史料編集室紀要(28): 15-26 issue date - university of the...

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Title 嘉慶21年および23年の進貢船の派遣について-接貢船派 遣の目的に対する問題提起として- Author(s) 田中, 千夏 Citation 史料編集室紀要(28): 15-26 Issue Date 2003-03-20 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/7742 Rights 沖縄県教育委員会

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Title 嘉慶21年および23年の進貢船の派遣について-接貢船派遣の目的に対する問題提起として-

Author(s) 田中, 千夏

Citation 史料編集室紀要(28): 15-26

Issue Date 2003-03-20

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/7742

Rights 沖縄県教育委員会

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

嘉慶21年および23年の進貢船の派遣について

-接貢船派遣の 目的に対す る問題提起 として-

田中 干夏

Ⅰ 「接貢船」 の定義 とその歴史的作用の概観

接貢船とは、進貢使節を迎接するために進貢船を派遣 した翌年に派遣される使節のこと

また進貢船では正使耳目官や副使正議大夫が派遣されるのに対 して、接頁船では正使 ・副

使は派遣されないOまた、彼 らには北京-赴く義務もないO

按貫船の定義について辺土名朝有氏著の 『琉球の朝貢貿易』によれば、広義 ・中義 ・狭XE

義の三つの分け方ができる。

まず、広義の接貫船 とは、明代での 「接回」の船、順治 3年の 「接回」、康照 6年の

「按貢船」と表現されているものにあたる。

『歴代宝案』第 1集の巻21の13号文書 (康配 6年)は康幣 5年派遣の進貢使節を迎接す

る旨の沓文である。

琉球国中山王尚質、進貢の人員を差接せんがことの為にす。

切に照らすに康照五年、例として会典の貢期に遵い、理として合に進頁すo(中略)貢期を計算

するに、康幣七年の仲夏に方めて貢船に搭回するを得るo(中略)今年の春迅を将て特に都通事察

純 ・察彬等の官を遣わし海船一隻に坐駕し、接回せしめ、天朝の廉給を費やし、以て罪戻を滋すを(2)免れん。

これによれば、康照 5年派遣の使節達は計算上康照 7年まで中国に滞在 しなければなら

ず、それは天朝の廉糧を無駄に費やすことから接回のための船を派遣するとなっている。

TANAKAChinatsu:TheDispatchofTributeTl.adeVesselsintheReignofEmperorJiaQillg:Al'gumentS

agalnStSendingVesselstoFujiantoRetul.ntheRyukyuanEnvoys

(1) 辺土名朝有著 『琉球の朝貢貿易』(校倉書房 1998) 第三章第二節 「朝貢貿易における按

貢船の役割」

(2) 『歴代宝案』校訂木第一冊 711頁

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

また、これに続いて

(3)来援の貝伴に至っては、概べて敵国の衷糧を自ら備えるに属し、敢えて金銭を冒費せず。

と、接回船に乗船する乗務員の食料品などは琉球国側で予め用意 して行ったことがわか

る。 これからもわかるとお り、この頃の接貢船には滞在費の支給など政府からの恩典や権

利の付与はなかった。また辺土名氏によれば、接貢船は闘安鎮の内港-の入港も出来ない■ト

ため、貿易に従事することは出来なかったとある。

中義の接貫船は、康照17年派遣の 「接貢船」にあたる。ここで初めて内港への入港 と湾

泊が許可された。

『中山世譜』巻八の康幣17年の条にはこの時の接貢船開始の様子を次のように記 してい

る。

(康照)十七年戊午冬、耳目官陸承恩 (今姓名を改めて向嗣孝と日う)。正議大夫王明佐等を遣

わして入京せしめ、表を奉じ、方物を貢し、併びに奏して船一隻を勅書及び貢使を迎接し、以て往

来するに便ならしめるを乞う。聖祖、此れに従う (接貢船此れ従り始めとす)。

この年から、接貢船は公的な貿易に従事できるようになるが、それには関税が課せ られ

ていたO『中山世譜』巻八の康幣27年の条には、関税の額が多いことが記載 されているO

(康照)二十七年戊辰冬、王耳目官毛起龍 ・正議大夫察鐸を遣わし、表を奉じて入京し、方物を

頁す。是の先の接貢船、関上に干て納税すること甚だ多し。

そ して、狭義の接頁船 とは、琉球の公貿易に対 して関税の免除が行なわれた康照28年以

降をさしている。前述の 『中山世譜』の条には続いて次のように接貢船に対する免税を申

請 している。

・・・且つ明朝以来、遣わす所の貢船二隻は百五十人を以て定めと為し・・(中略)・・是れ由り

王具疏して以て其の免税井びに人数を加増するを乞う。

(3) 前掲史料

(4) 辺土名朝有著前掲書 224頁

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

この時には接貢船の免税の他に、通常の進貢船の定員を150名から増や してほしいとい3i)

