プロローグ - biglobefushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3...

18
プロローグ ~戦死の真相を追って 60 1 プロローグ 戦死の真相を追って 60 平成 17 (2005)11 6 日、“平和の碑「海軍少尉 志賀敏美の像」” が、母校・福島県立相馬農業高等学校(旧相馬農蚕学校)を見下 ろす夜ノ森公園に建立された。志賀敏美が神風特別攻撃隊零戦隊 員としてフィリピン沖で壮烈な戦死を遂げてから 60 年後のこと である。 人びとの脳裏から戦争の記憶が消え去ろうとしているこのとき、 いくつもの執念と情熱が実って、ようやく敏美の戦歴の全貌が明 らかになった。このプロローグは、その明らかになっていく過程 についての記録である。 1 戦死の公報 2 新聞で知った敏美の戦死 ····················································· 2 海軍省からの通知 ······························································ 5 近江一郎氏の来訪 ······························································ 7 2 敏美、戦死の真相を求めて 8 政府機関へ問い合わせ ························································ 8 予科練同期の桜から第 1 ·············································· 11 特攻直掩隊の戦友から詳報が入る········································13 マリアナ海戦の戦友からも ·················································14 唯一残されていた 601 空・653 空の戦闘詳報·························15 戦友の著作 ······································································16 旧戦友に面会 ···································································18

Upload: others

Post on 03-Feb-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

1

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

● 平成 17 年(2005)11 月 6 日、“平和の碑「海軍少尉 志賀敏美の像」”

が、母校・福島県立相馬農業高等学校(旧相馬農蚕学校)を見下

ろす夜ノ森公園に建立された。志賀敏美が神風特別攻撃隊零戦隊

員としてフィリピン沖で壮烈な戦死を遂げてから 60 年後のこと

である。

● 人びとの脳裏から戦争の記憶が消え去ろうとしているこのとき、

いくつもの執念と情熱が実って、ようやく敏美の戦歴の全貌が明

らかになった。このプロローグは、その明らかになっていく過程

についての記録である。

目 次

1 戦死の公報 2

新聞で知った敏美の戦死 ····················································· 2

海軍省からの通知 ······························································ 5

近江一郎氏の来訪 ······························································ 7

2 敏美、戦死の真相を求めて 8

政府機関へ問い合わせ ························································ 8

予科練”同期の桜”から第 1 報 ·············································· 11特攻直掩隊の戦友から詳報が入る ········································ 13

マリアナ海戦の戦友からも ················································· 14

唯一残されていた 601 空・653 空の戦闘詳報 ························· 15

戦友の著作 ······································································ 16

旧戦友に面会 ··································································· 18

Page 2: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

2

1 戦死の公報

新聞で知った敏美の戦死

三男・敏美の戦死を生家の人たちに知らせたのは、2 軒おき隣の遠藤七

兵衛さんであった。明け方早くから屋敷裏の田んぼで代掻きをしていた

父豹象、次弟五三三のところへ七兵衛さんが新聞を抱えて跳んできた。

「豹象おじさん、新聞に敏美君の名前が出ている! 特攻隊で戦死だっ

て!」

それは、終戦を 3 ヵ月後に控えた昭和 20 年 6 月 9 日付の新聞だった。

そこに志賀敏美の名を見つけた七兵衛さんは、「余りにも大きな衝撃と感

動で、心身が硬直するのを覚えたのです。そして、この新聞を持ってお

父さんの豹象さんの処に駆けつけ、新聞をお見せしたのです。

その時、豹象さんは顔色一つ変えることなく、このことのあることをす

でに予期していたかのように、泰然として『そうか、やったか』とだけ

云って、また、もとの仕事をやられたのでありました。いくら戦時の時

とは云え、可愛い息子が遙か遠い南冥の地で戦死されたのです。それな

のに、その悲しみを人には微塵も見せずにおられた豹象さんの心中を察

するに余りあるものを感じるとともに、この親にしてこの子が出来たの

だ-と感動したことを昨日のことのように思い出すのであります。」と書

いている。(遠藤七兵衛「軍神志賀敏美君を偲ぶ」(志賀五三三著『国見

の里から』平成 6(1994)年)

