上田敏の民謡論 - 福島大学附属図書館...14 福島大学教育学部論集第71号...

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平田公子:■L田敏の民謡論 13 上田敏の民謡論 国民音楽の基礎としての民謡 1 はじめに 明治時代,我国に西洋音楽が輸入されて以来, 日本音楽の価値は西洋音楽との比較の中で問われ てきた。そして,その比較の中で,国楽創成,あ るいは,日本音楽の改良という課題が社会的問題 になっていった。 明治17年(1884)に,音楽取調掛長伊澤修二の名 前で報告された『音楽取調成績申報書』ωにおい ては,日本の音楽政策について甲乙丙三っの説が 示されているが,東西二洋の音楽を折衷して,今 日の我国に適する音楽を制定するよう努力すべき とする説が妥当なものとみなされた。しかし,こ の説を実施することは非常に難しく,具体化にお いては,日本音楽と西洋音楽の違いは明確にされ ないまま,両者の音組織上の類似点が「発見」さ れ,日本音楽と西洋音楽は同じであるという考え に基づいて,国楽創成の基礎としての小学唱歌の 編集は進められることになる(2)。 それに対して,明治37年(1904)には,理学博士 の田中正平は「我邦音樂の獲達に就て」において, 我国では,欧州楽(西洋音楽)は一つの刺激物, 参考物として奨励されるべきであるが,それをそ のまま日本の国楽とするためではないとした〔3〕。 田中は,一一民族の精神的事物の発達は一定の順序 と法則を有し,決して偶然に成るのではなく,ま た人為をもって妄りに之を左右し得るべきもので もなく,その民族の歴史上の根底なくしては決し て健全なる発達は望めない故,我国将来の民楽に おいても,各楽風の特長が種子となり,之に幾多 の改良を施して,漸次発育進化させる以外にない とした〔4〕。田中は,将来の民楽においては,日本 音楽は基礎とされるが,多くの改良が施され,漸 次発達させることが必要であるとし,そのままの 形での日本音楽を認めたわけではなかった。 しかし,当時の日本音楽関係者は,田中の考え を根本的に理解することなく,田中を彼ら自身の 支持者として,単なる日本音楽擁護論者とみなし た〔51。 田中のこの音楽論は,音楽界に大きな反響を呼 び,これに触発される形で様々な音楽論が発表さ れた16)。一方には,日本音楽と西洋音楽の類似点 のみを強調し国楽創成を進める考えがあり,他方 には,雅楽や三味線音楽等の日本音楽を擁護する 考えがあった。その中で,上田敏の民謡論は,民 謡を将来の国民音楽の基礎とみなしたことにおい て,特に注目に値する。敏は詩人であり,評論家 であり,英文学者であるが,多くの音楽関係の論 考等も著しており,民謡に関する主なものは「樂 話」σ〕,「音楽振興策」(8),「器楽の基礎」〔9,「本邦 將來の器樂に就きて」⑩,「民謡」〔1D,「民謡」{12等 である。 ■一ヒ田敏の民謡論に関する先行研究としては,仲 万美子の報告「日本における「音楽研究』から 「音楽学』への移行の足跡」,研究発表「明治時代 の日本の音楽学一明治30年代後期における『俗謡 (民謡)』研究を中心として一」,Ways to musicology in Japan during the Mei a retrospective survey with em folksongstudies等ll鵬があげられる。敏の 音楽論に関しては中村洪介の「上田敏と西洋音 楽」㈹,小林紀子の「西楽論争一森鴎外とヒ田敏 のヴァーグナ論一」〔151等があげられる。しかし,

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平田公子:■L田敏の民謡論 13

上田敏の民謡論  国民音楽の基礎としての民謡

平 田 公 子

1 はじめに

 明治時代,我国に西洋音楽が輸入されて以来,

日本音楽の価値は西洋音楽との比較の中で問われ

てきた。そして,その比較の中で,国楽創成,あ

るいは,日本音楽の改良という課題が社会的問題

になっていった。

 明治17年(1884)に,音楽取調掛長伊澤修二の名

前で報告された『音楽取調成績申報書』ωにおい

ては,日本の音楽政策について甲乙丙三っの説が

示されているが,東西二洋の音楽を折衷して,今

日の我国に適する音楽を制定するよう努力すべき

とする説が妥当なものとみなされた。しかし,こ

の説を実施することは非常に難しく,具体化にお

いては,日本音楽と西洋音楽の違いは明確にされ

ないまま,両者の音組織上の類似点が「発見」さ

れ,日本音楽と西洋音楽は同じであるという考え

に基づいて,国楽創成の基礎としての小学唱歌の

編集は進められることになる(2)。

 それに対して,明治37年(1904)には,理学博士

の田中正平は「我邦音樂の獲達に就て」において,

我国では,欧州楽(西洋音楽)は一つの刺激物,

参考物として奨励されるべきであるが,それをそ

のまま日本の国楽とするためではないとした〔3〕。

田中は,一一民族の精神的事物の発達は一定の順序

と法則を有し,決して偶然に成るのではなく,ま

た人為をもって妄りに之を左右し得るべきもので

もなく,その民族の歴史上の根底なくしては決し

て健全なる発達は望めない故,我国将来の民楽に

おいても,各楽風の特長が種子となり,之に幾多

の改良を施して,漸次発育進化させる以外にない

とした〔4〕。田中は,将来の民楽においては,日本

音楽は基礎とされるが,多くの改良が施され,漸

次発達させることが必要であるとし,そのままの

形での日本音楽を認めたわけではなかった。

 しかし,当時の日本音楽関係者は,田中の考え

を根本的に理解することなく,田中を彼ら自身の

支持者として,単なる日本音楽擁護論者とみなした〔51。

 田中のこの音楽論は,音楽界に大きな反響を呼

び,これに触発される形で様々な音楽論が発表さ

れた16)。一方には,日本音楽と西洋音楽の類似点

のみを強調し国楽創成を進める考えがあり,他方

には,雅楽や三味線音楽等の日本音楽を擁護する

考えがあった。その中で,上田敏の民謡論は,民

謡を将来の国民音楽の基礎とみなしたことにおい

て,特に注目に値する。敏は詩人であり,評論家

であり,英文学者であるが,多くの音楽関係の論

考等も著しており,民謡に関する主なものは「樂

話」σ〕,「音楽振興策」(8),「器楽の基礎」〔9,「本邦

將來の器樂に就きて」⑩,「民謡」〔1D,「民謡」{12等

である。

 ■一ヒ田敏の民謡論に関する先行研究としては,仲

万美子の報告「日本における「音楽研究』から

「音楽学』への移行の足跡」,研究発表「明治時代

の日本の音楽学一明治30年代後期における『俗謡

(民謡)』研究を中心として一」,Ways to

musicology in Japan during the Meizi period:

a retrospective survey with emphasis upon

folksongstudies等ll鵬があげられる。敏の西洋

音楽論に関しては中村洪介の「上田敏と西洋音

楽」㈹,小林紀子の「西楽論争一森鴎外とヒ田敏

のヴァーグナ論一」〔151等があげられる。しかし,

14 福島大学教育学部論集第71号

仲の報告や研究発表では,敏が民謡を国民音楽大

成の基礎とみなしたこと等が簡単に触れられてい

るにすぎず,また,敏の西洋音楽論に関する先行

研究では,民謡論にはほとんど触れられていない。

従って,上田敏の民謡論についての研究は,まだ

行われていないと言えよう。

 本論においては,筆者は敏の日本音楽観や西洋

音楽との関わりにも触れながら,当時の知識人の

一一 lとしての敏が,どのような民謡論をもってい

たかを,彼の著作の中から探っていきたい。

H 上田敏の音楽的略歴(1⑤

 上田敏の音楽的略歴は,西洋音楽に関するもの

が圧倒的に多い。しかし,敏の民謡論あるいは日

本音楽観は,彼の西洋音楽との関わりの中から生

み出されたものであるので,ここでは,彼の西洋

音楽との関わりも含めて音楽的略歴を簡単に述べ

たい。

 敏は明治7年(1874)に,東京の築地で父綱二,

母孝子の間に生まれるが,音楽的に非常に恵まれ

た環境の中で育つ。母方の祖父は外国奉行見配定

役として,福沢諭吉らと共に欧州に派遣されたこ

とがあり,叔母は大山捨松,津田梅子らと共に渡

米したことがあり,父も徳川民部大輔に随従して,

渋沢栄一らと共に渡欧したことがある。明治43年

(1910)に発表された半自叙伝的小説『うづまき』

の中で,敏の分身春雄が幼い頃から西洋に眼を向

け,「異邦の美に憧れて,重に彼地の文物を慕っ

てみた」{mことが述べられている⑱。

 西洋の物を好む気持ちが溢れていた敏であるが,

日常生活の中の様々な音にも敏感に耳を傾けてい

たことを,次のように述べている。

 其比牛込にも屋敷があって,月の十日ぐらゐ

は山の手に暮したが,招魂社のあなた,竹橋の

兵鶯から夕方の喇叭の響が悲しく聞える時なぞ

は,何と無く身がふらふらして,其音の風に乗

って行きたくなった。また稗蒔費の聲が屋敷町

の角を曲って行って,一時世間が深とする初夏

2001年12月

の正午頃に,搦で庭の柘榴の紅い花を見ていみ

と,耳の中まで微に何か響いて來るやうに思ふ。

誰が教へたのか,それは淀の川瀬の水車の音だ

と聞いたので,徒然の折節を暫々耳を澄して,

此夢の世界の音信に接しるのを樂みにした。日

が晴れてみて,細雨がさらさらと百日紅の滑な

幹に降りか\る「狐の嬰入り」の時,急いで縁

側の柱に耳を押付けたも,やはりかの仙郷の聲

を聞かうとしたからである。{19)

