ゼータ関数と量子カオスに見られる無限...特集/無限と数理...

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特集/無限と数理 ゼータ関数と量子カオスに見られる無限 小山 信也 1. はじめに 「素数は無数に存在する」という命題は,紀元 前三世紀ごろに著されたユークリッド『原論』に 記されている古い定理である.これは人類が数理 の世界で無限を扱い,無限に関する洞察を深めた 端緒に数えられる. 素数の無限性の研究は,その後,多くの著名な 研究者によって引き継がれた.オイラーは「素数 の個数はある程度大きな無限大である」(正確には 「逆数の和が発散する程度に大きい」)ことを示し, リーマンは,x 以下の素数の個数 π(x) をゼータ 関数の零点を用いて誤差項無しで完全に記述する 「素数公式」を証明した. リーマンの素数公式は,素数の謎をゼータ関数 の性質に帰着させるものであった.以来,ゼータ 関数論は,多くの研究者を惹きつける学問分野と なった. その中で中核をなす問題が「リーマン予想」で ある.これは,ゼータ関数の零点の存在範囲が Re(s) 1/2 に限定されることを主張する予想 であり,これが正しければ素数の個数 π(x) のよ り正確な評価式が得られる. リーマン予想は現代数学最大の未解決問題と言 われ,その解明に向けたゼータの零点の性質を探 る研究の過程で,人類は量子カオスや量子エルゴー ド性といった,物理学的にも意義深い概念に遭遇 した. それらは,スペクトルが無限大に近づく際の現 象の研究であり,そこでもまた無限に関する新た な記述の方法が開発され,用いられている. 本稿では,ゼータ関数とリーマン予想を概観し た後,量子カオスと量子エルゴード性を説明し,整 数論をきっかけに人類が無限に関わってきた経緯 を解説する.そして最後に,最近になって人類が 到達した「深リーマン予想」に関する報告を行う. 2. リーマン予想 リーマンは論文 8) において,素数公式を証明し た.それは,任意の実数 x> 2 に対し,x 以下の 素数の個数 π(x) を,リーマン・ゼータ関数 ζ (s) の複素零点を用いて,誤差項を含まない正確な式 で書き切る公式である. 素数公式の源は,オイラー積表示 ζ (s)= p (1 - p -s ) -1 (Re(s) > 1) (1) にある.右辺は, p を素数の全体にわたらせた無限 積を表す.一般に,関数の対数微分の極は,もと の関数の零点と極であり,留数は,もとの関数の 零点や極の位数であるから,式 (1) の両辺の対数 微分を取り,それらに任意の関数(test functionf (s) をかけて適当な経路で積分することにより, ρ f (ρ)= p b f (p) 数理科学 NO. 644, FEBRUARY 2017 1

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  • 特集/無限と数理

    ゼータ関数と量子カオスに見られる無限

    小 山 信 也

    1. はじめに

    「素数は無数に存在する」という命題は,紀元

    前三世紀ごろに著されたユークリッド『原論』に

    記されている古い定理である.これは人類が数理

    の世界で無限を扱い,無限に関する洞察を深めた

    端緒に数えられる.

    素数の無限性の研究は,その後,多くの著名な

    研究者によって引き継がれた.オイラーは「素数

    の個数はある程度大きな無限大である」(正確には

    「逆数の和が発散する程度に大きい」)ことを示し,

    リーマンは,x 以下の素数の個数 π(x) をゼータ

    関数の零点を用いて誤差項無しで完全に記述する

    「素数公式」を証明した.

    リーマンの素数公式は,素数の謎をゼータ関数

    の性質に帰着させるものであった.以来,ゼータ

    関数論は,多くの研究者を惹きつける学問分野と

    なった.

    その中で中核をなす問題が「リーマン予想」で

    ある.これは,ゼータ関数の零点の存在範囲が

    Re(s) ≤ 1/2 に限定されることを主張する予想であり,これが正しければ素数の個数 π(x) のよ

    り正確な評価式が得られる.

