a.c. マカレンコの規律観(1 ) - osaka city...
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A.C.マカレンコの規律観(1 )
一日本における学校規律の問題Kよせて 一
中島明子
はじめに
近年,校内暴力事件を始めとする,子どもの「荒れJが,大きな社会問題となっている。昭和57年
版『青少年白書JJ (総理府青少年対策本部編)によると,昭和56年の校内暴力事件の状況は,発生件
数が2.ω5件,補導入員が 1万468人,被害者は 4,“4人で,中でも,中学生の事件が全体の88.3%
を占めているという。同書によれば,巌近の校内暴力事件は, r犯行の手段,態様等が,著しく凶悪
イじ粗暴化Jしているのが特徴である;
乙のような事態に対して,教育現場では,様々な対策が講じられている。中でも,子どもたちを校
則で縛りつける乙とで,そうした,子どもの「荒れJを克服しようとする指導が多くの学校で行なわ
れている。大手新聞社が編集している,教育ルポ特集には,そういった事例がたくさん厳せられてい2)
る。たとえば,朝日新聞社編『いま学校で』の中では,次のような事例が紹介されている。
三重県北部のある市立中学校では,三年生の一人が,校長に乱暴するという事件をきっかけに,1中
学生らしい態度,服装をするJ.つまり, r校則を守らせる乙とJを徹底的にやるととが確認された。
その校則の内容は, r靴下は,白,黒,紺,茶の無地J, r短髪J, 1スカートはひざ下十センチ,
ズボンはすそ幅二十六センチ,太さは均一,ベルトは幅二センチ以上Jなど,細自にわたっており,
徹底したチェックが行なわれた。しかし,皮肉な乙とに,校則が厳しくなると,生徒の反発もまた強
くなる。そして,問題行動→校則強化→反発→問題行動と際限がなくなる,といった事態が生じた0
. 乙の教育ノレポ特集には,問機の事例がたくさん載せられており,学校側が運用につまずくと, r規3)
JlIJJは,校内暴力を防ぐど乙ろか,ますますエスカレートさせるものであるととが指摘されている5
上記の例のように,子どもの問題行動に対して,なぜそれらが生み出されたのかという乙とを論議
せず,子どもたちに「規則jを守らせ,守れなかった者は処分で「始末Jをつける乙とに,問題のす
べての解決を見い出そうとする態度を,乙乙で,仮りに,管理主義的指導と呼ぶととにしよう。
乙のようは管理主義的指導に対して,一方では,自由主義的な指導が必要であるとされている。そ
乙では,教育における統制や管理が,子どもたちの自由を束縛するものであり,今日の子どもの問題
状況を生み出した婆因であると考えられている。そして,そうした管理や統制を廃し,子どもの自主4)
性を尊重する乙とが,何よりも大切であるとされるのである0 •
乙のような,生活指導をめぐる二つの態度を「止鍋Jする第三の立場としてあるのが,集団主義教
育である.
-49-
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「労働者階級の思想、と実践の原理にしたがって,集団主義
.
集団主義教育とは,小川太郎によれば,5)
的な人聞を形成する教育」である。集団主義教育の場合は,教育における有効な管理や統制を利用し
つつ,その乙とに終始するのではなく,子どもたちの内面的な発達がめざされている。したがって,
一見,管理主義的指導と似ていると乙ろもあり,両者を同一視するといった誤まりも生現象的には,
じている。
たとえば.片岡徳雄編『 集団主義教育の批判』をみてみよう。
マカレンコと全生研の理論をさして1975年に出版された乙の書は,集団主義教育〈乙乙では主に,
「人格の尊厳と自由を尊重する民主主義の理念J, 「個性の発展を前提とする教育の論理J, いる)が,
「ないしは個人の主体性を守る組織論J,といった点から見て,様々な問題を苧んでいるのではない6)
かという仮説から出発している。その中で,規律iζ関しては, 「集団規律とそれへの服従を強調する
そのことによって自由ははじめて保障されるという論が用意されているとはいえ,個人の自7)
由や逸脱が制限されはしないかJという点が一つの主要な批判のポイントとなっている。その乙とは,
乙とは,
3章「マカレンコ集団主義教育の分析」において,次のような主張となって現われている。つまり,
マカレンコの理論が,
他面,体制の論理さらには統制 ・支配の論理という点で,8)
えない」と結論づけている,
マルクス主義の社会を基盤としつつも,マルクス主義の論理を志向し,「一面,
マルクス主義とは異質なものといわざるを
一つの鍵となるのが規律の概念であろう。管理主義的指導の場合,
あるいは「規則」と同じような意味合いで使われている。集団主義教育
と乙ろで,マルクス主義の教育理論はもともと,統制や管理一般を否定するものではない。
乙のような理解の混乱を解く,
規律は, 「秩序そのものJ,
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の場合は,規律は,教育の結果としてはじめて達成できる状態を意味し,教育の手段であるレジム
また,規律と自由の問題についても,集団主義教育では,両者を相対立するものととらえるのでは
したがって,集団主義的規律の概念を明らかにする乙とは,今日の生活指導論を考えていくうえで,
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ソビエトにおける学
マカレンコの規律観の検討を行なっていく乙ととし
「生活における秩序を
「秩序そのものJ,f社
以上のような問題状況を念頭におきながら,集団主義教育の第一人者であり,9)
校規律の概念を体系化したと言われる, A.
