学長対談file.6 ×女優 宮崎美子 学長 チャンスは誰にでもある。 そ … ·...

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武夫原 file 06 熊本大学黒髪キャンパスで学生時代を過ごした、女優の宮崎美子さん。同窓である原田学 長と共に、熊本大学での学生生活を振り返っていただき、「大学で学ぶこと」について意見 を交わしていただきました。 熊本大学長 原田 信志 女優 宮崎 美子 × 2 1 学長対談 file.6 × 女優 宮崎美子 チャンスは誰にでもある。 それをつかめるかどうか。 だから、学生時代は重要です! KUMADAITV10010 16016 宿宿1980

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武夫原

学長

対談file 06

熊本大学黒髪キャンパスで学生時代を過ごした、女優の宮崎美子さん。同窓である原田学長と共に、熊本大学での学生生活を振り返っていただき、「大学で学ぶこと」について意見を交わしていただきました。

熊本大学長

原田 信志女優

宮崎 美子氏×

2 1

学長対談 fi le .6 × 女優 宮崎美子

チャンスは誰にでもある。それをつかめるかどうか。だから、学生時代は重要です!

 

ら、きちんとした写真で間違いない

だろうと。それが、就職のきっかけにな

らないかな、なんて下心もあって。

 

それでも、大学まで地元で過ごすと、

外に出ようとは思っていませんでした。

 

地元の放送局を受ける前に、何かの

きっかけになれば、という感覚だったん

です。それが思いがけず、在学中に仕事

を始めることになり、そこから東京と熊

本を行ったり来たりになりました。大

学も留年することになって卒業に5年

かかりました。入ったからにはちゃんと

卒業しなくちゃ、と思ってなんとか卒業

して。そこからですね、外から大学や熊

本を見るようになったのは。

外に出ると、視点が変わる

宮崎 

今では愛情を込めた意味で、「熊

本はとにかく堂々とした田舎だ」と、そ

う発言しているんです。いい田舎という

のは、包容力もあって、潜在的な力も

いっぱい秘めた、どーんとした田舎、とい

う意味もあれば、先ほど学長がおっ

しゃったような、保守的というか、岩盤

のように揺るがない何かがありますよ

ね。良くも悪くも、そういうところがあ

るのが熊本、という感じで次第に見えて

くるようになり、その変わらなさがも

どかしいと感じることもあります。

原田 

熊本は、地方都市にしては意外

と活気があるまちです。同じように、熊

大も、外から見るとそう評価されます。

医学部には発生医学やエイズ学、工学

部にはKUMADAIマグネシウム、

文学部には永青文庫がありますね。そ

んな特長を持っているということは、地

ここが故郷、大切なところ

最近は地元TV番組で、熊本のあち

こちに行ってらっしゃいますね。

宮崎 

熊本出身と言っても、行ったこと

がないところのほうが多くて。楽しく

やっています。学長のご出身は熊本市内

ですか?

原田 

熊本市内です。高校も宮崎さんと

同窓。その後は熊大の医学部に入り、大

学院を出た後アメリカへ。帰国後は山

口、京都にも行きました。

宮崎 

外からご覧になると、熊本が見え

てきますよね。

原田 

僕は出て良かったと思っていま

す。特に外国に行くことを学生にも勧め

たい。

外から熊本を見ると、宮崎さんには

どのように見えますか?

宮崎 

震災があって改めて、私はやっぱ

りここがふるさとなんだ、大切なところ

なんだと再認識しました。逆に、外から

見ていて、もどかしい部分もあります。観

光にしても、良いものがいっぱいあるの

で、もっとアピールできれば。

 

また、私の身近では熊大出身者と出会

わなかったので、もっといろんな分野に出

てくればいいのに、と。熊本の人は、引っ

込み思案なのでしょうか。

地元での就職を考えていた

学生時代

原田 

なぜ法学部を選んだのですか?

宮崎 

これはもう、就職のことを考えて

(笑)。当時は、地方で女性で、というと、

就職はほとんどなかった。男女雇用機 

 

会均等法もなくて、求人票も「女子も

可」と書いてある会社が少しだけ。そう

するとやっぱり、地方公務員の試験を

受けるのかな、それに有利なのは法文

学部の法学科かな、と。当時は法文学部

という学部だったんですよ。一方で、声を

出して本を読むことが好きだったので、

地元の放送局を受けてみようかな、とい

う気持ちもありました。それくらい、ふ

わっとした感じでした。

原田 

僕は、小さい頃から医者になり

たいという気持ちがありましたが、医学

部は難しくて自分は行けないとあきら

めていました。高校では目指すものがで

きたので、一生懸命勉強しました。それ

でも一回失敗しました。今、多浪生や女

子学生を医学部に入れないということ

が問題になっていますが、当時も女子学

生は少なかったですね。100人のうち

10人くらい。

 

宮崎 

法学部や文学部は女子が多い

ですよね。当時、法学科は160人中、女

子が16人でした。女子のほうがまじめに教

科書の勉強をし、頑張る子も多かった。

宮崎さんは、どんな学生でしたか?

宮崎 

あんまり大きな声で言えない

(笑)。中学と高校で部活をやったことが

なかったので、大学でうっかり体育会に

入っちゃったんですよ。やったことないか

ら、一度はやってみようと思って。新体操

をやりました。大学生活は、部活にかけ

る時間が多かったですね。

原田 

僕は中、高、大学と軟式テニスで

す。大学に入ったら、憧れのヨット同好会

にと思っていたのですが、先輩につかまり

そのままテニスをすることに(笑)。医学

部の5年生で結婚するまで部活の毎日で

した。早朝練習に、講義や実習の後も日

が暮れるまでずっと練習。土日もなし。夏

休みは、子飼のお寺で合宿でした。

宮崎 

学長は文武両道ですね。私も工学

部の古い寮で合宿したことがあります。

怖いんですよ。夜中に奇声を上げて走る

男子学生がいたりして(笑)。

宮崎さんは、大学の後半は東京と熊

本を行ったり来たりだったとか?

宮崎 

4年の時からです。3年から4年

にあがる時にたまたまそういう機会が

あって。週刊誌の表紙だったんですが。

原田 

覚えていますよ。週刊朝日。

一世を風靡しましたよね。

原田 

コマーシャルも。1980年くら

いでしょう。

宮崎 

はい。女子大生を表紙に、という企

画で、熊大の名前も出ることになって。 

 

朝日の写真だし篠山紀信さんだか 

方の中規模の大学としては力がある大

学であると評価を受けています。

宮崎 

うれしいですね。学生さんは地

元の進学と県外からと、割合はどれく

らいですか?

原田 

熊本からが全体の約3割です。

福岡からが約2割。あとは近隣からで

すね。

宮崎 

外国人をどう受け入れるかが日

本全体の課題ですね。熊大では留学生

の受け入れを今までもされていたと思

いますが、今後変化がありますか?

