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81 中国のアフリカ進出について(1) —中国-アフリカ関係の歴史— ロンドン事務所 副所長 小嶋 吉広 はじめに 貿易投資や援助など、近年、アフリカにおける中国のプレゼンス拡大は目を見張るものがある。 筆者自身、アフリカ出張の際などに、空港や街中で現地の人たちから「ニーハオ」と声を掛けられることも多い。ま たアフリカに行くと漢字の看板を見かける機会が多く、中国-アフリカ間の経済関係の強さを垣間見ることができる。 2008年に訪問したアンゴラの首都ルアンダでは、建設作業員とおぼしき中国人労働者を荷台に満載させたトラックを 目にすることも多くあった。 このような経験の中で、アフリカにおける中国のプレゼンスの大きさを身を以て感じるとともに、中国によるアフ リカ投資に強い関心を抱いた次第である。中国のアフリカ投資、特に資源分野における投資についてのメディアによ る報道振りとしては、中国はアフリカの資源保有国に対し、援助や輸出信用の供与を通じ、主に中国企業の施工によ るインフラ整備とパッケージの形で資源権益を獲得しているという記事をよく見かける。 これらの報道の中には事実を適切に伝えているものがある一方、誇張されているものや断片的なものも見受けられ る。また、中国政府は貿易投資や対外援助に関し情報を公開していない場合が多いため、中国によるアフリカ投資の 全体像や実態を理解するのはなかなか難しいのが実情である。 折しも2012年7月にはFOCAC (中国アフリカ協力フォーラム)が北京で開催され、2013年には日本でTICAD Ⅴが開 催されることから、今後1~2年、アフリカが再びメディアの注目を浴びるのではないかと考えられる。 以上のようなことを背景として、この機会に中国のアフリカ投資の現状について体系的にまとめる意義は大きいと 思われる。このシリーズで取り上げる情報が、読者の関心となり、また我国の資源の安定供給確保を考える上で少し でも役立てば幸甚である。既述のように、中国は貿易投資、援助に関して情報を公開していない場合が多く、入手で きるデータが限られているため、推測値に頼らざるを得ない場合もあることを承知願いたい。 本報告は4回に分ける予定であり、まず第1回目の本稿では、中国-アフリカ関係の歴史について報告したい。 中国は1950年代よりアフリカへ進出しているが、2000年までは中国政府にとってアフリカの重要性はあまり高くな かった。1990年代後半より中国政府は「走出去」政策を展開し、中国企業の外国投資を奨励し、海外の新市場開拓を支 援した。この結果、中国-アフリカ間の貿易額は急激に増加し、中国はアフリカにとってEUに次ぐ第2位の貿易相手 先となった(国としては第1位)。このような中国-アフリカ間の急激な経済関係強化は、OECD諸国及び途上国にと って必ずしも歓迎できるものではなかった。先進国にとって、中国のアフリカ大陸での伸長は、これまで築いてきた 経済的優位性を脅かすものであった。他方、途上国にとっては、冷戦時代から続くOECD諸国、特に米国優位の国際 秩序を切り崩すものとして中国の投資を歓迎した。また、アフリカにおける中国のプレゼンス拡大は今後も継続する という見方も多い。本稿では、これまでの中国-アフリカ関係の発展について整理をしてみたい。 中国のアフリカ諸国との経済関係は、多くのアフリカ諸国が独立を果たす1950年代後半から1960年代にまで遡るこ とができる。中国の対アフリカ政策の歴史は、その政治的、外交的、戦略的重要性の変遷によって3つの時期に分類 することができる。第1期は1955年のバンドン会議に始まる。第2期は、中国の国連加盟が承認された1971年に始まり、 毛沢東時代の終了、鄧小平による「中国の特色をもつ社会主義の建設」を経て、中国の経済成長が自律的となる1990年 代前半までとする。第3期は急速な経済成長を遂げた中国が、1990年代後半の「走出去」政策開始を画期として、アフ リカ投資を加速化させる現在までとする。 1. 第1期(1955年~1971年)-非同盟諸国に おける盟主- 1-1. バンドン十原則と南南協力 第1期はイデオロギー的要素が強いことが特徴であ り、ヨーロッパによる植民地主義及び米ソ超大国によ る帝国主義に対抗するための「第三世界」の連帯を目指 すものであった。また、帝国主義に対する緩衝地帯を 創設することも中国の対外援助の大きな目的の一つで あり、この時期の主な援助対象国は北朝鮮とベトナム であった。非同盟諸国の連帯強化の概念は中国を発信 地として他の途上国にも伝播し、1955年には周恩来首 相やインドのネルー首相らによってバンドン会議が開 催された。アジア・アフリカから29か国が参加し、世 界平和と協力の推進に関する宣言(バンドン十原則)が 採択された。バンドン会議で確認された原則は平和共 存のほか、主権尊重、内政不干渉、経済的・技術的協 1772012.7 金属資源レポート

