第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール...

18
95 - 第5章 分布のファットテール 第5章 分布のファットテール 5.1 ファットテールとは マーコビッツのポートフォリオ理論、シャープの資本資産評価モデル(CAPM)、ブラッ ク=ショールズ=マートンの金融デリバティブ理論に代表される現代ポートフォリオ理論は、 過去半世紀近くにわたって、金融の実務に大きな影響を与えてきた。その足跡を振り返った ピーター・バーンシュタインの名著『リスク―神々への反逆』(1996年)の序文に書かれた 次のフレーズは大変有名である: 「リスクは人々の手で征服できるという革新的なアイディアこそが、現代と過去を境界づ けているものである。未来はもはや神々の気まぐれのままに創られるものではなくなり、 人々は自然の意思に支配されてしまう受動的な存在ではなくなったのである (注20) 。」 実際には、この本が出版されてからも、アジア通貨危機(1997年)、ヘッジファンド LTCM (注21) の倒産(1998年)、ドットコム・バブルの崩壊(2001年)などがあったが、市場 はごく短期間にこれらの危機から脱却して元の状態に戻った。そして、人々がリスクを完全 にコントロール下においたと思った矢先の2008年~ 2009年に、金融大崩落が世界的規模で 起きて、あらゆる金融資産が大きく価値を失ってしまった。 投資で大きな損失が発生するリスクのことを「テールリスク」という。現代ポートフォリ オ理論では、資産リターンの確率分布は正規分布で近似できるという前提が置かれている。 しかし、実際のリターンが正規分布よりももっと裾の厚い「ファットテール分布」から発生 しているのであれば、大きな損失が発生する確率は正規分布から予想される確率よりも大き くなり、データに正規分布モデルをむりやり当てはめると、リスクを過小評価してしまうこ とになる。 この章では、まず正規分布について基礎的事項を復習した上で、株式インデックスのリタ ーンを取り上げて、それが正規分布よりも裾の厚い、かつ左右非対称な(スキュー)分布に なっていることを示す。次に、ファットテールをうまく捉える代表的な確率モデルを紹介し、 株式と債券についてモデルを当てはめた結果をみる。また、資産リターンの分布がなぜファ ットテールになるのかを説明する理論に、簡単に触れる。最後に、金融実務において分布の ファットテールに対処する上での考え方の基本を述べる。 5.2 正規分布とσ(シグマ) 株式や債券のリターンのようにランダムな変数の経験的分布を表現するのにもっともよく (注20)翻訳は筆者による。 (注21)Long-Term-Capital-Management社

Upload: others

Post on 22-May-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 95 -­

第5章 分布のファットテール

第5章 分布のファットテール

5.1 ファットテールとは

 マーコビッツのポートフォリオ理論、シャープの資本資産評価モデル(CAPM)、ブラッ

ク=ショールズ=マートンの金融デリバティブ理論に代表される現代ポートフォリオ理論は、

過去半世紀近くにわたって、金融の実務に大きな影響を与えてきた。その足跡を振り返った

ピーター・バーンシュタインの名著『リスク―神々への反逆』(1996年)の序文に書かれた

次のフレーズは大変有名である:

「リスクは人々の手で征服できるという革新的なアイディアこそが、現代と過去を境界づ

けているものである。未来はもはや神々の気まぐれのままに創られるものではなくなり、

人々は自然の意思に支配されてしまう受動的な存在ではなくなったのである(注20)。」

 実際には、この本が出版されてからも、アジア通貨危機(1997年)、ヘッジファンド

LTCM(注21)の倒産(1998年)、ドットコム・バブルの崩壊(2001年)などがあったが、市場

はごく短期間にこれらの危機から脱却して元の状態に戻った。そして、人々がリスクを完全

にコントロール下においたと思った矢先の2008年~ 2009年に、金融大崩落が世界的規模で

起きて、あらゆる金融資産が大きく価値を失ってしまった。

 投資で大きな損失が発生するリスクのことを「テールリスク」という。現代ポートフォリ

オ理論では、資産リターンの確率分布は正規分布で近似できるという前提が置かれている。

しかし、実際のリターンが正規分布よりももっと裾の厚い「ファットテール分布」から発生

しているのであれば、大きな損失が発生する確率は正規分布から予想される確率よりも大き

くなり、データに正規分布モデルをむりやり当てはめると、リスクを過小評価してしまうこ

とになる。

 この章では、まず正規分布について基礎的事項を復習した上で、株式インデックスのリタ

ーンを取り上げて、それが正規分布よりも裾の厚い、かつ左右非対称な(スキュー)分布に

なっていることを示す。次に、ファットテールをうまく捉える代表的な確率モデルを紹介し、

株式と債券についてモデルを当てはめた結果をみる。また、資産リターンの分布がなぜファ

ットテールになるのかを説明する理論に、簡単に触れる。最後に、金融実務において分布の

ファットテールに対処する上での考え方の基本を述べる。

5.2 正規分布とσ(シグマ)

