新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、 平將門伝説を残す取手西部...

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新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、 平將門伝説を残す取手西部を巡る集合場所と時間:常総線寺原駅北口前、午前8時半。 受付は第 69 番観音堂境内で行います、徒歩で5分程です、道案内係員の指示に従ってください。 解散予定場所と時間:常総線稲戸井駅、午後 12 時半頃の解散予定です。 三仏堂の坐像三仏、釈迦如来=過去(左上) 阿弥陀如来=現在、弥勒菩薩=未来(←右下) © 岡の仏嶋山古墳出土の埴輪、 東京国立博物館収蔵 利根運河の創始者廣瀬誠一郎 廣瀬誠一郎 川蒸気船「通運丸」の錦絵、千葉県立関宿城博物館蔵 「通運丸」は明治 33 年頃を盛りに、銚子、土浦、水海道の鬼怒川や利根川などから、利根運河を利用し て江戸川を下り東京日本橋へ定期運行された川蒸気船です。川底が浅いため外輪船、船体側面の水車で 推進する旅客船でした。 かつて柏の利根川と野田の江戸川を結んでいた、利根運河の経由により水海道や取手間は、乗客扱いの 定期便「通運丸」は上り8時間下り 14 時間を要していましたが、昭和初期まで水運は賑わいました。 しかし常磐線や常総鉄道の鉄道開通や、台風などの洪水で水路の修繕費増大により衰退しました。 現在、東武野田線の運河駅周辺は公園になっており記念碑が残り、公園周辺の桜が咲く頃は大勢の花 見客で賑わいます。

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Page 1: 新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、 平將門伝説を残す取手西部 …88souma.com/stacks/g11_masakado.pdf · (真言宗)、旧岩瀬町小山寺 (天台宗)の

新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、

平將門伝説を残す取手西部を巡る。

集合場所と時間:常総線寺原駅北口前、午前8時半。

受付は第 69 番観音堂境内で行います、徒歩で5分程です、道案内係員の指示に従ってください。

解散予定場所と時間:常総線稲戸井駅、午後 12 時半頃の解散予定です。

三仏堂の坐像三仏、釈迦如来=過去(左上→)

阿弥陀如来=現在、弥勒菩薩=未来(←右下) ©

岡の仏嶋山古墳出土の埴輪、

東京国立博物館収蔵

利根運河の創始者廣瀬誠一郎

廣瀬誠一郎 川蒸気船「通運丸」の錦絵、千葉県立関宿城博物館蔵

「通運丸」は明治 33年頃を盛りに、銚子、土浦、水海道の鬼怒川や利根川などから、利根運河を利用し

て江戸川を下り東京日本橋へ定期運行された川蒸気船です。川底が浅いため外輪船、船体側面の水車で

推進する旅客船でした。

かつて柏の利根川と野田の江戸川を結んでいた、利根運河の経由により水海道や取手間は、乗客扱いの

定期便「通運丸」は上り8時間下り 14時間を要していましたが、昭和初期まで水運は賑わいました。

しかし常磐線や常総鉄道の鉄道開通や、台風などの洪水で水路の修繕費増大により衰退しました。

現在、東武野田線の運河駅周辺は公園になっており記念碑が残り、公園周辺の桜が咲く頃は大勢の花

見客で賑わいます。

Page 2: 新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、 平將門伝説を残す取手西部 …88souma.com/stacks/g11_masakado.pdf · (真言宗)、旧岩瀬町小山寺 (天台宗)の

勝海舟の書

廣瀬家に残る勝海舟の直筆の書「独(ひとり)其の志を養う」明治 20年初春 廣瀬氏の嘱(頼み)海舟

廣瀬誠一郎が北相馬郡長(今でいう茨城県議会議員)であった頃、茨城県令(茨城県知事)であった人見

寧(やすし)と親しくなり、深く交友があった為、後には二人で利根運河開業に邁進する。

人見はすでに勝海舟には、西郷隆盛との接見の際に、旅費などを工面してもらったりと師弟の仲であっ

た為、廣瀬は人見を通して勝に書を所望したと思われます。

高井城址公園の

高井城郭想像図

小貝川用水は農業用

水に通水した用水路で、

守谷城址公園先のつく

ば TX 車両基地辺りから

流れてきています。

この用水路の縁で、古

い船着き場の跡が見つ

かっており沼地のなか

を川が流れていたよう

です。

羯磨

羯磨(かつま、こんま)金剛

五鈷杵(ごこしょ)を十字に組み合わせた密教の法具。

梵(karma)の音写。行為や所作、業(ごう)などと訳します。

受戒や懺悔(ざんげ)の儀式作法具。天台宗では「かつま」、真

言宗や律宗など南都(奈良、北都=京都)諸宗では「こんま」と

よみますが、書物では「かつま」と呼ばれる例が多い。

新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、2018/11/25 熊倉 記

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新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、

「取手に残る平將門と相馬家の伝説」

集合場所と時間:常総線寺原駅北口前、

午前8時半、常総線取手駅8時24分発乗車。

解散予定:常総線稲戸井駅午後12時半頃

打始

第六十九番、法海寺跡(廃寺)

、石臼観音、

ご本尊、聖観世音菩薩と釈迦涅槃像(

寝釈迦)

移し寺、香川県七宝山観音寺、

御詠歌、観音の大悲の力強ければ

おもき罪をもひきあげてたべ

寺原駅北口前の県道130

号方面へ左折して、県道

にでたら踏切とは反対方向(

右折)

へ10mほど進みま

す。左側歩道に大師道の石柱あり、その路地を入る

と、お堂が3つ建っています、法海寺跡ですがお寺

はありません、焼失したが再建しなかった。

堂前には石臼が置いてあり、昔ここの観音像の台

座は石臼で出来ていて回す事が出来たそうだ。

石臼は女性が座ることで、子宝授の利益があると

伝えられている。また、この観音堂では、終戦後ま

で、念仏踊りが行われていたそうだ。

釈迦涅槃像(

しゃかねはんぞう)