    リーマン予想は現代数学最大の未解決問題と言

    われ,その解明に向けたゼータの零点の性質を探

    る研究の過程で,人類は量子カオスや量子エルゴー

    ド性といった,物理学的にも意義深い概念に遭遇

    した.

    それらは,スペクトルが無限大に近づく際の現

    象の研究であり,そこでもまた無限に関する新た

    な記述の方法が開発され,用いられている.

    本稿では,ゼータ関数とリーマン予想を概観し

    た後,量子カオスと量子エルゴード性を説明し,整

    数論をきっかけに人類が無限に関わってきた経緯

    を解説する.そして最後に,最近になって人類が

    到達した「深リーマン予想」に関する報告を行う.

    2. リーマン予想

    リーマンは論文 8)において,素数公式を証明し

    た.それは,任意の実数 x > 2 に対し,x 以下の

    素数の個数 π(x) を,リーマン・ゼータ関数 ζ(s)

    の複素零点を用いて,誤差項を含まない正確な式

    で書き切る公式である.

    素数公式の源は,オイラー積表示

    ζ(s) =∏p

    (1− p−s)−1 (Re(s) > 1) (1)

    にある.右辺は,pを素数の全体にわたらせた無限

    積を表す.一般に,関数の対数微分の極は,もと

    の関数の零点と極であり,留数は,もとの関数の

    零点や極の位数であるから,式 (1)の両辺の対数

    微分を取り,それらに任意の関数(test function)

    f(s) をかけて適当な経路で積分することにより,∑ρ

    f(ρ) =∑p

    f̂(p)

    数理科学 NO. 644, FEBRUARY 2017 1

  • という形の等式を得る.ここで左辺の ρは ζ(s)の

    零点や極を動き,右辺の pは素数の全体をわたる.

    特に,f̂(p)として,区間 [1, x]の特性関数を選

    ぶと,右辺は「x以下の素数の個数」と等しくな

    る.こうして,π(x) をリーマン・ゼータ関数の零

    点や極を使って正確に表せる.これが,リーマン

    の素数公式であり,詳細な形は以下のようになる.

    π(x) =

    ∞∑m=1

    µ(m)

    m

    (Li(x

    1m )−

    ∑ρ

    Li(xρm )

    +

    ∫ ∞x

    1m

    du

    (u2 − 1)u log u− log 2

    ). (2)

    ここで,µ(m) ∈ {0,±1} はメビウス関数,

    Li(x) =

    ∫ x0

    du

    log u=

    x

    log x+O

    (x

    (log x)2

    )は対数積分関数である.素数公式 (2) の右辺第

    二項の ρ は ζ(s) の零点で 0 ≤ Re(ρ) ≤ 1 を満たすものを動く.

    素数公式 (2) より,素数定理の原型

    π(x) = Li(x)−∑ρ

    Li(xρ) + (誤差項) (3)

    を得る.

    等式 (3) の右辺第二項 Li(xρ) の ρ にわたる

    和は,どの程度の大きさなのだろう.ρ は虚部が

    無限大に発散する複素数列であるから,その和は

    相当な打ち消し合いを含むと期待されるが,打ち

    消し合いを具体的に抽出することは難しい.まず

    は各項 Li(xρ) の大きさが

    |Li(xρ)| ∼∣∣∣∣ xρρ log x

    ∣∣∣∣ = xRe(ρ)|ρ| log xであることから,「非自明零点の実部 Re(ρ)」が

    π(x) の挙動を支配する量として登場する.

    仮に,Re(ρ) が小さければ,そもそも Li(xρ)の

    オーダーが小さくなるので,打ち消し合いの有無

    を問わず,素数定理の良い誤差項が得られる.

    ρにわたる和における打ち消し合いを実際に考慮

    することにより,「非自明零点の実部の上限」を用

    いて誤差項付きの素数定理を記述できる.すなわ

    ち,任意の零点 ρ に対して一斉に Re(ρ) ≤ Θ < 1

    が成り立つような共通の Θ を見つけられれば,素

    数定理は

    π(x) = Li(x) +O(xΘ log x) (x → ∞)

    となる.このような Θ < 1 の発見にはこれまで

    に誰も成功していない.

