第27回日本神経治療学会総会 モーニングセミナー(2009年6 … · −1 −...

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1 第27回日本神経治療学会総会 モーニングセミナー(2009年6月12日:熊本) 日経メディカル2009年9月号に掲載されたものです。 ALS(Amyotrophic Lateral Sclerosis;筋萎縮性側索硬化 症)は、運動ニューロンが選択的に障害される進行性の神経 変性疾患である。特定疾患にも指定されている原因不明の難 病で、疾患の進行に伴って日常生活動作のほとんどに介護者 の助けが必要となるため、ALSケアにおいては、患者さんのみな らず、介護者、医療者それぞれに、さまざまな課題が生じる。 国立病院機構 南九州病院 院長の福永秀敏氏は、神経内科医 として長年、ALSや筋ジストロフィーなどの神経難病医療に 携わってこられた。実際に臨床の現場で患者さんと向き合い、 経験を積んでこられた同氏だからこそ発することのできる「医 療現場からのメッセージ」をご講演された。 ALSなど神経難病とともに ~医療現場からのメッセージ~ 私が南九州病院に赴任したのは、昭和59年でした。そ れから約25年間、私が同院で臨床医として確かな治療法 の存在しない神経難病の医療に携わることとなったの には、いくつかの理由があります。その1つが、患者さん とのさまざまなかかわりのなかで離れることができなく なったということではないでしょうか。 ALSの一般的な経過を簡単に述べますと、診断から告 知、入院か在宅療養か、また症状的には筋力低下と嚥下 障害、呼吸障害、構音障害などの球麻痺症状が出現し、 最終的には死に至ります。告知についての問題もまだ完 全には解決されていないとは思いますが、やはり最も問 題となるのは、入院あるいは在宅でのケアということに なります。私は臨床現場で患者さんやそのご家族と関わ るうち、条件さえ整えることができるのであれば、在宅 ケアこそが患者さんおよびご家族にとって最も満足で きる医療だと考えるようになりました。 私が在宅ケアに取り組む「きっかけ」をつくってくれた のは、昭和59年におそらく日本で初めて体外式陰圧人工 呼吸器を在宅で使用することとなった、一人のALSの患 者さんです。管轄の保健所長さんからの、「2年以上にわ たって母子3人で24時間の胸押し補助呼吸を行っている がどうにかならないだろうか」という電話が発端でした。 人工呼吸器を着けて半年くらいの療養でしたが、とても 喜ばれました。私の手元に1枚の写真がありますが、患者 である父を、娘が胸押しの用手補助呼吸を行い、畑の傍 で見守りながら母に農作業の指示を出しているもので す。今も時々、母親と娘が私の部屋に遊びに来てくれま すが、この写真を見ながら、「大変だったけれども、あの 時が最も充実していました」と話してくれます。 何でもそうですが、物事を始めるには、さまざまな特 性や性質をもっている人やものを集め、目的に沿って働 きやすいように環境を整備、調整すること、すなわちシ ステムの構築が大切です。でもシステムだけでは物事は 動きませんので、システムの構築と人材の育成が両輪と して機能することが重要です。南九州病院ではこれまで、 南九州病院における在宅ケアの歴史 表1 南九州病院における在宅ケアの歴史 演者: 福永 秀敏国立病院機構 南九州病院 院長 座長: 祖父江 元名古屋大学大学院医学系研究科 神経内科 教授 1 昭和50年頃からALS患者訪問をボランティアで実施。 2 平成3年、南九州医療福祉研究会設立。 3 平成5年、 「国立療養所における在宅医療推進に関する研究 班」が発足。当院が事務局。 4 平成6年より、 病院の事業として計画的で継続的な在宅医 療の実施(規約・交通手段・緊急時の体制整備)。 5 平成8年、鹿児島ALS医療福祉ネットワーク発足。 6 平成9年、難病支援検討会&学習会(調整会議)。 7 平成12年、鹿児島県重症難病医療ネットワーク協議会。

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Page 1: 第27回日本神経治療学会総会 モーニングセミナー(2009年6 … · −1 − 第27回日本神経治療学会総会 モーニングセミナー(2009年6月12日:熊本)

