都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- -...

55
都市を繰る中 -ラ イソ 同盟 を中心に- 十二二一 一 世紀の政情概新 ライン同 の成立 ライン同盟の 本質 ライン同盟の 解鱒 オッ・ L - 大帝の戴冠. ( 九六二)以来へ兎に角も西欧中世政治に不動の中核的地位を 神聖羅馬帝国の「 皇帝時代」は、 かのホ I へンシュクウフェン 家不世出の 英主フリードリッヒ1 世 F ' ' h ルバロ ッサを 光輝ある頂鮎となし'同じ-フリードワッ1 7 1 一 世の注目すべき専制政治を最後の 除映 都市を鏡る中降末期の弼逸政情 ( 相田) 三〇

Upload: others

Post on 16-Oct-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

都市を繰る中世末期の猫逸政情

-

ライ

同盟

を中心

に-

結 四 三 二 一 序

十二

二一一世紀

の政情概新

ライ

ン同風

の成立

ライン同盟

の本質

ライ

ン同盟

の解鱒

オッ

L-大帝の戴冠(九六二)以来へ兎に角も西欧中世政治に不動の中核的地位を誇示し乗った猫逸民族による

神聖羅馬帝国の

「皇帝時代」はかのホIへンシュクウフェン家不世出の英主フリードリッヒ

1世Fhルバロッサを

光輝ある頂鮎となし同じ-フリードワッ171一世の注目すべき専制政治を最後の除映としてr十三世紀の進行と共

都市を鏡

る中降末期の弼逸政情

(相

田)

三〇七

東京商科大挙祈究年報

商学折究

第六枚

〇八

にあわたZし-も

一撃にその凋落期に突入する1二五六年より

)二七三年に至るあの不詳な

「大益位時代」(D

as

lnterregnum)はその最もあからさ皇なる表出であり爾釆粁徐曲折頻繁たる諸王家更迭の定まらぬ政情を経

てルクセンブルガ-家の

一人カール四世の出現

三四七)までr喝逸はまたも

一世紀近い過渡期の混乱を鰻験

せざるを得なかったoしかしカール四世の澗逸はもはや昔日の猫逸ではなかったこれを国内に徹してみても

既に

1三五六年の名高い

「金印憲章」(GoldeneButte)によって熔印づけられたが如-七選帝侯を中心とする濁

逸的領邦分立主義の高らかな勝利が公認されて居り封外関係また賓質的に準じて猫逸帝国のヘゲモニーをその

根枕から動橋せしめつ~あったことは特にブ-ヴィーヌ鞍の史的意義を強調するまでもな-例へば

ヘンリー二

世以降の英蘭と大陸との関係フィリップ二世わけてもフィリップEI世美玉治下の悌蘭西と教皇との関係戎ひ

はnムーネの特異な政治的長頭を

示す伊太利政局等々二三の

1殻的動向に照して既に明かなるところであらう

か-考へ乗るとき書々は十三世紀といふ時代がもつ史的意義の重大性をいまさらの如-感得せざるを得ない

何となればこの世紀こそ封外的に観て喝逸の指導的地位を喪失せしめ「帝権と教権」てふ二大中心をもつ中世的

鰻制を-つがへしてその反面に近代的な諸国民国家の国際的新醍制を決定的ならしめた時代であり封内的に観

ていはゆる

「領邦」(Territorium)形成の分立をいはば宿命的な民族的課題として負はしめた時代であったから

prime

であるか-て英

偽等のそれに比Lt猫逸がその国家統

7に大きな立ちお-れを示したL)とは史上萩ひ難き顧

然たる事茸であるがその根本原因が果して都連に春するかの詮議についてはいま軽々に吾々の開設すべき限り

で昧ない

たZしかしさうした方向への最も明瞭な兆候が殆んど封照的にあらはれはじめたのがあたかもこ

の十三世紀であったことにr特殊の注意を喚起して置かなければならない

然るに他方またこの世紀は多少時代の遅速はあれ吾々の中世都市が殆んど全欧の各地を通じてその偉大

な興隆期に入った世紀なのであった膏に南方伊太利のみならず北悌

二フィン流域等に先駆的にあらはれた諸都

市と市民の勃興はこの世紀に入って俄然政治的にも否定すべからざる勢力となり全欧に都市中心の新しき文化

母胎を

形成したそれらの中とりわけ猫逸の諸都市があのやrJhてそのま~都市共和国となることによって近代

国家化されゆ-伊太利都市と封照的にそしてまた集樺的国民国家に吸収されゆ-英

悌都市との封比に於て

いはゆる

「中世都市」の類型的頚展様相を呈したことは漸次吾々の叙述を

迫って明かにされるであらう喝逸都

市の建設はもっぱらこの世紀に集中された都市系譜のあらましをたどってみてもつ十三世紀成立の都市数は

)

概算して現存都市中のほゞ二分の

一乃至四分の三といふ絶封的多数を占めてゐるもってこの世紀がもつ紅合経済

史的激愛の

一端を窺ふべきである

領邦形成といふ政治

法制史上の猫逸の特殊性は都市零展といふ社食

輝済史上の喝逸の特殊雌と合流するこ

とによってr十三世紀にみる猫逸史

L股の特殊性を展開した中世より近世への喝逸見の縛換把握は都市と領邦

の開聯を正し-評慣することな-しては不可能である

そしてそれは軍に経済史上の諸事象に限られた主張ではな

いそこには中世市民の政治的な在り方ともいふべきものが極めて根強-からみ合ってゐることを看過してはな

らないや1もすれば中世都市の市民階級をばそのひとし-

「市民階級」なる名辞の故に近世的な意味での第

三階級と混同せる言説の行はれる時吾々としては中世市民と近世市民それ故によた中世都市と近世都市との

都市を繰

る中世末期の狗逸政情

(増

)

三〇九

東京商科大学研究年群

衝撃研究

静六班

三]〇

割然たる

7鷹のみさかひなつけ置-べきではなからうか別言すれば濁逸中世市民の政治的意欲が如何なる過

程を経て統合せられその赴-ところ何故つひに領邦諸侯との封立を招釆せざるを得ず従ってまた何故そのまま

近世的市民意鼓にまで肇展し得なかったのあらうかが問題なのであるそしてもしこの連の事情にして或程度まで

(こ)

解明可能とならばその時こそかの

「都市経済」の二重性格描出と共に吾々暗唱逸中世史上に占めた市民階級の

垂貌をあらためて統

1的に理解する鍵を求め得るのではなからうか否それどころか猫逸国家の統

T的専展に

演じた都市と領邦との史的役割の本質が新しい叡鮎から再吟味され得るのではなからLfか吾々の考察はまさ

し-かうした目標に向つて進められるわけである

大略薮上の如き問題設定を企てた以上吾々は中世都市による政治的意欲のなるべ-綜合的なる表現を具鰻的

個別的にあとづけなければならないそのためにはまづ

「喝逸ハンザ」の政治活動が代表的にとりあゆらるべきで

あるが周知の如-ハンザはその成立過程に永き前史をふ-む

1種偉大な文政史的事象であPr著々首面の目的に

寧E

紘必ずしも絶好の封象ではな

O

然るに吾々紘車ひにもこ1に

「ライン同盟」(DerRheinischeBun

deg)と呼ばれ

るすぐれて政治的なrまたその成立事情の此軟的明かなる虫害をもってゐるこれこそは喝逸

ハンザが封外貿易

の特権確保を中心としたのに反し特に国内諸侯との関係に於ける史上最初の極めて贋範囲な結合でありr少-と

も首初にあつては経済的なるものと政治意識との揮然たる融合をめざしてゐたものの如-であるQしかも時あた

かも大基位時代の直前にあたってゐる0それら諸情勢を考慮する時この同明皿結成に含まれた意国の探求は都市

を繰る中世末期の狗逸政情を解-有力な

7焦鮎たるを疑ひ待ないであらう以下菩々はもっぱらその成五

本質

解鰭の諸相をそれが置かれた政局並びに社食経済史的動向との関餅に於て考察し吾々自身が設定した問題の解

明に部分的ながら

1つの見透しを輿へてみたいと思ふ

本論に入るに先立ち吾々の問題が置かれた歴史的情況を明かならしむるためにまづ十二世紀の中葉以降大益

位時代に及ぶまでの猫逸政情の推移概要をあとづけてみよう

UtRom

an

i

i

m

perii

celsitudo

inp

ristinum

suae

excetlentiaerobur

ref

ormetur即位と共に豊明さ

れたフリードリッヒ1世パルバロッサ

(二

五二I

九〇)のこの着々もい大腰聞達のプログラムは字義通り

その昔嘗てありLが如き薙馬皇帝樺の復興を意味し具鰻的には伊太利に封する猫逸支配の不動の確立をめざすも

(四)

のであることはいふ東でも

しかしその伊大利政策の連行は常初の園滑好調にも拘らずやがて轟馬教皇

l

ロムパルヂア都市同閉皿及びシシリア王国なる三者の共同戦線といふ意外に大きい抗争勢力を醸し竪樋後数年にし

て早-もプ

ログラムの放棄かさもな-ば仝伊太利との決戦かといふ二つの方策のいづれかを選ぶべき重大なる岐

路におしやられた皇帝は決然起って

五八年の頃よりこの後者の方策を選ぶこととなる

か-て前後」ハたびに

亙る大規模な伊太利遠征は部分的に観て幾多の難関と失策とを含みわけてもロムパルヂア諸都市の康汎なる自

閉刑

治を許容せざるを得なかったとはいへ大局よりせばへLスカナを足場とする牛島統治の基礎設定は兎に角も効を

奏しシシリアとの婚姻関係また成立をみてr喝逸国家の中欧に於ける政治的中核の地位は少-とも外観上著し

都市を座る中世末期の構逸政慣

(増田)

ulL

釆京商科大草新党年報

商学研究

六毅

三1こ

く昂められることが出来たしかしそれと同時に特に吾々の注意すべきは猫逸本圃にみるかのハインリッヒ獅子

313

公の事件の如き傾向であ

獅子公の失脚は決して事件そのものの全き終鳶を意味するものではなかったシュ

タウフェル封ヴェルフエンのつきせぬ執糊の封立は領邦撞頭の趨勢を織りまぜ以下吾々の全叙述の背後にも

香-して常に新しき形をとって濠想され置かなければならないであらう尤もその経緯は吾々首面の課題ではない

こゝでは

フゞリード-ッヒ

7世の遠大の諸計葺がかうした新傾向を

包蔵しっ~もよ-内外への樺盛を保持し

概ねその子ハイン-ッヒ六世の治世に至って普ねき開花結葦の機を得べき筈であった情勢を指摘すれば充分である

I

へンシュクウフェン家の優越的地位は父帝の蒔いたみのりを

刈取るべき

ハイン-ッヒ六世

一九

〇-一

1九七)の即位によって最高度の完成と最大限の伸張とに到達した英蘭

供蘭西勾牙利

波蘭

丁抹等々四

分的

隣の諸王国はいづれも不可侵なる皇帝権の尊厳に服屠すると共にシシリア重囲を獲たことが地中海制覇と東方

進出との可能性を附興したのであるがこの多幸な約束も束の間

九七年九月壮年三十二歳を

7期として奨

如才ッシナの地にハインリッヒ六世役するやつすべては挫折して董餅の款を味はざるを得ぬ未曾有の危機に遭遇し

た喝逸は香へ金欧洲の政情はこの年を

fつの有力な持機として新しい様相展開への苦難の混乱期に入って

珍-0

ハインリッヒK世の子フリードリッヒ

(二世)は年薗わづかに三歳国政を掌握して喝逸とシシFlア香r仝

伊太利とを結合せんとの父王乃至組父王の大業璃承は到底早急に望み得べ-もなかったさればこれより漸次帝

国と屡領とを結ぶ担帯はゆるんでrまづシシリア及び南伊アブリアの地は

ハインリッヒの妃

コンスタンツェの特

色あるナショナリズム的統治にゆだねられ多感な

「南欧の子」フリードゥヅヒは東洋的とさへ呼び得る特異な

濁裁的雰囲気の裡に育成されて行った

一方中部及び北部伊太利に於ては帝国の権威日を迫って失墜の

7路を

たどり

コムーネの勃興めざよし-また本国喝逸ではrザックセンを中心とする離反的分立傾向再度接頭し大

勢の赴-ところつつひにこゝに喝逸史上最初の

「二重選帝」といふ不群の内乱を惹き起す由々しき結果を蘭らすこ

ととなったシュタウフエルの正統なるパルバロッサ帝の末子フィリップ

フォンシュヴァ-ペン

(二

九八

年三月八日即位)に封しケルン大司教アドルフをはじめ叔父に嘗る英蘭王リチャード

一世の強力なる支持を悼

んで王位についたハインリッヒ獅子公の第二千従ってヴェルフエンの代表なるオッrLI四世

フォンブラウン

()

シュヴァイク

(二

九八年六月九日即位)の登媛即ちこれであ

嘗て喝途中世政治史畢界のLE匠カールハムペ教授はこの

九八年の二重遅滞を以って

「中世喝逸見上長も

(礼)

致命的な出来事」であるとなしたがつまことにこれこそは喝逸なして爾後の加速度的衰運を招乗せしむる最初且

つ最大のあらはな相別tあったいま特にこの事件を直接の契磯として園の内外に斎らされた政治史的襲質の主

ヽヽ

なるものを巻けんにキつ第

7はあのグレゴール七世のかつての夢を葦現せんとする偉大な教皇インノツェンツ

三世

(H

九八17二

1六)の出現によって伊太利に於げろ喝逸支配が葦質上限逐せられスポレpLrアンコナ

()

及びLスカナの

1部といふ農大な領域に向つて散骨国家の所領壊大が途行せられたことである

これらの諸領侵害

と共に数合国家はいつしか粂伊大利政情の複雑な動きを

一手にあやつる大きな世俗的中枢になりあがりつ~あっ

そしてかうした新領はやがて

7二

7三年に至ってフリードリッ三

の特許状により確認せられたのである

都市を続

る中世末期の燭逸政情

〔噂

田)

三一

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 2: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙祈究年報

商学折究

第六枚

〇八

にあわたZし-も

一撃にその凋落期に突入する1二五六年より

)二七三年に至るあの不詳な

「大益位時代」(D

as

lnterregnum)はその最もあからさ皇なる表出であり爾釆粁徐曲折頻繁たる諸王家更迭の定まらぬ政情を経

てルクセンブルガ-家の

一人カール四世の出現

三四七)までr喝逸はまたも

一世紀近い過渡期の混乱を鰻験

せざるを得なかったoしかしカール四世の澗逸はもはや昔日の猫逸ではなかったこれを国内に徹してみても

既に

1三五六年の名高い

「金印憲章」(GoldeneButte)によって熔印づけられたが如-七選帝侯を中心とする濁

逸的領邦分立主義の高らかな勝利が公認されて居り封外関係また賓質的に準じて猫逸帝国のヘゲモニーをその

根枕から動橋せしめつ~あったことは特にブ-ヴィーヌ鞍の史的意義を強調するまでもな-例へば

ヘンリー二

世以降の英蘭と大陸との関係フィリップ二世わけてもフィリップEI世美玉治下の悌蘭西と教皇との関係戎ひ

はnムーネの特異な政治的長頭を

示す伊太利政局等々二三の

1殻的動向に照して既に明かなるところであらう

か-考へ乗るとき書々は十三世紀といふ時代がもつ史的意義の重大性をいまさらの如-感得せざるを得ない

何となればこの世紀こそ封外的に観て喝逸の指導的地位を喪失せしめ「帝権と教権」てふ二大中心をもつ中世的

鰻制を-つがへしてその反面に近代的な諸国民国家の国際的新醍制を決定的ならしめた時代であり封内的に観

ていはゆる

「領邦」(Territorium)形成の分立をいはば宿命的な民族的課題として負はしめた時代であったから

prime

であるか-て英

偽等のそれに比Lt猫逸がその国家統

7に大きな立ちお-れを示したL)とは史上萩ひ難き顧

然たる事茸であるがその根本原因が果して都連に春するかの詮議についてはいま軽々に吾々の開設すべき限り

で昧ない

たZしかしさうした方向への最も明瞭な兆候が殆んど封照的にあらはれはじめたのがあたかもこ

の十三世紀であったことにr特殊の注意を喚起して置かなければならない

然るに他方またこの世紀は多少時代の遅速はあれ吾々の中世都市が殆んど全欧の各地を通じてその偉大

な興隆期に入った世紀なのであった膏に南方伊太利のみならず北悌

二フィン流域等に先駆的にあらはれた諸都

市と市民の勃興はこの世紀に入って俄然政治的にも否定すべからざる勢力となり全欧に都市中心の新しき文化

母胎を

形成したそれらの中とりわけ猫逸の諸都市があのやrJhてそのま~都市共和国となることによって近代

国家化されゆ-伊太利都市と封照的にそしてまた集樺的国民国家に吸収されゆ-英

悌都市との封比に於て

いはゆる

「中世都市」の類型的頚展様相を呈したことは漸次吾々の叙述を

迫って明かにされるであらう喝逸都

市の建設はもっぱらこの世紀に集中された都市系譜のあらましをたどってみてもつ十三世紀成立の都市数は

)

概算して現存都市中のほゞ二分の

一乃至四分の三といふ絶封的多数を占めてゐるもってこの世紀がもつ紅合経済

史的激愛の

一端を窺ふべきである

領邦形成といふ政治

法制史上の猫逸の特殊性は都市零展といふ社食

輝済史上の喝逸の特殊雌と合流するこ

とによってr十三世紀にみる猫逸史

L股の特殊性を展開した中世より近世への喝逸見の縛換把握は都市と領邦

の開聯を正し-評慣することな-しては不可能である

そしてそれは軍に経済史上の諸事象に限られた主張ではな

いそこには中世市民の政治的な在り方ともいふべきものが極めて根強-からみ合ってゐることを看過してはな

らないや1もすれば中世都市の市民階級をばそのひとし-

「市民階級」なる名辞の故に近世的な意味での第

三階級と混同せる言説の行はれる時吾々としては中世市民と近世市民それ故によた中世都市と近世都市との

都市を繰

る中世末期の狗逸政情

(増

)

三〇九

東京商科大学研究年群

衝撃研究

静六班

三]〇

割然たる

7鷹のみさかひなつけ置-べきではなからうか別言すれば濁逸中世市民の政治的意欲が如何なる過

程を経て統合せられその赴-ところ何故つひに領邦諸侯との封立を招釆せざるを得ず従ってまた何故そのまま

近世的市民意鼓にまで肇展し得なかったのあらうかが問題なのであるそしてもしこの連の事情にして或程度まで

(こ)

