等があり はじめに...

日光開山・沙門勝道の人物像 43 1 2 814 774 - 835 1062 - 1144 3 4 5 6 1278 - 1346 7 1633 - 1695 8 1626 - 1710

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日光開山・沙門勝道の人物像

43

一 はじめに

 

勝道は、奈良末・平安初期に下野国補陀洛山(現・栃木県日光男体山。日光山と略す)を開いたとして名高い僧

侶である。同国芳賀郡に生まれた勝道は、日光山への登頂を試み、三度目にしてようやく成功、さらに山麓の南湖(現・

中禅寺湖)の畔に神宮寺を建てて修行したとされる。その後、上野国の講師に任命されるとともに、下野国都賀郡

には精舎を建立して利他弘道し、また旱魃に際しては日光山に登って祈雨したことなどが伝えられている。

 

勝道に関する史料は少ない。自身の著作は現存せず、また何らかの著作をなしたとの伝えもない。同時代の史料

としては、『遍照発揮性霊集』に収録の「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑并びに序」1(以下、『勝道碑文』と略す2

がある。これは弘仁五年(814)、弘法大師空海(774-

835)の作で、日光山の勝境と勝道の事績を誌した碑文および序

である。また後世の史料としては、藤原敦光(1062-

1144)の『中禅寺私記』3

、勝道の弟子とされる仁朝・道珍・教旻・

道欽の『補陀洛山建立修行日記』4

(『修行日記』と略す)、道珍の『日光山滝尾建立草創日記』5

(『草創日記』と略す)

等があり6

、僧伝としては虎関師錬(1278-

1346)の『元亨釈書』7

、高泉性潡(1633-

1695)の『東国高僧伝』8

、卍元師蛮(1626-

1710)

日光開山・沙門勝道の人物像

小林 

崇仁

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

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の『本朝高僧伝』9

にそれぞれ略伝が記されている。

 

勝道に関する先行研究は、すでに蓄積がある11

。それらに依ると、勝道の人物像は、およそ次の三つの観点より説

明されている。一つには、星野理一郎氏や福井康順氏に代表されるように11

、日光開山者としての勝道に対する慶讃・

信仰を前面に出した視点である。『勝道碑文』に加え、中世の成立とされる『修行日記』『草創日記』を基本とし、

さらには各地に残る勝道伝承や日光修験の言説などをも取り込み、そのほとんどを史実として、勝道の生涯を描い

ている。およそ千二百年にわたる日光山と勝道に関する信仰の集大成という意味では、実に素晴らしい成果と言え

よう。ただし、史実と後世の脚色との判別は全くなされてはおらず、これらをそのまま勝道の実像と見ることはで

きない。

 

二つには、先とは全く逆の視点で、疑わしきは、すべて採用しないというものである。下出積與氏などは11

、『修

行日記』『草創日記』は言うに及ばず、『勝道碑文』でさえ、全く信ずるに足らないとする。結局のところ勝道につ

いては、「民間の仏教的宗教者、いわば私度僧的なもの」ということ以外は何も言い得ず、「日光山は勝道によって

初めて開かれたと、東国ではすでに平安初期から信じられていた」ということのみ信じて良いとされる。確かに『勝

道碑文』は空海の作であり、日光山と勝道を慶讃する意図があった筈であるから、厳密に言えば、すでに当初より

脚色があったことは確かであろう。ただし、当時の仏教者の動向からして、勝道を単純に私度僧と見て良いのだろ

うか。時代状況との整合性を確かめながら、『勝道碑文』に記される勝道像や諸問題を問うことは、当時の宗教・

仏教のあり方を考察する足がかりともなるであろう。

 

三つには、勝道による日光山開山を、当時の東国の時代的・地理的背景と結びつける視点である。つまり大和久

震平氏や橋本澄朗氏は11

、勝道の日光山開山を、蝦夷問題の終結という国家的使命を背負った公人としての事業と位

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日光開山・沙門勝道の人物像

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置づけている。しかし、勝道や日光山と、蝦夷問題を結びつける直接的な史料は示されてはおらず、結論を急いて

いる感が否めない。果たして勝道の日光山開山は、特に蝦夷問題と結びつけて理解すべきものであろうか。その生

涯・目的意識の全体を踏まえつつ、登頂の意義を考える必要もあるだろう。

 

以上のように勝道は、論者の視点によって、偉大な日光修験の祖師とも、無名の民間宗教者とも、蝦夷問題の終

結を祈る官僧とも述べられており、その見解に大きな差がある。そして、そのいずれもが、再考の余地を残したも

のであると思う。

 

勝道には、その生涯を記した同時代の史料が伝えられ、またそれを裏付ける山頂遺跡が発掘されている。当時の

山林修行者の中で、文献と物証の両面から、その動向を考察できる事例は極めてまれであり、その意味でも勝道は

十分に検討すべき人物である。筆者は本論攷において、考古学の成果も参照しつつ、最も基本とすべき『勝道碑文』

を再度検討し、関連する諸問題について若干の考察を加えながら、勝道の人物像を改めて考えてみたい。

二 その生涯

 

まずは、『勝道碑文』に記される勝道の生涯を概説したい。その際、より詳しい事績等は、〈括弧〉として『修行

日記』の記述を参考として付記する。

勝道は、〈天平七年(735)〉、下野国芳賀郡に生まれ、俗姓は若田氏とされる。若くして非凡さを現した勝道は、

生業を煩って仏道を志し、集落の喧騒を厭い林泉の静寂を仰いだという。〈家を出た勝道は、伊豆留や大剣峰にて

修行し、設置されたばかりの下野薬師寺戒壇にて沙弥戒・具足戒を受けたとされる。〉

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神護景雲元年(767)四月上旬、同州の日光山へ最初の登頂を試みるも失敗し、中腹に還って三七日間住して帰った。

〈その後、四本龍寺(現・日光山輪王寺)を拠点に、弊衣粗食にて坐禅読経に精進し、〉十四年後の天応元年(781)

四月上旬に再び登るも失敗、翌年天応二年(782)三月、三度目の試みにしてようやくその頂に到ったという。この

三度目の登頂に際しては、まず山麓において一七日間、読経礼仏し、「我が図写する所の経及び像等、当に山頂に

至りて、神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福を饒にすべし」との誓願を発てて登頂を決行し、三日間かけ

て遂にその頂に達した。頂上の西南の隅に庵を結び、三七日間住して礼懺し、故居に帰ったとされる。

 

二年後の延暦三年(784)三月下旬に再び登り、五日間を要して南湖の辺に到るという。二、三人の弟子と共に南湖・

西湖・北湖を遊覧し、南湖の勝地に伽藍を建てて神宮寺と名付けた。ここに数年間止住し修行したとされる。

 

その後、延暦年中(782-

805)には、上野国講師に任ぜられ、また都賀郡城山には華厳精舎を建立して、諸処にて利他・

弘道したという。大同二年(807)の旱魃に際しては、国司の要請により日光山に登り祈祷し、効験があったとされ

る。勝道は晩年、日光山の勝景が記されていないことを歎き、下野国に下向していた伊博士を通じて、空海にその

文章を依頼した。これを受けて空海は弘仁五年(814)に『勝道碑文』を作成している。この時すでに勝道は七十歳

に至り、体調を崩して能事を終えたとされる。〈あるいは弘仁八年(817)、四本龍寺北の岩窟にて入滅、行年八十三

歳であったという。〉

 

その生涯を性格の違いから分類するならば、Ⅰ日光山登頂を試みるまでの青少年期、Ⅱ日光山山頂をめざした登

頂期、Ⅲ南湖畔に神宮寺を建てて住した修行期、Ⅳその後の利他弘道期、の四つに分けられよう。以下、この四つ

の時期に従って、いくつかの問題点を考察しながら、勝道の事跡・人物像を詳しく見ていきたい。

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日光開山・沙門勝道の人物像

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三 勝道の人物像と諸問題

 Ⅰ日光山登頂を試みるまでの青少年期

  (1)勝道の出自

 

勝道の出自について、『勝道碑文』は11

有沙門勝道者、下野芳賀人也。俗姓若田氏。

と伝える。「下野芳賀」は現在の栃木県南東部の芳賀地方にあたる。また「若田氏」について、『修行日記』は、垂

仁天皇の第九皇子で、東国に赴き下毛野国室の八島に止住した巻向尊の子孫とし11

、『日光市史』は、上野国片岡郡

若田郷から出て、のち東へ移った一族とする11

。なお『修行日記』に依れば、父は下野介の若田高藤、母は吉田氏の

女で、二人は子宝に恵まれずにいたが、伊豆留(現・栃木市出流町)の千手観音に祈ったところ懐妊し、天平七年

(735)乙亥四月廿一日に勝道(童名・藤糸)を授かったとされる11

。また、今に伝わる伝承では、父の家は若田氏本

貫の下野国都賀郡城山11

にあったが、母方の実家である芳賀郡11

にて出生したという。諸説あるものの、現時点で勝道

の出自の実際を詮索することは難しい。

 

幼少期の勝道について、『勝道碑文』は何も語らないが、『修行日記』は具体的なエピソードを伝える。一つは石

塔や砂堂を造って神仏を拝んだこと、一つは仏菩薩明王らと出会い、三帰依や四弘誓願を授かったことである11

。こ

うした部分は、高僧の伝にありがちな後世の付会としてほとんど注目されないが、例えば同時代の仏教説話集『日

本霊異記』には、秦里(現・和歌山県海南市下津町小畑)の子供たちが戯れて、木を刻んで仏像とし、石を積んで

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仏塔とし、供養のまねごとをして遊ぶ場面が記されている11

。これと同様に、勝道も仏教的な習俗の土壌に育った可

能性はあるだろう。

  (2)沙弥・比丘としての勝道

 

勝道の青年期については、『勝道碑文』に11

神邈救蟻之齡、意清惜囊之齒。桎枷四民之生事、調飢三諦之滅業。厭聚落之轟轟、仰林泉之皓然。

とある。修辞に満ちてはいるが、大意としては、若くして非凡・清浄であり、世俗を厭い仏道を志したということ

である。すなわち、「救蟻の齢」つまり沙弥(通常、七歳から二十歳まで)であった時11

から、すでに非凡な精神を現し、「惜

嚢の歯」つまり比丘(通常、二十歳以上)となった後11

には、清浄なる心意に達したという。また「四民の生事」つ

まり士農工商という世俗の生業を煩わしい足枷と感じて、「三諦の滅業」つまり空仮中の三諦による仏道修行を志し、

集落の喧騒を厭い、山水や林泉を仰いだことが知られる。

 

なお、「救蟻」と「惜嚢」について、従来の研究では、これを単なる年齢の比喩と見て、「(沙弥となる)十五、六歳の頃」

「(比丘となる)二十歳の頃」とするが11

、智積院第七世運敞(1614-

1693)の『性霊集便蒙』は、端的に「沙弥であった時」「比

丘となった後」と解している11

。近年の研究が、これを単に年齢の比喩と見て、実際に勝道が出家得度して沙弥とな

り、具足戒を受けて比丘(僧侶・沙門)となったと読まないのは、勝道は地方民間の宗教者・私度僧であったとい

う暗黙の前提に依るからである。例えば下出積與氏は、「(勝道は)中央に繋がりのある官僧界に属したことのない

民間の仏教的宗教者、〈中略〉後代になるにしたがって官僧社会の密教僧的な行者像として、より濃厚に修飾され

ていったものと思う。つまり、こうした部分の勝道像は、後世の作為として良いということである」11

として、勝道

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が青年期に沙弥・比丘となっていたことはもとより、それ以降の事績のほとんどを認めない。ただ、その論拠は何

ら示されてはおらず、無条件にそう結論づけられているにすぎない。

 

この時期の勝道について、『修行日記』は次のように伝える。勝道は天平勝宝六年(754)、二十歳にして住所を離れ、

伊豆留や大剣峰などの山々に入り、千手観音を億念して三帰四弘を誦したという。さらに天平宝字五年(761)には、

下野薬師寺に戒壇が設けられたとの知らせを受け、勝道はこれを悦んで薬師寺に赴き、鑑真の弟子の如意や恵雲に

随い、二十七歳にして沙弥戒を、翌六年(762)には具足戒を受け、五年間止住して求聞持法を修し、『華厳経』『法

華経』『金光明最勝王経』『成唯識論』など数部の経論を読誦したとされる11

 

こうした伝承は、まさに下出氏が後世の作為とするところで、全くの修飾であるとして採用されない。しかし例

えば、得度を求める優婆塞・優婆夷(在家仏教者)を政府に進める時の文書、いわゆる『優婆塞貢進解』に依れば、『修

行日記』の記載は必ずしも不合理とは言えない。つまり『優婆塞貢進解』には、優婆塞・優婆夷の俗名、読誦でき

る経呪、浄行年数、師主僧名などが記載されているが、記録の残る天平四年(732)から十七年(745)までの四十三

人に関すれば、その読経経典としては勅によって規定されていた『法華経』『金光明最勝王経』が主であり、誦経

経典として『観音経』と共に『薬師経』『理趣経』が多い。そして誦呪陀羅尼としては「千手陀羅尼」が最も多く、

「仏頂陀羅尼」「十一面陀羅尼」「不空羂索陀羅尼」と続き、約四分の三の優婆塞が二、三種の陀羅尼を呪しているこ

とが知られる11

。また『日本霊異記』には、神護景雲三年(769)以前に、京の小野朝臣庭麿なる者が優婆塞となり、

千手観音の呪を誦持して加賀郡の山を展転して修行したとの説話がある11

。こうした状況を踏まえれば、勝道が集落

の喧騒を避け、まずは優婆塞となって山林に入り、千手観音呪を億念して諸山を転々とした可能性は十分にあり得

るだろう。

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また天平宝字二年(758)に朝廷は、諸国の山林に隠れて十年以上の清行を積んだ逸士(優婆塞)に、得度を認め

ている11

。さらに時代は下るが、承和十五年(848)には、持経や持呪に優れた者の試験をしたところ、笈を背負い錫

を杖するもの数百人が方々より集まり、うち七十人あまりに官度が認められた11

。こうした諸国の優婆塞と同様に、

伊豆留などの山林で修行していた勝道が、下野薬師寺の戒壇設置11

を悦んで馳せ参じ、得度・受戒が許された可能性

も考えられる。

 

さらに先行研究にて示されるように、奈良期の仏教は山林修行と密接に関わっていた。出家を志す優婆塞はもち

ろんのこと、得度・受戒後の沙弥や比丘であっても、積極的に山林に踏み入り、修行を積んだ事例が指摘されてい

る11

。また諸国の国分寺や有力な私寺では、近接する山地に山寺が営まれる場合があり、僧侶たちの修行の場となっ

ていたとされる11

 

これら当時の状況と照らし合わせれば、伊豆留での山林修行、下野薬師寺での受戒・修行など、『修行日記』が

伝える勝道の青年期の事績は、大筋としてこれを認めても良いのではなかろうか。後述するように、日光山山頂か

らは奈良から平安初期とされる鏡鑑や法具が多数出土しているが、これは勝道が無名の民間宗教者というより、有

力な支援者を得た仏教者であったことを示唆している。また空海は『勝道碑文』にて、勝道を「沙門」と称してい

るが、「沙門」とは当時の日本において、比丘・僧侶と同じ意味で使われている。さらに勝道が晩年に「講師」に

任命され、「法師位」にあって国司の要請により雨を祈っている11

ことから、勝道が公的に認められた僧侶であった

ことは疑いえない。ではいったい何時、勝道は受戒したかと言えば、空海が青年期の勝道について、「救蟻」「惜嚢」

という沙弥・比丘を指し示す語を使用している以上、日光山登頂以前には得度・受戒して、すでに沙弥・比丘とな

っていたと考えた方が妥当であろう。

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  (3)勝道の宗風:天台と華厳の可能性

 

