天皇のツマドイ - kyoto seika university ·...

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京都精華大学紀要 第四十六号 231 婿婿婿婿婿婿婿

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Page 1: 天皇のツマドイ - Kyoto Seika University · 女は年ごろになると、集落のなかでツマヤを一戸ずつ与えられて は母屋にたいする小さな小屋のことである。ツマは妻戸のツマや切妻屋根の尖った端であり、ツマヤは大屋また男を待った。ツマヤは「端屋」「嬬屋」「妻屋」などと書かれるが、

京都精華大学紀要 第四十六号 ― 231 ―

  

一 

ツマドイとは何か?

ツマドイについて考えるとき、まず、現代社会における家族制度

や結婚制度の常識を取り払わなければ、その本質は分からないとお

もう。

ツマドイは母系社会の典型的な結婚形態である。いいかえると、

氏族あるいは大家族が孤立して存在していた時代の結婚形態で、村を

構成する父系社会の家制度であるヨメトリの対極にあるものである。

女性史家の高群逸枝(一八九四―一九六四)は、「招婿婚」には「妻

問」と「婿取」の二つの時代があり、「妻問婚こそ招婿婚の基本形

態である」とした(『招婿婚の研究一七三頁』)。そして大著『母系制

の研究』『招婿婚の研究』『女性の歴史』(理論社)の三部作をまとめ

たが、しかしそれは、学会や研究者からほとんど評価されていない。

というより、長年無視されつづけてきた。ただ近年になって「高群

の偉業は、日本女性の歴史の原点として忘れることのできない遺品」

と評価する人も現れた(山下悦子「父系母族」と双方社会論『ヒメと

ヒコの時代』藤原書店)。

田 

中 

充 

子  

天皇のツマドイ

ツマドイは男が女の家へ通い「あなたが好きです。一夜を共にさ

せてください」と求婚することで、たいてい一過性のものであり、

同棲を伴わない。女はそれで格別不服はない。ツマドイによって結

ばれた男と女はそれぞれの大家族に住み、生まれた子は女の大家族

で育てられる。ツマドイがいつから始まったかは分からないが、そ

の末期に「妻問」という語が『記・紀』や『風土記』『万葉集』に

みられることから、奈良時代末期まであった習俗とかんがえられる。

その後は、男が女の家に居ついて夫になる「婿取婚」が増えていく。

その「婿取」の語は、『源氏物語』『枕草子』『宇津保物語』『愚管

抄』『源平盛衰記』等々、平安・鎌倉時代に書かれたほとんどの文

学や文献にみられ、鎌倉末期になると急激に減少する。そして室町

時代には「嫁取婚」が一般的になる(高群逸枝全集 

第二巻、第三巻)。

しかしこれは、記録に残った上層階級のことだったろう。

ツマドイを昔「婚よば

い」といった。男女が歌で「呼びあう」からで

ある。それを「夜よ

這ば

い」と称したのはのちの俗語である。

そのヨビアイは、じつは動物の世界からきたとおもわれる。『万

葉集』にも多くの動物の呼びあう歌が詠まれているからだ。

Page 2: 天皇のツマドイ - Kyoto Seika University · 女は年ごろになると、集落のなかでツマヤを一戸ずつ与えられて は母屋にたいする小さな小屋のことである。ツマは妻戸のツマや切妻屋根の尖った端であり、ツマヤは大屋また男を待った。ツマヤは「端屋」「嬬屋」「妻屋」などと書かれるが、

天皇のツマドイ― 230 ―

あしひきの山より来せばさ男鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを

(『万葉集』巻十・二一四八)

秋萩の咲きたる野辺はさ男鹿ぞ露を別けつつ妻問しける(『万

葉集』巻十・二一五三)

隠国の 

初瀬の国に 

さ結よばひ婚に 

わが来れば 

たなぐもり 

はふり来 

さぐもり 

雨は降り来 

野つ鳥雉きぎしはとみ 

家つ鳥鶏かけ

も鳴く 

さ夜は明けこの夜は明けぬ 

入りてかつ寝む 

この戸

開かせ(『万葉集』巻十三・三三一〇)

 なぜ男が女をツマドイするのか?

それは、縄文時代の生活環境、つまり血族で構成する大家族とい

う社会に起因する。

縄文時代は小集団が超分散して住み、小さなテリトリーのなかの

ものを採集しながら細々と生きていた。一つの家族は二十〜三十人

ぐらいの血縁大家族で、半径三キロぐらいを生活圏とした。それは

女が日常動くことができる距離であり、小規模な採集や狩猟、漁労

ができるほどの「小さな里」である。

では、なぜ小集団が超分散して暮らしたのか。

むかし大陸からさまざまなルートで日本列島へやってきた人々

は、ほとんどが山地であるこの列島で生きてゆくために部族を解体

し、大家族単位に分かれて暮らさざるをえなかったからである。そ

のために、どんなに風土や生活習慣の異なる地からやってきた人々

も、いったん日本列島に辿りつけば同じような家に住み、同じよう

な生活を営んだ。つまりわれわれの祖先は複合民族でありながら、

一つの文化を共有して生きてきた。その結果、戦争のない平和な縄

文時代が一万年もつづいたのである。

しかし問題は、みなが一つ家に住む大家族であるために、年ごろ

になった若い男女に伴侶がいないことである。といって女が他のイ

エやムラへでかけて伴侶を求めるのはなかなかたいへんなことだ。

道中、危険を伴うからである。そこで男が女の家を訪れる、女は男

がやって来るのを待つ、つまりツマドイが行なわれる。こういうツ

マドイの形は、他の国ではあまりみられない習俗といっていい。

女は年ごろになると、集落のなかでツマヤを一戸ずつ与えられて

男を待った。ツマヤは「端屋」「嬬屋」「妻屋」などと書かれるが、

ツマは妻戸のツマや切妻屋根の尖った端であり、ツマヤは大屋また

は母屋にたいする小さな小屋のことである。

では「ツマヤ」はどのような建築だったのか? 

