神の像(imago dei)...神の像(imago dei)に関する聖書的理解 53 is that imago dei...

19
キーワード 神の像(イマゴ・デイ)、創造、マルドゥ、ベル、アモン・ラー、王権的言語、エコロ ジー、フォン・ラート、ヴェスターマン KEY WORDS Imago Dei, creation, Marduk, Bel, Amon-Re, royal terminology, ecology, von Rad, Westermann 要旨 「人間が神の像の通りに創造された」という創世記 1 章の記事は、初代教父時代か らバルトとブルンナーの「接触点」(Anknüpfungspunkt)論争に至るまで、多くの神学 的論争や解釈の主題となってきた。本論文の主題は以下の通りである。「神の像の通り に」は古代近東地域で王を指し示す慣用句であった。神は人間を「王」のような高貴 な存在として創造され、地上の王が王国を統治するように、人間に被造物の世界を統 治させられた。したがって、人間の自然に対する統治には、「責任ある管理者」として の責務がある。 SUMMARY In the voluminous annals of the biblical interpretation, the issue of Imago Dei has long been the crux theologorum from the early church to the current age as witnessed by the heated debate between Barth and Brunner over the Anknüpfungspunkt. The main thesis of the paper 基督教研究 第 66 巻 第1号 52 神の像 1 (Imago Dei)に 関する聖書的理解 A Biblical Understanding of Imago Dei 朴 俊 Joon Surh Park

Upload: others

Post on 03-Jan-2020

3 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

キーワード

神の像(イマゴ・デイ)、創造、マルドゥ、ベル、アモン・ラー、王権的言語、エコロ

ジー、フォン・ラート、ヴェスターマン

KEY WORDS

Imago Dei, creation, Marduk, Bel, Amon-Re, royal terminology, ecology, von Rad,

Westermann

要旨

「人間が神の像の通りに創造された」という創世記1章の記事は、初代教父時代か

らバルトとブルンナーの「接触点」(Anknüpfungspunkt)論争に至るまで、多くの神学

的論争や解釈の主題となってきた。本論文の主題は以下の通りである。「神の像の通り

に」は古代近東地域で王を指し示す慣用句であった。神は人間を「王」のような高貴

な存在として創造され、地上の王が王国を統治するように、人間に被造物の世界を統

治させられた。したがって、人間の自然に対する統治には、「責任ある管理者」として

の責務がある。

SUMMARY

In the voluminous annals of the biblical interpretation, the issue of Imago Dei has long been

the crux theologorum from the early church to the current age as witnessed by the heated

debate between Barth and Brunner over the Anknüpfungspunkt. The main thesis of the paper

基督教研究 第66巻 第1号

52

神の像1(Imago Dei)に関する聖書的理解A Biblical Understanding of Imago Dei

朴 俊Joon Surh Park

Page 2: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

53

is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E.

in the Ancient Near East from Egypt to Mesopotamia signifying a "royal figure," i.e. a king.

That God created human being in the "image of God" means God created human being as a

royal figure, the supreme being among God's creatures. As a king in ancient times had

dominion over his kingdom, human being, as a royal figure, is entrusted with the

responsibility to rule over the natural world as God's steward/stewardess on earth.

────────────────────────────────────

人間が神の像の通りに創造されたという創世記の言葉はキリスト教の人間理解に非

常に大きな影響を与え、神学的にも多くの論争を呼んできた。

人間が神の像の通りに創造されたということの意味に関する神学的な論議は、エイ

レナイオス(Irenaeus)を始めとする教父神学者たちの論争により始まり、中世のカトリ

ック神学、宗教改革者たちを経て、現代神学のカール・バルトとエミール・ブルンナー

の有名な「接触点」(Anknüpfungspunkt)の論争に至るまで常に議論の争点となってきた。

────────────────────────────────────

人間が神の像の通りに創造されたということが旧約聖書で述べられているのは、具

体的には3回しかない。

神は言われた。「我々にかたどり(s.elem )、我々に似せて(demuth )、人を造ろ

う。…」神は御自分にかたどって(s.elem)人を創造された。神にかたどって(s. elem ’elohim

)創造された。男と女に創造された。(創1:26-27)

これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せて(s. elem ’elohim)

これを造られ、男と女に創造された。…(創5:1-2)

人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって(s.elem ’elohim)

造られたからだ。(創9:6)

