那古野村之古図と -...

2
殿宿殿殿寺蓮養 西21 11 調浮世絵に描かれた有松絞店 山田芳写真資料 ―よみがえる 伊勢湾台風の光那古野村之古図 と奥村得義 夕暮れの白水町(山田芳写真資料より) 大同病院前より西向きに撮影。 大同工業高校(山田芳写真資料より) 手前の線路は名鉄常滑線。奥の煙突は大同製鋼星崎工場。 西西西」「 」「 殿調西11 16 12 28 那古野村之古図 那古野村之古図トレース 北を上にして表示 尾張の篆刻家 余延年 名古屋市博物館だより 228 号 令和元年(2019)10月 1日 年 2回(10月、4月)発行 編集・発行/名古屋市博物館 〒 467-0806 名古屋市瑞穂区瑞穂通 1-27-1 TEL 052-853-2655 FAX 052-853-3636 http://www.museum.city.nagoya.jp 古紙を含む再生紙使用

Upload: others

Post on 18-Jul-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 那古野村之古図と - 名古屋市博物館...まさに『金城温古録』の執筆中にこ筆を開始し、安政五年(1858)に第四巻までの校閲をす命を受け、天保十三年(1842)から『金城温古録』の執

万松寺

平山

氏神

天王様

御城跡柳御丸

那古野

因幡殿

屋敷跡

天永寺

今御深井丸之内ニ当ル

  当時巾下上宿

山守様

天神様

今石井恕庵辺、因幡殿ハ

名古屋三左衛門父

今キコク

浅間様

本社今杉之町

梶原屋敷也

   宮巾下

今鍋屋町表

今片端辺ヨリ桜町

天神ヲ左右ニして

山三殿

御屋敷

今志水小八郎

   屋敷庄屋

屋敷

今川氏豊城跡也

 今二之御丸

若 宮 様

安 養 寺 山 澄 屋 敷

 当 若 宮 也

今 中 小 路

山畑

今志水内蔵屋敷

名古屋三左衛門屋敷跡寺蓮養

誓願寺

願 西 寺

百姓家百姓家

百姓家

今袋町辺

今武平町ヨリ七本

松江出ル道

今成瀬豊前守

   屋敷 荒 神 様

今主税筋通

今 御 屋 形  柳 原 江

 引 ケ る

古街道たはた

志 ケ 村

小林村之内

 

山田さんは、被害が甚大だった南区柴田・白水地区を、水

が引いた直後の十月半ばに訪れ、まだほとんど手が付けられ

ていない被災地の惨状と、復旧に向けて動き出した人々の様

子を写している。写真はよく練られた構図で撮影されており、

当時を知らない私たちにも、心に残る印象的な光景を伝えて

くれる。

 

山田さんの遺した写真資料は膨大な枚数にのぼり、伊勢湾

台風以外にも、昭和三十年代の名古屋を中心に、カラー写真

を多数含む貴重な記録となっている。今後整理を進め、様々

な機会に活用を図りたい。

*9月21日(土)から開催の伊勢湾台風六〇年事業「特別展 

治水・

震災・伊勢湾台風」では、山田芳写真資料から選んだ五枚のカラー

写真をはじめ、二六件八〇点の伊勢湾台風写真を紹介しています。

ぜひご覧ください。11月4日(月・休)まで。

 

今から六十年前の昭和三十四年(1959)九月二十六日、

東海地方に伊勢湾台風が襲来した。五千名以上の命を奪った

この大災害は、災害対策基本法制定の契機となるなど、日本

の災害史上大きな画期をなしたことで知られている。

 

近年名古屋市博物館では、伊勢湾台風資料の収集・調査研

究を進めているが、その大半は写真資料が占めている。写真

による災害記録自体は、明治二十四年(1891)の濃尾震

災の頃から撮影されているが、当時はまだ都会に数軒あるか

ないかの写真館の主たちが、公的機関から委嘱を受けて撮影

したものだった。これに対し、昭和三十年代は一般市民の手

元にもカメラが普及し始めた時期で、多くの市民が私的に写

真を撮影したところに伊勢湾台風の特徴がある。

 