江戸時代の作で、身長は90cm

程寝姿像の涅槃像

がありました。

釈迦が入滅する様子を仏像として

あらわしたもので寝仏、寝釈迦像、涅槃像とも呼ば

れます、足の裏には宇宙観を示す文様などが描かれ

ているのですが、2014

年に行方不明騒ぎがありまし

た。

私たち相馬霊場めぐる会で10月のある日、下

見で訪れると涅槃像がありません。近在の住人に話

しましたが、「堂の鍵を管理している者に話しておき

ます」ということで別れました。

後日、「像は台座から後ろの壁の間に落ちていまし

た」と連絡が入りました。

それから数か月後、近くの東漸寺の住職が管理す

ることが決まり、今は寺の本堂に祀られています。

なお、釈迦入滅の様子を絵画的に描いたものを涅

槃図、仏涅槃図と呼びます。

茨城県の寝釈迦像は、取手の法海寺観音堂の他に、

下妻市金林寺(

時宗)

、旧新利根町阿弥陀寺(

時宗)

、旧

波崎町神善寺(

真言宗)

、旧岩瀬町小山寺(

天台宗)

の富

谷(

とみや)

観音にあります。

特に小山寺は国宝の三

重塔もあり本堂の千手観音も指定文化財で拝観する

ことができ癒されます。更に栃木県真岡市の高田山

専修寺には、元禄15年(1702)

江戸湯久兵衛作の木造

金箔塗り、日本最大の寝釈迦像があります。

【四国八十八ヶ所の六十九番について】

四国六十九番の観音寺の本堂である金堂は昭和

34年に解体修復されているが、重要文化財に指定さ

れています。ところが本尊が収まる厨子の裏板に、

貞和三年(1347)

の落書きがあり有名です。

この落書きの主は、常州下妻(

茨城県下妻市)

の僧

でした。茨城県人にとっては「驚き 桃の木

山椒の木」です。

四国68番と69番は同じ境内であるが、68番は神

恵院(

じんねいん)

で通称八幡宮と呼ばれる、なお納

経所は一緒です。香川県観音寺市

とげぬき地蔵尊、新取手(

寺田)

の軽部家敷地内。

東京、巣鴨のとげぬき地蔵におよぶほど近隣から

の参拝者で縁日は賑わいます。

とげばかりではなく、苦労も借金も、お産の苦痛

も抜いてくれるといわれています。

軽部のお婆さんはとげを抜くのが上手でした、お

酒を持っていくとどんなとげでも抜いてくれました、

とげ抜き婆さんの評判は、あちらこちらに広まり大

勢の人に知れ渡りました。

そんな婆さんが亡くなる時「これからは地蔵さん

が、とげを抜いてあげるから」と遺言を残したので

地蔵様を庭に祀りました。

お婆さんの遺言通り、軽部さんの庭の地蔵様は

色々なとげを抜いて下さり、お婆さんが抜いていた

頃以上に、大勢の人々が訪れて来るようになりまし

た。 お

地蔵様に願かけしたお礼にお酒を供えると、そ

のお返しに竹筒に杉の葉を入れたお酒を返してくれ

たそうで杉の箸でかき回すと樽酒のような香りのよ

い酒になり美味しかったそうです。

取手市史民族編より

常総線新取手駅とゆめみ野駅、

関東鉄道常総線の開業は大正11年1月で取手と

下館間が一挙に開通しました、新取手駅は、昭和43

年4月1日に新取手東観団地造営のおり常総線の新

駅として開業しました、後に駅名の新取手駅から寺

田であった地名を新取手と改名しました。駅名が地

名となった、取手市内では珍しいケースです。

ゆめみ野駅は東北大震災が起きた、2011

年3月11

日の翌日の開業でしたが、地震と津波の影響は常総

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線にも及び列車は終日不通、開業式典も中止となり

ました、この日12日は九州新幹線も開通記念式典を

行う予定でしたが、震災被災者の悲しみを思い中止

されています。

第七十八番、

野の井海老原医院脇広場の山の坊阿弥陀堂(

現在

集会所) 2005

年に神社と大師堂は新築されました。

ご本尊、

阿弥陀如来三尊、脇侍は勢至菩薩と観音菩薩

移し寺、香川県仏光山郷照寺、

御詠歌、おどりはね念仏申す道場寺

拍子をそろえ鐘をうつなり

西蓮寺(

廃寺)

跡地と云われています、山の坊(山之

房とも書かれる)

には西連寺という大寺があり、常総

線の踏切先の野の井バス停近くにある「藤から地蔵」

は西連寺の六地蔵の一体であると伝えられ、大きな

山門もあったそうです。

天正時代(1573

~1591)

北条氏政と常陸の佐竹氏

との合戦時に常陸勢に焼かれたとの伝承です。

熊野神明神社、明治の寺社合祀令により、野々井の

白山神社に合祀されましたが、平成十六年に村民に

より熊野神社を復活することができました。

海老原病院の診察室の建物脇に、屋敷門のある古

い家があり庭先に四角い赤レンガで出来た古い煙突

が立つ、明治から大正時代に操業していた醤油工場

の名残です。

【四国移し寺の郷照寺】

境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が素

晴らしいお寺です。

往時から港町として栄え、四国の正面玄関といえ

る場所なので、高僧や名僧との由縁が深い霊場でも

あります。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、

また四国霊場で唯一「時宗」の霊場です。

縁起によると、郷照寺は神亀2年に行基菩薩によ

って開創されました。行基菩薩は55センチほどの阿

弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され「仏光山

道場寺」と称しました。

くじばさま

高井小学校前交差点

博打は、鎌倉時代からあった様ですが諸説あり。

博打は平和な江戸時代に流行り始め、享保15年

(1730)

八代将軍徳川吉宗は、富くじに限り“

幕府公認”

としました。ただし、富くじを行っていいのは寺社

に限られ、それ以外は“

私的な賭博行為”

と見なされ

ご法度のままでした。

公許の富くじ興行の始まりは、京の仁和寺が江戸

の護国寺で行ったものだそうです。

「江戸の三富」富くじのメッカは、谷中の感応寺

(

天王寺)

、目黒不動、湯島天神。なんと、学業願掛祈

願で有名な菅原道真を祀る湯島天神で「富くじ」?