原田 

国際的に開かれた大学にしない

といけません。一つの手段として留学生

の受け入れ。そして、日本人学生を留学

させる。非常に大きな命題です。

 

今、正規の留学生はほとんどが大学

院生。学部にはわずかしかいません。学

部留学生は、夏休み期間中とか、あるい

は1年間だけ日本語を勉強するような

短期留学が多い。大学院生の場合は、英

語で実験指導や講義、入試、インター

ネット面接、研究等、国際化が進んでい

ます。今後は学部の留学生を増やす。学

部の学生をできるだけ外国に出して、

世界の事情を肌で感じさせる。これら

は重要です。

宮崎 

学長は留学をされていますが、

当時の感覚だと留学というのは本当に

特別な限られた人しかできなくて。で

も今もそれは変わらないんだな、という

感じがしています。一時期は、日本人が

海外にどんどん出て行った、経済的にそ

れができた、という時代もありましたけ

れども。今は、大学進学も大変な状況の

人も少なくないですよね。出ていきた 

 

い気持ちは皆あると思うんですよ。

行ければ行きたい。でも文系の子は特

に、帰ってきてからの就職とか、単位の

互換性がないから卒業が遅れるとか、

それも怖いことなんでしょうね。

原田 

今の若い人は意外と、僕たちの

時よりも、将来を計算しているかもしれ

ません。僕らの時代は、先はどうでもい

い、みたいなところがありました。

今だ!というタイミングは、

必ずやってくる

 ―

宮崎さんが、地方公務員か地元放

送局か、と考えていたにも関わらず、熊

本を出ると決心した理由は何だったの

でしょうか?

宮崎 

当時、ポーラテレビ小説という

ドラマ枠がありました。NHKのテレビ

小説の裏番組で、新人を主役にした半

年間のドラマです。それをやってみない

か、というオファーがあったんです。お芝

居とは違いますが、声を出して本を読

むのが好きだったし、今しかや

るチャン

スがない、だったらやってみようと思っ

たんです。就職も遅れるし、この先どう

なるんだろうという不安はありまし 

 

た。そのドラマに参加したからといっ

て、その先がつながる保証はなかったし。

怖かったんですけれども、一番大きかった

のは、今しかそれをやるチャンスがない

ということでした。それがここまで、40年 

 

近く続くことになるとは思いません

でした。

 

今は、やってよかったと思っています。

留学とは違うと思いますが、「今だ」とい

うタイミングって絶対あると思うんで

す。それを逃してはいけないというか、

学生さんにも逃さないで、と言いたいで

すね。怖いんですけどね。

原田 

チャンスをうまくつかむのもそ

の人の能力の一つなんです。僕がよく学

生に言うのは、自分はこの先生について

いこう、という師をまず見つけなさい

と。それは、熊大の先生でなくてもいい。

師と言える人との出会いが人生を大き

く変える。僕自身がそうでした。私の 

 

先生は、文化勲章をもらうような、非

常にすばらしい先生でした。熊大におら

れた頃は、傍若無人な印象でしたが

(笑)。僕も、そのチャンスを逃さなかっ

た。それまで臨床をやっていましたが、

その先生について、臨床をやめたんです。

学生から、なぜ外科医をやめて研究の

道に進んだんですか?と聞かれます。理

由はあくまでも、興味。あとは先生で

す。そこに自分の将来をかけた。そんな

チャンスは誰にでもある。それをつかめ

るかどうかです。早いほうがいい。だか

ら、学生時代は重要です。

宮崎 

先生はおいくつの時だったん 

 

ですか?

原田 

医学部で、微生物を習ったのは3

年生の時。その時、初めて東北大学から

来られた先生に出会いました。その研 

 

う悲しさはあるんですけど(笑)。ど

こかでやり残したことは、一生のうちに

やるようになっているのかもと最近考

えているんですよね。

ものを知る」

とは、

どういうことか

とても博学でクイズの女王と呼ばれ

ている宮崎さんですから、ずっと学んで

いらっしゃるんでしょうね。

宮崎 

いえいえ、もう全然(笑)。クイズ

番組は娯楽ですから、これは何でしょう

と聞かれて答える。それでいいんです。た

だ、「よく知っていますね」と言われて、

それは果たして、知っているということ

になるんだろうかという疑問を持ってい

ます。ものを知るとはどういうことか、

ということをちゃんと考えるようになっ

たことが、クイズをやるようになって良

かったことですね。今は簡単に何でも調

べられるので知っている気になる。私も

そうです。でも、それを実際に自分は見

てないし、感じてない。それについて語る

ことができるかと言われると、何も知ら

ない。ただ、表面的な、字面だけを知って

いるだけじゃないかと思います。

原田 

自分で調べるのは重要。大学院

時代、教授から言われたのは「論文なん

て読むな」でした。実験をやって、自分が

出したデータをもとに考え、それを人

に伝えなさいと言われていました。その

当時、特に医学界では、アメリカに留学

し、アメリカの最先端の知識を披露す

れば、それにわーっと人が群がっていま

した。教授はそれを大変嫌いました。本

当の知識とは、そういうことではない。

 

究室に決まっていなければ、僕の人生

は今とは違っていたと思います。

宮崎 

私が放送局に入りたいと考えた

のは、本を声に出して読むのが好きだっ

た以外に、人から聞いたことじゃなく

て、取材に行って自分の目で見聞きする

仕事をしたいという思いがあったから

なんです。考えてみると、今もそういう

ことを好きでやっているなと。本を読む

という点では、女優の仕事もそうです

し、それ以外にも、興味のあるところに

出かけて、取材もやっているし。やりたい

と思っていたことを、誰もが人生の中の

どこかでやるようになっているんじゃな

いかと感じています。そして、好きなこ

とをできるということはとても幸せな

ことだなと思っています。

原田 

学生時代からそうですか?

宮崎 

そうでした。国際政治学と政治

学の先生がとても素敵だな、面白いな、

と思っていたんです。興味がそこから湧

いたこと、出会いが貴重だったことを、

学長のお話を聞きながら思い出しまし

た。

 

それでいて、ちゃんと勉強しておくべ

き基礎的なことをやっていないとい 

新しいことを体験して自分で考えたこ

とが新しい知識であると。間違えていて

も、そうでなければ身に付かないと。宮

崎さんがおっしゃったように、自分で見

聞きすることが大切。医学だけでなく、

他の分野も全てそうだと思います。

 

また、そういう姿勢が、今の学生に求

められています。問題意識。PBL。

Problem

Based L

earning

といって、問

題を自分で見つけ、それに対してどうい

う解決をするか。そうじゃないと教育に

ならない。しかし、教員も学生もなかな

か理解していませんね。

宮崎 

先生方にとっては手間のかかる

ことではないでしょうか。

原田 

医学部では、私が教えていた時

には、熱がある患者さんが来た、どう考

えますか、ということをやるんです。問

題意識を持って原因は何なのか、どう診

断をするかを考えさせます。 

 

