szövetség Alapító levél"[フィデス=市民連合設立趣意書]

(http://archiv.fidesz.hu/index.php?Cikk=10594).(4) András Deák, "Hungarian Dances—The Origins and the Future of Viktor Orbán's Revolution",

Hungarian Institute of International Affairs (November 2012),

(http://www.degruyter.com/view/j/lasr.2013.11.issue-1/v10243-012-0026-z/v10243-012-0026-z

.xml?format=INT), p.149.(5) Fidesz, "Jövőnk: A Fidesz - Magyar Polgári Szövetség Vitairat"[フィデスの 2007 年綱領]

(http://static.fidesz.hu/download/Vitairat2007.pdf), p.18.(6) Ibid.(7) Anita Sobják, "The implications of Hungary's national policy for relations with neighbouring

states", PISM: The Polish Institute of International Affairs (no.32, 2012), p.4, fn.6.(8) Fidesz, "Nemzeti ügyek politika"[フィデスの 2010 年綱領][フィデスの 2010 年綱領]

(http://static.fidesz.hu/download/481/nemzeti_ugyek_politikaja_8481.pdf).(9) A. Deák, op. cit., p.146.(10) Csoóri Sándor, "Nappali hold"[真昼の月]Csoóri Sándor, Nappali hold[真昼の月](Budapest:

Püski, 1991), p.255.(11) Ibid., p.256.(12) Ibid., p.255.(13) Csoóri Sándor, "Mi a magyar, ma?"[今日、ハンガリー人とは何か]ibid., pp.153-154.(14) Ibid., p.151.(15) Ibid., pp.151-152.(16) Ibid., p.149.(17) Ibid.(18) Jobbik, "Alapító nyilatkozat: Jobbik Magyarországért mozgalom"[ヨッビク結党宣言]

(http://jobbik.hu/rovatok/egyeb/alapito_nyilatkozat), p.1.(19) Ibid., pp.2-3, 4.(20) "Hungary unemployment rate 2014" (http://countryeconomy.com/unemployment/hungary).(21) Jobbik, "A Jobbik 2006-os rövid programja" [ ヨ ッ ビ ク の 2006 年 綱 領 ]

102

(http://jobbik.hu/rovatok/egyeb/a_jobbik_2006-os_rovid_ programja), p.1.(22) András Kovács, "Antisemitic prejudice and political antisemitism in present-day Hungary",

Journal for the Study of Antisemitism (vol.4, no.2, 2012), p.459, figure 5.(23) Jamie Bartlett・Jonathan Birdwell・Péter Krekó・Jack Benfield・Gabor Gyori, Populism in

Europe: Hungary (London: Demos, 2012), p.17.(24) Krekó Péter・Juhász Attila・Molnár Csaba, "A szélsőjobboldali iránti társadalmi kereslet

növekedése Magyarországon"[ハンガリーにおける右傾化の社会的背景]Politikatudományi

Szemle (vol.20, no.2, 2011), p.64.(25) Jobbik, "Magyarország a magyaroké! A Jobbik programja a magyar érdek védelmében, a

nemzetek Európája megteremtéséért" [ ヨ ッ ビ ク の 2009 年 綱 領 ]

(http://balatonalmadi.default/files/users/jobbik.hu/sites/Jobbik-program2009EP.pdf), p.39.(26) Jobbik, "Radikális változás. A Jobbik országgyőlési választási programja a nemzeti

önrendelkezésért és a társadalmi igazságosságért" [ ヨ ッ ビ ク の 2010 年 綱 領 ]

(http://jobbik.hu/sites/default/files/jobbik-program2010gy.pdf), pp.14-15, 23.(27) Jobbik, "Kimondjuk, megoldjuk. A Jobbik országgyőlési választási programja a nemzet

felemelkedéséért" [ ヨ ッ ビ ク の 2014 年 綱 領 ]

(http://jobbik.hu/sites/default/files/cikkcsatolmany/kimondjukmegoldjuk2014_netre.pdf), p.62.(28) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]pp.20-21.(29) Jobbik, "A Jobbik 2006-os rövid programja"[ヨッビクの 2006 年綱領]p.3; "Magyarország a

magyaroké!"[ヨッビクの 2009 年綱領]p.46.(30) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]p.74.(31) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]p.75.(32) Jobbik, "A Jobbik 2006-os rövid programja"[ヨッビクの 2006 年綱領]p.2.(33) Dupcsik Csaba, A magyarországi cigányság története: Történelem a cigánykutatások tükrében,

1890-2008[ハンガリー系ロマ人の歴史](Budapest: Osiris Kiado, 2009), pp.51-52.(34) Attila Juház, Péter Krekó, András Zágoni-Bogsch, "Hungary", Radko Hokovský・Jiří Kopal eds.,

Politics and policies of integration in Austria, Hungary, Czechia, Denmark and at the EU level

(Bruno: League of Human Rights / Praha : European Values Think-Tank, 2013), p.242.(35) Karácsony Gergely ・ Róna Dániel, "A Jobbik titka. A szélsőjobb magyarországi

megerősödésének lehetséges okairól"[ヨッビク躍進の謎-右傾化の原因]Politikatudományi

Szemle (vol.19, no.1, 2010), p.55.(36) Népszabadság[1998 年 11 月 14 日]Gyenei Márta, "A ‘stratégiai gyerek’—avagy miért

növekszik nálunk a csecsemő halandóság?" [戦略的児童-我国ではなぜ乳幼児の死亡率が高

いのか].(37) Jobbik, "Kimondjuk, megoldjuk"[ヨッビクの 2014 年綱領]p.31.(38) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]pp.10, 73.

103

(39) Fidesz, "Nemzeti ügyek politika"[フィデスの 2010 年綱領]p.46.(40) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]pp.51-53.(41) Braham, The politics of genocide, vol.1, p.21.(42) Szabó, Az újkonzervativizmus és a jobboldali radikalizmus története[新保守主義と右翼急進主

義の歴史]p.341.(43) Jobbik, "A Jobbik 2006-os rövid programja"[ヨッビクの 2006 年綱領]p.2. "Magyarország a

magyaroké!"[ヨッビクの 2009 年綱領]p.3.(44) "Magyarország alaptörvénye" [ ハ ン ガ リ ー 基 本 法 ] 2011 április 25

(http://www.parlament.hu/irom39/02627/02627.pdf), p.1.(45) Ibid., p.2.(46) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]p.48.(47) "A nemzeti alaptanterv kiadásáról, bevezetéséről és alkalmazásáról"[新教育課程令] 2012

június 4 (http://www.budapestedu.hu/data/cms149320/MK_12_66_NAT.pdf), pp.10671, 10677,

10678.(48) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]p.56.(49) MTI(2012 年 8 月 17 日)配信 "A Jobbik határozottabb fellépést vár a kormánytól"[ヨッビ

ク は 政 府 の 断 固 た る 措 置 を 待 つ ] Népszava online,

(http://nepszava.hu/articles/article.php?id=577831).(50) "Bölcsészettudományi Kutatóközpont: Állásfoglalás Tormay Cécile-ről"[トルマイ・セシルに

関 す る 人 文 科 学 研 究 セ ン タ ー の 見 解 ]

(http://mandiner.hu/cikk/20130904_bolcseszettudomanyi_kutatokozpont_allasfoglalas_tormay_

cecil_rol), p.1.(51) "Magyarország alaptörvénye"[ハンガリー基本法]p.1.(52) Krisztián Ungváry, "The perception of 1944 in the Fidesz-constitution"