規律という概念は,わが国では,多様な意味で使用されている。それは,
もたらす過程としての訓練やしつけ」というような意味合いで使われたり,10 )
会的な規範の内面化したもの」をさす場合がある。
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不可欠な作業であると思うのである。
なく,統一的な把握がなされている。
〈きまり〉とは区別されている。
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社会主義社会では, レーニンが主張した,労働者の 「自覚的規律jの育成という乙とが強調される。
レーニン夫人であり,著名な教育学者でもあった,クループスカヤは, レーニンの 「自覚的規律J
の考え方を踏まえて,資本主義社会と社会主義社会における学校規律の遭いについて言及している。
それによれば,資本主義社会の学校では, r規律は,いわば外から押しつけられたもの,楽天性と個
性とをおさえつけJ, r子どもたちをうちくじき,かれを従属させる働きをする」ものであり,その
基本的な性格は 資本に忠実な労働者を育成する ζ とに向けられている。 一方,ソビエト学校におい12 )
ては,連帯性,高いき、識牲を労働者たちの問に育成する ととが,学校規律の内容を規定している。も
ちろん,乙の場合,学校規律の内容は,社会的規律の内容に規定されるが,それは,社会的規律の単
なるしき写しではなし、。 学校規律においては,まだ成長中の世代が教育を受けているという 乙とから,13 )
規律が,訓育や陶冶の課題iζ常に従属しているという独自性が認められているのである。
とのように,規律のさし示す内容は,社会の体制や構造によって異なったものになっている。それ
は,社会的規律だけでなく,教育学の対象である学校規律についても,同線である。
ソビエトでは,クループスカヤとほぼ同時代に活躍したマカレンコの理論が,現在でも高く 評価さ
14 ) れている。乙のマカレンコの理論は,戦後, 日本にも紹介され,生活指導の分野に大きな影響を与え
た。特に,マカレンコの理論を,日本の現実IC,いかに移入するかという乙とで論議がなされてきた。
そとで指嫡された主な点は,マカレンコの方法論を学ぶ際には,その方法論の基礎となっているマカ15 )
レンコの思想を正しく理解し,現実に適用していく ζ とが不可欠ではないかというととであった。乙
の指摘は,マカレンコの規律観を理解するうえにおいても,きわめて重要であろう。本稿では省略せ•
ざるを得ないが,マカレンコが訓育活動の目的を,ソビエト社会の目的から導き出さなければならな16 ) _ _ _ _. _ . _ . _.. ~ . __.. . "-_._ _ _ ...... ~ ,_ _ . _ ~ ~. L _ 1,7 )
いと考えていた乙と; r人間に対する信頼と要求の弁証法」を自己の教育信条にしていた乙と,そし18 )
て, r集団」を,労働人類の世界的な一致団結という立場に立つものである 3 と考えていた乙との理
解は重要であると思われる。
1. 鍵律と自由
マカレンコは,規律は白白であり. r個人を,よりよく保護された自由な状態におき,自分の権利19 )
にたいし,まさに個々人にとっての進路と可能性とにたいする,完全な確信をっくりだしていく Jも-・
のであるとする規律観を示していた。
ととでマカレンコが言う「自由Jは,やりたいととがなんでもできる式の, 恋意の自由を意味して
いるのではなし、。別の論文でマカレンコは,規律を自由と対立させてとらえる見解が誤まりであり,
その場合,自由とは,何でも気ままにできるという,恋意とは区別して考えるべきであるとと,ソビ
エトのような悉愈の制限をめざす社会における規律は,社会のあらゆる要素にたいする関係に個人を
おき,それによって個人がそれを考慮して言動を正確に選ぶ乙とを可能とするものであり, i自由
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一ーそれはトヴエルカヤやネフスキー通りを安心して歩いているととである。とのときあなたは電車
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あなたの頭上に七階の家が建築法を守って建てられ,
乙のようなマカレンコの自由観は,
自動車と馬車は右側を通り,20 )
くずれおちてこないと確信 しているJ乙とであると説明している。
は軌道をはしり,
「自覚された必然で思いついた乙とをする権利にあるのではなく,自由とは,
マルクス主義の自由観i乙基づくものである。
前iζ街繍したように,21 )
ある」という,