人間が神の像の通りに創造されたと記録されている以上の三箇所は、すべて旧約の

「原歴史」(primeval history)の部分にのみ表れている。それ以外の他のモーセ五書、歴

史書、預言書、詩編、知恵文学、黙示文学などでは、「神の像」に関する問題はまった

Page 3: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

基督教研究 第66巻 第1号

54

く触れられていない。この事実と、「神の像」の問題がキリスト教神学において占めて

きた比重の大きさを併せて考えるとき、この事実をどのように受け止めるべきか理解

に苦しむ。これは、創世記3章に記録されているいわゆる「人間堕落」の記事がキリ

スト教神学において非常に重要な位置を占めていながらも、旧約において述べられて

いるのが3回のみであり、創世記3章以外では旧約のどこにも明確に述べられていない

という状況に似ていると言えるだろう。

上に挙げた神の像に関する箇所は、すべて、エルサレム神殿を中心として神殿で働

いていた祭司(kohen )によって保存され伝承されてきた「祭司伝承」に属する。

今日、旧約研究においてほとんどの学者は「祭司伝承」が文書化(literary fixation)さ

れたのはユダ王国滅亡の後のバビロン捕囚時代であると認めている。しかし祭司伝承

がバビロン捕囚時代に文書として「記録」されたからといって、祭司伝承自体がバビ

ロン捕囚時代に成立したとか、そのとき作られたのだと考えてはいけない。つまり、

「伝承」の年代と「伝承の記録」の年代は区別しなくてはいけないのである。「祭司伝

承」が仮にバビロン捕囚のときに「記録」(literary fixation)されたとしても、この伝

承自体はエルサレム神殿を中心とした祭司たちの間で長い間、伝承されてきたのであ

る。「祭司伝承」に属する神の像に関する言及も、イスラエル信仰伝承の中で長い間、

伝えられてきたということを念頭に置きながら、神の像に関する議論を始める。

────────────────────────────────────

創世記1章に記録されている創造の記事は、神の創造の中でも人間の創造を「最も

特別な創造」として記録している。まず、この「祭司伝承」の創造記事を見ると、8回

の創造の出来事が六日のうちに起こっている。一日目の創造では光が闇から分けられ

た。二日目には、大空(raqia‘ )が造られ、「大空の上の水」と「大空の下の水」

に分けられた。三日目には、「大空の下の水」が一箇所に集められ、海と地に分けられ、

地の上に草木が創造された。

次の四日目の創造は一日目に対応している。つまり、一日目には光が造られたのだ

が、四日目には光を放つ太陽と月と星が造られた。再び、5番目の創造は二日目に対応

する。すなわち、二日目には大空が造られ、水が大空の上と下に分けられたのに対し

て、五日目には鳥が大空を飛び、大空の下の水では魚が泳ぐようになった。最後に、

六日目の創造は、やはり三日目と対応しており、三日目には地に草木が芽生えたのに

対して、六日目には草木と対応して動物が創造された。

このように六日目の動物の創造まで終えられた後、最後に人間が創造された。とこ

Page 4: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

55

ろで、「祭司伝承」は人間の創造を、神の創造の出来事の極地、完成としての「特別な

創造」と記録している。つまり、人間の創造は他の被造物の創造とは別の特別な創造

であることが明らかにされているのである。

一つ目に、他の被造物(生物の場合)の創造はすべて「その種の通りに」(lemino

according to its kind)創造された。たとえば、三日目に行われた陸地での植物の創造は

次のように記録されている。

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの(lemino)2 種を持

つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、

それぞれの(lemin-)種を持つ草と、それぞれの(lemin-)種を持つ実をつける木を芽生

えさせた。…(創1:11-12)

五日目、大空の鳥と海の魚も「それぞれ」創造された。「神は水に群がるもの、すなわち

大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに(lemin-)、また、翼ある鳥をそれぞれに(lemin-)

創造された。神はこれを見て、良しとされた。」(創1:21)。第六日目、動物の創造も「神

はそれぞれの(l emin-)地の獣、それぞれの(l emin-)家畜、それぞれの(l emin-)土を這

うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた」(創1:25)と記録されている。

このように、他の動物の創造はすべて「それぞれ」、つまり、その種の通りに創造さ

れた。しかし、人間だけは「それぞれ」創造されたのではなかった。唯一、人間だけ

は「神の像」の通りに創造されたのである。人間の創造は他の被造物と根本的に違う、

特別な創造であることが明らかにされている。

二つ目に、人間の創造の場合には、創造記事自体が特別な形で描写されている。すなわ

ち、他の被造物の場合は神の創造は「三人称使役形」(jussive form, Let there be…)が使

用されている。たとえば、第一日目の創造では「光あれ」(yehi ’or Let there be

light)、第二日目の創造では「…大空あれ」(yehi raqia‘ Let there be a firmament)、

第三日目に地を造られたときも「乾いた所が現れよ」(Let the dry land appear)と表現さ

れている。このように人間をのぞいた他の被造物の創造においては、神の一方的な意

志が表現される「三人称使役形」(Let…形式)が使用されている。しかし、唯一、人間

の創造においては、例外的に「一人称複数使役形」(cohortative form, Let us…)が使用

されている。

我々が人を造り(na ‘aseh ’adam let us make man)

つまり、神は他の被造物の場合には一方的な意志により創造されたのだが、人間の

Page 5: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

基督教研究 第66巻 第1号

56

場合だけは唯一、「相談の形」となる「一人称複数使役形」によって人間を創造された。

これは人間の創造が、神の創造の出来事の中で特別な創造であることを伝えている。

三つ目に、人間の創造では神の創造の出来事にだけ使用される bara’( )が使用

されているのだが、この単語は旧約で合計49回、使用されている。3 ところで、これら

は例外なくすべて「神の創造」について述べている。厳密な意味において、人間は

「創造」することはできず、ただすでに存在しており与えられているものを変形させ利

用するだけである。bara’( )は神の創造を表現する特別な言葉である。しかし、神

の創造を記録している創世記1章では bara’( )動詞が5回しか使われていない。こ

の中の2回は、神が創造主であることを宣言している1節と、五日目の魚と鳥の創造に

おいてであり、それぞれ1回ずつ使われている。その他の創造行為の描写には bara’動

詞は使われていない。しかし、人間の創造を記録する27節では一節の中で bara’動詞が

3回も繰り返し使われている。27節を逐次的に翻訳すると次のようになる。

神は御自分にかたどって人を創造された。bara’

神にかたどって創造された。bara’

男と女に創造された。bara’

このように27節の人間創造の記事においては、唯一、bara’ が一節において実に3回

も繰り返し使われることにより、人間の創造は神の創造の中でも特別な創造であるこ

とが強調されている。

四つ目に、創世記1章の神の創造の出来事は、六日にわたって起こったこととして記録

されている。ところで、一日目から五日目までは、一日目(yom ’eh. ad )、二日目

(yom sheni )、三日目(yom shelishi )、四日目(yom r ebi‘i )、

五日目(yom h. amishi )となっている。

しかし、人間が創造された第六日目だけは、唯一、ヘブライ語の定冠詞 ha( )が

あり、yom hashishi( )となっている。つまり、六日目(the sixth day)だけ

は「その第六日目」と冠詞を使って表現することにより、他の創造の日とは区別され

る特別な日であることを暗示している。このように創世記1章は、人間の創造が他の

被造物とは区別される特別な創造であることを、様々な方法で強調している。

────────────────────────────────────

創世記の記録において、人間が「神の像」(s.elem ’elohim)の通りに創造されたとい

Page 6: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

57

う言葉は、まずその言葉の表現自体として、旧約全体の脈絡から考えるとき、実に驚

くべき言葉である。なぜなら、どのような「像」であれ、神であるヤハウェを形造っ

てはいけないというのが、イスラエル信仰の鉄則であるからだ。神は被造物である人

間の感覚器官を超えた存在であるため、人間が神の像を見ることもなく(創33:20)、

したがって、どのような像としても表すことはできない。

お前たちは、神を誰に似せ

どのような像に仕立てようというのか。(イザヤ書40:18)