 株式や債券のリターンのようにランダムな変数の経験的分布を表現するのにもっともよく

(注20)翻訳は筆者による。(注21)Long-Term­Capital­Management社

2次1回証券_05章.indd 95 2012/07/12 9:29:21

Page 2: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 96 -­

使われる分布が、正規分布である。正規分布の重要な特徴は以下の4つである。

1.平均と標準偏差(あるいはそれを2乗して求められる分散)を与えるだけで、分布の

形状が完全に決まる。

2.分布は左右対称で、釣り鐘のような形をしている。

3.たがいに独立な変数X1、X2がともに正規分布に従うとき、X1+X2も正規分布に従う(「分

布の安定性」)。

4.たがいに独立なファクターの足し算で決まる変数は正規分布で十分によく近似できる

(中心極限定理)。

 性質1と性質2は正規分布のもっともベーシックな特徴である。リターンをその平均(平

均リターン、あるいは期待リターン)と比べて、両者の差を「サプライズ」と呼ぶことにし

よう。ある日のリターンが平均を上回ればポジティブ・サプライズで、投資家にとってグッ

ドニュースである。逆に、平均を下回ればネガティブ・サプライズで、バッドニュースであ

る。このようにして計算されるサプライズも日々ランダムに変動するので、サプライズの分

布の平均(平均サプライズ)を考えることができる(注22)。これがリターンの標準偏差であり、

ギリシャ文字のσ(シグマ)で表したり、英語でボラティリティと呼んだりする。

 σが大きければ、日々のリターンが期待リターンのまわりで大きく変動するし、σが小さ

ければ日々のリターンの変動は小さい。そして、マーコビッツ以来の現代ポートフォリオ理

論では、このσこそが投資のリスクを測るもっとも重要な指標であると教えられる。マーコ

ビッツは、「ポートフォリオのσリスクは、投資対象を分散することによって小さくなる」

という数学的原理を証明することによって、「全部の卵を同じカゴに入れてはいけない」と

いう格言が投資の世界でも成り立つことを示した。

 性質3が成立すれば、同性質を繰り返し適用することで、ランダムな変数の数を2個から

任意のn個に増やすことができる。月次のリターンは日々のリターンを足して求まる(注23)

ので、日次のリターンが正規分布に従えば、月次のリターンも正規分布に従うことになる。

つまり、リターンの計測期間を長くしたり短くしたりしても、すべてのリターン分布を正規

分布で捉えることができる。この「分布の安定性」という性質は、ファイナンス理論の全体

的な整合性を確保する上で有益な性質である。

 ランダムな変数の分布を表すときに正規分布がもっともよく使われるのは、正規分布が性

質4を持つためである。資産価格、為替レート、金利などの金融変数の変化率や変化幅が多

数の小さなランダム・ファクターの足し算で生成されるとき、個々のファクターがどんなに

いびつな分布に従うとしても、金融変数の変化率や変化幅の分布は正規分布でほぼ正確に近

(注22)もちろん、単純にサプライズの平均をとれば、プラスのサプライズとマイナスのサプライズが打ち消し合って、ゼロになってしまうので、実際にはサプライズの2乗の平均を計算して、その平方根をとる。

(注23)この関係が厳密に成り立つのは、リターンを対数リターン(連続複利リターン)で測る場合である。算術リターンで測る場合には、この関係は近似的に成り立つ。

2次1回証券_05章.indd 96 2012/07/12 9:29:21

Page 3: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 97 -­

第5章 分布のファットテール

似できる。これが性質4のおおよその意味である。

5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

 平均μ、分散σ2の正規分布の形(確率密度関数)を図表5-1に示す。図のx軸上で、正

規分布の平均μを中心に標準偏差σの1倍、2倍、3倍の幅の区間をとって、ランダムな標

本がそれぞれの区間に入る確率を示した。標本がμ±σの区間に入る確率は約2/3

(68.3%)、μ±2σの区間に入る確率は約95%(95.4%)、μ±3σの区間に入る確率は99.7%

である。

 これを平たく言えば、正規分布からランダムに100個の標本をとったとき、全体の約2/3

の標本がμ±σの区間に入る。μ±2σの区間に入る標本の個数は95個であり、μ±3σの区

間にはほぼ全部の標本が入る。したがって、正規分布の場合は、平均μから3σだけ左側の

点が分布の実質的な左端、平均μから3σだけ右側の点が分布の実質的な右端と考えればよ

い。標本がこの両端よりもさらに外側、つまりμ±3σよりも外側にくる確率はわずか0.3%

にすぎない。この確率を「千に三つ」、あるいは「千三つ」と覚えておくとよい。

 投資で大きな損失が起きる確率を、リターンがμ-3σよりも左側にくる確率と考えると、

リターンが正規分布をする場合、その確率は0.3%の半分の0.15%になる。つまり、「1,000年

に1度の危機」という表現は、正規分布を前提にすると、平均をおよそ3σ以上下回る損失

が発生する事象を指すと考えればよい。

 では、実際に平均を3σ以上下回る損失は1,000回に1回程度の割合で発生しているのだろ

うか。株式や債券などの金融資産に3σ以上の損失が起きる確率は、実はもっと大きい。そ

のため、正規分布モデルに基づいて「テールリスク」を評価すると、楽観的な評価をしてし

まうのである。

図表5-1 正規分布

68.3%µ σ− 3 µ σ− 2 µ σ− µ µ σ+ µ σ+ 2 µ σ+ 3

95.4%99.7%

2次1回証券_05章.indd 97 2012/07/12 9:29:22

Page 4: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 98 -­

 遠い過去にさかのぼってデータのとれる米国の株式市場について、この事実を確認してみ

よう。図表5-2は、世界大恐慌が起きる前の1927年12月30日から2010年11月5日までの

S&P­500の日次リターンのデータから、代表的な統計量を計算したものである(注24)。日次リ

ターンの平均は0.03%、標準偏差σは1.19%、尖度は20.53、歪度は-0.10である。

 ここで、尖度と歪度について復習しておこう(注25)。分布の中央部の尖りの程度を測る尺度

が尖度(せんど、英語でkurtosis)で、正規分布の尖度は3であった。図表5-3に正規分

布と、もっと尖度の高い分布を示す。図で分かるように、尖度の高い分布は中央のとんがり

が鋭いと同時に、分布の裾が厚い(ファットテール)。一般に、左右対称な分布から多数の

標本をランダムに発生させると、標本は分布の中央部に集中し、分布の外側にいくほど標本

の発生頻度は少なくなる。正規分布の場合は、μ±3σの外側にくる標本数がほとんどゼロ

に近くなる。これに対して、尖度の高い分布から標本を発生させると、標本が外側にくる頻

度が正規分布よりも多くなる。そして、分布の左方向の外側に投資リターンが発生するのが

金融危機や金融崩壊に外ならない。

(注24)図表5-1と図表5-2はEiichiro­Kuwana,­“Study­of­Fat-tail­Risk,”November­2008から引用した。(注25)確率変数Xの平均をμ、分散をσで表すとき、Xの分布の歪度はE[(X-μ)3]/σ3で、尖度はE[(X

