きずな第216号 春号 04(2)第216号 武蔵野市シルバー人材センター...

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武蔵野市シルバー人材センター 216 号(1令和 2 4 20 会員の皆さま、日々就業ならびに地域活動にご 精励いただき、大変感謝申し上げます。 さて、 3 25日の理事会において承認されまし た令和 2 年度事業計画・収支予算をご紹介いたし ます。 ~令和 2 年度事業計画~ 令和 2 年度は、第四期中期目標の 3 年度目にあ たり、会員数1240名、契約額 4 500万円、派遣 契約額 2 千万円(当初計画では1200万円)、就業率 83%を目標値としました。今年度は引き続き三 大目標である「魅力あるセンターづくり」「就業 先拡大」「会員の増強」を目指し、バス広告の掲 載やホームページの改修などPRを積極的に行い、 新たな事業を展開してまいります。また、今後の 組織活動を見据え、理事組織の在り方、地区の活 性化をテーマに具体的な検討を行ってまいりま す。 ~令和 2 年度収支予算~ 令和 2 年度収支予算については、昨年度と比べ、 経常収益では、1187万円増としました。主な理 由は、事業収益を中期目標のとおり 1 千万円増の 4 500万円としたことによるものです。経常経 費は昨年度と比べ、1544万円増としました。主 な理由は、支払い配分金を契約目標額の増に対応 して474万円増としたこと、ユニフォームの購入 など消耗品費143万円増、会員活動を活性化する ための費用弁償(旅費交通費)130万円増などで す。この結果、令和 2 年度収支予算は、経常収益 4 7479万円、経常費用は 4 7835万円となり、 357万円の支出超過の予算となりました。これは、 平成30年度に生じた約600万円の黒字を解消する ための措置となっております。 新型コロナウイルスが拡大し、市でもイベント 等の中止、施設の休館などが続いております。セ ンターの就業にも影響が出ている状況ですが、な によりも健康が第一ですので、会員の皆さまには ぜひご自愛いただきたく、お願い申しあげます。 令和 2 年度のスタートにあたって 事務局長 盛田 隆平 「キャッチフレーズ」が決定 昨年10月下旬から募集していました、武蔵 野市シルバー人材センター独自の「キャッチフ レーズ」が、このほど決定しました。50点を 超える応募作から選ばれたのは下記 2 点です。 「確かな仕事 明るい笑顔」 - 境南町 江森 壽見子さん 「生きがい ふれ愛 働きがい」 — 境 加藤 力弥さん 決定したキャッチフレーズ 2 は、3 月に改装された事務所階段 踊り場の看板、3 月初旬に配布さ れた会員募集・ PR 用パンフレット に、既に使用されています。(広報編集委員会記) 副会長が交代 3 月末日をもって田中雅子副会長が退任し、 4 1 日付で安達勝理事(総務部会長)が副会長 に就任しました。(5ページ「私のふるさと」参照) 発 行 公益社団法人  武蔵野市シルバー人材センター 編 集 広報編集委員会 武蔵野市中町 3-5-16 電話 0422-55-1231 URL http://www.musashino-sc.or.jp/ 令和 2 年度のスタートにあたって… …………………… 1 東京オリンピックこぼれ話……………………… 2 〜 3 アンケート結果、雑巾寄贈式、善行表彰…………… 4 私のふるさと…………………………………………… 5 武蔵野・ぶらり・時空旅………………………… 6 〜 7 ひろば、新入会員、むさしのSC トピックス、 編集後記………………………………………………… 8 216(春)号 もくじ ▲江森さん

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Page 1: きずな第216号 春号 04(2)第216号 武蔵野市シルバー人材センター 令和2年4月20日 56年前 私は見た 開会式を! 西久保 小 こせき 関 一 ひとし

武蔵野市シルバー人材センター 第216号(1)令和2年4月20日

 会員の皆さま、日々就業ならびに地域活動にご精励いただき、大変感謝申し上げます。 さて、3月25日の理事会において承認されました令和2年度事業計画・収支予算をご紹介いたします。~令和2年度事業計画~ 令和2年度は、第四期中期目標の3年度目にあたり、会員数1240名、契約額4億500万円、派遣契約額2千万円(当初計画では1200万円)、就業率83%を目標値としました。今年度は引き続き三大目標である「魅力あるセンターづくり」「就業先拡大」「会員の増強」を目指し、バス広告の掲載やホームページの改修などPRを積極的に行い、新たな事業を展開してまいります。また、今後の組織活動を見据え、理事組織の在り方、地区の活性化をテーマに具体的な検討を行ってまいります。~令和2年度収支予算~ 令和2年度収支予算については、昨年度と比べ、経常収益では、1187万円増としました。主な理由は、事業収益を中期目標のとおり1千万円増の4億500万円としたことによるものです。経常経費は昨年度と比べ、1544万円増としました。主な理由は、支払い配分金を契約目標額の増に対応して474万円増としたこと、ユニフォームの購入など消耗品費143万円増、会員活動を活性化するための費用弁償(旅費交通費)130万円増などで