イスラエルの神はどんな像にもたとえることはできないし、また表すこともできな

い神である。したがって、イスラエルの宗教においては、神ヤハウェの神像を作るこ

とは厳格に禁止されていた。十戒中、第二戒の「像」を造ってはいけないという禁止

命令は、「異邦の神々」の神像を作ることを禁止していただけではなく、神ヤハウェの

神像を作ることまでも禁止している。すなわち、第二戒は「異邦神」であれ、神ヤハ

ウェであれ、神像を作ること一切を禁止していたのである。よって、十戒が記録され

ている箇所の次の部分、出エジプト記20章23節は「あなたたちはわたし(ヤハウェ)

について、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない」と具体

的に神ヤハウェの神像を作ることまでも禁止している。

宗教の対象となる「神像のない宗教」を想像することのできなかった古代近東世界に

おいて、イスラエルの信仰だけが神ヤハウェの像を作ることを徹底的に禁止しており、

したがって、旧約宗教は「神像のない信仰」(iconoclastic faith)であった。このように

「神の像」を作ることが徹頭徹尾禁止されていた旧約信仰において、神が人間を創造さ

れるとき「神の像」の通りに創造されたということは、実に驚くべき言葉である。とこ

ろで、ここで一つ注目すべきことは、人間は「神の像」(s.elem ’elohim)の通りに創造さ

れたと記録されてはいるけれども、「ヤハウェの像」(s. elem yahweh )という

言葉は旧約においてまったく使用されていないという事実である。この事実は、「ヤハ

ウェの像」という表現自体が、旧約信仰においては言葉として表現することさえも「禁

止されていた言葉」であったことを示している。

────────────────────────────────────

そうである以上、人間が神の像の通りに創造されたということが、どのような意味

であるのか知るために、まず「像」という言葉を考察してみることにする。創世記1

Page 7: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

基督教研究 第66巻 第1号

58

章26節は神の像に関して次のように記録している。

我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。…

ここでは「像」(s.elem)という言葉と「模像」(demuth)という二種類の表現が登場して

いる。これに対して、1章27節では「像」(s.elem)という単語のみが2回使用されている。

26節では「像」(s.elem)という言葉と「模像」(demuth)という二種類の言葉が使用され

ているため、教父神学者のイレネウス以来、この二種類の違う表現を神学的に解釈しよ

うとする試みがなされてきた。特に、カトリック神学では「神の像」(s.elem ’elohim, “Imago

Dei”)と「神の模像」(demuth ’elohim, “Similitudo Dei”)を区別し、神の像(Imago Dei)

は失われなかったが、人間の原罪によって神の模像(Similitudo Dei)は破壊されてしま

い、洗礼を通してのみ再び回復されると考えられた。その反面、プロテスタント神学

では「像」と「模像」を区別しようとする見解がほとんど受け入れられず、バルトも

このような区別に対して非常に批判的な立場をとった4 。

神の像を理解するためのもう一つの見解は、「霊的な可能性」もしくは「霊性」等の

意味で説明するものだ。この見解は哲学的な影響を受けたものとしてフィロン(Philo)

によって発展させられ、アウグスティヌスもこの見解を基礎として神の像という概念

を霊魂の能力、知性と意志などと理解した5。それ以降も、人格性、理性、自由意志、

自我意識、知性、霊的存在、あるいは霊魂の不滅性などと解釈されてきたし、たとえ

若干の差異があったとしても、これと似た見解は今に至るまで多くの旧約学者によっ

て一般的に受け入れられてきた6。

とにかく、このような教理神学的な議論の妥当性は認めつつも、旧約本文に戻るこ

とにしよう。まず、「神の像」(s.elem ’elohim)というヘブライ語において「像」を意味す

る s. elem( )は常に具体的な像を意味し、不可視的で抽象的なものは意味しない

(民33:52;列下11:18;アモス5:26)7 。たとえば、ダニエル書3章に登場する、

すべての人がひれ伏し礼拝しなければならなかった金の神像も s.elem( )という言

葉で表現されている。次に s.elem( )は別のものの模像に倣い造られた模相(replica)

