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5. 目次 はじめに 熱素と熱の知識 ブラック 扱い ラヴォアジエ カロリック 熱機関とカルノーの着想 カルノー カルノー カルノー 熱力学の成立 まとめ

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Page 1: 5.熱力学の成立とその後 特別講義 科学技術史 - …sho-yama.c.ooco.jp/lecture/history/h50.pdf1 熱素と熱の知識 1.1 歴史的背景 古代ギリシャのエンペドクレス(BC490頃-BC430頃)やアリストテレス(BC384-BC322)は、世界を構成

5.熱力学の成立とその後 (特別講義:科学技術史)

S. Yamauchi

2017年 7月 22日

目次

0 はじめに 2

1 熱素と熱の知識 31.1 歴史的背景 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 31.2 ブラックの熱学 (熱の定量的扱い) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 41.3 熱素説 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 71.3.1 誕生 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 71.3.2 ラヴォアジエとカロリック . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 101.3.3 熱素理論の完結 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 18

2 熱機関とカルノーの着想 272.1 カルノーの生涯 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 272.2 カルノーの『火の動力』 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 292.3 カルノーの定理 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 31

3 熱力学の成立 363.1 熱素説の否定 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 363.2 熱と仕事の等価性の実証 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 423.3 熱力学の成立 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 52

4 まとめ 65

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0 はじめに

今回は、熱に関する科学である熱力学の確立に至る歴史を振り返る。

機械系の学科であれば、「熱力学」、「熱工学」、「工業熱力学」等の名称の科目の前半部分に関係する内容で

あり、他の学科であれば、物理学の「熱および熱力学」等の分野に関連している。熱力学は物理や化学および

その応用分野の基礎の一つとされている。

人類が火を扱うようになったのは古い時代のことであり、それ以来、熱や温度は人々の生活に深く関わって

きたはずである。しかし、力学と応用力学が 17世紀から 18世紀にかけてほぼ形を成したのに対して、熱力学は、産業革命が終盤にかかっていた 19世紀半ばになって、ようやく、第一法則、第二法則が確立されたのである。身近であった熱というものが、いかに捉えにくかったかがうかがい知れ、学生諸君が「熱力学は難解で

ある」というのもうなづける。

本稿では、熱素説を中心とした熱概念の変遷とその功罪、カルノーの貢献、ケルビンとクラウジウスによる

熱力学の確立の流れを追ってみる。目に見えず測定しにくい熱を捉えるには、精確な実験と共に論理的思考が

不可欠であったことなど、熱力学を別の視点から見直す参考になるであろうし、他の問題を扱う際にも役立つ

示唆が得られるのではないかと期待する。

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1 熱素と熱の知識

1.1 歴史的背景

古代ギリシャのエンペドクレス (BC490頃-BC430頃)やアリストテレス (BC384-BC322)は、世界を構成する元素として「水」、「空気」、「土」に加えて「火」をあげた。古代では熱は光や火と同一視され、火は物質

であるとする捉え方が多かった [1]。ガリレオ・ガリレイは「火の粒子」を仮定し、この粒子が運動することによって熱が発生すると考えていた。

17世紀に入ると、熱の本質についての議論が盛んになっていった。当時の熱理論は、大きく分けて、熱は何らかの物質であるという熱物質説と、現代と同じように熱の原因を運動によるものと捉える熱運動説とに分け

られる [1]。

■熱運動説 フランシス・ベーコンは 1620年の著書で熱運動説を唱えたため、この説の先駆け的な人物とされる。科学者としては、ロバート・ボイルとその弟子ロバート・フックが熱運動説を唱えた。ピエール・ガッ

サンディやクリスティアーン・ホイヘンスは、「熱の粒子」を考え、その「熱の粒子」がはげしく運動すること

によって熱が発生すると考えた (折衷説)。熱運動説は、後にアイザック・ニュートンの万有引力およびそれとは逆の作用の「斥力」の考えを取り込み

ながら進展していくが、やがて徐々に下火になっていった。熱に関する現象のすべてを運動として扱うと様々

な関係が複雑になリ過ぎ、その関係を実際に検証する方法は当時では存在しなかったのである。

■熱物質 (熱素)説 これに対して、17世紀後半頃から熱物質説が有力な説になっていった。ゲオルク・エルンスト・シュタール (1659-1734、 ドイツ)は 1697年、燃焼をフロギストン (燃素)という物質で説明するフロギストン説を唱えた。この説はシュタールの死後、支持者を増やしていった。燃焼の結果として、熱も生じ

るため、フロギストン説が広がることは、熱物質説を後押しする結果となった。そのため、18世紀には熱物質説が主流になってきた。

ヨーロッパの臨床医学の師ヘルマン・ブールハーヴェ (1668-1738、オランダ) も著書で「火の物質」を論じて、熱は「火の物質」が通常の物質にぶつかり、その結果通常の物質が動くことによって起きると考えた。

ブールハーヴェの理論は、彼の名声もあいまって当時の科学者に強い影響を与えた。

ジョゼフ・ブラックは熱量保存則を基に実験を行い、熱容量 (比熱)や潜熱の概念を生み出し、それまであいまいだった「熱」と「温度」を区別した。熱容量や潜熱など彼の見出した定量的な概念は、当時の熱運動説

で説明することは困難であった。ブラック自身は、熱が物質であるか否かについては明言はしなかったが、結

果的に熱物質説を助長した。

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1.2 ブラックの熱学 (熱の定量的扱い)

■ジョゼフ・ブラックの生涯 ジョゼフ・ブラック (Joseph Black、 1728-1799)は、スコットランドの物理学者、化学者であり、熱の保存則に基いて、比熱、潜熱の概念の確立、炭酸ガスの発見等で知られる [2][3][4]。ブラックはフランスのボルドーで生まれた。彼

の父はアイルランド出身、母はスコットランド出

身で、ボルドーを拠点にワイン商を営んでいた。

ジョゼフは 12歳でベルファスト (北アイルランド首都)のグラマースクールへ入り、ラテン語、ギリシャ語等を学び、1744 年の 16 歳のときグラスゴー大学へ入り、リベラル・アーツ (当時の基礎分野) を学んだ。1747 年に赴任してきた医学教授ウィリアム・カレン (William Cullen、 1710-1790)の講義を聴き、医学と化学に強い興味を持ち、医学の道に進んだ。ブラックは、カレンの実

験助手を数年間つとめている。

Fig. 1 Joseph Black

ブラックは 1752年に、医学をさらに学ぶためエディンバラ大学へ移った。その学位論文の中で、固定空気(炭酸ガス)を発見した [5] *1。1756年に、解剖学と植物学の教授としてグラスゴー大学へ帰り、翌年に、医学の教授となった。師のカレンは 1755年にエディンバラ大学の医学の教授となっていた。グラスゴーでは、熱に関する研究を行った。温度と熱量の区別を明確にし、熱容量 (比熱)概念を導入して

熱の定量的扱いを可能にした。氷が融解するときや水が蒸発するときに、一定温度で熱を吸収することを見出

し、潜熱の概念を明確化した。当時同大学の数学機器メーカーであったジェームズ・ワットとも親しく、ワッ

トが蒸気機関の開発や起業を行う際の良き相談者、支援者でもあった。

彼は 1766年に、カレンの後をついでエディンバラ大学の医学と化学の教授となり、1797年まで多くの受講者を引きつけた講義を続け、近代的化学の普及に大きく貢献した。

ブラックは、デービド・ヒューム、アダム・スミス、ジェームズ・ハットンなど、スコットランド啓蒙主義

運動の多くの知識人たち*2とも交友があった。ヒュームの主治医として最期を看取り、アダム・スミスの遺稿

をハットンと共に編集した。

ブラック自身は、小児期の感染症による肺疾患や後年ではリューマチで苦しみ、決して健康ではなかった。

彼は 1799年 12月 6日にエディンバラで死去し、フランシスコ会修道士墓地に埋葬されている。

*1 当時一般には、気体状のものは空気の一種と考えられていた。詳細は後述。*2 デービド・ヒュームは、イギリス経験論を代表する哲学者、思想家、歴史学者、政治学者。その思想はアメリカ独立運動にも大きな影響を与えた。アダム・スミスは、「諸国民の富」を表し資本主義経済学の基礎を築き、「経済学の父」とよばれる。ジェームズ・ハットンは、キリスト教的な天変地異説を否定して近代地質学の基礎を築いた地質学者。

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■ブラックによる比熱概念 [5]ダニエル・ファーレンハイトは、ブールハーヴェの指示にしたがって、温度の異なる水と水銀を混合する実

験を行った (Table 1)。また、ジョージ・マーチンは同じ形の 2個のガラス瓶に同体積の水と水銀を入れ、共通の熱源から等距離に置いて加熱したとき、および熱源を退けて冷却したときの温度変化の速度を比較した

(Table 2)。

Table 1 ファーレンハイトの実験

実験1 実験2

水 (w) 水銀 (m) 水 (w) 水銀 (m)

体積比 1 1 2 3初期温度 (°F) 100 50 100 50最終温度 (°F) 80 75

Table 2 マーチンの実験 (1739)

水 (w) 水銀 (m)

体積比 1 1温度上昇速度の比 1 2温度降下速度の比 1 2

質量から考えれば、水は同体積の水銀の 13.6 倍容易に温度変化すると考えられるが、いずれの実験でも逆の結果となっている。ファーレンハイトの実験では、水銀 3体積が水 2体積に等価であり、マーチンの実験では、水銀 2体積が水 1体積に等価であるとの結果となっている。この結果は、熱運動説を否定する有力な論拠となっていた。

ブラックは、物質には力学的属性 (質量)とは別の熱的属性があると考え、熱容量 (または比熱)の概念を導入した。

∆Q = C∆θ

(熱容量 C) = (質量M)× (比熱 c)

これを用いて、(1) 水との比較から物体の熱容量を知る、(2) 熱容量と温度変化から熱量を求める、などの熱の定量的扱いが可能となる。

上のファーレンハイトの実験1から水銀の比熱 cm を求めると、

∆Q = Mwcw(100− 80) = Mmcm(80− 50)

より、

cm =Mw

Mm

100− 8080− 50

cw =1

13.6× 2

3cw = 0.049cw

となり、またマーチンの実験からでは

∆θm

∆θw=

∆Q/(Mmcm)∆Q/(Mwcw)

=Mwcw

Mmcm= 2

より

cm =Mw

2Mmcw =

12× 13.6

cw = 0.038cw

となる*3。現在知られている水銀の比熱は、0.0333 kcal/(kg �) である。

*3 水の比熱は kcal や Btu の元来の定義より、cw = 1.0 kcal/(kg �) = 1.0 Btu/(lb °F) である。

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■ブラックによる潜熱概念 [5]融解潜熱の測定 ブラックは、氷が融解して水になるときの潜熱を 2種類の方法で測定した (1759-62)。一定温度の室内に等しい質量の冷水と氷を放置し、時間の経過による温度変化を観測した (加熱法)。また、適量の水と氷とを混合して前後の温度変化を観測した (混合法)。両実験の結果を Table 3、 4 に示す。

Table 3 加熱法による融解潜熱測定

水 氷

質量比 1 1初期温度 (°F) 33 32最終温度 (°F) 40 40所要時間 (min.) 30 630

Table 4 混合法による融解潜熱測定

氷 水 容器

質量比 119 135容器の水当量 8初期温度 (°F) 32 190 190最終温度 (°F) 53 53 53

加熱法の結果では、32 °F (= 0 �)の等質量の氷が解け始めて 40 °F の水になるのに、630/30 = 21 倍の熱量を要している。温度 (40-33)× 21=147 °F 分の熱のうち、147-(40-32)=139 °F 分が融解に要したことになるので、融解潜熱は Λ = 139 °F cw (= 77.2 � cw) と推定できる。一方、混合法の結果では、

M1[Λ + cw(θ3 − θ1)] = M2cw(θ2 − θ3)

より

Λ = cw

[M2

M1(θ2 − θ3)− (θ3 − θ1)

]= cw

[135 + 8

119(190− 53)− (53− 32)

]= 143.6cw

つまり、融解潜熱は 144 °F cw (= 80.0 � cw) となる。現在知られている水の融解潜熱は 79.7 kcal/kg であり、上の実験結果は共にかなり近い値である。蒸発潜熱の測定と熱量保存則 ブラックは 2種類の実験を行った。第 1の実験 (加熱法)では、50 °F の水を一定条件で加熱して 212 °F (= 100 �)になるのに 4 分を要した。

その後、212 °F のまま蒸発し、20分で水はすべて蒸発した。この時、蒸発潜熱は (212-50)× (20/4) = 810°F cw (= 450 �cw) となっている。また、第 2の実験 (冷却法)では、温度 212 °F の 3 質量の蒸気を蛇管式冷却器で凝縮して 103 °F の水にし

たとき、38 質量の冷却水が 52 °F から 123 °F に上昇した。このとき、

3[Λ + cw(212− 103)] = 38cw(123− 52)

が成立し、これより

Λ =[383

(123− 52)− (212− 103)]

cw = 790cw

つまり、蒸発潜熱は 790 °F cw (= 439 � cw) となる。現在知られている水の蒸発潜熱は 540 kcal/kg であり、上の両実験の結果は少し小さい値となっている*4。

*4 誤差が大きい理由は、100 �程度の高い温度のため周囲への放熱が大きいためと思える。ブラックと親交の深かったワットは、後の 1781 年に水の蒸発潜熱を測定している。その結果によると、水の温度換算で 945.5

°F、 922.5 °F、 935.5 °F、 963.5 °F、942.5 °F、 960.5 °F、 940.0 °F、 937.0 °F、平均して 943.37 °F (摂氏に換算して 524�)となっている。これはブラックの得た値よりかなり正確である [6]。

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1.3 熱素説

1.3.1 誕生

■クレグホンの「火の粒子」 [5] ブラックは熱が何であるかについて態度決定を差し控えていたが、彼の発見した結果は、熱物質説に有利に働いた。また、ブラックの弟子たちは、熱物質説の有力な論客となった。

ウィリアム・クレグホン (1754-1783)はブラックの学生で、1779年の学位論文で熱物質論を展開した [5]。その 4年後に 28歳の若さで死去した。¶ ³クレグホンによる熱素 (彼は「火の粒子」と称した)は、次の性質を持つとされた。

(1) 熱素は特殊な流体であり、流動性を本質とする唯一の実体である。(2) 熱素の粒子間には斥力があり、それにより熱素は相互に反発しあう。(3) ほとんどすべての物体には熱素を引きつける力があり、その引力は物体の種類ごとに異なる。(4) すべての熱現象は、熱素の斥力における変化から生じるか、または物体の状態変化による物体と熱素の間の引力の変化から生じる。

(5) 熱素は発生も消滅もしない。µ ´物質に熱を加えると、熱素は物質の空隙に入り、温度を上げると共に熱素間の斥力のために膨張する。物質

と熱素間の引力は物質の種類に依存するため、比熱は物質ごとに異なる。

熱素の量がある値を越えると、越えた熱素は物質と結合するため、温度上昇を伴わない潜熱となる。固体が

液体となると、熱素の流動性のために変形が自由になる。さらに液体が気体となると、熱素間の斥力のため、

際限なく膨張することとなる。

■断熱変化の観察と解釈 [5]気体の断熱膨張により温度が変化することは、すでに 1662年にロバート・ボイルが観測していた。真空ポンプで容器内の空気を排気すると、容器に取り付けた温度計の指示が 2、3 °F 下降した。しばらくすると、元の温度に戻り、その後、容器に空気を入れると、今度は 2、3 °F 上昇した。このとき、ボイルは、温度計内の空気の膨張によりガラス管が膨張したことが原因であり、空気の温度自身は変化していないと判断した。

1755年に、ウィリアム・カレンも同じ現象を観測した。カレンは、気体の温度自身が上下していたことを認めたが、その原因については何も述べなかった。

熱素論者のクレグホンは、1779年に以下のように説明した。気体が膨張すると熱素粒子が疎となり斥力が小さくなって、周囲から熱素を呼び込む。逆に気体を圧縮する

と熱素粒子が密となり斥力が大きくなり、熱素が周囲へ出ていこうとする。ちょうど、水中でスポンジが膨ら

むと周囲から水を吸い、圧縮すると周囲へ水を絞り出すのに例えることができる、とした*5。

後世の熱力学第一法則 (エネルギー保存則)からすれば、この現象は体積変化による力学的仕事と、気体分子の運動エネルギーとの相互変換であるが、当時の熱運動論では、このことを説明することができなかった。

*5 クレグホンとほぼ同じ頃、エラズマス・ダーウィン ( Erasmus Darwin、 1731-1802; 進化論のチャールズ・ダーウィンの祖父)も独自に類似の理論を考えたとされている。

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■アーヴィンの「比熱変化理論」 [5]ウィリアム・アーヴィン (1743-87)もグラスゴー時代のブラックの学生で、のちブラックの共同研究者と

なった。アーヴィンは、後の熱素説二潮流の一つとなる「比熱変化理論」を展開することになる。

ブラックが示したように、物質が熱 (熱物質)を受け入れる傾向は物質ごとに異なり、これが結局、物質ごとに異なる比熱となっている。ところが、同じ物質であっても、水と氷のように状態が異なると比熱も異なる。

そこで、アーヴィンは、氷が水へ、水が蒸気へと状態変化するとき、比熱が変化 (増加)する結果として熱の許容量が変化 (増加)することにより、温度上昇が抑えられることになる。このときの許容熱量の差が潜熱の原因となる、と考えた*6。¶ ³アーヴィンの考えは、以下のようである。

(1)「熱をまったく持っていない状態」(つまり絶対零度)を考えて、絶対零度を基準にして物体の「持っている熱量」Q は

Q = McT = Mc(x + θ) (1)

と表される (T = x + θ は絶対温度、xは 0 °の絶対温度)。アーヴィンはこの Q を「絶対熱」と呼

んだ。

(2) 融解、蒸発や物質の混合などが生じて物質の状態が変わり比熱が変化した場合、変化の前後の絶対熱の差が潜熱として発生または吸収される。

µ ´融解の潜熱 氷は絶対零度でも氷のままであるだろうから、その「絶対熱」は氷点以下の範囲で

Q = Mc固(x + θ)

と表される。

一方、氷点以上では、アーヴィン理論によると、液体の水の「絶対熱」も式 (1)に水の比熱 c液 を用いた次

式で表される。Q = Mc液(x + θ)

氷と水の比熱の大小関係は c固 < c液 であるため、氷点 (θ = 32°F) で氷が水になるときに、「絶対熱」に

∆Q = M(c液 − c固)(x + 32°F)

