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銅鉱山に参画して―第1回:参画から操業初期(1996~2005年)―
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インドネシア Batu Hijau 銅鉱山に参画して ―第1回:参画から操業初期(1996~2005年)―
住友商事株式会社非鉄金属事業部 荒川 仁
1.はじめに
インドネシアBatu Hijau銅鉱山事業への参画・出資を目的として住友金属鉱山株式会社・三菱マテリアル株式会社・古河機械金属株式会社・住友商事株式会社の4社によって設立されたヌサ・テンガラ・マイニング社は、2016年11月、その鉱山権益をインドネシア民間資本に売却するに至ったが、これは1996年7月に同社が設立されて本事業に参画してからちょうど20年が経過した節目に当たる年であった。
ヌサ・テンガラ・マイニング社がBatu Hijau銅鉱山事業に参画していた20年間は、様々な問題や課題に直面しては関係者の総力を結集してそれを克服してきた苦難の歴史である一方、かかる厳しい環境においても何とか操業を維持し続け、投資先国・地域への貢献や日本向けを中心とした銅原料の供給においてその一翼を担ってきた確かな歴史でもあった。
その歴史を振り返ると、本事業には実に様々な出来事があり数々の苦難に見舞われたが、その中でも特に重大と思われる難局が立ち上げ時に1回、中盤に1回、終盤に1回、計3度あった。
本稿は、ヌサ・テンガラ・マイニング社が2016年11月にBatu Hijau鉱山権益売却、2017年3月に解散・清算に至ったのを機に、本事業が直面した3度の難局と、それら難局への対応とその帰趨に焦点を当てながら、同社20年間の歴史を以降3回にわたって概説するものである。
2.事業の概要
まず、Batu Hijau銅鉱山事業の概要について紹介する。
「Batu Hijau」とはインドネシア語で「緑の石」を意味しており、鉱床発見のきっかけが露頭に現れていた緑色の酸化銅であったことから、それを見つけたgeologistがこう名付けたものである。
Batu Hijau銅鉱山は、インドネシアNusa Tenggara Barat州Sumbawa島南西部の熱帯雨林地域に位置しており、開発当時既存インフラが皆無であったことから、ピット・選鉱場・ズリ堆積場・尾鉱堆積場を初めとする鉱山施設に加えて、道路・発電所・港湾・居住区などの基礎インフラも一から自前で立ち上げた。
図1は同鉱山の所在地を示している。
図1:Batu Hijau鉱山所在地出典:PT Newmont Nusa Tenggara
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1996年央に完了したフィージビリティ・スタディにて、Batu Hijau鉱体の可採鉱量は10.2億t、粗鉱品位は銅0.52%・金0.41g/t、粗鉱処理量120,000t/日の前提で鉱山寿命は20年超、平均年産量は銅240,000t・金17t、開発所要資金は19億US$、との結果が得られ、インドネシア政府から開発認可を取得するのに時間を要したものの、1997年央に開発に着手した。
開発所要資金については、10億US$を日米独協調プロジェクトファイナンスにて調達し、残り9億US$を株主拠出にて賄った。
1997年5月に本格着工してから建設期間2年9か月で起業費予算・スケジュールどおりに完工し、2001年3月に商業生産を開始した。
採鉱は露天掘りで、ピットはベンチ高15mにて掘り下がり、最終形が径2,400m×2,200m、深さ800m、勾配32~47度となるように設計されている。
採掘量は、着工時にはドリル6基・ショベル6基・220t積載トラック74台を投入して480,000t/日(内、鉱石が210,000t/日、ズリが270,000t/日)と設計されていたが、建設期間中にドリル1基・ショベル1基・220t積載トラック21台を追加してピーク時600,000t/日に引き上げる措置がなされ、それが現在も継続されている。
採掘された鉱石の内、粗鉱処理能力見合いが選鉱場に送られ、残りがストックパイルとして堆積されている。