下は、朝日新聞 2 面のトップ 「比島・台湾・九州に 神風攻撃隊の偉

勲不滅 連合艦隊司令長官布告」の見出しに続き、4 件の布告と 99 柱の

戦死者の名があった。

Page 3: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

3

写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲)

すでに、前年の 10 月 25 日、関行男大尉以下 5 名の神風特別攻撃隊敷島

隊員によって最初の体当たり攻撃が行われたことを父豹象も知っていた。

特に、その中の一人”中野磐雄”が同郷原町出身であったことから、地

元の新聞はこれを連日大々的に取り上げていた。

Page 4: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

4

海軍省公表(昭和二〇年六月八日)昭和一九年一〇月以降、比島、台湾、九

州方面海域に来寇せる敵海上部隊に対し数次に亘り出撃、必死必中の体当たり

攻撃を以て甚大なる打撃を与えたる神風特別攻撃隊員の殊勲を認め、連合艦隊

司令長官はこれを麾下全軍に布告せり。

第二神風特別攻撃隊

海軍上等飛行兵曹

鈴木

正一

海軍一等飛行兵曹

板倉

正一

小林

海軍飛行兵長

太田吉五郎

第四神風特別攻撃隊

海軍二等飛行兵曹

志賀

敏美

第二及第四神風特別攻撃隊として昭和一九年一〇月下旬より一一月中旬に亘

り、菲島東方面に策動中の敵機動部隊及タクロバン附近在泊中の艦船群に対し

爆撃隊と共に相続いて出撃、克くその精華を発揮して悠久の大義に殉ず忠烈万

世に燦たり、仍って其の偉勲を認め全軍に布告す。

昭和二〇年五月二三日

連合艦隊司令長官

豊田 副武

上は、新聞に掲載された海軍省公表

報道があってすぐ原町では「中野磐雄顕彰会」が組織され、伝記編纂、

写真頒布、顕彰追悼会の開催、立像の建設などの騒動が起き(昭和 19年 11 月 12 日付、読売新聞)、中野磐雄に関する記事は終戦直前まで続

いた。かれは戦争末期の特攻英雄とされた。(二上英朗『遙かなり雲雀ヶ

原―原町陸軍飛行場物語』動輪社、平成 7(1995)年)

