四生について - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/29336/rbb036... ·...

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-332- 四生について yonijarAyujaの解釈を中心に― (1) 真理子 はじめに 筆者は、これまで、インドの伝統的医学文献を中心に、文化や宗教や哲学に 深い関わりを持つインド人の身体観について研究を重ねてきた。その一環とし て最近は、特に、garbha-avakrAntiの意味をめぐって考察したが、今回は、機会 を与えられたので、そのgarbha-avakrAntiとも深く関わりを持つ、いわゆる「四 生(ししょう)」について検討してみたいと考えた。資料も相当量にのぼり、 また色々な問題も関連してきて、とうてい筆者の手には負えないような案配だ が、紙数の許す範囲で、それらを整理して、一応の成果を報告したい。と言っ ても、なにぶんにも、難解なサンスクリット文の微妙な解釈と結びついての検 討であるため中々独自な成果を見出し難い。先学の方々の翻訳・研究を参考に、 自分なりに整理したものに過ぎないとのお叱りは甘受したいと思う。本稿は、 誕生の仕方に基づく、インドの伝統的な生物の4分類法としての「四生」に注 目し、従来の研究成果を踏まえた上で、古典インド医学文献を初めとする種々 梵語文献にその用例を探り、特に「胎生」に関して、従来の理解の問題点を明 確にし、若干の考察を行いたい。 1.1.誕生とその表現 さてご承知の通り、サンスクリット文献の中には、この「生まれること」 「誕生」についての記述が頻繁に登場する。日常的にも、出産や誕生がしばし ば話題に上る。しかしながら、そうした個人的な出産、誕生よりは、われわれ 仏教徒にとっては、お釈迦様の「誕生」こそが重要な問題と言うべきであろう。 その釈尊生誕の事情は、アシュヴァゴーシャ馬鳴(めみょう)による『ブッダ ・チャリタ』の第1章にかなり克明に描かれている。「四生ししょう」につい て検討を開始するにあたって、まずは、「誕生」というものの意味を確認して (167) 駒澤大學佛教學部論集 第36号 平成17年10月

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    四生について

    ―yoniとjarAyujaの解釈を中心に―(1)

    森 真理子

    はじめに

    筆者は、これまで、インドの伝統的医学文献を中心に、文化や宗教や哲学に

    深い関わりを持つインド人の身体観について研究を重ねてきた。その一環とし

    て最近は、特に、garbha-avakrAntiの意味をめぐって考察したが、今回は、機会

    を与えられたので、そのgarbha-avakrAntiとも深く関わりを持つ、いわゆる「四

    生(ししょう)」について検討してみたいと考えた。資料も相当量にのぼり、

    また色々な問題も関連してきて、とうてい筆者の手には負えないような案配だ

    が、紙数の許す範囲で、それらを整理して、一応の成果を報告したい。と言っ

    ても、なにぶんにも、難解なサンスクリット文の微妙な解釈と結びついての検

    討であるため中々独自な成果を見出し難い。先学の方々の翻訳・研究を参考に、

    自分なりに整理したものに過ぎないとのお叱りは甘受したいと思う。本稿は、

    誕生の仕方に基づく、インドの伝統的な生物の4分類法としての「四生」に注

    目し、従来の研究成果を踏まえた上で、古典インド医学文献を初めとする種々

    梵語文献にその用例を探り、特に「胎生」に関して、従来の理解の問題点を明

    確にし、若干の考察を行いたい。

    1.1.誕生とその表現

    さてご承知の通り、サンスクリット文献の中には、この「生まれること」

    「誕生」についての記述が頻繁に登場する。日常的にも、出産や誕生がしばし

    ば話題に上る。しかしながら、そうした個人的な出産、誕生よりは、われわれ

    仏教徒にとっては、お釈迦様の「誕生」こそが重要な問題と言うべきであろう。

    その釈尊生誕の事情は、アシュヴァゴーシャ馬鳴(めみょう)による『ブッダ

    ・チャリタ』の第1章にかなり克明に描かれている。「四生ししょう」につい

    て検討を開始するにあたって、まずは、「誕生」というものの意味を確認して

    四生について(森) (167)駒澤大學佛教學部論集 第36号 平成17年10月

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    四生について(森)(168)

    おくべきかと考え、その『ブッダ・チャリタ』の該当箇所を挙げた。

    (i) tataH prasannaZ ca babhUva puSyas tasyAZ ca devyA vrata-saMskRtAyAH/

    pArZvAt suto loka-hitAya jajJe nirvedanaM ca^eva nirAmayaM ca //9//

    Uror yathA^aurvasya pRthoZ ca hastAn mAndhAtur indra-pratimasya mUrdhnaH/

    kakSIvataZ ca^eva bhuja-aMsa-deZAt tathA-vidhaM tasya babhUva janma //10//

    krameNa garbhAd abhiniHsRtaH san babhau cyutaH khAd iva yony-ajAtaH /

    kalpeSv anekeSu ca bhAvita-AtmA yaH saMprajAnan suSuve na mUDhaH //11//(Bc

    Ⅰ-9~11:p.1)

    (1) そして、プシュヤ星宿が浄明するに到った。ついで、誓願によって清

    められた、かの王妃の脇腹(pArZva)より、世界の幸福の為に、[一人の]

    息子(suta)が、苦痛もなく、煩いもまたなく、誕生した(jajJe)。ちょ

    うど、アウルヴァの[誕生が][母の]腿(Uru)から、プリトゥの[誕生

    が]手(hasta)から、インドラに似たマーンダートリの[誕生が]頭

    (mUrdhan)から、カクシーヴァットの[誕生が]腕・肩部[=腋]

    (bhuja-aMsa-deZa)から、[あった]ように、かの[王子]の誕生(janman)

    は、そのような種類のものだった。順を踏んで、胎児[処](garbha)

    から脱した状態にある、産道不生(yony-ajAta)の[かの王子]は、あたか

    も、天空より落下した[者の]如き、装いだった (babhau)。そして、多

    数の劫において生を得てきた、かの[王子]は、正しい智慧を持って生ま

    れ(suSuve)、愚鈍ではなかった。

    周知のように、釈尊は、母親の脇腹(pArZva)から生まれたと言われている。

    正常分娩の場合、人間は母親の産道を通って生まれるのだが、釈尊の場合は

    違った。この産道、「出産の道」(prasava-mArga)のことを、通常は「ヨーニ

    yoni」という言葉で呼ぶ。そして、出産や誕生の種々側面を、サンスクリット

    語では、「ジャンjan-」という動詞とその種々派生語を用いて表現することが

    最も普通である。jAyateというのが、「Aが誕生する、生まれる」という際の、

    動詞形である。「Aが誕生した、生まれた」という時は、過去分詞のjAtaという

    形容詞、「生まれること、誕生」を言う時は、janman、jAtiという名詞形が使わ

    れる。そして、「Aは、Xから、生まれた」という時には、Aは、X-jAta、あ

    るいは、jAtaの短縮形であるjaを用いて、より普通には、Aは、X-jaであると

    いう形で表現する。Aが名詞、X-jaは形容詞。英語風に表現するならば、A

    is X-ja、またはA is a X-jaとなる。X-jaはいわば、Xという名詞と-jaという

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    四生について(森) (169)

    形容詞を結合して、新たに作った複合語の形容詞である。そして、Xに適当な

    名詞を当てはめれば、いくらでも新しい形容詞を作ることが可能である。

    サンスクリット作品の中には、「鳥」が頻繁に登場する。また、古典作品の

    中に韻文、詩が極めて頻繁に用いられることもあり、その「鳥」を表す言葉も

    たくさん用意されている。鳥は卵aNDaから生まれるわけであるから、aNDa-jaと

    いう言葉が、「鳥」を表す同義語の一つとなる。したがって「釈尊は脇腹

    pArZvaから生まれた」わけであるから、「釈尊はパールシュヴァジャpArZva-jaで

    ある」と表現出来る。一方正常分娩で生まれた者は、yoniを通って生まれるの

    であるから、「かの者は、yoni-jaである」となる。aNDa-jaとか、pArZva-jaとか、

    yoni-jaは先述したように、形容詞だが、サンスクリット語の場合、形容詞は直

    ちに名詞として用いることも可能であり、それを日本語で表現する場合には、

    そうした形容詞に「~な者」とつけると区別しやすい。漢字を使ってaNDa-jaを

    表現すると「卵生」、pArZva-jaは「脇腹生」、yoni-jaは「産道生」となるが、そ

    れらが名詞として用いられていることを明確にしようとする場合には、「者」

    という漢字を付加して、「卵生者」「脇腹生者」「産道生者」とすれば、誤解を

    避けられると考える。鳥は「卵生」であり、「卵生者」。かれは産道生であり、

    産道生者である、となる。釈尊は脇腹生であり、脇腹生者であって、産道生で

    も産道生者でもない。そのことを、先の『ブッダ・チャリタ』の用例(i)では、

    「産道不生者」yony-ajAtaと表現している。aというのは否定辞であり、別の用

    例でも見られる通り、その否定辞を複合語の先頭につけてa-yonijaという方が

    むしろ普通であるが、厳密に言うと、意味が複合語を構成しているyoniと

    ja/jAtaへの否定辞の係り方に解釈の広がりが出てくることは否めない。

    この「誕生」を巡る表現には、もう一つの重要な側面があることを指摘して

    おくべきであろう。「AはXから生じるja」「AはX-jaである」と言った時、別

    の見方をするならば、「XはAの原因kAraNaである」「Xを原因としてAは生じ

    る」「AはXという原因から生じる」ということを含意し得るという点である。

    「AはXから生じる」わけであるから、「AはXの結果kAryaである」と表現す

    ることも可能になるということである。「鳥は卵から生じるaNDaja」わけであ

    るから、卵aNDaは鳥の原因であり、鳥は卵の結果である。だが、また「鳥は鳥

    から生まれるのであって人間から生まれたのではない」と考えると、「鳥は卵

    生者aNDajaから生じる」とも言い得る。したがって「鳥は卵生者生aNDaja-jaで

    ある」とも言い得るわけである。このように、jaを言葉の末尾に付加していく

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    四生について(森)(170)

    らでも鳥の同義語を作ることが出来る。

    もう一点、「かれは産道生、産道生者である」と言った時、産道は原因では

    なく、単なる通り道、起点出発点に過ぎない、という見方もある。その場合に

    も、同じように「AはX-jaである」というように表現する。したがって、「A

    はX-jaである」という表現を見たら、それがどういう意味なのか注意する必

    要がある。X-jaという言葉の形の上からは、その意味が簡単には判断できな

    い。筆者が敢えて「四生」について稿を起こしたのは、こうしたX-jaには微

    妙な複雑な事情があり、従来のその理解には多少の混乱と誤解があると考えた

    からである。以下には、こうした点を踏まえて、「四生」について検討してみ

    たい。

    1.2.四生とは?