う内容も含まれているOこれをうけて、礼部は康照帝-上奏したところ。「・。・・・再

び、部の議を経て、貢船は二百人を定めと為 し、井びに接頁船は免税を総て被る。」と、(6)

ここから琉球国の接頁船に対して免税されるようになるのである。康照28年10月、尚貞王(7)

の21年、西暦1689年の事である。

辺土名朝有氏によると、接頁船の派遣の目的には表向きな理由と本音にあたる部分があ

るとされている。

まず表向きな理由としては、①淡水である開港に長期にわたって船を停泊させると、船

の傷みが激 しくなる。②長期間の滞在は天朝の行程を無駄に消費するため。③貢船が二隻

とも福州に滞在することによって、二年一一貢の貢期を守れなくなり、失頁するおそれがあ

るため。の三つがあげられている。だが、琉球側の本音としては、貿易により仕入れた商

品を薩摩側がなるべく早く引き取 り、長崎で行われる晴の商人による貿易との競合に競 り(8)

勝つためであるとしている。

このようにして始められた接頁船制度の歴史的な意義と作用について、徐恭生氏は次の

ように述べている。

まず、接貢船にて福州-くる使節一行には朝京の義務はなく、もっぱら福州に於て琉 ・

中関係の公務にあたる。主な公務としては、(∋皇帝からの勅書や、欽賜の物件 ・礼部から

の番文などを早く琉球-持ち帰 り、また琉球からの者文 ・奏文を伝えて琉 ・中関係の強化

に務める。②前回の進貢使節の回国についての琉球国王の報告および中国国内での政治活

動の了解。③時憲書を受け取る、がある。また、そのほかにも接貢船の役割としては難民

の護送や留学生の派遣 (主に福州に派遣される自費留学生 "動学")等による文化交流の(9)

促進、貿易の発展に務める、がある。

このように、今までの研究をふまえて接貢船制度を大まかに整理してみたが、接貫船の

(5) その近年におきたオランダ船にたいする類似の免税問題を例としてあげている (辺土名朝前

掲書252頁) 『歴代宝案』では1-15-10が関連する文書である。

(6) 琉球国王および礼部や康照帝とのやりとりについての詳細は辺土名朝有前掲書第三節 「貿易関

税の免税と回賜」を参照。

(7) 『歴代宝案』では、ト06-19文書およびト1 1-05文書が関連する文書である。

(8) 辺土名朝有前掲書 222頁

(9) 徐恭生 「晴代琉球接頁制度」『第五届中琉歴史関係学術会議論文集』福建教育出版 1996

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

役割について上記に挙げた中でも、貿易の発展という点は大きな部分を占めているのでは

ないか、つまり貿易の回数を増やすことが接貢船派遣の-▲番大きな目的なのではないかと

い う疑問を感 じた。按貢船とは進貢使節の迎接という目的以上に貿易の機会を増やすため

の建前とも言える存在だったのだろうか(,本稿では嘉慶21年および23年の進貢船派遣を通

し、船賃に附搭する人員の変動や進貢使節達の福州の到着時期を整理しながら問題提起出

来ればと思 う。

Ⅱ 嘉慶21年お よび23年における進貢使節派遣 (派遣か ら回国まで)

1 嘉慶21年の進貢使節派遣および22年派遣の接貢船について

(D嘉慶21年派遣の進貢使節について

『歴代宝案』第 2集の巻120、 1号文書は福建布政使から琉球に向けての沓覆であるが、(1())

この中に嘉慶21年派遣の進貢使節についてもふれられている。

これによると、

蓑に嘉慶二十一年の貢期に当たり、特に耳目官毛椎憲、正義大夫察次九、都通事王土博等を遣わ(1りし、表章 ・方物を斎捧し、官伴 ・水梢共に二百員名を過ぎざるを率領し・・・O