の不足が生じる。アーヴィン理論では、これが潜熱の原因である。

温度と絶対熱の関係を示すと、Fig. 2のようになる。氷は絶対温度に比例した絶対熱を持っている。一方、液体の水も氷点 (32 °F)以上では絶対温度に比例した絶対熱を持つことになり、氷点では、上記の ∆Q だけ

の不連続が生じる。

当時知られていた値、∆Q = (140°F)Mc液、 c固 = 0.85c液 を用いて x を求めると、

x =∆Q

M(c液 − c固)− 32°F =

140°F0.15

− 32°F = 901°F

となり、絶対零度は −x = −901°F(= −518.3�) であると推定される*7。

*6 温度により比熱が変化することは、当時は認識されていなかった。*7 現在知られている絶対零度の値は、-459.67 °F = -273.15 �である。

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絶対温度

絶対熱

潜熱

絶対0度 氷点

Fig. 2 アーヴィンの比熱変化理論

212

32

°F

1000

0

500

温度

気体

液体

固体

Fig. 3 ドルトンの解説図

「比熱変化理論」派であったジョン・ドルトン (John Dolton, 1766-1844)が、後年、この理論を説明するために用いた解説図を Fig. 3 を示す。固体の氷に熱を加えたときの温度上昇を、三重の水槽に水を入れるときの水位上昇に例えると、氷点 (32

°F)までは水位が上昇するが、氷点で外側の液体水槽へ溢れて、水位が氷点に保たれる。液体水槽の水位が氷点に上がるまでに加える熱量が融解潜熱であり、氷点を超えると、より大きい水面 (比熱)で水位が上昇する。再び、沸点 (212 °F)で外側の気体水槽へ溢れて、水位が沸点に保たれ、気体水槽の水位が沸点に達するまで蒸発潜熱を加えることになり、その後、さらに大きい水面で水位が上昇することになる。この説明が、この理

論を簡潔に表している。

水と硫酸の混合の潜熱 アーヴィンは、水と硫酸を混合すると発熱して混合物の温度が上昇する現象も同様の

理論で説明した。硫酸の比熱 cA 、水の比熱 cW および 水硫酸混合物の比熱 cAW の間に、cAW < cA + cW

の関係があるとする。硫酸:水 を質量比 MA : MW で混合したとき、前後の熱量保存則から、

Q = (MAcA + MW cW )(x + θ) = (MA + MW )cAW (x + θ + ∆θ)

これより、θ, ∆θ, cA, cW ,MA,MW を測定すれば、絶対零度の値が求まる。

x =(MA + MW )cAW

MAcA + MW cW + (MA + MW )cAW∆θ − θ

アーヴィンは、このようにして求めた絶対零度の値 −x が、先述の水の融解潜熱から求めた値とほぼ一致す

ることから、この理論の正当性を主張した。

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1.3.2 ラヴォアジエとカロリック

■ラヴォアジエの生涯 [10][11]アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ (Antoine-Laurent de Lavoisier、1743-1794)は、フラ

ンス、パリで裕福な弁護士の家庭に生まれた。5歳の頃に母を失い、叔母のもとで育てられた。1754年から 1761年までマザラン学校*8で学び、1761年からパリ大学で法律を学んだが、その間に植物学、地質学、鉱物学、科学を学び、自然科学に強い興味を持つようになった。

1766年にフランス科学アカデミーへ提出した論文『都市の街路に最良な夜間照明法』が評価され、1768年にフランス科学アカデミーの会員となった。

当時支配的であった 4大元素説で「水は土に変わることがある」という説に対し、1769 年頃ラヴォアジエは、水をガラス容器に入れて 101日間密閉状態で沸騰させた後、質量を正確にを測る実験 (「ペリカンの実験」)を行い、この説が正しくないことを示した。ラヴォアジェの

実験は緻密に計測・計算され、それまでの実験に比べて

格段に定量的であった。

1774年、これらの実験をもとにラヴォアジェは、化学反応の前後では質量が変化しないこと (質量保存の法則)をゆるぎない法則として確立した。

ラヴォアジェは母の莫大な遺産を継いでいたが、実験

器具購入等の費用を工面するために「徴税請負人」の職

に就いていた。また、1771年には徴税請負人長官の娘マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズと結婚した。ラヴォ

アジェ夫人は、英語をはじめラテン語やイタリア語を修

得し、ラヴォアジェに届く外国語の手紙や論文を翻訳し、

また画才を生かしてラヴォアジェの出版物に詳細な挿絵

を挿入し、ラヴォアジェを助けた。Fig. 4 アントワーヌ・ラヴォアジエ

ラヴォアジエは 1772-1783年に、燃焼や金属の仮焼の実験を通じて、燃焼とは酸素と物質が結合することだということを示し、フロギストンの存在を否定した。また、酸素の命名者ともなった。

ラヴォアジエは熱素論者でもあり、後年ラプラスと共に氷熱量計を作り、熱の定量的な扱いに貢献した。動

物の呼吸が一種の燃焼であることも実験で裏付けた。1787年、ラヴォアジエは同国出身の他の化学者らとともに元素の定義や物質の新たな命名法を記した『化学命名法』を著した。1789年には、当時の化学の到達点をまとめた『化学原論』を著し、その後の 10年間ヨーロッパ全土で読まれた。「近代化学の父」と呼ばれている。1789年にフランス革命が勃発し、旧体制の下で徴税請負人等をしていたラヴォアジエは 1794年に他の多くの者とともに、ギロチン台で処刑された*9。

*8 ジュール・マザラン枢機卿の遺産を基に設立されたパリの歴史的な大学カレッジひとつ。*9 フランス人に慕われた同時代の偉大な数学者・物理学者のラグランジュは、「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには 100年かかるだろう」とラヴォアジエの才能を惜しんだとされる。

10

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■フロギストン (燃素)説とは [12]化学の分野では、18世紀は新しい化学の諸概念と古代化学の復活であるフロギストン説との間の、激しい闘争の時期であった。このフロギストン説は、多くの化学現象を容易に説明するように思われていた。

1669年にドイツのヨハン・ヨアヒム・ベッヒャー (Johann Joachim Becher、1635-1682)は、物が燃える原因はその中に含まれる「燃える土」にあるとの説を出した。

ドイツの医師ゲオルク・エルンスト・シュタール (Georg Ernst Stahl, 1659-1734)は 1697年の著書『化学の基礎』で、当時すでに忘れ去られかけていたベッヒャーの説に着目した。そして、ベッヒャーの「燃える土」

を元に、燃焼をつかさどる元素としてフロギストン (phlogiston)という名称を与えた。これはギリシャ語の「燃える」という単語に由来する。シュタールはその後の著書においてもこのフロギストン説を取り上げ、燃

焼とは可燃物 (灰+フロギストン)からフロギストンが離れること、金属の精錬では木炭に含まれるフロギストンが鉱石 (金属灰)へと移ることなどを主張し、フロギストン説に基づく理論を展開していった。¶ ³

(燃焼) 可燃物 (灰・フロギストン) → 灰 + フロギストン(仮焼) 金属 (金属灰・フロギストン) → 金属灰 + フロギストン(精錬) 金属鉱石 + 木炭 (フロギストン) → 金属

µ ´

(1) 空気中で燃える物質は、フロギストンに富んでいるとされた。フロギストンに富んだ木炭を燃やすと、木炭から逃げ出したフロギストンは空気と結合すると考えられた。

(2) 閉じた空間ではすぐに燃焼が止まることから、空気は一定量のフロギストシを吸収する能力しかもたないと考えられた。空気が完全にフロギストン化されると、その空気はもはやどんな物質の燃焼を支える

ことができないし、またその中で金属を熱しても、金属灰は生じない。

(3) またフロギストン化された空気は、生命を支えることもできない。呼吸における空気の役割は、人体からフロギストンを取り去ることであるからである。あらゆる事柄がうまく説明できた。

1740 年ころまでに、この説はフランスで一般的に受け入れられた。10 年後には、ヨーロッパで広く受け入れられるようになった。

しかし、金属を燃焼させると、その金属の質量が増すという現象は以前から知られていた。シュタールは、

「フロギストンが抜けた分だけ金属が濃縮するので重くなる」あるいは「フロギストンが放出された分だけ空気

が金属に入り込む」と考えた。後では、「フロギストンは負の質量をもっている」という考えが主流になった。

■18世紀における種々の気体の発見 [5][8]古代ギリシア以来、自然の物質は土・水・空気・火の 4元素から成るとされていた。18世紀初めには、4元素のうち土については、すでに多くの種類の「土類」(マグネシウム、カルシウムなど)が知られたので、もはや元素とは考えられていなかった。しかし水・空気・火は、まだ普通には元素と考えられていた。フロギスト

ン説のもとで、種々の「空気」(ガス)が発見された。1754年にジョゼフ・ブラックは、気体状物質「固定空気」(二酸化炭素)を発見した。彼は、白亜 (炭酸カル

シウム)やマグネシア・アルバ (炭酸マグネシウム)を加熱したり、または酸に溶かすことによりこの気体をを取り出した。ブラックは「固定空気」の性質を調べ、空気は苛性アルカリに吸収されないが、「固定空気」は苛

性アルカリに吸収されること、また、空気は燃焼や呼吸を支えるが、「固定空気」は燃焼と呼吸とを支えない

こと等を見出した。彼の仕事は、他の化学者たちの注意をガスの化学的本性という問題へ向けた。

11

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Table 5 18世紀における主要な気体の発見

気体 旧呼称 発見年 発見者 備 考

炭酸ガス 固定空気 1754 ブラック 炭酸塩の加熱、酸への溶解。

水素 可燃性空気 1766 キャベンディッシュ 亜鉛に希硫酸を作用。

酸素 火の空気 1772 シェーレ 酸化水銀の加熱分解。

脱フロギストン空気 1774 プリーストリー 酸化水銀の加熱分解。

窒素 有毒空気 1772 ダニエル・ 空気中でろうそくを燃焼後、

(フロギストン化空気) ラザフォード 炭酸ガス除去。

駄目な空気 1772 シェーレ 空気中で黄燐を燃焼

1766 年、ヘンリー・キャベンディッシュ (1731-1810) は、金属亜鉛に希硫酸を作用させて「可燃性空気」(水素)を製造した。また金属に濃硫酸や硝酸を作用させて、「硫黄性蒸気」や「硝石蒸気」が生成することを発見した。

1772 年頃、スウェーデンの薬剤師カルル・シェーレ (1742-1886)は、栓をした空きびんの中で黄リンを燃焼させ、びんを逆さまにして栓を開くと、水がびんの中に約 ¼体積だけ入ってくることを見出した。残った空気の中では燃焼は起こらなかった。また、酸化水銀の赤い粉末を強く加熱して 、「火の空気」(酸素)を初めて取り出し、その中では大気中より燃焼が激しく起こることを見出した。彼は、1777年の論文の中で、空気が元素性物質ではなく、「火の空気」(酸素)と「駄目な空気」(窒素)との二つの気体から、彼の測定によれば1 : 3 の比で組成されていることを指摘した。シェーレの考えでは、「火の空気」の機能は燃えている物質から放出されるフロギストンを吸収することである。また、吸収できる量には限度があるので、密閉した容器の中

では酸素がフロギストンによって飽和されると、もはや燃焼を支えることができなくなる。

英国の牧師ジョゼフ・プリーストリー (1733-1804)も、水銀を空気中で燃焼させたときにできる赤色の「水銀灰」に熱を加えると水銀に戻り、そのとき気体が発生することを発見した。プリーストリーはこの気体を

収集することに成功した。彼は、1774年にパリでこの気体のことを発表したが、その気体の正体は分からなかった。その後、彼は純度の高い水銀灰を用いて実験を重ね、この気体はロウソクの火を激しく燃やし、ネズ

ミを空気中よりも 2倍長生きさせることを確認した。この気体は元々フロギストンを全く含まないために、フロギストンを多く吸収することができると考え、この気体を「脱フロギストン空気」(酸素)と名付けた。しかしプリーストリーは、フロギストン説にとらわれており、普通の空気よりもフロギストンが少い空気を

得ることがどうしてできるかを説明できなかった。プリーストリーは 1770年代に、他に、アンモニア、塩酸ガス、亜酸化窒素、酸化窒素、二酸化窒素、一酸化炭素、二酸化硫黄などを発見した。

プリーストリのパリでの発表を聞いたラヴォアジエは、同様の実験を繰り返し、燃焼の間に金属と結合する

原質は「脱フロギストン空気」(酸素)であることを確信した。

12

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■ラヴォアジエの熱素概念 [5]ラヴォアジエの考えでは、熱と呼ばれる流体状の物質*10 は、すべての物体に浸透することができ、その中

で平衡に向かおう (広がろう)とする性質を持っている。熱素が流動性を持ち、互いに反発し合う性質を持つことは、クレグホンと同様である。

ラヴォアジエは、物体内での熱素の存在様式を特に問題とした。物体の中では、熱素は「自由状態」と「結

合状態」の二つの状態を取ることができる。自由な熱素 (自由熱)は一般の熱効果を引き起こし、触覚や温度計で温度として感知できる。自由熱の量と温度の関係は物体物質の種類により相違し、これが比熱である。自

由熱がある程度多くなると、その一部が物体粒子と結合して (結合熱)、温度計で感知できなくなり、潜熱となる。物体粒子と結合した熱素が増加すると、熱素の特性が表面に現れてきて、物体自体が流動性や弾性 (膨張性)を持つようになり、融解や蒸発などの状態変化を引き起こす。ラボアジエの燃焼理論の中では、この熱素が重要な役割を果たすことになる。

■ラヴォアジエの燃焼理論 [5]木材等を燃焼させると、熱を発生して灰が残る。シュタールのフロギストン説に基づく燃焼では次のように

なる。

(シュタール) : 灰 ·フロギストン︸ ︷︷ ︸(燃料)

=⇒ 灰+フロギストン

それ以前の 1727年に、イギリスのスティーブン・ヘールズ (1677-1760)が「植物計量学」を出版し、(1) 生物体を含めあらゆる固形物に加熱や発酵等を施すと、気体の空気が放出されて質量が減ること、(2) また別の操作により空気は元の固形物に吸収されること、を定量的に突き止めていた。ラヴォアジエは、「金属は加熱

により発煙し、また、酸に溶かすと起沸が見られる」*11ことから、固形物である燃料や金属の内部には<空気>が吸収されていて、それが燃焼に伴い外部へ放出されると考えていた。ラヴォアジエは、気体が固体内の狭い空間に閉じ込められる理由について、蒸気が熱素を失って水になるの

と同じであると考えた。気体の空気は<空気の基>と熱素が結合したものであり、固体に吸収される時には熱素を失うと考えれば、うまく説明できることに気がついた。空気が弾性 (無限に広がろうとする性質)をもつのは熱素の斥力のせいであり、熱素を取り去れば、水や氷と同じく弾性を失うことになる。

このような考えをもとに、ラヴォアジェは当初の 1772 年には燃焼を次のように考えていた。

灰· < 空気の基 >︸ ︷︷ ︸(燃料)

+熱素 =⇒ 灰+ < 空気の基 > ·熱素︸ ︷︷ ︸(空気)

金属灰· < 空気の基 >︸ ︷︷ ︸(金属)

+熱素 =⇒ 金属灰+ < 空気の基 > ·熱素︸ ︷︷ ︸(空気)

しかし、これでは金属の燃焼で質量が増加することが説明できない。金属灰が本来の姿でなく、金属自体が

金属の本来の姿であることに気がついて、1773年には、次のように変更した。

可燃性物質+ < 空気の基 > ·熱素︸ ︷︷ ︸(空気)

=⇒ 物質· < 空気の基 >︸ ︷︷ ︸(灰化物)

+ 熱素︸︷︷︸(熱, 光)

*10 当初は「火の物質」または「フロギストン」等とよんでいたが、シュタールの「フロギストン」ではなく、ブールハーヴェの「火の物質」に近かった。最終的には「熱素 (カロリック)」と呼ばれたので、これ以降「熱素」と呼ぶ。

*11 ラヴォアジエはこの点では勘違いしていたのかもしれないが、ともあれ、固体内に閉じ込められていた空気が、燃焼により気体になって放出されると考えていた。彼のその後の推考にとっては、この点が決定的に重要となっているようである。

13

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これにより、質量の問題が解決するだけでなく、燃焼に伴う熱や光の発生も、自由にされた熱素の熱的な作用

として説明できることになる。

一方、金属灰に木炭 (熱素)を混ぜて加熱して元の金属に戻すとき (精錬)は、このれを逆にして次式となる。

金属· < 空気の基 >︸ ︷︷ ︸(金属灰)

+熱素 (木炭) =⇒ 金属+ < 空気の基 > ·熱素︸ ︷︷ ︸(空気)

¶ ³ラヴォアジエの燃焼理論の中でフロギストンは不要となったが、熱素は、<空気の基>を金属の内外でやり取りする際に「弾性」を与えたり取り去ったりするために、必要不可欠なものとなった。

µ ´こうして、1777年の論文では次のように結論付けられている。

(1) すべての燃焼で熱素が放出される。(2) 燃焼は一種類の<空気>すなわち<純粋空気>中でしか生じない。(3) すべての燃焼で<純粋空気>は破壊され、燃焼した物質の重量が<純粋空気>の減少分だけ増加する。(4) すべての燃焼で、燃焼した物質は<酸>に変化する。

<空気の基>または<純粋空気>を酸素と読み替えたものが、ラヴォアジエの最終的な燃焼理論である。ラヴォアジエは、1777 年頃より、当時の大数理物理学者ラプラスと共同研究を行い、その熱素説をより力

学的に展開した。例えば、熱素の斥力を F熱 、物質分子間の引力を F分子、および大気圧の及ぼす力を F大気 と

すると、それらの間の大小に応じて、下記のように物質の状態が変化する。

(固体) : F熱 < F分子

(液体) : F分子 < F熱 < F分子 + F大気

(気体) : F分子 + F大気 < F熱

低圧では大気圧の作用 FA が小さくなるので、蒸発温度が下がり、より低温で気体になる等と説明される。

ラヴォアジエは当初、熱素を「火の物質」とよんでいた。熱素 (カロリック、 Calorique) という単語は、1787年にギトン・ドゥ・モルヴォらとの共著『化学命名法』においてはじめて登場した。1789年の著書『化学原論』の元素一覧には、酸素や水素などと並んで光素と熱素も元素として掲載されている [1]。

