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  • ルイス・キャロルの写真アルバムA[X]について

    吉 本 和 弘

    Ⅰ.はじめに

    ルイス・キャロル(Lewis Carroll)ことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson, 1832-98)が発明間もない写真という新しいテクノロジーに魅せられ、ロンドンのオットウェル社のカメラを購入したのは1856年の3月18日で、それがオクスフォード大学のクライスト・チャーチに届いたのは1856年の5月1日だった。1855年にカロタイプの特許が切れて、伯父のスケフィントン・ドジソンがクロフトの牧師館にカメラを持ってきたことで初めてカメラに触れたキャロルは、翌年に早速カメラを購入したのだ。この年にはロンドンにナショナル・ポートレート・ギャラリーが開館したのだが、まさに肖像画の主役が絵画から写真へと移り変わろうとしていた。

    キャロルは1865年に『不思議の国のアリス』(Alice’s Adventures in Wonderland)を出版し、その大ヒットにより一躍名声を手にしたが、この永遠のベストセラーの発想の源となったアリス・プレザンス・リデル(Alice Pleasance Liddell)との出会いにおいて、写真趣味が決定的な役割を果たしたことは有名な話である。1862年7月4日に三姉妹を連れて川下りの遠足に行き、その時に即興で話して聞かせた話を元にして手書きの本を作成し、自分でイラストを描き、最後のページにはアリスの写真を貼り付け、そしてアリスに贈った。それから『アリス』が出版されるまでの時期は、キャロルが写真術に最も情熱を注いでいた時期でもあった。

    撮影を始めてから24年間、キャロルは湿式コロジオン方式の大きなカメラを駆使して被写体を追い求め、出来る限りの努力を傾けて写真を撮り続けた。彼自身の記録によれば、死ぬまでに、成功したものとして約3000枚の写真のネガを作成した。おそらく失敗作は無数にあったと思われる。

    写真術の発明とそれに伴う画像複製技術の発達、そしてプリントされた写真の爆発的流通により人々の意識にも大きな変化が起こっていた。またヴィクトリア朝期、自然科学の発達の影響もあって、人々の間には様々なコレクション・ブームが起こっていた。画像コレクションとしての写真アルバムという全く新しい冊子の流行もその典型と考えてよい。アマチュア写真家としてのキャロルも、自分が撮った写真を中心に多くの写真アルバムを製作した。エドワード・ウエィクリング

    (Edward Wakeling)による調査では、キャロルが編纂または所有した写真アルバムは34冊あったと推察されていて、そのうち12冊が現存している。

    テキサス大学オースチン校のハリー・ランサム・センター(Harry Ransom Center, 以後HRC)が所有するヘルムット・ガーンズハイム・コレクション(Helmut Gernsheim Collection, 以後HGC)の中には、キャロルが所有していた写真アルバム5冊が含まれている。そのうちの一つであるアルバムA[X]は他のアルバムとは性質が異なっている。このアルバムの表紙には

    ‘PROFESSIONAL AND OTHER PHOTOGRAPHS’と金文字で刻印されている。つまりこれはキャロルと同時代に活躍していた職業写真家の作品コレクションなのである。本稿ではこのアルバムに貼られている写真の題材や特徴を確認しながら、キャロルが他の写真家をどのように見ていたのか、当時の写真の主題や技法についてどう考えていたのかについて考察する。

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  • Ⅱ.アルバムA[X]の構成

    アルバムA[X]に貼られている写真の撮影年は、1856年から1865年の約10年間のものが大半を占めている。40と41番目の女優ケイト・テリーの2枚の写真が1870年の撮影、最後の写真である女優エレン・テリーの写真が1878年の撮影で、この3枚だけはかなり時期的に離れている。そのため貼られている写真の撮影年は20年以上に渡っていることになるが、このアルバムがどの時点で作られ始めたのかについてはわかっていない。アルバムとして完成したのはHRCのデータベースでは1870年頃と記録されている。撮影年が同じ写真が離れたページに貼られたり、古い写真が後ろに貼られたりしていることもあることから、溜め込んでいた写真をある時点でアルバムとしてまとめ始め、以後も追加しながら何年かかけて完成したと考えたほうがよいと考えられる。

    それぞれの写真が撮影された年と、キャロルがそれらを手に入れた年が同じとは限らないので断定はできないが、撮影年の早いものは、キャロルが写真を始めたまさにその頃に撮影されているので、彼が写真を撮る際の手本とみなしたり、当時の写真の流行を研究するためにプロの撮った写真を集めたと考えるのは自然なことであろう。

    写真を冒頭から順に見ていくと、統一されたテーマや主題の下に写真をまとめてあるようには思えない。ページをめくるたびに、異なった趣の写真が表れてくるという印象がある。しかし全体を通して内容をまとめると、いくつかの共通項のある写真群に分類できることがわかる。大まかに言うと、職業写真家が売り出していた著名人のポートレート群があり、それ以外は、アート・フォトグラフの先駆者とされたオスカー・グスタフ・レイランダー、ジュリア・マーガレット・キャメロン、レディ・クレメンティナ・ホーデンらの作品群がある。その他としてアレキサンダー・マンローの彫刻の写真や、人気画家ジョン・エヴェレット・ミレイの絵画の写真、蒸気機関車の写真など人物像でないものが少数混ざっている。