(http://www.commartrecovery.org/sites/default/files/1944megítéléseFidesz.pdf).(53) Népszabadság[2011 年 4 月 10 日]Deák István, "Ne ragaszkodjunk a nemzet mindenkori

ártatlanságához" [ハンガリー人の無謬性にこだわるべきではない].(54) Népszabadság[2011 年 5 月 31 日]Jeszenszky Géza, "Az alaptörvény és a magyar történelem

[基本法とハンガリーの歴史].(55) Balczó Zoltán, "Orbán Izraeltól vár oltalmat"[オルバンはイスラエルの援護を待っている]

(http://jobbik.hu/rovatok/rolunk_irtak/ balczo_zoltan_orban_izraeltol_var_oltalmat).(56) Jeszenszky Géza, "Balczó Zoltán antiszemita maszlagjai"[バルツォー・ゾルタンの反ユダヤ

的戯言](http://hvg.hu/velemeny/20110207_ antiszemitizmus_jeszenszky_jobbik), p.1.(57) Peter Molnar, Ian Hancock, Frank Mugisha, "Open letter to Geza Jeszenszky. pdf"

(http://xa.yimg.com/kq/groups/14432579/118602888/name/Open+letter+to+Geza+Jeszenszky.p

df).

104

(58) Ibid.(59) The Washington Post[2010 年 12 月 26 日]"The Putinization of Hungary" (http://

www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/12/26/AR2010122601791/html).(60) The Washington Post[2011 年 1 月 1 日]Andras Schiff, "Hungary's E.U. role questioned"

(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2011/01/01/AR2011010102177.html).(61) Magyar Hírlap[2011 年 1 月 4 日]Bayer Zsolt, "Ugyanaz a bűz"[同じ悪臭がする]

(http://archivum.magyarhirlap.hu/velemeny/ugyanaz_a_buz).(62) Ibid.(63) "Ángyán: Orbánnak üzenem" [ オ ル バ ン 首 相 へ の メ ッ セ ー ジ ]

(http://fn.hir24.hu/nagyinterju/2012/04/27/angyan-orbannak-uzenem/).(64) "Ángyán József: Mindkét oldal maffia" 「 両 陣 営 と も マ フ ィ ア で あ る 」

(http://fn.hir24.hu/interju/2013/06/21/angyan-jozsef-mindket-oldal-maffia/).(65) Jobbik, "Kimondjuk, megoldjuk"[ヨッビクの 2014 年綱領]p.10.(66) Az egység okmányai. A szociáldemokraták és kommunisták egyesülésének előzményei[社共

合同協定](Budapest: Közoktatásügyi Népbiztosság Kiadása, 1919), p.3.(67) Jobbik, "Radikális változás"[ヨッビクの 2010 年綱領]p.49.(68) Fidesz, "Nemzeti ügyek politika"[フィデスの 2010 年綱領]pp.21-22.(69) Jobbik, "Kimondjuk, megoldjuk"[ヨッビクの 2014 年綱領]p.62.

105

人名解説

[ア行]