それをやると、初年度はいいんです

が、2年目からはみんな先輩の答えを

書くんです(笑)。ここをきちんと認識し

てやる学生とやらない学生では、それか

ら先が違ってきます。

宮崎 

この先、社会で生きていくための

取り組み方の姿勢を学ぶのが大学かな

と思うんです。大学で安直にやっていれ

ば、先々の仕事も安直に接してしまうよ

うな気がして…

原田 

知識を教えるのではなくて、知

識をどう活かしていくかを教えるのが

大学だと思いますね。

宮崎 

講義の内容が面白いし、熱をもっ

て話されるから、つい学生としては、「そ

うなんだ」と前のめりになっていく。そし

て自分で調べると、ああ、こういうこと

かとわかる。私の尊敬する先生は、そ 

 

んなきっかけをつくってくださいまし

た。若い人に、伝える、教えるという使命

感を持っていらっしゃった。そういうこと

を、学生は感じますよね。それは大き

かったと思います。

原田 

やっぱり、よくやる学生とやらな

い学生がいて、どういう風に引っ張ってい

くかは先生方にとって難しい問題です。

宮崎 

この10年くらい、大学が全然違う

ものになってきましたね。びっくりして

います。

原田 

昔みたいに、自由な気風というも

のが薄れてきていますね。大学ではア 

 

ルバイトに精を出して社会勉強をす

る人もいていい。あるいは、自分の目標に

向かってコツコツ勉強する人がいても 

 

いい。今の問題は、レールを敷いて、そ

こに学生みんなを無理やりおこうとす

ること。そのために、均一な学生しか 

 

育っていない気がします。そうする

と、大学そのものが高校のようになって

しまって。でも、大学を自由な雰囲気に

する余裕が社会に無いですね。

 大学もまちも、若い人の

ゆりかごであってほしい

熊本大学にどういう大学になって 

 ほしいですか。あるいは、どんな学生

さんが育ってほしいですか?

宮崎 

突出した人、いろんな方向に活躍

する人が出てきてもいいのではないかと

思いますね。私が働いている業界にも、

もっと後輩が来てくれたらいいかな。

 

でも、熊大は、特に文系は昔から堅実

ですよね。地元で就職を目指すような。

それはそれでありですが、そうじゃない

方向もあっていいのかな。

宮崎さんご自身が熊本から飛び立っ

たことを、それでよかったと思うとおっ

しゃっていましたが。

宮崎 

好きなことを仕事につなげるこ

とができた。自分で気づいていなかった

好きなことに出合えた。大学時代は、

迷ったり、先生と出会ったり、ゼミの仲

間と話したりする中から、チャンスをつ

かむ気持ちを育むことができました。

 

牧歌的な学生時代でした。毎朝6km

を、自転車で通っていました。当時は、立

田山のふもとに農林省の保全林があり、

探検!なんて言って散歩したり。木イチ

ゴを摘んで食べたり。大学生のときにし

か味わえなかった、のんびりした時間を

日常的に過ごせました。他愛もないこと

をどうしようか、あれはこうか、と考え

る、その時間が持てたことがよかったな

と思います。

 

それに、古くからの学生街ですから、

まち全体が熊大生を見守ってくれてい

る雰囲気がありました。それは、今もあ

ると思います。そこで自由な時間が過ご

せるのは、今考えてもぜいたくだった 

 

と思います。若い人のゆりかごみたい

なまち。自分のことも将来のことも不安

な学生時代を見守ってくれているよう

なまち。そして大学のキャンパス。それは

きっと今も変わらないんじゃないで

しょうか。不安な時間を、学生一人ひと

りがもがきながら過ごす場所。もしか

したらそこに大きなチャンスが巡って

くるかもしれない場所、そういう場所で

ずっとあってほしいですね。

原田 

僕は本荘キャンパスで学びまし

たが、黒髪キャンパスにはよく遊びに来

ていました。やっぱり五高記念館がすば

らしい。勉強するのにいい環境。アメリカ

やヨーロッパの大学には昔の建物がよく

残っています。新しく立て直して大学の

雰囲気をなくしてしまう場合もある。

でも、熊大は五高記念館をぜひ残さな

いといけないと考えています。そして、

周りにもっと木を植えたいと考えてい

ます。

宮崎 

キャンパスは保守的でいいんで

すよね。守るべきものは守っていきたい

ですよね。

原田 

宮崎さんがおっしゃったような

雰囲気は残すべきだと思っています。た

だ、宮崎さんの学生時代のように、今の

学生にそういう余裕があるかどうかは

別問題。その余裕を持つような大学生

がいる、そういう時代がまた来ると思

うんです。その時のために、熊大の雰囲

気を残す。五高記念館をシンボルとし

て、学生の勉強のよりどころとして、保

存する必要があると考えています。

学長対談 fi le .6 × 女優 宮崎美子

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ら、きちんとした写真で間違いない

だろうと。それが、就職のきっかけにな

らないかな、なんて下心もあって。

 

それでも、大学まで地元で過ごすと、

外に出ようとは思っていませんでした。

 

地元の放送局を受ける前に、何かの

きっかけになれば、という感覚だったん

です。それが思いがけず、在学中に仕事

を始めることになり、そこから東京と熊

本を行ったり来たりになりました。大

学も留年することになって卒業に5年

かかりました。入ったからにはちゃんと

卒業しなくちゃ、と思ってなんとか卒業

して。そこからですね、外から大学や熊

本を見るようになったのは。

外に出ると、視点が変わる

宮崎 

今では愛情を込めた意味で、「熊

本はとにかく堂々とした田舎だ」と、そ

う発言しているんです。いい田舎という

のは、包容力もあって、潜在的な力も

いっぱい秘めた、どーんとした田舎、とい

う意味もあれば、先ほど学長がおっ

しゃったような、保守的というか、岩盤

のように揺るがない何かがありますよ

ね。良くも悪くも、そういうところがあ

るのが熊本、という感じで次第に見えて

くるようになり、その変わらなさがも

どかしいと感じることもあります。

原田 

熊本は、地方都市にしては意外

と活気があるまちです。同じように、熊

大も、外から見るとそう評価されます。

医学部には発生医学やエイズ学、工学

部にはKUMADAIマグネシウム、

文学部には永青文庫がありますね。そ

んな特長を持っているということは、地

ここが故郷、大切なところ

最近は地元TV番組で、熊本のあち

こちに行ってらっしゃいますね。

宮崎 

熊本出身と言っても、行ったこと

がないところのほうが多くて。楽しく

やっています。学長のご出身は熊本市内

ですか?

原田 

熊本市内です。高校も宮崎さんと

同窓。その後は熊大の医学部に入り、大

学院を出た後アメリカへ。帰国後は山

口、京都にも行きました。

宮崎 

外からご覧になると、熊本が見え

てきますよね。

原田 

僕は出て良かったと思っていま

す。特に外国に行くことを学生にも勧め

たい。

外から熊本を見ると、宮崎さんには

どのように見えますか?