奈良盆地南西部の佐味田宝塚古墳(四世紀末〜五世紀前半)から出

土した家屋紋鏡には「大屋」「端つま

屋や

」「高殿」「秀ほ

庫くら

=高床の倉庫」

Page 3: 天皇のツマドイ - Kyoto Seika University · 女は年ごろになると、集落のなかでツマヤを一戸ずつ与えられて は母屋にたいする小さな小屋のことである。ツマは妻戸のツマや切妻屋根の尖った端であり、ツマヤは大屋また男を待った。ツマヤは「端屋」「嬬屋」「妻屋」などと書かれるが、

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の四棟の建物が描かれている。そのなかでツマヤには窓がなく、屋

根はそのまま地面に接している。屋根の上方側面に「煙出し」があ

り、炉で暖をとったり煮炊きしたりしたことがわかる。竪穴住居で

ある。

ツマドイには作法がある。男は、女のツマヤを訪れて、戸口で歌

をうたって自分の素性をあかし、相手をほめたたえて求婚をする。

そこで女が許せば入室が許される。ただし、大国主命と越こし

の国の沼ぬな

河かわ

姫ひめ

のように、ツマドイを受けても女はすぐには男を内に入れない。

一息いれて「明日の夜にきなさい」などという即興の歌をかえす。

ヌナカワヒメは越の国の女刀と

自じ

だったから、それなりの配慮があっ

たのだろう。縄文時代にあっては、女は家と里の管理をした。その

リーダーである女家長は刀自、戸と

女め

、戸と

辺べ

などといわれる。一般的

なことをいえば、女に子どもがいたり、先にきた男と鉢合わせした

りする可能性だってありうる。

そうして生まれた子はみな女の大家族に帰属して育てられた。ほ

とんどは一過性のツマドイだったから、父親は存在しない。つまり

男はいろいろな女のところへツマドイをくりかえし、同棲はしない

のだ。であるから母親は自分の生んだ子はわかるが、父親はわが子

を認知できない。ようするに「母子家庭」である。しかし生まれた

子は、その大家族の子として一族みんなで育てる。子どもが生まれ

れば一族は大喜び、子どもは、その多くの姉妹、オバ、メイたちに

見守られて成長する。

女は子を育て、食料を調達し、土器をつくり、衣服をつくるなど

家事の大方をこなす。落とし穴や屋づくりなどを除いて、生産のほ

とんどを女がうけもった。すると自然の流れとして女が生産を握り

一家の大黒柱になる。そうして女が「里の主人」となる.

。これは

もう完璧な「カカア天下」である。こうして縄文時代は、母から娘

へ、そのまた娘へと引き継がれて、一万年という長きにわたって母

系社会がつづいた。

では男は何をしていたのか? 

旧石器時代のグレートハンティン

グの夢が忘れられず、集団で狩をしただろう。採集狩猟民にみられ

る「バンド」に似て、男たちが三十人から百人ほどの遊動集団をつ

くって狩をするのである。狩をして男たちは憂さ晴らしをし、そし

てツマドイをする。つまり男はほとんど家にいつかないでほっつき

歩いている。それに対し、女は家を守ってずっと同じところを動か

ない。それは今日もカナダのイヌイット社会に見られる行動である。

男と女が共同生産するのは、一般に縄文時代が終わって弥生時代

になり稲作が入ってからである。男は木を伐り、それを杭として畔

や水路をつくる。とても女の手に負えない。男手が必要なのだ。そ

こで男はほっつき歩いているわけにいかなくなる。それどころか、

男は男どうし集団を組んで山を降り、谷間の新たな土地を見つけて

一緒に住む。一緒に住むのは長い水路を一人でつくれないからだ。

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そうして女を呼びよせて村をつくる。つまり稲作の灌漑用水によっ

て男は土地に定着し、そうして母系社会から父系社会へと移行して

いったと考えられる。

稲作にとって水はなくてはならない。上流と下流の村では取水条

件が異なる。そこで宿命的に上下流の水争いがおきる。それを調整

するリーダーが現れる。そしてムラグニができていく。したがって

ムラグニは水系単位の生活空間である。これがクニ、のち郡こおりとなる。

さらに郡をこえた拡がりで共通の問題が起きる。たとえば外敵侵

入に対する対策の問題である。その他、湖沼や海域の管理利用等が

ある。それをめぐっていろいろ争いも起きる。そこから地方国家が

うまれる。大化改新から平安期にかけてはおよそ六百の郡、七十の

国がつくられたのである。

話をもとに戻そう。

縄文時代は一万年も平和な時代がつづいたのであるが、そういう

社会のイメージに近いとおもわれるものに「老子」のいう「小国寡か

民」がある。

小さな国で人民も少ないところ、いろいろたくさんの便利な道

具はあってもそれを使わないようにさせ、人民が自分の生命を

大切にして、遠方の土地に移動することのないようにさせたな

ら、舟や車があったところでそれに乗るときがなく、よろいや

武器があったところでそれを見せびらかすときがなかろう。

人びとがむかしにかえってまた縄を結んでそれを文字の代わり

にし、自分の食べものをうまいと思い、自分の着物をりっぱだ

と思い、自分のすまいに落ちついて、自分の習慣を楽しむよう

にさせたなら、隣の国は向こうに見えていて、その鶏や犬のな

き声も聞こえてくるような状況でありながら、人民は老いて死

ぬまでたがいに往来することもないであろう(金谷治『老子』

講談社現代文庫)。

老子が理想とした「小国寡民」は、一万年の平和がつづいた縄文

社会にそっくりではないか。

  

