冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1...

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1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、 死亡率、平均寿命の推移を検討してみる。 人口の激減 1 図には冷戦終結後のウクライナと周辺九ヵ国の 19902012 年の人口の変化が示さ れている(1990 年を基準=1.00 とする)。 1 図.1990 年を基準(=1.00)とした 19902012 年のウクライナと その周辺国の人口の推移 1) この国別の人口推移のグラフで一番目に付くのは、トルコの人口の一直線の驚異的な伸 びである(人数では一年に 100 万人以上増えている)。ウクライナとの実際の人口数の比 較で言えば、冷戦終結時には両国とも 5,000 万人強と拮抗していたが、 2014 年にはウクラ イナが約 4,500 万人(クリミアを含む)にまで減少したのに対しトルコは 7,800 万人近く にまで増やしている! この凄まじい落差には唖然とするばかりである。トルコは長い間 EU への加盟を熱望していたが、そのラヴコールは叶えられず、EU の事実上の拒否にあ 1) ブラート・ニグムタリン著「ウクライナ。独立の対価。ロシアのための教訓」からの引用 http://www.intelros.ru/pdf/svobodnay_misl/2014_02/4.pdf )。

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Page 1: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

1

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態

次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移特に人口

死亡率平均寿命の推移を検討してみる

人口の激減

第 1図には冷戦終結後のウクライナと周辺九ヵ国の 1990~2012 年の人口の変化が示さ

れている(1990年を基準=100とする)

第 1図1990年を基準(=100)とした 1990~2012 年のウクライナと

その周辺国の人口の推移 1)

この国別の人口推移のグラフで一番目に付くのはトルコの人口の一直線の驚異的な伸

びである(人数では一年に 100 万人以上増えている)ウクライナとの実際の人口数の比

較で言えば冷戦終結時には両国とも 5000 万人強と拮抗していたが2014年にはウクラ

イナが約 4500万人(クリミアを含む)にまで減少したのに対しトルコは 7800万人近く

にまで増やしている この凄まじい落差には唖然とするばかりであるトルコは長い間

EU への加盟を熱望していたがそのラヴコールは叶えられずEU の事実上の拒否にあ

1) ブラートニグムタリン著「ウクライナ独立の対価ロシアのための教訓」からの引用

(httpwwwintelrosrupdfsvobodnay_misl2014_024pdf)

2

ってから国父ケマルアタチュルク以来の政教分離政策が漂流し始めていて今ではトル

コEU双方共に加盟不能が了解事項となっていしまっているようだ「やっぱり EUに入

れなくてよかったドイツだけでなくヨーロッパ中がトルコ人で溢れてしまうところだっ

た」と胸をなぜ下ろしている EU当局者の姿が目に浮かぶ 2)

トルコに次いで注目されるのはヴィシェグラードグループ諸国がやはり仲良くドン

グリの背比べをしながら冷戦終結時の人口水準をその後も保っていることであるただし

ハンガリーだけは置いてけぼりを食いそうに形勢にある

このヴィシェグラードグループの中に割って入りハンガリーのカーヴとほぼ重なって

いるロシアは人口の低落傾向に歯止めが掛かり健闘しているかに見えるロシアの最

近の傾向についてはこの後半で検討してみることにする

ブルガリアとルーマニアは EU 加盟(2007 年)後もヴィザの不要なシェンゲン圏に入

ることができずまた 2014 年までは就労制限が掛けられていたにもかかわらずEU 加

盟が人口減少傾向を加速させて労働者の移住のみならず頭脳流出を促進させ(ルーマ

ニアは EU加盟以来 1万 5000人の医師と 5万人の医療関係者を流出させてしまったそう

な)国家存亡の危機にあるとさえ言えるかもしれないルーマニアは冷戦終結時には

2350 万人あった人口が 2014年には 2000 万人を切ってしまってなおも減少傾向が続い

ているブルガリアは 80 年代半ばにはほぼ 900 万人近くだった人口が最近は 700 万人に

限りなく近づいているまた両国合わせて 300 万人以上の出稼ぎ労働者が他の EU諸国に

滞在しているとみられている

ウクライナの人口に関しては「ウクライナの実状」の世界ランキングの④に記したよう

に2014 年 10 月 14 日現在のデータ(ウクライナ国家統計庁発表)ではクリミアを除い

て 4280 万人となっているピーク時の 1993 年には 5200 万人近かったというからウ

クライナはクリミアの人口 228万 4400人を差し引いても独立以来ほぼ 770万人15の

人口を減らしたことになるおよそ七人に一人がいなくなってしまったのである 自然減

のほかに海外移住者が多数を占めそれが統計に表れたのであるがそのほか国外で働く

合法非合法の出稼ぎ労働者数は一説に 700 万人に及ぶというこれだけでもウクライナ

は国家として危機的状況にある

現在ウクライナは EU諸国への渡航にはシェンゲンヴィザを必要としているが大統

領選挙にせよ議会選挙にせよ選挙がある度に親欧米派の候補者は EUへのヴィザ無し渡

航を公約としていたしEU 側の多くの政治家もそれに呼応してリップサーヴィスに努め

るのを恒例とした特に連合協定を巡ってロシアと綱引きしていた時には調印すればす

ぐにでもヴィザ無し渡航が実現するような幻想を与え続けた政変後に連合協定の調印に

こぎつけたヤツェニューク政権は何月何日から必ず実現させると期限まで切って約束して

2) ユーロマイダンのデモ隊があんなにも熱望した EU との連合協定の淵源を尋ねるとEU の前身 EEC

(欧州経済共同体)が 1960 年代にギリシャ

とトルコ

と結んだのがその嚆矢であるそうな歴史の皮肉

と言うほかあるまい最近の政情不安も根底には EU 加盟問題がある

3

いたがいざその日が近づくとダンマリを決めこむしかない普通ヴィザ無し渡航は観光

が主目的であるがウクライナに限ってはもし現状のままで実現すればそれを悪用す

る不法就労者が後を絶たないことになる(その数は 300~500万人と予想されている)双

方の政治家の無責任なポピュリズムには呆れるほかない 3)

死亡率と平均寿命の急激な悪化

次に最近三十数年間(1980~2012 年)のウクライナロシアベラルーシの東スラヴ

三ヵ国関係の深い東欧のポーランドとチェコそれに EU 主要十五ヵ国(2004 年以前

の加盟国)平均の死亡率の推移(人口 1000 人当たりの一年間の死亡者数)と平均寿命の

推移を第 2図と第 3図(次頁)に示す

この二つのグラフは冷戦終結後の各国の社会変動が国民の命そのものに与えた影響の

度合いを如実に示している

ソ連圏の社会主義陣営に属した諸国は社会主義の中央指令型の計画経済から資本主義

の市場経済への移行を目指したのであるがこれらのグラフから一見して明らかように

チェコとポーランドの西スラヴの国は順調に移行しているのに対し東スラヴ三ヵ国はの

たうち苦しんでいるのである

ポーランドとチェコ両国にとっては冷戦終結即欧州回帰がいかに好結果をもたらした

かがよく分かる

第 2 図のグラフを見て一番予想外だったのは冷戦時代(1980 年代)のチェコの死亡

率の高さである特に共通点の多いと思われる隣国のあるポーランドとの大きな落差は

意外であるし東スラヴ三ヵ国よりも大分高いのにも驚かされるそのチェコに比べポ

ーランドはソヴィエト的生活スタイルにもヨーロッパ的生活スタイルにも対応できる驚く

べき順応力を持っているのかもしれないあるいは十九世紀を通じてロシアに長年支配さ

れてロシア人馴れしているポーランドに対しオーストリア帝国に属してヨーロッパ馴れ

していたチェコはそれだけ否定的な影響を強く受け国民はストレスの多い生活を送らざ

るを得なかったためなのであろうか東京オリンピックの華であった体操のチャスラフス

カがプラハの春の弾圧(1968 年)以来苦難の生活を強いられたことが象徴しているような

気がしてならない

東スラヴ三ヵ国ではソ連時代末期に死亡率と平均寿命が漸次的に悪化する傾向にあった

3) EU 側が宿題を与え(たとえば ICパスポートへの切り替え)ウクライナ側がそれを果たすと言う展開

がずっと続き2015年末には EU側は要求が全て満たされたことを認めたが2016年になるとまたも

イチャモンをつけウクライナの EU へのヴィザなし渡航は中東からの難民問題も重なり未だ実現し

ていない(2016 年 6月現在)経済相を務めたこともあるヴィクトルススロフはごく最近こう語って

いる「現在何百万人ものウクライナ人特に若者が他国に出稼ぎに行く機会を求めているEU と

のヴィザ無し渡航実現への期待は大部分の市民にとってはヴィザ無しでバチカンを訪れることでは

なくてヴィザ無しでヨーロッパに出かけそこで仕事を見つけたい希望と結びついているたとえ非

合法であってもたとえ一時的であってもそこで何とか引っ掛かりを見つけその後 EU での滞在を

合法化してもらいウクライナと比べてマシな給金にありついて暮らしたいのである」(httpglavred

infopolitikaekspert-rasskazal-zachem-ukraincam-bezvizovyy-rezhim-s-evropoy-369305html)

4

第 2 図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコEU

主要 15ヵ国平均の死亡率の推移(人口 1000 人当たりの一年間の死亡者数)1)

第 3図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコ

EU主要 15ヵ国平均の平均寿命の推移 1)

5

のだが1985 年前後に状況が一気に改善した時期があるこれは 1984 年から 87 年にか

けて実施され悪評紛々だったゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代の痕跡であ

るいわゆるペレストロイカの最盛期に見られた現象であるがソヴィエト政権が懸命に

正当性を主張して延命を図ろうとした最後のあがきだったように見える興味深いことに

ポーランドはチェコと違ってやはりこの時期に東スラヴ三ヵ国の傾向に追随している

ロシア十字ウクライナ十字と膨大な数の「遅発性戦死者」

ゴルバチョフの反アルコールキャンペーンが行き詰り御破算になってソ連が崩壊した

1990年代前半には東スラヴ三ヵ国の死亡率が急激に高まっているこのとき同時にロシア

では出生率が一気に低下した一方が急上昇他方が急落下した結果出生率と死亡率が

逆転しその二つの経時的カーヴが十字状に交差したちょうど第 2図における東スラヴ

三ヵ国とチェコの曲線の交差を強調したかのような現象であるこれを人口学者は「ロシ

ア十字」と呼んだがウクライナでも同様の現象が見られた第 4図第 5図参照 4)

第 4図ロシア十字(左)とウクライナ十字(右)(縦軸は 1000人当たりの人数)

ロシア十字もウクライナ十字も戦争飢饉疫病の流行等がない場合に極めて珍しい例

でありいわば平時では史上初めてではないかと言われているほどである

この結果を比喩的に言えば熱い戦争と違って冷たい戦争では敗北後に本格的な戦い

が始まりロシアやウクライナでは遅発性の戦死者が続出したことになるのかもしれない

ある試算によるともしソ連末期の 1980 年代の死亡率が冷戦後の 1990~2012 年にも維

持された場合にはウクライナで 380万人ロシアで 1100万人ベラルーシで 55万人

従ってこの東スラヴ三国で合計約 1500 万人が死なずに済んだかもしれないとされてい

4) httptezavantagcomdocs319index-99489html

6

る第二次世界大戦の犠牲者がソ連全体で公称 2000万人と言われているから冷戦の敗

北国は史上最大の熱い戦争に匹敵するほどの犠牲者を出していることになる

社会主義経済から市場経済への移行において模式的に言えばロシアとウクライナで

は国有財産の収奪的民営化によって寡頭制(オリガルヒ)資本主義が形成されその後ロ

シアではプーチン政権の国家資本主義がウクライナではオリガルヒが政権を取って文字

どおりの寡頭制資本主義が支配しているがベラルーシの市場経済化においては極力ショ

ック療法的な手法を避けたいわゆる国民融和的な(立場を変えれば中途半端な)経済政

策が採用され限定的ながら一定の効果を上げている第 2図でウクライナとベラルーシ

の曲線の差の個所に斜線が入っているがこれはベラルーシ型の融和的な経済移行であっ

たならば人的被害はウクライナとロシアでは 30すなわちウクライナでは 110万人

ロシアでは 330万人少なくて済んだことを示しているとされるとにもかくにも社会の

激動や社会政策が国民の生死に直結しているのである

平均寿命の男女格差

2013 年度(2014 年発表)の国連開発計画(UNDP)のデータ 5)によるロシアとウクラ

イナの平均寿命は世界 191 ヵ国中ウクライナが第 124位で 685歳ロシアが第 129 位

で 68 歳となっていてこの時点では両国共に未だソ連末期のレベルに僅かに届いていな

いちなみに日本は世界第 1位で 836歳だった

平均寿命に関してロシアとウクライナ両国で一番際立つのは男女間の格差である第 5

図と第 6図(次頁)にロシアとウクライナの男女別の平均寿命の推移を示す世界の平均

寿命の男女差は平均して 3~7 歳と言われている日本は世界的に見て大きい方で6~7

歳の差があるしかしロシアとウクライナではそれをはるかに凌駕している

ソ連時代からの歴史と平均寿命との関係を概括的に言えばスターリン批判からフルシ

チョフが辞任に追い込まれるまでのほぼ十年間(1953~64 年)はソ連で一番明るく活気

のあった時代だったという評判通りに平均寿命も順調に延びている次のブレジネフ時代

(1964~82 年)はノメンクラトゥーラ(共産党幹部階層)が安定かつ鞏固に支配するソ

連で一番平穏な時代であったが思想統制と計画経済の欠陥を次第に露呈して長い停滞に

陥り社会には閉塞感が蔓延したブレジネフの死後ペレストロイカの掛け声のもとゴ

ルバチョフが登場した 1980 年代半ばからの数年間は社会が活気づき希望の光が射したか

のようであったが平均寿命の曲線が残酷なまでに明示しているように奈落を前にしたカ

ンフル注射の如きものに過ぎなかったこのような社会情勢の変遷は恐ろしいまでに見事

に平均寿命の曲線と対応しているこの場合の男女差は歴然としていて女の寿命は社会

情勢に比較的耐性があるのに男の寿命はそれに思う存分弄ばれていると言いうるほどで

ある

ロシアとウクライナとではロシアの方が冷戦後の社会情勢の影響をより深刻に受けて

5) httpgtmarketruratingslife-expectancy-indexlife-expectancy-index-info

7

第 5図2005年までのロシアの男女別平均寿命の推移 6)

第 6図2008年までのウクライナの男女別平均寿命の推移 7)

いる特に男の場合は平均寿命がロシアでは 60 歳以下に陥りそれがなかなか回復し

なかったウクライナの場合は曲線の傾向は同じようでありながら男の平均寿命が 60

歳を割り込むことがなかった

以上の結果を合わせ見れば日本を含む西側諸国からは良いこと尽くめのように思われ

たソ連崩壊も当の国に住む人たちにとってはいかに過酷なものであったのかが分かる

ロシアやウクライナ(特に東部)にはソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを呪いソ連時代を

懐かしく思う人が多いのも頷ける気がする

「奇跡的な」フルシチョフ時代非常に興味深いデータがある第 1表(次頁)には1900

年(日露戦争直前の帝政時代)1965年(ソ連のフルシチョフ時代直後)2011年(最近)

のロシア+ウクライナと日本を含む先進諸国との平均寿命の差が示されている

この表を一見して今日の常識からみて一番意外なのは1965年にはロシア+ウクライ

6) httpwwwgksrufree_doc2007demosmerthtm

7) httpwwwdemoscoperuweekly20100405analit03php

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 2: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

2

ってから国父ケマルアタチュルク以来の政教分離政策が漂流し始めていて今ではトル

コEU双方共に加盟不能が了解事項となっていしまっているようだ「やっぱり EUに入

れなくてよかったドイツだけでなくヨーロッパ中がトルコ人で溢れてしまうところだっ

た」と胸をなぜ下ろしている EU当局者の姿が目に浮かぶ 2)