宮崎 

震災があって改めて、私はやっぱ

りここがふるさとなんだ、大切なところ

なんだと再認識しました。逆に、外から

見ていて、もどかしい部分もあります。観

光にしても、良いものがいっぱいあるの

で、もっとアピールできれば。

 

また、私の身近では熊大出身者と出会

わなかったので、もっといろんな分野に出

てくればいいのに、と。熊本の人は、引っ

込み思案なのでしょうか。

地元での就職を考えていた

学生時代

原田 

なぜ法学部を選んだのですか?

宮崎 

これはもう、就職のことを考えて

(笑)。当時は、地方で女性で、というと、

就職はほとんどなかった。男女雇用機 

 

会均等法もなくて、求人票も「女子も

可」と書いてある会社が少しだけ。そう

するとやっぱり、地方公務員の試験を

受けるのかな、それに有利なのは法文

学部の法学科かな、と。当時は法文学部

という学部だったんですよ。一方で、声を

出して本を読むことが好きだったので、

地元の放送局を受けてみようかな、とい

う気持ちもありました。それくらい、ふ

わっとした感じでした。

原田 

僕は、小さい頃から医者になり

たいという気持ちがありましたが、医学

部は難しくて自分は行けないとあきら

めていました。高校では目指すものがで

きたので、一生懸命勉強しました。それ

でも一回失敗しました。今、多浪生や女

子学生を医学部に入れないということ

が問題になっていますが、当時も女子学

生は少なかったですね。100人のうち

10人くらい。

 

宮崎 

法学部や文学部は女子が多い

ですよね。当時、法学科は160人中、女

子が16人でした。女子のほうがまじめに教

科書の勉強をし、頑張る子も多かった。

宮崎さんは、どんな学生でしたか?

宮崎 

あんまり大きな声で言えない

(笑)。中学と高校で部活をやったことが

なかったので、大学でうっかり体育会に

入っちゃったんですよ。やったことないか

ら、一度はやってみようと思って。新体操

をやりました。大学生活は、部活にかけ

る時間が多かったですね。

原田 

僕は中、高、大学と軟式テニスで

す。大学に入ったら、憧れのヨット同好会

にと思っていたのですが、先輩につかまり

そのままテニスをすることに(笑)。医学

部の5年生で結婚するまで部活の毎日で

した。早朝練習に、講義や実習の後も日

が暮れるまでずっと練習。土日もなし。夏

休みは、子飼のお寺で合宿でした。

宮崎 

学長は文武両道ですね。私も工学

部の古い寮で合宿したことがあります。

怖いんですよ。夜中に奇声を上げて走る

男子学生がいたりして(笑)。

宮崎さんは、大学の後半は東京と熊

本を行ったり来たりだったとか?

宮崎 

4年の時からです。3年から4年

にあがる時にたまたまそういう機会が

あって。週刊誌の表紙だったんですが。

原田 

覚えていますよ。週刊朝日。

一世を風靡しましたよね。

原田 

コマーシャルも。1980年くら

いでしょう。

宮崎 

はい。女子大生を表紙に、という企

画で、熊大の名前も出ることになって。 

 

朝日の写真だし篠山紀信さんだか 

方の中規模の大学としては力がある大

学であると評価を受けています。

宮崎 

うれしいですね。学生さんは地

元の進学と県外からと、割合はどれく

らいですか?

原田 

熊本からが全体の約3割です。

福岡からが約2割。あとは近隣からで

すね。

宮崎 

外国人をどう受け入れるかが日

本全体の課題ですね。熊大では留学生

の受け入れを今までもされていたと思

いますが、今後変化がありますか?

原田 

国際的に開かれた大学にしない

といけません。一つの手段として留学生

の受け入れ。そして、日本人学生を留学

させる。非常に大きな命題です。

 

今、正規の留学生はほとんどが大学

院生。学部にはわずかしかいません。学

部留学生は、夏休み期間中とか、あるい

は1年間だけ日本語を勉強するような

短期留学が多い。大学院生の場合は、英

語で実験指導や講義、入試、インター

ネット面接、研究等、国際化が進んでい

ます。今後は学部の留学生を増やす。学

部の学生をできるだけ外国に出して、

世界の事情を肌で感じさせる。これら

は重要です。

宮崎 

学長は留学をされていますが、

当時の感覚だと留学というのは本当に

特別な限られた人しかできなくて。で

も今もそれは変わらないんだな、という

感じがしています。一時期は、日本人が

海外にどんどん出て行った、経済的にそ

れができた、という時代もありましたけ

れども。今は、大学進学も大変な状況の

人も少なくないですよね。出ていきた 

 

い気持ちは皆あると思うんですよ。

行ければ行きたい。でも文系の子は特

に、帰ってきてからの就職とか、単位の

互換性がないから卒業が遅れるとか、

それも怖いことなんでしょうね。

原田 

今の若い人は意外と、僕たちの

時よりも、将来を計算しているかもしれ

ません。僕らの時代は、先はどうでもい

い、みたいなところがありました。

今だ!というタイミングは、

必ずやってくる

 ―

宮崎さんが、地方公務員か地元放

送局か、と考えていたにも関わらず、熊

本を出ると決心した理由は何だったの

でしょうか?

宮崎 

当時、ポーラテレビ小説という

ドラマ枠がありました。NHKのテレビ

小説の裏番組で、新人を主役にした半

年間のドラマです。それをやってみない

か、というオファーがあったんです。お芝

居とは違いますが、声を出して本を読

むのが好きだったし、今しかや

るチャン

スがない、だったらやってみようと思っ

たんです。就職も遅れるし、この先どう

なるんだろうという不安はありまし 

 

た。そのドラマに参加したからといっ

て、その先がつながる保証はなかったし。

怖かったんですけれども、一番大きかった

のは、今しかそれをやるチャンスがない

ということでした。それがここまで、40年 

 

近く続くことになるとは思いません

でした。

 

今は、やってよかったと思っています。

留学とは違うと思いますが、「今だ」とい

うタイミングって絶対あると思うんで

す。それを逃してはいけないというか、

学生さんにも逃さないで、と言いたいで

すね。怖いんですけどね。

原田 

チャンスをうまくつかむのもそ

の人の能力の一つなんです。僕がよく学

生に言うのは、自分はこの先生について

いこう、という師をまず見つけなさい

と。それは、熊大の先生でなくてもいい。

師と言える人との出会いが人生を大き

く変える。僕自身がそうでした。私の 

 

先生は、文化勲章をもらうような、非

常にすばらしい先生でした。熊大におら

れた頃は、傍若無人な印象でしたが

(笑)。僕も、そのチャンスを逃さなかっ

た。それまで臨床をやっていましたが、

その先生について、臨床をやめたんです。

学生から、なぜ外科医をやめて研究の

道に進んだんですか?と聞かれます。理

由はあくまでも、興味。あとは先生で

す。そこに自分の将来をかけた。そんな

チャンスは誰にでもある。それをつかめ

るかどうかです。早いほうがいい。だか

ら、学生時代は重要です。

宮崎 

先生はおいくつの時だったん 

 

ですか?