Table 6 ラヴォアジエの元素表

分 類 元 素

自然界に広くあるもの (5) 光素、熱素 (カロリック)、酸素、窒素、水素非金属 (6) 硫黄、リン、炭素、塩酸基 (塩素)、フッ酸基 (フッ素)、ホウ酸基 (ホウ素)金属 (17) アンチモン、銀、ヒ素、ビスマス、コバルト、銅、スズ、鉄、モリブデン、

ニッケル、金、白金、鉛、タングステン、亜鉛、マンガン、水銀 

土 (5) ライム (酸化カルシウム)、マグネシア (酸化マグネシウム)、バリタ (酸化バリウム)、アルミナ (酸化アルミニウム)、シリカ

14

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■ラヴォアジエ・ラプラスによる熱量計 .¶ ³ラヴォアジエとラプラスは、熱量を精度良く測定するための氷熱量計を開発し、熱を定量的に測定した。

µ ´

Fig. 5 ラプラスとラヴォアジエによる氷熱量計

左上 (Fig.3.) 熱量計本体は三重構造の容

器で、内側容器に測定試料 (0 �以上)を入れる。中間容器に氷を入れて試料を冷却すると、解けた解けた水

が容器下部から流出する。流出水量

を計測して、試料が失った熱量を見

積もる。外側容器も氷で満たし、 中

間容器や内側容器に外気温度の影響

が及ぶのを防ぐ。

左中 (Fig.4) 内側容器とその上蓋。

左下 (Fig.1) 内容器の上蓋 (4)。熱量計全体の上蓋 (5)。管付の円錐形漏斗 (6)。外容器の融解水のために枝管 (7)。

右上 (Fig.5) 中間容器の氷支持格子。

右上 (Fig.6) 氷支持格子の下に置く篩 (ふるい)。

右下 (Fig.9) 酸等の流体の試料を入れて内

側容器に納めるフラスコ。フラスコ

の栓を通して流体温度用の温度計を

取り付ける。事前にフラスコを加熱

して反応に必要な熱量を計測すると

きに用いる。

右下 (Fig.10) フラスコの支持具。

Fig. 5の氷熱量計を用いて、例えば融点 θ0 (> 0 �) の物質について、固体、液体の比熱および融解潜熱を求めるには、次の手順に従えばよい。

(1) Table 7 に示すように、質量 m の試料物体の初期温度を、θ0 − θ1、θ0 + θ2 または θ0 + θ3 の 3 とおりに変えて、以下の測定を繰り返す。ただし、 θ1 < θ0 < θ2 < θ3 となるように選ぶ。

(2) 氷熱量計で資料温度が 0 �となるまで、中間容器で融解する氷の質量 M1,M2,M3 を計測する。

(3) 熱素の保存式より、次の関係式が成立する。(c固, c液,Λ:資料の固体比熱、液体比熱、融解潜熱。Λ氷:水

の融解潜熱)

(測定 1) M1Λ氷 = mc固(θ0 − θ1)(測定 2) M2Λ氷 = mc液θ2 + mc固θ0 + mΛ(測定 3) M3Λ氷 = mc液θ3 + mc固θ0 + mΛ

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(4) これより、比熱 c固, c液 と潜熱 Λ は下式で推算できる。

c固 =M1

θ0 − θ1

Λ氷m

c液 =M3 −M2

θ3 − θ2

Λ氷m

Λ =(

θ3M2 − θ2M3

θ3 − θ2− θ0M1

θ0 − θ1

)Λ氷m

Table 7 加熱法による融解潜熱測定

初期温度 最終温度 氷融解質量

測定 1 θ0 − θ1 (固体) → 0 � M1

測定 2 θ0 + θ2 (液体) → 0 � M2

測定 3 θ0 + θ3 (液体) → 0 � M3

ラプラスとラヴォアジエによる氷熱量計は、外気温度の影響をうまく避けており、また化学反応にも使える

ように考えられている。ただ、融解水の排出口から外気が入ること、解けた水が氷表面に付着して残ること、

等の難点もあった。

■潜熱概念の拡張 .ラプラスとラヴォアジエは、この潜熱の概念を膨張に伴う気体の温度変化等へも拡張した。

つまり、物質 (主に気体)へ熱量 dq を加えたときの温度上昇を dθ、体膨張を dV とするとき、

dq = cV dθ + ΛDdv

が成り立つと考える。ここで、cV は定積比熱であり、ΛD は「膨張の潜熱」と呼ばれた。

後世の熱力学第一法則dq = cV dθ + (1/J)Pdv

と対比すると、ΛDdv の項は外圧に対して気体が行う仕事 Pdv に対応するが、ラプラスもラヴォアジエも、

熱と仕事とはまったく別の量であると考えていた。

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■ラヴォアジエによるアーヴィン理論への反論 .アーヴィンの「比熱変化理論」によると、水の融解点 (0 �)の絶対温度を x (絶対零度 は −x ) とすると

き、質量 m で比熱 c の物体は 0 �でQ(0) = mcx

の熱量を持っている。

そこで、 0 �の物体 A (質量 mA、 比熱 cA) と 0 �の物体 B (質量 mB、 比熱 cB) が反応して、温度θ > 0 の物体 C (質量 mA + mB、比熱 cC) ができたとする。この物体 C を氷熱量計に入れて 0 �まで冷却して、氷の融解量 M を測定すると、「比熱変化理論」に従うと

QA(0) + QB(0) = QC(0) + Λ氷M

つまりmAcAx + mBcBx = (ma + mB)cCx + Λ氷M

の関係が成立するはずである。

これより、 0 �の絶対温度 x が次のように求まることになる。

x =Λ氷M

mA(cA − cC) + mB(cB − cC)

熱量計を用いて実験した結果は Table 8*12 となった。

Table 8 反応の潜熱を用いた「比熱変化理論」に基づく絶対零度

混合物質 (比) x (列氏 Ré) x (摂氏 �)

水と生石灰 (9:16) 1537.8 1922.3水と硫酸 (3:4) 3241.9 4052.4同上 (5:4) 1169.1 1461.4硝酸と生石灰 (1:9.33) 1881/(-0.01783) 1881/(-0.01426)

表のように、4種の実験結果は大きく異なっており、最後の例では意味のない負の値となっている。また、以前に、アーヴィン氏自身が水と氷の比熱から求めた値 (x = −518.3�) ともまったく異なっている。¶ ³これより、ラヴォアジェとラプラスは「比熱変化理論」が根拠のないものであると主張した。

µ ´ラヴォアジエ、ラプラスらの理論は「比熱・潜熱理論」と呼ばれている。

*12 列氏度 (れっしど、記号 ° Ré)は、1730年にフランスの物理学者ルネ・レオミュールが作成した温度目盛。レオミュール度ともいう。水の凝固点を 0° Ré、沸点を 80° Réとして、その間を 80等分した温度単位であったが、現在はほとんど使われていない。

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1.3.3 熱素理論の完結

■ラプラスの生涯 [14] ピエール=シモン・ラプラス (Pierre-Simon Laplace、1749-1827)は、フランスの自然科学者、数学者、物理学者、天文学者。「天体力学概論」(traite' intitule' Me'canique Ce'leste) と「確率論の解析理論」という名著を残した。1789年にロンドン王立協会のフェローに選出された。

Fig. 6 ピエール=シモン・ラプラス Fig. 7 シメオン・ドニ・ポアソン

「天体力学概論」は、1799年から 1825年にかけて出版された全 5巻の大著で、剛体や流体の運動を論じたり、地球の形や潮汐の理論までも含んでいる。数学的にはこれらの問題はさまざまな微分方程式を解くことに

帰着されるが、方法論的にも彼が発展させた部分もあり、特に誤差評価の方法などは彼自身の確率論の応用に

もなっている。

国際度量衡委員会の委員として、長さの尺度として地球の北極点から赤道までの子午線弧長を精密に測量

し、その 1000万分の 1をもって基準とすることを提唱した。これが後のメートルの定義の基礎となった。ラプラス変換の数学的な基盤も作っており、1780年に自身の著作で発表した。後に電気技師ヘヴィサイドにより回路方程式を解く手法として経験則的に再発見され、汎用的な微分方程式の解法の 1つとして広く利用されるようになった。

ラプラスの名前にちなんだ用語として、ラプラシアン (ラプラス作用素)、ラプラス方程式などがある。1799年、ナポレオン・ボナパルトの統領政府で一ヵ月余の短期間ながら内務大臣に登用され、王政復古後はルイ 18世の下で貴族院議員となった。

■ポアソンの生涯 [15] シメオン・ドニ・ポアソン (Sime'on Denis Poisson、1781-1840)は、ポアソン分布、ポアソン方程式、ポアソン比などで知られるフランスの数学者、地理学者、物理学者。フランスのピ

ティヴィエで生まれた。はじめは父の意向で医学を志したが、医学に関心を持たなかったことから数学へ転向

した。

1798年にエコール・ポリテクニークに入学、ラグランジュ、ラプラスらに代数学などを学んだ。1802年にフーリエの後任としてエコール・ポリテクニーク教授に就任し、1806年まで在籍した。

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■ラプラスの解析的熱量学 .既に数理物理学の巨匠となっていたラプラスは、1823年大著『天体力学』最終巻で、熱素説を基礎にして解析的熱量学を展開した。その意図は、天体力学で成功したニュートン物理学の方法をミクロな現象に適用し

て、熱を含む物質理論を数理科学の水準に高めることにあった。そこでは、熱素と物質粒子間の引力や熱素粒

子間の斥力を基に、さまざまな現象に合うように精密なモデルが構築されている。¶ ³ラプラスの熱学の本質的内容は以下の 3点にある [6]。

(1) ボイル・ゲイ=リュサックの法則Pv = K0(1 + αθ)

または、ρ = 1/v を用いてP/ρ = K0(1 + αθ) (2)

ただし、K0 は 0 �での Pv = P/ρ の値。

(2) 比熱・潜熱理論 (膨張の潜熱)基礎方程式

dq = cvdθ + ΛDdv (ΛD > 0)

または、dv = −(1/ρ2)dρ を用いて Λ∗D = (1/ρ2)ΛD > 0 と置き換えて、

dq = cvdθ − Λ∗Ddρ (3)

(3) 熱量保存則 閉じた任意の変化 (サイクル)において、∮

dq = 0 (4)

が成立する。µ ´式 (3)の Λ∗D は下記のように置き換えることもできる。

式 (3)を任意の等圧変化に適用すると、(dq)p = cp(dθ)p = cv(dθ)p − Λ∗D(dρ)p より、

Λ∗D = −(cp − cv)(

∂θ

∂ρ

)

p

と表せる。また、ボイル・ゲイ=リュサックの法則 (2) より、(

∂θ

∂ρ

)

p

=1α

∂ρ

(P

K0ρ− 1

)=

P

K0α

d(1/ρ)dρ

= − P

K0α

1ρ2

であるので、結局 Λ∗D は次式となる。

Λ∗D = (cp − cv)P

K0α

1ρ2

(5)

上の三つの法則を基礎にして、ラプラスは解析的熱量学の体系を作り上げた*13。

*13 このうち、(1)項はボイル・シャルルの法則であり、当時は膨張率 αにはゲイ=リュサックによる測定値 0.375/100 �= 1/267�がもっぱら用いられていた。また、(2)項の右辺の第 1項は顕熱、第 2項は潜熱を意味している。ラヴォアジエとラプラスは潜熱概念を拡張し、現在の理解

19

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■熱素説の盛衰 [1][16]¶ ³以上のように、熱を定量的に扱うなかで熱素説が形作られ、熱容量などの扱いをめぐって 2派に分かれて論争された。

µ ´1つは、元来物質に含まれる熱素の量は、その物質の熱容量に比例するという考えである。物体が固体から

液体になる時には、比熱が大きくなるため、物質が含むことのできる熱素量が多くなり、周囲から熱素を吸収

する。こうした熱容量の変化は、気体の膨張や圧縮の際にも起こり、気体が圧縮された時は熱容量が減少する

ため、物質が含むことのできる熱素の量も少なくなり、余った熱素が熱として周囲に放出される。

この説はウィリアム・アーヴィンによって生み出され、後にアデア・クロフォードが発展させた。その後、

ドルトン、クレマン、デゾルムなどがこの説を支持した (「比熱変化理論」)。もう 1つの考えは、熱素には、温度の変化を引き起こす自由熱と、引き起こさない結合熱の 2種類があると

いうものである。結合熱は合わせて固体・液体・気体間の状態変化を引き起こし、潜熱の原因となる。この説

はラヴォアジエにより主張され、ゲイ=リュサック、ラプラス らによって展開された (「比熱・潜熱理論」)。フランス学士院は 1812年、熱素説の中の 2派の理論の対立を解決すべく、気体の比熱決定に関しての懸賞

論文を募集した。そしてそれに採用された「比熱・潜熱理論」のドラローシュとベラールの共同論文によって

決着した。「比熱変化理論」では、水素と酸素が反応して水となるような発熱反応では、反応前の熱容量より

も反応後の熱容量の方が小さくならなければならないが、ドラローシュとベラールの比熱測定結果では、それ

とは逆の結果が得られたのである*14。これ以降は、特にフランスでは「比熱・潜熱理論」の熱素説が主流と

なった。

ラプラスは、1823年の著書『天体力学』において、熱素理論の集大成を行った。またポアソンも、断熱変化の研究からポアソンの法則 (PV (cp/cv) = const.) を導き出すなど、ラプラスと同様に解析的熱量学を発展させた。

17世紀には、イギリスのフランシス・ベーコン、ボイルやフックが熱運動説を唱え、ニュートンも類似の考えを持っていた。それにもかかわらず、18世紀に熱素説が広く受け入れられた理由には、熱素理論が実験的なデータをもとに体系的理論的に構築されていたことにある。熱素説は当時さまざまな熱現象を定量的に説明

できていた。そのため、ランフォードらの実験で熱素説に不利な結果が出ても、それは熱素説の体系に多少の

修正を加えることで吸収できた。

一方、その当時の熱運動説は、定量的な理論を作り上げることができなかった。また熱運動説は、摩擦によ

る発熱は説明できたが、それ以外の熱現象については、熱素説と比べると説明に難があった。気体の諸性質を

粒子間の引力や斥力で説明するのに比べて、粒子の運動と衝突で説明するのは、格段に難しかった事情がある。

では「膨張に伴う外部仕事」に相当する熱量を潜熱概念に取り込んだ。(3)のひとつ前の式で ΛD = (1/J)P と置き換えると、「比熱・潜熱理論基礎方程式」は

dq = cvdθ + (1/J)Pdv (6)

となるので、現在の熱力学第一法則式 (エネルギー保存式)に一致する。最後の (3) 項 熱量保存則 は現在の知識からすれば誤りである。しいて言えば、

∮(dq − Pdv) = 0(熱力学第一法則) または∮

(dq/T ) = 0 (熱力学第二法則) とすべきである。(2) 項の膨張潜熱項が式 (6) のように表されるのであれば、∮

Pdv 6= 0 であるので、(3)項と (2)項は矛盾している。

*14 このとき、ドラローシュとベラールは少ない実験データをもとに、「同質量あたりの気体の比熱は圧力 (密度)とともに減少する」との誤った結論をき出し、フランス学士院のお墨付きという権威も手伝って、その後数 10 年間信じられた。後述のカルノーもこの結果を一部の推論の論拠に使った [6]。

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■気体の断熱変化と熱素説 .普通の条件であれば、ある物体から他の物体へが伝わるには比較的長い時間を要する。その時間に比べて、

短時間で気体を圧縮または膨張させると、熱が出入する時間的余裕がないために、断熱変化となる。(もちろん、保温材等で十分断熱した上で圧縮・膨張させれば、ゆっくり状態変化しても断熱変化となる。)

断熱で気体を圧縮すると、圧力は上がるが、温度も上がる。もし温度が上がらなければ、圧力は体積に反比

例して上がるが、温度が上がれば、圧力は体積に反比例する以上に上がることになる。断熱変化で圧力と温度

がどのように変わるかは、熱力学が確立する以前の人たちにとっては、かなり難しい問題であった。¶ ³断熱変化は熱エネルギーが力学的エネルギーに変わる現象であるから、熱運動説の強力な証拠の一つとな

るはずの現象である。しかし、現実には断熱変化での気体温度の挙動は、熱物質説を支える大きな根拠と

された。µ ´熱素説のうちの「比熱・潜熱理論」派のラプラスとラヴォアジエは、先述のように「膨張の潜熱」を導入し

て、膨張すると物質と熱素の結合が強くなり、潜熱になって知覚されなくなるので、結果として温度が低下す

るとした。

熱素説のうちの他方の「比熱変化理論」派のドルトンは、温度が下がったのは、膨張により気体の熱容量が

大きくなり周囲の熱を奪ったためだと説明した (この時点ではドルトンは「比熱変化理論」派で、のち「比熱・潜熱理論」派となった)。ただし、この理論では、体積が増す、すなわち容器の密度が下がるにつれて熱容量は大きくなり、真空が最大の熱を持つということになる。このことは一見理解しがたいが、気体に熱を加える

と膨張して密度が下がるという事実を踏まえれば、当時は納得できるものでもあった。

ドルトンが行った断熱変化の実験を以下に示す。後年、ジュールはこの方法を「並はずれて巧妙な工夫」と

評した [6]。

0V

1V

2V

00, θP

0101, θθλ == PP

?,202

== θPP

Isothermal change

Adiabatic change

Fig. 8 ドルトンの断熱変化実験

(1) 一端を閉じた毛細管に気体を入れ、他端を水銀 (可動)で塞いで、外気と同じ圧力の気体柱を作る。これを容

器内に入れ、まず元の圧力 (大気圧)p0 下での気体柱の体積 (長さ)V0 を

測る。

(2) 次に、ゆっくりと (等温で)圧力 p1 =

λp0 まで圧縮して、体積 V1 を測る

(V1 = V0/λを確かめる)。(3) 容器全体の圧力を急に下げて、毛細管内の気体を元の大気圧 p2 = p0 ま

で断熱膨張させ、膨張後の気体柱の

体積 V2 を測る。

膨張後の温度 θ2 は次のように求まる。

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計測した圧力、体積と温度 θ2 との間に次式が成立する (ただし、α は体膨張率)。

p0V0 ∝ 1 + αθ0

p0V2 ∝ 1 + αθ2

これより、次式が得られる。

V2

V0=

1 + αθ2

1 + αθ0

∆θ = θ0 − θ2 =V0 − V2

V0

1 + αθ0

α

実験結果では、θ0 = 10 �, λ = 2, V2 = 0.9V0

となったので、ドルトンはゲイ=リュサックによる値 α = 1/267を用いて、

∆θ = 27.7 � (7)

