の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因...

89
3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No. エピソード・意義 社会の動き 714.7.15 和銅七年五月二十五日 遠江地震 和銅八年五月二十五日、遠江地震で山が崩れ、 麁玉川を塞ぐ、水そのため流れず、数十日を経 て欠潰し、敷智、長下、石田の三都、民家170余 区を没し、あわせて苗を損ず(続日本紀) 714遠江 地震-715 旧南信濃村西島地区~ 木沢地区にかけての遠山 川約1キロ間で確認でき る埋没林の年代測定結 果より、水没したのは714 年と判明、過去の記録と さまざまな自然科学デー タによって、遠江地震によ り池口川左岸で池原くず れが発生し、池口川をせ き止め一つ目の天然ダム をつくり、さらに下流へ 下った岩石が右岸側の尾 根を乗り越えて遠山川に 流れ込み、川をせきとめ て二つ目の天然ダムがで き、その天然ダムに沈ん でいった森がしだいに土 砂に埋まり、埋没林に なったと考えられいる 和銅七年一月/初めて 食封の田租を封主に全 給する 和銅七年九月/撰銭を 禁止 715 霊亀元年五月二日 霊亀元年五月二日数知、石田、長下の三都民間 百七十余、 鹿王河(天竜川の旧名)洪水(天竜川 洪水史) 霊亀元年五月/百姓 の流亡を戒め、浮浪者 は浮浪地で課す(土断 法) 726 神亀三年 神亀三年十二月丁卯遠江五郎水害を被る(天竜 川洪水史) 神亀三年九月/豊作に より今年の田祖を免じ 761 天平宝字五年七月 天平宝字五年七月辛丑荒王河決潰三百余丈 (天竜川洪水史) 天平宝字五年十一月 /東海・南海・西海の3 道の節度使を任命し て、船舶・兵士を動員 し、訓練 1225.7.15 元仁二年六月二日 ○大蛇が天竜川を流れていった話 「元仁二年六月二日、雨がひどく天竜川の 水は濁流がうずまき、得たいのしれないも のが沢山流れ、二丈(5、6メートル)もある 大蛇も流れていったという。」 1225 洪水- D586 ○鎌倉時代の洪水 ○濁流とともに流れ る大蛇 元仁二年十二月/幕 府、評定衆を設置、鎌 倉大番の制度を定める ※「社会の動き」への記入方法:災害・伝承の発生した年の近年に おこった社会の動きに関しては、 斜字 で記入 天竜川上流域の災害年表 ―被害の実態と教訓伝承一覧表― 参考-4

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Page 1: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-1

 

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

714.7

.15

和銅

七年

五月

二十

五日

遠江

地震

和銅

八年

五月

二十

五日

、遠

江地

震で

山が

崩れ

、麁

玉川

を塞

ぐ、

水そ

のた

め流

れず

、数

十日

を経

て欠

潰し

、敷

智、

長下

、石

田の

三都

、民

家170余

区を

没し

、あ

わせ

て苗

を損

ず(続

日本

紀)

714遠

江地

震-715

旧南

信濃

村西

島地

区~

木沢

地区

にか

けて

の遠

山川

約1キ

ロ間

で確

認で

きる

埋没

林の

年代

測定

結果

より

、水

没し

たの

は714

年と

判明

、過

去の

記録

とさ

まざ

まな

自然

科学

デー

タに

よっ

て、

遠江

地震

によ

り池

口川

左岸

で池

原くず

れが

発生

し、

池口

川を

せき

止め

一つ

目の

天然

ダム

をつ

くり

、さ

らに

下流

へ下

った

岩石

が右

岸側

の尾

根を

乗り

越え

て遠

山川

に流

れ込

み、

川を

せき

とめ

て二

つ目

の天

然ダ

ムが

でき

、そ

の天

然ダ

ムに

沈ん

でい

った

森が

しだ

いに

土砂

に埋

まり

、埋

没林

にな

った

と考

えら

れい

和銅

七年

一月

/初

めて

食封

の田

租を

封主

に全

給す

和銅

七年

九月

/撰

銭を

禁止

715

霊亀

元年

五月

二日

霊亀

元年

五月

二日

数知

、石

田、

長下

の三

都民

間百

七十

余、

鹿王

河(天

竜川

の旧

名)洪

水(天

竜川

洪水

史)

霊亀

元年

五月

/百

姓の

流亡

を戒

め、

浮浪

者は

浮浪

地で

課す

(土

断法

726

神亀

三年

神亀

三年

十二

月丁

卯遠

江五

郎水

害を

被る

(天竜

川洪

水史

)

神亀

三年

九月

/豊

作に

より

今年

の田

祖を

免じ

761

天平

宝字

五年

七月

天平

宝字

五年

七月

辛丑

荒王

河決

潰三

百余

丈(天

竜川

洪水

史)

天平

宝字

五年

十一

月/

東海

・南

海・西

海の

3道

の節

度使

を任

命し

て、

船舶

・兵

士を

動員

し、

訓練

1225.7

.15

元仁

二年

六月

二日

○大

蛇が

天竜

川を

流れ

てい

った

話「元

仁二

年六

月二

日、

雨が

ひど

く天

竜川

の水

は濁

流が

うず

まき

、得

たい

のし

れな

いも

のが

沢山

流れ

、二

丈(5、

6メ

ート

ル)も

ある

大蛇

も流

れて

いっ

たと

いう

。」

1225

洪水

-D

586

○鎌

倉時

代の

洪水

記 ○濁

流と

とも

に流

れる

大蛇

元仁

二年

十二

月/

幕府

、評

定衆

を設

置、

鎌倉

大番

の制

度を

定め

※「社

会の

動き

」への

記入

方法

:災害

・伝承

の発

生し

た年

の近

年に

おこ

った

社会

の動

きに

関し

ては

、 

斜字

 で

記入

  天

竜川

上流

域の

災害

年表

 ―

被害

の実

態と

教訓

伝承

一覧

表―

参考

-4

Page 2: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-2

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1394以

前応

永以

○熱

田神

社(長

谷溝

口)

「名

古屋

の熱

田神

宮か

ら勧

請し

ても

らい

室町

時代

以前

に建

てら

れて

いた

とさ

れて

いる

。日

本武

尊が

、赤

河原

の地

で大

蛇を

切り

殺し

た後

、大

蛇の

頭を

携え

て溝

口の

里に

来、

桑の

大樹

の下

に行

宮を

造り

、そ

の傍

らに

大蛇

の頭

を埋

めて

里の

患い

を取

り除

いた

とい

う。

D541

○天

災を

もた

らす

主を

退治

した

英雄

元中

九年

十月

/南

北朝

統一

1472.6

文明

四年

五月

宮川

と上

川が

氾濫

どの

部落

も濁

流に

のま

れ、

あび

きょ

うか

んの

修羅

場だ

った

応仁

元年

五月

/応

仁・

文明

の乱

おこ

1482.6

.11

文明

十四

年五

月二

十五

日五

月二

五日

より

大雨

、大

町・十

日市

場・安

国寺

押し

流さ

れる

、大

町水

海(諏

訪地

方)

1482洪

水-782

1482.8

.9文

明十

四年

七月

二十

五日

七月

二五

日よ

り大

雨、

五日

市場

・十

日市

場・大

町大

海(諏

訪地

方)

1482洪

水-783

1500頃

室町

時代

明応

の頃

○一

本松

の伝

説「小

野村

の南

方新

田と

いう

所に

一本

の独

立し

てい

る松

があ

った

。田

甫中

の三

州街

道脇

にあ

った

が、

現在

では

枯れ

て伐

られ

てし

まっ

た。

今を

500年

ばか

り遡

った

当時

、小

野川

は今

の流

れと

場所

を変

えて

いる

が、

小雨

でさ

え川

は氾

濫し

、田

畑を

流す

こと

が度

々で

あり

農民

は困

って

いた

。時

の庄

屋が

何か

の祟

りだ

とい

い、

これ

を鎮

める

ため

に一

本の

松を

植え

た。

それ

から

は川

も氾

濫す

るこ

とな

く、

豊年

が続

いた

とい

う。

昭和

十年

に伐

った

時、

木の

中に

五斗

も水

が入

って

いて

、そ

の後

大水

がで

たの

で村

人は

後を

絶え

ない

よう

松を

植え

ると

いう

話が

ある

が、

今だ

に植

えて

いな

いと

いう

。(小

野一

夫、

第五

三号

、S37.7

.2)」

D638

○村

を護

った

松○

平成

18年

豪雨

災害

の時

、近

くの

飲み

川・小

野中

村で

土石

流が

発生

して

いる

1533.6

.21

天文

二年

五月

二十

九日

五月

二十

九日

天竜

川大

洪水

、六

月五

日洪

水、

八月

十七

日天

竜川

に水

が出

る、

九月

十四

日大

洪水

、五

月の

洪水

のご

とし

(東

春近

村)

1533洪

水-783

天文

三年

/府

中小

笠原

長棟

の攻

撃に

より

伊那

地域

の小

笠原

氏滅

亡、

府中

小笠

原家

が信

濃国

の小

笠原

一族

を統

文明

十一

年/

小笠

原家

総領

職と

伊賀

良荘

の支

配権

を巡

って

信濃

国守

護の

小笠

原政

秀と

、同

族で

ある

小笠

原家

長と

の間

で争

いが

始る

、そ

の後

小笠

原政

秀が

忙殺

され

たこ

とで

松尾

小笠

原家

が伊

那地

域を

統一

Page 3: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-3

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1540.1

.22-23

天文

八年

十二

月十

四日

~十

五日

大雨

が降

り、

大水

とな

って

橋が

流さ

れ西

東の

通路

も止

まっ

てし

まっ

た(諏

訪市

)1540洪

水-784

1540.9

.11

天文

九年

八月

十一

日近

年に

ない

大風

で諏

訪上

社前

宮で

古木

や大

木が

吹き

折れ

る、

風が

鎮ま

って

から

大水

が来

て大

町で

は家

が十

ばか

りも

流れ

た(諏

訪市

1540洪

水-785

天文

九年

五月

/武

田信

虎、

信濃

国佐

久郡

を攻

1542.8

.14

天文

十一

年七

月四

○桑

原城

の攻

防「酉

の刻

に大

洪水

ふり

、翌

日諏

訪頼

重、

武田

信玄

に振

る。

(守

矢頼

真書

留)前

日に

発生

した

大洪

水が

、諏

訪方

総大

将諏

訪頼

重の

桑原

城攻

防の

命運

をわ

けた

とい

う。

戦線

から

先ず

譜代

の家

臣が

離脱

する

よう

な異

常事

態を

招き

、戦

意を

喪失

して

あえ

ない

結末

であ

った

こと

が暗

示さ

れて

いる

。」

1542

洪水

-D

500

○歴

史に

影響

を与

えた

天災

の史

天文

十一

年九

月/

武田

晴信

(信

玄)の

諏訪

進行

し諏

訪惣

領家

が滅

亡 武田

軍は

天竜

川沿

いに

攻め

下り

、福

与城

(箕

輪町

)の

藤沢

頼親

を攻

め、

降伏

させ

1544

天文

十三

○四

百年

前の

南原

橋「四

百数

十年

前、

現在

の飯

田市

下久

堅南

原に

ある

黒瀬

が淵

の上

に天

竜川

唯一

の橋

がか

かっ

てい

た。

(南

原橋

)天

文十

三年

(1544)に

おこ

った

洪水

で、

その

橋が

落ち

てし

まっ

た。

その

後ず

っと

橋は

なく、

明治

二年

にな

って

赤須

の山

から

持っ

てき

た松

の大

木を

使っ

て橋

がつ

くら

れた

。」

1544

洪水

-D

587

○天

文十

三年

の洪

、南

原橋

流出

の史

1544.7

.28

天文

十三

年七

月九

○横

山七

か寺

・御

堂島

薬師

の流

失「天

文十

三年

七月

九日

(1544 年

7 月

28

日)の

大洪

水で

横山

七か

寺(青

木川

を地

蔵峠

に向

かう

途中

)、

御堂

島薬

師(下

青木

地区

)が

流出

した

。(大

鹿村

誌)こ

の大

洪水

は、

全国

的に

おこ

った

よう

で、

京都

でも

大洪

水で

四條

五條

橋な

どが

流失

して

いる

。」

1544

洪水

-D

588

○天

文十

三年

の洪

水、

横山

七か

寺・御

堂島

薬師

流出

の史

1558~

1570

永禄

年間

○永

禄年

間に

おけ

る川

除普

請、

宇田

屋付

近の

竹木

の伐

採禁

止( 喬

木村

伊久

間)

D508

○防

災対

策永

禄三

年五

月/

桶狭

間の

戦い

で織

田信

長が

今川

義元

を討

天文

十三

年七

月/

足利

義晴

、細

川晴

元と

和睦

Page 4: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-4

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1569.7

永禄

十二

年六

月小

川川

氾濫

(永

禄十

二年

六月

小川

郷の

水損

川除

普請

の資

料)

1569洪

水-732

永禄

十二

年三

月/

織田

信長

、撰

銭令

をだ

中世

末期

○伊

久間

水除

土手

(掘

割)

「長

さ1,7

00m

、高

さ1m

余り

の掘

割で

、伊

久間

の人

たち

が集

団で

中世

末期

頃か

らつ

くり

はじ

めた

とい

う。

人家

の多

いあ

たり

には

水除

土手

は二

重に

造ら

れて

いる

。し

かし

災害

が遠

のくと

その

効得

を忘

れが

ちに

なり

、掘

割を

埋め

たり

物を

置い

たり

、い

ざら

いを

怠っ

た。

その

結果

、大

きな

雹が

降っ

た昭

和2年

6月

には

、麦

がら

など

が堀

割の

中に

入っ

てい

たの

でた

ちま

ちに

水が

溢れ

出し

、伊

久間

は災

害に

見舞

われ

た。

D508

○災

害に

対す

る人

の知

1573

天正

元年

天正

元年

癸酉

八月

洪水

大風

吹く(川

路資

料)

1573洪

水-730

天正

元年

四月

/京

都へ

上洛

しよ

うと

三河

国ま

で攻

め上

った

武田

信玄

が死

1573-1593

天正

年間

○蛇

塚「む

かし

西箕

輪の

大萱

の耕

地に

住ん

で作

物を

荒ら

し、

人々

を恐

がら

せて

いた

大蛇

が、

大泉

あた

りに

も主

没し

たた

め、

時の

領主

保科

弾正

が家

臣に

命じ

て退

治さ

せ死

骸を

埋め

たと

いう

。昭

和の

初期

の頃

まで

は高

く石

が積

まれ

、蛇

がた

くさ

んい

たと

いわ

れる

が、

西天

竜耕

地整

理の

ため

に取

り除

かれ

、水

田と

なっ

てし

まっ

たが

、蛇

塚と

いう

地名

が残

され

てい

る。

天正

-D

535

○耕

地を

荒ら

す大

蛇退

天正

三年

五月

/武

田勝

頼が

長篠

の戦

いで

織田

信長

に惨

敗、

下伊

那地

域へ

の入

口に

あた

る重

要な

岩村

城を

守衛

して

いた

秋山

信友

が織

田軍

の攻

撃に

より

降伏

1578.6

.17

天正

六年

五月

十二

日 天

正六

年戌

寅五

月十

二日

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

1580

天正

八年

天正

八年

庚辰

箒星

現る

(川

路資

料)

1573洪

水-730

Page 5: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-5

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1582.3

天正

十年

二月

○大

蛇が

城「大

蛇が

城(大

島城

)の

崖下

にあ

る天

竜川

の深

い淵

には

大蛇

が棲

むと

いう

。雲

ひと

つな

い晴

れた

日の

朝、

淵の

上よ

り立

ち昇

る水

気が

霧の

雨と

なっ

て城

に降

りそ

そぐ

のを

見る

人た

ちは

、大

蛇の

仕業

だと

いっ

て不

吉の

前兆

でも

ある

よう

に恐

れて

いた

。天

正十

年二

月、

織田

信忠

の大

軍が

火矢

で城

を攻

めた

時、

火の

手が

あが

ると

不思

議に

も淵

の水

が雨

とな

って

消さ

れて

しま

った

。こ

れは

大蛇

の仕

業だ

と淵

に無

数の

矢を

射込

むと

、淵

の面

に大

波が

狂い

起き

、天

地晦

冥の

大雷

雨が

起こ

り、

天竜

川の

水を

真っ

赤に

染め

て大

蛇が

淵の

底深

くに

沈ん

でい

った

。そ

して

城は

焼か

れ、

落城

した

。今

でも

城跡

の畑

を掘

りお

こす

と真

っ黒

い焼

米が

出て

くる

とい

う。

また

一説

に城

兵が

、城

に向

かっ

て大

蛇が

吐く水

煙を

不吉

に思

い、

射殺

した

。守

護を

失っ

た城

は間

もな

く敵

に攻

め落

とさ

れた

とも

いう

。」

1582-

D520

○淵

の主

=大

蛇○

大蛇

の怒

天正

十三

年/

織田

信忠

の大

軍が

大島

城(大

蛇が

城)を

攻め

落と

1585.6

天正

十三

年六

月天

正十

三年

乙酉

六月

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

桑畑

沢源

流部

(清

内路

村)の

斜面

崩壊

堆積

物中

の埋

れ木

は年

代測

定か

ら、

天正

地震

と一

致し

てい

る、

天然

ダム

形成

1585天

正地

震-718

○御

射山

社の

破壊

「南

箕輪

村の

春日

街道

沿い

の西

側に

、大

きな

落葉

松が

2本

寄り

添う

よう

に生

えて

いる

下に

「御

射山

社」と

刻ま

れた

石碑

が建

てら

れて

いる

。こ

の場

所に

は、

大同

四年

(809)に

坂上

田村

丸が

天皇

の勅

命に

より

建立

した

御射

山社

本社

があ

った

。451年

後に

再建

され

たが

、天

正地

震(1586年

1月

18日

)の

時に

破壊

され

、そ

の後

243年

間造

営す

るこ

とが

でき

ずに

いた

。そ

こで

文政

十年

(1827)七

月に

由来

を記

した

碑が

建て

られ

た。

1586

地震

-D

534

○天

正地

震に

よる

御射

山社

の破

壊の

史実

1594.9

.24

文禄

三年

八月

十日

文禄

三年

壬辰

八月

十日

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

文禄

三年

三月

/秀

吉、

伏見

築城

を開

天正

十三

年七

月/

秀吉

が関

白と

なり

藤原

姓を

受け

1586.1

.18

天正

十三

年十

一月

二十

九日

天正

地震

Page 6: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-6

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1596.7

.14・18

慶長

元年

六月

十九

日・二

十三

日六

月十

九日

・二

十三

日、

信濃

等に

大洪

水、

百年

以来

の大

水と

いう

1596.7

慶長

元年

七月

地震

慶長

元年

丙申

七月

地震

(川

路資

料)

1586地

震-734

1608

慶長

十三

年慶

長十

三年

夏大

出水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

慶長

八年

二月

/徳

川家

康が

征夷

大将

軍と

なり

、江

戸幕

府を

開く

1612.5

慶長

十七

年五

月五

月天

竜川

大洪

水。

田中

城三

日町

流失

、竜

東へ

移る

。(現

箕輪

町)

1612洪

水-785

慶長

十七

年三

月/

幕府

、キ

リシ

タン

を禁

じ京

都の

教会

堂の

破却

を命

ずる

(禁

教令

1614.9

慶長

十九

年八

月慶

長十

九年

申寅

八月

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

慶長

十九

年十

月/

徳川

家康

、大

阪征

討の

命令

を発

する

(大阪

冬の

陣)

1615頃

元和

元年

○石

神の

松「元

和(1615~

)の

頃、

天竜

川の

氾濫

に相

次い

で悩

んで

いた

農民

が、

常泉

寺に

寄寓

し法

力持

って

いた

山伏

に頼

って

水難

除の

祈祷

をし

ても

らっ

た。

山伏

は21日

間祈

願を

続け

、満

願の

日に

精魂

尽き

て倒

れた

。そ

して

死に

先立

ちこ

の水

神に

手植

の松

を手

向け

たと

いう

。山

伏の

遺骸

は、

約5、

60m

離れ

た北

東の

段丘

上に

葬り

、祠

を立

てて

行者

さま

とあ

がめ

た。

(山

伏塚

)」

1615

洪水

-D

506

○釜

ヶ淵

の鯉

(九

頭竜

・大

蛇の

化身

)○

山伏

によ

る水

難除

の祈

祷○

山伏

の弔

い(年

々4月

に仲

林部

落の

人々

が山

伏塚

にま

つわ

るお

祭り

を行

う)

1615

元和

元年

○ 小

鍛冶

の矢

文「元

和元

年(1615)酒

井新

左衛

門二

男左

太夫

と、

家来

の庄

右衛

門が

大阪

夏の

陣に

出陣

し左

太夫

は戦

死し

た。

庄右

衛門

は帰

郷の

際に

天竜

川が

増水

して

おり

やむ

なく対

岸の

小鍛

冶よ

り矢

文に

て次

男左

太夫

の戦

死を

主家

に報

じた

。明

治17年

、18年

頃ま

では

洪水

のお

りに

は実

際に

矢文

で通

信を

行っ

てい

たと

いう

。」

1615

洪水

-D

647

○洪

水時

の情

報伝

達手

元和

元年

/幕

府が

平岡

満島

(天

龍村

)に

「白

木改

番所

」設

元和

元年

四月

/大

阪夏

の陣

で豊

臣氏

滅亡

元和

二年

/遠

山6ケ

村を

領有

して

いた

遠山

景直

が病

死、

遠山

騒動

と呼

ばれ

る跡

継ぎ

問題

が発

慶長

五年

九月

/関

が原

の戦

Page 7: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-7

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1618.6

元和

四年

五月

元和

四年

戊午

五月

大水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1618.9

.26-

1619.3

元和

四年

八月

八日

から

元和

五年

二月

まで

元和

四年

戊午

八月

八日

箒翌

年二

月ま

で(川

路資

料)

1573洪

水-730

1620.8

元和

六年

八月

元和

六年

庚申

八月

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

元和

六年

/知

久氏

が浪

合、

小野

川、

帯川

、心

川の

4関

を幕

府か

ら預

かる

よう

にな

1622.9

.16

元和

八年

八月

十一

日元

和八

年壬

戌八

月十

一日

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

元和

八年

八月

/キ

リシ

タン

55名

を長

崎で

処刑

(元

和大

殉教

1624も

しくは

1627

寛永

元年

もし

くは

寛永

四年

○堤

防工

事と

百姓

一揆

「寛

永の

大水

(寛

永元

年と

寛永

四年

、笹

本氏

の見

解か

ら寛

永元

年の

洪水

に関

する

可能

性が

高い

)で

数十

町歩

の田

地流

出、

河原

にあ

った

家二

軒も

流さ

れた

。度

々こ

のよ

うな

水害

に見

舞わ

れた

ので

、時

の飯

田城

主脇

坂様

の家

来で

ある

塩山

次右

衛門

が和

久平

の彦

右衛

門に

いい

つけ

て川

除水

刎普

請を

させ

た。

とこ

ろが

、堤

防工

事の

進め

る際

、小

百姓

にば

かり

に不

公平

なこ

とを

させ

たの

で、

大騒

動が

起き

た。

1624

洪水

-D

589

○堤

防工

事に

まつ

わる

百姓

一揆

1624.5

寛永

元年

四月

寛永

元年

甲子

四月

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

1624.5

寛永

元年

四月

四月

天竜

川満

水に

て田

島大

水害

あり

、一

部の

人高

遠原

へ上

る。

大田

切・与

田切

の被

害大

(宮

田村

1624洪

水-786

1626.4

-9

寛永

三年

四月

~八

月渇

水寛

永三

年丙

寅四

月~

八月

大旱

魃草

木枯

る(川

路資

料)

1626渇

水-735

寛永

三年

/こ

の頃

から

各藩

で塩

の専

売制

を開

1627.9

寛永

四年

八月

寛永

四年

丁卯

八月

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

寛永

四年

七月

/幕

府、

京都

諸寺

出世

法度

を定

める

、紫

衣勅

許を

無効

とす

る(紫

衣事

件)

元和

四年

/領

地没

収と

なり

遠山

郷が

天領

とな

る 寛永

元年

八月

/徳

川忠

長に

駿河

・遠

江・両

国を

加増

(甲

斐国

と合

わせ

50万

石)、

駿府

城主

とな

Page 8: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-8

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1630

寛永

七年

寛永

七年

庚午

凶作

五穀

実ら

ず(川

路資

料)

1573洪

水-730

寛永

七年

七月

/幕

府、

ポル

トガ

ル貿

易を

2年

ぶり

に再

開寛

永八

年三

月/

浅間

山噴

1632

寛永

九年

地震

寛永

九年

辛末

地震

(川

路資

料)

1586地

震-734

寛永

九年

九月

/幕

府、

旗本

諸法

度を

定め

1639.4

寛永

十六

年三

○小

川川

をめ

ぐる

水利

権争

い「伊

久間

村内

伊久

間原

の余

り水

を小

川川

へ落

とし

たこ

と(伊

久間

水除

土手

)か

ら小

川村

との

争い

が起

こっ

た。

D508

○災

害が

もた

らす

利権

争い

寛永

十六

七月

/鎖

国の

完成

1641・1

642

寛永

十八

・十

九年

渇水

寛永

十八

、十

九年

大凶

作、

夏大

旱魃

、秋

大風

、数

度に

及び

五穀

実ら

ず、

野山

に飢

死者

数返

れず

、犬

猫も

又餓

死、

人々

食糧

とし

て草

木根

と掘

り喰

い松

の木

皮を

剥ぎ

香き

粉と

な し

餅に

つく(川

路資

料)

1626渇

水-735

寛永

十九

年/

寛永

の大

飢饉

1644頃

正保

の頃

○深

見の

池伝

説「か

つて

、川

路の

貝鞍

の池

を埋

め立

てて

新し

い田

を作

るこ

とに

なっ

た頃

、こ

のあ

たり

では

見な

れな

い美

しい

娘が

ひと

り、

天竜

川の

川沿

いの

道を

深見

の里

へと

やっ

てき

た。

娘は

とあ

る農

家を

訪れ

、手

伝い

を申

し出

た。

とこ

ろが

3日

目の

朝、

娘は

井戸

に水

を汲

みに

行っ

たま

ま昼

にな

って

も帰

っこ

なか

った

。井

戸端

には

娘の

下駄

が脱

ぎ捨

てて

あり

、村

人が

井戸

をさ

らっ

てさ

がし

てみ

たが

何も

見つ

から

なか

った

。そ

れか

らし

ばら

くし

たあ

る日

、晴

れて

いた

空が

にわ

かに

かき

曇り

、黒

雲が

広が

ると

稲妻

が走

り、

大雷

雨と

なっ

て深

見の

里一

帯を

真っ

暗闇

に包

みこ

んだ

。雷

鳴が

止ん

だ後

、村

人た

ちが

ほっ

とし

て辺

りを

眺め

ると

、今

まで

青々

とし

てい

た麦

畑が

見渡

す限

りの

大池

とな

って

、波

が逆

立っ

てい

た。

村人

たち

は口

々に

「竜

神さ

まの

お怒

りだ

」「お

祭り

をし

て、

水の

霊を

慰め

なくて

は」と

言い

あい

、た

だち

に池

の端

に諏

訪神

社を

祀り

、毎

年7月

にな

ると

イカ

ダを

組ん

で池

に浮

かべ

、神

楽を

奉納

して

池の

主を

慰め

るこ

とに

した

とい

う。

また

、池

の底

は深

く龍

宮に

通じ

てい

ると

もい

う。

1644

雷雨

-D

524

○複

数あ

る深

見の

池の

主伝

説(天

龍村

平岡

宇連

の大

蛇)

(天

龍村

神原

のと

うぢ

やげ

の池

の大

蛇)

(飯

田市

川路

の貝

鞍が

池の

大蛇

)(阿

智村

浪合

蛇峠

の蛇

が池

の主

正保

元年

十二

月/

諸国

郷村

高帳

・国郡

諸城

の図

(正保

図)を

作製

成さ

せる

Page 9: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-9

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1645.6

.17

正保

二年

五月

二十

三日

○諏

訪市

四賀

桑原

の鮎

沢さ

んの

「鮎

沢系

図」

「鮎

澤肥

前守

六代

之孫

鮎澤

源吾

・孫

右衛

門・姉

共ニ

鮎澤

村ニ

而誕

生、

姉者

橋原

村へ

嫁ス

、此

時正

保二

丙戌

五月

廿三

日、

蛇崩

レニ

而家

屋鋪

不残

押流

され

、右

両人

漸く命

をた

すか

り闇

夜橋

原村

姉之

方江

引越

、正

保三

丙戌

八月

横川

村江

引移

る、

正保

二兄

十才

、弟

八才

「鮎

沢肥

前守

の六

代の

孫に

当た

る鮎

澤源

吾、

孫右

衛門

は姉

と共

に鮎

澤村

(岡谷

市川

岸)に

おい

て誕

生し

た。

姉は

橋原

村(同

)へ嫁

いだ

。こ

の時

、正

保二

年五

月二

十三

日(ユ

リウ

ス暦

=西

暦1645年

6月

7日

、グ

レゴ

リオ

暦=

西暦

1645年

6月

17日

)、蛇

崩れ

によ

って

家屋

敷が

残ら

ず押

し流

され

た。

源吾

と孫

右衛

門の

両人

はよ

うや

く命

が助

かり

、橋

原村

の姉

の所

へ引

っ越

した

。そ

の後

正保

三年

八月

に横

川村

へ引

き移

った

。蛇

崩れ

にあ

った

正保

二年

に兄

は十

才、

弟は

八才

であ

った

。」

D723

正保

元年

十二

月/

諸国

郷村

高帳

・国郡

諸城

の図

(正保

図)を

作製

成さ

せる

1647.6

-7

正保

四年

五月

○般

若島

「寛

永元

年(1624)に

大峯

山行

者の

慶芳

院不

源と

いう

者が

、こ

の地

に堂

宇を

構え

た。

正保

四年

(1647)五

月の

洪水

のお

り堂

宇が

流さ

れそ

うに

なっ

た時

、般

若経

をと

びと

びに

読ん

で流

失を

免れ

たと

いう

。こ

こか

ら般

若島

と名

づけ

られ

た。

1647

洪水

-D

509

○般

若島

の由

来○

読経

によ

るご

利益

正保

四年

八月

/幕

府、

ポル

トガ

ル船

に通

商拒

絶を

伝え

、帰

帆さ

せる

1648.4

慶安

元年

三月

慶安

元年

戊子

三月

出水

、夏

出水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

慶安

元年

二月

/江

戸市

中諸

法度

を定

める

1649.7

慶安

二年

六月

地震

慶安

二年

巳丑

六月

大地

震(川

路資

料)

1586地

震-734

慶安

二年

二月

/農

民法

度(慶

安御

触書

)・検

地条

目を

公布

慶安

二年

八月

/大

名・

旗本

のう

ち、

地震

等の

非常

時に

登城

する

者を

定め

慶安

三年

庚寅

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

地震

慶安

三年

庚寅

地震

(川

路資

料)

1586地

震-734

お蔭

参り

が流

行1650

慶安

三年

Page 10: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-10

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1652は

じめ

承応

のは

じめ

○今

に生

きて

いる

長左

衛門

「白

河院

の承

保元

年に

奥山

平太

夫と

いう

人が

開い

た(北

方南

方両

郷旧

記)と

いわ

れる

荒井

川(用

水)は

度々

山抜

けが

起こ

って

おり

、百

年も

荒れ

っぱ

なし

にな

って

いた

。こ

れを

知っ

た飯

田町

生ま

れの

山本

長左

衛門

は、

北方

村に

住む

よう

にな

って

から

村民

を救

うた

めに

飯田

城主

の脇

坂さ

まに

河川

工事

を願

いい

れ、

仕事

にと

りか

かっ

た。

しか

し、

水を

通そ

うと

した

とこ

ろ基

礎工

事が

悪か

った

ため

、欠

潰し

あた

りの

田畑

を流

して

しま

った

。村

民か

ら恨

みを

かい

、牢

屋に

入れ

られ

てし

まっ

た長

左衛

門は

、獄

中で

設計

書を

つくり

再び

河川

工事

を開

始し

て、

とう

とう

と水

が流

れる

よう

にな

った

。こ

の功

績に

より

殿様

から

はお

ほめ

にあ

ずか

り、

村人

から

感謝

され

るよ

うに

なっ

たた

め、

長左

衛門

は死

んで

から

も人

々の

中で

生き

てい

ると

いう

。」

○山

本長

左衛

門頌

徳碑

「新

井川

の工

事を

完成

させ

た偉

業を

讃え

て建

てら

れた

。」

○荒

井川

「笠

松山

麓近

くの

荒井

川は

度々

の山

抜け

から

“荒

れる

井”と

いっ

た。

1652

はじ

め-D

522

○災

害に

挑む

人の

姿と

功績

を後

代に

伝え

1652.7

承応

元年

六月

承応

元年

壬辰

六月

出水

被害

甚大

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1654

承応

三年

承応

三年

甲午

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

承応

三年

六月

/玉

川上

水完

1657

明暦

三年

明暦

三年

丁酉

大出

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

明暦

三年

一月

/江

戸で

大火

(明

暦の

大火

1660.5

万治

三年

四月

万治

三年

庚子

四月

十九

日大

洪水

八日

間に

亘り

被害

夥し

(川

路資

料)