戦前まで取手の「銭湯賭博」は、東京にまで知ら

れた裏街道の世界では有名であった様で、湯舟の脱

衣所で行われていたようです。

くじば様は下高井村の個人宅からの移設の様です。

「博打で稼げますように」と願掛けする者が多かっ

たと取手市史に記されています。

大山城主久寺豊後守、寺田字大山にあり「承平天慶

(

じょうへいてんぎょう)

の乱(930

~940)

」の当時「久

寺(

くじ)

豊後守」という、近郷きっての武将が居城し、

平將門の家臣として、弟の丹後と大山城を固めてい

たが、天慶三年(940)

に將門が敗死したことを知り、

征討軍が大挙押しよせる難を虞れて城を捨て南方の

我孫子に逃れた。

のちの兄の豊後は、我孫子市久寺家(

現在地名)

て、弟丹後は我孫子市柴崎に隠れて帰農したという。

久寺家の大炊氏宅(

大炊豊後守子孫)

には、將門に

関する天慶三年の位牌、及び違物の頚(

くびき)

天神

という天神社があるということです。

久寺豊後守は、通称を左馬之助と言っていたが、

これが天慶三年に逃れてこの地に住むと、名を大炊

と称するようになり、鎮守として日本武尊を祀り大

鷲(

おおわし)

神社と称したともいわれている。

よって当時に於ける大炊氏の威勢の大なることを

みることが出来、氏は江戸時代同地方の名主に就任

した。弟の久寺丹後守は我孫子市柴崎に隠れ、一時

は盗賊にまでに落込みはしたが、大井と名乗り村の

名主になったという、両家共現在に至り祭りごとを

行っているようである。このように、取手市新取手

と我孫子市久寺家が歴史上で関連していた事に、歴

史探索の面白さを感じます。

相野谷川、

相野谷川沿いに、水の公園、新取手住宅東端を経

て駒場、本郷へと相馬二万石の田園を左手に見なが

ら歩きます。

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相野谷川は取手市内を流れる一級河川で、4キロ

ほど下流で利根川に合流します。

水源は、2014

年の永山自治会役員様の聞取りによ

り、老人ホーム「さらの杜」の稲戸井駅寄りの「水

砂」の谷地と判明しました。但し、更に水道は続い

ているのでもっと上流の可能性もありそうです。

ゆめみ野駅の開業によって、大団地が造営され、

相野谷川上流の河川の一部は地下に潜ってしまいま

したが、甚五郎池を含み自然湖沼を埋めてしまった

後に、弊害が起きないか将来に不穏が過ります。

相野谷という地名の起源は、茨城県常総市(

常総線

北水海道駅は相野谷町です)

にあります。

R294

とR354

の交差する近くに相野谷八幡神社

が広大な大地の中にあり、水路が小さな谷間を形成

している様子は「野の谷」といえるのかも。

また、我孫子市天王台には、相野谷通りと相野谷

跨線橋がありますが、相野谷跨線橋から約500

m先

の取手方面常磐線路上に踏切がありました「あいの

や踏切」と言っていたそうです。常磐線複々線化で

あいのや踏切は撤去されました。

朝日御殿と桔梗田(

沼)

、平將門が七人の影武者に囲

まれて朝日を拝んでいた。討伐使の藤原秀郷がこれ

を聞きつけ、(秀郷の妹という説もある)桔梗御前を

「將門と和睦する」とだまして將門本人を教わり、

こめかみが弱点であることを聞き出した。

將門は、天慶三年(940)

二月十四日、將門は茨城県

猿島町幸嶋において、矢で討ち死にした。

真相を知った桔梗は岡神社下の沼に身を沈めた。こ

の沼はのちに田となり「桔梗田」と呼ばれたが、こ

こを耕作する農家の娘は嫁に行けないことが続き、

現在は集落の共有地になったことを述べています。

仏嶋山古墳(

ぶっとうざんこふん)

、平將門の祠があ

る。古墳は以前は大きく、高さもあったが、学校用

地の造成、岡堰の築堤などに土砂が採取され小さく

なった。古墳の頂きの祠は將門神社である。

東京国立博物館平成館企画展示、特集陳列「東京国

立博物館コレクションの保存と修理」

期間2010/03/16

~05/09

、土師器(

はじき、素焼きの

土器「かわらけ」の前世の食器や埴輪)

坏一個、

茨城県取手市岡字大日仏嶋出土古墳時代は六世紀

根本安雄氏寄贈 J-22703

考古資料相互活用経費に

よる修理、他20品が展示されました。

明治時代の仏嶋山古墳発掘とたたりの話

「仏嶋」は岡台地の大日山を中心とした岡・和田・

配松・神住地区を含めて中世に呼称された集落地で、

俗称「岡不知」といわれた所の傾斜丘陵地の土をく

ずし、この土を運んで岡堰の築堤と道路改修の工事

で明治ニ十八年に古墳が発掘されました。

この岡堰用水の工事を行っていた時に、古墳を真

正面から掘削していた人夫たちは怨霊にとりつかれ

ます。古墳と言う神聖な地を開拓したため、事故が

多発し「岡不知のたたり」と言われ、また古墳調査

も必要なため、工事は中断されました。仏嶋山古墳

には平將門神社の祠がたたずんでいます。

用水工事は昭和八年になって、やっと完成しまし

た。

【藤代町史】より

野仏と舟形地蔵、

藤代町指定文化財でしたが、平成十七年取手市合

併により指定解除されました。

水路脇に石仏がある道を、奥へ入ると舟形の光背

を背負った大きい地蔵と野仏(

のぼとけ)

がある。

地蔵菩薩は舟形光背2m49、立像高1m79、寛文六

年(1666)

の建立。順海、祐海、順永の各権大僧都の名

が刻まれている。

野仏は光背78センチ、座像55センチ、延命寺法印順

海、延宝八年(1680)

とある。この地蔵は舟形地蔵の

裏にあるので「裏地蔵」とも呼ばれる。

大日山古墳(

だいにちやまこふん)

、高須第八番札所

この古墳は岡台地の先端に造営された古墳で、高

さ2m80、底径18mで副葬品は不明である。

かつてこの附近から各種玉類、鉄やじり等が発見

されたが、築造年代は古墳時代後期でないかと言わ

れている。近世になって大日信仰が盛んになるとこ

の墳丘に種々の石碑や石造仏が建てられたので、大

日山の名はそれによって付けられたものであろう。

現在墳丘上に岡神社が建立されています。

郷州街道、現在名は県道251

号線(

藤代~守谷)

、藤

代坂戸井岩井線(

守谷から岩井間は別名)

、江戸時代

以降は銚子街道と呼ばれ、現成田街道に接続してい

た。

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岡不知(

おかしらず)