ソビエト的規律の教育が,嫌々な教育活動を通して最終的には,「規律は自由である」とはつまり,
子どもたちが何をなすべきかを自分で判断し,行動できる教育であり, 子どもたちもそれによって自
らの利害が守られ,成長することを確信している教育であるという乙とを意味している。その乙とが,
レーニンの「自覚的規律Jの考えを,学校教育に具体化していく内容であるとも言えるのである。
マカレンコのこのような規律観の背後には子どもの変革可能性に対する,楽天的な見方が存在して
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「人聞がならずものになるとすれば,悪いのは,
「問題児というものは,自らの経験を踏まえ,
いた。マカレンコは,22)
法であるJと考え,
「人間iζ対するできるだけの要求と人聞に対を,何度も繰り返し言っている。乙の考えは,有名な,
するできるだけの尊敬」の公式に,如実に反映されている。マカレンコは乙の公式について,次のよ
うに述べている。
ソビエトのすべての教育家「わたしの根本原則は(乙の原則はわたしのものであるだけでなくて,
だが一人聞にたいするできるだけの要求,つねに,わたしは思うのですが), のものでもあると,
という乙とでした。わたしたちの弁証法においてそれとともに,かれにたいするできるだけの尊敬,
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という乙とと,われわれが尊敬していない人に多くの乙とを要求する乙とはできない,乙れは,は,
わたその乙と自体のなかに,本来,同ーのととであります。わたしたちが人聞に要求をするばあい,
その要求が実行されるからしたちの尊敬がふくまれているのです。わたしたちが要求するから乙そ,24)
わたしたちはその人を尊敬するのであります」。乙そ,
より興味あるものを,見
ロシアの革命的民主主義者で
通しを持って育成してい乙うとする態度なしには, 真に,子どもを「自由」 にする乙とは不可能であ
る。
「教育における権威の意義についてJの中に,すでに現われ
ドプロリューボフは,子どもの理性を無視し,単に子どもを仕込み,圧迫するだけの規律の教育
「判断や見解における独自性の欠除,心の奥底にある絶えざる一ーは,「権威への無条件服従」一不満,行動における無気力と不決断,外部の影響に抵抗しようとする意志力の欠乏,一般的な無個性,
その結果としての無思慮と卑劣性,自己の義務に対する堅固で明確な意識の欠除,および,
以前から定められていた秩序とは違った,何か新しい,より完全なものを生活の中に持込む乙とがで25 )
きない乙と」といった「能力」しか与えないと批判する。そして,
•
より力強いもの,
規律が子どもを自由にするものでなければならないという考え方は,
あったドフ.ロリューボフの有名な論文,
ている。
そのようなやり方は,子どもが,
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さらに良きもの,子どもの中に肯定的な力を見い出し,i E
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あやめたりする乙とによ ってのみ,繰る26 )
ζ とができるものであるという子ども観を基礎としてでてくると述べている。乙 のような誤ま った子
おどしたり,fこ?ミ合理的な説得を理解する乙とができず,
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もし,ドブロリューボフは,子どもの理性は,予想されているよりもはるかに大きく,ども観に対し,
そして教師は,その罪は大人たちにあると考える。子どもが物わかりが悪いとすれば,多くの場合,
そして,正常な発達を許与するとと,自由で,子どもに,「子どもの中にある人間的本性を噂重 し,
生き生きした強固な確信をそして巌大限iζ,事物についての正しい理解,子どもに対して,第ーに,
善なるものと真また,子どもが,恐怖からとか,賞賛や獲美を得たいという私心からでなく,与え,
意識的に行動するようにさせる乙とJを,中心iζ しなければならないと主張するの理への尊敬から,27 )
である。
ドブロリューボフの観友であり,同じくロシアの革命的民主主義者であるチェルヌィ シェフスキー
厳大限iζ子どもの人格を尊重しなければならなも同様IL. 子どもに対する圧迫や仕込みに反対して,
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いと考えていた。と,同時iと,彼のトノレストイの教育論への批判の中iζ見られるように,教育者の主28)
導的な役割を否定した自由教育論は, 子どもの発達を保障するものでない乙とを認識していた。マカ
