批判とユートピア -h.ハイネの思想のアクチュアリ...

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防衛大学校紀要(人文科学分冊) 115輯(29.9)別刷 批判とユートピア -H.ハイネの思想のアクチュアリティ-

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防衛大学校紀要(人文科学分冊) 第115輯(29.9)別刷

木 村 高 明

批判とユートピア

-H.ハイネの思想のアクチュアリティ-

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批判とユートピア

― H. ハイネの思想のアクチュアリティ ―

木村高明

ハイネなら、利益は個人が独占し、損失

は社会全体に負わせるといった簿記係を

笑いの種にしたであろう。

(J. ハーバーマス)1)

1.はじめに

 ドイツ文学史ないし思想史を紐解けば、名前はもちろん、作品(著作)も広

く知られてはいるが、その受容がネガティブにしか働かなかったような作家、

思想家が目にとまるものである。そのような人物の代表格として、ハインリヒ・

ハイネ(Heinrich Heine 1797 - 1856)が挙げられる。

 生誕二二〇年を迎える今、ハイネは「ドイツ文学の正典」に名前を連ねては

いるが、歴史的にみれば、この作家に対する「偏狭な拒絶の態度」が尋常では

なかったことは明らかである2)。

 一体、なぜこのような状況が生じたか、そもそもハイネという作家はどのよ

うな思想の持ち主であったか。また彼の思想のアクチュアリティは何か、といっ

た点について説明せよ、というのが、私に与えられた課題である。

 ハイネ専門家にとっては、ある意味自明の問いであり、なにを今更、と思わ

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れるであろうが、しかし、とりわけ最後の問いへの応答、すなわち、ハイネの

思想の今日的な意義を明らかにするという試みは、混迷を深める現在の世界情

勢、とりわけ分裂の危機に直面する統合ヨーロッパ(EU)の現状を考え合わ

せれば、あながち在り来りの、陳腐な主題とはいえなくなる。

 なぜなら、一八〇有余年前、国家間の対立が収束どころか、むしろ、各国が

国境を閉ざすことで、いわば一触即発の状態に陥っていたヨーロッパの現状を

見据え、それに警鐘を鳴らすかのように、諸国民の「相互理解と協力、協調」3)

に基づく世界の構築を謳い上げたのは、ハイネその人だからである。

 それは、まさにトランスナショナルな「壮大な連合(体)」(Völkerbündnis)4)

の提唱であり、その意味では、ハーバーマスの指摘によるまでもなく、こんに

ちのヨーロッパ統合を予見したかと思えるようなハイネの先見の明であった5)。

 ハイネにとっては、現前には存在しないあヴ ァ ー チ ャ ル リ ア リ テ ィ

りうべき現実、いわば理想のユー

トピアでしかなかった体制が、ようやく実現はしたものの、その基盤がはやく

も揺らぎ、崩壊の危機に直面しているのが今日のヨーロッパであろう。  

 そうであれば、いわば提唱者の言葉に遡り、その声を聴きとめることで、改

めてそこで謳われている彼の考え、思想の中身を究明してみたくなる。

 というのは、それにより、なにがしか現代への批判と反省の契機が見出せる、

正確には、ハイネが、絶えず当時の「現実」に問いかけては、そこから導き出

した批判的反省的な答え、それを現代に活かし返せば、むしろ混迷の中に視界

が開け、新たな指針(道標)といったものが探り当てられるのではないか、と

いった期待がもてるからである。

 先に挙げた三つの問いのうち、後先になるが、まずはこの問題から取り上げ、

ハイネの言説を検証してみることにする。その上で、彼が依拠した - まさに

啓蒙の - 批判精神(Kritik)の迫インパルス

力ないし真髄を明らかにすれば、おのずと

他の問いへの答えもみえてくるとおもわれる。

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2. 「友愛」の精神: 「私の念頭にあるのは(....)人類みな兄弟の精神である」(ハ

イネ)

 ハイネの初期の著作に『ポーランドについて』(Über Polen)という評論があ

る。

 一八二二年、当時、二五歳の学生ハイネは、友人の招きに応じて隣国ポーラ

ンドへ旅行したが、その時の経験を基にまとめたのがこのポーランド論である。

 当時のポーランドの現状が、生活状況一般から国民的心情の分析に至るまで

広く論述されているという点では、<生活・文化史>の観点からも興味をそそ

られるのだが、それ以上に、注目に値するのは、ハイネが、いわゆるウィーン

体制下のヨーロッパの現状を踏まえて、ある種、彼独特の世界観を表明するく

だりである。

 しかも、それは、現実には存在しない、すなわち、彼が理想とする、あるべ

き世界の姿(国家間の関係)を謳うものだけに、なおさら目を引くことになる。

 その言葉を引くまえに、まずは、ハイネがそれを表明せずにはおれなかった

背景、すなわち、当時のポーランドの政治的社会的状況からみておく必要があ

りそうだ。

 この国(ポーランド)は、古くから大国にはさまれ、分割統治の対象であっ

た。小国の悲哀といえばそれまでだが、ハイネが訪れた当時も、ポーランドは、

まさに三度目の国土の分割(オーストリア、ロシア、プロイセンによる)が行

われ、依然、歴史的悲劇から脱け出せないでいた。

 もっとも、悲劇といっても、それは、地理的な分断を意味するだけではない。

 なによりも、長年の分割統治により、この国は、いわゆる国民的アイデンティ

ティといったものが消滅の危機にあったからである。それゆえ、ハイネの言葉

を借りれば、ひとびとは、つねに「民族の誇り」 (Nationalstolz)を取り戻す

ために、「独立のための戦い」に備え、その準備を怠るわけにはいかなかった(B

2, 79f)。

 要するに、ポーランド国民は、貴族であれ、民衆であれ、一見、不幸な現状

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に慣れて「気楽に」(B2, 73)生活しているようにみえるが、その実、平穏な