これらの写真は、ひとりひとりの市民が思い思いの視点か

ら撮影したところに特徴がある。外から被災地を訪れた者は、

その衝撃的な光景にシャッターを切り、水上に取り残された

住民は、被災生活の悲喜こもごもをレンズに収めた。公的機

関やマスコミが撮影した写真とは一味違う、撮影者の気持ち

が伝わってくるような実感あふれる写真が多いのである。

 

ここではそれらの中から、当時まだ珍しかったカラーフィ

ルムで被災地の様子を写した山やま

田だ

芳よし

さんの写真を紹介しよ

う。

 

山田さんは、映画看板の制作などを手掛ける画家で、写真

も全国的なカメラ雑誌に何回も入選するほどの腕前だった。

娘の遠足先にも出没して写真を撮っていたというから、よほ

ど写真と家族が好きだったらしい。台風当時は中村区在住で、

自宅が浸水被害にあっている。

浮世絵に描かれた有松絞店

山田芳写真資料―よみがえる 伊勢湾台風の光景

那古野村之古図と奥村得義    

夕暮れの白水町(山田芳写真資料より)大同病院前より西向きに撮影。

大同工業高校(山田芳写真資料より)手前の線路は名鉄常滑線。奥の煙突は大同製鋼星崎工場。

 

現在の名古屋城のあたり、名古屋台地の西北端に存在して

いた中世城館を、近世名古屋城と区別して「那古野城」と呼

んでいます。名古屋台地上には古くから人々のくらしが営ま

れ、中世には「那古野荘」が存在していました。室町時代に

なると今川氏の庶流・那古野氏の拠点となり、このころ城館

としてのすがたとなったと思われます。天文七年(1538)

に織田信長の父・信秀が那古野城を奪い、尾張東部への足が

かりとして信長に引き継いでいきます。

近世名古屋城築城にあたり、那古野城の一帯は大規模な

造成が行われ、その痕跡は失われました。江戸時代中期には

すでに城の位置も諸説入り乱れて分からなくなっていたよう

です。

館蔵のこの絵図は、裏の題簽に「鈴木秋豊家蔵 

那古野

村之古図 

奥邑徳義」とあり、更に朱字で「麁(粗)図也」

と記されます。絵図には東西に通じる道に「

古街道」

と記され、

これに西北へ抜ける道と東南へ抜ける道が記されます。右上

部の区画に「御城跡柳御丸」とあり、その脇に「

今川氏豊城

跡也 

今二之御丸」

の文字が点線で囲われます。その他「

松寺」

天王様」

那古野因幡殿屋敷跡」

といった寺社・屋敷

などのランドマークが記されます。点線囲いの文字には、後

世の位置比定といった校訂情報が記されているようです。

題簽に名のある奥おく

村むら

得かつ

義よし

(徳義・1793~1862)は、

近世名古屋城の百科事典『金きん

城じょう

温おん

古こ

録ろく

』の編者として知られ

る尾張藩士で、当絵図はその旧蔵資料として伝来したもので

す。付属紙面には嘉永三年(1850)六月に記した、彼自

身の識語が加えられています。それによると、この図は尾張

藩士鈴木秋豊の所蔵品を得儀自身が書写したもので、貼札の

剥がれが著しいため相談に得義のもとに持ち込まれたとのこ

と、同じく尾張藩士で世相記録『青窓紀聞』の編纂者でもあ

る水野正信も同内容の「精図」を所蔵していたことが分かり

ます。この「粗図」はすでに得義が所蔵している「小図」と

比較し格段に大きいため、書写することになったようです。

得義によれば、虫食い等もあって古びており、剥がれた貼札

は元の場所を推測し、点囲いで表現するなど、原図に忠実に

写したとあります。

さらに得義は考察として、この図は公的なものではなく

民間で作成されたものだとし、「かつて遷府以前に名古屋に

居住し、遷府の際に幅下へ移住した民の一人が、家蔵の古文

書や古図を約三十年前に売却してしまった」という話に触れ、

これがその図の写ではないかと推測しています。

 