二 

天皇のツマドイの事例

さて、天皇もまたツマドイをする。その事例をつぎに掲げよう。

A 

須ス

佐サ

之ノ

男ヲ

命と櫛クシ

名ナ

田ダ

比ヒ

売メ

(『古事記』上巻)

伊邪那岐命の子のスサノヲの命は、天皇ではないが狼藉をはたら

いて高天原から追放され、出雲の国へくだった。そこで八やまたの俣遠お

呂ろ

智ち

を退治し、須賀の地に宮殿を建ててクシナダヒメにツマドイをし、

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「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」という歌

を詠んだ。二人は結ばれたくさんの子が生まれた。

「八雲立つ……」というこの歌は、スサノヲの命が出雲の娘をツ

マドイした歌で、日本の歌謡の発生といわれている。ただ、スサノ

ヲの命は一過性のツマドイではなかった。出雲の地に宮を建て、農

業開発をおこない、クニづくりをした。これは、縄文社会から弥生

社会への移り変わりを物語る大きな出来事である。

B 

八ヤ

千チ

矛ホコ

神と沼ヌナ

河カワ

姫ヒメ

(『古事記』上巻)

出雲のヤチホコノ神が、越こし

の国のヌナカワヒメをツマドイして歌

を詠んだ。

私はヤチホコの神の命です。出雲あたりに思わしい妻がなく、

遠い遠い越の国に賢い女ひと

がいると聞いて、お目にかかりたい、

お会いしたいとやってまいりました。そして太刀の緒も解かず、

上衣も脱がないうちに、その人の寝ている家の戸を一生懸命押

していると、一生懸命引いていると、青山の鵺ぬえ

が鳴きました。

野原で雉が鳴きました。庭で鶏が鳴きました。私の心も知らず

騒ぐこれら鳥たち、この鳥たちを打ちのめしたい。天翔けて言

の葉を人々に伝える鳥よ、これが私のツマドイの言葉です。

これを家の内で聞いていたヌナカワヒメは、戸を閉めたまま歌で

こたえる。

ヤチホコの神の命。わたしはか弱い女ですから、私の心も浦

の州にいる小鳥なのです。いまは貴方の小鳥ではありませんが、

もうすぐ貴方の鳥になるのです。だから私の鳥たちを殺さない

で。青山の向こうに日が沈んだら、夜にはお出でください。あ

なたが朝日のように微笑みあらわれて、カジの木の皮でつくっ

た綱のような私の白い腕を、泡雪のような私の若い胸を、触っ

たり、手に取ったり、撫でたりして、玉のような私の手を枕に、

足を延ばしてゆっくりお休みください。ですから、今はそんな

に騒がないで。ヤチホコの神の命。これがツマドイを受ける私

の言葉です。

この歌で重要なことは、ヤチホコの神が「天翔けて言の葉を人々

に伝える鳥よ」と詠っていることだ。たんにヌナカワヒメひとりに

むかって語ったのではない。「伝える鳥に」つまり第三者にヤチホ

コの神の存在を知らせるためである。それはのち子供が生まれ、つ

ぎの天皇の後継者を選ぶ時「候補者の一人である」という証拠にな

る。それまでの母系社会では、父親の確定はほとんど問題ではなかっ

た。これは、父系制原理を天皇という形で示したはじめての例といっ

てよい。

Page 6: 天皇のツマドイ - Kyoto Seika University · 女は年ごろになると、集落のなかでツマヤを一戸ずつ与えられて は母屋にたいする小さな小屋のことである。ツマは妻戸のツマや切妻屋根の尖った端であり、ツマヤは大屋また男を待った。ツマヤは「端屋」「嬬屋」「妻屋」などと書かれるが、

天皇のツマドイ― 226 ―

C 

大オオ

国ク二

主ヌシ

神と八ヤ

上ガミ

比ヒ

売メ

(『古事記』上巻)

オオクニヌシの神と兄弟の神々が、因幡のヤガミヒメのもとへ求

婚の旅にでた。オオク二ヌシの神は、道中で兄弟の神々にいじめら

れた白兎を助けた。兎は「あの神々は、ヤガミヒメを娶ることはで

きないでしょう。あなたが娶られるでしょう」といった。白兎のいっ

たとおりヤガミヒメは「私はオオクニヌシの神と結婚します」といっ

た。これを聞いた兄弟たちは怒って、オオク二ヌシの神を二度も殺

したが、オオクニヌシの母が貝殻の粉と母の乳で蘇生させた。

遠方へ一人でツマドイに出かけるのは危険がともなう。集団でツ

マドイにでかけたのは、採集狩猟民が集団でグレートハンティング

したことに似ている。グレートハンティングもツマドイも、男にとっ

て楽しい遊びだったとかんがえられる。

D 

邇ニ

邇ニ

芸ギ

命と木コノ

花ハナ

之ノ

佐サ

久ク

夜ヤ

毘ビ

売メ

(『古事記』上巻)

ニニギの命が笠沙の御崎で美しい少女に逢い「だれの娘か」と尋

ねたところ、「大山津見の神の娘でコノハナノサクヤビメです」と

こたえた。そして「私には姉の石いわ

長なが

比ひ

売め

がいます」といった。ニニ

ギの命が結婚を申し込んだところ「どうか父にお尋ねください」と

こたえた。父親は姉を副えて二人の娘を差しだした。ところが姉は

容姿が悪かったので親もとへ返された。オオヤマツミの神は「イワ

ナガヒメをお召しになれば天孫の命は、雪がふり風が吹こうともつ

ねに岩のように永遠になるでしょう。コノハナノサクヤビメをお召

しになれば木の花のように栄えるでしょう。しかし妹だけを召され

たので、天孫の御子の寿命は木の花の如くはかないでしょう」といっ

た。コノハナノサクヤビメは一夜で妊娠し、生まれた子は火ほ

照でり

命、

火ほ

須す

勢せ

理り

命、火ほ

遠お

理り

命の三人である。

オオヤマツミの神は、山を支配する神である。土地の豪族だった

であろう。姉妹の父として描かれている。豪族は娘が何人いてもす

べて天皇にさしだした。子どもが生まれれば天皇家と近縁になるこ

とができ、天皇にとっては豪族を味方にすることができる。

E 

火ホ

遠ヲ

理リ

命と豊トヨ

玉タマ

毘ビ

売メ

(『古事記』上巻)