    このアルバムを含むヴィクトリア朝期の写真の膨大なコレクションを作り上げ、テキサス大学に寄贈したガーンズハイムは、このアルバムについて「驚くようなコレクション」であるとしながらも、「このアルバムについて一番興味深いことは、ルイス・キャロルが収集する価値があるとみなした写真の基準であり、それほど鑑識力を備えた趣味であるとは思えない」と記している。⑴「鑑識眼」があるかどうかは別としても、彼の写真における価値観を確認するにはまたとない資料と言えるだろう。

    Ⅲ.著名人の写真このアルバムには、当時ロンドンなどで写真館を構えていた写真家達が撮影した有名人のポート

    レート写真が数多く貼られている。最初から3枚目には桂冠詩人アルフレッド・テニソンの写真があり(図版 1)、2枚挟んで今度は人気小説家チャールズ・ディケンズの写真がある(図版 2)。そのあと4枚を挟んで国会議員サミュエル・ウォレン、一枚挟んでウエストミンスター大司教のニコラス・ワイズマン、一枚挟んで俳優で脚本家のジョン・バックストーン、また一枚挟んで英国国教会主教のサミュエル・ウィルバーフォース、4枚挟んで大法官のヘンリー・ピーター・ブルーム、その後、歴史家ハーバート・フィッシャー、天文学者サー・ジョージ・ビデル・エアリー(グリニッジ天文台創設者)、物理学者マイケル・ファラデー(図版 3)、児童文学者ジョージ・マクドナルド、首相ウィリアム・グラッドストーンといった著名人たちのポートレートが2〜4枚おきに配置され

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  • ている。有名人の写真はアルバムの中でまとめて貼られているというわけ

    ではない。撮影された年の順に並んでいるわけでもない。数枚おきに貼られていて、全体に渡って満遍なく配置されている。まるで、これらの当代の著名人たちが、このアルバムに貼られている写真の芸術性の高さにお墨付きを与えているような印象さえ与える。著名人として集められているのはやはり文学者や科学者が多い。そして聖職者、政治家などである。

    これらの著名人ポートレートを撮影した写真家、あるいは撮影したスタジオは、ハーバート・ワトキンス(Herbert Watkins, 1828-C. 1901)、モール・アンド・ポリブランク(Maull & Polyblank: Henry Maull, 1829-1914, and George Henry Polyblank, 1828-?)、ジェイムズ・マッド(James Mudd, 1821-1906)、そしてヒルズ・アンド・サンダース(Hills & Saunders: Robert Hills, 1821- 82, John Henry Saunders, 1836-1890)である。

    ハーバート・ワトキンスは1856年にリージェント・ストリートにスタジオを開設し、『ナショナル・ギャラリー・オブ・フォトグラフィック・ポートレイツ』(1856-58)というタイトルで、著名人の写真をその伝記と一緒に出版した。

    モール・アンド・ポリブランクは、ロンドンのグレイスチャーチ・ストリートとピカデリーにスタジオを構える商業写真家だった。1850年代から一連の存命中の有名人の肖像写真のシリーズを生産し、その写真は広く一般に収集された。

    ジェイムズ・マッドはマンチェスターの職業写真家で、1861年のベイヤー・ピーコック社が建造した蒸気機関車の写真集が人気を集めたことで知られる。のちにロンドンのボンドストリートに拠点を置いた。

    ロバート・ヒルズとジョン・ヘンリー・サンダースは、エドワード皇太子がオックスフォード大学に在学している間、その専属写真家に任命された。後に1863年、イートンにオックスフォード・フォトグラフィック・ギャラリーを開いて以後は、ウィンザーに王室が居住している間はつねに需要があり商売は繁盛した。ハーバート・ウィリアム・フィッシャー(歴史家、オクスフォードのクライストチャーチ出身、のちにエドワードⅦのチューターを務める)の肖像写真(№ 24)を撮影した。

    これらの著名人の写真をキャロルが収集した背景には、当時、写真の普及に伴って、写真スタジオを持つ写真家が有名人の写真の複製を大量に作って販売し利益を得ていたという事実、そして民衆がそのような写真をコレクションとして収集し、自分のアルバムに貼ることが流行していたという事実がある。キャロルも一般大衆の一人としてそのようなコレクションをしていたわけである。キャロル自身が撮った写真だけで構成された他のアルバムでも、彼は有名人の写真を数多く貼って

    図版 1アルフレッド・テニソン(№ 3)

    図版 2チャールズ・ディケンズ(№ 6)

    図版 3マイケル・ファラデー(№ 31)

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  • いる。例えばアルバムA[Ⅲ]では、ラファエル前派の画家たちとその家族など多くの著名人の写真が集められている。この点については拙論「ルイス・キャロルの写真アルバムA[Ⅲ]とラファエル前派芸術」を参照されたい。⑵

    当時カメラを持たない一般人は、自分の家族などをプロの写真家に撮影してもらった写真でアルバムを構成したのだが、これに加えて写真家たちが売っていたカルト・ド・ヴィジットと呼ばれる名刺版写真で有名人のポートレートを購入して自分のアルバムに貼ることが多かった。これによってアルバムに箔をつけて世間話の話題作りに使うということがごく一般的に行われていた。客人を招いたときに、とりあえず自作の写真アルバムを見せて話題作りをするということが当時のおきまりの社交儀礼だったのである。

