現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で...

16
608 東京国立近代美術館 ニュース 2014 10–11 月号 菱田春草展

Upload: others

Post on 20-Jul-2020

3 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

608 東 京 国 立 近 代 美 術 館ニ ュース 2 0 1 4 年 1 0 – 1 1 月号

菱 田 春 草 展

Page 2: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 2

 

日露戦争が始まった一九〇四年二月、岡倉天心と日本美術院の横山大観、菱田春草、

六角紫水は米国に向かった。ここから始まった欧米遊学の一年半は、春草、二十九歳

から三十歳にかけての時期である。天心と紫水はボストン美術館で東洋美術品の整理

の仕事があったが、大観と春草は片道切符と僅かな滞在費で外国を目指す冒険的渡航

だった。春草の所持金百ドル﹇註1﹈は二カ月で尽きる程度だが、現地の新聞に彼らは

「この国の主要な美術のギャラリーや美術館で一年ほど勉強するつもり」﹇註2﹈と答え

た。結果的にその言葉どおりの一年となり、欧州への渡航資金もたまり、高給取りのは

ずの天心が大観から大金を借りるという一幕すらあった﹇註3﹈。彼らの目的は最初から

はっきりしていた。見聞を広めること、日本画の改良につとめることである。

 

三月二日、ニューヨークに到着した一行は、天心と親しい世界的オペラ歌手のエマ・

サースビーとその妹アイナに迎えられ①、以後、彼らの滞在は親日の米国人たちによっ

て陰に陽に支えられていく。春草と大観はボストンに行くまでの六カ月間、主にサース

ビー姉妹の家から三三〇メートル程度離れた東十九通り(E

19

)の日本人経営の宿に滞

在する②。右に姉妹の住む高級住宅街、左に五番街(5

th Aven

ue

)という好立地ゆえ底

値の宿ではなかろうが、サースビー家の客になっている天心とのやり取りや、姉妹たち

にちょくちょく世話を焼いてもらうには誠に都合がよかった。実際、「彼ら芸術家の絵

の多くはその当時アイナ・サースビーによって手配された即売展覧会でニューヨークの

家々に引き取られていった」﹇註4﹈という。

 

天心は明治三十二年の日本美術院福岡展での演説で、日本画の「気韻」(画面に漂う精

神的生命)に西洋画の「解剖、遠近、光線等の理」を消化して「明治新美術の発達」を図

ることを奨励しており﹇註5﹈、春草と大観は線を使わず色で描く没骨描法を試してい

た。しかしその絵は日本では不評だった。彼らの技術的な課題を当時の作品評から推

察するに、おおよそ次の二点に大別された。

一、濃淡表現の未熟さから来る遠近の狂いの是正。﹇図1参照﹈

二、色の濁りをとり明快な色彩にすること。

 (一、)はすなわち〝バルールの狂い〞の問題である。バルールとは、画面に単数または複

数の色をおいたとき、その明暗や濃度によって一方が前方へ他方が後方へと位置関係

が変わる対比のことをいい、西洋画法で初心者がまず習得しなければならない遠近や

色彩の感覚である。(二、)については遠近と色彩が両輪の関係であるから、ひとつ目の

弱点を克服すればこちらもかなり解消される。

 

天心からは次のような具体的な示唆もあった。

一、墨を色のように用いること。従来の墨画は輪郭の妙で表すもの、明暗遠近なく

単に濃淡で表すものがあるが、墨を色の代用として用いるのは少ない。よってこの

菱田春草展

菱田春草が冒険的渡航でつかんだもの

佐々木美帆

会期:二〇一四年九月二十三日│十一月三日 

会場:美術館企画展ギャラリー﹇一階﹈

春草と大観のニューヨークの日 (々1904─ 05年)。1904年の日露戦争を契機に様々な方面で日本が注目を浴びるようになる。1904年3月20日付のニューヨーク・タイムズ紙によると東洋の商品に対する興味が高まり、昨年5番街(5th Avenue)で2軒しかなかった日本商店が、20軒を超えたという。春草らの活動も米国での親日ムードに助けられた部分もあっただろう。

Page 3: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

3 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014]

方向に注意するべきである。﹇註6﹈

二、線無き水の表現。東洋の水の表現は線に始まり一種の形式となっている。(装

飾的な)光琳風、狩野派の固まった波、浮世絵の素麺或いは岩石のような波、いず

れも濃淡や色の研究が不足している。﹇註7﹈

三、着彩画を展開させること。今まで色彩は墨の補助的役割に留まり、着彩画の独

立は宗達光琳ら天才たちを待たねばならなかった。その宗達光琳が花卉翎毛(花草鳥

獣)で示した妙技を今度は山水人物に及ぼし、一層精細な濃淡法を加える。﹇註8﹈

 

無線画法による水は以前から春草、大観共に研究していたことだが、しばしば色調に

難がついた。渡米直前の春草の《風》﹇図2﹈での海の表現は写真で見る限りバルールも

安定し、ふたりの水の研究がかなり進んでいたことを思わせる。しかし、まだ飽き足ら

ないところがあったのだろう。

 

春草と大観が最初に取り組んだのは、墨を色のように用い、その濃淡で全体のバルー

ルを合わせることだった﹇図3﹈。そのため渡米中の作品は総じて黒っぽく、いかに明る

い絵に見えても基底色が墨色であることが特徴だ。この方法は、単色が色調合わせに

容易であるという他に、墨の濃淡で程良く描き込んだ上ならば、ごく少量の絵具や銀

泥だけで絵が仕上がるという経済的な利点もあった。限られた色調の調和を重んじる

表現は、米国人画家ホイッスラーと共通するとして、「東洋のホイスラーだといって、盛

んに書き立て」﹇註9﹈られ、親近感を持ってもらえたという点では効果的であった。

 

彼らは一九〇四年四月九日から五月一日にかけて、天心の知人ジョン・ラファージの

骨折りで一流のクラブ、センチュリー・アソシエーションで展覧会を開いた③。この初日

は現在のところ九日と十二日の両日が伝えられているが、いずれも間違いではなく、九

日はクラブメンバーとそのゲストに対して、十二日は一般に対しての公開日であった。

展示した海景画と風景画については「驚くべき微妙な諧調によって達成された空気遠

近法において、これらの日本人画家たちは達人である」と称賛を得るが、人物画は「全

体的な調和の中に溶け込ますことに失敗し、目障りで不透明な白を使用している」と、

不足の点を指摘された。﹇註10﹈

 

一九〇四年九月、ふたりはサースビー姉妹から宗教や哲学の村であるグリーンエイ

カーへの招待を受けたが、春草が階段から転落して動けなかったため断念、ボストンで

再会を約束した。そして九月下旬、天心や紫水と落ち合い、セントルイス万博で各国最

先端の名画を鑑賞した。彼らはそれまでに、アメリカのエリートが当時好んで収集した

バルビゾン派や、センチュリー・アソシエーションのハドソン・リバー派の風景画コレク

図1 菱田春草《夕陽》1901年福井県立美術館蔵前景の岸辺と中景の湖の色が整合していないのが分かる。

図2 菱田春草《風》1903年『日本美術』73号1905年2月より転載。

図3 菱田春草《放鶴》1904年 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵センチュリー・アソシエーション出品作の可能性がある。前景、中景、後景のバルールが安定している。

Page 4: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 4

ションには接していただろう。今回はそれに加えて米国セクションで故ホイッスラーの

特集展示や、仏国セクションでアカデミーの作家や、物故作家であるシャヴァンヌやピサ

ロの作品、そしてモネなどの「穏健な印象派」による光に溢れた作品との出会いがあっ

たはずだ。﹇註11﹈

 