-μ)4]/σ4で定義される。(『証券とPM』1次2回第2章を参照のこと。)

図表5-3 正規分布と尖度の高い分布

尖度の高い分布

正規分布

図表5-2 S&P日次リターンの記述統計量(1927-2010)

標本数 20,811平均 0.028%標準偏差 1.194%尖度 17.525歪度 -0.0964日次リターンの最大値 16.610%日次リターンの最小値 -20.467%

2次1回証券_05章.indd 98 2012/07/12 9:29:23

Page 5: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 99 -­

第5章 分布のファットテール

 分布の左右の非対称性を測る尺度が歪度(わいど、英語でskewness)であった。歪度が

マイナスの分布は、図表5-4の⒜図のように左側の裾が長く、この場合を「分布が左側に

歪んでいる」、あるいは「ネガティブ・スキュー」という。これに対して、歪度がプラスの

分布は⒝図のように右側の裾が長く、「分布が右側に歪んでいる」、あるいは「ポジティブ・

スキュー」という。

 図表5-2に戻ろう。分布の尖度が20.53と、正規分布の3よりもはるかに大きい(注26)ので、

S&P500の日次リターンの分布がファットテールであることが示唆される。また、歪度はや

やマイナスなので、分布は左側に少し歪んでいることが示唆される。以上を平たく言えば、

S&P500インデックスが一日に極端に大きく動く頻度は、正規分布が予測するよりも高く、

またインデックスが極端に大きく下落する日の方が極端に大きく上昇する日よりも多い、と

いうことになる。

 S&P500の日次リターンの全データを数値の大きい順に13のグループに分割して、データ

の発生頻度を数えた結果を図表5-5に示す。表の右側の欄には、正規分布を仮定した場合

のデータの発生頻度を示してある。正規分布を仮定すれば、-3σイベント(日次リターン

で-4.75%~-3.56%)に属する日数は80年余りの全体の日数のうち27日(頻度では0.13%)

にとどまるはずであるが、実際には-3σイベントは101日(頻度では0.49%)も発生している。

また-4σイベント(日次リターンで-5.94%~-4.75%)では、正規分布の場合には1日し

かないはずであるが、実際には44日もある。さらに、-5σイベント以下(日次リターンで

-5.94%以下)では、正規分布だと発生頻度0となるが、実際には40日もある。このように、

(注26)正規分布の尖度3を基準にして、それとの差を尖度と呼ぶこともある。これはフィッシャーの定義によるので、「フィッシャーの尖度」と呼ばれる。図表5-2の場合、フィッシャーの尖度は17.53である。なお、もとの尖度の定義はピアソンによる。フィッシャーとピアソンは現代の統計学の基礎を築いた有名な統計学者である。

図表5-4 左右非対称な分布

⒜ ネガティブ・スキュー(左側に歪んだ分布)

⒝ ポジティブ・スキュー(右側に歪んだ分布)

2次1回証券_05章.indd 99 2012/07/12 9:29:23

Page 6: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 100 -­

正規分布は極端に大きい損失が発生する頻度を大幅に少なく見積もってしまっていることが

分かる。

 図表5-6はこのファットテール現象を、14個の代表的な年を選んでグラフに示したもの

である。1987年10月19日の「ブラックマンデー」には株式市場が20%以上下落したが、それ

以後の10年間は市場に大きな波乱はなく、-4σイベント以上のテールイベントは皆無であ

った。テールイベントが顕著に表れたのは世界大恐慌時代の1930年代と今回の2008年~

2009年であることが、図から明瞭に読み取れる。

 分布の非対称性については、株式インデックスの場合には分布がやや左側に歪んでいる(軽

度のネガティブ・スキュー)程度であった。しかし、個別の株式や社債になると、ネガティ

-4σ日次リターン-5σ日次リターン-6σ日次リターン

図表5-6 テールイベントの頻度

図表5-5 S&P日次リターンのヒストグラム:正規分布との比較

平均からのかい離 日次リターンの範囲

実際の分布 正規分布観測数 パーセント 予測数 パーセント

+6s +7.19%以上 25 0.12% 0 0.00%+5s +6.00%~+7.19% 17 0.08% 0 0.00%+4s +4.80%~+6.00% 30 0.14% 1 0.00%+3s +3.61%~+4.80% 99 0.48% 27 0.13%+2s +2.42%~+3.61% 286 1.37% 445 2.14%+1s +1.22%~+2.42% 1,417 6.81% 2,828 13.59% 0s -1.17%~+1.22% 16,994 81.66% 14,207 68.27%-1s -2.36%~-1.17% 1,416 6.80% 2,828 13.59%-2s -3.56%~-2.36% 342 1.64% 445 2.14%-3s -4.75%~-3.56% 101 0.49% 27 0.13%-4s -5.94%~-4.75% 44 0.21% 1 0.00%-5s -7.14%~-5.94% 18 0.09% 0 0.00%-6s -7.14%以下 22 0.11% 0 0.00%合計 20,811 100% 20,811 100%

2次1回証券_05章.indd 100 2012/07/12 9:29:24

Page 7: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 101 -­

第5章 分布のファットテール

ブ・スキューがもっと顕著になる。これは、普通株式や社債の価格には、格付のダウン・グ

レーディングや倒産の可能性が強く織り込まれるためである。社債のネガティブ・スキュー

のデータは、次節で紹介する。

 平均分散アプローチを用いて将来の確率的事象の予測を行うときには、正規分布を前提に

イベントの確率を計算することになる。以上見たように、このアプローチにはテールイベン

トの確率を過小に見積もってしまうという大きな欠陥があり、ポートフォリオのリスク管理

者を楽観主義に陥らせてしまう。

5.4 ファットテールをうまく捉える確率モデル

 リターンのファットテールを捉えるために、これまで次のような確率モデルが提案されて

きた:

⒜ 混合正規分布

⒝ スチューデントの t分布

⒞ 極値(Extreme­Value)分布

⒟ 安定パレート分布

 ⒜の混合正規分布は、複数個の正規分布を「確率的に混合」(注27)することによって得られ

る分布である。⒝のスチューデントの t分布はすでに勉強したので、ここでは割愛する(注28)。

⒞の極値分布とは、ある分布関数からランダムに発生させた一定数の標本の最大値(あるい

は最小値)の分布を表すもので、河川の氾濫、最大風速、最大降雨量などの自然現象の予測

によく用いられる。しかし、⒜~⒞はいずれも2節で説明した「安定性の条件」を満たさな

い点をはじめ、リターンの分布を表す確率モデルとしては問題が多い(注29)。

 安定性の条件とは、2節で触れたように、日次リターン、週次リターン、年次リターンが

全部同じ分布に従うという条件である(注30)。正規分布が安定性の条件を満たすことは2節で

指摘したが、実は安定性の条件を満たす分布は正規分布の他にも存在する。それだけでなく、

安定性の条件を満たす分布のクラスを数学的に特定することができる。リターンの分布を適

切に表現する分布として安定パレート分布に注目したのは、「フラクタルの父」と呼ばれる

マンデルブロである(1963年)(注31)。

(注27)2個の異なる正規分布A、Bとコインを使って、コインがオモテならばAから標本を抽出し、ウラならばBから標本を抽出する。このようにデータを発生させて作られる分布が混合正規分布である。(注28)『証券分析とPM』1次2回第2章。(注29)また、極値分布は分布のテールの形しか特定できないので、平常時のリターンの分布は不問に付される。

(注30)「分布の安定性」の正確な定義は次の通りである:X1,­X2,…,­Xnが独立同一分布Fにしたがうとき、X1+X2+…+Xnも(分布の位置と縮尺をうまく調整すると)同じ分布Fにしたがうことが示せるとき、分布F

は「安定性」を持つという。(注31)マンデルブロは、綿花の価格変化を調べて、それが安定パレート分布(具体的には、レヴィ分布)に従うと主張した。

2次1回証券_05章.indd 101 2012/07/12 9:29:24

Page 8: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 102 -­

 安定パレート分布は、次の4個のパラメータによって特定される:

1.μ:分布全体を平行移動するロケーション・パラメータ。

2. c:分布の縮尺を変更するスケール・パラメータ。

3.α:分布のテールの厚さととんがり度を表すパラメータで、0<α(指数パラメータ

とも呼ばれる)。

4.β:分布の非対称性を表すパラメータで、-1≤β≤1。

 図表5-7に、μ=0、c=1、β=0としてαと分布の形の関係を示すが、αが2(正規

分布)から0に向かって小さくなるほど、分布のとんがりはきつく、テールは厚くなる。こ

のうちα =1のときは「コーシー分布」と呼ばれる分布になる。

 図表5-8には、μ=0、c=1、α =1.5としてβと分布の形の関係を示すが、βが0から

プラスになると、βの値が大きくなるほど分布はどんどん右側の裾が長くなる(ポジティブ・

スキュー)。βがマイナスの領域では図表5-8と逆で、βの値がマイナスの大きな値にな

るほど分布はどんどん左側の裾が長くなる(ネガティブ・スキュー)。

 面白いケースはα <1でβ=±1のときである。β=±1というのは、分布のスキューネ

スが右側または左側に最大になっているときである。このときの分布の高さはx軸の全域で

プラスとはならず、β=1のときは(μ,∞)、β=-1のときは(-μ,∞)の領域でだけプ

ラスになる。このうちα =0.5、β=1のときは「レヴィ分布」と呼ばれる分布になる。

 正規分布以外の安定パレート分布(α <2)では、¦x ¦の値の大きい領域で確率密度関数が

べき乗関数 ¦x ¦-(α +1)に漸近することが知られている。αが指数パラメータと呼ばれるのは

この理由による。この漸近的な性質から、分布のモーメントE[¦x ¦p]はp ≥αについては発

散することが分かる。したがって、分散、歪度、尖度を含む2次以上のモーメントは計算で

図表5-7 安定パレート分布のα

c0, 1, 0µ= = =β

2次1回証券_05章.indd 102 2012/07/12 9:29:25

Page 9: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 103 -­

第5章 分布のファットテール

きない。また、αの安定パレート分布(コーシー分布を含む)では、1次のモーメントすな

わち分布の平均も発散して計算できない。分散はともかく、期待リターンが計算できないよ

うでは使いものにならないので、安定パレート分布をファイナンスで有意味に用いることが

できるのは、指数パラメータが1<αの範囲と考えるべきである。

 正規分布の理論的基礎は中心極限定理にあることを、2節で述べた。「資産のリターンが

たがいに独立な多数の小さなランダム・ファクターの足し算で生成されるとき(注32)、個々の

ファクターがどんなにいびつな分布に従うとしても、リターンの分布は正規分布でほぼ正確

に近似できる」というのが、中心極限定理の内容であった。実は、この重要な定理も正規分

布の専有物ではないことが知られている。つまり、中心極限定理で足し算の極限分布が正規

分布になるのは、個々のファクターの分布が有限の分散を持つ場合で、個々のファクターの

分布の分散が無限大の場合には極限分布は1<α <2の安定パレート分布になる。中心極限

定理の極限分布が正規分布を含む安定パレート分布であるというこの理論的事実が、安定パ

レート分布の一般性を最も強く支持しているといえる。

 では、実際のリターン・データに安定パレート分布を当てはめて、分布のパラメータを推

定した結果を紹介しよう。まず、S&P500インデックスに含まれる米国株式382銘柄のそれぞ

れの日次リターンを集めて、テール・パラメータαと非対称性パラメータβを推定した結果

が、図表5-9と図表5-10である。分析期間は1992年1月1日~ 2003年12月12日であ

る(注33)。

 個別株式の指数パラメータαはすべて正規分布の2よりも小さいので、推定対象になった

図表5-8 安定パレート分布のβ

1.5, 1, 0cα µ= = =

(注32)ランダム・ファクターの間に緩い相関があっても、中心極限定理は成立することが知られている。

2次1回証券_05章.indd 103 2012/07/12 9:29:25

Page 10: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 104 -­

全銘柄で日次リターンの分布はファットテールであることが分かる。また、大多数の銘柄に

ついてαは1.6 ~ 1.8の間であるが、αが1.3以下の銘柄もごく少数存在する。

 非対称性パラメータβはプラスとなる銘柄が多数を占めているので、個別銘柄の日次リタ

ーンは右側に歪んでいる(ポジティブ・スキュー)ものが多い。図表5-2で、インデック

スの日次リターンの分布がやや左側に歪んでいることを指摘したが、個別銘柄では逆の結果

になっている。ただし、これは図表5-10でカバーされた期間に米国株式市場が比較的安定

していたことと関係が深いと思われる。

図表5-10 382銘柄のβの分布(日次リターンベ-ス)