す。この結果、令和2年度収支予算は、経常収益は4億7479万円、経常費用は4億7835万円となり、357万円の支出超過の予算となりました。これは、平成30年度に生じた約600万円の黒字を解消するための措置となっております。 新型コロナウイルスが拡大し、市でもイベント等の中止、施設の休館などが続いております。センターの就業にも影響が出ている状況ですが、なによりも健康が第一ですので、会員の皆さまにはぜひご自愛いただきたく、お願い申しあげます。

令和2年度のスタートにあたって事務局長 盛田 隆平

「キャッチフレーズ」が決定 昨年10月下旬から募集していました、武蔵野市シルバー人材センター独自の「キャッチフレーズ」が、このほど決定しました。50点を超える応募作から選ばれたのは下記2点です。

 「確かな仕事 明るい笑顔」 - 境南町 江森 壽見子さん 「生きがい ふれ愛 働きがい」 — 境 加藤 力弥さん 決定したキャッチフレーズ2点は、3月に改装された事務所階段踊り場の看板、3月初旬に配布された会員募集・PR用パンフレット

に、既に使用されています。(広報編集委員会記)

副会長が交代 3月末日をもって田中雅子副会長が退任し、4月1日付で安達勝理事(総務部会長)が副会長に就任しました。(5ページ「私のふるさと」参照)

き ず なき ず な

発 行 公益社団法人 武蔵野市シルバー人材センター

編 集 広報編集委員会武蔵野市中町 3-5-16電話 0422-55-1231㈹

URL http://www.musashino-sc.or.jp/

■令和2年度のスタートにあたって……………………… 1

■東京オリンピックこぼれ話……………………… 2〜3

■アンケート結果、雑巾寄贈式、善行表彰…………… 4

■私のふるさと…………………………………………… 5

■武蔵野・ぶらり・時空旅………………………… 6〜7

■ひろば、新入会員、むさしのSCトピックス、

 編集後記………………………………………………… 8

216(春)号 も く じ

▲江森さん

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武蔵野市シルバー人材センター(2)第216号 令和2年4月20日

56年前 私は見た 開会式を!西久保  小

こせき

関 一ひとし

▲満員の観客の前に整列した各国選手団(スタンド最上部に聖火台)

 昭和39年10月10日、土曜日、あの日あの時、25歳だった私は、東京オリンピック開会式を国立競技場で見たのでした。しかも「ないしょ」で。

・・・・・・・・・・・・・・・ 私が就職した会社は紙の専門商社。開会日の1週前に上司から命令されたのでした… 「10トン車に満載した記録速報用紙(少し高級なワラ半紙)を国立競技場脇の青年館に納入する立ち会いをせよ。上衣・ネクタイ忘れるな。トラックの助手席に乗って行け」 と。…これって名誉なこと? この時、本能的に「開会式典をなにがなんでも見たい」と悪知恵が脳裏をよぎりました。世間を知らない大胆さがなせる業か。早速買い込んだのが、安価なリコーオートハーフ白黒写り「簡単カメラ」とフィルム10巻。頭の中は「いかにして国立競技場内にもぐりこむか」でいっぱい。もちろん、上司にも同輩にも「ないしょ」で秘策を練ったのでした。

・・・・・・・・・・・・・・・ いよいよ当日、順調に青年館に到着するや、たくましい二の腕の作業員が、リフトや腕力であっという間に積み荷を収納したのでした。熟練運転