生活は望むべくもなく、むしろ、「自分たちの国民性を破壊する理念に対して

は激しく抵抗せざるをえない」(B 2, 80)状態におかれている、というのがハ

イネの見方である。

 「祖国愛」(Vaterlandsliebe) に燃える国民といえば、聞こえはよいが、ハイ

ネには、それは、「臨終の人間が、死への恐怖から、死に逆らうときの断末魔

の痙攣」(B 2, 80) のようにおもえて仕方なかった。

 彼はこのとき、小国(の国民)のこの上ない「不幸」な運命を目の当たりに

したわけである。

 もちろん、長年、圧政に苦しみ、<自由を奪われてきたポーランド民衆の心

情を察すれば、同情は禁じえない。それゆえ、彼らが、自由と独立を獲得しよ

うと「燃え上がり」(glühen)、ある種の興奮状態に陥るのも理解はできる>

としながらも、ハイネは、その一方で、どこか民ナ シ ョ ナ リ ス テ ィ ク

族意識むきだしの「好戦的」

な態度には違和感をおぼえ、同調はできなかった。

 それどころか、彼は、次のような思いを抱かずにはおれなかった。

   「(...)ヨーロッパおよび全世界のすべての民衆は、この死の闘い(Todeskampf)

に耐え、死から生命が、異教の国民性からキリスト教の友愛が生じるようにしな

ければならない。[祖国 ]愛が目に見える形で現れたがる見事な特殊性

(Besonderheit)のすべてを放棄せよ、というのではない。私の念頭にあるのは、

われわれドイツ人が最も熱心に追い求め、そして、われわれのもっとも高貴な民

衆の代弁者であったレッシング、ヘルダー、シラーたちがこの上なく見事に表明

した人類みな兄弟(allgemeine Menschenverbrüderung)、すなわち、原キリス

ト教の精神である。だがポーランドの貴族たちは、われわれと同様に、依然、こ

の精神から遠く離れている。」 (B 2, 80f.)

 一読して明らかなのは、ハイネはここで、レッシングを初めとするゲーテ時

代の偉大な精神の持ち主たちが奉じてきた博愛精神、全人類同胞、「人類みな

兄弟」といった考え方、言い換えれば、「トランスナショナルなコスモポリタ

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ニズム」 (transnationaler Kosmopolitismus)6) の理念に立ち返り、その実現

に期待を寄せていることである。

 なるほど現レ ア ル

実政ポリティーク

治は、ときに流血の「死の闘い」を引き起こすほど、冷酷

非情である。それは、このポーランドの状況を見れば明らかである。だが、<

現実がそうであればなおのこと、暴力には拠らずに、むしろ、「友愛」(博愛)

と協調の精神の大切さを思い起こし、その理想にかえることはできないものか>

というのが、このときのハイネの偽らざる心境であることが読み取れる。  

 なぜなら、力による解決は、憎しみは増幅しても、結局、問題の本質的な解

決には結びつかない。だとすれば、諸国民が、お互い同士、それぞれの「特殊

性」(Besonderheit)は尊重しながら、対話を介して合意形成を図る努力をす

べきである。それが、本来あるべき世界の姿であり、平和を招来できると考え

られるからである。ハイネの気持ちはこのように代弁できるであろう。 

 もちろん、だからといって、ハイネは、ポーランドの現状はこのまま放置し

てよい、などと考えているのではない。むしろ、この国の、とりわけ民衆の「解

放」(Emanzipation)はいわば最重要「課題」のひとつではある 7)。だが、そ

れとは別に、「全世界」(die ganze Erde)の平和を考えれば、それは、コスモ

ポリタニズムの精神8)に依拠するしか、実現の可能性はみえてこない、という

のがハイネの主張である。   

 極端な民族主義特有の排外的な態度、あるいは「外国のものを憎む」だけの

- ナショナリズムといっても - 偏狭なナショナリズム 9)は、問題の解決どこ

ろか、対立を煽るだけだ、といったハイネの声が聞こえてきそうである。

 こうしたハイネの思い、いわば恒久平和への願いは、これ以後も、局面を変

えて、たびたび表明される。 

 たとえば、ポーランド論発表から六年後、ミュンヘンからイタリア・ジェノ

バへ向かう旅の途上(『ミュンヘンからジェノバへの旅』)においても、ハイネ

は - 全ヨーロッパの現状分析と相まって - 諸国民の<連帯と協調>といった

理想を謳い上げている。

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 一八二八年夏、ハイネは、求職活動がうまくゆかず、しかもユダヤ人排撃の