とあり、正使に毛維憲、副使に察次九、都通事に王士惇を派遣したことがわかる。通常

の責物 (硫黄 ・紅銅 ・白剛錫)に加えて、この時の進貢では、以前に琉球国に帰国した官

生の陳善継等の謝恩の方物も携えて、頭号 ・二号の船隻に装載 し、嘉慶21年 9月21日に琉

球国を出発 した。途中、頭号船二号船ともに遭難 し、頭号船隻は、嘉慶21年9月29日に福

州府属の白妾 喚外洋に漂流した。その後、嘉慶21年10月20日福建に到着し、21日に館駅に(12)

安挿されているO二号船隻は八重山諸島に漂流し、翌22年 1月 6日に福建に到着しているO

福建に到着 した一行は、北京-の進京組と福建で開館貿易に当る存留組 とに分かれ、進

「家譜資料二 (下)」(以 F 『家譜 (二)』と略称)中の毛姓家譜 (伊野波家)に当時の正

(10) 以下、本論で参照した台湾木の宝案史料は、校訂本として未刊行の部分であるため、便宜上

文書番/J]Fをつけたが、大きな間違いはないと思う

(ll) 『歴代宝案』国立台湾大学木 (以下 「台湾木」)第九冊 5407頁

(12) 『歴代宝案』台湾本第九冊 5413頁

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

使耳目官であった毛維憲の記載があるが、これによると、福建の出発 日は10月25日であり、

12月15日に北京に到着 したとなっており、出発及び到着の日付は 『歴代宝案』の記載と合(13)

致している。

琉球側からの進京組のメンバーは正使耳目官の毛維憲、副使正議大夫の察次九、都通事

が 1名 (王士惇 ?)と従人17名の合計20名である。ここに中国側から中国各省を通過する

際に同行する伴送官が同行 した。『歴代宝案』では、正使 ・副使 ・都通事以外の人員につ

いて詳 しい記載がないが、琉球側の史料によれば、進貢使節の構成は、正使耳目官 (勢

頭)・副使正議大夫 (大夫)・朝京都通事 (北京大通事)およびこれら3名の人伴 7名、進

京に伴 う事務方の総責任者にあたる北京大筆者およびその人伴 2名、御用物の買い調え方

である北京宰領 2名および人伴 1名、正使の秘書役の勢頭与力および人伴 1名、副使の秘(15〕

書役の大夫儀者、与力の補佐役である勢頭内証 (内証聞)となっていることがわかる(,

進貢使節達は北京で元旦の朝賀の礼を始めとする進貢使節としての日程をすませると、

嘉慶22年 2月 8日に福建-むけて北京を出発した。前述の毛維憲の記載によれば4月 7日(16)

には福州に到着 したとなっている。

その間、福州に残留した官伴人達は、琉球館での貿易を行 う。)頭号船隻の貿易期間は嘉

慶21年12月20日から始まり、漂流により福州入りが遅れた二号船隻の貿易期間は嘉慶22年

2月 5日から始まっている。両号船とも嘉慶22年 4月29日まで貿易を行った。貿易が終り、

嘉慶22年 5月 6日には、頭号船 ・二号貢船の官伴人はともに帰国のために乗船した。

ここで、福州入 りの際に報告された乗員と帰国の際の乗員の間に変動が起こる。

まず、進貢の為に進京した朝京使節20名であるが、彼 らは北京での日程をすませ、すで

に福州に戻ってきている。しかし、次の接貢船を待って帰国するためにこの時には乗船し(17)

ない。また、存留官伴として16名が福州に残るために乗船しない。この他に、水梢の中で

(13) 『家譜 (二)』752頁

(14) 『歴代宝案』台湾本第九冊 5418頁

(15) 富島壮英 「唐船 (進貢船 ・接貢船)に関する覚書-全乗船者の構成を中心に-」(『歴代宝

案研究』第6・7合併号 1996)、北京宰領については 渡名喜明 「資料紹介 二田里筑登之親雲上

渡唐準備日記 (-)(二)」(『紀要』沖縄県教育委員会文化課 1984)参照

(16) 『家譜 (二)』752頁

(17) 『歴代宝案』校訂木第一冊350頁 (1-10-14)に 「除留関宮一員践伴十五名存留外」とあり、存

留の官伴は存留通事1名に践伴15名ではなかったかと推測される

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

難民仲村渠の船隻の引導として派擬された2名が乗船しないo

そこに前年の接責船が回国する際に福州に残った接貢存留官伴が6名乗船 し、合計168(18)