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Page 1: 中国のアフリカ進出について(1)mric.jogmec.go.jp/wp-content/old_uploads/reports/... · 表1. 対外援助8原則 (李恩民「アフリカにおける中国対外援助の展開」を基に作成)

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中国のアフリカ進出について(1)—中国-アフリカ関係の歴史—

 ロンドン事務所

副所長 小嶋 吉広

はじめに貿易投資や援助など、近年、アフリカにおける中国のプレゼンス拡大は目を見張るものがある。筆者自身、アフリカ出張の際などに、空港や街中で現地の人たちから「ニーハオ」と声を掛けられることも多い。またアフリカに行くと漢字の看板を見かける機会が多く、中国-アフリカ間の経済関係の強さを垣間見ることができる。2008年に訪問したアンゴラの首都ルアンダでは、建設作業員とおぼしき中国人労働者を荷台に満載させたトラックを目にすることも多くあった。このような経験の中で、アフリカにおける中国のプレゼンスの大きさを身を以て感じるとともに、中国によるアフリカ投資に強い関心を抱いた次第である。中国のアフリカ投資、特に資源分野における投資についてのメディアによる報道振りとしては、中国はアフリカの資源保有国に対し、援助や輸出信用の供与を通じ、主に中国企業の施工によるインフラ整備とパッケージの形で資源権益を獲得しているという記事をよく見かける。これらの報道の中には事実を適切に伝えているものがある一方、誇張されているものや断片的なものも見受けられる。また、中国政府は貿易投資や対外援助に関し情報を公開していない場合が多いため、中国によるアフリカ投資の全体像や実態を理解するのはなかなか難しいのが実情である。折しも2012年7月にはFOCAC(中国アフリカ協力フォーラム)が北京で開催され、2013年には日本でTICAD Ⅴが開催されることから、今後1~2年、アフリカが再びメディアの注目を浴びるのではないかと考えられる。以上のようなことを背景として、この機会に中国のアフリカ投資の現状について体系的にまとめる意義は大きいと思われる。このシリーズで取り上げる情報が、読者の関心となり、また我国の資源の安定供給確保を考える上で少しでも役立てば幸甚である。既述のように、中国は貿易投資、援助に関して情報を公開していない場合が多く、入手できるデータが限られているため、推測値に頼らざるを得ない場合もあることを承知願いたい。本報告は4回に分ける予定であり、まず第1回目の本稿では、中国-アフリカ関係の歴史について報告したい。中国は1950年代よりアフリカへ進出しているが、2000年までは中国政府にとってアフリカの重要性はあまり高くなかった。1990年代後半より中国政府は「走出去」政策を展開し、中国企業の外国投資を奨励し、海外の新市場開拓を支援した。この結果、中国-アフリカ間の貿易額は急激に増加し、中国はアフリカにとってEUに次ぐ第2位の貿易相手先となった(国としては第1位)。このような中国-アフリカ間の急激な経済関係強化は、OECD諸国及び途上国にとって必ずしも歓迎できるものではなかった。先進国にとって、中国のアフリカ大陸での伸長は、これまで築いてきた経済的優位性を脅かすものであった。他方、途上国にとっては、冷戦時代から続くOECD諸国、特に米国優位の国際秩序を切り崩すものとして中国の投資を歓迎した。また、アフリカにおける中国のプレゼンス拡大は今後も継続するという見方も多い。本稿では、これまでの中国-アフリカ関係の発展について整理をしてみたい。中国のアフリカ諸国との経済関係は、多くのアフリカ諸国が独立を果たす1950年代後半から1960年代にまで遡ることができる。中国の対アフリカ政策の歴史は、その政治的、外交的、戦略的重要性の変遷によって3つの時期に分類することができる。第1期は1955年のバンドン会議に始まる。第2期は、中国の国連加盟が承認された1971年に始まり、毛沢東時代の終了、鄧小平による「中国の特色をもつ社会主義の建設」を経て、中国の経済成長が自律的となる1990年代前半までとする。第3期は急速な経済成長を遂げた中国が、1990年代後半の「走出去」政策開始を画期として、アフリカ投資を加速化させる現在までとする。