解明可能とならばその時こそかの

「都市経済」の二重性格描出と共に吾々暗唱逸中世史上に占めた市民階級の

垂貌をあらためて統

1的に理解する鍵を求め得るのではなからうか否それどころか猫逸国家の統

T的専展に

演じた都市と領邦との史的役割の本質が新しい叡鮎から再吟味され得るのではなからLfか吾々の考察はまさ

し-かうした目標に向つて進められるわけである

大略薮上の如き問題設定を企てた以上吾々は中世都市による政治的意欲のなるべ-綜合的なる表現を具鰻的

個別的にあとづけなければならないそのためにはまづ

「喝逸ハンザ」の政治活動が代表的にとりあゆらるべきで

あるが周知の如-ハンザはその成立過程に永き前史をふ-む

1種偉大な文政史的事象であPr著々首面の目的に

寧E

紘必ずしも絶好の封象ではな

O

然るに吾々紘車ひにもこ1に

「ライン同盟」(DerRheinischeBun

deg)と呼ばれ

るすぐれて政治的なrまたその成立事情の此軟的明かなる虫害をもってゐるこれこそは喝逸

ハンザが封外貿易

の特権確保を中心としたのに反し特に国内諸侯との関係に於ける史上最初の極めて贋範囲な結合でありr少-と

も首初にあつては経済的なるものと政治意識との揮然たる融合をめざしてゐたものの如-であるQしかも時あた

かも大基位時代の直前にあたってゐる0それら諸情勢を考慮する時この同明皿結成に含まれた意国の探求は都市

を繰る中世末期の狗逸政情を解-有力な

7焦鮎たるを疑ひ待ないであらう以下菩々はもっぱらその成五

本質

解鰭の諸相をそれが置かれた政局並びに社食経済史的動向との関餅に於て考察し吾々自身が設定した問題の解

明に部分的ながら

1つの見透しを輿へてみたいと思ふ

本論に入るに先立ち吾々の問題が置かれた歴史的情況を明かならしむるためにまづ十二世紀の中葉以降大益

位時代に及ぶまでの猫逸政情の推移概要をあとづけてみよう

UtRom

an

i

i

m

perii

celsitudo

inp

ristinum

suae

excetlentiaerobur

ref

ormetur即位と共に豊明さ

れたフリードリッヒ1世パルバロッサ

(二

五二I

九〇)のこの着々もい大腰聞達のプログラムは字義通り

その昔嘗てありLが如き薙馬皇帝樺の復興を意味し具鰻的には伊太利に封する猫逸支配の不動の確立をめざすも

(四)

のであることはいふ東でも

しかしその伊大利政策の連行は常初の園滑好調にも拘らずやがて轟馬教皇

l

ロムパルヂア都市同閉皿及びシシリア王国なる三者の共同戦線といふ意外に大きい抗争勢力を醸し竪樋後数年にし

て早-もプ

ログラムの放棄かさもな-ば仝伊太利との決戦かといふ二つの方策のいづれかを選ぶべき重大なる岐

路におしやられた皇帝は決然起って

五八年の頃よりこの後者の方策を選ぶこととなる

か-て前後」ハたびに

亙る大規模な伊太利遠征は部分的に観て幾多の難関と失策とを含みわけてもロムパルヂア諸都市の康汎なる自

閉刑

治を許容せざるを得なかったとはいへ大局よりせばへLスカナを足場とする牛島統治の基礎設定は兎に角も効を

奏しシシリアとの婚姻関係また成立をみてr喝逸国家の中欧に於ける政治的中核の地位は少-とも外観上著し

都市を座る中世末期の構逸政慣

(増田)

ulL

釆京商科大草新党年報

商学研究

六毅

三1こ

く昂められることが出来たしかしそれと同時に特に吾々の注意すべきは猫逸本圃にみるかのハインリッヒ獅子

313

公の事件の如き傾向であ

獅子公の失脚は決して事件そのものの全き終鳶を意味するものではなかったシュ

タウフェル封ヴェルフエンのつきせぬ執糊の封立は領邦撞頭の趨勢を織りまぜ以下吾々の全叙述の背後にも

香-して常に新しき形をとって濠想され置かなければならないであらう尤もその経緯は吾々首面の課題ではない

こゝでは

フゞリード-ッヒ

7世の遠大の諸計葺がかうした新傾向を

包蔵しっ~もよ-内外への樺盛を保持し

概ねその子ハイン-ッヒ六世の治世に至って普ねき開花結葦の機を得べき筈であった情勢を指摘すれば充分である

I

へンシュクウフェン家の優越的地位は父帝の蒔いたみのりを

刈取るべき

ハイン-ッヒ六世

一九

〇-一

1九七)の即位によって最高度の完成と最大限の伸張とに到達した英蘭

供蘭西勾牙利

波蘭

丁抹等々四

分的

隣の諸王国はいづれも不可侵なる皇帝権の尊厳に服屠すると共にシシリア重囲を獲たことが地中海制覇と東方

進出との可能性を附興したのであるがこの多幸な約束も束の間

九七年九月壮年三十二歳を

7期として奨

如才ッシナの地にハインリッヒ六世役するやつすべては挫折して董餅の款を味はざるを得ぬ未曾有の危機に遭遇し

た喝逸は香へ金欧洲の政情はこの年を

fつの有力な持機として新しい様相展開への苦難の混乱期に入って

珍-0

ハインリッヒK世の子フリードリッヒ

(二世)は年薗わづかに三歳国政を掌握して喝逸とシシFlア香r仝

伊太利とを結合せんとの父王乃至組父王の大業璃承は到底早急に望み得べ-もなかったさればこれより漸次帝

国と屡領とを結ぶ担帯はゆるんでrまづシシリア及び南伊アブリアの地は

ハインリッヒの妃

コンスタンツェの特

色あるナショナリズム的統治にゆだねられ多感な

「南欧の子」フリードゥヅヒは東洋的とさへ呼び得る特異な

濁裁的雰囲気の裡に育成されて行った

一方中部及び北部伊太利に於ては帝国の権威日を迫って失墜の

7路を

たどり

コムーネの勃興めざよし-また本国喝逸ではrザックセンを中心とする離反的分立傾向再度接頭し大

勢の赴-ところつつひにこゝに喝逸史上最初の

「二重選帝」といふ不群の内乱を惹き起す由々しき結果を蘭らすこ

ととなったシュタウフエルの正統なるパルバロッサ帝の末子フィリップ

フォンシュヴァ-ペン

(二

九八

年三月八日即位)に封しケルン大司教アドルフをはじめ叔父に嘗る英蘭王リチャード

一世の強力なる支持を悼

んで王位についたハインリッヒ獅子公の第二千従ってヴェルフエンの代表なるオッrLI四世

フォンブラウン

()

シュヴァイク

(二

九八年六月九日即位)の登媛即ちこれであ

嘗て喝途中世政治史畢界のLE匠カールハムペ教授はこの

九八年の二重遅滞を以って

「中世喝逸見上長も

(礼)

致命的な出来事」であるとなしたがつまことにこれこそは喝逸なして爾後の加速度的衰運を招乗せしむる最初且

つ最大のあらはな相別tあったいま特にこの事件を直接の契磯として園の内外に斎らされた政治史的襲質の主

ヽヽ

なるものを巻けんにキつ第

7はあのグレゴール七世のかつての夢を葦現せんとする偉大な教皇インノツェンツ

三世

(H

九八17二

1六)の出現によって伊太利に於げろ喝逸支配が葦質上限逐せられスポレpLrアンコナ

()

及びLスカナの

1部といふ農大な領域に向つて散骨国家の所領壊大が途行せられたことである

これらの諸領侵害

と共に数合国家はいつしか粂伊大利政情の複雑な動きを

一手にあやつる大きな世俗的中枢になりあがりつ~あっ

そしてかうした新領はやがて

7二

7三年に至ってフリードリッ三

の特許状により確認せられたのである

都市を続

る中世末期の燭逸政情

〔噂

田)

三一

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 3: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

の十三世紀であったことにr特殊の注意を喚起して置かなければならない

然るに他方またこの世紀は多少時代の遅速はあれ吾々の中世都市が殆んど全欧の各地を通じてその偉大

な興隆期に入った世紀なのであった膏に南方伊太利のみならず北悌

二フィン流域等に先駆的にあらはれた諸都

市と市民の勃興はこの世紀に入って俄然政治的にも否定すべからざる勢力となり全欧に都市中心の新しき文化

母胎を

形成したそれらの中とりわけ猫逸の諸都市があのやrJhてそのま~都市共和国となることによって近代

国家化されゆ-伊太利都市と封照的にそしてまた集樺的国民国家に吸収されゆ-英

悌都市との封比に於て

いはゆる

「中世都市」の類型的頚展様相を呈したことは漸次吾々の叙述を

迫って明かにされるであらう喝逸都

市の建設はもっぱらこの世紀に集中された都市系譜のあらましをたどってみてもつ十三世紀成立の都市数は

)

概算して現存都市中のほゞ二分の

一乃至四分の三といふ絶封的多数を占めてゐるもってこの世紀がもつ紅合経済

史的激愛の

一端を窺ふべきである

領邦形成といふ政治

法制史上の猫逸の特殊性は都市零展といふ社食

輝済史上の喝逸の特殊雌と合流するこ

とによってr十三世紀にみる猫逸史

L股の特殊性を展開した中世より近世への喝逸見の縛換把握は都市と領邦

の開聯を正し-評慣することな-しては不可能である

そしてそれは軍に経済史上の諸事象に限られた主張ではな

いそこには中世市民の政治的な在り方ともいふべきものが極めて根強-からみ合ってゐることを看過してはな

らないや1もすれば中世都市の市民階級をばそのひとし-

「市民階級」なる名辞の故に近世的な意味での第

三階級と混同せる言説の行はれる時吾々としては中世市民と近世市民それ故によた中世都市と近世都市との

都市を繰

る中世末期の狗逸政情

(増

)

三〇九

東京商科大学研究年群

衝撃研究

静六班

三]〇

割然たる

7鷹のみさかひなつけ置-べきではなからうか別言すれば濁逸中世市民の政治的意欲が如何なる過

程を経て統合せられその赴-ところ何故つひに領邦諸侯との封立を招釆せざるを得ず従ってまた何故そのまま

近世的市民意鼓にまで肇展し得なかったのあらうかが問題なのであるそしてもしこの連の事情にして或程度まで

(こ)

解明可能とならばその時こそかの

「都市経済」の二重性格描出と共に吾々暗唱逸中世史上に占めた市民階級の

垂貌をあらためて統

1的に理解する鍵を求め得るのではなからうか否それどころか猫逸国家の統

T的専展に

演じた都市と領邦との史的役割の本質が新しい叡鮎から再吟味され得るのではなからLfか吾々の考察はまさ

し-かうした目標に向つて進められるわけである

大略薮上の如き問題設定を企てた以上吾々は中世都市による政治的意欲のなるべ-綜合的なる表現を具鰻的

個別的にあとづけなければならないそのためにはまづ

「喝逸ハンザ」の政治活動が代表的にとりあゆらるべきで

あるが周知の如-ハンザはその成立過程に永き前史をふ-む

1種偉大な文政史的事象であPr著々首面の目的に

寧E

紘必ずしも絶好の封象ではな

O

然るに吾々紘車ひにもこ1に

「ライン同盟」(DerRheinischeBun

deg)と呼ばれ

るすぐれて政治的なrまたその成立事情の此軟的明かなる虫害をもってゐるこれこそは喝逸

ハンザが封外貿易

の特権確保を中心としたのに反し特に国内諸侯との関係に於ける史上最初の極めて贋範囲な結合でありr少-と

も首初にあつては経済的なるものと政治意識との揮然たる融合をめざしてゐたものの如-であるQしかも時あた

かも大基位時代の直前にあたってゐる0それら諸情勢を考慮する時この同明皿結成に含まれた意国の探求は都市

を繰る中世末期の狗逸政情を解-有力な

7焦鮎たるを疑ひ待ないであらう以下菩々はもっぱらその成五

本質

解鰭の諸相をそれが置かれた政局並びに社食経済史的動向との関餅に於て考察し吾々自身が設定した問題の解

明に部分的ながら

1つの見透しを輿へてみたいと思ふ

本論に入るに先立ち吾々の問題が置かれた歴史的情況を明かならしむるためにまづ十二世紀の中葉以降大益

位時代に及ぶまでの猫逸政情の推移概要をあとづけてみよう

UtRom

an

i

i

m

perii

celsitudo

inp

ristinum

suae

excetlentiaerobur

ref

ormetur即位と共に豊明さ

れたフリードリッヒ1世パルバロッサ

(二

五二I

九〇)のこの着々もい大腰聞達のプログラムは字義通り

その昔嘗てありLが如き薙馬皇帝樺の復興を意味し具鰻的には伊太利に封する猫逸支配の不動の確立をめざすも

(四)

のであることはいふ東でも

しかしその伊大利政策の連行は常初の園滑好調にも拘らずやがて轟馬教皇

l

ロムパルヂア都市同閉皿及びシシリア王国なる三者の共同戦線といふ意外に大きい抗争勢力を醸し竪樋後数年にし

て早-もプ

ログラムの放棄かさもな-ば仝伊太利との決戦かといふ二つの方策のいづれかを選ぶべき重大なる岐

路におしやられた皇帝は決然起って

五八年の頃よりこの後者の方策を選ぶこととなる

か-て前後」ハたびに

亙る大規模な伊太利遠征は部分的に観て幾多の難関と失策とを含みわけてもロムパルヂア諸都市の康汎なる自

閉刑

治を許容せざるを得なかったとはいへ大局よりせばへLスカナを足場とする牛島統治の基礎設定は兎に角も効を

奏しシシリアとの婚姻関係また成立をみてr喝逸国家の中欧に於ける政治的中核の地位は少-とも外観上著し

都市を座る中世末期の構逸政慣

(増田)

ulL

釆京商科大草新党年報

商学研究

六毅

三1こ

く昂められることが出来たしかしそれと同時に特に吾々の注意すべきは猫逸本圃にみるかのハインリッヒ獅子

313

公の事件の如き傾向であ

獅子公の失脚は決して事件そのものの全き終鳶を意味するものではなかったシュ

タウフェル封ヴェルフエンのつきせぬ執糊の封立は領邦撞頭の趨勢を織りまぜ以下吾々の全叙述の背後にも

香-して常に新しき形をとって濠想され置かなければならないであらう尤もその経緯は吾々首面の課題ではない

こゝでは

フゞリード-ッヒ

7世の遠大の諸計葺がかうした新傾向を

包蔵しっ~もよ-内外への樺盛を保持し

概ねその子ハイン-ッヒ六世の治世に至って普ねき開花結葦の機を得べき筈であった情勢を指摘すれば充分である

I

へンシュクウフェン家の優越的地位は父帝の蒔いたみのりを

刈取るべき

ハイン-ッヒ六世

一九

〇-一

1九七)の即位によって最高度の完成と最大限の伸張とに到達した英蘭

供蘭西勾牙利

波蘭

丁抹等々四

分的

隣の諸王国はいづれも不可侵なる皇帝権の尊厳に服屠すると共にシシリア重囲を獲たことが地中海制覇と東方

進出との可能性を附興したのであるがこの多幸な約束も束の間

九七年九月壮年三十二歳を

7期として奨

如才ッシナの地にハインリッヒ六世役するやつすべては挫折して董餅の款を味はざるを得ぬ未曾有の危機に遭遇し

た喝逸は香へ金欧洲の政情はこの年を

fつの有力な持機として新しい様相展開への苦難の混乱期に入って

珍-0

ハインリッヒK世の子フリードリッヒ

(二世)は年薗わづかに三歳国政を掌握して喝逸とシシFlア香r仝

伊太利とを結合せんとの父王乃至組父王の大業璃承は到底早急に望み得べ-もなかったさればこれより漸次帝

国と屡領とを結ぶ担帯はゆるんでrまづシシリア及び南伊アブリアの地は

ハインリッヒの妃

コンスタンツェの特

色あるナショナリズム的統治にゆだねられ多感な

「南欧の子」フリードゥヅヒは東洋的とさへ呼び得る特異な

濁裁的雰囲気の裡に育成されて行った

一方中部及び北部伊太利に於ては帝国の権威日を迫って失墜の

7路を

たどり

コムーネの勃興めざよし-また本国喝逸ではrザックセンを中心とする離反的分立傾向再度接頭し大

勢の赴-ところつつひにこゝに喝逸史上最初の

「二重選帝」といふ不群の内乱を惹き起す由々しき結果を蘭らすこ

ととなったシュタウフエルの正統なるパルバロッサ帝の末子フィリップ

フォンシュヴァ-ペン

(二

九八

年三月八日即位)に封しケルン大司教アドルフをはじめ叔父に嘗る英蘭王リチャード

一世の強力なる支持を悼

んで王位についたハインリッヒ獅子公の第二千従ってヴェルフエンの代表なるオッrLI四世

フォンブラウン

()

シュヴァイク

(二

九八年六月九日即位)の登媛即ちこれであ

嘗て喝途中世政治史畢界のLE匠カールハムペ教授はこの

九八年の二重遅滞を以って

「中世喝逸見上長も

(礼)

致命的な出来事」であるとなしたがつまことにこれこそは喝逸なして爾後の加速度的衰運を招乗せしむる最初且

つ最大のあらはな相別tあったいま特にこの事件を直接の契磯として園の内外に斎らされた政治史的襲質の主

ヽヽ

なるものを巻けんにキつ第

7はあのグレゴール七世のかつての夢を葦現せんとする偉大な教皇インノツェンツ

三世

(H

九八17二

1六)の出現によって伊太利に於げろ喝逸支配が葦質上限逐せられスポレpLrアンコナ

()

及びLスカナの

1部といふ農大な領域に向つて散骨国家の所領壊大が途行せられたことである

これらの諸領侵害

と共に数合国家はいつしか粂伊大利政情の複雑な動きを

一手にあやつる大きな世俗的中枢になりあがりつ~あっ

そしてかうした新領はやがて

7二

7三年に至ってフリードリッ三

の特許状により確認せられたのである

都市を続

る中世末期の燭逸政情

〔噂

田)

三一

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 4: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大学研究年群

衝撃研究

静六班

三]〇

割然たる

7鷹のみさかひなつけ置-べきではなからうか別言すれば濁逸中世市民の政治的意欲が如何なる過

程を経て統合せられその赴-ところ何故つひに領邦諸侯との封立を招釆せざるを得ず従ってまた何故そのまま

近世的市民意鼓にまで肇展し得なかったのあらうかが問題なのであるそしてもしこの連の事情にして或程度まで

(こ)

解明可能とならばその時こそかの

「都市経済」の二重性格描出と共に吾々暗唱逸中世史上に占めた市民階級の

垂貌をあらためて統

1的に理解する鍵を求め得るのではなからうか否それどころか猫逸国家の統

T的専展に

演じた都市と領邦との史的役割の本質が新しい叡鮎から再吟味され得るのではなからLfか吾々の考察はまさ

し-かうした目標に向つて進められるわけである

大略薮上の如き問題設定を企てた以上吾々は中世都市による政治的意欲のなるべ-綜合的なる表現を具鰻的

個別的にあとづけなければならないそのためにはまづ

「喝逸ハンザ」の政治活動が代表的にとりあゆらるべきで

あるが周知の如-ハンザはその成立過程に永き前史をふ-む

1種偉大な文政史的事象であPr著々首面の目的に

寧E

紘必ずしも絶好の封象ではな

O

然るに吾々紘車ひにもこ1に

「ライン同盟」(DerRheinischeBun

deg)と呼ばれ

るすぐれて政治的なrまたその成立事情の此軟的明かなる虫害をもってゐるこれこそは喝逸

ハンザが封外貿易

の特権確保を中心としたのに反し特に国内諸侯との関係に於ける史上最初の極めて贋範囲な結合でありr少-と

も首初にあつては経済的なるものと政治意識との揮然たる融合をめざしてゐたものの如-であるQしかも時あた

かも大基位時代の直前にあたってゐる0それら諸情勢を考慮する時この同明皿結成に含まれた意国の探求は都市

を繰る中世末期の狗逸政情を解-有力な

7焦鮎たるを疑ひ待ないであらう以下菩々はもっぱらその成五

本質

解鰭の諸相をそれが置かれた政局並びに社食経済史的動向との関餅に於て考察し吾々自身が設定した問題の解

明に部分的ながら

1つの見透しを輿へてみたいと思ふ

本論に入るに先立ち吾々の問題が置かれた歴史的情況を明かならしむるためにまづ十二世紀の中葉以降大益

位時代に及ぶまでの猫逸政情の推移概要をあとづけてみよう

UtRom

an

i

i

m

perii

celsitudo

inp

ristinum

suae

excetlentiaerobur

ref

ormetur即位と共に豊明さ

れたフリードリッヒ1世パルバロッサ

(二

五二I

九〇)のこの着々もい大腰聞達のプログラムは字義通り

その昔嘗てありLが如き薙馬皇帝樺の復興を意味し具鰻的には伊太利に封する猫逸支配の不動の確立をめざすも

(四)