1573洪

水-730

万治

三年

六月

/大

阪城

火薬

庫に

落雷

、民

家1500軒

破壊

万治

三年

九月

/諸

国大

風雨

・洪

承応

元年

一月

/幕

府、

代官

の服

務規

程を

定め

Page 11: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-11

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1662.3

.25-4.8

寛文

二年

二月

六日

より

二十

日迄

寛文

二年

壬寅

二月

六日

より

二十

日迄

日々

赤く見

ゆ(川

路資

料)

1573洪

水-730

1662

寛文

二年

寛文

地震

○大

蛇が

池「大

蛇が

棲む

池が

あっ

たが

地震

で崩

れた

。大

蛇は

和知

野川

を下

って

天竜

川に

出、

千木

沢川

をさ

かの

ぼっ

て深

見ノ

池を

つくり

移り

棲ん

だと

いう

。」

1662

地震

-D

531

○寛

文地

震に

よる

深見

ノ池

の崩

壊史

実 ○大

蛇、

鬼ヶ

城(崩

れに

関係

した

地名

。)

1663.1

2寛

文三

年十

二月

地震

寛文

三年

癸卯

十二

月大

地震

(川

路資

料)

1586地

震-734

寛文

三年

五月

/幕

府、

殉死

を禁

ずる

1670.2

寛文

十年

寛文

十年

庚戌

大洪

水、

米値

段上

る(川

路資

料)

16731延

宝l年

美丑

大出

水1573洪

水-730

寛文

十年

/箱

根用

水完

1674.8

延宝

二年

七月

延宝

二年

甲寅

七月

出水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

延宝

二年

/諸

国風

水害

、凶

作と

なる

1675

延宝

三年

延宝

三年

乙卯

凶作

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1676.8

延宝

四年

七月

延宝

四年

丙辰

七月

洪水

、秋

凶作

(川

路資

料)

1573洪

水-730

延宝

四年

三月

/幕

府、

諸国

の堤

防決

潰地

巡察

を命

じる

延宝

四年

/尾

張、

大風

1678.9

延宝

六年

八月

延宝

六年

戊午

八月

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

延宝

六年

一月

/江

戸に

大名

火消

を定

める

延宝

六年

八月

/江

戸大

地震

1680.7

延宝

八年

七月

渇水

延宝

八年

庚申

七月

洪水

、秋

より

冬へ

かけ

大旱

魃(川

路資

料)

1573洪

水-730

延宝

八年

/諸

国に

水害

おき

る、

この

冬大

旱と

なる

1681

天和

元年

天和

元年

壬戌

夏出

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

寛文

二年

三月

/方

広寺

の金

銅の

大仏

、地

震で

倒壊

のた

め、

木造

に替

え、

寛文

八年

より

この

銅で

文字

銭鋳

造寛

文二

年五

月/

京畿

大地

Page 12: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-12

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1684

貞享

元年

青木

川の

洪水

で山

崩れ

地欠

けが

あり

、土

砂を

押し

流し

て耕

地埋

没1684洪

水-707

1684.4

.6貞

享元

年二

月二

十二

日貞

享元

年甲

子二

月二

十二

日大

流量

空に

声あ

り雷

の如

し(川

路資

料)

1573洪

水-730

1691.5

元禄

四年

五月

前線

元禄

四年

辛未

五月

霖雨

滋し

、八

月大

洪水

にて

堤防

切込

大事

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1691.6

元禄

四年

六月

前線

○大

田切

川の

川除

林「元

禄四

年(1691)の

五月

の霖

雨、

六月

には

天竜

川に

洪水

があ

り、

伊那

谷に

大き

な被

害が

でた

。こ

の年

、大

田切

川と

天竜

川と

の合

流点

に二

十数

歩に

わた

って

植林

がな

され

た。

長さ

七百

間・幅

百間

は戦

後ま

で残

存し

たが

、現

在は

伐木

開墾

され

て水

田地

帯に

変わ

り、

県立

西駒

郷ほ

かの

施設

中に

わず

かに

松林

の面

影を

留め

てい

る。

1691

洪水

-D

590

○大

田切

川の

川除

林の

史実

1693-1936

元禄

六年

~昭

和11年

○殿

島橋

の変

遷「三

峰川

奥地

の森

林濫

伐に

より

、洪

水を

招来

し氾

濫原

が拡

大し

たこ

とに

より

、元

禄六

年か

ら昭

和十

一年

まで

の240年

間に

殿島

橋の

長さ

が5倍

にな

った

。」

1693

洪水

-D

504

○天

災が

もた

らす

町の

変遷

1693.8

元禄

六年

八月

元禄

六年

癸酉

八月

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1699

元禄

十二

年台

風元

禄十

二年

乙卯

大風

雨(川

路資

料)

1573洪

水-730

元禄

十二

年九

月/

諸国

暴風

雨に

よる

凶作

のた

め、

酒造

額を

前年

の5

分の

1と

する

1701.9

元禄

十四

年八

月元

禄十

四年

辛巳

八月

洪水

、凶

作に

て餓

死す

るも

のあ

り (

川路

資料

)1573洪

水-730

元禄

十五

年十

二月

/赤

穂浪

士仇

打ち

1705.8

.16-17

8.3

1宝

永二

年六

月二

十七

から

二十

八日

、七

月十

三日

前線

宝永

二年

乙酉

六月

二十

七・二

十八

日洪

水、

七月

十三

日再

出水

、田

畑流

失夥

し(川

路資

料)(天

竜川

洪水

史) (二

俣)

1573洪

水-730

貞享

元年

三月

/山

城・

大和

・摂

津・河

内・近

江に

治水

条例

をだ

元禄

六年

十一

月/

旗本

らに

、警

火等

につ

いて

の法

度を

出す

Page 13: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-13

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1707.6

宝永

四年

六月

宝永

四年

丁亥

六月

出水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1707.1

0.2

8宝

永四

年十

月四

日宝

永地

高森

町下

市田

の上

原彦

右門

の「歳

中行

事」に

よれ

ば、

「十

月四

日晴

天 

朝庄

右衛

門二

被預

代か

きに

行 

次右

ヱ門

之門

二而

伝兵

衛彦

五郎

二逢

孫右

ヱ門

行 

午下

刻(午

後一

時)申

酉(西

南西

)方

より

大地

震お

びた

だし

き事

近年

希成

事共

也我

家の

下道

動り

破長

さ七

間程

 其

外東

山々

のな

ぎ一

同ニ

方々

崩 

土煙

四方

に立

ち見

ゆる

」と

記録

が残

って

いる

1707宝

永地

震-704

M8.4

、国

内大

級の

地震

、全

国で

死者

2万

人、

潰家

6万

戸、

流失

民家

2万

飯田

城大

破、

追町

の石

垣崩

、御

門の

戸不

立、

追町

鐘付

堂の

石垣

崩れ

、時

の鐘

27日

より

太鼓

に変

わる

。城

内の

石垣

残ら

ず崩

、権

四郎

門の

石垣

崩れ

、居

所潰

れ。

山本

村、

松下

日向

守様

御領

、近

藤宮

内様

御領

、家

数223軒

、全

潰れ

159軒

、半

潰れ

55軒

、死

人5人

。飯

田領

分2万

石之

内 

町・在

、全

潰れ

315軒

、半

潰れ

57軒

うち

町方

 全

潰れ

40

軒、

半潰

れ80軒

(役

用古

記録

妙帳

1707宝

永地

震-710

御番

所潰

れ、

3軒

潰れ

、け

が人

5名

(遠

山影

政氏

文書

)(天

龍村

)1707宝

永地

震-725

所々

ゆり

われ

竜岳

寺庫

裏潰

れる

、下

條村

付近

では

、1~

2メ

ート

ル程

の地

割れ

がで

き水

が流

れで

た(下

条村

1707宝

永地

震-721

高遠

城郭

破損

の場

所多

し(高

遠町

)1707宝

永地

震-757

1707.1

2.1

6宝

永四

年十

一月

二十

三日

降灰

富士

山爆

発に

より

灰が

高遠

まで

降り

農作

物埋

没(高

遠町

)1707降

灰-758

1708.8

.20

宝永

五年

七月

五日

台風

宝永

五年

戊子

七月

五日

大風

吹く(川

路資

料)

1573洪

水-730

1708.1

0.1

4宝

永五

年九

月宝

永五

年戊

子九

月洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

宝永

四年

/善

光寺

再建 宝

永四

年十

一月

/富

士山

噴火

、宝

永山

でき

る、

江戸

にも

火山

灰が

降っ

M8.4

、国

内大

級の

地震

、全

国で

死者

2万

人、

潰家

6万

戸、

流失

民家

2万

宝永

四年

/善

光寺

再建 宝

永四

年十

一月

/富

士山

噴火

、宝

永山

でき

る、

江戸

にも

火山

灰が

降っ

宝永

五年

一月

/幕

府、

富士

山噴

火に

よる

降灰

地救

恤費

用を

全国

に賦

課す

1707.1

0.2

8宝

永四

年十

月四

日宝

永地

Page 14: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-14

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1711

正徳

元年

九月

正徳

元年

辛卯

九月

満水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

正徳

元年

七月

/九

州・

東海

地方

大風

1712.9

.19

正徳

二年

八月

十九

八月

十二

日よ

り雨

降、

高五

千二

百余

石が

水押

水湛

当荒

、高

百石

余が

永荒

、所

々川

除提

切口

が三

千四

百九

十間

余、

潰家

が四

十軒

、半

潰が

七十

七軒

、入

水家

が百

九十

九軒

、所

々落

が五

十二

ヶ所

(諏

訪郡

正徳

二年

四月

/長

雨、

美濃

洪水

正徳

二年

七~

九月

/諸

国長

雨に

よる

洪水

1715.7

.17

正徳

五年

六月

十七

日高

遠風

雨強

く川

々満

水、

領内

にて

橋三

十六

ヶ所

、二

十三

戸流

失1715未

満水

-756

正徳

五年

乙末

六月

十七

日か

ら二

十日

何百

年来

の満

水と

も例

え様

なし

、古

今稀

有の

大満

水(川

路資

料)

二十

三日

竹佐

御役

所よ

り平

沢唯

右衛

門外

二名

、御

役人

与一

外 一

名検

分(川

路資

料)

1573洪

水-730

大河

原・鹿

塩両

山木

場に

あっ

た材

木が

、山

崩れ

、出

水で

埋没

また

は流

散1715未

満水

-708

上穂

町の

安楽

寺が

流失

(駒

ヶ根

市)

1715未

満水

-754

六月

十七

日よ

り二

十四

日迄

伊那

谷未

曾有

の大

雨降

り(未

満水

)中

央ア

ルプ

スの

崩落

によ

り土

石流

が押

し出

し出

砂原

を形

1715未

満水

-787

野底

川が

氾濫

○前

亡後

死三

界万

霊の

碑「正

徳五

年(1715)の

未満

水の

時に

流死

した

人の

供養

のた

め、

市田

村の

古刹

安養

寺二

世了

渓(市

田村

羽生

勝朗

氏)が

主唱

とな

って

建立

した

。安

養寺

の過

去帳

には

、正

徳五

年六

月十

八日

洪水

、田

島前

沢よ

り下

は松

川の

間の

田畑

大損

害人

馬流

死す

るも

の多

し、

と記

され

てい

る。

1715

未満

水-

D592

○被

害者

の供

養費

六月

十八

日の

午後

二時

から

二十

四日

まで

豪雨

が続

き、

風越

山、

安平

寺な

どの

諸山

が崩

れ大

洪水

をひ

きお

こし

た。

1715.7

.18-7.2

4正

徳五

年六

月十

八日

~二

四日

正徳

五年

一月

/海

舶互

市新

例(正

徳新

令)

Page 15: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-15

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○徳

本さ

まの

碑「正

徳五

年(1715)の

ひつ

じ満

水の

後、

徳本

和尚

が洪

水で

亡くな

った

人の

菩提

を弔

った

とい

う。

1715

未満

水-

D595

○犠

牲者

の追

○出

砂原

(高

森町

)「正

徳五

年(1715)の

未満

水の

時、

大島

山か

ら天

竜川

に注

いで

いる

大島

川が

満水

とな

って

土石

流が

発生

し、

大量

の土

砂が

押し

出さ

れて

でき

た。

1715

未満

水-

D593

○災

害に

よっ

てつ

けら

れた

地名

○夜

泣き

石「正

徳五

年未

満水

の時

(1715)、

大島

川か

ら運

ばれ

たと

伝え

られ

てい

る。

1715

未満

水-

D552

○災

害が

もた

らし

た地

○正

徳五

年当

時の

歌「千

早振

る神

代も

聞か

ず野

底山

天王

原に

水上

がる

とは

。」

1715

洪水

-D

555

○当

時歌

われ

た歌

○北

原の

土石

流「正

徳五

年(1715)の

大洪

水で

、下

久堅

北原

の裏

の洞

が一

晩で

ぬけ

てで

きた

。そ

の際

、天

竜川

の流

木が

多か

った

ので

、川

端に

それ

を拾

いに

行っ

た人

たち

も多

く、

虎岩

の五

右衛

門と

和久

平の

助次

郎が

流さ

れて

行方

不明

とな

った

。」

1715

未満

水-

D591

○二

次災

害の

教訓

○正

徳五

年未

満水

の時

、大

宮の

丘陵

に逃

げ集

まり

、大

宮諏

訪神

社加

護を

祈願

した

とこ

ろ、

水勢

一変

し、

北は

野底

川に

南は

松川

に二

分さ

れて

飯田

城市

の災

害を

免れ

たい

う。

○式

年祭

(お

ねり

まつ

り)

「正

徳五

年未

満水

の時

、大

宮諏

訪神

社高

台に

逃げ

た人

々が

、一

心に

祈願

をこ

めた

とこ

ろ、

水勢

が一

変し

て飯

田台

地が

大難

を免

れた

故、

飯田

全町

の喜

びは

限り

なく報

徳が

敬神

とな

り、

全町

あげ

ての

大祝

祭を

行う

のが

慣例

とな

った

。七

年目

干支

の申

年と

寅年

の四

月一

日か

ら二

夜三

日間

行わ

れる

。」

1715

未満

水-

D512

○諏

訪神

社(風

水害

鎮護

の神

)の

報徳

1716.9

.2正

徳六

年七

月十

七日

諏訪

湖大

満水

、角

間川

百年

にも

なき

大満

水1716洪

水-773

正徳

六年

五月

/享

保改

六月

十八

日の

午後

二時

から

二十

四日

まで

豪雨

が続

き、

風越

山、

安平

寺な

どの

諸山

が崩

れ大

洪水

をひ

きお

こし

た。

正徳

五年

六月

十八

日~

二四

日1715.7

.18-7.2

正徳

五年

一月

/海

舶互

市新

例(正

徳新

令)

Page 16: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-16

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

M6.4

、高

島城

で石

垣2

ヶ所

崩1718遠

山地

震-700

高遠

城の

内外

や侍

屋敷

など

破損

1718遠

山地

震-701

龍淵

寺が

大破

(和

田村

龍淵

寺過

去帳

)1718遠

山地

震-713

和田

盛平

山の

一角

(北

西斜

面)が

崩れ

落ち

遠山

川を

堰き

止め

、同

時に

主峰

から

分離

した

出山

が出

現、

遠山

川は

湖水

とな

り天

然ダム

を形

成し

、そ

の後

西方

へ決

壊し

広い

河原

をつ

くっ

た、

遠山

川は

何町

も西

に移

動し

て現

在の

流路

をと

るこ

とに

なっ

た、

また

片町

家の

5人

が石

に打

たれ

て死

亡(遠

山峡

谷に

出山

を造

りた

る享

保地

震史

料)

1718遠

山地

震-714

駒場

で64軒

中32軒

全壊

、32軒

破損

、上

中関

駒場

社が

半壊

し石

の鳥

居が

破損

(阿

智村

)1718遠

山地

震-720

然所

去七

月二

十六

日大

地震

に而

御番

屋石

垣共

建家

共悉

震潰

し山

崩二

而押

埋申

候(天

龍村

遠山

家文

書)

鶯巣

村の

枝郷

を合

わせ

て山

や田

畑石

垣残

らず

崩れ

、家

屋敷

破壊

して

二〇

人余

りの

怪我

人が

出て

内七

人が

死亡

(鶯

巣宏

重氏

文書

)地

震発

生と

同時

に山

から

跳ね

てき

た石

に当

たっ

て死

んだ

人は

坂部

と隣

村の

愛知

県富

山間

で五

十人

余(熊

谷家

伝記

1718遠

山地

震-726

四方

の山

大分

崩れ

る、

潰家

は新

井村

で3軒

、吉

岡で

2軒

、合

原上

ノ原

で5・6

軒あ

り、

大山

田神

社拝

殿が

潰れ

る。

龍岳

寺庫

裏潰

れる

(下

条村

1718遠

山地

震-722

村内

20

ヶ所

でな

ぎが

発生

し、

上田

三畝

、中

田二

畝廿

歩、

下田

七畝

余、

上畑

二畝

廿歩

、原

畑二

反五

畝余

りが

つぶ

れて

しま

い、

男二

人・馬

一疋

が埋

めら

れて

死ん

だ(古

城村

震災

書上

帳)(下

条村

1718遠

山地

震-723

M7.0

、飯

田市

南信

濃和

田に

ある

盛平

山が

崩れ

遠山

川を

堰き

止め

その

後決

壊し

広い

河原

がで

きた

り、

主峰

から

分離

した

出山

が出

現す

るな

ど、

遠山

川の

流路

を変

える

ほど

の地

変を

もた

らし

享保

三年

七月

/鷹

匠の

廻村

中の

不法

を禁

ずる

、無

断の

鉄砲

打を

禁じ

訴人

の褒

賞規

定を

定め

、公

布す

る、

鳥類

減少

のた

め、

鶴・白

鳥・

雁・鴨

の私

の贈

答・食

料と

する

こと

を以

後3年

間禁

じ、

江戸

市中

の鳥

問屋

を10人

に制

限す

遠山

地震

享保

三年

七月

二十

六日

1718.8

.22

Page 17: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-17

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

新木

田村

きび

島と

申所

、山

落、

天龍

水を

打留

め、

八時

より

暮れ

六時

まで

水少

しも

通ら

ず大

島村

へ水

つか

へ・・・(大

地震

之記

1718遠

山地

震-724

飯田

領中

 潰

家350軒

余、

半潰

580軒

余 

、死

人12人

、死

馬6疋

(役

用古

記録

帳)

城内

六分

破損

、町

・在

の清

水、

ほり

井の

水と

まる

、家

蔵過

半潰

れ(永

代万

覚日

記)

御城

内惣

廻り

塀、

矢倉

、石

垣等

大破

。御

町、

在々

潰家

、死

人、

けが

人あ

り、

家中

屋敷

数多

大破

(郡

方覚

書よ

り)

30戸

の野

池の

うち

5戸

全潰

れ、

25戸

は破

損。

井堰

、溜

井、

掛樋

6箇

所と

も破

損(野

池の

書上

帳)

1718遠

山地

震-711

1718.8

.22

享保

三年

七月

二十

六日

遠山

地震

M7.0

、飯

田市

南信

濃和

田に

ある

盛平

山が

崩れ

遠山

川を

堰き

止め

その

後決

壊し

広い

河原

がで

きた

り、

主峰

から

分離

した

出山

が出

現す

るな

ど、

遠山

川の

流路

を変

える

ほど

の地

変を

もた

らし

○夜

川瀬

「盛平

山(森

山)の

西方

斜面

が崩

壊し

、圧

死者

5人

を出

した

。崩

壊土

砂が

北側

の押

出し

沢か

ら流

出し

た土

砂と

とも

に、

遠山

川を

堰止

め、

「出

山」(和

田小

学校

北方

の小

峰)と

よば

れる

小山

をつ

くり

、天

然ダ

ムを

形成

した

。天

然ダ

ムは

、お

よそ

1週

間後

に決

壊し

、一

夜で

広い

河原

をつ

くっ

た(現

夜川

瀬部

落)」

1718

遠山

地震

-D

615

○地

変に

よる

地名

の由

享保

三年

七月

/鷹

匠の

廻村

中の

不法

を禁

ずる

、無

断の

鉄砲

打を

禁じ

訴人

の褒

賞規

定を

定め

、公

布す

る、

鳥類

減少

のた

め、

鶴・白

鳥・

雁・鴨

の私

の贈

答・食

料と

する

こと

を以

後3年

間禁

じ、

江戸

市中

の鳥

問屋

を10人

に制

限す

1719.9

.28

享保

四年

八月

十五

日八

月十

五日

大洪

水(亥

の満

水)被

害頗

る多

し。

(泰

阜村

)七

月・八

月、

諏訪

湖折

々満

水1719洪

水-788

享保

四年

十一

月/

相対

済し

1722

享保

七年

享保

七年

壬寅

凶作

、世

上騒

享保

六年

八月

/評

定所

門前

に目

安箱

を設

置享

保七

年七

月/

上げ

米の

制、

新田

開発

奨励

享保

三年

七月

/鷹

匠の

廻村

中の

不法

を禁

ずる

、無

断の

鉄砲

打を

禁じ

訴人

の褒

賞規

定を

定め

、公

布す

る、

鳥類

減少

のた

め、

鶴・白

鳥・

雁・鴨

の私

の贈

答・食

料と

する

こと

を以

後3年

間禁

じ、

江戸

市中

の鳥

問屋

を10人

に制

限す

M7.0

、飯

田市

南信

濃和

田に

ある

盛平

山が

崩れ

遠山

川を

堰き

止め

その

後決

壊し

広い

河原

がで

きた

り、

主峰

から

分離

した

出山

が出

現す

るな

ど、

遠山

川の

流路

を変

える

ほど

の地

変を

もた

らし

1718.8

.22

遠山

地震

享保

三年

七月

二十

六日

Page 18: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-18

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1723

享保

八年

享保

八年

癸卯

八月

出水

享保

八年

六月

/足

高の

制を

定め

1724.9

.22

享保

九年

八月

六日

台風

享保

九年

申辰

八月

六日

大風

雨被

害大

、米

値段

十両

に付

き四

十五

俵(川

路資

料)

1573洪

水-730

享保

九年

八月

/代

官の

川除

普請

の見

積も

り過

大を

戒告

する

M6.1

の地

震で

高遠

城に

崩壊

あり

(享

保10年

の地

震で

高遠

城崩

壊箇

所を

幕府

に報

告し

た城

図よ

り)

1725高

遠地

震-755

大地

震で

高島

城が

大破

、本

丸22ヵ

所・二

之丸

4ヵ

所・三

之丸

6ヶ

所・大

手門

ほか

9ヵ

所石

垣崩

。大

祝家

御屋

敷大

分に

損し

在郷

方大

分家

潰れ

1725高

遠地

震-786

1726.5

-6

享保

十一

年五

月大

洪水

、家

屋七

戸流

出、

蛇抜

け十

五谷

(清

内路

村)

1726洪

水-719

五月

十八

日よ

り諏

訪湖

大満

水1726洪

水-789

大洪

水で

鍛冶

ヶ島

の十

四戸

が流

出し

表木

村へ

集団

移住

1726洪

水-790

○鍛

冶ヶ

島流

出と

集団

移住

「む

かし

、現

在の

伊那

市下

牧の

護災

堤防

から

国道

153号

線と

の間

に鍛

冶ヶ

島と

よば

れる

島が

あっ

た。

鍛冶

職人

が多

く住

んで

いた

が、

享保

十一

年(1726)の

大洪

水で

高一

四四

二石

の田

と14戸

の家

全部

が流

出し

、住

人は

表木

村(現

伊那

市西

春近

)へ

移住

した

。鍛

冶ヶ

島新

田家

居迄

のこ

らず

流れ

つく

し、

立つ

所も

これ

なき

体、

本村

へ上

り所

どこ

ろの

野つ

れ、

また

は諏

訪形

原の

街道

筋へ

小屋

がけ

いた

し、

田地

これ

無き

者ど

も少

々の

売り

家等

を致

し一

日を

送り

候仕

合い

に候

て、

本村

とも

の困

窮。

(殿

島の

大西

家文

書)」

1726

洪水

-D

596

○洪

水に

よる

集団

移住

清内

路村

で蛇

抜け

十五

谷1726土

砂-791

1726.7

.23

享保

十一

年六

月二

十四

日上

清内

路大

川入

りひ

え畑

沢じ

ゃぬ

け、

三四

郎・竹

右衛

門い

えこ

われ

、長

三郎

・伊

三朗

所々

いた

み申

し候

1726土

砂-744

地震

(高

遠地

震)

享保

十年

十月

/新

大判

(享

保大

判)を

鋳造

して

十二

月よ

り通

1726.6

.17

享保

十一

年五

月十

八日

1725. 8. 14

享保

十年

七月

七日

Page 19: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-19

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1727.7

.8享

保十

二年

五月

二十

日鴨

の沢

のほ

り沢

より

抜け

出申

し候

(清

内路

村)

1727土

砂-745

享保

十三

年戊

申八

月十

三日

洪水

、田

畑流

失多

し秋

凶作

(川

路資

料)

1573洪

水-730

方々

山々

大水

・大

ぬけ

仕り

候、

大橋

迄水

つき

橋も

たせ

候。

(清

内路

村)

1728土

砂-746

1733

享保

十八

年享

保十

八年

癸丑

洪水

、大

凶作

餓死

する

もの

多し

(川

路資

料)

1573洪

水-730

享保

十七

年九

月/

享保

の大

飢饉

元文

三年

戊午

大満

水、

家屋

流失

多し

(掛

塚町

誌)

○う

しろ

向と

なっ

た弁

天様

「洪

水に

よる

地形

の変

化に

より

、島

田村

(飯

田市

松尾

)と

虎岩

村・知

久平

村(飯

田市

下久

堅)と

の間

で境

界論

争が

おこ

って

いた

。1738年

(元

文三

年)の

洪水

の後

、大

岡越

前守

の裁

きに

より

、弁

天様

が島

田村

のも

のと

なっ

た。

とこ

ろが

、弁

天様

は天

竜川

の東

側が

お好

きと

あっ

て虎

岩村

・知

久平

村の

方ば

かり

向い

てい

た。

怒っ

た島

田村

の衆

が、

弁天

様を

島田

村の

方に

向け

たと

ころ

、村

内で

悪い

病気

が流

行っ

たの

で東

向き

に戻

した

。悪

い病

気が

すぐ

に治

まっ

たの

で島

田村

では

、社

殿の

うし

ろか

ら拝

むよ

うに

なっ

た。

また

弁天

様は

どん

な洪

水の

時で

も流

失し

たこ

とが

なか

った

が、

36災

害の

時に

流さ

れて

しま

った

。今

では

もと

のと

ころ

に祀

られ

てい

る。

1738

洪水

-D

526

○弁

天様

の流

近世

○藤

川除

「釜

無川

の洪

水か

ら護

るた

め、

蔦木

宿の

宿中

近く、

甲州

街道

に沿

って

造ら

れた

。」

D546

○水

防技

術の

継承

○武

田氏

支配

の歴

史と

甲州

流治

水工

法の

取入

近世

○信

玄提

(風

切・風

除)

「蔦

木宿

を二

重に

護る

ため

大樹

を植

栽し

た築

堤。

」D

501

○水

防技

術の

継承

○武

田氏

支配

の歴

史と

甲州

流治

水工

法の

取入

享保

十三

年九

月/

関東

水害

、江

戸の

両国

橋流

失1728.9

.16

享保

十三

年八

月十

三日

元文

三年

1738

Page 20: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-20

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1742.8

寛保

二年

八月

寛保

二年

壬戊

八月

天竜

満水

、川

除堅

枠囲

を普

請す

(岩

村田

誌)

寛保

二年

二月

/幕

府、

河川

沿岸

の伐

木・開

墾を

禁ず

る寛

保二

年八

月/

江戸

及び

関東

地方

大水

害、

松代

・小

諸な

どの

諸城

大破

1744

延享

元年

○境

界紛

争と

見通

し桜

「天竜

川と

三峰

川の

合流

する

付近

一帯

は、

洪水

の度

に川

筋を

変え

、川

筋を

挟ん

だ地

区の

境界

紛争

が絶

えな

かっ

た。

江戸

時代

の270年

間で

90回

も洪

水や

満水

を引

き起

こし

、狐

島村

と対

岸の

荒井

村・西

町村

では

、延

享元

年(1744)の

出水

時に

決め

た約

定書

と絵

図面

があ

る。

その

絵図

面に

は、

境界

を復

元す

るた

めの

八箇

所の

測量

基準

の一

つに

“長

右衛

門社

木桜

”が記

録さ

れて

おり

、現

存す

る唯

一の

基点

とな

って

いる

。」

1744

洪水

-D

597

○洪

水に

よる

村の

境界

紛争

と基

準点

の現

延享

元年

/田

畑永

代売

買の

禁令

を緩

1750

寛延

三年

○理

兵衛

堤防

「田

島村

の名

主松

村理

兵衛

忠欣

が、

度重

なる

天竜

川の

水害

から

田島

を護

るた

めに

私財

をな

げう

ち、

尾張

から

石工

を呼

んで

堤防

工事

を始

めた

。工

事中

に何

度も

水害

に見

舞わ

れ、

至難

を極

めた

が、

理兵

衛の

孫の

三代

に渡

り5

8年

間と

3万

両も

の莫

大な

費用

をか

けて

堤防

が完

成し

た。

平成

18

年7

月豪

雨の

際、

洪水

の跡

に理

兵衛

堤防

の石

積が

発見

され

てい

る。

○天

流功

業義

公明

神碑

「理

兵衛

の功

績を

讃え

、文

化12年

に建

立さ

れ水

神様

とし

て祀

られ

てい

る。

1750-

D626

○水

害に

挑ん

だ人

の姿

と功

寛延

三年

一月

/幕

府、

農民

の強

訴・徒

党・逃

散を

厳禁

する

Page 21: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-21

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1752

宝暦

二年

宝暦

二年

壬申

堤防

大破

、死

亡者

夥し

(岩

村田

誌)

1752.1

2宝

暦二

年十

一月

○惣

兵衛

堤防

(大

川除

堤防

)「安

政六

年(1859年

)、

旧堤

に続

いて

下流

へ延

長六

〇間

の大

川除

接続

堤防

竣工

。文

久三

年(1863年

)、

大川

除接

続堤

防修

復工

事を

実施

。元

治元

年五

月(1864年

)、

大川

除堤

・同接

続堤

防に

おけ

る天

竜川

洪水

によ

る欠

潰修

復工

事(捨

石の

あら

し込

み)の

開始

。昭

和9年

3月

(1934年

)、

延長

100m

の惣

兵衛

堤防

木工

沈床

入れ

替え

工事

を竣

工。

昭和

36年

6月

29日

(1961年

)、

午後

五時

半に

惣兵

衛堤

防700m

が決

壊 し

、 市

田水

田の

およ

そ8割

が没

した

。」

○惣

兵衛

の人

柱○

麦わ

ら堤

防(惣

兵衛

の末

孫中

村初

太郎

翁談

片)

1752-

D541

○水

害に

挑ん

だ人

の姿

と功

1753

宝暦

三年

○上

横川

神社

の神

楽の

由来

「宝

暦三

年(1753)、

川島

の谷

では

田植

えが

無事

に終

わっ

た。

とこ

ろが

、春

から

一滴

の雨

も降

らな

かっ

た。

夏に

なっ

ても

雨は

降ら

ず、

横川

川も

一筋

の細

い糸

のよ

うな

流れ

にな

った

。水

がす

っか

りな

くな

り、

田は

ひび

割れ

、食

べ物

も底

をつ

き始

めた

。そ

のう

ちに

はや

り病

が村

人に

襲い

かか

った

。こ

の凶

事を

神様

の祟

りと

思っ

た村

人は

、お

伊勢

様に

お願

いし

よう

と二

人の

若者

を伊

勢へ

の旅

にだ

した

。伊

勢神

宮に

たど

り着

いた

二人

は一

心に

祈り

、神

官に

村の

事情

を伝

えた

。神

官の

紹介

して

くれ

た又

右エ

門と

七之

丞と

いう

神楽

師と

もど

も村

に戻

り、

、一

軒一

軒お

払い

をし

ても

らっ

た。

村人

達は

神楽

師の

後を

ぞろ

ぞろ

とつ

いて

歩き

、一

緒に

なっ

て天

にお

願い

をし

たり

、自

分の

こと

のよ

うに

喜ん

だり

した

とこ

ろ、

願い

が通

じた

のか

、そ

の日

の夕

方か

ら大

粒の

雨が

降り

出し

た。

平和

で静

かな

村が

よみ

がえ

り、

村に

とど

まる

よう

神楽

師達

にお

願い

した

。し

かし

その

願い

は聞

き入

れて

もら

えな

かっ

たが

、神

楽師

達は

川島

にし

獅子

頭を

残し

、獅

子舞

のや

り方

を伝

えて

いっ

た。

こう

して

獅子

舞は

二百

年以

上も

毎年

毎年

行わ

れ、

代々

伝え

られ

てき

た。

今で

は上

横川

神社

神楽

保存

会の

人々

が、

後代

に伝

える

よう

努力

して

いる

。」

1753‐

D641

○旱

魃の

史実

と今

に伝

える

神楽

の雨

乞い

宝暦

三年

十二

月/

木曽

川治

水工

事を

薩摩

藩に

命ず

Page 22: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-22

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1756.1

0.2

6宝

暦六

年十

月三

日宝

暦六

年丙

子十

月三

日満

水、

米値

段上

る(川

路資

料)