    キャロル自身は写真家として認知されることにも努力していたわけで、写真展に写真を出品したり、有名人の写真を自分で撮影してそれを売ることもしていた。やはり有名人の写真は売れたのだ。著名人の写真を撮ることにキャロルは貪欲だった。それは、自分の作品のアルバムを見せることで、新たなモデルに自分の腕前を示し、撮影許可を得るためでもあった。キャロルはこれらのプロが撮影したポートレートを参考にして、自分の腕を磨いていたとも考えられる。

    彼自身は、児童文学者として有名であったにも関わらず、世間に顔を知られることを極度に嫌い、自分のポートレートを名刺版写真にして売り出すことはしなかった。

    Ⅳ.芸術写真家たちの作品

    〈オスカー・グスタフ・レイランダーの写真作品〉貼られている作品数が最も多い写真家は、当時芸術写真家として

    知られていたオスカー・グスタフ・レイランダー(Oscar Gustav Rejlander, 1813-75)の作品で、全写真53枚のうち22枚にのぼる。アルバムの最初に貼られている聖母マリアの木版画の写真(№ 1)は、当時のアルバムの一つの慣例として、冒頭にはこのような宗教的な主題のものを貼る習慣だったのでこれに従ったのだと思われる。これを除くとレイランダーが撮った少女の写真(№ 2)が最初の写真ということになる(図版 4)。視線が斜め上を向き、正面からではなく斜め45度くらいから撮ったもので、かなり凝ったポーズと言える。非常に鮮明な写真であり、洗練されていて印象的な写真である。

    この写真は同じ1863年にキャロルが撮影したエイミー・ヒューズ(画家アーサー・ヒューズの娘)の写真(図版 5)に似ている。顔の傾きは逆方向だし、視線も斜め下向き、背景の奥行きの使い方も異なっているが、少女の美に対する共通の感覚が映し出されているように思われる。この一枚だけからこのような類推をするには無理があるのは確かだが、この写真がキャロルになんらかの影響を与えたかもしれないと考えることは可能だろう。1863年にはキャロルはラファエル前派の画家たちとその家族、特にその娘たちの写真を数多く撮影していて、それらはAlbum[Ⅲ]に貼られている。

    図版 4ヴァージニア・ダリンプル

    (№ 2)

    図版 5エイミー・ヒューズの写真(Carroll Album Ⅲより)

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  • 1863年のキャロルの日記には、レイランダーを訪問した際の記録がいくつか記述されている。

    1863年3月28日(土):レイランダーの家に行って、私の写真を撮ってもらった。大きいのと小さいのとハーフの長さのだ。非常に多くのプリントやネガを見せてもらった、いくつかはとても美しかった。(Diaries of Lewis Carroll, vol.Ⅰ p. 194)

    1863年7月20日(月):カムデンタウンのジェウィット氏を訪問。私の本(『不思議の国のアリス』)の木版を製作してくれることになっている。話題についてヒントをもらった。私が描いたブロックを彫ってくれることになっているのだ、少し改良を加えて。それからレイランダー氏の所へ行って、テニソン家の人々の写真を購入した。...(Diaries, vol.Ⅰ p. 200)

    これらの記述からもレイランダーとの親しい関係がうかがえる。最初の記述にあるように、キャロルが自分のポートレートをレイランダーに撮影してもらっているのだ。実際彼はこのプロの写真家から技術的にも多くのことを学んだ。写真を購入した記録も書き残している。このアルバムに数多くのレイランダーの作品が収められていることも全く不思議ではない。

    前後するが、この6年前の1857年1月22日の日記にもレイランダーへの言及がある。

    1857年1月22日(木):ホワイトホール・プレイスにスケフィントン伯父を訪問。一緒に写真ギャラリーに行く。心を打つようなものは何もなかった。ロブソンの良いポートレートがあったので注文した。そしてレイランダーによる頭部の写真がいくつかあった。特に二人の子供が写っていて、‘Non Angelim sed Angli’というタイトルだ。色つけされた写真は、昨年の作品ほど出来が良くなかった。我々は後でポリテクニックまで行った。そこでは、これらよりももっと美しい写真を見た。それはメイヨール(John Edwin Mayall, 1810-1901皇室の写真で財をなした)が撮ったものだ。(Diaries, vol.Ⅰ p. 101)

    この時キャロルが見た写真は、ラファエルのマドンナ像の下に描かれた二人の子供の天使に似せてレイランダーが裸の子供二人を同じポーズで撮影したものである。この写真と良く似たポーズの写真がこのアルバムの№ 20と50の‘Do it Again’である(図版 6)。レイランダーはラファエルの絵画などルネサンス期の絵画が、解剖学的に正確でないことを示すために、同じポーズの写真を撮って見せて、それらを画家が利用することを推奨した。

    テキサス大学HRCにはレイランダー自身が自作の写真を編纂し所有していたものと思われるアルバムがある。表紙に‘Rejlander’s Album’と金色で彫り込まれたこのアルバムには49枚の写真が集められている。撮影年は1864-69で比較的集中している。このアルバムに貼られた写真と同じ写真が多くキャロルのアルバムにも貼られているのである。⑶