を得た*15。これは、断熱変化に伴う温度変化を定量的に測定した最初の例であり、ドルトンは「比熱変化理

論」の強力なスポークスマンとなった。

断熱変化の現象自体はボイルによって 1662年に発見されたが、その後の研究はクレグホン、ドルトン、ラプラス、ポアソンなど、熱素説の支持者によって行われた。そして 1820年代までは、現在とは逆に、断熱変化は熱素説の強力な証拠だと考えられていた。

■音速と断熱変化 .ニュートンは、空気の圧力と密度の間にボイルの法則が成立するとして、空気中の音速の式 vN =

√P/ρ

を導いていた。しかし、この計算値は、実際の音速より少し小さい値となることが知られていた。

ラプラスは、振動する空気の圧力と密度の関係について、次の 2点の効果を指摘した。

(1) 温度が変わらないとしても、熱素間の相互斥力は分子間距離に反比例するので、圧縮して密度を大きくすると圧力は増加する (ボイルの法則)。

(2) 圧縮により熱素が開放される (膨張潜熱)ことにより温度が上昇するから、熱素間の相互斥力がさらに増大し、圧力が増加するはずである。

ニュートンは (2)の効果を考えていないと、ラプラスは指摘した。ラプラスの示唆を受けてポアソンは、音速は

v =

√(dP

)

断熱

(8)

*15 現在の断熱変化の知識から計算すると (cp/cv = κ と表す)、p1V κ

1 = p2V κ2

T1/p(κ−1)/κ1 = T2/p

(κ−1)/κ2

より、

V2 = (p1/p2)1/κV1 = 21/1.40(V0/2) = 0.820V0

T2 = (p2/p1)(κ−1)/κT1 = (1/2)(1.40−1)/1.40 × (273.15 + 10.0) = 232.3 K = −40.9�∆θ = θ0 − θ2 = 10− 40.9 = 51�

となる。

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で与えられることを導いていた。

音速を求めるには、断熱変化を定量的に計算することが必要であり、音速を説明できれば、断熱変化の関係

式が得られ、さらには熱素の性質がより明確になると考えられた。

■ラプラスによる音速計算 (1816年) .1816年ラプラスは、断熱変化 AB を、Fig. 9のように等温変化 AC と 等積変化 CB に分けて計算しよ

うとした。

等温変化部 AC について、ボイル・ゲイ=リュサックの法則 (2)と比熱・潜熱理論基礎式 (3)より、次の関係式が得られる。

PC − PA = K0(1 + αθ)∆ρ =P

ρ∆ρ (9)

qAC = −Λ∗D∆ρ (10)

また、等積変化部 CB についても同様に、次の関係式が得られる。

PB − PC = K0ρα(∆θ)v (11)qCB = cv(∆θ)v (12)

ここで、AB 間が断熱変化であるから、熱量保存則(4)を用いると、

qAC + qCB + qBA = qAC + qCB = 0

ρ

P

ρ ρ+∆ρ

PA

PB

PC

A(θ)

B(θ+∆θ)

C(θ)

Fig. 9 ラプラスの音速計算

となるので、これに式 (10)と (12)を用いて、

qAC + qCB = −Λ∗D∆ρ + cv(∆θ)v = 0

つまり、

(∆θ)v =Λ∗Dcv

∆ρ (13)

でなければならない。

式 (9)と (11)を加え合わせて、式 (12)を用いると、

∆P = PB − PA =P

ρ∆ρ + K0ρα(∆θ)v =

(P

ρ+ K0ρα

Λ∗Dcv

)∆ρ

さらに式 (5)の Λ∗D を用いると、

∆P =(

P

ρ+

cp − cv

cv

P

ρ

)∆ρ =

cp

cv

P

ρ∆ρ (14)

となる。これが断熱変化における ∆P と ∆ρ の関係式である。

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これより、(

dPdρ

)断熱

= cp

cv

Pρ であり、音速は次式となる*16 。

v =

√(∂P

∂ρ

)

断熱

=

√cp

cv

P

ρ=

√cp

cvK0(1 + αθ) (15)

■ポアソンによる音速計算 (1823年) .1823年、ポアソンは、断熱変化 AB を、Fig. 10のように等圧変化 AD と 等積変化 DC、CB に分けて計

算しようとした。A、 D、 C、 B 各点の温度を、θ, θ −∆τ, θ, θ + ∆θ とする。

ボイル・ゲイ=リュサックの法則 (2)と比熱・潜熱理論基礎式 (3)を適用すると、等圧変化部 AD では、

PD − PA = 0qAD = −cp∆τ

等積変化部 DB では、

PB − PD = K0α(ρ + ∆ρ)(∆τ + ∆θ)qDB = cv(∆τ + ∆θ)

が成立する。

ρ

P

ρ ρ+∆ρ

PA

PB

PC

A (θ)

B (θ+∆θ)

C (θ)

D (θ-∆τ)

Fig. 10 ポアソンの音速計算

したがって、断熱変化 AB での圧力変化は次式となる。

(∆P )断熱 = PB − PA = K0α(ρ + ∆ρ)(∆τ + ∆θ) (16)

ここで、熱量保存則 (4)より、

qAD + qDC + qCB = −cp∆τ + cv∆τ + cv∆θ = 0

が成立するので、∆τ =

cv

cp − cv∆θ

*16 この音速の結果は正しい。誤った熱量保存則 (4)を用いているにもかかわらず、正しい答えが求まっている理由について諸説がある [6]。未知の経路 ABの計算を置き換えて AC+CB とした場合、AC:CB の比率をどのように取るかにより結果が異なる。AB は等

エントロピー変化であるから、∫

(dq/T ) が等しくなるように取るべきところを、ラプラスは∫

dq が等しくなるように取ったの

である。しかし、音速の場合は微小変化だけが問題になるので、∆ρ → 0, ∆θ → 0 の極限では、∫

(dq/T ) の分母の T は一定値に収束するので、結果的に影響しなかった、と考えるのが分かりやすいのではないか。

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これを式 (16)用いると、

(∆P )断熱 = K0α(ρ + ∆ρ)(

cv

cp − cv+ 1

)∆θ ' K0αρ

cp

cp − cv∆θ (17)

最後の近似は、2次の微小量を無視している。これを圧力と密度の関係に直すために、ボイル・ゲイ=リュサックの法則 (2)を用いて、∆P, ∆ρ,∆θ の関

係を表すと、

∆P =∂P

∂ρ∆ρ +

∂P

∂θ∆θ = K0(1 + αθ)∆ρ + K0αρ∆θ

これに、断熱変化の ∆P, ∆θ の関係式 (17) を組み合わせて、∆θ を消去すると、

(∆P )断熱 =cp

cp − cv[(∆P )断熱 −K0(1 + αθ)∆ρ]

したがって、 (dP

)

断熱

←(

∆P

∆ρ

)

断熱

=cp

cvK0(1 + αθ) =

cp

cv

P

ρ

これより、式 (15)の音速が求まる。

■ふたたびラプラスによる音速計算 (1823年) .ラプラスは熱量保存則に従って、熱関数 (状態量としての熱)を考えた。これを用いると、まったく数学的な操作だけで結果を得ることができる。

熱関数 Q を P, ρ の関数であると考えて、

Q = Q(P, ρ)

と表す。任意の微小変化では

dQ =∂Q

∂PdP +

∂Q

∂ρdρ (18)

であるから、これを断熱変化 (dQ = 0) に適用して、dP/dρ を求めると、(

dP

)

断熱

= −∂Q

∂ρ

/∂Q

∂P(19)

が得られる。

右辺の分子を評価するために、式 (18)を等圧変化に適用すると

(dQ)p =∂Q

∂ρdρ = cp(dθ)p

これより、ボイル・ゲイ=リュサックの法則 P = K0ρ(1 + αθ) を考慮して、

∂Q

∂ρ= cp

(∂θ

∂ρ

)

p

=cp

α

∂ρ

(P

K0ρ− 1

)= − cpP

K0αρ2(20)

また、分母を評価するために、式 (18)を等積変化に適用して

(dQ)ρ =∂Q

∂PdP = cv(dθ)ρ

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より、同様にして∂Q

∂P= cv

(∂θ

∂P

)

ρ

=cv

α

∂P

(P

K0ρ− 1

)=

cv

K0αρ(21)

式 (20)と (21)を (19)に用いて、(

dP

)

断熱

=P

K0αρ2cp

/1

K0αρcv =

cp

cv

P

ρ(22)

となる。これより、式 (15)の音速が求まる。以上のいずれも、熱量保存則 (4) を用いているので、導き方は誤りであるが、その結果の式 (15) は、理想気体の音速として正しい結果であり、実験結果にほぼ合致する。

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2 熱機関とカルノーの着想

2.1 カルノーの生涯

ニコラ・レオナール・サディ・カルノー (NicolasLéonard Sadi Carnot、1796-1832)はフランス革命期の軍人、政治家、科学者であったラザール・カ

ルノーの長男として生まれた。少年時代から、水車

のメカニズムなど、科学的な現象に興味を持ってい

たという。また控え目で非社交的であったが、正義

感と感受性の強い性格であった。

1812年、エコール・ポリテクニークに入学。1814年に卒業後公務実施学校工兵科へと進み、技師とし

て活動した。1814 年、15 年のナポレオン失脚により、共和派の政治家であった父ラザールはマグデブ

ルグでの亡命生活を余儀なくされたが、サディ・カ

ルノーは王政復古下の軍隊に残った。

1819年参謀部の中尉に任命されたが、まもなく休職し、パリやその近郊で芸術鑑賞や楽器の演奏など

のかたわら、熱機関と科学の研究を行った。当時パ

リ工芸院にいた応用化学者のニコラ・クレマンとも

親交を持っていた。Fig. 11 ニコラ・レオナール・サディ・カルノー

1824年、『火の動力、および、この動力を発生させるに適した機関についての考察』(以下、『火の動力』)を出版。これは熱力学における画期的な論文であり、出版直後に技術者のジラールによりフランス学士院で紹

介された。その場にはラプラス、アンペール、ゲイ=リュサック、ポアソンなど、当時のフランスの科学者が

多数出席していたとされる。しかしその場ではまったく反響を得ることがなかった。

1826年、工兵隊に戻り大尉となるが、軍隊の生活を嫌い、1828年に軍服を脱ぎ、熱機関と科学の研究を続けた。1830年、フランス 7月革命が起こるとカルノーはこれを歓迎、研究も一時中断した。しかし政治に直接的に関わろうとはしなかった。カルノーと弟のイッポリート・カルノーのどちらかを貴族院に迎え入れる提

案があったときも、世襲を嫌う亡き父の立場を尊重し、弟と共にこの提案を断っている。7月革命後は再び科学に没頭し、気体の性質などに関する研究を行った。しかしその研究途中の 1832年、コレラにより 36歳の生涯を終えた。

死後、遺品はコレラの感染防止のためほとんどが焼却処分されたため、カルノーの経歴や人となりを伝える

ものは、わずかに残された彼自身のノートと弟イッポリート・カルノーが著した伝記がほぼすべてである [17]。

■カルノー論文の時代的背景 18世紀後半から始まった産業革命は、19世紀に入って新しい段階を迎えていた。1800年にワットの特許期間が切れ、1802年にリチャード・トレヴィシックが高圧機関を発明し、1814年には、アーサー・ウールフが膨張原理を用いた高圧複式機関 (多段膨張式機関) を完成した。ウールフ機関はワット低圧機関の 2倍の熱効率で作動した。

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当初イギリスは「機械輸出禁止令 (1774年)」を出し、機械輸出や技術者の渡航を禁じていたが、ナポレオン戦争が終了した 1815年頃から、フランスでも急速に産業革命が進行した。イギリスに比べてフランスでは石炭資源が乏しかったので、高効率ウールフ機関が急速に普及していった。

カルノーは熱機関を考える際に、水の動力とのアナロジーに言及している。古くから用いられていた水車

は、18世紀に著しく発達し、産業革命の中心であった紡績工場は河に沿って建てられていた。イギリスに遅れて産業革命に入ったフランス、ドイツでは、蒸気機関と並行して、水柱機関 (または水圧機関 Fig. 12)も普及した。これは、蒸気機関同様に高圧水をシリンダーに導いてそこから動力を取り出すもので、最初はニュー

コメン機関の設計の影響を受け、やがて複動型、膨張作動原理に当たるもの、複シリンダー機関も作られた。

カルノーが念頭に置いた「水の動力」はこのような「水柱機関」であろうとされている。

A: 水圧菅

B: 蓄圧器 (空気室)c: 絞り弁

d: 二重円筒すべり弁

f: 水導入出路

g: 水圧シリンダ

w: ピストン

x: 排水管

Fig. 12 水柱機関 (水圧機関)

水車や水柱機関の発展に応じて、その理論が主としてフランスで著しく進んだ。軍人技術者であったジャ

ン=シャルル・ド・ボルダやカルノーの父ラザール・カルノーらが貢献し、水の流れから得られる動力の計算

法や損失の分析がなされた。彼らは、「水力機関で最高の出力を得るには、水が衝撃なしに機関に入り、ほと

んど速度を失った状態で機関から出なければならない」ことを明らかにした。力学は 17世紀に基礎が置かれ、18 世紀に高度に数学的展開を遂げており、水力機関の理論 (水力学も含む) は一応の完成の域に達していた[17]。それに対して、熱機関については理論らしい理論はなく、行き当たりばったりで改良がなされていた。フラ

ンスで理論的、数学的訓練を受けた科学者・技術者の中から、熱機関の理論的扱いに関心を向ける者が現れ、

その中にサディ・カルノーがいたのである。

(1) 高圧機関が低圧機関に勝る理由はどこにあるのか。(2) 熱から動力を取り出すのに、水よりも高性能な物質があるのか。作業物質の種類がどう影響するのか。(3) 熱から得られる動力に原理的な上限があるのか。

カルノーはこのような問題意識を持ち、熱による動力発生の原理を一般的に明らかにすることを試みたので

ある。

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2.2 カルノーの『火の動力』

■理想的な熱機関 熱機関による動力の発生について、カルノーは次のように考えた [17]。

ところで、作動中の実際の蒸気機関では何が起こっているのだろうか? 火炉のなかで燃焼によって生じた熱素は、ボイラの壁を通りぬけて、いわば蒸気に合体する。蒸気は熱素を伴ってシリンダヘいき、

そこである仕事をしてから凝縮器へ、そして、そこにある冷い水と接触して水になる。こうして最後に

は、凝縮器の冷い水が燃焼によって生じた熱素を受けとることになる。凝縮器の水は、あたかも、直接

火にかけられたのと同じに、蒸気を介して温度があがる。ここでは、蒸気は熱素を供給するなかだちに

すぎない。これは蒸気で風呂をわかすのと同じことであるが、違うのは、いまの場合には蒸気の運動が

利用に供されるということである。

いま述べた操作において容易に認められるのは、熱素のつり合いの回復、すなわち、多かれ少かれ熱

い物体からより冷たい物体への熱素の移動である。ここで熱い物体にあたるのは、火炉の熱せられた空

気であり、冷たい物体にあたるのは、凝縮用の水である。 �(中略)�したがって、蒸気機関で動力が発生するのは、実際に熱素が消費されるためでなく、熱い物体から冷

たい物体への熱素の移動、すなわち、燃焼のような化学作用、あるいは何かその他の原因によって破ら

れたつり合いの回復によるのである。まもなくわかるように、この原理は熱によって動かされるすべて

の機関に適用できる。注意を向けなければならない。

このようにカルノーは、高温の物体の持つ熱 (熱素)が低温の物体へ移動しようとする性質を利用して仕事 (動力)を取り出すのが熱機関の原理であると考えた。このため、高温の熱源

(火炉) と並んで、低温の熱源 (凝縮器の冷却水) が不可欠となる。

カルノーの考えでは、「温度差の存在するところでは、ど

こでも動力の発生が可能である。」しかし、高温の火炉と低温

の冷却水を直接接触させた場合は、動力を発生できないので、

これはまったくの損失となる。熱を移動させる際の損失を少

なくしようと思えば、温度差をできるだけ少なくすることが

必要である。蒸気機関では火炉から蒸気へかなりの温度差で

熱が移動する。凝縮器の中で、蒸気から冷却水へも少なから

ぬ温度差で熱が移動している。

C

+q

−θ

+q

Hot reservoir (Furnace)

Cold reservoir (Cooler)

W

Fig. 13 熱機関のモデル

これらの考察からカルノーは、熱機関で動力の最大値を得るための条件を次のように考えた。

熱素のつりあいの回復はすべて動力を生じる原因となり得るのだから、動力の発生を伴わないつりあ

いの回復は、正味の損失とみなさなければならない。それゆえ、少し考えてみればわかるように、物体

の体積変化に基づかない温度変化 (つまり、断熱変化以外の温度変化)は、すべて熱素のつりあいのむだな回復以外の何ものでもない。したがって、最大値の必要条件は、熱の動力を実現するために使用さ

29

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れる物体において、体積変化によらない温度変化がまったく生じない (つまり断熱変化と等温変化だけを行う)、ということである。逆にこの条件が満たされれば、必ず最大値が達成される。火力機関を建造するにあたって、この原理を決して忘れてはならない。これは火力機関の根本的な基

礎である。これを厳密に守ることはできないとしても、少なくとも、できるだけこの原理からはずれな

いようにしなければならない。

結局、カルノーが考える理想機関では、作業物質は (高温または低温の熱源とつり合いを保って)等温で熱をやり取りして、それ以外では、断熱変化 (膨張または収縮)して温度変化することになり、

等温膨張 (加熱) → 断熱膨張 (温度降下) → 等温圧縮 (冷却) → 断熱圧縮 (温度上昇)

のいわゆるカルノーサイクルとなる。

カルノーは、理想的な熱機関は常につりあいを保って行われる変化で構成されるべきであると考えた。水力

機関において、水が衝撃なしに機関に入らなければならないのと同様に、熱機関においても、作業物質とピス

トンとが釣り合いを保って作用し合い、できる限り小さい温度差で熱を授受するべきである。つまり、現在の

準静的変化 をおこなうべきであると考えたのである。このような変化は、熱と仕事の出入りを逆にして逆方

向に動作させることができるので、サイクル全体を逆の向きに動かす (逆サイクルとする)と、動力を外部より加えて、低温の物体から高温の物体へ移動させる機械 (現在のヒートポンプ)になる。水柱機関を逆に動かすとポンプになるのと同様である。¶ ³カルノーの考え方の基礎は次の 2点にあったといえる。