を意味しもする(ex.「はれ物の模型」サムエル上6:5,11)。また s.elem( )は他の

模像を描いた絵、たとえば、「壁に書かれた人々の像」(エゼキエル23;14)にも使用

されている。このように s. elemは、ある模像に似た具体的な像あるいは絵を意味する

言葉である8 。そのため神の像(s.elem)を人間の外形や外見を意味するものとして解釈

した見解もあった。たとえば、ヘルマン・グンケル(Hermann Gunkel)は神の像は人間

と神の外形的な姿の類似性を意味するものとして解釈した9 。一方、ルードヴィッヒ・

ケーラー(Ludwig Köhler)は神の像は人間の直立を意味すると主張した10 。このように

Page 8: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

59

神の像に関する旧約学者たちの初期研究においては、神の像を人間の外形として解釈

しようとする傾向があった11。これは過去の教義学や教理学において神の像を人間の本

質(たとえば、人間の自由、良心、超越性、自主性、霊性等)として理解してきたも

のに対する反応として、このような主張がなされてきたのだと理解できる。しかし、

最近の多くの旧約学者は s. elem を霊的な概念、もしくは単純に神の模像等の物質的な

像として理解するのは危険な解釈であると考えている。むしろ、代理人ないしは代表

性を持った者であると理解しようとする傾向がある12。

他方、旧約学者ゲルハルト・フォン・ラート(Gerhard von Rad)は、古代近東地域諸国

の大王たちが広大な領土を統治する際、自ら直接統治をするのが難しい遠くの周辺地域

では王自身の像を造り建てることによって、その地域に対する王の統治権を象徴させた

という指摘をした。フォン・ラートはこのような古代近東の慣行を根拠として「神の像」

としての人間は他の被造物に対する神の代理人としての人間であるという点を強調した13。

フォン・ラートの解釈は神の像を人間の「本質」として理解するものではなく、人間

の機能と役割として理解しようとした点で、神の像に関する新しい解釈として高い評

価を受けてきた。しかし、フォン・ラートの解釈も、人間の外形と神の外形の類似性

をそのまま受け継いでいるという点で、その脆弱さが指摘される。すなわち、古代近

東世界において大国の王が自身の「像」を造り帝国の周辺地域に建てるとき、その

「王の像」は外形的に王の姿と類似しているのである。もし、フォン・ラートがこのよ

うな古代近東の慣行に根拠して神の像を解釈するならば、「王の像」が外形的に王の姿

と似ているように、「神の像」も外形的に神に類似しており、したがって、神の像の通

りに創造された人間は外形的に神の姿に似ているという結論に至る。したがって、フ

ォン・ラートの解釈は「神の像」の機能的な面を強調している点では高く評価される

が、神と人間の外形的な類似性を暗に主張しているという点では受け入れがたい。

20世紀に入り、カール・バルトを中心に新しい理解が提示された。それは、人間を神

の対話の相手として、神が人間を「汝」として呼ぶことのできる存在として理解するもの

だ14。ヴェスターマン(Westermann)も人間創造の独自性は神と関係を結ぶことのでき

る対話の相手としての存在である点だと述べながら、これと似た見解を提示している15。

これ以外にも、スタン(J.J.Stamm)16、フリーゼン(T.C.Vriezen)17、ブルンナー

(P. Brunner)18などの学者もこの見解を採っている。

────────────────────────────────────

創世記に記録されている「神の像」を解釈する際、まず念頭に置くべきことは、す

Page 9: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

基督教研究 第66巻 第1号

60

べての言語はその言語が使用されてきた時代や場所によって、その言語の「意味の場」

(semantic field)が形成されるという点である。すなわち、ある単語や文章の意味は辞

書に書かれてある意味だけを知っていたとしても、その言葉が含み表出する意味をす

べて理解することはできないということである。なぜなら、すべての言語は、その言

語が使用される時代と場所によって辞典的な意味以上の「意味の場」が形成されるた

めである。たとえば、「トンム( )」という言葉を考えてみよう。「トンム」とい

う言葉の辞典的な意味は「友、仲間」という意味である。しかし、この言葉は今日、

我が国の言語的状況において辞典的な意味以上の「意味の場」を形成している。した

がって、人を呼ぶとき「トンム!」と呼ぶのは、今日、我が国の言語的意味の場では、

単純な友達や仲間という意味以上の意味を持つ。人を呼ぶ呼称としての「金トンム」

「李トンム」という言葉は北朝鮮という限定された地域では、また共産主義社会という

特定の社会では通用する言葉だ。つまり、「トンム」という言葉が新しい意味の場の中

で辞典的な意味以上の意味として使用されているということである。

もう一つ例を挙げるならば、「神の僕」という言葉である。「神」と「僕」という二

つの言葉が組み合わさり、各々の言葉が持っていた意味とはまったく違った意味を持

つようになった。「僕」の辞典的意味は「他人の家に売られた人」または「奴隷」とい

う意味である。しかし、どんなに「僕」という言葉の意味を知っていたとしても「神

の僕」という言葉になると、辞典的な意味とは別の新しい「意味の場」を持つのであ

る。今日、韓国教会という特定の「意味の場」では、「神の僕」という教会の牧会者、

つまり牧師を自称する言葉になる。

似たような例が「神の像」という言葉である。どんなに「像」(s. elem)あるいは

「模像」(demuth)という言葉の意味を研究し探求しても、それだけでは「神の像」と

いう言葉を充分に理解することはできない。なぜなら、この言葉が使用され、また記

録されてきた古代近東世界(Ancient Near East)では、「神の像」という言葉は「神」

と「像」という言葉がそれぞれ持っていた意味以上の特別な「意味の場」を持ってい

たためである。

今日、古代近東地域の考古学的研究の結果、古代近東地域の社会的脈絡の中で「神

の像」はどのような意味であったのかということが明らかにされつつある。

まず、メソポタミア(Mesopotamia)地域で発掘された資料を考察する。メソポタミ

ア地域の言語であったアッカド語(Akkadian)の「像」という言葉は s.almu である19。

アッカド語 s.almu はヘブライ語 s. elem と同一の三子音 s. lmで構成される同じ意味を持

った言葉である。しかし、バビロンで発見されたアッカド語で記録された資料から、

次のような文章が発見された。すなわち、バビロンの王を指して、「マルドゥ(Marduk)