    写真が出現した直後には、写真は芸術かどうかという激しい論争が行われた。芸術家という媒体

    図版 6‘Do it again’ variant

    (№ 50)

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  • を通じて表現された画像である絵画と異なり、写真は目に見えるものをそのまま科学の力で写し取ったものにすぎず、芸術ではないとする主張がある一方で、写真家もまた芸術家なのであり、描写力に優れた写真は写真家の力によって絵画を超えた新たなる芸術になりうるのだという主張がなされた。レイランダーは後者の主張の中心にいた。自身を「芸術写真家」(Art Photographer)と自認し、絵画のコピーではなく、アートとして認められた絵画と「同等な」(equivalent) ものを写真で表現していると主張していた。

    レイランダーの発言や作品から判断して、かれが芸術として認めていたのは、イタリアのルネサンス芸術、オランダとフランドル(フランス)のジャンル・ペインティング、そしてイギリスのナラティヴ・ペインティングだった。イタリア・ルネサンス・スタイルはハイ・アートと風景画のモデルであった。オランダ・スタイルはロー・ライフ・ジャンル、そしてイギリス・スタイルはミドルクラスの家庭内のシーンなどのモデルとしていた。レイランダーの撮った写真のテーマまたは被写体からすると、彼はハイアートのものとローライフ・スタイルのものと両方を手がけているのがわかる。

    レイランダーの最もよく知られた写真は1857年、マンチェスターのArt Treasures Exhibition にて展示された‘The Two Ways of Life’(1857)(図版 7)である。この写真は36枚のネガを組み合わせて製作された大作で、ルネサンス絵画のようにハイアート的な画面構成で人物を配置してストーリーを表現した作品として注目を集めた。二人の若者が放蕩な生活を送るか、清貧な生活を送るかを選択する様子を描いたもので、ヴィクトリア女王が気に入り、これを買い上げてアルバート公にプレゼントしたことで知られる。登場人物はそれぞれ信仰、勤勉、怠惰、賭博などを表している。構図はラファエロの「アテネの学堂」から借用している。レイランダーは写真を芸術の地位に引き上げるためには芸術の伝統的な規範に従う必要があるとし、オールド・マスターの原形を借りることの正当性を主張した。

    レイランダーはこの作品の制作動機として、イギリスの写真家が世界に通用することを示すためと、写真がいかに芸術に奉仕できるかを示すためであるとし、そして写真の柔軟な造形力を示すために着衣やヌードの人物を盛り込んだと述べた。遠近法と構図を破綻させることなく仕上げた技術はロンドン写真協会の会員たちの賞賛を得たが、娼婦を雇って裸でポーズを取らせたと誤解され、そのことが写真の地位向上を妨げるのではないかとの恐れを抱かせた。実際レイランダーが使ったモデルは娼婦ではなく、舞台の上で絵画や彫刻と同じポーズをとりじっと動かずにいるという興行を打つという役者たちであった。彼らは遠目にはほとんどヌードと見えるような肌色のシャツとタイツをつけて舞台に立つので、中・上流階級には低俗な娯楽と見なされており、故にレイランダーは軽蔑を免れなかった。ヴィクトリア女王が買い上げてアルバート公にプレゼントしたという事実さえ、この偏見を拭い去ることができなかったのである。

    この写真は大きな論争を巻き起こしたわけで、キャロルも見たことはあったはずだし、この写真はカルト・ド・ヴィジットとしても販売されたので、購入することはできたはずだが、キャロルは

    図版 7 ‘The Two Ways of Life’(Media Museum at Bradford 所蔵)

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  • 買わなかったのだろう。ヌードが含まれることを嫌ったのかもしれない。キャロルは知らなかっただろうが、レイランダーがこの写真のネガを製作しているまさにその頃、キャロルは写真を撮り始めたのだった。

    4番目に貼られた‘Please Give Us a Copper’(図版 8)は、道路掃除の少年を演出した写真だが、絵画の世界での日常生活を描くジャンル・ピクチャーを模した作品と言える。ジャンル・ピクチャーは貧乏人や下層階級の人々の生活を描き、フランドルでは繰り返し描かれ愛好されていた。この写真をレイランダーの最初の写真としてこの位置に貼っていることは意味があるかもしれない。

    32番目の写真(図版 9)はレイランダーによるホームレスの少年の肖像である。有名な写真で、当時路上に溢れていた浮浪者の少年という社会問題を扱った作品である。もちろんこれはモデルによる演出である。背景と人物二つのネガを組み合わせて作られている。「プア・ジョー」‘Poor Joe’という別タイトルも付けられていて、ジョーという名前は、ディケンズの長編小説『荒涼館』(Bleak House, 1852-53)に出てくる、マイナーだが愛すべき登場人物としての通りを掃除する少年を連想させる。№4の写真とも繋がっている。都会における貧困の象徴となった写真である。‘Poor Joe’は17世紀スペインの画家バーソロミュー・エステバン・

    ムリリョ(Bartolome Esteban Murillo)の作品‘The Young Beggar’に基づいているとされる。ディケンズのジョーの描写もこの絵の描写に非常に似ていて、両者ともこの絵に着想を得ているのではないかと指摘されている。