名が琉球に向けて帰国した。

②嘉慶22年派遣の接貢船について

『歴代宝案』第 2集巻122の4号文書は嘉慶22年派遣の接貢船についての執照であり、

これによるとこの年の接頁船の乗船人員は次のとおりである(,

(乗船人員)

在船都通事 魂崇仁 人伴4名

在船使者 向元鹿及び楊充海 人伴8名

存留通事 察修 人伴 6名

官船架多長 ・直庫 王朝鐙 。桝増福

水梢 65名

合計すると89名 となる。

執照は存留通事察修に付され、嘉慶22年 8月4日付けで発給されている。その後、接貢

船は9月13日末刻に四喚洋面に寄泊。 9月14日には間省に入港する。午刻に亭頭悟山院にLい=

地泊し、 9月21日に館駅に安挿された。接貢船は北京に行くことはないので、そのまま福

州に滞在 し、嘉慶22年10月20日から嘉慶23年4月21日の間に琉球館にて貿易を行 う。貿易

が終了し、嘉慶23年4月27日には帰国のために乗船する。ここで、福州入 りの際に報告さ

れた乗船人員との変更は以下の通 りになる(,

i)福州入港のさいに報告された官伴 ・水梢89員名の中で、接責船に乗船 しない者。

肥加及び長嶺の2名 (病故)

接貫存留官伴 6名

大城及び小嶺の2名 (難民船の引導の水梢として)

仲村渠及び高江洲の 2名 (同上)

(18) 『歴代宝案』台湾本第九冊 5419頁

(19) 『歴代宝案』台湾木第十冊 5524-5525頁

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

ii)報告された官伴 ・水梢以外に接貢船に附搭する者

前年 (二十一年派遣)進貢京回の官伴 20名

前年進貢の存留官伴 15名 (屋麻城病故のため除く)

合計すると112名 となる。(『歴代宝案』台湾本第九冊 5528頁)

ここでわかることは、北京-向かった正使を始めとする進京組は、進貢船が帰国する出

-帰国するのに十分間に合ったはずである。 しかし、進貢使節達は摘回の船隻には乗船せ

ずに、次年に派遣される按貢船をわざわざ待っているのである。このことはこの年だけで

はなく、次の進貢使節達の動向にも言える。

2 嘉慶23年の進貫船派遣および24年の接貢船派遣について

①進貢使節の人員

『歴代宝案』第二集巻124の九号文書の進貢船の符文によるとこのときの進貢船の乗組(2〔))

員は頭号船、二号船あわせると以下の通 りになる

正使耳目官

副使正義大夫

朝京都通事

在船通事

在船使者

存留通事

在船通事

官船形艮 ・直庫

水梢 120名

毛維新 人伴12名

鄭克新 人伴12名

梁光地 人伴 7名

魂思聡

梁文戯 人伴8名

向廷憲 侍固犀

麻崇基 翁文秀 人伴16名

王乗謙 人伴 6名

魂永昌 人伴4名

王兆杜 善得福 陳善継 保肇基

合計すると198名である。

(20)『歴代宝案』台湾木第十冊 5585-5586頁

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

頭号船 ・二号船は通常の貢物 (硫黄 ・白剛錫 ・紅銅)を分載 して、共に嘉慶23年 8月17

日に出発、途中久米島を経由し、久米島を9月22日に出発 した。その後、両船は漂流 し、

頭 号責船は9月28日に福建に到着 し、10月4日に館駅に安挿 された。二号船は9月28日に

福州府属の洋面に漂着、10月10日に福建に到着 したO(21) (22)

進京組は朝貢の為に10月17日に福建を出発 し、12月15日には北京に到着 している。これ

は、『家譜 (二)』中の鄭氏家譜 (十五世鄭得功)の鄭克新の記述にある目付 とも合致 して(∠3)

いる。

この時、朝貢の為に北京-向か う人員は以下の通 りである。

正使耳目官 毛維新

副使正議大夫 鄭克新

都通事 1名 (染光地 ?)