トルコに次いで注目されるのはヴィシェグラードグループ諸国がやはり仲良くドン

グリの背比べをしながら冷戦終結時の人口水準をその後も保っていることであるただし

ハンガリーだけは置いてけぼりを食いそうに形勢にある

このヴィシェグラードグループの中に割って入りハンガリーのカーヴとほぼ重なって

いるロシアは人口の低落傾向に歯止めが掛かり健闘しているかに見えるロシアの最

近の傾向についてはこの後半で検討してみることにする

ブルガリアとルーマニアは EU 加盟(2007 年)後もヴィザの不要なシェンゲン圏に入

ることができずまた 2014 年までは就労制限が掛けられていたにもかかわらずEU 加

盟が人口減少傾向を加速させて労働者の移住のみならず頭脳流出を促進させ(ルーマ

ニアは EU加盟以来 1万 5000人の医師と 5万人の医療関係者を流出させてしまったそう

な)国家存亡の危機にあるとさえ言えるかもしれないルーマニアは冷戦終結時には

2350 万人あった人口が 2014年には 2000 万人を切ってしまってなおも減少傾向が続い

ているブルガリアは 80 年代半ばにはほぼ 900 万人近くだった人口が最近は 700 万人に

限りなく近づいているまた両国合わせて 300 万人以上の出稼ぎ労働者が他の EU諸国に

滞在しているとみられている

ウクライナの人口に関しては「ウクライナの実状」の世界ランキングの④に記したよう

に2014 年 10 月 14 日現在のデータ(ウクライナ国家統計庁発表)ではクリミアを除い

て 4280 万人となっているピーク時の 1993 年には 5200 万人近かったというからウ

クライナはクリミアの人口 228万 4400人を差し引いても独立以来ほぼ 770万人15の

人口を減らしたことになるおよそ七人に一人がいなくなってしまったのである 自然減

のほかに海外移住者が多数を占めそれが統計に表れたのであるがそのほか国外で働く

合法非合法の出稼ぎ労働者数は一説に 700 万人に及ぶというこれだけでもウクライナ

は国家として危機的状況にある

現在ウクライナは EU諸国への渡航にはシェンゲンヴィザを必要としているが大統

領選挙にせよ議会選挙にせよ選挙がある度に親欧米派の候補者は EUへのヴィザ無し渡

航を公約としていたしEU 側の多くの政治家もそれに呼応してリップサーヴィスに努め

るのを恒例とした特に連合協定を巡ってロシアと綱引きしていた時には調印すればす

ぐにでもヴィザ無し渡航が実現するような幻想を与え続けた政変後に連合協定の調印に

こぎつけたヤツェニューク政権は何月何日から必ず実現させると期限まで切って約束して

2) ユーロマイダンのデモ隊があんなにも熱望した EU との連合協定の淵源を尋ねるとEU の前身 EEC

(欧州経済共同体)が 1960 年代にギリシャ

とトルコ

と結んだのがその嚆矢であるそうな歴史の皮肉

と言うほかあるまい最近の政情不安も根底には EU 加盟問題がある

3

いたがいざその日が近づくとダンマリを決めこむしかない普通ヴィザ無し渡航は観光

が主目的であるがウクライナに限ってはもし現状のままで実現すればそれを悪用す

る不法就労者が後を絶たないことになる(その数は 300~500万人と予想されている)双

方の政治家の無責任なポピュリズムには呆れるほかない 3)

死亡率と平均寿命の急激な悪化

次に最近三十数年間(1980~2012 年)のウクライナロシアベラルーシの東スラヴ

三ヵ国関係の深い東欧のポーランドとチェコそれに EU 主要十五ヵ国(2004 年以前

の加盟国)平均の死亡率の推移(人口 1000 人当たりの一年間の死亡者数)と平均寿命の

推移を第 2図と第 3図(次頁)に示す

この二つのグラフは冷戦終結後の各国の社会変動が国民の命そのものに与えた影響の

度合いを如実に示している

ソ連圏の社会主義陣営に属した諸国は社会主義の中央指令型の計画経済から資本主義

の市場経済への移行を目指したのであるがこれらのグラフから一見して明らかように

チェコとポーランドの西スラヴの国は順調に移行しているのに対し東スラヴ三ヵ国はの

たうち苦しんでいるのである

ポーランドとチェコ両国にとっては冷戦終結即欧州回帰がいかに好結果をもたらした

かがよく分かる

第 2 図のグラフを見て一番予想外だったのは冷戦時代(1980 年代)のチェコの死亡

率の高さである特に共通点の多いと思われる隣国のあるポーランドとの大きな落差は

意外であるし東スラヴ三ヵ国よりも大分高いのにも驚かされるそのチェコに比べポ

ーランドはソヴィエト的生活スタイルにもヨーロッパ的生活スタイルにも対応できる驚く

べき順応力を持っているのかもしれないあるいは十九世紀を通じてロシアに長年支配さ

れてロシア人馴れしているポーランドに対しオーストリア帝国に属してヨーロッパ馴れ

していたチェコはそれだけ否定的な影響を強く受け国民はストレスの多い生活を送らざ

るを得なかったためなのであろうか東京オリンピックの華であった体操のチャスラフス

カがプラハの春の弾圧(1968 年)以来苦難の生活を強いられたことが象徴しているような

気がしてならない

東スラヴ三ヵ国ではソ連時代末期に死亡率と平均寿命が漸次的に悪化する傾向にあった

3) EU 側が宿題を与え(たとえば ICパスポートへの切り替え)ウクライナ側がそれを果たすと言う展開

がずっと続き2015年末には EU側は要求が全て満たされたことを認めたが2016年になるとまたも

イチャモンをつけウクライナの EU へのヴィザなし渡航は中東からの難民問題も重なり未だ実現し

ていない(2016 年 6月現在)経済相を務めたこともあるヴィクトルススロフはごく最近こう語って

いる「現在何百万人ものウクライナ人特に若者が他国に出稼ぎに行く機会を求めているEU と

のヴィザ無し渡航実現への期待は大部分の市民にとってはヴィザ無しでバチカンを訪れることでは

なくてヴィザ無しでヨーロッパに出かけそこで仕事を見つけたい希望と結びついているたとえ非

合法であってもたとえ一時的であってもそこで何とか引っ掛かりを見つけその後 EU での滞在を

合法化してもらいウクライナと比べてマシな給金にありついて暮らしたいのである」(httpglavred

infopolitikaekspert-rasskazal-zachem-ukraincam-bezvizovyy-rezhim-s-evropoy-369305html)

4

第 2 図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコEU

主要 15ヵ国平均の死亡率の推移(人口 1000 人当たりの一年間の死亡者数)1)

第 3図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコ

EU主要 15ヵ国平均の平均寿命の推移 1)

5

のだが1985 年前後に状況が一気に改善した時期があるこれは 1984 年から 87 年にか

けて実施され悪評紛々だったゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代の痕跡であ

るいわゆるペレストロイカの最盛期に見られた現象であるがソヴィエト政権が懸命に

正当性を主張して延命を図ろうとした最後のあがきだったように見える興味深いことに

ポーランドはチェコと違ってやはりこの時期に東スラヴ三ヵ国の傾向に追随している

ロシア十字ウクライナ十字と膨大な数の「遅発性戦死者」

ゴルバチョフの反アルコールキャンペーンが行き詰り御破算になってソ連が崩壊した

1990年代前半には東スラヴ三ヵ国の死亡率が急激に高まっているこのとき同時にロシア

では出生率が一気に低下した一方が急上昇他方が急落下した結果出生率と死亡率が

逆転しその二つの経時的カーヴが十字状に交差したちょうど第 2図における東スラヴ

三ヵ国とチェコの曲線の交差を強調したかのような現象であるこれを人口学者は「ロシ

ア十字」と呼んだがウクライナでも同様の現象が見られた第 4図第 5図参照 4)

第 4図ロシア十字(左)とウクライナ十字(右)(縦軸は 1000人当たりの人数)

ロシア十字もウクライナ十字も戦争飢饉疫病の流行等がない場合に極めて珍しい例

でありいわば平時では史上初めてではないかと言われているほどである

この結果を比喩的に言えば熱い戦争と違って冷たい戦争では敗北後に本格的な戦い

が始まりロシアやウクライナでは遅発性の戦死者が続出したことになるのかもしれない

ある試算によるともしソ連末期の 1980 年代の死亡率が冷戦後の 1990~2012 年にも維

持された場合にはウクライナで 380万人ロシアで 1100万人ベラルーシで 55万人

従ってこの東スラヴ三国で合計約 1500 万人が死なずに済んだかもしれないとされてい

4) httptezavantagcomdocs319index-99489html

6

る第二次世界大戦の犠牲者がソ連全体で公称 2000万人と言われているから冷戦の敗

北国は史上最大の熱い戦争に匹敵するほどの犠牲者を出していることになる

社会主義経済から市場経済への移行において模式的に言えばロシアとウクライナで

は国有財産の収奪的民営化によって寡頭制(オリガルヒ)資本主義が形成されその後ロ

シアではプーチン政権の国家資本主義がウクライナではオリガルヒが政権を取って文字

どおりの寡頭制資本主義が支配しているがベラルーシの市場経済化においては極力ショ

ック療法的な手法を避けたいわゆる国民融和的な(立場を変えれば中途半端な)経済政

策が採用され限定的ながら一定の効果を上げている第 2図でウクライナとベラルーシ

の曲線の差の個所に斜線が入っているがこれはベラルーシ型の融和的な経済移行であっ

たならば人的被害はウクライナとロシアでは 30すなわちウクライナでは 110万人

ロシアでは 330万人少なくて済んだことを示しているとされるとにもかくにも社会の

激動や社会政策が国民の生死に直結しているのである

平均寿命の男女格差

2013 年度(2014 年発表)の国連開発計画(UNDP)のデータ 5)によるロシアとウクラ

イナの平均寿命は世界 191 ヵ国中ウクライナが第 124位で 685歳ロシアが第 129 位

で 68 歳となっていてこの時点では両国共に未だソ連末期のレベルに僅かに届いていな

いちなみに日本は世界第 1位で 836歳だった

平均寿命に関してロシアとウクライナ両国で一番際立つのは男女間の格差である第 5

図と第 6図(次頁)にロシアとウクライナの男女別の平均寿命の推移を示す世界の平均

寿命の男女差は平均して 3~7 歳と言われている日本は世界的に見て大きい方で6~7

歳の差があるしかしロシアとウクライナではそれをはるかに凌駕している

ソ連時代からの歴史と平均寿命との関係を概括的に言えばスターリン批判からフルシ

チョフが辞任に追い込まれるまでのほぼ十年間(1953~64 年)はソ連で一番明るく活気

のあった時代だったという評判通りに平均寿命も順調に延びている次のブレジネフ時代

(1964~82 年)はノメンクラトゥーラ(共産党幹部階層)が安定かつ鞏固に支配するソ

連で一番平穏な時代であったが思想統制と計画経済の欠陥を次第に露呈して長い停滞に

陥り社会には閉塞感が蔓延したブレジネフの死後ペレストロイカの掛け声のもとゴ

ルバチョフが登場した 1980 年代半ばからの数年間は社会が活気づき希望の光が射したか

のようであったが平均寿命の曲線が残酷なまでに明示しているように奈落を前にしたカ

ンフル注射の如きものに過ぎなかったこのような社会情勢の変遷は恐ろしいまでに見事

に平均寿命の曲線と対応しているこの場合の男女差は歴然としていて女の寿命は社会

情勢に比較的耐性があるのに男の寿命はそれに思う存分弄ばれていると言いうるほどで

ある

ロシアとウクライナとではロシアの方が冷戦後の社会情勢の影響をより深刻に受けて

5) httpgtmarketruratingslife-expectancy-indexlife-expectancy-index-info

7

第 5図2005年までのロシアの男女別平均寿命の推移 6)

第 6図2008年までのウクライナの男女別平均寿命の推移 7)

いる特に男の場合は平均寿命がロシアでは 60 歳以下に陥りそれがなかなか回復し

なかったウクライナの場合は曲線の傾向は同じようでありながら男の平均寿命が 60

歳を割り込むことがなかった

以上の結果を合わせ見れば日本を含む西側諸国からは良いこと尽くめのように思われ

たソ連崩壊も当の国に住む人たちにとってはいかに過酷なものであったのかが分かる

ロシアやウクライナ(特に東部)にはソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを呪いソ連時代を

懐かしく思う人が多いのも頷ける気がする

「奇跡的な」フルシチョフ時代非常に興味深いデータがある第 1表(次頁)には1900

年(日露戦争直前の帝政時代)1965年(ソ連のフルシチョフ時代直後)2011年(最近)

のロシア+ウクライナと日本を含む先進諸国との平均寿命の差が示されている

この表を一見して今日の常識からみて一番意外なのは1965年にはロシア+ウクライ

6) httpwwwgksrufree_doc2007demosmerthtm

7) httpwwwdemoscoperuweekly20100405analit03php

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 3: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

3

いたがいざその日が近づくとダンマリを決めこむしかない普通ヴィザ無し渡航は観光

が主目的であるがウクライナに限ってはもし現状のままで実現すればそれを悪用す

る不法就労者が後を絶たないことになる(その数は 300~500万人と予想されている)双

方の政治家の無責任なポピュリズムには呆れるほかない 3)

死亡率と平均寿命の急激な悪化

次に最近三十数年間(1980~2012 年)のウクライナロシアベラルーシの東スラヴ

三ヵ国関係の深い東欧のポーランドとチェコそれに EU 主要十五ヵ国(2004 年以前

の加盟国)平均の死亡率の推移(人口 1000 人当たりの一年間の死亡者数)と平均寿命の

推移を第 2図と第 3図(次頁)に示す

この二つのグラフは冷戦終結後の各国の社会変動が国民の命そのものに与えた影響の

度合いを如実に示している

ソ連圏の社会主義陣営に属した諸国は社会主義の中央指令型の計画経済から資本主義

の市場経済への移行を目指したのであるがこれらのグラフから一見して明らかように

チェコとポーランドの西スラヴの国は順調に移行しているのに対し東スラヴ三ヵ国はの

たうち苦しんでいるのである

ポーランドとチェコ両国にとっては冷戦終結即欧州回帰がいかに好結果をもたらした

かがよく分かる

第 2 図のグラフを見て一番予想外だったのは冷戦時代(1980 年代)のチェコの死亡

率の高さである特に共通点の多いと思われる隣国のあるポーランドとの大きな落差は

意外であるし東スラヴ三ヵ国よりも大分高いのにも驚かされるそのチェコに比べポ

ーランドはソヴィエト的生活スタイルにもヨーロッパ的生活スタイルにも対応できる驚く

べき順応力を持っているのかもしれないあるいは十九世紀を通じてロシアに長年支配さ

れてロシア人馴れしているポーランドに対しオーストリア帝国に属してヨーロッパ馴れ

していたチェコはそれだけ否定的な影響を強く受け国民はストレスの多い生活を送らざ

るを得なかったためなのであろうか東京オリンピックの華であった体操のチャスラフス

カがプラハの春の弾圧(1968 年)以来苦難の生活を強いられたことが象徴しているような

気がしてならない

東スラヴ三ヵ国ではソ連時代末期に死亡率と平均寿命が漸次的に悪化する傾向にあった

3) EU 側が宿題を与え(たとえば ICパスポートへの切り替え)ウクライナ側がそれを果たすと言う展開

がずっと続き2015年末には EU側は要求が全て満たされたことを認めたが2016年になるとまたも

イチャモンをつけウクライナの EU へのヴィザなし渡航は中東からの難民問題も重なり未だ実現し

ていない(2016 年 6月現在)経済相を務めたこともあるヴィクトルススロフはごく最近こう語って

いる「現在何百万人ものウクライナ人特に若者が他国に出稼ぎに行く機会を求めているEU と

のヴィザ無し渡航実現への期待は大部分の市民にとってはヴィザ無しでバチカンを訪れることでは

なくてヴィザ無しでヨーロッパに出かけそこで仕事を見つけたい希望と結びついているたとえ非

合法であってもたとえ一時的であってもそこで何とか引っ掛かりを見つけその後 EU での滞在を

合法化してもらいウクライナと比べてマシな給金にありついて暮らしたいのである」(httpglavred

infopolitikaekspert-rasskazal-zachem-ukraincam-bezvizovyy-rezhim-s-evropoy-369305html)

4

第 2 図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコEU

主要 15ヵ国平均の死亡率の推移(人口 1000 人当たりの一年間の死亡者数)1)

第 3図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコ

EU主要 15ヵ国平均の平均寿命の推移 1)

5

のだが1985 年前後に状況が一気に改善した時期があるこれは 1984 年から 87 年にか

けて実施され悪評紛々だったゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代の痕跡であ

るいわゆるペレストロイカの最盛期に見られた現象であるがソヴィエト政権が懸命に

正当性を主張して延命を図ろうとした最後のあがきだったように見える興味深いことに

ポーランドはチェコと違ってやはりこの時期に東スラヴ三ヵ国の傾向に追随している

ロシア十字ウクライナ十字と膨大な数の「遅発性戦死者」

ゴルバチョフの反アルコールキャンペーンが行き詰り御破算になってソ連が崩壊した

1990年代前半には東スラヴ三ヵ国の死亡率が急激に高まっているこのとき同時にロシア

では出生率が一気に低下した一方が急上昇他方が急落下した結果出生率と死亡率が

逆転しその二つの経時的カーヴが十字状に交差したちょうど第 2図における東スラヴ

三ヵ国とチェコの曲線の交差を強調したかのような現象であるこれを人口学者は「ロシ

ア十字」と呼んだがウクライナでも同様の現象が見られた第 4図第 5図参照 4)

第 4図ロシア十字(左)とウクライナ十字(右)(縦軸は 1000人当たりの人数)