原田 

医学部で、微生物を習ったのは3

年生の時。その時、初めて東北大学から

来られた先生に出会いました。その研 

 

う悲しさはあるんですけど(笑)。ど

こかでやり残したことは、一生のうちに

やるようになっているのかもと最近考

えているんですよね。

ものを知る」とは、

どういうことか

とても博学でクイズの女王と呼ばれ

ている宮崎さんですから、ずっと学んで

いらっしゃるんでしょうね。

宮崎 

いえいえ、もう全然(笑)。クイズ

番組は娯楽ですから、これは何でしょう

と聞かれて答える。それでいいんです。た

だ、「よく知っていますね」と言われて、

それは果たして、知っているということ

になるんだろうかという疑問を持ってい

ます。ものを知るとはどういうことか、

ということをちゃんと考えるようになっ

たことが、クイズをやるようになって良

かったことですね。今は簡単に何でも調

べられるので知っている気になる。私も

そうです。でも、それを実際に自分は見

てないし、感じてない。それについて語る

ことができるかと言われると、何も知ら

ない。ただ、表面的な、字面だけを知って

いるだけじゃないかと思います。

原田 

自分で調べるのは重要。大学院

時代、教授から言われたのは「論文なん

て読むな」でした。実験をやって、自分が

出したデータをもとに考え、それを人

に伝えなさいと言われていました。その

当時、特に医学界では、アメリカに留学

し、アメリカの最先端の知識を披露す

れば、それにわーっと人が群がっていま

した。教授はそれを大変嫌いました。本

当の知識とは、そういうことではない。

 

究室に決まっていなければ、僕の人生

は今とは違っていたと思います。

宮崎 

私が放送局に入りたいと考えた

のは、本を声に出して読むのが好きだっ

た以外に、人から聞いたことじゃなく

て、取材に行って自分の目で見聞きする

仕事をしたいという思いがあったから

なんです。考えてみると、今もそういう

ことを好きでやっているなと。本を読む

という点では、女優の仕事もそうです

し、それ以外にも、興味のあるところに

出かけて、取材もやっているし。やりたい

と思っていたことを、誰もが人生の中の

どこかでやるようになっているんじゃな

いかと感じています。そして、好きなこ

とをできるということはとても幸せな

ことだなと思っています。

原田 

学生時代からそうですか?

宮崎 

そうでした。国際政治学と政治

学の先生がとても素敵だな、面白いな、

と思っていたんです。興味がそこから湧

いたこと、出会いが貴重だったことを、

学長のお話を聞きながら思い出しまし

た。

 

それでいて、ちゃんと勉強しておくべ

き基礎的なことをやっていないとい 

新しいことを体験して自分で考えたこ

とが新しい知識であると。間違えていて

も、そうでなければ身に付かないと。宮

崎さんがおっしゃったように、自分で見

聞きすることが大切。医学だけでなく、

他の分野も全てそうだと思います。

 

また、そういう姿勢が、今の学生に求

められています。問題意識。PBL。

Problem

Based L

earning

といって、問

題を自分で見つけ、それに対してどうい

う解決をするか。そうじゃないと教育に

ならない。しかし、教員も学生もなかな

か理解していませんね。

宮崎 

先生方にとっては手間のかかる

ことではないでしょうか。

原田 

医学部では、私が教えていた時

には、熱がある患者さんが来た、どう考

えますか、ということをやるんです。問

題意識を持って原因は何なのか、どう診

断をするかを考えさせます。 

 

それをやると、初年度はいいんです

が、2年目からはみんな先輩の答えを

書くんです(笑)。ここをきちんと認識し

てやる学生とやらない学生では、それか

ら先が違ってきます。

宮崎 

この先、社会で生きていくための

取り組み方の姿勢を学ぶのが大学かな

と思うんです。大学で安直にやっていれ

ば、先々の仕事も安直に接してしまうよ

うな気がして…

原田 

知識を教えるのではなくて、知

識をどう活かしていくかを教えるのが

大学だと思いますね。

宮崎 

講義の内容が面白いし、熱をもっ

て話されるから、つい学生としては、「そ

うなんだ」と前のめりになっていく。そし

て自分で調べると、ああ、こういうこと

かとわかる。私の尊敬する先生は、そ 

 

んなきっかけをつくってくださいまし

た。若い人に、伝える、教えるという使命

感を持っていらっしゃった。そういうこと

を、学生は感じますよね。それは大き

かったと思います。

原田 

やっぱり、よくやる学生とやらな

い学生がいて、どういう風に引っ張ってい

くかは先生方にとって難しい問題です。

宮崎 

この10年くらい、大学が全然違う

ものになってきましたね。びっくりして

います。

原田 

昔みたいに、自由な気風というも

のが薄れてきていますね。大学ではア 

 

ルバイトに精を出して社会勉強をす

る人もいていい。あるいは、自分の目標に

向かってコツコツ勉強する人がいても 

 

いい。今の問題は、レールを敷いて、そ

こに学生みんなを無理やりおこうとす

ること。そのために、均一な学生しか 

 

育っていない気がします。そうする

と、大学そのものが高校のようになって

しまって。でも、大学を自由な雰囲気に

する余裕が社会に無いですね。

 大学もまちも、若い人の

ゆりかごであってほしい

熊本大学にどういう大学になって 

 ほしいですか。あるいは、どんな学生

さんが育ってほしいですか?

宮崎 

突出した人、いろんな方向に活躍

する人が出てきてもいいのではないかと

思いますね。私が働いている業界にも、

もっと後輩が来てくれたらいいかな。

 

でも、熊大は、特に文系は昔から堅実

ですよね。地元で就職を目指すような。

それはそれでありですが、そうじゃない

方向もあっていいのかな。

宮崎さんご自身が熊本から飛び立っ

たことを、それでよかったと思うとおっ

しゃっていましたが。

宮崎 

好きなことを仕事につなげるこ

とができた。自分で気づいていなかった

好きなことに出合えた。大学時代は、

迷ったり、先生と出会ったり、ゼミの仲

間と話したりする中から、チャンスをつ

かむ気持ちを育むことができました。

 

牧歌的な学生時代でした。毎朝6km

を、自転車で通っていました。当時は、立

田山のふもとに農林省の保全林があり、

探検!なんて言って散歩したり。木イチ

ゴを摘んで食べたり。大学生のときにし

か味わえなかった、のんびりした時間を

日常的に過ごせました。他愛もないこと

をどうしようか、あれはこうか、と考え

る、その時間が持てたことがよかったな

と思います。

 

それに、古くからの学生街ですから、

まち全体が熊大生を見守ってくれてい

る雰囲気がありました。それは、今もあ

ると思います。そこで自由な時間が過ご

せるのは、今考えてもぜいたくだった 

 

