〈鴛泊~本泊〉 - rishirifuji...拡大図 大 法 寺 願 正 寺 利 尻 富 士 町 役 場...

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拡大図 湿殿湿2018 〈鴛泊~本泊〉 〈鬼脇~沼浦〉 〈野塚~鰊泊〉 トマリ~近世の玄関口 「リイシリ」が歴史上に登場するのは、1644(正保元)年の 「正保国絵図」です。1670(寛文10)年の「津軽一統志」 には、アイヌと和人(松前藩)が交易をしていた商場がすでに 設置されていたと記されています。18世紀に入ると、有力商 人にアイヌとの交易や商場の経営を請け負わせ税金を納めさ せる場所請負制度が確立。利尻・礼文を包括するリイシリ場所 は、船が停泊しやすく、両島の距離が近い本泊湾が選ばれ、 拠点施設となった運上屋が湾奥部に置かれました。場所請負 人は、1765(明和2)年に近江商人である岡田家(恵比須 屋)から始まり、代を替えながら、1823(文政6)年に同じく近 江商人の藤野家(柏屋)が請負い、1869(明治2)年に制 度が廃止されるまで続きました。1846(弘化3)年に松浦武 四郎が著した「西蝦夷日誌」には、リイシリ場所の産物として、 ニシンやタラ、アワビ、ナマコ(煎海鼠)、昆布などが挙げられ ています。また周辺には、運上屋から上がる石段のほか、文政 期以降、奥の院や本泊神社に寄進された石鳥居や灯篭など が今でも残されています。 北を護った会津藩士 18世紀末頃になると、鎖国下にあった日本に対して、ロシア側から通商を求める動きが強くなってきました。日本は、ロシアの 要求に対し断固拒否したため、ロシアも武力行使という手段をとってきます。そのターゲットとなったのがロシアから近い樺太や 千島、蝦夷地で、1807(文化4)年に利尻島が襲撃に遭い、商船などが焼き払われたり島民が捕虜に捕られたりしました。 会津藩は翌1808年、江戸幕府よりロシア側の襲撃に備えるための蝦夷地防備の命を受け、松前・宗谷・利尻・樺太に出陣し ました。利尻島には、梶原平馬以下252名が駐屯し、ロシアとの交戦はなかったものの、病死あるいは樺太警備の帰途に起きた 観勢丸漂着事故により、多くの藩士たちが亡くなっています。墓石は、1810(文化7)年に7代藩主松平容衆の命により、新潟 で石を刻み松前経由で各地に運ばれたもので、利尻島にはペシ岬・慈教寺・種富町に8基が現存しています。 人びとを支えた信仰 近世以前、利尻山は間宮林蔵らにより登山が試みられたものの宗教登山 は行われておらず、神社の信仰やアイヌの伝説に限られていました。 はじめての宗教登山というべきものに、1890(明治23)年の天野磯次郎と いう紀州の行者によるものがあります。現在の登山道の先駆けとして3か月か けて道を切り開き、山頂に不動明王像を安置しました(大法寺所蔵)。また、登 山道沿いには、弘法大師(位置不明)や薬師如来(現存)の碑などもあります。 近代以降、移住者が増え集落が形成されるに至って、各地区に神社や お寺が建設されます。神社には、灯篭や狛犬、船絵馬など豊漁や航海安 全などを願うものが奉納されました。民間信仰では、おもに青森・秋田出身 者によるものとして、庚申碑は10か所、大平山三吉神社碑は5か所現存し ています。また、民俗芸能では、富山から南浜へ越中獅子舞、鳥取から長 浜へ麒麟獅子舞が伝わるなど、故郷への思いや結びつきの強い地域社 会が垣間見えます。 アイヌ地名 現在使われている地名の多くは、アイヌ語に由来します。例えば、鴛泊はオストマリ(岬の根元にある入江)、本泊は トマリ(入江)、鬼脇はオンネワキ(大きな境界?)、仙法志はチセホヲチ(小魚の多くいるところ)、沓形はクツカンタ(岩 の多いその上のところ)、など音の響きをそのまま生かしているもののほか、旧地名で呼ばれていたオタトマリ(砂のある 入江:沼浦)、ビヤコロ(石の丘の多くあるところ:新湊)、マタワッカ(冬も凍らない水のあるところ:沓形泉町)、ヤムナイ (冷たい沢:清川)など、いずれも地形や地域の特徴をよくとらえています。