のであることはいふ東でも

しかしその伊大利政策の連行は常初の園滑好調にも拘らずやがて轟馬教皇

l

ロムパルヂア都市同閉皿及びシシリア王国なる三者の共同戦線といふ意外に大きい抗争勢力を醸し竪樋後数年にし

て早-もプ

ログラムの放棄かさもな-ば仝伊太利との決戦かといふ二つの方策のいづれかを選ぶべき重大なる岐

路におしやられた皇帝は決然起って

五八年の頃よりこの後者の方策を選ぶこととなる

か-て前後」ハたびに

亙る大規模な伊太利遠征は部分的に観て幾多の難関と失策とを含みわけてもロムパルヂア諸都市の康汎なる自

閉刑

治を許容せざるを得なかったとはいへ大局よりせばへLスカナを足場とする牛島統治の基礎設定は兎に角も効を

奏しシシリアとの婚姻関係また成立をみてr喝逸国家の中欧に於ける政治的中核の地位は少-とも外観上著し

都市を座る中世末期の構逸政慣

(増田)

ulL

釆京商科大草新党年報

商学研究

六毅

三1こ

く昂められることが出来たしかしそれと同時に特に吾々の注意すべきは猫逸本圃にみるかのハインリッヒ獅子

313

公の事件の如き傾向であ

獅子公の失脚は決して事件そのものの全き終鳶を意味するものではなかったシュ

タウフェル封ヴェルフエンのつきせぬ執糊の封立は領邦撞頭の趨勢を織りまぜ以下吾々の全叙述の背後にも

香-して常に新しき形をとって濠想され置かなければならないであらう尤もその経緯は吾々首面の課題ではない

こゝでは

フゞリード-ッヒ

7世の遠大の諸計葺がかうした新傾向を

包蔵しっ~もよ-内外への樺盛を保持し

概ねその子ハイン-ッヒ六世の治世に至って普ねき開花結葦の機を得べき筈であった情勢を指摘すれば充分である

I

へンシュクウフェン家の優越的地位は父帝の蒔いたみのりを

刈取るべき

ハイン-ッヒ六世

一九

〇-一

1九七)の即位によって最高度の完成と最大限の伸張とに到達した英蘭

供蘭西勾牙利

波蘭

丁抹等々四

分的

隣の諸王国はいづれも不可侵なる皇帝権の尊厳に服屠すると共にシシリア重囲を獲たことが地中海制覇と東方

進出との可能性を附興したのであるがこの多幸な約束も束の間

九七年九月壮年三十二歳を

7期として奨

如才ッシナの地にハインリッヒ六世役するやつすべては挫折して董餅の款を味はざるを得ぬ未曾有の危機に遭遇し

た喝逸は香へ金欧洲の政情はこの年を

fつの有力な持機として新しい様相展開への苦難の混乱期に入って

珍-0

ハインリッヒK世の子フリードリッヒ

(二世)は年薗わづかに三歳国政を掌握して喝逸とシシFlア香r仝

伊太利とを結合せんとの父王乃至組父王の大業璃承は到底早急に望み得べ-もなかったさればこれより漸次帝

国と屡領とを結ぶ担帯はゆるんでrまづシシリア及び南伊アブリアの地は

ハインリッヒの妃

コンスタンツェの特

色あるナショナリズム的統治にゆだねられ多感な

「南欧の子」フリードゥヅヒは東洋的とさへ呼び得る特異な

濁裁的雰囲気の裡に育成されて行った

一方中部及び北部伊太利に於ては帝国の権威日を迫って失墜の

7路を

たどり

コムーネの勃興めざよし-また本国喝逸ではrザックセンを中心とする離反的分立傾向再度接頭し大

勢の赴-ところつつひにこゝに喝逸史上最初の

「二重選帝」といふ不群の内乱を惹き起す由々しき結果を蘭らすこ

ととなったシュタウフエルの正統なるパルバロッサ帝の末子フィリップ

フォンシュヴァ-ペン

(二

九八

年三月八日即位)に封しケルン大司教アドルフをはじめ叔父に嘗る英蘭王リチャード

一世の強力なる支持を悼

んで王位についたハインリッヒ獅子公の第二千従ってヴェルフエンの代表なるオッrLI四世

フォンブラウン

()

シュヴァイク

(二

九八年六月九日即位)の登媛即ちこれであ

嘗て喝途中世政治史畢界のLE匠カールハムペ教授はこの

九八年の二重遅滞を以って

「中世喝逸見上長も

(礼)

致命的な出来事」であるとなしたがつまことにこれこそは喝逸なして爾後の加速度的衰運を招乗せしむる最初且

つ最大のあらはな相別tあったいま特にこの事件を直接の契磯として園の内外に斎らされた政治史的襲質の主

ヽヽ

なるものを巻けんにキつ第

7はあのグレゴール七世のかつての夢を葦現せんとする偉大な教皇インノツェンツ

三世

(H

九八17二

1六)の出現によって伊太利に於げろ喝逸支配が葦質上限逐せられスポレpLrアンコナ

()

及びLスカナの

1部といふ農大な領域に向つて散骨国家の所領壊大が途行せられたことである

これらの諸領侵害

と共に数合国家はいつしか粂伊大利政情の複雑な動きを

一手にあやつる大きな世俗的中枢になりあがりつ~あっ

そしてかうした新領はやがて

7二

7三年に至ってフリードリッ三

の特許状により確認せられたのである

都市を続

る中世末期の燭逸政情

〔噂

田)

三一

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 5: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

解鰭の諸相をそれが置かれた政局並びに社食経済史的動向との関餅に於て考察し吾々自身が設定した問題の解

明に部分的ながら

1つの見透しを輿へてみたいと思ふ

本論に入るに先立ち吾々の問題が置かれた歴史的情況を明かならしむるためにまづ十二世紀の中葉以降大益

位時代に及ぶまでの猫逸政情の推移概要をあとづけてみよう

UtRom

an

i

i

m

perii

celsitudo

inp

ristinum

suae

excetlentiaerobur

ref

ormetur即位と共に豊明さ

れたフリードリッヒ1世パルバロッサ

(二

五二I

九〇)のこの着々もい大腰聞達のプログラムは字義通り

その昔嘗てありLが如き薙馬皇帝樺の復興を意味し具鰻的には伊太利に封する猫逸支配の不動の確立をめざすも

(四)

のであることはいふ東でも

しかしその伊大利政策の連行は常初の園滑好調にも拘らずやがて轟馬教皇

l

ロムパルヂア都市同閉皿及びシシリア王国なる三者の共同戦線といふ意外に大きい抗争勢力を醸し竪樋後数年にし

て早-もプ

ログラムの放棄かさもな-ば仝伊太利との決戦かといふ二つの方策のいづれかを選ぶべき重大なる岐

路におしやられた皇帝は決然起って

五八年の頃よりこの後者の方策を選ぶこととなる

か-て前後」ハたびに

亙る大規模な伊太利遠征は部分的に観て幾多の難関と失策とを含みわけてもロムパルヂア諸都市の康汎なる自

閉刑

治を許容せざるを得なかったとはいへ大局よりせばへLスカナを足場とする牛島統治の基礎設定は兎に角も効を

奏しシシリアとの婚姻関係また成立をみてr喝逸国家の中欧に於ける政治的中核の地位は少-とも外観上著し

都市を座る中世末期の構逸政慣

(増田)

ulL

釆京商科大草新党年報

商学研究

六毅

三1こ

く昂められることが出来たしかしそれと同時に特に吾々の注意すべきは猫逸本圃にみるかのハインリッヒ獅子

313

公の事件の如き傾向であ

獅子公の失脚は決して事件そのものの全き終鳶を意味するものではなかったシュ

タウフェル封ヴェルフエンのつきせぬ執糊の封立は領邦撞頭の趨勢を織りまぜ以下吾々の全叙述の背後にも

香-して常に新しき形をとって濠想され置かなければならないであらう尤もその経緯は吾々首面の課題ではない

こゝでは

フゞリード-ッヒ

7世の遠大の諸計葺がかうした新傾向を

包蔵しっ~もよ-内外への樺盛を保持し

概ねその子ハイン-ッヒ六世の治世に至って普ねき開花結葦の機を得べき筈であった情勢を指摘すれば充分である

I

へンシュクウフェン家の優越的地位は父帝の蒔いたみのりを

刈取るべき

ハイン-ッヒ六世

一九

〇-一

1九七)の即位によって最高度の完成と最大限の伸張とに到達した英蘭

供蘭西勾牙利

波蘭

丁抹等々四

分的

隣の諸王国はいづれも不可侵なる皇帝権の尊厳に服屠すると共にシシリア重囲を獲たことが地中海制覇と東方

進出との可能性を附興したのであるがこの多幸な約束も束の間

九七年九月壮年三十二歳を

7期として奨

如才ッシナの地にハインリッヒ六世役するやつすべては挫折して董餅の款を味はざるを得ぬ未曾有の危機に遭遇し

た喝逸は香へ金欧洲の政情はこの年を

fつの有力な持機として新しい様相展開への苦難の混乱期に入って

珍-0

ハインリッヒK世の子フリードリッヒ

(二世)は年薗わづかに三歳国政を掌握して喝逸とシシFlア香r仝

伊太利とを結合せんとの父王乃至組父王の大業璃承は到底早急に望み得べ-もなかったさればこれより漸次帝

国と屡領とを結ぶ担帯はゆるんでrまづシシリア及び南伊アブリアの地は

ハインリッヒの妃

コンスタンツェの特

色あるナショナリズム的統治にゆだねられ多感な

「南欧の子」フリードゥヅヒは東洋的とさへ呼び得る特異な

濁裁的雰囲気の裡に育成されて行った

一方中部及び北部伊太利に於ては帝国の権威日を迫って失墜の

7路を

たどり

コムーネの勃興めざよし-また本国喝逸ではrザックセンを中心とする離反的分立傾向再度接頭し大

勢の赴-ところつつひにこゝに喝逸史上最初の

「二重選帝」といふ不群の内乱を惹き起す由々しき結果を蘭らすこ

ととなったシュタウフエルの正統なるパルバロッサ帝の末子フィリップ

フォンシュヴァ-ペン

(二

九八

年三月八日即位)に封しケルン大司教アドルフをはじめ叔父に嘗る英蘭王リチャード

一世の強力なる支持を悼

んで王位についたハインリッヒ獅子公の第二千従ってヴェルフエンの代表なるオッrLI四世

フォンブラウン

()

シュヴァイク

(二

九八年六月九日即位)の登媛即ちこれであ

嘗て喝途中世政治史畢界のLE匠カールハムペ教授はこの

九八年の二重遅滞を以って

「中世喝逸見上長も

(礼)

致命的な出来事」であるとなしたがつまことにこれこそは喝逸なして爾後の加速度的衰運を招乗せしむる最初且

つ最大のあらはな相別tあったいま特にこの事件を直接の契磯として園の内外に斎らされた政治史的襲質の主

ヽヽ

なるものを巻けんにキつ第

7はあのグレゴール七世のかつての夢を葦現せんとする偉大な教皇インノツェンツ

三世

(H

九八17二

1六)の出現によって伊太利に於げろ喝逸支配が葦質上限逐せられスポレpLrアンコナ

()

及びLスカナの

1部といふ農大な領域に向つて散骨国家の所領壊大が途行せられたことである

これらの諸領侵害

と共に数合国家はいつしか粂伊大利政情の複雑な動きを

一手にあやつる大きな世俗的中枢になりあがりつ~あっ

そしてかうした新領はやがて

7二

7三年に至ってフリードリッ三

の特許状により確認せられたのである

都市を続

る中世末期の燭逸政情

〔噂

田)

三一

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 6: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

釆京商科大草新党年報

商学研究

六毅

三1こ

く昂められることが出来たしかしそれと同時に特に吾々の注意すべきは猫逸本圃にみるかのハインリッヒ獅子

313

公の事件の如き傾向であ

獅子公の失脚は決して事件そのものの全き終鳶を意味するものではなかったシュ

タウフェル封ヴェルフエンのつきせぬ執糊の封立は領邦撞頭の趨勢を織りまぜ以下吾々の全叙述の背後にも

香-して常に新しき形をとって濠想され置かなければならないであらう尤もその経緯は吾々首面の課題ではない

こゝでは

フゞリード-ッヒ

7世の遠大の諸計葺がかうした新傾向を

包蔵しっ~もよ-内外への樺盛を保持し

概ねその子ハイン-ッヒ六世の治世に至って普ねき開花結葦の機を得べき筈であった情勢を指摘すれば充分である

I

へンシュクウフェン家の優越的地位は父帝の蒔いたみのりを

刈取るべき

ハイン-ッヒ六世

一九

〇-一

1九七)の即位によって最高度の完成と最大限の伸張とに到達した英蘭

供蘭西勾牙利

波蘭

丁抹等々四

分的

隣の諸王国はいづれも不可侵なる皇帝権の尊厳に服屠すると共にシシリア重囲を獲たことが地中海制覇と東方

進出との可能性を附興したのであるがこの多幸な約束も束の間

九七年九月壮年三十二歳を

7期として奨

如才ッシナの地にハインリッヒ六世役するやつすべては挫折して董餅の款を味はざるを得ぬ未曾有の危機に遭遇し

た喝逸は香へ金欧洲の政情はこの年を

fつの有力な持機として新しい様相展開への苦難の混乱期に入って

珍-0

ハインリッヒK世の子フリードリッヒ

(二世)は年薗わづかに三歳国政を掌握して喝逸とシシFlア香r仝

伊太利とを結合せんとの父王乃至組父王の大業璃承は到底早急に望み得べ-もなかったさればこれより漸次帝

国と屡領とを結ぶ担帯はゆるんでrまづシシリア及び南伊アブリアの地は

ハインリッヒの妃

コンスタンツェの特

色あるナショナリズム的統治にゆだねられ多感な

「南欧の子」フリードゥヅヒは東洋的とさへ呼び得る特異な

濁裁的雰囲気の裡に育成されて行った

一方中部及び北部伊太利に於ては帝国の権威日を迫って失墜の

7路を

たどり

コムーネの勃興めざよし-また本国喝逸ではrザックセンを中心とする離反的分立傾向再度接頭し大

勢の赴-ところつつひにこゝに喝逸史上最初の

「二重選帝」といふ不群の内乱を惹き起す由々しき結果を蘭らすこ

ととなったシュタウフエルの正統なるパルバロッサ帝の末子フィリップ

フォンシュヴァ-ペン

(二

九八

年三月八日即位)に封しケルン大司教アドルフをはじめ叔父に嘗る英蘭王リチャード

一世の強力なる支持を悼

んで王位についたハインリッヒ獅子公の第二千従ってヴェルフエンの代表なるオッrLI四世

フォンブラウン

()

シュヴァイク

(二

九八年六月九日即位)の登媛即ちこれであ

嘗て喝途中世政治史畢界のLE匠カールハムペ教授はこの

九八年の二重遅滞を以って

「中世喝逸見上長も

(礼)

致命的な出来事」であるとなしたがつまことにこれこそは喝逸なして爾後の加速度的衰運を招乗せしむる最初且

つ最大のあらはな相別tあったいま特にこの事件を直接の契磯として園の内外に斎らされた政治史的襲質の主

ヽヽ

なるものを巻けんにキつ第

7はあのグレゴール七世のかつての夢を葦現せんとする偉大な教皇インノツェンツ

三世

(H

九八17二

1六)の出現によって伊太利に於げろ喝逸支配が葦質上限逐せられスポレpLrアンコナ

()

及びLスカナの

1部といふ農大な領域に向つて散骨国家の所領壊大が途行せられたことである

これらの諸領侵害

と共に数合国家はいつしか粂伊大利政情の複雑な動きを

一手にあやつる大きな世俗的中枢になりあがりつ~あっ

そしてかうした新領はやがて

7二

7三年に至ってフリードリッ三

の特許状により確認せられたのである

都市を続

る中世末期の燭逸政情

〔噂

田)

三一

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 7: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

色あるナショナリズム的統治にゆだねられ多感な

「南欧の子」フリードゥヅヒは東洋的とさへ呼び得る特異な

濁裁的雰囲気の裡に育成されて行った

一方中部及び北部伊太利に於ては帝国の権威日を迫って失墜の

7路を

たどり

コムーネの勃興めざよし-また本国喝逸ではrザックセンを中心とする離反的分立傾向再度接頭し大

勢の赴-ところつつひにこゝに喝逸史上最初の

「二重選帝」といふ不群の内乱を惹き起す由々しき結果を蘭らすこ

ととなったシュタウフエルの正統なるパルバロッサ帝の末子フィリップ

フォンシュヴァ-ペン

(二

九八

年三月八日即位)に封しケルン大司教アドルフをはじめ叔父に嘗る英蘭王リチャード

一世の強力なる支持を悼

んで王位についたハインリッヒ獅子公の第二千従ってヴェルフエンの代表なるオッrLI四世

フォンブラウン

()

シュヴァイク

(二

九八年六月九日即位)の登媛即ちこれであ

嘗て喝途中世政治史畢界のLE匠カールハムペ教授はこの

九八年の二重遅滞を以って

「中世喝逸見上長も

(礼)

致命的な出来事」であるとなしたがつまことにこれこそは喝逸なして爾後の加速度的衰運を招乗せしむる最初且

つ最大のあらはな相別tあったいま特にこの事件を直接の契磯として園の内外に斎らされた政治史的襲質の主

ヽヽ

なるものを巻けんにキつ第

7はあのグレゴール七世のかつての夢を葦現せんとする偉大な教皇インノツェンツ

三世

(H

九八17二

1六)の出現によって伊太利に於げろ喝逸支配が葦質上限逐せられスポレpLrアンコナ

()

及びLスカナの

1部といふ農大な領域に向つて散骨国家の所領壊大が途行せられたことである

これらの諸領侵害

と共に数合国家はいつしか粂伊大利政情の複雑な動きを

一手にあやつる大きな世俗的中枢になりあがりつ~あっ

そしてかうした新領はやがて

7二

7三年に至ってフリードリッ三

の特許状により確認せられたのである

都市を続

る中世末期の燭逸政情

〔噂

田)

三一

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 8: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年報

商学研究

六旋

一四

が吾々はその事情の背後に賓はフリードリッヒ二世が本国オッL-との二重選帝の政事に教皇の支援を得て

(1)

みづからの立場を有利に展開せんとする苦裳の策が秘められてゐたことを看過してはならない

ヽヽ

その第二はいふまでもな-猫逸本圃にみる諸侯勢力の分裂ひいてはまた領邦分立への萩ふべからざる素地を

供したとい今

)とである

九八年より

l二〇〇年に至る猫逸の内乱はあまね-諸侯貴族の勢力をして繭玉の

いづれかに味方せしむろ結果となりフィ-ップの陣営には末猫逸及び南喝逸の殆んど全部並びに西方リエッチィ

ヒ上ロー1リンゲン及びLリエルがオッL-の傘下にはリエツティッヒを除-北西猫逸の全部と獅子公以

(三)

秀の由緒ある世襲領ブラウンW

ヴァイク並びにチューリンゲンが参加するといふ勢力分布の情勢を規出した最

初オットー側の苦戦により商業交易の中心たる下ライン諸都市の打撃と荒麿は甚だしかつたしかしその経緯は

兎に角両陣営に分れてのかうした群雄割壕が如何に相互の政治力を消耗したかはやがてあらはれる外囲勢力の

干渉と新開植民地方の領邦形成とによってへおのづから明かとなるであらう

ヽヽ

従ってその第三としては澗逸王権をめぐって外観の勢力紺係が

1段と深刻且つ露骨に干渉しはじめたことを参

拝なければならないヴェルフェン家と英蘭王室との結合は直ちにもつてフィリップ

フォンシュヴァ-ベン

と望

フィリップ二世オーギュスIとの接誓

欝らした

九八年六月二十九日のヴ

ルムス燥約がそれでQ(鳴-

オッL-四世即位後わづか二十日目の事件であるその後

1二〇〇年Li至り英蘭のジョン失地王はオッL」との

直接の関係を絶ったのであるがしかし叙上の基本的国際関係性まづ襲らなかつたといへよう

のみならずそこ

には従前よりの教皇封皇帝の封立関係が入り苑り加ふるに英俳封立と猫逸政情との微妙な均衡状態の中へ北方

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 9: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