(1) 熱機関の原理は、高温物体から低温物体への熱の移動によるつり合いの回復を通じて、動力を取り出すことにある。

(2) 無駄なく動力を取り出すには、温度差をできるだけ少なくして熱を移動させ、機関に対する力の衝撃をなくして、準静的変化 (可逆変化)を行わせることが必要である。

µ ´

30

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2.3 カルノーの定理

以上のように、カルノーは力学的および熱的なつりあいを保って動作する理想的な可逆機関を考え、その熱

効率が何で決まるかを考察する。

高温 θ+ の炉と低温 θ− の冷却器との間で作動する二つの熱機関を考える。炉から冷却器へ落下する熱量

q+ は両機関で等しいものとする*17。

BA

+q

−θ

+q

+q +q

Cold reservoir (Cooler)

Hot reservoir (Furnace)

AWBW

Fig. 14 二つの熱機関

BA

−θ

+q

+q

+q+q

BWBA WW −

Hot reservoir (Furnace)

Cold reservoir (Cooler)

Fig. 15 熱機関とヒートポンプ

このうち、B が可逆サイクル機関であるとすると、B のサイクルを逆に動かしてヒートポンプとして動作させ、それに必要な動力 WB (またはその一部)を A の熱機関が生み出す動力 WA でまかなうものとする。

このとき、炉と冷却器の熱の出入りは、両機関で打ち消されて、何の変化も生じない。そこで、もし、

WA > WB であれば、両機関から正味 WA −WB (> 0) の動力が継続的に取り出されることになり、永久機

関 (現在で言う第一種永久機関)となるので、WA ≤ WB でなければならない。つまり、同じ温度の熱源間で

動作する熱機関では、可逆サイクル機関の動力 (熱効率)が最大となることがわかる。また、A の熱機関も可逆サイクル機関であれば、A のサイクルを逆に動作させて組み合わせると、同様の推

論より、WA ≥ WB も同時に成り立たねばならない。これより、両熱機関が共に可逆サイクル機関であれば、

作業物質の種類や機関の形式に関係なく、動力 (熱効率)が等しくなければならないことがわかる。カルノーは次のように結論する。¶ ³「熱の最大の動力は、それを取り出すために使われる作業物質にはよらない。その量は、熱素が最終的に

移行しあう二つの物体の温度によって一義的に決定される。」これが カルノーの定理 である。µ ´

*17 カルノーは当時の支配的な考え (熱素説と熱量保存則)にしたがって立論しているので、高温熱源から取り出す熱量と低温熱源へ排出する熱量は共に q+ で、等しくなっている。この場合には、ここで見るようにエネルギー保存則に矛盾する第一種永久機関となる。エネルギー保存則をもとにするならば、低温熱源へ排出する熱量は q− = q+ −W としなければならない。この問題は、3.3節で再度取り上げる。カルノーは遺品のノート『数学・物理学その他についての覚え書』のなかで、熱量保存則を捨てて、熱と運動を合わせた「動力」

の保存則について記述し、当時まだ誰も求めていなかった熱の仕事当量 (3.63J/cal)も求めている。

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ここで用いた背理法による証明もカルノーの発明品であり、後年のW.トムソンやクラウジウスも同じ方法を用いている。

■カルノー・サイクル カルノーが例として示した気体 (理想気体)のカルノーサイクルの動作を Fig. 16に示す。シリンダー頭部に熱源 (炉または冷却器)を接触したときには自由に熱を通すが、それ以外では、シリ

1θ 2

θ

A B C D

冷却器

+q

+q

Fig. 16 気体のカルノーサイクル

ンダの側面も含めて断熱とする。

A → B シリンダーには温度 θ2 の空気が適量入っているものとする (A の状態)。空気を圧縮すると、熱を吸収するものがない (断熱圧縮となる)ので、温度が上昇する。温度が θ1 となるまで圧縮して、ピストン

を止める (B の状態)。B → C シリンダー頭部に温度 θ1 の炉を接触させ、空気の温度が下がらないようにゆっくりとピストンを引

き上げ、空気を膨張させる。膨張により空気の温度は下がろうとするので、炉から空気へ熱 (熱素)が移動して、空気の温度は θ1 のまま一定に保たれる。

C → D 所定の熱 q+ が移動したら、シリンダー頭部から炉を離し (C の状態)、さらに膨張を続けると、空気はもはや、熱を供給してくれるものがない (断熱膨張する)ので、温度が下がる。こうして、空気の温度が冷却器の温度 θ2 に等しくなれば、ピストンの動きを止める (D の状態)。

D → A シリンダー頭部に温度 θ2 の冷却器を接触させ、空気の温度が上がらないようにゆっくりとピストン

を下げて、空気を圧縮する。圧縮により空気の温度は上がろうとするので、空気から冷却器へ熱が移動

して、空気の温度は θ2 のまま一定に保たれる。ピストンが最初の位置 (A の状態)となったら、シリンダ頭部から冷却器を離す。

以下、A → B → C → D → A を繰り返す*18。

*18 よく見慣れたカルノーサイクルの P-V 線図を描いたのは、後年カルノー論文を引用・紹介したエミール・クラペイロンであり、カルノー自身は描いていない。

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■カルノー関数 カルノーの定理より、カルノーサイクルの熱効率 W/q+ は両熱源の温度 θ+, θ− だけの関数

であり、W

q+= Ψ(θ+, θ−) (23)

と表すことができる。ここで、θ+ > θ−,Ψ(θ+, θ−) > 0 であり、θ+ → θ− のとき、Ψ(θ+, θ−) → 0 となる。

θ

V

adiabatic

change

W

+q

+q DA

B C

adiabatic

change

Fig. 17 カルノーサイクル θ − V 線図

θ

V

θθ ∆−

θadiabatic

changeW∆

+q

+qD'

A'

B' C'adiabatic

change

Fig. 18 微小温度差のカルノーサイクル

今、Fig. 18 に示すように、温度 θ と θ −∆θ の微小な温度差間で作動するカルノーサイクル A'B'C'D'A'を考える。

lim∆θ→0

∆W/∆θ

q+= lim

∆θ→0

{Ψ(θ, θ −∆θ)

∆θ

}≡ 1

Θ(θ)(24)

と置くと、次の関係が成立する。∆W

q+= Ψ(θ, θ −∆θ) =

∆θ

Θ(θ)(25)

またはW

q+= Ψ(θ+, θ−) =

∫ θ+

θ−

Θ(θ)

ここで、 1/Θ(θ) は単位温度差、単位熱量当たり得られる仕事量を表し、Θ(θ) (または 1/Θ(θ) )はカルノー関数とよばれる。カルノー関数は、作業物質の種類に依存しない温度だけの関数である。

10 年後にカルノー論文を紹介したエミール・クラペイロン (Benoît Paul Émile Clapeyron、1799-1864)は、このカルノー関数は「きわめて重要で、固体・液体・気体における熱現象間を結びつける環である」と述

べ、カルノー関数をもとにして、相変化における普遍的法則 (後のクラペイロン=クラウジウスの式)

dP

dθ=

Λ蒸発v気 − v液

1Θ(θ)

を導いた*19。

*19 後年、W.トムソンによりカルノー関数を用いた温度 (熱力学的温度)が定義された。熱力学的温度は T = Θ(θ)/J であり、理想気体による温度 T ∝ PV に一致する。

33

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■気体サイクルの計算 [17]¶ ³カルノーは熱素理論に基いて、等温変化、気体の比熱等についてもいくつかの解析を行った。

µ ´Fig. 19に示すように、気体が Aから Bまで等温変化するときの仕事量と熱量を求める。

V

AB

N

等温線

θ

等積線

等圧線

Nθθ ∆−

NBq

ABq

ANq

p

V

A

B

N

等温線 θ等積線

等圧線

Nθθ ∆−

Fig. 19 等温変化の計算

微小な体積変化 dV による仕事は dW = PdV となるので、これに P = R(α−1 + θ)/V を用いて、

W (θ) =∫ VB

VA

R(α−1 + θ)dV

V= R(α−1 + θ) ln

(VB

VA

)

となる。

これより、Fig. 18の微小温度差のカルノーサイクルの仕事量は

∆W (θ) = W (θ)−W (θ −∆θ) = R∆θ ln(

VB

VA

)

となる。

また、熱量を求めるために、∆W (θ) をカルノーの定理 (25) に用いて、等温変化での加熱量は

q+ = Θ(θ)∆W

∆θ= RΘ(θ) ln

(VB

VA

)(26)

となる。これより次の定理が得られる。

定理1 等温変化において、出入りする熱量は気体の種類に依存しない。

定理2 等温変化において、体積変化が幾何級数を成せば、熱の出入りは算術級数をなす。

また、Fig. 19に示すように、等温変化 AB を等積変化 AN と等圧変化 NB に分けて考えると、

qAN = CV (−∆θN )qNB = CP ∆θN

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これよりq+ = qAB = qAN + qNB = (CP − CV )∆θN

これと式 (26)を比較して、(CP − CV )∆θN = RΘ(θ) ln

(VB

VA

)(27)

したがって、次のことがわかる。

定理3 定圧比熱と定積比熱の差は、あらゆる気体において同一である。

ここで、熱機関に戻って、カルノー機関で得られる動力と温度差の関係について考える。単位温度差単位熱

量あたり得られる仕事は次式である。∆W

q+=

∆θ

Θ(θ)

Θ(θ)が一定値なら、温度範囲に関わらず、∆W ∝ ∆θ となるが、そうでなければ、比例するとは限らない。

まず仕事について、気体では、∆W = R∆θ ln(VB/VA) であるので、体積比 VB/VA が同じであれば、温度

θ によらず一定である。

一方、熱量 q+ について、A(θA、VA) から C(θC、VC) へ至る変化について、Fig.20 の 二つの経路を比較する。

A → B → C の経路での熱量を qv +qθ、

A → B′ → C の経路での熱量を qθ′ + qv′

とすると、熱量保存則より qv + qθ = qθ′ +

qv′ つまり、次式の関係がある。

qθ′ − qθ = qv − qv′

V

A B'

θ

θq

vq'vq

'θq

CB

Fig. 20 体積変化による熱量への温度の影響

しかるに、ドラローシュ=ベラールの実験結果 (20ページ参照)では、密度が小さくなるほど (体積が大きくなるほど)定積比熱は大きくなるので、qv′ > qv であるので、qθ > qθ′ となる*20。

したがって、

定理4 気体の体積変化による熱量 (等温変化時の熱量)は、温度が高いほど大きい。

得られる仕事量があい等しいことを考慮すると、

定理5 熱素の落下は、高い温度で起こるより低い温度で起こる場合の方が、より多くの動力を発生する。

*20 熱量保存則は正しくないのでこの推論方法は間違っているし、さらにドラローシュ=ベラールの実験結果も間違っている。しかし、正しくは Jqθ = W (θ) = R(α−1 + θ) ln(VB/VA) となるので、定理4は間違いではない。

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3 熱力学の成立

3.1 熱素説の否定

Fig. 21 ランフォード伯 (トンプソン)

■ランフォード伯の生涯 ランフォード伯 (Sir Benjamin Thompson、Count Rumford、1753-1814)は元の名をベンジャミン・トンプソンといい、イギリス植民地時代のアメリカ、マサチューセッツ州のウォー

バーンで生まれた [1] [18]。1772年に 14歳年上の裕福な未亡人サラー・ロルフと出会い、ポーツマスで結婚した。妻と植民地の総督との関係からニューハンプシャー軍の士官に任命された。アメリカ独立戦争が始まる

と、王党派に立って独立派と戦おうとしたため、独立派に自宅を襲われ、単身でイギリスへ逃亡した。独立軍

の情報を持っていたので歓迎され、イギリス軍の助言者となった。

この間に、火薬の爆発力の実験を行い、1781年に王立協会で発表して高い評判を得た。1778年から始めていた火薬の研究中に、空砲の砲身は弾丸を入れた時よりも熱くなることに気づき、本来弾丸を発射させるのに

使われる火薬の作用が、空砲時には砲身の金属粒子の加熱に使われたためと考え、熱素説に疑問を持つように

なった [1]。その後ドイツに移り、11年間ミュンヘンで過ごした。ミュンヘンの工場で砲身の中ぐりにおける切削量と発熱量の関係に注目し、鈍いバイトは鋭い道具を用いたとぎに比べて、熱をよけいにだしながらも、穿孔の量

はかえって少ないことに気がついた。熱素説に従うと、鋭いバイトが砲身を多量に削り取って、金属に結びつ

いていた熱物資をより多く解放したぱずであるが、逆の結果となっている。このことから熱素説を否定し、熱

はそれ自身機械的運動の一形態であると報告した。1791年には神聖ローマ帝国からランフォード伯の称号を得た。

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■ランフォードの実験 ランフォードはミュンヘンの兵器工場で大砲の中ぐり行程で発生する大量の熱に注目

し、その発熱量を測定し、その結果を 1798年、「摩擦により励起される熱の源についての実験的研究」と題して王立協会で発表した [6]。ランフォードはこの中ぐりを水中で行い、以下の結果を得た。

(1) 熱が減衰することなく発生し続けること、(2) 金属を水当量に換算したものを含めて総量 26.58ポンドの冷水が 2時間半で沸騰したこと、(3) 他方、金属の削り屑の比熱は元の金属の値から変わらなかったこと。

Fig. 22 ランフォードの中ぐり実験装置 [19]

¶ ³ランフォードは、削り屑の比熱に変化がないことから、この熱の発生源は (熱素説「比熱変化理論」による)削り屑ではないこと、金属円筒ではないこと (元の円筒は次第に小さくなっていく)、水や空気から発生しないこと、を主張した。無制限に熱を供給し続けることができるものは、「運動」以外にはあり得な

いと結論した。µ ´ランフォード自身、「熱の運動」の実体は不明としており、エネルギーという概念は持っていなかった。「物

質ではありえない」との主張であり、物質に変わるものとして「運動」を選択したのである。

これに対して、「比熱変化理論」者のドルトンは、発生した熱は切削屑だけでなく、金属全体がなかぐりの

強い力により圧縮されたために熱を生じたのであり、切削屑だけを取り上げるのは誤りであるとした。また、

「比熱・潜熱理論」の側も同様に、摩擦は圧縮の一形態であり、「膨張の潜熱」が圧縮により開放された結果、

熱が出てきたのであると反論した。

ランフォードの主張は、ハンフリー・デービー以外に、支持者を得ることはできなかった。

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デービーの助太刀 化学者であったハンフリー・デービー (1778-1829) *21 はこのランフォードの意見に賛

同し、自らも 1799年に次のような実験を行った。全体の装置を水の氷点に保っておき、真空中で二つの氷塊を時計仕掛けで摩擦させ、一部を融解させるという実験であった。彼はその結果から、熱は物体の粒子の特殊

な運動、おそらくは振動であろうと推論した。

後年のジュールの解釈 半世紀後の 1850年、ジュールはランフォードの実験から熱の仕事当量を推測しようとした。ランフォードが 1798年論文の別の場所で、馬 1頭で中ぐり盤を回したと記述しているのをもとに、1馬力で 2.5時間の仕事量が 26.58ポンドの水を 180 °F 加熱する熱量に等しいとして、

J =33000 lbf ft /min× 2.5× 60 min

26.58 lb× 180 °F =49500004784.4

= 1034.6 lbf ft/Btu

=1034.6 kgf× 0.3048 m

1 kg× (5/9) � = 567.6 kgf m/kcal = 5.566 kJ/kcal

とした。これは彼の求めた値 772 lbf ft/Btu (423.5 kgf m/kcal)と大きな差ないとした。

*21 ナトリウム (Na)、カリウム (K)、カルシウム (Ca)、マグネシウム (Mg)、ホウ素 (B)、バリウム (Ba) などの発見者、塩素やヨウ素の性質を詳しく研究した化学者として知られる。電気化学分野で後に著名となったマイケル・ファラデーを、実験助手として使っていたことでも知られるが、後年、不仲になった。

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■熱の波動説の登場 18世紀の終わりごろから、熱放射に関する研究が盛んになっていた。熱放射の本質についてさまざまな考え方があったが、大きく分けると、物体から熱物質 (熱素)が直接放射されるとする考え方と、物体の間の空間を満たす熱物質 (熱素)中の波動であるとする考え方の二つがあり、どちらかというと前者の考え方が主流であった [1][16][6]。一方でこの熱放射に関しては、古くから光との類似性が指摘されていた。そして 1800年、ウィリアム・ハー

シェルは太陽光をプリズムで分け、波長ごとの熱作用の力を調べる実験を行った。その結果、青色の波長から

赤色の波長へと近づくごとに熱は強くなり、さらに赤色の波長を越えたあたり (赤外線)に熱は最大になることが確かめられた。この実験により、熱放射と光の類似性は確かなものとなった。

ハーシェルの実験に着目したのがトマス・ヤング (ThomasYoung, 1773-1829, 英国)だった。ヤングはハーシェルの実験と同じ年に、光の波動説を唱えた。さらにヤングは熱に関するラン

フォードの研究に賛同し、熱は摩擦によって無から生み出される

のだから物質ではなく、光や音と同じように、媒質の中を波動に

よって伝播するものだと論じた。

当時、光については波動説と粒子説が対立していたが、当初は

ニュートンの威光もあって粒子説が有力であったが、1820年代には波動説が優勢となり、1830年ごろにはその優位は決定的なものになっていた。そしてそれに伴って、熱の波動説も支持され

るようになってきた。

ただし、真空中を伝わる光の媒質は、宇宙全体を満たしている

「エーテル」とされていたので、熱はそのエーテルの振動という

ことになる。互いに斥力を有する熱素はエーテルと別のものであ

るが、エーテルの振動を熱素の振動に置き換える考え方も現れる

など、熱素説と熱運動説の折衷的な考え方も生まれた。

Fig. 23 トマス・ヤング

ゲイ=リュサックは 1820年の講義で、熱の原因は熱素説と波動説があることに触れたが、波動説はまだすべての熱的現象を説明できていないため、自身としては旧来の熱素説を維持すると述べた。

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■マイヤーの生涯 ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー (Julius Robert von Mayer、 1814-1878)は、ドイツの医師で物理学者。

Fig. 24 マイヤー

ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州のハイルブロンで生まれた。1832年、チュービンゲン大学に入学し医学を学んだ。科学実験が好きだったマイヤーは、大学時代に医学の他に化学の講義も受講した。また、講

義とは別に自ら個人的に実験を行ったりした。

1840年、オランダ船の船医として東インド諸島への航海に同行した。航海中、東ジャワで瀉血 (しゃけつ)で採取した船員の静脈血が、寒い地域のそれより鮮やかな赤い色をしていることに気づき、静脈血に酸素が多