また、アイヌの砦や祭祀場とされるチャシは島 内で見つかっていませんが、アイヌの聖地と思われる地名として、カムイヌカ(神の形・像 神居、神恵泊)があります。 ラナルド・マクドナルド アメリカ青年ラナルド・マクドナルドが野塚に上陸したのは、1848(嘉永 元)年24歳のときで、黒船来航の5年前にあたります。マクドナルドは、鎖 国下にあった日本に入国し、江戸でいずれ訪れる外国との通商交渉の場 に通訳として、従事したいという思いがありました。そのために、当時日本近 海で捕鯨を行なっていたアメリカの捕鯨船に乗り込み、単身ボートで遭難 を装い上陸しました。日本での滞在は7か月ほどでしたが、長崎に移送され た際に、森山栄之助ら当時の日本人通訳との交流がありました。日本での 通訳という夢はかないませんでしたが、森山栄之助はその後の日米通商 交渉の場で通訳を務めています。また、吉村昭の小説「海の祭礼」の主人 公として取り上げられ、日本の英語教育史に欠かせない存在となっていま す。現在、利尻高校生を対象としたアメリカへの短期留学は、マクドナルド 短期留学と銘打たれており、まさに文化遺産を生かした交流事業として取 り組まれています。 ニシン漁の栄華 「利尻島の漁業遺産群と生活文化」が2018(平成30)年に北海道遺産に選定されました。その核となる遺産は、ニシン漁 にかかわるもので、番屋や袋澗、元標、釜場などが少なからず現存しています。なかでも、鴛泊にある泉の袋澗は、1916(大正 5)年築造ながら現役で使われており、遺産群のなかで象徴的な存在となっています。鬼脇の北見神社境内にある句碑「押かける鰊の山や神の幸」が示すように、最盛期で年間10万トンの水揚げを誇ったニシン漁は、明治20年代以降、移住者の増 加や近代化におおきく貢献しました。その移住元は、北前船の航路上にある青森や秋田などを中心に富山や石川、鳥取までお よぶ日本海地域が主でした。失われつつあるニシンの記憶ですが、当時の写真や漁具などは、郷土資料館や博物館で見学す ることができます。 写真11 絵馬 会津藩士の墓(慈教寺) 吉本善京筆絵馬(19世紀前半?、利尻山神社) ヒグマの足跡(2018年) 沼浦神社(1897年建立) 薬師如来碑 北海道三景之碑(1924年) 南浜獅子神楽 ニシン漁で賑わう鬼脇港(1947年頃) 宗谷区務所往書留 (町指定文化財、郷土資料 館所蔵) 沼浦神社の狛犬(社殿・灯篭とともに 1897年のもので、秋田と縁がある) 庚申碑(1917年、金崎) 太平山三吉神社碑(1906年、金崎) 基石(1928年) マクドナルド29歳の肖像 (RANALD MACDONALD1824-1894 1923年所収) 高橋漁場番屋 船絵馬(1882年、旭浜神社) カムイヌカ(神恵泊) シペシとモペシ 泉の袋澗 ニシン粕づくり(1947年頃、荒田漁場) ニシンつなぎ(1947年頃、富士岬中田漁場) 不動明王像(大法寺) 初代鴛泊灯台 金刀比羅神社本殿 大澤寺鐘楼堂 第壱美保丸遭難者之碑 ニシン句碑 真立寺 庚申碑 北見神社境内 北海道三景之碑 綱島貞助顕彰碑 寺島菓子舗 □田中家文書 あきない ば ふくろ ま もと ひょう き りん かた ひろ かま ば い り こ ペシ岬ヒストリー 鴛 泊 港に高くそびえるペシ岬には、 数多くの文化遺産が分布しています。 オホーツク文化期の遺跡のほか、近世 では会津藩士の墓や厳島神社、近代 では1892(明治25)年点灯の鴛泊 灯台(初代は円形の石造灯台)があり ます。名称の由来は、アイヌ語「シペシ (大きな崖)」ですが、過去にもう1つ小 さな崖を表わす「モペシ」という小山が ありました。その跡地には、山神という 石碑がのこっていますが、ではなぜ今 は見ることができないのでしょうか。そこ には、北海道遺産である稚内の北防 波堤ドームが大きくかかわっています。 昭和初期のドーム建設の際、大量の 石材を必要としましたが、その供給先と して石材豊富な利尻島に目が向けら れました。当初は、湾内の玉石が使わ れていましたが、尽きるとペシ岬に目が 向けられ、モペシをダイナマイトで破壊 した後、港までトロッコで運び積み込ん だ盤船を汽船で曳いて運びました。石 材の多くは防波堤の基石に使われた といわれています。