矛先が自分に向けられたこともあり、半ば生活に嫌気がさしていた。そうした

現実から逃げ出すように、彼は -「レモンとオレンジの香り」に誘われるま

まに - イタリアへ旅立つ。

 チロル(インスブルック)から、トレント、ベローナ、そしてミラノと続く

旅は、文字通り、刺激に溢れていた。なぜなら、都市の雰囲気であれ、自然の

景観であれ、ドイツとはまったく違う、まさに南国特有の「さまざまな新しい

現象の色カ ラ フ ル

鮮やかな力」が彼を魅了したからである(B 2, 359)。

 ミラノでは大聖堂の「無数の聖人像」(B 2, 373)に迎えられ、心が和んだが、

その後訪れた「マレンゴの戦場」(かつてナポレオンがオーストリアを撃破した)

で、彼の気持ちは一変する10)。

 大勢の兵士が命を落とした「世界史」 (Welthistorie)の悲劇の舞台というこ

ともあり、それまでの軽快な口調は影をひそめ、いささか神妙な調子で「人命」

の尊さ、そしてなによりも、戦争の連続である歴史(人類史)への「反省」が

語られる。

 そのときの言葉がこれである。

  「個人であれ、全人類であれ、命の価値はまったく同じではないのか?」

   「(....)ときどき思えて仕方ないのだが、武勇の誉れ(Kriegsruhm)といったも

のはもはや時代遅れの喜びではないのか。戦争はこれまで以上に高貴な意味を獲

得し、ナポレオンは最後の征服者になるであろう。実際、こんにちでは、物質的

な利害より、精神的な利害が原因で戦いが生じる、つまり、世界史はもはや盗賊

史(Räubergeschichte)ではなく、精神史であろうとするかのようだ。」(B 2,

375)

さらに続けて、

   「野心的で貪欲な王侯領主たちが、かつて、自分たちの目的のためにじつに有効

に操作できたメインハンドル(Haupthebel)、すなわち、うぬぼれや他国への憎

悪にみちた国民性は、いまや腐り、廃物になった。日ごとどんどんと愚劣な国民

的偏見(Nationalvorurteile)は消えていく。きわだった特殊性はすべて解消し、

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ヨーロッパ文明の普遍性が生まれている。ヨーロッパにはもはや国民といったも

のはなく、党派しか存在しない。こうした党派が、色彩(党派色:筆者)はじつ

に多様だが、お互い同士よく認識し合える、そしてまた、言語の違いは多々あるが、

お互い同士よく理解し合える状況は見事なものだ。物質的な国家政治が存在する

ように、今や、精神的な党派政治といったものも存在する(.....)」 (B 2, 376. 下線

は筆者)

 戦争や略奪に明け暮れたこれまでの野蛮な時代(「盗賊史」の時代)は終わり、

人類は今や新しい時代への敷居をまたぎ、<もっとも新しい時代>に生きてい

るという、ハイネの - ヘーゲルの歴史哲学を彷彿させるような - 時代転換

の意識がここに表れている。

 ハイネに拠れば、「現代」は、まさに協調と連帯の時代と考えられる。なぜ

なら、諸国民のあいだにもはや「国民的偏見」は消え、お互い同士が -「言

語の違い」はあるものの、それを乗り越えて - 対話を介して「理解」し合お

うと努力しているからである。それゆえ、<ヨーロッパは今や一つに纏まった。

こののち「戦争」は回避できる>、というのがハイネの現状認識である。

 なにやらハイネの喜びが行間から伝わってきそうではある。

 だが、そうはいっても、当時のヨーロッパの「現実」はハイネが考えるほど

平穏ではありえなかった。国家間の対立の火種は、依然、くすぶり、いつ衝突

が起きてもおかしくない、その意味では、「特殊性」の解消どころか、一触即

発の状態にあったからである。

 こうした現実に照らし合わせれば、先のハイネの言葉は、いささか<はしゃ

ぎすぎ>であり、むしろ、ハイネ自身のオプティミスティクな希望、願望の表

れと捉えるのが妥当とおもわれる。

 見方を変えれば、これは、ある種、ハイネ流「ユートピア」、あるいは壮大

な「未来」構想、さらにいえば、今日のヨーロッパ統合(EU)の予言と取れ

なくもない、ハイネの先見性の表れと読み替えてもよさそうである11)。

 現実が、対立を止アウフヘーベン

揚できないのであれば、「理想」を掲げて対決し、その実

現を追求する、といったハイネの意気込みのようなものが感じられる。 

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 いずれにしても、先のポーランド論の主張と考え合わせれば、ハイネが思い