ニニギの命とコノハナノサクヤビメが結ばれて三人の息子が生ま

れた。長男を火ほ

照でり

命、またの名を海うみ

幸さち

彦といい、三男を火ほ

遠お

理り

命、

またの名を山やま

幸さち

彦という。ヤマサチビコは兄から借りた釣針をなく

したので、海のかなたの海わた

神つみ

の魚うろこ鱗の宮へ探しにいく。そこで海神

の娘のトヨタマビメにツマドイをする。娘はその立派な姿にひと目

惚れし、宮に招いて結婚する。三年が過ぎたとき、ヤマサチビコは

釣針を返すために国に帰る。

そのごトヨタマビメは、ヤマサチビコの国の渚でお産する。とこ

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京都精華大学紀要 第四十六号 ― 225 ―

ろが産屋の屋根がまだ葺き終わらないうちに産気づき「出産の姿は

ご覧にならないでください」といった。しかしヤマサチビコが産屋

をのぞくと、トヨタマビメは本来の姿である八尋の鰐の姿になって

子どもを生んだ。それで子どもに鵜う

葺がや

草ふき

葺あ

不え

合ず

命と名づけた。トヨ

タマビメは夫にのぞき見されたことを恨めしくおもい、歌を詠んだ。

「赤あか

玉だま

は、それを貫いた緒までも光るほど美しいものですが、それ

にもまして白玉のようなあなたのお姿が、けだかく立派におもわれ

ます」。

これにたいし、夫のヤマサチビコはつぎの歌を返した。「鴨の寄

り着く島で、わたしが共寝をした愛しい妻のことはいつまでも忘れ

ないであろう、わたしの生きているかぎり」。そしてヤマサチビコは、

その地に「高千穂の宮」をつくって五百八十年間住んだ。

このうちDとEの物語は『古事記』のなかでも詩情豊かな物語と

して知られる。赤玉は琥珀、白玉は真珠かとおもわれる。また、タ

マヨリビメは神霊の依りつく姫の意で、一般に巫女をさす。注目し

たいのはヤマサチビコが「高千穂宮」をつくったことだ。それまで

の天皇たちに宮はなかった。

F 

鵜ウ

葺ガヤ

草フキ

葺ア

不エ

合ズ

命と玉タマ

依ヨリ

毘ビ

売メ

(『古事記』上巻)

ウガヤフキアエズの命は成人して、トヨタマビメの妹のタマヨリ

ビメと結ばれ、四人の子どもが生まれた。二男は母の国の海原へ行

き、三男は常世の国へいった。末の子どもがのちの神武天皇となる。

天皇たちのツマドイの結果、ニ二ギ↓ヤマサチビコ↓ウガヤフキ

アエズ↓カムヤマトイワレビコ(神武天皇)へと男系の皇位が継承

された。天皇家はツマドイという母系制の方法によって子孫を増や

しながら、じつは父系制という系譜によって天皇制を構築していっ

た、とかんがえられる。

G 

神武天皇と比ヒ

売メ

多タ

多タ

良ラ

伊イ

須ス

気ケ

余ヨ

理リ

比ヒ

売メ

(『古事記』中巻)

七人の少女が大和の高佐士野に出て遊んでいた。神武天皇は、そ

の中のイスケヨリヒメを見初めて妻にしたいと思い、仲立ちの大おお

久く

米め

命に「一番先にたっている年上の少女を妻にしよう」といった。

少女は「お仕えします」とこたえた。そこで天皇は佐井河のほとり

にある少女の家に行き一夜を共にした。そのごイスケヨリヒメが宮

中に参内したとき、天皇は昔を懐かしんで歌を詠んだ。

芦原のしけこき小屋に菅畳いやさや敷きて我が二人寝し

天皇のツマドイには、しばしば仲立ちが同行した。ツマドイをし

た少女の家はみすぼらしい小屋だったが、この歌が証拠になってイ

スケヨリヒメはのち妃になったのである。

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天皇のツマドイ― 224 ―

H 

景行天皇と印イナミノワキイラツメ

南別嬢(『播磨国風土記』賀古の郡)  

景行天皇は、賀古郡の山やまのあたい直らの始祖息おき

長なが

命を仲立ちとして、印い

南なみ

のワキイラツメ(『日本書紀』では播磨稲いな

目めの

大おお

郎いら

姫つめ

)をツマドイした。

天皇は、腰に八握剣、八咫勾玉、麻ま

布ふ

都つ

鏡の三器をつけた立派な装

いだった。ワキイラツメは驚いて南な

眦び

都つ

麻ま

の小島に渡って逃げ隠れ

たが、天皇は苦心して探しあて「この島に隠なび

し愛はし

妻よ」と呼びかけ

た。そうしてワキイラツメのムラにツマヤをつくりツマドイ生活を

おくった。ワキイラツメはこの地で亡くなり墓もつくられた。

求婚された女がいったん島に身を隠した、とあるが、これは信仰

にもとづく古代の婚姻習俗を反映したものとされる。のちにあげる

美濃の八坂入媛も竹林に隠れた。

ワキイラツメのその後のことは『記・紀』によると、天皇は、婚

姻後五十年、大和の日ひ

代しろ

宮から播磨の印南の地をしばしば訪れ、ワ

キイラツメに三人の子が生まれた。そのうちの一人が日本武尊であ

る。天皇は妹の伊い

那な

毘び

能の

若わか

郎いら

女つめ

にもツマドイをし、二人の子が生ま

れた。姉妹は生涯生まれた土地をはなれることなく、子どもたちも

そこで養育された。天皇は姉妹のいる地にツマヤを設け、妻子をつ

れて自分の宮に帰ることはなかった。そのツマヤは端の家というよ

り、一族の中心となるような立派な家であったとおもわれる。 

I 

景行天皇と八ヤ

坂サカ

入イリ

媛ビメ

(『日本書紀』上巻)