ロシア十字もウクライナ十字も戦争飢饉疫病の流行等がない場合に極めて珍しい例

でありいわば平時では史上初めてではないかと言われているほどである

この結果を比喩的に言えば熱い戦争と違って冷たい戦争では敗北後に本格的な戦い

が始まりロシアやウクライナでは遅発性の戦死者が続出したことになるのかもしれない

ある試算によるともしソ連末期の 1980 年代の死亡率が冷戦後の 1990~2012 年にも維

持された場合にはウクライナで 380万人ロシアで 1100万人ベラルーシで 55万人

従ってこの東スラヴ三国で合計約 1500 万人が死なずに済んだかもしれないとされてい

4) httptezavantagcomdocs319index-99489html

6

る第二次世界大戦の犠牲者がソ連全体で公称 2000万人と言われているから冷戦の敗

北国は史上最大の熱い戦争に匹敵するほどの犠牲者を出していることになる

社会主義経済から市場経済への移行において模式的に言えばロシアとウクライナで

は国有財産の収奪的民営化によって寡頭制(オリガルヒ)資本主義が形成されその後ロ

シアではプーチン政権の国家資本主義がウクライナではオリガルヒが政権を取って文字

どおりの寡頭制資本主義が支配しているがベラルーシの市場経済化においては極力ショ

ック療法的な手法を避けたいわゆる国民融和的な(立場を変えれば中途半端な)経済政

策が採用され限定的ながら一定の効果を上げている第 2図でウクライナとベラルーシ

の曲線の差の個所に斜線が入っているがこれはベラルーシ型の融和的な経済移行であっ

たならば人的被害はウクライナとロシアでは 30すなわちウクライナでは 110万人

ロシアでは 330万人少なくて済んだことを示しているとされるとにもかくにも社会の

激動や社会政策が国民の生死に直結しているのである

平均寿命の男女格差

2013 年度(2014 年発表)の国連開発計画(UNDP)のデータ 5)によるロシアとウクラ

イナの平均寿命は世界 191 ヵ国中ウクライナが第 124位で 685歳ロシアが第 129 位

で 68 歳となっていてこの時点では両国共に未だソ連末期のレベルに僅かに届いていな

いちなみに日本は世界第 1位で 836歳だった

平均寿命に関してロシアとウクライナ両国で一番際立つのは男女間の格差である第 5

図と第 6図(次頁)にロシアとウクライナの男女別の平均寿命の推移を示す世界の平均

寿命の男女差は平均して 3~7 歳と言われている日本は世界的に見て大きい方で6~7

歳の差があるしかしロシアとウクライナではそれをはるかに凌駕している

ソ連時代からの歴史と平均寿命との関係を概括的に言えばスターリン批判からフルシ

チョフが辞任に追い込まれるまでのほぼ十年間(1953~64 年)はソ連で一番明るく活気

のあった時代だったという評判通りに平均寿命も順調に延びている次のブレジネフ時代

(1964~82 年)はノメンクラトゥーラ(共産党幹部階層)が安定かつ鞏固に支配するソ

連で一番平穏な時代であったが思想統制と計画経済の欠陥を次第に露呈して長い停滞に

陥り社会には閉塞感が蔓延したブレジネフの死後ペレストロイカの掛け声のもとゴ

ルバチョフが登場した 1980 年代半ばからの数年間は社会が活気づき希望の光が射したか

のようであったが平均寿命の曲線が残酷なまでに明示しているように奈落を前にしたカ

ンフル注射の如きものに過ぎなかったこのような社会情勢の変遷は恐ろしいまでに見事

に平均寿命の曲線と対応しているこの場合の男女差は歴然としていて女の寿命は社会

情勢に比較的耐性があるのに男の寿命はそれに思う存分弄ばれていると言いうるほどで

ある

ロシアとウクライナとではロシアの方が冷戦後の社会情勢の影響をより深刻に受けて

5) httpgtmarketruratingslife-expectancy-indexlife-expectancy-index-info

7

第 5図2005年までのロシアの男女別平均寿命の推移 6)

第 6図2008年までのウクライナの男女別平均寿命の推移 7)

いる特に男の場合は平均寿命がロシアでは 60 歳以下に陥りそれがなかなか回復し

なかったウクライナの場合は曲線の傾向は同じようでありながら男の平均寿命が 60

歳を割り込むことがなかった

以上の結果を合わせ見れば日本を含む西側諸国からは良いこと尽くめのように思われ

たソ連崩壊も当の国に住む人たちにとってはいかに過酷なものであったのかが分かる

ロシアやウクライナ(特に東部)にはソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを呪いソ連時代を

懐かしく思う人が多いのも頷ける気がする

「奇跡的な」フルシチョフ時代非常に興味深いデータがある第 1表(次頁)には1900

年(日露戦争直前の帝政時代)1965年(ソ連のフルシチョフ時代直後)2011年(最近)

のロシア+ウクライナと日本を含む先進諸国との平均寿命の差が示されている

この表を一見して今日の常識からみて一番意外なのは1965年にはロシア+ウクライ

6) httpwwwgksrufree_doc2007demosmerthtm

7) httpwwwdemoscoperuweekly20100405analit03php

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 4: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

4

第 2 図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコEU

主要 15ヵ国平均の死亡率の推移(人口 1000 人当たりの一年間の死亡者数)1)

第 3図1980~2012 年のウクライナロシアベラルーシポーランドチェコ

EU主要 15ヵ国平均の平均寿命の推移 1)

5

のだが1985 年前後に状況が一気に改善した時期があるこれは 1984 年から 87 年にか

けて実施され悪評紛々だったゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代の痕跡であ

るいわゆるペレストロイカの最盛期に見られた現象であるがソヴィエト政権が懸命に

正当性を主張して延命を図ろうとした最後のあがきだったように見える興味深いことに

ポーランドはチェコと違ってやはりこの時期に東スラヴ三ヵ国の傾向に追随している

ロシア十字ウクライナ十字と膨大な数の「遅発性戦死者」

ゴルバチョフの反アルコールキャンペーンが行き詰り御破算になってソ連が崩壊した

1990年代前半には東スラヴ三ヵ国の死亡率が急激に高まっているこのとき同時にロシア

では出生率が一気に低下した一方が急上昇他方が急落下した結果出生率と死亡率が

逆転しその二つの経時的カーヴが十字状に交差したちょうど第 2図における東スラヴ

三ヵ国とチェコの曲線の交差を強調したかのような現象であるこれを人口学者は「ロシ

ア十字」と呼んだがウクライナでも同様の現象が見られた第 4図第 5図参照 4)

第 4図ロシア十字(左)とウクライナ十字(右)(縦軸は 1000人当たりの人数)

ロシア十字もウクライナ十字も戦争飢饉疫病の流行等がない場合に極めて珍しい例

でありいわば平時では史上初めてではないかと言われているほどである

この結果を比喩的に言えば熱い戦争と違って冷たい戦争では敗北後に本格的な戦い

が始まりロシアやウクライナでは遅発性の戦死者が続出したことになるのかもしれない

ある試算によるともしソ連末期の 1980 年代の死亡率が冷戦後の 1990~2012 年にも維

持された場合にはウクライナで 380万人ロシアで 1100万人ベラルーシで 55万人

従ってこの東スラヴ三国で合計約 1500 万人が死なずに済んだかもしれないとされてい

4) httptezavantagcomdocs319index-99489html

6

る第二次世界大戦の犠牲者がソ連全体で公称 2000万人と言われているから冷戦の敗

北国は史上最大の熱い戦争に匹敵するほどの犠牲者を出していることになる

社会主義経済から市場経済への移行において模式的に言えばロシアとウクライナで

は国有財産の収奪的民営化によって寡頭制(オリガルヒ)資本主義が形成されその後ロ

シアではプーチン政権の国家資本主義がウクライナではオリガルヒが政権を取って文字

どおりの寡頭制資本主義が支配しているがベラルーシの市場経済化においては極力ショ

ック療法的な手法を避けたいわゆる国民融和的な(立場を変えれば中途半端な)経済政

策が採用され限定的ながら一定の効果を上げている第 2図でウクライナとベラルーシ

の曲線の差の個所に斜線が入っているがこれはベラルーシ型の融和的な経済移行であっ

たならば人的被害はウクライナとロシアでは 30すなわちウクライナでは 110万人

ロシアでは 330万人少なくて済んだことを示しているとされるとにもかくにも社会の

激動や社会政策が国民の生死に直結しているのである

平均寿命の男女格差

2013 年度(2014 年発表)の国連開発計画(UNDP)のデータ 5)によるロシアとウクラ

イナの平均寿命は世界 191 ヵ国中ウクライナが第 124位で 685歳ロシアが第 129 位

で 68 歳となっていてこの時点では両国共に未だソ連末期のレベルに僅かに届いていな

いちなみに日本は世界第 1位で 836歳だった

平均寿命に関してロシアとウクライナ両国で一番際立つのは男女間の格差である第 5

図と第 6図(次頁)にロシアとウクライナの男女別の平均寿命の推移を示す世界の平均

寿命の男女差は平均して 3~7 歳と言われている日本は世界的に見て大きい方で6~7

歳の差があるしかしロシアとウクライナではそれをはるかに凌駕している

ソ連時代からの歴史と平均寿命との関係を概括的に言えばスターリン批判からフルシ

チョフが辞任に追い込まれるまでのほぼ十年間(1953~64 年)はソ連で一番明るく活気

のあった時代だったという評判通りに平均寿命も順調に延びている次のブレジネフ時代

(1964~82 年)はノメンクラトゥーラ(共産党幹部階層)が安定かつ鞏固に支配するソ

連で一番平穏な時代であったが思想統制と計画経済の欠陥を次第に露呈して長い停滞に

陥り社会には閉塞感が蔓延したブレジネフの死後ペレストロイカの掛け声のもとゴ

ルバチョフが登場した 1980 年代半ばからの数年間は社会が活気づき希望の光が射したか

のようであったが平均寿命の曲線が残酷なまでに明示しているように奈落を前にしたカ

ンフル注射の如きものに過ぎなかったこのような社会情勢の変遷は恐ろしいまでに見事

に平均寿命の曲線と対応しているこの場合の男女差は歴然としていて女の寿命は社会

情勢に比較的耐性があるのに男の寿命はそれに思う存分弄ばれていると言いうるほどで

ある

ロシアとウクライナとではロシアの方が冷戦後の社会情勢の影響をより深刻に受けて

5) httpgtmarketruratingslife-expectancy-indexlife-expectancy-index-info

7

第 5図2005年までのロシアの男女別平均寿命の推移 6)

第 6図2008年までのウクライナの男女別平均寿命の推移 7)

いる特に男の場合は平均寿命がロシアでは 60 歳以下に陥りそれがなかなか回復し

なかったウクライナの場合は曲線の傾向は同じようでありながら男の平均寿命が 60

歳を割り込むことがなかった

以上の結果を合わせ見れば日本を含む西側諸国からは良いこと尽くめのように思われ

たソ連崩壊も当の国に住む人たちにとってはいかに過酷なものであったのかが分かる

ロシアやウクライナ(特に東部)にはソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを呪いソ連時代を

懐かしく思う人が多いのも頷ける気がする

「奇跡的な」フルシチョフ時代非常に興味深いデータがある第 1表(次頁)には1900

年(日露戦争直前の帝政時代)1965年(ソ連のフルシチョフ時代直後)2011年(最近)

のロシア+ウクライナと日本を含む先進諸国との平均寿命の差が示されている

この表を一見して今日の常識からみて一番意外なのは1965年にはロシア+ウクライ

6) httpwwwgksrufree_doc2007demosmerthtm

7) httpwwwdemoscoperuweekly20100405analit03php

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 5: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

5

のだが1985 年前後に状況が一気に改善した時期があるこれは 1984 年から 87 年にか

けて実施され悪評紛々だったゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代の痕跡であ

るいわゆるペレストロイカの最盛期に見られた現象であるがソヴィエト政権が懸命に

正当性を主張して延命を図ろうとした最後のあがきだったように見える興味深いことに

ポーランドはチェコと違ってやはりこの時期に東スラヴ三ヵ国の傾向に追随している

ロシア十字ウクライナ十字と膨大な数の「遅発性戦死者」

ゴルバチョフの反アルコールキャンペーンが行き詰り御破算になってソ連が崩壊した

1990年代前半には東スラヴ三ヵ国の死亡率が急激に高まっているこのとき同時にロシア

では出生率が一気に低下した一方が急上昇他方が急落下した結果出生率と死亡率が

逆転しその二つの経時的カーヴが十字状に交差したちょうど第 2図における東スラヴ

三ヵ国とチェコの曲線の交差を強調したかのような現象であるこれを人口学者は「ロシ

ア十字」と呼んだがウクライナでも同様の現象が見られた第 4図第 5図参照 4)

第 4図ロシア十字(左)とウクライナ十字(右)(縦軸は 1000人当たりの人数)

ロシア十字もウクライナ十字も戦争飢饉疫病の流行等がない場合に極めて珍しい例

でありいわば平時では史上初めてではないかと言われているほどである

この結果を比喩的に言えば熱い戦争と違って冷たい戦争では敗北後に本格的な戦い

が始まりロシアやウクライナでは遅発性の戦死者が続出したことになるのかもしれない

ある試算によるともしソ連末期の 1980 年代の死亡率が冷戦後の 1990~2012 年にも維

持された場合にはウクライナで 380万人ロシアで 1100万人ベラルーシで 55万人

従ってこの東スラヴ三国で合計約 1500 万人が死なずに済んだかもしれないとされてい

4) httptezavantagcomdocs319index-99489html

6

る第二次世界大戦の犠牲者がソ連全体で公称 2000万人と言われているから冷戦の敗

北国は史上最大の熱い戦争に匹敵するほどの犠牲者を出していることになる

社会主義経済から市場経済への移行において模式的に言えばロシアとウクライナで

は国有財産の収奪的民営化によって寡頭制(オリガルヒ)資本主義が形成されその後ロ

シアではプーチン政権の国家資本主義がウクライナではオリガルヒが政権を取って文字

どおりの寡頭制資本主義が支配しているがベラルーシの市場経済化においては極力ショ

ック療法的な手法を避けたいわゆる国民融和的な(立場を変えれば中途半端な)経済政

策が採用され限定的ながら一定の効果を上げている第 2図でウクライナとベラルーシ

の曲線の差の個所に斜線が入っているがこれはベラルーシ型の融和的な経済移行であっ

たならば人的被害はウクライナとロシアでは 30すなわちウクライナでは 110万人

ロシアでは 330万人少なくて済んだことを示しているとされるとにもかくにも社会の

激動や社会政策が国民の生死に直結しているのである

平均寿命の男女格差

2013 年度(2014 年発表)の国連開発計画(UNDP)のデータ 5)によるロシアとウクラ

イナの平均寿命は世界 191 ヵ国中ウクライナが第 124位で 685歳ロシアが第 129 位

で 68 歳となっていてこの時点では両国共に未だソ連末期のレベルに僅かに届いていな

いちなみに日本は世界第 1位で 836歳だった

平均寿命に関してロシアとウクライナ両国で一番際立つのは男女間の格差である第 5

図と第 6図(次頁)にロシアとウクライナの男女別の平均寿命の推移を示す世界の平均

寿命の男女差は平均して 3~7 歳と言われている日本は世界的に見て大きい方で6~7

歳の差があるしかしロシアとウクライナではそれをはるかに凌駕している

ソ連時代からの歴史と平均寿命との関係を概括的に言えばスターリン批判からフルシ

チョフが辞任に追い込まれるまでのほぼ十年間(1953~64 年)はソ連で一番明るく活気

のあった時代だったという評判通りに平均寿命も順調に延びている次のブレジネフ時代

(1964~82 年)はノメンクラトゥーラ(共産党幹部階層)が安定かつ鞏固に支配するソ

連で一番平穏な時代であったが思想統制と計画経済の欠陥を次第に露呈して長い停滞に

陥り社会には閉塞感が蔓延したブレジネフの死後ペレストロイカの掛け声のもとゴ

ルバチョフが登場した 1980 年代半ばからの数年間は社会が活気づき希望の光が射したか

のようであったが平均寿命の曲線が残酷なまでに明示しているように奈落を前にしたカ

ンフル注射の如きものに過ぎなかったこのような社会情勢の変遷は恐ろしいまでに見事

に平均寿命の曲線と対応しているこの場合の男女差は歴然としていて女の寿命は社会

情勢に比較的耐性があるのに男の寿命はそれに思う存分弄ばれていると言いうるほどで

ある

ロシアとウクライナとではロシアの方が冷戦後の社会情勢の影響をより深刻に受けて

5) httpgtmarketruratingslife-expectancy-indexlife-expectancy-index-info

7

第 5図2005年までのロシアの男女別平均寿命の推移 6)

第 6図2008年までのウクライナの男女別平均寿命の推移 7)

いる特に男の場合は平均寿命がロシアでは 60 歳以下に陥りそれがなかなか回復し

なかったウクライナの場合は曲線の傾向は同じようでありながら男の平均寿命が 60

歳を割り込むことがなかった

以上の結果を合わせ見れば日本を含む西側諸国からは良いこと尽くめのように思われ

たソ連崩壊も当の国に住む人たちにとってはいかに過酷なものであったのかが分かる

ロシアやウクライナ(特に東部)にはソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを呪いソ連時代を

懐かしく思う人が多いのも頷ける気がする

「奇跡的な」フルシチョフ時代非常に興味深いデータがある第 1表(次頁)には1900

年(日露戦争直前の帝政時代)1965年(ソ連のフルシチョフ時代直後)2011年(最近)

のロシア+ウクライナと日本を含む先進諸国との平均寿命の差が示されている

この表を一見して今日の常識からみて一番意外なのは1965年にはロシア+ウクライ

6) httpwwwgksrufree_doc2007demosmerthtm

7) httpwwwdemoscoperuweekly20100405analit03php

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 6: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