神の像(s.almu)」と呼んでいるのである。マルドゥ(Marduk)神はバビロンの最高神

Page 10: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

61

である。ところで、バビロンの記録は、バビロンの「王」をバビロンの最高神である

「マルドゥ神の像」と呼んでいるのである。「王」が「神の像」であるというのである。20

メソポタミア地域では、一国の「王」を「神の像」であると呼ぶ資料が数多く発見され

ている。アッカド語では太陽神を「シャマシュ」(Shamash)と呼んでいた21。ところで、

メソポタミア地域で発掘された資料を見ると、王を指し「シャマシュ(Shamash)神の

像(s.almu)」と呼んでいる。また、バビロン帝国時代の資料を見ると、次のような記録も

ある。バビロン帝国の大王に送った文書で、バビロン王を次のように呼んでいる。

王の先代の王はベル(Bel)神の像(s.almu)であらせられました。

王もベル(Bel)神の像(s.almu)でございます22。

ベル(Bel)神はマルドゥ(Marduk)神のもう一つの呼び名である23 。上で引用した

記録では、バビロン王の先代の王もベル神の像であったし、現在の王もベル神の像と

呼んでいる24 。

要約すると、メソポタミア地域の古代の記録を見ると、「王」を「神の像」と呼んで

いるのである。ここで「神」という名は具体的に呼ばれている。すなわち、王を「マ

ルドゥ」神、「ベル」神、太陽神である「シャマシュ」神などの像と呼んでいるのであ

る。メソポタミア地域では、王は神と特別な関係にあった存在として、この地上での

「神の像」と考えられたのである。

次に、古代エジプトの記録を見ると、エジプトの王(「ファラオ」Pharaoh)も「神

の像」と呼ばれていた。特に、紀元前17世紀ヒクソス(Hyksos)時代以後、紀元前

300年代のギリシャ時代まで、エジプトでは「ファラオ」は「神の像」と呼ばれ続けた。

つまり、「ファラオ」はエジプト神である「ラー(Re)神の像」と呼ばれたのである25。

エジプトの記録では、「神の像」は神や人間の外形を意味するのではなく、神と王の間

の特別な関係を意味した。このことは、「ファラオ」を「オノフリス(Onophris)神と

イシス(Isis)神の像」と同時に呼んでいる記録から知ることができる。オノフリス神

は男神であり、イシス神は女神である。仮に、エジプトの記録で「神の像」が外形を

意味するのだとしても、「ファラオ」が男神と女神の外形を同時に持つことは不可能で

ある。したがって、「神の像」とは「ファラオと神との関係」を意味するものであり、

「外形」を意味するものではないことは明かである。

古代エジプトの記録において「神の像」を理解するのに大きな助けとなる資料は、

紀元前14世紀に発見された。エジプトの最高神であるアモン・ラー(Amon-Re)神は

まさに、アメンホテップⅢ世(AmenophisⅢ, 1403-1364B.C.)に対して次のように述

べている。

Page 11: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

基督教研究 第66巻 第1号

62

汝は…私がこの世に建てた私の像である。私はこの世を平和に治めるために汝を建てた26。

この紀元前14世紀のエジプトの記録は、二つの点において注意しなければならない。

まず、エジプト王アメンホテップⅢ世をアモン・ラー(Amon-Re)神の像と呼んでいる

点である。二つ目は、王には神の像として地上を治め平和を創り出す責任があるという

点である。

以上のメソポタミア地域と古代エジプトの資料より考えるならば、古代近東世界で

は「神の像」という言葉には辞典的な意味以上の「意味の場」があった。古代近東地

域で「神の像」とは、すなわち、一国を統治する「王」を指す言葉であったのである27。

さて、ここで、創世記の記事で神が人間を「神の像」の通りに創造されたという言葉

は、古代近東当時の「意味の場」から見ると、その意味が明らかになってくる。すな

わち、神が人間を「王と同じような存在」として創造されたという意味になるのである。

古代の王は人間としてはそれ以上考えることができない最高の存在であった。しか

し、神が人間を創造するとき、人間を「神の像」として造ったという言葉は、人間を

王と同じような最高の存在として、被造物の中で最も尊い存在としてお造りになった

ということを意味するのである。創世記の祭司伝承(priestly tradition)は古代近東地

域に普遍的に広がり知られていた「王権的言語」(royal terminology)である「神の像」

という言葉を人間の創造に使用し、人間の高貴さと尊厳を強調しているのである。

ところで、ここで一つ注目すべきことがある。それは、古代近東世界では一国の

「王」だけが「神の像」であったということである。しかし、創世記1章27節では、男

と女がまったく同じく「神の像」の通りに創造された。つまり、すべての人間、すべ

ての男とすべての女はまったく同じように尊い存在として創造されたのである。した

がって、創世記の記事では、すべての人間は、一人残らず、王と同じような存在であ

るということを意味する 28。祭司伝承は、古代近東世界の王権的言語である「神の像」

という用語を使用しているが、その王権的言語を完全に「民主化」してしまった。つ

まり、たった一人の王だけではなく、すべての人間が「神の像」なのである。このよ

うに、「神の像」という言葉が持っていた王権的意味が創世記ではすべての人間に対し

て適用されている。つまり、「神の像」という言葉が「民主化」(democratization)され、

すべての人間に適用されているのである 29。

────────────────────────────────────

そうであるならば、「神の像」としての王のような存在として創造された人間の任務

Page 12: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

63

と役割はどのようなものであるだろうか。創世記1章26節では、「神の像」としての人

間の創造の目的が明らかに示されている。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、

家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

まるで、一国の王が民衆を統治するかのごとく、「神の像」としての王のような存在

として創造された人間には、他の被造物(海の魚から、地上のすべての生き物まで)

を治める責任と役割が与えられたのである 30。

人間は王のような存在として創造され、その責任と役割は他の被造物を治めること

であるという点は、詩編8編にも明白に表れている。詩編8編は創造主である神を賛美

する「創造詩編」である。この詩編において、神の創造の極地は人間の創造に表れて

いる。

あなたの天を、あなたの指の業を

わたしは仰ぎます。

月も、星も、あなたが配置なさったもの。

そのあなたが御心に留めてくださるとは

人間は何ものなのでしょう。

人の子は何ものなのでしょう

あなたが顧みてくださるとは。(詩8:4-5)

次に、この詩編の絶頂となる部分を見てみよう。

神(’elohim )に僅かに劣るものとして人を造り

なお、栄光と威光を冠としていただかせ(詩8:6)

詩編8編6節は人間の創造に関する二つの重要な事実を明らかにしている。

一つ目は、人間は天上の存在である「神」より僅かに劣るが、地上の被造物の中で

は最高の存在だということである。

二つ目は、神は人間に栄光と威光の冠をかぶらせたということである。ここでの冠

は、王がかぶる王冠を意味する。ヘブライ語本文の te‘at.t.rehu( )は、「王冠

(‘at.arah )をかぶせる」という意味である。つまり、神はすべての人間に王冠を

かぶせてくださったということである。王冠は王がかぶるものである。それにもかか

Page 13: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

基督教研究 第66巻 第1号

64

わらず、神は人間を創造されるとき、王冠をかぶった存在として創造された。したが

って、すべての人間の創造は、王位戴冠(coronation)と同じという意味である。さら

に、「王冠」と関連して使われた「栄光」(kabodh )と「威光」(hadar )という

言葉は、旧約では二つの場面で使用される単語である。まず、神に向けて使用され、

次に、王に対して使用される「帝王的用語」(royal terminology)であった。例を挙げる

なら、詩編21編5節は王に対して歌いながら、神は「王の栄光」(kabodh )を大

いなるものとされ、栄光と威光(hadar )を王にかぶせると賛美している。この詩

編でkabodhとhadarは王に属するものとして描写されている。

ここで、詩編8編6節の「栄光と威光を冠としていただかせ」という言葉の意味が

明らかになる。神はすべての人間を、古代近東世界の王と同じく、栄光と威光の王冠

をかぶった「王的な存在」として創造されたということである。

そうであるならば、王冠をかぶった王の役割とはどんなものであるのだろうか。そ

れは国を治め統治することである。詩編8編では、神は人間を王の存在として創造さ

れたと歌っている。それなら、また、王的な存在としての、人間の役割はどんなもの

であるのだろうか。神が、人間を栄光と威光の王冠をかぶった存在として創造された

という言葉は、次の箇所に引き継がれている31。

御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。(詩8:7)