自乙れら19tせ紀後半の進歩的な教育思想、iζ学びつつ,マルクス主義の諸理論のみならず,レγコカt,
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らの理論を発展させていったととは明らかである。
マカレンコも当時 (1920トノレストイの自由教育論を批判したように,チェ Jレヌイシェフスキーカ七
つまり,子どもの興味や創造力iζ
完全な「自由Jを与え 「自律Jを基調とすべきであるとする規律観附して,疑義を表明した;そ
して,「集団と集団の機備ができていないうちは,まだ伝統がなく,第一次的な労働と生活の習慣が教
ソビエトの教育学界に流行していた自由教育論の規律観,年代),
「教育育されていないうちは,教育者は強制の権利をもっており,強制をやめではならないJとと,30 )
を主張した。全体を興味の上にきずいてはならないj乙と,
マカレンコによれば,子どもを信頼するという乙とは,子どもの欲求や興味のおもむくままに放任
乙うしそれらを踏まえつつ,発達段階iと応じた合理的な要求をする乙とである。ーするととではない。
た努力の結果,はじめて規律が達成され, 子どもたちを臼自にするのである。
規偉とレジム2.
「外面的な秩序または外面的な方策にすマカレンコは,革命前の学校に支配的であった,規律を,
「それもし,規律をそのように見るなら,ぎないものjととらえる乙とが,致命的な誤まりであり,
つねに児童集団の反抗を呼ぴおともっぱら鈎庄の形式にすぎないものとなるであろうしはつねに,
なにものも
「たんなる訓育の手段」とみるのでなく,r規律は訓育過程の結果であり,なによりもまず,生活のすべての領域一生産生活・日常生活・学校生
活・文化生活ーにおいて発御された・被教育者たちの集団自体の努力の結果Jとして見る乙とを強
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また,抗議と,規律の傾分からむしろ遮げだしたいという欲求以外には,31 )
育成しないであろうJ言っている。 そして,規律を,
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つねに全訓育過程の結果である規律と区別して考えられているのがレジムである。レ33 )
それを用いて,集団が行動の外的なわくを組織していくJも「なによりもまず手段であり,
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また集団の白からみて,明確な論理を「明確な意味をもっていなければならず,正しいレジムは,
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「正確乙の他iと,マカレンコは,
「共通性J, 性J, , . , が} ・'「手段jである乙の「外的なわく」であり,「はじめにJで問題にした管理主義的指導の場合は,
., -r-レジムが守られている乙とをもって,規律が成立していると考えられている。
i 1. レジムを正確に守る従順な人は,集団主義的な規律正しい人の特徴としては,全く不充分しかし,ーーー司司.. . . なものである。
e . --:-.ー・・,, 1:・・・.「つねにどんな条件のもとでも,社会にとってもっとも
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そうした行動を最後までつ
ひそして,具体的には,
とりひとりの勤労者にたいする尊敬,自分の小さな集団にたいし,全ソビエト社会の集団にたいする
「勤労者たちのあいだの積極的な統一,レジムなどの教育手段を通じて,
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「もっとも複雑を要求する」ような「誠実さJ, 尊敬,すべての国々の勤労者たちにたいする尊敬,
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きわめて平静に,確信をもって,大声もあげず,
ヒステリーもお乙さず,狼狽もせず,金切声も出さないで,方向判定をする能力J, i金持にでなく,
きわめて正確に,な状況のなかで,きわめて敏速に,
~; a:.~ 1
句、Hr川に
戸
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-也“方、
また同輩iζ命令する能力」というような共産主義的な性37 )
質を,子どもたちの中に育成していく乙と乙そが,集団主義的規律の内容であると考えられていたの
同輩に一服従する能力,
規律は、i1t1育的作用の総和の産物である
雇主にでなくて,
である。
3.