敏美も予科練出身の戦闘機隊員だったから、いずれは中野と同じ運命を

たどるのだろうと覚悟はしていたものの、中野磐雄戦死の 2 週間後には

敏美も後を追うようにして戦死していたのだった。突然知らされた息子

の戦死に両親たちはただ無言、じっと悲しみをこらえるしかなかった。

Page 5: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

5

海軍省からの通知

新聞発表があって 2 週間後、横須賀海軍人事部長から 1 通の文書と横須

賀鎮守府司令長官戸塚道太郎名の弔辞(次頁)が届いた。

横人第八〇号ノ六ノ二三

昭和二十年六月二十三日 横

須賀海軍人事部長

殿

戦死者に関する件通知

海軍二等兵曹志賀敏美殿ニハ比島方面ニ於イテ

奮闘中昭和十九年十一月六日戦死ヲ遂ゲラレタル旨公報有

之候茲ニ御通知申上グルト共ニ謹ミテ深甚ノ弔意ヲ表シ候

尚生前ノ戦功ニ依リ特ニ同日附海軍一等飛行兵曹ニ任用(進

級)セシメラレ候

追テ機密保持上生前ノ配属艦戦部隊名ハ一切他に漏ラサザ

ル様御注意被下度

本籍地

福島県相馬郡石神村馬場下中内四十六

現住所

同右

写真 横須賀鎮守府司令官 戸塚道太郎からの弔辞

Page 6: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

6

戦死から半年以上も遅れての通知であった。書面には追って書きとして、

「機密保持上生前ノ配属艦戦部隊名ハ一切他ニ漏ラサザル様御注意被下

度」とあったが、もともと、いつ、どこから、どのようにして前戦へ向

かったのか、何も知らされていなかったのである。

ほどなく 8 月 15 日がきて終戦となった。途端に社会事情は一変した。

敏美の戦死を口にする人もいなくなった。それどころか、占領直後に開

始されたアメリカ軍による「日本人の精神的武装解除計画」によって、

旧軍人は戦犯のように白眼視されるようになって、可愛い息子を戦場に

送った両親の悲しみは強まる一方だった。

長男、二男、三男と 3 人の息子を戦場に送り、1 人戦死、2 人未帰還と

いった状態におかれていた母エンは、外地から引き揚げてきた甥や姪た

ちに口癖のように言った。「おまえらは、生きて帰ってこられただけ、ど

れだけ増しか」と。

翌 21 年 1 月、横須賀地方復員局から、敏美は戦死の日付けで海軍少尉

に任ぜられた、との通知が届いた。発信元は第二復員省である。解体さ

れた海軍省の残務整理を旧海軍の軍人らが処理していた。二等飛行兵曹

から 3 階級の特進になる。

Page 7: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

7

横人第八〇号ノ一ノ一五

昭和二十一年一月一五日 横

須賀地方復員局人事部長

殿

海軍二等兵曹志賀敏美殿ニハ比島方面ニ於イテ

御奮闘中昭和十九年十一月六日壮烈ナ戦死ヲ遂ゲラレタル旨

公 報有之候茲ニ御通知申上グルト共ニ謹ミテ深甚ノ弔意ヲ表シ

候 尚生前ノ抜群ナル戦功ニ依リ同日附特ニ海軍少尉ニ

任用(進級)セラレ候ニ付御伝達申上候

本籍地

福島県相馬郡石神村馬場下中内四十六