景行天皇が美濃に行幸したとき、お側の者が「この国に八坂彦皇

子の娘で弟おと

姫ひめ

という美人がいます」といった。天皇は妃にしたいと

思い、八坂族のオトヒメの家に行った。天皇が来られたと聞いたオ

トヒメは竹林に隠れた。天皇は彼女の気をひくために泳の宮の池に

鯉を放って遊ばれた。オトヒメが鯉をみたいとやってきたので、ひ

きとめて召した。オトヒメは「私は交接を望みませんので後宮にお

仕えできません。姉のイリビメは顔もよく志も貞潔です。どうぞ姉

を後宮にお召しください」といった。天皇は聞き入れて、ヤサカイ

リビメを妃とし、七男六女が生まれた。

ツマドイされた娘は、相手が天皇であっても必ずしも受け入れる

ことはなかったようだ。女の意思が尊重されたからだろう。代わり

に姉を推薦するという心配りなどがみられる。またイリビメは美濃

の地を離れて天皇の本拠である日代宮に召されたが、それは一時的

なものだったろう。おおかたは天皇の宮の近くに住んだのではない

か、とおもう。高群は「皇后が模造神器の姫として入宮する習慣は

崇神のころから始まった」とする(『招婿婚の研究一』)。

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京都精華大学紀要 第四十六号 ― 223 ―

J 

応神天皇と矢ヤ

河カワ

枝エ

比ヒ

売メ

(『古事記』中巻)

応神天皇は敦賀から近江をへて大和に向かう途中、宇治の木幡に

きたときヤカワエヒメに逢い「明日、都に帰るときにお前の家に立

ち寄ろう」といった。ヤカワエヒメの父は「畏れ多いことだ」といっ

て天皇を大歓迎し、娘に杯をもたせて酒を献まつらせた。そこで天

皇は料理にでてきた蟹を題材にツマドイの歌を詠んだ。

この蟹はどこの蟹? 

遠い遠い角つ

鹿ぬが

の蟹? 

横這いをしてど

こへいくの? 

伊い

知ち

遅じ

島しま

に着き、美島に着き、鳰にお

鳥どり

が潜って息

をハアハアつくように坂道の多い楽さざ

浪なみ

の路を歩いてきたら、木

幡の道で一人の乙女に逢った。後ろ姿は楯のようにスラリとし

て、歯並みは椎や菱のように白く美しくて、櫟いちいの丸わ

邇に

坂さか

の土の

上の方は赤過ぎ下の方は赤黒いので、中位の土を弱火で焼いた

ような肌をして、眉を濃く描いた女の子に出会った。そしてあ

あなればよいな、と思った女の子に、こうなればよいなと思っ

たその子に、おもいがけず向かい合っている。寄りそっている。

天皇は、娘に会うまでの旅の経路をカニに託して歌を詠み、容姿

をほめたたえている。なんと率直な求婚歌だろう。応神の恋は実り、

ヤカワエヒメとの間に宇う じ の わ きいらつこ

遅能和紀郎子皇子が生まれた。ヤカワエヒ

メは奈良盆地の東北部を本部とした和わ

邇に

氏の娘である。酒を献じた

のは、朝廷にたいするワニ氏の服属をしめすものである。

K 

仁徳天皇と磐イワ

之ノ

姫ヒメ

(『古事記』下巻)

仁徳天皇は、葛城の曽そ

都つ

毘び

古こ

の娘のイワノヒメをたてて皇后とし

た。あるとき、仁徳が吉備の海辺直の娘の黒日売を宮中に召したと

ころ、クロヒメは皇后の嫉妬をおそれて故郷に逃げかえった。仁徳

は高殿にのぼり、クロヒメの乗った船が浮かぶ難波の海を遠くなが

めて詠った。「沖のほうには、小舟が連なっているのが見える。い

としいわが妻が故郷へ下っていくことよ」。この歌を聞いた皇后は

ひどく嫉妬して、人を遣わしてクロヒメを船からおろし、陸路で歩

いて帰るよう追い返した。

また仁徳は、皇后が新嘗祭の酒宴を催すために紀伊国にでかけて

いる間に八や

たのわきいらつめ

田若郎と結婚した。そのことを知った皇后は激怒して船

にのせてあった御綱柏をすべて海に投げ捨ててしまわれた。そして

難波の宮に帰らず難波の堀江をさかのぼり、淀川を山代の国へとむ

かい、筒木に宮をつくって住んだ。天皇は皇后につぎつぎと歌を贈っ

たが会ってもらえなかった。皇后は、筒木宮で亡くなり、ヤタノワ

キイラツメはそのご皇后となった。(『日本書紀』仁徳朝)

仁徳天皇は奔放な恋をした天皇である。イワノヒメは、嫉妬深い

皇后として知られるが、注目すべきは、皇后が天皇とともに宮中に

いたことである。

Page 10: 天皇のツマドイ - Kyoto Seika University · 女は年ごろになると、集落のなかでツマヤを一戸ずつ与えられて は母屋にたいする小さな小屋のことである。ツマは妻戸のツマや切妻屋根の尖った端であり、ツマヤは大屋また男を待った。ツマヤは「端屋」「嬬屋」「妻屋」などと書かれるが、