    リーマンは,ζ(s)の非自明零点をいくつか手計

    算で求めた結果,それらがいずれも Re(ρ) = 1/2

    を満たしていたことに気付き,以下の予想を提起

    した.これをリーマン予想という.

    ζ(s)の任意の非自明零点の実部は 12 である.

    リーマン予想は「Θ = 1/2」とも表される.また,

    関数等式より ζ(s) の挙動は Re(s) = 1/2 を中心

    として(ガンマ因子の寄与を考慮に入れれば)左

    右対称になるから,リーマン予想は,次式にも言

    い換えられる.

    ζ(s) ̸= 0 (Re(s) > 1/2). (4)

    3. 数論的量子カオス

    リーマン予想は,素数の無限性を究めようとす

    る研究の一環であり,なおかつ,ゼータ関数の無

    数にある零点の実部を求める研究でもあった.

    これらは人類の無限に対するあくなき挑戦であ

    る.これをより広い視野から捉えて発展させ,一

    般化した理論が数論的量子カオスである.

    その内容を端的に述べれば

    数論的群のスペクトル λ とその固有関数 ϕλ

    を,特に λ → ∞ の時に詳しく研究すること

    であると言える.

    こうした研究の数論における重要性は,2つの

    観点から論ずることができる.

    第一点は,スペクトルがゼータの零点とみなせ

    ることである.リーマン予想研究の中で,ゼータ

    関数の零点を何らかの作用素のスペクトルと見な

    せないかという着想がある.この方針は 1910年代

    にすでにヒルベルトらにより得られていた.1956

    2

  • 年にセルバーグは,新しいゼータ関数(今でいう

    セルバーグ・ゼータ関数)を構成し,実際にその

    零点がラプラシアンのスペクトルで表され,しか

    も,そのゼータ関数がリーマン予想と同じ性質を

    満たすことを証明した.このことから,スペクト

    ルをゼータの零点とみなすことがリーマン予想の

    解決に直結する.

    そして第二点は,スペクトルの存在そのものが

    数論的であるということだ.セルバーグが発見し

    たように,ある種のゼータ関数は零点がスペクト

    ルとなっているが,そのようなゼータの構成には,

    モジュラー群や合同部分群など,数論的基本群と

    呼ばれる群が必要であった.これは,一般の基本群

    と比べると非常に特殊な対象であり,一般の双曲

    多様体では,スペクトルが零点のように無限に存

    在するという性質すらも,ほとんど成り立たない

    と考えられるのである(フィリップス・サルナック

    の消失理論.文献 4)を参照).固有値が存在する

    こと自体が数論に特有の現象であることから,従

    来から幾何学で研究されてきたスペクトルを,数

    論の研究対象として改めて研究する必要がある.

    数論的量子カオスにおいて得られている研究成

    果は多岐に渡る.主なものとして,固有値 λ の分

    布状況,固有関数 uλ の Lp-ノルムの挙動,固有

    関数 uλ(z) の値分布に関する結果がある.

    このうち,特に重要であり著しい進展が見られ

    たのは,最後に挙げた項目である.固有関数の絶

    対値 |uλ(z)| が大きい複素数 z の集合は量子力学で言うところの確率振幅の大きな部分に相当する.

    λ → ∞ のとき,この集合がどのような形状を呈するかは,80年代から物理学で興味の対象とされ

    てきた.

    数論的量子カオスが到達した答えは,その集合

    は,限りなく均一に分布するというものである.こ

    の性質を量子エルゴード性と言う.

    古典力学で,運動エネルギーと位置エネルギー

    を合わせた全エネルギーを表わす関数をハミルト

    ニアンと呼んだが.これを量子化したものが,量

    子力学において物理量として認知されるハミルト

    ニアンである.量子化とは,古典力学の概念を量

    子力学の概念に対応させるための手続きであって,

    ハミルトニアン H の量子化は,ℏをプランク定数 ∗1)として,

    ℏ2∆ (∆はラプラシアン)

    と表わされる(通常,物理学では −ℏ2∆ と書かれることが多いようだが,これはラプラシアン∆の

    定義の符号の違いによる.本稿では定義を

    ∆ = −y2(

    ∂2

    ∂x2+

    ∂2

    ∂y2

    )(5)

    で与えている).