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Page 1: 〈鴛泊~本泊〉 - Rishirifuji...拡大図 大 法 寺 願 正 寺 利 尻 富 士 町 役 場 利 尻 山 神 社 征 清 紀 念 碑 カ ル チ ャ ー セ ン タ ー り

拡大図

大法寺

願正寺

利尻富士町役場

利尻山神社

征清紀念碑

カルチャーセンター

りっぷ館

ヤマセカムイの碑

富士野園地(原生花園)

泉の袋澗(旧 

漁場)

鴛泊灯台

北海富士神社

二宮尊徳像

本泊小学校

鴛泊中学校

鴛泊小学校

本立寺

釜場跡

本浄寺

大磯1遺跡

大磯2遺跡

本泊遺跡

本泊小学校遺跡

栄町遺跡

港町1遺跡

港町2遺跡

ペシ岬遺跡

鴛泊港遺跡

ペシ岬灯台遺跡

利尻富士町役場遺跡

栄町キャンプ場遺跡

利尻山神社下遺跡

会津藩士の墓

厳島神社

リイシリ運上屋跡

記念碑、石段

本泊頓宮鳥居

聖徳太子碑

三十三菩薩

妙海寺

八大龍王碑

ポンモシリ

夕日ヶ丘展望台

利尻空港

富士岬

遺跡名(埋蔵文化財包蔵地)

その他の文化財など

施設他

学校

凡 

例町指定文化財

鬼脇遺跡

沼浦遺跡

沼浦海水浴場遺跡

沼浦神社

南浜湿原

南浜獅子神楽

桐山三四郎顕彰碑

金刀比羅神社本殿

大澤寺鐘楼堂

利尻島郷土資料館

正徳寺・禅龍寺跡

聖徳太子碑

沼浦湿原

(沼浦マール)

南浜神社

真立寺

妙泰寺

庚申碑

太平山三吉神社碑

行幸啓記念碑

太平山三吉神社碑

ヒグマ足跡発見地

太平山三吉神社碑

旧ルンビニー保育園

稲荷神社石碑

鬼脇港基石

金崎利尻神社跡

庚申碑

彰徳碑

北見神社境内

北海道三景之碑

綱島貞助顕彰碑

オタトマリ沼

万蔵岬

三日月沼

メヌウショロ沼

沼浦展望台(白い恋人の丘)

2018

寺島菓子舗

□田中家文書

野塚展望台遺跡

野塚岬遺跡

マクドナルド上陸推定地

ラナルド・マクドナルド渡島記念碑

吉村昭「海の祭礼」文学碑

庚申碑

野塚神社

水天宮碑

神恵神社

八大鰊泊神社

庚申碑

雄忠志内神社

間宮林蔵登山推定地

番屋(旧高橋漁場)

カムイヌカ(カムイ岩)