マカレンコが,規律を,訓育的作用の結果としてのみ得られるものであると考えていたという乙と
その実践の当初,集団から脱落していく個人にのみ注意を向けるという誤まった方
法で,子どもたちを指導していた。しかし,後になって, rわたしのしどとのうえでもっとも危険な38)
要素は,特別な注意をひく子どもではなくて,わたしからかくれる子どもであるζ とがわかったJと
言っている。つまり,認11育活動の目的が,盗みや乱暴したりといった5問題が起ζ ってから対処する
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その訓育的作用とはいかなるものであるのかという乙とを明らかにしておかな
ければならないだろう。 .
マカレンコは,
マカレンコのコムーナにおいては,34 )
総会において審議されなければならないとされていた。
「司11育過程の組織方法論Jの中で 正しいレジムの特徴として,35 )
「明確性」をあげている。
規律正しい人とは,マカレンコによれば,
有益な正しい行動を選ぶ乙とができ,どんな困難や障害にもひるまずに,36 )
づける毅然さをもっ人Jであった。
を理解するためには,
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「正常児Jとみなされている,特別な注意を引かない子どもが,ことにあるのではなく,いわゆる,
「戦闘的・積極的・活動的Jな性格を自分のものにする乙とにあるという,r積39 )
極的教育Jの主張者となったのである。
りっぱな市民になり,
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集団主義的規律の教育が,子どもたちの活動を組織する乙とによってのみ可能であるという乙とは,40)
クループスカヤも指摘しているが,教育学者でもあり,同時に実践家であったマカレンコの
さらに-突っ込んだ理論を展開している。先に一例としてあげたような, 1お場合はJ ~II育面において,
すでに,h -. . . ・・.・.・. ‘ .
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平「lz
「平行的教育作用Jは,通常,教師が,個々の生徒に直接働きかけるのではなく,集団に働きかけ
という形式を取る乙とによって,教師の教育意図iζ平行して,集団から個人への作用が進行する42 )
という具体的手法のーっと考えられていた。しかし マカ
いわゆる「直接的教育作用」の教育学に対し,
それは,イー・エフ・コズロフによって,
説教の教育J,教育者と被教育者のぺアの教育,
行的教育作用」の教育学を主張し記;
る,
レンコの教育理論を貫く基本方則ととらえられなければならない乙とが提起された。それによれば,
まさにすべての活日常生活,遊び等々,「子どもたちの活動一学習,労働,平行的教育作用とは,
- 量~. :'
管、
それらの諸力は発達するので動iと引き入れられた子どもたちの臼然、的諸力の訓練の結果としてのみ,
平行とは,子どもたちの活動が,1そ
その活動の内容と性格に相応した知識,能力,習熟,習慣,見解が陶冶され,全体と43 )
しての人格の形成が行なわれるJという乙とである。 乙の場合,
あり,同時に,
「平行的iと」 人格への形成作れを引き起し条件づけている直接的な生活欲求を充足する」過程と,44)
という意味に解釈されている。つまり,集団と個の平行的操作という手法をとる際用が及ぼされる,
その集団の活動の内容が決定的な意味を持ってくるという乙とに留意しなけその集団の質や,iζは,
ればならないのである。
中心的な位置を占めていた活動は,労働であった。マカレンコは,労マカレンコの実践において,
「生産が存在せず,集団的労働が存在しないで,個々の労苦が存在しているばあい働教育において,
ーの状況」は,
「労働教育の否定的な状況Jである乙と,生産,つまり価値の創造という乙とを念頭においてない労45 )
と考えていた。高い道徳的動機を伴なった労働のみが子どもの
それらは,「労働教育まがいのものを与えることを目的としている労働過程Jであり,
働は,教育の積極的な要素ではない,
そ乙において高い道徳的動機や欲求が形成さ-人格を育てるのであり,また, i子どもの労働活動は,46)