得義は、文政四年(1821)に名古屋城調査に関する藩

命を受け、天保十三年(1842)から『金城温古録』の執

筆を開始し、安政五年(1858)に第四巻までの校閲をす

ませ、清書に入ります。まさに『金城温古録』の執筆中にこ

の図と出会ったことになります。

最終的に、当図は「此図ハ名古屋村庄屋より御普請奉行

エ書出候写之由」と標銘されて『金城温古録』の第二巻に収

録されましたが、掲載図には貼札部分の情報はありません。

おそらく得義は絵図作成時の情報ではないとして割愛したと

思われますが、この貼札部分の情報も、当時の研究のひとつ

の到達点と位置づけることもできます。

『金城温古録』にはこの図と共にもう一点、「慶長以前那

古野村之図 

寛永年当村庄屋より出ス」と標銘される絵図が

掲載されています。こちらは文化四年(1817)七月に月

迴舎の所蔵品を書写したと記されます。月廻舎については不

明ですが、この「

慶長以前那古野村之図」

の元になったと思

われる図も、館蔵の得儀旧蔵資料の中に遺されています(但

し東半分のみで西半分は散逸)。さらにこの「

慶長以前那古

野村之図」

は徳川林政史研究所所蔵の水野正信旧蔵資料の中

にも遺されていました。

那古野村之古図」

の識語と、伝来状況を合わせ見ると、

名古屋古図とされるものは粗図と精図の二種類あり、得儀が

所持していた「

那古野村之古図」

が、貼紙の朱書通り「

粗図

であるなら、水野正信が所持していた「

慶長以前那古野村

之図」

が「

精図」

ということになります。そして嘉永三年に

那古野村之古図」

が得儀の元へ持ち込まれたことをきっか

けに、精粗の両図が合わせられて検討が進んだことがわかり

ます。

ちなみに精粗両図の違いは、精図とされる「

慶長以前那

古野村之図」

の方が樹木や集落なども一部絵画的に表現され

ており、確かに情報量が多くみえます。ただし、おそらく原

図制作当初の文字情報自体はほぼ同一で、後世の位置比定・

考察部分にそれぞれの書写時期に応じて違いが見られる程度

です。そして「

粗図」

とされる「

那古野村之古図」

(本図)

については、表現は簡潔ですが貼札の情報が明確で書写時期

に符合しているため、この情報を元にある程度当時の位置関

係を復元することが可能です。

あくまで後世の書写による考察ではありますが、那古野

城のすがたを探る手がかりのひとつとして検討することも、

大切な作業かと思われます。

*本図は特別展「発掘された日本列島二〇一九」・地域展「尾張の

城と城下町

三英傑の城づくり・

町づくり」(11月16日~12月28

日)に出品します。

那古野村之古図と

奥村得義

岡村

弘子

那古野村之古図

那古野村之古図トレース 北を上にして表示

山田芳写真資料

 

―よみがえる伊勢湾台風の光景

鈴木

雅 

尾張の篆刻家

余延年

名古屋市博物館だより 228号

令和元年(2019)10月 1日

年 2回(10月、4月)発行

編集・発行/名古屋市博物館

〒 467-0806

名古屋市瑞穂区瑞穂通 1-27-1

TEL 052-853-2655

FAX 052-853-3636

http://www.museum.city.nagoya.jp

古紙を含む再生紙使用

(次ページへ↓)

(表紙から)

Page 2: 那古野村之古図と - 名古屋市博物館...まさに『金城温古録』の執筆中にこ筆を開始し、安政五年(1858)に第四巻までの校閲をす命を受け、天保十三年(1842)から『金城温古録』の執