6

る第二次世界大戦の犠牲者がソ連全体で公称 2000万人と言われているから冷戦の敗

北国は史上最大の熱い戦争に匹敵するほどの犠牲者を出していることになる

社会主義経済から市場経済への移行において模式的に言えばロシアとウクライナで

は国有財産の収奪的民営化によって寡頭制(オリガルヒ)資本主義が形成されその後ロ

シアではプーチン政権の国家資本主義がウクライナではオリガルヒが政権を取って文字

どおりの寡頭制資本主義が支配しているがベラルーシの市場経済化においては極力ショ

ック療法的な手法を避けたいわゆる国民融和的な(立場を変えれば中途半端な)経済政

策が採用され限定的ながら一定の効果を上げている第 2図でウクライナとベラルーシ

の曲線の差の個所に斜線が入っているがこれはベラルーシ型の融和的な経済移行であっ

たならば人的被害はウクライナとロシアでは 30すなわちウクライナでは 110万人

ロシアでは 330万人少なくて済んだことを示しているとされるとにもかくにも社会の

激動や社会政策が国民の生死に直結しているのである

平均寿命の男女格差

2013 年度(2014 年発表)の国連開発計画(UNDP)のデータ 5)によるロシアとウクラ

イナの平均寿命は世界 191 ヵ国中ウクライナが第 124位で 685歳ロシアが第 129 位

で 68 歳となっていてこの時点では両国共に未だソ連末期のレベルに僅かに届いていな

いちなみに日本は世界第 1位で 836歳だった

平均寿命に関してロシアとウクライナ両国で一番際立つのは男女間の格差である第 5

図と第 6図(次頁)にロシアとウクライナの男女別の平均寿命の推移を示す世界の平均

寿命の男女差は平均して 3~7 歳と言われている日本は世界的に見て大きい方で6~7

歳の差があるしかしロシアとウクライナではそれをはるかに凌駕している

ソ連時代からの歴史と平均寿命との関係を概括的に言えばスターリン批判からフルシ

チョフが辞任に追い込まれるまでのほぼ十年間(1953~64 年)はソ連で一番明るく活気

のあった時代だったという評判通りに平均寿命も順調に延びている次のブレジネフ時代

(1964~82 年)はノメンクラトゥーラ(共産党幹部階層)が安定かつ鞏固に支配するソ

連で一番平穏な時代であったが思想統制と計画経済の欠陥を次第に露呈して長い停滞に

陥り社会には閉塞感が蔓延したブレジネフの死後ペレストロイカの掛け声のもとゴ

ルバチョフが登場した 1980 年代半ばからの数年間は社会が活気づき希望の光が射したか

のようであったが平均寿命の曲線が残酷なまでに明示しているように奈落を前にしたカ

ンフル注射の如きものに過ぎなかったこのような社会情勢の変遷は恐ろしいまでに見事

に平均寿命の曲線と対応しているこの場合の男女差は歴然としていて女の寿命は社会

情勢に比較的耐性があるのに男の寿命はそれに思う存分弄ばれていると言いうるほどで

ある

ロシアとウクライナとではロシアの方が冷戦後の社会情勢の影響をより深刻に受けて

5) httpgtmarketruratingslife-expectancy-indexlife-expectancy-index-info

7

第 5図2005年までのロシアの男女別平均寿命の推移 6)

第 6図2008年までのウクライナの男女別平均寿命の推移 7)

いる特に男の場合は平均寿命がロシアでは 60 歳以下に陥りそれがなかなか回復し

なかったウクライナの場合は曲線の傾向は同じようでありながら男の平均寿命が 60

歳を割り込むことがなかった

以上の結果を合わせ見れば日本を含む西側諸国からは良いこと尽くめのように思われ

たソ連崩壊も当の国に住む人たちにとってはいかに過酷なものであったのかが分かる

ロシアやウクライナ(特に東部)にはソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを呪いソ連時代を

懐かしく思う人が多いのも頷ける気がする

「奇跡的な」フルシチョフ時代非常に興味深いデータがある第 1表(次頁)には1900

年(日露戦争直前の帝政時代)1965年(ソ連のフルシチョフ時代直後)2011年(最近)

のロシア+ウクライナと日本を含む先進諸国との平均寿命の差が示されている

この表を一見して今日の常識からみて一番意外なのは1965年にはロシア+ウクライ

6) httpwwwgksrufree_doc2007demosmerthtm

7) httpwwwdemoscoperuweekly20100405analit03php

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 7: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

7

第 5図2005年までのロシアの男女別平均寿命の推移 6)

第 6図2008年までのウクライナの男女別平均寿命の推移 7)

いる特に男の場合は平均寿命がロシアでは 60 歳以下に陥りそれがなかなか回復し

なかったウクライナの場合は曲線の傾向は同じようでありながら男の平均寿命が 60

歳を割り込むことがなかった

以上の結果を合わせ見れば日本を含む西側諸国からは良いこと尽くめのように思われ

たソ連崩壊も当の国に住む人たちにとってはいかに過酷なものであったのかが分かる

ロシアやウクライナ(特に東部)にはソ連を崩壊に導いたゴルバチョフを呪いソ連時代を

懐かしく思う人が多いのも頷ける気がする

「奇跡的な」フルシチョフ時代非常に興味深いデータがある第 1表(次頁)には1900

年(日露戦争直前の帝政時代)1965年(ソ連のフルシチョフ時代直後)2011年(最近)

のロシア+ウクライナと日本を含む先進諸国との平均寿命の差が示されている

この表を一見して今日の常識からみて一番意外なのは1965年にはロシア+ウクライ

6) httpwwwgksrufree_doc2007demosmerthtm

7) httpwwwdemoscoperuweekly20100405analit03php

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 8: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

8

年 米国 フランス スウェーデン 日本

1900 159 127 203 145

1965 23 30 72 32

2011 116 131 147 140

1900 162 141 208 131

1965 05 14 28 -05

2011 52 85 74 105

第 1表過去(1900年と 1965年)と現在(2011年)のロシア+ウクライナと

先進諸国との平均寿命の差 1)

ナの平均寿命が先進諸国に肉薄し殆ど遜色のなかったことであるこの 1965年というの

は上述のフルシチョフ時代の直後であるのだがソ連の戦後の回復の速さはやはり今

日では信じがたいほど驚異的なものだったのである最近は世界一の寿命を誇っている日

本女性をロシアウクライナ女性がこの年には 05歳とはいえ凌駕していたというのも信

じがたい 8)ところがこの表の結果を見る限り特に男の平均寿命に関しては百年後

に夢まぼろしのごとく元のモクアミ状態になってしまっているのである

それではウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の推移を比較してみよう第 7図(次

頁)に 1900~2006年のウクライナと西欧諸国の男女の平均寿命の比較を示す

西欧諸国においては男女とも第一次と第二次の世界大戦の影響を受けた時代を除けば

平均寿命は右肩上がりに順調に伸びているがウクライナは第一次世界大戦に引き続きロ

シア革命によって大きな傷を負いさらに 1933 年の戦慄的なデータが示すようにスタ

ーリンによる農業集団化の過程に大飢饉が重なって農民の大量餓死(ウクライナではホロ

ドモールと呼ばれる)の憂き目に遭いまた十年も経たないうちに今度は第二次世界大戦

(独ソ戦)の壊滅的な影響を強いられているしかし1964年には急速に回復し西欧諸

国と肩を並べるまでになっている(女性はわずかとはいえ凌駕している)のはやはり奇跡

的とさえ言えるほどであるこれはスプートニクの打ち上げ(1957 年)とガガーリンの宇

宙遊泳(1961年)で象徴されるフルシチョフ時代であるがその時代の声高のスローガン

が「アメリカに追いつけ追い越せ」だったのが思い起こされる

皮肉と言えばこれ以上の皮肉はないのだが現在のウクライナ人が最大の憎しみを込め

て忌み嫌うソヴィエト時代の最盛期には少なくとも平均寿命においてはウクライナ人

8) この 1965年当時のことで個人的に思い出したことがある神保町のロシア語専門のナウカ書店でのこ

とであったがソ連の宣伝臭たっぷりの大型の写真集があったので手にとって頁をペラペラめくって

見ていたら各地の保養所を自慢げに扱った部分があり中にソチの海岸の写真があったトドの群れ

が砂浜で寝そべっているのかと思った男女の別は水着で分かるのだがいずれ劣らぬ見事なトドぶり

であったあの日光浴中のトドたちは日本女性よりも長生きだったのだ 信じられな~い

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 9: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

9

第 7図1900~2006 年のウクライナ(1990 年以前は現在のウクライナ国境内)と西欧

諸国(2004年 5月以前の EU加盟諸国)の男女別の平均寿命の比較 9)

が願ってやまない西ヨーロッパ人と肩を並べることが実現していたのである

このソヴィエト最良の時代にはソ連型社会主義の最大の取り柄であった無料医療等の

社会保障制度が功を奏していたのであるそれに脅威を感じた西欧諸国の主として社会民

主主義政権が福祉国家を目指すことになって健康環境が著しく改善され西欧諸国は停滞

と閉塞の時代に陥ったソ連を尻目に再び平均寿命で差を広げることになるソ連の最大の

貢献は西欧諸国のカウンターバランスになりえたことかもしれない

次にウクライナの平均余命の推移を男女で比較してみよう第 8 図(次頁)に 1900~

2006年のウクライナの平均余命の男女の比較を示す

1964年以降社会の変遷にもかかわらず壮年女性の平均余命に殆ど変化が無いのに比

9) httppolitruarticle20080415demoscope327

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 10: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

10

第 8 図1900~2006 年のウクライナの 25 歳の国民の平均余命の男女の比較 10)

べ男の変動は激しい一番余命の長かった 1964 年には男女の格差も一番少なかった(五

歳差)がその次に差の少なかったのが反アルコールキャンペーン中の 1986 年であっ

た(七歳差)それにしても1995年と 2006 年の男の余命が 39年でこれは帝政時代の

1912年とロシア革命後の混乱期の 1923年と全く同じという結果は戦慄的である大量餓

死の 1933 年と独ソ戦中の 1942年の結果は悲惨そのものであるものの一番抑圧されてい

たはずのスターリン時代真っ盛りの 1939 年でさえ男の余命は 43年あったのだから

人口動態へのアルコールの影響

上述を整理すると冷戦終結ソ連崩壊後に東スラヴ三ヵ国の人口状況は極度に悪化し

その状況を男女で比較すると男の方がはるかに悪かった膨大な数の「遅発性戦死者」を

出したのであるソ連最末期のゴルバチョフの反アルコ-ルキャンペーン時代に人口状

況が一時的に改善したことは既述の通りであったがそれ以後において熱い戦争で壮年

男性に致命傷を負わせる弾丸のような役割をしたのが冷たい戦争ではアルコール飲料だっ

たのである

ウクライナが直接の対象ではないが第 9 図に 1980 年以後のロシアと英国の 15~54

歳の壮年国民の男女別死亡率の比較を示した

安定した英国と変動の激しいロシア(特に男性)との対比は衝撃的であるごく常識的

には社会的変動の影響を受け易いのは壮年男子よりも社会的弱者である女性子供老

人であると考えがちであるがこの死亡率の推移グラフをみるとロシアの場合は労働年

10) httppolitruarticle20080415demoscope327

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 11: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

11

縦軸の左側は 15~54 歳の国民 1000 名当たりの年間平均死亡者数(人)

右側は 15 歳の国民がその後の 40 年間に死亡する確率()

イヴェントは1985 年がゴルバチョフの反アルコールキャンペーン開始(酒消費量

約 25減)1991 年がソ連崩壊1998 年がアジア通貨危機に端を発したロシア

財政危機2006 年が半禁酒法制定(2005~09 年に高アルコール度数酒 33減)

第 9図ロシア(1980~2012 年)と英国(1980~2010年)の壮年国民の

男女別死亡率の比較 11)

齢である 15~54 歳の男性の変動は激しく時代の波に翻弄されている感があるグラフ

には大きな出来事(イヴェント)のあった年度が示されているが多くがアルコール(酒)

と関係している上図から窺い知ることができるように酒に対する規制や購入価格等の

入手の難易さが壮年男性の死亡率に直接的な影響を与えているのである

そこで平均寿命とアルコール消費量の関係はというと第 10図の如き結果が得られる

第 10図1970~2002年のロシアの男女の平均寿命(縦軸左目盛)と一人当たりの年間ア

ルコール消費量(縦軸右目盛単位ℓ)の関係 4)

11) httpwwwthelancetcomjournalslancetarticlePIIS0140-673628132962247-3fulltext

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 12: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

12

このグラフから明らかなように男の平均寿命とアルコール消費量とは見事と言うしか

ない真逆の対応関係を示している15~54 歳の壮年男子の死亡率がアルコール消費量に依

存する割合は 50以上であるとされているから壮年男子の死因の半数以上が酒の飲み過

ぎと言うことになる

ちなみにロシアとウクライナのアルコール消費量にはさしたる差はない参考として

WHO の 2010 年の統計による世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位ま

でを第 2表に示す

順位 国名 消費量(ℓ)

1 ベラルーシ 1750

2 モルドワ 1680

3 リトアニア 1540

4 ロシア 1510

5 ルーマニア 1440

6 ウクライナ 1390

15 歳以上の人口 1 人当たりの年間アルコール消費量

第 2表世界各国の一人当たり年間アルコール消費量の上位六位(WHO2010 年)

何と全て東欧諸国でありそのうちの五カ国までもがソ連に属していた国であるもっ

ともこんな統計など信用できず(闇経済で取引される酒類は当然公式の統計には入らない)

ウクライナの消費量は実際には 20リットルに達しているとも言われているが2012 年の

WHOの統計ではウクライナは 156リットル(ロシアは 1576リットル)に増加し世界

第五位に躍進したと報道されている 12)

酒に起因する死亡率の高さに輪をかけているのが東スラヴの国ではアルコール含有量

の高い酒(特にウォッカ)が好まれていることである高度数の酒を愛飲する国民の死亡

率はアルコール度数の低い酒(ワインやビール)を好んで飲む国民に比べはるかに高い

第 11図に旧ソ連圏諸国の国民酒と男性の死亡率の関係第 12図に高度数アルコール飲

料消費量と男性寿命との関係を示した

冷戦終結直後に出生率と死亡率の曲線が十字に交差する現象が見られたのは東スラヴ三

ヵ国とバルト三国の内ラトヴィアとリトアニアであったことが知られているがそれと同

じような結果がここでも見られるウクライナはロシアほど酷くないにせよ世評の通り

立派な弟分の定位置に収まっている

ウクライナは顔だけは懸命に西を向こうとして幾分かは西を向いた気になっているのだ

が実際には身体全体は自然と東を向いてしまっていてやっぱりロシアウクライナ

12) httpjoinfouacataloganonsesUkraina-zanimaet-pyatoe-mesto-v-mire-po-potrebleniyu-alkogolya_4148html

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 13: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

13

ベラルーシは正真正銘の東スラヴ三兄弟なのである

第 11 図純粋アルコールに換算して成人が年間 8ℓ以上の酒を飲む旧ソ連圏諸国の国民酒

と中年(40~59歳)男性の年間死亡率(千名当たりの死亡者数)との関係 4)

第 12図2001年の旧ソ連圏諸国の高度数アルコール飲料消費量(成人一人当たりの純粋

アルコールに換算した年間リットル数)と男性寿命との関係 4)

ロシアのアルコール狂時代

ゴルバチョフのペレストロイカの肝いりの施策として発動された反アルコールキャン

ペーンは僅か三年も持たずに実質的な撤退を余儀なくされ(もっと規制の厳しいアメリカ

の禁酒法でさえ十年以上続いた)この早期の挫折はソ連崩壊の序曲となるものだった

社会の建て直しペレストロイカ

のためにソヴィエト社会の劣化の象徴としてアルコールを槍玉に挙げたの

は一面では正鵠を射たことではあったはたせるかな反アルコールキャンペーンが開

始されるや殺人等の凶悪犯罪が激減するなど社会の風紀は一変しブレジネフ時代以降

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 14: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

14

漸次的に悪化の一途をたどっていた人口動態状況は 1985~87 年の間に一挙に改善した

すなわち出生率が激増し死亡率が激減し平均寿命が延びたのであるしかし即効

性があり過ぎるは問題がそれだけ根深く深刻であったということでもあるその一方にお

いて酒類が入手しづらくなるや庶民が酒代に回していた金が使い道を失い金余りにな

ってルーブルの価値は下がりまた余剰な金はそれでなくても不足していた他の食料品の

買い占めへと向かいインフレを惹起する要因になった反アルコール施策の二年間で公

式データでは一人当たりのアルコール飲料の販売量が 25 倍減少したのだが酒税は国庫

歳入の大きな位置を占めていた(小売業の税収の 25と言われる)からそれが激減する

とパン牛乳砂糖等の主要食品を安く提供するための補助金が不足するようになり

たちまち国家は財政的な苦境に陥ってしまったすでに手遅れなほどソヴィエト社会の根

幹が酒毒に侵されていたのである13)

庶民は家庭での密造酒サモゴーン

の製造に奔り店頭からはその原料となる砂糖が消えたそれの

みかそれまで密造酒は家庭内に留まっていた文字通りの自家製酒サ モ ゴ ー ン

であったのがたちま

ち闇社会で大量に製造されるようになった「家庭での密造酒サモゴーン

製造はスムースに地下のウ

ォッカ製造業へと発展的に転化した」のであるこの闇商売は莫大な利益をもたらしそ

の闇金(「黒い現ナマチョールヌイナル

」と通称された)は再投資されかくて大規模な密造酒サモゴーン

の生産から販

売に至るネットワークが完成し「市場経済のモグリの予備校」となったのだった

ソ連が崩壊し国家の多くの規制が外れ自由放任を是とする市場経済の時代が到来す

るやアルコール産業は一挙に有卦に時を迎え国内外の合法非合法の酒類に加え粗

悪酒模造酒代用酒等々が市場に溢れ返った結果としてロシアやウクライナの人口

動態に破滅的な影響を与えるほど「遅発性戦死者」が続出することとなった

にわかに信じがたいデータがあるソ連崩壊直後のハイパーインフレ時代アルコール

飲料の価格は他の物価に比べ相対的には断然値下がりしていて庶民に入手し易くなって

いたのである第 13 図に 1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較を示し

た1990年 12月から 1994年 12月までの四年間に食料品の物価指数は 2263 倍になった

のに対し酒類は 654倍しか上昇していず実質的に酒類は他の食料品と比べ 35倍安く

なっている特にインフレのひどかった 1994 年 6月には他の物価はひと月に 81上がっ

たのに酒類に限り 05しか値上がりしなかったまた国民の平均月収で購入できる

ウォッカの量はというと1990 年には 16 リットルであったのが1992 年 12 月には 29

リットルに1993 年 12 月には 33 リットルになっていて公示の価格においても断然安

価になっている第 13 図は公式の統計によるものだが闇経済で製造販売される非合法

のウォッカが消費量の 65を占めていたというからもっと安い劣悪な品質の酒類が大量

13) この辺りの記述は主としてアレクサンドルネムツォフ著『ロシア当代アルコール史』(2009 年刊)