* アイヒマン、アドルフ(Adolf Eichmann)[1906-1962 年]:親衛隊中佐。ゲシュタポ

のユダヤ人移送課長。1960 年、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの情報機関に捕捉

され、死刑に処された。

* アーゴシュトン・ペーテル(Ágoston Péter)[1874-1925 年]:法学者。ソビエト共和

国で外務人民委員と司法人民委員を務めた。ソビエト共和国崩壊後に死刑判決を受け

たが、1922 年、ソ連との捕虜交換でモスクワに亡命。パリで死去。

* アッチラ(Attila)[?-453 年]:434 年から 453 年までフン族を率いた大首長。この

間、東西はウラル川からライン川まで、南北はドナウ川からバルト海までフン帝国は

拡大した。

* アディ・エンドレ(Ady Endre)[1877-1919 年]:新聞記者・印象派の詩人。排外的

民族主義と教権主義を嫌った。

* アポニィ・アルベルト(Apponyi Albert)[1846-1933 年]:伯爵。アウスグライヒ反

対派の指導者。1892 年、国民党を結成。1910 年、独立党に入党。

* アーモシュ(Ámos)[819-895 年]:カルパチア盆地征服前の部族連合の首長。

* アラニュ・ヤーノシュ(Arany János)[1817-1882 年]:トランシルバニアの没落貴

族出身の叙事詩人。1848-49 年革命に参加。

* アールパード(Árpád)[845/55-907 年]:アーモシュの子で、ハンガリーを四百年以

上支配したアールパード王朝の建設者。

* アレクサンドル二世(Aleksandr II, Romanov)[1818-1881 年]:ロシア皇帝〔在位 1855-81

年〕。1861 年、農奴解放令を発布。上からの近代化に貢献する一方、これに反対する

革命勢力を弾圧。1881 年、ナロードニキのテロリストに暗殺された。

* アーンジャン・ヨージェフ(Ángyán József)[1952 年-]:農政家・大学教授。2010-12

年、地方開発省副大臣。

* アンタル・ヨージェフ(Antall József)[1932-1993 年]:歴史学教師・政治家。民主

フォーラム党首。1990-93 年、首相。同名の父親は第二次大戦中、難民対策の責任者

としてハンガリー系及びポーランド系ユダヤ人の救助に当たった。

* アンドラーシ・ジュラ一世(Andrássy Gyula)[1823-1890 年]:伯爵。アウスグライ

ヒ推進派の重鎮。初代ハンガリー首相(1867-71 年)や共通外相(1871-79 年)を歴任。

* アンドラーシ・ジュラ二世(Andrássy Gyula II)[1860-1929 年]:伯爵。憲政党(1905-10

年)党首。第一次大戦末期の外相。カーロイ・ミハーイの岳父。ウィーンの反ボルシ

ェヴィキ委員会の指導者。

106

*

* イェセンスキー・ゲーザ(Jeszenszky Géza)[1941 年-]:歴史家。民主フォーラム

の創設メンバー。アンタル・ヨージェフは妻の叔父。1990-94 年、外相。1994-98 年、

民主フォーラムの国会議員。1998-2002 年、駐米大使。ノルウェー大使、2011-2014 年。

* イシュトヴァン一世(Árpád István I)[967-1038 年]:アールパード家最後の首長ゲ

ーザの子。キリスト教に改宗して(洗礼名イシュトヴァン)、ハンガリーの初代国王

〔在位 1000-38 年〕になる。異教徒の親族や東部地域における部族長らの反乱を鎮圧。

1083 年、聖人に列せられた。

* イシュトーツィ・ジェーゼー(Istóczy Győző)[1842-1915 年]:弁護士・政治家。1872

年、衆議院議員。一九世紀末の反ユダヤ主義指導者。

* イムレーディ・ベーラ(Imrédy Béla)[1891-1946 年]:1932-35 年、ゲンベシュ内閣

の蔵相。1938-39 年、首相。1944 年、ストーヤイ内閣の経済相。戦犯として処刑され

た。

*

* ウェーバー、マックス(Max Weber)[1864-1920 年]:ドイツの社会学者・経済学者。

西欧近代の根本原理を合理性と仮定し、資本主義の原動力を主としてカルヴァン派の

世俗内禁欲と生活合理化に見た。

* ヴァイス・ベルトルト(Weiss Berthold)[1845-1915 年]:1896 年、衆議院議員。全

国繊維産業連盟の理事長。

* ヴァイス・マンフレード(Weiss Manfréd)[1857-1922 年]:男爵。チェペル・コン

ビナートの社主。1915 年、貴族院議員。

* ヴァシュ・アルベルト(Wass Albert)[1908-1998 年]:伯爵。戦間期トランシルバ

ニアにおけるハンガリー文学界の重鎮。戦後、ルーマニアの人民法廷は戦犯として死

刑を判決。ドイツを経て、1952 年アメリカに亡命。

* ヴァージョニィ・ヴィルモシュ(Vázsonyi Vilmos)[1868-1926 年]:弁護士・政治

家。1900 年、市民民主党を創設し党首に就任。1901 年、衆議院議員。1915-17 年及び

1918 年、司法相。

* ヴァルガ・イェネー(Varga Jenő)[1879-1964 年]:1906 年、社会民主党に入党。1919

年 2 月、ハンガリー共産党に転身。ソビエト共和国崩壊後、ソ連に亡命。1927-47 年、

ソ連科学アカデミー世界経済・政治研究所所長として、コミンテルンの経済分析と経

済政策を担当。

* ヴェケルレ・シャーンドル(Wekerle Sándor)[1848-1921 年]:財政専門家。ハンガ

リーで最初の平民宰相(1892-95 年、1906-10 年、及び 1917-18 年)。

* ヴェネティアネル・ラヨシュ(Venetianer Lajos)[1867-1922 年]:1897 年、ブダペ

スト近郊ウーイペシュトのラビ。1910 年、ラビ養成学院教授。

* ヴェレシュマルティ・ミハーイ(Vörösmarty Mihály)[1800-1855 年]:詩人・劇作

107

家。コシュートの熱烈な支持者。

* ヴォディアネル・シャームエル(Wodianer Sámuel)[1780-1850 年]:男爵・銀行家。

1844 年、一家でキリスト教に改宗。

* ヴォナ・ガーボル(Vona Gábor)[1978 年-]:歴史学教師・政治家。2001-03 年、

フィデスの党員。2003 年、ヨッビクに転身。2006 年以降、ヨッビクの党首。2007-09

年、ハンガリー防衛団 Magyar Gárda の代表。

*

* エステルハージ・ミクローシュ・モーリツ(Esterházy Miklós Móric)[1855-1925 年]:

伯爵。1887-1918 年、貴族院議員。カトリック人民党創設者の一人。

* エックハルト・ティボル(Eckhardt Tibor)[1888-1972 年]:弁護士・衆議院議員。

1923 年、覚醒ハンガリー人連合の議長。人種防衛党の指導者の一人。1932-40 年、独

立小農業者党党首。1941 年、アメリカに亡命。

* エトヴェシュ・ヨージェフ(Eötvös József)[1813-1871 年]:男爵。作家・詩人、政

治家。1848 年及び 1867-71 年、宗教・教育相。普通教育の普及、並びに領内諸民族や

ユダヤ人の平等化に尽力した。

* エンドレ・ラースロー(Endre László)[1895-1946 年]:サーラシ内閣の内務副大臣。

親ナチ派の右翼政治家。

*

* オルバン・ヴィクトル(Orbán Viktor)[1963 年-]:1993-2000 年と 2003 年以降フィ

デスの党首。1998-2002 年及び 2010 年以降、首相。

[カ行]

* カーダール・ヤーノシュ(Kádár János)[1912-1989 年]:1956 年革命の挫折後、社

会主義労働者党の指導者(1956-88 年)。この間、1956-59 年及び 1961-65 年に首相を

歴任。

* カーライ・ミクローシュ(Kállay Miklós)[1887-1967 年]:1942-44 年、首相。1944

年 11 月、マウトハウゼン強制収用所に移送される。

* カール六世(Karl VI, Habsburg)[1685-1740 年]:ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝

〔在位 1711-40 年〕。マリア=テレジアは長女。

* カーロイ四世(IV. Károly, Habsburg)[1887-1922 年]:最後のオーストリア皇帝(カ

ール一世)及びハンガリー国王(カーロイ四世)〔在位 1916-18 年〕。1921 年 3 月と

10 月の復位運動は、ホルティやゲンベシュらによって阻止された。

* カーロイ・シャーンドル(Károlyi Sándor)[1831-1906 年]:伯爵。1881 年、自由党

の衆議院議員。1884 年、アポニィ派に転身。1904 年、独立党に入党。

* カーロイ・ミハーイ(Károlyi Mihály)[1875-1955 年]:伯爵。1918 年 11 月、共和

国政府の首相。1919 年 1 月、大統領に就任。同年 7 月、亡命。

108

* ガラミ・エルネー(Garami Ernő)[1876-1936 年]:社会民主党の指導者。同党機関

紙『ネープサヴァ』の編集長。カーロイ内閣の閣僚。ソビエト共和国期に亡命。

* ガルバイ・シャーンドル(Garbai Sándor)[1879-1947 年]:建設労働者組合の指導者。

社会民主党幹部。ソビエト共和国の革命評議会議長。

*

* クリシュトーフィ・ヨージェフ(Kristóffy József)[1857-1928 年]:1896 年、衆議院

議員。1905 年、普通選挙権の導入を提唱。

* クーリッジ、アーチバルト C.(Coolidge, Archibald Cary)[1866-1928 年]:パリ講和

会議アメリカ代表団の一員。1919 年 3 月、ハンガリーの状況を視察。

* クレベルスベルグ・クノー(Klebelsberg Kunó)[1875-1932 年]:伯爵。ベトレン内

閣の内相、宗教・教育相。

* クレマンソー、ジョルジュ(Georges Clemenceau)[1841-1929 年]:1870 年、左派の

国会議員。ドレフュス事件で進歩的共和派を糾合して急進社会党を結成。1906 年、首

相に就任後、保守派に転身。

* クン・アンドラーシュ(Kun András)[1911-1945 年]:フランシスコ会修道士。1943

年、修道会を離脱。1944 年 3 月、矢十字党に入党。サーラシ政府の内務省宣伝部に所

属。翌年逮捕され、人民裁判で処刑された。

* クン・ベーラ(Kun Béla)[1886-1939 年]:ソビエト共和国の指導者。共和国崩壊後、

ソ連に亡命。

* クンフィ・ジグモンド(Kunfi Zsigmond)[1879-1929 年]:社会民主党幹部。カーロ

イ内閣の閣僚。社共合同推進派の中心人物。

* グスタフ五世(Oscar Gustaf Adolf Bernadotte)[1858-1950 年]:スウェーデン国王〔在

位 1907-50 年〕。

* グラッツ・グスターヴ(Gratz Gusztáv)[1875-1946 年]:経済専門家・政治家。1921

年、テレキ内閣の外相。親独路線とユダヤ法に反対したため、ドイツ軍の占領後、マ

ウトハウゼン収容所に送致された。

* グリュンヴァルド・ベーラ(Grünwald Béla)[1839-1891 年]:歴史家。アポニィ派の

政治家。1876 年、衆議院議員。

*

* ケレステシュ=フィッシャー・フェレンツ(Keresztes-Fischer Ferenc)[1881-1948 年]:

1931 年 8 月から 1944 年 3 月のドイツ軍占領まで、ほぼ一貫して内相。第二次大戦中

はベトレン・グループに属す。ドイツ軍の占領後、逮捕されマウトハウゼン収容所に

送られた。

* ゲンベシュ・ジュラ(Gömbös Gyula)[1886-1936 年]:1932-36 年、首相。1936 年

10 月、ミュンヘンで客死。

*

109

* コヴァーチ・ダーヴィッド(Kovács Dávid)[1976 年-]:1994 年、正義・生活党に

入党。ヨッビクの結成に参加し、2003-06 年ヨッビクの初代党首。2006 年以降、副党

首。ハンガリー防衛団の創設をめぐり、2008 年離党。

* コシャーリ・ドモコシュ(Kosáry Domokos)[1913-2007 年]:1946-49 年、ブダペス

ト大学教授。体制転換後の 1990-96 年、科学アカデミー総裁。

* コシュート・ラヨシュ(Kossuth Lajos)[1802-1894 年]:1848-49 年革命の指導者。

革命敗北後、ロンドンで活動。アウスグライヒに反対。

* コストラーニィ・デジェー(Kosztolányi Dezső)[1885-1936 年]:『西方ニュガト

』第一世代

を代表する作家・詩人。

* コズマ・ミクローシュ(Kozma Miklós)[1884-1941 年]:軍人。1934 年、上院議員。

1935-37 年、内相。

* コダーイ・ゾルタン(Kodály Zoltán)[1882-1967 年]:作曲家・ハンガリー民謡研究

者。1907 年、ブダペスト音楽院教授。

* コルンフェルド・モーリツ(Kornfeld Móric)[1882-1967 年]:男爵。銀行家・工業

家。『西方ニュガト

』の後援者。1927-44 年、上院議員。ホリン・フェレンツ二世の義弟。

* コーン・シャームエル(Kohn Sámuel)[1841-1920 年]:歴史家。1866 年以降、ブダ

ペストのラビ。1905 年、首席ラビに就任。ユダヤ人社会のハンガリー化に貢献した。

* コンチャ・ジェーゼー(Concha Győző)[1846-1933 年]:国家学者。1872-92 年、コ

ロジュヴァール(現ルーマニア領クルジュ=ナポカ)大学教授。1892-1928 年、ブダペ

スト大学教授。1913-18 年、貴族院議員。

* コント、オーギュスト(Auguste Comte)[1798-1857 年]:フランスの哲学者・社会

学者。実証主義を唱える。

* コンラード・ジェルジ(Konrad Gyorgy)[1933 年-]:作家・エッセイスト。1989

年、自由民主連盟創設メンバー。1990 年、コシュート賞受賞。1990-93 年、国際ペン

クラブ会長。

[サ行]