    キャロルもアリス・リデルをモデルにして、ボロ布を纏わせて「乞食少女」(‘beggar girl’)の写真を撮っているが、それはレイランダーの‘Poor Joe’より早い1857年の作である。⑷ ディケンズの『荒涼館』は1852-3年なので、着想的にはその辺りから得ていたかもしれない。いずれにせよ社会の歪みから生まれた孤児や浮浪児という社会的な問題が関心を集めていた時代背景があって、この写真が大きな注目を集めたのだった。

    レイランダーの作品22枚のうち、6枚が少女、5枚が少年、2枚が幼児を被写体としているが、レイランダーには大人を被写体としている作品が多い中で、キャロルが選んだ半数以上が子供の写真であることは、やはり彼の関心の反映と考えてもいいのではないだろうか。

    〈レディ・クレメンティーナ・ホーデン撮影の写真〉キャロルはレディ・クレメンティーナ・ホーデン(Clementina Viscountess Hawarden, 1822-65)

    の写真を高く評価していたと言われる。ホーデンの被写体の多くは自分の思春期の娘たちで、自宅の屋敷のベランダの窓から差し込む強い光を利用したコントラストの強い画質を特徴とし、衣装の襞の質感を強調している。窓や鏡といった要素を多用する特徴もある。ホーデンの作品は4枚貼られている。そのうちの2枚は、アグネス・モードとキャサリン・モードの姉妹(№ 42ではアグネスとコーンワリス・モードの兄妹)を撮影したもので、№ 27と42はほぼ同じ場所、同じようなポー

    図版 8‘Please Give Us a Copper’

    (№ 4)

    図版 9‘Poor Joe’(№ 32)

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  • ズでの撮影だが、床に落ちているものの違いなどから、少し時間をおいたか別の時に撮影されたと思われる。しかし同じようなポーズの写真を、モデルを替えて撮っているところを見ると、このポーズまたは構図にこだわりがあったのだろうか。また女児に男役をやらせている異性装の要素もある(図版 10)。

    ホーデンは当時思春期だった自分の娘にある種演劇的なポーズを取らせて、中上流階級の服装や雰囲気を強調した写真を数多く撮っていたが、キャロルとしては、やはり少女の年代のモデルに関心が向いているように思われる。メイヴァーが指摘するように、ホーデンの作品には、キャロルの趣味とは少し異なる独特なエロティシズムが漂っているのであり、キャロルはそのような要素がないものを選んでいるように思われる。⑸

    ホーデンは1863年と1864年にPhotographic Society of Londonで作品を展示し、その芸術性とミザンセヌ、または演劇的なポーズを評価されて、両年ともシルバー・メダルを獲得した。しかしその翌年1865年に享年42という若さでこの世を去った。レイランダーはThe British Journal of Photographyに追悼記事を書いている。

    〈ジュリア・マーガレット・キャメロン撮影の写真〉43番目にはジュリア・マーガレット・キャメロン(Julia Margaret

    Cameron, 1815-79)が撮影したアグネス・グレイス・ウェルド(少女)の肖像が貼られている(図版 11)。キャロルもアグネスを「赤ずきん」に扮装させた写真を撮っており、その写真を展覧会に出品している。

    HRCが 所 蔵 するキャロル のアルバ ムのうちAlbum5は‘Weld Album’と呼ばれていて、Weld family が所有していたとされるアルバムである。父親のチャールズ・リチャード・ウェルドの写真も含まれている。アグネス・ウェルドの写真はキャロルも何度か撮影している。有名なのは「赤ずきん」と題された写真で、キャロルはこれを写真展に出品した。

    このキャメロンの撮影したアグネスの写真には、キャメロンの特徴としての、顔のアップである点、ピントの意図的なぼかしあるいはぶれ、周辺部のネガ、あるいは印画紙をこすったような跡、後から黒く塗りつぶした部分、などが見られる。それらの要素はキャロルが嫌ったいくつかの要素なのだが、それでもこの写真を選んだのはモデルへの思い入れからであろう。

    52番目の「赤と白のバラ」と題されたこの写真(図版 12)だが、実は元の写真には二人の少女が写っていて、右側の少女は上半身が裸である。キャロルはその裸体の部分をトリミングして排除し、また楕円形にカットし、さらには元の写真で少し右に傾いている顔をまっすぐにした状態にして貼り付けている。この修正には、キャロルの裸体

    図版 10アグネス・モードと

    キャサリンモード(№ 27)

    図版 11Agnes Grace Weld

    (№ 43)

    図版 12‘The Red and White

    Roses’(№ 52)

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  • に対するある種の警戒心が表れているのかもしれない。キャロル自身が少女のヌード写真を撮影していることは周知の事実だが、キャメロンが撮った写真のヌードの部分を排除したということは興味深い点である。

    キャロルは1864年の6月23日、ロンドン写真協会の写真展でキャメロンの写真を見ている。 その後キャロルはキャメロンに手紙を書き、画家のジョージ・フレデリック・ワッツ(George Frederick Watts, 1817-1904)を紹介してくれるように依頼した。このアルバムの最後にも写真が貼られている人気女優のエレン・テリー(Ellen Terry)の写真を撮るためだった。その当時エレン・テリーは画家のワッツ夫人だった。そしてこの年、キャロルはワイト島のキャメロン邸を訪問してしばらく滞在し、キャメロンと写真について話し合ったりもしている。