を参考にしたこのロシアにおける斯界の権威の主著は日本に紹介する人材のいないのは残念だが

ソ連最末期からのアルコール問題を扱った画期的な論究であるこの英訳 ldquoA Contemporary History of

Alcohol in Russiardquo by Alexandr Nemtsov(Soumldertoumlrns houmlgskola 社2011年刊)はネットで無条件で

閲覧可能である(httpwwwdiva-portalorgsmashgetdiva2425342FULLTEXT01pdf)

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 15: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

15

に出回っていたことになるよって酒類全体の課税捕捉率は 20に過ぎなかった

第 13図1990~2005 年のアルコール飲料と食料品の価格の比較 14)

左軸目盛アルコール飲料食料品価格年間上昇率(1990 年を 1 とした場合の倍数)

右軸目盛アルコール飲料価格の対食料品価格比(1990 年を 100とした場合)

高級酒であれ安酒であれ酒と名の付くありとあらゆるものが非合法であれ合法であれ

大量に製造輸入されて相対的に安値で販売され国民(特に男性)の死亡率を一挙に高

めることになるのだが悪魔の仕業でないかと思われるほど国の内外のハゲタカやピラ

ニアどもがよってたかってロシアに酒を集中させロシアの男どもの命を奪うことになる

(もちろん飲む飲まないは個人の選択であるからあくまでも第一の責任はロシアの男

どもにあるのは当然のことではあるが)

そのような悪魔の仕業のルートの一つに次のようなものがあるソ連崩壊後ロシアのス

ポーツ界は国家支援を打ち切られていたのだが大統領エリツィンは自分のテニス仲間の

要請を入れて「スポ-ツ国民基金」なる団体を創設しその旧知の男を総裁に据え資

金を自己調達できるように大統領令によってその団体に色々と特典を与えたその特典の

最たるものは酒とタバコを無税で輸入し販売できる特権だった関税に加え付加価値

税も物品税も免除された(たちまち莫大な利益を計上することとなったがその所得にも

一切の税金がかからなかった)「スポ-ツ国民基金」は創設後僅か数ヶ月で外国の会社

14) httpalcdatanarodruNemtsov_2009Nemtsov_2009pdf

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 16: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

16

と 140件あまりの契約を結んだ(日本の大商社顔負けの大活躍ぶり)その輸入品を常識

外のダンピング価格で一挙にロシア市場に投入したから輸入品が市場をたちまち席巻し

てしまった一時は酒とタバコの輸入品の 95がこの基金の関連会社の手を経たと言う

国産品が価格競争力を失って市場から駆逐されてしまい国産のウォッカ製造企業の一部

は止むなく輸出仕様に切り替えざるを得なかった「スポ-ツ国民基金」は 1993~4 年の

二年間に 18億ドルの利益を上げたと言うあぶく銭はスポーツ振興のためにはほんの少

ししか回らず幹部個人の懐に入り最終的にはクレムリンの政争の具に使われた

当時このような特典に与った団体はこの「スポーツ国民基金」の他に「アフガン退

役軍人基金」やモスクワ総主教府渉外部までが名を連ねていた当然世の指弾を受けた

が廃止までには色々の曲折を経た「スポ-ツ国民基金」が閉鎖された時契約不履行

のため国家は外国の会社に違約金だけで 9億ドル支払う羽目になったこのような団体は

それでも 1997 年頃まで存続するがその間に利権を巡って殺人事件まで頻発している

1995年にこのルートからの輸入が細ると輸入酒は四倍も少なくなり酒類の価格は高騰

した(この痕跡は第 13図の 1995~7年にアルコール飲料価格の対食料品価格比が 30か

ら 40へと急騰しているところに現われているその後再び低くなっているのは下記に

示すように別の理由による)

「アルコール当代史」の権威アレクサンドルネムツォフは義憤に駆られ「特典

ウォッ

カの流入する水門を開きロシアのスポーツ界の威信の保持退役軍人の援助ロシア正

教会の支援を口実にして何十万人ものロシア市民の命を奪い何兆ルーブルもの国庫歳入

を失わせてしまった輩たちに対しては憤慨に堪えない」と記している

1990 年ごろまでは密造酒の原料は主として市販の砂糖が使われていたがその砂糖が品

薄になり値段が高騰して闇商売の利益が出にくくなると新たな安価な原料として第一に

選ばれたのが工業用アルコールだった経済移行期の景気低迷により工業用アルコールの

従来の供給先であった塗料や合成ゴムの業界は軒並み生産量を激減させていたが工業用

アルコールそのものの需要量は摩訶不思議なことに維持されていた横流しされていたの

であるクラスノダール地方のある密造工場は闇酒製造用に二年間に 300万トン以上の工

業用アルコールを仕入れたことが記録されている当然の結果として国民(特に男)の死

亡率の高騰に大いに貢献することとなったのだった

ウォッカの主流の原料は小麦やライ麦を主成分とする精留エチルアルコール(飲食用ア

ルコール)であるが規制の少ない上述の工業用アルコールと異なりこちらにはソ連崩

壊後もウォッカ製造業者に対する供給量の割当て規制があったその権益を一手に握るの

が一部の官僚となるとたちまち汚職の温床となるのは理の当然であった

コーカサス山脈中央部北側のロシア連邦領内に北オセチアという人口七十万人ほどの民

族共和国がある驚くなかれこの小国だけで全ロシアに流通したウォッカの約 40を製

造していた時期があったソ連崩壊直後に北オセチアの西隣のチェチェン共和国で独立戦

争が勃発しゆくりなくも北オセチアはロシア政府軍の最前線基地となった軍事作戦上

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

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日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

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年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 17: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

17

の協力を得たい中央政府は地方政府の違法行為に目をつむって飴玉をしゃぶらせ地方政

府は上記の飲食用アルコール割り当てを裁量する官僚と結託し北オセチアにはたちまち

二百以上もの大中小のウォッカ工場が乱立してフル操業することとなった住民の三人に

一人が何らかの形でウォッカ製造に関わることになったという製造業者のほぼ 90が税

金を払う気のない闇のプレーヤーだったかくして中央政府は地方政府にお目こぼしをし

地方政府はウォッカ業者にお目こぼしをしそれに呼応して賄賂はモスクワへ向かって逆

流する構図ができあがったこの小国では日本のバブル時代並みのウォッカ景気で沸き立

った因縁話めくがオセチアの主要民族オセット人はロシア正教徒でありイスラム教

を奉ずるコーカサスの他の山地民族の中で古くから酒との親和性は独り際立っている 15)

北オセチアでウォッカ製造が活況を呈するとロシア産の原料(飲食用アルコール)だ

けでは足りなくなり次の発展段階に突入するのだがまたまたゆくりなくもソ連崩壊後

に北オセチアが国境地帯になっていた 16)からその利点を最大限活用することになるす

なわち北オセチアの官民の闇酒製造グループは早速ウクライナに渡りを付けロシア領

をトランジットするウクライナからグルジアへの輸出を装い途中の北オセチアでタンク

ローリーを空にする手口が考案されたちまち大規模に流布する書類を共謀して作れば

後はウクライナで関税を払うだけ

この手口は色々と関門があって狭隘なだけに限界が見えだすと次なる手法が考案され

るソ連時代から幅を利かせていたグルジアのマフィアと結託しグルジア当局を巻き込

むソ連崩壊直後は税関や国境の管理が甘くなっていたのだが鼻薬をきかせるとそれ

に輪をかけてフリーパス状態エタノール専用タンカーをグルジアの黒海海岸に着けタ

ンクローリーでグルジア領内を通過しコーカサス山脈を横断して北オセチアまで輸送す

るルートが定着するかくしてグルジア西海岸の良港ポティには近隣のやはりウクライナ

やトルコからだけでなくはるばると地中海を経由してオランダからさらにはるばると

大洋を超えてアメリカやカナダからのタンカーが接岸したまさに蛇の道は何とやらhelliphellip

その昔ロシア帝国はコーカサス地方を征服するに当たってコーカサス山中を通り抜け

るグルジア軍用道路を建設し軍隊を北から南に移動させた時移り事去り今度はこの

軍用道路を飲用アルコール満杯のエタノール専用タンクローリーが南から北へと陸続と進

むことになったhelliphellip

15) 18 世紀後半ロシア帝国はコーカサス攻略に先立ってコーカサス山中にロシア正教宣教団を派遣し

た殆どがイスラム教を奉ずるコーカサス山地民族の中でイラン系のオセット人だけがそれに応じてロ

シア正教に入信したそれ以降オセット人はコーカサス山中で「酔っ払い」として名をはせるレール

モントフの有名な『現代の英雄』の中にもイスラム教徒の山地人にオセット人が「酔っ払い」として白

眼視されている様子が描かれている 16) オセチアはソヴィエト時代に専ら行政上の利便性から南北に分割され北オセチアはロシア共和国に

南オセチアはグルジア共和国に属したがソ連が崩壊するとこの行政区分はそのまま維持されて北

オセチアはロシア連邦に南オセチアは独立したグルジアに含まれることになった南北どちらにもオ

セット人が住んでいるのだが生木を裂くようなこの生き別れ状態の不条理に国際世論なるものも一顧

だにしない南オセチアは 2008 年のグルジア紛争後に独立宣言したが現在国際社会ではロシアの不

義の子のような扱いを受けている

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 18: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

18

しかし1997 年 7月のある日突如としてグルジアのタンクローリーは国境を通過し

てはまかりならぬとのお触れが出て連日タンクローリーが山中の国境で足止めを食った

その数タンクローリー延べ 2300 輌液体貨物の合計 3万トン

だがその後も度重なる取り締まりもなんのそのこのグルジア経由のウォッカ原料密

輸ルートは長く存続したグルジアはゴルバチョフの反アルコールキャンペーン時代に

ブドウの木の伐採命令に泣く泣く従わされ何十年もかけて育成したブドウ園を廃園にせ

ざるを得なくなり盛んだったワイン産業が壊滅的な打撃を受けた現在に至るグルジア

の反ロシア感情はこれに多くを負っているこの仕返しをするかのようにロシア本国に

ロシア男を大量死させる毒水の原料を密かに送り続けたのであった

やはり同じようにその後も北オセチアのウォッカ工場は汚職まみれの地方政府の下で地

下にもぐって長く生き延びたしかしながらその地方の財力の尺度は土地のサッカーチ

ームの強弱で測られるふしがあるが北オセチアの主都ウラジカフカースを本拠とする「ア

ラニア」(アラン人の国の意味でオセット人はアラン人の末であると称している)がロ

シアプレミアリーグで優勝した1995年の夢のような時代に二度と戻ることはなかった

ロシアの人口動態状況は 1995 年前後に底に打ち以後は徐々に改善の兆しを見せ始め

る二期目のエリツィン政権は色々の施策を行なうが汚職が蔓延し思ったような効果が

出ない内に国が不況状態に陥り国民は窮乏化し酒手にも事欠くようになった従って

アルコール消費量が減少し特に男性の死亡率が下がり平均寿命が延びるという倒錯的

ともいえる現象が起きることになる(第 9図第 10図の 1995~98年参照)

しかしアジア通貨危機のあおりを受けると不況に苦しむロシアは持ちこたえること

ができずについにデフォルトにまで至ってしまう(1998 年 8 月)すると今度は一

転して人口動態状況は一挙に悪化に転じる

ルーブルの価値が下がり外貨で購入するアルコール関連の輸入品は製品も原料も値上

がりして競争力を失う一方で国産品が息を吹き返し製造工場がフル稼働状態になり

安い国産品が市場に出回るようになる原料の飲用アルコ-ルも密輸品から国内産に切り

替わり合法原料を入手せざるを得ない密造工場が大挙して晴れて合法の表舞台へと登場

しますます安価な国内産が市場を席巻する

かくしてデフォルト後にはソ連崩壊直後と同じような現象が起こった他の食料品の物

価が急騰したのに対し酒類は相対的に安くなり入手し易くなったのである従って

アルコール消費量は増え死亡率は上がり平均寿命はまたも縮むことになる(第 9図

第 10図の 1998 年以降参照)

政権がエリツィンからプーチンに替わってもアルコール対策は当初は手の打ちようがな

く人口状況悪化の傾向が継続するがプーチン政権二期目の頃(2004年)から本腰の対策

を講じ始める気まぐれ的であったエリツィン時代と違いプーチン政権は組織的にシス

テマチックに取り組み始めるこの成果は第 9図からも窺い知ることができるがアルコ

-ル中毒死亡者の実数の変化をみるとその効果が歴然とする第 14 図に 2004~2013

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 19: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

19

年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移を示した

第 14図2004~2013 年のアルコ-ル中毒死亡者実数の推移 17)

横軸の目盛表示は 2004~2013 年のそれぞれの年の一月

緑色の点線は線形回帰線赤色の点線は三次多項式回帰線

2006年に二つの法律が施行され酒類への物品税印紙の添付義務の強化と酒類製造販売

免許制の強化が図られたこれは第 9図の半禁酒法制定(2005~09年に高アルコール度

数酒 33減)に相当する「くさい臭いは元から断たなきゃ」方式の量(消費量の削減)

と質(悪酒追放)両面での効果的な密造密売の防止策でその結果として上図から明

らかなように直ちにアルコール中毒死亡者数の激減という成果をもたらしたアルコー

ル中毒死亡者数は毎年真冬の正月に激増し夏季には激減するのを常としたマロー

ズ(厳寒)の国ならではの現象であるがこの法律の施行直後の 2007 年正月の死亡者数

が激減し2005年と2006年の夏季の死亡者数に並ぶという驚天動地のことが起こっている

17) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema07php

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 20: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

20

2009 年には酒類密売の取り締まりを強化するアルコ-ル市場規制庁が創設されたり飲

酒の弊害を防止する新たなキャンペーンが発動されたりしてアルコール中毒死亡者数は

逓減し続けている2010年の酒類夜間販売禁止2011年の未成年者への販売禁止は日本

でも馴染みの政策であるしかし2012年の「ビールはアルコール飲料なり」と 2013

年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」は一体どういうことなのか

この背景にはソ連崩壊後の酒類市場におけるウォッカ業界 VSビール業界(議会ではウ

ォッカロビーVSビールロビー)の熾烈な競合関係がある

そもそもソヴィエト時代には度数の低いビールは酒の仲間とは殆ど認められていなかっ

た早く酔っ払うにはウォッカをビールで割る「ヨルシ」という吞み方が何故か信じられ

ていてビールには酩酊増進剤の如き怪しげな役割が振られていたにすぎなかった

ソ連が崩壊すると多種多様な酒類が流入するなかでロシア人もビールの味に馴染む

ようになったウォッカに比べると安価なこともあり特に若者の間でライフスタイルと

して好んで飲まれるようになった外資系のビール会社が大量に製造するようになりビ

ールはすっかり市民権を得て「ビール愛好家党」なる堂々とした政党が正式登記された

こともあったビールロビーは有力な圧力団体となりウォッカ大好き人間で知られた

エリツィン大統領は皮肉にも「ビールなんて水みたいなものを酒の仲間に入れることは

まかりならぬ」とばかり「ビールはアルコール飲料の仲間から除外する」と法律で規定

した(2005年)塩を送られたビール業界には快挙であり高い酒税を免れた上に酒一般

に対する規制からも自由になることができた

ビールは 1998 年のデフォルト後にはさらに上げ潮になる値段で不利になった外国産

や外資系の酒類が駆逐される中ビールも国産品の天下となりやはり値段が安いことも

あり特に若者の間でますます需要を伸ばす

これに脅威を覚えたウォッカ業界はビール憎しの凄まじいネガティヴキャンペーンに

打って出るいわく「ビールは青少年に悪影響をもたらす」「ビールの方がウォッカ

より人体に有害な影響を与える(ビール発祥アルコール依存症に罹り易い)」「ビール

のコマーシャルを禁止すべきだ」等々この争いはプーチン時代にまで持ち越されビ

ールのテレビコマーシャルの禁止までは追い込むがこの時は「ビールはアルコール飲料

にあらず」という規定の廃止には失敗する

第 15図にプーチン時代(2000~2014年)のアルコール飲料(ビールシャンパンワ

インコニャックウォッカ)の販売量の推移を示す

大まかに言えばプーチン時代の 2000~2014 年の間にビールの消費量は倍増しウォ

ッカの消費量は半減しているこの傾向がアルコール中毒死亡者数の減少にじかに結び付

いているのである第 11図の国民酒のひそみに倣えば健康増進のためロシア国民はロ

シア人であることを止めチェコ人に変身を遂げんとしているのだいやいや国粋的な

ウォッカ党がそれを座視する気があろうはずがない2012 年の「ビールはアルコール飲料

なり」と 2013 年の「キオスクでのビールの販売禁止(ビールだけ)」はウォッカ

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 21: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