天皇のツマドイ― 222 ―

                

L 

雄略天皇と吉野の童女(『古事記

』下巻)

雄略天皇が吉野の宮に出かけたとき、吉野川辺に麗しい少女がい

た。そこで雄略は少女と結ばれて朝倉の宮に帰った。その後また吉

野に出かけたとき、少女と出逢ったところにとどまって、立派な御み

呉あ

床ぐら

を立てて座った。そしてみずから琴を弾いて少女に舞を舞わせ

た。少女が巧みに舞を舞ったので「呉あ

床ぐら

に座っておいでになる神の

御手で弾く琴にあわせて舞う少女よ。その美しい姿は、永遠であっ

てほしい」と歌を詠んだ。

雄略は独断専行の気があり、激しい気性で人を誤って殺すことも

多かった。『日本書紀』には「大悪天皇」と「有徳天皇」の両面が

描かれているが、そのなかでこの話は、雄略のイメージを一変させ

る美しく清らかな物語になっている。

M 

雄略天皇と若ワ

カクサカベノミコ

日下部王(『古事記』下巻)

雄略天皇が、河内の日下にいる皇后ワカクサカベノミコを訪ねた。

途中、生駒山の峠で国見をし、屋根の上に鰹木をのせた家が見えた

ので「自分の家を宮殿に似せてつくっているのはけしからん」といっ

てその家を焼かせようとした。磯しきのおおあがたぬし

城大県主は詫びて白い犬を献上し

た。天皇はその犬を、結納の品としてワカクサカベノミコに贈った。

すると彼女は「日に背を向けておい出になったことはたいそう不吉

なことです。私の方から参上してお仕えしましょう」といった。帰

途、雄略は峠にさしかかったとき「日下部のこちらの山と平群の山

の峡谷に繁茂している葉の広い大樫。その根元には、こんもり茂っ

た竹が生えている。たしかに共寝もしないが、将来はきっと組み合っ

て寝よう。その愛しき妻よ。ああ」と歌を詠み、ワカクサカベノミ

コの使いの者にその歌を持たせて返した。

雄略はツマドイにゆくときに白い犬を手土産とし、直接、相手に

手渡している。白い犬を「ツマドイのもの」にしたというのは珍し

いが、男がツマドイをするとき女に贈り物をするという慣習の一例

であろう。ワカクサカベノミコは、その場で天皇の誘いに応じるこ

となく、自ら宮中へ出向くという。それにたいし雄略はツマドイの

約束を歌で返した。ツマドイの約束も証拠となるだろう。

N 

雄略天皇と赤ア

猪ヰ

子コ

(『古事記』下巻)

雄略天皇が、三輪川のほとりで衣服を洗っている美しい少女に逢

い「お前はほかの男に嫁がないでおれ。今に宮中に召そう」といっ

て帰った。アカヰコはその言葉を信じて八十年間、待った。しかし

待ちきれず天皇の宮にゆくと、天皇は驚いて「おまえはどこの婆さ

んだ」といった。アカヰコの話を聞いた天皇は、年老いて結婚がで

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京都精華大学紀要 第四十六号 ― 221 ―

きないことを悲しんで歌を賜った。「御諸の社の神聖な樫の木。そ

の樫の木のように神聖で近寄りがたいよ。引田の若い栗林のように

若いとき、おまえと共寝をすればよかった。今はすっかり老いてし

まったよ」と。アカヰコは袖を涙で濡らし「神に斎き仕え過ごして、

今は誰に頼りましょうか。日下江の入江の美しく咲いる蓮の花。そ

のように若い盛りの人がうらやましいこと」と答えた。

雄略はあちこちにツマドイをし、約束したことさえ忘れていたと

いうエピソードである。妃のほかにも釆女たちを宮中に召し、ため

にいろいろな問題もおこしている。

  

三 

天皇のツマドイ

             

以上、天皇のツマドイについて述べてきたが、一般人のツマドイ

と天皇のツマドイの違いを考えてみる。

三ー一 

贈答の歌がある

天皇は、ツマドイをした相手に歌を贈る。その歌が証拠になって

相手の娘は将来、妃きさきになることができる。そこから生まれた子が次

の天皇の候補にもなりうる。歌は証拠品なのだ。したがって天皇の

ツマドイには、たいてい歌がある。

ただし先にあげた事例のなかに、ツマドイ後に歌を詠んだ天皇が

いる。

神武天皇が比ヒ

売メ

多タ

多タ

良ラ

伊イ

須ス

気ケ

余ヨ

理リ

比ヒ

売メ

にツマドイをし「芦原のし

けしき小お

屋や

に菅畳いやさや敷きて我が二人寝し」と歌を詠んだ。し

かし歌をよんだのはツマドイのときではなく、その後イスケヨリヒ

メが宮へいったときである。神武は過去にさかのぼって歌を詠んで

いる、ということは、イスケヨリヒメが、天皇に歌を要求した可能

性もある。なぜなら、歌が証拠になってイスケヨリヒメは妃になれ

たからである。

ツマドイのときはもちろん、そのあとでも歌を詠むことは天皇の

仕事である。それは、ツマドイの事実を、第三者に納得させるため

であろう。

三―二 

天皇に家がない

天皇は、元来、姓がなくまた自分の家というものもない。したがっ

て「天皇家」という縦につながる家もないから家族もない。実質的

には「生涯独身」である。歴代の天皇はそうしてツマドイをくり返

してきた。その理由は後述するが、一言でいうと、天皇は「アマテ

ラスの血を受け継ぐもの」だったからであろう。  

じっさい天皇の宮は、野辺の庵にも等しい簡素なものもあったよ

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うだ。というのは、天皇が死ぬと、天皇の身につけていたものなど