(注33)S.­T.­Rachev,­S.­Stoyanov,­A.­Biglova,­and­F.­J.­Fabozzi.­“An­Empirical­Examination­of­Daily­Stock­Return­Distributions­for­U.­S.­Stocks,”in­Data­Analysis­and­Decision­Support,­Springer­Series­in­Studies­in­Classification,­2005:pp.­269-281.

図表5-9 382銘柄のα の分布(日次リターンベース)

2次1回証券_05章.indd 104 2012/07/12 9:29:26

Page 11: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 105 -­

第5章 分布のファットテール

 米国債券のセクター別インデックスの日次リターンに安定パレート分布を当てはめて、4

個のパラメータを推定した結果が図表5-11である。分析期間は1990年3月13日~ 1999年

7月29日で、残存期間は1年~ 10年のセクターに限定されている(注34)。これによれば、α

は1.653 ~ 1.808の範囲にあるので、すべての債券インデックスはファットテール分布をして

いることがわかる。また、βは全部マイナスなので、分布は左側に歪んでいる。

 図表5-11のデータで、上から4個は国債の満期セクターごとのインデックスで、次が

AAA格の社債、さらにAA格、A格、BBB格、BB格の社債と続く。同じ格付内の4個を比

較すると、残存期間の短いインデックスほどαが小さくなっていることがわかる。これは、

信用格付が同じでも満期が近いものほどファットテールで、極端な損失が発生しやすいとい

う興味深い事実を示している。また、平均で見ると国債のαが一番大きく、債券は低格付に

なるほどαが小さくなっている(注35)。

図表5-11 債券インデックスのパラメータ推定値(安定パレート分布)  

インデックス 発行体/格付 残存年数 α β μ cG102 US­gov-t 1-3 1.696 -0.160 0.029 0.055G202 US­gov-t 3-5 1.739 -0.134 0.036 0.122G302 US­gov-t 5-7 1.781 -0.134 0.032 0.169G402 US­gov-t 7-10 1.808 -0.172 0.033 0.218

C1A1 AAA 1-3 1.654 -0.080 0.053 0.027C2A1 AAA 3-5 1.695 -0.112 0.029 0.099C3A1 AAA 5-7 1.710 -0.116 0.031 0.145C4A1 AAA 7-10 1.739 -0.155 0.031 0.190

C1A2 AA 1-3 1.686 -0.105 0.027 0.056C2A2 AA 3-5 1.722 -0.111 0.029 0.104C3A2 AA 5-7 1.757 -0.121 0.032 0.150C4A2 AA 7-10 1.778 -0.148 0.033 0.198

C1A3 A 1-3 1.688 -0.135 0.027 0.056C2A3 A 3-5 1.702 -0.122 0.029 0.104C3A3 A 5-7 1.743 -0.133 0.033 0.151C4A3 A 7-10 1.753 -0.167 0.033 0.199

C1A4 BBB 1-3 1.653 -0.113 0.029 0.054C2A4 BBB 3-5 1.662 -0.042 0.033 0.096C3A4 BBB 5-7 1.690 -0.125 0.035 0.140C4A4 BBB 7-10 1.694 -0.136 0.035 0.180

H0A1 BB 1-3 1.686 -0.252 0.042 0.104

(注34)S.­T.­Rachev,­E.­Schwartz,­and­I.­Khindanova,­2003.­“Stable­Modeling­of­Credit­Risk,”in­Handbook­of­Heavy­Tailed­Distributions­in­Finance,­North­Holland­Handbooks­of­Finance,­2003.

(注35)αの平均を計算して並べると、AAA格の社債だけがこの順番から外れる。

2次1回証券_05章.indd 105 2012/07/12 9:29:26

Page 12: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 106 -­

5.5 群衆行動と切断べき乗分布

 株式などのリターンを安定パレート分布で捉えるアプローチは数学的に扱いやすいので、

実際にこの分布を積極的に使った金融サービスも存在する(注36)。しかしながら、この分布に

は2つ問題点がある。第1は、安定パレート分布が2次(以上)のモーメントを持たないと

いう点である。もし2次のモーメントを持たないならば、一定の時間間隔でとったリターン

の標本分散は、標本数を増加させると+∞(正の無限大)に向かって発散していくはずであ

るが、実際には標本分散は一定の値に収束する。第2は、「分布の安定性」という性質が、

必ずしも現実のデータに当てはまらない点である。短期間のリターンの分布はファットテー

ルであるが、四半期や1年のような長い期間のリターンをとると分布は正規分布に近づくこ

とが、多くの研究で検証されている(注37)。「分布の安定性」という、マンデルブロが注目し

た安定パレート分布の理論的特性そのものが、厳密に見ると実際のデータに合わない側面を

内包しているのである。

 1987年10月19日の「ブラックマンデー」では、前の週から週末にかけて大きなニュースが

ない中で、ニューヨークのダウ30種平均が1日で22.6%も下落し、株価が経済のファンダメ

ンタルズでは到底説明しきれないほど大きく動きうることを示した。このようなテールイベ

ントが群衆行動によって発生すると考えると、株価変化のテールの数学的形状をうまく説明

することができる。この議論の概略を、中心極限定理と対比する形で紹介しよう(注38)。

 N人の投資家が参加する株式市場を考える。ごく短い単位時間の間に、個々の投資家は株

式の買い(Xi=+1)または売り(Xi=-1)の注文を入れるか、中立(Xi=0)を保つかで

ある。注文の合計はDi≡∑Ni =1Xiで表されるが、この注文の大きさが比例的に株価を動かす

という、ごく単純化されたマーケットインパクト・モデルを考える(注39):

