有機化学Ⅰ 講義資料 第5回「シクロヘキサンの立体配座」
– 1 – 名城大学理工学部応用化学科
第5回「シクロヘキサンの立体配座」
シクロヘキサンは、シクロアルカン類の中でも特別な位置を占めている。シクロヘキサンはひずみエネルギーの最も小さいシクロアルカンである。このため、六員環は有機
化合物で最もよく現れる環構造の1つである。今回は、シクロヘキサンの立体配座解析について詳しく学ぶ。同時に、シクロヘキサンの構造変化のエネルギー図を使って、反応のエネルギー図の見方についても学ぶ。
1. シクロヘキサンのいす型配座異性体
分子モデルを使って、シクロヘキサンを作ってみよう。前回学んだ「ねじれひずみ」
「立体ひずみ」「角ひずみ」を考慮して、最も安定な配座異性体はどのようなものかを予測してみよう。 答えは、下のような配座異性体である。
6個の炭素原子のうち4個が同一平面上にあり、残りの2個は一方がこの平面より上、
もう一方が下にはみ出す。この配座異性体を「いす型配座異性体」chair conformer と
呼ぶ(四角い座面に、三角の背もたれと足置きがそれぞれつながった形と見たてる)。 いす型配座異性体には、いくつか特徴がある。まず、角ひずみ・ねじれひずみが非常
に小さい。すべての結合角は 107~111°の範囲であり、sp3炭素の理想の結合角 109.5°
に極めて近い(角ひずみが小さい)。また、分子モデルを見ればわかるように、どの C–C結合も staggered立体配座になっている(ねじれひずみが小さい)。
いす型配座異性体の6つの炭素原子はすべて等価である。分子モデルを炭素1つ分ず
つ回して観察し、確かにそうなっていることを確認して欲しい。
いす型配座異性体chair conformer
staggered
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シクロヘキサンのいす型配座異性体を化学構造式として描く時には、向かい合う辺(C–C結合)がすべて平行になるように描く。例えば下の手順で描くとよい。
なお、シクロヘキサンをいす型で図示する時には、くさび形結合を使う必要はない。
6本の C–C結合のうち、「下側」に書いた3本が「上側」の3本よりも手前にある、と決められているためである。
2. アキシャル位とエクアトリアル位
次に、いす型配座異性体で水素原子がどういう配置をしているかを見てみよう。
分子模型を見ればわかるように、環からまっすぐ上下に出ている水素原子が全部で6
個あり、それ以外の6個の水素原子は横向きに突き出している。上下に出ている水素原
子をアキシャル axial 水素と呼び、横向きに突き出している水素原子をエクアトリアル
equatorial 水素と呼ぶ。Axialは axis(軸)
の形容詞形で「軸の」という意味、equatorial は equator(赤道)の形容詞形で「赤道の」という意味である。地球の「地軸」と「赤道」
をイメージするとよい。 骨格構造式で描く時には、axial 水素はまっすぐ上向きまたは下向きに描く。また、
equatorial水素は六員環内で1つ離れた C–C結合と平行になるように描く。
ななめの平行線を2本描く
上側を浅いV字でつなぐ
上の辺と平行になるように、下側を逆V字でつなぐ
環を閉じる
平行に! 平行に!