万博見学の後、天心一行はボストン郊外ケンブリッジのオリ・ブル夫人(エマ・サース

ビーの友人)所有のスタジオ・ハウスに身を寄せ、二番目の展覧会はそこで十一月十七日

から二十七日にかけて開催された。呼び物はブル夫人をはじめとするご夫人方による

ティーサービスである。これは天心が特別に頼んで実現したことだが、ティーサービス

自体は米国の上流夫人のよくある慈善事業のひとつでもあった。作品は「優れた空間的

効果がみられ、薄暗さが共通して見られるが、色調は控えめでありながら粋で豊か」で

あった﹇註12﹈。大観は前回評判の良かった《海

│月あかり》の連作を描き、地元紙に

「ホイッスラーのノクターン(夜想曲)シリーズ」と題して紹介された﹇註13﹈。月や夜の絵

は、墨を基底色とする彼らには打ってつけの画題で人気もあり、大観の出品作の二、三

割は毎回月や夜の絵が占めることとなった。春草は様々な分野をまんべんなく描く一

方、《曙》や《黄昏》などの微妙な光の情景を繰り返し描いた。早い段階から光を意識し

た作品で「明快な色彩」を模索していたのだろう。

 

三番目の展覧会はニューヨークのナショナル・アーツ・クラブで一九〇五年一月四日か

ら二十一日の間、午後二時から六時(初日のみ三時から)に行われた﹇④、註14﹈。彼らの展

覧会はクラブが一九〇六年に移転する前に行われたのでサースビー家近くにある今の建

物ではない。この展覧会で話題をさらったのは初日午後八時半からの天心の講演「日本

美術」だ。内容は今までの天心の主張を要領よくまとめ、日本美術史の展観は一九〇三

年発行の『東洋の理想』からとり、「我々日本人はあなたがた西洋人が芸術を大切にして

いるのか疑問です」といった挑発的なくだりは、セントルイス万博での天心の講演「絵画

における近代の問題」で反響の大きかった部分を再構成したのだろう。講演は「見事な

もので、聴衆は心から感謝」し、春草と大観は、伝統主義を実践する芸術家たちと重み

をつけて紹介され、「印象派的(im

pression

istic

)というべき」作品と評された。﹇註15﹈

 

この頃、彫金家の岡崎雪聲と「三十三丁目」の店でも展覧会を開催したというが詳

細は不明である。二月二十一日付アイナ・サースビー宛大観書簡に書かれた住所“N

o.9

33

rd St ”

がその会場と推察されるが、住所の後にブルックリンが続くか、マンハッタンが

続くか⑤で場所が変わる。ブルックリンならば一九〇五年一月一日付のロサンゼルス・

タイムズ紙に掲載された、春草と大観が「ブルックリンで日本の重要なコレクションを展

示」したものと同一かもしれない。

 

三月頃、これらの展覧会を終えてサースビー家から七八〇メートルほど離れた近隣の

宿⑥に舞い戻ったふたりは、同家に夕食に招かれたり、春草の“W

anin

g Ligh

t ”

などの

絵を買ってもらったり、日本画を教授したりと、再び穏やかな交流を続けた。そして米

国最後の展覧会となるワシントンのフィッシャー画廊がサースビー姉妹から紹介され、

天心帰国後の三月二十七日から四月初旬に開催した。

 

この展覧会での売り上げが上々のため、ふたりは英国行きを決断し、一九〇五年四

月十五日カロニア号(C

aron

ia

)の二等客室にてニューヨークを発ち、同月二十三日に英

国リバプールに、二十九日にロンドンに到着した﹇註16﹈。サースビー姉妹がフィッシャー

画廊の紹介状をロンドンのヘンリー・グレーブス画廊の支配人に転送してくれたおかげ

で、英国での展覧会場も決まり、画廊の空きを待つ間、彼らは欧州周遊の旅に出る。

 

仏国には六月二十一日頃到着し﹇註17﹈、どういう伝手があったのかパリのエコール・

デ・ボザールで展覧会を開催した。北垣旭宛大観書簡(七月四日付)によれば、パリで遊

び「一時ロンドンに逃げ今又以太利の」とあるので、一旦ロンドンに戻ってからイタリア

に廻ったようだ。そのまま七月六日発のドイツ汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号

でナポリ港を出航﹇註18﹈、一カ月の船旅の末、八月十日に日本に到着した。大観の言葉

に「(ロンドン展の)展覧会を中場まで見ていて巴里へ立ったのです」(『涼風夜話』)という

のもあるが、三十年以上経ってからの証言なので記憶違いと思われる。

 

さて、第一回ロンドン展(七月十日│八月五日または六日)とパリのオータム・サロン展

(十一月二十五日│)は、ふたりが欧州を離れた後に行なわれ、これが実質的に一年半の

外遊の総仕上げの作品となった。批評を見るに相当の変化があったようで、外遊最初の

年は空間や遠近に対する賛辞と控えめな色調や詩情に対する言及があったのに対し、

翌年の一九〇五年以降については色彩の広がりを思わせる単語が増えた。

「暁または黄昏、夜の風景に特別の好みを見せ、甘く控えめな色と素描の優美な調

和は否応無しにホイッスラーのノクターンや優れた日本美術の巨匠の先駆的で独特

な特徴を素晴らしい方向で取り入れたものを思わせる」(一九〇五年七月二十二日付、

アカデミー誌)

「色の幅は寒色系の緑から暖色系のピンク、琥珀色まで。印象は主として朝と夜、

Page 5: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

5 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014]

そして霧である。おそらくロンドンの絵画展でかつてこれだけ多くの割合で霧の絵

を見せたことはなかっただろう。ホイッスラー氏の晩年の絵の配色に大きく共通す

る」(一九〇五年七月二十二日付、ザ・スピーカー誌)

 

彼らの渡米前の目標はある意味成し遂げられた。見聞は深まり、西洋の写実も大事

だが精神が籠っていなければ美術と言えない、と日本画に対する自信を深めた。日本

画の改良の方も良好で、バルールの不自然さが最大限解消された。さらに色彩につい

て、問題は残しつつも「絵画叢誌」二二八号において「一層明快な、一層鮮麗な、新派洋

画と光琳とを折衷した様な、新しい模様絵の様なものが出来た」と評された。

 

帰国後、春草と大観は連名で「絵画について」という冊子を発表、琳派を引き合いに

出し、色彩表現を押し進めていく決意を述べた。それは外遊中には達成できなかった天

心からの示唆のひとつ、宗達光琳の妙技を山水人物に及ぼし、一層精細な濃淡法を研

究するということに他ならなかった。

 

彼らの一年半の葛藤が、次なるステージへと扉を開かせた。その打開のきっかけがこ

の外遊の経験にあったということは、帰国後の名作の数々が証明してくれるだろう。

(福井県立美術館学芸員)

註1 Washington, P

assenger an

d C

rew L

ists, 188

2-1

96

1 . National A

rchives, Washington, D

.C.

2 Sprin

gfield R

epublican . (M

ar. 14 , 1904 )

3「(付録2)ボストン美術館記録」『岡倉天心全集』第二巻、平凡社、一九八〇年、五二三頁。

4 Rich

ard M

cCan

dless G

ipson (1

94

0 ). The L

ife Of E

mm

a Thu

rsby, 1

84

5-1

93

1 . Th

e New

-York

Historical Society. 379 .

5「日本美術院福岡展にて」『岡倉天心全集』第三巻、平凡社、一九七九年。

6「絵画互評会紀要第二十三回」『日本美術』五二号、日本美術院編集部、一九〇三年五月。

7「絵画研究会紀要第二十四回」『日本美術』五六号、日本美術院編集部、一九〇三年九月。

8「第十回絵画共進会日本美術院展覧会出品概評(二)」『日本美術』三〇号、日本美術院編集部、一

九〇一年七月。

9『涼風夜話』青年書房、一九三七年、四三頁。

10 ‘ Pictures from

Japan.’ The In

depen

den

t . (M

ay 12 , 1904 )

11 The S

t. Lou

is Repu

blic. (May 1 , 19

04 ) / N

ew Y

ork tribun

e. (Dec. 6 , 19

03 ) / N

ew Y

ork tribun

e . (D

ec.

21 , 190

3 ) / New

York tribu

ne . (M

ay 1 , 190

4 )

12『岡倉天心とボストン美術館図録』名古屋ボストン美術館、一九九九年、二三一頁。

13

佐藤道信「大観・春草の欧米遊学と朦朧体」『日本美術院百年史』三巻上、日本美術院、一九九七

年、四四九頁。

14 ‘Nation

al Arts clu

b’ Roll N

o. 42

60 , A

rchives of A

merican

Art, S

mith

sonian

Institu

tion.