、 岡の部落一帯の山は上人が夢に見た場所をなかな

か見つけられなかったので、「岡不知」と呼ばれてい

る。「不知」は、「ふち」と読むが

「**不知」のよ

うに、「**知らず」とも読みます。意味は、知らな

いこと、知恵のないこと、かしこくないこと、「不知

案内」と辞書には記載されています。

更に「**不知」には、千葉県市川市の藪不知と

新潟県の親不知子不知の有名な所があります。

不思議なことに、藪不知では平貞盛、親不知では

平頼盛、岡不知では平將門と、平家が共通して登場

します。

「藤代町合併50周年記念誌」では、岡不知を「地元

の人でも道に迷うほど、草木の茂る山」と説明して

います。富士の樹海ではあるまいし、たかが海抜十

m程で、広さも上野不忍池程度の林で、どうすれば

道に迷うのでしょうか。あきらかに「不知」の解釈

が間違えているとしか思えません。

千葉県市川市役所の前にある「八幡不知森(

やわた

しらずのもり)」は、藪不知(

やぶしらず)

として全国

に知られた名所の一つです。この藪不知には古来多

くの話が伝えられていますが、中でも次の話は有名

です。

それは天慶(

てんぎょう、將門)

の乱の時、平貞盛が

この地に「八門遁甲(

はちもんとんこう、陰陽道に基

づいた呪術の一種、占いとは違います)

の陣」を敷い

たが死門の一角を残すので、この地に入るものには

必ず祟りがあるとの言い伝えがありました。

後にこの話を聞いた徳川光圀は「馬鹿げた話」と

藪に入ったところ、果たせるかな、白髪の老人が現

れ「戒めを破って入るとは何事か、汝は貴人である

から罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と老

人の怒りを被ったといいます。

この他「藪不知」については、この地が行徳の入

会地(

いりあいち)

であり、八幡の住民はみだりに入

ることが許されず、そのため「八幡不知」と言われ

たのが藪不知になったともいいます。

將門没後「都」から逃げてきた家臣一族は後世に、

遁甲(

とんこう)

としての社を大日後に建立し、人々

が近付けないように図り、近寄りがたい所として他

国の侵略から守るため、或いは、平將門の末裔であ

る身分を隠す為に、怨霊説を広げ近寄りがたい所と

して「岡不知」としたのではないでしょうか。

以上のことから「不知」とは、人を寄せ付けない

聖域や、平家の落人隠れ家の里と言えませんか。

親王山地蔵院延命寺、高須弘信講第五番札所

第七十四代鳥羽天皇の御宇(1107

~1123)

紀州国那

賀郡根来(

ねごろ)に覚鏝(

かくばん)

上人という高僧

がいた。夢で「自分は下総国相馬郡岡村の地蔵であ

る。その昔滝口小次郎相馬將門は自分を何時も祈願

し、朝晩に供養を受けた。しかしながら將門は前世

の宿縁から朝廷に謀反を起し、逆族となり敵の矢で

死んだ。

貴僧も將門ゆかりの人である。急ぎ関東に下って

一寺を建立すれば將門ゆかりのものはいうに及ばず、

無縁の衆生まで救われるであろう」とお告げがあっ

た。上人は不思議なことと思ったがその時はそのま

まにしていました。

十数年経った長承三年(1134)

正月廿一日の子の刻、

再び同じお告げがあり、上人は東国へ下る決心をし

て旅立った。方々訪ね歩いたが分からない。ある夜

山王の地に到り草庵に宿を取ったところ、夜半にな

って山の麓が光っていた。奇異に思い庵主とともに

辿って行くと、周りに堀があり、草木が生い茂った

島に塚があった。庵主がいうには「この地に將門の

霊廟があった」とのこと。上人が草を分けて入られ

たところ、中から一体の地蔵菩薩が見付かった。上

人はその場所を「仏島山(

ぶっとうざん)

」と名付け、

翌年の保延元年(1135)

一寺を建立し、親王山延命寺

と名付け、庵主の覚如を一世と定めて根来に帰られ

た。延命寺はその後小貝川河畔の台地(

現在地)

に移

転し、仏嶋山は古墳になっている。

岡堰と小貝川

さくら荘でトイレ休憩

寛永七年(1630)

、関東郡代伊奈半十郎忠治によっ

て開発された岡堰は、明治十九年、始めて新式の水

門を持つ堰となったが、翌年の大洪水で壊され、明

治三十一~三十ニ年、総工費64,219

円余をかけて大

改築された。その後昭和十二~ニ十一年につくられ

た水門、ニ十八~三十五年の工事で出来た洗堰があ

ったが、現在のものは平成八年十一月に完成した。

小貝川の水源は栃木県那須烏山市曲畑(

旧大赤根)

の小貝ヶ池にあり、途中五行川などと合流しながら

取手市で利根川に合流しています。子飼川、小飼川、

子養川と云われ、養蚕の桑の木が多く見られた川岸

から子飼、蚕を飼う川が小貝川の語源の様で、源流

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にある案内板で説明されています。

岡堰の上流のつくばみらい市谷和原には福岡堰が、

同じく下流の竜ヶ崎市に豊田堰があり『関東三大堰」

と呼ばれ、谷和原三万石や相馬二万石の穀倉地帯を

なし、米

野菜は勿論、魚等の食糧は江戸へ運ばれて

いました。

伊奈忠治の名は父忠次の埼玉県伊奈町についで、

つくばみらい市伊奈村として残りました。

水神岬公園

岡堰は古来、景勝地としてされてきましたが、と

くに、明治三十二年煉瓦造りに改築してからは、赤

茶色の明治的西洋風の構造物が青色の水に影を落と

し、周囲の樹木の緑に映えて、一層その名が高くな

りました。

それ以前の明治十九年四月八日、北白川能久親王

殿下が岡堰を巡覧されてその風光を称賛され、桜樹

植付料を賜ったので、当時の郡長廣瀬誠一郎が堤防

上に植樹して以来、一躍、桜の名所として名を馳せ

ました。

俳人高野素十、法医学教室に勤務していた大正七年

(1918)

水原秋桜子(

しゅうおうし)

の勧めで俳句を始

め、後に高浜虚子に師事し、水原秋桜子と共に「ホ

トトギス4S」の一人といわれた、人気俳人であっ

た高野素十(

すじゅう)

の故郷であり、帰省するたび

に岡堰に名句を残していました。昭和51年享年83。

水喧嘩

徳川の遠に

さかのぼる

この句のように、岡村と寺田村の水争いの歴史は

古くからあったようで、渇水時は生死を掛けて争っ

たそうです。平成十七年藤代と取手の合併は、水争

いがなくなった今になって実現したのでしょうか。

故郷の

喜雨(

きう、夏の土用の頃の雨)