1. 第1期(1955年~1971年)-非同盟諸国における盟主-

1-1. バンドン十原則と南南協力第1期はイデオロギー的要素が強いことが特徴であり、ヨーロッパによる植民地主義及び米ソ超大国による帝国主義に対抗するための「第三世界」の連帯を目指すものであった。また、帝国主義に対する緩衝地帯を創設することも中国の対外援助の大きな目的の一つで

あり、この時期の主な援助対象国は北朝鮮とベトナムであった。非同盟諸国の連帯強化の概念は中国を発信地として他の途上国にも伝播し、1955年には周恩来首相やインドのネルー首相らによってバンドン会議が開催された。アジア・アフリカから29か国が参加し、世界平和と協力の推進に関する宣言(バンドン十原則)が採択された。バンドン会議で確認された原則は平和共存のほか、主権尊重、内政不干渉、経済的・技術的協

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中国のアフリカ進出について(1)─中国

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力の推進、互恵推進、途上国の権利の尊重(投資及び一次産品価格の安定を含む)であった。この時期の中国の対アフリカ貿易関係における基本理念は、南南協力の推進とともに同盟の確保であった。例えば、1956年、エジプトが西側諸国で買い手が見つからなかった13,000tの綿花を中国が購入している1。また、1965年、タンザニアがタバコの余剰生産分の売却先を探していたとき、中国はこれを買い取る対応をした。このように、中国自身も外貨不足であったときでも、新しく独立した国々に対し率先して一次産品の買い取りを行った。

1-2. 対外援助8原則1964年に周恩来首相がアジア4か国、アフリカ10か国を訪問した際、中国政府は「中国対外援助8原則」を発表した。これは、「平等互恵、内政不干渉、債務負担軽減、自立支援、援助効果の最大化、品質の高い援助、技術移転、中国人専門家の生活保障」を原則としている(表1参照)。この原則はそれから約20年間の中国の対外政策の基本となるものであるが、内政不干渉の原則については現在でも中国の対外援助の基本方針の一つとなっている。周恩来首相によるアフリカ10か国への訪問は、「アフリカ諸国との友好関係構築における大きな足跡」と中国政府は評している。

2. 第2期(1971年~1990年代前半)-国連加盟と改革・開放の推進-

2-1. 国連加盟と援助バブル1960年代後半に入り、中国の対アフリカ政策はそれまでのイデオロギー的色彩から、国際社会における途上国の盟主としての地位を確固たるものにするという政治的な目的に変容してきた。国連における中国の代表権を中華民国から獲得するため、多くのアフリカ諸国からの政治的支援を得ることがアフリカ政策の重要な要素となった。1971年10月25日、中国の国連加盟を問ういわゆる「アルバニア決議」が賛成76票(うちアフリカ諸国26票)、反対35票、棄権17票によって可決され、中華人民共和国の国連加盟が正式に認められた。中国政府にとって国連加盟は、国際社会の一員とし

て正式に承認を受けたことを意味し、中国の外交活動は加速化の局面に入った。国際社会の一員としての正式な認知を受け、さらに国連安全保障理事会の常任理事国の座を中華民国より奪取したことが、外交拡大の推進力となった。アフリカとの政治的関係強化も加速化し、1978年には中国はアフリカ43か国にミッションを派遣している。この援助バブルの時期の代表的なプロジェクトとしてタザラ鉄道(タンザン鉄道)が挙げられる。1965年にローデシアが一方的に独立を宣言し、国連による制裁強化の結果、それまで銅鉱石の輸出に南アの港湾を利用してきたザンビアは、ローデシア経由の鉄道が使えなくなってしまい、主力産品である銅鉱石の国際競争力が阻害されることとなった。ザンビアとタンザニアはタザラ鉄道建設計画を立案し、世銀

表1. 対外援助8原則

(李恩民「アフリカにおける中国対外援助の展開」を基に作成)

1 李恩民「アフリカにおける中国対外援助の展開」、日本華人教授会議サイトより、p.25.