抱く理想の世界像といったものが焦点を結び、その姿が明らかになる。

 すなわち、それは、「友愛」の精神に基づく壮大な「諸国民の連合(体)」

(Völkerbündnis) 12) であるが、それが現実には存在しない、まさに理想の体

制である限りは、「コスモポリタン的ユートピア」であった。

 しかも、こうした世界像は、これ以後も、ニュアンスの違いはあっても、ハ

イネの言説の至る所で表明されることを考えれば、これは、彼の一貫した政治

的「信条」(Credo)13)であるということができる。  

 このように見てくると、ハイネは、「各国がナショナリズムを武器に角突き

合わせていた」時代の只中で、まさに「時代感情」(Zeitgefühl)のメインス

トリームに対向するかのように、<コスモポリタニズム>の理念とそれに基づ

く平和の構築という考え方を対ア ン チ テ ー ゼ

抗プログラムとして提唱したことが判明する14)。

 もちろん、それは、現実政治の複雑な思惑や駆け引き、いわゆる政治の力学

のまえでは、遙かに - 理想主義的ではあるが - 非力であることは否定でき

ない。それゆえ、所詮、<絵に描いた餅>とばかりに踏みにじられもするのは、

なにもハイネの時代に限ったことではない。

 だが、ハイネは、この基本理念を見失っては、流血の「死闘」がくり返され

るだけで、決して人類の平和、諸国民の<融和>は生まれない、と見定めたの

である。

 この点を捉えて、たとえばハーバーマスは、<今こそ、われわれがハイネか

ら「学ぶ」べきは、ハイネが思い描いた「コスモポリタン的希望」

(kosmopolitische Hoffnung)、すなわち - いささか古風な言葉だが - 「全人

類同胞」、「人類みな兄弟」の思想である。それは「平和主義」(Pazifismus)

と言い換えることができるが、ナショナル・エゴイズムがなりふりかまわず台

頭し、まさに一九世紀的な国民国家間の利害対立が再燃しかねないこんにちの

世界情勢 - とりわけヨーロッパ - をみれば、このハイネの思いは、未来へ

の進路を開く貴重な道標になる> といった主旨のことを指摘し15)、ハイネの思

想のアクチュアリティを見定めている (ハーバーマスのハイネ賞受賞記念講演。翻

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訳は『思想』2014年5月号。注1参照)。

 「国民的偏見」が消え「お互い同士がよく理解し合える」ような世界の実現、

それは、啓蒙主義者ハイネが思い描く壮大な「解放」の構想、ハーバーマスの

言葉を借りれば、現実への批判と反省から導き出された「合理的ユートピア」 16)

である。

 それは、こんにち、ようやく形をとるまでには至ったが、依然、<未完のプ

ロジェクト>であることは確かである。

 だが、それだけに、というよりは、それだからこそ、ハイネの政治的構想力

は、アクチュアルな力を持ち続けるといえば言い過ぎであろうか。

3. ハイネのドイツ批判: 「太鼓を打って みんなを起こせ (...)これがヘーゲル哲

学だ」(ハイネ)

 ところで、このように壮大な理想を語るハイネではあるが、当時(一九世紀

前半)、彼の足元のドイツは、実際、どのような状態にあったのか。

 結論からいえば、それは、彼の理想とは裏腹に、政治的にも社会的にも -

英仏に較べて - 遥かに未熟な状態が見て取れる。

 なぜなら、一七世紀の三〇年戦争以後、この国の政治地図は細かく分断され

ていたが、ハイネの時代になっても、依然、大小合わせて三九の領邦国家(自

由都市を含む)が存在するといった小国分立の状態が続いていたからである(国

家統一は一八七一年のドイツ帝国成立をまたねばならない)。それゆえ、それ

ぞれの国益をめぐって軋轢や対立は生じても、協力、協調関係が生まれること

は稀であった。ハイネが諸国民の「相互理解」の大切さを謳う理由のひとつは、

このあたりにも求められる。

 いずれにせよ、領邦国家特有の閉塞性が全土を覆い、民衆の政治的、社会的

地位も大きく制約制限されていたことだけは確かである。 

 だが、このように停滞するドイツ社会にも変化が現れる。 

 隣国フランスで七月革命(1830)が勃発すると、その余波がドイツにも及び、

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市民的自由の獲得を目指す自由主義運動が - ドイツ史上初めて - 活発化し