手は「しかと」受領印をもらい、「ご苦労さん」とか言い残して私を置き去りにして、さっさとトラックを運転して走り去ったのでした。 思惑どおりに事が進んで、納品書の控を握りしめた私は国立競技場正面入り口に向かい、プロレスラーみたいな体格のガードマンに悲壮な顔して体当たりの交渉をぶちかましました。「この納品書に捺印が欲しいのです」 さらに数十メートル先を指さして、「その責任者はあのテントの中にいます」と。ガードマンは、私を疑う目つきで「その責任者の名前は?」私はすかさず「キノシタさんです」(これ全部、とっさの口から出まかせ。キノシタとは女房の旧姓)。 押し問答すること4~5回。ガードマンは「もうすぐ式典開会です。押印すんだらこのゲートに直ちに戻ってきてください」と、渋々門を開けてくれたのでした。私は「ありがとうございます」とか言って深々と頭を下げ、何とか通過。もう2回、同様の関所を通過してようやくたどり着いたのが、なんとお歴々・要人・貴賓だけが座るとんでもない仕切り階段のてっぺん! 私の席などあろうはずもなく、真新しいコンクリート階段の隅

に肩をすぼめて座りました。 やれやれと深呼吸して、首をすくめながら周囲をキョロキョロ見渡すと、皇族、政治家、金髪、周囲はやたら外国人だらけ! …と「パッパカパーン」の超大なファンファーレの響き。後ろめたさは吹っ飛んで、首を伸ばしてフィールドに目を落としました。なぜか一瞬の不気味な静寂。…と、最終ランナー坂井選手が、聖火を掲げて左のゲートから颯

さっそう

爽と競技場へ走り

東京オリンピックこぼれ話

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武蔵野市シルバー人材センター 第216号(3)令和2年4月20日

▲選手団の前を入場する五輪旗

こんできたのでした。この瞬間の場内のどよめきは、今も鮮明に記憶しています。 アルバムには、7万5千人の大観衆と記録してあります。眼下を右へ半周して、聖火台まで一気に駆け上がり点火。…否、順序が逆になりました…。坂井選手が入場する前に、各国選手団の行進はギリシャを先頭に最後がニッポン。参加国数93。フィールドに選手団が整列し終わったころ、気がつくとカメラのシャッターが動かない。焦ってフィルム交換したので、ジャムってハチャメチャ状態。大切なカメラを幾度ひっぱたいてみたことか。以降、聖火台点火~競技場上空を彩るカラーの五輪旗雲の写真は、アルバムには残っていません。記憶をたどるのみ。 ガードマンからつまみ出されることもなく、この感動が「ないしょで入り込んで、今ここにいる」という罪悪感をすっかり吹き飛ばしてくれました(想像するに、私を検問した3か所のガードマンも、開会式の歴史的瞬間を多分どこかでのぞき見したのではないか? …今、邪推するのです)。 「ガードマン様 あの節は失礼いたしました。私に思い出をありがとうございました」

・・・・・・・・・・・・・・・ そしてあれから56年! この東京でオリンピックが再現されるという。予想される参加国数200余。超感慨深いものがあります。孫へ残す価値ありのアルバムを繰っているうちに、拙文を書いた次第です。ご同輩、当時の記憶をいい加減にたどってみました…昭和39年とはこんな時代背景でした。

・上皇后美智子様ご成婚は5年前・ プロレスラー「力道山」が暴漢に刺されて亡くなったのが1年前

・東海道新幹線が開通・ 洗濯機、カラーテレビが普及し始めました。わが家にあったか記憶はありませんが…・都知事は東龍太郎・ 総理大臣:池田勇人〜佐藤栄作〜田中角栄と引き継がれる・ 北の玄関就職列車:ああ上野駅(そこここに

傷しょうい

痍軍人の影)〜幸せなら手をたたこう・ 吉祥寺駅北の繁華街:亀井勝一郎命名「ハモニカ横丁」は戦後の匂いが漂っていた

・ スター選手ONの活躍したのもこのころ〜川上監督は翌年からV9・ 1ドル360円:変動相場制になったのがオリンピックの約10年後

 ご同輩、ひょっとして、あの日あの時 “東洋の魔女” を観戦した思い出などあらば、集うて激動の昭和時代を「あ~じゃった」「こ~じゃった」と語り合おうではありませんか。 私が20代のころ、真夏の多摩川や秋川は、魚釣りに夢中になって水をがぶがぶ飲んでも、腹痛だに発症せずの清流でした。かくして高度成長にさしかかったのが、1964年ころから。バブルはまだ膨らみかけてはいなかったか。 全く予測の立たない今から50年先、子供や孫がTOKYO 2020を思い出して…。“あの時代の方が良かった” そう言われることのない未来の到来であってほしい、と念ずるばかりです。