の山王村

役場

素十

山王小学校前の山王公民館に句碑があります。

ふるさとを

同じうしたる

秋天下

山王中学校創立十周年記念の集いで講演を行う、

女の子

枯れ木に顔を

あてて泣く

等を岡村に残している。

我孫子の子の神大黒に於いて、手賀沼句会が何回

か行われて居り、ホトトギス4Sが集まっている。

妙見八幡宮、高井城内にあった相馬家の氏神です。

承平元年(931)

平良文が孫(

養子)

の將門に加勢して

兄の平国香と戦い討たれようとした時に童顔の妙見

菩薩が現れて、敵である国香に剣の雨を降らせて良

文は助かる、という伝承があります。

平家の子孫である千葉氏と相馬氏の守神でありま

す妙見菩薩は北極星がある北斗七星を神格化したも

ので仏教の伝来と共に占星術上の方位を指す、十二

支の子の方角である北を知る方法として中国西域の

シルクロードより、倭国(

やまと、大和、日本)

に伝わ

り信仰されました。

我孫子市天王台の柴崎神社には、童顔の妙見菩薩

が亀に乗っている石像が祀られています。

しめ縄の紙垂(

しで、四手、垂とも書く)は白紙だが

赤紙の場合がある、源平の合戦以後に平家のお落人

部落に多いそうです。

第五十二番、明音寺、下高井

(

守谷の西林寺末寺でしたが廃寺)

ご本尊、薬師如来、移し寺、愛媛県瀧雲山太山寺(

ゅううんざん

たいさんじ)

御詠歌、たいさんへのぼれば汗のいでけれど

のちの世おもえばなんの苦もなし

現在は、下高井下坪集会場となり妙音寺本堂はあ

りません、大師堂は新旧2つあります。

東京浅草の松屋旅館の主と信者一行による寄進で

あると、大師堂脇の老婦が語ってくれました。

妙音寺も高井城内にあり、この奥百メートル先程

には高井城の城門があったそうです。

高井城趾公園、河津桜が三月中旬に咲きます。

永禄四年(1561)

高井城主の高井十朗直将は大鹿城

主である大鹿太郎左衛門の娘を正妻としていました

が、小文間城主の一色宮内政良(

いっしきくないまさ

よし)

によって闇討ちされた時、稲の出城から出陣し

て我孫子の柴崎城主の荒木三河守等と共に、雁金山

(

かりがねやま、現取手市城根(

じょうね))

の合戦に於

いて、敵の一色宮内を討って取った武将です。

取手の歴史では名将として名を残しています。

この民話は「取手」の地名の由来にもなっていて、

鳥手、鳥出、取出とも記された古文書が多数残され

ています。

大鹿城の砦は現在の取手競輪場の南側入口の坂左

側に在ったと云われていますが、城址の形跡は全く

ありません。高井城址は取手で唯一その痕跡を残し

てくれました。

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高井城は、長治年間(1104

~1106)

に信太小次郎重

国が信太郡(

土浦)

から移り住み築城し、相馬氏を名

乗ったという。建武三年(1336)

の相馬親胤宛の「斯

波家長奉書」に高井村の名が見え、相馬氏の知行地

であったことを示している。

高井城主は代々相馬を名乗り、天正年間に高井下

総守直将がはじめて高井氏を称したという。守谷城

主の相馬治胤は高井何某の子で、守谷相馬氏に養子

入りしているが、高井城主との関係は不明。

高井十郎民部太夫胤永のときに天正18年(1590)

の小田原の役を向かえ、北条氏に味方したため没落

した。このときに胤永の三男胤正の子秀胤が横瀬伊

勢守保広を名乗って江戸時代前期まで居住したが、

のちに広瀬氏と改め帰農したため廃城になったとい

われる。

取手市内では城郭跡がしっかり残る唯一の城跡で

公園として残されていますが、高井城の一画は現在

宅地化されており、その規模は三分の一ほどになっ

ています。

第五十番、下高井村別当東光寺(

廃寺)

薬師堂、

下高井集会所、

ご本尊、薬師如来立像、

移し寺、愛媛県東山繁多寺(

はんたじ)

御詠歌、よろずこそ繁多なりとも怠らず

諸病なかれと望み祈れよ

取手市内で一番古い建物が集会所になっています、

薬師堂の建物は十六世紀後半の遺構といわれていま

す。礎石に乗せた柱や天井の垂木の加工に古さが伺

えます。木造の薬師如来像が祭られています。

ガラス戸の大師堂は珍しく、羯磨(

かつま)

が描か

れており割れないことを祈ります。

第四十九番、下高井地区に入ります。普蔵山高源寺、

樹齢一六〇〇年のケヤキと欅地蔵。厠

ご本尊、承平元年(931)

平將門による釈迦如来、

移し寺、愛媛県西林山浄土寺、

御詠歌、十悪のわがみをすてずそのままに

浄土の寺へまいりこそすれ

永仁元年(1293)

夢窓正覚国師大和尚開山、高井城

主であった高井胤永(

相馬次郎重胤)

の菩提寺です、

墓地内に廟所があり、先祖が家老職であった廣瀬家

が守っています。

千葉県野田市と柏市に残る、利根運河を造った廣

瀬誠一郎とその一族の墓と生家があります。

廣瀬誠一郎は、明治十五年群長という役職で岡堰

の改修を行い、その後、利根運河の建設に遁走した、

しかし、県令事業としては頓挫した為、民間会社「利

根運河会社」を設立して運河を完成させました。

利根運河により、水海道や取手、土浦や銚子から

東京への交通の便がよくなり相馬は潤いました。

鉄道が開通するまでの水運は賑わいました、守谷

桟橋から東京まで上り十時間、下り六時間とか。

廣瀬誠一郎と利根運河

天保九年(1838)下高井に

生誕、明治二十三年三月に他界享年五十四。

かつて利根川と江戸川間を航行する船は、両川が

分岐する関宿を経由しなければならず、また、鬼怒

川合流点までの利根川には浅瀬が多いため、渇水時

には大型の高瀬舟では航行が困難という問題があり

ました。

利根運河計画はこれらの問題を解決するもので、

茨城県北相馬郡選出の茨城県会議員であった、廣瀬

誠一郎が当時の茨城県令人見寧(

ひとみやすし、天保

十四年(1843)

~大正十一年(1922))

に陳情し、人見が

これを受けて推進しました。

利根運河を派川利根川とも呼びました、また開削

当初は「三ケ尾沼」名から三ケ尾運河ともいわれま

した。

利根運河の設計に当たったのがオランダ人技師ム

ルデル等で、工事は明治二十一年(1888)