れ強化されるように組織されねばならない」のである。
マカレンコが考えていた訓育活動は,労働の側面だけでなく,学習・社会・政治・文化
乙れらの一つ一つの活動に相応し
もちろん,
-日常習慣面と,子どもたちの生活全般にわたっていた。そして,
て,学習面では学級,社会・政治面ではコムソモールやピオネーノレの組織が,労働面では生産それ自
日常習慣面では異なる年齢層から成る「隊」という集団のシステムが身が,文化面ではサークルが,
ー
単備されていた。
乙のように,マカレンコの理論では,集団の内容豊かな活動の組織が,規律の達成にとって不可欠
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と考えられていたのである。
「全ソ連邦の見それを,「人間生活のほんとうの刺激は明日の喜び」から,そのことは,そして,
通しにまで到達させるJ.乙とであり,子どもたちの活動を,子どもたちの中に「見通し路線」を育て
「集団の見通しが各人にとって自分の見通しとなっているような集47 )
団」を作り上げることを意味していた。
そして,るように組織すること,
マカレンコの実践が成功したのは,子どもたちが生活共同体の中で暮らし,生産現場で働き,大多
マカレンコカ三一般の学校とは異なった条件においてであった。しかし,数が家族を持たないという,
「マカレンコの思想、をただし
一般の学校においても通用する,普遍性を持つものである。そのこと48 )
マカレンコ自身も証言している。ヴェ・クマリンはこのことから,
明らかにした訓育の諸原則は,
は,
く解釈するとするならば,問題は乙の場合,集団を創造するための好適な諸条件の有無にあるのでは
その組織の全要因が単一49 )
の学校集団を強化するのを促進するように学校教育を組織できるかどうかの力量にあるのであるJと
乙れらの好適な諸条件を創造できるかどうかの力量にあるのであり,なく,
スホムリンソビエト社会であり,すでに,50 )
スキー等によって学校教育の場に具体化されているのである0
マカレンコの規律観は,子どもに真の「自由Jを与えようとするも
それは,クマリンが念頭に置いているのは,
以上,簡単に紹介したように,
言っている。
もちろん,
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のであり,教育者集団による,系統的な,集団の活動の組織化なしには達成され得ないものである。
レジムのような「管理lは,教育手段としてのみ位置づけられており,最終的iζは,子どそこでは,
もたちの中に,共産主義的な性格を育成するという,内的な発達がめざされているのである。
と乙ろで,最近のソビエトにおけるマカレンコ研究の動向を見ていても,マカレンコの理論を,教
育心理学的時付ける必要性が言われている;そして訓育心理学という乙とが言われ出している。た
ペトロフスキー編著『発達教育心理学』では,規律の問題と関連して,次のように説明され
三年の間,規律正しーーーー・,「年配の教師のもとでは,授業での理想的な規律がある。子どもたちは,
いと思われていた。と乙ろが教師が変わると,生徒の規律正しさは跡かたもなくなった。長い練習の
ただし規結果,彼らの中には何も形成されなかったのであろうか?もちろん形成されたのであるが,
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とえば,
ている。
律正しさではなくて,教師i乙対する恐れであり,教師の要求iζ調子を合わせる乙とのできる能力,
どんな状態にも概ね迎合する能力が形成されたのである。乙のようにして,人絡の一定の性
質は形成されたが,学校でのそのような行動の形態の重要性や必要性の理解,教師や仲間に対する尊
あ
るいは,
しかるべき動機が形成され
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まさに,管理主義的指導の場合は,上の
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敬,授業におけるまじめな仕事への欲求,等々をその動機とする規律は,52 )
なかったために,形成されなかったのである。 J
乙の展開についての検討は,他日を期す乙ととしたいが,
例と同様の乙とが言えるのではないだろうか。.