ズリはピットの南側・東側・北側に造成された3か所の堆積場に積み上げられている。
粗鉱処理能力は、着工時には120,000t/日と設定されていたが、建設期間中にピーク時140,000t/日レベルまで引き上げる措置がなされ、それが現在も維持されている。
一次破砕としてピット脇にクラッシャー2基が設置されており、ここでサイズ8.5インチ以下に破砕された鉱石がベルトコンベアで5,600m離れた選鉱場まで輸送されている。
選鉱場では、磨鉱設備としてSAG mill 1基及びball mill 2基を1系列とした2系列が設置され、更にpebble crusher 2基、regrind mill 2基、polishing mill 1基が附設されている。
浮遊選鉱には海水浮選を採用しており、粗選・清掃選がセル10基を1系列とした5系列にて、また、精選が一次セル8基・二次セル10基・三次セル5基にて構成されている。
精選された銅精鉱は濃縮槽(径25m×3基)を経て
スラリー状で17,000m離れた港湾地区にある脱水設備に搬送され、フィルタープレス(2基)で脱水された後、貯鉱舎に貯蔵されている。
銅精鉱生産量は、年々採掘する箇所によってピットからの直投とストックパイルからの給鉱との比率を変える操業となっていることから、年によってその比率の変動に伴い大きく増減するのが特徴で、標準的には500~900千tの幅で変動している。その銅精鉱は金品位が比較的高く、売上高における銅:金比率はおよそ70:30となっている。
主要販売先は日本製錬各社及び日本製錬各社が出資する海外製錬所で、生産される銅精鉱の約80%が主要販売先に供給されている。
尾鉱は、スラリー状で選鉱場から南側の海岸まで6,500m、更に海岸から3,100m沖までパイプラインで流送して海底に沿って放流し、海面下3,000~4,000m深の海溝に堆積している。この尾鉱の海底堆積は、海岸から3,100m沖に出ると急峻な海溝が存在する地形の利点、海面下3,000mより深海では対流が起こらず堆積物が撹拌しないという海流の利点を活かしたもので、環境基準を充足しつつ安定した状態で堆積されている。
道路は、港湾から居住区・選鉱場・ピットを結ぶ幅員10m・全長23,000mの専用道路を建設した。
電力は、港湾地区に発電所(石炭火力発電112MW、ディーゼル発電41MW)を建設して手当している。
港湾地区には、発電所の他に、自前で建設した銅精鉱積出バース(40,000t級バルク船対応)、資材搬入バース(20,000t級バルク船・コンテナ船対応)、銅精鉱貯鉱舎(貯鉱能力80,000t)が設置されている。
図2は鉱山施設の配置、施設間の距離、各施設を俯瞰した写真を示している。
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港湾地区 ピット・ズリ堆積場
選鉱場 尾鉱堆積場
選鉱場-港湾間 17km
選鉱場-尾鉱堆積場間 6km
ピット-選鉱場間 6km
図2:Batu Hijau鉱山施設配置図出典:PT Newmont Nusa Tenggara
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3.事業の特色
Batu Hijau鉱山操業は現地事業会社PT Newmont Nusa Tenggara(PTNNT)によって行われ、1996年に日本側が参画した当時のPTNNT株主構成は米産金大手Newmont Mining社が45%、ヌサ・テンガラ・マイニング社が35%、従来鉱区権者であったインドネシア民間会社PT Pukuafu Indahが20%となっていた。
図3は日本側参画時の出資関係を示している。
図3:PTNNT出資関係出典:住友商事
1996年当時、日本側が35%という大きな権益保有比率で参画した海外鉱山事業は過去に余り例がなく、特にオペレーターかつ最大株主であったNewmont Mining社との間の権益保有比率が45:35と拮抗した関係にあったことから、戦略策定・意思決定における発言権や人員の派遣を含めて日本側による経営への関与度が比較的高かったことが本事業の特色に挙げられる。
また、通常の鉱山事業リスクに加えて、インドネ
シアならではの固有事情に起因したリスクを抱えることになり、追加のリスク対応を迫られることになったことも本事業の特色に挙げられる。