く含まれているのは、熱帯地域では体温維持に必要な熱量が少なくて済むため、酸素の消費量が少ないという

ことを意味するのではないかと考えた。さらにマイヤーはこの考えを発展させ、酸素の消費は体温の維持だけ

でなく、人体の運動の結果にも依存するので、熱と運動とは何らかのかかわりがあるのではないかと考えた。

以後マイヤーはこの考えに没頭し、帰国後の 1841年から 1851年にかけて、5 編の論文を執筆した。しかし論文はあまり評価されず、多くは掲載を拒否されて私費出版した。

1848年、マイヤーは娘 2人を百日咳で相次いで失った。同年フランスから波及した三月革命に参加していた兄の救済にむかい、マイヤー自身も銃殺される危機に陥ったりした。

同じころ、ジュールにより熱の仕事当量の値が実験的に求められ、マイヤーは、熱の仕事当量を最初に求め

たのは自分であると主張したが、世間的には認められず、時には批判も受けた。

こうした出来事により、マイヤーの精神は病み、1850年には自殺未遂を図った。その後、マイヤーは研究を中止していたが、学会で、マイヤーの業績を評価する動きが出てきた。1854年、ヘルムホルツが講演で、エネルギー保存則を最初に発表したのはマイヤーであると語り、英国のチンダルも 1860年頃、ジュールに対するマイヤーの先取権を擁護した。1871年、これまでの研究結果により、英国王立協会よりコプリ・メダルを与えられた。マイヤーはその 7年後にハイルブロンにて 64歳で死去した [20]。

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■マイヤーの主張 マイヤーは、物体の運動や熱、電気といった現象の原因となるものを考え、それを「力」

(現在のエネルギーに近い)と呼んだ [6]。そして、その「力」の量は常に一定であり、消滅することはないと信じていた。「力」の1つである運動の力として、最初は mv、その後 mv2、そして 1845年では mv2/2 を当

てた。

マイヤーは「力」は保存されるものと考えたが、現実には多くの場合、動いている物体はしばらくすると止

まってしまう。この現象で力の保存則を成り立たせるには、運動の力は熱へと変化したととらえればよいと考

えた。

熱の仕事当量 マイヤーは、一定の量の熱を生み出すにはどれだけの運動が必要になるかを考えた [6]。¶ ³マイヤーの考えでは、

(1) 気体を圧縮したとき生じる熱 (温度上昇)の量が気体の種類によらない (デューロンの実験)のは、一定の仕事が一定の熱を生むため。

(2) また、気体の自由膨張で温度が変わらない (ゲイ=リュサックの実験)にもかかわらず、普通の膨張では温度が下がるのは、外圧に抗して仕事をするため。

だとするなら、定圧加熱に要する熱と定積加熱に要する熱の差は外圧に抗してする仕事ということに

なる。µ ´マイヤーは、当時知られていた空気の (ドラローシュとベラールによる)定圧比熱 cp = 0.267 cal/g � と、

(デューロンによる)比熱比 cp/cv = 1.421 を用いて、0 �、 760 mmHg、 V =1 cm3 (0.0013 g) の空気について計算すると、

定圧加熱量 : (∆q)p = mcp∆θ = 0.0013× 0.267 cal/g× 1 cal = 0.000347 cal定積加熱量 : (∆q)v = (∆q)p/1.421 = 0.000244 cal膨張仕事量 : ∆W = P × αV ∆θ = 1033 gf/cm

2 × 1/274�× 1 cm3 × 1 � = 3.770 gfcm

したがって、熱の仕事当量 J は

J =∆W

(∆q)p − (∆q)v=

3.770 gfcm(0.000347− 0.000244) cal = 36603 gfcm/cal = 3.58 J/cal

となった*22。現在の理解で言えば、 J = R/(cp − cv) を計算したことになる*23。

エネルギー概念の拡張 マイヤーは、自らの力の理論を熱以外の分野にも当てはめた。たとえば、植物は太陽

からの力を受け取り、化学的な力 (化学エネルギー)に変え、動物は植物を摂取して、力を受け取り、その力を運動の力に変えて生命を維持しているのだと論じた [20]。1848年の論文では、太陽の力に関しても取り上げた。太陽が生み出す熱の量は計算上莫大なもので、仮に

太陽のエネルギーを石炭と同じものとすると、2000年から 3000年で太陽は燃え尽きてしまうと指摘した。にもかかわらず太陽が現在も存在しているのは、隕石や彗星が太陽に衝突しているからだと考えた。この衝突の

力は熱に換算すると、同じ重さの石炭の数千倍に達すると計算した。

*22 現在の値は J = 4.1868 J/cal。*23 この関係は、20年あまり前の 1824年にカルノーが用いていた。J(cp − cv) = R をマイヤーの関係式ということもある。

41

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3.2 熱と仕事の等価性の実証

■ジュールの生涯 ジェームズ・プレスコット・ジュール (James Prescott Joule、 1818-1889)は、イギリス、マンチェスター近郊のサルフォードにて裕福な醸造家の次男として誕生した。病弱であったため正規

の学校教育は全く受けず、自宅にて家庭教師について学習を行った。家庭教師の 1 人には、原子論で有名なジョン・ドルトン (1834年から 3年間、科学や数学の初歩を学んだ)がいた。成人後は、家業の醸造業を営むかたわら、自宅の一室を改造した研究室で実験を行った。電流の発熱作用についてのジュールの法則を発見

し、熱と仕事の等価性、熱の仕事当量値を明らかにするなど、熱力学の発展に重要な寄与をした [21]。

Fig. 25 ジェームズ・プレスコット・ジュール

ジュールは 1837年、19歳の時に電池で動く電動機を自作した。当初、電動機が蒸気機関に取って代わると考えて、電磁石の改良や電流の発熱作用の実験に取り組んだ。その中で、電磁石の引力は電流の 2 乗に比例すること、電流によって発生する熱量は、Q = RI2 となること (ジュールの法則) 等を発見した。ボルタ電池と電動機の経済性が蒸気機関に劣ることがわかって以降、ジュールの興味は熱と運動 (仕事)の

関係に移った。

ボルタ電池による電流の発熱作用と磁電気 (電磁誘導、発電機)による電流の発熱作用が同等であることを明らかにし、熱の原因としての熱素説に疑問を持ち、熱の運動説を確信するようになった。誘導コイルを重り

の降下で回転することにより、熱の仕事当量をはじめて実験的に求めた。

ジュールはその後も熱の仕事当量の測定を行い、1844年頃には、気体の膨張、圧縮を基に熱の仕事当量を

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求め、1845-49年にかけて、重りで水中の撹拌器を回すことにより、熱の仕事当量を求めた。当時はラプラスをはじめとする熱素説が主流を占めており、ジュールが素人科学者であったこともあり、

ジュールの主張は 10年近くまったく相手にされなかった。しかし、重り降下による流体摩擦の実験の 2度目の発表 (1847年)の際に、フランス留学から帰国したばかりのウィリアム・トムソンがジュールの結果に関心を示し、それ以降、徐々に注目されるようになった。

ジュールはその後、1852-54 年に、実在気体の断熱絞りで温度が降下する現象 (ジュール=トムソン効果)をトムソンと共に発見し、1868 年に、ゴムが断熱的に伸張すると発熱し、弛緩すると冷却する現象 (グー=ジュール効果) を発見している。

■19世紀前半の電気に関する主な発明・発見

� 1800 ボルタ電池 (<->Zn|H2SO4|Cu<+>)の発明。� ~1810 デーヴィが電気化学の基礎をつくる。� 1820 エールステッドが電流の磁気作用を発見。ビオ、サバールの法則、アンペールの法則の発見。� 1821 ゼーベック効果 (温度差による熱電流)の発見。� 1825 スタジオンが電磁石を考案。� 1826 オームの法則の発見。� 1831 ファラデーが電磁誘導を発見。� 1832 ピキシが手回し発電機考案。� 1833 ファラデーが電気分解の法則を発見。� 1834 ペルティエ効果 (電流による発・吸熱)の発見。� 1835 クラークが最初の実用的発電機を製作。� 1836 安定な電力を供給できるダニエル電池 (<->Zn|ZnSO4||CuSO4|Cu<+>)の発明。

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■電流の発熱作用の実験 .ジュールが研究を始めた当時は、電気現象の発見が相次いでいた。19

歳の 1837 年、ジュールはボルタ電池で動く電動機を独力で製作して、『電気年報』で発表した。彼は、すでに電磁石の磁力が電流の 2 乗に比例することを見出しており、電池に必要な動力は電流に比例するであろう

から、電流を増加させれば電動機の効率は急速に向上し、やがて、「機械

を動かすためのものとして、電磁気力が蒸気に取って代わる」と考えた。

そのために、電磁石の改良に取り組み、電流の精密な測定を追及した。

しかし、電流の発生には電池の物質の消耗が伴い、電動機の効率は蒸

気機関を超えられないことがわかった。1841 年の彼の計算では、蒸気機関は 1ポンドの石炭の消費で 165万フットポンドの仕事を取り出せたが、電動機は 1 ポンドの亜鉛の消費で 33 万フットポンドの仕事しか取り出せなかった。亜鉛は石炭の数 10 倍の重量単価であることを考えると、経済的には見込みのないことがわかった。

これ以降、ジュールの関心は電流の熱作用に移った。¶ ³ジュールの実験手腕は並はずれていた。

µ ´

ジュールは抵抗線による電流の発熱作用について実験し、1840 年に『ヴォルタ電気による熱の発生について』、1841 年に『金属の電気伝導と電気分解の際に電池内にで発生する熱について』の論文を発表し、

Q ∝ Ri2 というジュールの法則を明らかにした。

ジュールの実験装置は、棒に導線を巻いて水中に入れ、それに一定時

間電流を流して、水の温度上昇を測定するというものであった。当時は

高価であったボルタ電池を個人で購入できた経済力に加え、温度を 0.1°F までの精度で、電流を有効数字 3桁まで測定するというアマチュア青年としては並はずれた実験手腕が特筆に値する。

Fig. 26 電流の発熱作用の実験

ボルタ電池による電流で発生する熱は、熱素説に従えば、ボルタ電池から移動してきたと考えることもで

きる。

「ボルタ電池では熱素を作り出しているかもしれない。」

「では、磁電気 (発電機の電磁誘導)による電流ではどうなるであろうか?」「誘導コイルから熱素が移動して水を温めるのであれば、発電機コイルは冷却されるはずではないか?」

ジュールは、熱素が入り込めないような閉じた回路を使って水を温める実験を考えた。

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■電磁誘導と熱の力学的生成 .ジュールは、1843年に『水の電気分解の間に生じる熱について』および同年『磁電気の熱効果と熱の力学的な値について』を発表した。その実験装置を Fig. 27~28に示す。

実験手順

(1) a の容器にコイルを入れて水で満たし、水温を精確に測定

する。

(2) 容器にふたをして回転部に取り付け、前後から磁石で囲む。

(3) b のハンドルを回して、容器ごと回転する。

(4) コイルで発生した電流を測定する。

(5) 所定の回数だけ回転して容器を取り出し、水温を精確に測

定する。Fig. 27 誘導電流による熱の力学的生成の実験装置

(回転容器部の水平断面)水と誘導コイルを入れた容器ごと鉛

直軸周りに回転する。磁石は電磁石

または永久磁石。

コイルで発生する電流は整流子を介

して直流として取り出し、電流計で

測定する。

Fig. 28 磁界誘導電流による発熱実験 (原理図)

この原理は、水で満たした円筒形容器内に誘導コイルを入れ、紙面に直角方向に加えた電磁界または永久磁

界内で容器ごとコイルを回転させて電気を起こし、同時に水温上昇により発熱量を測定するというものであっ

た。整流子を介して直流として取り出した端子には、電流計等を取り付けて電流を測定し、水の温度は実験前

後で別途測定するというものであった。ジュールは、(1) 端子に電流計だけを接続した実験と、(2) さらにボルタ電池を順方向または逆方向に接続した実験の 2種類の実験を試みている。ジュールの行った 1番目の実験結果を Table 9 に示す。それぞれの実験は回路を ON とOFFの各状態でコイルを毎分 600回× 15分間回転させ、両者の差をとることで摩擦の影響を除いた温度上昇を測定し、それを数回繰り返して平均したものを採用した (第 3行:実際の発熱量)。さらに、鉄心の渦電流による発熱分 (第 4行)を引いたものが正味の温度上昇 (第 5行)となる。

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他方、コイルに生じる誘導電流 i は第 2行で、i2 × 1.98 を第 6行に示す。第 7行は同量のボルタ電流による温度上昇で、第 8行は第 7行を 4/3倍したものである。

Table 9 誘導電流とボルタ電流の発熱の比較

No.1 No.2 No.3 No.4 No.5 No.6 1

誘導電流 i 0.177 0.902 0.418 1.019 0.236 0.340 2実際の発熱量 0.10 °F 1.84 0.45 2.39 0.10 0.21 3

渦電流による発熱分 0.02 °F 0.28 0.09 0.28 0 0 4補正した発熱量 0.08 °F 1.56 0.36 2.11 0.10 0.21 5

1.98× i2 0.062 °F 1.614 0.346 2.060 0.109 0.229 6ボルタ電池電流 0.040 °F 1.040 0.224 1.327 0.071 0.148 7行 7 × (4/3) 0.053 °F 1.386 0.299 1.769 0.091 0.197 8

この結果より、以下の結論を得た。

(1) 誘導装置のコイルに発生する熱は、電流の 2乗に比例する。(2) 磁電装置のコイルによって生じた熱は、ボルタ電池により生じる熱と同一の法則に従い、かつ同一の状況では同量である。

次に、誘導コイルに直列にボルタ電池を接続した 2番目の実験結果を Table 10 に示す。第 2行の i には、

電池と電磁誘導の両効果による電流が含まれている。

Table 10 誘導コイルとボルタ電流の直列接続の場合

No.7 No.8 No.9 No.10 No.11 No.12 1

誘導電流 i 0.864 1.346 0.543 1.845 0 0.340 2実際の発熱量 1.50 °F 2.93 0.68 6.06 0.12 0.45 3

渦電流による発熱分 0 °F 0 0.18 0.18 0.18 018 4補正した発熱量 1.50 °F 2.93 0.50 5.88 -0.06 0.27 5

1.73× i2 1.291 °F 3.133 0.510 5.886 0 0.200 6ボルタ電池電流 0.954 °F 2.316 0.377 4.351 0 0.148 7行 7 × (4/3) 1.272 °F 3.088 0.503 5.801 0 0.197 8

ここでも、発熱量は i2 に比例し、電磁誘導の効果と電池の効果の間には、差が認められない。

これらの実験から、ジュールは以下の結論を得た。¶ ³(1) 電磁誘導による電流と電池による電流が同じ発熱効果を持つことより、熱が電池やコイルから移動したとする熱素説の主張は否定される。

(2) コイルの回転という力学的運動が熱に変換される。µ ´

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■発電機による熱の仕事当量の決定 .Fig. 27 の実験において、コイルの回転に要する仕事量を測定するために、プーリー軸のハンドルを外し、

重りの降下により軸を回転する。

Fig. 27 の b のプーリー軸を重りの降下により回転する。

Fig. 29 コイル回転方法の変更

Table 11 熱の仕事当量測定結果 (発電機電流)

1 2 3 4 5 6 7~11 12~13

J 896 1001 1040 910 1026 587 742 860平均 838

1ポンドの水を 1°F 上昇させる熱 (1 Btu)は、838ポンドの重りを 1フット持ち上げる仕事に相当する。¶ ³

J(1) =838 lbf ft1 lb× °F =

838 kgf× 0.3048 m1 kg× (5/9)� = 459.8 kgf m/kcal = 4.51 kJ/kcal

µ ´この結果は 1843年、コーク州 (アイルランド南部)における英国協会で発表されたが、完全に黙殺された。ジュールは、この論文の 1か月後に次の PS を加えた。水が毛細管を通り抜けるときの発熱より¶ ³

J(2) =770 lbf ft1 lb× °F =

770 kgf× 0.3048 m1 kg× (5/9)� = 422.5 kgf m/kcal = 4.14 kJ/kcal

µ ´J(1) に近い値であり、また、4.19 kJ/kcal にもかなり近い値となっている*24。

*24 現在の熱の仕事当量は

J = 4.1868 kJ/kcalIT (定義) = 426.9 kgf m/kcalIT = 1.0551 kJ/BtuIT = 778.2 lbf ft/BtuIT

= 4.1840 kJ/kcalth (定義) = 426.6 kgf m/kcalth = 1.0544 kJ/Btuth = 777.7 lbf ft/Btuth

となっている。

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■気体の膨張・圧縮による熱の仕事当量の決定 .ジュールは、空気の圧縮と膨張に伴う仕事と熱の変換の実験を行い、1844年に『空気の希薄化と圧縮により生じる温度変化について』として発表した。実験装置を Fig. 30~Fig. 32に示す。

R: 容器 (136.5 in3)C: 圧縮ポンプ (圧縮実験ではレ

バーで 22気圧に圧縮する)G: 乾燥剤

S: コック

W: 冷却器

乾燥剤で水分を除去した空気を冷却

器で所定の温度に設定し、圧縮ポン

プで容器内へ圧入する。

大気圧への膨張 (Fig. 31)では S から大気中へ放出する。

真空中への膨張 (Fig. 32)では S を介して同容積の真空容器につなぐ。

いずれの場合も水を入れた缶内に容

器を沈め、その水の温度変化を測定

する。Fig. 30 気体の圧縮・膨張の実験装置

Fig. 31 大気圧のもとでの気体の膨張

(a) 全体の温度変化測定 (b)各々の温度変化測定Fig. 32 真空中への気体の膨張

ジュールは以下の 3種類の実験を行った。� 気体の自由膨張

これは、以前にゲイ=リュサックが行ったものと原理的に同じ実験である。Fig. 32 の容器 R に 22 気圧の圧縮空気を入れ、同じ容積の E を真空として、図 (a) のように水を入れた

1個の缶内に全体を入れてコックを開いて、水の温度変化を調べた。結果は、水の温度は変化しなかった。

一方、図 (b) のように R と E を別々の缶に入れて弁を開くと、R の温度は降下し、E の温度は上昇した。その降下量と温度量は等しかった。

熱素説によると、体積が増えると「膨張の潜熱」ΛDdV を要するため温度降下するはずであるが、(a)では

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温度降下が見られないことから、膨張の潜熱理論に矛盾した結果となっている。