15 New

York tim

es . (Jan. 5 , 1

90

5 ) / New

York trib

un

e . (Jan. 5 , 1

90

5 )

16 UK

, Incom

ing P

assenger L

ists , 18

78 -1

96

0 , Nation

al Arch

ives, Wash

ington

, D.C

. /

明治三八年

四月五日付菱田為吉宛菱田春草書簡。

17

同掲書9には、仏国には山下新太郎の二、三日前に到着とある。山下のパリ着は六月二十五日

で、大観がパリで六月二十一日投函した手紙があることから、到着は六月二十一日頃となる。

18

以下の資料からナポリ発のプリンツ・アイテル・フリードリヒ号と推定。

一九〇五年七月六日付アイナ・サースビー宛横山大観書簡、個人蔵/七月四日付北垣旭宛横山大観

書簡、横山大観記念館所蔵/「東洋日の出新聞」(長崎県立図書館所蔵)に欧州からの寄港記事はない

ものの、八月十五、十六、十九日の「入港船舶予報」として「フリドリヒ号二十二日自横浜至欧州」

と記載あり。

後記 

春草と大観がアメリカ、ヨーロッパで何をしていたのか、展覧会をどこで何回開

いたのか、実のところ未だはっきりしたことは分かっていない。私たちが大観の回想や

春草の書簡などを通して分かったつもりになっていたことを、佐々木美帆氏はアメリカ

の新聞に掲載された記事等を丹念に拾うことで、現在進行形で塗り替えつづけてくれ

ている。その成果の一部は、昨年、自館で開催された岡倉天心の「空前絶後」(フライヤー

の惹句)な展覧会で披露されたことは記憶に新しい。

 

このエッセイも新事実で満載となった。なかでも、春草たちの外遊後半の作品に対す

る新聞評が興味深い。私たちは、たとえばザ・スピーカー誌の評をどう読むべきなのだ

ろうか。「色彩が豊かになってきた」なのか。あるいは「それまでどおりの『朦朧体』」なの

か。この時期の作品がどれであるのか確証がない今、この評ひとつをきっかけに春草の

一時期の画業を組み直すこともできるかもしれない。

(美術課主任研究員鶴見香織)

Page 6: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 6

 

現在東京国立博物館(以下、東博)の東洋館で開催している特集「日本人が愛した官

窯青磁」(二〇一四年五月二十七日│十月十三日)に、常盤山文庫中国陶磁研究会は企画

協力させていただいた。当文庫研究会は、所蔵品である《米べ

色しょく

青せい

磁じ

瓶》﹇図﹈を皮切りに、

日本の南宋官窯研究に一石を投じた官窯窯址出土陶片の整理など、宋代官窯に関わる

研究を行いその成果を発表してきた﹇註1﹈。東洋館での特集は、研究会活動に関わって

下さっている東博の三笠景子氏と一緒に、これまでの研究をふまえて練った企画であっ

たが、展示という目に見える形にした時、あらためて感じたことがいくつかあった。そ

のひとつに米色青磁の特殊性がある。

 

今回、南宋官窯の青磁として常盤山文庫所蔵の米色青磁三点と東博所蔵の《青磁輪

花鉢》(重文)を並べて展示したが、二に

重じゅう

貫かん

入にゅう

に覆われた官窯青磁の世界を青と黄の両

方で表現できるのは日本

だけなのだと実感した。

それは、展示場に足を運

ぶたびに聞くとはなしに

耳に入ってくる観覧者の

方々の声からも感じた。

青くないのに青磁なのか

という当然の疑問、しか

もそれが「官窯」という

皇帝御用の窯の作品で

あり、さらに「官窯の殿堂」故宮にもなく日本にしかないということの不思議。観覧者の

方々のこうした疑問の声を耳にした時、日本の研究者が米色青磁を南宋官窯と考えた

ことがいかに斬新であったかを感じたと同時に、その背景にある日本の官窯研究の歴史

を伝えていかなければならないとも感じた。

 

青磁は窯の中の焼成条件によって発色に変化が生じ、同じ土、同じ釉薬でも還元炎

焼成では青色を、酸化炎焼成では黄色を帯びる。南宋官窯青磁の中で、この酸化炎焼

成によって二重貫入に覆われ黄褐色に焼きあがった青磁を、日本では稲穂の色にたと

えて米色青磁と称してきた。黄褐色の米色青磁は、日本では昭和初期に青い色の青磁

と同様に南宋官窯と考えられたが、同じころ中国や欧米では南宋官窯を考える作品の

対象とはならなかった。日本人はなぜ青ではない黄褐色の青磁を南宋官窯と考えたの

か、逆に中国や欧米の人々はなぜ南宋官窯と考えなかったのか。

 

二〇世紀の初め、官窯研究を先導したのは欧米であった。欧米は清朝の宮廷文物に

関わる機会を早くから得ていた。それは一九世紀後半の対清朝の中での略奪であった

り、清末の動乱の中で清朝貴族が資金調達のために自ら手放したものであったり、かた

ちは様々であったが、いずれにせよ清朝末期にそれまで市井の眼にふれることのなかっ

た宮廷文物が市場に流れ、欧米のコレクターの手に渡る機会となった。それらに学ん

で、当時大英博物館のキュレーターであったR・L・ホブソン(一八七二│一九四一)のよ

うな陶磁学者が育ち、パーシヴァル・デイヴィッド卿(一八九二│一九六四)のようなコレ

クターが生まれ、官窯研究を牽引した。デイヴィッド卿は英国での研究にとどまらず中

国に渡り、一九二五年の故宮博物院の開館、清朝旧蔵品の公開にも関わるところとなっ

た。こうした彼らの官窯作品の基準となった宮廷文物の骨格は、清の乾隆帝(在位一七

三五│九五)によって築かれたものであった。

 

故宮伝世品の正統性が乾隆帝によって築かれたものということは、かつては語られる

ことがなかったが、近年では北京、台湾双方の故宮博物院の研究者たちも述べるように

なっている。こうした乾隆帝の蒐集以後伝世してきた清朝旧蔵の南宋官窯はすべて青

の青磁であり、ここで言う米色青磁は含まれていない。その一方で、官窯窯址からは大

量の米色陶片が出土している。これまでに発掘されている南宋官窯とされる窯は、郊こ

壇だん

下か

窯址と老ろ

虎こ

洞どう

窯址の二つがあるが、どちらからも青い色とともに黄褐色の青磁片の

おびただしい出土が報告されている。酸化炎による米色が還元炎による青の青磁を求

《米色青磁瓶》南宋官窯 12-13世紀 常盤山文庫蔵

青磁のいま

│受け継がれた技と美

南宋から現代まで

米色青磁│日本人が見いだした官窯

佐藤サアラ

会期:二〇一四年九月十三日│十一月二十四日 

会場:工芸館

Page 7: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

7 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014]

めた際の失敗かどうかという議論は別として、窯址から陶片が出土するということは、

宋代において、現在官窯とされる窯に米色青磁が存在したことを示している。にもかか

わらず作品は故宮にはない。その意味することとして、乾隆帝が宋代官窯を蒐集した

際、作品がなかった可能性に加え、照会しうる窯址出土陶片がなかった一八世紀当時、

乾隆帝の官窯の基準に黄褐色の青磁が含まれていなかったということも考えられる。た

とえ作品が現れたとしても、目にとまらなかったということもありうるだろう。

 

こうしたことで、乾隆帝の築いた故宮コレクションを官窯の基準とした欧米にとって

は、乾隆帝と同じく、黄褐色の青磁が市場に現れたとしても、それを官窯と考えること

は思いもよらなかったのではないだろうか。

 

一方日本は中国陶磁研究には遅れをとっていた。日本には古くから中国陶磁が入っ

てきており、優れた砧

きぬた

青磁が伝世してきたが、それらは実際に使ったり飾ったりする愛

玩の対象であり研究の対象ではなかった。二〇世紀初頭、中国での鉄道敷設工事をきっ

かけとする出土陶磁が欧米で脚光を浴びるようになると、中国陶磁に対して日本人に

も愛玩とは別次元の、研究対象としての関心が芽生えるようになる。そして官窯という

皇帝御用の青磁の存在を知るようになるが、ごく一部の人を除いては作品に関わる機

会には恵まれず、文献からの研究にとどまっていた。

 