 7月24日から開催予定だった「東京2020オリンピック・パラリンピック」は、新型コロナウイルス感染症の世界的拡大の影響で、1年程度の延期が決定されました。 本記事は、半世紀前の1964年に開催された前回東京オリンピック・パラリンピックの「こぼれ話」として寄稿いただいたものを、懐かしい日々の記憶を呼び起こす「読み物」として、掲載させていただきました。(編集部注)

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武蔵野市シルバー人材センター(4)第216号 令和2年4月20日

雑巾寄贈式の様子がテレビ放映されました

 2月25日武蔵野市役所にて、当センターから市立小学校へ雑巾を寄贈しました。地域への貢献を目的に平成24年より小学校へ雑巾寄贈活動を始め、今回で9回目を迎えます。会員の手作りのものや、会員より寄付されたタオルを手芸小物班が雑巾に仕立て、本年は合わせて1800枚を学校を代表する教育委員会へ寄贈しました。 この様子がJ:COMのテレビ取材を通じて、武蔵野・三鷹市のデイリーニュースに放映されました。センター会長、社会奉仕委員会委員長、手芸小物班メンバーと教育委員会の方々との間で、大変和やかな雰囲気の中、歓談し感謝を受ける様子が市民の皆様へ放映され、私たちの社会奉仕活動をよりPRすることができました。

シルバー見守り隊が善行表彰を受けました

 1月19日武蔵野市役所にて、当センターのシルバー見守り隊が善行表彰を受けました。これは小鳩・けやき表彰に分類され、青少年の善行や子供を対象とした活動を行っている個人や団体が表彰されることとなっています。 シルバー見守り隊は当センターの西久保地区の有志により構成され、約20名の無償ボランティアが学区内の3か所で第五小学校児童の登下校の見守りを実施しています。 松下市長から直接表彰を受けたメンバーの方々は、他の青少年とも情報交換を行い、気持ちを新たに社会奉仕活動に力を入れていきたいと意気込んでいました。

▲J:COMから取材を受ける手芸小物班の皆さん ▲表彰式で松下市長を囲んで記念撮影

ご協力ありがとうございました -「絆」アンケートは集計・分析中-

 会報「絆」の紙面刷新に反映させていただくため、ならびに会員の皆様の情報取得手段を把握するために、先日新春号でご依頼したアンケート(1月末日締切)には、総数179名の方々から回答をいただきました。ご協力いただいた皆様、誠にありがとうございました。 現在、アンケート結果を集計・分析中ですが、概要は次のとおりです。1.「絆」に関して: 1)主要記事は大体読まれている 2)発行回数・経費・体裁は現状で良いが、費用・回数減、白黒化を

求める声はあり 3)読みたくなる企画・記事は「会員のナマの声・就業の実態」が分

かるもの2.「情報入手手段」に関して:1)インターネット利用派は55%、パソコン・スマホ使用派は42% 2)入手手段はデジタルとアナログに二分化 3)発信手段としてのインターネットは重要 詳細に関しては、次号の「絆」および「就業ニュース」などで順次ご報告していく予定です。また、詳細データをご希望の方は、シルバー人材センター事務局にお問い合わせください。 いただいた貴重なご意見は、今後の「絆」編集、ならびに「広報活動」にいかしてまいります。引き続き、よろしくお願いいたします。 (広報編集委員会)

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武蔵野市シルバー人材センター 第216号(5)令和2年4月20日

私のふるさと ―第22回 東京都・荒川区日暮里―

吉祥寺北町田中 雅子 会員

荒川区

東京都

★今回の“ふるさと”は東京下町の日暮里。「語るべき風光明媚な山河があるわけでもなく、何もないの」とおっしゃる田中雅子さんはちゃきちゃき

4 4 4 4 4 4

の江戸っ子とお見受けした。語られたのは義理人情の篤

あつ

さを当たり前とする下町の人々の心のありよう(ふるさと)だった。

●江戸っ子気か た ぎ

質を表すのに落語に出てくる言い回し、「てやんでぃ、こちとらぁ江戸っ子だい!宵越しの銭は持たねぇや」はお金に執着心を持たず、虚勢を張る江戸っ子の潔さと取られるけれど、実は持たないのではなくて持てないのよね。大火が度々起きた江戸の下町では、ひと度火事があれば木と紙で出来た長屋はたちまち火の海になってしまう。そのため稼いだお金はその日の内に使ってしまうのが習いになったのでしょう。 私が思い起こす原初の光景は紅

くれない

に燃える空です。7歳くらいでした。幼かったし親が側にいたので怖いとも思わず「きれいだなぁ~」と見上げたものです。第二次大戦末期の1945年3月10日夜間に米軍は人口密集地の下町を焼き払う東京大空襲を決行しました。未明の空は焦土と化した下町の炎と煙を映して、まさに紅

ぐ れ ん

蓮の炎の色でした。火の手は家の目前まで迫っていました。罹災者はこの日だけで100万人超、死者は約10万人と言われます。

★疎開されずに、ご家族皆さん一緒に日暮里に住んでいらしたのですか?