21

ロビー巻き返しの赫々たる成果なのであるその結果第 14図のアルコ-ル中毒死亡者

数は最近では逓減傾向にストップがかかってしまっているやはりロシア人はチェコ人に

はなれずこの辺りがロシア人の民族的限界(そしてプーチンの限界)なのであろうか

第 15図2000~2014 年のアルコール飲料(ビールシャンパンワイン

コニャックウォッカ)販売量の推移(単位百万デカリットル)

マッチョのくせしてマザコン

繰り返しになるが飲む飲まないはあくまでも個人の自由であり個々人の選択であ

る従って「遅発性戦死者」も第一義的には「戦死者」個人の責任ではある観点を変え

れば「遅発性戦死者」とは「緩慢性自殺者」であるとも言うことができるであろう

上述の『ロシア当代アルコール史』の著者アレクサンドルネムツォフはこの労作の冒

頭で自分がロシア人のアルコール依存症の問題に興味を持ち始めた由来について「若き日

にある友人に連れられて彼の故郷に行った時途中に土地の小さな墓地があり三十歳そ

こそこの友人の幼友達が既に四人も死んでいるのを知りあとで彼らはいずれも酒の飲み

過ぎで死んだのだと告げられる田舎の彼の幼友達は十二人しかいなかったのだがhelliphellip」

というエピソードを語っている

これに関連して思い出した本がある夫の赴任先のモスクワで娘二人を連れて生活した

時の見聞に基づいて精神科の女医さんが書きまさか 10年も経たないうちにソ連が崩壊

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 22: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

22

することなぞ夢にも思われなかった頃ソ連がペレストロイカ時代に突入する直前に出版

されて当時日本でかなり評判になった本である娘たちの年齢を考えると同年代のロ

シアの若者たちは冷戦終結後の一番「遅発性戦死者」の多かった世代ではないのか著書

の中には「遅発性戦死者」の候補者がいっぱい出てきたような記憶があった本を探し出

して読んでみた服部祥子著『精神科医の見たロシア』(朝日選書1984年刊)である

やはりそのような「戦死者予備軍」が登場する娘たちは夏のキャンプに出かけるが

甘やかされて育ったロシアの子供たちからは「最初の一週間は夜になるとホームシックの

泣き声の大合唱」が起こったのみならずサーシャという子を初め三人が耐えられずに家

に帰ってしまったかくして著者はこう書く「サーシャのように過保護に育てられた人間

はソ連には実に多いがその行き着くところはなんとなく想像がつく与えられた仕事だ

けはどうにか果たせる未熟ながら従順な人間になれれば上々で自分の問題を解決でき

ず一歩しくじると安易に酒壜を抱え込むアルコール中毒者とか努力せずして成果の

み手に入れたがるずるい利己主義者のタイプになりそうな気がする」(108頁)

著者がモスクワに滞在したのは 1969年から三年間と二人の娘が 12歳と 10歳になっ

ていた 1979年から 2年間であるから娘の同級生たちは 1994年には 27歳と 25歳にな

っていたはずだから何人かの犠牲者が実際に同級生の中からも出ていたかもしれない

ロシア人特に男性には人生の苦難や齟齬にブチ当たった時「安易に酒壜を抱え込み」

酒に逃避し酒に溺れる者が多いのだが著者はその原因のひとつとして「民族的伝統とし

ての母性愛の強さ」を挙げている「ロシア人の母親はおしなべて子供に耽溺し過保護

甘やかしをしてしまい子の方もうまくいけば率直さ優しさを身につけるが一歩誤

ると無気力未自立未成熟という負の面にも陥りやすいいずれにせよ母子の絆の

太さはロシア人の親子関係の中心にある」(182頁)

ロシア男はマッチョの割にマザコンなのである父親は酔っ払いのダメ人間で頼りにな

らずしっかり者で愛情深い母親に育てられたという人が非常に多いそのような母親に

「溺愛過保護過耽溺」されて育てられた息子は究極のマザコンとなり父親と同じダ

メ男が再生産されてしまう

このような事情はソ連がロシア連邦や独立ウクライナになっても変わりはないロシア

でもウクライナでも徴兵制度があり息子が軍隊に取られるとよくあることだが息子

も母親も携帯電話で二日と続けて話ができないと双方共に精神的に不安定になってしま

うと言われているたとえ禁止しようと取り上げようといたるところに携帯電話の遍在

している世の中なのだ

ロシアでもウクライナでも恐れを知らない最強の民間団体はこのような母親の団結し

ている兵士の母の会であろう

ウクライナ東部で戦闘が始まった当座ロシアの兵士の母の会の関連サイトを見ている

と正規軍の兵士が休暇を取って義勇兵となり戦闘に参加し戦死者のあったことが手

に取るように分かった戦死者の真新しい墓がネットにアップされたりした間もなくこ

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 23: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

23

の兵士の母の会は外国から資金援助を受けている「外国のエージェント」であるという理

由で活動を禁じられてしまったが弾圧と言ってもソヴィエト時代のように手荒なことは

できまい公然と報道されないにせよ活発な活動が勇猛果断に継続していることは想像

に難くないなにせソルジェニーツィンのような人物が生き延びて証言できた実績と伝統

のあるお国柄なのだから

一方のウクライナは言うと「反テロリスト作戦」が発動されて以来ポロシェンコ大統領

は国民皆兵的な軍役義務者に数次に亘って動員令を発令した徴兵を司る軍事委員会は対

象者に呼出状を発送するが少数の者しか出頭して来ないそこで軍事委員会の担当官が

直接呼出し状を持参して対象者の住所まで出向くことになるすると該当者の母や妻たち

はピケを張って担当官を居住地区に入れることを阻止し追い返してしまう地区の軍事委

員会そのものに押しかけてピケを張ったりバリケードを築いたりして軍事委員会を機能不

全にしてしまうネットにはこのような動画が溢れているどちらの国も母と子の絆は

強くとびきり母は強しなのである

だいぶ横道にそれてしまったが話を元に戻す

旧ソ連構成諸国の人口動態成績簿

前に冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較を行なったが同じように人口動態

の成績簿を作ると第 3表のようになる

旧ソ連構成国 人口千人 人口減

1989 年 2009 年 人数千人 割合

ウクライナ 51 707 46 080 5 627 109

ロシア 147 400 141 900 5 500 37

グルジア 5 443 4 630 813 149

カザフスタン 16 536 15 848 688 42

ベラルーシ 10 200 9 663 537 53

ラトヴィア 2 680 2 261 419 156

リトアニア 3 690 3 385 305 83

エストニア 1 573 1 340 233 148

モルドワ 4 338 4 128 210 48

アルメニア 3 288 3 234 54 16

合計 246 855 232 469 14 386 58

第 3表ソ連構成諸国の冷戦終結時(1989 年)とその 20年後(2009年)の

人口の比較 13)

13) httpkornevlivejournalcom81202htmlただしロシア人の作成したこの表は多分に傾向的で

その他の中央アジア諸国とアゼルバイジャンは 2009 年までに人口をかなり増やしている

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 24: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

24

これはソ連で最後の国勢調査が行なわれた冷戦終結時の 1989 年とその 20 年後の 2009

年(ロシアの人口が 1 億 4200 万人を割り込みソ連崩壊後で一番人口を減らしていた年)

のデータであるが一見して経済実績とは異なる意外な結果であるすなわち経済成績

で揃って上位に位置していたバルト三国がやはり仲良く人口を激減させているのである

同じく人口を激減させているのは経済実績でも劣等生であったグルジアとウクライナで

ある

注目すべきはこれら五カ国はいずれも反露感情が強いことを特徴としているさらに

ロシアに対する国民の好悪の感情に注目すると親露感情の方が強いとされるベラルーシ

アルメニアカザフスタンは人口を僅かしか減らしていない色々とヒントとなる皮肉な

結果ではある

ソ連崩壊の結果のひとつとしていわば民族純化の方向で民族移動が起こったそれま

でソ連という同じ国に属していた十五の共和国(民族共和国)がそれぞれ独立国となって

それぞれが相互に国際的な法規や条約で律せられる外国同士となりそれまでソ連内に混

在していた民族が「新しい祖国」へと向かう帰国ラッシュが起こったのである冷戦敗戦

国となったロシアの場合は大戦直後の日本において旧支配地域からの引揚者の状況から

類推できるようにロシア人が他の民族共和国(現在ロシアではこれら諸国を「近い外国

(Near Abroad)」従来の外国を「遠い外国(Far Abroad)」と呼び習わしているロシ

ア人には使い勝手の良い表現ではある)から大挙して本国に帰国することになったその

出入りの人数の関係を第 16図に示した

第 16図1993~2009 年のロシア移住者統計(単位千人)14)

二十世紀 90 年代の移入はソ連崩壊に伴う「新しい国家間関係」によるものであり二

十一世紀 00 年代から現在に至る流入は経済的理由(主として中央アジア諸国からの出稼

ぎ労働者の流入)であり別個に考えるべきである90年代の移入移出の相殺の結果は

430 万人の入超であるという従ってソ連崩壊後のロシアの人口の激減傾向を緩和する

14) httpsruwikipediaorgwikiИммиграция_в_Россию

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 25: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

25

ものであった

反露感情の強い「近い外国」の代表としてグルジアを取り上げその国勢調査 15))時の民

族構成を見ると第 4表のようになる

国勢調査 1989 年 2002 年 2014 年

人数千人 割合 人数千人 割合 人数千人 割合

総人口 5 401 10000 4 372 10000 3 714 10000

グルジア人 3 787 7013 3 661 8375 3 225 8683

ロシア人 341 632 68 155 26 071

アゼルバイジャン人 308 569 285 651 233 627

アルメニア人 437 810 249 569 168 453

ウクライナ人 52 097 7 016 6 016

第 4表1989~2014 年のグルジアの国勢調査時の民族構成 16)

このデータから明らかなように対ロシア人だけには限らないソ連崩壊後の「近い外

国」同士の「新しい国家間関係」が影響した「民族移動」が起こっているのであるグル

ジアの場合これは古代(王妃メディアを想起されたい)から幾重にも重なった歴史の

地層の表面に起こっている新しい事態なのであるグルジアとアルメニアはキリスト教の

独立教会をそれぞれ擁してカトリックよりも古いことを誇っているのだがグローバル規

模で「第二のユダヤ人」と呼ばれたアルメニア人が古い時代からこの地域の経済を支配し

てきた(長年に亘って商売人のほとんどがアルメニア人だった)事態に変化が生じている

一方でエネルギー利権で結びついたイスラムのアゼルバイジャンとの関係が相対的に高

まっているのを窺い知ることができる他民族の人口流出と関係なくグルジア人自体が

人口を 15も減らしていて反ロシアの急先鋒のグルジアは人口動態的にも旗色が良くな

いのである

ロシアの歴史的人口動態

ついでにロシアの最近百年間の人口動態を一瞥するため第 17図(次頁)にロシアの

歴代の人口動態率のグラフを示したロシア帝国時代最末期の第一次世界大戦が始まる直

15) ついでにウクライナにおける国勢調査について簡単に触れておく国連は国勢調査を「少なくとも 10

年に 1 回」実施することを各国に勧告しているソ連時代には1959197019791989 の各年に

定期的に行なわれているソ連崩壊後ロシアは 2002 年と 2012年に実施している独立後のウクライ

ナはクチマ政権時代の 2001 年にただ一度行なったきりであるユシチェンコ政権時代の 2008 年に次

回は 2010 年に実施することが決定されたが2010 年に政権に就いたヤヌコヴィチは 2012年に延期す

ることを決定しそれがさらに 2013 年に延期されその年になるとまたまた 2016 年に延期する決

定が下されたポロシェンコ政権はさらにそれを 2020 年に延ばすことを決定しているウクライナの

歴代の政権は現実を直視する勇気がなく人口数失業者出稼ぎ労働者ロシア語話者等の実数を知

られたくないからであろうと専ら取りざたされている 16) httpsruwikipediaorgwikiНаселение_Грузии2014年総人口にはアブハジアと南オセチアは含まれていない

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 26: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

26

前の 1913年から 70年間のソ連時代を経てロシア連邦となった直近の 2014年までの出生

率死亡率自然増加率のグラフである

第 18 図に同じように戦後の 1950 年から最近までのウクライナの人口動態率を示した

ウクライナもロシアとほぼ同じような経緯をたどっているが分かる

概略的な特徴を列記すると

全体的な人口動態に対して次のような印象を受ける二十世紀前半のあまりの変動の激

しさには胸を突かれるそれに比べれば戦後のソヴィエト時代は安定した平穏な時代だ

ったのだソ連崩壊は人口動態的には災厄以外の何ものでもなかったのだが最近にな

ってようやく傷が癒え回復しつつあるのが現状である

スターリンの工業化政策以前の 1928年には人口千対 257人という自然増の最高値を記

録していた

1933年の大飢饉と重なったスターリンの農業集団化政策は現在ウクライナが盛んに主

張しているような専らウクライナ人を選別的に狙い撃ちしたものではなくロシア人も

その他の民族も破滅的な人的被害を受けている

統計の欠けている第二次世界大戦中に最も高かったとされる 1943年の死亡率は人口千

対 695人()であったと推定されている

フルシチョフ時代前期の人口動態傾向はスターリン時代の継続であったが後期には都

市化(農村から大都市への移住者の激増)を主因として出生率が低下している(1960~

1965 年に出生率は人口千対 232人から 157人へと 5年間で 75人激減した)

ブレジネフ時代はフルシチョフ時代に引き続いて都市化の傾向が継続した上に第二次世

界大戦の後遺症第一波の時代に重なり出生率が低下しその必然的な結果として統計

上死亡率が漸次的に上昇した1982年までのブレジネフ時代の 17年間に死亡率は人口

千対 76人から 107人へと 31人増加しているただし他のヨーロッパ諸国も同様の

傾向を示している

共産党政権の建て直しを意味するペレストロイカを最大のスローガンとしたゴルバチョ

フ時代の幕開けとなった反アルコールキャンペーンは1980 年代半ば以降の人口動態

の曲線が残酷に語るように人口動態的破滅に導く序曲だった90年代からの人口の減少

は悪魔の仕業ではないかと思われるほど色々の悪条件が重なって「遅発性の戦死者」

が続出した

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 27: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

27

第 17図ロシアの歴史的人口動態率(ソ連中央統計局とロシア連邦国家統計庁のデータに基づく)17)

17) httpshotqipru00EUpa-5hBxMtC6

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 28: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

28

第 18図ウクライナの人口動態率 18)

比較の参考用に日本の同様な人口動態のグラフを掲げておく

第 19図日本の出生率死亡率自然増加率の推移(1872~2015 年)19)

18) httpscommonswikimediaorgwikiFileNatural_Population_Growth_of_UkrainePNG

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 29: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

29

日本でも 20世紀前半は戦争の時代だったと記憶されるがあの大戦争を経験した日本

もロシアに比べれば人口動態のカーヴははるかに穏やかなものであった

戦前で目につく変動のうち1939年の出生率の低下は日中戦争による動員のためであり

1918年に死亡率が著しく高くなったのはスペイン風邪の猛威によるものである

敗戦直後のベビーブームによって驚異的に高くなった出生率が一挙に低下しているのは

いわゆる都市化に起因するものでソ連のフルシチョフ時代に対応している

戦後で一番目立つ 1966 年の出生率の激減はその年が干支の丙午に当たっていたのが

理由なのだから世界的な珍事であろうその前の丙午の年の 1906 年にも出生率は日露戦

争の動員が重なったこともありやはり激減している

日本の最近の人口動態状況の悪戦苦闘は周知の通りである2005年から出生率と死亡率

が逆転して自然減に転じてしまってこの趨勢に抗しきれずにいるのが現状である

ロシア十字からロシア六角形へ(ロシアの人口動態状況の改善)

日本の人口が 1 億 2800 万人を超えていた 2009 年当時ピーク時の 1992 年には 1 億

4850 万人あったロシアの人口は 1億 4000 万人を割り込み2015年には 1億 3000万人

まで減るのではないかと予想されていて欧米のマスコミではそのようなロシアの人口

状況を根拠に「死滅しつつあるロシア」と諷するのが流行となっていた 20)ウクライナ東

部での戦闘が激しくなっていた頃アメリカのオバマ大統領がエコノミスト誌とのインタ

ヴューで「ロシアには将来の見通しが何もない移民は可能性のないモスクワには殺到し

ないロシアの男の平均寿命は 60 歳程度だ人口は縮み続けている従ってロシアの

仕掛ける地域的チャレンジにはきちんと対応すれば良い外交の議論の場に核兵器が突然

戻ってくるところまでエスカレートさせる気はよもやあるまい我々の立場を堅持する

限り歴史は我々の側にある」という趣旨の発言をしている 21)アメリカのその後の世界

戦略上の蹉跌を考えれば余りに相手を見くびり過ぎていたきらいは否定できずこの見解

の根底にはロシアの「カタストロフィックな人口危機」という安易な理解があったと見て

間違いあるまい

しかしすでにロシアの人口状況はどん底の 2009年頃から改善の兆しをみせ始め2012

年には出生率は欧米の先進国のどこよりも高くなり2013 年には人口千対 132 人を記録

している(日本の総務省統計局のホームページの「世界の統計 2016」によれば2010~

2015 年の人口千人当たりの出生率は日本とドイツ 83 人米英 126 人ウクライナ

108 人フランス 124 人に対しロシアは 127 人で一番高い 22))死亡率もそれなりに低

19) httpwww2ttcnnejphonkawa1553html

20) 代表的な例を挙げれば2011 年 11 月にフォーリンアフェアーズ誌に発表されたニコラスエバー

スタット Nicholas Eberstadt の『死に絶えつつある熊(The Dying Bear Russias Demographic

Disaster)』(httpswwwforeignaffairscomarticlesrussia-fsu2011-11-01dying-bear)は現在まで

大きなインパクトを与え続けている 21) httpwwweconomistcomblogsdemocracyinamerica201408economist-interviews-barack-obama-2 22) httpwwwstatgojpdatasekai0116htm (出典UN World Population Prospects)