* サボー・エルヴィン(Szabó Ervin)[1877-1918 年]:1892 年に改姓し、三年後ルタ

ー派に改宗。1904 年、ブダペスト図書館に勤務。1907 年、社会科学協会の副理事長。

* サボー・デジェー(Szabó Dezső)[1879-1945 年]:トランシルバニア出身の作家。

農村人民主義の先駆。人種的反ユダヤ主義者。

* サボルチ・ミクシャ(Szabolcsi Miksa)[1857-1915 年]:ジャーナリスト。1886 年、

改姓。週刊紙『平等』(1881 年創刊)の主筆。

* サボルチ・ラヨシュ(Szabolcsi Lajos)[1889-1943 年]:父親が経営する『平等』紙

の主筆。

* サーラシ・フェレンツ(Szálasi Ferenc)[1897-1946 年]:陸軍少佐。退役後、他の諸

110

政党と合同して矢十字党を結成。1944 年 10 月 15 日、クーデタで政権を掌握。戦犯と

して処刑された。

* ザーカーニ・ジュラ(Zákány Gyula)[1889-1963 年]:カトリック司祭。覚醒ハンガ

リー人連合創設者の一人。セゲド対抗政府の文化担当次官。1920-22 年、衆議院議員。

*

* シートン=ワトソン、ロバート(Robert W. Seton-Watson)[1879-1951 年]:イギリス

の歴史家。強権的なハンガリー化政策批判の急先鋒。第一次大戦時に週刊誌『新ヨー

ロッパ』を発行し、戦後の小協商諸国を支援。

* シフ・アンドラーシュ(Schiff András)[1953 年-]:ハンガリー出身のピアニスト、

指揮者。1991 年バルトーク賞、1996 年コシュート賞を受賞。父方の祖父母は正統派で

あったが、ホロコーストを経験した両親からユダヤ的教育は受けていない。1979 年、

ハンガリーを離れる。

* シャルカハージ・シャーラ(Salkaházi Sára)[1899-1944 年]:1927 年、シュラフタ・

マルギットの活動に啓発され、修道女として社会福祉事業に従事。運営する社会事業

所に数百名のユダヤ人をかくまっていたが、1944 年 12 月 27 日、同事業所で働く女性

の密告でユダヤ人と共に逮捕され、矢十字党員によって殺害された。この事実は 1967

年、元矢十字党員の裁判で判明した。イスラエルのヤド・ヴァシェムは 1972 年、彼女

を「正義の人」として顕彰した。

* シュチファーニク、アントン(Anton Štefánek)[1877-1964 年]:スロバキアの政治

家。チェコスロバキアの独立後、教育相。

* シュテルン・シャム(Stern Samu)[1874-1946 年]:第一次大戦下で武器商人となる。

1929 年、ペスト教区の代表。1932 年、改革派の代表に就任。ドイツ軍占領下でユダヤ

評議会議長に選出された。

* シュトッラール・ベーラ(Stollár Béla)[1917-1944 年]:ジャーナリスト。バイチ=

ジリンスキらと反ナチ共同行動を取った。1944 年のクリスマス当日、二三名の同志と

共に矢十字党員に襲われ死亡。2003 年、イスラエルのヤド・ヴァシェムは彼の功績を

顕彰した。

* シュラフタ・マルギット(Schlachta Margit)[1884-1974 年]:カトリック修道女。社

会活動家。1920 年、ハンガリーで最初の女性議員となる。ユダヤ法やユダヤ人の移送

に抗議し、ピウス十二世に直訴する。1985 年、イスラエルのヤド・ヴァシェムから「正

義の人」の称号を贈られた。

* シェレーディ・ユスティニアン(Serédi Jusztinián)[1884-1945 年]:枢機卿、エステ

ルゴム大司教、領主大司教。

* ショムロー・ボードグ(Somló Bódog)[1873-1920 年]:ピクレル門下の法学者。国

外では、フェリックス・ショムローの名で知られている。

* シンカ・イシュトヴァン(Sinka István)[1897-1969 年]:詩人・作家。ビハリ県の

111

牧夫家庭の出身。自身も少年期より羊飼いとして働いた。1990 年、コシュート賞受賞。

* ジチ・アラダール(Zichy Aladár)[1864-1937 年]:伯爵(ジチ・ナーンドルの長男)。

1903-18 年、カトリック人民党党首。セゲドの反革命運動に参加。1925-34 年、ハンジ

ャの理事長。

* ジチ・ナーンドル(Zichy Nándor)[1829-1911 年]:伯爵。1894 年、エステルハージ・

ミクローシュ・モーリツ伯爵とカトリック人民党を創設。

* ジチ・ヤーノシュ(Zichy János)[1868-1944 年]:伯爵(ジチ・ナーンドルの甥)。

1900-03 年、カトリック人民党党首。1910-13 年及び 1918 年、宗教・教育相。1919 年、

ウィーンの反ボルシェヴィキ委員会に参加。

* ジッド、アンドレ(André Gide)[1869-1951 年]:フランスの作家。1947 年、ノー

ベル文学賞受賞。

* ジマーンディ・イグナーツ(Zimándy Ignác)[1831-1903 年]:カトリック司教代理。

全国反ユダヤ党創設者の一人。1884 年、同党の衆議院議員。

* ジュルチャーニ・フェレンツ(Gyurcsány Ferenc)[1961 年生まれ-]:実業家。2003

年、社会党所属の政治家。2006-09 年、首相。

* ジョージ、ヘンリー(Henry George)[1839-1897 年]:アメリカの経済学者。急進自

由主義的な農地解放論者。主著『進歩と貧困』(1879 年)において、彼は地主の土地

独占を自然法侵害と捉え、貧困と産業不振の救済策として、地代を唯一の租税とする

「単一税」を主張した。

*

* スターリン、ヨシフ(Iosif Stalin)[1879-1953 年]:ソ連共産党の最高指導者。1936

年、スターリン憲法を制定し独裁制を敷く。

* ステーロー・ガーボル(Sztehló Gábor)[1909-1974 年]:1944 年、ブダペストの善

き牧師委員会に属すルター派の代表。1973 年、イスラエルのヤド・ヴァシェムから「正

義の人」の称号を与えられた。

* ストーヤイ・デメ(Sztójay Döme)[1883-1946 年]:親独派の陸軍中将。1944 年 3-8

月、首相。

* スペンサー、ハーバート(Herbert Spencer)[1820-1903 年]:イギリスの哲学者・社

会学者。社会進化論に基づく自由放任主義や社会有機体説を唱える。

*

* セクフュー・ジュラ(Szekfű Gyula)[1883-1955 年]:歴史家。1920 年の『三世代』

で戦間期の有力なイデオローグとなる。

* セーチェニィ・イシュトヴァン(Széchenyi István)[1791-1860 年]:伯爵。改革期の

民族復興運動の指導者。

* セール・カールマン(Széll Kálmán)[1845-1915 年]:オーストリアとの関係が最も

緊迫した 1899-1903 年、首相。妻は詩人ヴェレシュマルティの娘。

112

* センデ・パール(Szende Pál)[1879-1934 年]:弁護士、市民急進党の副党首。

* ゼレンスキ・ローベルト(Zselénszky Róbert)[1850-1939 年]:伯爵。全国農事協会

の守旧派の代表。

[タ行]

* ダラーニィ・イグナーツ(Darányi Ignác)[1849-1927 年]:世紀転換期に内地植民を

提唱した農相(1895-1903 年、及び 1906-1910 年)。

* ダラーニィ・カールマン(Darányi Kálmán)[1886-1939 年]:ゲンベシュ内閣の農相。

1936-38 年、首相。

* ダロシュ・ジェルジ(Dalos György)[1943 年-]:作家、歴史家。1945 年、父親を

労働奉仕隊に取られ、喪う。1977 年、共産党一党支配に対する抵抗運動を開始。1987-95

年ウィーン、1995 年以降ベルリン在住。

*

* チュルカ・イシュトヴァン(Csurka István)[1934-2012 年]:ヨージェフ・アッチラ

賞を二度受賞した作家・戯曲家。民主フォーラム創設者の一人。1993 年以降、正義・

生活党党首。

* チョーリ・シャーンドル(Csoóri Sándor)[1930 年-]:コシュート賞を二度受賞し

た詩人で作家。民主フォーラム創設者の一人。

* チョルノキ・イェネー(Cholnoky Jenő)[1870-1950 年]:ジェントリ出身の地理学

者。1896 年、中国に留学。1905 年、コロジュヴァール(現ルーマニア領クルジュ=ナ

ポカ)大学教授。第一次大戦後、ブダペスト大学教授。

*

* ティサ・イシュトヴァン(Tisza István)[1861-1918 年]:伯爵。1903-05 年及び 1913-17

年、首相。

* ティサ・カールマン(Tisza Kálmán)[1830-1902 年]:1875-90 年、首相(自由党党

首)。

* ティルディ・ゾルタン(Tildy Zoltán)[1889-1961 年]:カルヴァン派の聖職者。1945-46

年、首相。1946-48 年、共和国大統領。1956 年革命政府に参加。

* テレキ・パール(Teleki Pál)[1879-1941 年]:伯爵。地理学者で大学教授。第一次

大戦後、セゲド対抗政府の外相。1920-21 年及び 1939-41 年、首相。

* テレスキー・ヤーノシュ(Teleszky János)[1868-1939 年]:1912-17 年、蔵相。ペス

ト商業銀行頭取。

* デアーク、イシュトヴァン(István Deák)[1926 年-]:ハンガリー(セーケシュフ

ェヘルヴァール)出身のアメリカの歴史家。1945 年ブダペスト大学に入学。1948 年ソ

ルボンヌ大学で歴史を学び、1956 年アメリカに移住。1964-97 年、コロンビア大学で

教鞭を執る。1968-79 年、コロンビア大学中・東欧研究所の所長。1990 年、ハンガリー

113

科学アカデミーの会員に選ばれる。

* ディネル=デーネシュ・ヨージェフ(Diner-Dénes József)[1857-1937 年]:ジャーナ

リスト・芸術史家。1918-19 年、カーロイ内閣の外務副大臣。

* デュルケム、エミール(Emile Durkheim)[1858-1917 年]:フランス系ユダヤ人の社

会学者。現代社会学の創始者の一人。

*

* トルマイ・セシル(Tormay Cécile)[1875-1937 年]:作家。1919 年、婦人国民連合

を結成。1923-37 年、『東方ナプケレト

』の編集長。

* トロツキー、レフ(Lev D. Trotskii)[1879-1940 年]:ロシア革命後、外務人民委員。

軍事人民委員として赤軍を創設。

* ドレフュス、アルフレッド(Alfred Dreyfus)[1859-1935 年]:ユダヤ系のフランス

軍砲兵大尉。1894 年、ドイツに軍事機密を売ったかどで終身刑。二年後に真犯人が判

明。再審後、特赦を与えられ、1906 年に無罪判決。

[ナ行]

* ナジアターディ=サボー・イシュトヴァン(Nagyatádi-Szabó István)[1863-1924 年]:

小農業者党党首。農民出身(三二ホルド所有)の政治家。1922 年、ベトレン首相が入党

し、指導権を奪われる。

* ナジ・フェレンツ(Nagy Ferenc)[1903-1979 年]:独立小農業者党の創設メンバー。

ドイツ軍の占領後、逮捕された。1946-47 年、首相。1947 年 5 月、スイス経由でアメリ

カに亡命。

*

* ニレー・ヨージェフ(Nyirő József)[1889-1953 年]:トランシルバニア出身の作家。

元カトリック聖職者。矢十字党議員。共産党時代、ハンガリーでもルーマニアでも著

作は発禁。

*

* ネーメト・ラースロー(Németh László)[1901-1975 年]:現ルーマニア領(ナジバ

ーニャ)生まれ、ブダペスト育ちの農村人民作家。

[ハ行]