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注窓しなければなら三の特徴を紹介してきたわけであるが,マカレンコの規律観の二,
おわりに
本稿では,
乙れらの規律
ソビエト社会におけ
マカレンコは,
つまり,いかになすべきかJというとと,なすべきかという問題ではなく,
だと述べている。
まず「何をなす資本主義国である日本で, 集団主義的規律の教育を実践してい乙うとする際には,
間われなければならないだろ
それらを実現させてい乙うとすれ
「どんな人間を教育しなければな らないか」という乙とが,べきかJ,
日本で世
「個人主議やエゴイズム集団主義とはそもそも,
プロレタリアートの階級闘争の最も重要な原防庁長あり,集団主義教育とは,
かつて小川太郎が指摘したように,55 )
並大低でない乙とは明らかである。なぜなら,
乙の点について,つ。
ぱ
と板本的に対立した,
そしたがって,窮極的には,集団主義を現実化していくととをめざす教育に他ならなし、からである。
自ずと,階級的な制約という乙とが問題とならざるを得ない。の保障という乙とを考えていくとき,
前に紹介したクマリンの指摘が考日本のような資本主義社会においても,そういった意味において,
慮きれなければならないfごろう。
そ日本の現実にいかに移入していくかという乙とが言われたとき,マカレンコの理論を,かつて,
一つには,本橋でも触れた,マカレンコの技術的側面だけを切り離して適用するという技術主
もう一つの側面は,資本主義社会附いて,集団主義教育のヂ全な実現は不可能
であるというと乙ろから,政治主義的な適用の仕方を戒める観点で言われていた。
れは,
義的偏向に対して,
その実現が可能かどうかという乙とではな公教育において,それらの点を考慮しつつ,今日では,
それらを教いかに集団主義的規律の教育を達成できる条件を創造できるかという乙ととともに,く,
-育学的技術の問題としても提起していくととが問われていると考えるのである。
(注)
大蔵省印刷局,昭和58年. 2a-al4Jt, 総理府脅少年対策本郎編『青少年白書J(昭和57年版〉
65 - 77頁。朝日新聞位編『いま学校で・校内暴力』朝日新聞社, 1983年,
、ノ
.、‘ノ
'ーのru
130頁同上,3)
5-89頁を参照。乙の点に関しては, r現代教育科学J!ぬ318,1983年 5月号,4)
• 139頁。
1頁。
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同上, 19頁.
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「困難は何を54 )
「教育学的技術の問題」
マカレンコが,53 )
どんな人聞を教育しなければならないかを百も承知しているJ,
したがって,
ないのは,過去のマカレンコ解釈をめぐる論争で問題となったように,
る学校規律の問題として言及しているという乙とである。
「みな,観を,
•
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,
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『小川太郎教育学著作集』第4魯青木・庖, 1980年,
片岡徳鑑錫『集団主a教育の批判J,禦明・房,昭和50年,
5)
6)
-, .・
98 -99頁。
•
向上,8) a・
' 4 • , . . !"' ,. .. . ソビエト教育学研究会編訳『ソビエト教育科学辞典』明治図書ソビエト教育科学アカデミヤ版,
'" 参照。351 -352頁
たとえば,
昭和38年,
9)
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209頁。平凡社,昭和30年,下中弥三郎編『教育学事典』第2巻10)
,
•. , •• ,
レーニン「ソヒ・ェト権力の当面の任務J(ソ同盟共産党中央委員会付属マルクス=エンゲノレス=レーニン研、、,,唱
EA--A
• -.' !. .-241 -280頁。大月書信, 1958年〉マルクス=レーニン主義研究所訳『レーニン全集』第27巻究所編,
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12)
1-4頁。新評論J 1960年,グムーノレマン著,矢川徳光訳『学校づくりの規律』13)
:
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Volk-たとえばJ 1 A Kairow, L. J. Gordin und P. T. Frolow, Ideen Makarenkos, Volk und Wissen 14)
町Berlin, 1980, S. 9. Verlag selgener
" " • . ・.・.杉山明男「マカレンコの日本への紹介のされ方J(tr生活指導J]No. 69, 1965年 1月号)58-64頁,15)
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ヘ.~ . . '. ~:. 、 :J L vt • _. ...
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der
チェルヌィシェフス・キー著,小
144 -155頁,参照。
マカレンコからの引用については,
Duhring ( Karl
ZK
福村出版, 1970年, 53頁。
• ・.
多 , ・、- , ・ '
筒rMarxismus -Leninisnius beim
Dialektik der Natur
(4-4ω〉
ドプロリューボフ著,績回三郎訳『革命的民主主畿の教育』
向上, 63頁。
向上, 70頁。
チェルヌィシェフスキーfトルストイ教育論への批判J(ペリンスーキー,
及び,小川太郎r教育と陶冶の理論』
A.C・.MaKap8HKO,CO可BBegURB eeMEE TOUax, H&laTe~.CTBO aK8A8UUB ne具arOrUqeCKHXHayK, MOCMBa,1957,T.5,CTp.114.
明治図書, 1977年,
-.
(6 -351 )
(6 -135)
(6 -419)
(8 -261)
(6 -242)
(6 -217)
岡山
101頁。以下,
A. C'. MaKape.HK 0 , COq・,T.3,CTp.446•
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a, Institut
Anti
105 -107 .