と思います。若い人のゆりかごみたい

なまち。自分のことも将来のことも不安

な学生時代を見守ってくれているよう

なまち。そして大学のキャンパス。それは

きっと今も変わらないんじゃないで

しょうか。不安な時間を、学生一人ひと

りがもがきながら過ごす場所。もしか

したらそこに大きなチャンスが巡って

くるかもしれない場所、そういう場所で

ずっとあってほしいですね。

原田 

僕は本荘キャンパスで学びまし

たが、黒髪キャンパスにはよく遊びに来

ていました。やっぱり五高記念館がすば

らしい。勉強するのにいい環境。アメリカ

やヨーロッパの大学には昔の建物がよく

残っています。新しく立て直して大学の

雰囲気をなくしてしまう場合もある。

でも、熊大は五高記念館をぜひ残さな

いといけないと考えています。そして、

周りにもっと木を植えたいと考えてい

ます。

宮崎 

キャンパスは保守的でいいんで

すよね。守るべきものは守っていきたい

ですよね。

原田 

宮崎さんがおっしゃったような

雰囲気は残すべきだと思っています。た

だ、宮崎さんの学生時代のように、今の

学生にそういう余裕があるかどうかは

別問題。その余裕を持つような大学生

がいる、そういう時代がまた来ると思

うんです。その時のために、熊大の雰囲

気を残す。五高記念館をシンボルとし

て、学生の勉強のよりどころとして、保

存する必要があると考えています。

大学では、社会で生きていくための

「取り組み方の姿勢」

を学んでほしい。

「知識をどう活かしていくのか」を

教えるのが、大学。

復旧工事中の五高記念館について説明を聞く宮崎さんと原田学長

Miy

azak

i Yos

hiko

女優

アクセサリー協力:イマック TEL.03-3409-8271

宮崎美子

熊本大学長 原田信志熊本市出身。熊本大学医学部卒、熊本大学大学院医学研究科(博士課程)

修了。マサチューセッツ大学医学部病理学教室医学研究員、ネブラス

カ大学医学部病理学教室アシスタントプロフェッサー、京都大学助教

授などを経て1989年熊本大学医学部教授に着任。エイズ学研究セン

ター長、大学院医学薬学研究部長、同生命科学研究部長、理事・副学

長などを歴任。2015年4月学長に就任。専門は感染防御学。

1980年 週刊朝日「篠山紀信があなたを撮ります キャンパスの春」にてデビュー。 これを機にミノルタカメラTVCFに出演し、その後俳優、タレントとして活動。現在、熊本市わくわく親善大使、2019年ラグビーワールドカップ開催都市サポー ター、女子ハンドボール世界選手権大会サポーター、高知県四万十大使、レソト王国親善大使としても活動。NHK「いだてん」、「日本人のおなまえっ!」、RKK熊本放送「週刊山崎くん」、 テレビ朝日「Qさま !!」「ミラクル9」、テレビ東京「池上彰の現代史を歩く」 などに出演中。熊本県出身。1982年熊本大学法文学部卒業。 

Shin

ji Har

ada

学長対談 fi le .6 × 女優 宮崎美子

6 5

 

ら、きちんとした写真で間違いない

だろうと。それが、就職のきっかけにな

らないかな、なんて下心もあって。

 

それでも、大学まで地元で過ごすと、

外に出ようとは思っていませんでした。

 

地元の放送局を受ける前に、何かの

きっかけになれば、という感覚だったん

です。それが思いがけず、在学中に仕事

を始めることになり、そこから東京と熊

本を行ったり来たりになりました。大

学も留年することになって卒業に5年

かかりました。入ったからにはちゃんと

卒業しなくちゃ、と思ってなんとか卒業

して。そこからですね、外から大学や熊

本を見るようになったのは。

外に出ると、視点が変わる

宮崎 

今では愛情を込めた意味で、「熊

本はとにかく堂々とした田舎だ」と、そ

う発言しているんです。いい田舎という

のは、包容力もあって、潜在的な力も

いっぱい秘めた、どーんとした田舎、とい

う意味もあれば、先ほど学長がおっ

しゃったような、保守的というか、岩盤

のように揺るがない何かがありますよ

ね。良くも悪くも、そういうところがあ

るのが熊本、という感じで次第に見えて

くるようになり、その変わらなさがも

どかしいと感じることもあります。

原田 

熊本は、地方都市にしては意外

と活気があるまちです。同じように、熊

大も、外から見るとそう評価されます。

医学部には発生医学やエイズ学、工学

部にはKUMADAIマグネシウム、

文学部には永青文庫がありますね。そ

んな特長を持っているということは、地

ここが故郷、大切なところ

最近は地元TV番組で、熊本のあち

こちに行ってらっしゃいますね。

宮崎 

熊本出身と言っても、行ったこと

がないところのほうが多くて。楽しく

やっています。学長のご出身は熊本市内

ですか?

原田 

熊本市内です。高校も宮崎さんと

同窓。その後は熊大の医学部に入り、大

学院を出た後アメリカへ。帰国後は山

口、京都にも行きました。

宮崎 

外からご覧になると、熊本が見え

てきますよね。

原田 

僕は出て良かったと思っていま

す。特に外国に行くことを学生にも勧め

たい。

外から熊本を見ると、宮崎さんには

どのように見えますか?

宮崎 

震災があって改めて、私はやっぱ

りここがふるさとなんだ、大切なところ

なんだと再認識しました。逆に、外から

見ていて、もどかしい部分もあります。観

光にしても、良いものがいっぱいあるの

で、もっとアピールできれば。

 

また、私の身近では熊大出身者と出会

わなかったので、もっといろんな分野に出

てくればいいのに、と。熊本の人は、引っ

込み思案なのでしょうか。

地元での就職を考えていた

学生時代

原田 

なぜ法学部を選んだのですか?

宮崎 

これはもう、就職のことを考えて

(笑)。当時は、地方で女性で、というと、

就職はほとんどなかった。男女雇用機 

 

会均等法もなくて、求人票も「女子も

可」と書いてある会社が少しだけ。そう

するとやっぱり、地方公務員の試験を

受けるのかな、それに有利なのは法文

学部の法学科かな、と。当時は法文学部

という学部だったんですよ。一方で、声を

出して本を読むことが好きだったので、

地元の放送局を受けてみようかな、とい

う気持ちもありました。それくらい、ふ

わっとした感じでした。

原田 

僕は、小さい頃から医者になり

たいという気持ちがありましたが、医学

部は難しくて自分は行けないとあきら

めていました。高校では目指すものがで

きたので、一生懸命勉強しました。それ

でも一回失敗しました。今、多浪生や女

子学生を医学部に入れないということ

が問題になっていますが、当時も女子学

生は少なかったですね。100人のうち

10人くらい。

 

宮崎 

法学部や文学部は女子が多い

ですよね。当時、法学科は160人中、女

子が16人でした。女子のほうがまじめに教

科書の勉強をし、頑張る子も多かった。

宮崎さんは、どんな学生でしたか?