    キャロルはキャメロンの特徴的な手法としての、ピントをぼかすとか、ブレを気にしないとか、ネガのプレートに指で傷や跡をつけることを嫌っていたとされるが、キャメロンが撮る少女の写真には関心を持っていたのだろうということが、このアルバムに貼られた3枚の少女写真の選択からは言えるだろう。№ 43のアグネス・ウエルドの写真は、キャロル自身が被写体としてそれ以前から撮影していたモデルであるので、その関連で選んだのかもしれない。

    Ⅴ.その他

    〈アレクサンダー・マンローの彫刻の写真〉このアルバムにはアレクサンダー・マンロー(Alexander Munro,

    1825-71)の子供を表現した彫刻の写真が計3枚貼られている。一つは『狐の手袋による計測』(‘Measurement by Foxglove’)である

    (図版 13)。マンローの彫刻の写真は、キャロル自身が撮影した写真を集めた他のアルバムにも必ずと言っていいほど貼られていて、その作品を高く評価していたことがよくわかる。マンローの作品は、子供の無垢と清純さを強く意識した作品であり、キャロルは彼の追求する美こそが自分も追い求めているものだと感じていたに違いない。また、白い彫刻が、白黒の写真表現との共通項を多く持っていることも、これらの彫刻の写真の収集ということに繋がっているのかもしれない。キャロルの別のアルバムA[Ⅱ]には、キャロル自身が1859年に撮影したマンローの写真があるが、それは彫刻家がまさに製作している場面のポーズをとって撮影したものだった。

    〈絵画の写真: ジョン・エヴェレット・ミレイの絵 『春』〉23番目に貼られているのは、1859年にアカデミー展に出品されたジョン・エヴェレット・ミレイ

    (John Everett Millais, 1829-96)の『りんごの花』(または『春』)である(図版 14)。この作品はミレイが、初期のラファエル前派の作風から、唯美的主題へと作風を変える転機となった時期の作品とされている。それまでラファエル前派の主流だった「主題性や逸話性」を排除し、「漠とした雰囲気(ムード)を介して見る者の感性に訴えかけるやり方」をとっている。「『春』では花盛りの果樹園と前景に集う娘たちが呼応しあい、みずみずしい生命感が画面に横溢している。とはいえ、

    図版 13‘Measurement by Foxglove’

    (№ 9)

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  • 右端からのぞく大鎌の刃が、この幸福な季節がやがては終わることを密かに暗示している。」⑹ ラファエル前派を中心に、神話や聖書の伝統的な主題や、当時の生活における逸話や教訓をテーマに描いた物語的絵画を見慣れていた当時の人々にとって、ミレイによるこのような「感覚的」な絵は、あまりにも「暗示的で理解を超える」ものだったため、当惑した批評家たちから批判を浴びた。この苦難の時期を経て、その後、1865年ごろから、主題よりもより美的な効果の方に重きを置く傾向に向かうようになる。その後ミレイにおける唯美主義的傾向は、子供を題材にした作品で際立った成果を生み出した。手紙の中で、「子どもは抽象的な状態の美を表している」と書いている。その後のミレイの作品には、キャロルの『鏡の国のアリス』の挿絵としてジョン・テニエルが描いた絵のモデルとなったのではないかとされる‘My First Lessson’や、キャロルがイクシー・キッチンをモデルに写真で再現しようとした‘Cherry Ripe’(ジョシュア・レイノルズの絵画‘Penelope Boothbie’をモデルにしたとされる)の絵など、キャロルの少女のイメージに多くの影響を与えた絵を描いているが、そのような傾向への転機を示すこの『春』の写真を、キャロルがアルバムに貼っているということには意味があるかもしれない。

    Ⅵ.おわりに

    アルバムA[X]でキャロルが集めた写真の大部分は、同時代において写真を芸術として認させるために努力していた、いわゆるアート・フォトグラフの先駆者たちの作品だった。彼らはそれぞれ独自のスタイルは持っていたが、共通項としては、古典的文学や聖書の場面を描く絵画と同等な表現力を写真が持ち合わせていること、あるいは現実をありのままに写し取る写真の描写力が、その様な絵画の手助けになるのだということを示そうとしていた。自らも芸術家を自認していたキャロルは、そのような流れを意識していて、三人の同時代のプロの写真家の写真を収集していたが、やはり彼らの手法をそのまま受け入れるのではなく、自分の独自の関心に沿った写真を選んで収集していることが伺われる。レイランダーやキャメロン、ホーデンらのストーリー性を孕んだ演出に凝った写真よりも、写真術の技術的な細部、あるいは画面構成の出来ということにむしろこだわり、被写体自身が持つ内面的な美しさ、画面の構成の美を追求したと言えるだろう。芸術写真家と呼ばれた彼らの作品の中から、物語性と連動した芸術性を追求した古典的な絵画との共通項を示そうとした写真よりもむしろ、テーマとしては子供や少女の写真、構図や写真の画質や構図における完成度を基準に作品を集めていることが伺える。