●うちは両親と私を頭に妹3人弟1人の7人家族です。父が航空隊に所属していたので一時、館山(千葉県)におりましたが、私が小学校1年(7歳)のころ、東京に戻ることになりました。母や妹たちは館山に残りましたが、私は田舎暮らしになじめず「死んでもいいから東京に帰りたい」と言って父についていき、祖父母と暮らしました。幼かったから戦争は恐ろしいものという思いも、さほど感じなくて、ただ上野公園周辺で見かける多くの

浮浪児(戦災孤児)の姿に一つ運命の歯車がずれていたら自分がそうなっていたかもしれないという、恐ろしいような申し訳ないような気がして胸が痛みました。

★戦後の復興はめざましく、下町の祭り文化も早いうちに復活したそうですね。下町には独特の空気・気風があるように思いますが…

●家の近くには諏訪神社、三島神社があり、幸い焼け残った御神輿で祭が行われました。縁日の賑

にぎ

わいはカーバイドの燃える特有の臭いと共に思い出します。 家々が軒を連ね、住民が多い下町には自然に「人様に迷惑をかけない」というルールが生まれています。人情に篤く、困っている人の世話をやくけれど、土足で人の生活に踏み込むことはしない。それをしたら「お節介」と言われる。一歩身を引いた距離感があります。また、親・きょうだい・親戚やご近所が助け合って生きていく、目上を敬い、礼儀正しく接することは、親や周りの人たちの背中を見ながら自ずと身についてきたものと思います。今の世は変化のスピードが速く忙しく、情報や技術が溢

あふ

れ、ストレス過多な生活を強いられます。自分自身を守るのに必死で、人を思いやる気持ちの余裕を無くしがちに思えます。

★田中さんは家事援助のコーディネータをされていらしたそうですね。援助を求める人とそれに応える人とを繋

つな

ぐ重要なお仕事、ご苦労も多かったのではないでしょうか?

●ご依頼があるとお宅に伺ってご希望を聞いたり、お人柄を見極めます。それぞれのご事情や状況に鑑みて相性の良さそうな会員さんを紹介して良い関係を築いていただきたいと腐心しておりました。人と人の関わりは踏み込み過ぎないで適度な距離を保ちつつ、温かい繋がりを心がけるのが大事だと思っています。

★田中さんはシルバー人材センター副会長として、会長加藤之義氏と3年間二人三脚で舵取りをしていらっしゃいました。2年任期の2期目途中ではありますが、力不足を感じられたので3月末に退くことを決意されたそうです。おつかれさまでした。 会長の多方面への興味とバイタリティに、時には「会長! 後ろについて来る人がいるか振り返って見てくださいね~」と声をかけながら、大勢の会員さんをまとめていらしたご苦労は計り知れません。シルバー世代は生きてきた時間が長いだけに夫

それぞれ

々が経験やスキルへのこだわりもあります。ご健闘に感謝しつつ、理事として在任される今後もよろしくお導きをお願いしたいと存じます。 (聞き手 編集委員 :高山)紅蓮の炎に包まれた街

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武蔵野市シルバー人材センター(6)第216号 令和2年4月20日

武蔵野・ぶらり・時空旅吉祥寺北町 下谷 一廣22

国木田独歩と武蔵野(PART2) 今回は独歩のエッセイ『武蔵野』の文脈を追いながら、時には原文を提示して自分なりに感じたこと、考えたことを書いていくつもりです。 その前にこのエッセイが書かれた明治中期の武蔵野の概況を書いておきます。 まず明治22年に吉祥寺、西窪、関前,境の4カ村が合併し武蔵野村が成立。 新宿から立川間に甲武鉄道ができたのもこの年です。合併したといっても世帯数は485、村の人口は僅か3千人程でした。明治27年(1894)には日清戦争に突入します。武蔵野村からも戦地へ送られ亡くなった若者もおり光専寺で村葬しその霊を慰めたという記録もあります。この日清戦争に海軍の従軍記者として『国民新聞』にルポルタージュ「愛弟通信」を書いて国民新聞記者 “国木田哲夫” として一躍有名となります。明治31年にエッセイ「武蔵野」を発表。 明治32年に吉祥寺駅が開業しました。