1573洪

水-730

宝暦

六年

九月

/近

畿・

東海

地方

大洪

1757.6

宝暦

七年

五月

1569洪

水-732

小川

湯沢

前か

ら小

川川

大氾

濫と

なり

、鳥

居前

藤や

ぶ下

一帯

被害

こと

に多

1757.6

.20

宝暦

七年

五月

四日

宝暦

七年

丁丑

五月

四日

天竜

川の

大水

宿方

堤切

込、

五日

夜小

立野

村堤

防家

屋水

押通

日数

二十

一日

(二

俣五

月二

日か

ら六

日、

五日

間家

屋浸

水、

二俣

誌)(井

通村

誌)

1758

宝暦

八年

○祇

園祭

(7月

14日

)「洪

水と

悪疫

の流

行を

水神

の祟

りと

恐れ

た村

人が

、領

主松

平摂

津守

に願

い出

て尾

張津

島社

をこ

の地

に迎

え入

れた

。」

D512

○水

神の

祟り

、尾

張津

島社

の受

入れ

、祇

園祭

宝暦

八年

六月

/関

東・

東海

道・美

濃・伊

勢・甲

斐の

河川

工事

を完

了す

る 宝暦

八年

七月

/宝

暦事

1765.6

明和

二年

五月

明和

二年

乙酉

五月

大満

水、

八月

四日

大水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

諏訪

湖大

出水

1768洪

水-774

宮田

村水

三尺

程1768洪

水-792

1773

安永

二年

九月

安永

二年

癸巳

九月

朔月

大出

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

安永

元年

/木

綿が

普及

する

1778.6

安永

七年

五月

中旬

五月

中旬

より

諏訪

湖度

々満

水、

八月

大満

水、

下地

通り

収穫

皆無

1778洪

水-775

安永

七年

二月

/江

戸大

火安

永七

年三

月/

幕府

、俵

物生

産を

奨励

1779.1

0.4

安永

八年

八月

二十

五日

五月

諏訪

湖満

水、

その

後度

々、

別し

て八

月二

十五

日大

満水

、小

和田

通り

岸六

十軒

水潰

れ1779洪

水-776

安永

八年

十月

/鹿

児島

桜島

噴火

、伊

豆大

島三

原山

噴火

宝暦

七年

十二

月/

洪水

等に

よる

出費

増大

によ

り、

幕府

が諸

部局

の倹

約を

命ず

明和

四年

八月

/明

和事

明和

五年

四月

/明

和四

文銭

鋳造

1768.5

明和

五年

四月

Page 23: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-23

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1782

天明

二年

天明

二年

壬寅

天竜

川氾

濫、

磐田

郡光

明村

宣屋

過半

数流

失 (

光明

村誌

)

1782.8

.16

天明

二年

七月

八日

諏訪

湖大

満水

、見

出大

不作

1782洪

水-777

1784.1

天明

四年

正月

天明

四年

甲辰

正月

飯米

沸底

、草

木根

を喰

う(川

路資

料)

1573洪

水-730

天明

四年

一月

/浅

間山

噴火

罹災

地方

の河

川諸

普請

の助

役を

熊本

藩に

命ず

1787

天明

七年

天明

七年

大凶

作餓

死す

る者

あり

、他

国に

乞食

とな

って

出ず

る者

あり

行倒

、無

縁仏

塚出

来る

有名

なる

天明

の大

飢鍾

、時

俣、

下川

路、

立会

川、

普請

、駒

沢、

切所

に大

猪之

子七

組を

くむ

(川

路資

料)

1573洪

水-730

天明

七年

七月

/寛

政改

革始

まる

1789

寛政

元年

小川

川満

水に

て湯

屋付

近の

田地

流出

1569洪

水-732

1789.6

寛政

元年

六月

五月

中諏

訪湖

満水

1789.7

.9-10

寛政

元年

六月

十七

日~

十八

日六

月十

七日

~十

八日

天竜

川満

水(酉

満水

1789

寛政

元年

○阪

本天

山の

墾田

の碑

「寛

政元

年(1789)天

竜川

の大

氾濫

によ

り、

大久

保の

辺り

一帯

は荒

地と

化し

た。

中村

新六

は阪

本天

山に

つき

実学

を修

め、

天明

の飢

饉に

発奮

し、

隋道

を穿

ち堤

防を

築き

、数

町歩

の美

田を

開くと

いう

大業

を成

し遂

げた

。そ

の功

績を

たた

え建

立さ

れた

碑に

は、

大窪

邨中

邨氏

墾田

碣記

天山

真逸

源俊

豈撰

、と

碑文

が彫

られ

てい

る。

碑は

花崗

岩で

現在

風化

が進

み文

字の

判読

はで

きな

い。

1789

洪水

-D

598

○治

水事

業の

功績

を讃

える

寛政

元年

九月

/旗

本・

御家

人救

済の

ため

に棄

損令

をだ

天明

三年

七月

/浅

間山

大噴

火、

飢饉

つづ

Page 24: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-24

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

寛政

元年

巳酉

六月

十八

日天

竜出

水、

本村

大半

水中

に没

す、

酉満

水と

いう

十一

月御

用材

下る

(川

路資

料)

1573洪

水-730

六月

十八

日の

満水

で田

畑が

押流

れ、

川欠

け、

山崩

れと

なっ

た、

家八

軒が

埋ま

り難

儀し

てい

る、

復旧

が困

難で

ある

から

急ぎ

見分

して

ほし

い(長

沼松

島村

の届

出)

1789酉

満水

-727

十三

日か

ら二

十三

日ま

で雨

降り

で山

が崩

れ、

小川

が大

川と

なり

田畑

の被

害が

ひど

い、

子高

入新

田(安

永九

年の

新田

)一

町一

反十

二歩

の内

、三

反が

砂入

りで

稲作

不能

、五

反が

川流

れで

皆無

、二

反一

畝十

二歩

だけ

残っ

た(向

方村

の注

進)

1789酉

満水

-728

1804.1

0.8

文化

元年

八月

二十

九日

文化

元年

甲子

八月

二十

九日

大満

水、

本村

浸水

夥し

、子

満水

と称

す(川

路資

料)

1573洪

水-730

1804

文化

元年

古荒

地及

び文

化元

年の

荒地

(紅

葉川

上流

7ヶ

所、

樋ヶ

沢上

流2ヶ

所、

こ庵

沢1ヶ

所、

塩田

川上

流1ヶ

所)※

龍東

水害

の地

図よ

り(龍

江村

1803洪

水-747

1807

文化

四年

文化

四年

丁卯

満水

あり

、箒

星出

現(川

路資

料)

1573洪

水-730

1807.7

.6文

化四

年六

月一

日五

月晦

日よ

り六

月一

日、

諏訪

湖大

満水

、岡

田一

面に

水が

かぶ

る1807洪

水-778

1807.1

0文

化四

年九

月三

峰川

川除

決壊

人家

浸水

32軒

、棟

数96棟

文化

元年

九月

/ロ

シア

使節

レザ

ノフ

、通

商を

要求

する

寛政

元年

九月

/旗

本・

御家

人救

済の

ため

に棄

損令

をだ

文化

四年

四月

/樺

太お

よび

エト

ロフ

島に

ロシ

ア船

来航

、上

陸乱

1789.7

.10

寛政

元年

六月

十八

Page 25: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-25

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1808.9

.15

文化

五年

七月

二十

五日

○竜

の腹

の皮

を拾

った

話「雷

が激

しく鳴

り出

し、

山や

林が

ゆれ

動き

、天

は傾

き地

がさ

けん

ばか

りの

風雨

の翌

日、

木と

いう

木は

みん

な折

れて

目も

当て

られ

ない

ほど

であ

った

。吉

田村

(高

森町

吉田

)の

与市

は竜

の皮

を拾

い、

隣の

山吹

村の

もの

が山

で同

じよ

うな

もの

が落

ちて

いた

とい

った

。大

きさ

は五

尺六

寸四

方ば

かり

、青

白く

光沢

があ

りあ

わび

みた

いの

もの

で、

天に

いた

竜が

たた

かっ

たと

きの

腹の

皮だ

とい

う。

1808

風雨

-D

521

○闘

竜に

たと

えた

自然

現象

文化

五年

八月

/フ

ェー

トン

事件

1810.4

文化

七年

三月

三峰

川、

天竜

川合

流点

に8尺

増水

1810洪

水-793

1816

文化

十三

年文

化十

三年

丙子

一色

村富

岡、

国吉

、八

幡、

高薗

の各

所破

堤、

田園

過半

荒蕪

に属

す。

(川

路資

料)

(天

竜川

水防

史)

1573洪

水-730

文化

十三

年八

月/

畿内

・東

海道

風雨

洪水

1821

文政

四年

○水

上様

「文

政四

年(1821)に

樫渕

に祀

られ

た。

樫渕

は天

竜川

にあ

る満

島の

船着

場で

あっ

たが

、現

在は

平岡

ダム

の完

成に

より

水の

枯れ

た河

原と

なっ

てい

る。

D578

○ダ

ム建

設に

より

消え

た水

上様

文政

四年

八月

/近

畿・

山陰

・東

海大

風雨

に見

舞わ

れる

1825

文政

八年

文政

八年

乙酉

夏長

降り

にて

凶作

、米

値上

る(川

路資

料)

1573洪

水-730

文政

八年

二月

/幕

府、

異国

船打

ち払

い令

を出

1827

文政

十年

四月

八日

文政

十年

丁亥

四月

八日

出水

、六

月二

十三

日大

出水

、七

月一

日出

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

文政

十年

二月

/文

政改

1828

文政

十一

年五

月文

政十

一年

戊子

五月

出水

、七

月一

日大

満水

、古

寺下

の叶

屋方

の井

声ま

で浸

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

文政

十一

年十

二月

/シ

ーボ

ルト

事件

1832

天保

三年

土用

前、

諏訪

湖満

水、

その

後大

ひで

り1832洪

水-779

天保

四年

十二

月/

天保

の飢

饉、

天保

十年

まで

続く

Page 26: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-26

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1835.3

天保

六年

二月

末天

保六

年二

月末

天竜

川提

肪破

壊、

全村

浸水

流失

家屋

が多

かっ

た(池

田村

誌)

1841.5

.12

天保

十二

年三

月二

白地

震天

保十

二年

辛丑

三月

二白

地震

あり

、十

七日

大水

(川

路資

料)

1586地

震-734

天保

十二

年十

二月

/株

仲間

解散

1842

天保

十三

○栗

沢川

の河

川工

事「む

かし

栗沢

川は

市野

瀬部

落の

中を

通っ

て流

れて

いた

。こ

の川

は洪

水に

なる

とし

ばし

ば氾

濫し

、部

落は

被害

を蒙

って

いた

。天

保十

三年

(1842)に

城山

の南

の尾

根を

掘り

ぬい

て切

り通

しを

造り

、栗

沢川

は市

野瀬

瀧と

なっ

て三

峰川

に流

れ落

ちる

よう

にな

った

。こ

れに

より

、部

落は

災害

から

免れ

るよ

うに

なり

、田

んぼ

の数

も相

当に

増え

たと

いう

。」

1842-

D528

○洪

水に

よる

荒地

弘化

四年

丁末

三月

七日

・八

日大

出水

、三

月地

震(善

光寺

地震

と称

す)(川

路資

料)

1573洪

水-730

M7.4

、雨

戸障

子は

ずれ

、下

金子

に被

害、

薬師

堂大

いに

いた

み(諏

訪市

)1847地

震-781

 

1848

弘化

五年

十日

~十

三日

の大

雨で

所々

なぎ

落ち

、松

島こ

せ上

の畑

が崩

れ、

馬屋

と部

屋つ

ぶれ

る、

栃島

の家

一軒

はな

ぎが

抜け

て半

分つ

ぶれ

1848大

雨-729

弘化

五年

一月

/松

代藩

、佐

久間

象山

に洋

式野

砲3門

を鋳

造さ

せる

1850

嘉永

三年

四月

嘉永

三年

庚戌

四月

竹に

実な

る、

七月

二十

一日

洪水

、八

月九

日大

出水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

嘉永

三年

十月

/高

野長

英、

幕吏

に囲

まれ

自殺

する

1852.9

.29

嘉永

五年

八月

十六

日大

洪水

、上

殿島

村へ

三峰

川切

込む

(伊

那市

)1852洪

水-760

嘉永

五年

十一

月/

大阪

大火

1847.4

.21-22

弘化

四年

三月

七日

~八

日地

震(善

光寺

地震

Page 27: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-27

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

M8.4

、下

金子

19軒

大破

潰れ

家(諏

訪市

)1854地

震-782

赤沼

25軒

大破

潰れ

家(諏

訪市

)1854地

震-788

1854-1860頃

安政

~万

延の

○特

産品

の寒

天「相

次ぐ

災害

によ

り農

業・土

地離

れが

おこ

った

が、

村を

出る

こと

ので

きな

い長

男や

女た

ちは

知恵

を絞

り、

災害

の少

ない

冬の

時期

にで

きる

仕事

とし

て寒

天作

りを

はじ

めた

。」

安政

・万

延洪

水-

D502

○災

害が

もた

らし

た副

業の

恩恵

(宮

川の

寒天

1854.7

.31

安政

元年

七月

七日

安政

元年

甲寅

七月

七日

洪水

被害

大(川

路資

料)

1573洪

水-730

薬師

堂(高

森大

島)の

五重

塔、

石灯

籠、

石塔

が残

らず

倒れ

る。

(村

方先

規例

式書

留帳

1854安

政東

海地

震-705

所々

山崩

れ岩

落、

古家

など

はつ

ぶる

もあ

り(浅

野村

佐々

木求

馬地

震記

)(阿

南町

1854安

政東

海地

震-722

1854.1

2.2

3安

政元

年十

一月

四日

安政

東海

地震

飯田

町、

大変

の地

震に

て、

潰家

3軒

即死

3人

、家

蔵の

損じ

方糊

殊の

ほか

大変

、凡

そ土

蔵の

いが

み或

いは

壁落

ち、

その

ほか

大い

たみ

のと

ころ

数知

れず

(南

信地

方考

)午

中刻

に揺

れ始

め、

連続

的に

やっ

てき

たの

で、

家に

起臥

する

こと

がで

きな

いの

で、

竹や

ぶあ

るも

のは

、そ

の中

には

いり

、十

日余

りも

こう

した

状態

が続

いた

、被

害は

飯田

だけ

でも

破壊

家屋

が589

軒も

あり

、飯

田城

主は

救済

のた

め飯

田町

に金

三百

両を

下附

され

た(飯

田世

代記

)1

1月

4存

じ外

の大

地震

仕り

、稲

荷社

は微

塵に

破損

成さ

れ、

大地

震に

付稲

荷社

地決

壊本

社乃

大破

、其

の上

所手

狭に

相成

り、

再建

相成

りが

たく

(松

下惣

四郎

翁日

記)

1854安

政東

海地

震-712

安政

元年

三月

/ペ

リー

と日

米和

親条

約を

締結

調印

、下

田・箱

根の

2港

を開

安政

元年

三月

/ペ

リー

と日

米和

親条

約を

締結

調印

、下

田・箱

根の

2港

を開

安政

地震

嘉永

七年

十一

月四

日・五

日・七

日1854.1

2.2

3・

24・26

1854.1

2.2

3安

政東

海地

震安

政元

年十

一月

四日

Page 28: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-28

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1857.5

.20

安政

四年

四月

二十

七日

安政

四年

丁巳

四月

二十

七日

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1857.6

.6安

政四

年五

月十

五日

五月

十五

日よ

り諏

訪湖

大満

水、

福島

・文

出・小

川な

どの

者船

で飯

をた

き、

島崎

お屋

敷水

潰、

湖水

定水

より

七尺

二寸

高の

満水

、史

上未

曾有

の洪

1857洪

水-780

1857.6

.8安

政四

年五

月十

七日

三峰

川大

洪水

1857.6

.9安

政四

年五

月十

八日

安政

四年

丁巳

五月

十八

日大

満水

、村

人子

午(文

政十

一年

)以

来の

大水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1857.9

.17

安政

四年

七月

二十

九日

三峰

川大

洪水

1857.9

安政

四年

八月

安政

四年

丁巳

八月

朔月

又大

出水

、本

年米

値段

騰貴

す(川

路資

料)

1573洪

水-730

1857.9

.18

安政

四年

八月

一日

三峰

川大

洪水

1860.6

安政

七年

五月

四月

諏訪

湖大

満水

、五

月末

諏訪

湖大

満水

、水

の高

さ田

辺三

尺・文

出四

尺・小

川五

尺、

三十

日の

長雨

1860洪

水-781

1860.6

.29

万延

元年

五月

十一

日万

延元

年庚

申五

月十

一日

大満

水、

十五

日大

水、

三月

から

七月

雨天

多く凶

作、

六月

二十

八日

天竜

川下

流出

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

1860.7

-8

万延

元年

六月

下平

本田

・下

河原

・河

原落

・清

水田

 計

五反

三畝

二歩

、古

新田

・田

五畝

歩・子

新田

 計

三反

三畝

七歩

、総

反別

 八

反六

畝九

歩分

、米

ノ合

計 

八石

九斗

六升

五合

(万

延元

年六

月川

欠荒

所書

上帳

1569洪

水-732

川欠

1861.3

.23

文久

元年

二月

十三

日地

震文

久元

年辛

酉二

月十

三日

地震

、凶

作(川

路資

料)

1573洪

水-730

万延

元年

三月

/桜

田門

外の

安政

五年

六月

/日

米修

好通

商条

約調

Page 29: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-29

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1865.6

.10-11

慶応

元年

五月

十七

~十

八日

慶応

元年

乙丑

五月

十七

・十

八日

近年

稀な

る大

満水

、正

徳の

未満

水よ

り150年

目(川

路資

料)

1573洪

水-730

1865.7

.9慶

応元

年五

月十

七日

豪雨

田沢

川上

流部

で山

崩れ

発生

、一

時天

然ダ

ム形

成。

決壊

後、

追分

で家

屋流

失・埋

没等

の被

害1865豪

雨-706

1865.8

.8-9

慶応

元年

六月

十七

日~

十八

六月

十七

日~

十八

日天

竜川

大洪

水(乙

丑満

水)、

正徳

五年

未満

水以

来、

百五

十年

目の

大満

江戸

時代

末期

○蛇

ぬけ

の穴

「赤坂

沢の

入悪

沢に

ある

淵に

三百

年も

生え

とる

杉の

木の

よう

に太

くて

長い

一匹

の大

蛇が

棲ん

でい

た。

大蛇

は穏

やか

なた

ちで

人の

前に

はめ

った

に姿

を現

さな

かっ

た。

村人

は横

川川

の上

の沢

に棲

んで

いる

から

、川

を守

って

くれ

てい

ると

信じ

、淵

には

めっ

たに

立ち

入ら

なか

った

。あ

る年

長雨

があ

り、

二十

日間

も振

り続

いた

。川

の水

が何

十倍

にも

ふくれ

あが

り、

大蛇

の棲

む淵

も地

面が

ドド

ッと

崩れ

た。

その

時さ

すが

の大

蛇も

川の

中に

投げ

出さ

れ、

のた

うち

まわ

った

が、

踊り

くる

った

横川

川へ

飲み

込ま

れ、

真っ

黒い

水や

大岩

と一

緒に

すご

い勢

いで

押し

流さ

れて

いっ

た。

次の

日大

雨が

うそ

のよ

うに

ピタ

リと

止み

、空

はカ

ラリ

と晴

れあ

がっ

た。

村の

衆が

入悪

沢の

淵ま

で来

た時

、地

面の

滑っ

た後

にポ

ッカ

リと

あい

た大

蛇の

巣穴

を見

つけ

た。

村の

田畑

はひ

どい

めに

あっ

たが

、村

人は

誰も

流さ

れな

かっ

たの

で、

大蛇

が身

代わ

りに

なっ

てくれ

た思

った

。そ

れか

らこ

の辺

りで

は大

雨が

降る

と、

蛇ぬ

けす

るほ

どの

大雨

にな

らん

とい

いが

な、

と言

うよ

うに

なっ

たと

いう

。」

江戸

末土

砂-

D639

○身

代わ

りに

なっ

た入

悪沢

の淵

の大

慶応

三年

十月

十四

日/

大政

奉還

慶応

三年

十二

月九

日/

王政

復古

の大

号令

慶応

元年

五月

/第

2次

長州

征伐

Page 30: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-30

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1868.6

.20

慶応

四年

五月

一日

中田

切川

氾濫

、田

切上

島・古

田ま

で流

失(飯

島町

)1868洪

水-749

1868.6

.22

9.1

6慶

応四

年戊

辰五

月三

日八

月一

日慶

応四

年戊

辰五

月三

日出

水、

八月

一日

大満

水辰

満水

と称

す(川

路資

料)

1573洪

水-730

1868.6

.26

慶応

四年

五月

七日

○移

住し

た田

原村

新田

の人

々「慶

応四

年(1868)五

月七

日か

ら大

沢川

の押

し出

す大

水と

天竜

川の

増水

が重

なり

、田

原村

新田

の全

戸に

満水

して

家屋

21戸

・水

田20町

歩余

が流

失し

た。

この

とき

、避

難し

た人

々の

うち

110戸

が今

でも

薬師

庵の

裏山

に住

み、

山組

部落

と称

して

石垣

づくり

の住

宅を

構え

てい

る。

1868

辰満

水-

D599

○洪

水に

よる

集団

移住

1868.7

.6慶

応四

年五

月十

七日

○西

向庵

の十

一面

観音

「慶

応四

年五

月十

七日

(辰

満水

)の

時、

西向

庵の

お堂

が激

流に

呑ま

れる

寸前

、村

人2、

3人

が身

体の

腰縄

を大

きな

柏の

木に

しば

りつ

け決

死の

覚悟

でぐ

らつ

いて

いる

堂内

に飛

び込

み、

本尊

の十

一面

観音

と釣

鐘を

運び

だし

た。

1868

辰満

水-

D600

○決

心覚

悟で

運び

出し

た本

尊と

釣鐘

1868.8

.19

慶応

四年

七月

二日

天竜

川大

洪水

(辰

満水

1868

明治

元年

(慶

応四

年)

前線

○夢

枕に

立つ

くら

がり

沢の

大蛇

「澄

心寺

の黙

仙和

尚の

夢枕

に妙

齢の

人に

化身

した

くら

がり

沢の

大蛇

が立

ち、

天に

昇る

ため

に山

から

天竜

川へ

移動

し千

年住

まな

けれ

ばな

らな

いと

言っ

た。

大蛇

は、

澄心

寺や

下の

田畑

村人

には

決し

て被

害を

与え

ない

と誓

い、

沢を

くだ

って

通さ

せて

くれ

と一

生の

お願

いを

して

帰っ

た。

夢か

らさ

めた

和尚

は、

くら

がり

沢の

入り

口に

石を

伏せ

読経

を唱

えて

大蛇

を封

じ込

めた

。そ

の1週

間後

、大

蛇は

荒れ

狂っ

て南

沢へ

抜け

出し

たの

で、

澄心

寺は

壁を

ぶち

抜か

れ、

三百

六十

畳の

畳の

上に

五尺

から

九尺

の甘

酒の

よう

な泥

がな

だれ

込み

、下

に続

く田

畑も

大き

な被

害を

受け

た。

1868

長雨

・洪

水-

D503

○沢

の主

(大

蛇)の

戒め

によ

る土

石流

明治

元年

一月

三日

/戊

辰戦

明治

元年

三月

十四

日/

5ヵ

条の

誓文

発布

明治

元年

九月

八日

/一

世一

元の

明治

元年

一月

三日

/戊

辰戦

明治

元年

三月

十四

日/

5ヵ

条の

誓文

発布

明治

元年

九月

八日

/一

世一

元の

Page 31: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-31

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1868

明治

元年

○喧

嘩岩

「明

治元

年の

山崩

れ後

、大

岩の

せい

で上

村川

の流

路が

西へ

と移

った

。西

側の

地主

が大

岩を

割っ

て流

れを

東側

に戻

そう

と主

張し

たの

に対

し、

東側

の地

主が

絶対

に割

らな

いと

気勢

を上

げた

ため

、長

いこ

と論

争に

なっ

た。

」「上

村小

学校

の下

を南

信濃

村の

赤沢

まで

まっ

すぐ

に流

れて

いた

上村

川の

流路

を、

明治

元年

の山

崩れ

以後

に上

村小

学校

前で

大き

く西

側に

曲が

るよ

うに

変え

た原

因の

ひと

つと

され

てい

る。

1868-

D517

○山

崩れ

によ

る流

路の

変化

がも

たら

した

人々

の争

1868.6

明治

元年

五月

三峰

川氾

濫、

上殿

島川

除、

村人

足560人

頂戴

人足

240人

1868洪

水-761

1868.7

.7明

治元

年五

月十

八日

五月

十八

日大

満水

。七

月二

日天

竜川

大洪

水(辰

の満

水)

1869.8

.20

明治

二年

七月

十三

日七

月十

三日

大風

雨あ

り、

連年

の洪

水で

天保

以来

の大

凶作

1869.1

2.1

明治

二年

十二

月一

○入

野谷

騒動

「慶

応二

年(1866)か

ら凶

作が

続き

、明

治元

年(1868)の

五月

と八

月に

おこ

った

洪水

(辰

満水

)に

より

、天

明・天

保に

次ぐ

大凶

作と

なっ

た。

また

、明

治新

政に

より

急激

に経

済の

情勢

が変

動し

、物

価が

高騰

した

ため

生活

は困

窮を

極め

た。

木師

郷の

五カ

村(市

野瀬

・中

尾・浦

・杉

島・黒

河内

)に

おい

ては

、藩

に対

して

用木

の上

納と

年貢

の上

納を

ゆる

めて

ほし

いと

嘆願

した

とこ

ろ、

聞き

入れ

ても

らえ

なか

った

。と

うと

う明

治二

年(1869)十

二月

一日

の夜

、不

満が

一度

に爆

発し

一揆

が勃

発し

た。

その

結果

、藩

は入

野谷

全体

に対

して

上納

の延

期を

認め

、騒

動は

三日

の夕

方に

治ま

った

。」

1869

洪水

-D

529

○明

治元

年辰

の満

水が

もた

らし

た大

凶作

によ

る一

揆勃

明治

二年

五月

十三

日/

出版

条例

制定

明治

二年

六月

十七

日/

版籍

奉還

明治

元年

一月

三日

/戊

辰戦

明治

元年

三月

十四

日/

5ヵ

条の

誓文

発布

明治

元年

九月

八日

/一

世一

元の

Page 32: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-32

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1870.1

0.2

明治

三年

九月

八日

明治

三年

九月

八日

大洪

水あ

り(川

路資

料)

1573洪

水-730

明治

四年

七月

十四

日/

 廃

藩置

1875.7

明治

8年

7月

三峰

川大

洪水

、青

島よ

り切

込む

狐島

両新

田を

洗う

1875洪

水-762

1875.8

.10

明治

8年

8月

10日

明治

8年

8月

10日

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

明治

8年

4月

14日

/元

老院

・大

審院

・地

方官

議会

の設

1880.1

明治

13年

10月

台風

明治

13年

10月

暴風

雨、

大満

水天

竜川

氾灘

、堤

防工

費巨

額に

付租

税減

額歎

願(川

路資

料)

1573洪

水-730

明治

13年

/諏

訪地

域に

おい

て、

製糸

工場

43工

場と

飛躍

的に

増え

、水

車と

湛え

の問

題が

深刻

化す

1882.9

.29

明治

15年

9月

29日

豪雨

明治

15年

9月

29日

夜よ

り降

雨、

豪雨

にて

10月

1日

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

明治

15年

1月

4日

/軍

人勅

諭発

布明

治15年

7月

23日

/壬

午事

1884.2

.21

明治

17年

2月

21日

○開

墾堤

防「松

尾千

振が

伴野

を洪

水か

ら護

り良

田に

開墾

する

ため

、開

墾組

を結

成し

、明

治17年

2月

21日

に堤

防工

事を

開始

した

。工

事は

天竜

川の

洪水

に阻

まれ

て至

難を

極め

たが

、明

治19年

5月

に一

の刎

起点

から

三百

余間

の築

堤完

成し

た。

しか

しそ

の年

は長

雨の

影響

で天

竜川

が氾

濫し

、堤

防が

決壊

して

しま

った

。そ

の後

諦め

るこ

とな

く、

小西

虎之

助の

考案

した

木工

沈床

とい

う工

法を

取入

れて

工事

を再

開し

た。

明治

33年

、一

の刎

起点

から

阿島

境に

至る

石提

九百

間が

完成

し、

美田

三十

七町

歩を

開い

た。

○開

墾堤

防の

碑「明

治35年

5月

、16年

に及

ぶ堤

防工

事の

苦難

と松

尾千

振の

功績

を讃

え、

一の

刎起

点の

堤防

上に

建立

され

た。

1884-

D625

○水

害に

挑ん

だ人

の姿

と功

明治

17年

7月

7日

/華

族令

制定

明治

17年

10月

31日

/秩

父事

件明

治17年

12月

4日

/甲

申事

明治

18年

6月

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

前線

南向

村で

洪水

、渡

場の

田地

流失

(中

川村

)1885洪

水-

734

前線

片桐

村で

1週

間の

降雨

で大

洪水

、小

和田

堤防

決壊

〈中

川村

)1885洪

水-

735

明治

18年

12月

22日

/内

閣制

度設

置1885.6

明治

18年

6月

Page 33: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-33

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1885.6

.19

明治

18年

6月

19日

下平

耕地

天竜

川西

側の

堤防

に対

し水

流が

直角

に激

突す

る形

で堤

防を

崩し

始め

、そ

の後

に続

く降

雨に

より

堤防

決壊

、死

者1名

(駒

ヶ根

市)

1885洪

水-753

明治

18年

12月

22日

/内

閣制

度設

1889.7

.26

明治

22年

7月

26日

台風

明治

22年

7月

26日

暴風

雨に

て洪

水、

9月

11日

(川

路資

料)

1573洪

水-730

明治

22年

2月

21日

/大

日本

帝国

憲法

公布

1890

明治

23年

三峰

川下

新田

へ切

込む

1890洪

水-763

明治

23年

/オ

ラン

ダ人

技師

デレ

ーケ

を招

き、

天竜

川を

含む

五大

河川

の調

査を

依頼

○信

能堤

防「毎

年霖

雨期

に濁

流が

氾濫

し利

用さ

れて

いな

かっ

た座

光寺

河原

を良

田に

変え

るた

め、

北原

米太

郎が

私財

を投

じ二

十年

間の

辛苦

を重

ね、

子弟

とと

もに

明治

40年

に完

成さ

せた

石塁

提」(飯

田市

座光

寺ヶ

原:「郷

土の

たか

ら」pp

.70-72.)