なお、伝承の通りに勝道が下野薬師寺にて受戒し、同寺に止住した僧侶であったとすれば、その宗風を如何に考

えることができるだろうか。それは先の『勝道碑文』に言う「三諦の滅業」が参考となろう。従来の研究では特に

注目されないが、これが空仮中の三諦を説く隋の智者大師智顗(538-

597)の門流、すなわち「天台」の比喩である

ことは想像に難くない。すでに田村晃祐氏が指摘しているように11

、東国の仏教、特に下野・上野両国の仏教は、天

台との関わりが深いという。つまり伝教大師最澄(767-

822)の一切経写経や東国巡化といった活動に積極的に援助

をし、また東国より多くの者が最澄に弟子入りして、円澄(771-

836)、円仁(794-

864)、安慧(795-

868)が天台座主に

昇るなど、初期の日本天台宗の発展に、東国仏教は重要な役割を果たしたとされる。田村氏は、その母体として「東

国天台教団=道忠教団」の存在を推測している。つまり日本に律を伝えた鑑真大和上(688-

763)は、律とともに天

台に精通していたが、天平宝字五年(761)に下野薬師寺の戒壇が設置された当時、持戒第一と称賛された弟子の道

忠(生没年未詳)が派遣され、東国に鑑真の門流が広まったとしている。

 

このように下野薬師寺を拠点に鑑真の門流が隆盛していたとするならば、「三諦の滅業に調飢たり」とは、まさ

に「天台」の教えを志求したと解釈できるのではなかろうか。後世になって、日光山にて天台宗が盛んとなる遠因は、

すでに勝道にあった可能性もある。なお『修行日記』にて勝道の師とされる「如意」「恵雲」とは、鑑真門下の渡

来僧・如宝(?-

815)と慧雲(?-

810)のことと思われる。両者はともに鑑真に隨順して来日し、律の宣揚に励み、

晩年は僧綱にも任ぜられた人物である11

。少なくとも後世には、勝道が如宝や慧雲を通じて、鑑真の門流に連なって

いたとの伝承があったことは確かである。

 

もっとも『勝道碑文』には、勝道が晩年に「華厳精舎を都賀郡城山に建立し」たとする11

。また『修行日記』も、

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勝道が読誦した経典として、優婆塞が度牒を得る条件として課せられていた『法華経』『金光明最勝王経』に加え、

『華厳経』を読誦したと伝えている11

。勝道は「華厳」にも通じていたか、あるいは善財童子の補陀洛山遊行を説く『華

厳経』に信仰を寄せていたのかもしれない。当時の東国における華厳の弘通状況については、すでに朝鮮半島から

の帰化人が多く東国に移り住んでいることから、朝鮮半島にて盛んであった華厳が、帰化人を通じて東国に将され

たとの見解もある11

 

いずれにせよ、勝道の宗風を推測するならば、「天台」「華厳」などの一仏乗が、ひとつの可能性として指摘し得

るだろう。また、勝道が示寂した後ではあるが、弘仁八年(817)に最澄が東国を訪れて以降、常陸・陸奥を拠点と

した法相の徳一(750頃-840頃)11

と、上野・下野を拠点とした道忠教団さらには叡山の最澄との間で、いわゆる「三一

権実論争」が展開された11

。あくまで推測の域は出ないが、朝鮮半島からの帰化人、あるいは鑑真の弟子の道忠を通

じて、東国、特に下野・上野には、教義の上で南都の仏教とは一線を画す一仏乗の宗風が根付いていたのであろう。

『勝道碑文』に記された僅かな痕跡は、勝道にもその傾向があったことを示唆するものである。

 

Ⅱ日光山山頂をめざした登頂期

  (1)葱嶺に譬えられた日光山

 

勝道が始めて日光山への登頂を試みたのは、神護景雲元年(767)、およそ二十から三十代の頃であった。栃木県

の北西に位置する日光男体山は、標高二四八六メートル、関東地方屈指の名山である。成層火山による円錐形の山

容が美しい。この山について『勝道碑文』は次のように記す11

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日光開山・沙門勝道の人物像

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粤有同州補陀洛山。賺

嶺挿銀漢、白峯衝碧落。磤雷腹而鼉吼、翔鳳足而羊角。魑魅罕通、人蹊也絶。借問振古、

未有攀躋者。

 

従来の研究と同様に、運敞の『性霊集便蒙』に従えば11

、この箇所は日光山の「高さ」を比喩的に述べていると解

釈できる。つまり、その高く聳える山容は、夏には青い嶺が天の川を突き刺す程、冬には白い峯が青空に突き当た

る程であり、さらには雷鳴であっても山腹で轟く程、鳳凰でさえ山麓で飛翔する程である。それ故、魑魅も通るこ

とはまれで、まして人間では以前に登った者など誰もいないとする。

 

ただ、そうした解釈に加えて、別の暗喩を読み取ることができよう。まず「葱嶺」とは、具体的な山名としては、

現在の中国新疆の西南部に位置するパミール山地を意味する。『漢書』「西域伝」に「西は則ち限るに葱嶺を以てす」

とあるように11

、当時の地理認識からすれば、「葱嶺」とは西域の最西端を意味していた。その認識は後世の日本に

も伝承され、『平家物語』にも「天竺、震旦の境に、流沙、葱嶺といふ嶮難あり。渡り難くして越え難き道なり」

と記される程である11

 

また「葱嶺」は、遠境の山であると同時に、天竺へと通ずる求法の山でもあった。例えば、陸路にて西域を進み

天竺へと入った劉宋の黄龍国沙門曇無竭(-

420頃-)の僧伝に、「葱嶺を登りて雪山を度る」と記されるように11

、か

つて多くの求法者たちは、「葱嶺」を越えて入竺を試みている。そして東晋の平陽沙門法顕(337頃-

422頃)の伝に「葱

嶺に至る。嶺、冬夏に積雪し、悪龍有りて毒風を吐き、沙礫を雨ふらす」とあるように11

、その山路はまさに命懸け

の困難なものであった。事実、求法者の多くが、ここで命を落としたとされる。おそらく「葱嶺」とは、仏教者に

とって特別な感慨を抱かせる山名であったのではなかろうか。空海は、日光山を「葱嶺」に譬えることで11

、日光山

が大和から遠く離れた山であり、かつ踏み入ることが困難な山であるとの認識を暗に表していると考えられる。

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

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それは「鼉吼」と「羊角」の比喩からも読み取れる。これらは「雷鳴」と「旋つ

むじかぜ風

」を意味しており11

、従来のよう

に山の高さを表すと解釈するには疑問がある。むしろこの山の自然状況の厳しさ、さらには踏み入ることの危険さ

を表現しているのであろう。大きな雷が起こり、山腹では鼉が吼える如く時折り雷鳴が響いている。鳳凰が飛翔す

ることで、山麓では強い旋風が羊の角の如くに渦巻いている。勝道が第一回目の登頂に失敗した理由も、深雪、岩壁、

雲霧、雷鳴など、自然的な障難であった。それらはあたかも近寄る者を威嚇するかのように立ちはだかる。おそら

く空海は、日光山に攀じ登った勝道を、西域の険しい山々を越えた求法僧に重ね合わせているのではなかろうか。

  (2)日光山山頂遺跡の解釈

 

なお、ここで問題とすべきは、日光山の山頂遺跡のことである11

。この遺跡は山頂部の巨岩を中心に営まれ、古墳

期から江戸期にかけての遺物、約六千点が出土している。時代ごとに遺物の変遷はあるが、大きな転機は平安末・

鎌倉初期であり、この時期を境に前半の主要な遺物であった鏡鑑類が姿を消し、埋経品・武具・馬具・修験道関係

品が出土するようになるという。質・量ともに、これほどの遺物が山頂から出土するのは全国的に見てもまれで、

類例としては奈良県山上ヶ岳、福岡県宝満山があるのみとされる11

 

古墳期の遺物としては、勾玉・切子玉・手捏土器・二神二獣鏡11

があり、奈良期かそれ以前とされる遺物に鉄製錫

杖頭、奈良期とされる遺物に波文帯鳥獣鏡、海獣蒲萄鏡、花枝飛鳥鏡、素文角入方鏡、蔓草鳳馬鏡などの唐鏡、唐

式鏡・忿怒型三鈷杵・土器・鉄製馬形品などがある。平安前期の遺物としては、奈良期を引き継ぎつつ、密教法具・

古印・塔形合子などが見られるという。

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日光開山・沙門勝道の人物像

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このうち特に纏まった遺跡が構成されるのは、奈良期から平安初期にかけてであり、山頂の西側の断崖に接する

付近、現在の太郎山神社祠殿の西側にある露岩に挟まれた凹地から、鏡鑑・錫杖頭・法具などが出土している。こ

れにより、考古学的な視点からも、この時期の仏教者による登頂は否定する余地がないという。

 

なお、この遺構の場所が「山頂の西側の岩の窪地」であったことは、特に注目すべきである。後述するように『華

厳経』は、観音菩薩の住処を補陀洛山山上の「西阿」「西面巌谷」とする。また『勝道碑文』は、勝道が登頂して

三七日の礼懺を修したのは、山頂の「坤角(南西の角)」であったとする。経典の記述と、修行者の動向、そして

遺構の場所がおよそ合致している。日光山山頂遺跡の一つの解釈として、勝道はこの場所を観音菩薩がおわす「西

の岩の窪地」と見なし、そこで三七日の礼懺を行ったと考えることもできるだろう。もしそれが正しいとすれば、

この山頂遺跡は、勝道の実在性、『勝道碑文』の正確性を裏付ける物証と見ることもできよう。

 

もう一点、問題となるのは、勝道以前と目される遺物が、僅かながらも出土していることである。これは先に挙

げた「魑魅、通ふこと罕にして、人蹊、絶えたり。振古を借問するに、未だ攀ぢ躋る者あらず」という空海の認識

と異なる事実である。大方の見解では11

、古墳期の遺物は製作年代より後に、偶然の発見品や伝世品が仏教者により

山頂へ納められたとし、また奈良期かそれ以前とされる仏具に関しては、すでに勝道以前に仏教者が登頂したため

とされている。

 

これに対して大和久氏は、近年全国各地の山頂からも、古墳期とされる遺物が発見されていることから、すでに

古墳期には登頂が行われていたとする。また、鏡を祭祀の具に用いるのは、我が国の中に自生した祭りの方法であ

るとし、その習俗に従って古墳期に山頂でも祭祀が行われ、後に仏教者がこれを引き継いだとの見解を示してい

る11

。もっとも、鏡は道教でも重視され、道士が入山する際は、悪鬼や魑魅を除ける意味で、鏡を携帯することを常

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としていた11

。多数の鏡鑑の出土も、道教的信仰の影響を視野に入れる必要があるだろう。鏡の報賽を日本に自生し

た信仰とすることには疑問があるとしても、例えば道教など何らかの信仰を持った者が、仏教者以前に登頂した可

能性は考慮しておく必要があるだろう。

 

ただし、勝道は日光山への登頂を二度失敗し、足かけ十五年かけて三度目の試行によって遂に成功している。お

そらく登山道などは未だ確立しておらず、極めて困難な状況であったと思われる。また、日光山山頂遺跡の最初の

形成期が奈良期から平安初期であることを考慮すれば、それ以前から頻繁に登頂がなされていたとは考えにくい。

若干の先駆者がいた可能性はあるが、本格的な開山は、奈良期の仏教者に依るものとして良いだろう。また、その

中心人物を挙げるとすれば、やはり勝道と見るのが妥当であろう。

  (3)蝦夷問題をめぐって

 

ところで、日光山山頂遺跡の遺物が、量・質ともに優れていることから、大和久氏などは、国家レベルでの支

援を想定している。さらにその背景として、蝦夷の反乱による国家的危機を挙げ、勝道の日光山登頂が、単なる

宗教的情熱による行為ではなく、鎮護国家的・国境祭祀的な性格を多分に帯びたものとしている。つまり宝亀五年

(774)の桃生城侵入から、同十一年(780)の多賀城陥落までの、いわゆる蝦夷の反乱期に呼応して、勝道は国家的

使命を背負って登頂を試みたという11

 

確かにこの時期から、延暦二十年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂(758-

811)の征討により大勢が決し、陸奥出羽

按察使征夷将軍文室綿麻呂(765-

823)の鎮圧によって組織的な征伐が停止される弘仁二年(811)までは、いわゆる

三十八年戦争と呼ばれ、蝦夷問題は国家にとって大きな課題であった。また大和久氏が指摘するように、下野国は

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日光開山・沙門勝道の人物像

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筑紫国と相似して、国境という位置づけがなされていたと言えるだろう。両国における戒壇院の設置、最澄による

六所宝塔の造立、男体山と宝満山の山頂遺跡などは、その推測を裏付ける。ただし、それらをもって、勝道あるい

は日光山と、蝦夷問題を安易に結びつけるのは、結論を急いている感がある。確たる根拠は何も提示されてはいな

い。そもそも勝道が初めて登頂を試みたのは神護景雲元年(767)、蝦夷の反乱以前のことである。大和久氏はこれ

について、第一回目は山林仏徒としての個人的な修行、二回目以降は鎮護国家の使命を負った公人としての行動と、

全く峻別しているが、結論ありきの考察ではなかろうか。

 

勝道の二回目以降の登頂試行は、まさに桓武期にあたるが、桓武天皇が支援した山寺として、大和の子嶋山寺と

近江の梵釈寺が知られる。前者は延暦四年(785)に山林修行僧・報恩(718頃-

795)が桓武天皇の御病平癒を祈った

功績によるもの11

、後者は国家の安寧を願い山林修行の道場として同五年(786)以降に造営されたものである11

。もし

日光山への登頂・山寺の造営が、蝦夷問題と関連した国家的事業であればなおさら、日光山の寺社に関する創建や

経営、あるいは山上での修法等について、同時代の史料に僅かな痕跡でも残されて良さそうであるが、それは今の

ところ全く見あたらない。

 

また、日光山に関係するであろう「二荒山神社」は、下野国の式内社としては唯一の名神大社であるが、その所

在地は『延喜式』に「河内郡」(現・宇都宮市)とあり11

、地理的に合致せず不明な点も多い。「二荒山神社」の所

在が日光山上か、あるいは河内郡か定かではないが、いずれにせよ、その初出は『続日本後紀』「承和三年(836)

十二月丁巳条」の「下野国従五位下勲四等二荒神に正五位下を授け奉る」との記事である11

。少なくともこの時には、

「従五位下勲四等」に叙されているとはいえ、蝦夷問題が一応の終結を見た弘仁二年(811)からは大分隔たりがある。

なお同時期に東国では、下総国香取郡の従三位伊波比主命が正二位に、常陸国鹿島郡の従二位勳一等建御賀豆智命

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が正二位に昇進しており11

、国家的には「二荒神」の地位は香取・鹿島の両神に比べると、必ずしも高くはない。

 

そもそも日本古代において、戦勝を神仏に祈願する例はそう多く見受けられない。天皇の不豫や天候の不順に際

して、あれほど頻繁に神事・仏事が執行されたことに比べて対照的と言える。蝦夷問題に関連したところでは、宝

亀十一年(780)に陸奥鎮守副将軍百済王俊哲(?-

795)より「蝦夷軍に包囲されたが、(陸奥国)桃生・白河両郡の

神十一社に祈ったところ囲いを破った。この十一社を幣社に列することを請う」との奏上があり、これを許したと

の記録と11

、延暦元年(782)に陸奥国より「(陸奥国所在の)鹿島神に蝦夷討伐を祈ったところ、神験があった。位

封を賽せんことを」との奏上があり、勲五等と封二戸を奉授したとの記録が見える11

。これにより、蝦夷討伐の前線

にあった将軍や国司が、在地の神に戦勝を祈願した例については、僅かに知ることができる。ただ、果たして国家

主導にて「二荒神」への祈願が行われたであろうか。上記の様々な状況を踏まえると、勝道の日光山登頂の背景と

して、蝦夷問題による国家の支援を想定するには根拠に乏しく、その可能性を積極的に論ずるには難があるだろう。

 