(1)平等互恵 中国政府は、一貫して平等互恵の原則に基づいて対外援助を提供する。これまでにこのような援助を一方的な恩恵とみなしたことは一度もなく、援助は相互的なものと考えている。

(2)内政不干渉 中国政府は、対外援助を提供する時、被援助国の主権を厳格に尊重し、いかなる附帯条件も絶対に要求しない。

(3)債務負担軽減 中国政府は、無利子または低利借款の方式で経済援助を提供する。被援助国の負担をできるだけ軽くするため、必要な場合は返済期限を延長する。

(4)自立支援 中国政府の対外援助の目的は、被援助国を中国に依存させることではなく、被援助国が自力更生の道、経済的な独立発展の道を一歩一歩前進するよう援助することである。

(5)援助効果の最大化 中国政府が被援助国を助けて建設する項目は、極力少ない投資で速やかに効果をおさめるものをえらび、被援助国政府が収入をふやし、資金を蓄積できるようにする。

(6)品質の高い援助中国政府は、自国で生産できるもっとも質の良い設備や資材を提供し、そして国際市場の価格に基づいて価格を定める。中国政府が提供した設備や資材は合意した規格と品質に合わない場合、中国政府はその設備や資材の取り替えを保証する。

(7)技術移転 中国政府は、外国にどんな技術援助を提供する場合でも、被援助国の関係者がこの技術を十分に習得できるように保証する。

(8)中国人専門家の生活保障

中国政府が被援助国の建設を助けるために派遣する専門家は、被援助国自身の専門家と同等の物質的待遇をうけるものとし、いかなる特殊の要求や待遇も許されない。

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に融資を依頼したが採算性が見込めず現実的でないとして世銀は融資実施に難色を示した。世銀に代わって中国が支援を表明し、1970年から1975年の間、タンザニアのダルエスサラームからザンビアのカピリムポシまでの全長1,860kmを4億US$、30年の無利子借款援助によってタザラ鉄道が建設された。このほか、中国政府との関係が強い国に対しては、学生を中国に留学させたり、技術者を中国から派遣する等の支援がなされた。1973年以前は中国の援助は全て無償援助方式であり、中国政府にとっての財政負担も大きかった。援助バブルピーク時の1973年には、対外援助額は55.8億元、対GDP比で2.1%、財政支出の7.2%を占めるにまで至った2。また、1956年から1977年までの間に、中国は36のアフリカ諸国へ計24.76億US$以上の経済援助を実施したというデータもある3。この時期の中国-アフリカ関係に関する資料や著作は多くないが、1950年代から1970年代にかけての中国-アフリカ関係は大変強い繋がりであったことはどの資料も一致している。世界最大の途上国である中国が、世界最大数の途上国を擁するアフリカ大陸において、先導的な役割を果たしたことは歴史的必然であるとする意見も見られる。

2-2. 改革・開放の推進1976年に毛沢東が死去し、いわゆる「4人組」が失脚したことにより文化大革命は事実上終結した。1978年に開催された第11期三中全会で毛沢東の後継者として鄧小平が権力を掌握し、改革開放路線を推進が正式に決定された。これまでの階級闘争から経済建設に重点を移し、中国の特色を持つ社会主義の建設が推し進められることとなった。国際的には、1972年の日中国交正常化、1979年には米国との国交が樹立されたことにより、それまでの政治的・イデオロギー的な対立軸にとって代わり、西側諸国との経済関係強化が中国の対外政策において重要課題になった。また、対外援助もそれまでの拡大路線に対する見直しがなされ1980年に国務院は、「対外援助を含む国際協力は被援助国の経済発展を促進するばかりでなく、中国の経済建設と改革・開放に奉仕させる」と発表し、援助実施における互恵的関係を重視する方向性を示した。1982年から1983年にかけて、趙紫陽がアフリカ諸国を訪問し、対外援助に関する4原則(平等互恵、実効追求、多様な形式、共同発展)が表明された。この4原則は、それまで対外援助の基本方針であった周恩来による「中国対外援助8原則」と比較すると、帝国主義に対抗するという政治的・イデオロギー的色彩が薄れ、自国の経済発展に資するという実利に重点が

置かれることとなった。中国は建国以来「自力更生」を政治方針として掲げてきたため、西側諸国からの経済援助を拒否してきた。しかしながら、「4つの近代化」を実現させていく上での国内の開発資金需要を満たすため、1979年の円借款受け入れを皮切りに援助受け入れへと方針転換し、1980年代、中国は世界最大の援助受け入れ国となった。