○北

原米

太郎

の碑

(信

能堤

防の

築設

者の

功績

を讃

える

)「霖

雨水

張り

 竜

躍り

蛇奔

る 

堤を

築き

芥を

刈り

 墾

て良

田と

為す

 大

島の

川 

其涯

源有

り 

民其

業に

安ん

ず 

南風

是水

温に

 功

を石

にろ

くす

 百

世永

く存

し 

黄稲

に英

晴す

穣々

霊あ

るが

如し

 遠

江 

金原

明善

題額

従六

位勲

六等

 平

野信

次郎

書」

1891

洪水

-D

515

○災

害に

挑む

人の

姿と

功績

を後

代に

伝え

○賽

の河

原で

の石

済み

に等

しい

「北原

米太

郎が

子弟

とと

もに

農耕

の暇

をさ

いて

石塁

提を

築く様

子を

みて

、人

々が

口に

して

いた

悲観

的な

こと

ば。

1891

洪水

-D

553

1891.1

0.2

8明

治24年

10月

28日

濃尾

地震

明治

震災

輯録

によ

ると

、西

筑摩

郡駒

ヶ根

村に

て大

巖落

ちて

男一

人壓

死と

記録

が残

って

いる

(明

治震

災輯

録)石

碑転

倒、

石垣

崩壊

1891濃

尾地

震-702

M8.0

、内

陸型

地震

で大

級の

地震

、死

者2,2

73人

、建

物全

半壊

22万

戸余

、根

尾谷

断層

が動

き一

瞬に

して

6m

もの

崖を

つくり

だし

明治

24年

5月

11日

/大

津事

件明

治24年

12月

18日

/足

尾鉱

毒問

1891-1907

前線

明治

24年

~明

治40年

Page 34: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-34

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1895

明治

28年

八日

市場

の対

岸が

くず

れ(庄

右衛

門ナ

ギ)、

八幡

社が

風圧

で破

壊さ

れた

こと

が棟

札に

記録

あり

、こ

のと

き土

砂くず

れダ

ムが

でき

た、

と記

録が

ある

が、

詳細

な日

付等

不明

1895-716

1895.1

.18

明治

28年

1月

18日

地震

明治

28年

正月

18日

大地

震(川

路資

料)

1586地

震-734

1895.6

.27

明治

28年

6月

27日

明治

28年

6月

27日

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

1895.4

.27

明治

28年

4月

27日

阿島

新町

大火

、40戸

焼く

1895火

事-789

1896.7

.26

明治

29年

7月

26日

明治

29年

7月

26日

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

明治

29年

6月

15日

/三

陸地

方に

大津

明治

30年

9月

29日

出水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

片桐

村で

9月

26か

ら29日

にか

けて

豪雨

、大

洪水

とな

り中

川原

大堤

防百

間決

壊。

天竜

川の

本流

が小

和田

の中

央を

流れ

る(中

川村

1897洪

水-

736

1898.6

明治

31年

6月

六月

上旬

、下

旬に

大洪

水、

六斗

川堤

防切

れる

(諏

訪地

方)

1898洪

水-784

1898.9

明治

31年

9月

九月

上旬

強雨

、古

来こ

れな

き大

猛水

とな

り八

ヶ岳

山峡

崩壊

、木

石土

砂一

時に

押し

出し

諸川

膨張

(諏

訪地

方)

1898洪

水-790

1898.9

.6-7

明治

31年

旧7月

21~

22日

豪雨

21日

夜半

、上

沢で

山崩

れ・崩

壊・押

出し

発生

、小

渋湯

湯治

宿)流

失・埋

没、

死者

10名

1898豪

雨-709

明治

28年

4月

17日

/日

清講

和条

約調

印明

治28年

4月

23日

/三

国干

明治

30年

12月

9日

/こ

の日

まで

の全

国に

おけ

る赤

痢病

患者

8万

9427

人、

死亡

者2万

2310人

に達

する

1897.9

.29

明治

30年

9月

29日

豪雨

明治

31年

6月

30日

/隈

板内

閣成

Page 35: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-35

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1898.9

.6-7

明治

31年

9月

6日

~7日

片桐

村で

大洪

水あ

り、

5月

完成

の中

川原

堤防

全壊

。小

和田

荒井

修の

家の

庭ま

で水

がつ

いた

(中

川村

1898洪

水-

737

三峰

川大

洪水

、境

区よ

り切

込み

、上

下新

田を

一な

めす

る、

浸水

45戸

、1898洪

水-764

三峰

川大

洪水

、榛

原下

より

上殿

島へ

切込

む、

浸水

68戸

、堤

防360間

決壊

1898洪

水-765

1899-

明治

32年

○青

島堤

防「天

明年

間(1781~

1788年

)に

藩に

よっ

て築

かれ

た御

見通

し川

除が

青島

耕地

を守

って

いた

が、

明治

元年

(1868年

)、

明治

15年

(1882年

)、

明治

18年

(1885年

)の

大洪

水に

より

、青

島耕

地区

は大

打撃

を受

けた

ため

、関

係地

元民

が集

まり

築堤

計画

や施

工計

画を

立案

した

。さ

らに

その

費用

も調

達し

て県

より

許可

を受

け、

地元

の責

任に

より

施工

する

方法

をと

った

。橋

爪定

太郎

を中

心と

し、

明治

32年

(1899年

)に

堤防

が完

成し

た。

」「大

正12年

(1923年

)、

橋爪

与四

郎、

北原

繁雄

両氏

が率

先し

、青

島堤

防保

存会

を結

成し

保存

に努

めた

。美

篤村

でも

昭和

26年

(1951

年)に

美篶

村堤

防保

存会

を組

織し

、水

防資

材保

存庫

を整

備し

たり

、常

時堤

防を

見回

り危

険箇

所の

改善

に努

めた

。」

○北

原式

伸縮

式鉄

線じ

ゃか

ごの

発明

「北

原繁

雄氏

が、

三峰

川の

洪水

復旧

作業

の仕

事の

中で

、伸

縮式

鉄線

じゃ

かご

を発

明し

た。

」○

青島

住民

の水

防技

術の

継承

「36災

害の

時、

聖牛

(う

し)入

れに

関し

て、

青島

住民

が自

衛隊

を指

導し

た。

」○

耕土

の深

さ「堤

防の

切れ

目(霞

堤)か

ら大

水の

時は

水が

ゆっ

くり

と逆

流し

てくる

。そ

のと

き土

が堆

積し

て耕

土が

深くな

った

。」

1899-

D518

○青

島堤

防の

史実

○水

防技

術の

継承

明治

32年

7月

17日

/日

英通

商航

海条

約発

効明

治32年

12月

20日

/門

戸開

放提

1901.6

.23

明治

34年

6月

23日

豪雨

小川

上平

あだ

か、

大沢

、竹

下が

け崩

れ、

家屋

倒壊

2戸

、死

者2名

(喬

木村

)1901土

砂-748

明治

34年

11月

18日

/八

幡製

鉄所

開業

1898.9

.25

明治

31年

9月

25日

明治

31年

6月

30日

/隈

板内

閣成

Page 36: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-36

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1903.9

明治

36年

9月

前線

片桐

村で

連続

雨天

のた

め大

洪水

、31年

の被

害と

同じ

(中

川村

)1903洪

水-

738

明治

36年

/川

路大

石提

竣工

(飯

田市

川路

1905.4

.29

5.5

明治

38年

4月

29日

5月

5日

明治

38年

乙己

4月

29日

、5月

5日

大降

霜あ

り(川

路資

料)

1573洪

水-730

1905.6

明治

38年

6月

天竜

川大

洪水

1905.7

.14

8.1

0明

治38年

7月

14日

8月

10日

台風

明治

38年

乙己

7月

14日

暴風

雨、

8月

10日

洪水

(川

路資

料)

1573洪

水-730

三峰

川氾

濫、

榛原

下堤

防200間

切込

む,水

田浸

水29町

歩(伊

那市

)1907洪

水-766

三峰

川氾

濫、

上新

田へ

切込

む、

家屋

流失

13戸

、浸

水51戸

、水

田流

失(伊

那市

)1907洪

水-791

1909.9

.20

明治

42年

9月

20日

三峰

川洪

水、

榛原

下堤

防200間

破壊

、応

急工

事聖

牛30組

1909洪

水-767

明治

42年

10月

26日

/伊

藤博

文、

ハル

ピン

駅前

で暗

殺さ

れる

1910頃

明治

43年

頃市

瀬仙

吉氏

の家

に土

砂が

流入

飼馬

が生

き埋

めで

死亡

1910土

砂-734

小川

の湯

の前

のナ

ギ洞

が崩

1910.8

.13

明治

43年

8月

13日

明治

43年

庚戌

8月

13日

洪水

(此

頃は

天竜

川筋

が東

寄り

であ

りた

るた

め河

普請

少し

)(川

路資

料)

1573洪

水-730

1911

明治

44年

大暴

風雨

で前

沢川

が氾

濫、

水防

中に

5人

が溺

死(飯

島町

)1911洪

水-750

1911.4

.11

明治

44年

4月

11日

三峰

川大

洪水

、榛

原下

堤防

80間

決壊

、裏

切120

間1911洪

水-770

明治

38年

8月

10日

/ポ

ーツ

マス

講和

会議

明治

38年

8月

12日

/第

2回

日英

同盟

協約

調印

明治

38年

9月

5日

/日

露講

和条

約調

印明

治38年

9月

5日

/日

々谷

焼打

ち事

明治

40年

7月

24日

/第

3次

日韓

協約

明治

40年

7月

30日

/第

1回

日露

協約

明治

43年

8月

22日

/韓

国併

合に

関す

る日

韓条

約調

1907.8

.24

明治

40年

8月

24日

明治

44年

/王

子製

紙の

遠山

郷木

材伐

り出

しが

盛ん

に行

われ

Page 37: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-37

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1911.6

.19

明治

44年

6月

19日

大田

切川

大洪

水、

大田

切橋

上の

南側

堤防

決壊

、田

畑数

十町

歩が

土砂

に埋

まる

、浸

水家

屋100余

戸、

北下

平が

ほぼ

全滅

に近

い惨

状で

あっ

た。

(駒

ヶ根

市下

平)

1911洪

水-752

明治

44年

辛亥

6月

20日

大出

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

片桐

村で

6月

19日

大暴

風雨

大洪

水、

小和

田で

16ha浸

水。

田島

郵便

局裏

で水

防活

動中

の5名

が濁

流に

押し

流さ

れ死

亡(中

川村

1911洪

水-

739

1911.8

明治

44年

8月

明治

44年

辛亥

8月

又出

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

1911.8

明治

44年

8月

8月

に諏

訪湖

が大

洪水

、中

筋方

面浸

水被

害1911洪

水-788

大正

3年

8月

29日

大洪

水(川

路資

料)

1573洪

水-730

杉島

学校

の校

地が

欠崩

、8月

より

阿弥

陀堂

へ約

1年

間移

転し

た(長

谷村

)1914洪

水-759

1923.6

.7.

大正

12年

6月

7日

洪水

のた

め、

四徳

・桑

原・北

島に

大被

害。

葛島

県営

堤防

破壊

、3戸

流出

、田

畑30ha流

失(中

川村

)1923洪

水-

740

6月

9日

、暴

風(川

路資

料)

1573洪

水-730

6月

9日

天竜

川大

増水

、飯

田測

候所

開設

以来

の高

雨量

を記

録。

飯田

町浸

水、

松川

沿岸

流失

家屋

あり

1923洪

水-785

七久

保字

日向

で山

津波

の惨

状に

あう

1923土

砂-786

大正

3年

8月

23日

/ド

イツ

に宣

戦布

告、

第1次

世界

大戦

に参

1911.6

.20

大正

3年

8月

29日

1914.8

.29

1923.6

.9大

正12年

6月

9日

台風

明治

44年

辛亥

6月

20日

明治

44年

/王

子製

紙の

遠山

郷木

材伐

り出

しが

盛ん

に行

われ

大正

12年

9月

4日

/亀

戸事

件大

正12年

9月

16日

/甘

粕事

Page 38: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-38

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

台風

6月

22日

、暴

風雨

(川

路資

料)

1573洪

水-730

台風

前沢

川で

土石

流、

支流

の日

向沢

川が

切れ

込み

上前

沢集

会所

と住

宅4戸

流出

、7戸

を大

破、

中通

では

4戸

に土

砂が

流入

し女

性1名

・馬

1頭

が死

亡、

滝戸

では

2戸

の住

宅と

倉庫

1棟

を流

出、

前沢

川橋

流失

、片

桐村

役場

に土

砂流

入、

新井

では

1戸

流失

、2戸

が土

砂に

埋ま

り天

竜川

筋一

帯は

川原

と化

した

(中

川村

1923洪

水-741

小和

田の

郷士

沢・坊

ヶ沢

・洞

ヶ沢

が大

洪水

、家

屋に

土砂

侵入

、女

・子

ども

は玉

宝寺

に避

難(中

川村

1923洪

水-

742

南田

島の

保谷

沢川

が大

満水

、所

々堤

防決

壊で

田畑

30haを

流出

、正

徳・明

和に

次ぐ

被害

1923洪

水-743

七久

保村

・片

桐村

大水

害(飯

島町

)1923洪

水-751

三峰

川天

女橋

水標

6尺

8寸

(約

2.1

m)

1923洪

水-771

1923.7

.15

大正

12年

7月

15日

豪雨

15日

昼頃

、山

崩れ

によ

る河

道埋

塞で

山の

神沢

で天

然ダ

ム形

成。

その

後決

壊。

(飯

島町

)1923豪

雨-703

1923.9

.1大

正12年

9月

1日

関東

地震

白岩

が白

い煙

を上

げて

くず

れ落

ちた

(南

信濃

村)

1923関

東地

震‐717

M7.9

、伊

豆大

島、

相模

湾を

震源

とし

て発

生し

た直

下型

の大

地震

、死

者・行

方不

明者

10万

5千

余人

、住

家全

壊10万

9千

余、

住家

半壊

10万

2千

余、

住家

焼失

21万

2千

1927.6

.13

昭和

2年

6月

13日

農耕

地約

五十

町歩

が一

面の

海、

空積

堰堤

が欠

壊。

(喬

木村

)1927洪

水-792

直径

2cm

の降

雹に

より

小川

川沿

岸の

農耕

地約

五十

町歩

が一

面の

海と

なる

、田

本平

(小

川)の

人々

が造

った

空積

堰堤

が欠

壊し

、約

300m

下流

の小

川川

合流

地点

が流

下し

た土

砂に

より

一時

せき

止め

られ

、余

勢を

かっ

て下

流に

災い

した

○伊

久間

水除

土手

(掘

割)

「伊

久間

の人

たち

が集

団で

中世

末期

頃か

らつ

くり

はじ

めた

とい

う。

しか

し災

害が

遠の

くと

その

効得

を忘

れが

ちに

なり

、掘

割を

埋め

たり

物を

置い

たり

、い

ざら

いを

怠っ

た。

その

結果

、大

きな

雹が

降っ

た昭

和2年

6月

には

、麦

がら

など

が堀

割の

中に

入っ

てい

たの

でた

ちま

ちに

水が

溢れ

出し

、伊

久間

は災

害に

見舞

われ

た。

D508

○災

害の

教訓

昭和

2年

3月

14日

/金

融恐

1923.6

.22

大正

12年

7月

18日

豪雨

大正

12年

6月

22日

1923.7

.18

大正

12年

9月

4日

/亀

戸事

件大

正12年

9月

16日

/甘

粕事

Page 39: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-39

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1928.9

昭和

3年

9月

○九

十九

谷治

山事

業・塩

沢砂

防組

合「昭

和3年

9月

(1928)、

九十

九谷

の復

旧を

帰し

て塩

沢砂

防組

合が

発足

され

た。

山腹

工事

が広

い面

積に

わた

って

完工

され

てい

くの

に伴

い付

随し

てお

こる

雨水

等へ

の被

害対

処に

苦心

した

。」

○九

十九

谷生

育の

木材

によ

る大

聖牛

「九

十九

谷の

砂防

事業

によ

り緑

化し

た資

源が

、昭

和25年

の洪

水時

に九

十九

谷か

ら流

下す

る土

砂の

せき

止め

や道

路保

護の

ため

に作

った

大聖

牛の

材料

とな

り効

を奏

した

。」

D507

○官

民一

体の

治山

事業

昭和

3年

3月

9日

/九

十九

谷の

復旧

を帰

して

塩沢

砂防

組合

が発

足、

官民

一体

の治

山事

業が

始ま

る昭

和3年

3月

15日

/3.1

5事

件勃

発昭

和3年

5月

3日

/斉

南事

1931

昭和

6年

台風

によ

り諏

訪湖

満水

。ロ

ーリ

ング

ダム

問題

大紛

争に

発展

する

。1931洪

水-787

昭和

6年

3月

3日

/3月

事件

昭和

6年

9月

18日

/満

州事

変昭

和6年

10月

8日

/10

月事

1934.9

.22

昭和

9年

9月

22日

台風

(室

戸台

風)

昭和

9年

9月

22日

大暴

風雨

被害

甚大

(川

路資

料)

1573洪

水-730

大瞬

間風

速60m

/sと

いう

強風

によ

り、

4m

を超

える

高潮

が発

生、

死者

2,7

02

人、不

明334人

、負

傷者

14,9

94人

1938.4

.27

昭和

13年

4月

27日

○山

抜け

で埋

まっ

た湯

場「昭

和13年

の雲

ひと

つな

い晴

れた

4月

27日

午前

11時

頃の

こと

、も

のす

ごい

大音

響で

烏帽

子の

北側

の山

裾が

山抜

けを

した

。そ

して

午後

1時

頃、

今度

は南

側の

山麓

が山

抜け

をし

た。

この

山抜

けで

地獄

谷の

、あ

なだ

つ(岩

にあ

いた

穴)を

少し

下っ

たと

ころ

にあ

る湯

場が

埋ま

って

しま

った

。こ

の湯

場は

、岩

の間

から

硫黄

の湯

の花

が噴

き出

てい

て腫

物に

よく効

くと

いわ

れて

おり

、ず

っと

昔は

獣た

ちの

治療

場で

もあ

った

。」

1938

土砂

-D

542

○山

抜け

で埋

まっ

た湯

北島

堤防

40m

・177m

決壊

(中

川村

)S13.7

災-

1

中沢

で死

者2名

、家

屋被

害48戸

、新

宮川

沿岸

の堤

防破

損8,5

00m

(駒

ヶ根

市)

S13.7

災-

2

昭和

13年

7月

3日

~4日

1938.7

.3-4

昭和

13年

1月

1日

新潟

県十

日町

の映

画館

で、

積雪

のた

め屋

根が

落下

、69人

圧死

昭和

13年

4月

1日

/国

民総

動員

法公

布昭

和13年

9月

1日

/関

東地

方、

風速

31メ

ート

ルの

台風

。死

者99人

昭和

14年

9月3日

/第

2次

世界

大戦

始ま

Page 40: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-40

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

下平

で諸

井頭

石堤

300m

決壊

、道

路延

長4,0

00m

・用

水路

100m

が使

用不

能、

流失

家屋

10戸

、浸

水家

屋30戸

、土

砂侵

入15戸

、下

平丸

塚の

水田

2町

歩を

流失

(駒

ヶ根

市)

S13.7

災-

3

雨量

146m

m/日

、西

春近

村大

川除

流失

、殿

島橋

橋脚

東よ

り5番

目1.5

m陥

没、

中殿

島堤

防392m

破壊

、家

屋2戸

破壊

S13.7

災-

4

上郷

で堤

防決

壊30m

S13災

-1

市田

で蛇

籠80m

流失

S13災

-2

神稲

で堤

防240m

決壊

S13災

-3

河野

村中

芝地

先で

堤防

250m

決壊

S13災

-4

生田

村で

堤防

600m

決壊

S13災

-5

川路

村が

3~

4尺

の泥

で埋

まる

S13災

-6

竜江

村が

3~

4尺

の泥

で埋

まる

S13災

-7

新宮

川氾

濫(駒

ヶ根

市中

沢・下

平)

S13災

-8

1940.6

.7昭

和15年

6月

7日

竜江

で堤

防130m

決壊

S15災

1940頃

1982年

11月

昭和

15年

頃昭

和57年

11月

○坂

室の

赤石

とお

こり

石「む

かし

、現

在の

坂室

公園

の下

あた

りの

宮川

は急

な崖

にな

って

いて

、馬

や人

が川

に落

ちた

こと

から

、赤

石の

難所

と呼

び恐

れら

れて

いた

。そ

のす

ぐ近

くの

左岸

の土

手に

は高

熱が

出た

時に

触る

と熱

がさ

がっ

たと

いう

、お

こり

石が

あっ

た。

赤石

は、

昭和

15年

ごろ

の大

水の

後、

引き

上げ

られ

て坂

室神

社の

境内

に運

ばれ

た。

おこ

り石

は、

昭和

57年

の台

風10号

の大

水で

流さ

れそ

うに

なっ

たの

で、

その

年の

11月

に同

じく坂

室神

社の

境内

に運

ばれ

、今

に至

って

いる

1940

洪水

-D

607

○洪

水に

よっ

て移

設さ

れた

地物

1942

昭和

17年

松尾

で堤

防決

壊80m

、耕

地冠

水16ha

S17災

昭和

17年

6月

4日

/ ミ

ッド

ウェ

ー海

昭和

15年

9月

27日

/日

独伊

3国

同盟

締結

1938.7

.5

県全

体で

死者

・行

方不

明者

6名

、家

屋全

半壊

6戸

、田

畑冠

水・流

失1272ha、

道路

損壊

595箇

所。

河川

、堤

防、

橋梁

に大

きな

被害

があ

った

前線

1938.7

.3-4

昭和

13年

7月

3日

~4日

昭和

13年

7月

5日

昭和

13年

1月

1日

新潟

県十

日町

の映

画館

で、

積雪

のた

め屋

根が

落下

、69人

圧死

昭和

13年

4月

1日

/国

民総

動員

法公

布昭

和13年

9月

1日

/関

東地

方、

風速

31メ

ート

ルの

台風

。死

者99人

昭和

14年

9月3日

/第

2次

世界

大戦

始ま

Page 41: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-41

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1945.9

昭和

20年

9月

天竜

川大

洪水

、弁

天堤

防決

壊S20.9

上久

堅で

水田

流出

100ha、

流失

家屋

20戸

、死

者1

名S20災

-1

泰阜

村門

島地

区で

山崩

れ、

石山

の鷹

ノ巣

神社

に避

難中

の児

童3人

その

家族

7人

が死

亡、

負傷

者4

名S20災

-2

時又

で家

屋浸

水49戸

S20災

-2

松尾

で堤

防決

壊流

失200m

、耕

地冠

水流

失80ha

S20災

-3

飯田

市弁

天橋

付近

で法

崩れ

が発

生S20災

-4

1947

昭和

22年

松尾

で堤

防決

壊流

失90m

、耕

地冠

水5ha

S22災

1947.4

.20

昭和

22年

4月

20日

飯田

市大

火、

焼損

棟数

3、

742棟

、焼

損面

積481、

985平

方メ

ート

ル、

焼損

面積

では

戦後

大の

市街

地大

火S22.4

1947.9

昭和

22年

9月

小川

川大

洪水

(喬

木村

)S22.9

昭和

20年

1月

13日

/三

河地

震昭

和20年

8月

15日

/日

本無

条件

降伏

(敗

戦)、

降伏

文書

調印

昭和

20年

8月

28日

/進

駐軍

によ

る占

昭和

22年

5月

3日

日本

国憲

法施

1945.1

0.5

10月

1日

サイ

パン

島南

東洋

上に

発生

した

台風

9号

は毎

時40km

内外

で北

上し

、5日

2時

室戸

岬200km

付近

に達

し、

6時

頃よ

り北

東に

転じ

、速

度を

増し

て遠

州沖

合、

房総

南方

を経

て東

方洋

上に

去っ

た。

中心

示度

は740hpa

程度

で南

方沖

にそ

れた

ので

風は

一般

に弱

く、

太平

洋岸

でや

や強

かっ

た。

雨量

は前

日来

の前

線と

相ま

って

中部

地方

を中

心に

関東

南西

部、

東北

南部

に多

かっ

た。

豪雨

が全

流域

に渡

って

続き

、記

録的

な出

水を

生じ

た飯

田測

候所

にお

ける

10月

4日

の大

雨量

が、

239m

m総

雨量

500m

m(飯

田市

上久

堅の

被害

)死

亡7名

、全

壊家

屋2戸

、耕

地被

害20町

昭和

20年

10月

5日

台風

(台風

9号

)

Page 42: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-42

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

竜江

で無

堤地

100m

流失

S23災

-1

時又

で家

屋浸

水10戸

S23災

-2

市田

で無

堤地

53m

流失

S23災

-3

美和

ダム

地点

(ダム

は昭

和34年

11月

に完

成)、

大洪

水流

量671m

3/se

c、

洪水

流量

1311万

m3/se

cS23災

-4

大鹿

村上

蔵-

釜沢

間の

道路

2500m

決壊

流失

、橋

梁流

失、

通行

不能

S23災

-5

大鹿

村下

青木

で堤

防2ヶ

所延

長約

800m

流失

、耕

地数

町歩

埋没

S23災

-6

伊那

市東

春近

で護

岸決

壊、

浸水

被害

S24災

-1

伊那

市伊

那部

、三

峰川

合流

点で

浸水

被害

S24災

-2

飯田

市川

路で

浸水

被害

S24災

-3

飯田

市竜

江で

浸水

被害

S24災

-4

川路

村護

岸工

450m

決壊

S25災

-1

竜丘

で家

屋浸

水46戸

、耕

地冠

水被

害S25災

-2

竜江

で護

岸工

1200m

、無

堤地

300m

決壊

、耕

地冠

水80ha

S25災

-3

下久

堅で

無堤

地200m

決壊

S25災

-4

6月

大水

害あ

り、

小和

田水

田20ha冠

水(中

川村

)S25災

-5

中沢

で新

宮川

8m

の水

位観

測、

死亡

者1名

、建

物流

失1戸

、建

物破

損10戸

、床

上・床

下浸

水33戸

、堤

防決

壊11ヶ

所、

堰堤

等工

作物

被害

2,2

60m

(駒

ヶ根

市)

S25災

-6

昭和

25年

9月

1日

/日

本初

の民

間ラ

ジオ

放送

が開

始さ

れる

昭和

25年

9月

3日

/ジ

ェー

ン台

風昭

和25年

9月

8日

/対

日講

和条

約、

日米

安保

条約

調印

1950.6

.9-14

1948.6

.20

1949.6

.22

昭和

24年

7月

5日

/下

山事

件昭

和24年

8月

31日

/キ

ティ

ー台

昭和

23年

1月

26日

/帝

銀事

件昭

和23年

6月

28日

/福

井地

震昭

和23年

9月

15日

/ア

イオ

ン台

死者

1名

、床

上床

下浸

水6

戸、

田畑

冠水

78ha、

堤防

決壊

、道

路損

壊等

10ヶ

所等

の被

害が

あっ

た。

水稲

305ha、

麦類

87haに

被害

。堤

防、

橋梁

、道

路の

決壊

が多

く、

家屋

の被

害も

大き

かっ

た。

デラ

台風

昭和

25年

6月

9~

14日

前線

昭和

24年

6月

22日

昭和

23年

6月

20日

前線

Page 43: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-43

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

山吹

村堤

防500m

決壊

、耕

地流

失10ha

S25災

-5

生田

村福

興堤

防430m

決壊

、耕

地流

失8ha

S25災

-6

生田

村で

根石

10m

流失

S25災

-7

上郷

村飯

沼で

堤防

決壊

75m

、家

屋浸

水4戸

、耕

地浸

水40ha

S25災

-8

神稲

村で

堤防

250m

流失

、根

固工

50m

決壊

、家

屋浸

水15戸

、田

畑浸

水40ha

S25災

-9

松尾

村清

水で

築堤

工170m

決壊

、家

屋浸

水2戸

、田

畑浸

水25ha

S25災

-10

河野

村八

王子

沖で

根固

20m

流失

S25災

-11

鼎村

水手

で床

止工

40m

決壊

、田

畑浸

水25ha

S25災

-12

喬木

村阿

島堤

防破

堤、

堤防

流失

400m

、耕

地流

失30ha、

浸水

40ha

S25災

-13

喬木

村川

向で

護岸

工20m

決壊

、田

畑浸

水10ha

S25災

-14

喬木

村堂

前で

護岸

工10m

決壊

、田

畑浸

水10ha

S25災

-15

○九

十九

谷治

山事

業・塩

沢砂

防組

合「昭

和3年

9月

(1928)、

九十

九谷

の復

旧を

帰し

て塩

沢砂

防組

合が

発足

され

た。

山腹

工事

が広

い面

積に

わた

って

完工

され

てい

くの

に伴

い付

随し

てお

こる

雨水

等へ

の被

害対

処に

苦心

した

。」

○九

十九

谷生

育の

木材

によ

る大

聖牛

「九

十九

谷の

砂防

事業

によ

り緑

化し

た資

源が

、昭

和25年

の洪

水時

に九

十九

谷か

ら流

下す

る土

砂の

せき

止め

や道

路保

護の

ため

に作

った

大聖

牛の

材料

とな

り効

を奏

した

1928

洪水

-D

556

○官

民一

体の

治山

事業

外沢

原護

岸堤

防50m

決壊

、上

垣外

橋流

失(中

川村

)S26.7

時又

で床

下浸

水5戸

S26災

-1

河野

村一

ノ刎

で堤

防20m

決壊

S26災

-2

昭和

25年

9月

1日

/日

本初

の民

間ラ

ジオ

放送

が開

始さ

れる

昭和

25年

9月

3日

/ジ

ェー

ン台

風昭

和25年

9月

8日

/対

日講

和条

約、

日米

安保

条約

調印

昭和

26年

9月

8日

/サ

ンフ

ラン

シス

コ条

約調

印昭

和26年

10月

13日

/ル

ース

台風

6日

6時

南シ

ナ海

に発

生し

た低

気圧

は、

発達

して

熱帯

低気

圧と

なり

、衰

えな

がら

東進

し、

9日

に日

本海

中部

で消

滅し

た。

しか

しこ

の熱

帯低

気圧

の付

随し

た不

連続

線は

、9日

10時

朝流

域南

部ま

で南

下し

たが

、同

日夕

刻に

は再

び北

上し

、そ

の後

やや

南下

し流

域上

空に

横た

わり

、12

時に

は更

に南

下し

本流

域上

空に

横た

わり

14日

には

更に

南下

し本

流域

を遠

ざか

った

。流

域南

部の

山岳

地帯

に集

中的

な豪

雨が

あっ

た。

1951.7

.3台

風(ケ

イト

台風

)昭

和26年

7月

3日

前線

昭和

25年

6月

9~

14日

1950.6

.9-14

Page 44: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-44

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

飯田

長姫

町で

山崩

れ発

生、

死者

1名

S28災

-1

山吹

集落

で堤

防100m

流失

、床

下浸

水72戸

S28災

-2

座光

寺集

落で

床下

浸水

72戸

S28災

-3

上郷

集落

で床

下浸

水3戸

S28災

-4

鼎集

落で

床下

浸水

32戸

S28災

-5

松尾

集落

で根

固流

失40m

、床

下浸

水3戸

S28災

-6

竜丘

集落

で床

上浸

水1戸

・床

下浸

水11戸

、耕

地冠

水7ha

S28災

-7

竜江

集落

で無

堤地

50m

決壊

、家

屋半

壊1戸

、床

下浸

水2戸

、耕

地冠

水S28災

-8

川路

集落

で床

上浸

水12戸

・床

下浸

水39戸

S28災

-9

市田

集落

で蛇

籠60m

流失

S28災

-10

河野

村大

宮沖

で堤

防248m

決壊

S28災

-11

生田

村宮

沢川

合流

地点

で堤

防50m

決壊

S28災

-12

生田

村間

沢川

合流

地点

で蛇

籠護

岸150m

流失

S28災

-13

大島

集落

で護

岸400m

流失

S28災

-14

伊賀

良集

落で

床下

浸水

28戸

S28災

-15

清内

路集

落で

家屋

半壊

1戸

、床

下浸

水8戸

S28災

-16

会地

集落

で床

下浸

水2戸

S28災

-17

智里

集落

で家

屋全

壊1戸

、半

壊3戸

、床

下浸

水5

戸S28災

-18

浪合

集落

で家

屋全

壊1戸

、半

壊2戸

、床

上浸

水6

戸S28災

-19

根羽

集落

で家

屋全

壊2戸

、半

壊5戸

、床

上浸

水1

戸・床

下浸

水156戸

、高

橋地

区で

山崩

れ発

生S28災

-20

下條

集落

で家

屋全

壊1戸

、半

壊11戸

、床

上浸

水16戸

・床

下浸

水83戸

S28災

-21

昭和

28年

3月

14日

/吉

田内

閣不

信任

案可

決全

国的

凶作

オホ

ーツ

ク海

高気

圧が

優勢

とな

った

ため

梅雨

も中

休み

状態

にあ

った

が、

16

日に

著し

い気

圧の

谷の

東進

に伴

い低

気圧

が大

陸か

ら東

進し

日本

海に

入り

梅雨

前線

は西

日本

から

活発

とな

った

。前

線は

本州

中部

ある

いは

以南

にあ

って

西日

本を

横断

し揚

子江

方面

に東

西に

伸び

て停

滞し

、か

つ南

北に

振動

した

ため

本流

域何

部に

は連

日大

雨が

降り

続き

、21

日夜

半に

至っ

てよ

うや

く小

雨と

なっ

た。

今回

の降

雨は

いわ

ゆる

梅雨

末期

の豪

雨で

本邦

東方

洋上

に長

らく停

滞し

た高

気圧

に基

づく異

常に

湿潤

な南

方温

暖気

流と

日本

海か

ら現

れて

南下

する

冷気

流と

の間

に前

線が

形成

され

、こ

れが

両気

流の

消長

及び

地形

が関

連し

て南

北に

振動

し、

年降

水量

の20%

に匹

敵す

る豪

雨と

なっ

た。

1953.7

.17

前線

昭和

28年

7月

17日

Page 45: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-45

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

富草

集落

で家

屋全

壊1戸

、半

壊2戸

、床

下浸

水15

戸S28災

-22

大下

條集

落で

家屋

全壊

3戸

、半

壊11戸

、床

下浸

水1戸

、中

谷地

区で

山崩

れ発

生S28災

-23

神原

集落

で家

屋半

壊1戸

、床

下浸

水1戸

S28災

-24

平岡

集落

で床

上浸

水5戸

・床

下浸

水1戸

S28災

-25

千代

集落

で家

屋半

壊62戸

S28災

-26

下久

堅集

落で

家屋

半壊

1戸

、床

上浸

水1戸

・床

下浸

水1戸

S28災

-27

上久

堅集

落で

床下

浸水

34戸

S28災

-28

神稲

集落

で家

屋全

壊2戸

、半

壊2戸

S28災

-29

上村

集落

で家

屋全

壊1戸

、半

壊9戸

、床

上浸

水54

戸S28災

-30

木沢

集落

で家

屋全

壊9戸

、半

壊1戸

、床

上浸

水4

戸・床

下浸

水21戸

S28災

-31

和田

集落

で家

屋全

壊1戸

、半

壊2戸

、床

下浸

水31

戸S28災

-32

平谷

集落

で家

屋半

壊9戸

、床

上浸

水40戸

・床

下浸

水51戸

S28災

-33

7月

19日

、泰

阜村

ヤニ

マツ

地籍

で山

崩れ

、家

屋の

倒壊

で1家

3人

の児

童が

死亡

S28災

-34

1953.8

昭和

28年

8月

山吹

で堤

防決

壊90m

、耕

地流

失5ha

S28.8

1953.9

昭和

28年

9月

時又

集落

で高

さ護

岸2.5

m、

長さ

8m

決壊

S28.9

1955.1

.20

昭和

30年

1月

20日

飯田

線門

島~

田本

駅間

の明

島大

表沢

地籍

の線

路上

に落

石、

終電

車の

車両

が傾

斜地

と天

竜川

川原

に転

落し

乗客

5人

が死

亡、

重傷

者6人

S30災

昭和

30年

8月

6日

/原

水爆

禁止

第1回

世界

大会昭

和28年

3月

14日

/吉

田内

閣不

信任

案可

決全

国的

凶作

オホ

ーツ

ク海

高気

圧が

優勢

とな

った

ため

梅雨

も中

休み

状態

にあ

った

が、

16

日に

著し

い気

圧の

谷の

東進

に伴

い低

気圧

が大

陸か

ら東

進し

日本

海に

入り

梅雨

前線

は西

日本

から

活発

とな

った

。前

線は

本州

中部

ある

いは

以南

にあ

って

西日

本を

横断

し揚

子江

方面

に東

西に

伸び

て停

滞し

、か

つ南

北に

振動

した

ため

本流

域何

部に

は連

日大

雨が

降り

続き

、21

日夜

半に

至っ

てよ

うや

く小

雨と

なっ

た。

今回

の降

雨は

いわ

ゆる

梅雨

末期

の豪

雨で

本邦

東方

洋上

に長

らく停

滞し

た高

気圧

に基

づく異

常に

湿潤

な南

方温

暖気

流と

日本

海か

ら現

れて

南下

する

冷気

流と

の間

に前

線が

形成

され

、こ

れが

両気

流の

消長

及び

地形

が関

連し

て南

北に

振動

し、

年降

水量

の20%

に匹

敵す

る豪

雨と

なっ

た。

前線

昭和

28年

7月

17日

1953.7

.17

Page 46: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-46

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

四徳

に洪

水被

害(中

川村

)S32災

-1

滝沢

に洪

水被

害(中

川村

)S32災

-2

村内

の降

雨量

250m

m・山

間部

300m

m、

村内

全域

で浸

水、

上清

公民

館裏

の堤

防決

壊に

より

数戸

の建

物が

全壊

・半

壊・流

失、

孫六

沢川

が氾

濫し

上清

川添

いの

人家

2戸

流失

、下

清小

黒川

・梨

野沢

・ど

うほ

沢を

始め

村内

各沢

に山

崩れ

が発

生し

蛇抜

けと

なっ

て道

路や

耕地

に甚

大な

被害

(清

内路

村)