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第27回日本神経治療学会総会 モーニングセミナー(2009年6月12日:熊本)

日経メディカル2009年9月号に掲載されたものです。

ALS(Amyotrophic Lateral Sclerosis;筋萎縮性側索硬化症)は、運動ニューロンが選択的に障害される進行性の神経変性疾患である。特定疾患にも指定されている原因不明の難病で、疾患の進行に伴って日常生活動作のほとんどに介護者の助けが必要となるため、ALSケアにおいては、患者さんのみならず、介護者、医療者それぞれに、さまざまな課題が生じる。国立病院機構 南九州病院 院長の福永秀敏氏は、神経内科医として長年、ALSや筋ジストロフィーなどの神経難病医療に携わってこられた。実際に臨床の現場で患者さんと向き合い、経験を積んでこられた同氏だからこそ発することのできる「医療現場からのメッセージ」をご講演された。

ALSなど神経難病とともに~医療現場からのメッセージ~

 私が南九州病院に赴任したのは、昭和59年でした。それから約25年間、私が同院で臨床医として確かな治療法の存在しない神経難病の医療に携わることとなったのには、いくつかの理由があります。その1つが、患者さんとのさまざまなかかわりのなかで離れることができなくなったということではないでしょうか。 ALSの一般的な経過を簡単に述べますと、診断から告知、入院か在宅療養か、また症状的には筋力低下と嚥下障害、呼吸障害、構音障害などの球麻痺症状が出現し、最終的には死に至ります。告知についての問題もまだ完全には解決されていないとは思いますが、やはり最も問題となるのは、入院あるいは在宅でのケアということになります。私は臨床現場で患者さんやそのご家族と関わるうち、条件さえ整えることができるのであれば、在宅ケアこそが患者さんおよびご家族にとって最も満足できる医療だと考えるようになりました。 私が在宅ケアに取り組む「きっかけ」をつくってくれたのは、昭和59年におそらく日本で初めて体外式陰圧人工呼吸器を在宅で使用することとなった、一人のALSの患者さんです。管轄の保健所長さんからの、「2年以上にわたって母子3人で24時間の胸押し補助呼吸を行っているがどうにかならないだろうか」という電話が発端でした。

人工呼吸器を着けて半年くらいの療養でしたが、とても喜ばれました。私の手元に1枚の写真がありますが、患者である父を、娘が胸押しの用手補助呼吸を行い、畑の傍で見守りながら母に農作業の指示を出しているものです。今も時々、母親と娘が私の部屋に遊びに来てくれますが、この写真を見ながら、「大変だったけれども、あの時が最も充実していました」と話してくれます。 何でもそうですが、物事を始めるには、さまざまな特性や性質をもっている人やものを集め、目的に沿って働きやすいように環境を整備、調整すること、すなわちシステムの構築が大切です。でもシステムだけでは物事は動きませんので、システムの構築と人材の育成が両輪として機能することが重要です。南九州病院ではこれまで、

南九州病院における在宅ケアの歴史

表1 南九州病院における在宅ケアの歴史

演者:福永 秀敏氏国立病院機構 南九州病院 院長

座長:祖父江 元氏名古屋大学大学院医学系研究科 神経内科 教授

1 昭和50年頃からALS患者訪問をボランティアで実施。

2 平成3年、南九州医療福祉研究会設立。

3 平成5年、「国立療養所における在宅医療推進に関する研究班」が発足。当院が事務局。

4 平成6年より、病院の事業として計画的で継続的な在宅医療の実施(規約・交通手段・緊急時の体制整備)。

5 平成8年、鹿児島ALS医療福祉ネットワーク発足。

6 平成9年、難病支援検討会&学習会(調整会議)。

7 平成12年、鹿児島県重症難病医療ネットワーク協議会。

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在宅ケアについて、表1のように、システムの構築と人材育成に努めてきました。また、ALSの患者さん、ご家族のための在宅ケアの手引書として、平成3年には「ALSの食事のしおり」、平成5年には「ALSの闘病のしおり」、そして平成6年には「難病患者と家族のための生活ガイドQ&A」を発行しています。