そうした中で、日本人の官窯研究に大きな一歩を踏み出させたのが、杭州領事を務

めていた米よ

内ない

山やま

庸つね

夫お

(一八八八│一九六九)が郊壇下窯址で採集した資料であった。一九

二八年から三二年にかけて杭州領事を務めた米内山は、作品に関わりながら官窯研究

を深める欧米人をみて、官窯研究には窯跡の発見あるいは窯址出土資料が必要である

と考え、窯跡探索に腐心した。一九三〇年、米内山は文献に記された南宋官窯と一致

する地点で大量の窯道具および陶片を発掘採集、ここを南宋官窯の郊壇下窯跡と確信

した。米内山が日本に持ち帰った窯址出土資料(以下、米内山陶片)は、一九四二年に根

津美術館で初公開された。欧米の研究者が官窯とするものをそのまま受け入れてきた

日本であったが、この米内山陶片の入手によって、欧米人のフィルターを通すことなく

南宋官窯を考えられるようになった。その最たるものが米色青磁である。

 

米内山陶片は、青い色の陶片とともに黄褐色でありながら美しい二重貫入に覆われ

た陶片を数多く含んでいたことで、郊壇下で焼かれた様々な器種を伝えたと同時に、官

窯における黄褐色の青磁の存在を伝えた。このことは公開の翌一九四三年、小山冨士

夫(一九〇〇│七五)がこれまで南宋官窯と考えられたことのない黄褐色の青磁瓶を世に

初めて南宋官窯として紹介した﹇註2﹈ことに影響したと考えられる。小山はそれが青

くないという理由、故宮に伝世品がないという理由で官窯の枠組みから外すことをしな

かった。それは小山が郊壇下窯址に青の陶片と同時に黄褐色の青磁片が多数あること

を知っていたからであろう。しかしながら一方で、小山が官窯とした根拠はただ米内山

陶片があったからではない。小山は何よりもまず、作品に南宋らしさや官窯としての風

格を求め、たとえ黄褐色であっても作品に風格を感じたとき、官窯の可能性を考えた。

米内山陶片はその可能性を後押ししたものであった。

 

米内山陶片は文献をよりどころとしていた日本の官窯研究に大きな一歩を踏み出さ

せたが、現在では世界的名品となっている日本所在の南宋官窯の作品が官窯とされた

ときのエピソードを読むと、日本人研究者の官窯研究の基盤には、まず、美しい青磁を

はかる「砧」という基準があったように感じられる。南宋時代の美しい青磁の姿、釉薬、

全体の風格といったものを日本人は伝世の砧青磁から学んでいた。その「砧」に劣らな

いもの、超えるものといった感覚が、南宋官窯の作品を考える際のひとつの基準になっ

たのではないだろうか。

 

窯址発掘調査が不十分であった小山の時代からすれば、発掘は進み、官窯研究は大

きく進展したかのようにみえる。しかしながら、考古資料が増えた今でも官窯は容易に

解明できるものではない。官窯に基準となる作品がないという根本問題があるからであ

る。宮廷伝世品である故宮所蔵品は乾隆帝の時代に築かれたものであり、宋代までさ

かのぼれるものではない。宋以来の確実な宮廷伝世品がわからない中で、官窯窯址出土

品からいえることは官窯とされる窯で焼かれた製品であるということまでであり、皇帝

ないし宮廷に届いたものかどうかについては明言できない。これはまた官窯の定義とい

う問題になってくる。出土資料の増加は、官窯の解明というよりむしろ新たな課題を

次々とつきつけてくるようで、課題は山積みである。

(常盤山文庫

主任学芸員)

註1 『常盤山文庫中国陶磁研究会会報1

米色青磁』二〇〇八年、『常盤山文庫中国陶磁研究会会報2

米内山陶片』二〇〇九年、『常盤山文庫中国陶磁研究会会報4

米内山陶片Ⅱ』二〇一一年、『常盤山

文庫中国陶磁研究会会報5 青磁「東窯」』二〇一三年。

小山冨士夫「宋代陶磁概説」『宋磁』聚楽社、一九四三年。

Page 8: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 8

青磁のいま

│受け継がれた技と美

南宋から現代まで

私のやきもの考

神農巌

会期:二〇一四年九月十三日│十一月二十四日 

会場:工芸館

 

私が陶芸と出会ったのは大学時代です。幼い頃から美術が好きだった私は、興味本意

で大学の陶芸クラブを覗いたのがきっかけで、すぐにやきものの魅力にとりつかれました。

 

その当時から世界的に有名であった安宅コレクションが、一九七八年、京都国立博物

館で「安宅コレクション東洋陶磁展」として開催されました。私は観に行き、中国宋時代

の青磁・白磁、そして朝鮮半島の高麗青磁・李朝白磁、それらは形、釉色、釉肌のすべ

てが逸品で、魂を揺すぶられる衝撃を受けたのです。少し大袈裟かも知れませんが、大

陸から渡ってきた連綿と連なるDNAを感じる想いでした。

 

中国は元時代・龍泉窯の飛青磁花生、南宋時代・龍泉窯の青磁鳳凰耳花生、北宋時

代・耀州窯の青磁刻花牡丹唐草文瓶などの名品の青磁。当時の中国では「君子の徳は

玉ぎょく

のように温和で潤沢である」と言われ玉が高く崇拝されていました。碧へ

玉ぎょく

に酷似した

青磁は「假か

玉ぎょっ

器き

」と称され、珍重されたのです。これらを目の当たりにして、迷うことな

く私はやきものを天職にしようと覚悟を決めたのです。そして身の程もわきまえず、自

分もこのような青磁のやきものを焼いてみたいと思ったのが二十歳の時でした。

 

大学卒業後は陶芸の基礎を身に付けるべく、京都市工業試験場で釉薬の研究をし、

京都府立陶工職業訓練校でロクロ成形を学び、清水焼の窯元で修業時代を過ごしま

した。その間、自分なりに研究し焼き上がったテストピースを手に、大阪市立東洋陶

磁美術館に足繁く通っては見比べ模索を重ねました。しかし、あの時目に焼き付いた

安宅コレクションのやきものの、私が理想とする青磁・青白磁は求めれば求めるほど、

「これとは違う」とのもどかしさや挫折感を抱き、さらに遠のく感じを想うのでした。

 

青磁の青は顔料による発色ではなく、釉薬や陶土の中に含まれる鉄分の含有量に

よって色調が変わってきます。窯の焼成の影響も大きく、窯の中を酸欠状態にし、一酸

化炭素濃度を高め不完全燃焼焔で焼成することによって青くなります。宋時代の陶工

達が求めた、碧玉のような幽邃清澄な青色を出すためには鉄分の含有量と窯の還元焔

状態の微妙な調整が必要で、非常に技術力に裏付けられた経験値が求められるのです。

しかし、自分も若輩な未熟者であったことに加え、陶土・釉薬の原料が千年以上前と現

代とでは、物理的にも違いがありました。また、当時の陶工達は官窯の厳しい支配下に

置かれ命を賭しての制作環境と、現代の私とでは精神性に大きな違いがあることを痛

感しました。当時の陶工達は碧玉への憧憬から青を極致まで表現しようとした執念か

ら、切磋琢磨を重ねて技術の向上を求めました。その偉大なエネルギーに只々敬服する

想いでした。

 

そうして、私のやきものに対する想いは、「現代に生きる今の自分のやきもの、自分

の青磁を」との気持ちに変わっていきました。

 

独立の際には、滋賀・湖西の地の空の蒼、湖の碧が私の追い求める青磁のイメージに

重なりこの地にアトリエを構えました﹇図1﹈。眼下に満々と水を湛える琵琶湖を望み、

比良山系の自然が織り成す四季の移ろいに身を置き、このフィールドから生まれる感

性を作陶の糧としています。

 