    とはいえ、キャリアの後半ではキャロルが次第に演出に関心を向け、様々な異文化の衣装を着せたり、文学の一場面を再現するような写真を撮るようになったことは事実としてはあるが、その際も子供、特に少女、を扮装させて撮影しているものが多いことは、彼の関心の中心がやはり物語性といった演出よりも、むしろ被写体の少女たち本人の持つ本質的な美しさに向いていたことの証であろう。

    図版 14‘Apple Blossoms(1859)’(№ 23)

    ルイス・キャロルの写真アルバムA[X]について

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  • ⑴ Gernsheim, Helmut. Lewis Carroll Photographer. p. 103⑵ 吉本和弘「ルイス・キャロルの写真アルバムA[Ⅲ]とラファエル前派芸術」県立広島大学人

    間文化学部紀要 第13号(2018年3月)pp. 63-83.参照。⑶ このアルバムについてはHRCのデータベース上にほとんど情報がないので、それぞれの写真

    について詳細がわからない。また同じ写真の別のプリントがプリンストン大学にもあるのだが、記録が1860年の撮影となっていて情報に違いが見られる。

    ⑷ キャロルの写真の方は乞食少女と結婚したコフェチュア王の物語を題材にしたとする説がある。コフェチュア王の物語は、ラファエル前派の画家エドワード・バーン・ジョーンズも題材として描いている(‘King Cophetua and the Beggar Maid,’ 1884)。

    ⑸ Mavor, Carol. Becoming: The Photographs of Clementina, Viscountess Hawarden. Durham & London, Duke University Press, 1999.参照。

    ⑹ 荒川裕子『ジョン・エヴェレット・ミレイ:ヴィクトリア朝美の改革者』、東京美術、2015年、 58項。

    主要参考文献

    Gernsheim, Helmut. Lewis Carroll Photographer. New York, Dover Publication, 1969.Green, Roger Lancelyn. Diaries of Lewis Carroll, vol I, II. Westport, Connecticut, Greenwood

    Press, 1954.Green-Lewis, Jennifer. Victorian Photography, Literature, and the Invention of Modern Memory.

    London, Bloomsbury Academic, 2017.Mavor, Carol. Becoming: The Photographs of Clementina, Viscountess Hawarden. Durham &

    London, Duke University Press, 1999.Newhall, Beaumont. The History of Photography. New York. The Museum of Modern Art, 1982.Olsen, Victoria. From Life: Julia Margaret Cameron & Victorian Photography. London, Aurum

    Press, 2003.Smith, Lindsay. Lewis Carroll: Photography on the Move. London, Reaktion Books, 2015.Spencer, Stephanie. O. G. Rejlander Photography as Art. Ann Arbor, UMI Research Press

    Studies in Photography, 1981.Wakeling, Edward. The Photographs of Lewis Carroll: A Catalogue Raisonne. Austin, TX.,

    University of Texas Press, 2015.Wakeling, Edward. Lewis Carroll: The Man and His Circle, London, I. B. Tauris, 2015.Waggoner, Diane, et. al. The Pre-Raphaelite Lens: British Photography and Painting, 1848-1875.

    Lund Humphries, 2010.Yoxall Jones, Edgar. Father of Art Photography O. G. Rejlander 1813-1875. Greenwich, New

    York Graphic Society, 1973.荒川裕子『ジョン・エヴァレット・ミレイ:ヴィクトリア朝美の革新者』東京美術、2015年。

    県立広島大学 総合教育センター紀要 第4号

    ― 39 ―

  • Appendix

    Lewis Carroll Photo Album A[Ⅹ] 写真のリストとその他の情報№ 被写体あるいはタイトルとカテゴリー 撮影者 撮影時期 サイズ㎝1 Engraving by unidentified artist, Mother Mary and

    Jesus Christ (宗教画、版画)Unidentified Photographer

    Circa 1860 27.7×16.0

    2 Virginia Dairymple (少女一人) Oscar Gustav Rajlander

    Circa 1863 19.7×14.7

    3 Alfred Tennyson (男性著名人) James Mudd Circa 1870 22.3×17.6 4 Please Give Us a Copper(物語写真、浮浪者の少年) O. G. Rajlander Circa 1856-7 17.3×13.1 5 Child’s Play by Alexander Munro (彫刻) Unidentified

    PhotographerCirca 1857 22.3×17.6

    6 Charles Dickens(男性著名人) Herbert Watkins, (Photographer)

    1859 20.1×15.2

    7 Isabella Somers-Cocks (少女) O. G. Rajlander Circa 1863 19.1×15.2 8 Unidentified tableau(物語写真、四人の男性) O. G. Rajlander 1860 15.7×20.2 9 Measurement by Foxglove by Alexander Munro(彫刻) Unidentified

    PhotographerCirca 1859 20.5×15.2

    10 An English Face (若い女性) O. G. Rajlander Circa 1865 17.5×14.6 11 Samuel Warren, M. P. (男性著名人) Maul & Polyblank,

    photographer1856 19.5×15.2

    12 Untitled tableau(物語写真、老人と浮浪者の少年) O. G. Rajlander Circa 1860 20.5×15.2 13 Cardinal Wiseman(男性著名人) Maul & Polyblank, 1856 19.6×14.7 14 Isabella Somers-Cocks and Adeline Somers-Cocks