 

 ここで、投資家の注文がたがいに独立で同一の分布に従うと仮定すると、中心極限定理が

作用するので、Nが十分に大きいとΔPは正規分布で近似できる。また、Xiの分散が+∞のと

きは、ΔPは安定パレート分布で近似できる。

 現実の市場では、投資家はたがいに影響し合って「群れ」で行動することが多い。また、

同一の投資信託を買った投資家は、投信会社を通じて全員一斉に同じ注文を出していること

ΔP= 1N

Xi∑λi=1

(注36)FinAnalytica社の「Cognity」がその例である(http://www.­finanalytica.­com/company/)。(注37)例えば、P.­Gopikrishnana­et.­al.,­“Scaling­and­Correlation­in­Financial­Time­Series,”Physica­A,­287(2),­2000:pp.­ 362---373,­Rosario­N.­Mantegna­and­H.­Eugene­Stanley.­An­ Introduction­ to­Econophysics,­Cambridge­University­Press,­2000などを参照。

(注38)以下の議論はRama­Cont­and­Jean-Philipe­Bouchaud,­“Herd­behavior­and­aggregate­fluctuations­in­financial­markets,”Macroeconomic­Dynamics,­4:2000,­pp.­170-196による。

(注39)λは「マーケットの深さ」(market­depth)と呼ばれる係数に相当する。

2次1回証券_05章.indd 106 2012/07/12 9:29:26

Page 13: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 107 -­

第5章 分布のファットテール

になる。この「群れ」の行動を投資家のランダムなグループ化で表現する。つまり、N人の

投資家が複数の投資家グループに分かれて、同じグループに属する投資家は同じ投資行動を

取ると仮定するのである。いま、K個のグループができて、k番目のグループに属する人数

がWk、注文がXkになるとすると、上の式は

と書き換えられる。ここで、K、Wk、Xkはすべてランダムな変数である。

 このとき、Wk(グループの大きさ)の分布とΔPの分布について、以下が成り立つ。

(性質1)WkとΔPの分布のテールは、それぞれ、「指数切断べき乗分布」(注40)で近似できる。

(性質2)ΔPの分布の尖度は、単位時間当たりのオーダーフローの大きさに逆比例する。

(性質3)ΔPを測定する時間間隔を長くすると、ΔPの分布は正規分布に近づく。

 安定パレート分布は、確率密度関数のテールがべき乗 ¦x ¦-(α +1)で減衰する分布であった。

べき乗減衰ではテールの減衰スピードが遅すぎるために、安定パレート分布では2次以上の

モーメントが発散した。指数切断べき乗分布というのは、安定パレート分布のテールの減衰

スピードを指数的に加速した分布で、テールが関数e-c[x] ¦x ¦-(α +1)(ただしc>0)で近似さ

れる。

 流動性の少ない銘柄ほど、また市場が流動性を失っているときほど、株価や資産価格が大

きく動くという経験的事実を、このモデルはきれいに説明してみせる(性質2)。また、日

次や週次のリターンではファットテールが強く観察されるが、月次や年次のリターンになる

と分布のテールは正規分布で十分に近似できるという事実も、このモデルで整合的に説明可

能である(性質3)。

 この節の内容は数学的にかなり難解であるが、群集心理や群れの行動がマーケットクラッ

シュの発生に深く関与していることが伝われば十分である。投資家がたがいに影響し合うこ

となく独立に行動すると考えたのでは説明がつかない現実の資産リターン分布の形状が、群

れの行動を取り込んだモデルで導出できる。その理論的展開を垣間見ることができたであろ

うか。

5.6 金融実務におけるファットテールへの対処の実際

 最後に、分布のファットテールへの対処が、⑴バンキング(金融仲介)、⑵資産運用、⑶

デリバティブ・プライシングの実務各分野で、どのようになされているかについて触れてお

こう。

 ファイナンスでもっとも広く使われているリスクの尺度は、分散である。しかし、第3節、

第4節で確認したように、資産のリターンが正規分布より裾の厚いファットテール分布に従

ΔP= 1K

Wk Xk∑λk=1

(注40)英語ではexponentially-truncated­power­distributionと呼ぶ。

2次1回証券_05章.indd 107 2012/07/12 9:29:26

Page 14: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 108 -­

うとき、リスクを分散(2次のモーメント)で測ると、テールリスクを甘く評価してしまう。

それならば3次のモーメント(歪度)、4次のモーメント(尖度)をリスクの尺度に取り入

れるという方向が考えられるが、このアプローチは実用には不向きである(注41)。

 テールリスクの尺度として実務で定着しているのは、「バリューアットリスク」(VaRと略

される)である。バリューアットリスクは、簡単にいうと、ある一定期間に発生する「最大

損失額」を確率的に表現する尺度である。「当該ポートフォリオの1日当たりのバリューア

ットリスクは、信頼係数95%で100億円」といった言い方をするが、「ポートフォリオに1日

で100億円以上の損失が発生する確率は5%」という意味である(図表5-12参照)。

5.6.1 バンキングにおけるVaR VaRは1990年代初頭から、銀行の保有するポートフォリオのリスク量を測る尺度として欧

米で使用され始め、バーゼル委員会(注42)が1996年にVaRの採用を推奨したことをきっかけに、

急速に普及した。

 ここで、バーゼル委員会がどのような形でVaRの採用を推奨したかを、簡単に振り返って

おく。バーゼル委員会は1988年に、国際的に活動する銀行の資本力を強化するため、最低自

己資本比率を決定した。これがいわゆる「バーゼルI」といわれる合意である。バーゼルIは、

銀行が保有する資産における「信用リスク」(注43)の総量に対して8%の自己資本の保有を義

務付けるものであったが、1996年に「マーケットリスク」(注44)に対する自己資本のクッショ

ンを導入する修正案を出した。この修正案に、VaRのリスク量としての採用が明示的に盛り

込まれた(注45)。

図表5-12 VaRの意味

一定期間における資産価格変動の分布

確率(100-X)%でVaR=Yを超える損失の可能性あり

-Y 0

「信頼係数X%のVaR=Y」のとき、最大損失はY

(注41)理由は、高次モーメントの推定値が不安定であること、正規分布の代わりに安定パレート分布を前提にしようと思うと3次以上のモーメントが存在しないこと、など。

(注42)銀行監督に関する概括的な規準、指針あるいは推奨事項を各国の規制監督当局に提案する委員会で、バーゼル銀行監督委員会が正式名称である。

(注43)「信用リスク」とは、社債や貸付債権の元本や利息などを回収できなくなる可能性のこと。(注44)「マーケットリスク」とは、市場価格(金利・株価・為替など)の下落によって、保有資産に損失が生じる可能性のこと。