現在私は制作テーマとして「生命」を表

現したいと考えています。「生命」から発想

するイメージは命の根源である水や、悠久

の時の中で人体に組み込まれた動脈・静

脈・DNA羅線なのです。それらを堆つ

磁じ

インにより造形表現しています﹇図2、3﹈。

堆磁とは泥で

漿しょう

を筆により幾度も塗り重ね

る手法﹇図4﹈で、作品のボディに想いのま

ま堆磁でラインを内面から口縁部をなめ

て外面へと施し、内外の装飾を関連付け

て、堆磁が単なる表面装飾に留まる事な

く、造形として一体化するように意識し制

作しています。﹇図5﹈

 

造り手としてやきものを改めて考えて

図1 アトリエ近郊の風景

Page 9: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

9 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014]

みますと、私の前には何代にも遡り名も無き陶工達がいて、さらに遡ると縄文土器に

辿り着きます。縄文時代、男は狩りに出、やきものを造ったのは女でした。シャーマンで

ある女は神との交信を司る神秘な存在でした。女性の手によって壺形が創造されるの

は自然な成り行きで、女性は自らの内から、大切なものを包み込む形を知っていたので

す。壺形それは子宮のかたち、子宮は別の名を「子壺」と言い、子を宿し生み育む女性

の生命のエネルギーが、生への祈りの呪術の具現化として縄文土器の装飾や造形となっ

たのです。

 

やきものは一万二千年に亘り人々に受け入れられ造り続けられてきました。

 

それは生命が連鎖しているからです。縄文土器には生命のエネルギーが内在して

います。そして、弥生土器、須恵器……と時代を重ねるごとに、その時々の陶工達の

やきものに対する強い想いと高度な技術が優れたやきものを生み出し、それが次の

時代の人々に感動を与えながら、生命のエネルギーが連鎖します。そして現代に生き

る私がやきものに込めるのもまた生命のエネルギーなのです。こうして生命が繋がり

連鎖は絶えることはありません。自然もまた循環連鎖しています。土と水と火の混然

一体であるやきものに、造り手である私が生命のエネルギーを吹き込みます。焼き上

がったやきものは人々に愛でられ、さらに生命のエネルギーが注がれモノとしての域

を超えます。そして人々の心に沁み、癒し、和みの対象と成り得るのです。そうした

やきものが歴史を刻み、文化を生み、時空を超えて人々に感動の連鎖をもたらすの

です。

 

造り手である私は、少しでも感動の連鎖の担い手として、今の時代に関わりたいと

願い創作を続けています。

(陶芸家、出品作家)

図2 神農巌《堆磁線文壺》2012年 個人蔵図3 神農巌《堆磁線文鉢》2012年 個人蔵

図4 泥漿を筆により幾度も塗り重ねる図5 神農巌《堆磁線文鉢》2011年 個人蔵

後記 

南宋官窯の米色青磁は世界に四点しかないといわれ、そのすべてが日本にあ

る。その内の三点は佐藤サアラ氏が企画協力した「日本人が愛した官窯青磁」展に出

品されており、残りの一点が工芸館で開催の「青磁のいま」展に展示中だ。中国・南宋

時代の官窯や龍泉窯の名品から、近代陶芸史に名を残す物故作家の優品、さらには

人間国宝や若手作家の最新作までを三部構成で紹介する「青磁のいま」展では、青磁

が通史的に見られる。米色青磁のように日本人が見出し、大切に伝えてきた青磁は、

多くの鑑賞者を魅了してきたと同時に、創作者も虜にしてきた。本展の出品作家であ

る神農巌氏は、まさに青磁の魅力に惹かれたひとりだ。近代の陶芸家たちは古典の写

しを通して技術・技法を体得しつつ、独自の青磁を追い求めてきた。現代に生きる神

農氏は、基礎的な研究をベースにしながらも、活動を始めたころから自身が考える青

磁をイメージして取り組んでいる。その具現化が「堆磁」の技法であり、自然の営みや

心に残った風景を形へと変換し、作品に映し出す。「青磁のいま」展で、青磁というや

きものに込められた陶芸家の想いを感じることができる。

(工芸課長

唐澤昌宏)

Page 10: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 10

「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展ヤゲオ財団コレクションより」

会期:二〇一四年六月二十日│八月二十四日 

会場:美術館企画展ギャラリー﹇一階﹈+前庭

 

本展が紹介した台湾のヤゲオ財団コレ

クションは、同時に、ヤゲオ・コーポレー

ションの創業者であるピエール・チェンと

いう人物の個人コレクションだとも言え

る。そこで、日本を代表するコレクターの

ひとりである宮津大輔氏と、世界のコレク

ターから注目を集めている「無人島プロダ

クション」を運営する藤城里香氏にお話を

聞くことにした。

保坂(以下H):展覧会をご覧になった感想

をお聞かせください。

宮津(以下M):オープニングの日に見に

行ったのですが、面白いと思いました。

 

理由はふたつあって、ひとつは、自分も

『現代アート経済学』(二〇一四年六月刊)を

著したように、今、こういうことを絶対言

わなければならないと思っていた時に、展

覧会でもお金や経済やマーケットのことが

語られていたことです。

 

もうひとつは、住んでいる家の写真と

か、最後に用意されているコレクターの気

分を体験するゲームとかがありましたよ

ね。批判する人もいたと思いますが、作品

は自由に見ることができるようになってい

て、しかもそれとは別の視点が提案されて

いたのがよかったです。

藤城(以下F):私はオープニングと今日の

二回見に行きました。傑作もあるけれど

「なぜこれを買ったのか?」と疑問に思う

作品もあったので、今日はそう思った作品

一つ一つの前でじっとしゃがみこんで鑑賞

の視線を変えてみました。通常展覧会では

立って鑑賞しますが、チェン氏はコレクショ

ンした作品を自宅に飾っている。彼になっ

たつもりで座ってじっと鑑賞することで、

立って見るのでは気づきにくい部分にも視

線が移行する。その感覚によって「なぜこ

の作品を購入したのか」という謎に少し近

づいた気がします。コレクションするとはこ

ういう体験も日々獲得できるのだと。

M:二〇一一年に台北現代美術館で僕のコ

レクションを紹介する展覧会が開催された

んですね(編者注:「Invisibleness is V

isibleness:

International Contem

porary Art Collection of a

Salaryman- D

aisuke Miyatsu

」展のこと)。

 

日本人のサラリーマンが、奈良美智やヤ

ン・フードンを持っている。蔡國強の生き

た鳥を使った作品や田中功起の《ガム・モ

ンスター》などの大型インスタレーション

も持っている、映像もたくさんある……そ

ういう視点で構成されていました。

 

そして今回、台湾の実業家で富豪でも

あるコレクターの、ゲルハルト・リヒターや

アンドレアス・グルスキーやマーク・クイン

など、絵画と写真と彫刻を中心にしたコ

レクションの展覧会が、東京の美術館で開

かれました。

 

三年間に、全く異なる内容ながら同じ

ような関心から構成された展覧会が、台

北と東京で開かれたわけです。個人の視

点で選んだものが一般化するとか、一代で

コレクションを築いたとか、東京と台北が

同じパースペクティヴでやったことが面白

いと思いました。

H:そんな宮津さんから見て理想的なコレ

クターと呼べる存在はいますか?

M:理想ではないけれど尊敬しているの

は、ハーブ&ドロシー。なんといっても彼

らは富豪ではなく、僕と同様アーティスト

との交流を大切にしていましたから。ただ

違う点は、彼らはアーティストから直接買

い、僕の場合は、アーティストの面倒を見

られないのでギャラリーから作品を買って

います。ギャラリーに少しでもお金がおち

れば、最終的にはアーティストのためにな

るわけですから。

H:ハーブ&ドロシーは基本的にアメリカ

美術に特化していました。藤城さんが運

営している「無人島プロダクション」には

今のところ日本人のアーティストしかいま

「現代」におけるコレクターについて

│宮津大輔氏、藤城里香氏に聞く

「Invisibleness is Visibleness: International Contemporary Art Collection of a Salaryman- Daisuke Miyatsu」展(台北現代美術館)の会場風景より。(左より)田中功起《Gum Monster》/島袋道浩《鹿を探して》/蔡國強《トラップ:20世紀のためのプロジェクト》/ドミニク・ゴンザレス=フォレステル《Fille/Garçon》

Page 11: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

11 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014]

せんが、それは基本方針なんでしょうか?