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 30: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

30

下しこの人口の回復状況の象徴が第 20 図に示すように出生率と死亡率の曲線が交

差したロシア十字からロシア六角形への推移であるすなわち2012年には出生率と死亡

率が等しくなり以後は出生率が僅かながらも死亡率を上回るようになっている

第 20図ロシアの出生率と死亡率 (ロシア十字からロシア六角形へ)23)

ほぼ 20 年間に亘って自然減を続けていた人口も 2013 年からは自然増に転じ2016 年

1 月 1日現在ロシア連邦の総人口は 1億 46 54 万人にまで回復している

平均寿命も 2012年からは従来ロシア人の壁であった 70歳を継続的に超えることができる

ようになったロシアの平均寿命は第 21 図に示すようにフルシチョフ時代末期の 1964

~65年に6991歳と 70歳に限りなく近づいていたがそのハードルを超えることはできず

ソ連崩壊直前の 1986~87年には瞬間風速的に 7013歳と 70歳を超えたが継続しなかった

ところが近年は継続していて2015 年には 7139歳まで上昇しているしかし死亡率

は低くなりつつあるもの世界的な水準に比べれば依然として高くCIA の 2015 年のデー

タでは人口千対 1369 人で世界第 11 位という恥辱的とも言える位置にある(ウクライナ

の方が悪くて 1446 人で世界第 2 位 ちなみに日本は世界第 54 位の 951 人であるから

あまり自慢できない)従ってロシアの平均寿命はまだまだ先進諸国に比べれば格段に低

くてEU諸国よりほぼ 10歳低い(2014 年の EU28ヵ国の平均寿命は 809歳)

さらにロシアの平均寿命の著しい特徴は依然として大きな男女差である2015年でも男

6592 歳女 7671歳であるから男女差は 108 歳もある男の寿命もオバマが馬鹿にし

た 60歳以下に低迷していたのは 10年も前の話でその 2003年当時と比べれば 739 歳延

びていて(女の延びは 486 歳)男女差も当時は 13 歳以上あったから縮まってはいるも

ののまだまだ大きくたとえば EU28ヵ国の平均の男女差は 2013年に 55歳である

23)httpdarussophilecom201411normalization-of-russias-demographics

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 31: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

31

第 21図ロシアの平均寿命 24)

一国の将来の人口の増減を予想するにはその国の合計特殊出生率(日本の厚生労働省

の定義では「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」25))という指標が一番

適切だと考えられているその合計特殊出生率の最近のヨーロッパ各国の状況を第 22 図

に示した

日本の地図で山地が茶色で平野が緑で示されるのは明治の導入時にハゲ山の多い西洋

の地図の色分けに倣ったからだと言われているがこの合計特殊出生率の地図では中東欧

からフランスを除く南欧にかけてはハゲ山ばかりである一方イギリスを含む北欧には

緑なす沃野が広がっているのだが予想外のことにロシアもその仲間入りを果たしている

のである

緑の沃野という好成績を記録しているフランスや北欧諸国の近年の特徴として婚外子の

出生率の多いことが知られているこれに関して興味深い統計が見つかったのでついで

に掲載しておく第 5 表に示したヨーロッパ中心の世界主要国の 1960 年から最近までの

婚外子出生率である(ロシアにはldquoDemoscope Weeklyrdquoという人口動態情報専門のサイ

トがあり httpdemoscoperuweekly20160689indexphp色々な統計が掲載されてい

24) httpdemoscoperuweekly20160679barom02php

25) 予備知識がなければ絶対に意味の分からないこのいかにも日本の官僚好みの「合計特殊出生率」な

る用語にお目にかかる度に漢字文明の中興の祖で創意工夫に富む数々の造語を創出した日本の明治人

の嘆きの声が聞こえるような気がする「生涯出産数」くらいなら意味の予想がつくであろうに最近は

「出生率」と言うと普通の人口千人当たりの出生数ではなくこの術語の方を言うらしいがそもそも

出生とは生まれてくる子供の側からであってこの場合は産

む母親の側からの言葉のはずである英語

でも birth rate(出生率)と total fertility rate(合計特殊出生率)とは区別されているではないかも

っとも fertility なる言葉は受胎数と出産数が同じであるべきだとするカトリック本流の主張を地で行

っているかのようである

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 32: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

32

第 22図ヨーロッパ諸国の 2013 年(一部はそれ以後)の合計特殊出生率 23)

る)ヨーロッパの主要国では婚外子の割合が軒並み 50を超す勢いを示していて婚姻

制度そのものが岐路に差し掛かっていることを露骨なまでに雄弁に物語っている合計特

殊出生率の高い緑の沃野のフランスや北欧では婚外子の比率が多くハゲ山のドイツやイ

タリアではこの比率が少ないという傾向が明らかであるしかしスペインとポルトガル

とこの傾向からは疎外されている

この表を見ていて色々思い出すことがある1960年代にはソ連で婚外子が多いのは社会

保障制度がしっかりしているからだと報道されていた確かに西欧主要国と比べて断然多

かったのだ1970年頃にはスウェーデンがフリーセックスの国などと持て囃されていたが

なるほどやっぱり断然高いそれでも婚外子の割合の数値では最近の西欧諸国の比ではな

いロシアポーランドウクライナは揃って 20台前半で西欧諸国の比率のほぼ半分

だからやっぱり同じような文化圏に属しているのだロシアは一時は 30を超えそうだ

ったが社会が安定し生活レベルが上がると共にむしろ下がる傾向にあって西欧諸国と

は明らかに挙動パターンが異なっている(ベラルーシもロシアに追随している)ウクライ

ナは 21台で固着してしまっているようだが最新の 2013年以降のデータは公表されて

いないギリシャはヨーロッパ諸国の中では断然低く「ギリシャは本当にヨーロッパなの

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 33: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

33

国 1960 1970 1980 1990 2000 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

ベラルーシ 69 73 64 85 186 227 212 201 199 196 190 182 161

英国 52 80 115 279 395 437 444 454 463 469 473 476

ハンガリー 55 54 71 131 290 356 375 395 408 408 423 445 456 473

ドイツ 76 72 119 153 234 300 308 321 327 333 339 345 348 350

ギリシャ 12 11 15 22 40 53 58 59 66 73 74 76 70 82

デンマーク 78 110 332 464 446 464 461 462 468 473 490 506 515 525

アイルランド 16 27 59 146 315 327 331 334 334 338 339 351

スペイン 23 14 39 96 177 284 302 332 345 355 374 390 409 425

イタリア 24 22 43 65 97 162 177 189 198 215 234 245 269 288

カナダ 43 96 130 255 312 301 305 316 318 318 330

韓国 10 09 15 16 18 20 21 21 21

ラトヴィア 119 114 125 169 404 438 432 432 435 444 446 450 446 440

リトアニア 73 37 63 70 226 288 278 266 254 257 277 288 295 290

オランダ 14 21 41 114 249 371 395 412 433 443 453 466 474 487

ノルウェー 37 69 145 386 496 530 545 550 551 548 550 549 552 568

ポーランド 45 50 48 62 121 189 195 199 202 206 212 223 234 242

ポルトガル 95 73 92 147 222 316 336 362 381 413 428 456 476 493

ロシア 131 106 108 146 280 292 280 269 261 249 246 238 230 226

スロヴァキア 47 62 57 76 183 275 288 301 316 330 340 354 370 389

セルビア 207 225 223 228 232 240 239 247 251 251

アメリカ 53 107 184 280 332 385 397 406 410 408 407 407

ウクライナ 92 88 130 173 211 214 209 212 219 219 214

フィンランド 40 58 131 252 392 405 406 407 409 411 409 415 421 428

フランス 61 68 114 301 426 495 507 516 529 541 550 558

チェコ 49 54 56 86 218 333 345 363 388 403 418 434 450 467

スイス 38 38 47 61 107 154 162 171 179 186 193 202 211 217

スウェーデン 113 186 397 470 553 555 548 547 544 542 543 545 544 546

エストニア 137 141 183 272 545 582 578 590 592 591 597 584

日本 12 09 08 11 17 21 20 21 21 21 22

第 5表1960年から最近までの世界主要国の婚外子出生率()26)

26) httpwwwdemoscoperuweeklyappapp4013php

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 34: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

34

か」という最近流行の議論に根拠を与えそうなデータであるしかしヨーロッパの潮

流と断然かけ離れているのが日本(2014 年は 228)と韓国色々といがみ合おうが

やっぱり似た者同士で相身互いなのだ

話を元に戻しロシアの 1980~2012 年の合計特殊出生率を第 23 図に示すこれ以後

のデータは2013 年が 17072014 年が 17502015 年が 1777(2016 年 3 月 15 日現

在の速報値)と伸び続けている(ただし情報源の秘匿されているアメリカの CIAのデー

タでは 2014年2015年共に 161)

第 23図ロシアの 1980~2012年の合計特殊出生率 27)

第 23図に示すようにロシアの合計特殊出生率は 1999 年に 117という最低値を記録

した後経済指標や他の人口指標と同様に改善し始めたが2005年には再び低下し始めた

それに危機感を抱いたプーチン政権は 2007 年から直訳すると「母親資本」と言う名称の

二人以上の子供を持つ母親に対して一時払いの給付金(モスクワであると平均年収とほぼ

同額地方であると年収のほぼ 15倍で家一軒買えるほどの金額)を与える制度を創設し

た使途は住居教育医療関係に限定されたが実績では住居の購入目的が大多数であ

る(約 94)上掲のグラフで見る通りこの制度の発足直後から合計特殊出生率は目覚

ましく向上しハゲ山域から沃野域に仲間入りすることができたのはこの奨励政策のおか

げであると喧伝されたしかし最近ではこの出生率の上昇はゴルバチョフ時代のベ

ビーブームの余得すなわち反アルコールキャンペーン時代に生まれたベビーブーマ

ーの女性が受胎適齢期を迎えているのが主因あると報道されているもともと二人以上の

子供を持とうとする家族では第二子を産む時期は早めて「母親資本」を早く貰おうとする

傾向はあるにせよ「母親資本」を理由に二人以上の子供を積極的に持とうとまではしな

いそのような家族計画は別の雑多な要因に左右されることが多く「母親資本」は家族

計画に決定的な影響を与えていない従って最近の国家財政の逼迫化もあってこの制度

27) httpruxpertruD0A4D0B0D0B9D0BBFertility-rate-2012png

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 35: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

35

自体の見直しも検討されているのが現状のようだ政府が単純な思惑で笛を吹いてもそう

易々と踊らないのはいずこの国民も同じで現代の国民の置かれた状況や心理は複雑な

のだ2009年 7月から 2013 年 9月までの期間に 460万世帯がこの優遇措置の一時金を受

取ったというこの「母親資本」のための国家予算は 2016年は 3043 億ルーブルである

(ロシアの 2016年の予算総額は 16兆ルーブル強の規模社会保障費総額は 7兆 7000 億

で GDPの 98)

ロシアの当面の人口状況は全体として改善の方向に向かってはいるもののゴルバチョ

フ時代のベビーブーマーの次に来るのは 90 年代の人口激減期の世代であってその世代

が受胎適齢期を迎える今後は再び人口の減るサイクルに入るのが必至であると予測されて

いる

ロシアの平均寿命や死亡率もそれなりに改善していて国民の保健医療環境や生活水

準が直接反映するとされる乳児死亡率も近年は著しく改善している第 24図に 1960~

2015年のロシアの一歳未満の乳児死亡数と乳児死亡率の推移を示す

第 24図1960~2015 年のロシアの一歳未満の乳児死亡数(左軸)と乳児

死亡率(右軸)の推移(2015年は速報値)28)

2012 年の数値が高くなっているのは算定方法を変更したためであるというすなわち

従来は生後一週間以内に死亡した乳児は死産児に算入していたそうな(1993年に同じく数

値が高くなっているのは新生児の判定基準を世界保健機関WHOの基準に合致させたため

だとされる)

28) httpwwwdemoscoperuweekly20160679barom05php

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 36: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

36

上掲のようにロシアの乳児死亡率は低くなる傾向にあるとはいえ 2014 年が新生児千

人当たり 741人15年が 654人で未だ国際水準からは決して自慢できるような数値で

はない因みに世界最上位の水準にある日本は限りなく 2人に近づいていてロシアがそ

のレベルまで達するのは容易ではなく今後山あり谷ありの前途多難が予想される(2014

年と 2105年の CIAのデータでは日本が新生児千人当たり 213人と 208人に対しロシ

アが 708人と 697人ウクライナが 810 人と 812人)

ロシア社会の健全化を判定する最大の指標はアルコールに関連するものであろうそ

のような指標の一つとして第 25図にロシアの 1990~2014 年の外因(アルコール中毒

自殺殺人)死亡率の推移を示す

ロシアでは外因性の死亡事例のうち自殺と殺人がアルコール絡みである割合は自殺が

男 445女 203殺人が男 734女 629であるというデータがある 29)

第 25図ロシアの 1990~2014年の外因(アルコール中毒自殺殺人)

死亡率(人口 10万人当たりの死亡者数)の推移 24)

第 26 図に 1965~2013 年の急性アルコール中毒による死亡率を示した(前図と数値が

若干違っているが傾向としては同一である)ソ連崩壊後の狂乱の二十数年間にようやく

終止符が打たれたということができるのであろうそれにしてもフルシチョフ時代の水準

にようやく戻ったのではないのかロシアにとってこの五十年間は何だったのかという感

29) httpwwwdemoscoperuweekly20130567tema05php

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 37: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

37

慨がある

第 26図アルコール中毒による死亡率(人口 10万人当たりの人数)30)

ロシアの死亡率は 2012 年から 131~133人のレベルを保っているものの世界的に見

ればまだまだ相当に高い平均寿命も世界的に見れば断然低いこれがロシアの現状であ

時限爆弾を抱えたウクライナの人口問題

ソ連崩壊後のロシアのあまりのアルコール禍の酷さについロシアのアルコール問題に

深入りしてしまったが話をウクライナに戻す

ユーロマイダンを経て秋に議会選が行なわれ名実共にウクライナに新政権が誕生した頃

2014 年 12 月 15 日付でアメリカのナショナルインタレスト誌のウエブサイトに「ウク

ライナの真の危機は人口動態と保健の分野の抱える時限爆弾である」と題する記事 31)が載

りその冒頭には次のように書かれていた

ウクライナは旧約聖書のヨブよりも多くの苦難を経験している西欧の大かたの注目

はロシアとの軍事的対決への対処と過去二十年間の歪んだオリガルヒ支配の経済的

政治的後遺症に焦点が当てられているしかしながら独立を勝ち得たウクライナはま

30) httpwwwpreslovljavanjecomact=prevediampvariant=lat2cyrampurl=httpromix1clivejournalcom65623html

31) httpnationalinterestorgfeatureukraines-real-crisis-demographics-health-time-bomb-11851

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 38: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

38

たソ連時代とその後の時代からの本物の危機をも引き継いでいるのであるそれは

ソ連時代の破局的な政治とソ連崩壊後の体制移行期の継続するストレスとが重なって齎

された保健と人口動態の分野における危機である人口指標の落ち込みはロシアより

もウクライナの方がさらに一層シビアである

人口の減少老齢化不健全化は徴兵要員や労働力を著しく縮小させる一方高齢者

の扶養義務が公的部門の国家予算をますます強く圧迫している

ウクライナをヨブに譬える是非は別として国民国家として独り立ちして国を運営する

のはつくづく大変なことだと痛感するふと気づけば自国の周囲は色々の美名の下

に国益と言う名の国家エゴが逆巻く世界である私には独立以来迷走し続けるウクライ

ナは封建的な親の桎梏を喜び勇んで逃れ出たものの厳しい現実の中で彷徨する初心な青

年の姿を思わせる一番の問題はそもそも自分が何者なのか明確に把握できていないの

であるソ連崩壊後のロシアとウクライナを比べて見ているとその思いは強いロシア

は何と言っても何世紀にも亘る国家運営のノウハウを持ち危機の時代にもその経験を頼

りにすることができたしそれを巧みに利用する術も心得ているウクライナはソ連を構

成する民族共和国という国家もどきの擬制国家として国家運営の真似事しかしてこなかっ

たソ連とは支配と保護が表裏一体の体制でもあった民族共和国は抑圧的な支配を受

ける一方で手厚い保護の対象でもあった言いつくされた強圧的なソ連体制の欠陥の被

害者である一方領土と安全保障という肝心な面では冷戦時代の大半を大樹に寄って大

船に乗った気分でやり過ごすことができた

人口状況の改善に見られるようなロシアの最近の安定は西欧諸国から独裁主義に近い

権威主義の謗りを受けようと国民の身の丈に一番合った政権の下でそれなりの生活が成

り立っているからであろう落ち着くべきところに落ち着くべくして落ち着いているとも

言うことができる 32)欧米流の価値観とは別の基準に拠って生きていてある意味でロシ

アは西欧の永遠のカウンターバランスであることを宿命づけられているのかもしれない

ウクライナの公式の自己規定は「ウクライナは西欧と共通の価値観を分かち持っている」

というもので西欧諸国もそれを嘉しもろ手を挙げてそれを是認している世界最大だ

と日本政府が自慢するウクライナ支援の理由としてこの言葉が常套語として使われている

「自由民主主義人権擁護法の支配等の共通の価値」が空念仏のごとくで唱えられる

がその内実その実態についてどれほど検討されているのか内実実態がぐちゃぐち

ゃドロドロでは初手から話にならないのではないか

仏の顔を何度も見ることになる政変後には悪の権化のように言うのが流行のヤヌコヴ

ィチは政権中枢を身内で固めて縁故主義を政権の基盤にしていた一方西欧派のポロシェ

ンコ大統領は政権運営に行き詰まった挙句ごく最近も国会議長に抜擢していた自分の

32) ロシアは権威主義的な政権が庶民=国民と折り合いが良いのを一大特徴とする西欧かぶれのイン

テリゲンティアは帝政時代でもソ連時代でも現在でも絶対的な永遠の少数者であることを運命づけられ

ているこれは善悪の問題ではなくそれが事実なのである

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 39: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