(

R)

丁珠に威を

張るヴァルデマールの勢力が褒勤しはじめて釆

たOかゝ

る間にあってオットーは教皇インノツェンツ

と結んで

一時ヴェルフェン家の優勢を招いたが

(1二〇1~

一二〇三)それも永績せず結局

1二C八年六月バム

ベルグに於げろフィリップの殺害を侯って漸-オッrL-四世の統

1(1二〇八11二

1五)が得られ

たに過ぎな

い濁逸政情はもはや昔日のおもかけな-畝薙巴は全鰹としていまや新しき政治鰭制への試嬢をなめ統治理忠

をめぐるかつての政治闘肇が漸次いはゆる虚々安々の争乱に樽ぜんとする愚者な様相を示して釆たことは拒まれ

ぬ事賓である

されば間もな-オットー四世の封伊太利政策即ち帝国の権威回復策をめぐって教皇との不和が表面化しW

クウフェル家の正系にしてシシリアの若き王たるフリードリッ三

1世とオッL-との封立抗争を中心にまたもや

濁逸本国は両家争覇の混乱状態に障ったわけである

内乱の結果

1二

一二年教皇の仲裁をもってやがてフリー

(三)

ドリッヒの澗逸国王即位となり教皇と併蘭西王室との援助によって

1時危機に顕したシュクウフェル家は再び

その最後の統

1を蘭らすことが出来た前述

1二

1三年教禽国家の所領境大を公認した特許状の附輿も皇さし

-か1

る国際情勢の反映にはかならなかった所以が首肯されるであらう0

ブルックハルrLがいった

「玉座の上の最初の近代人」(dererstemoderneMe仏Chauf

d

e

nThrone)

たるフ

リードワッヒ二世

(1二

1二-一二五〇)の統治もその背後はか-の如き複雑な事情を含み濁逸をめぐる西欧

の国際政局は愈々明瞭に前景におし出されたものと考へざるを得ないそしてかの有名なプ-ヴィーヌの戟

(1

一四年七月二十七日)はこの情勢を護する好個の事例であり爾来集権的な俳蘭西王権の勃興に反し喝逸帝国

都市を洩る中世末期の猫逸政情

(増田)

1L五

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 10: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙折究年報

商学祈究

静六戟

の中世的な中核的地位は動柘をかさねざるを得な-なった次第である

猫逸皇帝と呼ぶにはあまりにも南方的な血統と性格と尊つけついだラ

リードリッ三

の支配はr経国シシリア

王国中心にあのビザンツ及びアラビア風の教養と機構とを癖取した官僚的近代国家の注目すべき理念を生みいだし

一ヽ()

たけれども猫逸本国に関する限り必ずしも成功であったとはいひ得ない香そこに存したものは徒らに基

虚な帝権の抽象的昂場と資質的無力化であり本圃の政治は概ねケルン大司教

エンゲルベルLの梼政に委ねられる

有様であったシシリアと教皇と十字軍rた

とへ封丁抹戦に北猫失地の回復をなし得たとはいへ

(1二二七年七月

二十二日ボルンへ-ヴドの戟)

フリードリッ三

関心の方向はもっぱら南方乃至は東方に向けられてゐたと観

なければならない

中世的な束縛と俸銃から解放された彼は同時にまた猫週の封建的諸侯貴族なして皇帝の束縛から解放せしむ

るの重大な結果を眺めやらざるを得なかった既に十二世紀中葉よりきざし初めた領邦形成の清々たる風潮は如

上の相次ぐ内乱期を経て愈々旺んとなりついまフリードリッAJ二世の治世に及んでその公的な国家汝制上の認容

を徐儀な-されるほどの事態に到達したo

l二二〇年聖界諸貴族に封するいはゆる

Confoederatiocumprinci-

pibus

ecctesiasticis並びにその方向をばさらに俗界諸侯にまでひろめたヴォルムスに於ける

7二三二年の特許

状即ち

Statutumin

favoremprincipumなる二大文書はまさし-かうした歴史的動向の表出であり地方

(一七)

高楼の確立はこ~にその全き意味に於ける公認を輿

へられたわけであ

この大勢は他方喝逸民族の東方植民に

積極的にはたらきかけた諸侯の猫創的統治と合流しいまや喝逸政治の箕樺は綿じて諸侯貴族の手中にをさめられ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 11: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

て行った国内の固き統

一と固持とを前提してのみはじめて強力なイムペリアリスムスは成功する諸侯の分立

的傾向を法的に許容して帝権の安泰は望まれないそれ故r伊太利政策の功罪は姑-措きシュタウフェル家の

光輝ある統治は少-とも喝逸に関する限りフリードリッヒ二世を最後としてはてLもなき政治的揮沌別言せ

ば中世紀の終末近世への過渡期に入ったものと考へられる

即ち皇帝はその晩年はや-もその子喝逸国王ハインワッヒ七世の喝立的傾向に悩んだ

r

両者相次いで媛する

に及び喝逸はこに名茸共に未曾有の政治的危機に直面した

1二五

〇年以降の政局はにはかに陰惨の皮を増し

正統の蒐承著

nンラッド四世

二五

0-7二五四)に抗して封王を稿するものが洩出した日-チューリンゲン

地方伯

ハインリッヒ

ニフスペオランダ伯ヴィルヘルムやがてはまたヴェルフェン=英蘭の系統をひ-コーンウ

ォールのリチァードrそして最後にシュクウフェル=併蘭西の陣皆を代表するカスチリアのアルフォンスコンラ

ッド四世の異母弟

マンフレッドはシュタウフェル家最後の蟻鮎南伊にあつたがやがて悌蘭西勢力の前に破れ

コンラッ一ドの子にしてフリードゥッヒ二世の孫なる十六歳の少年

コンラーディンのあのあはれにもいたましいナ

ポリに於げろ虚刑

二六八年十月二十九日)を最後にさしも華やかであったホI

へンシュクウフェン家の支配

もつひに永遠に世界史上からその葵を汚してしまった

コンラッド三世の即位より数

へて丁度頁

二十年目のこ

とに巌する

政事葛藤の意義は嘗てみた如き遠大な統治理念の相別でも世界政策の正面衝突でもな-なってしまったそ

(Ilt)

の恐ろし-卑難なまでに低下し七草ひの次元が殆んど際限もな-つゞいて蹄

1するところを知らないo吾々はこ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂田)

1七

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 12: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大撃祈究年報

商畢研究

第六凍

一八

こに汲落しゆく政情におよそ共通なる何ものかな教

へられるであらう

か-してつひにあの恐ろしい不吉な

「大益

位時代」がやって来たシュクウフエル封ヴェルフエソの国内上の寧ひは英

俳等外国勢力の間接の封立となわ

ケルン封Lリエルといふ如き大司教の抗肇を織りまぜつゝつひには外観勢力相互の直接の季乱場と化してし皇C

二者封立の抗尊は第三勢力ともいふべきブラン

ンプルグ通産伯オッj-の屋頭によって益々混乱に陥り

真率に専念する諸侯貴族の政治的不安はそのまゝ社食経療生活の極度の不安となって反映した政治の堕落であ

り国家流

7の由々しき

7大事である猫逸国家の犠牲に於ていまや西欧のそここ1に新しい国家形成への歩みが

進められてゐるのである皇帝なき暗黒の喝逸はこの危機を如何にして超克したのであらうかあらゆる萄権威の

失墜と政局堕落のさなかにも侍は吾々は

1脈の建設的な精神と動向との億有を指摘しなければならない即ちそ

1ヽ1r)

の第

7は

ハルラー教授のいはゆる

Landesstaaten勃興の兆候でありその第二は動乱の世に廃してこそは

じめて各地に湧然としてあらはれ乗った自衛的

自治的意欲の向上換言すれば庶民階級を中心とする同盟乃至諸

多誓約困鰻の旺盛な結成といふ新傾向である

そしてこの二つの動向こそ皇さに中世喝逸をして近世的なものに

韓生せしめる二大基軸であったそれは兎に角吾々がこ1に顧みんとするライン同盟もまさし-かゝる新気遣

が生んだ時代の産物にはかならなかった然らばそれは

7豊如何なる過程を経て欝らされたものであらうか故上

の政情を漁想しっ1以下茸をあらためてその成立事情をあとづけてみよう

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 13: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

十三世紀の中葉いはゆるライン同盟の形成をみたその直前の猫逸はr前節にのべた如-既に統

1的王樺の尊

厳なく戟鋤なる教皇側の支配槽要求は複雑に諸侯の分立主義

(Partikutarismus)と結ほれ王の選出は

1に

かかつて領邦諸侯の意園に依存する有様であった王樺の動掃不振は同時にまた国家性

1股に封する危慣不信の

横行を結果Lr諸侯の利己主義的な争奪行為は王を背景としっ王より出づるあの俸流的和平感の均衡を無意味な

らしめその赴-ところ澗逸はつひに金-の政治

法制的無政府状態に迫ひやられざるを得なかった政治力の

中心を

失った恐るべき無秩序の配合その社食不安の影響を身をもって日常生活に味はふべ-飴儀な-されたもの

が何よりもとづ農民香有無相通の商業交易を生命とする市民階級であったことは想像に難-ないところで

あらう即ち動乱期農民階級の犠牲はrいはば間接的乃至は地方的に課役の負椿と戟争とに開はるに過ぎぬもの

であるが新興市民の打撃は彼等が相首高度に政治経済的な葦勢力を客観的に保持する程度に遷してゐるだけに

それだけ本質的且つ致命的たらざるを得ないわけであるそしてその最も具鰹的な

一つの表はれとしてr吾々はあ

の有力諸侯貴族による悪意的な新枕開

(Zoltstatte)の相次ぐ増設を拳拝なければならない

さてかうした税関設置の動向を窺ふ

1助として吾々の主題に関係深いライン関税のみについての概略をあ

([l)

のゾムマエフッドの著名な研究に準接して

T管せんに大様次の如き轡蓬を示してゐる即ち綜じて十二世紀まで

のライン関税がその本質に於て報酬乃至は手数料主義

(Gebiihrenprinzip)換言すれば交通障樽の除去と安金保

護とに封する反封給付たるの原則に基いてゐ七のに反しこの世紀の中東わけても十三世紀を

7大輯機として

(二二)

いつしかそれは純然たる地方的諸侯貴族の主要財源の

一たる色彩を濃厚にして釆たわけであるO交易促進の施設捻

都市を幾

る中世末期の濁逸政情

(静

間)

l三

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 14: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大草祈究年報

商学折究

第六故

三二

いまや交易阻害の負湊と考へられる方向に轡質して来た吾々はこ1にも亦いはゆる領邦形成なる政治法制史的

推移と経済史的事象との密接不可分なる開聯を認め得るであらうい皇その趨勢の

一端を税関数の封比によって例

示せんに十二世紀末までに存した確琵あるライン沿岸疎開所在地の数拭StrassburgWormsVMainzK6tn

BingenBoppardRemagenOppenheimKobtenzNimwegenDuerstede等の古き検閲所のほかにHa

mmerstein)SchmidthausenGeisenheimReesI)uisburgAndernachNeussKaiserwerth等新設のそれ

(一三)

を加へて僅か十九個所に過ぎ

然るに十三世紀に入るに及んで殊にその四十年代以降r疎開新設の風潮

は俄然活況を皇し史料によりその世紀末までの存韓を確認し得る新税開所はSpeierEhrenfetsMaJusturm

StGoarBacharachSinz

ig

OrsoyHuissen

T

i

e

tK

e

tschBurgRhensteinSterrenbergBraubach

OberwesetMonheimT

r

echtingshausenFiirstenbergfMannheimKaubBiiderichUrdingenWorrin

(iT

)

genRheinbergBonnLahnsteinの二十五個所に透してゐ

従って十三世紀末に於ける文書上公然たるライン

検閲の教は前掲の分とあはせて四十四個所となるわけであるがしかもこのほかに伺ほ同世紀中に新設されてその

世紀末までに巌止されたるもの(例へば

UdenheimGermerSheim

の如き)並びに殆んど盗賊群の巣窟にして同

時に税関の役割をも演じたと目される多数のブルグ

(その事例は特にビングン下流地方に多かつたといはれる)求

存してゐ七のである以って吾々はrこの常時に於げろ水道交易の不便を想像すると同時にそれが諸侯の有力な(一夏)

財源となり得るだけの貨簡経済的繁栄を二不した十三世紀の特殊性に深き想ひないたさなければならないであらう

叙上の如き社食不安と交易の阻害が勃興する都市市民を振って勢ひ自衛手段牽動

への直接行動に奔らしめた

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 15: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

のはこれまた自然の成行であった都市同盟結成

への意欲が即ちその表はれである吾々のライン同盟もまさ

し-か1る意欲に歴胎する

一大表現であるがrLかしこの大同困給を摘発するまでにはつ侍は幾多の苦々しい前史

(lY)

が控験されなければならなかった以下吾々はもっぱら

エーリッヒビールフェルナの近糞とモヌメンクゲル

(云)

マニエヒスLリカ所牧の見

に従ってライン同盟の前史とその成立過程を考察しあはせてこの同盟のみが

もつ特質の

1舞を窺ふいとぐちを探索してみようと思ふ

都市の同盟は皇づ開校の互恵的族的なる形をとって登場するOかの

T二〇八年頃に締結されたと考へられるヴォ

ルムス及びシュバイエル両市の関税協定はへその最も初期の事例でありいはゆる

「都市

ハンザ」の先駆的現象た

一二三〇年乃至

1二四

丁年のリューベック及びハンブルグ両市の同盟の如きも要するにもっぱら経済的な目的

(二〇

のための結合にはかならなかった然るにかうした経碑的利益擁護のための同盟とならんで早-も吾々は

1二二

六年政治的傾向を前景にか1枠た都市同盟の著例に逢着する即ちマインツ大司教の癖政就任に反抗し綜じて

司教支配の塵迫より腕せんとするライン並びにヴェッ

テラウ七都市

(マインツビンゲンヴォルムスシュパイ

(完)

エルフランクフルLゲルンハウゼン及びフリードベル

グ)の同盟がその噴欠であ

やがて間もな-司教への

(冒)

抗季をかゝ抄て自治権確保をめざすリユツティッヒ市を盟主と仰ぐ同司教琶内諸小都市の同盟がそれにつZ^

-

侯貴族は政争を利用して国王を動かし屡々都市同盟への揮塵を企囲したが時勢の赴-ところこれを根絶する

へ三)

ことは出来なかったこれらの同盟はいづれもすぐれて政治的にみえながらもその茸経番的な諸問題を円に

A-んでゐること今更いふ真でもないがしかし時あたかも北方リューベック市が丁抹勢力の

一掃を機に光輝

都市を境

る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三二1

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 16: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大串研究年帝

清孝研究

弊六教

三二二

ある

「帝国自由都市」の特許状を獲得し喝逸市民階級のために寓丈の気煩を吐いたその年

二二六)に該首し

(equiv)

てゐることを吾々抹偶然以上に深-注意しなければならないQ何となれば市民階級は患さし-十三世紀の二

三十年代を明白なる

7特概として自己主張の客観的なろ方策を知り階級の囲結性を自覚するまでに蚤蓬したo(蓋

)

あらゆる都市の涯制と諸権利とはr爾奔とりわけ意識的に圃李を通じて獲得されゆ-傾向き不して死るのであるが

それらの中でもつい陪ゆる

「明晶

囲思想」(Eidgenss

ensEhaftsgedanke)の向上展開には特Liみるべきものが

多かつた例

へば

1二五

一年ベルンフライブルグ

イムーユフト二フンドヴィフリスブルグ及びムルテン四都

市に

一部地方の自由農民圏をさへ加へT領邦諸侯に封する自主防衛のために緯成された「ブルグンド盟約囲」同

じ頃皇帝nンラッド四世に背琴する諸侯貴族に抗して帝園への従順とシュクウフェル家の擁立とを主張した上

ライン地方諸都市の同盟

1二四六年]ユンスターオスナブリュック「Jンデン

ヘルフォルドコエスフエ

ルド等によって作られた

「永久同盟」を基鰻となし後

7二五三年に至ってゾェスミ

ドルLムンド及びリップシ

ユタッL等を

加へて更新補強されたヴェスdaggerファリア諸都市の同明血等々の如きは

諸侯の暴政に抗しての必然の闘

率であったとはいへそこには既に際かに

7種の政治理念への萌芽があらほれてゐた

即ち都市総領邦諸侯の強塵政策殊に不法な関税政策の犠牲より党れんがためにまづみづからの経済的葦力を

十重に牽拝して近傍都市と結び国王直接の保護下に立たんと努めたのであるがその結果はその好むと好キざる

とに拘らず経癖的なろ動機を越えて政治理念の封立と化しライヒの統

Tに封する領邦の分立といふ濁蓮的政情の

特異な種別の裡に

一つの動かすべからざる地位を主張するに至った次第である尤もさうし七連動は未だ各地

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 17: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

に散在的な部分的動向であり国家改造の

一大基軸となるまでには至ってゐないのであるが

一二五四年以降マ

インツヴォルムス両市の協力を契機として聾展したいはゆる

「ライン同閉巴

の大成をみるに及んでその色彩

愈々鮮明となりこ~に市民階級の政治的在り方が大基位時代を背景としてついはば国家史的事象の記念すべき

7頁をかたちづ-ることとなったO

想ふにマインツとヴォルムスとは嘗ては皇帝封教皇の寧議を反映して両々相譲らずヴォルムスのシユタウフ

ェル薫なるに反して

マインツの教皇派的勢力には強大なるものがあった然るに時代の轡連と市民の現茸政策的

自覚はいまや表面的なる政事以上に切葺なる共同戟線結成の必要を喚起し

1二五四年二月両市は相互援助

市民の同権外敵への共同防衛等を内容とする永久同閉皿を誓約するに至った(Mainz-W

ormserBun

deg)両市の

市民はこゝ

に於て

concives=と呼ばれ相互の係専事件に関しては双方より選出した各四名の仲裁委員合の義

断に委ねることを協定した然るに同年四月三日に至りrこの同盟の中

へ国王直屡の都市オッペンハイムの参加が

許容されることとなりついはゆる

「三市同盟」(Dreistad

tebund)の成立をみたがやがて間もな-その五月二十

九日には

マインツとビンゲン市との問にあたかもヴォルムス市との場合と同

7の燥件に基-別個の同閉皿が結成

三Lご

された

(Mainz-BingenerBundeg

)O

かくて吾々はおよそ三つの同盟がrライン同盟に直接発行するものとして存在したのを知るのであるがさて

愈竺フィン同盟それ白襟がこれら三同盟へわけても

「三市同盟」を中心に如何なる事績をふんで成立したかに

ついては史料不足にして侍は不詳の鮎が多いたゞ

しかし前述せるヴォルムス

マインツオッペンハイム並

都市を繰

る中世末期の猫逸政情

(噂

田)

三二三

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 18: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙祈究年報

商学祈党

葬六溌

三二四

びにビングン四都市の中に全国和平同盟締結への気道動き同

一二五四年七月のはじめ各地諸都市に封してマ

インツの合合についての召集状が牽せられたものの如-同月十三日には早-も成立準備の第

1次合合が行ほれて

ゐるのをみるのである

集まるものマインツrヴォルムスrケルンシュバイエルシュLラスブルグバーゼル

等の古き大都市をはじめr早-より盟約国結成の素地を育成しっゝあったヴエツテラウ中郡ラインの諸都市を加

へrいづれも従兼の行懸りを捨ててこ~

に向ふ十ケ年間の

7殻的和平pax

g

eneratis乃至は神聖なる和平

sanctapax

の誓約をなし不法関税の徴収を以ってこの不可侵なる和平の破壊者たる旨を宜明することが

(竜)