に開始され、

二十三年六月に竣工しました。利根運河の開削によ

って、関宿を経由して東京に向かっていた船は航路

をこれまでより三十三キロも短縮し、日程も三日を

一日に短縮することができました。

明治中期から大正時代にかけて隆盛をきわめた利

根運河も、その後の鉄道の発達や道路の整備拡充に

より通船は減少の一途と水害の修復費により衰退し

て昭和十六年に、運河としての役割を終えました。

現在は水質改善の研究場所となり、水辺は親水公

園として整備され、東武野田線運河駅近辺から運河

沿いは、桜の名所にもなっています。

新四国利根運河霊場八十八ヶ所「倫書房」。

勝海舟と廣瀬誠一郎、勝海舟、文政六年一月三十日

(1823/3/12)

~明治三十二年(1899/1/19

江戸城無血開城で知られる勝海舟は晩年、利根川

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の和田沼(

わだぬま)

に鷹狩りに訪れていたようです。

根拠は柏市布施にあった旅籠を営んでいた頃の先

代の話を聞いている御子息からお伺いした話しです。

和田沼は、雁や鴨の渡り鳥の飛来地で江戸時代か

ら雁猟で知られるところでした、シーズンになると

布施の旅籠は猟師の宿泊客で賑おうたそうです。布

施弁天から利根運河までに大きな沼が六沼あり総し

て和田沼といいました(

現、田中遊水地

柏斉場下)

徳川慶喜や有馬候らの名士が明治二十年頃雁猟にお

訪れていたそうです。

この頃、廣瀬と人見寧は親しい関係であり、勝海

舟と人見寧は明治三年に薩摩へ遊学の際、西郷隆盛

に面会を申し出る為、勝海舟から紹介状と十両の旅

費を受けているほどの師弟仲でした。

「勝海舟日記」に、明治二十年二月十八日「人見、

一人同道・・」とあります。廣瀬家に残る「書」の

年月と同じ頃であり、「一人同道」こそ勝邸に人見と

訪れた、廣瀬誠一郎なのではないでしょうか。

更に、明治十二年四月六日「利根川を下り、キリ

ップ(

川の流れを弱める為に、川の中に杭を並べて打

ちその中へ大きな割石を据えた護岸)

を見る。初夜、

帰宅」と記され、利根川に来ていることは間違いな

い。戦後は、なぜかGHQが日本を制した戦後、米

軍人がどこで知ったのか猟に来るようになり、和田

沼から雁や鴨の姿は消えてしまったそうです。

【四国移し寺の浄土寺】

空也上人が四国を巡歴し、浄土寺

に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957

61)

の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして

親しまれた。

鎌倉時代の建久3年(1192)

、源頼朝が一門の繁栄

を祈願して堂塔を修復したが、応永23年(1416)

の兵

火で焼失、文明年間(1469

~87)

に領主、河野道宣公

によって再建された。

空也上人像は、本堂とともに国指定重要文化財。

像高121cm

、木造、玉眼。口元から六体の阿弥陀

小化仏を吐いている。本坊の庭に二代目の空也松が

ある。

本堂厨子に室町時代から江戸時代にかけての落書

きがあり、水戸から訪れた落書きが見られ貴重な歴

史史料となっている。

第四十七番、三仏堂、国指定重要文化財、

米の井の龍禅寺境内。(

厠) ご本尊、釈迦如来座像、阿弥陀如来座像、弥勒菩薩

座像の三仏、移し寺、愛媛の熊野山八坂寺。

ご詠歌、 花を見て歌詠む人は八坂寺

三仏じょうのえんとこそきけ

三仏堂は、延長二年(924)

伝誉阿闍梨の開創と承平

七年(937)

將門により改修とあるが共に不詳。

平將門が守り本尊として崇敬したが、將門誅伐後

は一時公儀を憚って廃頽し、源頼朝が建久3年

(1192)

国守千葉介常胤に命じて修理させた。

徳川家康の代になって田畑の寄進がされたが、廃

禄上地の結果荒れてしまい、重要文化財に指定され

てから修復が行われた。

現存の三仏堂は昭和61年に改装されていて以前

の面影は柱と壁の一部に残し屋根は創建時の姿に近

い状態に改装されました。

取手は平將門の生誕の地と伝えられる、將門の母

は出産の際、大蛇になり子の身体を舐めることで矢

も刀の刃もよせつけない鉄の身体を与えたが眉間だ

けは舐めなかった為に、藤原秀郷に矢で射抜かれた

という伝説があります。

【注釈】金戒光明寺本により將門伝説は各地に残る。

三仏像、平將門の寄進とも言われる(

年代不一致)

三仏像は一木三体彫り(

一本の木から三体を彫る)

です。画像は頂いたものでコピー禁止。

三仏とは過去の釈迦如来(

須弥壇上の右下脇侍)

現在の阿弥陀如来(

中央)

、未来の弥勒菩薩(

左上脇侍)

をいい、仏教辞典では釈迦如来は現在であり一般的

ではありません。

三仏堂は天慶二年(939)

開基、三仏像は將門に慕わ

れ、源頼朝に守られ、千葉常胤に保存維持を受け、

徳川家康から19石のご朱印を受けてきました。

阿弥陀如来は建久三年(1192)

頃の作、大乗仏教の

尊氏お釈迦さまを脇侍とした三尊配置です。

龍禅寺ご本尊の阿弥陀三尊も、一般的な三尊と違

います。中尊阿弥陀如来坐像、脇侍が観音菩薩と地

蔵菩薩です、一般的には地蔵菩薩ではなく勢至菩薩

ですね。こんな口伝が残っていました。

法念上人は龍禅寺阿弥陀三尊の開眼供養をたのま

れたのですが地蔵菩薩の為に断ったといいます。

取手市史社寺編より

天台宗寺院のため戸頭の廃寺永蔵寺跡の管理する

寺院として、また国重文三仏堂保全の寺として、大

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変重要な、そして歴史的龍禅寺であります、相馬霊

場札所も綺麗に掃除され大変有難いことです。

「安産三仏堂

とも言われ、安産祈願の人々が灯され

た残りのローソクを頂いて帰る習俗がありました。

三仏堂は相馬霊場開催時はいつも扉が開いていま

すが、いつでも開帳している訳ではありません。

個人的に拝見するには盆休みかお彼岸など、檀家

さんの墓参り開場するようなので、時期を合わせて

問いあわせると、開けてくれるかもしれません。

第七十九番、米井山(

べいせいざん)無量寿院龍禅寺、

天台宗の禅寺。米の井

ご本尊、阿弥陀如来立像、十一面観音と地蔵菩薩

移し寺、香川の金華山高照寺。

ご詠歌、十楽の浮世の中をたずぬべし

天皇さえもさすらいぞある

山門は倒壊の為、本堂内陣の両側に仁王像二体が

安置されています、運慶作と言われるが疑問です。

山号の米井山は平將門の伝説に由来します。

【伝説】

承平七年(937)