●宣伝チラシとしての有松

 先ごろ有松地区が「日本遺

産」に認定されたが、その魅

力としてあげられたのが「浮

世絵さながらの」町並みで

あった。そこでこの機に(東

海道作品ではなく)、絞店の

宣伝という目的をもって描かれた浮世絵を紹介しておきたい。

 いずれも出版検閲印や版元印が無いことから、一般販売品

ではなく店が独自に発注した摺すり

物もの

、つまり宣伝チラシとみら

れる。似通った雰囲気を持つが、大きさや枠などの体裁が異

なるため、同一シリーズではなく、別々に注文されたものだ

ろう。

  挿 図 1は、 幕 末 を 代 表 す る 浮 世 絵 師歌うた

川がわ

広ひろ

重しげ

( 初 代、

1797~1858)が描いた錦にしき

絵え

(多色摺木版画)で恐らく賛も広重

によるもの。いわゆる大おお

倍ばい

版ばん

という大きめのサイズである。

落款の書体や人物の描き方により、弘化・嘉永年間(1844-

54)頃の制作と思われ、画中に「彫竹」(江戸の彫師、横川竹

二郎)とあることから、江戸で版木が制作されたことが分か

る。また、当館では所蔵していないが、広重には他に「尾州

有松絞店之図 河村弥平店先」がある。

 挿図 2、3、4 は、名古屋の小お

田だ

切ぎり

春しゅん

江こう

(1810~88)が描い

た錦絵で、やはり賛も全て自身で記す。挿図 2 は大判、挿

図 3、4 は大倍版。なお挿図 2 は画中に「彫工 豊原堂刀」と

あり、名古屋で制作されたことが分かる。

 いつごろ作られたものなのか。これが一筋縄ではいかない。

なぜなら挿図 2 には、駕籠や振り分け荷物の一行を、洋傘

を差した男や人力車に変貌させた異い

版はん

が存在するのだ。つま

り時代の変化に合わせて、版木の一部分を彫り直して修正し

ているというわけ。当然、他の図にも同様の可能性があるた

め、制作年代の同定には慎重を期さなければならない。また

挿図 3 では、代替わりしたためだろうか、のれんに染めら

れた「山形屋庄五郎」に朱色の訂正(不読)が入るほか、新たに

「浪花講」の看板がやはり朱で追加されている。しかし、こう

した異版が存在するおかげで、これらの商品寿命が思いのほ

か長かったことが分かる。

 現段階では、いずれも幕末、とりわけ挿図 4 については

文久・慶応年間(1861~68)とみておきたい。

挿図 2 小田切春江「有松絞 舛屋喜三郎店先」     24.0 × 35.2cm 館蔵(中村新三コレクション)