姫沼

野塚遺跡

野塚第2遺跡

鴛泊発電所

〈鴛泊~本泊〉

〈鬼脇~沼浦〉

〈野塚~鰊泊〉

トマリ~近世の玄関口 「リイシリ」が歴史上に登場するのは、1644(正保元)年の

「正保国絵図」です。1670(寛文10)年の「津軽一統志」

には、アイヌと和人(松前藩)が交易をしていた商場がすでに

設置されていたと記されています。18世紀に入ると、有力商

人にアイヌとの交易や商場の経営を請け負わせ税金を納めさ

せる場所請負制度が確立。利尻・礼文を包括するリイシリ場所

は、船が停泊しやすく、両島の距離が近い本泊湾が選ばれ、

拠点施設となった運上屋が湾奥部に置かれました。場所請負

人は、1765(明和2)年に近江商人である岡田家(恵比須

屋)から始まり、代を替えながら、1823(文政6)年に同じく近

江商人の藤野家(柏屋)が請負い、1869(明治2)年に制

度が廃止されるまで続きました。1846(弘化3)年に松浦武

四郎が著した「西蝦夷日誌」には、リイシリ場所の産物として、

ニシンやタラ、アワビ、ナマコ(煎海鼠)、昆布などが挙げられ

ています。また周辺には、運上屋から上がる石段のほか、文政

期以降、奥の院や本泊神社に寄進された石鳥居や灯篭など

が今でも残されています。

北を護った会津藩士 18世紀末頃になると、鎖国下にあった日本に対して、ロシア側から通商を求める動きが強くなってきました。日本は、ロシアの

要求に対し断固拒否したため、ロシアも武力行使という手段をとってきます。そのターゲットとなったのがロシアから近い樺太や

千島、蝦夷地で、1807(文化4)年に利尻島が襲撃に遭い、商船などが焼き払われたり島民が捕虜に捕られたりしました。

 会津藩は翌1808年、江戸幕府よりロシア側の襲撃に備えるための蝦夷地防備の命を受け、松前・宗谷・利尻・樺太に出陣し

ました。利尻島には、梶原平馬以下252名が駐屯し、ロシアとの交戦はなかったものの、病死あるいは樺太警備の帰途に起きた

観勢丸漂着事故により、多くの藩士たちが亡くなっています。墓石は、1810(文化7)年に7代藩主松平容衆の命により、新潟

で石を刻み松前経由で各地に運ばれたもので、利尻島にはペシ岬・慈教寺・種富町に8基が現存しています。

人びとを支えた信仰 近世以前、利尻山は間宮林蔵らにより登山が試みられたものの宗教登山

は行われておらず、神社の信仰やアイヌの伝説に限られていました。

 はじめての宗教登山というべきものに、1890(明治23)年の天野磯次郎と

いう紀州の行者によるものがあります。現在の登山道の先駆けとして3か月か

けて道を切り開き、山頂に不動明王像を安置しました(大法寺所蔵)。また、登

山道沿いには、弘法大師(位置不明)や薬師如来(現存)の碑などもあります。

 近代以降、移住者が増え集落が形成されるに至って、各地区に神社や

お寺が建設されます。神社には、灯篭や狛犬、船絵馬など豊漁や航海安

全などを願うものが奉納されました。民間信仰では、おもに青森・秋田出身

者によるものとして、庚申碑は10か所、大平山三吉神社碑は5か所現存し

ています。また、民俗芸能では、富山から南浜へ越中獅子舞、鳥取から長

浜へ麒麟獅子舞が伝わるなど、故郷への思いや結びつきの強い地域社

会が垣間見えます。

アイヌ地名 現在使われている地名の多くは、アイヌ語に由来します。例えば、鴛泊はオストマリ(岬の根元にある入江)、本泊は

トマリ(入江)、鬼脇はオンネワキ(大きな境界?)、仙法志はチセホヲチ(小魚の多くいるところ)、沓形はクツカンタ(岩

の多いその上のところ)、など音の響きをそのまま生かしているもののほか、旧地名で呼ばれていたオタトマリ(砂のある

入江:沼浦)、ビヤコロ(石の丘の多くあるところ:新湊)、マタワッカ(冬も凍らない水のあるところ:沓形泉町)、ヤムナイ

(冷たい沢:清川)など、いずれも地形や地域の特徴をよくとらえています。また、アイヌの砦や祭祀場とされるチャシは島

内で見つかっていませんが、アイヌの聖地と思われる地名として、カムイヌカ(神の形 ・ 像 : 神居、神恵泊)があります。

ラナルド・マクドナルド アメリカ青年ラナルド・マクドナルドが野塚に上陸したのは、1848(嘉永

元)年24歳のときで、黒船来航の5年前にあたります。マクドナルドは、鎖