ただし、日光山山頂から優品が出土していることからして、勝道らの日光山開山を支持した有力者があったこと

は想定し得る。勝道が初めて日光山山頂に到ったのが天応二年(782)、翌々年の延暦三年(784)には湖畔に神宮寺

を建てて修行している。当時の山寺に関する政策を見ると、翌年延暦四年(785)には、僧・尼・優婆塞・優婆夷が

勅語に依らずして、山林寺院にて陀羅尼を読み、壇法を行ずることが禁ぜられている11

。また延暦十八年(799)には、

本寺を去って山林に隠住し、人の嘱託を受けて邪法を行う沙門が往々にしてあるため、山林の精舎とそこに住む僧・

尼・優婆塞・優婆夷を報告せよとの勅語が出されている11

。これらが共通して禁じているのは、修行者が私的な檀越

を得て山寺に住み、檀越に有利な(国家に不利な)修法を行うことであった。奈良期を通じて、長屋王の変(729)、

恵美押勝の乱(764)、藤原種継射殺事件(785)などの陰謀事件の直後には、山林寺院での活動を制限する勅語が出

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日光開山・沙門勝道の人物像

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されていることからして、勢力争いに関わる不穏な動きを取り締まる意味もあって、山林における無許可の活動が

禁ぜられていたと考えられる11

。朝廷は、山林修行者の験力を常に意識しており、それを外護するのは基本的には天

皇であるとの見解を有していた11

。ただ、そうした朝廷の思惑とは裏腹に、人々は私的に山林修行者を支援し、修行

者はその依頼に応じて種々なる儀礼を行っていた。度重なる山林修法の禁制がそれを裏付けている。

 

もっとも、勝道の場合、そうした支援者がいったい誰で、そこにどのような意図があったかのかを断定すること

は難しい。唯一、『勝道碑文』に挙げられるのは、大同二年(807)の旱魃に際して、国司の要請により、雨を祈っ

たという事例だけである。あるいは明記されなくとも、蝦夷討伐の使命を帯びて下向した将軍や国司、出兵した在

地の豪族などの依頼により、勝道が蝦夷問題の終結を祈ったことがあったかもしれない。ただし、その可能性を積

極的に支持する根拠は乏しい。

 

また、たとえ勝道が蝦夷問題の終結を祈ったとしても、それは後述するような、自利利他円満をめざした勝道の

生涯・目的意識からすると、その一部、つまり利他行の一環と理解すべき行為であり、必ずしもそれが全てという

訳ではない。勝道の日光山登頂の理由として、蝦夷問題のみを強調するのは、適当ではないと思われる。 

 

 (4)補陀落山と二荒山

 

そもそも勝道が登頂を試みた日光山は、『勝道碑文』では「補陀洛山」と呼ばれていた。「補陀落」とは、梵語

Potalaka

の音写で、観音菩薩が住むとされる山のことである。東晋の天竺三蔵仏駄跋陀羅(359-

429)の旧訳『華厳

経』「入法界品」では、「光明山」と漢訳され、善財童子が遊行して山上に到り、西阿にて観世音菩薩に見ま

えたと伝

える。その情景は「処処に皆な流泉浴池有り。林木欝茂し、地草柔軟なり」と描写される11

。また唐の于闐国三蔵実

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叉難陀(652-

710)の新訳『華厳経』では、同じ場面で「補怛洛迦」と音写され、善財童子はその山の西面の巌谷の

中で、観自在菩薩に見ま

えたとする。その情景を「泉流縈映し、樹林蓊欝し、香草柔軟なり」11

とするのも同様である。

観音菩薩は山上の西の巌谷に坐し、その情景としては、泉・樹・草を特徴としている。

 

さらに唐の三蔵法師玄奘(602-

664)の『大唐西域記』では、南インド達羅毘荼国の南、秣刺耶山(マラヤ山)の

東に位置するとされ11

、「布呾洛迦山」と音写される。山径は危険で、巌谷は傾き、山頂に池が有る。その水は鏡の

ように澄み、大河を流出するという。観自在菩薩に見ま

えることを願う者は、身命を顧みず、水を渡り山を登るも、

ここに到達できる者は極めて少ないと伝える11

観音信仰の隆盛とともに、補陀落は観音の浄土として、インド以外でも見られるようになる。中国浙江省の普陀山、

あるいはチベットのポタラ宮などは有名である。日本でも、熊野那智山や下野日光山が補陀落と見なされてきた。

 

さて問題は、なぜ日光山が観音浄土・補陀落と見なされ、そう呼称されるようになったのかである。諸説あるが、

およそ次の二説に集約できる。一つは日光山の山容が補陀落のイメージに合致していたから、というものである。

つまり勝道などの仏教者が初めてこの山に登り、山水相映する勝景を目の当たりにして、まさしく補陀落であると

感得したからという理由である。そしてこの山の呼称も、補陀落(フダラク)から二荒(フタラまたはフタアラ)、

そして二荒(ニコウ)、さらに日光(ニッコウ)へと変化したと言われている11

 

一方の説では、もともとこの山は二荒(フタラまたはフタアラ)と呼ばれる古来からの信仰の山であり、呼称が

通ずることから、仏教者によって後に補陀落とも呼ばれるようになったとする11

。この場合、本来の山名とされる「二

荒」の解釈も、男体・女峰の二つの荒山、あるいは男体・女峰の二神が現れるという説など様々であるが11

、いずれ

にせよ、仏教信仰以前からの呼称に由来するとの説である。

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いったい日光山は、奈良期の仏教者によって「補陀洛山」と呼ばれるようになったのか、あるいはそれ以前から「二

荒山」と呼ばれる信仰の山であったのだろうか。文献上で言えば、「補陀洛山」の初見は弘仁五年(814)、空海の『勝

道碑文』であり、「二荒」の初見は先に挙げた『続日本後紀』「承和三年(836)十二月丁巳条」である11

。ただその「二

荒神」とは、『延喜式』に記載の河内郡(現・宇都宮市)二荒山神社のこととも考えられ、地理的に合致せず不明

な点も多い。また、例えば同じく東国の霊山である常陸国の筑波山が、『万葉集』『風土記』『続日本紀』などに頻

繁に登場するのと比べると、「二荒山」については全く記載がなく、承和三年(836)以降、「二荒神」に位階が授け

られたとする記事が国史に見られるのみである。このように文献的な視点からすれば、奈良期以前の二荒山信仰に

ついて、積極的に論ずることは慎重にならざるを得ない。

 

ただし、山頂の遺跡から、古墳期のものとされる遺物が僅かに出土していることをどう見るか。これも論者によ

って解釈に差があり、古墳期からの信仰の山であったことの証拠と見るか、あるいは仏教者の開山以降に奉納され

た賽品の一部と見るか、見解は様々である。いずれにせよ、この山の古来の名称や信仰のあり方については、どれ

も決定的な根拠は乏しく、端的に言えば、論者の重視する観点によって結論が異なる感がある11

。ここでは、どちら

も可能性があるとの認識に留めておきたい。それよりも重要なことは、奈良期になって仏教者がこの山に入り、こ

れを「補陀落」と見なしたという事実である。

  (5)山神への畏怖と入山の作法

 

さて、『勝道碑文』に依れば、勝道が始めて登頂を試みたのは、神護景雲元年(767)四月上旬、そして二度目が

天応元年(781)四月上旬であった。第一回目には深雪と岩壁、雲霧と雷鳴により途中で引き返し、中腹に三七日(二十一

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日)間住して帰ったという。第二回目も同様に登頂できなかったとされる。そして翌天応二年(782)、三度目の試

みで初めて登頂に成功したと伝える。その時の様子を詳しく見てみよう11

二年三月中、奉爲諸神祇、寫經圖佛、裂裳裹足、弃命殉道。繦負經像、至于山麓。讀經礼佛、一七日夜。

 「三月」の中旬、まずは諸々の「神祇」のために、経典を書写し、仏像を図画した上で、それらを背負って山麓に到り、

「七日」の間、読経・礼仏したという。

 

登頂以前のこうした作法から連想されるのは、道教の入山方法である。多少長くなるが、東晋の道家・葛洪

(284-

363)の著とされる『抱朴子』内篇一七「登渉」を引用したい。「山、大小と無く、皆、神霊有り。山、大なれば、

則ち神も大、山、小なれば、即ち神も小なり。山に入りて術無くんば、必ず患害あり。〈中略〉軽じて山に入るべ

からず。当に三月・九月を以てすべし。此は山開の月なり。また当に其の月の中、吉日・佳時を択ぶべし。もし事

久しうして、徐徐に此の月を待つこと得ざれば、ただ日時のみ選ぶべし。凡そ人、山に入るには、皆、当に先ず齋

潔すること七日にして、汚穢を経して、昇山符を帯びて門を出で、周身三五法を作すべし」とある11

。山は大小に関

わらず、神霊が存する。入山の方法に則さなければ、その怒りに触れて患害を蒙るとし、最も基本的な方法として、

三月・九月の択日、七日間の潔斎、そして護符と修法が紹介されている。

 

勝道が登頂に失敗した一回目、二回目は四月であり、成功した三回目は三月のことであった。また一・二回目は

入峰にあたっての作法は何も記されていないが、三回目は入峰する前に七日間読経礼仏し、さらには後に述べるよ

うに神明に対して堅く誓願を立てている。これらは単なる偶然であろうか。あるいは何かしらの入峰の作法に則し

たものであったか。あるいは空海の脚色であろうか。いずれも可能性としてはあるだろう。ただ、おそらく古くは

道教に見られるような「山の神霊に対する畏怖」と「入峰にあたっての作法」という要件は、いつしか入峰修行を

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日光開山・沙門勝道の人物像

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志す中国の仏教徒にも取り入れられ、その意識と方法は、日本の山林修行者にも受け継がれていったのではなかろ

うか。山林に踏み入って修行する者にとって、その山におわす神霊の存在は、無視できなかった筈である。現在に

おいても、仏教者や修験者による入峰修行の前には、身を浄めることを常としている。まして当時の日光山は、魑

魅さえ憚るとされる危険な深山と見なされ、実際に勝道は幾度も登頂に失敗していた。その前途に立ちはだかる深

雪や雷鳴などの障難を、勝道が日光山の神霊の仕業と考えたとしてもおかしくはない。

 

三度目の試行で、勝道は山麓にて一七日間の読経礼仏ののち、次のように誓願を立てるが、そこには日光山の神

霊に対する切なる想いを読み取ることができる11

堅發誓曰、若使神明有知、願察我心。我所圖寫經及像等、當至山頂爲神供養、以崇神威、饒群生福。仰願善神加威、

毒龍巻霧、山魅前導、助果我願。我若不到山頂、亦不至菩提。

 

勝道は、この入峰が決して無意味なものではなく、まずは神祇のための行為であることを強調する。勝道が書写

した経典、図画した仏像、そして勝道自身、言うなれば仏法僧の三宝を山頂に捧げることで、神祇を供養したいと

いうのである。つまり、三宝の功徳によって、神祇の威力を一層高め、ひいては人々への幸福を将して欲しいとの

願いであった。それが成就するためにも、善神・毒龍・山魅など、日光山の諸々の神霊の加護が必要であり、その

登頂が成功しなければ、自身の菩提もあり得ないとの決意を表明しているのだ。これにより、勝道の日光山入峰に

とって、神祇への供養は欠かすことのできない要件であったことが知られる。それは同時に、衆生の幸福を願うも

のであり、かつ勝道自身の菩提にとっても不可欠な宗教的行為であったと見るべきだろう。

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  (6)山頂における三七日の礼懺

 

さて、その誓願の甲斐あってか、言わば勝道は神祇の加護を得て、遂に登頂に成功する。『勝道碑文』はその状

況を次のように記す11

如是發願訖、跨白雪之皚皚、攀緑葉之璀璨。脚踏一半、身疲力竭。憩息信宿、終見其頂。怳惚怳惚、似夢似寤。

不因乘査、忽入雲漢、不甞妙藥、得見神窟。一喜一悲、心魂難持。山之爲状也。東西龍卧、弥望無極、南北虎踞、

棲息有興。指妙高以爲儔、引輪是而作帯。笑衡岱猶卑、哂崐香之又劣。日出先明、月来晩入。不假天眼、萬里目前。

何更乗鵠、白雲足下。千般錦花、無機常織。百種霊物、誰人陶冶。北望則有湖。約計一百頃。東西狹、南北長。

西顧亦有一小湖。合有二十餘頃。眄坤更有一大湖。羃計一千餘町。東西不闊、南北長遠。四面高岑、倒影水中。

百種異荘、木石自有。銀雪敷地、金花發枝。池鏡無私、万色誰逃。山水相映、乍看絶腸。瞻佇未飽、風雪趂人。

我結蝸菴于其坤角、住之礼懺勤經三七日。已遂斯願、便歸故居。

 

白雪が積もり、樹木が茂る急峻を攀じ登り、「信宿」つまり二泊の行程にて、遂にその頂に到達した。まさに「怳

惚として」「心魂持ち難く」、あたかも天にも昇ったような、あるいは仙境に入ったような心境であったという。

 

また山頂から見る日光山の情景は、「妙高」(須弥山)が高く聳え立ち、外縁に「輪鉄」(鉄囲山)が連なるが如きの、

素晴らしい興趣であり、唐の名山である「衡岱」(南岳衡山・東岳泰山)や西域の「崑香」(崑崙山・香酔山)です

ら、到底及ばないと賞賛されている。そして山頂の北・西・西南側には、大小の湖があり、鏡の如く湖面には四方

の高峰の影が映り、さらに湖面に反射した日光に照らされて山の雪や枝が一層輝きを増している。勝道は、山と湖

が織りなす「山水相映」の情景に、「山径危険にして、巌谷敧傾す。山頂に池有りて、その水の澄めること鏡の如

し」11

とされる「補陀落」を想起したのではなかろうか。

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日光開山・沙門勝道の人物像

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勝道は暫くはその絶景に佇んでいたが、直ぐさま山頂の南西の隅に草庵を結び、本来の願を遂げてから下山する

こととなる。その願とはつまり神祇供養のことであり、それは三七日(二十一日)の礼懺に依るものであった。

 

以下、この「三七日の礼懺」の内容について推測してみたい。そもそも礼懺とは、三宝を礼拝し、所造の罪を懺

悔することである。それに呪術的な意味も加わり、特に中国の南北朝後期以降、隋唐宋代に亘って、種々の利益を

願う儀礼としての懺法・悔過法が作製された。それらは日本へも伝えられ、奈良期には吉祥悔過・薬師悔過・十一

面悔過・千手悔過・阿弥陀悔過などが盛んに行われ、また平安期以後は法華三昧を中心に様々な懺法が行われるよ

うになったとされる11

 

日本の古代において、悔過会は大寺院のみでなく、山林でも行われていた。天平十七年(745)には聖武天皇の不

豫に際し、京師畿内の諸寺及び諸名山の浄処にて薬師悔過が行われた11

。また天平宝字八年(764)には、反逆の徒が

山林寺院に僧を集めて読経・悔過することが禁じられ11

、さらに延暦四年(785)には、桓武天皇と皇后の寄進により、

大和高市郡の子嶋山寺に仏殿が建立され十一面悔過が行われている11

。おそらく勝道の頃には、国家の主導、あるい

は私的な企てにより、種々の利益を願って山林にて様々な悔過会が修されていたと考えられる。山林における呪術

や修行というと、密教的要素を連想しがちであるが、悔過会・懺法についても考慮する必要があるだろう。

 

勝道が日光山山頂にて行った礼懺として、まず可能性が高いのは、当時頻繁に行われていた悔過会である。日光

山が観音浄土・補陀落と見なされたことからすれば、十一面悔過・千手悔過など、変化観音系統の悔過会が挙げら

れる。佐藤道子氏に依れば、悔過法要はその本尊に関わらず、基本構成は唐の西崇福寺沙門智昇(-

730-

)撰『集諸

経礼懺儀』11

を範とし、導入部の供養文等、展開部の呪願、主部の称名悔過・諸願、後置部の大懺悔・発願等、そし

て終結部の行道・廻向等からなるという。本尊の相違は、本尊を讃嘆しながら礼拝行によって罪障懺悔の心意を表

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す「称名悔過」に見られ、十一面悔過は唐の三蔵法師玄奘(602-