状況に即したシステム構築 国立の医療機関である当院において在宅ケアを実践するにあたって思ったのは、「国立の医療機関らしい在宅ケアを、まずやってみて、問題があればその問題を解決していけばいい」ということでした。ALSケアにおいて、まず問題となるのは呼吸・栄養管理です。それに加えて、在宅においては痰の吸引も大きな問題です。あるALSの在宅ケアでは、夫が一人で妻の介護にあたっており、夜間も吸引の度に起きる必要がある。そのため昼間の訪問看護師の来ている2時間程度しか睡眠をとることができないという訴えでした。ホームヘルパーによる痰の吸引を認めてくれるよう、私も厚生省に働きかけ(委員として出席)、平成15年には厚生労働省の「看護師等によるALS患者の在宅支援に関する分科会」での議論の末、一定の条件下でALSの患者さんに対する非医療職による痰の吸引が認められました(表2)。現在では少しずつですが、ホームヘルパーによる痰の吸引が行われるようになってきています。 このように、法的な問題、地域との連携、あるいは職種間の壁など、さまざまな問題が生じるなかで、状況に即して制度や体制を変えていかないと、これからの高齢社会での医療を円滑に運営していくことはできないのではないかと考えています。看護・介護実務者の育成 最初に述べたように、物事を始めるのにはシステム構築と人材育成との両輪が必要です。ALSケアにおいて実際に中心的な役割を果たすのは、われわれ医師ではなく、看護・介護実務者ですので、彼らに対する教育・研修が必要です。そこで当院では、ホームヘルパー養成研修を実施しましたが、受講者は、平成7年~20年の間で、1級課程が1,884人、2級課程が1,627人に上っています。また、難病患者等ホームヘルパー養成研修は、2,027人が受講しています。鹿児島県における神経難病に係わるホームヘルパーのほとんどを、当院で養成したという自負があり

ます。これらの方々が県内全域で難病ケアに活躍しておられることを考えると、このホームヘルパーの養成は、当院における事業の大きな柱の1つであったと受け止められます。ただ、残念なことに、時代の変化等のさまざまな事情から、ホームヘルパー養成研修は平成21年から休止しています。今後はまた新たな取り組みを考える時期にきているのかもしれません。

 われわれは以前、在宅ケアがうまくいくかどうかを調べるために、介護状況のなかでさまざまな因子がどのように影響しているかを多変量解析しました(日本医事新報:児玉知子、福永秀敏)。患者さんご本人やご家族・介護者、療養環境などに関する約30の因子を5段階評価して解析したところ、健康で趣味を有する介護者がいること、患者さんご本人も趣味を有し、延命処置を希望していること、経済的に安定していること、専門看護師の関与があることなどが正の関連を示す一方、球麻痺があり、気管切開が行われていること、介護者に職業があり介護に専念できないことなどが負の関連を示しました(表3)。この結果は決して意外なものではなく、やはり在宅ALSケアのポイントは、健康な介護者確保にあることが示さ

ALSケアにおけるシステム構築と人材育成介護者に無理のない療養環境

表2 �看護師等によるALS患者の在宅支援に関する分科会(厚労省医政局:平成15年2月〜5月)