�������������
������������
axial�� ����
equatorial���������
赤道 equator
軸 axisaxial
equatorial
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Axial, equatorial の位置のことを「axial位」「equatorial位」と呼ぶ。置換基を持つ
シクロヘキサンの場合は、置換基は axial 位か equatorial位のどちらかを占める。 Axial結合は、C–C–Cの V字のとがった方と同じ向きに描くこと。
また、下の位置で axial 結合を書くと、環の C–C結合の線と交わってしまう。交点
部分では奥側の線を隠して、どちらが手前にあるかわかるようにする。
3. 一置換シクロヘキサンの立体配座エネルギー:axial 位と equatorial位はどちらが安定か
置換基を一つ持つシクロヘキサンには、2種類の配座異性体が存在する。メチルシクロヘキサンの場合は、下のようになる。
この2つの配座異性体は、どちらがより安定だろうか。これを調べるために、それぞ
れの配座異性体を上から見てみる。
H
HH
HH
HH
HH
HH
HH
HH
HH
HH
HH
HH
H
axial ��������
equatorial �������� ��
H
C–C–C�V�����
axial�����
H
C–C–C�V�����
axial�����
H
H
����������
equatorial 位
axial 位
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一見して、axial 位にメチル基がある方が「混み合っている」ことがわかる。もう少
し具体的に言うと、メチル基と、それに対して 3-および 5-の位置にある水素原子との
間に立体ひずみが存在することがわかる。下の図では、3,5-の位置の水素原子を四角で囲んで示した。
このように、シクロヘキサンの「1つおいて隣」の炭素原子に結合した2つの axial
置換基の間の立体ひずみ相互作用のことを 1,3-ジアキシャル相互作用 1,3-diaxial
interactionと呼ぶ。この相互作用があるため、一般に一置換シクロヘキサンについては、置換基は equatorial位にある方が axial位にあるよりも安定である。
立体ひずみの大きさは、相互作用している2つの置換基の種類によって異なる。たとえば、2つのメチル基の間の立体ひずみは、メチル基と水素原子の間の立体ひずみよりも大きい。また、t-ブチル基は、非常に立体ひずみが大きい。
4. いす型シクロヘキサンの環反転
Axial位にメチル基があるメチルシクロヘキサンの分子モデルを作ってみよう。
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�����
�����
CH3HH
CH3H3CH
CHH
CH3H3C CH3
��������
�� ������ �� �� ��t-�� ������
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このモデルを両手で持って、メチル基がついている炭素を下にひねり、正反対の位置
の炭素(2つ離れた炭素)を上にひねると、いす型が反対向きになる。このとき、メチル基は equatorial位に来る。
このような構造変化を、いす型シクロヘキサンの環反転ring inversionと呼ぶ。
環反転の途中で、下のような構造を経由したことだろう。
メチル基のついた炭素と、その反対の位置の炭素が、ともに他の4つよりも「下」方
向にある。この構造を舟型配座異性体 boat conformationと呼ぶ。上の写真だと舟に見
えないので、上下を逆にした図を下に示す(メチル基は水素原子で置き換えた)。
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図に示した通り、舟型配座異性体は、eclipsed 配座になっている C–C 結合が2つあ
るため、ねじれひずみを持つ。さらに、舟の前後に結合した水素原子が向かい合って近接しているため、立体ひずみも持つ。このため、舟型立体配座は不安定である。 舟型立体配座で、eclipsed 配座になっている2つの C–C 結合を互いに反対方向に少
しひねると、ねじれ舟型配座異性体 twist boat conformerになる。
ねじれ舟型配座異性体は、eclipsed配座が解消されており、向かい合った水素原子同
士の立体ひずみも小さくなるため、舟型よりも少し安定である。この配座異性体も、環反転の途中で現れる。
5. シクロヘキサン環反転のエネルギー図
シクロヘキサン環反転のエネルギー図を描いてみよう。エタンやブタンの回転の時は
横軸を二面角としたが、シクロヘキサン環反転の場合は、分子のいろいろな部分が同時に変形するので、横軸を一つの数値で表すことは難しい。そこで、「反応がどれだけ進
(boat conformer)舟型配座異性体 eclipsed
H H
�����
������ eclipsed
(twist boat conformer)ねじれ舟型配座異性体 eclipsed��
�����
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行したか」を横軸にとってグラフ化することにする。この横軸のことを反応座標
reaction coordinate と呼ぶ。(「反応」といっても、化学変化は伴わず、構造変化のみである。しかし、構造変化も重要な化学反応の一つである。)
メチルシクロヘキサンの環反転のエネルギー図は、下のようになる。
この図を見て、いくつか気がつくことがある。 (1) いす型-1 はいす型-2 よりも低い位置にある。これは、メチル基が equatorial
位にある方が axial 位にあるよりも安定であることを示している。
(2) ねじれ舟型といす型の間には、エネルギーの高い半いす型配座異性体 half-chair
conformer が存在する。分子モデルで環反転をしようとすると、1つの CH2の向きを変えて舟型にしようとする時に大きな抵抗を感じるだろう。その時の構
造がこの半いす型立体配座である。 (3) いす型・ねじれ舟型は、エネルギー図のグラフの「谷」に対応している。一方、
舟型・半いす型は、グラフの「山」に対応している。図では、「谷」に青い丸
印、「山」に赤い丸印をつけておいた。 化学反応のエネルギー図で、グラフの「谷」に対応する点と、「山」に対応する点は、
いずれも特別な意味を持っている。まず、「谷」に対応する点は、その近くにある点よ
りもエネルギーが低い。このような点は、うまく条件を選べば、そこで反応を止めることが原理的には可能である。このような点のことを、化学反応論の言葉で「中間体」intermediate と呼ぶ。一方、「山」に対応する点は、反応が進行するために必ず越えな
くてはならない障壁を表している。いわば、反応経路における「関所」である。このような点のことを、同じく化学反応論の言葉で「遷移状態」transition state と呼ぶ。シクロヘキサンの環反転では、ねじれ舟型は中間体、半いす型と舟型は遷移状態である。
注1:エネルギー図では、出発物と生成物も「谷」になるが、これらは中間体とは呼ばない。中間体は、あくまでも反応途中に出現するエネルギー図の「谷」である。従って、中間体が存在し
エネルギー (kcal/mol)
いす型-1
ねじれ舟型-1 ねじれ舟型-2
舟型
半いす型-1半いす型-2
いす型-2
反応座標
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ない反応もあり得る。
注2:高校化学では、「遷移状態」のことを「活性化状態」と呼んでいる。これは正式な学術用語ではなく、意味があいまいなので、使うことは好ましくない。「遷移状態」の概念は、化学反応論で明確に定義されている。
遷移状態のエネルギーと出発物のエネルギーの差を活性化エネルギー activation
energy と呼ぶ。活性化エネルギーは、遷移状態を越えるために必要なエネルギーである。
活性化エネルギーは、反応速度と密接な関係がある。活性化エネルギーが大きいほど
反応は遅く、活性化エネルギーが小さいほど反応は速い。その理由は、反応速度は出発物の分子のエネルギーが活性化エネルギーを越える確率によって定まるためである。活
性化エネルギーが小さいほど、出発物の分子のエネルギーが活性化エネルギーを越える確率が高くなり、従って反応は速く進行する。
6. 化学平衡とエネルギー
メチルシクロヘキサンの環反転は、室温付近では非常に速く進行する。Equatorial型から axial型への反応と、その逆の反応が、同時に進行している。
このように、ある反応とその逆反応が同時にかつ速やかに進行するとき、反応はやが
て平衡状態(化学平衡)に達する。化学平衡は「酸・塩基」の反応でなじみ深いものだ
が、その他にもたくさんの例がある。シクロヘキサンの環反転はその一つである。 化学平衡を特徴づけるのは、平衡定数である。上の例では、次の式が成り立つ(化学
平衡の法則)。物質名を [ ] で囲んだものは、「その物質の濃度」を表す。
活性化エネルギー
エネルギー (kcal/mol)
いす型-1
ねじれ舟型-1 ねじれ舟型-2
舟型
半いす型-1半いす型-2
いす型-2
反応座標
CH3CH3
axial�equatorial�
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実は、平衡定数は、反応物と生成物のエネルギー差と関係がある。酸・塩基平衡のと
ころでも言及したが、式で書くと、下のようになる。この式は、熱力学から導かれるもので、どのような平衡反応についても成り立つ重要な一般式である。
メチルシクロヘキサンの axial型と equatorial型のエネルギー差は 1.7 kcal/mol で
ある。この値と上の関係式を使うと、メチルシクロヘキサンの2つのいす型がどのよう
な比率で存在しているかが、下のようにしてわかる。
つまり、メチルシクロヘキサンの2つのいす型配座異性体については、axial 型は
equatorial型の 1/18程度しか存在しないことがわかる。エネルギー差が大きくなると、不安定な配座異性体の存在比はどんどん低くなる。
7. 二置換シクロヘキサン
次に、2つの置換基を持つシクロヘキサンについて考えよう。ジメチルシクロヘキサンには何種類の異性体があるか、わかりますか? 「1,2-体、1,3-体、1,4-体の3種類