    「四生(ししょう)」に関しては、既に多くの言及がなされていて特に問題

    点はないように思われる。今日おおかたの理解する「四生」を了解しておくに

    は以下の辞典の記述などを一瞥しておくべきだろう。『岩波仏教辞典』の「四

    生」(イ)と『広辞苑』の「種(しゅ)」(ロ)を引いておく。

    (イ)「四生 ししょう [s:catur-yoni] 生物を生まれ方の違いによって

    4種類に分類したもの.胎生(たいしょう)・卵生(らんしょう)・湿生

    (しっしょう)・化生(けしょう)をいう.〈胎生〉(jarAyu-ja)は,哺乳動物

    など母親の胎内から出生するもので,いうまでもなく人間はこれに含まれ

    る.〈卵生〉(aNDa-ja)は,魚類・鳥類など卵殻から出生するもの.〈湿生〉

    (saMsveda-ja)は,湿潤なじめじめしたところから出生する虫など.〈化

    生〉(upapAduka)は,何もないところから忽然(こつぜん)として出生する

    もので,天人や地獄の衆生(しゅじょう)などはこれに当たる.・・・」

    (『電子ブック版 岩波仏教辞典』)

    (ロ)「しゅ【種】

    〔生〕(species) 生物分類の基本的単位。互いに同類と認識しあう個体の

    集合であり、形態・生態などの諸特徴の共通性や分布域、相互に生殖が可

    能であることや遺伝子組成などによって、他種と区別しうるもの。生物種。

    また、分類学上、基盤となる階級で、類縁の種をまとめて属とし、属名と

    種小名を組にして種の学名(すなわち種名)とする。種はいくつかの特徴

    により、さらに亜種・変種・品種に分けることもある。」[広辞苑第五版]

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    四生について(森) (171)

    この(イ)から、「四生」はcatur-yoniで、「生物を生まれ方の違いによって

    4種類に分類したもの」で、胎生 jarAyuja、卵生aNDaja、湿生 svedaja、化生

    upapAdukaのことを言うことがわかる。そしてその具体例が、われわれにも馴

    染みの深い生物の種と共に挙がっていて、これよりする限り、何ら問題はない。

    難しくもなんでもないないように思われるのであるが、サンスクリットを勉強

    している者としては、この場合のヨーニyoniとは、いかなる意味だろう? 先

    の『ブッダ・チャリタ』の用例などを見た後では、むしろ「胎生」をこそ、

    yonijaと呼んで、問題の「四生」の方を、catur-janmanとかcatur-jAtiとかのよう

    に表現した方がよいのではないか、とまで思えるほどである。そして、「胎

    生」jarAyujaのjarAyuとは何なのか、という疑問がわくのである。また、(ロ)

    からは、日本語として「種(しゅ)」という言葉が、どのように使用されるべ

    きかも了解されるのである。

    そこで次に、「四生」がインドの古典の中でどのように扱われるかを検討す

    るのであるが、その皮切りに、11,12世紀頃に作られた、インドの「百科事

    典」的な著作『プラパン・チャフリダヤ』の「四生」の用例を見てみたい。作

    者不明の著作であるが、この(ii)には、問題の「四生」について、かなり整然

    とした記述が見られる。

    (ii) tatra manuSya-loke jarAyuja-aNDaja-svedaja-audbhida-bhedena catur-vidha-

    deho jAyate / tatra bhUmim udbhidya^udgamanAd audbhidaH sthAvara-viZeSaH

    / sa tu vRkSa-latA-vallI-gulma-tRNAdi-bhedena bahu-vidhaH / svedajaH svidyam-

    Anebhyo bhU-vahny-udakebhyo jAyamAnaH / so^api yUka-matkuNa-kITa-aNu-strI

    (?)-pramukho bahu-vistaraH / aNDajo vartulIbhUta-Zukla-ZoNita-saMpuTa-

    sambhavaH sarpa-godhA-vayo-bheda-ZiMZu-mAra-Adir bahu-vidhaH /

    jarAyujas tri-vidho manuSya-paZu-mRga-bhedena / tatra manuSya-ZarIraM

    ZreSThaM jJAna-AdhikyAd dharma-AcaraNa-kSamatvAc ca /(Ph,p.10,ll.13-20)

    (2) そのうち、人間世界(manuSya-loka)においては、胎生(jarAyuja)・卵生

    (aNDaja)・湿生(svedaja)・芽生(audbhida)の別によって、4種類の身体

    (deha)が、生じる。そのうち、大地(bhUmi)を突き破って(udbhidya)、生

    起するが故に、芽生[身](audbhida)であり、ある種の植物(sthAvara-

    viZeSa)である。しかるに、その[芽生]は、樹木(vRkSa)・蔦(latA)・蔓

    (vallI)・灌木(gulma)・草( tRNa)等の別によって、多種類である。湿生

    [身](svedaja)は、発汗しつつある(svidyamAna)、大地(bhU)・火(vahni)

  • -327-

    四生について(森)(172)

    ・水(udaka)より、生じるものである。その[湿生身]もまた、虱(yUka)

    ・南京虫(matkuNa)・蛆虫(kITa)・微?(aNu)・蟻(strI)など、非常に多種で

    ある。卵生[身](aNDaja)は、球状の(vartulIbhUta)白(Zukla)・赤(ZoNita)の

    容器より生じるもので、蛇(sarpa)・蜥蜴(godhA)・種々の鳥(vayo-bheda)

    ・海豚(ZiMZu-mAra)等であり、多種類で(bahu-vidha)ある。胎生[身]

    (jarAyuja)は、人間(manuSya)・家畜(paZu)・獣(mRga)の別によって、3種

    類である。そのうち、人間の身体(manuSya-ZarIra)が、最高である。知識

    の過剰の故に、また、ダルマの実践が可能であるが故に。

    そこに明らかなように、やはり「四生」が描かれている。というよりは、む

    しろ、そこには、人間界に於ける生物の身体dehaが、文字通りその誕生の仕方

    の違いによって、4種類に分類されている。先の『仏教辞典』の記述(イ)に

    呼応するような、「胎生」「卵生」「湿生」と続くが、4種類目が違って「が

    しょう芽生」(audbhida)となっているのが注目される。単なる名称の違いでは

    なく、意味内容が違うことが、その説明と具体例を通じて明確になる。「け

    しょう化生」の方は、「天人や地獄の衆生」、「がしょう芽生」の方は、どうや

    ら「植物」の身体を意味している。原語としてあるaudbhidaは、udbhid(芽とか、

    泉とか、発芽とか、植物とかの意味)にtaddhita接尾辞のaを付して作られた、

    udbhidより生じたもの、を意味する語で、「芽生」という漢字を使っての訳語

    がしっくりくるような語である。当然のように、これは、もう一つの「四生」

    分類と言い得るもので、「四生」と一口に言っても決して一通りではないこと、

    また、「生物の分類」といっても、その分類の仕方も一通りではなく、そう単

    純な話でもない、ということが知れるであろう。

    こうした、相異なる「四生」分類を巡って、インドの様々な古典に見られる

    用例に則して検討するというのが、本稿の目的である。なおこうした「四生」

    分類に際して具体例としてあがっている生物が実際にはいかなるものを指すの

    かは甚だ難しい問題があると考えられるが、筆者の付した必ずしも統一のとれ

    ていない訳語などはあくまでも便宜的なものに過ぎないことを、ご承知置き願

    いたい。

    2.1.ウパニシャッドの用例

    さて、こうした「四生」分類は、どのような歴史的な背景を持つのであろう

    か? そのルーツは当然ながら、簡単には辿れないが、仏教の成立に先立つと

  • -326-

    四生について(森) (173)

    思われるウパニシャッドには、既にその「四生」分類が登場してくるようで、

    既に簡単ながらも種々報告が為されている。ウパニシャッドの用例として、

    『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と『アイタレーヤ・ウパニシャッド』

    の用例が有名である。それが、それぞれ、(iii)と(v)である。また、(iv)と(vi)

    には、今日ウパニシャッド解釈には欠かせないシャンカラの註釈を部分的に引

    いておきたい。

    (iii) teSAM khalv eSAM bhUtAnAM trINy eva bIjAni bhavanty ANDajaM jIvajam

    udbhijjam iti //1//(Chup Ⅵ-3-1:p.511)

    (3) 実に、他ならぬそれら生物(bhUta)たちには、ただ3つの種因(bIja)が

    存する。卵生者(ANDaja)、命我生者(jIvaja)、芽生者(udbhijja)という。

    (iv) tasmAt teSAM khalv eSAM bhUtAnAM pakSi-paZu-sthAvara-AdInAM trINy eva

    na^atiriktAni bIjAni kAraNAni bhavanti / kAni tAni^ity ucyante ANDajam aNDAj jAtaM

    aNDajaM aNDajaM eva^ANDajaM pakSy-Adi / pakSi-sarpa-Adibhyo hi pakSi-sarpa-

    Adayo jAyamAnA dRZyante / tena pakSI pakSiNAM bIjaM sarpaH sarpANAM, tathA^

    anyad apy aNDAj jAtaM taj-jAtIyAnAM bIjam ity arthaH / nanu aNDAj jAtam aNDajam

    ucyate^ato aNDam eva bIjam iti yuktaM, katham aNDaja-bIjam ucyate / satyam

    eva syAd yadi tvad-icchA-tantrA ZrutiH syAt sva-tantrA tu ZrutiH yata Aha aNDaja-

    Ady eva bIja na^aNDAd iti / dRZyate ca^aNDaja-Ady-abhAve taj-jAtIya-santaty-

    abhAvo na^aNDa-Ady-abhAve / ato^aNDaja-AdIny eva bIjAny aNDaja-AdInAm / tathA

    jIvAj jAtaM jIvajaM jarAyujam ity etat puruSa-paZv-Adi / (SChup Ⅵ-3-1:p.512)

    (4) <前略>・・・ただ3つの、[すなわち、3つを]越えない、ビージャ

    種因(bIja)が、[すなわち]原因(kAraNa)が、存在する。・・・<中略>・

    ・・同様に、ジーヴァ/命我(jIva)より生じたもの(jAta)が、ジーヴァジャ

    /命我生者(jIvaja)であり、胎生者(jarAyuja)ということである、したがっ

    て、この[ジーヴァジャ/命我生者]は、人間(puruSa)・家畜(paZu)など

    である。

    bIjaという語は「種子」を意味する語で、シャンカラの註釈(iv)にある通り、

    原因kAraNaと解釈される。したがって、この『チャーンドーギヤ・ウパニ

    シャッド』の生物分類は、生物そのものの分類というよりは、生物の原因の分

    類ということになる。しかも、「四生」分類ではなくいわば「三生」分類とい

    うものである。つまり、「生物には、卵生者、命我生者、芽生者という3種類

    の原因がある」ということになる。胎生者jarAyujaという表現がなく、命我生

  • -325-

    四生について(森)(174)