たからである。

 いわば外圧が、皮肉にいえば「平穏」(L.ベルネ)なドイツ社会に活気をもた

らした形だが、それはともかく、いまや革新の気運が社会を覆い始めたことは

明らかである。

 ところで、こうした社会的政治的な動向と連動した形で、精神界にも変化が

現れる。

 というのは - 変革の気運に突き動かされるように - 既存の学問研究や文

学のあり方を反省し、その妥当性を改めて問い直そうとする動きが顕在化した

からである。いわゆるヘーゲル左派とよばれる - A.ルーゲとTh.エヒターマ

イアーを中心とする - 学者知識人と彼らの主義主張に共鳴する、のちに<青

年ドイツ派>と呼ばれることになる青年作家たちが、そのおもな担い手であった。

 ハイネもその中心人物のひとりに数え入れることができる。

 彼らは、在来、ドイツの学問研究において支配的であった<観念論>、およ

びそれに準拠した知的営為の一切を批判の対象に見据えることになる。

 なぜなら、観念論の知の営みは、確かに市民的自由を追求するうえで、実に

膨大で、測り知れないエネルギーを蓄積していることは否定できない。だが、

それが、直ちに現実世界の改革に役立つかといえば、疑問符をうたざるをえな

かったからである。

 というのも、カントやヘーゲルであれ、あるいはゲーテやシラーであれ、そ

こで謳われる理念理想は高邁で、普遍性の高みに到達してはいる。だが、皮肉

なことに、それだけに現実味が乏しく、とても改革運動の推進役は果たせそう

もない、と思えたからである17)。

 それゆえ、ハイネをはじめ、改革派のひとびとは、旧来、ドイツ観念論のな

かで脈々と培われてきたエネルギー、すなわち、啓蒙の批判精神を<実践の方

向に向け変える>ことにより、社会に変革、変動をもたらそうと考えたのである。

 目指すところは<民主主義社会>の実現であることはいうまでもない。

 ハイネに「教条」(Doktrin, 1842)という詩があるが、そこには、当時、自

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由主義の旗幟を鮮明にした人々の思い、改革への意欲がよく表れている。 

  Trommle die Leute aus dem Schlaf, 太鼓を打って みんなを起こせ

  Trommle Reveille mit Jugendkraft, 起床の太鼓をドンと打て

  Marschiere trommelnd immer voran, 太鼓を打って前進だ

  Das ist die ganze Wissenschaft. これが 学問の全す べ て

体だ。

      

  Das ist die Hegelsche Philosophie, これが ヘーゲル哲学だ、

  Das ist der Bücher tiefster Sinn ! これが 書物の深い意味!

  Ich hab sie begriffen, weil ich gescheit, 利口な私には わかるのさ 

  Und weil ich ein guter Tambour bin. 私は優れた鼓手だから。(B.4. 412)

 ここで謳われているのは、ひとことでいえば、理論と実践の即応ということ

である。それは、学問(文学)が、みずから率先して変革の先導役を果たそう

とする、従来ドイツでは見られなかった、まったく新しい知のスタイルの提唱

である、と言い換えても構わない。

 いずれにせよ、こうした知の革新運動は、在来の価値観のすべてを理性の立

場から問い直し、その妥当性を改めて検証することにより、社会構成それ自体

の変動を引き起こす可能性を秘めていたことは確かである。

 ここまでいうと、ハイネを例に、さらに実践の具体例を知りたくなるのだが、

ことさら詳細に書きしるせるほど紙幅に余裕はない。それゆえ、いくつか詩作

を例示的に取り上げる形で纏めざるをえないのだが、かえってそれにより、ハ

イネの文学実践の大きな流れが掴めるかとおもわれる。 

4. 啓蒙の伝令: 「この地上で幸せになろうではないか / 飢え餓かつ

えるのはもうやめよう」

(ハイネ)

 啓蒙思想が、既存の社会や政治の矛盾を明らかにすることによって、新たな、

そして、より良質の姿、形を招来する契機を内包しているという意味では、先

のハイネの政治的「ユートピア」、あるいは「コスモポリタン的希望」も、ま

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さに啓蒙の所産と考えられる。

 だが、それが、時として急進的批判となって、すなわち、既存の政治や社会、

道徳や因習、さらには学問的態度に対してまで、激しい反発に形を変えてあら

われるのが、ハイネの特徴でもある。

 当時、ドイツでは、民主主義の根幹である「言論の自由」がいまだ浸透して

いなかった。それどころか、既存の価値観を破壊するような精神に対しては、「検

閲」が容赦なく立ちはだかった。その意味では、権力(Macht)がいわば「む

き出しの対立者」 18)となって現れたのである。それゆえ、むしろ反発の思い

が抑えられなくなり、批判がヒートアップするのは、ある意味当然であったと

考えられる。 

 合理的な思考に相反するような「偏見」、あるいは啓蒙の理性に照らして判

断すれば「不当」、少なくとも疑問符はつくとおもわれるような対象に対して、

ハイネは、皮肉や風刺をまじえて、また、ときには挑発的な言葉で批判もする。

 それは次のような詩からも明らかである。

  Diese schöne Gliedermassen  巨大な女性の

  Kolossaler Weiblichkeit   この見事な四肢が

  Sind jetzt, ohne Widerstreit, いまや、あらがいもせず、

  Meinen Wünschen überlassen. 私の欲するままに任されている。

  Wär ich, leidenschaftentzügelt, もし私が 情熱のままに心駆られ

  Eigenkräftig ihr genaht しゃにむに飛びついていたら

  Ich bereue solche Tat! そうした行為を私は悔いただろう!

  Ja, sie hätte mich geprügelt. いや、彼女が私を打ちのめしていただろう。

 

  Welcher Busen, Hals und Kehle! なんという胸、うなじに喉だろう!