現住所

同右

昭和 22 年 5 月になって、19 年 6 月以来まったく音信のなかった長男多

男について、「昭和 20 年 5 月 1 日比島の激戦で戦死」したとの公報が入

った。三男敏美がフィリッピンの空に散って半年後、長男多男もまた同

じフィリピンの山岳地帯で散っていたのだった。

近江一郎氏の来訪

昭和 24 年 10 月 30 日、神戸市在住の近江一郎氏が生家を訪れた。神風

特別攻撃隊員の事績顕彰のため全国の遺族を訪問して弔意を表するとと

もに、遺品等を収集しているとのことだった。父豹象は敏美の写真 1 葉、

手紙 1 通、葉書 2 通を近江氏に預けた。父は、近江氏の語ったことをメ

モに書き残していた。

Page 8: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

8

神風特別攻撃隊 日本全国 2,700 名

福島県下 41 柱 相馬郡下 3 柱

原 町 中野磐雄少 敷島隊

中村町 横山侃昭少 菊水梓隊

石神村 志賀敏美少 第四神風特攻隊零

戦隊

功四級勲六等旭日章正八位

海軍軍務局 特務機官 近江一郎殿 59 歳

文中、氏名のあとの「少」は、「少尉」の略、「功四級勲六等旭日章正八

位」は、もし、敏美に対して叙勲ありとした場合の”位階勲等”である、

との説明があったのだろう。

2 敏美、戦死の真相を求めて

政府機関へ問い合わせ

敏美は、どこから出撃し、どこでどのように戦って散ったのか。父豹象

と次弟の五三三(いさみ)は、「第 4 神風特別攻撃隊」の真実を知りた

かった。しかし、何の手がかりも得られないまま、昭和 26 年 7 月 4 日、

父豹象は他界した。享年 57 歳。戦中戦後の過酷な労苦が父の死を早め

たのだった。

父の意志は次弟の五三三に引き継がれた。父豹象の名義で防衛庁と厚生

省に文書で問い合わせた。まず、防衛庁から昭和 31 年 6 月 2 日付で回

答が来た。内容は以下のとおり。

Page 9: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

9

第四神風特別攻撃隊に関する資料について

ご依頼のありました主題の件は、次の通りであります。

一、感状写 別紙の通り

二、戦闘の経過

第四神風特別攻撃隊は昭和 19年 10月 6 日編成され、同日午前

7 時マバラカット(マニラの東方)を発進した。その編成は攻

撃隊 6機と援護隊 4機で、志賀二飛曹は援護隊 3 番機で零戦艦

上戦闘機に搭乗した。

この攻撃隊は敵を見ず引き返し、午後 2時 30分再度発進し敵航

空母艦を捕捉し突入した模様である。援護隊はマニラの 70 度方

向 70 浬附近で敵グラマン戦闘機と交戦し、壮烈な自爆を遂げた

模様である。

追って以上の資料は厚生省引揚援護局業務第二課に保管されて

いる。

続けて厚生省引揚援護局から、昭和 31 年 7 月 23 日付で回答が届いた。

防衛庁からの回答よりも詳細な説明であった。

故志賀敏美海軍少尉の遺品及び軍歴調査書

特別攻撃隊発進前の遺書または遺品の有無

当課並びに横須賀地方復員部(旧横須賀鎮守府の残務担当庁)