    者jIvajaとある。同じくシャンカラの(iv)によれば、その両者を同概念と考えて

    よいことが判明する。また、卵生者を意味する語が、ANDajaで、aNDajaではな

    いが、やはりシャンカラの( iv)によれば、ANDaja=aNDajaである。aNDajaに

    taddhita接尾辞のaを付したのがANDajaである。先にも触れた通り、鳥の子供は

    どこまで行っても鳥である。また、湿生者svedajaがなく、「三生」分類になっ

    ているが、ヴェーダーンタ学派の根本経典BrahmasUtraⅢ-1-21には、「湿生者」

    は「芽生者」に包摂されるから、いわゆる「四生」分類と矛盾しないと説かれ、

    それを註釈したシャンカラによってもしっかりと解説されている。

    (v) etAni^imAni ca kSudra-miZrANi^iva bIjAni^itarANi ca^itarANi ca^aNDajAni ca

    jArujAni ca svedajAni ca^udbhijjAni ca^aZvA gAvaH puruSA hastino yat kiM

    ca^idaM prANi jaGgamaM ca patatri ca yac ca sthAvaraM sarvaM tat prajJA-netraM

    prajJAne pratiSThitaM prajJA-netro lokaH prajJA pratiSThA prajJAnaM brahma //

    (Aiup Ⅲ-3:p.348)

    (5) それらのものたち、及び、小さきものと結びついたような、これらの

    ものたち、さらに、卵生者(aNDaja)、胎生者(jAruja)、湿生者(svedaja)、芽

    生者(udbhijja)といった、あれこれの種因(bIja)、馬たち、牛たち、人間た

    ち、象たち、さらにまた、何であれ、生気持てる、動ける、飛べる、また、

    静止せる、この一切は、智慧の眼を持てるものであり、智慧に立脚せるも

    のである、世界は智慧の眼を持てるものであり、智慧は土台であり、ブラ

    フマンは智慧である。

    ( vi) aNDajAni pakSy-AdIni, jArujAni jarAyujAni manuSya-AdIni, svedajAni

    yUka-AdIni, udbhijjAni vRkSa-AdIni /( SAiup Ⅲ-3:p.349)

    (6) 卵生種因者(aNDaja)とは、「鳥」などである、ジャールジャ(jAruja)と

    は、ジャラーユジャ/胎生種因者(jarAyuja)のことであり、「人間」などで

    ある、湿生種因者(svedaja)とは、「虱」などである、芽生種因者(udbhijja)

    とは、「樹木」などである。

    この用例(v)は『アイタレーヤ・ウパニシャッド』のものであるが、やはり、

    ここにも『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と同じく、種因bIjaを用いて、

    生物が分類されていることが見てとれる。こちらには、先に『プラパンチャ・

    フリダヤ』の用例(ii)で見た「四生」分類と呼応する「生物には、卵生者、胎

    生者、湿生者、芽生者という4種類の原因がある」という、いわば「四生」分

    類が、見られる。ただし、やはり「胎生者」がjarAyujaではなく、似てはいる

  • -324-

    四生について(森) (175)

    けど微妙に違うjArujaという語で表現されている。シャンカラの註釈(vi)にあ

    る通り、両者はやはり同じ意味と解してよい(2)。

    本研究で扱う最も古い文献と言うべき有名な二つのウパニシャッドの「四

    生」分類を見たが、それは、生物の原因を、「卵生者」「胎生者」「湿生者」

    「芽生者」の4つに分類するものであり、したがって、生物に対して、その結

    果としての「卵生者」「胎生者」「湿生者」「芽生者」の「四生」に分類する道

    を開いていることが見てとれた。同時にそれは、「三生」分類などの他の分類

    法の可能性を示すものでもあり、初期の時代性を反映してか、用語にも不確定

    的なヴァリエーションが見られるという点にも注目すべきであろう。

    2.2.医学文献の用例

    以下には、インドの伝統的医学書に於ける用例を検討してみたい。『スシュ

    ルタ本集』の用例が(vii)、『チャラカ本集』のが(x)、『アシュタ・アンガ・フ

    リダヤ』のが(xiii)、『ベーラ本集』のが(xv)である。(viii)(ix)、(xi)(xii)、

    (xiv)は、それぞれに対する定評ある註釈である。

    『スシュルタ本集』の(vii)には、「湿生」「胎生」「卵生」「芽生」という名

    称で、生物、生類(しょうるい)を分類することがなされている。注目すべき

    は、ウパニシャッドの場合と違って、原因の4種類ではなく、生物そのものが、

    直接的に4種類に分類されている点であろう。すなわち、生物全体

    (bhUta-grAma)は、「湿生者」「胎生者」「卵生者」「芽生者」の4種類よりなる

    という、わかりやすい「四生」分類が見られるのである。分類列挙の順番は、

    今は問題にしない。また、この『スシュルタ本集』の用例(vii)からは、生物

    が、静止している生物である植物(スターヴァラsthAvara)と動く者である動物

    (ジャンガマjaGgama)の2種類にも分類されること、「二分法」のあることが確

    認できる。

    (vii) asmin zAstre paJca-mahAbhUta-zarIri-samavAyaH puruSa ity ucyate /

    tasmin kriyA, so^adhiSThAnaM; kasmAt? lokasya dvaividhyAt; loko hi dvi-vidhaH

    sthAvaro jaGgamaz ca; dvi-vidha-Atmaka eva^AgneyaH saumyaz ca, tad-

    bhUyastvAt; paJca-Atmako vA; tatra catur-vidho bhUta-grAmaH saMsvedaja-

    jarAyuja-aNDaja-udbhijja-saMjJaH; tatra puruSaH pradhAnaM, tasya^upakaraNam

    anyat; tasmAt puruSo^adhiSThAnam //(Ss Ⅰ-1-22:p.5)

    (7) この教典においては、5大[所成の]身体を有する者(ZarIrin)に内属

  • -323-

    四生について(森)(176)

    する者が、プルシャ人間(puruSa)と言われる。その[プルシャ]に於いて、

    治療(kriyA)が[存する。]その[プルシャ]が、基体である。何故か?

    世間( loka)が2種類であるが故に。なぜならば、世間( loka)は、植物

    (sthArava)と動物(jaGgama)[で、]2種類(dvi-vidha)であるからである。

    [また世間は、]熱いもの(Agneya)と冷たいもの(saumya)[で、]まさしく

    2種類より構成されている。[あるいは、]それ以上であるが故に。ある

    いは、[世間は、]5種類(paJca-vidha)より構成されている。そのうち、生

    類(bhUta-grAma)は、湿生者(svedaja)、胎生者(jarAyuja)、卵生者(aNDaja)、

    芽生者(udbhijja)という名称(saMjJa)を持って、4種類(catur-vidha)である。

    そのうち、プルシャ人間(puruSa)が、主要なもの(pradhAna)である。他の

    ものは、その[プルシャ人間]を、補助するもの(upakaraNa)である。そ

    れ故に、プルシャ人間が、基体である。

    (viii) tatra tayoH sthAvara-jaGgamayor madhye, catur-vidhAH catuS-prakAraH,

    bhUta-grAmaH prANi-samUhaH / atha ke te catvAraH prakArA ity Aha ―

    saMsvedajA^ity Adi / ― bhuvaH zarIrasya ca saMsvedAd USmaNo jAtAH

    saMsvedajAH; jarAyor jAtA jarAyujAH, jarAyur garbha-AzayaH, aNDAj jAtA aNDajAH,

    aNDaM prANy-AdhAro vartulaM; bhuvam udbhidya jAtA udbhijjAH; (DSs Ⅰ-1-22:

    p.6)

    (8) ・・・「4種類」とは、4つの仕方を持つということであり、「生物の

    集まり」というのは生気を有するもの(prAnin)の集合のことである。なら

    ば、それら「四つの仕方を持つ」とはいかなるものであるか?というので

    答える。「サンスヴェーダジャ等」と。大地(bhU)、及び身体(ZarIra)の

    「湿から」[すなわち]熱(USman)から、生じたる者たち、〔それが〕サン

    スヴェーダジャ湿生者(saMsvedaja)である。ジャラーユ(jarAyu)から生じ

    たるもの、〔それが〕ジャラーユジャ胎生者(jarAyuja)である。ジャラー

    ユというのは、胎児処(garbha-Azaya)のことである。アンダより生じたる

    もの、〔それが〕アンダジャ卵生者(aNDaja)である。アンダとは、生気

    を有するもの(prANin)の基体(AdhAra)たる、保護壁(vartra)である。大地

    (bhU)を切り開いて(udbhidya)生じたるもの、〔それが〕ウドビッジャ芽生

    者(udbhijja)である。

    (ix) jarAyur ulba-AkAro yena veSTitAH prANino jAyante; (DSs Ⅲ-4-7)

    (9) ジャラーユ(jarAyu)というのは、それによって包まれて(veSTita)、生

  • -322-

    気を有する者 (prANin)が生まれる( jAyante)ところの膜状のもの(ulva-

    AkAra)である。

    一方『スシュルタ本集』と並んでインド伝統的医学書を代表する、以下の

    『チャラカ本集』の用例(x)ではどうであろうか? ここでは、冒頭に見た

    『岩波仏教辞典』(イ)の説明に使われていたyoniという言葉によって、生物

    bhUtaが分類されていることに注目すべきであろう。下線を付した、原文には、

    bhUtAnAM catur-vidhA yonir bhavati ― jarAyv-aNDa-sveda-udbhidaH、訳文では、「生

    物には、4種類の生因(yoni)がある。[すなわち、]胎膜(jarAyu)、卵、湿気、

    芽である。」となる。ちなみに、yoniという名詞は、男性ないし女性だが、こ

    こではおそらく女性名詞として用いられている。その箇所のyoniを敢えて今

    「誕生の原因:生因」と訳したのは、そこに具体例として列挙されるのが、通

    常のjarAyuja、aNDaja、svedaja、udbhijjaではなく、「Xより生じた」のX、jarAyu、

    aNDa、sveda、udbhidであるからである。『スシュルタ』の「四生」分類は、ウ

    パニシャッドの「四生」分類を反映させて、より直接的に生物分類の根拠とし

    ての4原因を打ち出しつつも、『スシュルタ本集』の生物の「四生」分類を、

    やはり同じ、yoniという語を用いて表現していると考えられる。難解であるが、

    この『チャラカ本集』の用例(x)におけるyoniという語の使用法は、きわめて

    微妙なものを感じさせる。もしかしたら、テキストの読みそのものの問題点と

    言うべきかも知れないのだが、その微妙さは、チャクラパーニダッタCakra-

    pANidattaの註釈文(xi)などからも知れるところであろう。その(xi)で注目すべ

    きは、問題のyoniが、jAtiであると明確に註記されている点であろう。jAtiとは、

    文字通りには、誕生、生まれ、生まれ方、そして生物学で言うところの「種

    (スペシーズ)」を意味する言葉である。そしてそれが、同時に原因kAraNaの

    役割も担う語として用いられているようなのである。したがって、『チャラカ

    本集』に於ける「四生」分類とは、生物は、「胎生者」「卵生者」「湿生者」

    「芽生者」の4種類に分類される、つまり、生物には、「胎生種」「卵生種」

    「湿生種」「芽生種」という4つの「種」がある、というものであろう。なお、

    「四生」分類に用いられるyoniを、jAtiと解釈することは、このチャクラパー

    ニダッタの場合に限らず、極めて頻繁に見られることであることにも注意して

    おきたい。

    (x) Atreya uvAca ― purastAd etat pratijJAtaM ― sattvaM jIvaM spRk

    zarIreNa^abhisaMbadhnAti^iti / yasmAt tu samudAya-prabhavaH san sa garbho

    四生について(森) (177)