S32.6

災-

1

浪合

村青

木地

籍で

家屋

2戸

流失

、宮

本地

籍で

家屋

倒壊

・県

道決

壊S32.6

災-

2

(浪

合村

の被

害)

行方

不明

者1名

、家

屋流

失4戸

、全

壊4戸

、半

壊16

○馬

島先

生頌

徳碑

「昭

和32年

6月

27日

、豪

雨災

害の

救援

奔走

中に

山腹

の墜

落に

遭遇

し殉

死。

村葬

を挙

げて

頌徳

碑を

建て

偉霊

を祀

る。

1957

土砂

D-651

○災

害救

助中

の殉

6月

26日

大水

害、

小川

川・加

ヶ須

川氾

濫、

流失

家屋

4戸

、堤

防決

壊1,8

00m

(喬

木村

)S32.6

災-

3

1958.8

.26

昭和

33年

8月

26日

台風

(台

風17号

)阿

南町

鈴ヶ

沢で

製炭

中に

山崩

れ、

売木

村出

身の

2家

族6人

が被

災、

3名

死亡

S33.8

1958.9

.18

昭和

33年

9月

18日

台風

美和

ダム

地点

(ダム

は昭

和34年

11月

に完

成)、

大洪

水流

量570m

3/se

c、

洪水

流量

1515万

m3/se

cS33災

県内

で死

者17名

、家

屋全

半壊

159戸

、床

上床

下浸

水5353戸

、河

川1128ヶ

所、

道路

等公

共土

木、

治山

、農

業関

係に

大き

な被

害が

あっ

た。

1958.9

昭和

33年

9月

台風

(台

風21号

)中

川村

で中

川橋

流失

S33.9

昭和

33年

3月

9日

/関

門ト

ンネ

ル開

通昭

和33年

9月

26日

/狩

野川

台風

昭和

32年

1957.6

.26-29

昭和

32年

6月

26日

~29日

豪雨

(台

風5号

1957

昭和

32年

6月

21日

/日

米共

同声

明で

日米

新時

代を

強調

Page 47: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-47

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

美和

ダム

地点

(ダム

は昭

和34年

11月

に完

成)、

大洪

水流

量1182m

3/se

c、

洪水

流量

3521万

m3/se

cS34.8

中沢

の百

々目

木川

両岸

の各

所に

は延

6km

にわ

たり

各所

に決

壊ヵ

所を

生じ

る、

耕地

の流

失7反

5畝

(駒

ヶ根

市)

S34.8

災-

2

富士

見立

沢の

セン

ガ沢

で土

石流

発生

、死

亡19

名、

重症

2名

、家

屋流

失8戸

S34.8

災-

3

昭和

34年

4月

10日

/皇

太子

(=現

天皇

)結婚

1959.8

.14

台風

(台風

7 )

昭和

34年

8月

14日

県内

で死

者・行

方不

明者

71名

、家

屋全

半壊

4482

戸、

床上

床下

浸水

15,1

97

戸、

河川

1746ヶ

所等

公共

土木

、農

業関

係に

甚大

な被

害が

あっ

た。

(長

谷村

の被

害)

長谷

村で

全壊

1戸

、流

失39戸

、半

壊1戸

、床

上・床

下浸

水30戸

、堤

防決

壊1,1

80m

、被

害総

額2億

円(伊

那里

の被

害)

伊那

里杉

島、

柏木

集落

孤立

、美

和小

学校

戸大

分校

半壊

半流

失、

被害

総額

2億

円(茅

野市

の被

害)

茅野

市で

死者

2名

、流

失家

屋22戸

、半

壊家

屋36

戸、

床上

浸水

家屋

93戸

、流

失・埋

没耕

地149.5

3ha、

堤防

決壊

50ヵ

所で

総延

長5,8

40m

、流

失橋

梁35ヵ

所で

上川

水系

の橋

ほと

んど

流失

、被

害総

額10億

7千

万円

Page 48: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-48

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

昭和

34年

4月

10日

/皇

太子

(=現

天皇

)結婚

台風

(伊

勢湾

台風

)1959.9

.26

昭和

34年

9月

26日

長野

県下

で死

者不

明12

名、

家屋

浸水

2000戸

、被

害総

額60億

円(阿

南町

の被

害)

死者

4名

、全

壊134戸

、流

失1戸

、半

壊390戸

(浪

合村

の被

害)

全壊

12戸

、半

壊53戸

、床

上・床

下浸

水22戸

(泰

阜村

の被

害)

全壊

102戸

、半

壊208戸

、罹

災者

数1531名

(喬

木村

の被

害)

全壊

家屋

10戸

、半

壊家

屋52戸

、被

害額

496万

円(駒

ヶ根

市の

被害

)建

物被

害21戸

、中

沢下

井水

路決

壊10m

、山

崩れ

2ヶ

所 (長

谷村

の被

害)

全壊

5戸

、半

壊18戸

、水

田畑

流埋

没1.8

町歩

、被

害総

額2,0

00万

円(茅

野市

の被

害)

東・豊

平・泉

野・北

山な

どの

山浦

地域

で大

きな

被害

、死

者1名

、家

屋全

壊44戸

、半

壊1,3

17戸

、水

稲倒

伏138ha、

被害

総額

3億

5千

万円

に及

んだ

(飯

田市

の被

害)

上久

堅で

全壊

家屋

51戸

、半

壊家

屋174戸

(清

内路

村の

被害

)上

清部

落で

全壊

13戸

、半

壊54戸

、一

部破

壊100戸

以上

、甚

大な

植林

地の

倒木

被害

Page 49: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-49

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

諏訪

湖釜

口水

門か

ら氾

濫、

市街

地2/3以

上が

29

日か

ら4日

湛水

、国

道・国

鉄一

時不

通S36災

-1

三十

六災

高水

位標

(石碑

)D

722

三六

災高

水位

標(飯

田市

川路

駅前

の標

柱)

「白

くに

ごっ

た水

が屋

根ま

でつ

き、

助け

てと

書い

た旗

を立

てボ

ート

の救

助を

待ち

まし

た。

人々

は首

まで

水に

漬か

りな

がら

命か

らが

ら逃

げま

した

。川

路駅

前の

交差

点に

は、

三六

災の

とき

地上

から

3~

4m

の所

まで

水が

来た

こと

を示

す標

柱が

立て

られ

てい

る。

D653

飯田

市竜

江で

破堤

95m

、家

屋全

壊11戸

、床

上浸

水21戸

、田

畑35ha等

の被

害S36災

-3

飯田

市下

久堅

知久

平で

家屋

半壊

1戸

、床

上浸

水4戸

、床

下浸

水2戸

、田

畑6ha、

宅地

1ha等

の被

害S36災

-4

飯田

市松

尾で

堤防

破堤

480m

、家

屋全

壊2戸

、半

壊4戸

、床

上浸

水6戸

、床

下浸

水2戸

、田

畑7ha、

宅地

2ha等

の被

害S36災

-5

飯田

市松

尾水

神で

堤防

破堤

50m

、欠

損570m

、家

屋半

壊2戸

、床

上浸

水7戸

、床

下浸

水2戸

、田

畑26ha、

宅地

1.6

ha等

の被

害S36災

-6

飯田

市松

尾清

水で

堤防

欠損

315m

、家

屋全

壊14

戸、

半壊

28戸

、床

上浸

水46戸

、床

下浸

水74戸

、田

畑64ha、

宅地

24ha等

の被

害S36災

-7

飯田

市座

光寺

で堤

防欠

損計

900m

、座

光寺

及び

高森

町下

市田

・市

田で

家屋

全壊

11戸

、半

壊5戸

、床

上20戸

、床

下浸

水505戸

、田

畑134ha、

宅地

81ha等

の被

S36災

-8

飯田

市上

郷南

条で

田畑

5ha等

の被

害S36災

-9

喬木

村伊

久間

で堤

防欠

損計

510m

、田

畑18haの

被害

S36災

-10

喬木

村喬

木で

堤防

欠損

230m

、喬

木村

喬木

及び

下豊

丘村

伴野

で家

屋全

壊22戸

、半

壊3戸

、床

上浸

水7戸

、床

下浸

水10戸

、田

畑66ha、

宅地

6.3

ha

等の

被害

S36災

-11

喬木

村馬

場平

で田

畑6ha等

の被

害S36災

-12

梅雨

前線

が熱

帯低

気圧

の影

響を

受け

活発

とな

り、

伊那

谷全

域に

記録

的な

雨量

をも

たら

した

。特に

小渋

川流

域及

び飯

田付

近が

多か

った

。集

中豪

雨に

より

天竜

川水

系各

所で

決壊

、飯

田・下

伊那

にお

ける

被害

総額

150億

円本

支流

あわ

せて

死者

行方

不明

220名

、床

上浸

水1591戸

、床

下浸

水1158戸

等の

被害

であ

った

。(高

森町

の被

害)

死者

9名

、行

方不

明者

2名

、流

失家

屋42戸

、全

壊半

壊家

屋66戸

、床

下上

浸水

557戸

。(飯

田市

上久

堅の

被害

)全

壊家

屋3戸

、半

壊家

屋8

戸、

床上

浸水

3戸

、床

下浸

水32戸

(中

川村

の被

害)

死者

・行

方不

明者

18名

、被

害総

額12億

6251万

3000円

(清

内路

村の

被害

)被

害総

額1億

8千

6百

30万

1千

円、

全半

壊33戸

、床

上浸

水142戸

(泰

阜村

の被

害)

家屋

全壊

1戸

、流

失5戸

、半

壊9戸

、浸

水15戸

(喬

木村

の被

害)

全壊

家屋

14戸

、半

壊家

屋17戸

、床

上・床

下浸

水367

戸 (駒

ヶ根

市の

被害

)死

亡者

5名

、総

額21億

円、

全壊

家屋

34戸

、流

失家

屋31戸

、半

壊家

屋35

戸、

浸水

家屋

19個

、山

地崩

壊419ヵ

所167ha

(茅

野市

の被

害)

護岸

決壊

5,3

17m

、耕

地の

流失

9.7

ha、

被害

総額

3億

2千

300万

飯田

市川

路で

堤防

欠損

750m

、家

屋全

壊83戸

、半

壊45戸

、床

上浸

水49戸

、床

下浸

水48戸

、田

畑56ha、

宅地

7ha等

の被

害S36災

-2

昭和

36年

8月

8日

/松

川事

件無

罪判

決昭

和36年

9月

16日

/第

2室

戸台

前線

昭和

36年

6月

26~

29日

1961.6

.26-29

Page 50: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-50

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

豊丘

村伴

野で

堤防

破堤

570m

S36災

-13

市田

河原

の惣

兵衛

堤防

決壊

S36災

-14

高森

町下

市田

で堤

防破

堤685m

S36災

-15

高森

町吉

田で

堤防

破堤

計300m

、欠

損146m

、田

畑5ha等

の被

害S36災

-16

1961.6

.26-29

の影

響を

受け

活発

とな

り、

伊那

谷全

域に

記録

的な

雨量

をも

たら

した

。特に

小渋

川流

域及

び飯

田付

近が

多か

った

。集

中豪

雨に

より

天竜

川水

系各

所で

決壊

、飯

田・下

伊那

にお

ける

被害

総額

150億

円本

支流

あわ

せて

死者

行方

不明

220名

、床

上浸

水1591戸

、床

下浸

水1158戸

等の

被害

であ

った

。(高

森町

の被

害)

死者

9名

、行

方不

明者

2名

、流

失家

屋42戸

、全

壊半

壊家

屋66戸

、床

下上

浸水

557戸

。(飯

田市

上久

堅の

被害

)全

壊家

屋3戸

、半

壊家

屋8

戸、

床上

浸水

3戸

、床

下浸

水32戸

(中

川村

の被

害)

死者

・行

方不

明者

18名

、被

害総

額12億

6251万

3000円

(清

内路

村の

被害

)被

害総

額1億

8千

6百

30万

1千

円、

全半

壊33戸

、床

上浸

水142戸

(泰

阜村

の被

害)

家屋

全壊

1戸

、流

失5戸

、半

壊9戸

、浸

水15戸

(喬

木村

の被

害)

全壊

家屋

14戸

、半

壊家

屋17戸

、床

上・床

下浸

水367

戸 (駒

ヶ根

市の

被害

)死

亡者

5名

、総

額21億

円、

全壊

家屋

34戸

、流

失家

屋31戸

、半

壊家

屋35

戸、

浸水

家屋

19個

、山

地崩

壊419ヵ

所167ha

(茅

野市

の被

害)

護岸

決壊

5,3

17m

、耕

地の

流失

9.7

ha、

被害

総額

3億

2千

300万

昭和

36年

8月

8日

/松

川事

件無

罪判

決昭

和36年

9月

16日

/第

2室

戸台

前線

昭和

36年

6月

26~

29日

Page 51: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-51

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

田沢

川で

約60m

高さ

の鉄

砲水

、追

分に

山津

波襲

来し

家屋

流出

・行

方不

明者

多数

・追

分橋

流出

S36災

-44

○恐

怖の

思い

出、

死と

たた

かっ

た一

夜(竹

内貴

代子

)「高

森町

未曾

有の

災害

とな

った

田沢

川追

分の

土石

流で

濁流

にの

まれ

なが

らも

九死

に一

生を

得た

時の

様子

が語

られ

てい

る。

S36土

砂-

D652

○土

砂災

害の

恐怖

高森

町山

吹で

堤防

破堤

430m

、欠

損350m

、田

畑35ha等

の被

害S36災

-17

松川

町大

島で

堤防

欠損

計1020m

、家

屋全

壊3

戸、

田畑

8ha、

宅地

0.4

ha等

の被

害S36災

-18

中川

村葛

島堤

防欠

損50m

、床

上浸

水14戸

、田

畑29ha、

宅地

2ha等

の被

害S36災

-19

中川

村南

田島

で堤

防破

堤560m

、欠

損150m

、田

畑4ha等

の被

害S36災

-20

中川

村中

村で

堤防

破堤

315m

、欠

損80m

、田

畑7ha等

の被

害S36災

-21

中川

村小

和田

で堤

防破

堤300m

、欠

損400m

、田

畑29ha等

の被

害S36災

-22

飯島

町鳥

居原

で床

下浸

水2戸

、田

畑11ha、

宅地

0.3

ha等

の被

害S36災

-23

飯島

町日

曽利

で田

畑15ha等

の被

害S36災

-24

大鹿

村大

河原

の大

西山

崩落

、死

者39名

S36災

-25

小渋

川砂

防出

張所

が破

壊・職

員6名

が殉

職S36災

-26

駒ヶ

根市

中沢

で堤

防破

堤160m

、欠

損170m

、田

畑4ha等

の被

害S36災

-27

駒ヶ

根市

小鍛

冶で

田畑

12ha等

の被

害S36災

-28

宮田

村中

越で

堤防

欠損

60m

、田

畑4ha等

の被

害S36災

-29

宮田

村大

久保

で田

畑7ha等

の被

害S36災

-30

伊那

市美

篶上

大島

地籍

の三

峰川

で堤

防が

大き

く決

壊S36災

-31

伊那

市東

春近

田原

で田

畑8ha等

の被

害S36災

-32

1961.6

.26-29

梅雨

前線

が熱

帯低

気圧

の影

響を

受け

活発

とな

り、

伊那

谷全

域に

記録

的な

雨量

をも

たら

した

。特に

小渋

川流

域及

び飯

田付

近が

多か

った

。集

中豪

雨に

より

天竜

川水

系各

所で

決壊

、飯

田・下

伊那

にお

ける

被害

総額

150億

円本

支流

あわ

せて

死者

行方

不明

220名

、床

上浸

水1591戸

、床

下浸

水1158戸

等の

被害

であ

った

。(高

森町

の被

害)

死者

9名

、行

方不

明者

2名

、流

失家

屋42戸

、全

壊半

壊家

屋66戸

、床

下上

浸水

557戸

。(飯

田市

上久

堅の

被害

)全

壊家

屋3戸

、半

壊家

屋8

戸、

床上

浸水

3戸

、床

下浸

水32戸

(中

川村

の被

害)

死者

・行

方不

明者

18名

、被

害総

額12億

6251万

3000円

(清

内路

村の

被害

)被

害総

額1億

8千

6百

30万

1千

円、

全半

壊33戸

、床

上浸

水142戸

(泰

阜村

の被

害)

家屋

全壊

1戸

、流

失5戸

、半

壊9戸

、浸

水15戸

(喬

木村

の被

害)

全壊

家屋

14戸

、半

壊家

屋17戸

、床

上・床

下浸

水367

戸 (駒

ヶ根

市の

被害

)死

亡者

5名

、総

額21億

円、

全壊

家屋

34戸

、流

失家

屋31戸

、半

壊家

屋35

戸、

浸水

家屋

19個

、山

地崩

壊419ヵ

所167ha

(茅

野市

の被

害)

護岸

決壊

5,3

17m

、耕

地の

流失

9.7

ha、

被害

総額

3億

2千

300万

昭和

36年

8月

8日

/松

川事

件無

罪判

決昭

和36年

9月

16日

/第

2室

戸台

前線

昭和

36年

6月

26~

29日

Page 52: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-52

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

伊那

市西

春近

表木

で田

畑6ha等

の被

害S36災

-33

伊那

市西

春近

沢渡

で田

畑3ha等

の被

害S36災

-34

伊那

市上

新田

で床

上浸

水3戸

、田

畑5ha等

の被

害S36災

-35

佐久

間町

大輪

右岸

で地

すべ

り発

生S36災

-36

飯田

市伊

賀良

地区

で土

石流

発生

、死

亡者

5名

、45戸

流失

S36災

-37

飯田

城東

・西

鼎地

区で

野底

川が

氾濫

、上

流で

土石

流発

生、

死亡

者7名

S36災

-38

中川

村四

徳で

土石

流発

生、

死亡

者7名

、被

災戸

数61戸

、廃

村S36災

-39

松川

町生

田で

土石

流発

生S36災

-40

27日

水晶

山に

山崩

れ発

生、

ヨキ

トギ

沢・マ

セノ

沢・

孫六

沢を

始め

次々

と各

所に

崩落

・山

津波

続発

<中

平部

落)黒

川橋

流失

(清

内路

村)

S36災

-41

泰阜

村で

明治

初年

に金

原明

善に

よっ

て築

堤さ

れた

とい

う明

島の

島地

籍天

竜川

堤防

300m

が決

壊流

失。

S36災

-42

長谷

村杉

島岩

入地

籍へ

通ず

る仮

橋流

失、

浦線

もい

たる

とこ

ろで

崩壊

S36災

-43

長谷

村奥

浦地

籍で

地す

べり

発生

S36災

-44

1961.6

.26-29

前線

梅雨

前線

が熱

帯低

気圧

の影

響を

受け

活発

とな

り、

伊那

谷全

域に

記録

的な

雨量

をも

たら

した

。特に

小渋

川流

域及

び飯

田付

近が

多か

った

。集

中豪

雨に

より

天竜

川水

系各

所で

決壊

、飯

田・下

伊那

にお

ける

被害

総額

150億

円本

支流

あわ

せて

死者

行方

不明

220名

、床

上浸

水1591戸

、床

下浸

水1158戸

等の

被害

であ

った

。(高

森町

の被

害)

死者

9名

、行

方不

明者

2名

、流

失家

屋42戸

、全

壊半

壊家

屋66戸

、床

下上

浸水

557戸

。(飯

田市

上久

堅の

被害

)全

壊家

屋3戸

、半

壊家

屋8

戸、

床上

浸水

3戸

、床

下浸

水32戸

(中

川村

の被

害)

死者

・行

方不

明者

18名

、被

害総

額12億

6251万

3000円

(清

内路

村の

被害

)被

害総

額1億

8千

6百

30万

1千

円、

全半

壊33戸

、床

上浸

水142戸

(泰

阜村

の被

害)

家屋

全壊

1戸

、流

失5戸

、半

壊9戸

、浸

水15戸

(喬

木村

の被

害)

全壊

家屋

14戸

、半

壊家

屋17戸

、床

上・床

下浸

水367

戸 (駒

ヶ根

市の

被害

)死

亡者

5名

、総

額21億

円、

全壊

家屋

34戸

、流

失家

屋31戸

、半

壊家

屋35

戸、

浸水

家屋

19個

、山

地崩

壊419ヵ

所167ha

(茅

野市

の被

害)

護岸

決壊

5,3

17m

、耕

地の

流失

9.7

ha、

被害

総額

3億

2千

300万

昭和

36年

6月

26~

29日

昭和

36年

8月

8日

/松

川事

件無

罪判

決昭

和36年

9月

16日

/第

2室

戸台

Page 53: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-53

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○松

尾幸

久氏

の36災

害体

験談

「27日

、鹿

塩地

区で

4軒

流出

。小

さい

村道

の橋

に木

の根

や土

石流

が詰

まり

、水

が方

々に

流れ

出て

しま

うの

に対

処す

るた

めに

外に

いた

3名

が死

亡。

鹿塩

川の

水が

橋を

越す

。午

後に

電話

・電

気が

使え

なくな

る。

語り

部は

山手

の実

家に

避難

し何

もで

きな

かっ

た。

」「28日

、朝

から

手当

たり

次第

に生

活必

需品

を買

い集

める

。午

後か

ら降

り出

した

雨に

より

川が

決壊

、地

響き

とと

もに

流木

や1~

2m

もの

大石

が川

の上

を舞

うよ

うに

流れ

てい

た。

村の

決死

隊が

救助

を求

めて

山越

えを

開始

、5~

6日

後に

自衛

隊の

ヘリコプタ

ーが

来た

。」

「29日

、雨

が止

み曇

り空

の中

、大

西山

がド

ーンと

落ち

田圃

が全

部つ

ぶれ

人も

家畜

も息

たえ

だえ

に流

され

た」

(教

訓)

○災

害時

の広

域的

な協

力体

制○

災害

を起

こさ

ない

、災

害か

ら逃

れる

工夫

と努

力を

怠ら

ない

○自

然の

法則

と生

活の

知恵

を大

切に

し自

然を

無視

した

開発

をし

ない

S36災

-D

510

(教

訓)

○災

害時

の広

域的

な協

力体

制○

災害

を起

こさ

ない

、災

害か

ら逃

れる

工夫

と努

力を

怠ら

ない ○

自然

の法

則と

生活

の知

恵を

大切

にし

自然

を無

視し

た開

発を

しな

○丑

満水

記念

碑「36災

害後

、宮

の上

提の

土手

に建

てら

れた

S36災

-D

513

○灌

漑用

水に

まつ

わる

利権

争い

(東

野と

上郷

村)

○子

泣き

石(夜

泣き

石)

「正

徳五

年の

未満

水の

時に

、野

底川

から

運ば

れた

もの

だと

伝え

られ

てい

る。

」○

千早

振る

神代

も聞

かず

野底

山天

王原

に水

上が

ると

は(昭

和36年

当時

歌わ

れて

いた

S36災

-D

514

○伝

前線

梅雨

前線

が熱

帯低

気圧

の影

響を

受け

活発

とな

り、

伊那

谷全

域に

記録

的な

雨量

をも

たら

した

。特に

小渋

川流

域及

び飯

田付

近が

多か

った

。集

中豪

雨に

より

天竜

川水

系各

所で

決壊

、飯

田・下

伊那

にお

ける

被害

総額

150億

円本

支流

あわ

せて

死者

行方

不明

220名

、床

上浸

水1591戸

、床

下浸

水1158戸

等の

被害

であ

った

。(高

森町

の被

害)

死者

9名

、行

方不

明者

2名

、流

失家

屋42戸

、全

壊半

壊家

屋66戸

、床

下上

浸水

557戸

。(飯

田市

上久

堅の

被害

)全

壊家

屋3戸

、半

壊家

屋8

戸、

床上

浸水

3戸

、床

下浸

水32戸

(中

川村

の被

害)

死者

・行

方不

明者

18名

、被

害総

額12億

6251万

3000円

(清

内路

村の

被害

)被

害総

額1億

8千

6百

30万

1千

円、

全半

壊33戸

、床

上浸

水142戸

(泰

阜村

の被

害)

家屋

全壊

1戸

、流

失5戸

、半

壊9戸

、浸

水15戸

(喬

木村

の被

害)

全壊

家屋

14戸

、半

壊家

屋17戸

、床

上・床

下浸

水367

戸 (駒

ヶ根

市の

被害

)死

亡者

5名

、総

額21億

円、

全壊

家屋

34戸

、流

失家

屋31戸

、半

壊家

屋35

戸、

浸水

家屋

19個

、山

地崩

壊419ヵ

所167ha

(茅

野市

の被

害)

護岸

決壊

5,3

17m

、耕

地の

流失

9.7

ha、

被害

総額

3億

2千

300万

1961.6

.26-29

昭和

36年

8月

8日

/松

川事

件無

罪判

決昭

和36年

9月

16日

/第

2室

戸台

昭和

36年

6月

26~

29日

Page 54: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-54

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1964.9

.25

昭和

39年

9月

25日

台風

20号

大田

切川

の堤

防決

壊、

赤穂

上水

道北

原浄

水場

機能

停止

(駒

ヶ根

市)

S39災

昭和

39年

10月

10日

/東

京オ

リン

ピッ

ク開

1965.9

.15-18

昭和

40年

9月

15~

18日

台風

(台風

24号

)佐

久間

町浦

川で

氾濫

、浸

水家

屋多

数S40災

台風

24号

は渥

美半

島に

上陸

し、中

部山

岳部

で二

つに

分裂

し勢

力を

増し

、群馬

県を

通り

日本

海沿

いに

北上

した

。天竜

川流

域は

台風

24号

が南

アル

プス

を通

過す

るこ

とに

より

各流

域に

強い

雨が

降っ

た。

昭和

40年

6月

22日

/日

韓基

本条

約成

立昭

和40年

8月

3日

/松

代群

発地

1967.6

.13

昭和

42年

6月

13日

渇水

天竜

川宮

ヶ瀬

で低

流量

22.8

1m3/se

cを

観測

S42.6

泰阜

ダム

上流

天竜

峡で

洪水

被害

発生

、床

上浸

水385戸

・床

下浸

水583戸

S42.7

日本

本土

を縦

断し

てい

る梅

雨前

線は

台風

崩れ

の熱

帯低

気圧

と台

風8号

の影

響で

活発

とな

り雷

を伴

い雨

を降

らせ

た。天

竜川

流域

は御

岳と

ハヶ

岳を

結ぶ

線に

前線

が停

滞下

ため

前線

の前

後は

多か

った

。床

上浸

水385戸

、床

下浸

水583戸

であ

った

諏訪

市内

の民

家2戸

が土

砂崩

れの

ため

倒壊

、2

世帯

7人

家の

下敷

とな

り3人

死亡

、4人

が重

軽、

諏訪

湖が

あふ

れ諏

訪市

内を

中心

に床

上・床

下浸

水1000戸

をだ

S42.7

災-

2

泰阜

ダム

上流

で洪

水被

害発

生S43災

-1

水窪

町門

桁で

土砂

崩れ

発生

、死

者1名

S43災

-2

天龍

村川

島集

落で

家屋

全壊

・半

壊、

山崩

れに

よる

埋没

被害

発生

S43災

-3

1967.7

.10

県内

で死

者・行

方不

明者

7名

、家

屋全

半壊

・一

部破

損102戸

、床

上床

下浸

水1590戸

。農

業・林

業・公

共土

木施

設に

被害

甚大

であ

った

。(阿

南町

の被

害)

新野

地区

260m

m・大

下条

地区

200.5

mm

の日

降雨

量観

測、

全壊

134戸

、半

壊390戸

台風

(台風

10号

)

昭和

42年

4月

15日

/美

濃部

東京

都知

事当

選昭

和42年

8月

28日

/新

潟・山

形に

集中

豪雨

昭和

42年

10月

8日

/羽

田学

生デ

昭和

42年

7月

10日

低気

圧前

昭和

43年

8月

25~

30日

昭和

43年

8月

8日

/日

本初

の心

臓移

植昭

和43年

12月

10日

/三

億円

事件

川端

康成

にノ

ーベ

ル賞

1968.8

.25-30

Page 55: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-55

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

佐久

間町

大輪

のつ

り橋

大輪

橋流

失S43災

-4

佐久

間町

浦川

で国

鉄飯

田線

大千

瀬鉄

橋流

失S43災

-5

泰阜

村南

部地

区で

時間

雨量

80m

m以

上を

観測

、小

河川

の氾

濫や

山崩

れが

生じ

被害

総額

2億

3百

31万

5千

円。

田本

福寿

院下

に地

すべ

り発

生S43災

-6

伊那

市富

県桜

井で

堤防

破堤

250m

S45災

-1

宮田

村大

久保

で堤

防欠

壊56m

、床

上浸

水1戸

、床

下浸

水23戸

、田

畑17ha等

の被

害S45災

-2

飯島

町中

平で

堤防

欠壊

200m

、床

上浸

水1戸

、床

下浸

水22戸

、田

13ha等

の被

害S45災

-3

駒ヶ

根市

大久

保で

堤防

欠壊

241m

、床

下浸

水14

戸、

田16ha等

の被

害S45災

-4

中川

村南

向飯

沼で

床下

浸水

1戸

S45災

-5

中川

村大

草付

近で

法崩

れS45災

-6

豊丘

村柿

開土

で堤

防破

堤150m

S45災

-7

川路

集落

2000t堤

防越

流、

床上

浸水

2戸

、床

下浸

水1戸

、川

路桑

園(約

60ha)

が水

没S45災

-8

1972.2

.24

昭和

47年

2月

24日

阿島

町大

火S47.2

1972.7

昭和

47年

7月

低気

圧前

線飯

島町

与田

切橋

流出

S47災

1972.7

.10

昭和

47年

7月

10日

前線

諏訪

市普

門寺

では

赤津

川が

氾濫

、鉄

砲水

とな

り4

名死

亡、

4名

重軽

傷S47.7

昭和

47年

2月

3日

/札

幌冬

季オ

リン

ピッ

ク昭

和47年

2月

19日

/連

合赤

軍浅

間山

荘事

件昭

和47年

5月

15日

/沖

縄返

還昭

和47年

9月

25日

/日

中国

交正

常化

昭和

43年

8月

8日

/日

本初

の心

臓移

植昭

和43年

12月

10日

/三

億円

事件

川端

康成

にノ

ーベ

ル賞

県内

で死

者・行

方不

明者

7名

、家

屋全

半壊

・一

部破

損102戸

、床

上床

下浸

水1590戸

。農

業・林

業・公

共土

木施

設に

被害

甚大

であ

った

。(阿

南町

の被

害)

新野

地区

260m

m・大

下条

地区

200.5

mm

の日

降雨

量観

測、

全壊

134戸

、半

壊390戸

台風

(台風

10号

)

前線

・低

気圧

1970.6

.14-15

14日

午後

九州

北方

にあ

る熱

帯性

低気

圧の

崩れ

の低

気圧

から

のび

る梅

雨前

線が

15、

16日

日本

列島

沿い

に停

滞し

て大

雨を

降ら

せた

。16日

午後

低気

圧は

去り

前線

は南

下し

雨は

峠を

越え

た。

昭和

45年

6月

14~

15日

昭和

45年

3月

14日

/日

本万

国博

覧会

開催

昭和

45年

3月

31日

/日

航「よ

ど号

」事

昭和

45年

11月

25日

/三

島事

昭和

43年

8月

25~

30日

1968.8

.25-30

Page 56: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-56

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1974.7

.4昭

和49年

7月

4日

豪雨

(台

風5号

)米

沢地

籍に

造成

中の

吉田

ゴル

フ場

の土

砂が

大量

に流

失S49災

(茅

野市

の被

害)

堤防

決壊

440m

、被

害総

額4億

8千

万円

昭和

49年

11月

26日

/田

中首

相、

金融

問題

で辞

岡谷

市堀

の内

で床

上浸

水4

戸S55災

-1

諏訪

市末

広町

・四

賀な

どで

床下

浸水

123戸

S55災

-2

茅野

市宮

川の

住宅

裏側

で石

が崩

れ、

住宅

が埋

まる

S55災

-3

県道

諏訪

ー茅

野線

が諏

訪市

普門

寺入

口で

土砂

崩れ

S55災

-4

天竜

川増

水に

より

小和

田の

水田

10haを

はじ

め渡

場下

川原

1ha・

飯沼

0.3

haの

水田

が冠

水(中

川村

)S57災

-1

小黒

川及

び黒

川が

氾濫

、村

営保

養セ

ンタ

ー仙

流荘

半壊

、付

近一

帯が

河原

と化

した

(伊

那市

長谷

)S5

7災

-2

1983.5

.15-17

昭和

58年

5月

15日

~17日

三林

で土

砂崩

落(中

川村

七久

保)

S58.5

昭和

58年

5月

26日

/日

本海

中部

地震

昭和

58年

10月

3日

/三

宅島

大噴

火昭

和58年

10月

12日

/田

中元

首相

に実

刑判

昭和

57年

8月

1日

~2日

台風

(10号

台風

昭和

55年

7月

8日

1982.8

.1-2

昭和

55年

8月

8日

/「金

大中

氏を

殺さ

せる

な!