は、宮ともどもすべて焼かれてしまうからである。天皇の住む家は

妻の実家でもなく父母の家でもない。その証拠に天皇が死ぬと宮が

変わる。つまり天皇の宮は一代限りである。ふつうにかんがえれば、

天皇の子は父の天皇の宮に住めばよいとおもうが、そういうことは

ない。新しい天皇がたてばまた新しい宮がつくられる。西洋のキン

グやシナの皇帝にはないことだ。

それが大きくかわったのは持統天皇のときで、六九四年に都が藤

原京に移されてからである。固定的な都ができたのである。それま

で天皇が代わるたびに宮はつぎつぎに動いたが、藤原京ができたこ

とによってはじめて天皇の家は定着し、安定した。

これは大きな変化である。天皇に永遠の家ができたので、いご天

皇が亡くなっても家を焼かなくなったのである。

では藤原京以前に天皇が亡くなると、妃はどこに住んだか。

天皇には何人も妃がいて、常時、そのうちの一人か二人が宮、ま

たはその近くに住んだ。その他の人は実家にいたり、全然別のとこ

ろにいたと思われる。『日本書紀』によると、敏達天皇六年のとき、

私きさいちべ部がつくられ、妃は私部の宮に住んだようである。

三―三 

天皇の後継者をたくさんつくる

天皇の妃や子どもたちは天皇と同居するのは稀で、ほとんどは成

人するまで母の家で生活した。男の子はみな天皇の候補者となる。

子どもが何十人いようと、みな天皇の候補者である。『記・紀』に

よると、子どもの数が十人を超える天皇は、崇神・十二人、垂仁・

十六人、景行・八十人、応神・二十六人である。

なかでもとびぬけて多いのが景行天皇である。『古事記』によると、

景行には八十人の子どもがいたが、記録にあるのは二十一人で、な

いのは五十九人である。八十人のうち、稚わ

足彦天皇若帯日子命、

倭やまとたける建命、五い

百ほ

木き

之の

入いり

日ひ

子こ

命の三人は日嗣の御子の名をもち、皇位

継承の候補である。

豪族の娘が天皇と結ばれて子どもを生むが、もちろん、天皇には

一人しかなれない。残念ながら天皇になれなかったそれ以外の子ど

もたちは、どうなったか。

景行天皇のばあい、『日本書紀』上巻につぎのような記述がある。

日やまとたけるのみこと

本武尊と稚わかたらしひこのすめらみこと

足彦天皇とを除お

きての外、七ななそあまり

十餘の子みこ

は、皆

国くに

郡ぐに

に封ことよさせて、各々其の国に如ゆ

かしむ。故、今の時よ

に當りて、

諸国の別わけ

と謂へるは、即ち、其の別わけのみこ王の苗みあなすゑ裔なり。

たとえ天皇になれなくても、かれらはことごとく諸国の国造や別、

また稲置・県主に分封され、地域のリーダーになり王族となった。

王族は天皇の血筋を受けているから天皇の味方になる。男も女も天

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京都精華大学紀要 第四十六号

皇の子であれば、勢力拡大に大いに役にたつ。

天皇の結婚とは、アマテラスの血を地方豪族や中央豪族の権力者

の娘たちに分配することなのである。それが天皇の婚姻である。

三―四 

豪族を味方につける。

天皇の妃となるのは豪族の娘であるが、その出身は、山城・大和・

河内・和泉・摂津などの畿内が中心である。周辺では、伊賀、紀伊、

播磨、近江などがある。それを超えたところでは、伊勢、尾張、越、

丹波、吉備、筑紫、日向の諸国があげられる。ただし、筑紫・日向

出身の妃の数は、全体数からみてきわめて少ない。

綏靖天皇から開化天皇の時代は、妃としてヤマトの県主の祖とす

るものが圧倒的に多い。ところが、孝霊天皇のころから変化がおきる。

孝霊は都を葛城から大和の中原に移し、葛城王朝を樹立したとさ

れる。政治体勢の大きな変革である。孝霊は大和に進出するととも

に、そこにいた豪族の磯城から后を迎え、妃をおく制度をつくった。

つぎの孝元天皇は、物部氏とその配下から三人の娘を妃として迎え

た。つぎの開化天皇は、前の王の妃である鬱う

つしこめ

色謎命を妃とした。

キサキ(后・妃)の数は、綏靖天皇から孝安天皇まで一人だった

が、孝霊から急増する。『日本書紀』によると、孝霊・四人、孝元・

三人、開化・三人、崇神・三人、垂仁・六人、景行・八人、仲哀・

三人、応神・八人、仁徳・三人、雄略・五人とつづく。

天皇は、婚姻をつうじて豪族を味方につけた。そして豪族たちに

「氏姓」の位を与え、天皇家を中心とした一つの組織をつくった。「氏

姓制度」の誕生である。

氏姓制度は、雄略天皇の五世紀末ごろにつくられた官位である。

「氏」は、おもに血縁集団で結びついた豪族に与えられ、ヤマト政

権内のさまざまな職掌を担った。「姓」は臣・連、君、直といった

政治的な地位を表わすが、かれらは、政権の中枢で政治をとりしきっ

た。氏

姓制度で官位をもらえるのは男にかぎられる。すると、中央に

いる豪族だけでなく地方の豪族たちも競って官位をもらい、みな貴

族になることをめざす。地方の豪族は中央に吸い寄せられていく。

「豪族の貴族化」である。すべての豪族に序列がつけられ、かれら

は天皇を支える官僚となり役人になる。このようにして「氏姓制度」

は六世紀半ばに軌道にのり、中央集権化がすすんだ。

  

四 

天皇は「ホース」である 

そういうツマドイを繰り返す天皇とは、いったい「何者」か?