664)訳『十一面神呪心経』11

、千手悔過は唐の西天

竺沙門伽梵達摩(生没年未詳)訳『千手千眼観自在菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼呪経』11

に依るとされる11

 

また日光山山頂遺跡からは、奈良末から平安前期の作製とされる鉄製三鈷鐃一口、銅製三鈷鐃五口が出土してい

る11

。「鐃」は奈良期の法会に使用したとされる楽器である。平安期以降、密教では通常「鈴」を用いる。「鈴」は鈴

身が開いて内に舌が下がるのに対し、「鐃」は鈴身が閉じられ内に丸が入っている。東大寺二月堂の修二会(お水取り・

十一面悔過)では、現在でも三鈷鐃が使用されていることから、奈良期の悔過会でも三鈷鐃が使用されていた可能

性は高い。日光山山頂遺跡出土の三鈷鐃は、勝道が山頂にて修した三七日の礼懺が、悔過会であったことを示唆する。

 

ただ悔過会は、通常「一七日」を期限として修される場合が多い11

。もっとも現在の東大寺修二会(十一面悔過)

は「二七日」であるから、勝道が山頂にて「三七日」の間、悔過会を修したとしても不合理ではない。しかし日数

が「三七日」と明示され、さらに第一回目の登頂失敗の際も、中腹にて「三七日」住して帰ったとされることから、

「三七日」という日数には、何か意味がありそうである。

 

この日数に着目して、懺悔の法を考えてみると、隋の智者大師智顗(538-

597)による「法華三昧懺儀」や「請観

世音懺法」などが想起される。まず「法華三昧懺儀」11

は『法華経』と『観普賢経』に基づく懺法で、『摩訶止観』

に説く四種三昧のうち、第三の半行半坐三昧に配当される11

。最澄はこの行法を天台学生の止観業の科目に加え、さ

らに円仁が弘めたことで、以後天台宗にて盛行し、現在でも最も一般的な常用法儀とされる11

。この懺法は「三七日」

を期限として、仏像の周囲を歩く行道と坐禅とを兼ねて修し、その間に礼仏・懺悔・誦経などを行ずる。また前方

便として、初行者が正修に先だって行うべき一七日の行法も説かれている。先に見たように、勝道が入峰の前に、

山麓にて一七日の読経・礼仏を行い、誓願を発したのは、山頂での礼懺の前方便との位置づけであろうか。ただ、「法

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日光開山・沙門勝道の人物像

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華三昧懺儀」は本尊を普賢菩薩としており、補陀洛山の観音菩薩とは一致していない。

 

とすれば、同じく智顗による「請観世音懺法」11

が妥当であろうか。これは東晋の天竺居士竺難提(419-

?)訳『請

観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』11

に基づき、智顗が作製したもので、智顗の弟子の潅頂(561-

632)が編纂した『国

清百録』に収録される。『摩訶止観』に説く四種三昧では、第四の非行非坐三昧に相当する11

。この懺法は、観音菩

薩を本尊とし、行者十人にて、礼仏・坐禅・誦呪・懺悔・行道・読経などを行い、「三七日」あるいは「七七日」

を期限として修される。その次第を略述すれば、まず道場を荘厳し、仏像を南向き、観音像を東向きに置く。行者

は西に向かって坐し、五体投地し、釈迦仏・無量寿仏はじめ仏菩薩等を頂礼、焼香・散花して諸尊を供養する。さ

らに坐禅・念仏した後、釈迦仏を奉請し、楊枝・浄水にて供養する。そして三宝及び観音の名を称し、『請観音経』

に説かれる消伏毒害呪・破悪業障陀羅尼呪・六字章句呪を誦す。悉く悪業を懺悔した後に行道し、一人が高座に登

って『請観音経』を読誦するのである。『勝道碑文』の銘文にも、勝道は「観音に帰依し釈迦を礼拝す」とあるか

ら111

、勝道が山頂にて修行した「三七日の礼懺」を想定するとすれば、もう一つの可能性として「請観世音懺法」が

挙げられる。

 

しかし、「請観世音懺法」は最澄の請来目録『台州録』に「請観音三昧行法一巻、入止観并天台国清百録部」と

ある111

のを初見とし、それ以前に修されたとの記録は見られない。ただ「法華三昧懺儀」については、『唐大和上東

征伝』に鑑真の将来として「行法華懺法一巻」が挙げられ111

、さらに弟子の渡来僧法進(709-

778)はこれを書写して

いる111

。とすれば、すでに鑑真門下にて「法華三昧懺儀」が修されていたとしても不合理ではない。先にも確認した

ように、勝道は下野薬師寺の僧であったと考えられ、また『修行日記』にて勝道の師匠とされる慧雲は、法進の弟

子であった。勝道が東国に弘まった鑑真の門流、つまり「天台」に触れていた可能性を考慮すれば、山頂での礼懺

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

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が、天台にて修される何かしらの懺法に依っていた可能性もあるのではなかろうか。最澄以前の東国における天台

の弘通状況という視点にとっても、興味深い問題である。

 

一方、『修行日記』が伝えるには、天平勝宝六年(754)二十歳の勝道は、家を出て「千手観音を億念す」という111

当時の優婆塞や僧が陀羅尼を持誦していたことは明らかで、特に「千手陀羅尼」は広く流布していた。さらにその

典拠である唐の西天竺沙門伽梵達摩(生没年未詳)訳『千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼経』111

は、奈

良期に最も写経された雑密経典とされる。特に天平七年(735)に帰朝した玄昉(?-

746)は、天平十七年(745)の

盂蘭盆会の日に、天武天皇・元正太上天皇・光明皇后の聖寿無窮、三悪道に堕ちた衆生の救済を祈り、本経一千巻

の写経を発願している111

。伝承通り、勝道が千手観音を億念したとすれば、山頂での礼懺についても、千手観音系の

雑密経典に説かれる儀礼を詮索する必要があるだろう。

 

まず『千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼経』は、釈迦牟尼仏が「補陀落伽山」の観世音の道場にいた時、

観世音菩薩が仏の許しを得て、「広大円満無礙大悲心陀羅尼(千手陀羅尼)」を説くとの内容である。その功徳とし

て、病気や悪業重罪の滅除など様々な利益が説かれ、さらにそのための作法・壇法が示されている。その一節に、「若

し諸の衆生、現世に願を求めん者は、三七日に於て浄く斎戒を持ちて、この陀羅尼を誦すれば、必ず所願を果たさん。

生死の際より生死の際に至るまでの一切の悪業、並びに皆な滅尽せん」111

とあるのが注目される。三七日間の斎戒と、

陀羅尼の誦呪により、一切の悪業が滅せられ、諸願が果たされるという。これは陀羅尼による滅罪であり、広い意

味で懺悔の法に含まれるものだろう。

 

また、別系統の千手観音経として、唐の総持寺沙門智通(-653-)訳『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』111

、及び

その異訳である唐の天竺三蔵菩提流志(572-

727)訳『千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経』111

に触れたい。本経もすで

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日光開山・沙門勝道の人物像

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に奈良期には書写されており、初写年代が確認できるところでは、智通訳が天平九年(737)、菩提流志訳は天平七

年(735)である111

。本経は、観世音菩薩が仏に姥陀羅尼を説くことを許され、陀羅尼とその功徳が明かされる。さら

に二十五種の印呪とその功徳が説かれ、加えて第十二印の後には「曼拏羅壇法(智通訳)」「画壇法(菩提流志訳)」

が説かれる111

。ここでは、千手千眼観音を本尊とする曼拏羅の画壇作法が示され、「当に日別三時に像の前に罪過を

懺悔して三七日夜を満ずべし。その千手千眼の像の上に乃し大光明を放つ。〈中略〉その呪法の師と画匠の人等と

及び諸の衆生、この光に遇う者は、極大なる重罪にても一時に消滅して咸く清浄なることを得ん(菩提流志訳)」

とする111

。曼拏羅を画き、種々の供物を捧げて千手観音を供養し、三七日の間、懺悔することで、修行者・画師・衆生、

すべての罪業が消滅するという。またこれを修す場所も、「第一は山の閑静の処に居す。山の頂上に在りて、形勢

ある処(智通訳)」「寺内、或いは山間に向い、或いは湫泉、林辺(菩提流志訳)」とされる111

。勝道も日光山登頂の

直前に仏像を画いているが、あるいはこの壇法に基づくものであろうか。もっとも、この壇法は二十五印との関わ

りが乏しく、唐突に説かれることから、後代の挿入と見られている111

。ただし、これは菩提流志訳・智通訳ともに収

録され、内容・表現共に若干の相違が見られることから、挿入としても日本伝来以前と考えられ、すでに奈良期の

仏教者がこの壇法を知り得た可能性は十分にある。

 

先にも挙げたが、延暦四年(785)には、僧・尼・優婆塞・優婆夷が勅語に依らずして、山林寺院にて陀羅尼を読み、

壇法を行ずることが禁じられている111

。ここに「陀羅尼」「壇法」とあることに注目すれば、勝道の三七日の礼懺として、

先に挙げた千手観音陀羅尼の誦呪、あるいは千手観音画壇法など、千手観音系統の雑密経典に説かれる儀礼であっ

た可能性も、あながち否定できない。

 

以上、勝道が山頂にて修した三七日の礼懺を想定してみた。もっとも、仏教の儀礼に「礼仏」「懺悔」の要素が

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入ることはむしろ当然であり、また儀礼の期限も経軌の記載と、その実修の場面では、一致しない場合もあるだろ

う。従って「三七日の礼懺」を特定することは困難ではあるが、当時の仏教の弘通状況・勝道の事績・山頂遺跡の

遺物等より、敢えて推測すれば、奈良期に頻繁に行われていた「十一面悔過」「千手悔過」等の悔過会、天台にて

修される「法華三昧懺儀」「請観音懺法」などの懺法、そして千手観音系統の雑密経典に基づく陀羅尼法や壇法な

どが候補として挙げられる。これらを視野に、当時の他の山林修行者の事例も考慮し、詳細については今後の課題

としたい。

  (7)礼懺による神祇供養

 

勝道は神祇を供養するために、経像を背負って山頂へ登った。そして山頂にて、三七日の間、何かしらの礼懺を

行じた訳である。とすれば、その礼仏・懺悔の儀礼とは、まさに神祇のために修されたとも言えるだろう。ここで

想起されるのが、奈良期に各地に建立された神宮寺の問題、特には「神身離脱の神」のことである。

 

かつて辻善之助氏は、奈良前期より、神祇は仏法を悦び擁護し、また仏法により苦悩を脱すという思想の現れと

して、神宮寺建立・神前読経・為神得度などが行われ、平安後期の延喜年間(901-

923)前後に本地垂迹説が芽生え、

鎌倉期に到りその教理的組織が大成されたとした111

。辻氏は必ずしも、「仏法を悦ぶ神祇」から「仏法により苦悩を

脱せんとする神祇」へという神格の展開を主張したのではないが、のちに田村圓澄氏はこの両者を系列・性格を異

にする別々の神格と捉えた。前者にあたる中央の神は、古代国家と密接な関係にあり、必ずしも神であることの苦

悩を表明せず、仏法を悦び守護する神であるのに対し、後者にあたる地方の神は、苦悩する衆生のひとつと見なさ

れ、当時の農村に頻発した疫病や災異を免れるため、神身を離脱して三宝に帰依し霊力の回復を願う神であったと

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日光開山・沙門勝道の人物像

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した111

。いわゆる「護法善神」と「神身離脱の神」を分け、国家と地方の違いとして理解したのであった。

 

さらに「神身離脱の神」の背景について先行研究を纏めると、①苦悩する地方社会(苦悩する神祇)を仏教的呪

術により救済しようとする仏教者と富豪層の意図111

、②旧来の神祇信仰を新来の仏教に取り込もうとする仏教者の意

図111

という二点に要約できる。総じて地方の神仏習合に関わった仏教者は、苦悩する社会(神祇)を救う利他行者と

して、もしくは仏教を広める布教者として捉えられ、その利他的な意図が神宮寺出現の原動力とされている。

 

ただ、『勝道碑文』に記される勝道の事例からすると、その神祇観は上記の解釈には收まらない感がある。先に

も挙げたように、勝道は入峰に際して111

堅發誓曰、若使神明有知、願察我心。我所圖寫經及像等、當至山頂爲神供養、以崇神威、饒群生福。仰願善神加威、

毒龍巻霧、山魅前導、助果我願。我若不到山頂、亦不至菩提。

との誓願を立てた。その要点は、①三宝を山頂に捧げ、神祇を供養し、神威を高め、衆生の幸福を願う、②善神・

毒龍・山魅に、登頂する勝道の援助を願う、③勝道自身の菩提を願う、との三点に纏められるだろう。

 

このうち①について、日光山の神祇は直接的には「神身離脱」を表明してはいないものの、三宝によって供養さ

れることで、神威が高まり、衆生への幸福が期待されている。田村氏の分類からすれば、「農村に頻発した疫病や

災異を免れるため、神身を離脱して三宝に帰依し霊力の回復を願う神」と構造的には一致している。山頂での三七

日の礼懺には、衆生としての日光山の神祇の罪を懺悔するという意味合いもあったものと推測される。ここに、苦

悩する地方社会(苦悩する神祇)を仏教的呪術により救済しようとする仏教者と富豪層の意図を想定することも不

可能ではない。ただ、②の修行者を援助する善神・毒龍・山魅といった概念、あるいは③の修行者の菩提・自利行

といった要点は、いままで初期の神仏習合を論ずる際、見過ごされてきた感がある。

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まず②では、善神は威力を増して修行者を加護し、毒龍は霧を払い、山魅は先導して、勝道の登頂が果たされる

よう援助を願っている。ここで善神に加えて、毒龍や山魅に対しても、修行者の支援を願っていることに注目すべ

きである。これら必ずしも善神ではない存在について、如何に理解したら良いだろうか。これには『勝道碑文』の

冒頭の比喩が参考となろう111

蘇巓鷲嶽、異人所都。達水龍坎、霊物斯在。所以異人卜宅、所以霊物化産。豈徒然乎。請試論之。

 「蘇巓」(須弥山)や「鷲嶽」(霊鷲山)には、「異人」が都し、「達水」(阿那婆達多池)や「龍坎」(文龍池111

)には、「霊物」

が在る。ここではインドの霊山や霊水を挙げて、そこに「異人」が住み、「霊物」が宿っていることを示している。

通常、仏教的な解釈であれば、「異人」とは仏菩薩を、「霊物」とは護法の龍王などを指す。ただ、この一文は山水

相映する勝地である日光山を比喩的に説明していると考えられ、通常の意味に加えて、「異人」とは日光山の神明を、

「霊物」とは毒龍や山魅など日光山に住む怪物や精霊を暗喩しているのではなかろうか。日光山には、山の神明や諸々

の霊物が住んでいる。勝道は登頂に際し、それらが危害を加えることなく、逆に護り導いて欲しいと願っているの

だろう。

 

毒龍や山魅が、なぜ修行者を支援し得るかと言えば、おそらく誓願の①に挙げた、神祇供養と関わりがあるだろ

う。勝道は、仏法による神祇の供養を表明しているが、その神祇には、日光山の神明はもとより、毒龍や山魅など

の霊物も含まれるのではないだろうか。つまり神霊は苦悩する衆生のひとつと見なされ、修行者が懺悔の法によっ

てその罪を滅し、神道からの出離と神威の増長を願うことで、神霊はこれを悦び、修行者を加護する存在となり得

ると考えられたのだろう。勝道が供養する神と、勝道を護り導く神とは、同じの神を言うのであって、神は修行者

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日光開山・沙門勝道の人物像

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の供養を受けるともに、修行者を加護するものと理解される111

 