出来

吾々はそこに従乗のいはば局地的なローカルな都市同盟の文書にみた如き軍なる相互扶助乃至は共同防衛

の意園を越えて悠久なる社食秩序の維持に身を以って首らんとする遠大な市民精神の昂損を読みとり得ると同時

にこれをば畏なる固定的な偏固な

「都市同盟」に限定しようとはせず寧ろよろこんで諸陰貴族の参加をも寛大

に認容歓迎せんとするいはば現茸政策的な都市のイニシアティーヴの巧妙さを感得せざるを得ない即ち飽-まで

も都市の創意に基-諸侯手段化の成功であり同盟の媒大普及と共に諸侯貴族は盟約者か然らずんば平和破壊

BIB51E

交易阻害者かのいづれかと見徹されざるを得ぬ立場に迫ひやられて行った

か-して二ケ月の後に時早-もマインツ大司教とヴォルムス司教の加盟となり十月六日には同盟成立後最初

の組合がヴォルムスに開催される選びとなったのであるがその時には既に都市の軍事的

控癖的優越が確信を以

って主張せられ同盟に参加せざるものはさうした相互援助の提携から排斥されることとなったのであるから金

融上の財産ともいふべき都市市民の横の結合を強化された諸侯領主は止むな-これに加はる傾向を示して充た

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 19: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

中部及び上ラインの諸都市は概ねこれに加盟したものと考へられるがこの時の文書のみによっては筏念なが

(1~)

ら加盟都市及び諸侯貴族の組数を窺ひ知ることが出禿ない

しかし翌

1二五五年に入ればケルンの加盟に動かされた仝ヴェスTLファリア諸都市の合流がみられその年

の末には南はチューリッヒより北はブレーメンに及び東はヴユルツブルグより西拭ア-へンに達する虞大な全領

域の多数諸都市を包含し諸侯貴族も亦rtリエル大司教ライン宮廷伯rチューリンゲン地方伯シュrlラスブ

ルグ及びメッツの司教等を加

へ加盟貴族の組数葦に三十

lの多きに達してゐるいまそれら加盟都市及び聖俗雨

(UJ)

界貴族の紙数をモヌメンク

ゲルマニエヒスLリカ所牧の史料より引用せんに次の如-であ

(

)

)

NominadominorumquisanctampacemgeneratemcumcivitatibusiuraveruntGerhardusarchy

-

episcopusM

oguntinus

Chunradusarchyepiscopus

ColoniensisA

rnotdusTreuerensis

aTChy

episcopus

RichardusW

ormaciensisepiscopusHeinricusArgentinensisepiscopusBerhtotdusBasitiensis

episco

pusLacobusMetensisepiscopusabbasWldensisLudewicuspalatinusRehnietduxBawarieChunra

duscomesSituesterD

itheruscomesde

K

azenetenbogenFridericuscomesde

LiningenBerhtotdus

comesd

eZigenhagenEmichocomesSiluesferGotfridusfr

atersuusdominusPopocomesdeDurnen

UlricuscomesdeFerretscomesdeVirneburchdominaSophiatangraviaThuringiedominaUdithitdis

comitissadeLinin

gendominusdeTr]rnberchUtricusd

eMintNenberchGerlacusdeLimburchPhilippus

deH

ohenvetsP

hitippusdeWalkenstaindominusdeS

t

ratenberchpincernede

ErbachWernherus

都市を繰

る中世末期の猟逸政情

(噂

田)

三二五

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 20: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年報

商畢酢究

第六旋

三二六

d

apiferdeA

tezeiaHeinricusdeErenberchRumb

o]dusde

Sta小na

heGerhardusdeHorenberch

(2

)

N

omirlaCivitatumconfederataruma

dpacemgcneralemMaguntiaColoniaW

ormaciaSpira

AzgentinaBasiteaTu

rchgumFriburchBrisacumCo】umb

ariaVStezestatHagenowiaWizenburch

int

NiewerlStatWimpiaHaidetberch

LoutenburchOppenhaimFrankenvortFrideberchWetnariaGeil

enhvserrMarburchAgitsveltGrvnenberchHirsvetdenVoltdaMvtenhus

enA

schafFenburchSelige

8tatPinguiaDipachBacheracumWesatiaBobardiaAndernacumBunnaNussiaAquissedesregat

is

inWestfatiaMunstereeta

ti

ecivitatesptusquamLX

comcivitateB

remensi

即ち三十

tの聖俗諸侯貴族と盲験の大小都市

(うち都市名の判明せるもの四十

一名を摘brざ4もの六十以上)

との大同困結となってゐるのでありしかも前者の中には

pin

cernahellip(歓酌侍者

)dapifer(内膳頭)等の

個人名があらはれてゐるこの事箕はライン同盟の個別主義的

人的性格を窺ふ極めて興味ある要鮎であると推測

(巴)

するものである

その詮索は兎に角以ってその急速なる擁張ぶりとその規模並びにそれが国家添削史上に演

じた役割乃至性影響の看過すべからざる所以の

1端とが首肯され得るであらう0

のみならず更に翌

一二五六年に至れば同盟は東方へとその盟約者を増しゆきヴユルツブルグの司教や都市

lこ

ルンベルグレ-ゲンスブルグ等を加

へると共にやがて猫逸

ハンザの指導都市となるであらう

エルべ彼岸の

(竺)

ハンブルグやリューベックをさ

へもその盟友となすことが出奔た

喚大利

べ-メン等の適嚢を除-重唱逸の地

に捻盟約結成の衆道が萩ひ配合不安を超克し勃興する領邦の遠心的分立傾向を巧みにおきへてこ~に不思議

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 21: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

にも都市市民の指導と創意に基-ライヒ統

7の意欲の結晶が斎らされたわけであるいまや張力なる帝権の主張が

(T()

勉望せられ中世的弼逸国家の襲質が巽求せられてやまぬ客観的情勢を呈してゐるO

現箕生活の飲み難き自己主張から出萄してこゝまで漕ぎつけた猫逸市民階級の政治的結束こそは中世都市が

もった最大限の緊張であり領邦に封する光輝ある勝利でな-て何であらう

然るにも拘らず常時の政情は都市

に幸ひせず皮肉にもライン同盟の完成をみたこの

一二五六年こそ大益位時代のはじまる宿命の年であった那

市はこ1にあらゆる手段をつ-して同盟の統

1維持につとめ血のにじむ努力をいたすのであるが結局その政治

統制力の無能を暴露し間もな-領邦撞頭の前に屈服せざるを得なかったその解濃過程は姑-措き何故にか-

の如き急速の成功ををさめ皇た如何なる組織をもってこれを維持しようとしたのであらうかライン同盟の本質

が従前の都市同盟のそれと異るとこかは果して郵達に存するのであらうか吾々の考察は囲家改造の理念にひっ

かげっゝこの鮎を解明するところに立到った次第である

ライン同盟の驚-べき急速の展開を概観した吾々は概ね

(1)それには決してあらゆる都市が都市なるの故に

困鰹的に加盟したものではな-鞄-恵でも個別的な加盟の仕方を本領としてゐたこと(二)従衆の背き某事の行

懸りな捨てて真でもその或る都市がこれに参加したこと五七

(equiv)あらゆる諸侯貴族がこれに容量したので捻

なく

同時に参加の仕方が

一骨人的結合の性格を張-示してゐ与

)と等々を指摘し従ってそれが従死乃至はその

)

都市を繰

る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三二七

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 22: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大単研究年報

衝撃研究

第六改

三二八

後にみる如き単なる都市同盟とは異り郡市のイ一1シフティーヴに基-市民と聖俗両界貴族との香時には農民

をさへ含むところのrおそろし-綜合的

普遍的な盟約道動であったと思はれるふしに言及して置いたのであるが

さて然らばか-の如き大同困拓を可能ならしめた所以換言すればこの同開皿に特異なる本質は果して郵蓬に存し

たのであらうか

この間題は軍にレアールにこれを取上げる限りr

l方では本稿第

一茸にのべた如き常時の社食状勢と政治的不

安を他方ではその間に於ける都市市民による経癖的権益の保護乃至は損大保語の必要とその超克過程を出来得

る限り具鰻的に分析描出することによって

7歴の解明がつ-如-であるそしてこの解明の方法は恵さし-必要

であり市民階級による現寛政筒的な側面を無税または礎成して徒らに第三階級の政治理念を高-評償すること

は他の社食経済史的諸事象に於げろと同様甚だ危険な企てである

にも拘らず吾々はこの場合特にさうし

た理念史的なものとの閲隣を無税してはへこの同盟の本質を正常に理解することが出来ないのである0そのわけは

綜じて政治史的事象は現茸に根ざす理念史的なものとのつながりに於てのみ兜的意義をもつといふ抽象的な

1般論

の故ではな-

1時的にもせよこの同盟の成功をみた背後には際かに他にみられなかった理念兜的基礎の存在

が高らかに詣ほれてゐるからでありしかもあたかもその鮎にr喝逸政情が中世的なものから近世的なものへ脱皮

しゆ-最大の契横がひそんでゐたと思考するからである

(盟

)

(盟

)

(買

)

想ふにライン同盟に関する匪桂の文献はかのメンツェ

r

ヴァイツゼッカ

クィッ

の如き前世紀の古

き諸研究のほかは極めて家々でありいはば史家によって既に克服されたるものとしてrその茸いひ得べ-んば忘

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 23: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

却されてゐるテーマであったそれ故殆んどなべての教本的文敵はいづれも大基位時代直前に於げろ

1種

エビ

ソーディッシュな事件としてこれを取上梓七に過ぎずそれがもつ国家法制史的意義に至ってはr何等その核心に

(I))

闇れた所詮をみないといふも敢て過言ではな

この

1見挿話的にさへみえる事象に閃しっそれがもつ質に新しき

史的意義を大股率直に表明し忘れられたる史葦に新時代の光を投げかけたものこそさきに謁けたビールフェル

(宍)

Lの新研究にはかならな

従ってビールフェルrLの結論が後にのべる如き

1種の行き過ぎを想はしめるものを

(U)

含んでゐようと

吾々としては彼の提出した問題の把へ方にその貢献を認めなければならないであらうしまた

それだけに今後

一骨の分析乃至は別方面

別硯角からの再吟味が要請されるわけである以下しばら-この新研究

を顧みつこの同盟がもつ特質を窺ってみよう

さて都市の市民階級がめざした経済的権益の如何は兎に角それが

一種偉大な政治蓮動としてあれだけの大同

国結にまで襲展し得るためにはそこにはまざれもな-その時代を動かし歴史を創造するだけの推進力が内在して

ゐたことを否定するわけにはゆかない別言すれば個別的

常盤的な利害関係を包括しっゝも温かにそれらを

越えた精神がひそんでゐなければならないか~る見地よりあの一二五四年七月のいはゆる同盟結成文書をはじ

()

1群の関係史料を読んでみる

そこに吾々は明かに次の如き二つの大きな源流をもつ顕然たる目標が摘けら

れてゐるのを汲みとることが出来るのである

ヽヽ

即ちその第

1は

音axgeneratisの語によって代表される和平令

(Landfri

ede)の精神でありその直接の

模範としてかの有名な

1二三五年八月十五日フリードワッ三

一世によって畿せられたマインツの全図和平令

(Co

l

都市を繰

る中世末期

の渦逸政情

(増田)

三二九

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 24: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大草研究年報

商撃研究

六故

三三〇

(竺)

nstitutioMoguntina)が推定されるこの両者の不可分なる類似閲係は例

へば

)不法なる私的疎開の設置

(dl)

(至)

を以って盗賊行為と見倣すと共にそれが撤贋を要請する項(二)任意的私的差押への禁止に関する規定(equiv)盗難

「且7)

貨物の返還並びに善意の第三者によるそれが購入に関する虎置乃至は手緩

はじめ或る個所の如き殆んど文言

の類似をさへ指摘され得るのであるがしかも必ずしも全-の模倣ではないそのことは強力な帝樺を抽象的な

がら全図に布かんとする皇帝の和平令と中央権力の権威地に墜ちたる後の都市による自力本位の明血約との差異

(豊)

よりしておのづから理解されるところである

たZしかし問題はrpa

xgenerati

s

ないはば

7股的観念と

ヽヽ

してライヒ全鰹に安首するものと考へ「盟約」なる特殊の行為を通じてr武力行使と自衛権の牽動とを客観的に強

化し正常化し以って

「ライン同盟の和平は即ちこれ猫逸帝国の和平にはかならない」との確固たる信念に燃えて

「吾等と共に和平を誓約せざるものは誰にても

7蚊的和平より除外さるべし」(qu

l

VerO

p

aCemnObis

(英)

I

Gumnoniuraveritexclususapacegenera

ti

permane

b

it)

との決議室向らかに宜明した鮎に存するこの

ことは

帝権衰磯の裡にあって皇帝による全図和平令の精神牽

い綻ば下からの自己主張を介して巧みに鰻受発

展せしむると同時にみづからその精神の拾ひ手となつを

)とであり都市より牽した事件を完全に

1韓して確固

洗制の中心問題に成長せしめたものであるとい抹ざるを得ないしかもこのことにして可能なりし所以は(こ

市による経済的葺力の養成(二)帝国全土を背景としての商業交易の安全性要求(equiv)特にライン沿岸諸都市市民

の遠隔地商業性(四)従ってまた市民と帝国との利害関係の合致(五)進取的有力市民による帝国統

丁維持への献

(雪)

身等々といふ諸要因の整備固熟よ

極めて自然且つ明白なところであり諸侯の和平令にみる如き地方的制的な

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 25: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

C3

i)

仝猫逸」への誉

田性が全-自明のこととして前提克

てゐたのであろそしてあ宗

もこの鮎に吾是

「領邦

(d)

化への反抗」といふあのライン同盟の重大なしかしいはば消極的な在り方の

1特色を窺ひ得るのではなからうか

(六〇)

源流の第二は

paxsanctaの語によって示されるG

ott

esfriedeの精神であるO抑々

Gottesfriedeの思想

はその淵源を遠-十世紀の南悌蘭西に蔑し

ハインリッヒ四世の頃猫逸に絶交され前述

Landfriedeと密接な

J結合をなしたところの治安維持の確認乃至は両とのつながりに於げろ休戟思想の相互確認

(Treugadei)であ

原則として

7定期間内に於げろ特定人

(例

へは聖職者

順薩

商人

婦人

農民といふ如き)乃至は特定施設

「∵)

(例へは数合の諸超造物及びその周遊

一帯といふ如き)の安全保護を目的とするものであるがrライン同盟はまさ

し-この思想をとりいれしかもそれを全階級に恒久的におしひろめることにより庶民

1蝦の法的保護を確立せ

(i1)

んとめざしてゐたこのことは何よりもちつ

)ライン同盟の盟約破壊者に封する罰則が

Gottesfriedeのそれ

(六三)

(六四)

即ち敦合法的な色彩をおび(二)利子徴収と不常利得

(turpetucrum)への制限乃至は禁止を決議Lt(equiv)諸侯

(歪)

(六六)

役人の侵害より

一般庶民特に農民階級を保護せんことを強調

(四)全等族の卒等なる権利保護を主張

r

また

(五)同開皿愈議をば開催都市

(四つめ指導的都市即ちマイ

ンツヴォルムスケルンシ

rLラスブルグにて順

次に行はれた)の守護神たる各聖者の釈祭日に行ってその決議の権威を数合との開聯に於て昂めんと努め写

しと

等畏

瞭かに窺ひ得るところである

吾蒜

こ-にかの

「市風自由の原則」と呼ばれる都市法精神Sta-

((()

dttuft

machtfreiinJahrundTag法諺の

一源流に想到せざるを得ないのである

それは兎に角ライン

同盟の精神的基礎が大略叙上の二大思想の合流牽展たる鮎に香し菅に領邦分立

不法関税の阻止といふ如き消極

都市を繰

る中世末期

の狗逸政情

(増

田)

三三1

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 26: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙酢究年報

商撃折究

第六改

三三二

的方面のみならずこ1から出牽していひ得べ-んば新しき等族国家

(Standestaat)の茸規をさ

へ企囲するほ

どの遠大な国家革新の道動にまで時化しっ1あった専葦を指摘しなければならない

1二五五年三月十日国王

ヴィルヘルム

フォンホ-ランドがこの同盟の公認をなし七時その文書に示され

たSanecum

addepon

endainconsuetaetiniustathe

t

oniasuperRenum

divinasufrragantectemenciageneralisp

axpleCOn

ceptafueritetpostmodum

aquibusdamexnostrisprincipibusetuniversis

comitibus

et

nobilibus

etsottempnibusnunciisomnium

civitatumdeBasileainferiusinnostrapresencianuper

apudW

ormaci-

amconiurataitavideticetutquitibetsiveprincePsvelcomesautnobilisseucivisburgensisopidanus

velagricolasivevillanusvetIuiuscunque

condiciionisexisiatconteniusdeceieromaneaiiuresuo

(fJ

)

-なる

この達の事情を雄留に物語る

一史料といへるのではなからうか

およそか-の如き精綿につらぬかれ与フィン同盟がとりわけ都市のイ

ニシアティーヴによって道営せられ指導

せられてゐ七草茸はその活動乃至は組最を顧みることによって

一層明かとなって乗る0即ちこの同盟の抑々の

へしl

創意者がさきに言及した如-マインツ市の遠隔地商人を中心とする

1困なりと推定されるこ

並びに諸侯貴族の

(七1)

参加が少-とも同明皿成立後二ケ月を経てはじめて認められたに過ぎぬこと

々を度外視しても(1)最初モーゼル

河を頃とする上下ラインの二大置分がほどこされヴォルムス及びマインツのほかならぬ都市嘗局がその指導的中

(空)

核となつ与

)と

(二)加盟者の戦備に関する規定も兵士

軍馬

武器等はいづれも都市による出征兵億を主眼と

()(

)

なしr都市相互の攻守同盟の妙味章拝をねらってゐたこ

(

equiv)殊に彼等相互の連絡のための生命線ともいふべき

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 27: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

ライン河の守備にはもっぱら都市による軍櫓のそなへを厳にLr上ラインの諸都市は石貨を下ラインのそれは

(畠)

五十隻をいづれも都市側の負槍に於て常備Lr以って

t朝有毒の際に於けるライン航行の濁占を企圃したこと

(四)諸侯の詮かと事を樺

へた際の出陣は事葺上多-都市のみによって行はれrその軍費の負桧も亦都市のみ

(豊)

によって分路されてゐたこと等よ

はゞ推測され得るところである0尤も前述の如-この同明虹は都市に即しっ

つも都市を越えた全等族の国家改造をめざしてゐたがためにその道皆には極力内部抗肇を避けんとする細心の配

(実)

慮がうかゞ捻れその具鴇的事例は不詳であるが兎に角近傍農民階級をさへ盟約に参加せしめたのであるから

いはゆる同盟合議

(Bundestag)の組鶴の如きは各都市夫々がもつ重要性の如何を無税してあらゆる都市あ

らゆる諸侯に原則として平等の決議権が規定されてゐた即ち加明芸

は各々四名の金権零

点を合議に廉通し組合

は最初のうちは適宜に行はれ七がやがて毎年四回前掲EI都市で交互に

山定の祝祭日に行はれることとなりそこ

(宅)