    したがって,量子力学における状態方程式は,作

    用素 ℏ2∆の k番目の固有値を λk,固有関数(マース波動形式)を uk とすると

    ℏ2∆uk = λkuk

    と書ける.これより,

    ∆uk =λkℏ2

    uk

    である.したがって,ラプラシアン ∆ の固有値 λ

    は,

    λ =λkℏ2

    (6)

    となる.

    量子力学が誕生して以来,古典力学と量子力学

    の関係や理論の整合性が議論されてきた.そして

    現在までにいくつかの関係が見出されており,量

    子力学は古典力学の精密化である,または逆に,

    古典力学は量子力学の近似であるという言い方を

    されることがある.その根拠の一つは上に述べた

    量子化であり,古典力学の諸概念を所定の手続き

    で量子化すると量子力学が得られることなのだが,

    それ以外に,以下に述べる 2つの観点から,量子

    力学と古典力学の関連が見出されている.一つは

    「半古典極限」と呼ばれる考えで,量子力学におけ

    るプランク定数 ℏを 0に近づけた極限が古典力学を記述するというものだ.もう一つはシュレディ

    ンガー方程式の期待値を取ることによりニュート

    *1) 通常のプランク定数 h = 6.626 × 10−34J · s を 2π で割った ℏ = 1.054 × 10−34J · s のこと.

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  • ンの運動方程式が得られることである.

    数論的量子カオスにおいては,このうち第一の

    観点が重要だ.ℏ → 0 の半古典極限は,(6) により,λ → ∞ の極限と同じになるからだ.したがって,数論的量子カオスのテーマであるラプラ

    シアン ∆ のスペクトル λ を限りなく大きくした

    ときの振舞いとは,量子力学においても重要な対

    象なのである.

    中でも,マース波動形式 uk の絶対値 |uk| は,量子力学における確率そのものに直接関係する.

    特にその値が大きくなる領域の分布は,量子の存

    在確率が高い位置になるので物理学的な意義が大

    きい.これに関し,過去にさまざまな数値計算が

    なされ,いろいろな領域上で定義されたラプラシ

    アンと,その固有関数の値の分布例が公表されて

    いる.

    図 1~図 3は,2次元平面 R2 内の有界領域M上の通常のラプラシアン

    ∆ = −(

    ∂x2+

    ∂y2

    )の固有方程式

    ∆u = λu,

    ∫M

    u2dxdy = 1

    の解を,ディリクレの境界条件

    u|∂M = 0

    の下で解いた際の,5600番目の固有値付近の 12

    個の固有値に対する固有関数の値分布を表わした

    もの ∗2)である.図の順序は左上から右へ,次に

    下行の左から右へとなっている.確率振幅 |u|2 が0の領域は白で表わされ,|u|2 が大きいほど濃い黒が塗られている.図 1は楕円領域,図 2はスタ

    ジアム型,図 3はバーネット・ビリヤードと呼ば

    れる有界領域を,M として採用している.

    これらの図を見ると,固有値によっては,黒い

    部分,すなわち確率の大きな部分が,何らかの図

    形をなすかのように見える箇所がある.80年代当

    *2) これらの図はサルナック氏のウェブサイト

    http://www.math.princeton.edu/sarnak/

    にある論文 “Recent Progress on QUE” から引用した.

    時,一部の物理学者 ∗3)が,この図形に意味を見

    出そうとした.有界領域 M 内にボールを転がし

    たとき,壁に反転してボールが描く軌跡(測地線)

    に,この図形が似ているのではないかというわけ

    だ.ボールの軌跡は,古典力学で物体が存在し得

    る位置であり,一方,黒い図形は量子力学で粒子

    が存在しやすい位置を表わすから,半古典極限に

    おいて両者に関連がつくとなれば,古典力学と量

    子力学の間にきわめて美しい類似性が成り立つこ

    とになる.そういう予想を彼らは提起したのだ.