そうであれば、田村氏のように「護法善神」と「神身離脱の神」を相容れない神格とする見解には疑問が生ずる。

これらは必ずしも国家と地方という視点で二分される神格ではなく、神の両側面と考えた方が妥当ではないだろう

か。神(毒龍や山魅も含まれるだろう)は神道(六道のうちの天道)に陥った衆生であるから、これを仏法によっ

て救うという考え方と、たとえ神道にあったとしても、人道よりは勝れた威力を有しているから、仏法によってそ

の威力を増して加護を願うという考え方は、両立し得る神観念であろう。現在でも、例えば真言密教の修法のうち、

神祇に法味を分与する「神分」などでは、神祇の「離業得道」と「威光倍増」を祈ることを要点としており、この

二面の神観念は、現在まで継承されているものと言えよう。

 

また③では、「我れ若し山頂に到らずば、亦た菩提には至るまじ」として、登頂は勝道の菩提にとって、必要不

可欠な修行であったことが知られる。この一文により、勝道の登頂は、究極的には自身の菩提をめざした行為であ

ったと理解できる。少なくとも、空海は勝道の日光山登頂をそう理解していた。空海は『勝道碑文』の碑文にて、

勝道の日光山入峰を評して111

殉道斗藪、直入嵯峨。龍跳絶巘、鳳舉經過。神明威護、歴覧山河。

と述べている。「斗薮して直ちに嵯峨に入る」とは、日光山に踏み入って、その山頂に到ることを言う。空海は同

じく『性霊集』所収の「山に入る興」にて、「斗薮して早く法身の里に入れ」と諭しており111

、山林に踏み入ることは、

菩提に通ずるものと考えていたようだ。しかもその入峰は、「神明の威護」によるとの認識である。

 

奈良期の神宮寺出現の原動力として、仏教者の利他的な意図のみが指摘されているが、そこには当然、山林に踏

み入った修行者の自利的な意図も看過すべきではないだろう111

。修行者が山林に踏み入った大きな理由の一つは、仏

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道修行のためであった。例えば智顗の『天台小止観』に、禅定を修すのに適する場所として「一には深山にして、

人を絶するの処なり」とあるように111

、深山は「閑居浄処」の第一とされ、仏教者は修行の場所を深山に求めた。あ

るいは勝道の場合、『華厳経』「入法界品」に説かれる善財童子の遊行遍歴に模し、補陀落山上の観音菩薩に見ま

えん

との念願もあったのかもしれない。ではなぜ敢えて危険を冒してまで、深山で修行したり、山上の菩薩へ謁見しよ

うとするのかと言えば、究極的には仏道修行のめざすところ、すなわち菩提を求めていたからであろう。

 

菩提を求めて山に踏み入る修行者は、古くは道教にも見られるように、山の神霊に対する畏怖の念を抱いていた

筈である。山の神霊が修行者に危害を加えることなく、逆に支援する存在となるためにも、神祇供養は不可欠であ

った。勝道は日光山登頂に際し、まずは山麓にて一七日の読経礼仏を行い、山頂に到って三七日の礼懺を修し、日

光山の神祇を供養している。その意図は、神道に陥っている神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願

い、広くは衆生の幸福を、特には山林に踏み入る修行者への加護を期待していたものと考えられる。

 

Ⅲ南湖畔に神宮寺を建て住した修行期

  (1)修行の勝地としての山中浄土

 

勝道は、初の登頂から二年後の延暦三年(784)、再び日光山へと登った。前回は、山頂にて三七日間のみ礼懺し

てすぐに下山したのに対し、四度目の入峰は長期に及んでいる。『勝道碑文』には111

去延暦三年三月下旬、更上經五箇日、至彼南湖邊。四月上旬造得一小船。長二丈廣三尺。即与二三子、棹湖遊覧。

遍眺四壁、神麗夥多。東看西看、汎濫自逸。日暮興餘、強託南洲。其洲則去陸三十丈餘、方圓三十丈餘。諸洲之中、

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日光開山・沙門勝道の人物像

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美花富焉。復更游西湖。去東湖十五許里。又覧北湖去南湖三十許里。並雖盡美、揔不如南。〈中略〉託此勝地、

聊建伽藍、名曰神宮寺。住此修道、荏苒四祀。

とある。勝道は三月下旬に入峰し、五日間かけて南湖の畔に到った。四月上旬には一艘の小船を造り、二・三人の

弟子と共に湖上を遊覧している。さらに西湖、東湖、北湖を見て回った後、最も勝れた南湖(現・中禅寺湖)畔の

勝地に神宮寺を建立し、ここに四年間止住して修行したという。

 

前回の登頂が、まずは入峰を願って山の神祇を供養するとともに、山の情景や状況を概観するのが主たる目的と

見られるのに対し、今回の登頂は、より本格的に修行するのに適切な場所を調査して選定し、長期にわたり修行す

ることを目的としていたと言えよう。

 

ここでまず問題としたいのは、修行するのに適切な勝地の条件である。その情景について『勝道碑文』は111

其南湖則碧水澄鏡、深不可測。千年松栢、臨水而傾緑蓋。百圍檜杉、竦巖而搆紺樓。五彩之花、一株而雑色。

六時之鳥、同響而異觜。白鶴舞汀、紺鳬戯水、振翼如鈴、吐音玉響。松風懸琴、坻浪調鼓、五音争奏天韻、

八徳澹澹自貯。霧帳雲幕、時時難陀之羃歴。星燈電炬、數數普香之把束。見池中圓月、知普賢之鏡智。仰空

裏慧日、覺遍智之在我。託此勝地、聊建伽藍、名曰神宮寺。住此修道、荏苒四祀。

と伝える。この箇所は四六駢儷体による修辞や対句が多い。これらは、南湖畔の勝景を強調するための技巧である

との解釈が一般的である111

。確かに誇張された表現は多いであろうが、単に「自然の風光明媚さ」を強調しているだ

けではなさそうである。

 

つまり、ある自然物に〈何か〉を観じていくような、あるいは自然物から〈何か〉が立ち現れてくるような、そ

うした表現がなされている。例えば、「千年の松柏」→「緑蓋」、「百囲の檜杉」→「紺楼」、「白鶴・紺鳬」→「鈴の音・

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

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玉の響」、「松風・砥浪」→「琴・鼓」→「五音・八徳」などは、自然物を介して、そこに「浄土の諸相」を表して

いるものと考えられる。例えば姚秦の亀茲三蔵鳩摩羅什(350-

409頃)訳『阿弥陀経』に説く浄土の諸相を要約する

と次の如くである。「七宝から成る行樹や羅網がめぐり、八功徳水をたたえた宝池が広がる。そこには七宝に荘厳

された楼閣が建ち、昼夜の六時に曼陀羅華が降りそそぐ。そして種々の奇しい鳥が雅な声でさえずり、行樹や羅網

の七宝の玉は風に揺れて妙なる音を奏でる111

。」勝道は、南湖畔に「浄土」を観じていたのではあるまいか。おそら

く空海はそのように理解した筈である。

 

特に日光山は、入峰するのに極めて困難で、山と湖が織りなす情景に勝れた「山水相映」の地であった。勝道な

ど日光山に登った仏教者は、その状況をつぶさに観察し、まさにこの山が「山径危険にして、巌谷敧傾す。山頂に

池有りて、その水の澄めること鏡の如し」111

「華果樹林、皆な遍満し、泉流池沼、悉く具足せり」111

などとされる「観

音浄土・補陀落」そのものと感得したのであろう。

 

また「霧・雲」→「張・幕」→「難陀」(難陀龍王)、「星・電」→「灯・炬」→「普香」(虚空蔵菩薩の応化・明星天子)

などは、自然物を介して人知を越えた「諸尊」が立ち現れるかの如くである。なお「難陀龍王」は室生山などに見

られる龍穴信仰を、また「明星天子」は空海も修した虚空蔵菩薩求聞持法を想起させる111

。あるいは勝道にも、こう

した南都の山林修行者と同様、「龍穴」や「求聞持法」の信仰があったのかもしれない。また後世の『修行日記』や『草

創日記』になると、それぞれ「龍穴・四本龍寺・深沙大王111

」「求聞持法・明星天子」など、「水」と「星」をめぐる

具体的な物語へと展開し、勝道は弟子たちに「汝等、最もこの両神(深沙大王・明星天子)に帰依すべし」とさえ

言わしめている111

。その萌芽はすでに、空海の『勝道碑文』に示され、あるいは勝道までさかのぼる可能性さえあり、

中世における開山伝承や人格神の顕現説話を、後世の荒唐無稽な付会とだけ解する訳にはいかないのである。

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日光開山・沙門勝道の人物像

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さらに「池中の円月」→「普賢の鏡智」、「空裏の慧日」→「遍智の在我」などは、自然物の中に「仏道の教説」

を表しているようである。先に挙げた『阿弥陀経』では、浄土の鳥はその雅な鳴き声によって、五根・五力・七菩

提分・八聖道分などの法を演暢し、七宝は風に揺れて、その妙なる音を聞く者は自然に念仏・念法・念僧の心を生

ずるとされる。それと同様の構図をここに見ることができよう。

 

もっとも、最後の教説などは、普賢菩薩の浄菩提心や大日如来の一切智智といった空海が主張する密教教理に引

き寄せており、そのまま勝道の心象とすることは難しいだろう。ただ、これらの表現は、勝道が勝地とした南湖の

畔が、単に風光明媚な景境であるというだけではなく、そうした情景から宗教的な観念を想起させるに相応しい場

所、言うなれば「山中の浄土」であったことを強調しているものと思われる111

 

さらに付け加えるならば、その勝地は単に仏教的な表現のみによって記述されているのではない。例えば、「妙

薬を甞めずして神窟を見ることを得たり」「霊仙知らず何にか去る。神人髣髴として存するが如し」などは111

、山頂

や勝地の様子を、道教でいう神仙境に見立ているし、あるいは、「仁は山に依り、智は水に託く」「菜を喫い水を喫

って楽しみ中に存り」などは111

、『論語』に説く聖人のあり方を引用して説明している。これらは中国に由来する「神

仙思想」や「山水思想」からの影響を多分に受けたものであろう。当時の仏教者は、積極的に山中に修行の場を求

めていったが、それに適する場所とは、単に風光明媚な景境というだけでなく、仏教的な浄土を想起させる場所、

さらには中国思想に説かれる理想郷をも含んだ、広い意味での勝地であったと見るべきだろう。

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  (

2)神宮寺の機能

 

さて、勝道はこうした勝地に伽藍を建てて修行に励んだ。前回は短期間の登頂であったのに対し、二年後の今回

の入峰は長期間に及んだ。山容を調査し、勝地に伽藍を建立し、数年間そこに止住して修行している。おそらくは

支援者を得て、道俗を含めた人員、あるいは資財等、それなりの準備をした上での事業であったのだろう。その伽

藍が「神宮寺」と名付けられたことは、奈良期に多く建立された各地の神宮寺との関連で、興味深い問題である。

 「神宮寺」というと、神祇(地方社会)の苦悩を仏法によって救うための寺院、神祇に仕えるための寺院など、

言わば利他的な意味合いで理解される場合が多い。ただ勝道の場合、それ加えて、深山の勝地にて修行するための

寺院という自利的な意味合いも顕著である。先述したように、勝道は日光山に登頂し、仏法によって山の神祇を供

養することで、神道に陥った神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願っていた。それにより、衆生の

幸福と入峰する修行者への加護を期待していたのである。こうした勝道の誓願から見ても、勝道は山中に「神宮寺」

を建て、山の神祇を供養しつつ、神祇の加護のもとに修行に励んだと考えられるのではなかろうか。

 

これを踏まえると、勝道が建てた「神宮寺」には、少なくとも二面の機能が想定される。一つには神祇を供養し、

神祇の得道と衆生の幸福を祈願するという利他的な側面、一つには神祇の加護のもと、自身の菩提を求めて修行す

るという自利的な側面である。大乗仏教にあっては、自利利他円満を旨としており、神宮寺の機能として、両側面

はどちらも不可欠であり、互いに結びついているだろう。そこで行われた修行の内容については、具体的には未詳

であるが、『勝道碑文』に「蘊羅・蔭葉」にて寒暑を避け、「菜・水」を食し、「花蔵・実相」を観念するとあるこ

とから、おそらくは草堂・弊衣・粗食にて、修禅・修学に励んだものと思われる。その意図は、神祇の得道のため、

衆生の幸福のため、ひいては自身の菩提のための、自利利他円満をめざす仏道修行であったと言えるだろう。 

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日光開山・沙門勝道の人物像

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右記の推測は、ひとり勝道だけでなく、同時代の各地の神祇供養の事例にも当てはまるだろう。ここでは、伊勢

大神のために大般若経の書写を行った沙弥道行(生没年未詳)と、『日本霊異記』に登場する大安寺沙門恵勝(生

没年未詳)の事例を挙げたい。まず沙弥道行は、天平勝宝九年(757)、仏教に帰依して世俗を捨て、山岳に入って

閑居していたところ雷電に打たれる。これを天罰と見て、神のために大般若経を写すことを誓うと、雷電が静まり

正気を取り戻したという。知識を勧誘して書写された大般若経の奥書には、「仰ぎ願わくは、神社安隠、雷電無駭、

朝廷無事、人民寧定の為に、敬って大般若経六百巻を写し奉らんと欲す。〈中略〉伏して願わくは、諸大神社、波

若の威光を被り、早く大聖の品に登らん」とある111

 

また沙門恵勝は、宝亀年中(770-

780)、近江国野州郡の御上嶽の神社(現・滋賀県野洲市三上山)の側の堂にて

修行していた時、罪業によって猿の身を受けて御上神社の神となった陀我神より、「この身を脱れんが為に、この

堂に居住して我が為に法華経を読め」との神託を得る。その言葉を山階寺の檀越・満預大法師に告げたが、猿の言

葉として信受しなかった。すると満預大法師の知識が六巻抄を読む斎設に猿が現れ、大堂や仏像・僧坊がことごと

く破壊された。満預と恵勝は神託を信じ、陀我神のために堂を造って六巻抄を読むと、神願は成就され、障難は無

くなったという111

 

彼らはいずれも、神域にて修行をしていた際、雷や猿の障難に遇う。これを神の怒りと受けとめ、写経・造堂・

読経など仏法による神祇への供養を行っているのだ。その意図は、「神身を脱れ」「大聖の品(仏位)に登る」こと、

すなわち神祇の離業得道にあり、ひいては「朝廷無事」「人民寧定」など、朝廷や衆生の幸福が期されていた。こ

れにより、神の怒りは鎮まり、神域での修行が引き続き可能となっている。言うなれば、神域での仏道修行に神の

承認を得た訳である。右記の二例は、写経・造堂・読経であって、神宮寺の建立と言う訳ではないが、仏法による

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神祇への供養により、神祇の得道・衆生の幸福が期され、ひいては仏教者の修行が保障されており、構図としては

共通したものであろう。

 

他にも当時は各地にて、神宮寺建立・神前読経・為神得度など、様々な方法で、仏法による神祇への供養が行わ

れていた。その一々の検討は他日を期したいが、勝道の建てた神宮寺に見られる機能は、その際に少なからず示唆

を与えるものと思われる。

 

Ⅳその後の利他弘道期

  (1)仏教の指導者・布教者・験者としての勝道

 