じゃない?」と思った人、残念でした。「あっ、1,1-体もあるから4種類か?」いえいえ、まだ違います。
[equatorial型]
[axial型]= �� = K�������
K = exp(– ΔGRT
) � ΔG ������������R �� ��T �����
ΔG = +1.7 kcal/mol
K = exp(– 1.7 × 103 × 4.184 8.31 × 298
)
= 0.057
[axial型] = 0.057 × [equatorial型]1.7 kcal/mol �298 K�����
反応座標
エネルギー (kcal/mol)
CH3CH3
CH3 CH3
CH3CH3
H3C CH3
1,2-� 1,3-� 1,4-� 1,1-�
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実は、2つのメチル基が環に対して「同じ側」にあるか「違う側」にあるかで、異なる化合物になる。「同じ側」というのは、六員環の平均平面に対して、2つのメチル基が両方とも上側に出るか、もしくは両方とも下側に出る場合を指す。
くさび形結合を使うと、これらの異性体を下のように区別することができる。
これらの異性体は、立体配座についても挙動が異なる。まず、1,4-ジメチルシクロヘ
キサンでメチル基が「同じ側」に出ている場合は、下のような立体配座が考えられる。
(メチル基の炭素原子を赤く示し、メチル基の水素原子は省略してある。)
これら2つは、1,4位の炭素原子(メチル基が結合している相手の炭素原子)を結ぶ
直線を軸として 180°回転させると相互に変換できる。したがって、これらは同一化合
物であり、立体配座も同じである。 一方、1,4-ジメチルシクロヘキサンでメチル基が「違う側」に出ている場合は、下の
ようになる。
これら2つは、見た目に明らかに形が違っているが、実は環反転によって相互に変換
できるので、同じ化合物である。形が違うのは、立体配座の違いである。左の立体配座では2つのメチル基がどちらも equatorial 位にあるが、右の立体配座では2つのメチ
ル基は axial位にある。 「上・上」または「下・下」の化合物と、「下・上」の化合物とは、相互変換するこ
CH3CH3
CH3 CH3
����� �����
メチル基が両方とも「上」 メチル基が両方とも「下」
メチル基が「下」「上」
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とができない。相互変換するためには、どこかの結合を切らなくてはならない。従って、これら2つの化合物は、異なる化合物である。 一般に、二置換シクロアルカン(シクロヘキサンに限らない)には、2種類の異性体
が存在する(同じ炭素原子上に二つの置換基が結合している場合を除く)。1つは、環に対して2つの置換基が同じ側に出ているもので、もう1つは、環に対して2つの置換基が異なる側に出ているものである。これらは、炭素原子のつながり方は同じだが、空
間配置が異なっているため、結合を切らずに相互に変換することができない。このような異性体を立体異性体 stereoisomer と呼ぶ。そして、2つの置換基が環平面に対して同じ側に出ているものを cis(シス)体cis isomer、異なる側に出ているものを trans
(トランス)体 trans isomerと呼ぶ。
cis-1,4-ジメチルシクロヘキサンの場合、2つのメチル基は一方が axial、もう一方が
equatorial になる。trans-1,4-ジメチルシクロヘキサンの場合は、2つのメチル基は両方が equatorialか、両方が axialのどちらかになる。
なお、1,1-ジメチルシクロヘキサンには cis, trans 異性体は存在しない。くさび形結合を使って機械的に書くと下のようになりそうだが、右のものは存在しない。理由は考えてみること。
注3:実は、trans-1,3-ジメチルシクロヘキサンにはさらに2種類の異性体がある。これは、メチル基の根元の炭素が不斉炭素だからである。詳細は後で学ぶ。また、trans-1,2-ジメチルシクロヘキサンについても同様に、2種類の異性体が存在する。一方、1,4-ジメチルシクロヘキサン・1,1-ジメチルシクロヘキサンは不斉炭素を持たないので、このような異性体は存在しない。
8. 今回のキーワード
・いす型配座異性体、アキシャル位、エクアトリアル位 ・1,3-ジアキシャル相互作用
CH3
CH3
H3C CH3CH3
CH3
cis-1,4-dimethylcyclohexane trans-1,4-dimethylcyclohexane
CH3
CH3
H3C CH3H3C CH3
����� ������
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・シクロヘキサンの環反転、舟型、ねじれ舟型、半いす型 ・反応のエネルギー図、反応座標 ・遷移状態、中間体
・活性化エネルギー ・化学平衡、平衡定数、平衡定数とエネルギーの関係 ・二置換シクロヘキサン、立体異性体、cis体、trans体
【教科書の問題(第3章)】 47, 48, 65, 71, 74, 76, 78, 82