従人 17名

(2りこれに中国側からの伴送官が加わった。

進京組は北京での朝貢の日程を終えると、嘉慶24年 2月初 3日に北京を出発 した。前述(25)

の家譜中の鄭克新の記述によれば、 4月 3日に福建に到着 したとある。

福州に残留 した官伴人による開館貿易は、嘉慶23年10月27日から嘉慶24年間4月12日ま

で行われ、閏4月18日には館駅を離れ乗船 した。

『歴代宝案』第二集巻124の13号文書よると、帰国の際には進貢船の乗員に以下のよう(26)

な変動が見られたO

(21) 『歴代宝案』台湾本第十冊 5592頁

(22) 『歴代宝案』台湾本第十冊 5597頁

(23) 『家譜 (二)』 647頁

(24) 『歴代宝案』台湾本第十附 5592頁

(25) 『家譜 (二)』 647頁

(26) 『歴代宝案』台湾本第十冊 5590頁

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

i)福州入港の際に報告された官伴 ・水梢のうち乗船しない者

進貢朝京使 20名 ※ただし、この時には北京を離れすでに福建に滞在中であり、

次年に派遣される接貢船に乗船する予定0

存留官伴 16名 福州に残留するため。

限伴伊志川 1名 病気による死亡のため

ii)原報の官伴の他に乗船する者

前年 (嘉慶22年派遣)の接貢存留官伴 6名

(2I)以上合計すると169名である。)

②嘉慶24年派遣の接貢船について

『歴代宝案』嘉慶24年 8月 3日発給の執照 (第 2集 巻125 9号文書)によれば、

この年に派遣された接貢船の乗員は以下の通りである。

在船都通事 王崇達 人伴4名

在船使者 向文彬 察基 人伴 8名

存留通事 楊徳崇 人伴 6名

官船影艮 ・直庫 王宏遠 柳増福

永梢60名

嘉慶24年 9月29日南墓番船浦地方に停泊. 9月30日館駅に安挿されたO開館貿易は嘉慶

24年10月20日~嘉慶25年4月21日まで開かれている。その接貢船が帰国する際には 『歴代

宝案』嘉慶25年 8月12目付の琉球国王からの沓覆 (第2集 巻128 6号文書)によるとI・・し、l

以下のような乗員の変動がある。

i)接頁船の原報の官伴水梢84名のうち乗船しない者

存留官伴 6名

水梢の仲村渠 ・長嶺 難夷古波蔵の船の引導として

(27) 『歴代宝案』台湾木第十冊 5600頁

(28) 『歴代宝案』台湾木第十冊 5666貞

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

ii)原報の官伴以外に乗船する者

前年 (嘉慶23年派遣)進貢京回の官伴 20名

前年 (嘉慶23年派遣)進貢存留官伴 16名

この回の進貢使節も進貢船の撤回の目の一ケ月前にはすでに福州琉球館-の到着を完了

していることがわかる。

では、接貢船を待って福州に滞在している進貢使達や接貢船にて中国に来た人員は、福

州にてどのような活動を行っていたのか、その動向について、琉球側の史料を参照してみ

たい。

浦添市教育委員会発行の 『琉球王国評定所文書』第一巻所収の 「卯秋走援頁船帰帆改日

記 」は、道光24年派遣の按貢船に関する報告書である。貿易に関する報告書が大半である

が、その中の 「福州役者より首尾申出候書付」は、接頁船に乗船した役人による福州滞在

中大まかな日程の報告である。

このなかでは、那覇から福州-の旅程や、福州入津後に行われる中国側の役人による検

査を経て開館貿易が始まったことがわかる。途中、遺光24年 2月 9日において、「孔子御

祭和之時、勢頭 ・大夫以下冠役者中、参拝相勤候事。」と、進貢使節の正使耳目官や副使

正議大夫の孔了一廟参拝の事が伝えられれている以外は、貿易業務に関する日程報告がほと

んどである。接貢船によって福州-やってきた琉球役人がその日程の大半を貿易に費やし

ていることがわかる。

Ⅲ 終 りに

以上述べたとお り、進貢船および接貢船派遣の帰国の際の乗船人員の推移を見ると、進

貢船や接貢船の派遣のなかで、福州に存留する官伴人も定期的に入れ替えられている事が

わかった()福州に存留する官伴人は一年交代で進貢の際には16名、接貢の際には6名が存

留するようにローテーションがくまれていることがわかるOまた、進貢船の官伴人が乗船

する前には進貢使節達がすでに福州に戻っている事例があることがわかった。嘉慶年間を

通 して、同じように進貢使節の福州到着の日程を整理してみると (表 1)、漂流で朝貢の

ための北京入京が遅れたり謝恩の為の使節派遣などの理由により北京出発が遅れ、進貢船

が館駅を離れる前の福州到着が完了しなかった例があるものの、嘉慶年間の後半、つまり

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Page 12: 史料編集室紀要(28): 15-26 Issue Date - University of the Ryukyusokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/...史料編集室紀要 第28号 (2003) この時には接貢船の免税の他に、通常の進貢船の定員を150名から増やしてほしいとい