 「武藏野の俤オモカゲ

は今僅ワ ズ カ

纔に入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見たことがある。これが「武蔵野」の冒頭部分である。この古地図を見、兎も角、畫や歌で計

バカ

りに想像して居る武蔵野を其俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりではあるまい。と書かれている。 独歩の武蔵野への憧憬を生み出した文政年間の地図とはどんなものか是非とも自分の目で見てみたいと思った。あまり期待せず地元の図書館で探してもらったところ、なんと独歩が見たであろう地図があったのです。(写真右、右下)書庫から出してきてくれたのはしっかり封筒に入っていて上質な和紙でできた幾重にも折りたたまれた地図でした。「文政年間武蔵野地図」とあり、写真では判然としませんが精密に当時の郡、村などが書き込まれています。さらにこの地図上に書き込みがあり武蔵野についても言及されています。新田開発により昔の武蔵野の俤はずいぶん失われてしまったとあります。しかしこれは古い和歌などに詠

まれた “一面萱やススキに覆われた原野” という意味であろうかと思います。“武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ” と俗謡にも詠まれています。しかし江戸時代の初めから幕府は積極的に武蔵野の新田開発に力を入れます。カヤもススキも秣

まぐさ

場の草も刈られ畑地になった為に強風と舞い上がる土埃に悩まされます。防塵、防風のために約二百年かけて屋敷林や雑木林が成熟し新しい趣が出来たといえます。

 次に『武蔵野』の第3章は 昔の武蔵野は萱原のはてしなき光景を以って絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。則ち木は重に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴る計りの新緑萌え出づるその変化が・・・・(原文のまま)と書かれている。 カヤやススキの原野が林になったのは上記のような経緯があったからです。木は主に楢の類とありますがこれには少し異論があります。クヌギ、ミズナラ、コナラなどのブナ科の樹木を総称してナラといいます。 多分独歩が見たのはブナ科の樹木、さらにシラカシやケヤキなどが混在する林だったと思われます。私自身もいくつかの近隣の雑木林(独歩の森も含む)へ行き樹木の種類を確かめましたが様々な広葉樹が混在していて趣がありました。カラマツ林、白樺林といった単一の樹木林よりも身近な里山風景を感じました。11月から12月にかけて雑木林巡りをしたのですが落葉した葉が積み重なり、歩く度に感じる足元のフカ・フカ感はまことに心地よいものでした。

 次に『武蔵野』の第5章の中から抜粋 武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、聞くべく感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただ其縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くこと由て始めて獲

られる。(原文のまま) 現在ではとてもこうはいかない。雑木林も減り、畑地は宅地化し、道という道は舗装され標識があちこちに設置され道に迷うこともない。玉川上水沿いなどわずかに残った昔日の武蔵野の痕跡を求めて出かけていくしかない。都区内に比べて確かに緑は多いが、これを維持拡大するのは容易なことではない。

 『武蔵野』の第6章このエッセイの中で一番よく知られ、桜橋の袂にある独歩顕彰のオルガン型文学碑にも刻まれている一節。 今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗

▲文政年間武蔵野地図

▲地図の中身

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武蔵野市シルバー人材センター 第216号(7)令和2年4月20日

り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋といふ小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、此茶屋の婆さんが自分に向て「今時分、何にしに来たゞァ」と問ふた事があった。自分は友と顔見合わせて笑て、「散歩に来たのよ、たゞ遊びに来たのだ」と答へると、婆さんも笑てそれも馬鹿にしたような笑ひかたで「櫻は春咲くこと知ねえだね」と言った。