2次1回証券_05章.indd 108 2012/07/12 9:29:27

Page 15: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 109 -­

第5章 分布のファットテール

 その内容は次の4点からなる:

1.「マーケットリスク」の計測に、独自の社内モデルの採用を認める。

2.社内モデル方式を採用する銀行は、信頼係数99%、保有期間10日でのVaRを毎日計測

しなければならない。

3.VaRの計算は、最低でも過去1年のデータに基かなければならない。

4.自己資本は、過去60日間の日次VaRの平均値の3倍以上なければならない。

 この修正案は市場リスク量の計測にVaRを推奨したものであったが、バーゼル委員会は

2004年の「バーゼルII」において、信用リスク量の計測にも社内モデル方式でのVaRの採用

を認めた。

 このように、金融機関のリスク管理におけるVaRの導入は、国際的な銀行の自己資本規制

に関わるバーゼル委員会が後押しする形で進んだが、最近では金融機関だけでなく大手事業

法人の財務部門や損害保険会社においても導入が進んでいる。

5.6.2 資産運用におけるVaR 資産運用分野でも、VaRの導入が検討されている。ポートフォリオ運用における伝統的な

アプローチは、目標期待リターンを設定して、それを最小の分散で達成できるポートフォリ

オを求めるものであった。同じように目標期待リターンを設定して、それを最小のVaRで達

成するポートフォリオを求めるというアプローチが、平均・分散アプローチに代わる有力な

対案として提案されている。

 また、「条件付きバリューアットリスク」(CVaR)という尺度も普及しつつある。これは「期

待ショートフォール」とも呼ばれる。損失がVaRを超える場合に損失がどのくらいの大きさ

になるのかについて、VaRは何も情報を伝えない。この欠点を補って、損失がVaRを超える

場合について損失の条件付き期待値(期待ショートフォール)を計算するのが、CVaRである。

ポートフォリオの最適化を行う場合には、VaRを最小化するよりもCVaRを最小化する方が

数学的に容易であることが知られている(注46)。VaRとCVaRの関係を図表5-13に示す。

5.6.3 デリバティブ・プライシングにおけるファットテール オプションをはじめとするデリバティブのプライシング・モデルは、

a.市場で取引されているオプション、先物商品の割安、割高を判断する、

b.いわゆるエキゾティックスといわれる複雑なデリバティブ商品の理論価格を、流動性の

高い先物、オプションの市場価格をもとに計算する、

c.個別の金融商品やポートフォリオのリスクを数量的に把握し、またデリバティブを使っ

てリスクをヘッジするときのヘッジ比率を計算する、

(注45)“Amendment­to­ the­capital­accord­to­ incorporate­market­risks,”Basel­Committee­on­Banking­Supervision,­January­1996(and­updated­November­2005).

(注46)D.­Martin,­ S.­T.­Rachev,­ and­F.­ Siboulet,­“Phi-Alpha­Optimal­Portfolios­ and­Extreme­Risk­Management,”Wilmott­Magazine­of­Finance,­November­2003:pp.­70-83などを参照のこと。

2次1回証券_05章.indd 109 2012/07/12 9:29:27

Page 16: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 110 -­

といった用途に使われる。

 ブラック・ショールズのオプション・プライシング・モデルは、原資産のリターンが正規

分布に従うという仮定に基づいたモデルである。実際のリターンの分布がファットテール分

布の場合には、4σや5σイベントの発生確率が正規分布よりずっと高いので、ディープ・イ

ンザマネーやファー・アウトオブザマネーのオプションはブラック・ショールズ公式で計算

される理論値よりもずっと高くなるはずである。

 実際、オプション価格にはインプライドボラティリティのスマイルカーブやスキューカー

ブなどが観測されるが、これらはリターンの分布にファットテールやスキューがあるという

仮説で説明できる。このファットテールを意識せずにブラック・ショールズ公式に基づいて

割安、割高を判断すると、思わぬ損失を被ることになる。これは特に複雑なデリバティブ商

品のプライシングを行うときに大きな注意を要する。

 ブラック・ショールズ・モデルを用いた場合のミスプライシングは、原資産のマーケット

リスクに関わる問題であるが、信用リスクの評価で欧米の主要金融機関が大きな誤りを犯し

たことが、2008年~ 2009年の金融危機の原因になった。サブプライム・モーゲージをパッ

ケージにした証券化商品の大規模な価格崩壊がこの金融危機の引き金になったが、多数の借

り手が同時にデフォルトする確率を求めるために「正規分布型コピュラモデル」と呼ばれる

モデルが広く用いられた(注47)。このタイプのモデルは、「正規分布型」と呼ばれることでわ

かるように、ポートフォリオのテールリスクの評価に極めて甘いモデルであることは、多く

の研究者が指摘するところであった(注48)。こうしたモデルから計算されるVaRを金科玉条に

して、サブプライム・ローンを積み上げていった結果、世界的な規模で不動産バブルが発生

し、今般のクラッシュに繋がった。

 今日では、分布のテールリスク・モデリングの研究の飛躍的な発達を反映して、デリバテ

(注47)英語でGaussian­Copula­Modelと 呼ばれる。CreditMetrics(RiskMetrics­Group,­JP­Morgan)、Moody’s-KMV­Model、CreditRisk+(Credit­Suisse­Financial­Products)、CreditPortfolioView(McKinsey)などが、この時期に最も広く使われたバーゼル委員会推奨の信用リスク評価モデルである。