」国

民大

会開

昭和

57年

8月

25日

/閣

議で

行財

政改

革大

綱を

決定

1980.7

.8

Page 57: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-57

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

茅野

市米

沢の

檜沢

川で

氾濫

、床

上浸

水3戸

、床

下浸

水44戸

S58災

-1

茅野

市西

茅野

の浦

沢川

で護

岸決

壊、

床上

浸水

2戸

、床

下浸

水24戸

S58災

-2

茅野

市城

山で

山崩

れ発

生、

家屋

全壊

1戸

、床

上1

戸S58災

-3

下諏

訪町

で諏

訪湖

の水

位上

昇に

よる

床上

浸水

15戸

、床

下浸

水57戸

S58災

-4

諏訪

市で

諏訪

湖の

水位

上昇

によ

る床

上浸

水948

戸、

床下

浸水

901戸

、農

地浸

水223ha

S58災

-5

諏訪

市双

葉ヶ

丘の

唐沢

川で

土石

流、

家屋

全壊

2戸

、半

壊4戸

、床

上浸

水9戸

、床

下浸

水22戸

S58災

-6

諏訪

市元

町の

福沢

川で

山崩

れ、

死者

あり

、家

屋全

壊2戸

、床

上1戸

S58災

-7

諏訪

市四

賀神

戸、

中門

川で

諏訪

湖の

水位

上昇

によ

る床

上浸

水154戸

、床

下浸

水152戸

、農

地浸

水31ha

S58災

-8

諏訪

市島

崎川

で諏

訪湖

の水

位上

昇に

よる

床上

浸水

108戸

、床

下浸

水197戸

、農

地浸

水86.5

ha

S58災

-9

諏訪

市宮

川で

諏訪

湖の

水位

上昇

によ

る床

上浸

水46戸

、床

下浸

水302戸

、農

地浸

水215.4

ha

S58災

-10

岡谷

市で

諏訪

湖の

水位

上昇

によ

る床

上浸

水13

戸、

床下

浸水

208戸

S58災

-11

岡谷

市橋

原、

天竜

川で

諏訪

湖の

水位

上昇

によ

る床

上浸

水6戸

、床

下浸

水131戸

S58災

-12

辰野

町下

辰野

元町

地区

、側

溝が

川に

遮ら

れ溢

水、

床下

浸水

9戸

S58災

-13

昭和

58年

5月

26日

/日

本海

中部

地震

昭和

58年

10月

3日

/三

宅島

大噴

火昭

和58年

10月

12日

/田

中元

首相

に実

刑判

1983.9

.26-30

昭和

58年

9月

26~

30日

前線

・台

風(台

風10号

台風

の東

進に

伴っ

て前

線活

動は

更に

活発

にな

り、

長野

圏内

でも

27日

朝か

ら雨

とな

った

。この

雨は

1時

間5m

m程

度の

並雨

で続

いた

が、台

風が

九州

に接

近す

るに

つれ

て雨

足が

次第

に強

まり

、夜半

過ぎ

南部

では

所に

より

1時

間に

10m

mを

越す

よう

にな

った

。台風

は九

州上

陸後

更に

弱ま

りな

がら

速度

を速

めて

進み

、九州

中部

を横

断し

て28日

15時

高知

県宿

毛市

付近

で熱

帯低

気圧

とな

った

。この

頃か

ら県

内の

雨は

中・南

部を

中心

に一

段と

強ま

って

、1時

間に

10m

m以

上の

強い

雨と

なり

、総雨

量は

県南

部や

西部

で200m

m以

上、

多い

所は

400m

mに

達し

た。

床上

浸水

2700戸

、床

下浸

水3900戸

等の

被害

があ

った

。(中

川村

の被

害)

罹災

世帯

59戸

(阿

南町

の被

害)

全壊

1戸

、半

壊2戸

、一

部損

壊2戸

、床

下・床

上浸

水52戸

、道

路被

害208箇

所、

河川

被害

158箇

Page 58: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-58

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

伊那

市下

殿島

で護

岸破

堤、

床下

浸水

11戸

S58災

-14

伊那

市北

林で

河川

氾濫

、床

下浸

水9戸

S58災

-15

高遠

町下

町で

藤沢

川堤

防決

壊、

家屋

全壊

2戸

、床

上浸

水13戸

、床

下浸

水26戸

S58災

-16

長谷

村山

吹沢

で山

崩れ

発生

、床

上浸

水1戸

、床

下浸

水1戸

S58災

-17

駒ヶ

根市

北割

1区

の大

田切

川、

床上

浸水

1戸

、床

下浸

水8戸

S58災

-18

駒ヶ

根市

福岡

地区

で床

下浸

水14戸

S58災

-19

駒ヶ

根市

市場

割地

区で

床下

浸水

9戸

S58災

-20

駒ヶ

根市

吉瀬

地区

で護

岸決

壊、

家屋

半壊

1戸

、床

上浸

水2戸

、床

下浸

水6戸

S58災

-21

駒ヶ

根市

大曽

倉地

区で

溢水

、家

屋全

壊1戸

、半

壊2戸

、床

上浸

水3戸

S58災

-22

飯島

町飯

島梅

戸神

社の

唐沢

川増

水、

床上

浸水

1戸

、床

下浸

水34戸

S58災

-23

飯島

町本

郷の

十王

堂沢

川で

護岸

破堤

、床

上浸

水6戸

、床

下浸

水11戸

S58災

-24

飯島

町七

久保

高遠

原の

宮の

沢川

で山

崩れ

によ

る土

砂流

入、

床上

5戸

、床

下16戸

S58災

-25

飯島

町七

久保

新田

の大

井川

で床

下浸

水57戸

S58災

-26

中川

村片

桐で

3.8

ha、

1戸

の浸

水被

害が

発生

S58災

-27

中川

村片

桐の

牧ヶ

原橋

付近

で、

18.5

ha、

4戸

の浸

水被

害が

発生

S58災

-28

中川

村大

草で

14戸

の浸

水被

害が

発生

S58災

-29

中川

村飯

沼で

堤防

が600m

にわ

たっ

て決

壊、

水田

8ha流

失、

小和

田で

6h

a・渡

場で

1h

a流

失S59災

-48

前線

・台

風(台

風10号

)昭

和58年

9月

26~

30日

台風

の東

進に

伴っ

て前

線活

動は

更に

活発

にな

り、

長野

圏内

でも

27日

朝か

ら雨

とな

った

。この

雨は

1時

間5m

m程

度の

並雨

で続

いた

が、台

風が

九州

に接

近す

るに

つれ

て雨

足が

次第

に強

まり

、夜半

過ぎ

南部

では

所に

より

1時

間に

10m

mを

越す

よう

にな

った

。台風

は九

州上

陸後

更に

弱ま

りな

がら

速度

を速

めて

進み

、九州

中部

を横

断し

て28日

15時

高知

県宿

毛市

付近

で熱

帯低

気圧

とな

った

。この

頃か

ら県

内の

雨は

中・南

部を

中心

に一

段と

強ま

って

、1時

間に

10m

m以

上の

強い

雨と

なり

、総雨

量は

県南

部や

西部

で200m

m以

上、

多い

所は

400m

mに

達し

た。

床上

浸水

2700戸

、床

下浸

水3900戸

等の

被害

があ

った

。(中

川村

の被

害)

罹災

世帯

59戸

(阿

南町

の被

害)

全壊

1戸

、半

壊2戸

、一

部損

壊2戸

、床

下・床

上浸

水52戸

、道

路被

害208箇

所、

河川

被害

158箇

1983.9

.26-30

昭和

58年

5月

26日

/日

本海

中部

地震

昭和

58年

10月

3日

/三

宅島

大噴

火昭

和58年

10月

12日

/田

中元

首相

に実

刑判

Page 59: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-59

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

中川

村前

沢川

上流

で土

石流

、増

水し

て決

壊S59災

-49

天竜

川と

小渋

川の

合流

点で

20戸

の浸

水被

害が

発生

S58災

-30

松川

町城

北の

城北

川で

河川

氾濫

、床

上浸

水1

戸、

床下

浸水

5戸

S58災

-31

松川

町大

島桑

園地

区で

山崩

れ発

生、

家屋

全壊

1戸

、床

上1戸

、床

下1戸

S58災

-32

高森

町吉

田河

原の

胡麻

目川

で土

石流

流入

、床

下浸

水18戸

、農

地3.3

ha埋

没S58災

-33

喬木

村伊

久間

で7戸

の浸

水被

害が

発生

S58災

-34

飯田

市上

郷沼

丹保

の新

戸川

で溢

水、

床下

浸水

7戸

S58災

-35

飯田

市上

郷黒

田棚

田の

野底

川で

溢水

、床

下浸

水6戸

S58災

-36

飯田

市松

尾で

床上

浸水

29戸

S58災

-37

飯田

市上

久堅

で家

屋半

壊5戸

、床

上浸

水3戸

、床

下浸

水25戸

、死

者1名

S58災

-38

飯田

市千

代で

家屋

全壊

3戸

、半

壊5戸

、床

上浸

水5戸

、床

下浸

水17戸

S58災

-39

飯田

市竜

江で

家屋

半壊

5戸

S58災

-40

飯田

市竜

丘で

床上

浸水

18戸

、床

下浸

水4戸

S58災

-41

飯田

市川

路で

床上

浸水

7戸

、床

下浸

水10戸

S58災

-42

飯田

市鼎

地区

上山

の野

畔川

で床

下浸

水24戸

S58災

-43

飯田

市毛

賀の

、天

竜川

と毛

賀沢

川と

の合

流点

で108戸

が浸

水被

害S58災

-44

下條

村粒

良脇

の加

竜川

で護

岸決

壊、

山崩

れ等

発生

、家

屋全

壊1戸

、半

壊2戸

、床

上浸

水9戸

、床

下浸

水53戸

S58災

-45

阿南

町泰

阜ダ

ム付

近富

草大

島で

堤防

決壊

、家

屋半

壊1戸

、床

上浸

水2戸

S58災

-46

泰阜

村三

耕地

で山

崩れ

、土

石流

、家

屋全

壊1戸

、半

壊1戸

、床

上浸

水1戸

、床

下浸

水5戸

S58災

-47

飯島

橋決

壊、

伊那

里地

区孤

昭和

58年

5月

26日

/日

本海

中部

地震

昭和

58年

10月

3日

/三

宅島

大噴

火昭

和58年

10月

12日

/田

中元

首相

に実

刑判

台風

の東

進に

伴っ

て前

線活

動は

更に

活発

にな

り、

長野

圏内

でも

27日

朝か

ら雨

とな

った

。この

雨は

1時

間5m

m程

度の

並雨

で続

いた

が、台

風が

九州

に接

近す

るに

つれ

て雨

足が

次第

に強

まり

、夜半

過ぎ

南部

では

所に

より

1時

間に

10m

mを

越す

よう

にな

った

。台風

は九

州上

陸後

更に

弱ま

りな

がら

速度

を速

めて

進み

、九州

中部

を横

断し

て28日

15時

高知

県宿

毛市

付近

で熱

帯低

気圧

とな

った

。この

頃か

ら県

内の

雨は

中・南

部を

中心

に一

段と

強ま

って

、1時

間に

10m

m以

上の

強い

雨と

なり

、総雨

量は

県南

部や

西部

で200m

m以

上、

多い

所は

400m

mに

達し

た。

床上

浸水

2700戸

、床

下浸

水3900戸

等の

被害

があ

った

。(中

川村

の被

害)

罹災

世帯

59戸

(阿

南町

の被

害)

全壊

1戸

、半

壊2戸

、一

部損

壊2戸

、床

下・床

上浸

水52戸

、道

路被

害208箇

所、

河川

被害

158箇

前線

・台

風(台

風10号

)昭

和58年

9月

26~

30日

1983.9

.26-30

Page 60: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-60

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

1985.7

.1昭

和60年

7月

1日

前線

与田

切発

電所

建設

現場

で鉄

砲水

、3名

死亡

S60災

台風

6号に

より

停滞

して

いた

梅雨

前線

の活

動が

活発

とな

った

。台風

・梅

雨前

線の

北上

に伴

い、

県内

は28日

にも

雨が

降っ

たが

、29日

夕方

県の

南部

から

雨と

なり

、次第

に全

県に

広が

り1時

間に

10m

mを

越え

る雨

が降

った

昭和

60年

8月

12日

/日

航ジ

ャン

ボ機

が墜

落豊

田商

事事

蓑輪

町松

島北

島の

天竜

川右

岸の

堤防

が決

壊H

18災

-1

蓑輪

町の

たき

の沢

で土

石流

が発

生し

、大

字中

箕輪

で非

住家

1戸

床上

浸水

H18災

-2

蓑輪

町中

箕輪

の曲

がり

尾で

土石

流発

生、

3世

帯が

自主

避難

H18災

-3

蓑輪

町上

古田

で地

すべ

りが

発生

H18災

-4

蓑輪

町中

村の

中の

沢で

土石

流が

発生

し住

宅33

戸、

公民

館2施

設に

被害

H18災

-5

辰野

町大

字小

野で

土石

流が

発生

、4世

帯が

自主

避難

H18災

-6

辰野

町下

雨沢

で土

石流

が発

生し

家屋

に土

砂が

流入

H18災

-7

辰野

町小

野中

村で

崩壊

が発

生し

死者

1人

、全

壊2

戸H

18災

-8

辰野

町赤

羽で

崩壊

が発

生し

全壊

3戸

、半

壊4戸

H18災

-9

伊那

市諸

町で

がけ

地が

崩壊

H18災

-10

伊那

市松

倉で

土石

流が

発生

H18災

-11

伊那

市西

春近

で崩

壊が

発生

し、

中央

道通

行止

め、

家屋

浸水

被害

6戸

H18災

-12

岡谷

市湊

3丁

目の

小田

井沢

川で

土石

流が

発生

H18災

-13

岡谷

市橋

原の

志平

川で

、土

石流

が住

宅地

を襲

った

H18災

-14

岡谷

市川

岸駒

沢の

的場

川で

土石

流が

発生

し住

宅に

被害

が出

たH

18災

-15

岡谷

市鮎

沢の

本沢

川で

濁流

が溢

れる

H18災

-16

2006.7

.15-19

平成

18年

7月

15~

19日

前線

・台

風(台

風18号

台風

18号

は9月

15日

21時

に沖

の鳥

島の

南東

海上

で発

生し

た。西

北西

に進

んだ

後、1

7日

午後

沖縄

の南

方海

上で

向き

を北

東に

転じ

、18日

朝沖

縄の

南東

海上

を通

過し

た。県

内は

、台

風の

北上

に伴

い南

海上

に停

滞し

た秋

雨前

線の

活動

が活

発化

した

ため

、18日

早朝

南部

から

雨に

なり

、急

速に

北部

まで

広が

って

19日

午後

まで

降り

続い

た。

特に

、台

風が

伊豆

諸島

海域

を北

上し

た19

日は

、前

線が

本州

南岸

まで

北上

して

一段

と活

動を

強め

たた

め、

未明

から

昼ご

ろに

かけ

南部

を中

心に

1時

間15~

57㎜

に達

する

強雨

とな

り、

阿南

と南

信濃

村で

は任

意3時

間の

降水

量が

100㎜

を越

えた

。総

雨量

が400m

mを

超え

る記

録的

な大

雨。

平成

18年

1月

23日

/日

本郵

政株

式会

社が

発足

ライ

ブド

ア事

件平

成18年

7月

15日

/ 平

成18年

7月

豪雨

Page 61: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-61

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

岡谷

市新

倉の

大洞

川で

濁流

が住

宅街

に溢

れる

H18災

-17

岡谷

市上

野原

の横

河川

で土

石流

が発

生H

18災

-18

岡谷

市湊

小坂

の栃

久保

川で

土石

流が

発生

H18災

-19

諏訪

市北

真志

野の

中ノ

沢川

で、

土石

流が

発生

H18災

-20

諏訪

市湯

の脇

でが

け崩

れ。

片羽

保育

園の

給食

室が

つぶ

れる

H18災

-21

○H

18災

記念

シン

ポジ

ウム

記録

「平成

18年

7月豪

雨に

よる

上伊

那地

域で

発生

した

土砂

災害

によ

る被

災者

や防

災関

係者

の体

験談

や災

害の

実態

につ

いて

まと

めら

れて

いる

。」

○未

来へ

の提

言・教

2006.7

.15-19

平成

18年

7月

15~

19日

前線

・台

風(台

風18号

台風

18号

は9月

15日

21時

に沖

の鳥

島の

南東

海上

で発

生し

た。西

北西

に進

んだ

後、1

7日

午後

沖縄

の南

方海

上で

向き

を北

東に

転じ

、18日

朝沖

縄の

南東

海上

を通

過し

た。県

内は

、台

風の

北上

に伴

い南

海上

に停

滞し

た秋

雨前

線の

活動

が活

発化

した

ため

、18日

早朝

南部

から

雨に

なり

、急

速に

北部

まで

広が

って

19日

午後

まで

降り

続い

た。

特に

、台

風が

伊豆

諸島

海域

を北

上し

た19

日は

、前

線が

本州

南岸

まで

北上

して

一段

と活

動を

強め

たた

め、

未明

から

昼ご

ろに

かけ

南部

を中

心に

1時

間15~

57㎜

に達

する

強雨

とな

り、

阿南

と南

信濃

村で

は任

意3時

間の

降水

量が

100㎜

を越

えた

。総

雨量

が400m

mを

超え

る記

録的

な大

雨。

平成

18年

1月

23日

/日

本郵

政株

式会

社が

発足

ライ

ブド

ア事

件平

成18年

7月

15日

/ 平

成18年

7月

豪雨

Page 62: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-62

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○常

官寺

のは

なし

「昔

、横

内村

に常

官寺

とい

う寺

があ

った

。あ

る時

、高

野山

の御

師が

寺に

泊ま

った

。常

官寺

の住

職は

おか

ねを

隠し

て御

師に

一文

も与

えな

かっ

た。

御師

は深

く恨

み、

高野

山に

帰っ

て参

籠し

祈願

する

と、

常官

寺一

帯に

一夜

大雨

が降

り、

大口

(宮

川茅

野)で

堤防

が決

壊し

て寺

も住

職も

流さ

れた

とい

う。

それ

以来

、上

川は

今の

よう

に流

れ、

銭場

(宮

川中

河原

)付近

で井

戸浚

いを

する

と古

銭が

出る

そう

であ

る。

この

時流

され

た横

内村

の一

部を

開拓

して

中河

原が

でき

たと

いう

。」

D637

○御

師の

祈願

(恨

み)に

よっ

ても

たら

され

た洪

○福

次荒

れ「む

かし

、福

次と

いう

人が

車山

で炭

焼き

をし

てい

ると

、煙

たい

から

炭焼

きを

やめ

ろ、

とテ

ンゴ

ン様

(天

狗)の

声が

した

。福

次が

やめ

ない

で炭

焼き

を続

けて

いる

と、

大き

い雷

が鳴

り、

大雨

にな

った

。車

沢も

音無

川も

大水

が出

て通

れな

くな

り、

大門

回り

でや

っと

家に

帰っ

たと

いう

。今

でも

この

辺り

で急

に山

が荒

れだ

すと

、こ

りゃ

あ福

次荒

れだ

なあ

、と

言わ

れる

そう

であ

る。

D608

○人

の行

いに

対す

る天

狗の

いま

しめ

(大

水)

○聞

かず

の神

様「む

かし

、有

賀に

へそ

曲が

りの

神様

がい

た。

雨乞

いを

すれ

ばよ

けい

にか

んか

ん照

りに

する

し、

洪水

を止

めて

くれ

と頼

めば

よけ

いに

雨を

降ら

せる

。少

しも

願い

事を

聞い

てくれ

ない

ので

村人

は、

聞か

ずの

神様

、と

呼ん

でい

た。

D609

○へ

そ曲

がり

の神

○じ

じ穴

とば

ば穴

「下

諏訪

町の

上水

道水

池付

近に

じじ

穴と

ばば

穴と

呼ば

れる

古墳

があ

る。

むか

し、

火の

雨が

降っ

たと

き、

この

二つ

の穴

に逃

げ込

んだ

人だ

けが

助か

った

とい

う。

今の

下諏

訪の

人は

、こ

の二

つの

穴に

逃げ

込ん

だ人

たち

の子

孫だ

とい

われ

てい

る。

D610

○火

の雨

から

護っ

てくれ

たじ

じ穴

、ば

ば穴

○毒

沢の

由来

「む

かし

豪雨

に毒

沢一

帯が

流さ

れた

時、

押し

流さ

れた

とき

、鉱

泉が

田畑

に冠

水し

、養

殖の

鯉な

どが

死ん

でし

まっ

たこ

とや

、毒

沢一

帯の

河川

には

水生

生物

が生

息し

ない

とい

われ

るこ

とか

ら名

がつ

けら

れた

とい

う。

D611

○洪

水に

よる

鉱泉

の冠

Page 63: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-63

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○四

王の

由来

「茅

野の

宮川

にあ

る安

国寺

の門

にた

って

いた

仁王

たち

が、

ある

夏、

四・五

日も

大変

な大

雨が

降り

、ど

ろ水

に押

し流

され

てと

うと

う諏

訪湖

の岸

まで

流さ

れて

きた

。そ

れを

見つ

けた

漁師

が代

官所

へ届

けよ

うと

和尚

に拾

った

場所

の地

名を

尋ね

た時

、仁

王が

二つ

流れ

着い

たこ

とか

ら四

王だ

、と

和尚

が名

づけ

たと

いう

。」

D612

○洪

水に

よっ

て流

され

た仁

○諏

訪大

社下

社の

七不

思議

(浮

島)