勝道は、日光山南湖畔の神宮寺にて、少なくとも四年以上(あるいは十一年以上111

)修行した後、山を降りて利他

弘道に励んだとされる。『勝道碑文』には111

九皐鶴聲、易達于天。去延暦年中、柏原皇帝聞之、便任上野國講師。利他有時、虚心逐物。又建立花嚴精舎、

於都賀郡城山。就此往彼、利物弘道。去大同二年、國有陽九。州司令法師祈雨、師則上補陀洛山祈禱。應時

甘雨霶霈、百穀豊登。所有佛業、不能縷説。

とあり、上野国講師に任命されたこと、都賀郡城山に精舎を建立して利他・弘道したこと、旱魃に際して国司の要

請により日光山にて雨を祈ったことが伝えられている。

 「講師」とは、はじめは国師と呼ばれ、経論の講説、寺内の庶務、諸寺の監督などにあたった僧である111

。文武期

(697-

707)以降、国毎に国師が置かれたが、延暦二年(783)には定員が改正され、大・上国は大国師一人と小国師一人、

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日光開山・沙門勝道の人物像

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中・小国は国師一人となり111

、同三年(784)には年限を六年と定めた111

。さらに同十四年(795)には呼称を講師と改め、

講説の才ある者を起用し、毎国一人の終身の任となった111

。同十六年(797)には講師が寺内の庶務も兼ね111

、同二十三

年(804)には、「智行称す可く、人の師為るに堪えたる者」が選ばれ、修行者への教導がより重視された111

。さらに

同二十四年(805)には再び任期を六年とし、四十五歳以上の「心行已に定まった」者を補して、部内の諸寺も国司

と共に検校することとなった111

。光仁期以降、特に桓武期には、仏法や僧尼の呪術性への期待と畏怖を背景として、

僧尼の才徳を高めつつ、寺家の勢力を押さえる施策がとられた。この時期に年分度者や講師の制度が試行錯誤して

整えられてゆくのも、その一環である111

。山林修行に励んだ勝道の名声は朝廷まで達し、上野国講師に補命されたと

いう。それが正しいとすれば111

、勝道は山林修行のみならず、経論の講説にも勝れた「智行」合一の僧であったこと

が推測される。そしてその任命の時期は、延暦十四年(795)以降、止住したのは上野国分寺ということになる。な

お、上野国分寺の北東に聳える赤城山は、勝道が開山したとの伝承が残る。赤城山は上野国の象徴とも言うべき山

で、この山麓を中心に政治や文化が展開し、巨大な古墳や官衙、寺院が造立された。山麓周辺には勝道ゆかりの寺

院等も点在しており111

、勝道には上野国との関係もあった可能性を示唆している。

 

また、都賀郡城山に華厳精舎を建立し、これを拠点に利他・弘道に務めたとされる。その具体的な活動は定かで

はないが、かつて都賀郡であった栃木県西部足尾山地の東麓には、勝道開基とされる寺院が点在している111

。中でも

都賀郡都賀町木の町史跡「華厳寺」は、『勝道碑文』の伝える「華厳精舎」に比定される。確証は得られないが、

勝道は日光山での修行を終えたのち、足尾山地東麓の鹿沼市、西方町、都賀町など、旧都賀郡を中心に、檀越の支

援を得て諸処にて活動したものと予測される。

さらに、大同二年(807)には下野国に旱魃があり、勝道は国司の要請によって日光山にて祈祷し、効験があった

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とされる。これにより、勝道も何らかの方法で雨を祈ったことが推測される。『勝道碑文』には「霧の帳、雲の幕、

時時難陀が羃歴するなり」という一節があるが111

、難陀とは水神である難陀龍王を意味する。同時代に南都僧は大和

国の室生山中にて、雨を祈っており111

、東国にあった勝道もまた同様に、日光山にて雨を祈った可能性は十分にある。

また日光山の山頂遺跡からは、白銅製忿怒型三鈷杵など奈良期の密教法具と見られる仏具が出土しており、何かし

らの密教系の修法が行われたことも推測されうる。なお、ここで勝道は「法師」と表現されていることから、遅く

ともこの時までには「法師位」に昇っていたと考えられる。

 

さて、これら日光山を下った後の、仏教の指導者、布教者、そして験者としての諸活動について、下出氏などは「官

僧社会の密教僧的な行者像として、より濃厚に修飾されて描かれている」として111

、全く取り扱おうとしない。ただ

しそれは、当時の仏教について、中央・律令・官僧・大寺院・学問というあり方と、地方・反律令・私度僧・山林

寺院・呪術というあり方が、二項対立的な流れとして交わることなく、並行して展開していたという既成概念を前

提とするからである。勝道は無条件に後者と見なされ、前者に関わる事績は後世の付会と理解されたのである。

 

しかし、当時の仏教については、実際には先の二項対立的な見方で把握できない事例も多く、すでに疑問視され

て久しい。僧侶の山林修行に関すれば、興福寺賢璟(705-

793)や修円(771-

835)らによる室生山寺建立と修行や修法、

元興寺護命(750-

834)や大安寺勤操(754-

827)による比蘇山での求聞持法修法などは良く知られる111

。あるいは宝亀

三年(772)の十禅師設置111

、桓武天皇による報恩(718頃-795)への援助111

、嵯峨天皇による玄賓(738頃-

818)や聴福(生

没年未詳)への殊遇111

などは、山林修行者の名声が朝廷に達し、賞賛・支援を得た例である。

 

このように、当時の僧侶には、積極的に山林に踏み入り、道場を建てて修行や修法を行う者もいた。特に持戒堅

固にして勝れた山林修行者には、その自利的な「出世間性」と利他的な「呪術性」に敬意と期待が寄せられ、為政

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日光開山・沙門勝道の人物像

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者から殊遇を蒙り、人々より「菩薩」と称されたのである。

 

勝道の場合も、そもそも下野薬師寺にて受戒した僧であった可能性は高く、さらなる修行の場を日光山に求めて、

神宮寺を建てたと考えられる。「九皐の鶴声、天に達し易し」とあるように、その徳行が認められて、朝廷より講

師に任命され、あるいは檀越を得て寺院を建立し、さらには要請を受けて祈祷を行ったとしても、何ら不合理なと

ころはない。長年にわたる山林修行が実を結び、朝廷や有力者による一層の賞賛・支援を背景として、講師・寺院

建立・布教・修法といった利他の活動が展開された可能性は十分に考えられる。勝道を単純に反律令的な私度僧と

見なすことは妥当ではないだろう。日光山山頂遺跡より出土した遺物は、勝道が有力な支持者を得た仏教者であっ

たことを示唆している。

 

また延暦十一年(792)、伝灯大法師位施暁(?-

804)が朝廷に山林修行者への支援を願い出た奏上には111

、山林修

行とは単なる自利行ではなく、護国利人という利他行を見据えたものであるとの見解が示されていた。空海の「斗

薮して道に殉い、兀然として独座せば、水菜能く命を支え、薜蘿これ吾が衣なり。修するところの功徳、以て国徳

に酬う」111

との認識も同様である。勝道自身の心象は定かではないにしても、「利他に時有り」とされるように、日

光山での修行は、結果として利他行に通ずるものであった。世俗を厭い山林に踏み入った勝道は、長年の山林修行

の功徳を得て、再び世俗へと立ち返ったと解釈することもできよう。

 

 (2)勝道の示寂

 

なお最晩年の勝道について、『勝道碑文』は、

咨、日車難駐、人間易變。從心忽至、四蛇虚羸。攝誘是務、能事畢矣。前下野伊博士公、與法師善。秩滿入京。

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于時法師、歎勝境之無記、要属文於余筆。伊公与余故、固辞不免。課虚抽毫。

と伝える。ここに勝道の交友関係の一端が見受けられる。つまり前の下野国の博士であった伊公との交流である。

宝亀十年(779)の改定により111

、諸国の博士は、基本的に国毎に一人置かれ、任期は六年とされた。伊博士について

は未詳であるが、博士として下野国に下向していた時、勝道との親しい交流があったことが知られる。勝道は日光

山の勝景を記した文章が無いことを歎いていた。伊博士を通じ、空海が詩文に勝れていることを知ったのであろう

か。任期満了して帰京する伊博士を介して、空海にその執筆を依頼している。伊博士と空海も、旧知の間柄であっ

たという。空海はそれを固辞するも免れず、『勝道碑文』を作製した。地方の僧侶、諸国に赴任する官人、そして

中央の僧侶との、人的交流の一端を垣間見ることができる。

 

月日は巡り、勝道も遂に「従心」つまり七十歳に至り、「四蛇」つまり四大からなる身体も虚しく衰えた。衆生

を摂取誘引する私利行を務め、なすべき事はすべて果たし終わったとされる。空海がこれを記したのは「弘仁之敦

祥之歳」、つまり弘仁五年(814)であった。「能事畢んぬ」とあるから、おそらくこれより少し前に、勝道はその生

涯を閉じたものと思われる。仮に示寂を弘仁五年(814)七十歳とすれば、その生年は遅くとも天平十七年(745)と

なり、示寂がそれより早く、七十歳を越えていたとすれば、生年は十年ほどさかのぼることもありうる。なお『修

行日記』は、勝道の示寂を弘仁八年(817)八十三歳と伝え111

、これに従えば生年は天平七年(735)となる。

 

勝道の生没年を断定することはできないまでも、およそ天平七(735)から十七年(745)の生れで、弘仁五年(814)頃に、

七・八十歳の長寿を全うしたと見て良いだろう。これより逆算すると、初めて日光山への登頂を試みたのが二・三十

代の頃、登頂に成功したのが三十代後半から四十代後半、山林修行の機が熟して講師に任命されたのが五・六十歳

の頃、日光山で雨を祈ったのは六・七十歳の頃となる。

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日光開山・沙門勝道の人物像

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四 おわりに

 

下野国芳賀郡に生まれた勝道は、若くして世俗を厭離し仏道を志求した。おそらくは同国出流山などの山林に身

を寄せ、優婆塞として修行に励んだものと推察される。やがて新設された下野薬師寺の戒壇にて受戒し、沙弥・比

丘となった可能性は高い。当時の東国には鑑真の門流である道忠の天台教団があり、さらには朝鮮半島からの帰化

人を通じて華厳が将されたとの見解もあり、勝道が「天台」「華厳」などの一仏乗に触れていた可能性も考えられる。

 

下野国に聳える日光山の山頂からは、大量の遺物が出土している。特に奈良から平安初期には「山頂の西側の岩

の窪地」に纏まった遺構が形成される。これは『華厳経』に説く観音菩薩の住処、『勝道碑文』に記す勝道の修行

地と合致する場所であり、勝道の実在性、『勝道碑文』の正確性を裏付ける物証と見ることもできる。また古墳期

に比定される遺物も僅かに出土しており、勝道以前に若干の先駆者がいた可能性も考えられる。ただし勝道の登頂

は困難を極めることから、本格的な開山は奈良期以降の勝道を中心とした仏教者に依るものと見て良いだろう。ま

た山頂遺跡が量質ともに勝れていることから、勝道の日光山登頂の背景として、蝦夷問題による国家の支援を想定

する見解もある。ただし根拠に乏しく、その可能性のみを強調するのは、適当ではないと思われる。

 

ところで、日光山の呼称について、奈良期の仏教者によって初めて「補陀洛山」と称されたとする説と、古来よ

り「二荒山」と呼ばれる信仰の山であったとする説がある。これも両説とも決定的な根拠は乏しく、どちらも可

能性があるとの認識に留めておきたい。いずれにせよ、日光山が「補陀洛」と称されたことは意義深い。「補陀落」

とは、梵語Potalaka

の音写で、観音菩薩が住むとされる山である。『大唐西域記』には、観自在菩薩に見ま

えること

を願う者は、身命を顧みず踏み入るも、ここに到達できる者は極めて少ないと伝える。勝道の日光山登頂の意図と

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して、深山での修行に加え、山上の観音菩薩への謁見との念願があったのかもしれない。

 

しかしその登頂は、困難を極めた。空海は、危険を冒して日光山に攀じ登った勝道を、西域の険しい山々を越え

た求法僧に重ね合わせている。勝道の前途には、深雪や岩壁、雲霧や雷鳴といった自然的障難が立ちはだかった。

おそらく勝道はそれらを、日光山の神祇の仕業と見たのではあるまいか。それは古くは道教にも見られる、山の神

霊に対する畏怖の念に依るものと思われる。菩提を求めて山に踏み入る修行者は、その山に住み宿る神霊のことを

気に掛けていた筈である。

 

そのことは、勝道が三度目の試行に際し、日光山の諸々の神祇に向けて発した誓願にも窺える。それは日光山へ

の入峰が、決して無意味な行為ではなく、神祇を供養するためのものであるとの表明であった。つまり三宝の功徳

によって、神道に陥っている神の罪を懺悔し、神道からの出離と、神威の増長を願い、広くは衆生の幸福を、特に

は山林修行者への加護を期待したものであった。

 

言うなれば神祇の加護を得て、勝道は遂に山頂に到る。山と湖の織りなす絶景にしばし心を奪われるも、山頂に

て「三七日の礼懺」のみを行じて故居に帰った。その礼懺を敢えて推測するならば、奈良期に行われていた悔過会、

天台にて修される懺法、雑密経典に説かれる陀羅尼法・壇法などが、候補として挙げられるだろう。

 

その二年後、勝道は再び日光山へと登った。前回は短期間の登頂であったが、今回の入峰では、山容の調査、伽

藍の建立がなされ、山居しての修行は、少なくとも四年、あるいは十一年以上という長期間に及んだ。おそらくは

支援者を得て、道俗を含めた人員、あるいは資財等、それなりの準備をした上での事業であったのだろう。勝道が

修行のために選んだ勝地とは、単に風光明媚な景境というだけでなく、仏教的な浄土を想起させる場所、さらには

中国思想に説かれる理想郷をも含んだ、広い意味での勝地であったと見るべきだろう。「山水相映」するその勝地を、

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日光開山・沙門勝道の人物像

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勝道はまさに観音浄土・補陀落と感得したのではなかろうか。

 

勝道は、言わば山中浄土に伽藍を建て、これを「神宮寺」と名付けた。その機能として考えられるのは、一つに

は神祇を供養し、神祇の得道と衆生の幸福を祈願するという利他的な側面、一つには神祇の加護のもとに、自身の

菩提を求めて修行するという自利的な側面である。そこで行われた修行の内容は未詳であるが、意図としては、神

祇の得道のため、衆生の幸福のため、ひいては自身の菩提のための、自利利他円満をめざす仏道修行であったもの

と推測される。

 

山林修行の機が熟し、勝道は山を下りた。朝廷や有力者による賞賛・支援を背景として、下野・上野国にて、講

師・寺院建立・布教・修法といった利他の活動が展開された可能性は高い。特に講師に任命されていることから、

勝道は山林修行のみならず、経論の講説にも勝れた智行合一の僧であったことが推測される。仏教の指導者、布教

者、そして験者としての活動は、言うなれば山林修行の功徳を得ての利他行であったと解釈できるだろう。

 

以上、『勝道碑文』をもとに、当時の時代状況と照らし合わせながら、勝道の生涯を概観してきた。その要点は、

次の四点に纏めることができよう。

 

①世間(俗事)を厭離して、山林111

(仏道)を志求する。【出世間】

 

②山林に入るにあたり、山林の神祇を供養する。【神祇供養】

    

→神祇の離業得道・威光倍増、衆生の幸福、修行者への加護を願う。

 

③山林の神祇の加護を得て、勝地に神宮寺を建てて修行に励む。【神宮寺・山林修行】

 

④修行の功徳を得て、再び世俗に立ち返り、利他行に励む。【利他行】

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これを端的に言えば、世俗を離れて山林へ、そして山林より再び世俗へという生涯である。日光山山頂をめざし

た前半生は、主に自利的な修行の時期であり、機が熟して下山し仏教の指導者・布教者・験者として活躍した後半

生は、主に利他行の時期であった。日光山への入峰修行は、まさにその生涯の転機に位置づけられている。

 

またその山林修行にも、自利利他の意味合いが込められていた。それは世俗から離れて山中の浄土に到り、自身

の菩提を求めるという自利の側面と、山林の神祇を供養して衆生の幸福を願い、再び世俗に立ち返るという利他の

側面である。勝道の山林修行は、自利利他円満をめざした宗教的行為であったと理解されうる。その人物像は、ま

さに「上求菩提」「下化衆生」を実践した求道者・菩薩僧と呼ぶに相応しいものと言えよう。

 

ところで、右記のような勝道の生涯・山林修行の目的意識・人物像は、文字通り劇的である。そもそも空海の『勝

道碑文』は、伊博士の伝聞により、日光山と勝道を慶讃する意図で記されたものであった。本論攷にて確認した

ように、その内容は当時の時代状況からして、大筋として承認できるとしても、『勝道碑文』に描写された勝道と、

その実像とには、ある程度の較差があるものと思われる。つまり厳密に言えば、私たちが知り得る勝道とは、空海

を通しての勝道でしかあり得ない。

 