まるで、王冠をかぶった地上の王が国を治めるかのように、神は王冠をかぶった王的

存在として人間を創造され、他の被造物を治める責任を与えたということである。詩編8

編6節の「治める」という言葉は、ヘブライ語mashal( )であり、主に、王として治

める王権的統治を意味する言葉である32。また、「造られたものをすべて治めるようにその

足もとに置かれました」という箇所もmashalと同意的平行法(synonymous parallelism)

として王の統治を意味する表現である。詩編8編では、すべての人間は王冠をかぶっ

た王のような存在として賛美されており、また、他の被造物との関係においても王の

ような存在として、それらを治める責任と役割が与えられていることがはっきりと明

らかにされている。

詩編8編に記録されている人間創造の様子は、創世記に記録されている「神の像」

を解釈する際、決定的な役割を果たす。すでに考察したように、「神の像」は、古代近

東世界で一国を統治する王を指し示す用語である。神はすべての人間を王のような存

在として「神の像」としてお造りになった。そうであるならば、王のような存在とし

て人間が果たすべきことはどのようなものであるだろうか。創世記1章26節では、人

間の責任と役割が明示されている。

Page 14: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

65

神は言われた。「我々にかたどり(s.elem)、我々に似せて(demuth)、人を造ろう。そし

て海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

ここで「治める」という言葉は radah( )である。この言葉は王が王権を持ち治

める王権的統治を意味する言葉である。たとえば、イスラエルの王の王道について言

及している詩編72編では「王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますよ

うに。(radah)」となっている。ところで、創世記1章26節では、このような王の統治

権を意味する言葉である radahが人間に対して使われている33。創世記の祭司伝承に記

録されている人間の創造は、王のような存在として創造され、神が創造した他の被造

物を治めるように、ということがその目的なのである。言い換えると、「神の像」とは、

本来、人間の本質的な次元を意味するというよりは、古代近東世界の「意味の場」に

おいて考えるなら34、自然系(被造物)を統治し治める人間の役割と任務と責任を意味

しているのである。古代近東世界で王が地上で「神の像」として国を統治するように、

すべての人間はこの地上で王のような存在として神に代わって他の被造物を治める責

任を与えられているのである35。古代近東世界では、王が地上で「神の像」の通りに国

を統治するように、すべての人間はこの地上で王のような存在として神の代理として

他の被造物を治める責任を与えられている。

人間のこのような役割と責任は、創世記 1章 28 節で、神が人間に与えた祝福

(berakah )の言葉にも明らかに表れている。

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、

空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

ここで、神は人間に五つの祝福を与えている。この五つの祝福の中で「産めよ、増

えよ、地に満ちて」という三つの言葉は特別に人間にだけ与えられたものではない。

すでに五日目に、天の鳥と海の魚を創造された後、これらに向かって、「産めよ、増え

よ、海の水に満ちよ。」とおっしゃった(創1:22)。しかし、人間には他の被造物に

は与えられなかった二つの祝福が与えられた。「地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の

上を這う生き物をすべて支配せよ。」すなわち、人間にだけは、地を従わせ、他の被造

物を治める責任と役割が与えられているのである36 。

以上の議論をまとめると、古代近東世界の言語の場では、「神の像」は一国を統治す

る王を指し示す言葉である。人間が「神の像」の通りに創造されたという言葉は、人

間は王のように尊い存在として創造されたという意味である。また、王の役割が民衆

を統治し治めることであるように、王的な存在としての人間は、神を代理し、創造さ

Page 15: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

れたすべての被造物を治め統治する責任と任務と役割を与えられているのである。

────────────────────────────────────

人間が「神の像」の通りに創造されたという創世記の言葉は、古代近東の言語的脈

絡から理解するとき、いくつかの重要な神学的結論を導き出す。

まず、一つ目として、「神の像」とは、古代近東世界では王を指す言葉である。古代

社会では、王は地上の人間としては考えられないほどの最高の存在である。神が人間

を創造するとき、「神の像」の通りにお造りになったという言語表現は何よりもまず、

人間存在の高貴さと尊厳を意味している。すなわち、神の創造物の中で人間は最高の

存在であるということである。詩編8編5節の言葉通り、人間は天上の存在よりは僅か

に劣った存在であるが、地上の存在としては最も尊い存在である。被造物の中で最高

の存在として人間は、神の創造事業のクライマックスである。人間が神の像の通りに

創造されたという言葉は、第一に、原人間(Urmensch)にだけ適用されるものではな

く、すべての人間に適用されるのである。すべての人間が王のような尊厳に満ちた存

在として創造されたという創世記の言葉に基づいて、旧約信仰では人間の尊厳と平等

性、また、すべての人間の根本的な人権が強調されている。すべての人間は社会的地

位や経済的地位にかかわらず、王のように尊い存在である。人間が他の被造物の中で

最も尊い存在であるために、人間は被造物を治め、また、これら被造物を食べ物とし

て活用することができるのである(創1:29-30;9-3)。人間はこのように被造物

の中で最高の存在であるために、他の人間の生命を奪うことはできない。

人の血を流すものは人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたから

だ。(創9:6)