共、遺書または遺品は保管致しておりません。

なお、終戦後、神戸市在住の近江一郎氏が、神風特別攻撃隊

員の事績顕彰のため、全国のご遺族を歴訪された際嵬集され

た特攻隊員の資料を、近江氏病没後、元海軍少将寺本武治氏

Page 10: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

10

の仲介により、当課で保管いたしたことがありますが、その

中にご子息の写真 1葉、手紙 1通、葉書 2通が含んであった

ことが当課の記録に残っております。

近江氏は巡歴未完の侭昭和 27年 1月他界されたのでありま

すが、同氏の意志を継ぎ、巡歴事業完成のため、寺本氏から

の要請により昭和 29 年 3月右資料一括同氏に送付致しまし

たので、現在は寺本氏(住所 略)のもとに保管されている

筈でありますから申し添えます。

特別攻撃隊参加前の行動について

故人の軍歴は添付のとおりでありますが、行動の詳細は記録

が残っておりませんので不詳ですからご了承下さい。

なお、当課の記録によれば、志賀少尉の所属していた第 653

海軍航空隊は、昭和 19年 6月は第三航空戦隊所属の航空母

艦千代田、千歳、瑞鳳、瑞鶴に搭載された航空隊であって、

マリアナ諸島方面に来攻した敵の攻撃に当たり、その後内地

において訓練に従事していたが、同年 10月、南西諸島及び

比島方面に来攻する敵の機動部隊を攻撃するため 10月 12日

当時比島にあった第二航空艦隊の指揮下に編入され、大部分

は沖縄、台湾を経て比島航空基地に進出し、10月 24日マニ

ラ北東約400浬の地点において発見された敵機動部隊に奇襲

攻撃を敢行した後比島航空基地に到着した。

戦死時の状況

ルソン島洋上の敵機動部隊索敵攻撃の命令を受けた第四神

風特別攻撃隊のうち攻撃機 6機、援護機 4機からなる攻撃隊

は、11月 6日午前 7時マバラカット基地を発進したが予定地

点を捜索せるも敵影を発見し得ず一旦基地に帰投し、更に午

後 2時 30分再度出撃して敵航空母艦を捕捉に向かった。

Page 11: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

11

当時志賀少尉(当時二等飛行兵曹)は 3番機に搭乗していた

が、マニラの 70度方尚 70浬附近で敵グラマン戦闘機と交戦

し、壮烈な自爆を遂げたと記録されている。

予科練”同期の桜”から第 1 報

敏美の情報を得られないまま 30 数年が過ぎた頃、突然、いわき市在住

の田邉準一氏から電話が入った。「予科練最後の徳島海軍航空隊(第 31期飛行予科練習生・戦闘機専修)で敏美君と同期でした。同県人として

4 カ月間、親しく語り合い励まし合ってきたが卒業と同時に別れ別れに

なってしまっていました」とのことであった。

田邉氏は、まったく消息のなかった北海道在住の戦友から突然電話をも

らった。福島県の電話帳から「田邉準一」を捜し出したと聞いて、敏美

の生家捜しに応用したのだった。

福島県相馬郡までは記憶にあった。公務員を定年退職したのを機に、相

馬郡内の電話帳から苗字が「志賀」の番号に電話をかけ、ようやく生家

にたどりついたということだった。

田邉氏と五三三との交流が始まった。田邉氏は、五三三を平成 14 年 11月、土浦で開催された予科練戦没者の慰霊祭に誘った。慰霊祭が終わる

とグループ毎の懇親会がある。2 人は、丙種飛行予科練習生の生存者と

遺族の会「丙飛会懇親会」にも出席し、五三三は「遺族として、今でも

敏美のことを知りたいと願っている」と参会者に心境を述べた。

後刻、丙飛会の大原亮治会長宛て礼状を送ったところ、(次頁)大原会長

が、それを、平成 14 年 11 月 20 日発行の丙飛会の「会報『へい飛』第

40号」に掲載した。

Page 12: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

12

写真 懇親会席上の五三三(左)と田邉氏(右)

拝啓 晩秋の候ますますご清祥の事とお慶び申し上げます。

さて先日・土浦での予科練戦没者慰張祭に参加させて頂き特段のご配隠

を頂き有難うございました。

終戦 57 年平和な歳月を辿り去った今日、祖国愛に執念を賭けて戦った隊

員や国内外の苦しい戦時生活のことを忘れ風化しようとしています。

今後 21 世紀の将来を考えると、我が国の存亡に些か懸念さえ感じられま

す。慰霊祭における各代表者追悼のことばを聞き、皆様ひとしく感銘さ

れたことかと思います。

私の実兄 3 人が従軍し、二人とも比島で戦死し、一人は復員して亡くし、

何れも当時の動きについて分からないのが現状です。

まして、被占領国になって暫くは黙秘時代が続き、情報の無いまま疎遠

となったことは止むを得なかったことと思います。然し遺族の心情とし

て今でも何かのきっかけによって当時を知りたいことには変わりないの

です。

大原様には貴重な各資料を等を頂き後世に残します。お手数をお掛けし

恐縮しております。今後とも参考になることがありましたらお知らせ下

さい。

Page 13: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

13

まずは、ご厚情に厚くお礼申し上げま

す。末筆ながら貴会の益々のご発展を

お祈りします。

写真は 五三三の礼状が掲載された

「『へい飛』40号」

特攻直掩隊の戦友から詳報が入る

「会報『へい飛』第 40 号」が発行されてすぐのことだった。会報を読

んだ元戦友の藤本速雄氏(愛媛県松山市在住)から生家へ電話が入った。

敏美が最初に着任した瑞鶴戦闘機隊の先輩、同じ”丙飛”出身だった。

シンガポールの前戦基地で過酷な訓練を経てマリアナ沖海戦に出撃、そ

の後のフィリピン戦線でも、特攻機の直掩隊として編隊を組んで飛んだ

仲間であった。

長年、敏美の遺族捜しに執念を燃やしてきた

藤本氏は、すぐ行動を起こした。まず、敏美

の戦記を書き起こした。タイトルは「少尉志

賀敏美 死闘の零戦隊」(右写真)。400 字詰

め原稿用紙 33 枚に及んだ。

Page 14: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

14

平成 16 年 4 月 16 日、藤

本速雄氏は「死闘の零戦

隊」を持参して生家を訪

ねた。敏美の霊前に香を

手向け、翌 17 日には、

敏美の母校・相馬農業高

等学校の同窓会館で、「私

の戦争体験」と題する講

演をした。

写真上 講演会場にて藤本速雄氏(左)と志賀五三三(右)