 このように,日常の音に敏感に耳を傾けていた

敏であるが,西洋の美に憧れ,日本音楽にはあま

り興味をもつことができず,徐々に日本音楽が衰

退していくことに,納得さえしていたのである。

 異邦の美に憧れて,重に彼地の文物を慕って

みた春雄の事だから,何の暇あって,江戸趣味

なぞに耽らうぞ。まして幼少の頃は,さう澤山

は芝居も観ず,音曲も聞かず,草讐紙も讀まな

かったし,梢長じては,只管自分の好む重に外

國の雑書を渉猟するのを唯一の道楽として,普

通の娯樂に赴かなかった彼は,時代の推移と共

に美しい物の滅んで行くのを,敢て引留めよう

とはしない。愛惜の眼を以て静に之を目送する

ばかりだ。能楽をして,其大膳な模様の装束の

下に武士道を蓋って亡ばしめよ。新内をして,

其凄艶な旋律の波に浮ぶ心中の男女と共に消え

しめよ。但し新に興る物の醜いのは容されぬ。

清新の氣にも乏しく,深遠の心も訣き,現代の

學校建築の如く,掘建小屋の如く,粗悪浅薄而

も皆相談したやうに一つの型に嵌ってみるのに

は我慢できない。

 それ故に春雄は,直接経験が浅いにも拘はら

ず,三絃樂の衰頽,講談落語の堕落,はた諸式

の梨園の不振に自から思當つた。⑳

 敏は父の死後,明治21年(1888)から翌年にかけ

て,伯父乙骨太郎乙の邸内に移り,その後結婚ま

での!0年間を,乙骨太郎乙の弟子である田日卯吉

方に寄寓するが,これも敏の音楽的興味を層促

平田公子:ヒ田敏の民謡論 15

進ずる。父の兄乙骨太郎乙は英漢学者であり,太

郎乙の三男,敏より7歳年下の従弟,乙骨三郎も

大学を卒業するまで田口家で生活していた。乙骨

三郎は後に東京音楽学校教授になるが,東京帝国

大学在学中から西洋音楽に興味をもち,日本人に

よる最初の全曲上演のオペラくオルフォイス〉の

テキストの翻訳や,『ベートーヴェン』『西洋音楽

史』等の著書を著した人物である⑳。

 乙骨,田口両家の恵まれた音楽的環境の中で生

活した敏は,第一高等中学校に入学後,明治24年

(189!)には最初の音楽評論「音樂論」を発表する。

以後,東京帝国大学及び大学院時代,そして結婚

までの時期,一高の音楽部演奏会,上野の東京音

楽学校等,各所で催される音楽会に熱心に通う。

同時に,優れた語学力を駆使して,書物から音楽

知識を吸収していった。

 敏が大学へ入学した頃,洋行から帰って来た上

田萬年に,ヴァーグナーの楽劇やパリの風物談を

聞いたり,彼の持ち帰ったであろうアントン・ルー

ビンシュタインの『樂話』に心を動かされる。ま

た,明治31年(1898)には東京音楽学校の講師も兼

任するケーベルに美学を学んだ。

 その間,音楽論,音楽に関する論争,演奏会批

評等,20篇を越える音楽論考を著す。

 明治29年(1896)には,『帝國文學』に無署名の

論考r西樂の批評」等を著し,森鴉外との間でヴ

ァーグナー論争を行う⑳。

 明治33年(1900)には,「ヴグネルの楽劇」,「十

九世紀の音樂を論ず」,「近時の音楽論」を著す。

このころから民俗学に対する興味が明らかに現れ,

「帝國文學』等に民俗学的論考も発表する。後期

の敏は民俗研究に熱心であり,その研究は音楽に

おいては民謡研究となる。

 明治36年(1903)には,ヴァーグナー・ブームが

初めて日本に起こり,多くの文筆家たちがヴァー

グナーについて論じる。

 明治37年(1902)には,「帝国文學』に「樂話」

を発表し,民謡を将来の国民音楽大成の基礎とす

べきとし,民謡蒐集の急務を[説く。

 敏は,ロマン派等の音楽における民謡の重要性

を,『うづまき』の中で次のように述べている。

 『牧君,それから一番始に君の好きなグリイ

グの「ペエル・ギュント」があった。「オオゼ

の死」といふ所さ。イプセンの作に那威の傳説

が入ってみるのと同じやうに,音樂の方にも,

北欧半島の民謡調が織込んである。僕には西洋

のでも,日本のでも,凡て民謡風の音樂が,身

に沁みて感じられる,柳谷さんの遊ばす歌澤や

河東の方では,勿論此論が當嵌ると思ひますが,

西洋音樂でも同じ事です。此庭の音樂會で,先

によく出物になったボアルヂウの「白い女」に

は蘇格蘭土の民謡が,判明と組入れてある。此

頃曲目に上ったビゼエの「アルレシエンヌ」に

も,巧に南沸蘭西の里歌を縫はせてある。ベエ

トホオゴンの四部合奏の七番と八番は,露西亜

の民謡調を聞かせてるではありませんか。』

 『それは僕も終始主張してみる論で,「網笠」

や「越後獅子」を例に引いて,民謡の研究を勧

めた事もある。マイエルベエルの歌劇「ユウグ

ノオ」は,路得が民謡から採って來た「アイン,

フェステル,プルヒ」の賛美歌で,あの通り荘

厳に終ってる。例を擧げれば,際限無い。何し

ろ現代の音樂者は,皆民謡の泉を汲んでみる,

此頃欧羅巴で持囃されるりムスキイ・コルサコ

ウなどは,最も適當な例でせう。』⑳

 明治39年(1906)頃からは,敏は民謡研究にます

ます熱心になり,明治39年(1906)と41年(1908)に

それぞれ「民謡」と題した講演を行う。

 明治41年(1908)には渡米,その後渡欧するが,

ニューヨークでは「トリスタンとイゾルデ」,パ