挿図 3 小田切春江「有松絞 山形屋庄五郎店先」    36.8 × 49.8cm 館蔵

挿図 5 小田切春江「有松絞店」 『尾張名所図会』前編巻之六 館蔵

挿図 4 小田切春江「有松絞 丸屋丈助店先」     36.7 × 48.9cm 館蔵

津田 卓子

浮世絵に描かれた有松絞店

余延年尾張の篆刻家

人にまかせ、篆刻や俳諧、作陶など趣味の世界に没頭したと

いう。余延年が制作した印章は評判を呼び、全国から注文が

あったと伝えられる。本稿では、子孫の家に伝来した資料に

もとづき、篆刻家・余延年の業績の一端を紹介したい。

印章と篆刻−篆刻家とは

 篆てん

刻こく

とは、石などの素材に篆てん

書しょ

(漢字の書体の一つ)を刻きざ

み、

印いん

章しょう

(ハンコ)を作ることである。印章の歴史は古く、中国で

は秦しん

の始し

皇こう

帝てい

の時代に形式や制度が整えられたという。古代

の印章は、金銀銅または玉ぎょく

といった硬い素材を用いて、専門

の職人が鋳ちゅう

造ぞう

または彫刻するものだったが、明代に入ると、

柔らかな石材を用いて私的な楽しみとして印章を制作する

人々が現れる。彼らは字体のデザインや構成、刻み方に工夫

を凝らし、朱で捺なつ

印いん

された印影の美を競いあった。文人趣味

のひとつとして明代に流行した篆刻は、江戸時代になって日

本に伝えられる。しばらくは明代の様式の摸倣が続くが、江

戸中期に活躍した高こう

芙ふ

蓉よう

(1722~84)は、中国で出版された印いん

譜ぷ

(印影を集めた書籍)をもとに、秦漢など古い時代の様式の

復興につとめ、素朴で力強い独自の作風を確立する。強い

影響力を誇り、日本の篆刻の主流を形作った高芙蓉は、後

に「印いん

聖せい

」と呼ばれた。芙蓉のもとからは多くの門人が育って

いったが、今回の主人公・余延年もその一人である。

伝来資料から窺う余延年の業績

 余延年は、延享3年(1746)、尾張の地に生まれた。年少よ

り諸芸に親しんだが、なかでも篆刻に入れ込み、京都に遊学

して高芙蓉に師事する。芙蓉の余光にも助けられて、余延年

のもとには全国から注文が寄せられた。書画の署名に用いる

私的な落らっ

款かん

印いん

や遊ゆう

印いん

のみならず、諸侯の公印まで制作したと

伝えられている。

 さて以上のような経歴が伝えられる余延年であるが、誰の

ために、どのような印章を作ったのか、残念なことに現在で

はよく分かっていない。自らが使用した数十点の印章が伝来

しており、その作風を知ることはできるが、多くの人が争い

求めたという輝かしい業績の全貌はつかめない。そこで手が

かりとなるのが、子孫の家に伝わった捺印済みの紙片の山で

ある。注文品の手控えとして残された思われるこれらの紙片

には、印影に印文と自作であることを示す署名が添えられて

おり、余延年の人気と旺盛な仕事ぶりを証明するものといえ

よう。

尾張藩校明倫堂の印章

 数多くの紙片の中から、今回は「明めい

倫りん

堂どう

」関連のものを取り

上げたい。明倫堂は天明3年(1783)に開校した尾張藩の藩校

で、藩士の子弟が勉学に励んだ。紙片に捺お

された「明めい

倫りん

堂どう

図と

書しょ

」印は(挿図1)、この明倫堂の蔵書印として制作されたもの

と思われる。端書には「銅どう

印いん

亀き

鈕ちゅう

」と記され、素材と鈕つまみ

の種類

が分かり、「余延年謹篆鋳」と署名も加えられる。藩校の蔵書

印という準公的な仕事を受注していることが想定できよう。

 さてこの「明倫堂図書」印であるが、幸いなことに印章その

ものが現存しており、名古屋市蓬左文庫に所蔵されている

(挿図2)。亀鈕の素朴な造形が愛らしい銅印であり、紙片の

情報通りであることが判明する。この印章は明倫堂の旧蔵書

に捺印されており(挿図3)、実際に使用されたことが確認で

きる。「篆刻」とは異なり、鋳い

型がた

を用いて鋳造する銅印である

が、飾り気のない素朴な印影と併せて、古風な様式を愛した

挿図 1 印紙「明倫堂図書」印 館蔵(知多郡大高村山口家資料)