藤本氏が語った敏美の戦記は参会者に大きな感動を与え、ひいては「平

和の碑『海軍少尉志賀敏美の像』”の建立のきっかけとなった。

マリアナ海戦の戦友からも

翌 17 年 5 月、藤本氏は福岡市に在住する元戦友(海兵団時代からの友

人)の平野恵氏を訪問、「志賀敏美君の生家が分かった!」と告げた。平

野氏も敏美といっしょにシンガポール基地での訓練に従事し、特にマリ

アナ沖海戦では、3 番機、4 番機

として翼を並べて飛んだ仲だった。

平野氏は、早速、マリアナ沖海戦

時の記録をB4 版の縦罫紙 数枚

にびっしりと書いて五三三宛に送

った。

右写真は池田速雄海軍二等飛行兵曹

(左)と平野恵海軍二等飛行兵曹

(右)。昭和 19年秋、比島戦線へ出撃

直前。「池田」は藤本氏の旧姓。

Page 15: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

15

平野さんは、文末に次のことばを書き添えた。

5年前に胃ガンの手術を受け、血圧も少々高く、戦友会も 14、5 年ご無

沙汰しています。本来ならば私も墓参に伺いたいと思いますが、80 歳を

過ぎ身体が思うように動きません。

入退院を繰り返し不自由な身体でありながら、一筆一筆丁寧に書かれた

ものであった。

敏美の初陣から特攻戦死までの戦歴の詳細が、生死をともにした 2 人の

戦友の証言で、明らかになった。敏美戦死の 60 年後、奇跡的ともいえ

る出来事だった。

3 人の生き証人からの証言に加え、敏美の所属した航空隊の戦闘の詳細

が分かれば完璧な「敏美の戦記」が完成するとの思いから、公刊戦史等

に当たって見ることにした。

唯一残されていた 601空・653空の戦闘詳報

平成 17 年 2 月、靖国神社偕行文庫室長の大東信祐氏(元防衛研究所戦

史室長)を訪ねた。大東室長は、書庫か

ら”予科練”、”神風特別攻撃隊”等々

に関する蔵書を何冊も出してこられた。

そのなかには、敏美が所属した第 601 海

軍航空隊および第653海軍航空隊それぞ

れの”戦務甲”の期間(戦闘に参加した

期間)と”戦務丁”の期間(内地に於い

て整備・訓練に従事した期間)が判った。

各航空隊が作成した作戦毎の戦時日誌や

戦闘詳報は、防衛研究所史料閲覧室にい

けば閲覧できること、その他、資料収集

Page 16: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

16

についてのアドバイスを受けた。

3 月に入って史料閲覧室を訪ねた。そこには戦史部が昭和 41 年から昭和

55 年にかけ、第 2 次大戦について編さん、刊行した戦史叢書(大本営関

係 34 巻・陸軍戦史 37 巻・海軍戦史 21 巻・陸軍航空戦史 9 巻・年表 1巻の全 102 巻)や、終戦時に焼却されたもの、占領軍から返還された陸

海軍関係の公文書類が約 15 万冊保存されているという。

敏美の所属した 601 空、653 空の戦時日誌、戦闘詳報を蔵書目録から探

し出した(前ページ写真)。空母の沈没により母艦航空隊のそれは殆どが

逸失しているなか、601 空・653 空はきわめて奇跡的なことだと聞いた。

ページをめくると「池田速雄(藤本氏の旧姓)、平野恵、志賀敏美」の名

がいくつも出てきた。紙は茶色に変色してもろくなっているので、気遣

いしながらページをめくった。表紙に「電子複写不可」とあったから、

必要なデータはノートに書き写すしかなかったが、敏美に関する戦闘詳

報を閲覧することできた幸運に感謝した。

戦友の著作