史料編集室紀要 第28号 (2003)

嘉慶17・19・21・23・25年に派遣された進貢使節は順調に進貢船帰国前の福州到着を果た

しているのである。これは、本来は進貢船が帰国する前には朝京使節達が福州に到着出来

ることを意味しているのではないだろうか。こうなると、「進貢債の迎接」という接貫船

派遣の本来の目的が、根拠の弱いものになっていると思える。進貢使節の迎接という目的

はあくまで建前上のことで、本音の部分としては貿易回数を増やすという目的があったの

ではないだろうか。そして、この状況を清政府はどのように見ていたのだろうか。進貢使(2'))

節に対 しては、薙正朝代を始めとして何度か正貫減免措置に対するや りとりがあるが、接

頁船に対する清朝側の対応には康照28年以降、特に順調に福州到着を果たしている嘉慶後

期以降、変化は無かったのだろうか。造船技術及び航海技術の発展は、接貢船制度に影響

を与えなかったのだろうか。接貢船制度確立後の変遷について活側の朽案史料等をふまえ

て今後探っていけないだろうかと思っている。

※本稿を作成するにあたり、沖縄大学教授の金城正篤先生、史料編集室の外聞みどり氏

にご助言いただきました。ここに厚くお礼を申し上げます。

(29) 李国栄 「独特的歴史現象 :薙正朝減免琉球正頁問題述析」(『第六回琉球 ・中国交渉史に関

するシンポジウム論文集』 沖縄県教育委員会 2002)

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史料編集室紀要 第28号 (2003)

寅期 西暦 琉球国王 王男 紫金大夫 耳目官 正議大夫 朝京都通事 進貢使節北京出発 日 進貢使節福州到着 日 進貢船摘回 目

嘉慶元 1.796 尚温 2 東邦鼎王以文 ナ毛廷株 、 梁換 嘉慶31′/29 嘉慶34//18 嘉慶210′′′1.3

嘉慶 3 1798 尚温 5 向国垣 ・、曽韻 、 鄭章観 嘉慶51/21 嘉慶54/7 嘉慶45/′30

嘉慶 5 1800 尚温 6 毛国棟魂崇仁鄭朝選 鄭得功 向必顕 、月転業 察邦錦 嘉慶65′/10 嘉慶68ノ′23 嘉慶64/′24

嘉慶 7 1802 尚温8 向詮 梁換 察清派 不明 不明 嘉慶85/16?

嘉慶 9 1804 向蘭元 毛廷勅 鄭国鼎 毛廷器 不明 不明 嘉慶108′′/′1

嘉慶11 1806 向蘭 3 楊克敦 梁邦鼎 貧寒寒 嘉慶132/′2 嘉慶134′′′28 嘉慶1210′′′6

嘉慶13 1808 向葡 5 毛光国金文和察世豪 鄭輩観 毛維新 灘嘉訓 嘉慶1.43′/12 嘉慶147/′′28 嘉慶144′/30

嘉慶15 ]810 向潮 7 向国柱 薯肇業 鄭尭新 嘉慶161()/ノ2 嘉慶171/′10 嘉慶165′/18

嘉慶17 1812 向讃貞9 向謹 毛廷器 林癖 嘉慶182′′′5 嘉慶184/′12 嘉慶184ノ′/1.8

嘉慶21 1816 向蘭13 毛維憲 察次九 嘉慶222//8 嘉慶224/7 嘉慶225/′6

嘉慶23 1818 向潮15 毛維新 、鄭寒新 染光地 嘉慶242′/′3 嘉慶244′′3 嘉慶244′′′18

※赤嶺誠紀著 『大航海時代の琉球』(沖縄タイムス社 1988)所収の進貢船一覧表より作成

※網掛けされた部分は参照した家譜

※進貢船の離駅登舟 目付については、『歴代宝案』 校訂本第七冊 ・第八珊 台湾本第九冊 ・第十冊参照

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