リでは「ローエングリン」を観たことが,妻悦子

宛ての手紙に書かれている鮒。

 大IE4年(1915)には,民謡研究の成果として

『小唄』が発行される。

 大正5年(1916)3月には萎縮腎と診断される。

7月には尿毒症を発し,昏睡状態に陥り逝去する。

16 福島大学教育学部論集第71号

皿 日本音楽観

 音楽的略歴から,敏は幼少の頃より西洋音楽に

強く惹かれ,日本音楽にはあまり興味をもってい

なかったということが明らかであるが,では敏は,

日本音楽についてどのように考えているのであろ

うか。西洋音楽と日本音楽の違いをどのように認

識しているのであろうか。

 先ず敏は,当時の多くの人々が認識していたよ

うに,西洋音楽がハーモニーを基としいるのに対

して,日本音楽がメロディーを基としていること

に,両音楽の大きな違いを見ている面。

 そして,当時の知識人のほとんどが考えていた

たように,敏も西洋音楽は日本音楽よりはるかに

発達した物であり,「日本の音楽を以て登達した

現代の外國の音楽に手向ふのは,丁度弓矢を以て

鐵砲に向ふやうなものではあるまいか」¢臼とする。

しかし,西洋音楽がそのように発達したのは,此

の300年であるとする伽。

 萄くも文明國を以て任じて居る國の音楽は皆

な型を椿へて居る。希臘,羅馬,支那,印度皆

な型がある。其型が  其デザインが色々な攣

遷を纒て登達して,さうして今日の西洋の音樂

を成したので,その完全の域に達したのは僅か

に三百年此方の事であります。然らば其前はと

いふと,それは東洋の音楽と略ぼ同じでありま

した。日本の能樂は希臘のドラマと殆ど同じで

ある。それから中世に行はれた宗教樂も日本の

能樂或は芝居とよく似て居る。彼虞までは一所

であった。ところが三百年此方西洋は驚くべき

愛化をしたが,日本は其儘で進まなかったから,

こ、に非常な差が生じたのであります。⑱

 敏によれば,日本の能楽はギリシアのドラマや

中世の宗教楽とよく似ていて,そこでは日本音楽

と西洋音楽の間には大きな違いはなかった。しか

し,最近の300年の間に西洋音楽が驚くべき変化

を遂げたのに対し,日本音楽はそのままの状態に

2001年12月

留まり進むことがなかったことから,両者の音楽

には大きな差ができたのである。この敏の考えに

は,音楽が進歩・発展するという進化論的考えが

窺える。

 ところで,東京音楽学校長の村岡範為馳は明治

26年(1893)の卒業式の演説において,音楽の進化

論的考えを述べた。彼は音楽の進歩の度合いには

第■一期の最も幼稚な時代の単音期,第二期の複音

期,第三期の和声期があり,日本音楽は第一期と

第二期の中間に,西洋音楽は第三期に位置すると

し,日本音楽に和声を付す等の改良をし,第三期

に進ませる方法を攻究することが緊要であると演

説したのである四。また,明治38年(1905)には,

高折周一一が「和洋調和樂と時代趣味」において,

「假令へ今日の日本樂が美妙であると申した虜で

此欧洲樂の和聲的妙味は決して無い様な次第であ

りますから私は先づ西洋風の和聲的美妙を帯びた

日本樂が段々登達する様望むのであります」伺0と

し,進化論的音楽観を示した。さらに,日本音楽

の擁護者とみなされた田中正平でさえ,音楽が発

達するという考えから逃れることはできなかった。

田中は,「抑も一民族精神的事物の獲達には,一

定の順序と法則とがあって,決して偶然に成る者

でなく,又人爲を以て妄りに之を左右し得べきも

のでない」日Dのであり,我が国の将来の民楽にお

いても日本の各楽風の特長を種子とし,改良・発

達させる以外にないと考え,日本音楽にも音楽が

自然に発達しうる環境を整えることが必要である

とした。そして,田中が最終的に目指したのは,

純正調による日本音楽の和声化であった紛。

 これら村岡,高折,田中の考えから,明治20・

30年代の音楽観は立場の違いを越えて,音楽は発

達するものであること,その発達という観点から

見ると日本音楽に対して西洋音楽が優位であるこ

と,そして,日本音楽が和声をもつ音楽に発達す

ることを望んでいることにおいて,ほぼ共通して

いたことが明らかであろう。従って,敏もまた,

音楽が発達するという当時の音楽観の流れの中に

あると言えよう。ただし,敏は日本音楽に和声を

付すことを望んではいなかった。このことは当時

平田公子=上田敏の民謡論 17

としては特筆すべきことであろう。

 このように,日本音楽は西洋音楽より発達の遅

れた音楽であるとみなした敏は,日本音楽には先

ず何よりも科学的研究が必要であるとする鮒。

IV 国民音楽大成の基礎としての民謡

 では敏は,将来の日本の国民音楽はどのように

創造されるべきと考えているのであろうか。

 これについて考察するには,先ず,敏が「国民

音楽」という言葉によって,どのような音楽を意

味しているかを明らかにしなければならない。そ

して,そのためには西洋音楽輸入以来広く問題に

されてきた「国楽(ナショナル・ミュージック)」

について触れる必要があろう。

 「国楽」という言葉は,すでに明治7年(1874)