国下にあった日本に入国し、江戸でいずれ訪れる外国との通商交渉の場

に通訳として、従事したいという思いがありました。そのために、当時日本近

海で捕鯨を行なっていたアメリカの捕鯨船に乗り込み、単身ボートで遭難

を装い上陸しました。日本での滞在は7か月ほどでしたが、長崎に移送され

た際に、森山栄之助ら当時の日本人通訳との交流がありました。日本での

通訳という夢はかないませんでしたが、森山栄之助はその後の日米通商

交渉の場で通訳を務めています。また、吉村昭の小説「海の祭礼」の主人

公として取り上げられ、日本の英語教育史に欠かせない存在となっていま

す。現在、利尻高校生を対象としたアメリカへの短期留学は、マクドナルド

短期留学と銘打たれており、まさに文化遺産を生かした交流事業として取

り組まれています。

ニシン漁の栄華 「利尻島の漁業遺産群と生活文化」が2018(平成30)年に北海道遺産に選定されました。その核となる遺産は、ニシン漁

にかかわるもので、番屋や袋澗、元標、釜場などが少なからず現存しています。なかでも、鴛泊にある泉の袋澗は、1916(大正

5)年築造ながら現役で使われており、遺産群のなかで象徴的な存在となっています。鬼脇の北見神社境内にある句碑「押し

かける鰊の山や神の幸」が示すように、最盛期で年間10万トンの水揚げを誇ったニシン漁は、明治20年代以降、移住者の増

加や近代化におおきく貢献しました。その移住元は、北前船の航路上にある青森や秋田などを中心に富山や石川、鳥取までお

よぶ日本海地域が主でした。失われつつあるニシンの記憶ですが、当時の写真や漁具などは、郷土資料館や博物館で見学す

ることができます。

慈教寺

写真11

絵馬

会津藩士の墓(慈教寺) 吉本善京筆絵馬(19世紀前半?、利尻山神社)

ヒグマの足跡(2018年) 沼浦神社(1897年建立)

薬師如来碑

北海道三景之碑(1924年)

南浜獅子神楽

ニシン漁で賑わう鬼脇港(1947年頃)

宗谷区務所往書留(町指定文化財、郷土資料 館所蔵)

沼浦神社の狛犬(社殿・灯篭とともに1897年のもので、秋田と縁がある)

庚申碑(1917年、金崎) 太平山三吉神社碑(1906年、金崎)

基石(1928年)

マクドナルド29歳の肖像(RANALD MACDONALD1824-1894 1923年所収)

高橋漁場番屋 船絵馬(1882年、旭浜神社)

カムイヌカ(神恵泊)

シペシとモペシ

泉の袋澗

ニシン粕づくり(1947年頃、荒田漁場)

ニシンつなぎ(1947年頃、富士岬中田漁場)

不動明王像(大法寺)

初代鴛泊灯台

桐山三四郎顕彰碑

金刀比羅神社本殿

大澤寺鐘楼堂

第壱美保丸遭難者之碑

ニシン句碑

利尻島郷土資料館

真立寺

妙泰寺

浄照寺跡

庚申碑

北見神社境内

北海道三景之碑綱島貞助顕彰碑

利尻小学校・

鬼脇中学校

寺島菓子舗

□田中家文書ス

あきない ば

ふくろ ま もと ひょう

き りん

かた ひろ

かま ば

い り こ

ペシ岬ヒストリー 鴛泊港に高くそびえるペシ岬には、

数多くの文化遺産が分布しています。

オホーツク文化期の遺跡のほか、近世

では会津藩士の墓や厳島神社、近代

では1892(明治25)年点灯の鴛泊

灯台(初代は円形の石造灯台)があり

ます。名称の由来は、アイヌ語「シペシ

(大きな崖)」ですが、過去にもう1つ小

さな崖を表わす「モペシ」という小山が

ありました。その跡地には、山神という

石碑がのこっていますが、ではなぜ今

は見ることができないのでしょうか。そこ

には、北海道遺産である稚内の北防

波堤ドームが大きくかかわっています。

昭和初期のドーム建設の際、大量の

石材を必要としましたが、その供給先と

して石材豊富な利尻島に目が向けら

れました。当初は、湾内の玉石が使わ

れていましたが、尽きるとペシ岬に目が

向けられ、モペシをダイナマイトで破壊

した後、港までトロッコで運び積み込ん

だ盤船を汽船で曳いて運びました。石

材の多くは防波堤の基石に使われた

といわれています。

山神碑(モペシ跡)

番屋(旧荒田漁場)

会津藩士の墓

国立公園利尻島石碑

奥の院(利意志理山大権現)