  • -321-

    四生について(森)(178)

    manuSya-vigraheNa jAyate, manuSyo manuSya-prabhava ity ucyate, tad

    vakSyAmaH bhUtAnAM catur-vidhA yonir bhavati ― jarAyv aNDa-sveda-udbhidaH /

    tAsAM khalu catasRNAm api yonInAm eka-ekA yonir aparisaMkhyeya-bhedA bhavati,

    bhUtAnAm AkRti-vizeSa-aparisaMkhyeyatvAt / tatra jarAyujAnAm aNDajAnAM ca

    prANinAm ete garbha-karA bhAvA yAM yAM yonim Apadyante, tasyAM tasyAM

    yonau tathA tathA rUpA bhavanti; yathA ― kanaka-rajata-tAmra-trapu-sIsakAny

    AsicyamAnAni teSu teSu madhu-ucchiSTa-vigraheSu, tAni yadA manuSya-bimbam

    Apadyante tadA manuSya-vigraheNa jAyante, tasmAt samudAya-prabhavaH san

    garbho manuSya-vigraheNa jAyate; manuSyaz ca manuSya-prabhava ucyate,

    tad-yonitvAt //(Cs Ⅳ-3-16: p.314)

    (10) アートレーヤは語った。以前、以下のことが主張された。サット

    ヴァは、ジーヴァに到って、身体と結びつく。一方、何故に、集合より生

    じたる、かの胎児(garbha)が、人間の形態を取って、生まれるのか、[そ

    して、何故に]人間は人間より生じる、と言われるのか、その[わけ]を、

    われわれは語ろう。生物(bhUta)には、4種類の生因(yoni)がある。[すな

    わち、]胎膜(jarAyu)、卵(aNDa)、湿気(sveda)、芽(udbhid)である。実に、

    これらの種(yoni)は、4つではあっても、その一つ一つの種(yoni)は、数

    えきれない別異性をもつものである。生物の個々の形相(AkRti)は、数えき

    れないものであるからである。そのうち、胎生種(aNDaja)と、卵生種

    (aNDaja)の生気を有する者(prANin)たちの、胎児を為す、それら諸存在は、

    おのおのの種/生因(yoni)に到るや、おのおののその[生因]にあって、

    思い思いの形態(rUpa)を取って、生じるのである。例えば、金・銀・銅・

    錫・鉛は、あれこれの蜜蝋製の型に流し込まれるが、それら[の諸金属]

    が、もし、人間の鋳型を得るや、そのときには、人間の形態をもつものと

    して生じるのである。それゆえに、集合より生じたる、かの胎児は、人間

    の形態を取って生じるのである。そして、人間は人間より生じる、と言わ

    れるのである。その生因(yoni)であるが故に。

    (xi) AtreyaH samAdadhAti ― purastAd ity Adi / ― etac ca {katham ayaM

    sandhIyate} ity asya^uttaram / sattvaM zukra-Artava-sandhAna-kAraNam ity arthaH

    / bhUtAAnAm ity prANinAm / yoniH jAtiH, yadA^api yoni-zabaH kAraNa-vacanas

    tadA^api jarAyujA-Adi-rUpa-yoni-jAtA api jarAyuja-Adaya eva^ucyante, kArye

    kAraNa-upacArAt / ...//16//(CCs Ⅳ-3-16:p.314)

  • -320-

    四生について(森) (179)

    (11) アートレーヤは、述べる。「以前」などと。そして、それは、「この

    ことは、いかにして会通するのであるか?」という、この[問い]に対す

    る、返答である。サットヴァ(sattva)は、シュクラ(Zukra)・ショーニタ

    (ZoNita)の結合[物](saMdhAna)の原因(kAraNa)である、という意味である。

    「bhUtAnAm諸々のブータの」というのは、生命ある者(prANin)たちの[と

    いう意味である。]「yoniヨーニ」[というのは]生まれ/種(jAti)[のこと

    である。]仮に、「ヨーニ」という語が、「原因」を意味する、その場合に

    も、胎生(jarAyuja)などの形態を持つヨーニ/生因(yoni)より生じた者

    (jAta)もまた、胎生者(jarAyuja)などに他ならない、と言われているのであ

    る。結果(kArya)に対して、原因(kAraNa)が施設されるのであるから。

    (xii) jarAyuH amarA, yena veSTitA manuSya-AdayaH prajAyante;

    jarAyuNA veSTitA jAyante iti jarAyujA manuSya-AdayaH / ...//6// (CCs Ⅳ-3-6:p.

    310)

    (12) 「ジャラーユ( jarAyu)」とは、それによって人間などが包まれて

    (veSTita)、誕生するところの、アマラー後産(amarA)である。ジャラーユ

    によって、包まれて、誕生する、したがって、ジャラーユジャ胎生者

    (jarAyuja)とは、人間(manuSya)などである。

    以下の(xiii)は『アシュタ・アンガ・フリダヤ』の用例であるが、『チャラカ

    本集』の記述(x)を踏まえて書かれたことが明瞭である。その同一のテキスト

    に対する解釈も一通りでないことは、とりわけ矢野訳(13a)に顕著であろう(3)。

    アルナダッタAruNadattaの註釈(xiv)を参照しても、なおどの解釈が妥当かはな

    かなかに決着をつけられないのである。

    (xiii) kAraNa-anuvidhAyitvAt kAryANAM tat-svabhAvatA /

    nAnA-yony-AkRtIH satvo dhatte^ato drutalohavat //4//(Ah Ⅱ-1-4)

    (13a) 「結果というものは原因に支配されるものであり、原因と同じ本質

    をもつ。従って溶けた鉄<がいろいろな鋳型に入っていろいろな形をとる>

    ように、生命(サットヴァ)はいろいろな子宮<に入っていろいろな>型を

    とるのである。」(矢野 273頁)

    (13b) “The effect being similar to the cause, by nature, the satva(Atman-

    soul) takes on different yoni (species, category of birth) and AkRti (shapes)

    just like the molten metal.”(Murthy,p.358)

    (13c) 原因(kAraNa)に随順するものであるが故に、結果(kArya)は、その

  • -319-

    四生について(森)(180)

    [原因の]自性を持つ。従って、[輪廻の主体たる]サトヴァ(satva)は、

    様々な種/生まれ(yoni)の形態を、取る、溶解せる金属のように。

    (xiv) tasmAt kArya-kAraNa-sAdRZyAd dhetoH satvo ― mahAbhUta-anuga eka-rUpa

    eva, aneka-rUpA nAnA-yony-AkRtIH ― jAti-bimba-viZeSAn, dhatte ― dhArayati /

    katham iva? druta-lohavat / ... (AAh Ⅱ-1-4:p.362)

    (14) それ故に、結果(kArya)と原因(kAraNa)の両者の類似、という因(hetu)

    の故に、サトヴァは、粗大元素に随順して、他ならぬ単一の形態を有する

    のであるが、単一ならざる形態を有するのである。様々な種(yoni)の形態

    (AkRti)を、[すなわち]種(jAti)の個々の形態(bimba-viZeSa)を、取る、[す

    なわち]保持するのである。どのようにしてか? 溶解せる金属のように。

    ・・・

    また、ある意味では最もオーソドックスな「四生」分類を与えるものとして、

    重要な医学書であるにもかかわらず現在部分的にしか回収されていない『ベー

    ラ本集』の貴重な用例(xv)を、引いておきたい。

    (xv) atha yonayaz catasro bhavanti / tad yathA ― jarAyuja-aNDaja-udbhijja-

    svedajAz ca^iti / tatra jarAyujA jarAyu-yuktas saMbhavanti pazu-mRga-manuSya-

    AdayaH / zakuna-matsya-kacchapa-sarpa-[pra] bhRtayo^aNDajAH / yUkA-matkuNa-

    pataGga-AzIviSa-makSikA-AdayaH svedajAH / udbhijjAs tu tRNa-latA-vRkSa-

    vanaspataya iti //2//(Bs Ⅳ-5-2:p.221)

    (15) さて、四つの生種(yoni)がある。すなわち、胎生[者]、卵生[者]、

    芽生[者]、湿生[者]、との。そのうち、胎生者( jarAyuja)は、胎膜

    (jarAyu)と結合して(saMyukta)生ずるものであり、家畜、獣、人間等であ

    る。鳥、魚、亀、蛇などが、卵生者(aNDaja)である。虱、南京虫matkuNa、

    蝶蛾、AzIviSa、makSIkA等が湿生者(svedaja)である。一方、芽生者(udbhijja)

    は、草(tRNa)、蔓(latA)、木(vRkSa)、樹木(vanaspati)である。

    2.3.『マハー・バーラタ』と『マヌ法典』等の用例

    これまで、「胎生」「卵生」「湿生」「芽生」という生物の「四生」分類の基

    本構造を見てきたが、以下にはそうした「四生」分類が、『マハーバーラタ』

    等の物語の中では具体的にどのように現れるかという点を中心に見ていこう。

    (xvi)と(xvii)は、『マハーバーラタ』の用例で、上村勝彦訳がある場合には、

    それと併せて、引いた。

  • -318-

    四生について(森) (181)