二つ目に、すべての人間が「神の像」の通りに創造されたという創世記の記録は、

創造の秩序の中で男と女の関係を明らかに示している。

①男と女はまったく同じように神の像の通りに創造された存在である(創1:27)。

したがって、男と女にはどのような差もない。彼らはまったく同じように王のように

尊く、まったく同じように人権を持った存在として平等に創造されたのである。

②男と女を創造された後、彼らに与えられた神の言葉はすべて「複数命令形」となっ

ていた。この複数命令を強調して翻訳するならば次のようになる。「お前たちは産めよ、

お前たちは増えよ、お前たちは地に満ちよ。お前たちは地を従わせよ。…お前たちは支

基督教研究 第66巻 第1号

66

Page 16: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

配せよ。」この複数命令が男と女に向けて言われた言葉であることは疑う余地がない。

神の創造秩序の中で彼らは、まったく同じように神が下さった祝福(berakah )の

対象であり、まったく同じように被造物を治め統治する、同じ責任と役割を与えられた。

三つ目に、人間が神の像の通りに創造されたということは、被造物に対する人間の

統治と管理を意味する。人間は神の代理人として他の被造物を治める責任と任務を委

任されたのである。したがって、人間の自然に対する統治は、自然の秩序を維持し保

存する統治とならねばならず、自然の秩序を破壊し自然を収奪する統治となってはな

らないのである。旧約信仰は、自然を畏れ敬う対象としては考えないだけではなく

(自然崇拝の否定)、自然に対する搾取と収奪も禁止している。しかし、最近、創世記

の人間創造の記事が、今日ますます深刻になっていく生態学的危機(ecological crisis)

と環境汚染に対して責任があるという批判を受けている37。しかし、自然を征服し治め

よという言葉は、明らかに、自然をむやみに破壊し自然の秩序を壊しても良いという

ことを意味しない。自然を「征服せよ、治めよ」という創世記1章28節の言葉は、同

意的平行法の表現として、王としての統治と支配を意味しているのである。人間の自

然に対する統治は被造物への神の愛が表れる統治とならねばならず、創造主である神

の前で責任を負える「責任のある統治」とならなければならない。今日、人間が自然

に対して犯している環境汚染の罪は、神が人間に委任してくださった責任に背くこと

であり、神の前では人間の背任行為となる。したがって、「神の像」に対する正しい理

解は、現代の人類に脅威を与えている生態学的危機を克服し解決する重要な鍵となる

と言えるだろう38。

1 “ Imago Dei” は日本語では「神の似姿」と訳されることが多いが、本論文では野本真也に倣い、本文中

では( )を「像」、( )を「模像」と訳し分ける。ただし、引用文中においては、新

共同訳の本文からそのまま引用した。

野本真也「神の像としての人間」『基督教研究』第40巻第2号、1977年4月、81ページを参照。「神は

言った。『われわれの像に、われわれの模像として、人間を作ることにしよう。そして海の魚、天の鳥、

家畜、すべての野獣、地面をはうすべてのものを支配させよう』」(創世記1章26節、野本訳)。

2 本論文では、「それぞれ」を表現するヘブライ語を、単数と複数語尾を区別せず lemin-(それぞれ)とし

て統一して使用している。

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

67

Page 17: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

3 Helmer Ringgren, “bara’,” in TDOT Vol.Ⅱ, ed. G. J. Botterweck and Helmer Ringgren (Grand Rapids,

Michigan: Eerdmans, 1975), p.245.

4 K. Barth, Church Dogmatics, Vol.Ⅲ/1 (1958), pp.181ff.

5 C. Westermann, Genesis 1-11: A Commentary, trans. John J. Scullion S. J. (Minneapolis: Augsburg

Publishing House, 1984), p.149 参照。

6 この見解に従う旧約学者には、A. Dillmann, O. Procksch, E Sellin. W. Eichrodt, H. Grossなどがいる。

7 .selemに関する詳細な議論としては、以下の文献を参照されたい。P. Humbert, “Etudes sur le récit ….,

L’imago Dei dans l’AT,” Mémoires de l’Universit de Neuchatel 14 (1940): 153-165; L. Köhler, “Die

Grundstelle der Imago-Dei-Lehre, Gen 1:26,” Theologische Zeitschrift 4 (1948): 16-22.

8 Humbertは .selemに関する研究の中で、旧約のすべての箇所において .selemは具体的で物質的な像とし

て使用されており、霊的であったり道徳的な概念として理解されてはいないと結論づけている。

“Etudes sur le récit…., L’ imago Dei dans l’AT,” p.157.

9 H. Gunkel, Genesis, preface by Walter Baunmgartner (Göttingen: Vandenhoeck und Ruprecht, 1901;

reprint, 1964), pp.110-114.

10 Ludwig Köhler, Old Testament Theology, trans. A. S. Todd (London: Lutterworth Press, 1957), p.147.

11 Walther Zimmerli, “Der Mensch im Rahmen der Natur nach den Aussagen des ersten biblischen

Schöpfungsberichtes,” Zeitschrift für Theologie und Kirche 76 (1979): 139-158も基本的にこの見解に従

っている。

12 C. Westermann, Genesis 1-11: A Commentary, trans. John J. Scullion S. J . (Minneapolis: Augsburg

Publishing House, 1984), p.146; W.H.Schmidt, Die Schöpfungsgeschichte der Priesterschrift. Zur

Uberlieferungsgeschichte von Genesis 1, 1-2, 2a und 2, 4b-3, 24, WMANT 17 (Neukirchen-Vluyn:

Neukirchener Verlag, 1964), p.133を参照されたい。

13 G. von Rad, Genesis, Old Testament Library (Philadelphia: Westminster, 1961), p.58.

14 K. Barth, Church Dogmatics: The Doctrine of Creation, Vol.Ⅲ/Ⅰ, pp.182ff.

15 C. Westermann, Genesis 1-11, p.158. また idem, Der Schöpfungsbericht vom Anfang der Bibel: von

rechten Umgang mit der Bibel, Vol. 30 of Calwer Hefte (Calwer Verlag Stuttgart, 1964)を参照されたい。

16 J. J. Stamm, “Die Gottesebenbildlichkeit des Menschen im AT,” Theoligische Studien 54 (1959): 81-90.

17 T. C. Vriezen, “La Création de l’homme d’apres l’image de Dieu,” Oudtestamentische Studien 2 (1943):

87-105.