図表5-13 VaRとCVaR

VaR

CVaR

一定期間における資産価格変動の分布

-Y 0

2次1回証券_05章.indd 110 2012/07/12 9:29:27

Page 17: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 111 -­

第5章 分布のファットテール

ィブや証券化商品ポートフォリオのプライシング・モデルの研究は大いに進んでいる(注49)。

5.6.4 誰がファットテールにヘッジするべきか 多くの証券会社や投資銀行が、今般の金融危機を契機にして、株式のテールリスクに対す

る保険商品を機関投資家に販売することに力を入れている。しかし、この種の保険商品は、

機関投資家にとっては値段が高すぎる可能性がある。その理論的根拠は以下の通りである。

 どんな商品にも自然の買い手と自然の売り手が存在する。株式の場合には、事業資金を必

要とする事業会社が売り手で、株式のリスクプレミアムを獲得したい投資家が買い手となる。

証券会社や投資銀行は、株式の売買を成立させるマーケットメーキング業務で短期的な利益

を獲得する存在である。

 証券会社や投資銀行は、資本市場で取引の機会を開拓し、取引を成立させることで利益を

得る。マーケットメーキングにはレバレッジの高いポジションが必要とされるので、自社の

ポジションに含まれるリスクに最大限のヘッジをかけて、短期的な利ざやを手中に収めるの

が仕事である。預金者から資金を集めて事業会社に貸し付ける商業銀行も、証券会社や投資

銀行と同じ利ざや業者で、高いレバレッジゆえに高度のリスクマネジメント能力が経営の根

幹になければならない。

 商業銀行や投資銀行が、住宅ローンの融資リスクをパッケージにして機関投資家に移転す

るというのが、今般のサブプライム・クライシスに至る過程での基本的な構図であった。上

記の経済的機能の分化という観点からみると、この基本的な方向に大きな誤りがあったわけ

ではない。銀行がこの方向で過度にアクセルを踏みすぎたことと、それによって積み上がっ

たサブプライム商品に自らリターンを求めて投資したこと、この2点が銀行破綻の直接の原

因になった。

 機関投資家と銀行の間のリスクの売買では、機関投資家がリスクの買い手、銀行がリスク

の売り手というのが基本である。年金、保険、寄付基金、国家ファンドなどに代表される機

関投資家は、長期の投資ホライゾンと低い短期レバレッジ、高い流動性をもつ。リスクの売

買市場では、こうした取引主体こそがリスクの買い手(保険の売り手)としての資格を備え

ているわけで、短期レバレッジが高いがゆえにリスク吸収能力が小さく、危機に最も弱い銀

行こそがリスクの売り手(保険の買い手)になるのが自然である。

 冒頭で、テールリスクの保険商品は値段が高すぎる可能性があるといったが、その理由は

株式にリスクプレミアムが付くのと同じ理屈で説明できる。株式が高いリターンをもたらす

(注48)Crouhy,­M.,­D.­Galai,­and­R.­Mark,­“A­comparative­analysis­of­current­credit­risk­models,”Journal­of­Banking­and­Finance,­24,­2000:pp.­59---117、Frey,­R.­and­A.­McNeil,“VaR­and­Expected­Shortfall­in­Portfolios­of­Dependent­Credit­Risks:Conceptual­and­Practical­Insights,”Journal­of­Banking­and­Finance,­2002:pp.­1317---1344などを参照。筆者もそうした指摘をしていた一人である:“Risk­MisQuantified,”in­CARF/Quantal/Thomson-Reuters­Joint­Seminar,­University­of­Tokyo,­October­28,­2008.

(注49)Riccardo­Rebonato,­Volatility­ and­Correlation,­ John­Wiley­&­Sons,­ 2004,­ Jim­Gatheral,­The­Volatility­Surface:A­Practitioner’s­Guide,­John­Wiley­&­Sons,­2006などを参照。

2次1回証券_05章.indd 111 2012/07/12 9:29:27

Page 18: 第5章 分布のファットテール-97- 第5章 分布のファットテール 似できる。これが性質4のおおよその意味である。5.3 株式インデックス・リターンの経験的分布

- 112 -­

のは経済が好調なときで、人々が所得の補填源を求める不況期には株式にも損失が発生する。

悪いときに損失が発生するような商品であるからこそ、市場はエクイティ・リスクを買う人

に高いリスクプレミアムを約束しなければならない。機関投資家はこのリスクプレミアムの

獲得を目指して株式に投資するわけである。テールリスク保険の売り手になると、クラッシ

ュという最悪時に損失を被る。テールリスク保険の売りは、この点で株式に投資するのと同

じであるが、株式と違って、テールリスク保険はそれ以外のときに何のリターンも生まない。

したがって、そうした保険は値段を非常に高く設定しなければ、売り手にペイしないことに

なる。

 こうした高いプレミアムを払ってでも保険を買ってテールリスクをヘッジする必要がある

のは、短期レバレッジが低く投資期間の長い機関投資家ではなく、短期レバレッジの高い銀

行やヘッジファンドである。したがって、長期の投資ホライゾンと低い短期レバレッジ、高

い流動性をもつ投資家がテールリスクの保険商品の購入を検討するときには、保険のプレミ

アムが十分に低く提示されているかどうか、慎重な判断が求められる。2009年1年間で

18.7%の損失を出した米国の主要大学基金が、シフトレバーをリスクの最小化に切り換える

ことはしないで、2年連続で11.9%(2010年)、19.2%(2011年)と高いリターンを獲得して

いることにも、わが国の投資家は目を向ける必要がある(注50)。

(注50)National­Association­of­College­and­University­Business­Officersのホームページ参照のこと。 (http://www.­nacubo.­org/Documents/research/2011_NCSE_Press_Release_Final_Embargo_1_31_12.pdf)

2次1回証券_05章.indd 112 2012/07/12 9:29:27