39

茶坊主のごとき存在の若きグロイスマンをから首相に横滑りさせ(4月 14日)内閣を牛耳

ることにまずは成功さらには脛に数々の傷を持つことを自覚する大統領は刑事訴追の

権限を持つ検事総長に大統領与党ポロシェンコブロックの代表を務めていた自分のクム

のユーリールツェンコ 33)を無理やり就任させたポロシェンコが大統領に就任以来ヤレ

マとショーキンというやはりポロシェンコのクムと言われる二人の検事総長が誕生したが

いずれも汚職まみれの悪評紛々で辞めざるを得なくなり 34)ルツェンコはポロシェンコ政

権下で三人目の検事総長である「自分のクムを無理やり就任させた」とは検事総長の要

件として法曹界での実務経験と法学部の出身であることが要求させていたのであるが電

子工学技師のルツェンコの資格を問わない法律をわざわざ最高会議で成立させた上で就任

させたのであるどちらも議会の採決を得た上ではあるが国民の信頼を失って 10の支

持もない議会では大多数の議員が再選挙を何よりも恐れていて前倒し選挙断行(日本流

に言うと解散総選挙)の権限を持つ大統領の無理難題に逆らえないそれをいいことに周

囲を縁故者で固めているポロシェンコはもはやヤヌコヴィチの縁故主義の域を超えてし

まっているウクライナ国民の世論調査でポロシェンコ政権の支持率はヤヌコヴィチ政権

の最悪時の支持率を下回って久しい前大統領は顔を東に向けていたのに対し現大統領

は西に向けているだけの違いしかない今後は「ヴィザ無し渡航」実現とは関係なく人口

流出は必至であるしIMFの支援を受けるため公共料金の大幅値上げをして国民に多大の

負担を強いなければならない再度のショック療法による「遅発性戦死者」が出ないのを

祈るだけである

人口問題に戻るとウクライナ財務省のホームページに「1991~2016 年のウクライナ

の人口」と題する表(第 6表として次頁に示す)が掲載されている

さらにその表の下にこの人口表をグラフにした棒グラフが図示されているがその題名

が何と「ウクライナの悲し

むべき人口推移」と自嘲気味

2016年 3月 23日付のウクライナの大衆科学誌のウエブサイトに最近のウクライナの人

口状況を概観した記事 35)が掲載されているので第 6表の解説を兼ねてこの記事を引用し

たいこの記事は次のように始まっている

ウクライナの人口は 90 年代初めから一貫して減少していたがユーロマイダンの始

まる前の数年はその傾向に歯止めがかかっていた2000年代後半における年間の人口減

少率が 075~05だったのに対し2012~13 年には 03以下にまで減っていて近

い将来には人口状況は正常化するのではないかと期待を抱かせていたもちろんウク

33) 現在のステーツ情報政策相の娘の洗礼式の代父をルツェンコ代母をポロシェンコ夫人マリーナが務

め(2013 年 4月)以来この三家はめでたくクムの関係を結ぶこととなった 34) 汚職容疑で捜査官がさる検事宅に踏み込んだ「ここ掘れワンワン」とばかり懸命の捜査を続けるとこの被疑者はきっと「正直じいさん」だったのだろう「大判小判がザークザーク」と言う通りダイア

モンドを初め金銀財宝がどっさり見つかったおかげでこの検事は「ダイアモンド検事」なる異名をち

ょうだいしたのでありました

35) httppropaganda-journalnet9827html

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 40: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

40

年月日 人口数(千人) 増減

人数(千人) 割合

1990 年 1月 1日 51 8385

1991 年 1月 1日 51 9444 +1059 +0204

1992 年 1月 1日 52 0566 +1122 +0216

1993 年 1月 1日 52 2441 +1875 +0360

1994 年 1月 1日 52 1144 -1297 -0248

1995 年 1月 1日 51 7284 -3860 -0741

1996 年 1月 1日 51 2971 -4313 -0834

1997 年 1月 1日 50 8184 -4787 -0933

1998 年 1月 1日 50 3708 -4476 -0881

1999 年 1月 1日 49 9181 -4527 -0899

2000 年 1月 1日 49 4298 -4883 -0978

2001 年 1月 1日 48 9232 -5066 -1025

2002 年 1月 1日 48 4571 -4661 -0953

2003 年 1月 1日 48 0035 -4536 -0936

2004 年 1月 1日 47 6224 -3811 -0794

2005 年 1月 1日 47 2808 -3416 -0717

2006 年 1月 1日 46 9295 -3513 -0743

2007 年 1月 1日 46 6460 -2835 -0604

2008 年 1月 1日 46 3727 -2733 -0586

2009 年 1月 1日 46 1437 -2290 -0494

2010 年 1月 1日 45 9629 -1808 -0392

2011 年 1 月 1日 45 7785 -1844 -0401

2012 年 1月 1日 45 6336 -1449 -0317

2013 年 1月 1日 45 5530 -806 -0177

2014 年 1月 1日 45 4262 -1268 -0278

2015 年 1月 1日 42 9289 -2 4973 -5497

2016 年 1月 1日 42 7605 -1684 -0392

第 6表1991~2016 年のウクライナの人口 35)

35) httpindexminfincomuapeopleこの人口統計では 2015 年からはクリミアとドンバスの一部は除

かれているなお2014年のクリミアの人口は 228 万 4400人とされる

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 41: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

41

ライナの社会経済状況が順調に進展するという条件付きではあったが

人口の減少は(クリミアを考慮に入れないことにする)2010年には 19万人(その

年の 1 月 1 日現在の人口の 044)2011 年には 14 万人(同じく 032)だったの

に対し2012年には 9万人(021)にまで減少幅が小さくなっていたこれは最近の

20年間で一番良い結果だったついにウクライナは少しずつ市民の数を増やしそれま

でに失った人口を取り戻し始めるのではないかと思われたしかし激動の時代の始ま

る次の 2013年には再び状況は悪化し減少幅は 13万人(03)に広がってしまった

しかし2014年には社会の激変にもかかわらず人口状況には未だ目立った悪化の兆

候はなく減少も 14 万人033に留まっていたこの年に生まれたのはユーロマイ

ダン以前に妊娠していた子供で彼らの両親は家族を増やす気になった時には近い将

来に国を見舞う試練を予見できなかったのである

そして問題の 2015 年ウクライナを襲った危機は人口状況に明確な影響を及ぼし

人口は 18 万 3000 人 36)042も減ってしまった前年比の減少幅は 4 倍以上にもな

っている(1 万人減から 4 万 3000 人減へ)結句人口減少の年率が 044以上あっ

た 2009 年以前の人口危機の時代に逆戻りしてしまったのである現在の社会経済的

政治的状況を考慮するなら今後の人口の推移は負のスパイラルに陥ることは必至であ

ろう

あらかじめ断わっておかなければならないのだがそもそもウクライナ政府筋が公表す

る人口統計のデータには信頼性がない注 15)(25頁)でも触れたが国勢調査は 2001 年

に行なわれたきりで多事多難な国で国勢調査が 15 年も行なわれていないとどれほど

正確な人口の把握ができているのか住民登録されている数値を統計に用いるほかないの

だが所在不明者(特に海外への出稼ぎ労働者)が続出していて公表の数値と実態とは

かけ離れてしまっているというのが衆目の一致した見方である

それはともかく上記のように今では悪口雑言の対象でしかないヤヌコヴィチ大統領

の時代に一時は人口減少傾向に歯止めが掛かるのではないかと思われた時期もあったの

であるそれのみか統計上一度だけ瞬間風速的に人口が増えるという奇跡的なことも起

こっているそれは 2012年の 10月と 11月でこの年の学校の新学期目指して外国から

家族や学生が多数帰国したためとされている 37)皮肉なことにユーロマイダンの始まる

直前にはこのような現象も見られたのである

上記の記事は続けて死亡率と出生率の検討に移る第 2 図第 4 図特に第 18 図を参

照されたい

2005 年から 2013 年までにウクライナの住民の死亡率は人口 1000 人当たり(千対)

166 人から 146人に減少したソヴィエト時代の死亡率は人口千対 8人であった 60

36) この数字は自然減である移入増を 1 万 4200 人としている 37) httpkpualife366773-vpervye-za-19-let-uvelychylos-naselenye-ukrayny02012年11月 18日付

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 42: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

42

年代半ばから徐々に増える傾向にあったがそれでも 12 人を超えることはなかった

それが90年代の体制変革の時期には僅か 2~3年で 12人から 15人以上へと急に跳ね

上がってしまった

2015 年のウクライナの死亡者は 59 万 5000 人でほぼ人口千対 14 人であるウク

ライナ国家統計庁のサイトには統計には戦闘地域のデータは含まれないという注記が

出ているが犠牲者の数を最大限考慮しても死亡者の人数にはさしたる変化はない

このように今のところ死亡率に特に高くなる兆候はないしかし出生率の状況は芳

しくない最近の半世紀に亘る出生率を分析してみると色々と興味深い思考へと誘わ

れる

出生率のカーヴがすでにソヴィエト時代にゆっくりと下降線を描いていたことは何

の不思議もないむしろ当然のことだったこの傾向は全ての先進国に見られた現象で

社会主義国の方が資本主義国よりも出生率は全体として高い数値を維持していたウク

ライナが初めて出生率の急落(人口千対 21 人から 15 人への急落)を経験したのは 20

世紀の 60年代だったがこの時は 1941~45 年の世界大戦による人口の崖の影響による

ものだったその後 70年代に入ると出生率は千対 15人のレベルで安定化する戦後の

ベビーブームの時期に生まれた者が大人になったのであるさらに言うなら停滞の時

代が実際には明日という日に対する信頼を与えていたのである

さらに80年代半ばにはわずかな出生率の上昇がみられた(これは反アルコール

キャンペーンのおかげであると言われている)現在我が国の人口ピラミッドで一番太い

部分は 30歳の個所であるがこれは 1985年前後に生まれた者たちであるピラミッド

がそこから下に向かって急に細くなるのは2000年代初めまでに出生率が破滅的な人口

千対 75 人にまで急落した影響によるものであるこのような現状が将来における人口

動態状況を少なからず悪化させるに違いないゴルバチョフのベビーブーマーが出生率

の上昇に多大の貢献をしていたのだがそれに替わって今度は 90 年代に誕生した者た

ちが「生殖期」に突入するのだが当の彼らは数が少ない上に強力な家庭を築き子

供をしかるべく養育することのできる肉体的にも精神的にも健康な人間が形成されるに

は余りにも恵まれていない条件下で成長したのである

2000 年代の比較的経済的に平穏な時代には状況は幾分か改善して出生率は 2008年

には人口千対 11 人まで持ち直したそれに続く経済的危機の時代にも出生率は落ちな

かった(人々は経済界の混乱を一時的なものだと見なしていたのだ)がその出生率の

上昇も 2013年には千対 111人で止まってしまった

それに引き換え現在の混迷状態を人々は「長期的で本格的なもの」であると見なし

ていてそれが子孫繁殖意欲に否定的な影響を与えている従って2015年度に生まれ

てきた子供は 41万 2000人千対 955人に留まってしまったつまリはユーロマイ

ダン後の二年間に出生率は 14少なくなったのである比較の対象となるのは 80年代

末から 90年代末までの時期でこの国民の窮乏化混乱不安定の苦難の 10 年間に

43

出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

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ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 43: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

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出生率は急落してしまったすなわち出生率は人口千対 15人から一挙に 75人(二分

の一)にまで急降下してしまったのである概算するとこの間に出生率は毎年前

年比でほぼ 5ずつ減少しているそして現在この時期と比べてもっと悪い予想すら

立てられている今後の傾向を占うさい特に 2014年上半期(この期間に「平時」に妊

娠した子供が生まれている)のデータを捨象するならこのような予想により高い信憑

性が出てくる

前に触れたようにソ連崩壊後にロシアもウクライナも人口状況が急激に悪化し出生

率と死亡率が短期間のうちに逆転しロシアではロシア十字をウクライナではウクライ

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ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

Page 44: 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態cherepakha.jp/ukr-demogr.pdf1 冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態 次に冷戦終結後のウクライナとその周辺国(特にロシア)の人口動態の推移、特に人口、

44

ナ十字を記録したのだが(第 4 図)最近になってロシアは史上稀なるアルコール禍時代

を克服し人口状況も改善に向かいロシア十字で開いたハサミは傷口がふさがるように

二つのカーヴが重なり六角形が完成した(第 20 図)のだがウクライナは依然として傷

口はふさがらず開いたままである(第 18図)それのみかごく最近のウクライナ国家統

計庁のデータでは人口千人当たりの出生率と死亡率は 2013 年が人口千対 111 人と 146

人2014年が 108人と 147人2015年が 96人と 139人となっていて傷口のハサミ

は逆に開く傾向にある(2015年度は CIAのデータでは出生率が 793人の日本よりまし

で 1072人死亡率が世界第二位の 1446 人)

従ってウクライナの人口状況の見通しについて上記のような悲観的な見方が出てく

るのだが記事の筆者はさらに論を進めて次のように結論づける

出生率低下の原因は決して住民の生活レベルの低下だけではないように思われる

たしかにこの要因は大部分の国民には痛撃となっている1年間に実収入は 25減と

なり給金は 20下がってしまった(その上給金の未払いが 425多くなっている)

さらに平均月収の 4195フリヴニャ(2015 年)では子供がなくてもギリギリ暮らせる

程度で子供を育てて教育を与えるのは高嶺の花であるさらに最低賃金の月額 1378

フリヴニャとなるとこの労働報酬金では物理的生存すら脅かされると言わざるを得な

しかし歴史に実例を求めるなら戦争後の混乱と極端に低い生活レベルという条件

下で出生率が一挙に跳ね上がったという例なら数多くあるたとえばソ連の大戦後が

そうであったこの困難は一時的なものですぐに克服できると誰もが信じて疑わな

かったのである今回はと言うとそのような確信は見当たらない

出生率の変化に一番はっきりとした形で顕われる社会的ペシミズムはユーロマイダ

ンの「大衆の革命的高揚」を称揚する言説や EU加盟の見通しに対する政権側の見せか

けのオプチミズムとははっきりと不協和音を奏でているのである

要するにウクライナはお先真っ暗なのであるユーロマイダンの時代ウクライナの世

論の大勢は「ヨーロッパは絶対的な善でロシアは絶対的な悪である」というものだった

EUに加盟し(その前提として EUとの連合協定の調印)ヨーロッパの一員になりさえす

れば千年王国の到来にも等しい豊かな生活が保証されるに違いないしかしそのヨー

ロッパへと向かう道にいざ踏み出してみると難問や障害が山積しその道は困難を極め

ていて早くも方途に暮れてもはや戻るに戻れず行き倒れ状態になりつつあるのが現

在の姿なのかもしれないはからずもドストエフスキーの『悪霊』の題辞として冒頭に

引用されている悪鬼に憑かれた豚の群が崖より湖水に駈け下って溺れてしまう聖書の一

節を思い出してしまったウクライナ人は豚の群が悪鬼に憑かれたようにヨーロッパ

病に取り憑かれてしまった挙句今や破滅への道を突き進んでいるのではないのか

45

ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて

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ウクライナぐちゃぐちゃドロドロ物語 (httpcherepakhajp)

目次

ウクライナの実状(httpcherepakhajpukr-realpdf)

冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較(httpcherepakhajpukr-ecompdf)

1冷戦終結後の旧ソ連構成諸国の経済実績の比較

2冷戦終結後のウクライナと周辺国の経済実績の比較

冷戦終結後のウクライナと周辺国の人口動態(httpcherepakhajpukr-demogrpdf)

「ポーランド的秩序」の伝染

宿命の東西対立

オリガルヒとソヴィエト的悪平等

ウクライナ人の歴史認識と縁故主義(httpcherepakhajpukr-h-kumpdf)

他立国ウクライナ(httpcherepakhajpukr-dependpdf)

ウクライナの前置詞は「ヴ」か「ナ」か(httpcherepakhajpukr-v-or-napdf)

ぐちゃぐちゃドロドロ国の品格あるいはアンチ品格

国会議員のくせして学生の代返そっくりのボタン押し屋

プーチン憎しの卑語歌

ぐちゃぐちゃドロドロ国の国民作家

DNA鑑定ではウクライナ人はロシア人とどれほど違う

拾遺

グルジアとコーカサスについて