「春

宮裏

にあ

る砥

川の

島。

砥川

は昔

から

暴れ

川と

いわ

れて

いる

が、

この

島は

どん

な大

水が

出て

も沈

まな

いと

いう

。浮

島に

は浮

島社

が祭

られ

てい

る。

D622

○洪

水で

沈ま

ない

○し

っぽ

のな

い赤

いヘ

ビ「岡

谷の

西堀

に住

んで

いた

ケチ

でふ

くよ

かな

オフ

クと

いう

おば

あさ

んが

、二

羽の

つば

めが

軒下

につ

くっ

た巣

を疎

まし

く思

い落

とし

てし

まっ

たの

で、

二羽

のつ

ばめ

は悲

しい

声を

残し

て諏

訪湖

のほ

うへ

消え

てい

った

。数

日後

、二

羽の

つば

めが

オフ

クば

あさ

んの

家に

運ん

でき

た夕

顔の

たね

を植

える

と見

事な

夕顔

が実

った

。輪

切り

にし

た夕

顔の

中か

ら数

え切

れな

い程

の真

っ赤

な小

さい

ヘビ

が這

い出

して

きた

。あ

きれ

たオ

フク

ばあ

さん

は、

夕顔

とヘ

ビを

小井

川の

一里

塚の

やぶ

の中

に投

げ捨

てた

。や

ぶの

中で

大き

くな

った

ヘビ

たち

は、

オフ

クば

あさ

んが

夕顔

を輪

切り

にし

た時

にし

っぽ

まで

切ら

れて

しま

って

いた

。し

っぽ

のな

い赤

いヘ

ビの

大群

がま

るで

真っ

赤に

燃え

た火

のお

びの

よう

に大

行進

をし

て、

地響

きと

とも

にオ

フク

ばあ

さん

と家

をひ

とお

しに

し、

塩尻

峠へ

と消

えて

いっ

た。

D519

○伝

説の

地(西

堀・

小井

川地

籍)は

、岡

谷市

横河

川の

下流

域に

位置

し、

平成

18

年7

月豪

雨災

害の

時に

は土

石流

が発

生し

てい

る。

○ヘ

ビを

呼ん

だつ

ばめ

が諏

訪湖

方面

から

やっ

てき

たこ

と(諏

訪湖

には

水神

がい

る)、

地響

きと

とも

に家

を押

し流

した

こと

から

、土

石流

災害

のこ

とと

判断

しま

した

Page 64: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-64

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○流

され

た四

王「茅

野の

宮川

にあ

る安

国寺

の門

にた

って

いた

仁王

たち

は、

たい

くつ

であ

くび

ばか

りし

てい

たの

で、

いか

めし

かっ

た顔

がだ

らし

なく

なっ

てい

た。

ある

夏、

四・五

日も

大変

な大

雨が

降り

、ど

ろ水

に押

し流

され

てと

うと

う諏

訪湖

の岸

まで

流さ

れて

きた

。そ

の地

を四

王と

名づ

けた

和尚

に、

だら

しな

い顔

の仁

王は

寺に

おけ

ない

と言

われ

た。

仁王

たち

はや

がて

諏訪

湖の

出口

に流

れ着

き、

照光

寺に

祀ら

れる

こと

にな

った

が、

二度

と捨

てら

れぬ

よう

顔を

引き

締め

て立

って

いる

とい

う。

D613

○安

国寺

は宮

川沿

いの

山の

中に

ある

ため

、文

章中

の泥

水に

流さ

れた

とい

うの

は土

石流

の可

能性

が高

いと

思わ

れる

(辰

野町

に伝

わる

こと

わざ

)○

とび

が空

に輸

かくと

雨が

降る

○烏

が10羽

揃っ

て鳴

くと

大風

が出

る○

蛇を

川へ

流せ

ば雨

が降

る○

川魚

がよ

く釣

れる

と雨

○煙

突の

煙が

立て

ば雨

、北

へな

びい

ても

雨 ○守

屋山

の方

へす

っと

した

雲が

出る

と雨

にな

る○

釜へ

水が

廻れ

ば雨

がふ

る○

荒神

山が

近く見

える

と雨

が降

る○

天竜

川の

瀬音

が高

くな

れば

雨が

ふる

○夕

方山

鳴り

がす

ると

大嵐

にな

る○

みみ

ずが

いい

声で

鳴け

ば雨

が降

る○

草履

と下

駄を

ちん

ばに

はけ

ば雨

が降

D585

Page 65: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-65

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○辰

野縁

起「信

濃の

山の

重な

りの

間に

信濃

神二

湖(し

なの

かむ

いの

にこ

)と

呼ば

れる

青く澄

んだ

二つ

の湖

が一

筋に

入り

江に

結ば

れて

並ん

でい

た。

上の

湖を

諏訪

の湖

、下

の湖

は伊

奈の

湖と

もい

った

。古

くか

ら湖

の底

には

魔の

神が

住み

、時

には

魔人

の怒

りが

嵐を

呼び

、洪

水を

きた

した

。そ

こで

村人

は、

魔の

季節

に入

る六

月六

日に

なる

と湖

の南

にあ

る小

高い

荒神

の岡

に集

まり

、音

木を

打ち

祝詞

をあ

げ、

二歳

にな

る雌

鹿を

湖底

に沈

めて

生贄

をす

る習

慣を

持つ

よう

にな

った

。あ

る年

にこ

の祭

りが

終わ

った

直後

、一

天俄

にか

き曇

り七

日七

晩嵐

が続

き、

いっ

こう

に衰

える

様子

がな

かっ

た。

東の

村に

住む

おさ

の娘

・梨

恵は

自ら

生贄

に代

わっ

て湖

に飛

びこ

もう

とし

た時

嵐の

中か

ら、

待て

しば

し七

月七

日竜

天へ

昇る

、と

いう

声が

聞こ

えて

きた

。七

月七

日の

雲ひ

とつ

なく日

が天

頂に

さし

かか

った

時、

たち

まち

に凄

まじ

い暴

風雨

とな

り、

大轟

音と

とも

に青

白い

鱗を

閃め

かせ

た大

竜が

荘厳

な舞

を見

せて

北の

山頂

へと

消え

てい

った

。そ

して

湖の

水は

荒神

の岡

の東

と西

両端

を破

って

一気

に南

へ流

れて

いっ

た。

七月

七日

竜は

天に

去り

、今

まで

湖の

底だ

った

とこ

のに

野は

ひら

け、

村に

は平

和と

喜び

の日

が続

いた

。こ

の時

から

だれ

言う

とも

なくこ

の土

地を

竜の

住ん

だ野

、竜

野と

いい

、流

れる

川を

天竜

とい

うよ

うに

なっ

たと

いう

。」

D644

○竜

の昇

天伝

説と

竜野

・天

竜川

の由

○沓

掛石

「楡

沢街

道沿

いに

ある

、日

本武

尊が

東征

の帰

途に

休ま

れた

てわ

らじ

の紐

をし

めな

おし

たと

いわ

れる

一坪

大の

石。

窪み

には

常に

水が

溜ま

り、

水が

絶え

ると

雨が

降る

とい

う。

(郷

土資

料)」

D614

○雨

をも

たら

す石

Page 66: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-66

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○百

々渕

の沈

鐘「上

辰野

と宮

所の

間の

横川

河の

百々

橋下

に大

きな

渕が

あり

、そ

こを

昔か

ら百

々渕

とい

って

きた

。昔

この

渕の

上に

はお

堂が

あり

、長

い年

月の

間に

荒れ

て、

つい

にお

堂は

渕に

崩れ

込ん

でし

まっ

た。

この

ため

、お

堂の

釣鐘

が一

緒に

渕に

沈ん

でし

まっ

た。

沈ん

だ鐘

は大

蛇に

なり

、渕

の主

にな

って

人が

そば

に来

ると

巻き

込ん

でし

まう

とい

う。

D643

○主

の大

蛇と

なっ

た釣

○蛇

石「昔

千渕

には

、五

十間

を越

える

ほど

のた

いへ

ん気

のや

さし

い主

の大

蛇が

子供

と一

緒に

棲ん

でい

た。

その

頃、

大滝

沢に

棲ん

でい

た二

匹の

兄弟

竜が

、と

きど

き暴

れて

は大

嵐を

呼び

おこ

して

大水

を出

し、

村人

を苦

しめ

てい

た。

兄弟

竜は

獲物

のイ

ノシ

シを

めぐ

って

大ゲ

ンカ

をは

じめ

たの

で、

大嵐

とな

った

。木

が倒

れ、

山が

崩れ

、大

水が

出て

土や

石や

倒れ

た木

々が

ゴロ

ゴロ

と横

川川

を流

れて

いっ

た。

千渕

に棲

む大

蛇は

川下

の人

間た

ちを

思い

、子

供の

竜に

渕の

底に

いる

よう

声を

かけ

てか

ら上

流へ

と向

かっ

た。

ひと

きわ

川幅

の狭

まっ

た辺

りま

で来

ると

、倒

れた

木々

に堰

き止

めら

れて

小さ

いダ

ムが

出来

てい

た。

大蛇

は頭

をも

たげ

て出

来た

ばか

りの

木や

石の

土手

を崩

しは

じめ

たが

、次

々に

木や

石が

流れ

てくる

ので

苦し

い水

との

闘い

とな

った

。大

蛇の

子は

帰っ

て来

ない

母を

心配

し、

傷を

おい

なが

ら頭

をも

たげ

続け

てい

る母

蛇を

見つ

けた

。大

蛇と

その

子供

は長

い間

水と

闘っ

てい

たが

、嵐

が静

まる

頃、

とう

とう

力つ

きて

川底

に半

分埋

まり

、寄

り添

うよ

うに

息を

ひき

とっ

てし

まっ

た。

熊野

権現

様は

兄弟

竜の

いた

ずら

を大

変怒

り、

竜た

ちを

大滝

沢に

ある

大滝

に閉

じ込

めて

しま

った

。村

人た

ちは

命を

すて

てま

で助

けて

くれ

た大

蛇た

ちを

大層

あわ

れが

り、

いつ

まで

もそ

の美

しい

心が

残る

よう

にと

、石

の姿

に変

えた

とい

う。

こう

して

、大

小二

筋の

蛇石

が横

川川

の川

底に

でき

、い

つま

でも

村人

を守

って

くれ

るこ

とに

なっ

たと

いう

。」

D640

○土

石流

から

村人

を救

った

大蛇

の親

Page 67: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-67

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○洞

ヶ入

鐘楼

堂「上

平出

部落

の南

端、

地名

大門

を東

の山

の谷

間に

入る

こと

約二

町、

山の

中腹

に鐘

楼堂

があ

った

。昔

、そ

こか

ら山

抜け

をし

て鐘

楼堂

は泥

砂と

共に

押し

流さ

れ、

鐘楼

は天

竜川

の百

々の

淵に

ころ

びこ

んで

大蛇

とな

り、

淵の

主に

なっ

たと

いう

。(長

野県

上伊

那誌

 民

俗編

上よ

り)」

D605

○洪

水で

流さ

れた

鐘楼

が大

蛇と

なる

○鐘

は雨

乞い

に使

われ

る事

例は

全国

にみ

られ

○八

王子

神社

の伝

説「昔

々、

八王

子神

社は

素盞

鳴尊

とい

う神

様が

便り

にし

てい

た八

人の

御子

がお

なくな

りに

なら

れ、

神と

して

祀ら

れた

とい

う。

大古

に平

出・下

辰野

地区

はす

べて

湖水

にな

って

いて

、大

蛇が

棲み

辰の

湖と

いっ

た。

東側

の樋

口地

区は

水門

の役

割を

果た

して

いた

が、

大水

のた

めに

破さ

れて

湖も

次第

に涸

れ果

て平

野に

なっ

た。

その

後、

この

地方

には

毎年

伝染

病で

はげ

しい

熱病

が流

行し

、人

々は

大蛇

の祟

りと

恐れ

、八

人の

御子

の霊

を祀

って

無病

をお

祈り

した

とこ

ろ、

病気

は忽

ち治

った

とい

う。

D645

○洪

水が

もた

らし

た地

変に

よる

地名

の由

○腰

掛石

「有

賀峠

へ登

る道

の平

出の

はず

れの

傍に

、む

かし

明神

様を

勧請

する

とき

に御

輿を

ここ

まで

かつ

いで

きて

動か

なくな

り、

石の

上に

置い

て休

んだ

とい

う石

があ

る。

曽て

その

傍を

流れ

る上

野川

が氾

濫し

た時

、こ

の石

に堰

がれ

て水

の方

向が

変わ

った

ため

、平

出の

村は

ほと

んど

害を

被ら

なか

った

とい

う。

(郷

土 

石号

)」

D616

○洪

水か

ら護

って

くれ

た石

○辰

野の

いわ

れ「む

かし

の荒

神山

は今

より

大き

く、

東と

西の

山脈

まで

つな

がっ

てい

て、

天竜

川を

せき

とめ

、そ

こに

湖が

でき

てい

た。

その

湖に

は竜

神が

住ん

でい

て、

天に

昇っ

たり

降り

たり

して

いた

。あ

る時

の大

雨で

湖の

水が

氾濫

し、

荒神

山の

東と

西を

切り

崩し

て水

が流

れ出

し、

干上

がっ

てし

まっ

た。

水が

なくな

った

ので

竜は

天に

昇っ

てし

まい

、今

は野

にな

って

しま

った

。こ

こを

竜神

がい

たと

いう

こと

から

龍野

(辰

野)と

いう

よう

にな

った

。」

D533

Page 68: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-68

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○沢

底の

蛇の

池「沢

底の

山寺

に堂

平と

いう

所に

蛇の

池と

よぶ

小さ

い底

なし

の池

があ

り、

昔に

大蛇

がす

んで

いた

が大

雷雨

で山

抜け

した

時、

一緒

に流

れて

行方

が分

から

なくな

った

。池

から

七、

八間

はな

れた

とこ

ろに

蛇抜

けと

いっ

て蛇

の抜

け出

した

あと

があ

ると

いう

。こ

の池

を掻

き回

すと

雨が

降る

とい

って

、誰

も昔

から

手を

出し

たも

のが

いな

いと

いう

。」

D604

○土

石流

災害

の伝

承(蛇

抜け

)○

平成

18年

豪雨

災害

の時

、沢

底川

の岸

辺に

ある

赤羽

(山

寺よ

り下

流)と

いう

とこ

ろで

土石

流が

発生

した

(箕

輪町

に伝

わる

こと

わざ

○辰

野の

汽車

の気

笛が

聞え

ると

雨○

天竜

川を

虹が

また

ぐと

雨○

雨っ

ぷり

〈ほ

たる

ぶくろ

〉を

とる

と雨

○か

ぼち

ゃの

つる

が太

いと

風が

吹く

○山

かが

しが

出る

と晴

、育

だい

しょ

うが

出る

と雨

○蚊

がも

ちを

つくと

雨○

ひじ

ろの

煙が

家の

中に

こも

ると

雨○

腰が

いた

むと

、あ

かぎ

れが

いた

いと

、し

もや

けが

かい

いと

、神

経痛

がお

こる

と、

どれ

も雨 ○

子ど

もが

お茶

をの

むと

風が

ふく

○め

だか

が群

にな

って

泳げ

ば雨

D594

○帯

無川

「弘

法大

師が

帯を

流し

て水

を封

じた

ので

、水

が下

の方

へ流

れな

くな

った

とい

う。

この

西の

山を

雲が

常に

帯を

巻い

たよ

うに

かか

って

いる

とこ

ろか

ら帯

巻山

と呼

んだ

。そ

の山

から

流れ

出る

川と

いう

ので

帯巻

川と

言っ

たの

が、

いつ

の間

にか

誤っ

て帯

無川

とい

うよ

うに

なっ

た。

(笠

原政

市氏

)」

D617

○H

18年

7月

豪雨

災害

時(19日

)6:4

0 帯

無川

線路

付近

決壊

の恐

れ9:1

5 帯

無川

国道

西教

員住

宅付

近決

壊の

恐れ

(箕

輪町

ホー

ムペ

ージ

○お

さん

やり

(災

遣り

)の

伝説

「昔

から

毎年

お盆

にお

こな

われ

る行

事。

村の

南を

通る

田無

川か

ら上

げて

灌漑

用水

にし

てい

る大

堰が

村の

中を

南か

ら北

へと

流れ

、北

から

南へ

流れ

る天

竜川

の流

れと

反対

の所

謂逆

さ川

であ

るた

め、

そこ

から

おこ

る災

厄か

ら逃

れる

ため

に始

まっ

たと

伝え

られ

てい

る。

昔凶

年に

三年

ばか

り止

めて

いた

ら疫

病が

大流

行し

たの

で、

怖れ

られ

てま

た復

活し

たと

いう

。」

D627

○災

難よ

けの

行事

Page 69: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-69

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○経

塚「六

軒屋

の崖

ぎわ

に、

小さ

な塚

が点

在し

てい

て経

塚と

言っ

てい

た。

昔、

洪水

を防

ぐた

めに

読経

して

水難

除け

を祈

願し

、経

を埋

めた

とこ

ろと

いう

。以

前四

十八

ヶ所

あっ

たと

いう

が、

今は

開墾

の際

崩さ

れて

その

数が

少な

い。

D618

○北

風が

吹くと

大水

がで

るD

551

○草

餅地

蔵「伊

那市

にい

つの

頃か

らか

三峰

川の

大満

水の

時、

奥の

方の

村か

ら石

地蔵

が流

れて

きた

。水

がひ

けて

から

村人

が見

つけ

、こ

の地

に祀

った

とい

う。

願い

事が

叶う

と年

の数

だけ

団子

をあ

げる

。四

月二

十四

日の

縁日

では

、村

の人

たち

は草

餅を

あげ

る。

D602

○水

害と

とも

にや

って

きた

御利

益の

多い

地蔵

○お

や子

石「ず

うっ

とむ

かし

のこ

と、

大地

震で

地山

が崩

れて

土砂

がど

どっ

と押

し出

した

。地

山に

住ん

でい

たお

や子

の山

犬が

おっ

たま

げて

逃げ

出し

た。

御堂

垣外

まで

きた

時、

父犬

は藤

澤の

蛇抜

けに

押し

流さ

れて

石に

なっ

た。

母犬

と子

犬は

中条

まで

きて

ぴっ

たり

と座

り込

んだ

まま

二つ

の石

にな

った

とい

う。

それ

らの

石は

今は

ない

。」

○犬

石「昔

、地

山が

押し

出し

たと

き、

大石

・犬

石・小

犬石

の三

個の

犬石

が鳴

いて

逃げ

た。

大石

(親

石)は

強い

ので

地山

のす

ぐ下

に止

まり

、女

親石

は500メ

ート

ルほ

ど離

れた

とこ

ろに

止ま

り、

子供

石は

8キロ

メー

トル

離れ

た長

藤村

の中

条と

いう

所に

止ま

った

とい

う。

D606

○地

震に

よる

土石

流 ○土

石流

によ

って

流さ

れて

きた

石の

由来

○「地

山お

しだ

す 

犬石

ほえ

る。

ない

てに

げる

は、

子つ

れ石

。」

○守

屋山

(モ

リヤ

マサ

マ)

「伊

那と

諏訪

の境

にそ

びえ

る守

屋山

には

、守

屋大

神の

石の

祠が

祀ら

れて

いる

。山

中で

乱暴

すれ

ば山

が荒

れる

とい

われ

、守

屋山

の頭

に雲

のあ

る時

は必

ず麓

の村

々に

雨が

降る

とい

われ

てい

る。

D540

○モ

リヤ

マサ

マ信

Page 70: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-70

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○守

屋貞

治の

大聖

不動

明王

「高

遠を

流れ

る三

峰川

は、

たび

たび

洪水

をお

こし

た。

その

氾濫

を鎮

める

ため

に、

水切

り不

動と

して

造立

した

のか

、高

遠町

勝間

の常

盤橋

西袂

に全

長1.5

mの

大聖

不動

明王

があ

る。

作者

は高

遠石

工の

守屋

貞治

で、

高傑

作の

一つ

とい

われ

てい

る。

D601

○米

高岩

「天

女橋

の下

にあ

る。

三峰

川の

水が

その

岩に

当た

って

流れ

る年

は、

お米

の値

段が

高い

とい

う。

D619

○水

位の

変化

によ

る洪

水予

(長谷

に伝

わる

こと

わざ

)○

夕方

地震

があ

ると

日干

が続

く○

蜂の

巣が

低い

場所

にあ

る年

は大

風が

吹く ○

水こ

い鳥

が鳴

くと

雨が

降る

○西

駒へ

雲が

出る

と近

いう

ちに

雨○

中尾

四沢

がな

ると

雨が

降る

○煙

草の

香り

が良

いと

きは

雨が

降る

○蟻

が巣

を持

ち上

げる

と雨

が降

る○

女沢

雨は

こわ

くな

い○

北の

入り

に霧

が入

ると

雨○

雨蛙

がな

くと

雨が

降る

○猫

が耳

を越

して

顔を

洗う

と雨

○戸

倉へ

霧が

かか

れば

雨○

和泉

原の

平へ

霜が

降り

ると

雨○

釜無

(釜

無山

)へ

霧が

はい

ると

雨が

降る

○大

風の

吹くと

き、

竿の

先へ

鎌を

しば

りつ

けて

、屋

根棟

へ立

てれ

ば風

除け

とな

る○

水柱

、氷

内梁

、雪

の桁

、雨

の垂

木に

露の

茸き

草と

唱え

る○

火の

夢は

水出

、水

の夢

は火

事が

ある

D544

○風

穴「浦

村に

風穴

とい

ひ伝

ふる

所あ

り。

前浦

奥浦

の間

山の

尾先

に松

柏茂

りた

る森

の内

に、

屈曲

の岩

重な

りた

る中

に常

に風

を生

ず。

此岩

を動

かし

或い

は穴

を見

んと

すれ

ば、

必ず

大風

吹き

て荒

れる

。よ

って

里民

制し

て辺

りへ

寄る

こと

禁ず

。此

岩の

上に

風穴

大明

神と

いう

祠あ

り。

この

穴の

口へ

鼻紙

を置

けば

今も

空へ

吹き

上が

るぞ

。(木

の下

蔭巻

之下

)」

D620

Page 71: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-71

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○栗

沢川

の河

川工

事「む

かし

栗沢

川は

市野

瀬部

落の

中を

通っ

て流

れて

いた

。こ

の川

は洪

水に

なる

とし

ばし

ば氾

濫し

、部

落は

被害

を蒙

って

いた

。天

保十

三年

(1842)に

城山

の南

の尾

根を

掘り

ぬい

て切

り通

しを

造り

、栗

沢川

は市

野瀬

瀧と

なっ

て三

峰川

に流

れ落

ちる

よう

にな

った

。こ

れに

より

、部

落は

災害

から

免れ

るよ

うに

なり

、田

んぼ

の数

も相

当に

増え

たと

いう

。」

1842-

D528

○栗

沢川

の河

川工

事に

よる

減災

効果

○戸

倉沢

垣外

の市

野瀬

城跡

「む

かし

戸倉

沢垣

外(市

野瀬

の西

南の

はず

れ、

栗沢

川と

熊堂

川の

合流

地点

)に

は、

市野

瀬城

があ

った

と伝

えら

れて

いる

。今

は栗

沢川

や熊

堂川

の洪

水の

ため

に、

一帯

が荒

れ果

てて

しま

い、

草に

覆わ

れた

小高

い丘

とな

って

いる

。そ

の丘

の一

角に

は、

一基

の宝

筐印

塔が

埋も

れて

いる

。」

D545

○洪

水に

よる

荒地

○赤

河原

「お

おむ

かし

、戸

台川

(伊

那市

長谷

黒河

内)

の上

流に

一匹

の大

蛇が

棲ん

でい

た。

時々

里に

出て

きて

は危

害を

加え

てい

たの

で、

里の

人た

ちは

毎日

恐れ

おの

のい

てい

た。

その

ころ

、日

本武

尊が

、景

行天

皇の

ご命

令に

よっ

て東

国の

悪者

征伐

にで

た帰

りの

途中

に入

野谷

に立

ち寄

り、

悪い

大蛇

の話

を聞

いた

。尊

は戸

台川

上流

の河

原で

大蛇

を見

つけ

、ご

自慢

のお

太刀

をふ

るっ

て大

乱闘

の末

にこ

の大

蛇を

見事

切り

殺し

た。

この

とき

、大

蛇の

切り

口か

ら物

凄い

勢い

で血

潮が

ふき

だし

、そ

のあ

たり

一帯

の河

原を

真っ

赤に

染め

た。

それ

以来

、河

原の

石は

どれ

もみ

な真

っ赤

にな

って

いて

、そ

の河

原を

赤河

原と

呼ぶ

よう

にな

った

とい

う。

」○

三峰

川の

七石

「戸

台川

上流

の大

蛇が

日本

武尊

に切

りつ

けら

れた

時、

断末

魔の

苦し

みか

ら広

い河

原中

をの

たう

ちま

わっ

た。

あた

りの

大地

はと

どろ

きゆ

るぎ

、大

蛇の

大き

な七

色の

鱗が

火花

のよ

うに

空高

く散

らば

って

大き

な虹

をつ

くっ

た。

きれ

いに

大空

を彩

った

七色

の鱗

の虹

は、

やが

て流

れ星

のよ

うに

尾を

ひい

て三

峰川

の源

とな

って

いる

南ア

ルプ

スの

谷々

に吸

い込

まれ

るよ

う落

ちて

いっ

た。

現在

三峰

川に

ある

七色

の石

は、

この

とき

飛び

散っ

た大

蛇の

七色

の鱗

であ

ると

言わ

れ、

人々

は三

峰川

の七

石と

呼ん

でい

る。

D527

○戸

台川

の大

蛇の

悪行

○日

本武

尊の

大蛇

退治

○赤

河原

の地

名の

由来

Page 72: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-72

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○黒

河内

長者

屋敷

「大揚

寺へ

登る

門気

坂の

上に

住ん

でい

た長

者の

美し

い一

人娘

のと

ころ

に、

毎晩

訪れ

る美

青年

がい

た。

その

美青

年は

戸倉

山の

池に

住ん

でい

る大

蛇の

化身

だと

いう

うわ

さが

たっ

た。

娘は

確か

めよ

うと

、男

の着

物の

裾に

針を

刺し

て帰

らせ

た。

次の

夜、

男は

現れ

ず、

天地

もと

どろ

くほ

どの

雷鳴

と大

暴風

雨に

変わ

り、

忽ち

のう

ちに

三峰

川が

大洪

水と

なっ

た。

翌朝

、大

蛇の

屍が

激流

に流

され

てい

く姿

が見

られ

た。

D505

○曹

洞宗

 大

揚寺

(〒

396-0403 

上伊

那郡

長谷

村大

字黒

河内

358 /

TEL:0

265-98-2144)

○戸

倉山

(伊

那富

士)の

池の

主○

大蛇

の化

身(美

青年

○無

縁仏

「大

田切

川の

岸辺

に、

俗に

無縁

仏と

呼ば

れる

石仏

群が

ある

。昔

から

この

川の

洪水

によ

って

死ん

でし

まっ

た旅

人の

霊を

供養

した

石仏

と伝

えら

れて

いる

。」

D603

○高

鳥谷

山(た

かず

やや

ま)の

伝説

「往

昔、

貝沼

村北

林に

いた

井上

掃部

とい

う地

侍が

、一

日山

野に

入り

猟を

して

いた

。す

ると

、黒

雲が

立ち

こめ

雷が

天地

を震

い、

大雨

が激

しく降

り出

した

ので

侍は

帰路

を見

失っ

てし

まっ

た。

二昼

夜野

宿し

、精

神が

朦朧

とす

るに

いた

り、

無事

に帰

れた

時は

高鳥

谷山

の絶

頂に

一社

創建

する

と猿

田彦

命に

信願

した

とこ

ろ、

雨が

やみ

目の

前に

山鳥

が現

れた

。こ

れを

捕ま

えよ

うと

跡を

追っ

てい

くと

いつ

しか

我が

家に

たど

り着

くこ

とが

でき

た。

侍は

神願

の霊

感を

感じ

、山

頂に

高鳥

谷天

狗(猿

田彦

命)を

祀り

神殿

を営

むよ

うに

なっ

たと

いう

。」

D537

○濃

ヶ池

「駒

ケ岳

の主

が棲

んで

いて

、荒

らせ

ばた

ちま

ち雨

が降

ると

いう

。昔

、駒

ヶ岳

の麓

の内

の萱

とい

う部

落に

母親

と二

人き

りで

暮ら

して

いた

娘が

、大

蛇の

化身

であ

った

若者

の後

を追

って

この

池に

身を

投じ

、若

者は

竜に

、娘

は鬼

と化

して

池に

棲む

よう

にな

った

とい

う。

農ヶ

池と

も称

し、

干天

にこ

の池

に登

り雨

乞い

をす

れば

効験

が有

ると

いう

。」

D628

○駒

ケ岳

の主

であ

る竜

と鬼

の由

Page 73: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-73

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○浮

島の

伝説

「天

竜川

の赤

穂小

鍛冶

と中

沢穴

山の

境に

浮島

と呼

ぶ塚

があ

った

。中

央に

水神

様が

祀ら

れ、

周囲

には

赤松

5、

6本

が立

ち、

川の

水が

どん

なに

増水

して

も沈

むこ

とが

なか

った

とい

う。

むか

し、

東の

山か

ら鹿

が出

て穴

山や

付近

の人

々が

捕ら

えて

皮を

剥い

だと

ころ

、子

を腹

に宿

して

いた

。哀

れに

思っ

た里

人が

、そ

の袋

子を

浮島

へ埋

めた

。母

鹿は

小鹿

を溺

れさ

せま

いと

して

、満

水の

時に

は島

を浮

き上

がら

せた

とい

う。

昭和

初期

に吉

瀬ダ

ムの

構築

によ

って

年々

河床

が上

昇し

、現

在は

河床

に埋

没し

てし

まっ

た。

D536

○浮

島伝

説○

ダム

の河

床上

昇に

よる

埋没

○落

石「昔

、天

から

落ち

た石

が林

の中

にあ

って

そこ

に落

石神

社を

祀っ

た。

母乳

が出

ない

とき

、こ

の石

にお

参り

し、

石に

生え

てい

る苔

を煎

じて

飲め

ば、

乳の

代わ

りに

なる

とい

う。

(中

沢伝

説集

)」

D623

○仏

石「昔

、山

から

流れ

てき

た位

牌が

乗っ

てい

た岩

だと

いう

。大

きな

岩で

、現

在稲

荷神

社が

祀っ

てあ

る。

D621

○流

され

てき

た仏

○隅

の木

「隅

の木

と称

す栗

の木

があ

った

。正

徳五

年未

満水

の時

、与

田切

川が

氾濫

し、

沿岸

の田

家が

概ね

流出

して

しま

った

。人

々は

わず

かに

身を

以て

免れ

、隅

の木

の陰

に集

いて

危難

を脱

する

こと

がで

きた

とい

う。

この

隅の

木の

老朽

化が

進み

伐採

する

こと

にな

った

時、

その

恩を

記す

ため

に隅

の木

碑が

建立

され

た。

D629

○洪

水か

ら護

って

くれ

た栗

の木

○鬼

の島

・鬼

の的

山「与

田切

川の

吐き

出し

に、

鬼が

もっ

こで

土を

担ぎ

空け

出し

たら

出来

た島

と、

もっ

こを

どん

と払

った

ら横

に小

さな

島が

でき

たと

いう

。ま

た、

駒ケ

岳に

住ん

でい

る鬼

神が

、こ

こに

標的

を置

いて

山頂

より

弓を

引い

て習

った

と言

い伝

えら

れて

いる

。」

D630

○鬼

がも

たら

した

地変

○東

夕立

(東山

から

の雷

雨)は

来そ

うで

こな

いが

来れ

ばで

っか

い○

霧山

に霧

が立

って

いる

内は

雨が

止ま

ない

D568

Page 74: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-74

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○座

頭な

ぎ「昔

、座

頭が

数人

で京

へ上

る途

中、

なぎ

崩れ

にあ

って

悲惨

な死

をと

げた

。山

の木

を切

るこ

とが

なぎ

崩れ

の原

因で

ある

とし

、再

びこ

のよ

うな

惨事

が起

こら

ない

こと

を願

って

、座

頭な

ぎの

松伐

るべ

から

ず、

との

申し

合わ

せが

遺言

とし

て残

され

てい

る。

D636

○土

石流

被害

の教

○黒

牛の

風穴

「中

川村

大草

美里

(黒

牛)地

籍の

風穴

とい

う所

に、

風三

郎と

呼ぶ

風の

神が

祀ら

れて

いる

。風

の神

が嫌

って

いる

神楽

の獅

子や

越後

獅子

が宮

の入

坂よ

り奥

へ登

った

なら

ば、

たち

まち

に暴

風を

巻き

起こ

すと

伝え

られ

てい

る。

駒ヶ

根市

大御

食神

社の

神代

文字

によ

って

書か

れた

社伝

記に

は、

五昼

夜に

わた

り吹

き荒

れた

暴風

雨を

黒牛

の風

の神

の祟

りで

ある

とし

て祭

り鎮

めた

こと

が記

され

てい

る。

D539

○天

女鱒

霊神

(あ

めま

すれ

いじ

ん)

「む

かし

、飯

沼の

家の

田植

えに

毎年

素性

の知

れな

い美

しい

夫婦

が手

伝い

に来

た。

田植

えじ

まい

の時

、赤

飯を

ご馳

走に

なる

と、

いず

こと

もな

く立

ち去

った

。あ

る日

この

家の

男衆

がわ

み沢

の淵

で魚

釣り

をし

たと

ころ

、大

きな

あめ

のう

おが

釣れ

た。

腹を

割い

てみ

たと

ころ

中か

らた

くさ

んの

赤飯

が出

てき

た。

翌年

の田

植え

に美

しい

姿の

夫婦

が現

れな

かっ

たこ

とか

ら、

夫婦

がわ

み沢

に住

むあ

めの

うお

の化

身で

あっ

たこ

とを

知っ

た。

そこ

でわ

み沢

の淵

を見

下ろ

す林

の中

に祠

を造

り、

天女

鱒霊

神と

して

祀っ

たと

ころ

、夜

にな

ると

淵か

ら「あ

めま

すさ

らば

」と

呼ぶ

声が

聞こ

えて

きた

。そ

れか

ら来

る年

ごと

に飯

沼の

家の

田植

えに

は、

よく雨

が降

った

とい

う。

36災

害の

時、

その

淵の

面影

はす

っか

りな

くな

って

しま

った

。」

D538

○雨

をも

たら

すあ

めの

うお

の化

身○

36災

害に

よる

伝承

地形

の変

○惣

兵衛

の人

柱○

麦わ

ら堤

防(惣

兵衛

の末

孫中

村初

太郎

翁談

片)

○地

蔵沢

「あ

る年

、小

園を

流れ

る小

川が

氾濫

し一

面を

荒ら

しま

わっ

た。

水が

ひい

たあ

る朝

、水

番の

爺さ

んが

半身

を泥

の中

に埋

めた

お地

蔵様

を河

原で

見つ

けた

。も

った

いな

いと

大勢

で担

ぎ上

げ、

小さ

いお

堂を

建て

て祀

った

。(地

蔵堂

)こ

の以

来そ

の地

を地

蔵沢

とい

うよ

うに

なっ

たと

いう

。」

D631

○洪

水に

よっ

ても

たら

され

た地

蔵様

と地

名の

由来

Page 75: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-75

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○明

神様

の瀬

分け

鎌「大

昔、

天竜

川に

大水

が出

て瀬

が代

わる

と田

村の

新田

は押

し流

され

てし

まう

とい

うこ

とで

、大

水が

でる

と村

中の

人々

が明

神様

をお

祭り

して

、神

様か

ら瀬

分け

鎌を

いた

だき

、大

勢の

若連

中が

この

鎌を

持っ

て裸

にな

り、

天竜

川へ

入っ

て瀬

分け

鎌を

引くと

たち

まち

に瀬

が代

わっ

て村

が助

かっ

たと

いう

。こ

の明

神様

と池

野氏

の八

幡様

と合

わせ

祀る

こと

にな

って

現在

の諏

訪神

社に

移っ

た。

D632

○洪

水の

瀬を

分け

て村

を救

う瀬

分け

鎌の

信仰

(喬

木村

に伝

わる

こと

わざ

)○

描が

頭越

しに

耳を

かくと

雨○

池の

鯉が

はね

ると

近い

うち

に雨

○権

現山

の頭

が見

える

うち

は雨

は降

って

来な

い○

蛇が

木に

登る

と雨

○夕

方子

供が

さわ

ぐと

雨○

赤と

んぼ

がた

くさ

ん飛

ぶの

は雨

が近

い○

山が

近く見

える

時は

雨○

黄色

い朝

焼は

天気

、赤

い朝

焼は

D564

○九

十九

谷の

伝説

「九

十九

谷が

まだ

百谷

あっ

た頃

、そ

の谷

底に

鬼が

住ん

でい

た。

ある

年の

大荒

れで

一谷

が埋

まり

九十

九谷

とな

った

時、

鬼は

逃げ

出し

て三

里西

山の

市田

村の

大島

へと

びこ

した

。そ

の拍

子に

石の

上に

手を

つい

た。

その

時の

手の

跡が

深く石

に残

り、

その

窪み

の中

にた

えず

溜ま

って

いる

雨水

をい

ぼに

つけ

ると

奇妙

にも

治る

とい

う。

九十

九谷

を百

と数

えた

ら後

、鬼

が出

るか

蛇が

出る

か、

村中

はふ

み荒

され

てし

まう

と云

うの

で、

二本

の指

を一

本折

って

いつ

でも

九十

九と

数え

ねば

なら

ない

。(喬

木村

史談

会 

喬木

村の

伝説

)」

○小

川川

の濁

り水

「少

しで

も雨

が降

ると

濁っ

た水

が流

れて

いた

。雨

が降

ると

九十

九谷

が崩

壊し

て、

谷川

の水

を堰

ぎと

めそ

こに

水が

たま

ると

堰が

崩れ

て出

水と

なっ

たり

、濁

った

水が

流れ

るよ

うに

なり

、下

流で

鯉を

飼っ

てい

る農

家で

その

水を

使う

と鯉

が死

に、

生産

が激

減し

て困

った

と云

う。

(古

老の

語り

)」

D507

○谷

に棲

む鬼

に対

する

畏怖

の念

Page 76: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-76

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○九

十九

谷「村

人が

命を

かけ

し谷

々に

萌え

づる

春の

光さ

した

り 

断層

を削

る作

業に

取り

組み

し人

らの

偉業

永久

に亡

びざ

らむ

 冬

の月

は暮

るる

に早

し谷

々は

雪に

埋み

て夕

昏ら

みた

り(村

沢武

夫)」

○後

代に

伝え

たい

○悪

い滝

の主

を退

治し

た勇

士「瀬

戸の

滝に

は大

蛇が

棲ん

でい

た。

大蛇

は毎

年八

月に

なる

と大

水を

だし

、阿

島の

水田

を流

して

しま

った

。村

人は

大蛇

を退

治し

たい

と考

えて

、勇

士が

でか

けて

いくの

だが

一人

も帰

って

こな

かっ

た。

ある

年、

通り

かか

った

旅の

武士

に大

蛇退

治を

お願

いし

たと

ころ

、武

士は

引き

受け

て大

蛇を

倒し

て帰

って

きた

。そ

れか

ら水

もで

なくな

り、

阿島

の水

田は

秋に

なる

と稲

穂が

波打

つよ

うに

なっ

た。

後に

大蛇

を退

治し

た武

士は

、上

郷の

野底

山の

姫宮

でヒ

ヒ退

治で

有名

な岩

見重

太郎

であ

るこ

とが

わか

った

とい

う。

D633

○滝

の主

であ

る洪

水を

もた

らす

大蛇

退治

○観

音な

ぎと

駒石

「遠

いむ

かし

、青

木川

のさ

きの

高い

とこ

ろに

ある

あか

なぎ

に住

んで

いた

観音

様が

、引

の田

に住

みた

くな

って

馬に

乗っ

て引

越し

をし

た。

その

とき

の馬

の蹴

り上

げで

山が

崩れ

、で

っか

いな

ぎに

なっ

てし

まっ

たの

で観

音な

ぎと

いう

よう

にな

った

。引

の田

ので

っか

い石

にひ

とっ

とび

に飛

んだ

拍子

で石

がひ

っくり

かえ

って

しま

い、

馬の

足跡

がつ

いた

方が

下っ

かわ

にな

った

。村

の衆

はそ

の下

で雨

宿り

がで

きた

。そ

こは

石の

上で

雪が

降っ

ても

下側

は雨

にな

ると

いう

こと

で、

その

駒石

を村

中で

大事

にし

てい

る。

D624

○観

音さ

まの

引越

しと

土石

○烏

帽石

(え

ぼし

岩)

「仙

人が

烏帽

子を

忘れ

て去

った

あと

にで

きた

岩と

され

てい

る。

相次

ぐ洪

水の

際の

出水

の指

標と

され

てき

た。

D511

○出

水の

指標

○水

害に

よる

家屋

移転

の歴

○川

路と

龍江

の境

界争

い「両

村で

、水

害に

よる

争い

があ

った

。」

D566

○災

害が

もた

らす

境界

紛争

Page 77: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-77

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○ 尾

科文

吾の

はな

し(お

しな

ぶん

ご)