宮崎 

あんまり大きな声で言えない

(笑)。中学と高校で部活をやったことが

なかったので、大学でうっかり体育会に

入っちゃったんですよ。やったことないか

ら、一度はやってみようと思って。新体操

をやりました。大学生活は、部活にかけ

る時間が多かったですね。

原田 

僕は中、高、大学と軟式テニスで

す。大学に入ったら、憧れのヨット同好会

にと思っていたのですが、先輩につかまり

そのままテニスをすることに(笑)。医学

部の5年生で結婚するまで部活の毎日で

した。早朝練習に、講義や実習の後も日

が暮れるまでずっと練習。土日もなし。夏

休みは、子飼のお寺で合宿でした。

宮崎 

学長は文武両道ですね。私も工学

部の古い寮で合宿したことがあります。

怖いんですよ。夜中に奇声を上げて走る

男子学生がいたりして(笑)。

宮崎さんは、大学の後半は東京と熊

本を行ったり来たりだったとか?

宮崎 

4年の時からです。3年から4年

にあがる時にたまたまそういう機会が

あって。週刊誌の表紙だったんですが。

原田 

覚えていますよ。週刊朝日。

一世を風靡しましたよね。

原田 

コマーシャルも。1980年くら

いでしょう。

宮崎 

はい。女子大生を表紙に、という企

画で、熊大の名前も出ることになって。 

 

朝日の写真だし篠山紀信さんだか 

方の中規模の大学としては力がある大

学であると評価を受けています。

宮崎 

うれしいですね。学生さんは地

元の進学と県外からと、割合はどれく

らいですか?

原田 

熊本からが全体の約3割です。

福岡からが約2割。あとは近隣からで

すね。

宮崎 

外国人をどう受け入れるかが日

本全体の課題ですね。熊大では留学生

の受け入れを今までもされていたと思

いますが、今後変化がありますか?

原田 

国際的に開かれた大学にしない

といけません。一つの手段として留学生

の受け入れ。そして、日本人学生を留学

させる。非常に大きな命題です。

 

今、正規の留学生はほとんどが大学

院生。学部にはわずかしかいません。学

部留学生は、夏休み期間中とか、あるい

は1年間だけ日本語を勉強するような

短期留学が多い。大学院生の場合は、英

語で実験指導や講義、入試、インター

ネット面接、研究等、国際化が進んでい

ます。今後は学部の留学生を増やす。学

部の学生をできるだけ外国に出して、

世界の事情を肌で感じさせる。これら

は重要です。

宮崎 

学長は留学をされていますが、

当時の感覚だと留学というのは本当に

特別な限られた人しかできなくて。で

も今もそれは変わらないんだな、という

感じがしています。一時期は、日本人が

海外にどんどん出て行った、経済的にそ

れができた、という時代もありましたけ

れども。今は、大学進学も大変な状況の

人も少なくないですよね。出ていきた 

 

い気持ちは皆あると思うんですよ。

行ければ行きたい。でも文系の子は特

に、帰ってきてからの就職とか、単位の

互換性がないから卒業が遅れるとか、

それも怖いことなんでしょうね。

原田 

今の若い人は意外と、僕たちの

時よりも、将来を計算しているかもしれ

ません。僕らの時代は、先はどうでもい

い、みたいなところがありました。

今だ!というタイミングは、

必ずやってくる

 ―

宮崎さんが、地方公務員か地元放

送局か、と考えていたにも関わらず、熊

本を出ると決心した理由は何だったの

でしょうか?

宮崎 

当時、ポーラテレビ小説という

ドラマ枠がありました。NHKのテレビ

小説の裏番組で、新人を主役にした半

年間のドラマです。それをやってみない

か、というオファーがあったんです。お芝

居とは違いますが、声を出して本を読

むのが好きだったし、今しかや

るチャン

スがない、だったらやってみようと思っ

たんです。就職も遅れるし、この先どう

なるんだろうという不安はありまし 

 

た。そのドラマに参加したからといっ

て、その先がつながる保証はなかったし。

怖かったんですけれども、一番大きかった

のは、今しかそれをやるチャンスがない

ということでした。それがここまで、40年 

 

近く続くことになるとは思いません

でした。

 

今は、やってよかったと思っています。

留学とは違うと思いますが、「今だ」とい

うタイミングって絶対あると思うんで

す。それを逃してはいけないというか、

学生さんにも逃さないで、と言いたいで

すね。怖いんですけどね。

原田 

チャンスをうまくつかむのもそ

の人の能力の一つなんです。僕がよく学

生に言うのは、自分はこの先生について

いこう、という師をまず見つけなさい

と。それは、熊大の先生でなくてもいい。

師と言える人との出会いが人生を大き

く変える。僕自身がそうでした。私の 

 

先生は、文化勲章をもらうような、非

常にすばらしい先生でした。熊大におら

れた頃は、傍若無人な印象でしたが

(笑)。僕も、そのチャンスを逃さなかっ

た。それまで臨床をやっていましたが、

その先生について、臨床をやめたんです。

学生から、なぜ外科医をやめて研究の

道に進んだんですか?と聞かれます。理

由はあくまでも、興味。あとは先生で

す。そこに自分の将来をかけた。そんな

チャンスは誰にでもある。それをつかめ

るかどうかです。早いほうがいい。だか

ら、学生時代は重要です。

宮崎 

先生はおいくつの時だったん 

 

ですか?

原田 

医学部で、微生物を習ったのは3

年生の時。その時、初めて東北大学から

来られた先生に出会いました。その研 

 

う悲しさはあるんですけど(笑)。ど

こかでやり残したことは、一生のうちに

やるようになっているのかもと最近考

えているんですよね。

ものを知る」

とは、

どういうことか

とても博学でクイズの女王と呼ばれ

ている宮崎さんですから、ずっと学んで

いらっしゃるんでしょうね。

宮崎 

いえいえ、もう全然(笑)。クイズ

番組は娯楽ですから、これは何でしょう

と聞かれて答える。それでいいんです。た

だ、「よく知っていますね」と言われて、

それは果たして、知っているということ

になるんだろうかという疑問を持ってい

ます。ものを知るとはどういうことか、

ということをちゃんと考えるようになっ

たことが、クイズをやるようになって良

かったことですね。今は簡単に何でも調

べられるので知っている気になる。私も

そうです。でも、それを実際に自分は見

てないし、感じてない。それについて語る

ことができるかと言われると、何も知ら

ない。ただ、表面的な、字面だけを知って

いるだけじゃないかと思います。

原田 

自分で調べるのは重要。大学院

時代、教授から言われたのは「論文なん

て読むな」でした。実験をやって、自分が

出したデータをもとに考え、それを人

に伝えなさいと言われていました。その

当時、特に医学界では、アメリカに留学

し、アメリカの最先端の知識を披露す

れば、それにわーっと人が群がっていま

した。教授はそれを大変嫌いました。本

当の知識とは、そういうことではない。

 

究室に決まっていなければ、僕の人生

は今とは違っていたと思います。

宮崎 

私が放送局に入りたいと考えた

のは、本を声に出して読むのが好きだっ

た以外に、人から聞いたことじゃなく

て、取材に行って自分の目で見聞きする

仕事をしたいという思いがあったから

なんです。考えてみると、今もそういう

ことを好きでやっているなと。本を読む

という点では、女優の仕事もそうです

し、それ以外にも、興味のあるところに

出かけて、取材もやっているし。やりたい

と思っていたことを、誰もが人生の中の

どこかでやるようになっているんじゃな

いかと感じています。そして、好きなこ

とをできるということはとても幸せな

ことだなと思っています。

原田 

学生時代からそうですか?