毎年十一月に、新にい

嘗なめ

祭さい

がおこなわれる。天皇がその年の初穂を神

に供えて神と共食する祭である。

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天皇のツマドイ

もともと、稲作国家樹立を宣言したのはアマテラスである。ニニ

ギノミコトはアマテラスの命をうけアマテラスから稲を受けとり、

芦原の中つ国を目がけて降臨した。そのときいご歴代の天皇は、毎

年、神さまに豊作に対する感謝の儀式を行ってきた。それが新嘗祭

である。

そして、天皇が即位した最初の年に行われる新嘗祭を大だいじょうさい

嘗祭とい

う。これは天皇一代に一度かぎりの祭である。そこで天皇になれる

かどうかが決まる。だから天皇にとって、大嘗祭は大事な一生一代

の儀式である。

しかし、われわれ庶民は大嘗祭の中身をほとんど知らない。後醍

醐天皇が「儀礼については書き残すことではない」としたように、

庶民のみならず、宮中でも一部にしか伝えられていない。ただつぎ

のような論がある。

宮中の恒例の重要祭祀として月つ

次なみ

祭さい

と新にい

嘗なめ

祭さい

があり、天皇の

代初に執行される大だいじょうさい

嘗祭は新嘗祭を大規模にしたものに他なら

ず、月つき

次なみ

祭さい

神かみ

食いま

今け

は天皇が神と共食を行う儀礼で新嘗ないし大

嘗に一致し、これらを嘗あえ

の祭りとして一括することが可能であ

る。嘗の字義は「髣ほう

髴ふつ

として神がそこに臨み、その供薦を受け

る意を示す」ことであり、天皇が食物を供し自らも箸をつける

聖餐行為を表す文字として誠に適切なのであるが、神しん

嘉か

殿でん

ない

し大嘗宮における神事の場に居合わせるものが少数の釆女らに

限られ、秘事とされていたことや、時代が降るに従い簡略化さ

れてしまい、天皇の実修する行事の具体的なあり方や意義が不

明確になっている。

秘事ということについていえば、後醍醐天皇が『建武年中行

事』の中で、「秘事どもはしるすに及ばず。」と述べているとこ

ろであり、公然化することがはばかられていた。ただし中世の

文人政治家であった一条兼良(摂政・関白)が『代始和抄』で

大嘗祭について、

秘事口伝さまさまなり。たやすくかきのするにあたはす。主

上のしろしめす外は時の関白・宮主なとの外はかつてしる人な

し。まさしく天てるおほん神をおろし奉りて、天子みつから神

食をすゝめ申さるゝ事なれば、一代一度の重度是にすくへから

すと記していることから判るごとく、具体的な儀式次第は秘事

であっても、聖餐=共食行事であるという点で共通理解がなさ

れていたと考えられ、廃絶された大嘗祭が江戸時代に再興され

た段階でも、天皇による神への共食に眼目が置かれていた(森

田悌『天皇のまつり村の祭り』)。

しかし大嘗祭には天皇が「神と供食する」ことのほかに、天皇と

神との「神婚」がある。

― 218 ―

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京都精華大学紀要 第四十六号

戦前昭和三年(一九二八)に出雲路通次郎氏が、延か

喜も

掃ん

部べ

式において神今食神かみ

座くら

用の寝具とは別に中宮用の帖たたみや坂枕など

が規定されていることに注目していた点をとりあげ、祭礼の場

に二組の寝具のしつらえがあったと解し、大嘗宮に置かれた二

つの寝具は何のためのものであろうか。この衾ふすま・褥しとねが単なる休

息の具でなかったことはいうまでもない。それは「神座」とい

う表現からも知られるし、また神座のかたわらに杖と沓が置か

れることは、それが遠来の神を象徴することを示している。『江

次第抄』に引く『新儀式』逸文に「供寝具於神座上」とあり、

この「寝具」に注して「天皇之者」とあることから、天皇が実

際にこの寝具に臥すものであったことが知られる。ここに二具

並ぶ寝具は、聖婚儀礼のためのものであるまいか(前掲書)。

神は目に見えないし実態もないが、天皇は夜中に一人で神を迎え、

食事を共にし、神と寝る。そのとき天皇はあたかも神がそこにいる

かのようにふるまう。天皇は普段は男性だが、大嘗祭のときだけ女

になり男である神に奉仕する。そして天皇は神と「共食」し「神婚」

することによって「アマテラスの血を受け継いだ」ことを神々に認

めてもらう。これが大嘗祭の中心儀式である。

そういう儀式が終わると、新しい天皇が誕生する。前の天皇の肉

体は無くなって、新しく誕生した天皇にアマテラスの血が受け継が

れる。天皇はアマテラスと同じように巫女性があるといっていい。

しかし天皇は神ではない。それではアマテラスの血が神なのか?

というとそうではない。アマテラスの血はアマテラスの子孫である

ことの印である。天皇はそのアマテラスの血をいれる容れ物に過ぎ

ない。

では神とは何か?

神とは太陽を始めとする自然である。自然は樹や水や岩など人間

をとりまくすべてである。大嘗祭には、そういう信仰が古くから根

強くあったことと関係しているとおもわれる。

そうすると、天皇のツマドイとは、アマテラスの血の分配なので

ある。天皇はたくさんの子どもを生み、アマテラスの血を受けつぐ

者を増やしていくのである。

そうしてそのなかから天皇の後継者を選び、その他はたくさんの

「王」として各地に配置していくのである。つまり天皇のツマドイ

とは、天皇が「ホース」で、庭の草木つまり多くの人々に水を撒く

ようなものだ。ホースがダメになると、つまり天皇が死ぬと、次の

「ホース」に変わる。萌え育ったたくさんの草の中から次の「ホース」

が現れる。それを確認するのが大嘗祭なのである(上田篤『アマテ

ラス』)。

だから天皇は固定的な結婚をせず、一過性のツマドイをするので

ある。

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