F:十人までは日本人ですが、十一人目か

らはいろいろ変わっていくと思います。ま

ず十人までは「三六〇度戦隊」を目指そう

と、あえて社会への眼差しとアプローチ方

法がバラバラな作家と仕事してきました。

 

そうすることによって、作家それぞれの

プロモーション方法を考えることができま

したし、リサーチでキュレーターが来たと

きに、全員をプレゼンできるような環境が

作れたわけです。同じテーマに対して、こ

ういう観点からはこの人、でもこういう観

点からはこの人もいけますよ、って。

H:どこか美術館に近い姿勢ですね。

M:「ギャラリー」ではなくて「プロダクショ

ン」だもんね。「無人島」は所属アーティス

ト以外をプロジェクト的に一回だけ展覧

会を開いて紹介するということはやらな

いんでしたっけ?

F:基本的にはやらない、というかあまり

興味がないんです。私たちがやりたいのは、

作家の自立とマネジメントのあり方につい

ての長い時間をかけての実践であって、今

はそこに専念したいと思っているので。

 

美術館の話でいうと、私たちが作品をお

すすめするとき、美術館と個人コレクター

の方ではアプローチが違うときがあります。

たとえば個人コレクターの方への場合はそ

の人の考えやコレクションの流れを第一に

考える傾向があり、美術館に対しては、時

代時代を反映する作品ということを第一に

考えてプレゼンする傾向にありますね。

H:美術館で働いていると、コレクション

の地域性と国際性との間にどうやって折

り合いをつけていくか悩むことがありま

す。コレクターとしてはどうですか?

M:僕の場合は、国や地域で選んでいるわ

けではなくて、良いと思った作品を買っ

ています。そういう意味で、自分のコレク

ションはインターナショナルだと思ってい

ます。そもそも僕にとっては、世界中で通

用するパワーやコンセプトを持つものこそ

が本当のアート作品なんです。

 

実際のところ最近は特にアジアに重点を

置いていますが、それは僕が日本のサラリー

マンだからです。海外のアートフェアやスタ

ジオを訪れようとすれば、木曜や金曜の夜

に出て月曜日の朝には仕事に戻るという生

活になります。どうしても週末で行けるア

ジアが中心になります。もし僕に時間とお金

があれば、もっと欧米に行くかもしれません。

 

日本の美術館のコレクションは、福岡アジ

ア美術館以外、アジアのことをあまりフォ

ローしていませんよね。美術館がスローなら

自分で先に行くしかないと思っています。

H:コレクターと美術館の関係は、今後、

どうなっていくでしょうか。

F:アートに真剣に向きあい、時間をかけ

てつくりあげられた日本の個人コレクター

のコレクションが今後どうなっていくのか

は常に考えます。収集されたコレクション

がどんな形で発表でき、後世にのこして

いけるか、そこに美術館なりギャラリーな

りがどう関わっていくか。国公立美術館の

成り立ちや税制の違いはあっても、参考

事例は海外にいろいろあると思います。

M:シンガポールの戦略はすごいようです

ね。彼らが国外から科学者や事業家の移

住を促進しているのは有名な話ですが、

コレクターに対するリサーチも相当してい

て、アプローチもしているようです。シン

ガポール美術館(S

AM

)が「T

he C

ollector

Sh

ow

」というコレクターの展覧会をシ

リーズでやっているのも、そうした観点か

らだと捉えられるでしょうね。

H:最後に。もし、プロのコレクターとい

う考え方があるとしたら、どのようなもの

でしょうか?

M:まわりの人から認識されてはじめてコ

レクターになるんだと思っています。もう

一点大事なことは、批評家は文章を書き、

キュレーターは展覧会を企画しますが、僕

がやるべきことはお金を出して買うこと。

買うことでしか評価できません。買って

買って、買いまくることです。コレクター

であることは僕にとって、ビジネスではな

いけれど、人生の大切な仕事なんです。

 

あと、エクスチェンジ(交換)がない世界

はないと思っていますから、自分にとって

大切なアーティストを、他国のコレクター

やギャラリーに紹介していくのも、僕に

とっては大切なことです。

F:宮津さんは、海外のアートフェアでレ

クチャーをされたり、コレクションについ

ての本を書かれて、それが翻訳され中国

や台湾で出版されるなど、スポークスマン

的役割という、日本にはこれまでいなかっ

たタイプのコレクターのポジションを切り

ひらいた人ですよね。

M:自分のコレクションを充実させること

と、他の国のコレクターが日本のアーティ

ストを知ること、僕にとってはどちらも同

じ位に大切なんです。

二〇一四年八月二十一日

無人島プロダク

ションにて

(文責・構成

美術課主任研究員

保坂健二朗)

Page 12: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 12

アレクサンダー・カルダー(1898-1976) 《モンスター》

1948年頃金属板・針金 着色

130.0×235.0×121.0cm

平成26年度購入©2014 Calder Foundation, New York /

Artists Rights Society(ARS), New York

撮影:大谷一郎

図画工作の授業で「モビール」を

作ったことはありませんか?厚紙

を切り抜いて魚や鳥などを作り、糸と割

り箸の先に吊り下げる、あれです。この

モビールを創始したのが、アメリカの彫刻

家、アレクサンダー・カルダーです。

 

ニューヨークで美術を学んだ後、一九

二六年、パリに渡ったカルダーは、針金で

作った曲芸師や動物を使って自ら演ずる

「カルダーのサーカス」で芸術家仲間の人

気者となりました。三〇年、オランダの画

家、ピエト・モンドリアンのアトリエを訪

れたカルダーは、構図研究のため壁に鋲留

めされた幾何学形態を見て、「これが動い

たらどうだろう」と思いつきました。針金

製の動くオブジェ作りと、幾何学形態を

立体的に動かすこと、これらの経験とア

イデアが合体して、いよいよ三一年、動く

彫刻、モビールが誕生します。

 

カルダーのモビールには様々な種類があ

ります。天井から吊り下げるタイプと、床

に置くタイプ。また、天体や電子の運動を

思わせる抽象度の高いものと、ネズミ、ヘ

ビ、鳥など具体的なモデルの姿や動きが

わかるもの。

 《モンスター》と名づけられたこの作品

は、三本脚で体を支える床置きタイプで

す。首から吊り下げられた横棒の左右に

は、片方に円盤、片方に黒い三角形と色

とりどりの小さな鉄片が取り付けられ、

これらのバランスの変化によってゆらゆら

とした動きが生じます。

 

モビールにはまた、電気仕掛けによって

多くの鉄片が華麗に回転するモーター・モ

ビールと呼ばれるものもあります。しかし

この《モンスター》の動きはいたってのん

びりムード。ネズミやヘビと違ってモンス

ターは実在しませんから、この作品の場

合、元のモデルがどんな動きをする生き物

なのかはわかりません。でもきっと、もそ

もそしたあまり機敏ではない類いのモンス

ターなのでしょう。具体的なモデルが実在

しない、という意味では、この作品は抽象

度の高いタイプとも言えますが、しかし展

示してみると、やはりギャラリーの片隅に

不思議な生き物を一匹飼っているような

気分になります。それはこの作品が、通常

の美術作品とは異なり、やはり動くゆえ

なのでしょう。単純なことですが、ほんの

小さな動きでも、動きは本来生命のない

事物に生命感を与える大きな力を持って

いる。まさにこの点こそが、カルダーを生

涯モビールに惹き付けたのです。

 

この作品は、当館が二〇一〇年より収

蔵を進めてきた「盛田良子コレクション」

の中の一点です。ギャラリーで見かけた際

には、ついついエサなどやらないようご注

意を!何だか干し草でも食べたそうな気

配を漂わせていますので。

(美術課長 

蔵屋美香)

新しいコレクション

アレクサンダー・カルダー

《モンスター》

Page 13: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

13 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014]