Tau .e,T.5,cTp.252.
く明治図書版〉第 6巻,
Engels,
Werke,Band
Tau ae,T.?,CTp.403.
Berlin, 1962) S.
Marx / Friedrich
Tau ae,cTp.148.
Tau ae,cTp.229ム
TaJl ae,cTp.35S. Tau xe,cTp..425.
巻数及び頁数を示す〉
Engels,
。事訳全集
Verlag,
Karl
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16)
18)
19)
23)
26)
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20)
21)
22)
24)
15e-184頁参照。
(2 -134)
( 6 -277 -278 )
1978年)
co可.,T.5,C1'p.248.
沢政縫・海老原通訳『革命的民主主護教育論J1 .明治図書
(5 -326)
A.C.MaxapeHKO,Co可.,T.1,c?p.557-558.
(6 -35-36)
(6 -32)
( 1 -112)
(6 - 161 )
(6 -307)
(6 -32)
(6 -35)
(6 -35)
H.K.KpyDOK.R , ne~arOrHqeCK.e
TaM &e,T.5,c包.1).286-287•
1'&111&・,c7p.313.
Talll ae,T.4,cTp.362.
Tayae,T.5,c1'p.35.
Tall ..., C包p.39-41.
TaII ae,c4f.p.128.
Tall ae,cTP.174.
ra.. .e,cTp.39.
Ta.. ae,cTp.40.
TaM .e.
29)
31)
40)
36)
30)
33)
37)
32)
35)
38)
39)
34)
(6 -156) A. C .IIaKapeRKO, COq. , T. 5, c1'.p.16 9. 41)
23頁。グムールマン『学校づくりの規律』前縄,たとえば,42)
イー・エフ・コズロフ「教育集団の理治的基礎J(ソビエト教育学研究会編訳『マカレンコ研究nJj 43)
8頁。1965年,所収〉明治図書,
und Kollektiverziehung. Volk dぽMethodik elneJ" Entwurf zu
9頁。江お, ζれに関しては,
Mannschatz
同上,44)
Eberhard
5.28.を参照。1970, Berlin, Verlag V olkseigener Wissen
326頁。
(6 -180)
新読書社t 1977年,
A.C.M&xapeRKo,CoQ.,T.5,C1'p.192. 45)
ペトロフスキー編著,柴田曇総訳r発達教育心理学』46)
(6 -64-65) A.C.Ma..peRKo,Coq.,T.5,CTp.?4-75. 47) ー
(6 -107) Ta...・,C1'p.121.48)
ヴェ・ヴェ・クマリン「ア・エス・マカレンコの理論における集団と個人J(クマリン編,海老原遥・49)
新読書社, 1983年,所収)24-25頁。集団主畿と個人の教育』婿迫和幸訳rマカレンコ
新読書社, 1977年,ソロベイチク編,伊集院俊隆・川野辺敏・福井研介訳『教育と教師について』50)
238頁..照.
V olkseigener Wissen und Volk Kol1elr.tivs, des Kinder・Theorie Ljudmi)a Nowi kowa, 51)
s. 54-63. Verlag 8erlin, 1981,
A. W. Petrowski,
Wissen und Volk
1981 )によれば,訓育の心理学の郎分が全面的に・き改められており,
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•
前縄,ペトロフスキー『発泡教育心理学J307頁。と乙ろで,同・の第二版〈独釈,
Entwic凶時・-peychologi e und pAdagogi舵 he 2. Auflage, Psychologie,
52)
Verla, Bevlin, Volk.eigener
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この分野の研究が急速に進展しつつある乙とが窺われる。
( 2 -134) A. C.Mal(apeHKO, 00可., T. 1 t C T p. 558. 53)
(2 -134) •
Tau ze.
1964年,秋季号〉小川太郎「集団主義そのものの中の条件と可能性J(rr別冊現代教育科学J]No.3,55)
52-65頁。
3HqHKnOueAHs,rp.pe且.くT.D.KoHCT&HTHHOB,φHJlOCOφCKas 56) ,・
3HUHKnone~HH , 1962 , ~H四TφHJJOCOφHH AH CCCP, 。ose-rCKaJl. .・
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T.2,CTp.563.
城丸章夫「集団教育の必要性について J(rr生活指導.nNo.30, 1961年, 12月号)11-20頁参照。
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(大学院後期博士課程〉
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