まだ、全貌のイメージがつかめない。そこで航空戦参戦者の体験記、そ

れも敏美が所属した飛行隊について書かれたものが欲しかった。靖国神

社遊就館の売店に多くの戦記物が並んでいる。片端からページをめくっ

ていった。見つかった。

白浜芳次郎著「最後の零戦」(学習研究社・学研 M文庫 平成 12年)が、

藤本速雄(旧姓池田速雄として)ほか、601空戦闘詳報からコピーして

来た敏美の戦友の名前がいくつも出て来た。最年少だったからだろう敏

美の名こそなかったが、敏美と著者は同じ戦場で戦っていたことが分か

った。靖国の社頭で思わぬ出来事に、敏美の御霊が引き合わせてくれた

のだと感動に震えた。

Page 17: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

17

写真は、「昭和 20 年 8 月 15 日 鹿屋基地における出撃直前の記念撮影」 「最後の零戦」335 ページから転載した。 左から 2 人目が白浜芳次郎氏、その右が平野恵氏。

白浜芳次郎氏は残念ながら平成 10(1998)年に逝去された。

その後、次の 3 冊を入手した。

● 「太平洋戦争実戦記. 第 4 『血戦マリアナ沖』(池田速雄) 」 (土曜通信社・今日の教養文庫 1963 年刊)。 ※ 国会図書館で「池田速雄」をキーワードに検索して発見した。

● 「今日の話題戦記版・第百集記念特大号『海軍航空隊司令の記』 (杉山利一)」(土曜通信社・1962 年刊)。 ※ 終戦の年の 601空での藤本・平野両氏の詳細が記録されていた。

● 森史朗氏著「敷島隊の五人」(上・下 文春文庫・単行本は平成 7(1995)年、光人社刊)

※ 敷島隊の 5 人のうちの一人“永峯肇”が、敏美と同じ丙飛 15期生として、同じ航空隊で訓練を受けていた。彼に関する記事か

ら、敏美の予科練・飛練時代を推測することができた。

Page 18: プロローグ - BIGLOBEfushimi/1prolog.pdfプロローグ ~戦死の真相を追って60 年 3 写真 敏美の戦死を告げる朝日新聞(記事内容は別掲) すでに、前年の10

プロローグ ~戦死の真相を追って 60 年

18

旧戦友に面会

アウトラインをつかんだ平成 17 年 9 月、筆者は松江市と福岡市に飛ん

で藤本、平野の両氏を訪ねた。いただいた戦記

の行間にひそむディテール

を伺いたかったからだ。

お二人とも 81 歳(平成 17年 6 月現在)、それぞれ 5年前頃から入退院を繰り返

していたと伺ったが、それ

ぞれ 5 時間に及ぶ質問に熱心にお答え頂いた。

写真左・藤本速雄氏 右・平野恵氏

予め送っておいた原稿も拡大鏡が必要であったり、耳が遠いからと奥様

が間に入ったりしたが、敏美と行動をともにした 601 空、653 空戦闘機

隊の詳細に亘る証言は貴重だった。

戦後 60 年という節目、いくつもの執念と奇跡的な出会いとで敏美の戦

歴が明らかになり、それが起因となって“平和の碑「海軍少尉志賀敏美

の像」”が建立された。銘板の先頭には「元零戦艦上戦闘機搭乗員 大原

亮治・横須賀市 藤本速雄・松山市 平野恵・福岡市 田邉準一・いわ

き市」の名が刻された。

この書では、まず、志賀敏美の生涯を画く。ついで、戦後 60 年にもな

って、「平和の碑『海軍少尉 志賀敏美の像』」が建立された軌跡を追う

ことにする。

以下、文中の敬称は省略し、藤本速雄氏については、公刊戦史等はすべ

て旧姓「池田速雄」で記録されているので、次章以降の記事では「池田

速雄」と表記した。また、縦書きの原文を引用した場合、横書きとし漢

数字は算用数字で表示した。