    (xvi) dvividhAni^iha bhUtAni trasAni sthAvarANi ca /

    trasAnAM tri-vidhA yonir aNDa-sveda-jarAyujAH //10//

    trasAnAM khalu sarveSAM zreSThA rAjaJ jarAyujAH /

    jarAyujAnAM pravarA mAnavAH pazavaz ca ye //11//

    nAnA-rUpANi bibhrANAs teSAM bhedAz caturdaza /

    araNya-vAsinaH sapta sapta^eSAM grAma-vAsinaH //12//

    siMha-vyAghra-varAhAz ca mahiSA vAraNAs tathA /

    RkSAz ca vAnarAz ca^eva sapta^araNyAH smRtA nRpa //13//

    gaur ajo manujo meSo vAjy-azvatara-gardabhAH /

    ete grAmyAH samAkhyAtAH pazavaH sapta sAdhubhiH //14//

    ete vai pazavo rAjan grAmya-araNyAz caturdaza /

    veda-uktAH pRthivI-pAla yeSu yajJAH pratiSThitAH //15//

    grAmyANAM puruSaH zreSThaH siMhaz ca^araNya-vAsinAm /

    sarveSAm eva bhUtAnAm anyonyena^abhijIvanam //16//

    udbhijjAH sthAvarAH proktAs teSAM paJca^eva jAtayaH /

    vRkSa-gulma-latA-vallyas tvak-sArAs tRNa-jAtayaH //17//( Mbh Ⅵ-5-10~17)

    (16) 「この世で、生類は二種である。すなわち、「動くもの」と「不動の

    もの」とである。「動くもの」の出生は三様である。すなわち、卵生、熱

    (湿)生、胎生である。王よ、すべての「動くもの」のうちで最上のも

    のが胎生である。胎生のうちの最上のものが人間と獣類である。それ

    らは種々の形態をとるが、十四種類である。それらのうちの七種類は森林

    に住み、七種類は人里に住む。獅子、虎、猪、水牛、象、熊、猿の七

    が森林に住むものとされる。王よ。牛、山羊、人間、羊、馬、騾馬、

    驢馬。これらの七は人里に住むものであると賢者たちに説かれる。王

    よ、以上がヴェーダに説かれる、人里または森林に住む十四種の動物であ

    る。それらにおいて祭祀が確立する。人里に住むものたちのうちでは

    人間が、森林に住むものたちのうちでは獅子が最上である。すべての生類

    は相互に依存して生活している。「不動のもの」とは植物であると言

    われる。それらには五種類がある。樹木、灌木(グルマ)(クシャ、カーシャ

    などの茂み)、蔓植物(ラター)、蔓草(ヴァッリー)、竹類。以上が草

    (木)の種類である。」(上村 vi 32頁)

    (xvii) audbhidAH svedajAz ca^eva^aNDajAz ca jarAyujAH /

  • -317-

    四生について(森)(182)

    jajne tAta tathA sarvaM jagat sthAvara-jangamam //20//(Mbh XII-160-20)

    (17) 芽生者(audbhida)たち、同じく湿生者(svedaja)たち、卵生者(aNDaja)

    たち、及び胎生者(jarAyuja)たちが[ある]。父よ、同様に、動かざるもの

    (sthAvara)・動くもの(jaGgama)からなる、一切世間が、生じた。

    用例(xvi)では、生物bhUtaが動物jaGgama=trasaと植物sthAvaraの2種に分類さ

    れ、そのうちの動物がさらに「卵生」「湿生=熱生」「胎生」の3種類に分類

    されているのが見てとれる。そして用例(xvii)には、「芽生(audbhida)」が見い

    出され、これは植物sthAvaraに相当すると解し得る。『スシュルタ本集』(vii)タ

    イプの「四生」分類が行われていることになるが、それに対して、やはり明確

    に「種yoni」という言葉が用いられていることに注目すべきであろう。さらに

    重要な点は、(xvii)末尾に、それと同義語と見なし得るjAtiも用いられているこ

    とである。上村氏は、yoniを「出生」、jAtiを「種類」と訳しておられる。これ

    を改めて図式的に示すならば、生物bhUta(複数)は、動物trAsa(複数)と不動物

    /植物sthAvara(複数)に二分される。また動物trasa(複数)には、生まれ/種yoni

    (女性・単数)が、3種類tri-vidha(女性・単数)ある。[なぜなら、動物は]卵生

    者aNDajaと湿生者svedajaと胎生者jarAyuja(男性複数)がある[のだから]。一方、

    不動物/植物(複数)は、芽生者udbhija/audbhida(複数)である。不動物/植物

    sthAvara(複数)には、5つpaJcaの種jAti(女性・複数)がある。となる。

    次には、『マハーバーラタ』と並んでヒンドゥー教文化を伺う上で欠かせな

    い『マヌ法典』の四生の用例(xviii)も見てみたい。ここに見られる「四生」分

    類は、ある意味では最もシンプルである。個々の生物[種]が挙げられ、その

    それぞれが、「四生」に分類されているのである。人間manuSyaなどは、「胎生

    [者]jarAyuja」であり、鳥pakSinなどは「卵生[者]aNDaja」であり、しらみ

    maZakaなどは、「湿生[者] svedaja」であり、植物 sthAvaraはすべて「芽生

    [者]udbhjja」である、と。「胎生[者]」のうちには、羅刹鬼 rakSasやピ

    シャーチャpiZAcaまでもが包摂されることも興味深い点であろうか。なお、

    (xix)から(xxi)までは、『マヌ法典』Ⅰ-43に対する各種註釈である。

    (xviii) yeSAM tu yAdRZaM karma bhUtAnAm iha kIrtitam /

    tat tathA vo^abhidhAsyAmi krama-yogaM ca janmani //42//

    pazavaz ca mRgAz ca^eva vyAlAz ca^ubhayatodataH /

    rakSAMsi ca pizAcAz ca manuSyAz ca jarAyujAH //43//[M.manuSAz ca ]

    aNDAjAH pakSiNaH sarpA nakrA matsyAz ca kacchapAH /

  • -316-

    四生について(森) (183)

    yAni ca^evaM-prakArANi sthalajAny audakAni ca //44//

    svedajaM daMza-mazakaM yUkA-makSika-matkuNam /

    USmaNaz ca^upajAyante yac cAnyat kiM cid IdRSam //45//

    udbhijjAH sthAvarAH sarve bIja-kANDaprarohiNaH /

    oSadhyaH phalapAkAntA bahu-puSpa-phala-upagAH //46// (Ms Ⅰ-42~46)

    (18) 「それぞれの生き物はそれぞれの機能・行動(カルマン)を有するこ

    とがここにおいて語られた。そこで次に誕生の順序について汝らに語るこ

    とにしよう。家畜、鹿、二列歯の肉食獣、ラクシャス、ピシャーチャ

    および人間は胎生である。鳥、蛇、鰐、魚、亀、その他同種の陸棲お

    よび水棲の動物は卵生である。噛む虫、しらみ、蠅、南京虫、その他

    熱によって生じる同種のものは熱気から生まれるものである。種子あ

    るいは挿枝によって繁殖するすべての不動のもの(植物)は芽生である。

    花・果実に富み実が熟した後に枯れるものは一年生植物である。」

    (渡瀬 27-28頁)

    (xix) ete jarAyujAH / jarAyur ulvaM garbha-ZayyA / tatra prathamaM te

    smambhavanti / tato muktA jAyante /( MMs Ⅰ-43:p.74)

    (19) ジャラーユ(jarAyu)とは、ウルヴァ(ulva)のことである、すなわち胎

    児処(garbha-ZayyA)である。その[胎児処たるジャラーユ]に、先ず、そ

    れら[胎児たち]が、生じる。[次いで、その胎児たちは、]その[胎児

    処たるジャラーユ]から解放されて、生まれるのである。

    (xx) jarAyur garbha-AvaraNa-carma tatra manuSya-AdayaH prAdurbhavanti paZcAn

    muktA jAyante /(KMs Ⅰ-43:p.74)

    (20) ジャラーユ(jarAyu)とは、胎児(garbha)を覆う(AvaraNa)皮膜(carman)

    である。その[皮膜たるジャラーユ]の中に、人間等が、発生する。次い

    で、[その皮膜たるジャラーユから]解放されて、生まれるのである。

    (xxi) jarAyur ulvaM garbha-pariveSTana-tvak tato jAtAH paZava ity Ady-anuvAdo

    jarAyujatvaM vidheyam //( RMs Ⅰ-43:p.74)

    (21) ジャラーユ( jarAyu)とは、ウルヴァ( ulva)のことである、胎児

    (garbha)をすっぽりと覆うところ(pariveSTana)の皮膚(tvac)である。その

    [皮膚であるウルヴァたるジャラーユ]から、家畜たちは、生まれる、と

    の再説である。[家畜たちの、]ジャラーユ・ジャ/胎生者性(jarAyujatva)

    が、[ヴェーダ聖典において]命じられているのである。

  • -315-

    四生について(森)(184)

    次に、『サーンキヤ・カーリカー』第1頌に対するガウダパーダGaudapAdaの

    註釈の用例(xxii)を見ておこう。そこには、やはり「種yoni」という言葉を用

    いることのない、生類/生物の集合(bhUta-grAma)を、単純に、「胎生者」「卵生

    者」「湿生者」「芽生者」に分類するという、『スシュルタ本集』(vii)タイプの、

    あるいは『マヌ法典』の(xviii)タイプの最もわかりやすい「四生」分類が見ら

    れる。

    (xxii) AdhibhautikaM caturvidha-bhUta-grAma-nimittaM manuSya-pazu-mRga-

    paksi-sarIsRpa-daMza-mazaka-yUkA-matkuNa-matsya-makara-grAha-sthAvarebhyo

    jarAyuja-aNDaja-svedaja-udbhijjebhyaH sakAzAd upajAyate / (GSk-1:p.2)

    (22) [三苦のうちの、]依外[苦](Adhibhautika)は、4種類の(caturvidha)

    生類(bhUta-grAma)を因としている、[すなわち、その依外苦は、]<人間・

    家畜・獣>・<鳥・爬虫類>・<虻・蚊・虱・南京虫・魚・摩竭魚・鮫>・

    <植物>より、[つまり]胎生者・卵生者・湿生者・芽生者より、直接的

    に、生じる。

    3.1.『阿毘達磨倶舍論』の四生

    以下には、仏典における「四生」分類について検討したい。まず有名な世親

    の『阿毘達磨倶舍論』の用例(xxiii)を見てみたい。参考までに、玄奘訳も(22

    C)として引く。なおまた、ヤショーミトラYazomitraの註釈を(xxiv)に引いて

    おこう。

    (xxiii) yac ca^etat gaty-Adi-bheda-bhinnaM traidhAtukam uktaM veditavyAH

    catasro yonayas tatra sattvAnAm aNDajA-AdayaH //8//

    aNDajA yonir jarAyujA saMsvedajA upapAdukA yoniH / yonir nAma jAtiH / yuvanty

    asyAM sattvA miZrIbhavanti prasava-sAmyAd iti yoniH / aNDajA yoniH katamA / ye

    sattvA aNDebhyo jAyante / tad yathA haMsa-krauJca-cakravAka-mayUra-Zuka-

    ZArika-AdayaH / jarAyujA yoniH katamA / ye sattvA jarAyor jAyante / tad yathA

    hasty-aZva-go-mahiSa-khara-varAha-AdayaH / saMsvedajA yoniH katamA / ye sattvA

    bhUta-saMsvedAj jAyante / tad yathA kRmi-kITa-pataGga-maZaka-AdayaH /

    upapAdukA yoniH katamA / ye sattvA avikalA ahIna-indriyAH sarva-aGga- pratyaGga-

    upetAH sakRd upajAyante / ata eva upapadane sAdhu-kAritvAd upapAdukA ity

    ucyante / tad yathA deva-nAraka-antarAbhavika-AdayaH / (Akbh Ⅲ-8:pp.118-119)