に、將門が武運長久祈願の為に三仏

堂に詣でました、すると堂前の井戸から水が滝のよ

うな形で噴き上げました、水はさらに米になって吹

き上げたそうで、「米の井戸」から、地名が米の井と

なったそうです。紅龍伝説といいます。

井戸跡は残っているのですが、昔の面影はなく電

動ポンプが動いています。

此の井戸には、將門に関するもう一つの伝説があ

ります。

取手は、将門生誕の地としての伝説が残っていま

す。寺田の惣代八幡社は、将門生誕の地伝説や新取

手大山の將門の生母が日常的に使用していた井戸、

駒場の駒場神社の跡は、現在祠だけですが、野馬の

軍事調教場であったという伝説等です。相馬霊場第

69番の近くにあります。

埼玉県児玉の栄螺堂と三仏堂の存在

龍禅寺の本尊阿弥陀と三仏堂の仏像の兄弟が、児

玉の成身院さざえ堂にあります。

関東三大栄螺堂(

群馬県太田市、本庄市児玉、取手)

である成身院には、三仏堂がありますが、堂が荒廃

している為、同境内の栄螺堂に三仏像が移されてい

ます。薬師、阿弥陀、釈迦如来の三仏です。

どのような経緯で此処にあるのかは不明です。

桔梗塚、該当場所が狭いため立ち寄りません

承平元年(931)

長禅寺の落慶式で桔梗に出合う。

桔梗塚は、平將門の愛妾桔梗のお墓という。

この辺りには將門についての言伝えが多く、桔梗

御前については様々の伝説があります、桔梗は秀郷

の妹(

事実と違います)であり將門の愛妾となったが、

戦が始まってから將門側についたと言う、桔梗は兄

に言葉たくみに騙されて情報を提供をしたという。

秀郷はこれにより勝利を得たが、この事が暴露さ

れると後世まで非難されると考え、この場所で桔梗

を殺害したと言う。里人は大いに哀れみ、塚を築い

て遺骨を納めたと言う説。

桔梗御前は將門と共に岡堰の朝日御殿に住み、將

門の死を聞いて近くの桔梗田と言われた沼に入水し

て死んだとも云われている、桔梗の自殺に憐れみ大

山(

新取手海老原宅近隣)

の人々が桔梗の塚をここに

建てたという二説があります。

其処に植えられた桔梗に花が咲かなかったので、

この辺りでは「桔梗は植えない、娘がいつまでも嫁

に行けなくなるから。」と伝えられてきました。

しかし、花が咲かない桔梗は薬草であり、あえて

花をつけないように栽培する種類が薬草として妙薬

である為に、薬売りの宣伝話しとして創作したとも

思え真実味がある。

桔梗塚は、稲戸井駅裏手の国道294

号沿い歩行者

用信号の隣りの二間四方程の生垣の中にあります。

打止

次回の予定:「発願、相馬霊場とお遍路さん」

開催予定日:2019

年2月24日(

第4日曜日)

延期翌週。

集合場所と時間:JR常磐線取手駅西口デッキ上

午前8時半。解散予定、取手駅午后12時半頃。

新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会参加者資料

2018

年11月28日

相馬家

幕紋の繋ぎ馬

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下総相馬氏略系図、 (著作権保護対象物件) 鎌倉時代前期、源頼朝の重臣であった相馬師常の実子胤継により守谷城が築城され胤貞、治胤と受け継がれる。

平將門より十代目、平良文より八代目、平師常、相馬次郎(守谷城築城主は、相馬小次郎胤継)

┌―――――┬―――――――――――――――――――┤

行常 常家 義胤

戸張八郎 矢木六郎 相馬五郎

| ┌――――――――――――┤

胤家 胤継 胤綱

矢木式部太夫 守谷城主相馬小次郎 次郎左衛門尉

| |

胤経、左衛門尉 胤村、五郎左衛門尉

| ┌―――――┼―――――――┬――――┬―――──┬―――───┐

胤村 通胤 師胤 有胤 胤重 胤顕 胤氏

次郎左衛門尉 相馬余一 陸奥相馬嫡流 相馬十郎 相馬四朗 相馬五郎 次郎左衛門尉

┌――――┬――――┬――――┬――――┤ | | | |

胤家 胤久 胤光 胤定 | 行胤 重胤 胤盛 師胤?

文間五郎 布施四朗 根戸三郎 鷲谷次郎 | 但馬次郎 陸奥相馬へ移った祖師 岡田小次郎

| | ├―――――――┐ |

氏胤 朝胤 光胤 親胤 胤康

相馬太郎 惣領代 出羽権守 相馬岡田

| | |

胤基 胤頼 胤家

治朗兵衛 讃岐守 常陸守

┌―――――┬―――――┤ | |

胤重 胤行 胤忠 憲胤 胤重

柏市戸張 取手市高井 上野介 治部少輔 岡五郎

┌―――――┬―――――――┤ | |

忠重 胤朝 胤長 胤弘 胤繁

柏市筒戸 小次郎左衛門尉 讃岐守孫次郎 式部大輔

| | |

胤宗、小次郎左衛門尉 重胤 胤久、岡田宮内大輔

┌―――――――┤ | |

道胤、近江守 資胤、月桂上野介 高胤、出羽守 胤行

| | |

胤儀 盛胤、大膳太夫 信胤、伊予守

| | |

胤高、左近太夫上野介 顕胤、讃岐守 基胤、小次郎

| | |

胤実、法名正安弾正忠左衛門尉 盛胤、弾正大粥 義胤、安房守

┌――――――――――――――――┤ ┌―――――┬―――――┤ |

胤徳、下総守 胤興、常陸へ 郷胤忠次郎 隆胤 義胤、長門守 茂胤

├――――─┬――───┐ ├―――─┐ | |

胤保 胤満 胤広 興秀 胤勝 利胤、住中村城、 直胤、右兵衛太夫

布施隠岐守 筒戸摂津守 因幡守 師岡次郎 三田弾正 |

| | 義胤、大膳亮(すけ)