に於て係季事件の調停裁判も行はれたわけである

しかも吾々経つこれらの裁判樺行使が軍に盟約困相互の和平維持といふ如きいはば私的申合せ的なものではな

-あたかもフリードリッヒ二世の重囲和平令にみた中央樺力にも該首すべき公的な均衡感の基礎の上に立って

ゐたことを注意しなければならないそしてその根壕とするところはもっぱらライン同盟の尊展途上に於ける政

治史的推移と不可分に結びあって生じ乗ったものなのである

即ち同明皿結成の直前

コンラッド四世は伊太利に

在りrヴィルヘルムフォンホーランドまた故国の動乱に奔走し国事を顧みる中心なき猫逸にあつての自衛の

必要が諸都市をしてさきにのべたが如き全国和平令思想と

「碑の和平」思想とのいみじき結合を捧ふに至らしめ

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(増

田)

三三三

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 28: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年報

商学研究

第六凍

三三四

七のであるが

7二五四年五月二十

一日コンラッド四世捜しr従宛多-シュクウフエルの味方であったライン沿岸

(宍)

の諸都市はこ~に固らずも重大な政局捧換の危機に直面することとなったこの機に臨んでヴィルヘルムの勢力

境張策と都市の権益擁護策との利害関係は密接なる提携を示し同年八月九日フランクフル下市の投降を契機とJ

して同九月ラインの諸都市は撃ってヴィルヘルムの王権に服従の態度を表明したそしてその結果が翌

二五五

(JL)

年二月六日のヴォルムス固合に於ける同盟の資質上の公認であ

国家法制上に占めるライン同明皿の地位はこゝ

に傭然として合法化されたわけであるOこれを都市の例よりいへば王権への屈従ではな-て同盟の向上頚展であ

り国王の側よりいへば王機基礎の巧みなる強化であったとも考へられる

諸侯貴族の或るものはヴィルヘル

ムに封する砂からざる反感を抱いてゐたとはいへっこれを

以って都市はr三権と結託する利益共同鰹たるの自覚を

昂め箪

Tなる王権強化こそその家柄の如何を間はず都市繋柴の最大前提であるとの意識を愈々鮮明に強めて

行った

へヽ=)

か-の如き背景巻線想しっ1

一二五五年二月並びに三月のヴォルムス園舎の決議及び同盟公認文書の内容を考

へる時吾々はそれがもつ史的意義の重大性をあらためて再吟味しなければならないのではなからうか何となれ

ばこの史料こそは第三階級たる市民に封しっ諸侯と同等の閥事に関する表決権を附興した史上最初の劃期的事件

へBlr刑

であ

r

爾釆同盟に参加する限りに於て都市は都市として国家の政策に参輿する坦々の道が拓かれたのである

そしてこのことは決して単なる法文上のことではな-事案その後に至って都市は或ひは漂着貨物掠奪没収権の

(I1)

凝血或ひは諸侯による貨簡恵錆

への反封等にみづからの権利を主張してゐるのであ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 29: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

か-の如き動向が王権の衰稜と自領の分立とを企囲する諸侯の不平不満を買ふであらうことはr推測に難-な

いところであらう

もともと諸侯貴族の同盟参加は消極的であり殊に農民保護にまで乗わいだした同盟の精神が

諸侯の政策と衝爽を充たすことは自然の勢ひであったしかも国王の諸政策は事案上郡市勢力の向背によって動

いてゐるといふも敢て過言にあらざる情況にあるこ~に於て同明皿の将来には諸侯と都市との妥協部をいづこ

に求むべきかといふ新しい難問題が萩ひかぶさつて釆た

1二五五年六月以降にみるいはゆる「十六名委員合」(国

((1)

王により選ばれたる諸侯例委員八名と都市の選出せる委員八名より成る調停委員合)の設置同十

7月十日のオッ

(]Z)

ペンハイム同盟絶食に於ガる国王親臨下の調停等はついづれもこの問題に封する禰縫策のあらはれにはかならない

ヴィルヘルムの地位はライン同盟殊にその都市勢力を背景としてr俄然猫逸塾土に絶封的優位を示して雅たO

それ故もし彼の統治にしていま少し-永接したならば或ひは新しき等族国家の出現が可能であったかも知れな

Bl印e

いとい抹れるの

あながち附合の詮ではない然るに

7二五六年

1月国王の急死はこの改革のすべてを水泡に

辞せしむるの結果へと導いて行った王権と同盟との結合が出奔てよりわづかに

1年凶ヶ月目のことである

公IRU

国王の急死によって同明皿の緊急組合は同三月十二日より十七日までマインツLi召集され

この合議が示した同

盟の意志総徹頭徹尾二重選帝への反封軍

央集権の確妾

聖でQ

CS

)r

紅葉

安の増大に伴壷

的趣旨の再確

認を行ふと共に家柄の封立を越え教皇の干渉を無税してひたすらライヒ統

i者の唯

卑猫なるべきを強調する

鮎にあった

E

thecomniaunanimiteretfirmitertam

diuservabimusdonecnobisunuspresentetur

inregemquideiureregnum

Romanum

debeat

obtinerecuideconcordiconsensuetunanimiconsit

都市を繰る中世末期

の狗逸政情

(増

)

三五

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 30: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年中

商学研究

第六娩

三三六

((tJ)

iotamquamnostro

regietdominofidetitatemetservicia

d

ebitatibentissim

efaciemusJの1句は

もよ-これを詮してゐるされば同朋還

この意志をば同六月二十三日フランクフル1に開催さるべ計諸侯による

選王合議に提示すると同時に神聖なるべき和平の維持と帝国政情の動向監視の態度とを表明したしかし大勢紘

都市に率ひせずrわづかに北璃語族の賛同を得たのみで複雑卑俗なまでに低下せる諸侯貴族の政争はつひにケ

ルン大司教封JLリエル大司教の封立を購って英蘭のコーンウォールのリチャード封カスチリアのアルフォンスの

(ltJ)

抗率といふあの猫逸史上未曾有の不詳事を惹き起すこととなっ

七年は紋や-もこの動向を決定的ならしや

ライヒ統

1の企ては都市市民のあらゆる努力にも拘らず

急激に掬落瓦解しゆかざるを得なかった都市と諸侯貴族との盟約としてのライン同盟はこ~に於て領邦諸侯政

事の渦中にまきこまれrあの遠大なる精両はそれを葦現にうつすべき客観的な

「場」を喪失して行ったその崩

壊過程は兎に角成立後わづかに二ヶ年牛その間同明皿が示した精神は決して単なる経済的なそれではな-

逸かに虞大な革新的意欲であったことはもはや証もが否定し得な

いであらう「全等族の平等なる権利保護の上

に立つ帝国の和平」といふあの観念紘中世猫逸の国家構成原理に封する偉大な創造物であったことを吾々は深

-銘記しなければならないしかもそれは上述せる如-フリードりッヒ二世の

「重囲和平令」思想と基督敦界の

「柵の和平」思想との市民階級による結合によって社食不安の問にはじめて宣揚yTれた観念なのであったこの

意欲の前には従前にみた如き王家の封立抗争や羅馬の権威干渉等はrもはや問題の核心に解れて奔ないのであり

さればこそオランダ伯ヴィルヘルムの王権を支持しまた畢

7の王権確立を主張し得たのであったヴィルヘルム

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 31: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

によるシュクウフェル的国家政策の復興が革に現賓政策の然らしむるところに過ぎなかったか否やは少-とも

吾々嘗面の関心事ではない吾々に問題なのは寧ろか-までにその政治的在り方を意識し自覚しそして

「大

「九I)

婚な」までに主張したところの市民階級が何故同じ-政治的不安の波上にあってつつひにあへな-も領邦分立の

前に屈しなければならなかったのかといふ事情の解明であるこの鮎こそ中世より近世への移行過程に於ける濁

逸国家の政治法制史的香ひろ-文化史的な特質なさぐる鍵なのではなからうかかうした問題所在の構造を漁

想しっゝ次にライン同閉皿の解鰻を簡単にあとづけてみよう

およそ叙上の精潮史的基礎と囚はれざる自在の組織とをもつライン同明蒜

いはゆる「皇帝なき惰るべき時代」

に虞して何故か-も速かにその無能を暴露せざるを得なかったのであらうか

二言以ってこれないへば同盟決

議力の教具に封するみづからの過大許債に基因するとでも考へるのほかはないヴィルヘルム王の急死とそれにつ

(空)

づ-二重選帝とを外的原因に挙げることは

1雁正雷であるしかし政局はもはや都市市民の考へるが如き漠然たる

ライヒ統

7の均衡感に封してさへもその信損を置いてはるなかった現葦は寧ろr清濁併せ呑む具鰹的政学の

「場」を要請しその地盤をしっかりと確保するもののみ兎に角もみづからの主張をなし得る底の政情を皇して

苑た葦情にそはざる徒らに高遠な理想の追求は結果に於ては要するに具陸的成果を掴み得ざる中立的態度に格

らざるを得ない同盟はまさし-この現箕と理想の間隙を橋渡しするにはあまりに旦向椙的たるのそしりをまぬ

都市を頼る中世末期の狗逸政情

(窄

田)

三三七

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 32: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大畢研究年報

簡単研究

第六改

がれ得なかったわけである

]二五七年四月英蘭より名乗りをあけたコーンウォールのリチャードが猫逸本国に渡って翌五月十七日首都

「Z)

ア-へンに即位戴冠を宜

し七

郡市71へンは阜づ最初に同盟の規約に反して異邦人の王に止むな-忠誠の誓を

はしたのである

このことは去る

7二四八年オランダ伯ヴィルヘルふの軍隊に攻囲されたな皇な宜しい苦難の

歴史への回顧が市民をしてか~る拳に出でしめたものであらうけれども同盟としては既に

7巽の瓦解を意味

する深刻な痛手といはざるを得ない次いで間もな-下ラインの雄ケルンが

Tはその大司教

コソラッドとの政治

的抗字の故に他は英蘭との通商の俸流的重要性てふ経癖的原因の故にrこれまたつひに盟約への違反を犯しリ

「九)

チャードより贋汎なる特権の附輿を得て同盟より除落すろこととなったあたかもこの時南嘱逸にあつては

帝国和平の確保をめざす上ライン同盟諸都市のバーデン達磨伯に封する教がつゞけられてゐたがこれも不宰同

315巴

盟例の改戟に終る運命に障っ

盟友

一方の槙ともいふべきケルンの違約と南喝戦局の不利はこ~に加速度的に

しかも原則として個別的に各都市をして新しい三権との結合に趣かしめ他方もともと滑檀的であった加盟諸侯

貴族をしてその鮭叛的傾向を強めしめるといふ由々しき二重の新動向を展開したわけである

即ちはや-も同年八

月に掠盟主の

1たるマインツの屈服開城となりr九月八日にはヴェッテラウ諸都市ついでオッペンハイムrオ

ーベルグェ-ゼルビンゲンシュレットシュクッLr

ハーグナウ其他の諸都市も夫々特権の確保を僕件として

(空)

リチャードの陣営に馳せ参ずることとなっ

その間たゞ1つポッパルド市のみ新王へのせめてもの反抗を試み

たけれど

-それは敦さし-蛙郷の斧にも比すべき抗争であり間もな-強大な武力の前に簡単に征服されてしま

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 33: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

つた

か-てラインを中心とする西北猫逸の地にはリチャードの王権が日を迫って強化され墳大されて行ったのであ

るが他方未だ喝逸の地を棲息ざる封王カスチリアのアルフォンス即ち曹ホ-へンシュクウフェンの血統を

ひ-伐協の如き新王に左裡する有力都市も出現したヴォルムス及びシュバイエルがそれであり吾々はそこにシ

ュクウフェル家の世襲領シュヴァ-ベンを中心とする俸流の筏捧皇試みとることが出乗る両市は

一二五八年

一月

に至りあらためて再びアルフォンス支持を横棒する新同盟を結成したが慣ちにヴォルムス司教

エーベルハルドと

の衝突を醸しつひに同七月にはグォルムス市民のみLl千鳥寛の賠償金と諸多の特権を代償としてリチャード例

(L)

に味方することとなった

政事はかうして都市市民の政治理念を腐蝕顧贋せしめそれに代るに随所に金権授受の

横行を招釆した最後までシュタウフェル家に加捧するものの如-にみえたシュバイエル市も大勢如何ともなし

(忠)

難-その司教の韓向を契機として同十月リチャード軍の前に市門を開いたのであ

一一

封王のいづれに服するにしてもそれが封王である限りそしてまたつか1る動乱と個別的脱落の過程を

経た限

り同盟はもはや昔日の盟約春枝を云々することは出奔ないライン同盟は名茸ともに全-解醍したものと見倣さ

るべ-現宴の権益内容がrそのよ~個別的な

「特権」(Privitegium)に還元され分解されてこ~に再び都市

勢力の分散を蘭らすこととなった想

へば

一二五四年七月マインツの盟約成つてより僅かに四年と三ケ月の運

命であった

この年九月リチャードは英蘭に掃ってそこより猫泡を治めカステリアのアルフォンスはつ擁立者を通じて王

都市を繰る中世末期の弼逸政情

(噂

田)

三三九

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 34: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年帝

商草餅究

第六騎

三四〇

位纏承樺を主張したのみでつひに

1度も喝逸の土をふ皇なかった爾来澗逸は文字通り王者なき

Interregnum

となり

7二七三年新興

ハブスプルグ家のルドルフのいづるまで中央権力の所在は混沌として障

一するところ

を知らす香その後と雄も王家の更迭相ついで行はれ政局はもはや中世的なそれをば牛ば腕していはゆる領

邦のは蹄しき桔抗状態に入って行ったo諸壬選出の基礎があらゆる意味に於て領邦形成の地盤に依存することとな

3155し

っ七のも亦自然の勢であったといへよう

さて然らばライン同盟の解鰭と共にr吾女の都市はその従苑の勢力を失ってしまったのであらうかo香断じて

然らす

都市はたど諸侯貴族による領邦分立化の傾向を阻止することが出死なかつたに過ぎない換言すれば帝

国との閲聯に於ける都市の政治的活動は概ねこれを以って失敗したと考へられるのであるが他方経済的葉栗は

愈々顧著となりもっぱら商巣権益わけても諸外国に於げろ権益の擁護嬢張をめざす別個の同盟結成が登別た

る遠隔地商人階級を横に縫って大成されることとなった猫逸中世史の末葉を

飾るかの有名な

「猫逸

ハンザ」(Die

rLJJ

DeutscheHanse)のめざましい活躍が即ちこれである

ハンザ的結合への韓換とその驚-べき奏数とに反しラ

イン同盟の精神史的基礎たるあの和平理念はいまや皮肉にも領邦諸侯君主によって巧みに絶承利用されることと

なった領邦内の勢力伸張と和平確立とをめざす諸多の地方的和年令牽布がそれでありrこ1にライヒのミクロコ

(一〇〇)

スモスともいふべきLandesstaatenの在り方は愈々白日の下に照し出されて来

いはゆる

Landfriedenszo

tl

の徴収の如きその最もあらはな表出であらう

市民階級の問に残るライン同盟への追憶とその精神はその後小規模ながら都市同盟の形をとって屡々復興を策

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 35: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

されつひに十四世紀後年に及んであの

「シュグァ-ベン都市同盟」二

三七六-1三八九)並びに

「ライン都市同

(一〇一)

盟」二

三八

にみる如きすぐれて政治的な相雷の園緒を蘭らすこHurramp出充た

しかしその道動は大局よりみて

班にあまりにも手遅れであり努力の絶大なるにも拘らずライヒの問題にまでこれを展開することは出禿なかった

何となればカール四世の

「金印憲章」に示された圃家改革は瞭かに諸侯による寡頭政治の確立領邦分立主義

(一〇二)

の高らかな勝利であり都市勢力の如きは濁逸政情の金牌を動かす何らの決定権をも持ち得ずまた持つべき徐地

をさへ疎んど輿へられてゐなかつたと観るのが安富なのではなからうかのみならずこの頃に総統に都市行政白鷺

(10n7)

の中にパトリチアー1支配とツンフL支配との相別葛藤をめぐるは仲しい混乱が壕頭してゐ七のであるか

てのライン同盟の如き大同囲結は到底望み得べ-もなかったわけである

都市はかうして漸次領邦諸侯の政策限界の中にとり入れられ狭小な分立的精神に萩はれて少-とも政治的に

扶概ね消極的な存在に化して行った「帝国自由都市」の特権に求められた積極的進取の気風はライン同盟の解

韓を有力な契機として

一般的には消滅したゞ1部のすぐれた遠隔地商巣乃至は特殊産業中心の都市のみその経

済力の故にわづかに地方諸侯と封等の地位を

保持し得たにとゞまるた2しかしr呉々も注意を喚起すべきは

あたかもか1る政情を背景としていはゆる

「都市経済」(Stadtwirtschaft)時代と呼ばれる配合経済史上のあの

(l〇四)

特異な墾展段階が展示されたといふ事案である

こ1に至って吾々は(こ

十四世紀に於げろ都市内部の行政奨革乃至は政治抗争の様相と(二)いはゆる

「領

邦」(Territorium)なるものの具鴇的な接頭過程とを分析描出すべき興味ある課題の前に立つわけであるがそれ

都市を鏡る中世末期の弼逸政情

(増

)

三四

1

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 36: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年額

商学研究

節六鍍

三四二

は本稿嘗面の問題ではないQこゝではたri猫逸中世都市が中世末期より近世初頭への過渡期に示した最も類型的

な政治的在り方とその好趨の一端とを叙述し以ってそれとあの異色ある

「近世都市」の牽展との問にr必ずしも

ヽヽ

直線的に考へ得ざる喝逸

「中世都市」特有の律動が存したことを指摘し得れば充分である

以上吾々は従苑比較的等閑成されたライン同盟について主としてエーリッヒビー

ルフェルトの近著による

示唆に基きつその成立

本質並びに解醍過程の概要をあとづけたしかし吾々の問題はr決して単なるライン同盟

の性格描鳥につきるものではな-冒頭の序言にのべたが如き中世末期にみる猫逸政情を都市市民の政治史的在

り方を中心に考察する鮎に存したことは今夏多言を要しないところであるO従ってrこゝにひとまづ本稿を閉ぢ

るに際しいま

1度吾々はその考察の眼をぼ中世紀にみる市民階級の政治性

】殻の問題に韓じてみる必要に迫

られるのである

か~る見地よりひろ-猫逸中世史を通じて示された市民勃興の過程を顧みる時吾々は大略次の如き-しき囲式

的閲係の存在に想到せざるを得ない即ちいま憤りに

「喝逸皇帝時代」(DeutscheKaiserzeit9)9It254J

をも

っぱらその政治

汝制史的動向に準じて第

一期十世紀初頭より十

1世紀中葉まで第二期十

1世紀中葉より

二=A)

十二世紀中英まで第三期十二世紀中葉よわ大基位時代真での三期に分けその間皇帝勢力の味方となった諸

勢力とその敵方にまはつた

封立勢力との抗率を観んに第

1期にあつてはr皇帝と聖界諸貴族との結合に封する

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 37: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

(三ベ)

いはゆる種族諸公図

(StammeShezogtiimer)の反抗がみられ第二期にあつてはかのハインリッヒ阿世の叙任

(lo匂)