    (23) そこにあって、卵生[種](aNDajA)などが、有情(sattva)たちの4つ

  • -314-

    四生について(森) (185)

    の種(yoni)である。

    [すなわち]卵生[者]種、胎生[者]種、湿生[者]種、化生[者]種。

    種とは、生まれ/生まれ方(jAti)のことである。「ここにおいて(asyAm)、

    有情(sattva)たちが、起源(prasava)の共通性(sAmya)の故に、連合する

    (yuvanti)、混じり合う(miZrIbhavanti)」が故に、種(yoni)である(4)。では、

    卵生[者]種とはいかなるものか? ある有情たちは、卵より生じる、

    [それがである。]たとえば、ハンサ鳥、鶴、チャウラヴァーカ鳥、孔雀、

    鸚鵡、シャーリカ鳥などである。[また]胎生[者]種とはいかなるもの

    か? ある有情たちは、胎膜(jarAyu)より生じる、[それがである。]たと

    えば、象、馬、牛、水牛、驢馬、猪などである。湿生[者]種とはいかな

    るものか? ある有情たちは、存在するもの(bhUta)の湿(sveda)より生じ

    る、[それがである。]たとえば、蟲(kRmi)・甲蟲(kITa)・蝶蛾(pataGga)・

    蚊(maZaka)などである。化生[者]種とはいかなるものか? ある有情た

    ちは、欠けたるところなく、感官が完全で、一切の肢体・副肢体を具足し

    て、一時に生じる、[それがである。]まさしくこの故に、「生起に関して

    善行を為すものである」が故に、化生[者種]と言われる。たとえば、神

    (deva)、地獄者(naraka)、中有(antarAbhavika)などである。

    (23C) 於中有四生 有情謂卵等

    人傍生具四 地獄及諸天

    中有唯化生 鬼通胎化二

    [0043c24] 論曰。謂有情類卵生胎生濕生化生。是名為四。生謂生類。諸有

    情中雖餘類雜而生類等。云何卵生。謂有情類生從卵[穀-禾+卵]是名卵生。

    如鵝孔雀鸚鵡鴈等。云何胎生。謂有情類生從胎藏是名胎生。如象馬牛猪羊

    驢等。云何濕生。謂有情類生從濕氣是名濕生。如虫飛蛾蚊蚰蜒等。云何化

    生。謂有情類生無所託是名化生。如那落迦天中有等。具根無缺支分頓生。

    無而綛有故名為化。人傍生趣各具四種。人卵生者。謂如[1]世羅[2]引波世

    羅生從鶴卵。鹿母所生三十二子。[3]般遮羅王五百子等。人胎生者。如今

    世人。人濕生者。如[4]曼菫多[5]遮[6]盧[7]引波遮[*]盧。[8]鴿鬘[9]菴

    羅衛等。人化生者。唯劫初人。傍生三種共所現見。化生如龍視路荼等。一

    切地獄諸天中有皆唯化生。鬼趣唯通胎化二種。(大正新脩大藏經第 29 冊

    No. 1558 阿毘達磨倶舍論 玄奘譯)

    (xxiv) jarAyur yena mAtuH kukSau garbho veSTitas tiSThati. tasmAj jAtA

  • -313-

    四生について(森)(186)

    jArAyu-jAH.(YAkbh III-13:p.265,ll.8-9)

    (24) 母(mAtR)の胎児処(kukSi)において胎児(garbha)がそれによって包ま

    れて(veSTita)住するところの、[それが]胎膜(jarAyu)である。それより生

    じたもの(jAta)が、胎膜生者(jarAyu-ja)である。

    この『阿毘達磨倶舍論』の用例(xxiii)こそが、ある意味では、冒頭に見た

    『岩波仏教辞典』の「四生」の説明の、典拠と言うべきものであろう。生気を

    有する者である生物が、有情sattvaで表現され、それら有情たちには、「卵生

    [者]種」「胎生[者]種」「湿生[者]種」「化生[者]種」という4つの種

    yoniがある、と明記されているのである。しかも、世親自身によって、yoniが

    jAtiであると説明されている点も注目すべきであろう。これが、仏教の「四

    生」分類である。植物などを意味する「芽生[者]」の代わりに、神や地獄者

    を意味する「化生[者]」が「種」として挙げられているのに注目すべきであ

    る。

    また「種」たるyoniが女性名詞であり、それと同格に置かれた「卵生」など

    が、アンダジャaNDajaではなしに、アンダジャーaNDajAとなっているところに

    も注目すべきかもしれない。「aNDajA(形容詞) yonir(名詞)」は、本来なら

    ば「卵より生じた、種」と訳すべきものである。だが、卵より生じるのは、種

    ではなく、その種に属する有情であり、有情の身体である。したがって、問題

    の箇所は、「卵生者という種」と解すべきものであろう。その結果、『阿毘達

    磨倶舍論』の「四生」分類とは、有情には、「卵生者という種」、「胎生者とい

    う種」、「湿生者という種」、「化生者という種」の4つの「種」がある、とい

    うことになる。さらに、玄奘訳等の漢訳語をそのまま採用し、漢字2文字ずつ

    の「四生」「卵生」「胎生」「湿生」「化生」を用いての『岩波仏教辞典』(イ)

    の曖昧平板な記述からは、世親のサンスクリット原典や玄奘訳が腐心した筈の、

    微妙な意味の差異が抜け落ちてしまうのである。

    3.2.パーリ仏典の四生

    以上の『阿毘達磨倶舍論』(xxiii)に於ける「四生」を踏まえて、以下には他

    の仏典での用例を見てみよう。(xxv)(xxvi)は『ミリンダ王の問い』の用例、

    中村早島訳とともに引いた。(xxvii)は『マッジマニカーヤ』の用例、片山一

    良訳などとともに引いた。(xxviii)は、『ディーガニカーヤ』の用例でリスデー

    ヴィスの英訳、浪花訳と共に引いた。

  • -312-

    四生について(森) (187)

    『ミリンダ王の問い』の用例(xxv)(xxvi)を見てみると、(xxv)には、有情に

    は、「胎生[者]」という「種」がある、という『阿毘達磨倶舍論』的「四

    生」分類法がある他に、(xxvi)には、『スシュルタ本集』の(vii)に見られたと

    同様な、素朴なものである、「有情は、卵生者ないし胎生者ないし湿生者ない

    し化生者である」というタイプの「四生」分類表現も見られる。

    (xxv) AkankhamAno ahaM mArisa patthite kule uppajjeyyaM, kimhi kule

    uppajjAmi, aNDaje vA jalAbuje vA saMsedaje vA opapAtike vA ti. jalAbujAya

    mArisa yoniyA uppajjAhIti.(Mp Ⅱ-1-6:p.127)

    (25) 「あなたよ、卵生、あるいは胎生、あるいは湿生、あるいは化生に

    よって、いかなる家に生まれようとも、そのうちで、望まれた家にわたし

    は生まれようと思案しております。あなたよ、わたしは、胎生の生まれか

    たによって、生まれたいと願います。」(中村早島 ii pp.39-40)

    (xxvi) atthi loke sattA aNDajA jalAbujA saMsedajA opapAtikA,.... (Mp Ⅱ-7-4:p.

    267)

    (26) 「この世に、卵生・胎生・湿生・化生の生きとし生けるものが存在し、

    ・・・」(中村早島 iii 11頁)

    また、以下の『マッジマニカーヤ』の用例(xxvii)は、『ミリンダ王』の場合

    と同様の、2つのタイプの「四生」分類表現(5)が見られると片づけたいところ

    だが、片山一良氏が註記の中で、紹介されるyoniの3つの意味とそれを踏まえ

    ての「生体」との解釈は甚だ興味深いものである。だが、この「生体」とは何

    のことだろう? 『プラパンチャ・フリダヤ』の用例(ii)の「四生」分類で見

    た、有情の持つ「身体」ということだろうか? yoniを身体dehaの意味で解釈

    する合理的な伝統のあることが知れる。いずれにしても、「四生」分類に用い

    られるyoniの解釈は甚だやっかいなものであり、誤解や混乱を招くおそれがあ

    る。

    (xxvii) Catasso kho imA SAriputta yoniyo, katamA catasso: aNDajA yoni,

    jalAbujA yoni, saMsedajA yoni, opapAtikA yoni. KatamA ca SAriputta aNDajA

    yoni: Ye kho te SAriputta sattA aNDakosaM abhinibbhijja jAyanti, ayaM vuccati

    SAriputta aNDajA yoni. KatamA ca SAriputta jalAbujA yoni: Ye kho te SAriputta

    sattA vatthikosaM abhinibbhijja jAyanti, ayaM vuccati SAriputta jalAbujA yoni.