胤貞小次郎 政定

守谷城主

└―――胤晴―――整胤――┬治胤―――秀胤―――胤信、信濃守―――盛胤―――政胤

|守谷城主、

└胤永、民部太夫、高井城主、天正 18年5月守谷城没落。

我孫子市湖北に於ける郷土の歴史研究会資料より

平將門はなぜ常陸国衙(こくが:国の役所)を攻めたのか

天慶2年(939)11 月 21 日、平將門(37 歳頃)は常陸の国府(現、茨城県石岡市)を襲撃した。 常陸介(ひたちのす

け)藤原維幾(ふじわらのこれちか)を捕縛し、印鎰(いんやく:国の印と倉の鍵)を得たのです、之は国の行政権と

財政権を自由にできるということになる重大な事件であったのです。 事件のきっかけは、常陸の住人藤原玄明(はるあき)でした。玄明は常陸介の維幾と一騒動起こして將門に庇護

を求め、將門は玄明を匿(かくま)ったのでした。維幾は玄明の身柄引き渡しを要求していました、しかし將門は

これを拒否したことで、両者に対立関係が生まれ。さらに、將門の宿敵である平貞盛が維幾のもとに身を寄せて

いたこともあり、將門は一千余りの兵を率いて常陸の国府に向かったのでした。 貞盛と維幾の息子、藤原為憲(ためのり)は、およそ3千人の国軍を動員して將門軍迎撃に向かいましたが敗れ、

国府は占領、国衙は焼失、貞盛と為憲は逃亡、維幾は捕らわれ、戦いは將門軍の勝利で終わりました。 この後、將門は東国の親王と祭上げられ、下総、常陸、武蔵の民衆から慕われます。

Page 12: 新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会、 平將門伝説を残す取手西部 …88souma.com/stacks/g11_masakado.pdf · (真言宗)、旧岩瀬町小山寺 (天台宗)の

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金宝山浄智寺、臨済宗円覚寺派、北鎌倉

創建:

弘安4年(12

81)

開山:

南洲宏海、大休正念、兀庵普寧(

ごったんふね

い)

、開基:

北条師時

浄智寺は、鎌倉幕府第五代執権北条時頼の三男で

ある北条宗政が亡くなった折、その菩提を弔うため

に1281

年頃に創建されました。

当時は宋(

現中国)

からの渡来僧も多く、最盛期に

は七堂伽藍を備え、塔頭も十一寺院に達しました。

現存する鐘楼門や本堂の様子などより「宋風(

そう

ふう)

」という当時の中国様式を伺うことが出来ます。

本堂の「曇華殿(

どんげでん)

」の名は、三千年に一

度だけ咲く伝説の優曇華(

うどんげ)

※の花に由来し

ます。※

インドの想像上の植物。三千年に一度その花の咲

くときは転輪聖王が出現するという。又は

クサカゲロウ類

が産みつけた卵。

本堂の後ろ(

裏)

側に、鎌倉観音三十一番霊場の聖

観音が鎮座しています。

ご本尊の三世仏座像

本尊の木造三世仏座像は神奈川県の重要文化財に

指定されています。

阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来は、それぞれ過

去・現世・未来の三世に渡って人々の願いを聞き入

れてくださるというありがたい仏様です。

三世仏にお参りすることとは、そのくらい有り難い

ことであるとの顕れと言えましょう。

阿弥陀様の手は、悟りを開いた時の心の安定を表

わした「定印(

じょういん)

」を結んでいます。

よく見るとお釈迦様は右手が下、弥勒様は左手が

下と、少しずつ違います。

一度火災で焼失し、今の像は南北朝時代に作られ

た木造です。仏様の両脇に垂れた長い衣や、床の黒

い敷瓦などは宋から伝わった「宋風」の特徴です。

三世仏について、

阿弥陀仏は過去仏、それとも未来仏なのか?

取手市米の井の龍禅寺三仏堂の三仏も同じです。

一、三世三千仏、過去仏に対して未来仏として弥勒

仏が考えだされ、この考えがさらに展開して三世三

千仏が考えられた。

過去、荘厳劫(

しょうごんこう)

一千仏、薬師如来、

現在、賢劫(

けんごう)

一千仏、釈迦如来、

未来、星宿劫(

しょうしゅくこう)

一千仏、阿弥陀如来

の三世に出生する千仏を合せて三千仏といい、三世

仏は釈迦如来を中心に鎮座する。

諸仏の中でも阿弥陀仏が未来仏の代表とされ、私

たちが死んでからは、西方極楽浄土でこの仏に見え

るとされてきたからです。

二、永平寺の仏殿には三世仏として釈迦牟尼仏と弥

勒仏、阿弥陀仏がまつられ、本尊は阿弥陀如来と釈

迦如来、弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・

未来を象徴しています。

三、一般的には、阿弥陀仏は過去、釈迦仏、弥勒仏

を、それぞれ過去・現在・未来の三世に配当する。

詳細としては、阿弥陀仏は、十劫の大昔に仏陀と

して成道し、極楽浄土を主宰するために過去仏とし、

釈迦仏は歴史上の仏であるために現在仏とし、弥勒

は釈迦仏入滅後五十六億七千万年後に、次の仏陀と

して現れるから未来仏とする。従って、

阿弥陀如来は過去、右下脇侍

釈迦如来は現在、中央

弥勒菩薩こそが未来仏、左上脇侍

というのが

かなり圧倒的のようです。

取手市米ノ井の三仏との違い

米井山龍禅寺の三尊に於いては、取手市史社寺編、

第二節取手市域の社寺、二寺院、龍禅寺

より

三仏堂の本尊、釈迦・弥陀・弥勒はそれぞれ過

去・現在・未来の世を表現している

と相違する。

須弥壇上の三仏で釈迦如来が左上脇侍の位置に鎮

座していることに疑問があり調べてみた。

釈迦如来が過去、阿弥陀如来が現在と解釈してい

るのは三仏堂の三尊だけでした。

この様に、米ノ井の三世仏は、一般的では無いこ

とが分かりました。

間違えとは断言出来ないので、三仏堂の三尊につ

いては歴史的な根拠の追及が必要と思われます。

龍禅寺の本尊阿弥陀如来とその脇侍十一面観音と

地蔵菩薩も一般的ではなく、本来の阿弥陀三尊は地

蔵菩薩ではなく勢至菩薩であり、これも背景がある

ものと思われるが、取手市史には説明がない。

相馬霊場を巡る会

熊倉