    だが,数論的量子カオスの研究は,彼らの予想

    が幻想であったことを証明した.それを突き詰め

    たのが,量子エルゴード性という概念である.

    エルゴード性という用語は,元来,力学系(流

    れ)に対して定義された数学的概念である.その

    直感的意味はおおむね

    時間の進展に伴い,流れの軌道がどこにも集

    中することなく,限りなく均一に分布する

    ということである.流れにおける時間の代わりに

    固有値を考え,軌道上の点の代わりに固有関数の

    値を考えて,同様の極限的な均一性を表したもの

    が量子エルゴード性である.すなわち,量子エル

    ゴード性の直観的意味を同様に表現すると

    固有値の増大に伴い,固有関数の値分布がど

    こにも集中することなく,限りなく一様に分

    布する

    となる.

    これを数式を用いて定義すると,以下のように

    なる.

    多様体M(あるいはその基本群 Γ)が量子エル

    ゴード的であるとは,任意のジョルダン可測集合

    Aと任意の可積分関数 f ∈ L1(M) に対し,

    limλ→∞

    ∫A

    f(z)|uλ(z)|2dz =∫A

    f(z)dz (7)

    *3) たとえば Eric J. Heller: “Bound-state eigenfunctions

    of classically chaotic Hamiltonian systems: scars of pe-

    riodic orbits.” Phys. Rev. Lett. 53 (1984) 1515-1518.

    4

  • 図 1 楕円領域 図 2 スタジアム領域図 3 バーネット・ビリヤード

    が成り立つことである.

    ジョルダン可測集合とは,積分が定義できるよ

    うな普通の集合のことである.また dz は多様体

    M の測度であり,M が負曲率リーマン面なら

    M = Γ\H と Γ ⊂ SL(2,R) を用いて表した際,z ∈ H = {z = x+ iy | x ∈ R, y > 0} に対し

    dz =dxdy

    y2

    で定義される.

    量子エルゴード性 (7)の意味は,M で普通に積

    分するのと,固有関数の絶対値の 2乗を掛けてか

    ら積分するのとは,固有値を大きくしていくとほ

    とんど同じになるということだ.これがなぜ,先

    ほど説明した「極限的な一様分布性」を表すのだ

    ろうか.その理由は,次のように説明できる.

    簡単のため,f(z) ≡ 1 とし,2つの積分∫A

    |uλ(z)|2dz,∫A

    dz

    を比較してみよう.

    仮に,u(z) が一様でなかったとすると,値分布

    に偏りが生じるから,値が平均よりも大きいとこ

    ろと小さいところがある.このうち,u(z) の値が

    平均よりも大きい z の集合を Aとすると,定積分∫A

    |uλ(z)|2dz

    は,|uλ(z)|2 を掛けた分だけ平均より大きくなる.

    図 4では,これをグラフの下の斜線部で表わし

    た.一方,|uλ(z)|2 を掛けずにそのまま積分すれば,単に A の体積(図 4の場合は 1次元なので長

    さ)に比例した値を得る.この値を,図 4では濃い

    斜線部で表わした.したがって,量子エルゴード

    性が成り立つということは,固有値を増大させた

    ときに,図の斜線の全体が濃い斜線にぴったり重

    なっていくことだ.これは,どこで積分しても平

    均的な値に等しくなるということだから,|uλ(z)|の値分布に偏りがないことを表しているといえる.

    では,量子エルゴード性が成り立つ状態,すな

    わち一様に分布する状態とは,いったいどういう

    状態なのだろうか.すぐに思い当たるのは,u(z)

    が定数関数であればよいということだ.もちろん,

    定数関数の値分布は一様である.しかし,それが

    量子エルゴード性の定義でいう固有関数の収束先

    となることはあり得ない.というのは,定数関数

    は微分すると 0であるから,自明にラプラシアン

    の固有関数であり,固有値 0である.ラプラシア

    ンの異なる固有値に対する固有関数は,互いに直

    交することが知られているから,定数以外のマー

    ス波動形式は,必ず定数関数と直交する.したがっ

    て,マース波動形式の列が定数関数に収束するこ

    とはあり得ない.