 この章は独歩自身が書いた手記「欺かざるの記」や文芸評論家、郷土史家による検証でエッセイには書かれていない様々なことが明らかになっています。 今より三年前というのは明治28年8月11日で、或友とは佐々城信子嬢のことだとわかる。今風に言えば独歩は信子をデートに誘い武蔵野を散策しながら自分の信子に対する思いを告白しようと思ったのであろう。 「欺かざる記」を読めばこの辺の事情がよくわかる。三崎町の駅とは、明治28年に開設されたばかりの甲武鉄道飯田町駅(現・飯田橋3丁目)で現在の飯田橋駅よりやや水道橋寄りにあった。本文では境駅(現武蔵境駅)まで行ったとなっているが、実際にはこの時国分寺駅まで乗車している。下世話な想像になるが飯田町→国分寺間の運賃は約20銭、これは3等の料金で独歩達は2等に乗ったということなので40銭、二人なので80銭。これは結構な出費である。 かけそば一杯が1銭の時代だったので現在の貨幣価値から推定すると3万円以上になる。当時鉄道はまだ庶民の交通機関とは言えない時代で富裕層しか利用しなかった、いくら売れっ子の記者とはいえ独歩氏裕福な医者の娘をデートに誘うにあたって相当見栄を張ったと思われる。エッセイでは境駅まで行き、そこから桜橋まで歩いたことになっているが、実際は国分寺駅まで甲武鉄道を使い、そこから人力車で小金井橋まで行って、玉川上水沿いを桜橋まで歩いてきたのである。暑い中歩き疲れて掛茶屋で一息入れたのであろう。今その場所には7階建てマンションが建っていて、道を挟んだ上水沿いに上記のオルガン型石碑がある。 第6章の冒頭部分は武蔵野村(現境4丁目、関前5丁目)が舞台であり、地元の人々の関心をそそられるところであった。様々な検証がなされ特に熱心に独歩の足跡を追った武蔵野新聞社社長・望月清次氏が発案し、前の号で書きましたが柳田国男、丹羽文雄等が発起人となり野田宇太郎氏が揮毫して昭和32年10月に現在の場所に「独歩の碑」が建立されたのです。同じ年の10月25日付の「武蔵野新聞」に掛茶屋の主・身元判明。名前は高橋兼吉氏・水吐きの9代目、連れ合いの名はツマさんということが

分かった。という記事が掲載された。

(注) 水吐き=上水の水量の調節やごみを取り除く堰の番人(世襲する事が多い)

(注) 掛茶屋=農家の庭先に縁台を置き、その上に赤い毛氈を敷いて小さな座布団を並べてお茶や団子をお客さんに出す簡易な茶店

 ツマさんは弘化3年(1846)生まれで兼吉氏の一歳年上女房。ツマさんが独歩達の相手をした婆さんでその時50歳、独歩は24歳、連れの佐々城信子は17歳であった。さらにここからツマ婆さんの出自を追跡した人物がいる。 宮崎勇氏である。皆様もご存じの通り彼は吉祥寺村開村以来の家系で “武蔵野の語り部” と言われ武蔵野方言や郷土芸能の研究、保存などに尽力した。 武蔵野の生き字引と言われる彼が異議を唱えたのが婆さんの言葉づかいである。 「今時分、何にしに来たゞァ」と「櫻は春咲くこと知ねえだね」 婆さん(ツマ)が吉祥寺本宿(現東町)の小美濃浅五郎の四女であることを突き止め、ならばお客さんに対してこのような言葉遣いはしないと断じているのである。(季刊武蔵野No11・平成2年7月20日号) 来たゞァは「来なすったのかね」知ねえだね は「知らねえのかね」とならなければおかしいとおっしゃっています。 確かに「欺かざるの記」の解説文を書いている田村江東という人がこの掛茶屋の光景を、当時独歩の口からきいたとおりに再現している。 それによれば「お前さん方は何しに来なすったね」といって不審そうに二人を眺めた。大抵分かりそうなものをと、信さんと顔を見合わせて笑ったと独歩が大笑いして言ったとある。宮崎氏はさらに銚子の教育委員会にも問い合わせをしてこれは銚子の言葉づかいであると聞き、その後「銚子のことば」という本も送ってもらい確信したという。独歩は幼少時代銚子で過ごしている。 この勝負、宮崎氏の執念による追跡に軍配を上げたい。アッパレ郷土愛! 「武蔵野・ぶらり・時空旅」は今回をもって終了いたします。5年間の長きにわたりご愛読ありがとうございました。

参考資料 武蔵野市 百年史こぼれ話21 「多摩文学紀行」山本貴夫著 たましん地域文化財団 「我が高橋家の伝承の記」高橋哲男著 季刊むさしのNo9〜15 玉川上水の江戸市中における構造と機能に関する基礎研究 近代の武蔵野 明治中期 「文学散歩」第6巻 野田宇太郎著 随想「我武蔵野を独り歩く」木村秀夫 「武蔵野」国木田独歩 野田宇太郎編 武蔵野市民版 「五日市街道を歩く」筒井作蔵 ほか