これらインドネシア固有リスクとは、例を挙げると以下のとおりで、その多くが参画当初は想定していなかったものであった。
・ Batu Hijau銅鉱山はインドネシアでは米産銅大手Freeport McMoRan社 が 保 有・ 操 業 す るGrasberg銅鉱山に次ぐ大規模鉱山であり、他
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に大規模な非鉄鉱山が数少ない中で、開発当初から投資先国における関心や注目度が極めて高く、開発認可を取得するのに想定していたより多くの労力と時間を要したのみならず、操業に入ってからも中央政府・議会や地方政府から相次いでタフな要求を受けることになった。
・ 開発当時、インドネシアにおける鉱業投資は中央政府と事業主との間で締結する鉱業事業契約
(Contract of Work)に基づく制度下にあった
が、このContract of Workには下表に挙げるような特徴があり、事業主にとって長期にわたる権利保証や税制安定化が得られる利点がある一方で、付加価値義務やインドネシア資本化義務
(外資制限)が課されており、また、Contract of Work上の規定を巡って係争が生じた場合には一企業がインドネシア政府を相手取って闘わねばならないという構造的な問題を内含していた。
【PTNNT が締結した Contract of Work の特徴】 � 探鉱から開発、操業、閉山に至るまでの通貫契約であること。 � 契約有効期間が締結から生産開始後 30 年経過時までと長期にわたること。 � 鉱山事業主に対して有効期間中の鉱業権が保証されていること。 � 鉱山事業主に対して銅精鉱の輸出権が保証されていること。 � 国内製錬の推進について努力義務が課されていること(付加価値義務)。 � 税制安定化が保証されていること。
• 鉱山事業主が法人税率の固定化を選択できる。• 限定列挙された税・ロイヤリティ以外は新たに賦課されない。
� 生産開始後 5 年経過時から 10 年経過時までに順次外資の権益保有比率が 49%以下になるまで政府に権益譲渡をオファーする義務が課されていること(インドネシア資本化義務)。
・ 2009年に制定された新鉱業法によってContract of Work制度が廃止され鉱業権の付与がインドネシア政府による許認可制に変わったことから、それまでに締結されたContract of Workは契約期間満了まで有効と定められはしたものの、新鉱業法の内容にそぐわない条項を新鉱業法に合わせて改定することが義務付けられた。これにより、事業主にとってContract of Work上得られていた権利保証や税制安定化などの利点が失われるリスクが生じた。
・ 新鉱業法が制定されて以降、インドネシア政府の鉱業政策が頻繁に変更されることになり、その一貫性に欠ける政策に大きく翻弄されること
になった。また、その鉱業政策が現実性や経済性に欠けるものであったために不条理とも言える対応を迫られることになった。
・ 多額の税・ロイヤルティの納付や地域振興費の拠出、インドネシア資本への権益譲渡、地元の周辺ビジネスや雇用の創出など多岐にわたって投資先国・地域に対し大きな貢献を果たしたにも拘らず、資源ナショナリズムや反外資感情の高揚を背景に政府・議会・世論から「国・地域への利益分与が不十分である」とか「外資が過度に搾取している」とかいった批判を受け、その逆風や圧力に苦慮することになった。
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4.事業の沿革
ヌサ・テンガラ・マイニング社が本事業に参画していたのは1996~2016年の20年間であったが、現地事業会社PTNNTの設立は1986年に遡る。
そのPTNNT設立から日本側が参画して撤退に至るまでの主な出来事について下表にまとめる。
1986 年 12 月
1990 年 5 月1995 年 1 月1995 年 7 月1996 年 3 月1996 年 7 月
1996 年 10 月1997 年 5 月
1997 年 7 月1999 年 9 月2000 年 3 月2005 年 3 月2010 年 2 月2010 年 3 月