    よって,量子エルゴード性を満たすような固有

    関数の振舞いを思い描くには,定数関数以外の何

    らかの状態に u(z) が近づく様子を想像する必要

    がある.いったいどんな様子を想像すればよいの

    だろうか.定数以外で一様な分布などということ

    があるのだろうか.実はそれは,至るところ十分

    緊密に変動する関数なのである.

    図 5は,図 4と同じ関数(三角関数)の振動数

    を 25倍に大きくしたものだ.図 5をみると,領

    域(1次元なので区間)A 上で,u の値は,平均

    よりも大きい部分もあれば小さい部分もあり,そ

    れらが緊密に入り組んで出入りの激しいグラフに

    なっている.その緊密さに比べると領域 A は十分

    広く,A 上で積分すると,出入りした分が打ち消

    し合って,積分の結果(太い斜線と細い斜線の合

    計)は |u|2 を掛けない状態の積分(点線の下の長

    数理科学 NO. 644, FEBRUARY 2017 5

  • 図 4 一様でない関数図 5 一様に近い関数

    方形)とほぼ等しいことが見てとれるだろう.

    量子エルゴード性とは,固有値を限りなく大き

    くしたときに,固有関数の値分布がこのように限

    りなく緊密になることだ.先ほどの有界領域の図

    で言えば,黒い部分が限りなく細かく,至るとこ

    ろに分布するようになるということである.

    こうした数値計算は,元来は数論的な目的では

    なく,量子力学の中で量子カオスにおいて行われ

    てきた.そのため,図 1~3で扱った領域 M も,

    普通の数論では見かけない領域だった.当然,数

    論の側からみれば,M として SL(2,Z) の基本領域など,本来の数論的多様体を取った場合の数値

    計算が知りたいところである.以下に,ヘジェル

    ‐ラックナーによる計算結果 ∗4)を挙げる.

    図 6~8は,いずれも SL(2,Z) に対するマース波動形式 uλ に対し,uλ(z) = 0 を満たす z ∈ Hの集合(高さ 0の等高線)を描いたものだ.図の

    外枠の長方形は,上半平面内の領域

    −1 < Re(z) < 1, 0.75 < Im(z) < 2.75

    である.内側に見える点線は,基本領域

    SL(2,Z)\H

    ={z = x+ iy ∈ H

    ∣∣−12 < x ≤ 12 , |z| > 1}∪{z = x+iy ∈ H | |z| = 1, 0 ≤ x ≤ 12}

    の境界である.図 6 は小さめの固有値 λ =

    *4) Dennis A. Hejhal and Barry N. Rackner “On the to-

    pography of Maass waveforms for PSL(2,Z).” Experi-ment. Math. Volume 1 (1992) 275-305 より引用

    190.6213,図 7は中程度の固有値 λ = 2297.2070,

    図 8は大きめの固有値 λ = 15712.2658 に対する

    固有関数 uλ について表わしている.

    これをみると一目瞭然であるように,固有値が

    小さい方が曲線は緩やかであり,固有値が大きく

    なるにつれて次第に入り組んだ形状となる.これ

    は固有関数の値の変動が,固有値が大きいほど激

    しく,急激で凹凸も多いことを示している.した

    がって,これらの図は量子エルゴード性をよく表

    しているといえる.

    量子エルゴード性は,M がコンパクトな場合に

    リンデンシュトラス ∗5)によって証明され,彼は

    この業績によって 2010 年にフィールズ賞を受賞

    した.その後,この結果はサンダララジャン ∗6)に

    よって SL(2, Z) の基本領域など,非コンパクト

    で数論的な場合に一般化された.

    4. 深リーマン予想

    ゼータの零点の研究に端を発した数論的量子カ

    オス理論は,フィールズ賞という華々しい成果を

    挙げて結実したが,現状では,それらの研究が直

    接,リーマン予想への進展を与えるものではない.