    KatamA ca SAriputta saMsedajA pUtikuNape vA pUtikummAse vA candanikAya vA

    oLigalle vA jAyanti, ayaM vuccati SAriputta saMsedajA yoni. KatamA ca SAriputta

  • -311-

    四生について(森)(188)

    opapAtikA yoni: DevA nerayikA ekacce ca manussA ekacce ca vinipAtikA, ayaM

    vuccati SAriputta opapAtikA yoni. ImA kho SAriputta catasso yoniyo. (Mn Ⅰ

    -2-2:i,p.73)

    (27a) 「サーリプッタよ、つぎのような四の生体があります。四とは何か。

    卵生の生体、胎生の生体、湿生の生体、化生の生体です。/それでは、

    サーリプッタよ、卵生の生体とは何か。サーリプッタよ、かのもろもろの

    生けるものにして、卵の殻を破って生まれるものがいます。サーリプッタ

    よ、これが卵生の生体と言われます。/ではまた、サーリプッタよ、胎生

    の生体とは何か。サーリプッタよ、かのもろもろの生けるものにして、子

    宮膜を破って生まれるものがいます。サーリプッタよ、これが胎生の生体

    と言われます。/ではまた、サーリプッタよ、湿生の生体とは何か。サー

    リプッタよ、かのもろもろの生けるものにして、腐った魚の中に生まれた

    り、腐敗した屍とか腐った麦パンの中とか、ドブ池とか下水に生まれるも

    のがいます。サーリプッタよ、これが湿生の生体と言われます。/ではま

    た、サーリプッタよ、化生の生体とは何か。諸天、地獄の者、ある人びと、

    ある苦処の者たちです。サーリプッタよ、これが化生の生体と言われます。

    サーリプッタよ、これが四の生体です。」(片山 210頁)

    ※「catu-yoni四生。'yoni'という語には<蘊の部分(khandha-koTThAsa)・根拠

    (kAraNa)・尿道(子宮)(passAva-magga)>の意味が知られる。ここでは「蘊

    の部分」をさす。」(片山 210頁 脚註一)

    (27b’) 「なるほど、舎利弗よ。これら四つの生まれがある。四つとはなに

    か。[すなわち]卵生、胎生、湿生、化生である。・・・」(及川 178頁)

    以下の『ディーガ・ニカーヤ』の用例(xxviii)は、そのyoniを、やはり『阿

    毘達磨倶舍論』の場合と同様に、「種/生まれ・生まれ方」と解すれば済むと

    一方では思われるが、リスデイヴィスは、そのyoniをmatrixと訳している。こ

    の解釈は、先の『アシタ・アンガ・フリダヤ』の用例(xiii)のyoniに対する矢

    野道雄訳(13a)の<子宮>と同様、訳者の単純な誤解によるものと考えるが、

    にもかかわらず、おそらくやその英訳に倣って「出生処」とした浪花訳をも簡

    単に捨てられないのは、明らかに文献の記述に立脚した、「有情には、4つの

    「種」がある」との命題に対して、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』な

    どの用例(iii)(v)や、『チャラカ本集』の用例(x)が内包していた「有情には、

    4つの誕生の「原因」がある」との命題の妥当性をも認めざるを得ないことと

  • -310-

    四生について(森) (189)

    関連しているであろう。

    ( xxviii) catasso yoniyo. aNDaja-yoni, jalAbuja-yoni, saMsedaja-yoni,

    opapAtika-yoni.(Dn,iii,p.230)

    (28a) Four matrices, to wit, the matrix of birth by an egg, the viviparous

    matrix, the matrix of moist places, and rebirth as deva.(Rhys Davids,p.222)

    (28b) 「四つの出生処がある。卵生という出生処、胎生という出生処、湿

    生という出生処、化生という出生処である。」(浪花 308頁)

    ※「四つの出生処―仏教では生き物を生まれ方によって胎生・卵生・湿生

    ・化生の四種に分類する。・・・」(浪花 450頁 註)

    4.1.ジャイナ教の三生

    ヒンドゥー教や仏教の「四生」分類に関しては、以上でほぼ検証を終えた。

    ここでは、ジャイナ教の生物分類法を伺うべく、有名なウマースヴァーミン

    UmAsvAminの『タットヴァ・アルタ・アディガマ・スートラ』の用例(xxix)を

    検討してみたい。( xxx) ( xxxi)は、それに対するバースカラナンディ

    BhAskaranandiの註釈の一部である。

    (xxix) sammUrchana-garbha-upapAdA janma //31//

    sacitta-ZIta-saMvRttAH setarA miZrAZ ca^ekaZas tad-yonayas //32//

    jarAyuja-aNDaja-potAnAM garbhaH //33//

    deva-nArakANAm upapAdaH //34//

    ZeSANAM sammUrchanam //35//(Tas Ⅱ-31~35:pp.38-39)

    (29) 誕生(janman)は、凝結[生](sammUrcchana)・胎児[生](garbha)

    ・化[生](upapAda)[の3種類]である。 そ[の誕生]の拠処

    (yoni)は、生命体(sacitta)・冷体(ZIta)・被覆体(saMvRtta)、[及び]その逆

    [の、非生命体・熱体・露見体](setara)、[及びそれらの]混合体(miZra)、

    及び単独体(ekaZas)である。 胎膜生者(jarAyuja)・卵生者(aNDaja)・無

    膜生者(pota)たちには、胎児[生](garbha)がある。 神(deva)と地獄

    者(nAraka)たちには、化現[生](upapAda)がある。 残りの者(ZeSa)

    たちには、凝結[生](saMmUrchana)がある。

    (xxx) yady evaM deha-antara-prAdurbhAva-lakSaNaM jIvAnAM janma siddhaM

    tadA ke tad-viZeSA ity Aha― (BTasⅡ-31:p.39)

    (30) もしそうだとしたら、諸々の個我/命我(jIva)の、誕生(janma)が、

  • -309-

    四生について(森)(190)

    別の身体(deha-antara)の出現(prAdurbhAva)を特徴(lakSaNa)とするものであ

    ることが、確定している(siddha)のだから、その時には、その[誕生の]

    別異性とは、いかなるものであるか、というので述べる。

    (xxxi) teSAM janma-viZeSANAM yonaya AZrayAs tad-yonayaH /(BTasⅡ-32:p.39)

    (31) 「そのヨーニ」(tad-yonayas)とは、それら、個々の誕生(janman)の、

    諸々のヨーニ(yoni)、[すなわち]拠処(AZraya)のことである。

    (xxxii) yat prANi-parivaraNaM vitata-mAMsa-ZoNitaM taj jarAyuH /(BTasⅡ-33:p.

    39)

    (32) 「ジャラーユ」(jarAyu)とは、引き延ばされた(vitata)肉(mAMsa)・血

    (ZoNita)からなる、生気を有する者 (prANin)をくるむもの(parivaraNa)であ

    る。

    (xxix)には、ヒンドゥー教や仏教とはまた違う、ジャイナ教独自の生物分類

    法が明確に記述されている。「誕生」が、①凝結[生]②胎児[生]③化

    [生]に3種類に分類されている。すなわち、ジャイナ教の場合は、「四生」

    分類ではなく、「三生」分類である。そしてそのうち胎児[生]は、胎膜生者、

    卵生者、無膜生者たちにあり、化[生]は、神と地獄者たちにあるということ

    から、ジャイナ教の「三世」分類説とは、いわば、仏教の「卵生「胎生」「湿

    生」「化生」という「四生」分類の変形体と言い得るかも知れない。すなわち、

    ジャイナ教は、仏教で言う「卵生」と「胎生」をひとまとめにして「胎児

    [生]garbha」としているのである。神や地獄者までが、仏教の「化生」に通

    じる「化[生]upapAda」と分類されている点も重要であろう。そして、その

    「胎児[生]」と「化[生]」以外の誕生が「凝結[生]sammUrcchana」という

    言葉の下にまとめられている。これはこれまで見たヒンドゥー教や仏教の「湿

    生」に相当すると考えるべきであろう。

    完全な成体として誕生する「化[生]」と胎児で生まれ成長して成体となる

    「胎児[生]」とその他の「凝結[生]」といった「三生」分類に於ける「胎

    児[生]」の取り扱いは、ある意味では極めて合理的である。胎児が誕生する

    際に「胎膜」に包まれて出る胎膜生者jarAyujaと卵殻に包まれた卵生者aNDajaと

    裸で誕生する無膜生者potaの三者を「胎児[生]」者という概念の中に位置づ

    ける姿勢は、注目に値する。

  • -308-

    四生について(森) (191)

    5.1.ヒンドゥー教と仏教の四生、及びジャイナ教の三生の違い

    以上、インドにおける生物の分類法としての「四生」の諸相について見たが、

    一口に「四生」と言っても、その内実は様々であることが判明した。早期の、

    ウパニシャッドにおいて見られる分類法が、基本的には踏襲されているとはい

    え、ヒンドゥー教と仏教とでは、その「四生」分類の内実に大きな違いが見ら

    れた。列挙順を無視するとすれば、いわゆる「胎生[者]」「卵生[者]」「湿

    生[者]」「芽生[者]」というヒンドゥー教の「四生」分類に対し、仏教の

    「胎生[者]」「卵生[者]」「湿生[者]」「化生[者]」との「四生」分類であ

    る。前者の場合、生物の「四生」分類とは言っても、人間が跋扈するこの世の

    (=地上的)生物たちの分類に過ぎないことである。一方、仏教の場合、天国

    の住人である神や、地獄の住人や、さらには、死んだ後の中間的な存在として

    の中有までをも包摂した、文字通りの有情たちの「四生」分類ということであ

    る。そこには、ヒンドゥー教と仏教の持つ世界観の違いが、如実に反映されて

    いると考えられる。人間にとって、自らの憧れの存在であり、かつ能力的にも

    遙かに超え出た存在である神々の「生まれ」に関して、軽々しく口にすべきで

    はない、という頑なな姿勢のようなものさえ感じられる。一方、輪廻の存在た

    る有情を超出した存在は仏陀であり、その仏陀こそを理想と考える仏教徒の立

    場よりすれば、神も地獄の住人も、みな袖振り合う似た者同士という思いがそ

    の「四生」分類にも反映しているように思われる。神とて、考察・分類の対象

    から外されることはなかった、と言えるであろう。その一方で、ヒンドゥー教

    の「四生」分類の一つの要であった植物に相当する「芽生[者]」が独立に立

    てられていないことには、またそれなりの意味があるように思われる。仏教の

    立場で、植物がどのように位置づけられるかに関しては、既にいくつもの研究

    が為されているようである。筆者も機会があったら、いずれこの「四生」分類

    との関わりで「仏教の植物観」を論じてみたいと考える。また、前節で見た通

    り、仏教の「四生」分類の一ヴァリエーションと言うべきジャイナ教独特の

    「三生」分類も重要である。このジャイナ教の「三生」分類と仏教の「四生」

    分類の関係を歴史的に問題にすべきであると考えるが、本稿での検討は断念せ

    ざるを得ない。

    5.2.jara-yuの意味

    以上で、今回の研究の大半は終えた。ヒンドゥー教、仏教を問わず、「四

  • -307-

    四生について(森)(192)

    生」の一つである、われわれ人間がそこに属せしめられる「胎生[者jarAyuja

    (パーリ語だとjalAbuja)]という言葉を成り立たしめている、漢訳だと「胎」

    と訳されるjarAyu/jalAbuの意味について、明確にコメントしておくべきであろ

    う。それを検討する資料(viii)(ix)、(xii)、(xix)(xx)(xxi)、(xxiv)も、また

    (xxxii)も、既に引いておいた。

    冒頭に見た『岩波仏教辞典』の(イ)では、「胎生」jarAyujaのjarAyuを曖昧

    に「母親の胎内」としていた。医学書『スシュルタ本集』に対する注釈者ダル

    ハナ D.alhanaは、遺憾ながら、(viii)では、「胎児処(garbha-AZaya)」と、(ix)で

    は、「それによって包まれて、生気を有する者が生まれるところの膜状のも

    の」と二通りの解釈を示している。一方『チャラカ本集』に対する注釈者チャ

    クラパーニダッタCakrapANidattaは(xii)の中で、「それによって人間などが包ま

    れて、誕生するところの、アマラーamarA後産」と説明している。

    また、『マヌ法典』Ⅰ-43に対する3種類の註釈(xix)(xx)(xxi)にも注目すべ

    きであろう。

    その3例からだけでも、jarAyuの解釈が一筋縄ではいかないことが見てとれ

    る。一つは、jarAyuは、母胎内で、胎児を直接的に包む膜状のもの(胎膜/羊

    膜:ウルヴァulba/ulva)と解する立場、もう一つは、母胎そのものを端的に示

    す、胎児処(子宮:ガルヴァ・アーシャヤgarbha-AZaya/garbha-ZayyA)と解する

    立場である。

    また、『阿毘達磨倶舍論』の注釈者ヤショーミトラYaZomitra称友は、(xxiv)