神田孝平の「國樂ヲ振興スヘキノ説」B心に見られ

る。ここで,神田は,音楽・歌謡・戯劇をいくつ

かの点において,改良振興すべきことを説いてい

る。しかし,「国楽」の言葉を定義づけたのは,

目賀田種太郎である。目賀田は「我公学二唱歌ノ

課ヲ興スベキ仕方二付私ノ見込」において,国楽

とは「我國古今固有ノ詞歌曲調ノ善良ナルモノヲ

尚研究シ,其ノ足ラサルハ西洋二取リ終二貴賎二

関ハラズ又雅俗ノ別ナク誰ニチモ何レノ節ニチモ

日本ノ國民トシテ歌フヘキ國歌,奏ヅヘキ國調ヲ

起スヲ言フ,是レ國楽ノ名アル故ナリ」6$と述べ

る。そして,雅楽はあまりに高く俗楽はあまりに

卑しく,西洋音楽はそのままでは日本の国楽には

ならない故に,現状においては,国楽はまだない

ので,今後は,日本の雅俗の音楽,歌曲並びに西

洋の音楽曲調の中の最も善良なるものを混和して,

国楽を起こすべきであるとする6日。この目賀田の

定義によれば,「国楽」は国歌という意味,並び

に,日本の国民が貴賎,雅俗の区別なく歌ったり

奏したりすべき,まだ存在しない日本の新しい音

楽という,広い意味をもっていることになる㎝。

 この目賀田の定義に照らして見ると,敏の「国

民音楽」という言葉は,「国楽」の広い意味,す

なわち,日本の国民として歌ったり奏したりすべ

き,日本の新しい音楽を意味していると理解され

よう。

 では,敏はこの国民音楽は,どのように創造さ

れるべきであると考えているのであろうか。

 先ず敏は,音楽取調掛がそうであったような,

日本音楽と西洋音楽とを折衷することには賛成せ

ず,「日本のメロディイばかりの音樂に西洋のハ

アモニイを付けるとどうであるかと云ふと,却っ

てあまり感心しない思ひが起るでは御座いません

か」⑱とする。敏が折衷に賛成しないのは,「音樂

の如き高尚な物は一朝一夕に出來る物ではな

い」侶9からである。敏によれば,音楽を含む芸術

は各国民の性情に基づいたものであり,国民の性

情に合わなければ発達しないのである⑳。

 このように敏は,音楽は各国民の性情に基づい

たものであり,性情に基づかなければ発達しない

故,西洋音楽がそのまま日本の国民音楽と成り得

ることはなく,また,日本音楽と西洋音楽の安易

な折衷からも,将来の国民音楽は生まれないと考

えるのである。このような敏の音楽観は田中正平

の考えを彷彿とさせるものであろう。

 そして敏は,国民音楽大成の基礎を,西洋音楽

でもなく,雅楽や三味線音楽のような日本音楽で

もなく,民謡に見るのである。

 では何故,敏は雅楽や三味線音楽のような日本

音楽ではなく,民謡を国民音楽大成の基礎とみな

したのであろうか。それは,民謡が他のどの日本

音楽よりも健全な基礎の上に立っていると考えら

れているからである。

 私がこの醇朴なる民謡樂を重んずる所以は,

更に一つある。萄くも國民の聲となるべき大音

樂は,健全なる基礎の上に立たねばならぬ。そ

れで,在來の日本音樂のどれがこの資格を備へ

てをるか。ゆ

 ところで,田中が国楽創成の基礎とみなしたの

は,三味線音楽であった。田中は,三味線音楽が

野卑で淫佚であるとする考えは,音楽の本質を歌

詞並びに三味線の用途という付帯事物と混同して,

18 福島大学教育学部論集第71号

本質における美点を見ていないとする吻。

 敏は田中を尊敬し,彼の説に非常に注目し様々

なことを学んでいるが,三味線音楽は国民音楽の

基礎にはふさわしくないとして,この点において

は田中とは意見を異にする。敏によれば,三味線

音楽は教育があり見識のある上流人には行われず,

狭斜の地で育まれたものであることから,ある種

の幽艶な趣味はあるものの,国民全体の性情に基

づいているとは言い難いのである。

 た穿藍に考ふべきことは元来三絃樂は謡曲と

異なり,教育あり見識ある上流士人の間に行は

れずして,重に狭斜の地に養成登達された事で

ある。此悲しむべき藝術の分裂は濁り音樂のみ

ならず,給書に於ても文學に於ても見る所であ

って,例へば土佐給其他に封し浮世給は,重に

社會下層の極て偏したる部分に材料を採り,士

人の漢文學,國文學に封し,所謂戯作者の作っ

た小説の類は,動もすれば理想の低い人生観の

ひねくれた社會の人心を代表してをる・夫故に

三絃樂も亦所謂通といひ梓といふ消極的な思想

を表はして,一種幽婉な趣味はあるものの,欧

洲等の上乗なるものに顯はれたる如き堂々たる

樂聲の,或は神の讃美となり或いは人間の心に

起る大暴風雨の破裂を顯はし,又は世間の秘密

を啓かんとするやうな偉観は決して之に望むこ

とができない。㈲

 そして,敏は,在来の日本音楽は三味線音楽も

箏曲も謡曲もすべて,一部の社会で発達したにす

ぎず,国民全体の心を表わしているとは言えない

とする。ここから,敏は謡曲でもなく,三味線音

楽でもなく,箏曲でもなく,民謡を基礎に国民音

楽を大成することを提唱するのである。

 在來の日本音楽は一種特別の一部社會に蛮達

し養成されたから,國民全膿を面白がらせるこ

とが出來ない。三絃樂でも箏曲でも謡曲でも,

日本の人民全膿の心の奥まで染込まないもので

ある。それにはどうしても根本に立返って,古

2001年12月

來民間に潜んでみて,十分登達しなかった民謡

樂を土垂に,純日本風全日本風のものを作ら

なければならぬと云ふ考から,自然に民謡の事

に考え及んだ。㈲

 例として,敏は民謡の曲節や拍子等を研究する

ことによって,器楽の根本要素とすることもでき

ることをあげる。彼は日本の民謡や踊りのリズム

や拍子が,西洋の舞曲とは異なっていることを明

確に認識しているのである。

 物は凡て先つ建設せんとするに先き立ちて,

披る所の根本なかるべからず。然らば吾々は何

を根本として,其披る所のものを作るべきか。

予を以て見れば,是は我國俗樂の方面,特に田

舎に於ける田植唄,盆踏,馬追唄等の節奏,拍

子等に依るを以て最も適當なる方法なりと信ず。

又参考としては,あらゆる舞踏の拍子,民謡の

曲節等を取るべきなり。

 我國には,我國自然の舞踏上の拍子あり節奏

あり,欧洲に於ける,ミニュエット,ガボット,

サラパンデ,ヴァルッ等とは自ら異なるものあ

るが如し。これ最も研究に値するものなるべき

なり。是等の研究は引いて將來一般器樂の根本

要素となるべく,又我國濁特の曲趣を生み出す

最も大切なる研究材料なるべし。㈲

 そして,このことを敏は,西洋の器楽曲,例え

ばガボット,サラバンド,ミニュエット等の舞曲

のリズムや拍子が,民衆の舞曲から成り立ってい

るということから認識しているのである㈲。

 このような例から,敏は「一方に於ては民謡の

メロディイを聲樂の土毫としまして,他方に於て

は踊のリズムを器樂の基礎としたならば國民音樂

大成の爲に幾分か貢献する所があらうと思ひま

す」㈱と述べる。

 さて,国楽創成においては,西洋音楽と比較し

劣っている日本音楽を,どのように改良するかと

いう課題と同時に,日本音楽における雅と俗の分

裂をどうするかという課題があった。目賀田は,

平田公子=上田敏の民謡論 19

雅楽はあまりにも高く民衆から分離しており,俗

楽は民衆から生み出されたものではあるがあまり

にも卑しく,どの音楽も日本の国民全体を代表す