2-3. アンゴラ・モデルの淵源現在中国はアフリカの資源国に対し、資源を担保にした資金支援(いわゆる「アンゴラ・モデル」)をアンゴラを始めDRCコンゴ等に対し積極的に展開している。OECDのレポートによれば、中国はアフリカの9か国に対しこのような方式の資金供与を行っているが(図1参照)、その原型は実は日本が戦後賠償の一環で行ったインドへの初の円借款供与、そして中国と1978年に調印した日中長期貿易取り決め(LT貿易)であると分析する専門家もいる4。この分析によれば、1958年日本は、戦後賠償の一環としてゴアの鉄鉱石に係る開発輸入案件に対し最初の円借款をインドへ供与した。インド側は借款で供与された資金で鉄鉱石採掘に必要な資機材を日本から購入し、日本は年間200万tの鉄鉱石をインドより調達できることとなった。これにより日本は、戦後復興に不可欠な鉄鉱石の安定供給確保が可能となった。「日本は経済協力におけるこのゴア方式により、必要な資機材や技術、資金の提供と引き替えに、重要な資源の安定供給確保を実現した」と分析する専門家もいる5。1970年代後半、鄧小平が掲げる改革開放政策を支援するため、日本政府はこのゴア方式を中国に対し大規模に展開した。1976年、中国は「経済発展10か年計画要綱(1976~85年)」を策定し、経済建設に不可欠なプロジェクトとして120案件をリストアップした。120案件に係る資金需要は350億US$から500億US$とも言われ、米・仏等の西側各国が相次いで資金供与を表明し、日本は1978年に日中長期貿易取り決めを中国と調印した。その内容は、1978年~85年の双方の輸出総額をそれぞれ100億US$程度とする(その後、78年~90年にそれぞれ200~300億US$にすることで合意)、中国は日本に石油・石炭を供給し、日本は中国へ主にプラント・技術を供与するというものである6。中国は日中長期貿易取り決めに基づき、当時生産が好調であった大慶油田の原油を日本へ輸出し、国内の鉄鋼プラント等の建設資金に充て、重化学工業の礎を築いた。長期貿易取り決めによって、中国は日本へ累計1億9,625万tの大慶原油を供給し、日本は重質低硫黄の同原油を主に火力発電所の燃料として用いた7。

2 前田宏子(2009)「中国の対外援助」、PHP Policy Review Vol.3、No.13、p.6.3 渡辺紫及(2009)日本国際政治学会「ユーラシア地域大国外交の比較分析」部会(2009年11月7日)での報告.4 Deborah Brautigam(2009) The Dragon's Gift, Oxford University Press.5 David Arase(1995)Buying Power, Lynne Rienner Publisher.6 木下俊彦(1982)「日本の中国への資金・技術協力」、関口末夫編「環太平洋圏と日本の直接投資」第4章、日本経済新聞社.7 石油エネルギー技術センター(2010)「中国の石油貿易と対日取引の推移」、PEC海外石油情報ミニレポート、5月24日号.

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また円借款に関しては、1979年の大平総理訪中時には対中円借款供与開始が決定され、石炭や石油の輸送に不可欠な鉄道、港湾、電力等の経済インフラ整備に対し支援がなされた。借款金額は1979年度分として500億円、80年度分として560億円が供与された。さらに、日本輸出入銀行は資源開発金融として、石油・石炭を対象とした4,200億円の信用枠を供与した。具体的には、渤海沿岸(勝利油田)の油田開発、山東省鮑店、西曲等での石炭開発に必要な資金が供与されることとなった。このように日本政府は政策ツールを総動員して中国の経済建設に必要な開発資金を供与し、さらに原油、石炭の資源を積極的に中国から輸入することで、文化大革命で疲弊した中国の経済立て直しを全面的に支援した。中国はこの時の被援助国としての経験を基に、2000年代以降、次は援助国として資源を担保にした資金支援をアフリカにおいて展開するようになったとも言われている。