槽寧議を契機とする帝樺と市民勢力との結託に封する薙馬教皇賞

(聖俗両界の貴族)の執糊の抗肇といふ形をとり

第三期に入ってはへ既に本稿の随所に開設せる如-r帝樺と結びついた都市市民並びに

7部自由農民といふ一般庶

民勢力に抗する領邦諸侯貴族の桔抗が前景におしいだされて禿てゐるのであるしかも特に吾々の興味をひ-こ

とは市民階級の勃興がまさし-第二期即ち

ハインリッヒ四世治下の政情を背景にはじめて史上蔵ふべからざ

る政治勢力牽不し宛ったことであり別言すれば三権の支持乃至は王権への結合な-しては猫逸都市は恐ら-

あれだけの政治的活動を蓋し得なかったのではなからうかといふ鮎である

終始封抗する分立的諸傾向の波上にか-の如き政治的在り方牽不してこそはじめて猫逸都市は他の西欧諸因

の中世都市にみられなかった如き贋汎な自治権を獲得し特殊法域を形成し等族意識の誇らかな昂場を途け得た

のではなからうか接頭する領邦諸勢力の犠牲とならずさりと

て英俳にみる如き強力な主権下に吸収される運

命に立到らずしかもまた伊太利に於げろが如き

「都市国家」への頚展をも阻止せられてあたかも常に存した

両勢力均衡の中間に立ちつ1巧妙な自己主張の客観的な

「場」を見出し以って

「市民」(Biirger)といふ文字

通り第三階級の等族的自覚にまで到達した鮎にr吾々は猫逸中世都市のユニークな史的意義を認め得るものである

と信ずる

否極言すれば都市自鰻が政治的均衡の培ひ手となった鮎についはば中世紀的政情の一つの極限が見

出されたものともいひ得べ-その最も初期の類型的なあらはれが吾々のとりあげたライン同盟であったのであ

る従って王権と都市勢力との分離そしてやがて王権と領邦勢力との不可分なる結合といふ新醍制の展開に凄し

都市を繰

る中世末期

の弼逸政情

(噂

田)

三四三

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 38: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大草嗣究年報

商学祈究

六統

三四四

た時それはまさにライヒ自鴨の戒壇の領邦化を意味しr時代はも枚や

「中世的なるもの」を越えて「近世」に入

りゆ-顛著な兆候を露呈し乗ったものといはざるを得ないのである

尤も都市はこの食機に臨んで

「ハンザ」といふ特殊の同盟形態をとり主として経済的権益中心の最後の結合に

題進した

ハンザはこの意味に於てその成立淵源の如何に拘らず中央権力なき喝逸にあって封外的に

「猫逸」

商人を主張する唯

7最善の方途であったわけであるO

それ故その尊展途上r翠に援唐的なるもの以上に政治史

文化史的な幾多の貢献を猫逸民族史上に残したと紘いへ英

丁等々の諸国に近代国家への鰹制整備

がみられ本圃諸領邦乃至は騎士囲国家また国家的自覚を強化し乗った時既にハンザの進むべき方向と限界とが

規定せられてゐたと観なければならない吾々はそこに特に伊太利都市国家との封比に於ける興味つきぬ問題の所

在を憩ふものである

市民階級の歴史的役割に関する西欧各図の此較史的研究は姑-招き「都市と領邦」

(StadtundTerritorium)

といふ封置関係の出現を以って猫逸国家そしてまた喝逸経鱒のr近世的なるものへの移行の陣痛がはじまつたと

観ることは赦上の意味に於てたしかに正常であるyTれぽこの雨着のいづれにアクセンLを竜-かに廠じてこ

こに猫逸見全膿の見透しに紬する大きな史観の封立が登場する

即ち

一方の論者が濁逸近代図表の成立従って

ヽヽヽ

また喝逸国民経済の形成のためには中世的王権の地方領邦君主への移譲領邦政策の充茸領邦経済

(Terri上

rialwirtschaft)

の確立なる諸現象をばrその不可映なる牽展段階となさねはならなかったと観じて「領邦」が国

家形成に演じた療極的役割をすぐれて高-許憤しようとするのに反し他の論者はこれと全く逆に都市市民の

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 39: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

醗治的意欲乃至は生活感情こそライヒ統

一の原動力であったのであるから若し領邦分立てふ政局の醸換がなか

ったならば必ずや英

併等にみたと同株既に十三世紀に近代国家国民経済

への移行を或る程度まで達成し待

l

たであらうとなし十五乃至十八世紀の永き分立状態の罪を

領邦諸侯に韓すると共に都市市民が国家統

一に抱い

た情執首

理念を極力強調しようとするものである0そしてかうした所論封立の最も代表的なる事例を吾々はシュ

ハ1Oハ)

(一Of)

バングンベルグの領邦重税論

とレーワッヒ教授の都市重硯論に類型的

に窺ひ得るのであるがrか-の如き問題の

(二〇)

所在紘匪にかのフォンベロウの名著中に漠然とながら的されてゐ七と観て差支なからう

吾々が本稿に屡々

(二一)

引用したビールフェル1の構想も結局はレ-リッヒ的見解を基調とする色彩極めて濃厚であり例へば都市に

よる国家改革遣動の失敗をば不幸と款じ

Dieunsetigen

Ereignissederlah

re1256]7habendiehoffnun

gsvottenAnsatzeeinerneuenEntwicktungdeutscherGeschichtezerschtagen

なる感慨の1旬を以って

(二二)

その粂叙述を

閉ぢてゐるに後しても際かであるこれを同じく7ユバングンベルグの著作の最終貢に示された

Die

Zerset

zungserscheinungendes

t3Jt4JahrhundertsWetchedas

lungeW

erkd

e

rLandesherrlichkeit

unterh6httenundteitweiseden

Verfattepreisgabenst6rtendieimt2Jt37ahrhundertbegonneneEnt

(二三)

wicktung

なる結句に比べれば

雨着立論の間隙が果して郵達に存しっまたおよそ如何なる構想のものであるか

かはゞ窺知されるであらう

都市と領邦の許償問題に関するこの史観の封立は表面上は

たそゞれだけのことの如-であるが茸は橡めて深

いところに問題の核心をもってゐる

へばレ-ワッと教授の如乳は明かに領邦の法的機構を以ってすぐれて羅

都市を繰

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三四五

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 40: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年報

商畢研究

静六溌

三四六

ヽヽヽ

ヽヽヽ

魔法的なるものと解し都市市民こそゲルマン的法形成の最後の努力をなした

「重昭逸」的意識の捧ひ手であった

(四)

と観てゐるのであ

この見解は革にナチス史学の

一動向としては片づけられぬ有力な変的板蟻を有すると同時

に吾々としては領邦形成の根基にもまilr薙馬法精神の影響以外に根づよ-働きかけたゲルマン的統治理念の

存在をもつと探-掘り下げて探求しなければならないのではなからうか殊に最近中世封建国家が領邦形成の

線に沿っていほゆる

dominus

tel

raeを中心に近代国家化する過程への分析がかの図の史畢界に於げろやか

(二見)

ましい論争の封象となりつ1ある事茸に鑑

みr

蘭衷問題の早計なる囲式化従ってまたビールフェルjの結論にも

充分警戒の必要を感ぜざるを得ない

かうした諸論争に封する展望的な解説はい真吾々宙接の課題ではないしかし蛮上の概観を通じて吾々は

あらためて次の如き極めて素朴的且つ基本的な諸問題への銃き反省をうながされてゐることを附言しなければなら

ヽヽ

ないその第

一はおよそ

「都市と領邦」といふ封立を包含する金醸制こそ茸は中世後期

「猫逸国家」といふも

ヽヽ

のの他国にみられぬ特質の具鰻的表出ではなからうかといふ問題でありr第二は

1鰻綜じて西欧羅巴に於ける

「封建国家」とはr従ってまたその否定としての

「近代国家」とは如何なる構造をもちまた

1般民衆の如何な

る階犀から如何にその

「国家性」を観念せられてゐ七のであらうかといふ問題である

これらは双方ともおそろ

し-大きなテーマでありその解明は容易な巣ではないが「国家性」(Staat-ichkeit)生成の歴史として殊に

「欧羅巴」を理解する

一つの有力な手懸りとして吾々

づからの眼による新しき見直ほしを要請される好課題な

のではなからうか尤もひとはさうし七問題に関しては既に或ひは国家観

国家思想の史的展開といふ面から

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 41: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

或ひは国家横棒の葺冠的分析といふ側から諸多の企てが行はれて燕たことを指摘するかも知れないoLかしそれ

らの問題設定は概ね理念兄精神史思想史に鳴るにあらずんば法制史的

経済史的な概念につらぬかれた分

prime

析か単なる政治史にはかならなかったのであるさればこそ市民や農民が各時代に於て具鰭的に如何に国家

を観念し国家に閲興してゐたかの疑問については殆んど満足な解答が輿へられ得なかったのであるそれ故貴

書に必要なのはこれら各方面の研質諸成果を利用することは勿論ながらしかもそのいづれにもあらざる具鰻的

な綜合的把擾を敢行することであるO問題をあらゆる文化部面生活部面との交渉に於て殊に国家性への

7般民

衆の具鰹的なつながりの面に於て浮彫りにすることが必要なのであち

これを例示すればr俳蘭西のカペ-王朝や英蘭のノルマン乃至はブランクhネッL王朝等がr依って以って立っ

てあた基礎が貴族

聖職者拭勿論ひろ-

一般人民から如何に観念せられそれらの各々が如何なる構造と限度

に於て「囲家性」に開輿してゐたのであらうか伊太利都市国家はあの小規模なコムーネより出費しっポデスク

(tlr)

一lヨ

ーレ等の諸制定

諸機関を

通じていはゆる

VotksSouveranitatと

Diktatttrの間歯を

提出

近代軒

家の精神はまさし-こゝから全欧へと藩大され伊太利都市国家相互の諸国家畦制がやがて全欧的な規模にまで

(二七)

展開していはゆる

「欧羅巴的諸国家憾制」(EuropaischeStaatensystem)を現出したしかし吾舟にとって妓

この展開過程のあとづけのみを以ってr問題が解決されたのではないこの展開を以って西欧に探-板ざしてゐ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

る或る共通的な国家性の親方乃至は敢骨形成の原理が諸多の経緯を経つ~も種力雑多な表出のいろ

どり空不して

そこまで襲展したものと考へられないであらうか狗逸はその間如何なる萄展を量しまた何を甫方からそして

都市を幾る中世末期

の猫逸政情

(増田)

三内

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 42: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙祈究年報

商畢研究

第六改

三四八

また

西方俳蘭西から畢びとったのであらうか0

1鱈シュテンデ

(等族)意識とは何であらうか吾々の疑問は限り

な-つZいてゆ-イデーとして却って後期に昂揚されたかの神聖羅馬帝国理念の存損は兎に角ライン同盟の

事例が示した問題の中に何か叙上の諸疑問を

山貫する

「欧羅巴的なるもの」の

i面が強-にじみ出てゐる如-

感じられてならないつまり人的結合の自覚としての

「明皿的」が国家性にまで生成牽展するといふ圃鰻構成の偉

(二八)

大な事葦に問題を解-

一つの鍵が秘められてゐるのではなからうか

綜じて欧羅巴的国家構成の本質に関する厳格な再分析の必要を覚えつ1そしてまたいはゆる政治史と文化史と

の新しき綜合観照確立の必要を感じつ~中世末期に市民を通じて展示された猫逸政情の特異な構造の概観をひと

まづ閉ぢることとする

肘WA

(

1j

HSpa

ngenberg

T

e

rritorialwirtschaftund

Stadtwirtschaft

EinBeitragzur

Kritikder

Wirtschaftsstufen

t

h

eo

rieM

Gnehen

uBer

tin1

932

S)

9f

RK6tzschkeuW

Ebert

Geschichte

derostdeutschenKolonisa

tionLei

p

zig

t937巻末所

収都市

の大

を示す附固参招

(二)

私は「

都市経済」の

「開かれたる面」と

「閉されたる両」と

の二重性格を通じて中世経済横棒

1端が把握され待る

のではな

いかと考

へてゐるそれについては例

へば

FR6rigMittetaLterticheW

ettwirtschaftBliiteundEnde

i

einer

WettwirtschaftsperiodeJenaL933

の如き構想と

ビユツヒアIのそれとを想

へ伺

ほまた

HIBechtetWirtscha

ft

sstildesdeutschenSp

atm

ittetattersMiinchenuLeip2ig1930参踊

(equiv

)

拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立

』(『一橋論叢』欝

t巻第五鏡所収

)参

(

)JHalterDieEpochenderdeutschenGeschichteN

eueAufIStuttgartuBertiか

)927

S169

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 43: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

(

)

この連

の事情について多数の論議が行はれ文献また枚挙に達がない例

へば新しい研究としてはtGDun

kenDie

politischeWirksamkeitderpapstlichenLegateninderZeitdesKampfes22Wischen

KaisertumundPapsttumin

Oberitatienunter

Friedrich1HistStudienHeft209Bertin193)の如きを参照せよ

(

)

ハイ

ソリッヒ獅子公とフリ

ードリ

ッヒ

一世

との衝突は

軍に政治上の

1時的現象で埠な-猫逸法制史上

の重大な帝換

と統治理念

の対立とを含んでゐるそれ故この間題を

めぐる論争は

いはゆる皇帝政策論撃

l瑞として極

めて重宴

であ

り最近ナチス史学の餐達と共に

1層清澄な論争

の封象となり来

った親がある新しい文願としてほRSchmidt

He

inrichderL6weSeineSteltunginderinnerenundauswSrtigenPolitikDeutschlandsHZBd)54)936S24)

-284の如きを見よまた拙稿

『猫逸ハ

ンザ都

市リューベックの成立につ

いて』(東京産大研究

年報

『経

済畢研究』

欝四験併

収)第

一六四頁以下にも簡単に摘れて置

いた

(

)

神聖羅馬帝国に関する最も人口に胸灸せる古典的名著JBryceThellotyRomanEmpireLondon

t904の夢

1章を特に参照せよ

(i)

BGebhardtsHandbuch

d

erDeutschenGeschichteV64ligneubearbeitetherausgegebenvon

AMeisterBd

(6AuftStuttgartt922S457-460

(

i

q)

KHampeDeutscheKaisergeschichteim

ZeitatterderSatierund

Staufer2AufILeip2igt9)2S203

(

〇)

へば

ADoren

ltatienischeWirtschaftsgeschichteBdⅠJena

1934S157-)60LMHartmann

Kur2gefassteGeschichteltatiens

vonRomutusbisViktorEmanuetGothauStuttgartt924S)4SfJHat]er

aa0S76f等参照

(

)

ADoren

aa0S)518

JH

atler=aa

0S79

(T二)

BGebhardtsHandbuchS4604

62琴照O

都市を競

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三四九

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 44: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東某商科大草研究年報

商畢軒究

第六凍

五〇

(二二)

MGConstitutionesetActaVTomusIINl1Pa

GLumGu

mPhilippoIL

Ie

ge

Fra

n

ciae)

KHampea

a0S206を着よ

(一四)

DSch監er

D

eutscheGeschichteBdⅠ〉Mittetatter)0A

uflJenat932S3293

3)侍は前掲拙稿

『狗逸

yザ都市

リューベッ

クの成立について』夢

二ハ六頁放下参周

(一五)

BGebhardtsHandbuchS470f倍はまた

MGConst

ⅠⅠNl44FoeduscurnP

h

itippotZregeF

ranciae

)2)2N

ov

)9参周

(1六)K

Ha

mpe

DasfJochmittelatterGeschichtedesAT)endtandesvon900-)250Berlint932S278-305

D

Schafer

aa0S3)3f

(三

)

M

GCbnstII

Nr73u

171侍は

AMeisterDeutscheVerfassung

sgeschich-evonden

Anf抑Tgen

bis

inst51Jahrlmndert

3AuflLeip2iguBerlin1922S)69参

照O

(t八)

BGebhaldtsHandbuchS47Sf

(l九)

BGebhardtsHandbuchS487f参摺cap

(二〇)JHatter

DieEpochenS97f偽

DSchSfer

aaOIS335-356を肴よ

(ここ

TheoSommer7ad

r)ieRheinz6Heim

Mittelalter

f

lalleaS)894

(二二)T

Sommertad

aa10S44f

(二三)

この

ほか備ほ

WykbeiDuerstede及び

Tietam

Waalに存したが前者は

Due

rstedeに移轄され後者は

一一

七四年

Kaiserwelthに帝国税関

の設置されると共に廃された詳し-は

TSommertad

aa0S47を参掴せよ

(二四)

T

Sommerlad

aa0S49-55の叙述より抽出す

(二五)

税関

の貸倦償億

を寮知する

1助として次

の如き事例を挙げて置から即ち前掲

カウプの税開所はライン宮建伯に

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 45: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

よってフアルケンシュタイン伯よりT二七七年近傍

のブルグと共にニ千首ア-(ン馬寛で買収きれまた時代が多少

降るがクライン-ケムスの税関所は

equiv

1九四年国王ヴェンツエルにょpランプク

Bンの倍聴ブルックバルトのために~

その借入金二千ダルヂ

ンの代償として新設を認可されてゐる偽

はまた十三世紀中に二十五個所

の新設をみたライン親爺

は十四世紀中の新設十八十五世紀中

の新設六と

いふ数字を

ボし加ふるにその頃には既設税関

の願止を溝田してゐるか

ら結局十三世紀を以

ってこの動向

の項鮎と見徹さなければならな

いTSommerlad

aa0S54-60参照O

(二六)

ErichBielfeldt

DerRheinischeBundegYon

)254Einerster

VersucheinerReichsreformNeue

Deutsche

ForschungenAbteilungMittelalterlicheGeschichteBd3Bertin1937倍

ほ本署に封する

EBockの批評

tHZ

Bd)57)938S630-631を

も参照せよ

(二

七)MGLegum

SectiotVConstitutioneset

ActaPublicaZmperatorumetRegumTomustⅠedLWeiland

Hannovert896Nr428ム37ConfoederatioPacisRhenana〉)254-)256

(二八)

前視拙稿

『ハ

ンザ同盟の成立』並びに

EBietfetdtaa0S忘参殿

(二九)

二二〇年冊までにみro猫逸都市と帝転との政汚関係の襲蓮についてはt

OttoOpp

ermannの労作tUntersIChun

gen

2urGeschichtedesdeutschenBiirgertumsundderReichspolitikvornehmtichimL31JahrhundertHansGbE

JgL

9LLS33-)85が詳

しい]二二六年

の同盟に関してはその

1二五貫以下を見よ

倍旺また

MGConStIiNr

294

CassatioConfoederationisCivitatum

Rhenanarum)2262ov27を参照せよ

(HIO)

EBietjeldtaa0S)4

(三

1)

tはダォルムス園舎

に於ける諸侯

の意国を反映しての決議

に基-国王ハ

ypッヒ七世の禁令

MGC

onstII

Nr299

Sententia

contraCommunioneSCivium)23)Jam2023の如きも

のの背後の事情を想

(o

(三二)射落拙稿

『濁逸ハ

ンザ都市リューベ

ックの成

立について』革

1六七貢以下参照O

都市を換

る中世末期

の精義政情

(将

)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 46: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年報

商畢研究

第六襲

三五二

(三三)

文等憾作を通じて表はれるリューベック市

の著例については同じ-前掲拙稿の後牛第三四章に開設して置

いたO

(三四)

この間懐妊思想史と法制史政治史と文化史

の全面をつらぬ-興療ある問題であるされば特に別個の横合に於て

近-詳細の考察をほどこしてみたいと考

(てゐる

(三五)

EBie-fe-dt

aa〇S-ひ

(三大)

EBielfeldta

aOS1

71

(三七)

MGCons

t

n

Nr428)

ConventusMguntinusPrimus)2541Jut)3殊にその節二項及び夢七項参照

伺ほその詳細は本稿

次章を

みょ

(三八)

この見解に

ついてはtWBecker

Die

Initiative

beider

Stiftung

desRheinischen

Bundest254degiss

Giessent899並びに

OIHintze

DasK6nigtum

WilhetmsYonHotlandHistStudienHeft15Berlint885の

異論があるが

こ1では次章にのぺる理由の故にビールフェルトの新見解に左視するも

のであ

るEBietfetdt

aa

70S)9-22参照O

(三九)