  ( Höher sehe ich nicht genau. ) (それより上はよく見えない)

  Eh ich ihr mich anvertrau, 彼女に身をゆだねるまえに

  Gott empfehl ich meine Seele. 魂こころ

は神にお任せしよう。 (B 4, 335)

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 これは、『新詩集』(Neue Gedichte, 1844)に収められた詩の一篇である。

パリの女性たちとの自由奔放な交わり、その経験を包み隠さず表現したためか、

じつに官能的な詩であることは一目瞭然である。

 もちろん、この詩は、ハイネの鋭い感性が、いわゆるサン・シモニズムに触

発されて謳い上げた「肉(体)」の賛美であるとみることはできる 19)。だが、

本質は、むしろ、キリスト教道徳、とりわけその禁欲的な態度に反発するハイ

ネの異議申し立てである、と捉えるのが妥当とおもわれる。

 なぜなら、中世以来、キリスト教精神主義に基づく道徳観が支配的であった

ために、生の本能、あるいは個人の「感情」は抑圧されてきた、とハイネには

思えて仕方がない。それゆえ、その「解放」を求める彼の願いが、結果的に、

このような通俗的とおもえるような詩を生み出したと考えられるからである。

 その意味では、この詩は、当時の「ドイツ社会の道徳的な(....)規範意識

(Normenbewußtsein)に対する挑戦の表れ」 20)と見ることができるのだが、

それだけに、発表当時、ドイツでは、僅かの称賛を除けば、おおむね不評、そ

れどころか、抒情詩に、世俗的なものとは異なる、まさに「特権化された(...)

特殊詩的な世界経験」21)を期待する向きからは、<風俗壊乱の腐敗堕落の詩>、

あるいは<神聖冒涜>と酷評されることになる。

 それゆえ、詩集それ自体が - 先の詩以外にも、体制批判と取れるような政

治的な詩が散見し、それらが当局の逆鱗に触れたために - ドイツ諸邦で発禁

処分ないし押収、差し押さえの対象になるといった事態を招くことになる。

 無論、それは、ハイネの批判のインパクトが強すぎることから、いわゆる民

主化の要求が高まり、広がることへの当局の警戒感の表れであったことはいう

までもない。

                  *

 このような既存の道徳(観)への「挑戦」とは別に、ハイネの政治的批判と

なると、それはさらに手きびしい。とりわけプロイセン批判は痛烈である。

 なぜなら、ハイネは、<プロイセンこそ、封建的復古政体の中核である。こ

の国は、民衆(Volk)の意に沿うような「自由憲法」(freie Verfassung)を

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約束しておきながら、それを反故にしたばかりか、いまや民衆に服従を強いて

いる。その意味では、偽善的で、反民主的な国である> と考えたからである。

 それゆえ、ハイネは「プロイセン国王が、民衆にとって当然の報酬である自

由憲法を発布せずに、保留するかぎり、私は国王を公正(gerecht)とはよべぬ」

と言い切り、プロイセンこそ、「ドイツ諸邦のなかのタルチュフ(偽善者)」

(Tartüff unter den Staaten)と断じる(B3, 95)。

 それだけに批判は容赦がない。それは、『ドイツ。冬物語』(Deutschland.

Ein Wintermärchen, 1844)に代表される一連の政治詩(時事詩)をみても明

らかである。

 ここでは『冬物語』の一節、しかも、この詩集の核心部分を引いてみる。

 それはバルバロッサ(赤髭王)伝説のくだりである。

 ハイネは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世を、中世の神聖

ローマ帝国皇帝 - 英雄と讃えられる - バルバロッサになぞらえる。その上で、

このバルバロッサ伝説(神話)を粉砕することにより、プロイセン・ナショナ

リズムが、いまや時代錯誤の幻想でしかないことを謳い上げるのである。

  Herr Rotbart - rief ich laut - du bist 赤ロートバルト

髭王 - 私は大声で叫んだ -

おまえは

  Ein altes Fabelwesen, むかしのおとぎ話の人間じゃないか、

  Geh, leg dich schlafen, wir werden uns 帰って寝るがいい、私たちは

  Auch ohne dich erlösen. おまえがいなくても 自力で救済できる。

  Die Republikaner lachten uns aus, 共和主義者たちは私たちを嘲笑う

であろう、

  Sehn sie an unserer Spitze 私たちの先頭に

  So ein Gespenst mit Zepter und Kron; 笏をもち王冠をかぶったこんな

亡霊がいるのをみれば。

  Sie rissen schlechte Witze. へたな洒落をとばしては からかう

であろう。

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  Auch deine Fahne gefällt mir nicht mehr, おまえの旗も もうごめんだ、

  Die altdeutschen Narren verdarben 私が学生組合にいたころに とっくに

  Mir schon in der Burschenschaft die Lust 黒・赤・金への興味はなくなった

  An den schawrz-rot-goldnen Farben. 古臭いドイツのばか者どもの

おかげで。

(B4, 615)