るものとは成り得ないと述べていた。国民音楽大

成の基礎に民謡を据える敏の考えは,和声を付す

ことによって日本音楽を改良・発達させるという,

日本音楽の西洋化の考えから解放されていること

において,そして,日本音楽における雅と俗の分

裂を克服することを目指しているということにお

いても,高く評価されるものであろう。

V 民謡とは何か

 先ず,「民謡」という言葉が,日本ではどのよ

うに使われ始めたかということに簡単に触れたい。

 「民謡」という言葉が,1890年代ドイツ語

Volkslied(あるいはその英訳のfolk song)の

訳語として,ほぼ現在のような意味で使われ始め

たのは,森鴎外や上田敏らによってであると言わ

れている働。しかし,明治39年(1906)に「日本民

謡概論」を著した志田義秀は,当時一般的に使わ

れていたのは主として「俗謡」,次いで「俚歌」

「俚謡」「巷歌」という言葉であったと言う四。そ

して,彼は俗謡は一方で,俗曲と同義語にも用い

られ,Volksliedの意味に解されないこともあり,

他方でその他の言葉は詩曲について用いるには余

りにも没趣味ということで,「民謡」という訳語

を採用することが妥当であると述べる価O。このよ

うなことから,日本の当時の文学者たちの民謡へ

の関心は,18世紀末から19世紀へかけての,ドイ

ツの文芸上の民謡研究に刺激されて起こったこと

は明らかであろう。

 では,敏は,民謡とはどのようなものであると

述べているのであろうか。

 敏は,民謡は「濁逸人の所謂Kunst-Poesie

(藝術詩)に封ずるNatur-Poesie(自然詩)」る”で

あり,「誰が作ったものでなく,此國に昔から行

はれて居る歌と云ふ意味なのであります」研と定

義する。そして,民謡には叙情の民謡と叙事の民

謡,すなわち「謡いもの」(サング)と「語りも

の」(バラッド)があり,「語りもの」の方が古い

ものであることを,次のように述べる。

 民謡を別って二種にする事が出來る。第一は

「バラッド」即ち「語りもの」,第二は「サング」

即ち「謡ひもの」で,前のは叙事膿,後のは抒

情膿である。どちらかと云へば,見聞實験した

ことを其儘客観風に述べ表はした「語りもの」

の方を古いとする方が適當である。る3

 民謡の分類には様々の試みがあり,志田義秀は

細かい分類を示しているが励,敏は文芸上の分類

を示しているにすぎない。

VI民謡研究の必要性

敏は民謡を国民音楽大成の基礎とみなしたが,

日本では民謡は滅亡の危機に直面していることか

ら,民謡の蒐集をする必要を次のように説く田。

 一鵤,私は我邦音樂界の急務として,なるべ

く早く實行したいと思ふ事業がある。それは民

謡樂の蒐集である。文明の普及と共に,山間僻

地も目ら都會の俗悪なる諸分子を吸収して,醇

朴なる氣風の消滅すると共に,古來より歌ひ傳

へたる民謡も全然滅亡しさうであるから,今の

うち早くこれを蒐めて保存することは,歴史家

其他の人の急務であるが,私の目的は左様いふ

考古上の事に止まらず,實は他日國民音樂を大

成する時に,一種の尚ぶべき材料と成るであら

うといふ考だ。6日

 西洋音楽をこよなく愛した敏は,西洋音楽にお

ける民謡の重要な役割から,日本における民謡の

研究の必要性を認識しているのである。そこから

「羅欧巴の音樂を平生研究して居る人が,露西亜

の民謡を歌ひ,瑞西,チロル等の農民歌,猟夫歌

を奏して居ながら,なぜ眼前に横たはるこの民謡

蒐集といふ急務に氣が附かぬのであるか。これも

私の密かに驚く所だ」㎝と述べる。

20 福島大学教育学部論集第71号

 このように民謡の蒐集・研究の必要性を説いた

敏は,自らも民謡の研究を手がける。民謡につい

ての講演の中で,民謡を伝える江戸時代の歌謡書

として『大幣』『紙鳶』『松の葉』『松の落葉』を

紹介し,実際に『松の葉』の中からいくつかの歌

謡をあげる冊。さらに,河東節の「夜の編笠」の

歌詞に舟歌が使われていること,並びに,「越後

獅子」の歌詞「来るか來るかと濱へ出て見れば」

という箇所に民謡が使われていることを示す㈲。

 このような敏の熱心な民謡研究の成果は,大正

4年(1915)に発行された『小唄』において一つの

形をとる60。敏はこの中に『山家鳥轟歌』『小歌

惣まくり』を収め,註を付す等して民謡研究をま

とめた。しかし,文学者である敏の民謡研究は,

当然のことながら,歌詞の面に限られており,音

楽的側面では,すでに述べた踊りのリズムに簡単

に触れること以外,ほとんど述べていない。民謡

の音楽面については,敏は本当に音楽のできる人

が各地方を回って,民謡を蒐集・研究することを

望んでいると言うにとどまっている励。

皿 おわりに

 以上,上田敏の民謡論を明らかにすると同時に,

彼の日本音楽観も考察してきた。その結果,主と

して以下のことが明らかになった。

 敏は,当時のほとんどの音楽観と同様に,音楽

は発達するものであり,その観点から見ると,日

本音楽は西洋音楽より劣っているものであるとし

た。しかし,敏は,日本音楽に和声を付し西洋化

することを望んではいなかった。当時,日本音楽

に何より必要なことは,科学的研究であるとして

いた。

 そして,敏は音楽は国民の性情に基づいたもの

である故,西洋音楽がそのままで国民音楽になる

ことはなく,また,日本音楽と西洋音楽の折衷か

ら国民音楽が生まれることもないとし,国民音楽

大成の基礎を民謡に見たのであった。敏は,民謡

を他のどの日本音楽よりも,健全な基礎の上に立っ

た音楽とみなしたのである。民謡を将来の国民音

2001年12月

楽の基礎に据える考えは,和声を付すことによっ

て日本音楽を改良・発達させるという日本音楽の

西洋化の考えから解放されていること,さらに,

日本音楽における雅と俗の分裂を克服することを

目指していることにおいて,当時としては非常に

注目すべきものである。

 このように,将来の国民音楽にとって重要な民

謡であるが,日本では滅亡の危機に直面している

ことから,敏は民謡の蒐集・研究の必要性を説い

た。そして,彼自身,江戸時代の歌謡書等の歌詞

を研究した。しかし,音楽面については,本当に

音楽のできる人の研究を希望すると言うにとどま

っていた。

 主として,以上のことが明らかになった。

 一方,敏の具体的な民謡研究は歌詞の面に限ら

れていたこと,そしてこのことと関わって,民謡

と他の日本音楽との音楽的関連が認識されていな

かったことから,民謡は将来の国民音楽の基礎と

されたが,他の日本音楽は顧みられていないこと

に,敏の民謡論の問題点が見て取れよう。しかし,

これは当時の音楽観の状況を考えれば,やむを得

ないことであろう。むしろ,文学者である敏が,

西洋音楽をこよなく愛することから,音楽におけ

る民謡の重要性を認識し,将来の国民音楽の基礎

に民謡を据えたことに,敏の音楽に対する非常に

優れた直観があったと言うべきであろう。

 残念ながら,この敏の民謡論は当時の音楽界に

おいてはほとんど顧みられることはなかった。し

かし,後の北原白秋の童謡運動につながる考え方

であった。

          (註)