新しいコレクション

石黒宗麿(1893-1968)《失透釉茶碗》

1935年陶器高さ8.8、径12.4cm

平成25年度購入

石黒宗麿

《失透釉茶碗》

工芸館のコレクションの中で、グラ

フィックデザインを除いてもっと

も数多くの作品が収蔵されているのは石

黒宗麿(一八九三│一九六八)です。石黒の

熱烈な支援者・大屋幾久雄氏(故人、外科

医)によるコレクション五十点があらたに

加わったことにより、当館の石黒作品は

約一六〇点となりました。大屋氏の旧蔵

品には「春雪」や「夕映」という銘を持つ茶

碗が含まれていますが、今回は《失し

透とう

釉ゆう

茶ちゃ

碗わん

》をご紹介します。

 《失透釉茶碗》は石黒による奥お

高ごう

麗らい

タイ

プの茶碗です。奥高麗というと朝鮮半島

で作られた茶碗と思われるかもしれませ

んが、高麗茶碗の熊こ

川がい

や井戸に似せて桃

山から江戸初期の日本で作られた唐津焼

の茶碗を、古来茶人は「奥高麗」と呼んで

珍重してきました。

 

石黒の《失透釉茶碗》は木灰分を含ん

だ長石釉がほんのりと青みを帯び、全体

的に貫入が入っているのが特色ですが、

ゆったりと丸みを帯びて立ち上がる姿

や、高台まわりには釉薬を掛けずにあえ

て素地の土を見せている点など、奥高麗

を念頭に制作した作品であることは明ら

かです。

 

石黒による唐津作品としては、鉄絵で

模様を描いた絵唐津タイプや、藁わ

灰ばい

釉の

釉調の変化が美しい斑唐津タイプについ

目を奪われがちです。枯れた筆致で描か

れた味わい深い模様や絶妙な釉調に石黒

らしい冴えが認められますが、そうした作

品と見比べると、本作は模様もなく釉も

単調で地味な作品といえます。しかし、本

作は石黒のろくろ、つまり、土の仕事を考

えさせる重要な作品です。

 

本作をおさめた箱には「昭和十年春於

唐津」と記されており、一九三五(昭和十)

年に石黒宗麿が唐津に約二カ月間滞在し

たときに制作した作品であることがわか

ります。

 

石黒にとって唐津での制作はきわめて

印象深い体験だったようで、後年、「自分

が陶芸家として鮮度をおとさずに今日に

いたり得たとしたら、それは、唐津の土に

骨身をくだいた、その土のおかげだった

(中略)唐津やきは、禅坊主が枯れきって、

坊主の臭みがとれて、百姓になったような

人間になりきらないと、土が言うことをき

いてくれないと言うことがやっとわかりか

けて来た」(「唐津の魚」『未盧國』)と回想し

ています。

 

唐津の土は砂っぽく、ろくろがなかなか

思うようにいかないという性格があり、そ

の結果としてザングリとした素朴な味わ

いのやきものが生まれるのですが、箱書に

「於唐津」とわざわざ書き記しているのは、

おそらく、この時の唐津の土との格闘の

記憶をとどめるためではなかったかと思わ

れます。

(工芸課主任研究員木田拓也)

Page 14: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 14

 

大下藤次郎の《穂高山の麓》﹇図1﹈は、

上高地の原生風景を描いた水彩画である。

 

土居次義によれば、この作品は《残雪》

﹇図2﹈をもとに描かれた﹇註1﹈。確かに両

者は中景に描かれた低木、その後ろに広

がる林間、枯木、後景の山容の形態にお

いて極めて類似している。大下は現場で

描いた絵を「写生」、それをもとに後日描

き直したものを「複写」と呼んだという﹇註

2﹈。比較的粗いタッチによる《残雪》を

「写生」、大きな画面に緻密に描かれた《穂

高山の麓》を「複写」と捉えることができ

ようか。しかし、このふたつの絵画には水

面の有無という一目瞭然の違いがある。

更に、画面右端の二本の樹木の形も異な

る。この違いをどう捉えればよいか。考え

られる可能性はふたつ。《穂高山の麓》の

もとになった「写生」は、《残雪》ではなく

別にあるという可能性。あるいは大下の

「複写」という行為には、編集という過程

も含まれると捉える可能性である。すな

わち本作は現実を忠実に模したものか、

それとも複数の写生を構成して作り上げ

られた風景か。以上の疑問から、本作に

描かれた景観が実在するかどうか、現在

の上高地を検証してみることにした。

現在の上高地の景観との比較

 

上高地は長野県西部、松本市にある。

中部山岳国立公園の一角で、四方を標高

三〇〇〇メートル級の山に囲まれた標高

約一五〇〇メートルの平野である。

 

今回、《穂高山の麓》を探索するにあたっ

て、梓川の西岸にある上高地温泉ホテルを

基点とした。かつて上高地温泉株式会社

と称した同宿舎には、大下も同地の写生

旅行で宿泊した。ここを中心に見れば、北

から北東の方角に穂高連峰、明神岳、東に

六百山、霞沢岳、南西に大正池、焼岳があ

る。目の前を流れる梓川は、山間の谷底に

沿って蛇行している。宿から川上へ向かえ

ば、河童橋、更に進めば明神池に至る。明

神池から南に進めば、大下がこの地へ赴く

ために越えた徳本峠がある。

 

それでは現在の上高地を歩き、《穂高山

の麓》に描かれたような風景を探索して

みよう。まず、上高地温泉ホテルの手前に

かかる田代橋(A地点)から穂高連峰を見

た。奥穂高岳の山腹の残雪は見えるもの

の、大下の描くそれに比べると、右手前の

西穂高岳の山裾が奥穂高岳の山腹をより

大きく遮っている。山の向きを考慮に入

れれば、もう少し東へ回り込んだ方が大

下の作品に近いように思える。そのため、

梓川の東岸に沿って河童橋方面へ向かっ

た。程なくして梓川がクランク状に折れ

曲がる地点に達する(B地点)。ここでは、

奥穂高岳の山腹が先程よりも開けて見え

る。さらに、B地点では梓川が並行に流

れているように見えるため、大下の描く風

景の印象に一層近い。

 

C地点は、B地点から河童橋方面へ少

し進んだ場所だ。ここに至ると奥穂高の

山裾がかなり開けて見えるため、本作品

の印象とは大きく違ってくる。

 

今度は反対に梓川東岸を下ってみよう。

梓川の河原(D地点)からの眺望も、大下

の描く穂高連峰の地形に近い。だがE地

点まで来ると穂高岳の麓という感じは薄

まり、扇状に展開する穂高連峰を遠巻き

に望むという印象だ。

 

以上の実地調査から、《穂高山の麓》に

描かれた穂高連峰のかたちは、彼の宿泊

した温泉宿周辺からの眺めに近いと推測

される。とりわけこの辺りで穂高連峰を

望みながら、視界を横切る河川をも同時

桝田倫広

大下藤次郎の立つところ

│一〇〇年前の《穂高山の麓》を探して

作品研究

図1 大下藤次郎《穂高山の麓》1907年 水彩・紙 47.5×67.5cm 東京国立近代美術館蔵

図2 大下藤次郎《残雪》1907年頃 水彩・紙 22.3×33.2cm島根県立石見美術館蔵

Page 15: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

15 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014]

に見られる場所は、B地点くらいしかな

い。ちなみに焼岳が大噴火し、大正池が

生まれた一九一五(大正4)年以前に刊行

された地図(一九一二年)と現在のそれを見

比べると、この周辺地域の地形は殆ど変

わっていないため、穂高連峰の見え方は大

下の時代と大差ないと考える。

紀行文に見る大下藤次郎の写生旅行

 