18 P. Brunner, “Der Ersterschaffene als Gottes Ebenbild,” Evangelische Theologie 11 (1951/52): 298-310.

19 旧約が記録されたヘブライ語とメソポタミア地域の言語であったアッカド語(Akkadian)は言語的に同

じセム族語(Semitic language)に属する。セム族語の中では、ヘブライ語は北西セム族語(Northwest

Semitic)に、アッカド語は北東セム族語(Northeast Semitic)に分類される。

20 ANET, TabⅠ, lines 10-19を参照せよ。

基督教研究 第66巻 第1号

68

Page 18: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

21 ヘブライ語で太陽は「シェメシュ」(shemesh)である。アッカド語の太陽神「シャマシュ」(Shamash)

と同一である。

22 Werner H. Schmidt, The Faith of the Old Testament, Eng. trans. by John Sturdy (Philadelphia:

Westminster, 1983), p.195.

23 イザヤ書46章1節にベル神が登場する。また、旧約外典に「ベルと龍」(Bel and Dragon)という本が

ある。

24 シュミット(W. H. Schmidt)は、古代近東の数多くの文献で王を神の像と呼んでいる点を実例を挙げつつ説明

している。W.H. Schmidt, The Faith of the Old Testament, pp.194-198; idem, Die Schöpfungsgeschichte

der Priesterschrift, WMANT (Neukirchen-Vluyn, Neukirchener Verlag, 1964), pp.137-140. J. Hehn, “Zum

Terminus ‘Bild Gottes’,” Festschrift E. Sachau (1915): 36-52.

25 “The Asiatic Campaigning of Amen-hotepⅡ,” in ANET, 245を参照せよ。

26 Werner H. Schmidt, Die Schöpfungsgeschichte der Priesterschrift (Neukircherer Verlag, 1964), pp.136f.

27 古代近東における王と神の像の関係に関する議論は次の文献を参照せよ。Oswald Loretz, Die

Gottebenbildlichkeit des Menschen: Mit einem Beitrag vom Erik Hornung: Der Mensch als ‘Bild Gottes’

in Agypten (Munich: Kösel, 1967), pp.123-15; Eberhard Otto, “Der Mensch als Geschöpf und Bild

Gottes in Agypten,” Probleme biblischer Theologie, ed. H. W. Wolff (München: Kaiser, 1971), pp.334-

348.

28 W. H. Schmidt, The Faith of the Old Testament, p.197.

29 神の像を、神の代理人としての王のような存在として理解する代表的な学者は、すでに言及したシュミッ

ト(W. H. Schmidt)である。この他にも、多くの学者がこの見解に従っている。H. Wildberger, “Das Abbild

Gottes: Gen 1:26-30,” Theologische Zeitschrift 21 (1965): 245-259; JohnⅠ.Cook, “The Old Testament

Concept of the Image of God,” Grace Upon Grace : Essays in Honor of Lester J. Kuyper, ed. James

Ⅰ. Cook (Grand Rapids: Eerdmans, 1975): 85-94; Phyllis A. Bird, “Male and Female He Created Them:

Gen 1:27b in the Context of the Priestly Account of Creation,” Harvard Theological Review 74(1981):

129-159; Horace D. Hummel, “The image of God,” Concordia Journal 10 (1984): 83-93.

30 神の像と人間の責任に関しては、ノ・セヨンの博士論文を参照せよ。Se Young Roh, “Creation and

Redemption in Priestly Theology” (Ph.D. dissertation, Drew University 1991), pp.89-93.

31 Wildbergerは詩編8編に表れた王権伝承と創世記1章26節の神の像の関係に対して論じている。“Das

Abbild Gottes, Gen 1:26-30,” pp.481-501.

32 に関する言語研究はH. Gross, “ ” TDOT Vol.Ⅸ. pp.68-71を参照せよ。

33 列上5:4; 詩編72:8; 110:2を参照せよ。

34 古代バビロンとエジプトでも似たような概念が王に対して使われていた。C.Westermann, Creation,

trans. John J. Scullion, (Philadelphia: Fortress Press, 1974), p.52.

35 これに対する議論に関しては次の文献を参照せよ。B. W. Anderson, “Human Dominion over Nature,”

神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解

69

Page 19: 神の像(Imago Dei)...神の像(Imago Dei)に関する聖書的理解 53 is that Imago Dei was an idiomatic expression during the first and second millennium B.C.E. in the

Biblical Studies in Contemporary Thought, ed. Miriam Ward (Sommerville: Greeno Hadden Co., 1975),

pp.27-45. ここでAndersonも人間の王的機能と詩編8編との関係を説明している。

36 Helen A. Kenik, “Toward a Biblical Basis for Creation Theology,” Western Spirituality: Historical Roots,

Ecumenical Routes, ed. Matthew Fox (Santa Fe: Bear & Company, 1981), pp.27-75を参照せよ。

37 たとえば、Lynn White, Jr.は論文の中で、現代の生態系問題は、創世記1章26-28節を根拠に、人間

が自然を治め破壊してもよいと教えた教会にその責任があると主張している。“The Historical Roots of

Our Ecological Crisis,” Science, 155 (1967): 1203-1207; また、G. de Bell, ed. The Environmental

Handbook (N. Y.: Ballantine Books, 1970), pp.12-26を参照せよ。

38 生態学的危機に対する創造神学的議論は次の文献を参照せよ。James Barr, “Man and Nature-The

Ecological Controversy and the Old Testament,” Bulletin of the John Rylands University Library 55

(1972): 9-32; André Dumas, “The Ecological Crisis and the Doctrine of Creation,” Ecumenical Review

27 (1975): 24-35; Walter Houston, “‘And let them have dominion…’ : Biblical Views of Man in Relation

to the Environmental Crisis,” Studia Biblica 1978:Ⅰ, ed. E. A. Livingstone, JSOTSup 11 (Sheffield:

JSOT Press, 1979), pp.161-184; B. W. Anderson, “Creation and Ecology,” Creation in the Old

Testament, ed. B. W. Anderson, Issues in Religion and Theology 6 (Philadelphia: Fortress Press, 1984),

pp.152-171; J. A. Loader, “Image and Order: Old Testament Perspectives on the Ecological Crisis,” Are

We Killing God’s Earth?: Ecology and Theology, ed. W. S. Vorster (Pretoria: University of South Africa,

1978): 6-28.

(韓 守賢 翻訳)

(徐 正敏 監訳)

基督教研究 第66巻 第1号

70