 もっとも、こうしたバルバロッサとの「対決」は、たしかにハイネのプロイ

セン政治体制への批判の証ではある。だが、それとは別に、当時、この伝説が、

強力な指導者のもと、ヨーロッパに覇を唱えることができるような強国の樹立

を願う - それ自体は、民衆の素朴な願いかもしれないが - どこか国粋的・

民族主義的イデオロギーと結びついていたことを考えれば 22 ) 、この詩は、た

んに一プロイセンへの批判というよりは、むしろ、排他的で<偏狭>なナショ

ナリズムといったものに対するハイネの拒絶の表れと見るべきであろう。

 いずれにせよ、『冬物語』は、パリで一三年の「流謫」の生活を過ごしたハ

イネが、ドイツの社会的、政治的な停滞を鋭く捉え批判する一方で、国を思い、

母を思う気持ちの込められた詩集だが、プロイセンとの対決だけは主要モチー

フとして貫かれている。

 ところで、こうしたプロイセン批判と関連して見落とせないのが、ザヴィニー

(Friedrich K. v. Savigny)やランケ(Leopold v. Ranke)といったいわゆる「歴

史学派の哲人たち」23) の言動に対するハイネの反論である(『さまざまな歴史観』

1833)。

 なぜならそれは、彼のプロイセンとの対決とまさに軌を一にして語られてい

るからである。

 結論からいえば、ハイネは、この学派(歴史学派)のひとびとは、プロイセ

ン政治体制に取り込まれ、あろうことか、その精神的支柱の役割を果たしてい

る、とみる。

 とりわけ、当時ベルリン大学の少壮歴史学教授であったランケに対する批判

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は痛烈である。それは次の言葉からも明らかである。

   「(.....)北ドイツのあまりにも有名な政府(プロイセン :筆者)は(...)これはと

いう人物を官費留学に旅立たせる。その意図するところは、たとえばイタリアの

哀愁溢れる廃墟で、穏やかに万事をなだめる運命観(Fatalitätsgedanke)を彼ら

に身をもって知らしめるというのであった。帰国後、こうしたひとびとは、キリ

スト教の恭順を民衆に説いて回るものたちと手を組む。またみずから雑誌を発行し、

その論説を通じて、民衆の三日間に及ぶ闘争(七月革命)の自由熱を鎮静させよ

うと冷水を浴びせるのだ。ともかく、自由な精神力(freie Geisteskraft)を介して

芽を出すことができないものは、つる草のように地上の権力に絡まりついて

(ranken)もらってかまわない。だが、やがて政府もわかるであろう、権力に絡

みついて悪巧みをもくろむ人々が、どの程度前に進むことができるかを。」( B 3,

21. 下線は筆者) 

 官費によるオーストリア、イタリアへの史料発掘、研究の旅から帰国したラ

ンケは、やがて「歴史 -政治雑誌」 (Historisch-politische Zeitschrift, 1832)を

ザヴィニーとともに編集発行し、その中で、明らかに現状肯定的(affirmativ)

な態度、すなわち、変革を拒否し、反自由主義の立場をとったとおもわれる姿

勢を示すことになる。ハイネはこのあたりの事情を取り上げている 24)。

 言葉遊び(ランケ / ranken)で揶揄するところはハイネらしいが、それは

別として、ハイネには、ランケはもちろん、当時、著名な多くの学者知識人た

ち - 哲学者シュライアーマッハーもこの引用で暗示されている - が、プロ

イセン・ナショナリズムと一体化、というよりは、それに迎合したかのように、

ひとびとの変革の意欲に「冷水を浴びせ」ては、「自由熱」(Freiheitsfieber)

の鎮静化を図っているとおもえたのである。

 このような状況は、ハイネは、到底、容認できなかった。

 なぜなら、それは、知的「精神」が、本来 - 啓蒙の理性に準拠して - 有

しているはずの社会的批判機能をみずから放棄し、「民衆の要求」に応えるど

ころか、もっぱら既存の体制(プロイセン)を正当化し、結果的に、その権威

づけに寄与しているとしか考えられなかったからである。

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 それは、学問(知)の「理性と神への背信」(B3, 97)、見方を変えれば、知

が「現代の関心」(Interessen der Gegenwart)に背を向けて、程度の差はあれ、

もっぱら観照的態度 - ハイネの言葉でいえば Indifferentismus - に陥った

状態であるとハイネは捉えたのである。

 それゆえ彼は、次のような見解を示さずにはおれなかった。

   「生きることは目的でも手段でもない。生きることは権利である(.....)歴史家や

詩人たちよ、現実に向けて示すその悲哀にみちた無関心な態度で、(社会変革と

いう:筆者)この事業を成し遂げるわれわれのエネルギーを麻痺させてはならない。」

(B 3, 23, 下線は筆者)

 もちろん、そうはいっても、ランケであれ、ザヴィニーであれ、あるいは

Fr.ラウマー(Friedrich v. Raumer)であれ、彼らが、これまで学として未分

化であった歴史を、方法的に歴史学に高めた功績は、ハイネも認めざるをえな

い。だが、学的に質が高いがゆえに、かえって影響が大きいこうした歴史家た

ちの態度を、ハイネは見逃すわけにはいかなかったのである。

[ 付 記 ]  ハイネは、歴史学派の人々のこうした「学問的態度」への批判とは別に、彼らの歴

史理解の「方法」それ自体も槍玉にあげている。それは、こののちドイツの知の世界

で優位を占めてゆく歴史主義的歴史理解への根本的な批判 - のちのニーチェ、さら

にはベンヤミンによる歴史主義批判をまつまでもなく - の「出発点」とみなせるも

のだが、その点については筆者の別の論考を参照いただきたい 25)。

 このように、政治や社会、道徳や因習、あるいは既存の学問的態度に至るま

で、いわば現実の生活に係わる一切を批判の対象に見据える、その意味では、

スケールの大きなハイネの批判精神(Kritik)は、晩年も衰えはみられない。

 もっとも、リベラル派が期待した三月革命が失敗(1849)におわると、ハ

イネ自身、失望は隠せなかった。そしてなによりも、自己の肉体の衰弱、とり

わけ脊髄病の痛みに耐えきれず、時折、「十字架ににじりよる」 26)こともあっ

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たが、それでもハイネは、現実世界への関心は失わない。それどころか、社会