しかし逆に、空海がイメージした〈沙門勝道〉という人物像は、明確にあるとも言えよう。その事績・人物像は

「所有の仏業」「精素の雅致」と称賛されるばかりか、空海と「志を同じくして」「意が通じ」、あたかも旧友の如く

親しみを込めて「傾蓋の遇なり」とさえ言われている。つまり、先に挙げた劇的な〈沙門勝道〉の生涯・目的意識・

人物像は、まさに〈沙門空海〉の抱いた理想的な沙門(出家者・僧侶)のあり方と、軌を一にすると言えるのでは

なかろうか。それは当時の沙門たちの時代意識、あるいは古代社会における仏教の意味を考察する際、一つの示唆

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日光開山・沙門勝道の人物像

89

を与えるものであろう。

 

なお本論攷では、勝道の事績を通じて、いくつかの問題点を考察した。特に、沙弥・比丘としての勝道、勝道の

宗風、山頂での三七日の礼懺、修行の勝地としての山中浄土、神宮寺の機能などは、当時の仏教者による山林修行・

神祇信仰に関わる重要な問題であった。勝道以外の事例と合わせて、いずれ改めて考察してみたい。

註1『遍照発揮性霊集』二「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」(『底本弘法大師全集』八・二一〜二七頁)

2  

従来、本書は「二荒山碑」「日光山碑」と略されるが、その内容と近年の先行研究に従い、本論攷では『勝道碑文』と略す。

3『中禅寺私記』(『群書類従』二四・六一九頁)

4『補陀洛山建立修行日記』(『続群書類従』二八・一二八〜一三二頁)

5『日光山滝尾建立草創日記』(『続群書類従』二八・一三二〜一三四頁)

6 

その他、著者不詳『二荒山千部会縁起』(『群書類従』二四・六三六頁)、著者不詳『日光山三月会日記』(『群書類従』二四・六三八頁)、

尊蓮『満願寺三月会日記』(『続群書類従』二八・一三五頁)、著者不詳『日光座主御歴代』(『天台宗全書』二四・四二七〜四五〇頁)、

高雲昇端『日光山列祖傳』(『天台宗全書』二四・四五一〜四七七頁)、著者不詳『日光山縁起』(『日本思想体系』二〇・二七六〜

二八九頁)などに勝道に関する記述がある。

7『元亨釈書』一四「釈勝道」(『大日本仏教全書』一〇一・三〇〇〜三〇一頁)

8『東国高僧伝』二「補陀洛山勝道伝」(『大日本仏教全書』一〇四・二〇〜二一頁)

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

90

9『本朝高僧伝』六四「下野補陀洛山神宮寺沙門勝道伝」(『大日本仏教全書』一〇三・八一六〜八一七頁)

10 勝道に関しては、①藤井萬喜太「日光山碑の一考察─勝道の上野国講師補任説について─」(『歴史地理』七三─五・一九三九年)、

②星野理一郎『日光開山勝道上人』(日光開山勝道上人発行寺務所・一九五四年)、③福井康順「日光開山勝道上人伝」(貴船諶道『日

光山輪王寺〈日光開山勝道上人一千百五十年御遠忌・勝道上人日光山開創一千二百年慶讃記念号〉』二五(日光山輪王寺門跡執事局・

一九六六年))、④斎藤忠「日光男体山頂遺跡の調査」(同『日本古代遺跡の研究』吉川弘文館・一九七六年)、⑤日光市史編さん

委員会『日光市史』上(日光市・一九七九年)、⑥栃木県史編さん委員会『栃木県史』通史編二「古代二」(栃木県・一九八〇年)、

⑦宮田登・宮本袈裟雄『日光山と関東の修験道』(名著出版・一九七九年)、⑧大和久震平『古代山岳信仰遺跡の研究─日光山地

を中心とする山頂遺跡の一考察─』(名著出版・一九九〇年)、⑨下出積與「古代山岳信仰と仏教」(曽根正人編『神々と奈良仏教〈論

集奈良仏教第四巻〉』雄山閣出版・一九九五年)、⑩橋本澄朗「「勝道碑文」と日光男体山頂遺跡」(『山岳修験』二八・二〇〇一年)、

⑪拙論「勝道ゆかりの地」(『大正大学大学院研究論集』二五・二〇〇一年)などがある。また『勝道碑文』の注釈としては、古

くは

㋐『性霊集注』(『真福寺善本叢刊』一二)、㋑運敞『遍照発揮性霊集便蒙』(『真言宗全書』四二)に詳しく、近年では㋒坂

田光全『性霊集講義』(高野山出版社・一九四二年)、㋓渡辺照宏・宮坂宥勝『三教指帰・性霊集』(『日本古典文学大系』七一・

岩波書店・一九六五年)などがある。

11 

前掲註(

10)

②星野論文、③福井論文

12 

前掲註(

10)

⑨下出論文、①藤井論文

13 

前掲註(

10)

⑧大和久論文、⑩橋本論文

14 

前掲註(

1)

二二頁

15 

前掲註(

4)

一二八頁

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日光開山・沙門勝道の人物像

91

16 前掲註(

10)

⑤日光市史・八一九頁

17「伊豆留」は、栃木市の北西部、出流川の上流に位置する。当地には真言宗智山派出流山満願寺があり、坂東三十三観音霊場の

第十七番札所である。寺伝では勝道の開基という。勝道の両親は出流の千手観音に祈願して勝道を授かり、のちに勝道はこの地

で修行したとされる。出流の観音信仰に関する史料の初見は、この『修行日記』であること、鎌倉末・南北朝期には日光修験が

隆盛し当地はその修行地となること、中世末期に至り諸史料に「出観音」が見られるようになること(『大日本古記録』蔗軒日録・

二四〇頁)を考慮すると、奈良期の信仰は疑問視される。ただ、当地の観音信仰は、おそらく奥院の鍾乳石(その形状が観音像

を彷彿とさせる)および周辺の鍾乳洞を中心とすると思われるが、「鍾乳石」はすでに奈良期より鉱物性生薬として知られていた。

つまり聖武上皇の七七日忌に、光明皇太后が東大寺大仏に奉献した薬物六十種を記した『種々薬帳』に「鍾乳床」(鍾乳石)が

見える。その薬効は「滋養強壮のほか、咳嗽、インポテンツ、乳汁分泌不足」とされる。(鳥越泰義『正倉院薬物の世界』平凡社・

二〇〇五年) 

これは、伊豆留の鍾乳石が、実際に子宝の生薬として使用された時代があったことを予測させる。そこに観音信

仰が重なり、いつしか生薬としての鍾乳石との認識は薄れ、子宝を観音に祈るとの信仰のみ残ったのであろうか。現在でも出流

観音は、「子授け・安産・子育ての観音」とされている。ただ、その変遷の時期は、未詳とするしかない。なお、勝道と同時代

の山林修行者で、嵯峨天皇から殊遇を蒙った玄賓(734頃-

818)は、僧綱に任じられるも、辞して備中国湯川寺に遁去したと伝え

る。当地に残る伝承に依れば、玄賓は程近い秘坂鍾乳穴の鍾乳石を薬石として採集し、桓武天皇に献上したという。(原田信之「備

中国湯川寺における玄賓伝説」(『新見女子短期大学紀要』一七・一九九六年))勝道、玄賓、どちらも鍾乳石に関わる伝承が残る。

すでに当時、鍾乳石は生薬として認知されており、実際に山林修行者がそれを採取した可能性も十分に考えられる。勝道の誕生

説話も、必ずしも荒唐無稽という訳ではなく、何かしらの史実を反映している可能性もあるだろう。

18 

現在の都賀郡都賀町木とされる。都賀町町営の文化公園「つがの里」があり、同地の華厳寺は町史跡に指定される。

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

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19 

現在の真岡市南高岡とされる。同地の真言宗豊山派仏性寺は勝道誕生の地とされ、県史跡「日光開山勝道上人誕生地」に指定さ

れている。寺伝に依れば、大同元年(806)勝道が誕生の地である大内庄高岡村卯ノ木花に、父母の供養と民衆教化のために、薬

師堂を建て自作の薬師三尊像を安置したという。境内のケヤキ(樹齢八百年)は県指定天然記念物、本尊の木造薬師如来坐像(平

安後期作)は県指定重要文化財である。山門左手の山腹に産湯を汲んだ清水「誕生ヶ池」がある。

20 

前掲註(4)一二八〜一二九頁

21『日本国現報善悪霊異記』下「村童戯剋木仏像愚夫斫破以現得悪死報縁第廿九」(『新日本古典文学大系』三〇・二八四頁)

22 

前掲註(

1)

二二頁

23 

沙弥が蟻を救って長命を得た説話(『雑宝蔵経』四「沙弥救蟻子水災得長命報縁」(『大正新脩大蔵経』四・四六八下〜四六九頁上))

に基づき、沙弥のことを「救蟻」という。

24 

比丘が戒を護る心は、大海にて浮嚢(うきぶくろ)を大切に惜しむのと同様であるという喩え(『梵網経古跡記』下(『大正新脩

大蔵経蔵』四〇・七〇〇頁下))から、具足戒を受けて比丘となった後を「惜嚢」という。

25 

前掲註(

10)

㋒坂田注釈書〈第四版〉・六十頁、㋓渡辺宮坂注釈書・一八二頁

26 

前掲註(

10)

㋑四七頁

27 

前掲註(

10)

⑨下出論文

28 

前掲註(

4)

一二九頁

29 

堀池春峰「奈良時代仏教の密教的性格」(『日本古代史論叢〈西田先生頌寿記念〉』吉川弘文館・一九六〇年)、吉田靖雄「奈良時

代の優婆塞の教学について」(『古代・中世の社会と民俗文化〈和歌森太郎先生還暦記念〉』弘文館・一九七六年)

30『日本国現報善悪霊異記』下「拍于憶持千手呪者以現得悪死報縁第十四」(『新日本古典文学大系』三〇・二七二頁)

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日光開山・沙門勝道の人物像

93

31『続日本紀』二一「天平宝字二年八月庚子朔条」(『新訂増補国史大系』二・二五三頁)

32『続日本後紀』一八「承和十五年二月戊申条」(『新訂増補国史大系』三・二〇八頁)

33『続日本後紀』一八「嘉祥元年十一月己未条」(『新訂増補国史大系』三・二一七頁)に依れば、下野薬師寺は天武天皇の創建で、

七大寺のように資財は巨多であり、坂東十国の修行者の得度が行われたと伝える。史料上の初見は『続日本紀』一七「天平勝

宝元年(749)七月乙巳条」(『新訂増補国史大系』二・二〇四頁)で、定額寺の墾田地の制限として、当寺は筑紫観世音寺と共に

五百町と規定された。すでにこの頃、東国隨一の寺院と位置づけられていたことが知られる。なお天平勝宝六年(754)には、薬

師寺僧行信が厭魅の罪で下野薬師寺に流され、宝亀元年(770)には弓削の道鏡が造下野国薬師寺別当に派遣され没している。ま

た日本三戒壇(中央=東大寺、西国=筑紫観世音寺、東国=下野薬師寺)の一つとされるが、戒壇の設置時期については、同時

代の史料には見えず、後世の『伊呂波字類抄』(『伊呂波字類抄〈日本古典全集〉』六・八九頁)、『元亨釈書』(『大日本仏教全書』

一〇一・二七五頁中)、『僧綱補任』(『大日本仏教全書』一二三・六九頁)などに「天平宝字五年(761)」と伝える。すでに廃寺で

あるが、かつて足利尊氏が同地に安国寺を設けており、現在は安国寺境内を中心として、「下野薬師寺跡」として国史跡に指定

されている。

34 

元興寺法相学派の神叡・尊応・勝悟・護命、大安寺三論学派の道慈・善議・勤繰といった奈良仏教を代表する学匠らは、「虚空

蔵求聞持法」を修して「自然智」を得ることを目的に、吉野比蘇山寺をはじめとする山寺・山房に入り修行をしていた。典型的

な例として、南都学匠の第一人者であり、最澄との間に大乗戒論諍を戦わせたことで有名な護命(750-

834)は、月の上半は深山

に入り虚空蔵法を修し、月の下半は本寺に在し宗旨を研精したという。(薗田香融「古代仏教における山林修行とその意義」(『南

都仏教』四・一九五七年))また興福寺法相学派の賢璟・修円らは、室生の龍穴山中に山林道場として室生寺を創建したとされる。

賢璟は山部親王(後の桓武天皇)の御病に際して、室生龍穴で延寿法を修し、修円は室生山龍穴での祈雨の中心人物であったと

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いう。(薗田香融「草創期室生寺をめぐる僧侶の動向」(『続史会創立五十年記念国史論集』五〇・一九六九年)、逵日出典『室生

寺史の研究』(巌南堂書店・一九七九年))さらに沙弥の山林修行については、佐久間竜「山沙弥所と山林師所」(『続日本紀研究』

六─一二・一九五九年)、根本誠二「奈良時代の官僧について」(『日本における国家と宗教』大蔵出版・一九七八年)に詳しい。

35『月刊考古学ジャーナル〈特集・山岳寺院の新研究〉』(四二六・一九九八年)、『佛教藝術〈特集・山岳寺院の考古学的調査・西日

本編〉』(二六五・二〇〇二年)など。

36 

前掲註(

1)二五頁

37 

田村晃祐「道忠とその教団」(『二松学舎大学論集』昭和四一年度・一九六七年)

38『日本後紀』二四「弘仁六年正月己卯条」(『新訂増補国史大系』三・一二九頁)、『僧綱補任』一(『大日本仏教全書』一二三・七四

〜七八頁)

39 

前掲註(

1)

二二頁

40 

前掲註(

4)

一二九頁

41 

由木義文「東国の仏教」(『印度学仏教学研究』二九─一・一九八〇年)

42 

拙論「東国における徳一の足跡について─遊行僧としての徳一─」(『智山学報』四九・二〇〇〇年)

43 

田村晃祐編『徳一論叢』(国書刊行会・一九八六年)、高橋富雄『徳一と最澄』(中央公論社・一九九〇年)

44 

前掲註(

1)

二五頁

45 

前掲註(

10)

㋑四八頁

46『漢書』九六上「西域伝」(『漢書』一二・中華書局・三八七一頁)

47『平家物語』十「高野巻」(『新訂平家物語〈日本古典全書〉』下・四六頁)

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日光開山・沙門勝道の人物像

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48『高僧伝』三「釈曇無竭」(『大正新脩大蔵経』五〇・三三八頁中)

49『高僧伝』三「釈法顕」(『大正新脩大蔵経』五〇・三三七頁下)

50 

ただその場合、対句となる「白峯」が何を指すかの定かではない。先の曇無竭の僧伝に「葱嶺を登りて雪山を度る」とあり、ま

た『平家物語』にも「葱嶺といふ山あり。西北は大雪山に続く」と伝えることからして、あるいは「白峯」とは「雪山」、つま

りヒマラヤ山脈のことであろうか。

51「鼉」とは、ワニの一種で、夜に時刻に応じて鳴くとされる。また「羊角」とは、羊の角のように渦巻いた風、つむじ風を意味する。

(「鼉」(『大漢和辞典』一二・一〇四八頁)、「羊」(『同』九・四九頁))

52 

前掲註(

10)

④斎藤論文、『栃木県史』資料編「考古二」(栃木県・一九七九年)、前掲註(

10)

⑥日光市史、前掲註(

10)

⑧大和久論文、

日光二荒山神社『日光男体山─山頂遺跡発掘調査報告書─』(名著出版・一九九一年)などに詳しい。

53 

前掲註(

10)

⑧大和久論文・二〇三〜二一八頁

54 

前掲註(

10)

⑩橋本論文は、考古学者・車崎正彦氏の見解として、これが宋代の復古鏡である可能性を指摘している。

55 

前掲註(

10)

④斎藤論文・三〇一頁

56 

前掲註(

10)

⑧大和久論文・四四一頁

57 『抱朴子』内篇一七「登渉」(『抱朴子内篇校釈(増訂本)〈新編諸子集成〉』・中華書局・三〇〇頁)