いま同盟の全壊感聖不すせめてもの参考のためにこの時になされた協約文書のアレンガの部分を引用して置かr

MGConsttINr428It

AnnoDominiMCCLttTIinoctavasactiMichaetisconvenientibusnobisinunum

coniuratiscivitatibustan

superioribusquam

inferioribuspropaceservandaincivitateWormaciensihabitoCOLT

oquioettractatuditigentisuperhiisquepaciadtinentgeneratiadhonorem

Deietsanctematrisecctesienecnon

sacriimperiicuinuncFreestserenissimusdomi

nusnosterWiHehelmusRomanorurnrex-etadcommunem

utilita

temequatiterdivitibusetpauperibusordinavimushecstatutariteetinviotabiliterobservandautexindegaudeant

pauperesetmaiores)ctericisecularesreZigiosi)aicietJudeinolentes

in

eorum

executioneque

visa

sunt

reipubliceexpedirerebusparcerevetpersoniSinterctusisnobiscum

principibusetdominisconiuratis

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 47: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

(四〇)MGConstIINr

428VI

NominaDominorumetCivitatum

Confoedキatarum倫撃フィン同盟参加都市

の分布

についてはDeutscherKutturattas〉hrsgVGLddtke

undLM

ackensenGruppe

GeschddtMAs

BertinuL

eipzig19

33Nr

9

)

()iepotitischeBewegungen

zurZeitdesInterregnums

L250IL273なる便利な地

がある

(四

])

私はこ

の間題をば菅にライン同盟に限らず綜じて

Eidgenossenschaft)SchwurbriiderschaftConjulatiocommI

unionis等

一塀

の西欧的圏髄意識

T性格

に関係

せる重穿開題と

して

の横骨

に取上げてみたいと考

へてゐる

(四二)

EBietfedt

aa0S29f

(四三)

この見解は或ひはあまりにも大勝

に過ぎるかも知れないしかし個々の事情は兎に角問題の構造乃至は客取的な煙

制は大尉より親てまさし-かゝ

る凍相を鼻してゐたのではなからうかこれについてはハルラー教授

の抽象的

ではあるが

警告的な見解が参照さるべきであ

らうJHatter

EpochenS)24fDersetbe

VondenStaufernzuden

Hab

s-

burgernAufl6sungdesReichsundEmporkommenderLandesstaaten

(1250-)5)9)Sammtung

G6schen)935S

15参照

(四四)

CF

MenzeL

DieGeschichtedesRheinischenStadtebundesim

13JahrhundertProgr

OhtauuRati

bor)857[59

(四五)JWeizsackerDerRheinischeBund

t254TGbingent879

Ders

ZumRheinischenBundvon1254Ar

chivZsBd4)879S268fE

(四大)

LQuiddeStudien

zurGeschichtedesrheinischenLandfriedensbundesvon

t251FrankfurtL8∽5Ders

I)ieEntstehnungdesKurfdrstencottegiumsFrankfurtt8891

(四七)

へば既に度

々引用した

BGebhardtsHandbuchderdeutschenGeschichteBdl〉S4

88JHatler

Die

都市を鏡

る中世末期

の弼逸政情

(増

田)

三五三

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 48: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東寮商科大串節究年報

商畢研究

欝大境

三五四

Epochender

deutschenGeSchichteS)24DSchafer

DeutscheGeschichteBdiS357等参照

偽は特に

色あるものとしてライ

ン同盟の観家法制

史的意義を比較的強く許償開

設してゐるも

のにtJLoserthGeschichtedes

SP

SterenMittelattarsYonL197bis1492HandbuchaMittelalterluNeuerenGeschichteM

hchentt

Berlin

190

3S)26fがある

Oついて参着せよ

(EZlt)

EBietfeldt

I)erRheinischeBundeg

von)254EinersterVersucheinerReichsreformBe)tint937

I

に封する

EBockの批

HZBd)57)938S1630f参

(四九)

本稿結語

の項参照O

(五〇)

MGConstItNr428-437殊にその

Nr1428R

etat

i

od

e

Co

nve

nt

ib

us

Confoederationis

の鱗

1二五

四年七月十三日のいはゆる

結成文書より

7二五六年八月十五日の絶食に至るまでの計十

1鮎

の文

音を収め

同盟の性格

規模等を束ふ貴賓の史料である

(五

一二三五年の生国和平令

本文はMGConstlINr196)96aに収載され手近かなものとしてはカトル

ツオイ

マ-凍寒の史料集Q

uetlensammtungzurGeschichtederDeutschenReichsverfassungTei二

2AILlTdbi

ngenL913Nr158S68-77に

よっても穿ふことが出蘇

偽ほ本文書

は猫

羅両

文あり帝王支署に

して燭逸譜を使

用せる最初

の事例と

いほれ

古文青草上符亦掬逸文化史上貴君の根本史料となってゐるかうした親鮎よりの考産につい

ては上原等株数投のすぐれた近著

『鵜逸中世史研究』(昭和十七年刊)第二]入貢以下に詳しい

ついて参着せられたいO

(五二)

MGC

onstIIVNr)96Art7及び

MGConstli-Nr428IArt2aを

比較せよ

(五三)

MGConstIINr196Art14及び

MGCDnStIZNr428(ⅠArt8

9

を比較せよ

(五四)

MGCnstlINr)96Art27及び

MGConst12Nr42

8XZArt2を放散せよ

(五

五)

JLoSerth

GeschichtedesSpSterenMittelattersS∵)27EIBietfetdt

aa101S32f58f専参照O

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 49: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

(五大)

MGCoztstIINr428ltArt

7

(五七)

へば

ERGtimeyer

Stadtherrun

d

Stadtburgerschaft

in

den

rheinischenBischoisst監ten

ihrKampf

um

dieHoheitsrechte

imHochmittetatterBeiheftzVSWGIXtZⅠStuttgart

1928殊にその節

二二入貢以下参照

O

僻はライン同盟

の最初

の計薫には

マインツの市民

アーノルドな

るもの

の賓カがあrOかつて力あ

ったと

いはれしかも彼は

恐ら-は濃蘭地商人ではなかったらうかと推測されてゐるほどであるEBielfetdt

aaOS3340参府

(五八)

Aloy抄MeiSterDeutSCheVerfassungsgeschichtevondenAnf恥rTgen

bisinst55ahrhundert(Grundri筑

d

Geschichtswi琵enSChaftIZ3)3Auf1LeipziguBertin1922S184参照

(五九)

鞠逸商人

「釜狗逸的綻

1意識」

はフリッツ

レークツヒ教授

の好んで現調去れるところであるその所説に略多

の過大鹿が存す

る如-であるがしかしその仝債としての商人の衷野方を考

へる上

に未唆されるところ極めて大なるも

のがあると小はなければならな

ソーリッヒ教授

のかうした所輪に

ついては例

(ばかのyユパンダンベルグ

の問感作に

射すFO批評諦文tTerritoriatwirtschaftund

StadtwirtschaftHZBd)50)934S457I484の如きを見よ倍はそれ

らの概要

に関しては

tJ拙稿

せ都市』(『鮭食経済史畢』第十番夢

十二錬所収)

にも解れて置

いたO

(

〇)

tはMGConstZZNr428Iめアレンガに日-JudicesetcnsulesetuniverSicivesMogontinenses

C

otonienseshellipacaliecivitatessanctepaisfedereconiurat30mnibus

Christi監

etibttSsaltztemineo

quiauctor

eatPaCisetplincipiumsattltisこのほか同盟蹄係文書中t)抹二十回飴

に亘

って

paxsactaの語が用ひ

られてゐる

(六

SRiet8ChelArtGottesfriede(PaxDeiVTreugaDei)inReatencyktop監

ief賢

protestantischeTheot

ogie

undKirchehrsgVAHauckBd17Leipzigt899S2426参照O

(六二)

EBietfetdt

aa

0S36I38

(六三)

EBielfeldta

a0S371

載市を境

る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 50: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙研究年報

商畢研究

節六改

(六四)

MGConstilNr428IiiArt)IVArt2

(六五)

MGConstⅠⅠNr428ltArt5

Vittaniveroquorum

tutoresessevotumusetdefenderecontraini

IlriaSSipacem

nobiscum

servaverintsitatescntranosproce∽serintmoscontraipssvindictadebitainsurge

musetcomprehenssincivitatiblSSicutma]efactorcsnstrspun仙emus

(六六)

MGConst(Ⅰ)Nr371

ConarmatioPacis)255Mart10

(六七)

MGConstttNr428VArt2

Constituimusquatuorcottoquiageneratiaprosanctepacisnegocioin

perpetuum

in

hunc

modum

conservandaprimuseritapud

Cotoniam

in

epiphania

DoniniSecundum

apud

Moguntiam

in

octava

pasche

tercium

apud

Wolmatiam

in

festo

apostotolum

PetrietPautiquartum

apud

Argentinam

innativitategloriosevirginis

(六

八)

弼逸に於ける

Stadttuftmachtflei法諺の成立過程の概要については前視拙稿

『狗逸

ハyザ都市リユ-ペ

クの成立について』

第四華を参照されたい個は

Gottesfliede思想と都市法制との密接不可分なる関係については

L

uisevWi

nterfeld

Gottesfriedenunddeutsche

StadtverfassungHansGbttJg1927S8-56

HMe

yer

Fre

iheitsrotandundGottesfriedenNeueForschungenGberden

BremerRo】andHangGbt17g)931S

5-82

DersBiir

g

erfreiheitundHerrschergewattunterHeinrichden

L6wenHZBd147)932S1277-319

等の銀

-もすぐれた新研究があるその他の関係諾諭

ついては拙稿

『中世都市経済機構に関する新文戯』(『一橋論

叢』欝三春夢二鍍所収)参偲

(六九)

MGConstIiNr37)

(七

〇)

前掲証五七参顔

(七

一)

マインツ大司教とヴォルムス司教の加盟については夢二章の所詮をみ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 51: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

(七二)

EBietfetdt

aa10S42

(七三)

MGConstIiNr428ItArt)言

Nr434

RecessusC

onventusM

oguntini

tertia)256Mart

17

Artト

(七四)

MGConstIIVNr4287ⅠArt6殊

Art20

Itemstatuimusqudcivitatesde

Mosel)ausqueadBa

Siteam

centum

navesbeuicasetcivitatesinferioresquingentasnavesbetlicashonestasetcumsagittariisplePalent

etquetibetcivitaspropossesedecenteletPOtenterGumarmisequitariisetpeditibuspreparet

(七五)

EBietfetdt

aaOS

44

(七六)

MGCons-ZlNr

43)

IScriptumM

oguntinensiumadcivitates

Westfatiaedirectum)255

Iun29A

rt

2参照

(七七)

MGConst(ⅠVNr428IArt7ttArt)3

VArt

2等参照

(七八)

JLbserth

GeschichtedesspSterenMittelattersS)26fthere4

A

LPOteT

helnterregnuminGermany

in

Th

eCambridgeM

edievat

HistoryVotVr

Cambridge

1929pE3f

(七九)

MG

ConstlINl370

(lt

o)MGConstItNl370371

(八

))MGConst(ⅠNr1370Adnotitiamuniversorumvotumuspervenire)quod

nobisapud

W

ormaciam一plO

tribunalisederltibusetpreserl

t

ibusvenerabilibusGMaguntinoarchiepiscopoetR

Wormaciensiepiscopodill

ectisprincipibusnostrisquampluribuscomitibusnobilihusetministeriatibusimperiinecnonetsollempnibus

nuntiis

omnium

civitatumpacisfedere

coniumctarumde

Basiteainferiusetpacemcommuniter

generatemiuran

tibus-この鮎

に閑

しA

LPooleが

前掲書

於て正苗

にも

ーへへAニhedietofWormsinFebruary1255

de12gateS

都市を

繰る中世末期

の猫逸政情

(増

田)

三五七

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 52: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東菜商科大草祈究年報

商学祈究

第六鍍

三五八

of

thetownstooktheirplacebesidet

hebishopsprincescountsnobtesandministeriatesinthepassingof

royatordinancesitistheGrsthint

ofrepresentationofGermantowns

ina

Legislativeassembty(Cambri

dge

MedievalHistoryV

otVi〉pE

3)と

述べてゐることは法

官に債すると息ふ

(八

二)

E

BietfetdtHaa0

S

54参照o

(八三)

MGConstL

tNr

43)432参府

(八四)

MGConstI(Nr1375ConfirmatioPacis

(八

五)

EBietfetdt

aa0S160f

(八六)

MGConstZINr434

RecessusConventusMoguntiniteltii

(i+)

MGConstIINr434Art4

(八

八)

MGConstlZNr434ArL5

(八九)

常連静

一撃末を

参照せよ

(九〇)

J

Loserthは前掲

GeschichtedesspAteren

MittelattersIS)271に於

てごTrotzde

BBeiitrittsderFGrsten

bliebendieStadtedastreibende

ElementSienahmendieWahrungdesLandf1iedenskr巴tigindieHandund

erfolgtenauchdariiberhinausihreeigen

e

oftsehZkiihnePotitikな

る巧み

な概説

をなしてゐるO

(九

])

EBietfetdt

DerRheinischeBundegvon)254S7)

(九二)

l

Loserth

GeschichtedesspAterenMittetaltersS)30を見よ

(九三)

LEnnen

GeschichtederStadt

K6tnV

otksAusgabeineinemBundeDGssetdorf

1880S66fF参摺

(九四)

EBietfeldtH

aaPS

70参照O

(九五)

この連

の事情を窺

ふ史料としてはJFB6hmerRegesta

tmperiiVneuhrsguerganzt

von

JFicker

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 53: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

uEW

inketmannv2Bdetnnsbruck

t881-)901が最も詳し

い0時にその

Nr531853NOV532253245327aff専歩偲O

(九六)

JFB6hmer

RegestaImp

eriiV

Nr535こ

(九七)

JFB6hmer

RegestalrnperiiVNr

5355

(九八)

JH

allerV

onden

Staufern2udenHabsburgernA

ust6sungdesReichsundEmporkommen

derLandes

staateか(1250)5)9)BertinuLeipzigt

935

の如尊は

この問題に関する最もよき概説書であ

る特にその節

1章

Die

WiederhersteltungdeSK6nigtums

()250-

)347)

(S9-45包容児せよO

(九九

)猟

逸ハン

ザ研究

の現状

ついては

高村象平教

授のすぐれた畢界展望的論柄『狗逸ハ

yザ』(『社食経済史単』第十巻

欝十

一十二旋所収)を見よ何は前掲拙桐

『ハンザ同盟

の成立』参照

(lOO)

(ばtMGConst(Ⅰ)Nr44)PaXRhenilnfelioris)259NLOV)4Nr

442PaxW

e

rnheriAr-hi

episcopiM

oguntinietLudoviciPalatini)264iun21N

r1

433PaxD

ioecesisPaderb

ornens

isetTerrae

Hassiae)265Mar上

16Nr444

PaxDioecesisM

oguntinaeR

henensis1265Mai)5Nr1445

Pax

Di

oecesisPaderbornensisetTerraeHassiae

Altera)266lun6Nr

446WernheriA

rchiepiSCOpiMoguntini

Mandatum

dePaceGenerati)269Åug8等

の事例によって明

かであ

るO

(

t

〇二

JHalterV

ondenStaufern

zu

den

HabsburgerP

S67fBG

ebhardtsHandbuch

derDeutschen

Geschi

chteBdⅠS634fJLoselthaa0S1379f423f専参児O

(

1

0

17)

KZeumer

QuettensaHmlungTeitINr)48

(

T

〇三)

BG

ebhardtsHandbuchderD

eutschenGeschichteBdⅠS646f参雁O

(

l

〇四)

「都市経済」に関する最近諸

家の所

説殊

にい抹ゆる「経済敦巌段博説」の修正

批判

の概要については拙稿

『都

市経済を繰る最近史畢界

の動向』(『1橋論葦』夢

二巻静六既所収)

見られた

都市を競

る中世末期

の濁逸政情

(増田)

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 54: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

東京商科大挙軒究年報

商革弥究

第六貌

三六〇

(

T

〇五)

本稿

の構想とは多少

の差違があるが狗逸皇帝時代三時過程の大横

については上原等疎教授

の論構

『中世狗泡に

於ける国家統

1の問題』へ前掲

『掬逸中世史研究』第

1三

1貰以下餅収)を見よ

(

]

〇六)

拙稿

『燭逸皇帝政策論率

1展開』(『1橋論叢』節九各節三鍍所収)は

ハインリッヒ1世とオットI大帝時代

政指史的対照を問題とする考察であるが

こゝにのべたが如き基本情勢にも解れて置

いたついて参着せられたいO

(

1

〇七)

この事情特にヴオルムスケルン等ライン沿岸諸都市勃興

の把要については拙稿

『中世北欧商業の展開』欝三

(『敢骨経済史学』第七巻欝七鍍所収)を見

られたい

(1〇八)

H_SpangenbergT

erritoriatwirtschaitundStadtwirtschaftEin

BeitragzurKritikderWirtschastsstuf

entheorieBeiheft24dHZM

iinchenuBertin

t932倍は同氏

の責苦tVomL

ehnstaat

zum

St帥ndestaatEin

BeitragzurEntstehungdertandst抑ndischenV

erfassungMiinchenuBertint9)2を参照せ

(

〇九)

FR6rigH

MittelatterticheW

ettwirtschaftBtiiteundEndeeinerWettwirtschaftspelideKietelVortrage

4

0Jena

1933

Ders

Ursachenund

Auswirkungendesdeutschen

PartikularismusTGbingent937

Ders

ReichssymbotikaufG

ottnadHanSGbtr

Jg)939S)-67其他レIpッヒ教授

の関係

論稿は極

めて多いQ

l々列奉

するこ

とを省略す

(

7

1

0)GVBetow

Territoriumund

StadtMiinchenuLeipzig

19002Aufrt9231

(I一

)

(ぼtEBielfeldt

)erRheinischeBundegvon)254S)3f

3474等参舵

(11二)

E

BietfetdtH

aaOIS77

(1二二)H

Spa

ng

enber

g

TerritoriatwirtschafttlndStadtwirtschaftS

)37

(二

四)

FR

6

riS

Ur

sachenundAuswirkn

ngendesdeutschenPartikutarismusS26参照

(

五)

へばt

T

hMayerGeschichtticheGrundtagen

derdeutSchenVerfassungISchriften

der

Hessischen

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)

Page 55: 都市を繰る中世末期の猫逸政情 、を中心に- - HERMES-IRhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/7151/1/...神聖羅馬帝国の「皇帝時代」は、 かのホ

H

ochschu

tenJg)933Heft1Giessen

)933

DersDieAusbitdungderGrundtagendesmodernendeutschen

StaatesimhohenMittelalterHZBdt1591939S457ム

87等

の所論

をめぐる

一群

の論述を想

(二

六)

新文献

の一例としてはtHWotf

Volkssouveranitatund

Diktaturinden

itatienischen

Stadtrepubtik

en

Abhandtungend

esInstitutsfiirPotitikausl批ndisches

6ffenttichesRechtund

V6tkerrechtan

derUniversitSt

LeipzigHeft5)Leipzig

t937の如きが

ある

(二

)

近世初

頭の鱒制

への直

接の地盤として中世末期

のそれ

の出現過程が特に注目せらるべきは

いふまでもな

いそれ

についてはW

Kienast

D

ieAnf抑ngedes

europAischenStaatensystemsim

spateren

Mittetatter

Sonderabdruck

ausHZMiinchenuBertin1936の如き諭稿

を見よO

(

二八)

コムー

ネにしても都市

しても婿亦ギ

ルドにしても

いづれも盟約園的性格を基調とするものであったことは

(ぼ

HPlanitzのすぐれた労作Kaufmannsgilde

undstSdtischeEidgenossenschaftinniederfrankischen

Stad

tenim

ttund

L2JahrhundertZSRGGA

Bd60))940S1-116の如きに徴しても明

なところ

であるO私は

近-別

の横倉に於

っぱ

らギル

ドと都市

の関係を

中心

にこ

の盟約思想

の起源とその展開過程とをあとづけ

てみた

いと

へてゐる

(昭和

一七

二八)

都市を繰

る中世末期

の柘逸政情

(増田)