    (少女二人)O. G. Rajlander Circa 1863 16.0×13.2

    15 John Buckstone (著名人) Maull & Polyblank, 1859 20.5×15.2 16 Lionel Tennyson (少年一人) O. G. Rajlander 1863 19.0×14.2 17 Samuel Wilberforce (男性著名人) Herbert Watkins 1857 19.8×15.0 18 English Fashion at Breakfast(物語写真、成人女性二人) O. G. Rajlander Circa 1860 20.4×15.2 19 English Fashion at Breakfast(物語写真、成人女性二人) O. G. Rajlander Circa 1860 20.4×15.3 20 Do it Again! (幼児) O. G. Rajlander 1857 12.3×9.9 21 Have a Tune, Miss!(物語写真、手回しオルガンの青年) O. G. Rajlander Circa 1865 19.8×13.9 22 Henry Brougham, 1st Baron Brougham and Vaux

    (男性著名人)Herbert Watkins 1857 20.0×15.0

    23 Apple Blossoms (1859) by John E. Millais(絵画) Unidentified Photographer

    Circa 1865 13.4×20.6

    24 Herbert William Fisher (男性著名人) Hills & Saunders, Circa 1865 19.4×14.9 25 Clementina Maude and Antonia Lillian Maude, 5 Princes

    Gardens(母親と赤ん坊)Clementina Hawarden,

    1864 16.3circle

    26 Clementina Maude, 5 Princes Gardens(若い女性) Clementina Hawarden

    1864 13.7×13.3

    27 Elphinstone Agnes Maude and Kathleen Maude, 5 Princes Gardens (少年と少女)

    Clementina Hawarden

    Cicra 1862 18.8×12.2

    28 Sir George Biddell Airy (男性著名人) Maull & Polyblank, 1858 18.9×14.1 29 The First Locomotive Engine Employed on a Public

    Railway [The Stockton & Darlington Locomotive No. 1], published by Harrison Penney (蒸気機関車)

    Unidentified Photographer

    1858 16.2×21.4

    ルイス・キャロルの写真アルバムA[X]について

    ― 40 ―

  • 30 Take Care of Your Complexion(物語写真、四人の少女) O. G. Rajlander 1860 15.4×17.8 31 Professor Michael Faraday, Esq., D. C. L., F. R. S.

    (男性著名人)Maull & Polybank, 1857 16.9×13.0

    32 Homeless or ‘Poor Joe’(物語写真、少年) O. G. Rajlander Circa 1860 19.0×14.3 33 Adeline Somers-Cocks (少女) O. G. Rajlander Circa 1863 16.9×13.0 34 George MacDonald (男性著名人) Unidentified

    PhotographerCirca 1860 19.6×15.3

    35 Purify My Heart, also known as ‘The Little Sisters’(少女二人)

    O. G. Rajlander Circa 1860 12.4×9.9

    36 First I Lost My Pen and Now I've Lost My Spectacles! (物語写真、成人男性)

    O. G. Rajlander Circa 1860 19.0×14.2

    37 Unidentified woman (若い女性) Unidentified Photographer

    Circa 1860 15.1×11.3

    38 Lionel and Hallam Tennyson (少年二人) O. G. Rajlander 1864 19.0×14.2 39 Sir Henry Taylor (男性著名人) O. G. Rajlander 1863 16.9×13.0 40 Kate Terry (女性著名人) Unidentified

    PhotographerCirca 1870 19.0×14.3

    41 Kate Terry (女性著名人) Unidentified Photographer

    Circa 1870 19.0×14.3

    42 Elphinstone Agnes Maude and Cornwallis Maude (少年と少女)

    Clementina Hawarden

    Circa 1862 18.3×12.9

    43 Agnes Grace Weld (少女) Julia Margaret Cameron

    1864 22.3×17.2

    44 The Right Hon. W. E. Gladstone, M. P.(男性著名人) Maull & Polybank, 1857 16.8×13.0 45 Kate Keown (少女) Julia Margaret

    Cameron1864 19.9×15.2

    46 The Evening Sun (物語写真、成人女性) O. G. Rajlander 1860 16.9×13.1 47 Isabella Grace Maude, 5 Princes Gardens

    (物語写真、若い女性)Clementina Hawarden

    1864 20.5×15.3

    48 Lionel Tennyson(少年) O. G. Rajlander 1862 17.2×11.7 49 Drawing by unidentified artist of Cardinal Bonaventura,

    after Raphael's La Disputa(絵画)Unidentified Photographer

    Circa 1865 19.1×14.9

    50 Do it Again! (variant) (幼児) O. G. Rajlander 1857 11.7×9.2 51 Unidentified sculpture by Alexander Munro(彫刻) Unidentified

    PhotographerCirca 1860 17.3×11.4

    52 The Red and White Roses (detail) (少女) Julia Margaret Cameron

    1865 18.7×13.7

    53 Ellen Terry in the title rold of Dora by Charles Reade (女性著名人)

    Julia Margaret Cameron

    1878 30.5×23.1

    表内の情報はテキサス大学オースチン校のHarry Ransom CenterのHPによる。全ての画像はHRCのホームページにて閲覧することが可能。本稿に掲載した画像はすべてHRC所蔵の写真から許可を得て撮影し掲載したものである。https://hrc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p15878coll18

    県立広島大学 総合教育センター紀要 第4号

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