(1)伊澤修二「音楽取調成績申報書』明治17年(1884),

 「音楽教育史文献・資料叢書1』大空社,1991年,

 2-4頁。

(2)山住正己「唱歌教育成立過程の研究』東京大学

 出版会,1979年(復刷第1刷)70頁。

(3)田中正平「我邦音樂の爽達に就て」大日本音樂

 會編纂「音楽管見』明治37年(1904),「音楽基礎

 研究文献集12』大空社,1991年,1849頁。

平田公子=上田敏の民謡論 21

(4)同上,40-41頁。

⑤ 平塚知子「「発達』する日本音楽一田中正平の理

 想と実践をめぐって一」東大比較文學會「比較文

 學研究』㈲,1998年,123頁。

(6)上田敏の音楽に関する論考以外の主なものは以

 下の通りである。

  井上哲次郎「日本音樂の將來」『帝國文學』十巻

 第一,明治37年(1904)1月。

  堤正夫「日本音楽と西洋音楽」『音楽之友』五巻

 五號,明治37年(1904)3月。

  坪内迫遙『新樂劇論』早稲田大學出版部,明治

 37年(1904)11月。

  高折周一「和洋調和樂と時代趣味」『音樂之友』

 七巻四號,明治38年(1905)2月。

  山田源一郎「國民音樂の將來」『音樂新報』二巻

 一號,明治38年(1905)3月。

  小松耕輔「理想的國民樂」「音楽新報』三巻二號,

 明治39年(1906)2月。

(7)上田敏「樂話」「定本上田敏全集』第四巻,教

 育出版センター,昭和54年(1979),349-355頁。

(8)上田敏「音樂振興策」『定本 上田敏全集』第六

 巻,教育出版センター,昭和55年(1980),90-93頁。

(9)上田敏「器樂の基礎」「定本 上田敏全集』第六

 巻,教育出版センター 昭和55年(1980),120-122

 頁。

(ゆ 上田敏「本邦將來の器樂に就きて」『定本 上田

 敏全集』第六巻,教育出版センター,昭和55年

 (1980),123-126頁。

(11)上田敏「民謡」『定本 上田敏全集』第九巻,教

 育出版センター,昭和54年(1979),137-146頁。

(の 上田敏「民謡」「定本 上田敏全集』第九巻,教

 育出版センター,昭和54年(1979),147-157頁。

(13)仲万美子「明治時代の日本の音楽学一明治30年

 代後期における『俗謡(民謡)研究を中心として』

 一」音楽学会「音楽学』第31巻(1),1985年,217-

 218頁,「日本における『音楽研究』から「音楽学』

 への移行の足跡」音楽学会『音楽学』第35巻(1),

 1989年,44-53頁,Ways to musicology in Japan

 during the Meizi period:a retrospective survey

 with emphasis upon folksong studies. Music

 culture in interaction:Cases between Asia and

 Europe,Academia Music,1994,pp.188-197.