2-4. 対外援助の見直しと中国経済の成長1980年代に入り、中国はそれまでの対外援助における拡大路線を見直し、中国または中国企業に裨益効果のある案件へ絞り込みを行うこととなった。対外援助額も急減し、1970年代の1/3~1/4にまで縮減された(図2参照)。また、援助の形態も1973年頃までは無償援助が一般的であったが、1980年以降は借款を組み合わせるなど形態が多様化し、アフリカ諸国との関係もより成熟の段階に入ってきた。中国の経済成長率は、1976年のマイナス成長以後、急速に持ち直し、1980年代は10%前後の成長率を達成することができた。アフリカ諸国の指導者は、中国の急速な経済成長を関心を持って見守り、自国の経済建設のモデルとして見るようになった。1989年に発生した天安門事件の際には、西側諸国による中国政府批判とは対照的に、アフリカ諸国の中には中国を擁護する立場を取る国もあった。

図1. 中国による資源を担保にした融資(いわゆる「アンゴラ・モデル」)の例

(出典:How China is Influencing Africa's Development, OECD Development Centre Report)

Selected Chinese Concessional Finance Deals in Africa

Sudan

DRC

Angola

NigeriaGuinea

Ghana

Gabon

Congo

Zimbabwe

Project: Power plantconstruction, SudanNatural Resource forrepayment: OilYear: 2001Total Chinese financing:US$128m

Project: Key road, railand otherinfrastructure, DRCNatural Resource forrepayment: Copper &cobaltYear: 2008Total Chinese financing: US$9bn,reduced to US$6bn

Project: Construction of coal mines and thermal power stations, ZimbabweNatural Resource for repayment: ChromeYear: 2006

Project: Construction of infrastructure, AngolaNatural Resource for repayment: OilYear: 2004Total Chinese financing: US$1.02bn

Project: Congo River Dam, CongoNatural Resource for repayment: OilYear: 2001Total Chinese financing: US$280m

Project: Belinga iron ore project including key infrastructure, GabonNatural Resource for repayment: Iron OreYear: 2006Total Chinese financing: ApproxUS$3bn

Project: Bui Dam, GhanaNatural Resource for repayment: CocoaYear: 2007Total Chinese financing: US$562m

Project: Souapiti Dam,GuineaNatural Resource for repayment: BauxiteYear: 2006Total Chinese financing: US$1bn

Project: Construction of turbine power plant, NigeriaNatural Resource for repayment: OilYear: 2005Total Chinese financing: US$298m

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2-5. コンディショナリティと内政不干渉原則1980年代、アフリカ大陸の34か国は干ばつに襲われ、

経済成長の停滞、累積債務の増大が問題となった。このため世銀・IMFは途上国の財政再建に向け、財政支出の抑制、貿易の自由化、市場経済の導入、民営化の推進(小さな政府の指向)といった新古典派経済学のアプローチによる市場メカニズムを重視した改革プログラム(構造調整プログラム)履行を途上国に対し勧告した。1981年世銀は、報告書「サブサハラ・アフリカにおける発展の加速化」(いわゆる「バーグ報告書」)を発表し、過去20年間のアフリカ経済を「全般的な停滞」と結論付けた上で、市場主義に基づく構造調整プログラム実施の有効性を主張した。この考えに基づき世銀は途上国へ融資をする際、改革目標の策定と履行を条件としたコンディショナリティを途上国側へ課し、この構造調整融資は1994年まで続くこととなった。しかしながら、融資に際しコンディショナリティを課すことは途上国の主権を侵害するものであり、国際法における内政不干渉の原則に反するのではないか、という批判が後に途上国側からなされるようになった。また、構造調整プログラム自体の有効性も疑問視されるようになり、アフリカの途上国においてはそもそも市場メカニズムが十分に機能していない、あるいは脆弱であるため、市場に対する政府の関与を弱めたとしても、自律的な経済成長が達成できる訳ではない、という批判がなされるようになってきた。またアフリカ側の問題としてガバナンスが十分でないため、構造調整プログラムを十分に履行できない国も多く、プログラムが途中で放棄されることもあり、結果として効果が上がらないどころか社会経済的混乱を引き起こしたとの批判もある8。折しも、アフリカ諸国が構造調整プログラムで疲弊

していた1980年代後半から1990年代にかけては、アジアにおいては韓国、台湾、香港などのアジアNIEs諸国、そして中国が目覚ましい経済成長を次々と実現しており、構造調整プログラムに対するアフリカ諸国の批判は徐々に根強くなってきた。周恩来による「対外援助8原則」に基づき、援助供与に際しコンディショナリティを課さない中国の援助が、OECD諸国からの援助より受け入れ易いとするアフリカ諸国の意見は、この構造調整の苦い経験に基づくものである。