* ハザイ・シャム(Hazai Samu)[1851-1942 年]:軍人。1873 年、士官候補生時に改

宗。三年後に改姓。1910 年、中将に昇進。1910-17 年、国民労働党の議員として、国

防相に就任。1912 年、男爵位を授与される。

* ハトヴァニ=ドイッチュ・シャーンドル(Hatvany-Deutsch Sándor)[1852-1913 年]:

男爵。1894 年、全国製糖協会の理事長。1902 年、全国工業者連盟の副理事長。1903

年、貴族院議員。

114

* ハトヴァニ・ラヨシュ(Hatvany Lajos)[1880-1961 年]:男爵。作家・批評家。『西方ニュガト

の主宰者。

* ハルカーニィ・ヤーノシュ(Harkányi János)[1859-1938 年]:男爵。1913-17 年、通

商相。一般信用銀行頭取。上院議員。

* ハンヴァシュ・ベーラ(Hamvas Béla)[1897-1968 年]:東洋学者・翻訳家。戦前は

図書館司書、戦後は編集者や倉庫管理人。ヨッビクの右翼思想とは無関係。

* ハンコック、イアン(Hancock, Ian)[1942 年-]:イギリス生まれの言語学者。ロ

マ解放運動の指導者。父親はハンガリー系ロマ人。1997 年、ラフト人権賞受賞。

* パタイ・ヨージェフ(Patai József)[1882-1953 年]:シオニスト。1911 年、雑誌『過

去と未来』を創刊。1940 年、パレスチナに移住。

* バイェル・ジョルト(Bayer Zsolt)[1963 年-]:作家・ジャーナリスト。『マジャ

ール・ヒールラップ』のコラムニスト。フィデスの創設メンバー。

* バイチ=ジリンスキ・エンドレ(Bajcsy-Zsilinszky Endre)[1886-1944 年]:衆議院議

員。1923 年、ゲンベシュらと人種防衛党を結成。1930 年に民族急進党を創設し、1936

年、独立小農業者党と合同。

* バウアー・シャーンドル(Bauer Sándor)[1952-1969 年]:工業高校生。ソ連と同盟

国による「プラハの春」弾圧に抗議して、ヴァーツラフ広場で焼身自殺したチェコの

大学生、ヤン・パラフの後を追うように、1969 年 1 月、ブダペストの国民博物館前で

焼身自殺した。

* バキ・ラースロー(Baky László)[1898-1946 年]:サーラシ内閣の内務副大臣。親ナ

チ派の右翼政治家。

* バッラギ・アラダール(Ballagi Aladár)[1853-1928 年]:ブダペスト大学教授。1905-10

年、独立党の衆議院議員。1919-20 年、ブダペスト大学の学長。

* バルタ・ミクローシュ(Bartha Miklós)[1848-1905 年]:トランシルバニア出身の民

族派指導者。独立党所属の衆議院議員(1873-75 年、1881-1905 年)。

* バールツィ・イシュトヴァン(Bárczy István)[1866-1943 年]:1906-18 年、ブダペ

スト市長。1919-20 年、フサール内閣の司法相。

* バルツォー・ゾルタン(Balczó Zoltán)[1948 年-]:1992 年、民主フォーラムに入

る。翌年、正義・生活党の結成に参加。1998-2002 年、正義・生活党の国会議員。2003

年ヨッビクに加入し、同党副党首。2007 年及び 2009 年の綱領作成に参加。2009-10 年、

欧州議会議員。2010 年、国会議員。2014 年 5 月、欧州議会議員に再選された。

* バルトーク・ベーラ(Bartók Béla)[1891-1945 年]:作曲家・ハンガリー民謡研究者。

1907 年、ブダペスト音楽院教授。

* バンガ・ベーラ(Bangha Béla)[1880-1940 年]:イエズス会修道士。近代主義を危

険思想と見なしたピウス十世〔在位 1903-14 年〕の保守化路線を率先した。

* バーンフィ・デジェー(Bánffy Dezső)[1843-1911 年]:トランシルバニアの男爵。

115

1895-99 年、首相。1903 年「新党」を結成。強権的なハンガリー化政策を推進した。

*

* ヒトラー、アドルフ(Adolf Hitler)[1889-1945 年]:ナチ党の最高指導者。1934 年

以降、総統と称した。

* ピウス十二世(Pius XII)[1876-1958 年]:ローマ教皇〔在位 1939-58 年〕。第二次

大戦後、イスラエル政府は彼に「正義の人」の称号を贈ったが、現在エルサレムのヤ

ド・ヴァシェムに展示されている彼の顔写真には、「ホロコーストに抗議しなかった」

とのキャプションが付いている。

* ピクレル・ジュラ(Pikler Gyula)[1864-1937 年]:ブダペスト大学教授。1901-06 年、

社会科学協会の副理事長。1906 年、理事長に就任。

* ビボー・イシュトヴァン(Bibó István)[1911-1979 年]:歴史家・政治学者・法哲学

者。1947-49 年、テレキ・パール東欧研究所所長。1956 年革命政府に参加。

*

* フェイェルヴァーリ・ゲーザ(Fejérváry Géza)[1833-1914]:男爵。近衛連隊長を務

めた軍人。二十年間(1884-1903 年)国防相。1905-06 年、首相。

* フェレンツィ・ラースロー(Ferenczy László)[1898-1946 年]:憲兵隊中佐。アイヒ

マンに協力した内務省「移送トリオ」の一人。

* フォドル・ガーボル(Fodor Gábor)[1962 年-]:法律家・政治家。フィデス創設メ

ンバー。1993 年フィデスを離党し、翌年、自由民主連盟に移る。2008 年 4 月、自由民

主連盟の他の閣僚と共に連立政権から離脱。同年 6 月、自由民主連盟の党首に選出さ

れるが、2009 年の欧州議会選挙で惨敗し党首を辞任。

* フサール・カーロイ(Huszár Károly)[1882-1941 年]:1910-18 年、カトリック人民

党の衆議院議員。1919 年 8 月-11 月、宗教・教育相。1919 年 11 月-1920 年 3 月、首

相。

* フバイ・カールマン(Hubay Kálmán)[1902-1946 年]:極右ジャーナリスト。矢十

字党議員。大戦後、戦争犯罪人として処刑された。

* フランツ=ヨーゼフ一世(Franz Jozef I, Habsburg)[1830-1916 年]:ハプスブルク皇

帝〔在位 1848-1916 年〕。ハンガリー国王〔在位 1867-1916 年〕。

* プルスキ・アーゴシュト(Pulszky Ágost)[1846-1901 年]:ブダペスト大学で法哲学

を担当。社会科学協会の初代理事長。1848-49 年革命政府で外相を務めたプルスキ・

フェレンツの息子。

* プロハースカ・オットカル(Prohászka Ottokár)[1858-1927 年]:1905-27 年、セー

ケシュフェヘルヴァールの司教。レオ十三世の社会教説をハンガリー語に訳した最初

の人物。進化論に対する理解が近代主義的であるとの理由で、1911 年、前教皇の社会

教説を否定するバチカンから禁書処分を下された。

* ブダイ・バルナ(Buday Barna)[1870-1936 年]:農政家。1926 年、全国農事協会の

116

専務理事。1931 年、上院議員。

* ブローディ・シャーンドル(Bródy Sándor)[1863-1924 年]:小説家・劇作家。ユダ

ヤ色の濃い著作を発表。

*

* ヘゲドゥシュ・ローラーント(Hegedüs Lóránt)[1872-1943 年]:作家・経済専門家・

政治家。1920-21 年、テレキ内閣及びベトレン内閣で蔵相。

* ヘルダー、ヨハン・ゴットフリート(Johann Gottfried von Herder)[1744-1803 年]:

ドイツの哲学者。啓蒙期の合理主義に反対して、宗教感情や民族性や風土を強調。人

間の精神は民衆の言語によってのみ発展し得ると説いた。

* ヘルツェグ・フェレンツ(Herczeg Ferenc)[1863-1954 年]:小説家・劇作家。初期

の著作はドイツ語で発表。1927 年、上院議員。

* ヘルツル、テオドル(Theodore Herzl)[1860-1904 年]:『ユダヤ・レキシコン』に

よれば、家系はスペイン系のマラーノ(改宗ユダヤ人)で、トルコに脱出後ユダヤ教

に復帰した。ヘルツル家は 1878 年、ブダペストからウィーンに転居。1896 年、『ユ

ダヤ人国家』を書き、シオニズムの指導者となる。

* ペイエル・カーロイ(Peyer Károly)[1881-1956 年]:社会民主党幹部。1921 年、ベ

トレン=ペイエル協定を結ぶ。ベトレン政府と社会民主党の妥協は、三年後の 1924

年、機関誌『ネープサヴァ』で明らかにされた。

* ペカール・ジュラ(Pekár Gyula)[1867-1937 年]:作家・政治家。フリードリッヒ

内閣(1919 年 8 月-11 月)の無任所大臣。トゥラン協会の第二代会長(1921-37 年)。

* ペテーフィ・シャーンドル(Petőfi Sándor)[1823-1849 年]:詩人。1848 年革命の序

曲となった市民蜂起(1848 年 3 月 15 日)で、自作の詩を朗読して民衆を鼓舞した。

* ベトレン・イシュトヴァン(Bethlen István)[1874-1946 年]:伯爵。1919 年 2 月、

国民統一党を結成。その後、ウィーンで反ボルシェビキ委員会を創設。1921-31 年、

首相。ドイツ軍の占領後は地下に潜るが、1945 年 3 月ソ連軍に連行され、1946 年 10

月モスクワの収容所で死亡。

* ベーラ四世(Árpád Béla IV)[1206-1270 年]:ハンガリーの国王〔在位 1235-70 年〕。

ハンガリー王国中興の祖。王国再興のため、大規模な移民受け入れ策を断行した。

*

* ホリン・フェレンツ一世(Chorin Ferenc I)[1842-1925 年]:シャルゴータリャン炭

鉱社長。全国工業者連盟の初代理事長。1901 年、改宗。

* ホリン・フェレンツ二世(Chorin Ferenc II)[1879-1964 年]:弁護士。1919 年、改

宗。1927 年、上院議員。1928-42 年、全国工業者連盟の理事長。1947 年、ニューヨー

クに移住。ヴァイス・マンフレードは岳父。

* ホルヴァート・ヤーノシュ(Horváth János)[1878-1961 年]:1923-48 年、ブダペス

ト大学教授。アディをはじめ『西方ニュガト

』の文学を激しく批判した。

117

* ホルティ・ミクローシュ(Horthy Miklós)[1868-1957 年]:オーストリア・ハンガ

リー海軍提督で最後の司令長官。1909-14 年、フランツ=ヨーゼフ一世〔在位 1848-1916

年〕の侍従武官。1920-44 年、摂政。

* ポガーニ・ヨージェフ(Pogány József)[1886-1939 年]:社会民主党機関紙『ネープ

サヴァ』の編集者。ソビエト共和国期には国防人民委員、及び教育人民委員代理を歴

任。

* ポラーニ・カーロイ(Polány Károly)[1886-1964 年]:1908 年、ショムロー・ボー

ドグの下で学位を取得。サボー・エルヴィンは従兄。

* ボクロシュ・ラヨシュ(Bokros Lajos)[1954 年-]:経済専門家。1991-95 年、ブダ

ペスト銀行総裁。1995-96 年、リベラル=左派連立政権の蔵相として、国家予算の適

正化を実施した。

[マ行]

* マジャリ・ゲーザ(Magyary Géza)[1864-1928 年]:ナジヴァーラド法科学院、及び

ブダペスト大学教授。

* マリア・テレジア(Maria Theresia, Habsburg)[1717-1780 年]:神聖ローマ皇帝カー

ル六世の長女。神聖ローマ皇帝フランツ一世〔在位 1745-65 年〕及び長男ヨーゼフ二

世の共同統治者。

* マルクス、カール H.(Karl Heinrich Marx)[1818-1883 年]:ドイツの社会主義者。

プロレタリアートの歴史的使命と資本主義没落の必然論を説く。

* マルチノビッチ・イグナーツ(Martinovics Ignác)[1755-1795 年]:フランシスコ会

修道院長。ジャコバン主義を支持する改革派貴族を組織し、反政府運動を指導したか

どで処刑された。

* マンスフェルド・ペーテル(Mansfeld Péter)[1941-1959 年]:1956 年革命最年少の

犠牲者。工業高校を卒業した 1956 年、国鉄車両工場に配属されるが、革命の勃発と共

に「ペスト少年隊」の一員となる。

*

* ミクサート・カールマン(Mikszáth Kálmán)[1847-1910 年]:小説家、衆議院議員。

* ミケシュ・ヤーノシュ(Mikes János)[1876-1945 年]:伯爵。1912 年、大司教。

* ミロタイ・イシュトヴァン(Milotay István)[1883-1963 年]:1913 年、独立党系の

雑誌『新世代』の編集主幹。1930 年代はゲンベシュやイムレーディを支持。オースト

リアで死去。

* ミンドセンティ・ヨージェフ(Mindszenty József)[1892-1975 年]:枢機卿でエステ

ルゴム大司教。第二次大戦末期には矢十字党政府と対立して拘禁され、大戦後は共産

党と対立して投獄された。1956 年革命で出獄した後、ブダペストのアメリカ公使館に

避難したが、1971 年に国外追放。

118

*

* ムッソリーニ、ベニート(Benito A. A. Mussolini)[1883-1945 年]:師範学校出の教

師。社会党幹部。1922-43 年、首相。1925 年 1 月、ファシスト党独裁を宣言。1943 年

7 月 25 日、連合国との単独講和を求める党内反対派のクーデターで失脚。

*

* メジェリ=クラウス・ラヨシュ(Megyeri-Krausz Lajos)[1844-1905 年]:1870 年、

父親から麦芽酒工場を相続。1884 年、自由党所属の衆議院議員。全国工業者連盟の重

鎮。

*

* モーリツ・ジグモンド(Móricz Zsigmond)[1879-1842 年]:農民作家。1929-33 年、

『西方ニュガト

』編集者の一人。

* モルナール・ペーテル(Molnár Péter)[1964 年-]:法律家。フィデスの創設メン

バー。1989 年、フィデスを代表してラフト人権賞を受賞。1990-94 年、フィデスの国

会議員。1994-98 年、自由民主連盟の国会議員。

[ヤ行]