(14)中村洪介「上田敏と西洋音楽」『西洋の音と日本

 の耳』春秋社,1987年,231-289頁。

㈲ 小林典子「西楽論争一森鴉外と上田敏のヴァー

 グナー論一」東大比較文學會「比較文學研究』(41),

 1983年,60-97頁。

(16)前掲論文(14),(15),安田保雄編「上田敏年譜」『定

 本 上田敏全集』第十巻,教育出版センター,昭

 和56年(1981),551-576頁,並びに,安田保雄「上

 田敏傳」『上田敏研究一その生涯と業績一』(増補

 新版)有精堂,昭和44年(1969),3-48頁を参照し

 た。

(m 上田敏「うづまき』「定本上田敏全集』第二巻,

 511頁。

⑬ 同上,504-505頁。

(19)同上,509頁。

⑳ 同上,511-512頁。

⑳ 「乙骨三郎」『音楽大事典』1,平凡社,1981年,

 303頁。

㎝ 「西樂の批判」は無署名であるが,現在は上田敏

 によるものとして,彼の全集に収録されている。

㈱ 前掲書(m,555頁。

②の 「書簡」『定本 上田敏全集』第十巻,教育出版

 センター,昭和56年(1981),340頁及び353頁。

㈲ 上田敏「近時の音楽論」『定本 上田敏全集』第

 四巻,教育出版センター,昭和54年(1979),341頁。

⑳ 上田敏「現代の藝術』「定本 上田敏全集』第五

 巻,教育出版センター,昭和53年(1978),571頁。

⑳ 西洋音楽が発達したのは最近の200年としている

 箇所もある。同上,574頁。

⑱ 同上,579頁。

留9)「東京音樂學校長 理學博士村岡範為馳氏演説」

 『音楽雑誌』第三十五號,明治26年(1893),1-3

 頁。

⑳ 高折周一「和洋調和樂と時代趣味」「音樂之友』

 七巻四號,明治38年(1905)2月,7-8頁。

(31)前掲論文(3),40-41頁。

脳 前掲論文15),120頁。

㈲ 敏は,日本音楽の特色や音階についてのおもし

22 福島大学教育学部論集第71号 2001年12月

 ろい研究として,Mitthenungen der Deutchen

 Gesehlschaft fUr Natur u. V61kerkunde

 Ostasiens(1897)の中のR、Dittlichの論文

 Beitrage zur Kemtnis der Japanlschen Musik

 を紹介している。前掲論文18〉,92頁。

Bの 神田孝平「國樂ヲ振興スヘキノ説」「明六雑誌』

 第十八號,明治7年(1874)10月,7-9頁。

(35)目賀田種太郎関係資料,東京芸術大学蔵。

G⑤ 同上。

㎝ 前者の意味の「国楽」は,文部省と音楽取調掛

 により制定され,明治23年(1890)以降学校教育を

 通じて確実に定着していく。江崎公子「国楽創成

 思想の成立過程についての一考察」『国立音楽大学

 研究紀要』第14集,昭和55年(1980),1-2頁。

劔 前掲論文鵬),341頁。

留9)同上,347頁。

㈲ 前掲書⑳,570頁。

(41)前掲論文(7),351頁。

(勿 前掲論文(3),10頁。

(43)前掲論文(7),353頁。

(鈎 前掲論文価,153頁。

㈲ 前掲論文(10),125頁。

㈲ 前掲論文(9),120頁。

(の 前掲論文(m,146頁。

(姻 田井竜一「民謡」「日本大百科全書』22,小学館,

 1985年,587頁。

(49}志田義秀「日本民謡概論」『帝國文學」十二巻二

 號,明治39年(1906)2月,1頁。

価0)同上,1-2頁。

励 上田敏「民俗傳説」「定本 上田敏全集』第九巻,

 教育出版センター,昭和54年(1979),103頁。

励 前掲論文(m,138頁。

㈱ 前掲論文(吻,152頁。

嶺)志田義秀「日本民謡概論」「帝國文學』十二巻五

 號,明治39年(1906)5月,17-25頁。

駒 敏は,音楽においては,民謡を国民音楽大成の

 基礎とするために,そして,文学においては詩歌

 の材とするために,民謡の蒐集と研究が必要であ

 るとする。前掲論文(7),351頁。志田義秀はさらに

 明確に,民謡を,第一に国詩革新の基礎,第二に

 国語改良の基礎,第三に国楽改良の基礎とするた

 めに,という三つの方面において民謡の研究の必

 要性を見ている。前掲論文(49),4-5頁。

駒 前掲論文(7),350-351頁。

㎝ 同上,351頁。

劔 前掲論文{m,141-143頁,前掲論文働,154-156

 頁。

鵬)前掲論文(9),121頁,前掲論文(ID,145頁,前掲

 論文⑰,154頁。

㈱)上田敏『小唄」「定本 上田敏全集』第九巻,教

 育出版センター,昭和54年(1979)

(6D前掲論文(ID,144頁。

上田 敏の音楽に関する主な論考等

発  表  年  月 題     名 掲  載  誌  等

明治24年(1891)2月 「音樂論」 『無名會雑誌』八集

26年(1893)5月 「音樂部臨時演奏會」 『第一高等中學校校友會雑誌』二七號

27年(1894)3月 「音樂部演奏會批評」 『第一高等中學校校友會雑誌』三五號

4月 「忍岡演奏會」 「文學界』一六號

7月 「楽堂饒響」 『文學界』一九號

28年(1895)1月 「楽劇の饒響」 『帝國文學』第一

「忍岡演奏會」 「帝國文學』第一

4月 「「トニックソルファー』音楽會」 「文學界』二八號

7月 「西樂月旦」 『文學界J三一號

「大音楽家男爵コンッキ氏」 「文學界』三一號

平田公子:上田敏の民謡論 23

発  表  年  月 題     名 掲  載  誌  等

8月 「音楽會」 「帝國文學』第八

「ルウビンスタインの聖樂劇」 「帝國文學』第八

29年(1896)4月 「西樂の批評」 「帝國文學』二巻第四

「同聲會演奏會」 「文學界』四〇號

5月 「蹄休庵の宣叙調」 「帝國文學』二巻第五

「西班牙音」 『帝國文學』二巻第五

「同聲會演奏」 『帝國文學』二巻第五

6月 「再び西班牙音を説く」 『帝國文學』二巻第六

「再び宣叙調をいふ」 『帝國文學』二巻第六

7月 「三たび西班牙音を説く」 「帝國文學』二巻第七

「三たび宣叙調をいふ」 『帝國文學』二巻第七

11月 「同聲會演奏批評」 讃費新聞

31年(1898)3月,4月 「西欧樂話」 「天地人』三號,四號

33年(1900)1月 「藝術の趣味」 「帝國文學』六巻第一

6月 「ヴグネルの楽劇」 「文界』三號

7月 「十九世紀の音楽を論ず」 「帝國文學』六巻第七

「近時の音樂論」 東京音樂學校に於ける講演

35年(1902)2月 「路氏樂話」 「藝苑」階一號

37年(1904)1月 「樂話」 「帝國文學』十巻第一

38年(1905)3月 「音樂振興策」 『音楽新報』二巻一號

10月 「器樂の基礎」 『新潮」三巻四號

11月 「本邦將來の器樂に就きて」 『音樂新報』二巻八號

12月 「路氏樂話」 「音樂』九巻二號

39年(1906)2月 「藝術の研究」 「藝苑』巻二

3月 「路氏樂話」 「音楽』九巻五號

4月 「藝術の將來」 「藝苑』巻四

8月 「民謡」 「音樂新報』三巻七號

40年(1907)1月 「わが愛づる音樂」 「音樂新報』四巻一號

41年(1908)1月,3月 「民謡」 『慶應義塾學報』一一三號,一一五號

10月 「楽曲の撰揮」 『音樂』一二巻六號

11月 「音樂の登達は何故鈍いか」 「音樂』一三巻一號

42年(1909)2月 「十九世紀の音樂を論ず」 「叢雲』(転載)

43年(1910)5月,7月,8月 「綜合藝術」 「藝文』一年二號,四號,五號

大正4年(1915)10月 「小唄』 阿蘭陀書房

6年(1917)5月 「現代の藝術』 實業之日本社

24 福島大学教育学部論集第71号 2001年12月

  Bin Ueda’s View of Folk Songs

Folk Songs as a Basis of“National Music”

Kimiko HIRATA

  It was questione〔i whether Japanese music was valuable or not in the comparison with

Westem music,since Westem music was introduced into Japan in the Meizi period.Generally

speaking,Japanese music was considered to be inferior to Westem music,so the problem of

improving Japanese music and establishing“national music”became a social problem.

  Bin Ueda(1874-1916)regar〔ie(i folk songs as a basis of estab1士shing“national music”.

  The purpose of this paper is to study Bin’s view of folk songs.

  Bin regarded Japanese mus重。 as inferior to Westem music and wanted to make a scientific

stu(iy of Japanese music,but formed a high estimation of folk songs.He reg・arded them as a

basis of establish1ng“national music”,differently from Ongaku Torishirabe Gakari(Music

Research Institute)an(i Sh6hei Tanaka,for he thought that folk songs were formed on a

sounder basis than the other Japanese music.Bin who liked Westem music very much leamed

the importance of folk songs from Westem music.

  He said thεしt folk songs were“Natur-Poesie”in opposition to“KunsレPoesie”and were divi〔1ed

into“ballad”and“song”.He put emphasis on the necessity of collecting and studying folk

songs.He himself studied some texts of folk songs and wanted their music to be studied by

someone who could stu(iy music.

  Bin who regarded folk songs as a basis of establishing“national music”freed himself from

westemizing Japanese music and aimed to overcome the division of the traditional court music

and the traditional vulgar music in Japanese music.In this point Bin}s view of folk songs is

noteworthy.