熱を運動と考えると、(b)の R では膨張仕事をして熱 (正しくは内部エネルギー)が仕事に変わって温度が降下し、E では、R から入ってきる空気で仕事をされて、熱 (内部エネルギー)が増えて温度が上昇する。(a)のように両方を合わせると、正味の仕事をしないので、熱 (内部エネルギー)が増えも減りもせず、温度が変わらないと説明できる。また、これは気体の分子間には引力も斥力もほとんど作用していないことを示して

いる。

� 気体の圧縮実験

Fig. 30 のように、圧縮ポンプと容器全体を水の中に入れ、1.01 気圧 (30.20 in Hg = 2136 lbf/ft2) の空気を圧縮して 21.9 気圧にするとき、水の温度がわずかに上昇する。この温度変化を正確に (1 °F 以内の精度で)測定した。これにより、このときの発生熱量は、1ポンドの水に換算して 13.63 °F であるとの実験結果を得た。

空気の最初の体積を、温度変化が微小であるから等温変化とみなして推定すると、V0 = 136.5in3 ×21.9/1.01 = 2956in3 となる。これを V1 = 136.5in3 に圧縮したと考えた。このときの仕事量は

W =∫ V1

V0

PdV = P0V0 lnV1

V0= 2136× 2956

123× ln

(1.0121.9

)= −11240 lbf ft

これより、熱の仕事当量は次のように求まる。

J =11240 lbf ft13.63 lb °F = 824 lbf ft/lb °F = 452 kgf m/kcal = 4.43 kJ/kcal

�大気圧下の膨張

ジュールは大気圧近辺でも、Fig. 31 の方法で空気の膨張実験から熱の仕事当量を計算している (詳細不詳)。以上のように空気の圧縮・膨張をもとにした一連の実験で、ジュールは以下のことを明らかにした。

(1) 膨張の潜熱概念が根拠ないことを明らかにした。(2) 気体では分子間力がほとんど働かないことを示し、ニュートン、ドルトンや熱素説の分子間斥力概念を葬り去った。

(3)「仕事 → 熱」だけでなく「熱 → 仕事」の変換でも J が同一であることを示した。

また、これらの 5種類の実験で熱の仕事当量を Table 12 のように求めた。

Table 12 熱の仕事当量測定結果 (空気の圧縮・膨張)

単位 1 2 3 4 5

J lbf ft/Btu 823 795 820 814 760平均 � � 798

このうち、誤差が少ないと思われる (?)後半の三つの値より、もっともらしい熱の仕事当量として 798 lbfft/Btu を推奨した。¶ ³

J(3) =798 lbf ft1 lb °F =

798 kgf× 0.3048 m1 kg× (5/9)� = 437.8 kgf m = 4.29 kJ/kcal

µ ´

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■流体摩擦による熱の仕事当量の決定 .このような幾たびかにわたるジュールの仕事当量の測定は、相変わらず一般には認められなかった。

1845年、ジュールはまた別の方法で仕事当量の測定を行った。これは、おもりの重さで水中の羽根車を回し、その運動による水の温度上昇を測定するという手法であった。この装置は、温度の変化を華氏 0.005度の単位で測定できるという、当時では他に誰も実現できない精度をもっていた。ジュールは 1845年以降、この手法で繰り返し測定を行った。

Fig. 33 水中での摩擦熱の測定

AB: 水槽

ab: 輪軸

cd: 軸受

e: 重り

f: 糸巻き

p: 攪拌器軸

k: 直尺

1845年にケンブリッジの英国協会化学部会で発表した論文『熱と力学的動力の通常の形態の間の等価関係の存在について』では、水の摩擦によって発生した熱の 1 lb °F は、890 lbf ft の仕事に相当するとの結果を得た。¶ ³

J(4) =890 lbf ft1 lb °F =

890 kgf× 0.3048 m1 kg× (5/9)� = 488.3 kgf m = 4.78 kJ/kcal

µ ´水の温度上昇は 0.5 °F 以下であり、熱放射や空気の対流の影響を最小限に抑え、それを 0.005 °F の精度で測定していた。しかし、この成果もまったく無視された。

ジュールはさらに改良を重ね、1847年には、蒸留水および鯨油を用いた実験結果をオックスフォードの英国協会数学・物理学部会で発表した。それぞれ 9 回の実験の平均から、蒸留水で 781.5 lbf ft/Btu、鯨油で782.1 lbf ft/Btu、平均して 781.8 lbf ft/Btu の値を得た。¶ ³

J(5) =781.8 lbf ft

1 lb °F =781.8 kgf× 0.3048 m

1 kg× (5/9)� = 428.9 kgf m = 4.203 kJ/kcal

µ ´この講演会には、フランス留学から帰国して間もないトムソンが参加していた。カルノー理論をもとに絶対的

50

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な温度目盛を思案中であったトムソンの興味を引くところとなった。

ジュールはその後も同じ実験を改良し、1849年の論文『熱の仕事当量について』では次の値を得た。¶ ³

J(6) = 772 lbf ft/(lb °F) =781.8 kgf× 0.3048 m

1 kg× (5/9)� = 423.6 kgf m = 4.15 kJ/kcal

µ ´

■マイヤーとジュールの対比 .マイヤーとジュールは、独立に熱の仕事当量を見出した。二人には共通点も多いが、相反する点も多く、比

較してみると面白い。

Table 13 マイヤーとジュールの対比

J.R. von Mayer J.P. Joule

生年月日 1814年 11月 25日 1818年 12月 24日国 当時の後進国ドイツ 産業革命期のイギリス

生誕地 ハイルブロン (中部の地方都市) サルフォード (産業革命中心地マンチェスター近郊)職業 医師 富裕な醸造家

活躍期間 20代のほぼ 10年間 20代のほぼ 10年間学問的素養 物理的な教育を受けず アマチュアながら学会等の科学の前線に通じていた

独学 一時期、ドルトンの個人指導も受けた

研究方法 形而上学的な思考中心 具体的な実験と単純明快な解釈

苦闘 10年あまりの黙殺 10年近くの黙殺精神障害、自殺未遂

結末 1854年以降、評価する意見が現れた。 1847年にトムソンに巡り合った以降、高く評価された

英国王立協会コプリ・メダル受賞 英国王立協会コプリ・メダル受賞

英国科学振興協会会長 (2回)死去 1878年 3月 20日 (63歳) 1889年 10月 11日 (70歳)

ハイルブロン セール (マンチェスター近郊)

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3.3 熱力学の成立

■トムソンの生涯 .ウィリアム・トムソン (William Thomson、 Baron Kelvin 、1824-1907)は、イギリスの物理学者であり、熱力学、電磁気学、流体力学をはじめ、古典物理学の広い分野で多くの貢献をした。後年、男爵に叙

せられ、ケルヴィン卿とも称される [22]。

Fig. 34 ウィリアム・トムソン

アイルランドのベルファストで 2人兄弟の次男として生まれた。父親のジェームズ・トムソンは農家の生まれで、後ベルファスト大学、グラスゴー大学の教授となった。トムソンは兄とともに父から家庭で教育を受

け、1834年 2歳上の兄と共に 10歳でグラスゴー大学へ入学し、1841年からケンブリッジ大学で学んだ。卒業後、パリのルニョーのもとで気体と蒸気の熱的性質の研究に参加した。1846年に 22歳の若さでグラスゴー大学の自然哲学 (のち物理学に改称)教授となり、1899年 (75歳)まで務めた。王立協会会長、グラスゴー大学総長も務めた。

カルノー理論とジュール理論との不整合性について問題提起し、特定の物質に依拠しない絶対温度 (熱力学的温度ケルビン)概念、熱力学第二法則の定式化を行い。古典熱力学の確立を主導した。その他に、電磁気学や流体力学の分野等で多くの貢献を行い、アイルランド-ニューファンドランド間の大西洋横断海底ケーブルの敷設に当初から携わり、10年かけて 1866年に完成した。

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■トムソンの問題提起 .トムソンはケンブリッジ卒業後、半年近くパリのヴィクトル・ルニョーのもとへ留学した。ルニョーはフラ

ンス政府のプロジェクトで、気体と蒸気の熱的性質を系統的、組織的に測定していた。温度概念を基礎付ける

理論の曖昧さを痛感した。温度計物質の特殊性に依存しない温度尺度をカルノーの論文に見出した。

カルノー理論を応用したクラペイロンの式 (28) にルニョーの精密な実験データを用いてカルノー関数 Θ(θ)

を求めると、カルノーやクラペイロンの計算値も含めて、物質の種類に依存せずに一本の直線にまとまるので

ある。カルノーの理論の正しさを確信していたトムソンが、絶対温度を提案しようとしていたまさにそのと

き、ジュールの講演を聞いたのである。

v

P

θ

θθ ∆−

P∆

VapourLiquid

Fig. 35 蒸気の微小温度差カルノーサイクル

図のような、蒸発、凝縮を伴う微小温度差∆θ (圧力差 ∆P )のカルノーサイクルを考えると、カルノーの定理 (25)より、

∆w

q+=

∆θ

Θ(θ)

ここで、∆w = (v気 − v液)∆P = (v気 − v液)(

dPdθ

)∆θ および、

q+ = 蒸発潜熱ΛE であることを用いて、

1Θ(θ)

=(v気 − v液)

ΛE

dP

dθ(28)

のように、カルノー関数 Θ(θ) が求まる。

Θ(θ) = T と置き換えれば、この式は現在、クラペイロン・クラウジウスの式と呼ばれている。

ジュールが言うには、「物体の摩擦によって生じる熱は、固体・液体にかかわらず、消費された力 (仕事)の量に比例する。多くの自然現象において、活力 (運動エネルギー)は見かけ上消滅するが、実際には見かけ上消滅した活力と等価な熱が作り出され、その熱はやがて活力に再変換されるのである。」

一方、カルノーによれば、「熱から動力 (仕事)を得るには温度差 (加熱と冷却)が必要であり、得られる動力には、熱が移行しあう二つの物体の温度にだけ依存する上限がある」のである。

激しい水流を水車に導けば、動力を取り出すことができるが、水流が単にせき止められたときは、摩擦のな

い水流の持っていた動力はどうなるのか?これも熱に変わるとすると、この熱から元の水流が取り出せないは

なぜなのか?

ジュールは、確かに「力学的効果 (仕事)」が熱に変わるときに一定の比率があることを示した。しかし、逆に熱の「力学的効果」への変換については何も示していないのではないか?動力の源泉は熱の吸収や変換では

なく、カルノーの言うように熱の移動に求めるべきではないのか?¶ ³トムソンは、熱と動力 (仕事)の関係についてのカルノーとジュールの主張の不一致の中に、熱の本質にかかわる問題が含まれているとの、問題提起を行った。

µ ´トムソンが行き当たった問題は熱の本質的特性 (普遍性と特殊性)に根ざしており、その後、熱力学の確立

につながっていく。トムソンは 1849年の論文『カルノーの熱の動力の理論の説明』の中でこの問題を提起した上で、「- - - われわれに必要なのは実験である。」と結んだ。その解決は新たな実験によってではなく、それまでに分かっていた多くの事実を理論的に再構成することに

よって、翌 1850年にドイツ人のクラウジウスによりなされたのである。

53

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■クラウジウスの生涯 .ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス (Rudolf Julius Emmanuel Clausius、 1822-1888)は、ドイツの物理学者であり、熱力学第一法則・第二法則の定式化、エントロピーの概念の導入など、熱力学

の重要な基礎を築いた [23]。

Fig. 36 ルドルフ・クラウジウス

クラウジウスは、プロイセン王国領ポンメルンのケスリーン (現ポーランド領コシャリン)で、牧師で小学校の校長の父のもとに生まれた。シュテッティン (現ポーランド領シチェチン)のギムナジウムで学び、1840年ベルリン大学に入学。経済上の理由から在学中に教員免許を取り、1850年までベルリンのギムナジウムで物理を教えた。

W.トムソンの問題提起を受けて、1850年に「熱の動力、およびそこから熱理論のために演繹しうる諸法則について」を発表した。1854年には論文「力学的熱理論の第二基本定理の1つの改良型について」を発表。熱力学第二法則を確立させた。1850年には、ベルリン王立砲工学校の物理学教授、およびベルリン大学私講師となった。

1855年、クラウジウスはチューリヒ工科大学の教授に招かれ、1857年からはチューリヒ大学教授も兼任した。1865年にチューリヒ哲学会で発表した論文では、初めて「エントロピー」という単語を使用した。1867年にはヴュルツブルク大学教授になり、1869年にはボン大学の教授になった。この間 1868年にロンドン王立協会の外国人会員に選出されている。

1879年、クラウジウスの業績に対しロンドン王立協会よりコプリ・メダルが授与され、1884-85年の間、ボン大学の学長を務めた。

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■クラウジウスによる熱力学原理の提唱 .クラウジウスの考えは、Fig. 37に示すように、熱機関は高温熱源から受け取った熱量 q+ の一部を仕事 W

に変え、残りの熱 q+ −W を低温熱源に放出するというものであった。カルノーの理論に少し修正を加えて、

ジュールの理論にも合致するようにしたのである。

Hot reservoir

(Furnace)

C

Cold reservoir

(Cooler)

−+ −= qqW

+q

−q

Fig. 37 クラウジウスによる熱機関

BA

−θ

−Aq−Bq

+Bq+Aq

W

Hot reservoir (Furnace)

Cold reservoir (Cooler)

Fig. 38 クラウジウスによるカルノーの定理の再証明

カルノーの定理との関係について、クラウジウスは、以下のように考えた。

図 38のように、高温 t1 および低温 t2 の 2 つの熱源間で動作する A、 B 2つの熱機関を考え、両者の仕事量が等しくなるよう動作させる。ジュールの理論より W = qA+ − qA− = qB+ − qB− である。

今、B が可逆サイクルであるとすると、B を逆に動作させると、qB+、qB− はそのままで、熱を汲み上げる

ポンプとして動作させることができる。Fig. 38 のように、熱機関 A と熱ポンプ B を組み合わせると、外部との仕事の出入りはなくなり、いくらかの熱が 2 つの熱源の間で移動することになる。このとき、q = qB+− qA+ = qB−− qA− > 0 であったら、q の熱量がそれ自身で低温熱源から高温熱源へ移

動したことになり、他には何の変化も残らない。このようなことが起こり得るとは考えられないので、q ≤ 0

でなければならない。q = qB+ − qA+ ≤ 0 であるとすると、W/qA+ ≤ W/qB+ となるので、カルノーの定理

がそのまま成り立つことになる。¶ ³カルノーのモデル (Fig. 15)では、無から仕事を取り出す永久機関にならない条件として、カルノーの定理が得られる。しかし、上述の推論が成り立つためには、「熱量がそれ自身で低温熱源から高温熱源へ移

動しない」という原理を追加することが必要である。このように考えて、クラウジウスは熱学の新しい原

理を提案した。µ ´

原理1 (熱の普遍性;熱力学第一法則): 熱の作用によって仕事が生み出されるすべての場合に、その仕事に

比例した量の熱が消費され、逆に、同量の仕事の消費においては同量の熱が生成される。

原理2 (熱の特殊性;熱力学第二法則): 熱はつねに温度差をなくす傾向を示し、したがって常に高温物体か

ら低温物体へと移動する。

クラウジウスは、この二つの原理を理想気体に適用して、それまでに知られていた熱学の諸法則を導いた。

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■トムソンによる熱力学原理の提唱 .1851 年、クラウジウスから 1 年遅れて、トムソンはクラウジウスと同じ熱力学第一、第二法則に到達し、

1851~54年にかけて大論文『ジュールの熱当量とルニョーの蒸気に関する測定から導き出されるた数値的結果を伴う熱の力学的理論について』にまとめた。

クラウジウスは理想気体を用いて検討したのに対して、トムソンはクラウジウスの先取権を認めた上で、一

般の物質を対象に解析し、この新しい原理が全ての物質に共通した普遍的な法則であることを示した。¶ ³熱の普遍性の原理 (熱力学第一法則):「同量の力学的効果が純粋に熱的源泉から生み出される場合には、同量の熱が消滅する。同量の力学的効

果が純粋に熱的効果に失われる場合には、同量の熱が生み出される。」µ ´外部より作業物体に加えられた熱量は、一部が膨張に伴い外圧に抗してする仕事になり、残りが作業物体の

分子運動の増加と分子間力に抗してする内部仕事に分配されるであろう。「それゆえ、熱と仕事の直接的比較

のためには、後者の作業物体内部の変化を消去することが必要である。すなわち、何らかの力学的効果を評価

するには、作業物質はその変化の終わりには初めと同じ状態に戻って (サイクルになって)いなければ、純粋に熱的な源泉から作り出されたとはいえない。」

ジュールの主張 (熱と仕事の等価性) を受け入れると、J∮

dq =∮

dWex つまり、これまでの熱量保存則∮dq = 0 に代わって ∮

dU =∮

(Jdq − dWex) = 0

が成立する (可逆変化では dWex = PdV )。これより、

dU = Jdq − dWex

で表される量は、作業物体内部に蓄えられるエネルギー量と考えられ、状態量 U (内部エネルギー)が定義される。q は状態量とはなりえない。

トムソンは、一般の物質の微小なカルノーサイクルを考えることにより、(

∂U

∂θ

)

V

= JCV

(∂U

∂V

)

θ

= JΛD − P

で定義される (θ, V )の 一価関数 U(θ, V ) が存在することを示した (詳細略)。

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¶ ³熱の特殊性の原理 (熱力学第二法則):「生命なき物質的作用因によって、物体の任意の部分を回りの物体の最も冷たいもの以下に冷却すること

によっては、力学的効果を生み出すことはできない」µ ´この原理を用いれば、以下のようにカルノーの定理を導くことができる。

BA

+q +q

−Bq−Aq

−θ

BWAW

Hot reservoir (Furnace)

Cold reservoir (Cooler)

Fig. 39 トムソンによる熱機関

BA

−θ

+q+q

−Aq−Bq

Hot reservoir (Furnace)

Cold reservoir (Cooler)

BWBA WW −

Fig. 40 トムソンによるカルノーの定理の再証明

Fig. 39 のように、高温および低温の2つの熱源間で動作する A、 B 二つの熱機関を考える。単位時間あたり、高温の炉から受け取る熱量 q+ が等しくなるよう動作させる。出入りする熱量を図のように表すと、

q+ = WA + qA− = WB + qB− つまり、WB −WA = qA− − qB− である。

今、B が可逆サイクルであるとすると、Fig. 40 のように、可逆機関の B を逆に動かしてヒートポンプとして動作させることができる。A の出力を B に要する仕事に振り向けるとすると、もし、WA > WB ならば、