挿図 2 亀鈕銅印「明倫堂図書」 名古屋市蓬左文庫蔵

という余延年の作風を知る一例となり得るだろう。なお、紙

片の中には同じく「余延年謹篆鋳」と署名が付いた「尾張国校

蔵版」という大きな印章も記録されている(挿図4)。こちらは

明倫堂にて復刻出版された明倫堂版と呼ばれる書籍に蔵版印

として使われたものである(挿図5)。以上の二例から、尾張

を代表する篆刻家として活躍する様子が具体的に分かるので

ある。

 伝来する紙片には、試作品や納品に至らなかった失敗作の

印影も含まれると思われ、紙片のみから業績を窺うことは早

計であろう。明倫堂関連の印章のように、印章の現物や使用

状況とあわせて考える必要がある。膨大な山の中には、彦根

藩のような譜代の雄藩の為に制作したと思われる印影も含ま

れており、偉大な業績を明らかにすべく今後も検討を進めて

いきたい。

* 11 月 27 日(水)~ 12 月 22 日(日)にかけて、常設展テーマ

10 のコーナーにおいて「没後 200 年 余延年」を開催します。今回

取り上げた印章はもちろん、俳諧や陶芸など諸芸に通じた文人・

余延年の姿を紹介します。

挿図 4印紙「尾張国校蔵版」印 館蔵(知多郡大高村山口家資料)

挿図 5『群書治要』(部分) 館蔵(天明七年序明倫堂版)

挿図 3『大日本史』(部分)名古屋市蓬左文庫蔵

(明倫堂旧蔵江戸中期写本)

※向かって右下が「明倫堂図書」印。加えて左上には「尾府内庫図書」印、左下には「蓬左文庫」印が捺されている。

●広重と春江

 はたして江戸の絵師である広重が、実際に竹谷佐兵衛の店

を見て描いたのだろうか。

 天保8年(1837) 、広重は宮宿から矢矧橋を渡って、つま

り東海道ルートをたどって江戸に戻る旅をしている。ならば

有松も通っていると考えるのが順当だろう。しかし、だから

といって写生に基づいた浮世絵だと断定するのはためらわれ

る。いくら広重とて、一軒ずつ足をとめて、つぶさに観察し

たわけではあるまい。

 ではどうやって描いたのか。実は広重には、地方発注の錦

絵が他にもある。それらの制作状況をみると、どうやら現地

の絵師から送られてきた草そう

稿こう

を元にして描いているようだ。

恐らく、ここにあげた絞店のチラシも同様だったのではない

か。この場合、草稿を手掛けたのは、『尾張名所図会』で竹田

庄九郎家を描いた経歴を持つ春江その人だった可能性が高い。

そう考えれば広重作と春江作で、店舗をやや上から俯ふ

瞰かん

しな

がら雲をたなびかせる構図が似通うのも納得がいく。

 商品の主たる顧客が、東海道を往還する旅人たちであった

ことを思えば、すでに大ヒットシリーズ「東海道五拾三次之挿図 1 歌川広重「有松絞 竹谷佐兵衛店先」    35.0 × 46.0cm 館蔵

内」で、名所絵の第一人者として全国に名前をとどろかせて

いた広重にチラシを描いてもらうことで、宣伝効果はいや増

したに違いない。

 他方で春江に依頼が入ったのは、発注側(絞店)がコストパ

フォーマンスを考えたのだろうが、なによりも『尾張名所図

会』挿絵に代表されるように名古屋の名所絵師として、彼の

実績がかわれていたためだといえよう。

 近年、これらの作品が少しずつ当館へ集まってきた。そ

こで常設展テーマ 10「浮世絵にみる有松絞店」(令和2年

(2020)2 月 26 日から 3 月 22 日)と、2 月 29 日(土)開催の第

8 回はくぶつかん講座「有松絞と浮世絵」でお披露目すること

とした。どうぞ、お楽しみに。

 余よ

延えん

年ねん

(山やま

口ぐち

九く

郎ろう

左ざ

衛え

門もん

1746~1819)は、江戸時代後

期に活躍した篆てん

刻こく

家か

である。

百く だ ら

済の余よ

璋しょう

王おう

の末裔を自称し

て「余」の姓を名乗った。知ち

多た

郡ぐん

大おお

高だか

村むら

(現緑区大高町)で酒

造を営んでいたが、本業は家横尾 拓真