58 

前掲註(

10)

⑧大和久論文・三五四〜四三四頁

59 

拙論「吉野山の報恩法師」(『現代密教』一七・二〇〇四年)

60 

拙論「施暁と梵釈寺」(『蓮花寺佛教研究所紀要』一・二〇〇八年)

61『延喜式』一〇「神名下」(『新訂増補国史大系』二六・二五五頁)

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

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62『続日本後紀』五「承和三年十二月丁巳条」(『新訂増補国史大系』三・六一頁)

63『続日本後紀』五「承和三年五月丁未条」(『新訂増補国史大系』三・五一頁)

64『続日本紀』三六「宝亀十一年十二月丁巳条」(『新訂増補国史大系』二・四六五頁)

65『続日本紀』三七「延暦元年五月壬寅条」(『新訂増補国史大系』二・四八四頁)

66『類聚三代格』二「昌泰四年二月十四日条」(『新訂増補国史大系』二五・七四頁)

67『日本後紀』八「延暦十八年六月乙酉条」(『新訂増補国史大系』三・二二頁)

68 

古江亮仁「奈良時代に於ける山寺の研究」(『大正大学研究紀要』三九・一九五四年)

69 

前掲註(

60)

拙論

70『大方広仏華厳経』五一「入法界品」(『大正新脩大蔵経』九・七一八頁上)

71『大方広仏華厳経』六八「入法界品」(『大正新脩大蔵経』一〇・三六六頁下)

72 

彦坂周「南印ポディヤ山・観音信仰発祥の聖地」(『印度学仏教学研究』三八─一・一九八九年)、同「観音信仰発祥の聖山—

南イ

ンド・ポディイル山—

」(『総合科学』二─一・一九九二年)では、タミル・ナードゥ州とケーララ州の州境をなす西ガーツ山脈

のポディイル山に比定している。

73『大唐西域記』一〇(『大正新脩大蔵経』五一・九三二頁上)

74 

和歌森太郎「日光修験の成立」(『山岳宗教史研究叢書』一・一九七五年)は、後掲註(

75)

近藤論文にて妥当とされた「二神示現説」

について、日光山の神は本来、女神一神と見るべきであるとして、これに反論し、山の名称は「補陀洛山」に依るとしている。

75 

近藤喜博「男体山の歴史」(日光二荒山神社『日光男体山─山頂遺跡発掘調査報告書─』(名著出版・一九九一年〈再録〉))

76 

前掲註(

75)

近藤論文は、①二神示現説(男体・女峰の二山の神が現れる)、②布多の荒山説(山麓の布多郷にある荒山)、③二

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日光開山・沙門勝道の人物像

97

つの荒山説(男体・女峰の二つの荒山)、④二季暴風説(中禅寺鬼門の羅刹窟より年に二度大風が吹き荒れる)、⑤アイヌ語源説(熊

笹を意味する「フトラ」)、⑥マタギ説(北陸奥羽の山民集落「根子」の地名)などの諸説を紹介、検討した上で①を妥当としている。

77『続日本後紀』五「承和三年十二月丁巳条」(『新訂増補国史大系』三・六一頁)

78 

例えば、『国史大事典』「日光山」の項で、日光山輪王寺執綱の菅原信海氏は「古くは補陀洛山と称し、二荒山の字があてられ、

音読して日光山となった」とするが、同辞典の「日光山信仰」の項で、日光東照宮禰宜の高藤晴俊氏は「古くは二荒山と称し、

日光連山の主峰男体山と女峰山を男神・女神として信仰された」として、補陀落については全く触れていない。

79 

前掲註(

1)

二二頁

80『抱朴子』内篇一七「登渉」(『抱朴子内篇校釈(増訂本)〈新編諸子集成〉』・中華書局・二九九頁)

81 

前掲註(

1)

二二〜二三頁

82 

前掲註(

1)

二三〜二四頁

83『大唐西域記』一〇(『大正新脩大蔵経』五一・九三二頁上)

84 

塩入良道「懺法の成立と智顗の立場」(『印度学仏教学研究』七

─二・一九五九年)、同『中国仏教における懺法の成立』(大正大

学天台学研究室・二〇〇七年)

85『続日本紀』一六「天平十七年九月癸酉条」(『新訂増補国史大系』二・一八四頁)

86『続日本紀』三一「宝亀元年十月丙辰条」(『新訂増補国史大系』二・三八六頁)

87『日本高僧伝要文抄』三(『大日本仏教全書』一〇一・七六〜七七頁)

88『集諸経礼懺儀』(『大正新脩大蔵経』四七・四五六中〜四七四頁下)

89『十一面神呪心経』(『大正新脩大蔵経』二〇・一五二上〜一五四頁下)

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90『千手千眼観自在菩薩広大円満無碍大悲心陀羅尼呪経』(『大正新脩大蔵経』二〇・一〇五下〜一一一頁下)

91 佐藤道子『悔過会と芸能』(法蔵館・二〇〇二年・七九、一〇六、一一一頁)

92 時枝務「平安時代前期における山岳宗教の動向─三鈷鐃を手がかりに─」(『山岳修験』二九・二〇〇二年)

93 

諸国国分寺・一七日・吉祥悔過(『続日本紀』二八「神護景雲元年正月己未条」)、諸国国分寺・一七日・吉祥悔過・以後恒例(『続

日本紀』三二「宝亀三年十一月丙戌条」)、宮中・一七日・薬師悔過(『日本後紀』五「延暦十五年十月己卯条」)、東西二寺・一七日・

薬師悔過(『類聚国史』一七八「薬師悔過・天長四年正月丁卯条」)など。

94『法華三昧懺儀』(『大正新脩大蔵経』四六・九四九中〜九五五頁下)

95『摩訶止観』二上(『大正新脩大蔵経』六九・一四頁上)

96 

吉田実盛「法華懺法の次第意図と現代的意義」(『日本仏教学会年報』六七・二〇〇二年)

97『国清百録』一「請観世音懺法第四」(『大正新脩大蔵経』四六・七九五中〜七九六頁上)

98『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』(『大正新脩大蔵経』二〇・三四中〜三八頁上)

99『摩訶止観』二上(『大正新脩大蔵経』六九・一四頁下)

100 

前掲註(

1)

二六頁

101『伝教大師将来台州録』(『伝教大師全集』四・三六三頁)

102『唐大和上東征伝』(『大正新脩大蔵経』五一・九九三頁上)

103『沙弥十戒并威儀経疏』(『日本大蔵経』二一・一四二頁)

104 

前掲註(

4)

一二九頁

105 

前掲註(

90)

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日光開山・沙門勝道の人物像

99

106 櫛田良洪「奈良朝の秘密教考」(『密教論叢』八・一九三六年)

107 前掲註(

90)

一〇九頁上

108『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』(『大正新脩大蔵経』二〇・八三中〜九六頁中)

109『千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経』(『大正新脩大蔵経』二〇・九六中〜一〇三頁下)

110 

石田茂作『写経より見たる奈良朝仏教の研究』(東洋文庫論叢・一九三〇年)

111 

松崎恵水「雑密の観音系諸儀軌について」(『大正大学研究紀要/仏教学部・文学部』六四・一九七八年)は、「後に純部密教の発

展に伴ない現図曼荼羅が形成される先駆的な曼荼羅として注目すべき」とする。また本経は「速疾成仏」をもって諸願の極地と

していることから、「即身成仏思想の先駆をなすもの」と評している。

112 

前掲註(

109)

一〇一頁中〜下

113 

前掲註(

108)

八六頁上、前掲註(

109)一〇〇頁上

114 

神林隆浄「千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経項」(『仏書解説大辞典』六・三二五頁)

115『類聚三代格』二「昌泰四年二月十四日条」(『新訂増補国史大系』二五・七四頁)

116 

辻善之助「本地垂迹説の起源について」(同『日本仏教史之研究』・岩波書店・一九一九年)

117 

田村圓澄「神仏関係の一考察」(『史林』三七

─二・一九二四年)

118 

河音能平「王土思想と神仏習合」(『岩波講座日本歴史』四・岩波書店・一九七六年)

119 

高取正男「古代民衆の宗教─八世紀における神仏習合の端初─」(『日本宗教史講座』二・三一書房・一九五九年)

120 

前掲註(

1)

二二〜二三頁

121 

前掲註(

1)

二一頁

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

100

122 

前掲注(10)㋐五〇二頁

123 すでに前掲註(116)辻論文に「神は何に由りて仏法を悦び之を護るのであるか。之れは、当時の思想に於て、神も衆生の一なり

と考へられたに由るのである。この神は仏教でいふ諸天善神即それであって、その諸天は、即人間と同じく、迷界の中の一つで

あり、猶煩悩を脱せぬものであるが、仏法を尊ぶによりて、之を護衛するのである」と述べる通りである。

124 

前掲註(1)二六頁

125『遍照発揮性霊集』一「入山興」(『底本弘法大師全集』八・一七頁)

126 

拙論「八世紀における神宮寺出現の一背景─満願の人物像をめぐって─」(『智山学報』五一・二〇〇二年)

127 

大野栄人・伊藤光壽・武藤明範『天台小止観の譯註研究』(山喜房佛書林・二〇〇四年・二一頁)

128 

前掲註(

1)

二四〜二五頁

129 

前掲註(

1)

二四〜二五頁

130 

前掲註(

10)

⑤日光市史・八〇四〜八〇五頁、前掲註(

10)

⑧大和久論文・二九八頁

131『仏説阿弥陀経』(『大正新脩大蔵経』一二・三四六下〜三四七頁上)

132『大唐西域記』一〇(『大正新脩大蔵経』五一・九三二頁上)

133『大方広仏華厳経』六八「入法界品」(『大正新脩大蔵経』一〇・三六六頁下)

134 

前掲註(

34)

を参照。

135 

本来は北方多聞天の化身で、玄奘が入竺の際、流砂に現れて激励したとされる善神であるが、『修行日記』では勝道が日光山入

峰の際、行く手を阻んだ大河に現れ、手にした二蛇を放って橋(山菅の蛇橋)を作り、勝道を導いている。ここで深沙大王のモ

チーフは、河・蛇であり、「水」に関する神とされている。

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日光開山・沙門勝道の人物像

101

136 前掲註(

4)

一二八〜一三一頁、前掲註(

5)

一三二頁

137 これはおそらく、浄土が十万億土の彼方ではなく、山中にあるという、いわゆる「山中浄土観」を表現した初期のものであると思う。

およそ「山中浄土観」は、「死者の霊魂が山に戻る」という古来の霊魂観と、「死者が西方浄土に往生する」という浄土教の習合

により、平安時代に始まり、十から十一世紀に一般化すると言われているが(山折哲雄『日本人と浄土』(講談社・一九九五年))、

空海の『勝道碑文』における「山中浄土観」は、死者の霊魂や浄土教と直接的に結びつかず、仏道修行の勝地を説明する箇所に

見られる。

138 

前掲註(

1)

二三頁、二五頁

139 

前掲註(

1)

二二頁、二五頁

140 

矢野健一「神仏習合」(『古代史研究の最前線』四・雄山閣・一九八七年)。矢野氏に依れば、三重県名賀郡青山町種生の常楽寺

に所蔵される大般若経のうち、巻五〇・九一・一八七は、天平宝字二年(758)に沙弥道行が願主となり知識を勧進して書写したも

のとされる。特に九一巻は「伊勢大神」のために書写したことが跋文に記されている。またこの「伊勢大神」とは、大西源一「伊

賀種生の大般若経」(『大和文化研究』四─一・一九五九年)に依れば、伊勢神宮に祭られる神でなく、和泉国和泉郡山直郷の人々

に自然神として祭られた存在であったという。

141『日本国現報善悪霊異記』下「依妨修行人得猴身縁第廿四」(『新日本古典文学大系』三〇・二七五〜二七六頁)

142 

勝道が上野国講師に任命されたことが事実であれば、それは延暦十四年(795)以降のことである。勝道が神宮寺を建てて修行を

始めたのが延暦三年(784)であるから、それ以後日光山を離れず止住していたとするなら、それは十一年以上となる。

143 

前掲註(

1)

二五頁

144 

難波俊成「古代地方僧官制度について」(『南都仏教』二八・一九七二年)

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蓮花寺佛教研究所紀要 第二号 個人研究

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145『続日本紀』三七「延暦二年十月庚戌条」(『新訂増補国史大系』二・四九五頁)

146『続日本紀』三八「延暦三年五月辛未条」(『新訂増補国史大系』二・四九九頁)

147『類聚三代格』三「諸国講読師事・延暦二十四年十二月二十五日太政官符」(『新訂増補国史大系』二五・一二五〜一二六頁)

148『類聚国史』一八六「僧尼雑制・延暦十六年八月甲子条」(『新訂増補国史大系』六・三〇〇頁)

149『日本後紀』一二「延暦廿三年正月丁亥条」(『新訂増補国史大系』三・二九頁)

150『日本後紀』一三「延暦廿四年十二月庚申条」(『新訂増補国史大系』三・四九頁)

151 

前掲註(

60)

拙論

152 

前掲註(

10)

①藤井論文は、「彼(勝道)は国司の苛政誅求を遁れて跡を山林に晦まし狩猟を生業とする山立に伍してそのシャー

マンとなったのであろう。この故に彼は広い意味での山臥であって、経典講説の講師に簡任せらるる資格はないのである」とし

て、講師補任を認めず、これを根拠に『勝道碑文』の空海撰述をも否定する。しかしこれは後述するように、勝道を単に反律令

的なシャーマンとする前提によるものである。

153『日本歴史地名大系〈群馬県の地名〉』(平凡社・一九八七年)に依れば、善勝寺(前橋市端気町・勝道開基)、龍蔵寺(前橋市竜蔵寺町・

勝道開基)、珊瑚寺(勢多郡富士見村石井・勝道開基)、実相院(沼田市屋形原町・勝道修行の地)、山上多重塔(桐生市新里町山上・

赤城山登頂の拠点)など。詳しくは前掲註(

10)⑪拙論を参照。

154『日本歴史地名大系〈栃木県の地名〉』(平凡社・一九八八年)に依れば、華厳寺跡(下都賀郡都賀町木)、宝蓮寺(栃木市鍋山町)、

医王寺(鹿沼市北半田)など。詳しくは前掲註(

10)

⑪拙論を参照。

155 

前掲註(

1)

二四頁

156 

前掲註(

34)

を参照。

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日光開山・沙門勝道の人物像

103

157 前掲註(

10)

⑨下出論文

158 前掲註(

34)

を参照。

159『続日本紀』三二「宝亀三年三月丁亥条」(『新訂増補国史大系』二・四〇二頁)

160 

前掲註(59)拙論

161 

拙論「玄賓法師の生涯─嵯峨天皇よりの殊遇を中心として─」(『智山学報』五四・二〇〇五年)、拙論「嵯峨天皇親書よりみ

た玄賓法師の人物像」(『佛教文学』三〇・二〇〇六年)、拙論「聴福法師考─奈良末・平安初期の山林修行者─」(『智山学報』

五五・二〇〇六年)

162『類聚国史』一八七「度者・延暦十一年正月庚午条」(『新訂増補国史大系』六・三一二〜三一三頁)

163『高野雑筆集』上「藤原冬嗣諸嗣宛」(『定本弘法大師全集』七・一〇八頁)

164『続日本紀』三五「宝亀十年閏五月丙申条」(『新訂増補国史大系』二・四四九頁)

165 

前掲註(

4)

一三二頁

166 

世俗と相対する意味での「山水林泉」を指す。また勝道は「山水を歴て」「林泉を仰ぎ」、山(男体山)と湖(中禅寺湖)が織り

なす「山水相映」の勝地にて修行している。従って勝道の修行は「山水修行」と呼ぶ方が適切であろうが、本論攷では一般的な

用語に即して、これを「山林修行」と記す。

〈キーワード〉山林修行、観音信仰、補陀落、山頂遺跡、神祇信仰、礼懺、山中浄土、神宮寺

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