Page 8: きずな第216号 春号 04(2)第216号 武蔵野市シルバー人材センター 令和2年4月20日 56年前 私は見た 開会式を! 西久保 小 こせき 関 一 ひとし

武蔵野市シルバー人材センター(8)第216号 令和2年4月20日

編 集 後 記

東町 鹿谷 仁美 川北 睦子 高橋 守男南町 五味 正子 内海 澄子御殿山 三村 美恵子 中尾 知惠子本町 金子 和夫北町 佐武 安広 百瀬 隆 武井 守中町 柴﨑 良子西久保 津守 敏子 福田 育三 木本 志由子緑町 石塚 善春関前 昇 ヤスヱ境南町 加藤 剛 細田 美惠子

境南町 郡司 美恵子 鈴木 優三境 笠原 真樹 杉山 雅重 松藤 惠里 柳田 敏夫 谷本 金二桜堤 古居 勝年

(令和元年12月から令和2年3月)よろしくお願いします

(令和元年12月から令和2年3月)ご冥福をお祈りします

北町 後藤 健西久保 斎藤 静子境南町 滝口 幹男境 井上 寿文 大野 卓也※敬称は省略させていただいております。

新入会員紹介

お亡くなりになった方

 中国武漢で発生した新型コロナウイルス感染症に、WHOがパンデミック(世界的な大流行)を宣言しました。市では桜まつりを中止、小中学校を休校、市の関連施設も休館となりました。シルバー人材センターでは小中学校の施設管理の仕事が休止、他の仕事にも休止が出ております。3月11日は、東日本大震災から9年が経ち被災地では規模を縮小して慰霊祭が行われました。 街は早朝からマスクを求める長い列、スーパーでは一部の品物が消え、人通りも少なく異常な光景です。一人ひとりが対策を講じ、笑顔とパワーで難局を乗り切りましょう。次号にはこのコロナウイルス禍が終息しますように・・・ T.K

交流会に たくさんの参加者

「散歩会」で築地場外市場に 昨年末の12月20日、加藤会長以下23名の会員が参加して、築地場外市場と築地本願寺見学が実施されました。 当日は天候にも恵まれ、築地場外市場は新鮮な海の幸を求める観光客で、大変なにぎわいでした。豊かな食材が集まる市場には、マグロ、ブリ、ハマチ、サケなどの鮮魚店、練り物、揚げ物などの乾物店、野菜・果物店、飲食店、土産物店などたくさんの店が軒をつらね、どこも活気に満ちていました。昼食は「寿司どころ」で、けん騒を避けて光る海を眺めながら美味しい料理をいただきました。 築地本願寺の大きさにびっくりし、最後に、おせちの材料を求めて、「食でおもてなし」の街、築地場外市場を後にしました。 境南町 江森

10数年ぶりの「賀詞交歓会」 1月15日、シルバー人材センターのホールで10数年ぶりの「賀詞交歓会」が実施されました。 当日はあいにくの雨模様でしたが、事前申し込みの60名が一堂に集い、和気あいあいの新年会となりました。会費は千円でしたが、ビール、お酒とサンドイッチや最中などのお菓子もあり、外れ無しのビンゴゲームも実施されました。 交流会事務局も買い物や会場つくりの準備に大わらわでしたが、参加者からの「楽しかった、またやって」の声で、苦労が吹っ飛びました。 次回は “暑気払い” ? 参加できなかった皆さん、お誘い合わせのうえ、ぜひご参加ください!� 境南町 加藤▲築地本願寺で記念撮影 ▲楽しい会話で盛り上がり!

▲シルバー応援フェスタ

むさしのSCトピックスむさしのSCトピックス12/17(火) ・・・ 60歳以上シルバー人材センター未入会者向け料理セミナーが開催されました。(吉祥寺REIホテル)1/6(月) ・・・・・ 武蔵野市長へ新年のあいさつに伺いました。(武蔵野市役所)1/9(木) ・・・・・ コーラスグループ「福寿草」が吉祥寺ホーム様へ訪問演奏しました。(吉祥寺

ホーム)2/18(火)・19(水)・20(木) ・・・認定ヘルパー養成研修が開催されました(武蔵野市シルバー 人材センター)2/19(水) ・・・・ これからシルバー応援フェスタを開催いたしました。(小金井宮地楽器ホール)