2016 年 11 月
2017 年 3 月
鉱区権者 PT Pukuafu Indah 20%:米 Newmont Mining 社 80%にて PT Newmont Nusa Tenggra(PTNNT)設立PTNNT -インドネシア政府間で鉱業事業契約(Contract of Work)締結Batu Hijau 銅・金鉱床発見Batu Hijau 開発に向けてプレ・フィージビリティ・スタディ完了Newmont Mining 社がパートナー招聘を開始Newmont Mining 社との間で日本側参画について基本合意ヌサ・テンガラ・マイニング社設立Batu Hijau 開発に向けて最終フィージビリティ・スタディ完了インドネシア政府から環境許可を取得インドネシア政府から開発許可を取得Batu Hijau 開発に着手プロジェクトファインナンス契約調印試験操業開始完工・商業生産開始インドネシア資本化義務履行開始プロジェクトファイナンス完済インドネシア資本化義務 31%の内 24%まで履行進捗これにより外資保有比率が 80%から 56%にPT Pukuafu Indah を除く株主が現地企業に株式譲渡PTNNT から PT Amman Mineral Nusa Tenggara に社名変更ヌサ・テンガラ・マイニング社の清算が結了
5.第一の難局
本事業にとって最初の大きな難局は生産開始前に訪れた。
これは、1997年央に開発に着手して間もなく、銅価・金価格がいずれも下落局面に入って1996年策定のフィージビリティ・スタディにおける前提価格を大きく下回ることになり、そのまま計画どおり生産開始を迎えると当初5年間のキャッシュフローがマイナスに転じる可能性が高まったものである。
ちなみに、図4はフィージビリティ・スタディ策定時の1996年から生産開始後5年を経過した2004年までの9年間に実際に銅価がどのように推移したかを示している。1997年央から銅価が急落し2003年央まで長らく低迷が続いたことが見て取れる。
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0
500
1,000
1,500
2,000
2,500
3,000
3,500U
S$/t
図4:1996~2004年銅価推移出典:公表情報を基にJOGMEC作成
また、図5は同じく1996~2004年の9年間に実際に金価格がどのように推移したかを示している。1996年初からじりじりと値を下げ、1999年央に底は打っ
たものの直ぐには回復局面に入らず、更に2003年初まで低迷が続いたことが見て取れる。
050
100150200250300350400450500
US$
/oz
図5:1996~2004年金価格推移出典:公表情報を基にJOGMEC作成
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この難局を乗り切るために、PTNNTでは生産開始当初のキャッシュフローを改善してプラス化することを目的として操業計画を大幅に見直すことを決定、開発工事を進めながら、同時並行的に操業計画の改訂に着手した。
Batu Hijau鉱体は元来、径800m×深さ800m程度の境界が明瞭な円筒形で、鉱体中心部に高品位帯が賦存していて中心部から周辺部にかけて品位が下がる傾向があったことから、鉱体深部に到達するためには鉱体外縁部の剥土を大量に行ってピット壁を押し広げる作業を繰り返しながら掘り下がっていかねばならないという宿命を有していた。
このピット壁をプッシュバックしながら深部へと掘り下がったところで得られる採鉱帯をフェーズと呼んでおり、鉱命までの全操業期間を通じてフェーズ1からフェーズ7まで7回の掘り下げが操業計画に織り込まれていた。
図6は、Batu Hijau鉱体の断面図、銅品位分布、フェーズ1ピット設計(YEAR 2000)、フェーズ2ピット 設 計(YEAR 2001)、 フェーズ3ピット 設 計
(YEAR 2004)、 フェーズ4~5ピット 設 計(YEAR 2009)、フェーズ6~7ピット設計(YEAR 2019)を示している。
図6:Batu Hijau鉱体断面図(出典:PT Newmont Nusa Tenggara)