表3 在宅ケアの成否と介護状況との関連

一定の条件でALS患者に非医療職による痰の吸引を認める条件とは

❶主治医か看護師から吸引方法の指導を受ける❷患者自身が文書で同意する❸主治医らとの緊急時の連絡支援体制の確保

介護状況との関連:正の関連

介護状況との関連:負の関連

●介護者:介護者有り●介護者が健康、

介護者に趣味●近所付き合いあり

●家族の延命希望あり●球麻痺、上下肢麻痺●気管切開あり●同居家族なし

●患者本人:趣味(病前・病後)延命処置希望

●他の収入源あり●専門ナースとの関わりあり

●介護者に職業あり●介護者ALSに対する知識●自宅なし●病前に介護者の職業あり

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サノフィ・アベンティス株式会社 提供

れています。 現在、鹿児島県では、ALSの特定疾患医療受給者数は右肩上がりの増加を続けています。この背景には、高齢化と、呼吸・栄養管理などの進歩による延命、治療薬リルゾールによる生存期間の延長があると考えられます。ALS唯一の治療薬リルゾールについては、承認が1999年ですので、承認からちょうど10年が経過しています。これまでの使用経験からのレトロスペクティブな検討では、リルゾール登場前後で比較すると、15~20カ月の生存期間延長効果が認められるという報告もありますが、正式な報告にはなっていません。今後、より詳細な検討が必要であると思います。 鹿児島県においては、平成20年12月時点でのALSの特定疾患医療受給者数は127名で、そのうち在宅ケアが54.3%、入院が39.3%、施設入所が6.4%です。そして、全体の51.2%が人工呼吸器を使用しています。当院にも常時十数名のALSの患者さんが入院しており、毎月、退院に向けてのカンファレンスを行っています。しかし、さまざまな問題から退院の困難なケースも少なくなく、その最も大きな要因となるのは、やはり介護力の問題で、ご家族の受け入れ、協力体制への不安などが、退院を困難にしています。 ALSの長期ケアのためのポイントを表4にまとめました。円滑な長期ケアには、患者さん、介護者、医療者、そ

れぞれの要因が揃うことが必要です。誤解を恐れずいうならば、患者さんの側にも、辛抱強いこと、ご家族や介護者に感謝や愛情を示すなども必要です。長期的な在宅ケアには介護者に無理のない療養環境が必要ですので、それが整えられるように、医療者も対処を考慮すべきと考えています。 理想的な在宅ALSケアには、介護者に無理のない療養環境と、医療機関との連携、そのうえで患者さんのQOLを確保するために、社会資源を有効活用することが必要だと考えています。

 神経難病とともに歩いてきた私の思うところを表5にまとめました。これまで述べてきたように、私が神経難病治療に取り組んできたこと、そして長期的な在宅ケアを始めたことは、患者さんとのきっかけ(縁)と共感によるところが大きかったと思います。ここで紹介した以外にも、多くのことを患者さんから学びました。 私が終末期医療に携わるなかで特に筋ジストロフィーの患者さんから学んだことは、しっかり生きるための教育、死と向き合う教育の重要性でした。最近では、尊厳死の問題も少しずつ取り上げられるようになってきています。これは、神経内科医としては避けられない問題です。私自身は、患者さんの意を汲みながら療養環境を整えることで、患者さんの延命への意欲を維持することに努力しています。 終末期医療をどのように位置づけるかは困難な作業ですが、開かれた議論を経て、一定のコンセンサスが得られることを期待しています。例えば、臓器移植のドナーカードのような形で、患者さんの意思を明らかにすることも一つの方法ではないでしょうか。 人生とは、ひとつひとつの小さな物語の集合であり、われわれ医療者は、常にその物語を意義ある豊かなものにするための援助者でありたいと思っています。

神経難病とともに歩いて

表4 ALSの長期ケアのための総論的コメント 表5 神経難病とともに歩いて

1)告知長期療養に伴うさまざまな問題、特に呼吸器装着などを考えると告知は避けて通れない。告知のやり方やアフターケアは大切。

2)呼吸器装着とtotally locked in stateでの呼吸器の離脱呼吸器装着はその前提として、在宅で可能かどうかも検討事項。

3)円滑な長期ケアの要因① 患者さん:人柄というか、周りにサポーターを惹きつける

魅力があれば。②介護者:主介護者が健康で、またサポートできる体制。③ 医療機関のネットワーク:拠点病院と協力病院。ただ神経

内科専門医だけでなく、呼吸器や外科系の医師でもなんら問題はない。

④ 地域ケアシステム:連携と協力が必要。チーム医療そのものであり定期的な調整会議(事例検討会)が必要。

⑤ 緊急時の問題:いい時は在宅で、悪くなったら入院できる病院の確保。

⑥患者会との連携:相談窓口としても。4)ALSと人生

運動機能は極限まで退化するのに、精神機能は活発。だからこそ、人の心を打つ患者さんも多い。

1 きっかけ(縁)と共感を大切に

2 継続のために「形」と「システム」

3 患者さんが主人公

4 現場に足を運ぶ

5 問題解決型思考

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2009年9月作成  RIL025A0909NM3,0 JP.RIL.09.08.04