宮崎 

そうでした。国際政治学と政治

学の先生がとても素敵だな、面白いな、

と思っていたんです。興味がそこから湧

いたこと、出会いが貴重だったことを、

学長のお話を聞きながら思い出しまし

た。

 

それでいて、ちゃんと勉強しておくべ

き基礎的なことをやっていないとい 

新しいことを体験して自分で考えたこ

とが新しい知識であると。間違えていて

も、そうでなければ身に付かないと。宮

崎さんがおっしゃったように、自分で見

聞きすることが大切。医学だけでなく、

他の分野も全てそうだと思います。

 

また、そういう姿勢が、今の学生に求

められています。問題意識。PBL。

Problem

Based L

earning

といって、問

題を自分で見つけ、それに対してどうい

う解決をするか。そうじゃないと教育に

ならない。しかし、教員も学生もなかな

か理解していませんね。

宮崎 

先生方にとっては手間のかかる

ことではないでしょうか。

原田 

医学部では、私が教えていた時

には、熱がある患者さんが来た、どう考

えますか、ということをやるんです。問

題意識を持って原因は何なのか、どう診

断をするかを考えさせます。 

 

それをやると、初年度はいいんです

が、2年目からはみんな先輩の答えを

書くんです(笑)。ここをきちんと認識し

てやる学生とやらない学生では、それか

ら先が違ってきます。

宮崎 

この先、社会で生きていくための

取り組み方の姿勢を学ぶのが大学かな

と思うんです。大学で安直にやっていれ

ば、先々の仕事も安直に接してしまうよ

うな気がして…

原田 

知識を教えるのではなくて、知

識をどう活かしていくかを教えるのが

大学だと思いますね。

宮崎 

講義の内容が面白いし、熱をもっ

て話されるから、つい学生としては、「そ

うなんだ」と前のめりになっていく。そし

て自分で調べると、ああ、こういうこと

かとわかる。私の尊敬する先生は、そ 

 

んなきっかけをつくってくださいまし

た。若い人に、伝える、教えるという使命

感を持っていらっしゃった。そういうこと

を、学生は感じますよね。それは大き

かったと思います。

原田 

やっぱり、よくやる学生とやらな

い学生がいて、どういう風に引っ張ってい

くかは先生方にとって難しい問題です。

宮崎 

この10年くらい、大学が全然違う

ものになってきましたね。びっくりして

います。

原田 

昔みたいに、自由な気風というも

のが薄れてきていますね。大学ではア 

 

ルバイトに精を出して社会勉強をす

る人もいていい。あるいは、自分の目標に

向かってコツコツ勉強する人がいても 

 

いい。今の問題は、レールを敷いて、そ

こに学生みんなを無理やりおこうとす

ること。そのために、均一な学生しか 

 

育っていない気がします。そうする

と、大学そのものが高校のようになって

しまって。でも、大学を自由な雰囲気に

する余裕が社会に無いですね。

 大学もまちも、若い人の

ゆりかごであってほしい

熊本大学にどういう大学になって 

 ほしいですか。あるいは、どんな学生

さんが育ってほしいですか?

宮崎 

突出した人、いろんな方向に活躍

する人が出てきてもいいのではないかと

思いますね。私が働いている業界にも、

もっと後輩が来てくれたらいいかな。

 

でも、熊大は、特に文系は昔から堅実

ですよね。地元で就職を目指すような。

それはそれでありですが、そうじゃない

方向もあっていいのかな。

宮崎さんご自身が熊本から飛び立っ

たことを、それでよかったと思うとおっ

しゃっていましたが。

宮崎 

好きなことを仕事につなげるこ

とができた。自分で気づいていなかった

好きなことに出合えた。大学時代は、

迷ったり、先生と出会ったり、ゼミの仲

間と話したりする中から、チャンスをつ

かむ気持ちを育むことができました。

 

牧歌的な学生時代でした。毎朝6km

を、自転車で通っていました。当時は、立

田山のふもとに農林省の保全林があり、

探検!なんて言って散歩したり。木イチ

ゴを摘んで食べたり。大学生のときにし

か味わえなかった、のんびりした時間を

日常的に過ごせました。他愛もないこと

をどうしようか、あれはこうか、と考え

る、その時間が持てたことがよかったな

と思います。

 

それに、古くからの学生街ですから、

まち全体が熊大生を見守ってくれてい

る雰囲気がありました。それは、今もあ

ると思います。そこで自由な時間が過ご

せるのは、今考えてもぜいたくだった 

 

と思います。若い人のゆりかごみたい

なまち。自分のことも将来のことも不安

な学生時代を見守ってくれているよう

なまち。そして大学のキャンパス。それは

きっと今も変わらないんじゃないで

しょうか。不安な時間を、学生一人ひと

りがもがきながら過ごす場所。もしか

したらそこに大きなチャンスが巡って

くるかもしれない場所、そういう場所で

ずっとあってほしいですね。

原田 

僕は本荘キャンパスで学びまし

たが、黒髪キャンパスにはよく遊びに来

ていました。やっぱり五高記念館がすば

らしい。勉強するのにいい環境。アメリカ

やヨーロッパの大学には昔の建物がよく

残っています。新しく立て直して大学の

雰囲気をなくしてしまう場合もある。

でも、熊大は五高記念館をぜひ残さな

いといけないと考えています。そして、

周りにもっと木を植えたいと考えてい

ます。

宮崎 

キャンパスは保守的でいいんで

すよね。守るべきものは守っていきたい

ですよね。

原田 

宮崎さんがおっしゃったような

雰囲気は残すべきだと思っています。た

だ、宮崎さんの学生時代のように、今の

学生にそういう余裕があるかどうかは

別問題。その余裕を持つような大学生

がいる、そういう時代がまた来ると思

うんです。その時のために、熊大の雰囲

気を残す。五高記念館をシンボルとし

て、学生の勉強のよりどころとして、保

存する必要があると考えています。

復旧工事中の五高記念館の中を特別に見学していただきました。