余分の仕事 WA −WB => 0 が得られる。この仕事は、冷却水から取り出した熱量 q = qB− − qA− でまかな

われていることになり、このことは上の「熱の特殊性の原理」に反するので、WA ≤ WB でなければならな

い。熱効率で比較すると、

ηA =WA

q+≤ WB

q+= ηB

となり、任意の熱機関の熱効率は同一温度の可逆サイクル機関の熱効率を超えることはできないことがわ

かる。

更に、A も可逆サイクルである場合は、Aを逆サイクルヒートポンプとして、熱機関 Bで得られる仕事を用いて動作させれば、同様にして、ηA ≥ ηB となることが分かる。A、B共に可逆サイクル機関であれば、両方が共に成り立つ必要があるので、

ηA = ηB

でなければならず、可逆サイクル機関の熱効率は同一であり、熱源の温度だけで決まることがわかる。

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■トムソンによる絶対温度 .トムソンは、特定の物質に依存しない「普遍的温度」をカルノーの定理の中に見出していた。

V

θ

An Bn

Ai

Bi

Ai-1

Bi-1

A0

B0

q+ = qn

qi

qi-1

q-=q0

θ+=θn

θi

θi-1

θ-=θ0

∆Wi=qi-qi-1

Fig. 41 微小カルノーサイクルの合成

温度 θ+ の高熱源と温度 θ− の低熱源のカル

ノーサイクル (AnBnB0A0) を微小なカルノーサイクル (AiBiBi−1Ai−1) の合成と考える。

微小なカルノーサイクルについて、カルノー

の定理 (25)が成り立つ。

∆Wi

qi=

∆θ

Θ(θi)

これに ∆Wi = J(qi − qi−1) = J∆q と置

き、全体について積分して、

J

∫ q+

q−

dq

q= J ln

q+

q−=

∫ θ+

θ−

Θ(θi)

つまり、次式が得られる。

q−q+

= exp

(− 1

J

∫ θ+

θ−

Θ(θ)

)(29)

トムソンは、1852年から数年間ジュールと共に共同で実験を繰り返し、(1) 理想気体の仮説が厳密には成り立たず、断熱絞りで温度変化 (ジュール-トムソン効果)が生じること、(2) しかし、現実の気体に対して近似的に Θ(θ) = (α−1 + θ)/J *25が成立すること、

を明らかにした。

彼は 1848年に一度絶対温度を提案していたが、熱力学の原理が明確になった後で、絶対温度 T が

T (θ) = JΘ(θ)dT

dθ(30)

となるように定義し直した。

このときは、∫ θ dθ

Θ(θ) =∫ T (θ) dT

T = ln T (θ) となるので、

q−q+

= exp

(− 1

J

∫ θ+

θ−

Θ(θi)

)=

exp(

1J

∫ θ−θ0

dθΘ(θ)

)

exp(

1J

∫ θ+

θ0

dθΘ(θ)

) =T (θ−)T (θ+)

(31)

となる。つまり、カルノーサイクルで授受する熱量に比例するように絶対温度 (熱力学的温度)T (θ)を定義し

たことになる。

これは、1 °の目盛間隔を摂氏温度に等しく選べば、ヘルムホルツの主張を満たし、空気温度計温度 θ に

α−1 = 272.85 を加えたもの*26 にほぼ等しい。

*25 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツが主張した関係式であり、当時、ヘルムホルツの主張とよばれていた。*26 現在では、α−1 = 273.15 とすべきであるが、トムソンはルニョーの値を使っていた。

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■トムソンによる一般のサイクルへの拡張 .熱源の温度が T+、T− で一定の場合は、熱量と絶対温度の間に次の関係がある。

q+

T+− q−

T−= 0

トムソンはこれを、1854年の『熱の数学的理論』Pt.�のなかで、熱源の温度が一定でない (または多数の熱源を持つ)可逆サイクルに拡張した。

T

V

iC∆

−−1iq

iq

iT

1+iT−iq

1−∆ nC

1C∆

nn qq −=−−1 nT

11qq =+

1T

Fig. 42 微小温度差カルノーサイクルでつくる任意サイクル

(注釈)微小温度差カルノーサイクルを ∆C1、

∆C2, · · · ,∆Cn−1 とする。右下がり (左上がり)の曲線は断熱線であり、(例えば面積が)元のサイクルに近くなるように選ぶ。このサイクルを動かすために、

温度 T1, T2, · · · , Tn の熱源を準備する。

微小サイクル ∆Ci では、次の関係がある。

q+i

Ti− q−i

Ti+1= 0

温度 Ti の熱源の熱の出入りは、微小サイ

クル ∆Ci−1 から q−i−1 の熱量が排出され

てきて、∆Ci へ q+i の熱量を供給するの

で、正味 qi = q+i − q−i−1 の熱量をサイクル

へ供給 (負の場合は吸収)する。

Fig. 42 に示すように、このサイクルを微小間隔の等温線で区切り、両端を断熱線でつなぐことにより、微小温度差のカルノーサイクルに分割したと考える*27。

1 番目の微小サイクル ∆C1 について次式が成り立つ。

q+1

T1− q−1

T2= 0

温度 Ti の熱源から正味受け取る熱量を qi で表すと、q+1 は温度 T1 の熱源から受け取る熱そのものであるか

ら、q+1 = q1 と置き換えて、

q1

T1− q−1

T2= 0 (32)

2 番目の微小サイクル ∆C2 について次式が成り立つ。

q+2

T2− q−2

T3= 0

*27 現在であれば、元のサイクルを断熱線 (等エントロピー線)を使って小さく区切り、両端を等温線でつないで分割すれば、微小サイクル間のつなぎ目で熱の出入りがないので、より考えやすくなる。しかし、トムソンの時代には、断熱変化自体が正確に取り扱われていなかったこともあり、微小温度差のカルノーサイクルが基本であったようである。もちろん、どちらで考えても結果は同じはずである。

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温度 T2 の熱源から正味受け取る熱量は、q2 = q+2 − q−1 であるから、次のように書ける。

q−1 + q2

T2− q−2

T3= 0 (33)

同様にして、i 番目の微小サイクル ∆Ci について次式が成り立つ。

q+i

Ti− q−i

Ti+1=

q−i−1 + qi

Ti− q−i

Ti+1= 0 (34)

最後の n− 1 番目の微小サイクル ∆Cn−1 は、

q+n−1

Tn−1− q−n−1

Tn=

q−n−2 + qn−1

Tn−1− q−n−1

Tn= 0

と表されるが、q−n−1 は温度 Tn の熱源へ放出する熱量であるので、q−n−1 = −qn と置き直して、

q−n−2 + qn−1

Tn−1+

qn

Tn= 0 (35)

以上の ∆c1,∆c2, · · · ,∆cn−1 についての式を加算して、

n−1∑

i=1

(q+i

Ti− q−i

Ti+1

)

=(

q1

T1− q−1

T2

)+

(q−1 + q2

T2− q−2

T3

)+ · · ·+

(q−i−1 + qi

Ti− q−i

Ti+1

)+ · · ·+

(q−n−2 + qn−1

Tn−1+

qn

Tn

)

=q1

T1+

q2

T2+ · · ·+ qi

Ti+ · · ·+ qn−1

Tn−1+

qn

Tn= 0

つまり、任意の可逆サイクルでn∑

i=1

qi

Ti= 0 (36)

が成立する。

すべての微小カルノーサイクルの温度差を無限小とした極限では∮

dq

T= 0 (37)

となる*28。∮dqT はクラウジウス積分と呼ばれているが、どうやら、トムソンが最初に導いたようである。

*28 非可逆サイクルでは 1− (q−/q+) < 1− (T−/T+) より (q+/T+)− (q−/T−) < 0 となり、上の各式の = を < で置き換えればよいので ∮

dq

T< 0

となる。

60

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■クラウジウスの<変換>と<補償> .1854年、クラウジウスは論文『熱の力学的理論の第二法則の異なる表現について』のなかで、次のように考えて同じ結果を得た。この考えは、その後のエントロピーの意味を考える上で参考になるかもしれない。¶ ³熱と仕事の間には 2種類の<変換>がある。ひとりでに生じる<変換>

A: 仕事 ⇒ 熱

B: 高温の熱 ⇒ 低温の熱

ひとりでには生じない<変換>

A−1: 熱 ⇒ 仕事

B−1: 低温の熱 ⇒ 高温の熱

後者が生じるには前者による<補償>が必要である。µ ´具体例として、Fig. 43 のような、温度 T, T1, T2 の熱源間で動作する可逆サイクルを考える。

p

V

2T

1T

q

d

a

T

b

c

e

f

q

q∆

q∆

T

2T

q

K2

K

qJW ∆=

1T

q

C

K1

Fig. 43 クラウジウスのサイクル

このサイクルは、温度 T, T1 の熱源 K, K1 から熱を受け取り、ある量の仕事をして、温度 T2 の熱源 K2 に

残りの熱を捨てる。熱源 K2 へ放出する熱が熱源 K1 から受け取る熱量 q に等しくなるように、∆q を選べ

ば、得られる仕事は W = J∆q となる。

クラウジウスはこのサイクルを

A−1: 温度 T の熱 ∆q ⇒ 仕事 J∆q (ひとりでに生じない<変換>)B: 温度 T1 の熱 q ⇒ 温度 T2 の熱 q (ひとりでに生じる<変換>)

の二つの<変換>に分け、変換 A−1 が、変換B により<補償>されているとした。このサイクルは可逆サイクルであるため、これを逆に動かしたサイクルでは、熱と仕事の出入りが逆になり、

A: 仕事 J∆q ⇒ 温度 T の熱 J∆q (ひとりでに生じる<変換>)

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B−1: 温度 T2 の熱 q ⇒ 温度 T1 の熱 q (ひとりでに生じない<変換>)

の動作をする。この場合では、変換 B−1 が変換Aにより<補償>されていると考えることができるので、二つの変換 A と B は、等価な変換であり、何らかの同じ量 (<当量>と呼ぶ)を持つと考えることができる。つまり、<当量>とは変換の等価性を数量的に表す量である。Fig. 43のサイクルでは、温度 T → T2 と温度 T1 → T2 の二つのカルノーサイクルを組み合わせたものと

考えれば、熱源 K2 へ捨てる熱量は

q = qT2

T1+ ∆q

T2

T

となることより、次の関係がある。∆q

T=

(q

T2− q

T1

)(38)

つまり、¶ ³A: 仕事 Jq ⇒ 温度 T の熱 q の<当量>は q

T

B: 温度 T1 の熱 q ⇒ 温度 T2 の熱 q の<当量>は(

q

T2− q

T1

)

µ ´とすればよい*29。

この<当量>の法則から、次のことが分かる。

(1) T1 →∞ のとき、(

qT − q

T1

)→ q

T となることより、仕事とは供給温度 T1 が無限大の熱と等価である。

(2)「温度 T1 の熱 ⇒ 温度 T2 の熱」の変換は、「仕事 ⇒ 温度 T2 の熱」と「仕事 ⇒ 温度 T1 の熱」との

差となっている。

この結果を熱源側から見ると、¶ ³サイクルにおける全<当量>は熱源に入る熱 q′i (出る場合は負)を、熱源の温度 Ti で割って加算したもの

となっていることがわかる。

N =n∑

i=1

q′iTi

または∮

dq′

T(39)

µ ´<当量>の代数和 N はそのサイクルがひとりでに起こる起こりやすさを表している。実際に起こるサイク

ルでは N ≥ 0 でなければならない。また、可逆サイクルであるためには、<当量>の代数和は 0 でなければ

ならない。

dq′ は熱源から見た熱の出入りであるが、作業物体から見た熱の出入りは dq = −dq′ であるので、¶ ³任意のサイクルについて、次式が成立する。

∮dq

T= −

∮dq′

T= −N ≤ 0 (等号は可逆サイクルの場合) (40)

µ ´これはクラウジウスの不等式と呼ばれている。

*29 クラウジウスはかなり複雑な議論をしている。

62

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■クラウジウスによるエントロピー .基準状態 o から 別の状態 a に至る二つの可逆な経路 A、 B を考える。

y

x

a

o

A

B

reversible

reversible

Fig. 44 エントロピーの導入

経路 B を逆にして o A→ a B→ o のサイクルを考えると、これは可逆サイクルであるから、∮

dq

T=

∫ a

o,A

dq

T+

∫ o

a,B

dq

T=

∫ a

o,A

dq

T−

∫ a

o,B

dq

T= 0

つまり、 ∫ a

o,A

dq

T=

∫ a

o,B

dq

T

となる。A、 B は可逆であれば任意の経路が可能であるので、¶ ³基準状態 o を適当に約束すれば、

S =∫ a

o

dq

T(41)

の値は、状態 a だけに依存する状態量 (エントロピー)となる。µ ´1854年 クラウジウスの不等式から 1865年エントロピーまでに 10年を要した。エントロピー概念がいかに馴染みにくいものであったか、伺い知れる。

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■エントロピー増大の法則 .状態 a から状態 b に至る任意の変化 (非可逆変化を含む)があるとする。これに b から別の経路を通って a

y

x

b

o

leirreversib

reversible

a

reversible

reversible

Fig. 45 非可逆変化のエントロピー

に戻る可逆変化を追加して、a 任意→ b 可逆→ a のサイクルを考える。このサイクルについて、∮

dq

T=

∫ b

a,任意

dq

T+

∫ a

b,可逆

dq

T=

∫ b

a,任意

dq

T+ S(a)− S(b) ≤ 0

つまり、 ∫ b

a,任意

dq

T≤ S(b)− S(a)

が成立する。¶ ³つまり、孤立系 (より限定すれば断熱系)では、系全体のエントロピーは増大する。これが、エントロピーを用いた熱力学第二法則の表現である。

µ ´クラウジウスの 1865年の論文『熱の力学的理論の基礎方程式の、応用に便利な異なる形式について』は、次のように締めくくられている。

もしも、全宇宙に対してエントロピーが決定され、同時に他のより単純な概念であるエネルギーと組み

合わせるならば、熱の力学的理論の二つの基本法則に照応する宇宙の基本原理は次のように述べること

ができるであろう。

(1) 宇宙のエネルギーは一定である。(2) 宇宙のエントロピーは最大値に向かう。

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4 まとめ

火や熱は人類の歴史と切っても切れない深い関係があるにもかかわらず、熱についての現在の認識が得られ

たのは 19世紀の後半になってからである。熱とは"えたい"の知れないものであることを改めて知らされる。熱を物質 (元素)と考えた「熱素説」について、その否定的な側面がよく引き合いに出されるが、当時は (少なくともその初期は)非常に合理的で強力な科学的知識であり、熱素説のもとで、多くの発見がなされたことは、理解できたことと思う。

「熱力学」講義の導入部分では、羽根車で水をかき混ぜるジュールの実験から始まるのが普通であるが、

ジュールはそれ以前に同じ目的で種々の実験を行ってきたこと、羽根車による水の撹拌は熱と仕事の等価性を

示す最終の形であったこと等、ジュールの思考過程が分かってもらえたかと思う。

カルノーはほとんど独力で熱機関の基本原理に到達したが、後年から見ると、カルノーの考察が熱力学成立

のキーポイントであったことが分かる。熱量保存則に基づく彼の推論をエネルギー (熱 +仕事)保存則に置き換えると、現在の熱力学の柱 (第一法則、第二法則)ができることになる。熱力学をまとめ上げたトムソンとクラウジウスは、結果的には同じ方向におさまったが、考え方や方法はか

なり異なっていた。トムソンは物質一般にこだわって厳密な扱いをめざしたのに対して、クラウジウスは理想

気体を念頭に第二法則を拡張して、エントロピー概念まで進んだ。クラウジウスのエントロピーの基礎にある

<変換>と<補償>の考えは、エントロピーの意味を考える参考になるかもしれない。エントロピーを用いたギッブスの自由エネルギー、エクセルギーや、ボルツマンによるエントロピーの分子

論的解釈と統計力学への橋渡しや、さらに、量子力学、相対性理論等の現代物理学との関係には、触れること

はできなかった。各自の興味に応じて自学して頂きたい。

本稿の多くの部分は山本義隆氏の労作 [5][6][7]を参考にしている。少し難解ではあるが、興味に応じて読まれるよう推奨する。

また、ウィキペディアの記事はネット情報としては信用性の高い方であろうが、誰でも書き込める利点の弊

害で、不適切な説明や誤った内容も多く含まれている。ここで引用したもので気付いた誤りは (元の記事も含めて)訂正したが、見落としも多数あると思われるので、そのむね了解した上で読んでいただきたい。

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参考文献

[1] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/カロリック説",(2014.06.22).[2] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョゼフ・ブラック",(2014.06.24).[3] Web Page,"http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Black",(2014.06.24).[4] Web Page,"http://www.chem.gla.ac.uk/ alanc/dept/black.htm",(2014.06.24).[5] 山本義隆, "熱学思想の史的展開 (熱とエントロピー)1", 筑摩書房 (2008).[6] 山本義隆, "熱学思想の史的展開 (熱とエントロピー)2", 筑摩書房 (2009).[7] 山本義隆, "熱学思想の史的展開 (熱とエントロピー)3", 筑摩書房 (2009).[8] S. F. メイスン (矢島祐利訳), "科学の歴史 上", 岩波書店 (1955).[9] S. F. メイスン (矢島祐利訳), "科学の歴史 下", 岩波書店 (1956).[10] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/アントワーヌ・ラヴォアジエ",(2014.06.22).[11] Web Page,"http://en.wikipedia.org/wiki/Antoine_Lavoisier",(2014.06.22).[12] R.J.フォーブス,E.J.デイクステルホイス (広重徹他訳), "科学と技術の歴史�", みすず書房 (1963).[13] R.J.フォーブス,E.J.デイクステルホイス (広重徹他訳), "科学と技術の歴史�", みすず書房 (1964).[14] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/ピエール=シモン・ラプラス",(2014.07.07).[15] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/シメオン・ドニ・ポアソン",(2014.07.08).[16] 杉山滋郎, "熱学の展開", 村上陽一郎編、"科学の名著近代熱学論集"掲載、朝日出版社 (1988).[17] S. カルノー (広重徹訳), "カルノー・熱機関の研究", みすず書房 (1973).[18] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/ベンジャミン・トンプソン",(2014.07.15).[19] Web Page,"http://www.dartmouth.edu/ library/Library_Bulletin/Apr1995/"

"King_Rumford.html", (2014.07.30).[20] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー",(2014.07.15).[21] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームズ・プレスコット・ジュール",(2014.08.04).[22] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・トムソン",(2014.08.05).[23] Web Page,"http://ja.wikipedia.org/wiki/ルドルフ・クラウジウス",(2014.08.05).

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