* ヤーシ・オスカル(Jászi Oszkár)[1875-1957 年]:社会学者。1919 年 5 月、ウィー

ンに脱出。渡米後、オーバーリン大学教授。

* ヤーノシ・ヨージェフ(Jánosi József)[1898-1965 年]:哲学者。1913 年、イエズス

会修道士。1944 年、バチカン大使ロッタの活動に協力して、ユダヤ人の救出に貢献し

た。

* ヤロッシュ・アンドル(Jaross Andor)[1896-1946 年]:スロバキア出身のハンガリ

ー人。1940 年、イムレーディが創設した生活党の衆議院議員。1944 年、ストーヤイ内

閣の内相。

*

* ヨージェフ・アッチラ(József Attila)[1905-1937 年]:アディ・エンドレと並ぶ二

〇世紀最大の詩人。マルクス主義者で非合法共産党の党員。死後、コシュート賞を受

賞。

* ヨーゼフ二世(Joseph II, Habsburg)[1741-1790 年]:神聖ローマ皇帝・オーストリ

ア大公〔在位 1765-90 年〕、ハンガリー王・ボヘミア王〔在位 1780-90 年〕。

* ヨッフェ、アドリフ(Adol'f A. Ioffe)[1883-1927 年]:ペトログラード軍事革命委

員会議長。ソ連の外交官。

[ラ行]

* ライニシュ・フェレンツ(Rajniss Ferenc)[1893-1946 年]:スロバキア出身の極右

ジャーナリスト・政治家。イムレーディが創設した生活党の指導者の一人。サーラシ

119

内閣の教育相。

* ライク・ラースロー(Rajk Laszlo)[1909-1949 年]:学生時代から共産主義運動に加

わり、1937 年にはスペイン市民戦争にも参加。1939-41 年、フランスに亡命。1946-48

年、内相。1948 年から外相。1949 年 5 月、ラーコシ独裁の犠牲となる。1955 年、名

誉回復。

* ラーコシ・イェネー(Rákosi Jenő)[1842-1929 年]:1891-1925 年、『ブダペスト新

聞』編集主幹。1890 年代はアポニィ派を支持。1902 年、貴族院議員。

* ラーコシ・マーチャーシュ(Rákosi Mátyás)[1892-1971 年]:第一次大戦中にロシ

ア軍の捕虜になり、ロシア共産党ハンガリー人グループの一員として内戦に参加。1918

年 5 月、帰国。1919 年のソビエト共和国期に種々の役職を歴任するが、政権崩壊後、

ソ連に亡命。1941-44 年、亡命中のハンガリー人グループを掌握し、帰国後、実質的

な独裁者になる。1952-53 年、首相。1962 年、党中央委員会によって除名された。

* ラーコーツィ・フェレンツ二世(Rákóczi Ferenc II)[1676-1735 年]:トランシルバ

ニア大公。1703-11 年、反ハプスブルク独立戦争の指導者。フランス及びトルコに亡

命。

* ラコフスキ・イシュトヴァン(Rakovszky István)[1858-1931 年]:カトリック人民

党創設者の一人。1920-21 年、衆議院議長。カーロイ四世(ハンガリー国王)の二度目

の復位運動(1921 年 10 月)に参加。

* ラデック、カール(Karl B. Radek)[1885-1939 年]:ポーランド生まれ。ロシア共産

党の中央委員(1924 年失脚)及びコミンテルン執行部書記。

* ラーング・ラヨシュ(Láng Lajos)[1885-1952 年]:大手銀行の法律顧問。1933-39

年、上院議員。

* ラーンツィ・レオ(Lánczy Leó)[1852-1921 年]:ペスト商業銀行頭取、ブダペスト

商工会議所会頭。

*

* リエドゥル・フリジェシュ(Riedl Frigyes)[1856-1921 年]:ブダペスト大学教授。

* リスト・フェレンツ(Liszt Ferenc)[1811-1886 年]:ヨーロッパ各国で活躍したピ

アニストで作曲家。西ハンガリー(ショプロン県)生まれのドイツ系であったが、ハ

ンガリー人としてのアイデンティティは強い。しかし、ハンガリー語は話せなかった。

* リーベルマン・レオ(Liebermann Leó)[1852-1926 年]:1879 年、獣医学院で化学教

授、ブダペスト大学で公衆衛生学教授。

*

* ルエガー、カール(Karl Lueger)[1844-1910 年]:1893 年、キリスト教社会党を創

設。1897-1910 年、ウィーン市長。

* ルカーチ・ラースロー(Lukács László)[1850-1932 年]:1912-13 年、首相(内相を

兼務)。

120

* ルーズベルト、フランクリン D.(Franklin D. Roosevelt)[1882-1945 年]:ニューヨ

ーク州知事を経て、第三二代アメリカ大統領[1933-45 年]。三九歳でポリオにかか

り、以後車椅子生活を強いられた。

* ルッツ、カール(Carl Lutz)[1895-1975 年]:1942-45 年、在ブダペストのスイス副

領事。1964 年、イスラエルのヤド・ヴァシェムから「正義の人」と顕彰された。

* ルーデンドルフ、エーリヒ(Erich Ludendorff)[1865-1937 年]:ドイツの軍人。第

一次大戦後、右翼運動の後援者。1924-28 年、衆議院議員。

* ルビネク・ジュラ(Rubinek Gyula)[1865-1922 年]:1893 年、全国農事協会事務局

長。1901 年、衆議院議員。1906-9 年、全国農事協会理事長。

*

* レーヴァイ・ヨージェフ(Révai József)[1898-1959 年]:1918 年秋、共産党の結成

に加わる。ソビエト共和国崩壊後、ウィーンやチェコやソ連で亡命生活を送る。1945-53

年及び 1956 年、共産党政治局員。

* レオ十三世(Leo XIII)[1810-1903 年]:ローマ教皇〔在位 1878-1903 年〕。「資本

と労働の権利と義務」と題する社会教説で、労働者の貧困や境遇の改善は社会正義の

問題であると説いた。

* レーズ・ミハーイ(Réz Mihály)[1878-1921 年]:トランシルバニアのジェントリ出

身の法学者。1913 年、コロジュヴァール(現ルーマニア領クルジュ=ナポカ)大学教授。

* レーニン、ウラジミール I.(Vladimir Il'ich Lenin)[1870-1924 年]:ソ連共産党の創

設者。ロシア革命後、人民委員会議(ソビエト政府)初代議長。

*

* ロッタ、アンジェロ(Angelo Rotta)[1872-1965 年]:バチカン大使。1944 年 6 月末、

シェレーディ枢機卿に移送を阻止するよう圧力をかけた。1997 年、イスラエルのヤ

ド・ヴァシェムから「正義の人」として顕彰された。

* ローナイ・ゾルタン(Rónai Zoltán)[1880-1940 年]:弁護士。社会民主党幹部。社

会科学協会の理事。

[ワ行]

* ワレンバーグ、ラウル(Raol Wallenberg)[1912-1947 年]:スウェーデンの外交官。

スウェーデン語ではラオル・ヴァッレンベリ。ルーズベルト大統領が 1944 年 1 月に設

置した戦争難民委員会から、ハンガリー系ユダヤ人の救出のためブダペストに派遣さ

れた。「保護証書」を配布してユダヤ人の地位を保全した。また、スウェーデン公使

館名義の「セーフハウス」を設置して彼らの住居を確保し、七ヵ月足らずの間に数万

人のユダヤ人を救った。イスラエルのヤド・ヴァシェムは 1996 年、彼を「正義の人」

として顕彰した。