    そこで,本稿の締めくくりとして,最近発見さ

    れたリーマン予想への新たな知見を報告する.そ

    *5) E. Lindenstrauss: Invariant measures and arithmetic

    quantum unique ergodicity. Ann. of Math. 163 (2006)

    165-219.

    *6) K. Soundararajan: Quantum unique ergodicity for

    SL2(Z)\H. Ann. Math. 172 (2010) 1529-1538.

    6

  • 図 6 固有値が小さい場合 図 7 固有値が中程度の場合 図 8 固有値が大きな場合

    れは「深リーマン予想」と呼ばれるものである.

    深リーマン予想は,これまでほとんど考えられ

    てこなかった絶対収束域外,特に臨界線上のオイ

    ラー積の挙動に注目した予想である.歴史的には,

    1910年代のラマヌジャンによる先駆的な洞察,そ

    して,1980年代のゴールドフェルドによる発見,

    2005年のコンラッドやクオ&マーティの研究を経

    て,2011年頃から予想として確立してきた.それ

    は,リーマン予想の新しい解釈を与える.

    予想の名付け親である黒川自身による著書 1)お

    よび最近の記事 2), ならびに拙著 6)に,予想の端

    緒から周辺の数学分野との関連まで,詳しく述べ

    られているので,興味のある読者は参照されたい.

    また拙著 3)は第 6章を深リーマン予想に割き,ラ

    マヌジャンの論文が 1997年まで埋もれてしまった

    歴史的背景なども交えて解説した.

    ζ(s) の深リーマン予想は,上述の経緯を経て,

    赤塚広隆によって 2013年に発見された.それは,

    limx→∞

    ∏p≤x

    (1− p− 12 )−1

    exp

    [limε↓0

    (∫ x1+ε

    1

    u12 log u

    du− log 1ε

    )]= − e

    γ

    √2ζ

    (1

    2

    ). (8)

    という予想である(γ はオイラーの定数).

    左辺の分子は,ζ(s)のオイラー積の s = 12 に

    おける有限部分積であり,x → ∞ のときに発散する.深リーマン予想は,この発散の振る舞いが

    分母の振る舞いに等しく,さらに,その比が右辺

    の値に等しいことを主張する.

    この一見複雑な式が深リーマン予想を表す理由

    は,文献 3)第 6章ならびに文献 7)で,歴史的な

    経緯も含めて詳しく説明したので,参照されたい.

    深リーマン予想の正確な定式化により,リーマ

    ン予想研究は新たな局面を迎えたといえる.これ

    まで,数式 (4)における「ゼータの非零」が何を

    意味するものか良くわからなかったが,結局のと

    ころ「オイラー積の挙動」が問題であることが見

    えてきた.非零性は,その結果として出てくる現

    象の一つにすぎないのだ.

    この新たな洞察が,黒川,赤塚と言った日本の有

    力な数論研究者によってなされていることは,頼

    もしい限りである.今後の進展に期待したい.

    参考文献

    1) 黒川信重『リーマン予想の先へ――深リーマン予想――DRH』東京図書.2013 年.

    2) 黒川信重「BSD 予想と深リーマン予想」『現代思想』2016 年 10 月臨時増刊号.総特集:未解決問題【シリーズ現代思想の数学者たち】.

    3) 小山信也『素数とゼータ関数』共立出版.2015 年.4) 小山信也『素数からゼータへ,そしてカオスへ』日本評論社.2010 年.

    5) 小山信也「リーマン教授との対話」『現代思想』2016年 3月臨時増刊号.総特集:リーマン【リーマン予想のすべて】.

    6) 小山信也「リーマン教授との再会」『現代思想』2016年 10月臨時増刊号.総特集:未解決問題【シリーズ現代思想の数学者たち】.

    7) 小山信也「リーマン予想と深リーマン予想」『数学セミナー』2016 年 11 月号.日本評論社

    8) B. Riemann “Ueber die Anzahl der Primzahlen

    unter einer gegebenen Grösse”, Monat. der

    Königl. Peuss. Akad. der Wissen. zu Berlin aus

    der Jahre (1859), 671-680.

    (こやましんや,東洋大学)

    数理科学 NO. 644, FEBRUARY 2017 7