2-6. 米の対アフリカ政策転換この時期の米国のアフリカ戦略について簡単に触れると、1990年代半ばよりアフリカの戦略的重要性について再評価の動きが米国内でみられるようになった。1992年に発表された国家安全保障報告書(The National

Security Review 30)は「American Policy toward African in

the 1990s」というタイトルで、「冷戦終結により、米国はアフリカ諸国との関係改善に取り組むべきであり、アフリカにおいてどのように国益を実現するか検討するべきである」と述べ、以下の取り組みを提唱している。・民主化によるガバナンス向上により、民間セクター主導による経済成長を実現させるための支援・市場経済移行国に対しては債務削減・米国のアフリカへの輸出・投資促進のためには、内外投資無差別条項や投資環境の整備が不可欠クリントン大統領のアフリカ訪問(1998年)以後、米国の対アフリカ政策はそれまでの政治的要素から経済的要素へ、援助から貿易へ重点を移すようになり、そのモーメンタムは2000年に制定されたアフリカ成長機会法(AGOA:African Growth and Opportunity Act)へ引き継がれることとなった。

図2. 中国の対外援助額推移

(出典:前田宏子(2009)「中国の対外援助」、PHP Policy Review vol.3、no.13、p.6)

1950 60 65 70 75 80 85 90 95 2000 2005

80

70

60

50

40

30

20

10

0

8

7

6

5

4

3

2

1

0

中国の対外援助額推移

対外援助額 (億元)

対外援助/財政支出(%)

8 高阪章(1993)「アジア諸国の金融改革」、大蔵省財政金融研究所「ファイナンシャル・レビュー」No. 27、p.1~20.

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3. 第3期「走出去」政策の開始改革・開放政策による積極的な外資受け入れで中国は目覚ましい経済成長を享受することができたが、1993年に石油の純輸出国から純輸入国へ転じたことが、中国の対外援助政策における画期となった。中国は自国の持続的な経済成長実現のため、対外援助をエネルギー確保及び中国企業の海外進出促進のための手段として捉えるようになった。また、自身の経済成長の経験により、政府間の純公的援助だけでは受け入れ国の持続的経済成長を実現することは困難と認識し、1990年代後半以降、民間資金も含めた貿易・投資促進による支援アプローチを構築するようになった。1995年には対外援助活動会議が開催され、優遇借款の導入や民間資金を活用した援助の実施、効率化推進の方針が打ち出され、援助実施体制も見直され、中国輸出入銀行の設立や、対外援助を統括する機関として商務部の中に対外援助司が設置された。積極的な外資受け入れ(引進来)政策により中国は未

曾有の経済成長を実現できたが、貿易構造の面で以下の2つの課題も同時にもたらした9。一つ目は、対外貿易の対外依存度(すなわち外国資本、技術及び資源に対する依存度)を高め、結果として中国経済の対外依

存度を高めた。二つ目は、輸出産業の多くは労働集約的な斜陽産業であったため、技術性及び経済収益性が低く、中国の技術力向上に不利であった。この事態を脱するための方策として打ち出されたのが、いわゆる「走出去」政策である。1997年の全国外資工作会議において、江沢民主席は初めて「走出去」という戦略用語を使い国内企業の海外進出の重要性を説いた。その後のアジア通貨危機により、外生的ショックから自国経済を防御するための手段として「引進来」政策に代わるものして「走出去」実施の重要性は一層増した。さらにWTO加盟を1995年に申請し、WTO加盟承認の蓋然性が高くなってきたため、中国企業の競争機会獲得という観点から「走出去」政策の本格実施の機は熟しつつあった。2001年に開催された第9期全国人民代表大会第4回会議において「中国の国民経済及び社会発展に関する第10次五か年計画(2001~2005年)」が採択され、「走出去」政策は国家戦略として正式に認められることになった。次号では「走出去」政策展開の結果としての、中国-アフリカ関係の現状について報告する。

(2012.7.2)

9 康成文「中国の対外貿易戦略と課題」、国立国会図書館編『世界の中の中国』第6章、国立国会図書館.

(182)2012.7 金属資源レポート

連載

中国のアフリカ進出について(1)─中国

アフリカ関係の歴史─