フィージビリティ・スタディでは、この宿命を受け容れつつ全操業期間を通じて銅精鉱生産量と生産コストを最適化するとのコンセプトの下、採掘量を480,000t/日と設定し、それが選鉱場への直投鉱石120,000t/日、貯鉱するストックパイル鉱石90,000t/日、ズリ270,000t/日に配分されるように設計されていた。
また、そのズリは、全操業期間を通じて運搬距離・コストを平準化することを企図して、採掘初期はピットから遠い堆積場から積んでいき、深部に掘り下がるにつれてピットにより近い堆積場に運ぶことで計画されていた。
そのフィージビリティ・スタディ時の設計・計画が以下のとおり大幅に見直され、生産開始当初キャッシュフローの極大化を目的とした新操業計画が策定されるに至った。
ە 採鉱重機を増やすことにより、採掘量を当初計画480,000t/日からピーク時600,000t/日まで増量し、ピット下部に掘り下がる速度を3割程度早める。 その分採掘して直ちに処理しない中・低品位鉱石が増えることになるが、これはストックパイルとして貯鉱しておいて、将来金属価格が回復したとき、ないしピットからの採掘が終了した後に処理する。
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ズリについては、採掘初期からピットにより近い堆積場に運ぶことに変更、生産開始当初の堆積場までの運搬距離を短縮することにより、採掘量増に伴う運搬コスト上昇を抑制する。
ە クラッシャーの能力を増強し磨鉱サイズを最適化すること、また、選鉱場の稼働率を向上させることにより、従前設備のまま粗鉱処理量を当初計画120,000t/日からピーク時140,000t/日レベルまで増強する。
ە 採掘箇所を調整して鉱体中心部に賦存する高品位帯からの出鉱を優先することにより、選鉱場への給鉱品位を1割程度高める。
ە これら施策により、生産開始から当初5年間の銅生産量を元の計画から20%、同金生産量を元の計画から40%引き上げる一方、採掘量・粗鉱処理量増に伴うコスト上昇を抑制することで、キャッシュフローがマイナスに陥ることを回避する。
開発工事の途次でこの新操業計画が導入され、新操業計画の下でその先の開発工事が進められることになったが、元の設計・設備の大きな変更を伴わない範囲での見直しとしたため開発工事自体に及ぼす影響は軽微であったことから、工事は元のスケジュールどおり進み、1999年9月に試験操業、2000年3月に完工までこぎ着けることができた。
また、完工と同時に商業生産が開始され、新操業計画に基づく生産体制に入ったが、結果的にその施策が見事に奏功してキャッシュフローはマイナスに陥ることなくプラスで推移することになり、本事業は第一の大きな難局を乗り切ることができた。
6.第一の難局を克服して
生産開始からしばらく難局を凌いでいる間に、銅価・ 金 価 格 と も に 上 昇 局 面 に 転 じ、2003年 に はフィージビリティ・スタディにおいて前提価格とした1996年当時の価格レベルまで回復した。
本事業は、それまでに新操業計画の導入によって価格低迷期にも耐え得る体制を敷いていたところに価格上昇の追い風を受けることになって、業績が大幅に好転し、2004年からはフィージビリティ・スタディにおいて見込んでいた採算を大きく上回る業績を達成し始めた。
関係者の総力を結集して立ち上げ時の価格低迷期を乗り切った後、正に起死回生を地で行くような展開となった訳である。
こうして生産を開始してから4年の間に操業も業績も順調な軌道に乗せることができたのだが、その一方で、2005年3月 に 商 業 生 産 開 始 か ら5年 が 経 過 しContract of Workにおいて定められたインドネシア資本化義務の履行開始を求められることになって、このために本事業は新たな第2の難局を迎えることになる。
第1の難局は市況リスクに起因したものであり、これは一般的に多くの鉱山事業が直面し得る事象であったと言えるが、この第2の難局はインドネシアにおける鉱山事業固有のリスクに起因したものであり、本事業ならではの特有の事象であったと言える。
次稿では、このインドネシア資本化義務の履行を巡る経緯及びその顛末に焦点を当てつつ、2005~2010年の操業中期の歴史について振り返ることとしたい。
以上