ところで上高地における大下の足跡は、

『山岳』と『みづゑ』に掲載された彼自身の

紀行文から窺い知ることができる﹇註3﹈。

それによれば一九〇七(明治四十)年七月

十七日、大下は画家仲間の磯辺忠一とと

もに、電車にて松本駅に到着。馬車で島々

へ向かい、徳本峠を徒歩で越え、その日の

うちに上高地に入った。その後、二十二日

まで上高地温泉株式会社に宿泊し、以下

のように過ごしている。

18日 

宿の前の河原で霞澤岳を写生。

朝食後、明神池を散策。帰路、徳本峠

付近に寄り、水溜まりに影を落とす

楊を写生。更に穂高山の一角をスケッ

チ(写生1)。宿に戻り、近くの笹原か

ら穂高岳の残雪(写生2)を描く。

19日 

梓川を前に霞澤岳を描く。降

雨のため、宿の縁側で背後の山を写

生。

20日 

宿から川下へ蒲田道に沿って

進み、栂の枯木を前景に穂高岳の残

雪を描く(写生3)。更に1里ほど進

み焼岳の麓から楊を中景に置いて穂

高岳をスケッチ(写生4)。宿に戻り、

18日の続きを描く(写生2)。

21日 

川下で新たに穂高の一角、残雪

の様子をそれぞれ描く(写生5、6)。

宿近くで梓川を隔て、焼岳を写生。

22日 

出立。徳本峠付近から穂高岳

を描く(写生7)。

 

もし仮に《穂高山の麓》がありのままの

現実の再現だとすれば、この絵を描くため

の立脚点と考えられるのは、大下の宿泊地

付近、具体的に言えばそこから対岸をわた

り、やや川上に進んだB地点辺りだ。だ

が、紀行文のなかでこれに合致する記述を

確認できない。高所からの眺望である写生

1、7の地点は当然として、川下の蒲田道

で描いたという3、4、それに準じる場所

で描かれたと思われる5、6でも、本作品

とはおそらく異なる角度の穂高連峰が見

えるだろう。ちなみに蒲田道とは、上高地

から中尾峠(焼岳)を通って蒲田温泉(現在

の新穂高温泉)へと至る道であろう。

 

写生4では楊を中景に穂高岳を描いた

というから、《残雪》﹇図2﹈がこれに該当す

るかもしれない。しかし宿から一里以上も離

れたところで見える穂高連峰の山容は、宿

近くで見えるそれとはかなり異なるはずだ。

最も可能性が高いのは、宿付近で穂高岳を

描いたという写生2だが、『山岳』における

大下の記述によれば、これは同誌の口絵に

掲載された《六月の穂高岳》﹇図3、『山岳』に

は『穂高山の残雪』と表記﹈である﹇註4﹈。

まとめ

 

今回の調査では、《穂高山の麓》に描か

れた穂高連峰の地形は、大下の宿泊地付

近の河原から見た景観に近いことが分

かった。約一〇〇年も前に大下が描いた

地図 国土地理院発行の2万5千分の1の「上高地」(1993年)「穂高岳」(2014年)「焼岳」(2012年)の一部を合成し、撮影地点などを加えた。

A地点からの穂高連峰

B地点からの穂高連峰

C地点からの穂高連峰

D地点からの穂高連峰

E地点からの穂高連峰

各地点からの風景撮影:筆者

Page 16: 現代の眼 608 10 0925 · 2015-05-26 · 5]、 春草 と 大観 は 線 を 使 わず 色 で 描 く 没骨描法 を 試 してい た 。 しかしその 絵 は 日本 では

Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Oct.-Nov. 2014] │ 16

風景を、私たちは今も上高地で見ること

ができる。同地の変わらぬ自然と、大下の

的確な描写力に驚かされる。

 

一方で大下の記述によれば、彼が宿泊

地付近で梓川を前景に描いたのは他の山

ばかりである。このことを考慮すると、本

作品は自然の景観を単純に模したという

より、いくつかの写生を組み合わせたもの

と捉えたくなる。実際この作品には、川辺

に群生する低木の楊や枯木など、上高地

の自然環境が作為的とも思えるほどよく

描かれている。加えて大下の紀行文を読

みこめば、この作品は上高地に対する彼の

印象の総合のように思える。たとえば、敢

えて山の頂上を描かないことで得られた

山容の迫力は、高い山に囲まれているため

空が「天窓より望むが如く狭く限られ」﹇註

5﹈た同地の地形に対する彼の実感に基づ

くものであろう。また「湖の如く波なく音

なくして流るゝ」﹇註6﹈梓川について、「水

に趣味深き僕も曾て見たこともなく、ま

たこれを描き現はすことも出来ぬ」﹇註7﹈

と、彼は非常に深い感銘を受けている。こ

のように本作品には、上高地におけるふた

つの特徴的な景観、すなわち平野を圧倒

するように取り囲む高山と、その谷底の

ある透明感のある水面という、ともすれば

対照的な要素が中景における低木から高

木へと段々とせり上がっていく森林の展

開によって、矛盾なくひとつの画面のうち

に繋ぎとめられている。それを通じて、上

高地の変化に富んだ自然の姿がいきいき

と表されているのだ。大下自身「作家の頭

で、取捨し改造して、即ち自然の最も善

いところを適宜に集めてこそ、よい絵が出

来る」﹇註8﹈と述べているように、彼の言

う「複写」には、「編集」という概念が含ま

れていると考えてしかるべきではないか。

それどころか「写生」そのものが、当時、現

実の再現ということだけでは汲みつくせな

い意味を含んでいたのかもしれない。たと

えば大下の盟友とも言うべき登山家で文

筆家の小島烏水は、写生(文)について以

下のように述べている。

繁を欲すれば繁、簡を欲すれば簡、九

を略して一を存するも可、特點を擧

げて通有點を沒却するも亦可、(中略)

動くものはその形骸にして、活くるも

のはその靈なり、寫生の至妙なるもの

は、その皮を剥き、その核を削つて、

恍焉として人を移すの力あり﹇註9﹈

 

大下もまた「自然の現象の外面的描写」

だけではなく、「深い感情」を表すことも重

視していたように、外観を忠実に模するこ

とだけでは「絵」として不十分という認識

を持っていた﹇註10﹈。このように《穂高山

の麓》は、現実の風景をもとにしながらも、

大下の上高地に対する印象の総合として

組み立てられた可能性がある。現実を忠

実に模した自然主義的作品と評されるこ

との多い大下の水彩画だが、そこに底流す

る編集意識について、機会があれば更なる

検討を加えてみたい。

(美術課研究員)

註1

土居次義『水彩画家大下藤次郎』美術出版

社、一九八一年、一七五頁。

2

島根県立石見美術館編『大下藤次郎の水彩

画島根県立石見美術館所蔵大下藤次郎作品

集』美術出版社、二〇〇八年、一二四頁。

3

大下藤次郎「雑録口繪穂高山殘雪寫生の旅

行談及所感」『山岳』第二年第三号、一九〇七年

十一月、一三九│一四二頁。汀鷗(大下藤次郎)

「穂高山の麓」『みづゑ』第五二号、一九〇九年十

月、一〇│一八頁。

4

大下「雑録」前掲、一四二頁。

5

大下「穂高山の麓」前掲、一六頁。

6

同右、一七頁。

7

大下「雑録」前掲、一四一頁。

8

大下藤次郎『最新水彩画法』一九〇九年。引

用は以下の再録先から。大下藤次郎『大下藤次

郎美術論集』美術出版社、一九八八年、一一七頁。

9

小島烏水「紀行文に就きて」一九〇三年。引

用は以下の再録先から。『小島烏水全集』第四

巻、大修館書店、一九八〇年、四八〇頁。

10

大下藤次郎『写生画の研究』一九一一年。引

用は以下の再録先から。大下藤次郎『大下藤次

郎美術論集』美術出版社、一九八八年、一九九頁。

図3 大下藤次郎《六月の穂高岳》1907年 水彩・紙 31.0×48.0cm市立大町山岳博物館蔵 図版:市立大町山岳博物館提供

表紙:菱田春草《蘇李訣別》 1901年 絹本彩色・額 149.0× 97.5 cm

東京国立近代美術館賛助会員 (MOMATメンバーズ)

2014年 10月1日発行 (隔月1日発行) 現代の眼 608号編集:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館/美術出版社制作:美術出版社発行:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園 3-1 電話 03(3214)2561

次号予告 2014年12月- 2015年1月号 12月1日刊行予定

609

高松次郎ミステリーズ奈良原一高 王国近代工芸案内─名品選による日本の美Review

菱田春草展