「力

持ち

の文

吾は

飯田

のお

城の

石垣

を積

んだ

り、

天竜

川の

舟を

運ん

だり

とバ

カ力

の持

ち主

であ

った

。ま

た心

もや

さし

かっ

た。

ある

とき

母さ

んが

、生

きて

るう

ちに

善光

寺に

参り

たい

、と

いっ

たの

で母

さん

を背

負い

走っ

て善

光寺

にい

った

。善

光寺

に着

き母

さん

を背

中か

ら下

ろす

と背

中で

ゆり

殺さ

れて

しま

った

よう

であ

る。

文吾

は大

そう

悲し

み涙

をこ

ぼし

いくつ

もの

池を

つくっ

た。

「山

の神

の番

人で

あっ

た文

吾は

開墾

をし

たい

悪い

庄屋

にだ

まさ

れて

しま

いま

した

。毒

の水

を飲

んで

しま

った

文吾

はよ

ろめ

き、

文吾

を諌

めた

八重

をふ

みつ

ぶし

てし

まい

まし

た。

文吾

の涙

があ

とか

らあ

とか

ら流

れ出

し、

山の

谷々

は文

吾の

涙の

洪水

で埋

まり

、村

々を

襲い

田畑

も何

もか

も天

竜に

流し

てし

まっ

た。

(宮

沢和

夫:大

蛇の

城:昭

和48年

)」

D648

○心

やさ

しい

尾科

文吾

の涙

がも

たら

した

地変

(千代

に伝

わる

こと

わざ

)○

猫が

耳を

こす

ると

雨が

降る

○鯉

がは

ねる

と雨

が降

る○

蜘妹

の巣

が沢

山か

かる

と晴

れる

○三

日月

の欠

けた

方が

下を

向い

てい

ると

D547

○禿

淵「む

かし

黄昏

時に

野池

方面

から

米川

の河

原町

流れ

来た

年令

7、

8歳

ぐら

いの

どこ

か気

高い

美し

さを

もっ

た娘

乞食

があ

った

。隣

部落

の金

持ち

夫婦

がひ

きと

り、

名を

お香

代と

名づ

けて

わが

子の

よう

にか

わい

がっ

た。

お香

代が

物心

づい

たあ

る日

、遊

び友

達か

ら昔

は乞

食だ

った

とい

う話

を聞

かさ

れ、

悲し

い涙

で送

る日

が多

くな

った

。あ

る夜

、お

香代

の姿

が忽

然と

消え

た。

夫婦

はくま

なく探

した

が見

つか

らな

かっ

たの

で、

あき

らめ

て葬

儀を

おこ

なっ

た夜

、お

香代

が暗

闇の

中で

ずぶ

濡れ

で立

って

いた

。お

香代

は夫

婦に

お世

話に

なっ

たお

礼を

述べ

、禿

淵の

主と

なっ

たこ

とを

告げ

た。

そし

て、

日照

りで

困っ

た時

に雨

乞い

をす

れば

必ず

雨を

呼ん

でくる

こと

を約

束し

、永

遠の

別れ

を告

げて

闇の

中へ

と吸

い取

られ

てい

った

。翌

日夫

婦は

村人

にこ

の物

語を

話し

てお

香代

を祀

り、

不動

様と

呼ん

だ。

今で

も村

人は

米川

の禿

淵で

雨乞

いを

する

こと

が習

慣と

なっ

てい

る。

D548

Page 78: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-78

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○地

蔵岩

「闇

沢の

奥深

くま

で薪

を取

りに

行っ

た人

がい

た。

夕方

にな

って

狼が

でた

ので

、驚

いて

逃げ

だし

た。

闇沢

の山

の神

辺り

まで

来た

時、

山か

ら岩

が落

ちて

きて

、狼

に当

たっ

て殺

して

しま

った

ので

助か

った

。そ

の岩

は地

蔵岩

とい

って

今も

道端

にあ

り、

雨が

降り

だす

前な

どに

は岩

の表

面に

地蔵

様の

姿が

現れ

ると

いう

。」

D634

○岩

を落

とし

て村

人を

助け

た山

の神

○池

が洞

の主

「城

山の

池が

洞に

ある

池に

、永

年大

蛇と

も山

椒か

じか

とも

いう

主が

棲ん

でい

た。

池の

堤が

だん

だん

欠け

てき

て、

いよ

いよ

棲む

事が

でき

なくな

った

のを

知り

這い

出だ

して

きた

。須

志角

の河

原を

通っ

て下

條の

深見

の池

へ移

った

。山

の奥

宮辺

には

、そ

の通

過し

た道

筋が

掘れ

て小

川くら

いの

跡が

残っ

てい

る。

D635

○大

蛇の

下条

村深

見の

池へ

の引

越し

(上

久堅

に伝

わる

こと

わざ

)○

南山

に雲

がか

かる

と雨

が降

る○

恵那

山に

雨が

降る

とす

ぐこ

っち

にや

って

くる ○

鍋の

底に

火が

つくと

雨が

降る

○東

夕立

は降

りが

強く長

い○

雨蛙

が鳴

くと

雨が

降る

○雲

が北

へ向

うと

必ず

雨、

東に

向う

と小

雨○

蜂が

巣を

高い

所に

つくる

と強

風が

なく、

低い

所に

つくる

と台

風が

く る

D

○池

城の

明神

様(宇

佐八

幡・不

動明

王)を

祀っ

たお

宮「池

城に

住ん

でい

た明

神様

(雨

乞い

の神

様)は

、人

々が

盛ん

に行

った

焼き

畑の

せい

で毎

日煙

たい

思い

をし

てい

た。

そし

て池

の周

りも

焼き

払わ

れ明

るくな

って

しま

った

ので

、池

の水

を持

って

今の

お池

に移

られ

た。

水の

なくな

った

池に

残る

石に

は、

明神

様が

映り

化粧

をし

てい

たこ

とか

ら鏡

石と

呼ば

れて

いる

。」

D515

○自

然の

調和

をみ

だす

行い

○中

郷の

流れ

宮「中

郷の

分校

だっ

たと

ころ

に大

きな

岩が

あっ

て諏

訪明

神が

祭っ

てあ

った

。い

つか

の大

洪水

で流

され

、今

の諏

訪宮

まで

流さ

れた

ので

、そ

れ以

後も

との

場所

を流

れ宮

とい

うよ

うに

なっ

た。

D569

○洪

水に

よっ

て流

され

たも

Page 79: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-79

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○池

大明

神「須

沢の

利検

沢の

ケブ

ッタ

が池

に住

んで

いた

池大

明神

が、

人々

が盛

んに

行っ

た焼

き畑

の煙

に追

われ

今の

お池

に移

った

。」

D516

○石

のコ

ケテ

来な

い(落

ちて

こな

い)と

ころ

、水

の近

いと

ころ

、風

の当

たら

ない

とこ

ろ、

に家

を建

てる

D571

○か

け踊

り(お

盆)

「雨

乞い

の踊

りを

年中

行事

化し

たも

のと

いわ

れて

いる

。お

池が

、雨

乞い

の池

とし

て信

仰を

集め

てい

た。

D572

○霜

月祭

(12月

13日

~14日

、下

栗の

拾五

社大

明神

)と

龍頭

(タ

ツガ

シラ

)「龍

頭(タ

ツガ

シラ

)と

呼ば

れる

面は

池大

明神

の化

身を

表し

、荒

れ狂

う龍

頭を

猿の

面を

かぶ

った

子ど

もが

二本

の棒

でた

たき

、傷

つい

た龍

頭が

のた

うち

まわ

る所

作が

演じ

られ

る。

かつ

ては

面の

口を

開け

ると

大水

がで

ると

いわ

れた

こと

から

、口

を閉

じて

演じ

られ

た。

D573

○諏

訪宮

のな

ぎが

ま「諏

訪宮

(大

洪水

で流

れ宮

にあ

った

諏訪

明神

が流

れ着

いた

とこ

ろ)に

はな

ぎが

まが

二本

祭っ

てあ

り、

上町

付近

では

御射

山の

祭り

をす

るよ

うに

なっ

た。

水害

にあ

った

とき

には

、祢

宜様

がな

ぎが

まを

持っ

て川

に行

き、

川す

じを

ひくと

その

通り

にな

った

。古

瀬良

男氏

と古

瀬右

京氏

が若

い頃

に一

度や

った

時、

ちい

っと

は川

すじ

が変

わっ

た。

」○

なぎ

鎌・瀬

分け

鎌(呪

具)

「本

来諏

訪信

仰の

中で

風切

りの

薙い

鎌と

して

用い

られ

たも

のが

、天

竜川

流域

では

洪水

の瀬

を切

る道

具と

して

用い

られ

た。

(笹

本正

治)」

D570

○自

然を

コン

トロ

ール

しよ

うと

する

人々

の意

思が

語ら

れて

いる

伝説

○御

射山

の祭

り「な

ぎが

まが

二本

お祀

りし

てあ

る諏

訪宮

のお

祭り

。(8月

25~

26日

)」

D575

○自

然を

コン

トロ

ール

しよ

うと

する

人々

の意

思が

語ら

れて

いる

伝説

Page 80: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-80

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○山

の神

・水

神碑

とオ

タカ

ラ「山

の神

・水

神碑

とオ

タカ

ラ(山

の神

を表

す赤

い半

紙と

水神

を表

す白

い半

紙を

二つ

に折

り、

竹串

には

さむ

幣束

)に

よる

信仰

。」

○水

神・山

の神

「遠

山谷

では

、台

風や

集中

豪雨

の時

に水

荒れ

(洪

水)と

山荒

れ(山

抜け

)と

が同

時に

人々

に襲

いか

かっ

てくる

こと

から

、山

と水

が関

連す

る場

所(山

峡の

橋の

たも

とや

川を

見下

ろす

山裾

など

)に

水神

・山

の神

の碑

をた

て荒

ぶる

神を

静め

た。

また

、山

の神

と水

の神

が結

び合

って

水の

供給

源と

なる

こと

から

、水

神・山

の神

碑は

水源

とな

る山

にも

祀ら

れて

いる

。」

(清

内路

村に

伝わ

るこ

とわ

ざ)○

大雨

が降

った

時、

沢水

が急

に止

まる

と、

鉄砲

水が

くる

○ト

ウモ

ロコ

シの

根が

上が

って

張る

と、

雨風

が多

い○

恵那

夕立

は長

降り

がつ

づく

○上

げの

大風

は、

災害

をつ

れて

くる

○朝

てっ

かり

、(日

射)後

に雨

○水

瓶が

、汗

をか

くと

雨が

降る

○鯉

がは

ねる

と、

雨が

降る

○大

栂(地

名)に

霧が

立て

ば、

雨降

り○

大川

の洪

水が

早くひ

くと

まだ

雨が

降る

○膝

や、

頭痛

がす

ると

、雨

が降

る(フ

リケ

ヲヤ

ム)

○カ

ミカ

ンド

(上川

渡)の

瀬音

が、

近く聞

こえ

ると

、雨

が降

る○

ヨキ

トギ

山に

雲が

はい

ると

雨○

御獄

様の

手洗

水を

まぜ

ると

雨が

降る

○グ

マン

蜂の

巣の

ひくい

年は

台風

がくる

○熊

笹の

実が

なる

と災

害が

くる

D563

Page 81: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-81

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○ 明

神山

の大

蛇「大

蛇(胴

回り

三尺

、丈

は三

十尺

)、

目は

北極

星の

よう

に光

り体

は青

白い

鎧の

よう

であ

った

。そ

の大

蛇を

近くで

見た

もの

は発

熱し

病気

にな

った

。不

老な

大蛇

は猛

威を

ふる

い黒

川、

大平

、松

川入

り方

まで

一夜

にし

て獲

物を

探し

回っ

た。

何年

か過

ぎ大

蛇が

衰え

始め

たと

き、

千年

の大

木が

見る

間に

燃え

、折

柄の

風に

煽ら

れ全

山が

火の

海に

なっ

た。

村人

が山

を見

ると

大蛇

が口

から

炎を

吐い

て悠

然と

火の

海に

浸っ

てい

た。

その

姿は

神々

しい

まで

に荘

厳で

あっ

た。

その

とき

大雷

雨と

なり

大蛇

のあ

たり

から

黒雲

が湧

き上

がり

、七

月七

日夜

、燃

えた

大蛇

のあ

ぶら

で谷

川の

水が

濁り

八日

つい

に大

蛇は

燃え

つき

石を

まい

てい

た体

がバ

ラバ

ラに

なっ

た途

端、

千貫

の大

石は

生き

ある

もの

のよ

うに

転が

りだ

して

十町

余り

下っ

た村

里の

家の

裏で

ピタ

リと

止ま

った

。今

でも

その

石は

どっ

かり

とよ

きど

きの

蛇抜

けを

防ぐ

かの

よう

に横

たわ

り、

村の

ひと

びと

にめ

ずら

しが

られ

てい

る。

D646

○蛇

抜け

から

民家

を守

る石

にな

った

大蛇

の後

○蛇

出し

が池

「む

かし

浪合

村恩

田の

お百

姓が

、家

のう

らて

にあ

る沼

のあ

たり

の草

を刈

って

きて

馬に

食べ

させ

たと

ころ

、馬

は苦

しが

り血

を吐

いて

死ん

でし

まっ

た。

近所

の人

たち

は、

その

沼に

は池

の主

が住

んで

いる

とい

うの

にそ

この

草を

食べ

させ

たか

らだ

と言

って

いた

。翌

朝、

草を

刈っ

たと

ころ

が大

きな

池と

なり

水が

堪え

てい

たの

で、

お百

姓は

びっ

くり

して

池の

端に

祠を

祀っ

た。

何年

かた

った

ある

夜の

こと

、お

百姓

の夢

枕に

主が

立ち

、蛇

出し

が池

に住

んで

いた

が体

が池

いっ

ぱい

にな

って

住み

にくい

ので

蛇峠

の上

に池

をつ

くっ

て明

日ゆ

く、

と言

った

。翌

日、

西の

方か

ら真

っ黒

い雲

がで

てき

て池

の面

が騒

がし

くな

り、

池の

主が

雲に

のっ

て蛇

峠の

方へ

消え

てい

った

とい

う。

D560

○大

蛇の

引越

Page 82: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-82

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○蛇

峠の

池(蛇

が池

)「む

かし

蛇峠

に大

きな

池が

あり

、主

の大

蛇が

棲む

とい

われ

蛇が

池と

呼ば

れて

いた

。あ

る日

、峠

の方

から

見馴

れぬ

小娘

が下

りて

きて

、村

の庄

屋に

今日

から

深見

へま

いる

と馴

れ馴

れし

く暇

乞い

をし

た。

不思

議に

思っ

た庄

屋が

後を

つけ

てい

くと

、波

合川

の橋

の途

中で

姿が

消え

、大

水が

流れ

落ち

てい

くよ

うに

見え

た。

それ

で初

めて

小娘

は蛇

が池

の主

であ

った

と知

った

。そ

の日

、大

下条

村深

見の

里に

大き

な池

がで

きた

。今

では

、こ

の池

を雨

乞ひ

淵と

呼び

、旱

の時

にこ

の池

の水

を汲

んで

きて

神に

供え

て雨

乞い

する

と、

必ず

雨が

降る

とい

う。

村の

人た

ちは

、水

出を

恐れ

て平

常は

一切

この

池の

水を

汲ま

ない

よう

にし

てい

ると

いう

。」

D530

○雨

乞い

の恩

恵(蛇

が池

(泰

阜村

に伝

わる

こと

わざ

)○

梅雨

時に

鳴神

山に

山崩

れが

ある

と梅

雨が

明け

る○

天竜

川に

沿っ

て雲

がの

ぼる

と雨

が降

る○

遠山

祭り

が始

まる

と山

が荒

れる

○打

沢霧

はあ

と晴

れる

○旱

魃に

鳴神

山で

お祭

りす

ると

三日

以内

に雨

が降

る○

八森

峠の

霧が

天竜

霧を

押す

と雨

にな

る○

蜂の

巣が

低い

と大

風が

吹く

○帆

掛け

船の

帆が

利くと

翌日

は雨

とな

る○

三カ

月の

上弦

の時

は雨

が多

く下

弦の

時は

雨が

少な

い○

向か

いの

山(大

下条

〉を

霧が

北に

這う

うち

は雨

は上

がら

ない

○川

の瀬

音が

高い

と雨

が近

い○

タル

ノ沢

の霧

が怒

田に

下る

と雨

にな

D567

Page 83: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-83

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○成

瀬が

淵の

女「む

かし

田本

のあ

る家

に気

立て

がよ

く美

しい

女中

がい

て主

人か

ら愛

され

るよ

うに

なり

、胤

を宿

した

。い

つも

女は

井戸

をの

ぞい

ては

、自

分の

姿を

見て

いた

とい

うが

、あ

る日

西空

に入

道雲

が出

、た

ちま

ちに

雷雨

とな

り女

の姿

が消

えた

。あ

る夜

、主

人の

夢枕

に女

が立

ち、

不憫

に思

うな

ら遠

江国

の成

瀬が

淵に

きて

、女

の名

を記

した

紙を

淵に

沈め

、大

きな

声で

名を

呼ん

でほ

しい

、と

言っ

た。

主人

は何

日も

かか

って

その

淵を

見つ

け再

会を

喜ん

だ。

やが

て別

れの

時、

女は

寂し

げな

表情

で水

の中

に帰

って

いく姿

を見

ない

でほ

しい

と頼

んだ

が、

主人

がも

う一

目姿

をみ

たい

と振

り向

くと

大蛇

が金

色の

うろ

こを

ひら

めか

し、

十二

本の

角で

波を

掻き

分け

なが

ら淵

の底

へと

沈ん

でい

った

。そ

れか

ら田

本の

里に

は凶

事が

続い

たの

で、

里人

たち

は成

瀬が

淵の

たた

りで

あろ

うと

言い

、蛇

の姿

を石

に刻

んで

神に

祭り

、毎

年盛

んな

お祭

りを

して

大蛇

のた

たり

を鎮

める

よう

にな

った

とい

う。

D525

○成

瀬が

淵(遠

江)

の大

蛇の

たた

○と

うぢ

やげ

の池

の主

「む

かし

神原

村唐

沢に

あっ

たと

うぢ

やげ

の池

の主

が、

ある

年の

大雨

で池

の水

が欠

潰し

なくな

って

しま

った

ので

、深

見の

池に

逃げ

てき

た。

それ

から

近くの

寺で

は、

鐘を

つくと

大蛇

が暴

れ出

すか

らと

言っ

て、

鐘を

つく事

を止

めた

とい

う。

D576

○大

蛇の

引越

○大

蛇に

なっ

た母

「天

正十

五年

(1587)吉

田城

の下

条氏

が没

落し

た。

その

知ら

せを

聞い

た下

條康

氏の

母は

城を

抜け

出し

、深

見の

百姓

家に

隠れ

てい

た。

間も

なく訴

人が

あっ

て身

が危

なくな

った

ので

、母

は井

戸へ

身を

投げ

た。

する

と井

戸が

一夜

に崩

れて

大き

な池

にな

った

。大

蛇の

姿に

なっ

た池

の主

は世

を呪

って

村中

の田

畑を

荒し

まわ

った

ので

、百

姓た

ちは

祠を

建て

て死

者の

霊を

慰め

た。

この

池が

でき

てか

ら近

くの

寺で

は、

鐘を

つくと

大蛇

が暴

れ出

すか

らと

言っ

て、

鐘を

漬く事

を止

めた

とい

う。

D579

○人

への

恨み

が大

蛇と

化身

した

Page 84: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-84

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○深

見の

祇園

祭「竜

神様

のお

怒り

を静

める

ため

に行

われ

るよ

うに

なっ

た。

祭り

の準

備7月

第4土

曜日

に行

われ

、地

元で

は“に

わくさ

”と

呼ん

でる

。氏

子総

代と

4人

の氏

子が

みん

なで

ひと

り1

束ず

つの

ワラ

を持

って

神社

に集

まり

、神

殿か

ら池

の水

の出

入口

まで

ワラ

でし

め縄

を張

る。

池に

浮か

べる

イカ

ダや

高さ

66m

にの

びる

三国

の櫓

、御

旗、

提灯

、花

火な

どの

準備

をし

、夕

方に

なっ

て津

島様

を神

輿に

移し

、神

前の

庭に

運び

出し

て行

列が

進め

られ

る。

神輿

を担

ぐ人

の衣

装は

、白

衣に

青袴

と決

まっ

てい

る。

行列

は三

国の

櫓の

周囲

を3周

し、

獅子

頭を

先頭

に池

に向

かっ

て降

りて

いく。

イカ

ダに

乗り

移る

と12の

提灯

に灯

が点

り、

イカ

ダが

岸を

離れ

ると

花火

が打

ち上

げら

れ、

湖上

で祭

典が

始ま

る。

フィ

ナー

レは

、神

輿が

神社

に戻

って

から

で、

三国

の櫓

に仕

込ん

であ

る花

火に

火が

点け

られ

、人

々は

火の

粉を

浴び

なが

ら踊

り回

る。

また

、イ

カダ

に汚

れた

者が

乗っ

た時

には

、龍

神の

怒り

でイ

カダ

が沈

むと

いう

。」

○津

島社

「諏

訪神

社(深

見地

区の

鎮守

様〉境

内に

ある

。竜

神さ

まの

お怒

りを

静め

るた

めに

祀ら

れた

。」

D577

○主

(大

蛇)の

怒り

を鎮

める

お祭

○雷

岩と

呼ば

り岩

「 夏

の日

照り

が続

いた

ので

、働

き者

のて

いご

ろう

が家

に息

子の

やす

べい

を置

いて

、毎

日水

汲み

をし

てい

る時

、雨

よど

うか

降っ

てく

れ、

とぶ

つぶ

つつ

ぶや

きな

がら

ゆっ

くり

歩い

てい

たが

、そ

の足

が止

まり

へた

へた

とし

ゃが

みこ

んだ

。背

中の

水が

てい

ごろ

うに

かか

り、

その

時一

番星

から

光り

始め

た天

から

雨が

降り

出し

た。

雨は

しだ

いに

激し

くな

りた

ちま

ち乾

いた

地面

を染

めて

いく。

洪水

にな

って

田畑

が流

され

てし

まう

ので

はな

いか

と心

配に

なっ

てき

た四

日目

の夜

に季

節外

れの

稲妻

が光

り、

雨は

それ

なり

にあ

がっ

た。

しか

し、

てい

ごろ

うは

帰っ

てこ

なか

った

。翌

朝、

村人

が栗

谷沢

の傍

らで

、今

まで

誰も

みた

こと

もな

い岩

が雷

に打

たれ

たた

めか

、湯

気を

立ち

上ら

せて

いる

のを

見た

。や

すべ

いは

、そ

の年

の大

晦日

のよ

るに

母と

妹で

いろ

りを

囲ん

でい

ると

、横

前の

原っ

ぱの

見た

こと

もな

い岩

が呼

びか

けて

くる

気が

した

。そ

の岩

は栗

谷沢

の岩

に呼

びか

けて

いて

、こ

の岩

に父

の姿

がは

っき

りと

見え

てき

た。

D649

○雨

乞い

Page 85: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-85

西暦

和暦

誘因

被害

の実

態被

害地

点N

o.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○と

うぢ

やげ

の池

「む

かし

神原

村唐

澤(天

龍村

神原

)の

奥の

入り

の谷

とい

うト

ウヂ

ヤゲ

と呼

ぶと

ころ

に大

池が

あっ

た。

ある

年大

雨の

時、

池の

堤が

崩れ

て河

水が

氾濫

し、

池の

水が

なくな

った

ため

大蛇

は居

所を

失い

、深

見の

池へ

逃げ

てい

った

とい

う。

また

、と

うぢ

やげ

池の

主で

ある

大蛇

は、

時々

出で

て水

の出

口を

塞い

だた

め、

河の

水の

干上

がる

こと

が度

々あ

った

ので

、そ

の河

のあ

ると

ころ

をか

ら澤

と呼

ぶよ

うに

なっ

た。

洪水

-D

532

○大

蛇の

引越

○天

竜川

の由

来「む

かし

の諏

訪湖

は上

伊那

、下

伊那

の三

郡に

わた

り周

囲六

十里

もの

細長

い水

海で

、竜

の海

と呼

ばれ

てい

た。

また

、こ

の地

方出

身の

竜宮

船頭

安曇

磯丸

とい

う強

くて

かし

こい

神さ

まが

、天

皇と

同じ

資格

をそ

なえ

てい

たの

で天

竜大

神と

呼ば

れて

いた

。当

時の

人た

ちは

天竜

大神

の天

をと

って

、諏

訪湖

のこ

とを

天の

竜海

と呼

ぶよ

うに

なっ

た。

その

後、

天変

地異

によ

り下

伊那

の南

の山

々が

大崩

壊を

起こ

し、

堰き

止め

られ

てい

た天

の竜

海の

水は

一度

に太

平洋

へと

流れ

込ん

だ。

この

異変

によ

り、

天の

竜海

は奥

に洲

羽湖

(す

わこ

)を

残し

、あ

とは

細長

く深

い谷

間に

変わ

った

とい

う。

D584

○天

竜川

の由

来○

天変

地異

によ

る諏

訪湖

の決

Page 86: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-86

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○あ

ばれ

天竜

「大

昔、

蛇の

胴を

し、

鹿の

角を

付け

、鬼

の目

と牛

の耳

、鷲

の足

をも

った

それ

はそ

れは

大き

な竜

が南

の海

に住

んで

いた

。こ

の竜

はは

じめ

はお

とな

しく仏

様に

おっ

返し

てい

たが

、大

きくな

るに

連れ

気性

が荒

くな

り、

力も

強く

なり

そば

にい

るも

のに

喧嘩

ばか

り仕

掛け

てい

た。

仏様

は我

慢で

きな

くな

り、

この

竜を

天の

果へ

追い

払っ

てし

まっ

た。

とこ

ろが

竜は

天へ

追わ

れて

から

も暴

れ放

題で

、自

分が

一番

えら

いと

思う

よう

にな

った

。誰

も恐

がっ

て竜

によ

りつ

く者

はい

なか

った

が、

信濃

の国

の山

々は

毅然

とし

て竜

に怯

える

こと

なく

そび

え立

ち、

中で

も諏

訪湖

の向

こう

側に

そび

え立

つ八

ヶ岳

はい

つも

強そ

うに

立っ

てい

た。

これ

に腹

をた

てた

竜は

喧嘩

をし

かけ

八ヶ

岳に

体当

たり

し、

山肌

を長

い胴

で幾

重に

も巻

き力

いっ

ぱい

締め

つけ

た。

八ヶ

岳も

おな

かに

力を

入れ

てじ

っと

我慢

した

が、

さす

がに

こら

えき

れな

くな

り、

地面

が割

れて

嶺の

方か

らど

っと

ばか

り火

を吹

き、

一気

に爆

発し

てし

まっ

た。

竜は

、そ

のも

のす

ごい

爆風

のた

めに

天高

く打

ち上

げら

れて

から

伊那

の山

々の

間へ

どさ

っと

落ち

た。

その

後こ

の天

の竜

はど

こへ

行っ

たか

は誰

も知

らな

いが

、落

ちた

とこ

ろに

大き

な跡

がつ

き、

その

跡が

川に

なっ

てな

がれ

たの

で、

この

川を

天竜

川と

呼ぶ

よう

にな

った

とい

う。

D642

○八

ヶ岳

の噴

火と

天竜

川の

由来

○甲

賀三

郎伝

説「三

人兄

弟の

末子

であ

る三

郎が

、兄

たち

の計

略に

よっ

て信

濃の

蓼科

山の

洞穴

に閉

じ込

めら

れ、

地底

をさ

迷い

故郷

の近

江に

戻っ

たが

、い

つし

か身

は蛇

体に

変わ

り、

人々

から

恐れ

嫌わ

れた

。身

の危

険を

感じ

た時

、釈

迦堂

の老

僧の

教え

によ

って

菖蒲

ヶ池

に身

を沈

め呪

文を

唱え

ると

元の

体に

戻っ

た。

妻と

再会

した

三郎

は後

に信

濃の

諏訪

神社

上社

の神

とな

り、

妻の

春日

姫は

下社

の神

にな

った

とい

う(ヨ

リタ

カ系

縁起

)」

「三

郎は

山中

で兄

にだ

まさ

れて

谷底

へ突

き落

とさ

れた

。九

死に

一生

を得

るが

、身

は大

蛇に

変わ

り、

地底

の穴

を廻

って

信濃

のナ

ギ゙の

松原

に抜

けた

とい

う。

故里

が恋

しく三

十三

年に

して

甲賀

に帰

るが

、蛇

体の

三郎

を皆

が恐

れた

。観

音堂

に入

り一

心不

乱に

祈念

して

いる

と大

蛇の

形が

抜け

て元

に戻

った

。や

がて

三郎

は甲

賀の

長と

なり

家も

栄え

たが

、後

に信

濃の

国へ

行っ

てし

まっ

た。

人々

の夢

の中

にで

てき

た三

郎は

、諏

訪明

神の

化身

であ

った

と告

げた

とい

う。

(カ

ネイ

エ系

縁起

)」

D582

○諏

訪明

神の

由来

Page 87: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-87

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○於

自理

皮礼

 守

矢蔽

雲乎

巻上

而 

百舌

鳥義

智奈

可婆

 鎌

遠登

具倍

斯(諏

訪旧

跡志

・修

補諏

訪氏

系図

)「諏

訪地

方の

人々

の間

に古

くか

ら唱

え継

がれ

てき

た里

謡。

諏訪

湖か

ら天

竜川

が流

れ落

ちて

いく湖

尻の

方向

が晴

れ上

がり

、し

かも

天竜

川の

源流

地の

ひと

つに

数え

られ

る神

体山

の守

矢の

上へ

、竜

蛇の

よう

に雲

が巻

き昇

って

里の

方で

モズ

の鳥

がギ

チギ

チ鳴

いた

なら

ば、

利器

であ

る鎌

を研

いで

草刈

にい

って

も雨

は降

らな

い、

もう

大丈

夫、

とい

う意

味。

D583

○人

柱「昔

、南

信濃

の天

竜川

に長

い橋

が架

かっ

てい

た。

毎年

毎年

大水

で流

され

てし

まう

ので

、村

中の

人が

集ま

って

対策

を話

し合

って

いた

。ひ

とり

の男

が人

柱の

話を

した

とこ

ろ、

その

男は

初に

言い

出し

たと

いう

理由

で人

柱に

され

てし

まっ

た。

男の

息子

は悲

しが

り、

父は

矢作

の人

柱 

キジも

鳴か

ずば

撃た

れま

い、

と詠

んだ

紙を

父が

埋め

られ

てい

る柱

に貼

り付

けた

。村

の人

たち

のた

めに

はな

った

が、

父が

余計

なこ

とを

喋っ

たた

めに

こん

なめ

に遭

わね

ばな

らな

かっ

たと

悔や

んで

いる

息子

の姿

をみ

て村

人は

、橋

を渡

る際

に息

子の

歌を

思い

出し

、死

んだ

男の

おか

げで

安心

して

渡れ

るこ

とを

あり

がた

がっ

たと

いう

。」

○葛

島の

水神

碑「旧

堤の

天端

に建

立さ

れた

自然

石を

用い

た立

派な

水神

碑。

築堤

記念

か郷

名が

刻ま

れて

いる

。」

D700

○戸

隠山

「竜

が刻

まれ

、戸

隠山

と刻

られ

てい

る。

中川

村田

島天

の中

川橋

下流

右岸

、理

兵衛

の功

徳碑

「天

流功

業義

公明

」と

なら

んで

いる

。」

D702

○中

平の

水神

碑「今

でも

年々

ささ

やか

な祭

礼が

行わ

れ大

事に

され

てい

る水

神様

。」

D701

○福

島の

九頭

竜碑

「堤

防裏

肩に

設置

され

てい

る九

頭龍

神。

」D

703

Page 88: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-88

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○伊

那天

財天

宮「天

竜川

の船

の交

通の

盛ん

なり

し頃

の船

着場

、川

の流

れの

平穏

と舟

交通

の安

全を

祈願

して

祀ら

れた

もの

か。

」D

704

○高

遠弁

財天

「河中

の天

然石

の上

に祀

られ

てい

る弁

天様

。過

去の

幾多

の洪

水に

も流

され

たこ

とが

ない

とい

う。

岩は

自然

の量

水漂

の役

目も

して

きた

。」

D705

○天

龍川

改修

記念

碑「昭

和22年

6月

天竜

川が

直轄

編入

され

、初

に着

手さ

れた

とこ

ろに

建て

られ

た記

念碑

であ

る。

D708

○修

堤碑

D709

○松

尾弁

天厳

宮神

社「松

尾の

引き

堤と

とも

に現

在地

に稜

設さ

れた

。」

D706

○川

原弁

天「弁

天橋

下流

左岸

側の

河原

の自

然石

の上

に祀

られ

てい

る弁

天、

高遠

の弁

天と

同様

に出

水規

模の

目安

にさ

れて

きた

。」

D707

○復

興記

念碑

D710

○36. 

6洪

水復

興記

念碑

「新

宮川

の氾

濫に

より

新宮

川及

び中

沢の

堤防

は破

堤し

、こ

の修

復記

念で

ある

。」

D711

○下

河原

復興

之碑

D712

○元

大島

の記

念碑

D713

○山

吹下

平の

記念

碑D

714

○柿

開土

の記

念碑

D715

○阿

島の

復旧

記念

碑D

717

○伴

野堤

防記

念碑

「伴

野地

区は

古くよ

り治

水事

業の

盛ん

な所

で、

151K地

点に

数々

の記

念碑

が建

立さ

れて

いる

。」

D716

Page 89: の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因 被害の実態 被害地点 No. 災害の概要 まつわる教訓伝承 伝承 地点 No

3-89

西

暦和

暦誘

因被

害の

実態

被害

地点

No.

災害

の概

要ま

つわ

る教

訓伝

承伝

承地

点N

o.

エピ

ソー

ド・意

義社

会の

動き

○弁

天引

堤記

念碑

「飯

田松

川の

右岸

から

弁天

橋を

経て

清水

にか

ける

松尾

堤防

を記

念し

て建

立さ

れた

碑で

ある

。」

D718

○川

路村

から

の移

籍記

念碑

「「時

又」の

川路

村か

らの

移籍

記念

碑で

、裏

面に

川路

から

時又

に移

籍し

た人

々の

氏名

が記

され

てい

る。

D719

○三

六災

復旧

記念

碑D

720

○川

路郷

家屋

移転

記念

碑「36.6

災に

より

川路

地区

の低

平地

の家

屋は

壊滅

的な

打撃

を受

け、

災害

後こ

の地

区の

人々

は移

転し

た。

D721

○復

興記

念碑

「36災

害か

ら4年

後に

大鹿

村で

は災

害復

興記

念事

業と

して

、役

場の

庭に

「復

興記

念碑

」を

、大

西山

崩落

地籍

に「殉

難の

碑」を

建立

し、

復興

記念

式典

を行

った

。」

「昭

和36年

梅雨

前線

集中

豪雨

によ

り前

古未

曽有

の大

災害

を受

け55名

の尊

き人

命と

40数

億円

の被

害を

蒙り

之が

復旧

につ

いて

国県

の援

助と

村民

の一

致協

力に

より

復興

した

ので

時の

建設

大臣

中村

梅吉

氏の

揮毫

によ

り之

を建

つ、

昭和

40年

10月

建之

、大

鹿村

。」

D723

○殉

難の

碑「昭

和36年

梅雨

前線

集中

豪雨

災害

によ

り尊

き犠

牲と

なら

れた

霊を

祀る

。昭

和40年

10

月建

之 

大鹿

村。

○大

西公

園の

大西

観音

「大

西山

崩壊

地の

麓に

ある

大西

公園

には

、災

害で

犠牲

にな

った

人を

弔う

ため

の大

西観

音が

ある

。」

D724

○斜

面を

転が

って

きた

巨石

「36災

害の

時に

マサ

が洗

われ

て花

崗岩

の巨

石が

斜面

を転

がっ

てき

た。

」D

725

○三

六災

害高

水位

標「天

竜川

総合

学習

館 

かわ

らん

べの

前の

河原

にあ

る。

」D

722