    の中で、「母の胎児処において胎児がそれによって包まれて住するところのも

    の」と説明している。

    また、ジャイナ教の聖典『タットヴァ・アルタ・アディガマ・スートラ』の

    注釈者バースカラナンディは(xxxii)の中で、「引き延ばされた肉・血からなる、

    生気を有する者をくるむもの」と、大同小異の説明を与えている。

    以上の点より、「四生」分類の一つである「胎生」という種の「胎」jarAyuの

    意味するところは、「母胎」であろうが「胎膜」であろうが、大差ないところ

    だが、ここでは、「胎膜」と解する立場が多数を占めるようであると指摘する

    にとどめたい。

    5.3.yonija,ayonijaの意味

    また、以下の (xxxiii)(xxxiv)(xxxv)は、冒頭の『ブッダ・チャリタ』の用

  • -306-

    四生について(森) (193)

    例(i)でも見たと類似のyonija,ayonijaの用例である。上村氏の訳(32)(33)(34)

    からも知れる通り、このyonijaのyoniをどのような意味と解すればよいのかは、

    なかなか簡単には決着がつけられないのである。yonijaとayonijaによって、ど

    のような集合に対して、どのような分類がなされているのだろうか? これま

    での「四生」分類などで見た、生物全体を「類別」するための分類ではない。

    例えば、(xxxiii)によれば、「金剛杵を持つ全世界の主」=インドラ神に、仕

    える、<聖火を捧ずる聖仙たち>huta-azinの分類である。その聖仙たちの出自

    は様々である。そこには、通常の人間のように、母親の「産道」を通って生ま

    れた者yonijaの、またそうでない者ayonijaもいるとの記述と解すべきであろう。

    (xxxiv)(xxxv)の用例を参照すれば、この「そうでない者」ayonijaには、釈尊

    のように、産道生[者]yonijaではなく、脇腹生[者]pArzavajaもあれば、例

    えばyoniという身体器官とは無縁の「葦の茎zara-stamba/葦の叢zara-gulma」や

    「水瓶kalaza」から生まれたガウタマ仙やドローナ師の類いまでもが含意され

    ているのである(6)。翻って、このyonijaとayonijaによる分類は、基本的に「人

    間的な形象を持つ生物」に対し、その出自に関して、用いられるもののようで

    ある。その場合、先述した通り、ayonijaがかなりの広がりを持つ概念である為、

    そのyoniを、通常の母親の身体器官である「産道」や「胎児処」、果てはそれ

    らを包摂し得る人間の母親という意味での「母胎」とするかは、必ずしも重要

    ではなくなる可能性がある。それを判断する決めてとなるのは、そのayonijaが

    適用される個々の人間的形象者の出自に関わる具体的情報であるわけだが、そ

    れが常にわれわれ読者に開示されているわけではないことが、問題を複雑にさ

    せると考えられるのである。

    (xxxiii) ayonijA yonijAz ca vAyu-bhakSA huta-azinaH /

    IzAnaM sarva-lokasya vajriNaM samupAsate // (Mbh II-7-13)

    (33)「以上のような、母胎から生じた、あるいは生じない、風を食べて

    (断食して)生活する、聖火を捧ずる聖仙たちが、金剛杵を持つ全世界の

    主に伺候している。」(上村 ii 258頁)

    (xxxiv) ayonijAM rUpavatIM kule jAtAM vibhAvarIM /

    ko nu tAM sarva-dharmajJAM paribhUya yazasvinIM //13//(Mbh II-72-13)

    (34)「彼女は女陰から生じたものではなく、美しく、良家の生まれで、輝

    かしく、一切の法を知り、誉れ高い。あの邪な賭博をする男以外に、他の

    誰が、そのような彼女を侮辱して・・・」(上村 ii 454頁)

  • -305-

    四生について(森)(194)

    (xxxv) kRpaz ca^AcArya-mukhyo^ayaM maharSer gautamAd api /

    zara-stamba-udbhavaH zrImAn avadhya iti me matiH //48//

    ayonijaM trayaM hy etat pitA mAtA ca mAtulaH /

    azvatthAmno mahA-rAja sa ca zUraH sthito mama //49//(Mbh V-54-48~49)

    (35) 「そして最上の師匠クリパは、大仙ガウタマから、葦の茎の中に生

    まれた。その栄光ある男は殺されることはないと私は考える。アシュ

    ヴァッターマンの父と母(クリピー)と母方の伯父(クリパ)の三人は母

    胎から生まれなかった。大王よ。そしてその勇士は私の側についている。

    」(上村 v 194頁)

    結びにかえて

    本研究で確認し明らかになったことを、改めてまとめてみたい。その要点は

    【四生図】に反映させて掲げた。

    (1)一口に「四生」といっても、種々ヴァリエーションがあること、日本人

    に一般に知られている「胎生」「卵生」「湿生」「化生」からなる「四生」は、

    仏教特有のものであること、ヒンドゥー教では、「胎生」「卵生」「湿生」「芽

    生」の「四生」が一般的であること、またジャイナ教では、独特の「三生」分

    類が行われていることが明らかになった。

    仏教やジャイナ教の場合、「化生」として地獄の住人や、神についてまで言

    及するところに特徴がある。ヒンドゥー教の場合は、基本的に地上的人間世界

    の生物の分類に終始している点が注目される。これは仏教やジャイナ教とヒン

    ドゥー教の宗教としての本質的な相違を反映したものであろう。

    (2)わが国では「四生」は、従来「四生」「胎生」「卵生」「湿生」「化生」

    などの2文字よりなる簡潔な漢訳語を用いて語られることが多い。その結果、

    インドの原典が持っていた種々の重層性が捨象され、「四生」理解が曖昧・簡

    略化される傾向があった。

    その「四生」理解に当たっては、yoniという言葉の解釈が決め手となること

    が明らかになった。身体の科学と言うべき「医学」文献に携わる者には、yoni

    は何よりも、母親が胎児を世の中に産出する道「産道」として、さらに母親の

    身体内のその部分を含む胎児処=子宮>母胎として知られるているが、この

    「四生」分類では、先ず何よりも、「誕生」「生まれ」「生まれ方「種(しゅ、

    species)」を意味する語として用いられている。一方、yoniは「胎因」、時に用

  • -304-

    四生について(森) (195)

    いられるbIja「種因」と同様、「原因」kAraNaの意味で用いられることがある。

    さらにその延長線上で考えられるべきか、ジャイナ教の「三生」分類では、

    「誕生」janmanとは別義に、「生命体/個我の発生する場所」を表す語として

    用いられる。個々の文脈に即した緻密な読解が求められる。

    (3)「四生」分類など生物分類の一つとして必ず掲げられるわれわれ人間が

    帰属する「胎生」は、jarAyujaという言葉で表現される。漢訳語の「胎」に相

    当するjarAyu(パーリ語ではjalAbu)の解釈の問題も重要である。人間などの哺

    乳類が母胎から誕生する際に、直接的に胎児が包まれて出てくるところの、

    「胎膜」の意味で解釈される場合が普通である。別のulva/ulbaの同義語とされ

    るが、「胎生」の「胎」が、母胎としての「胎児処/子宮」を意味するyoniで

    はないという点は看過すべきではない。だが、結局はそうした誕生することに

    なる胎児は、胎膜にくるまれた状態で、母胎の中で時を過ごすのであるから、

    jarAyuを母胎としての「胎児処/子宮」そのものを意味すると解釈する立場も

    現にあることが知れた。

    (4)「四生」内の「胎生」の問題とも関連するものとして、yonija、ayonijaと

    いう語の使用が頻繁に認められるという点にも注意を払う必要がある。この場

    合は、生まれくる者が胎生[者]種であるか否かとは直接に関連しない、「産

    道(胎道)生」か否かで「非産道生」「産道不生」の意味で用いられている筈

    であるにもかかわらず、読み手の心理的問題として、yoniを「胎児処/子宮」

    =「母胎」の意味で解釈して、「四生」の「胎生[者]」やそれならざる者全

    体を指して、yonijaやayonijaがあるとする誤解や混乱を生みやすいという知見

    が得られた。

  • -303-

    四生について(森)(196)

    【四生図】

    (0)二(動物・植物)

    (1)三生(胎生・卵生・湿生)

    (2)四生(胎生・卵生・湿生・芽生)・・・・・・・ヒンドゥー教

    (3)四生(胎生・卵生・湿生・化生)・・・・・・・仏教

    (4)三生(胎児[生]・凝結[生]・化[生] )・・・ジャイナ教

    <分類> <有情・生物bhUta;sattva>

    (a) 四生[身](catur-vidha)deha

    (b) 四生[者](catur-vidha)

    (c) 四生[種](catur-)yoni=jAti 四生[者]X-ja

    (d) 四生[種因](catur-)yoni=kAraNa

    (e) 四生[因](catur-)bIja

    略号・テキスト・参考文献(抜粋)

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    Akbh : AbhidharmakozabhASya(PradhanEd.)

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    Aiup:Aitareya-upaniSad → Chup

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    Cs:CarakasaMhitA (KSS. 228,1984r)

    Dn:DIghanikAya(PTS Ed)

    DSs:D.alhaNa's Comm. ad Ss → Ss

    GSk:GaudapAda's Comm. ad SAMkhyakArikA(Esnoul Ed)

    KMs: KullUka's Comm. ad Ms → Ms

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    MMs:MedhAtithi's Comm. ad Ms → Ms

    Mn:MajjhimanikAya(PTS Ed)

    Mp:Milindapanha(PTS Ed)

  • -302-

    四生について(森) (197)

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    Ph:PrapaJcahRdaya(Shivalik Ed.:2002)

    RMs: RAghavAnanda's Comm. ad Ms → Ms

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    SChup:ŚaGkara's Comm. ad Chup →Chup

    Ss:SuzrutasaMhitA (JaiAS. 34,1992r)

    Tas:TattvArthAdhigamasUtra(MysorEd.:1944)

    YAkbh:Yazomitra's Comm. ad Akbh (WogiharaEd.)

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