や政治の矛盾や問題点に気づけば、放ってはおけないとばかりに、その核心を

鋭く突いてみせる。

 詩集『ロマンツェーロ』(Romanzero, 1851)に収められた詩「世のならい」

(Weltlauf)はその典型のひとつである。           

  Hat man viel, so wird man bald たくさん持っているものは すぐにまた

  Noch viel mehr dazu bekommen, もっとどっさりふえるであろう

  Wer nur wenig hat, dem wird ほんの僅かしか持たないものは

  Auch das wenige genommen. なけなしのものまで奪られてしまう。

     

  Wenn du aber gar nichts hast, だが なにも持っていないのなら

  Ach, so lasse dich begraben - ああ、いっそ葬ってもらうがいいさ -

  Denn ein Recht zum Leben, Lump, だってルンペンさんよ、生きる権利が

あるのは

  Haben nur die etwas haben. なにがしか 持っている人間だけなのさ。

(B 6/I, 105)

 この詩の創作年を知らずに読めば、これは、二一世紀のこんにち、先進各国

が直面するいわゆる「格差」や「貧困」の問題、まさに社会の負の側面を謳い

上げることで、その実態を皮肉っているとおもえるほど、リアリティ溢れる詩

である。

 ハイネ自身、死の恐怖に怯えはしても、決して「至高の存在にひれ伏し」は

しない。それどころか、むしろ、この詩のように、聖書の一節(ルカ福音書)

を - それが社会の「改善」(Verbesserung)を図る根拠とでもいわんばかり

に - 巧みに「応用」しては 27)、現実世界が抱える矛盾を明らかにし、ひとび

との不満を代弁する。

 その意味では、「現実世界の改善を求める(ハイネの)要求」は、晩年も、「デ

フレーション」どころか、むしろ高まる一方である 28)。

 もっとも、こうしたハイネの批判的言説をさして、カール・クラウスは、ハ

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イネは、文学とジャーリズムを混同する「無鉄砲な言葉の使い手」(Drauf-

gänger der Sprache)であり、結果的に、文学(ポエジー)の抒情性を台無し

にした、と酷評することになるのだが29)。

 こうしたクラウスの酷評の余韻はアドルノのハイネ論にも残るが30)、いずれ

にせよ、ハイネは、たえず現実世界、つまり、足元の生活を見据えては、その

改善のために闘った「現世の使徒」、言い換えれば、啓蒙の「伝令」(Herold)31)

の役割を果たし続けたのである。そのことは、以上の例からだけでも、十分、

見て取れるであろう。

 もちろん、これだけでハイネの文学実践の詳細が言い尽くせるわけではない

が、その<精髄>は捉えることができると思われる。

 すなわち、民主主義の根幹である「市民的自由」や社会的「公正」、あるい

は「人権」や「博愛」の理念を尊重し、その実現のために闘い続けた啓蒙家ハ

イネの姿が見て取れるのではないか。

 ハイネ自身の言葉を借りれば、彼は、日日の政治(Tagespolitik)の動向を「昼

も夜も見張り」ながら、なにがしか問題点が見つかれば、「風刺詩の不敵な韻律」

を鳴り響かせては、異議を唱え、その改善解決を訴え続けたのである。

Ich wachte Tag und Nacht. 昼も夜も私は見張っていた

  - Ich konnt nicht schlafen,   - 私は眠れなかった、

Wie in dem Lagerzelt der Freunde Schar - 幕舎にいる仲間の連中とはちがって -

( Auch hielt das laute Schnarchen dieser Braven(私が少しまどろんでもこの実直な連中の

Mich wach, wenn ich ein bißchen schlummrig war). 高いいびきが私の眠りを妨げた)。

In jenen Nächten hat Langweil ergriffen そんな夜 時折、私は襲われた

  Mich oft, auch Furcht - 退屈に 恐怖にも -

  (nur Narren fürchten nichts) (なにも怖がらないのはおめでたい連中だけ)

Sie zu verscheuchen, hab ich dann gepfiffen 退屈と恐怖を追い払うために私は口ずさんだ

Die frechen Reime eines Spottgedichts. 風刺詩の不敵な韻律を。

(B 6/I, 121)

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 だが、この詩から二年後の一八五六年、ハイネは僅かの理解者しかえずに、

異国パリの空のもとでこの世を去る。ドイツ国内では、まさにプロイセンが、

三月革命鎮圧の余勢を駆って<反革命>を終え - ハイネが思い描いた理想、す

なわち民主主義社会到来の夢を踏み躙るかのように - 国家統一にむけて着々

と地歩を固めたころであった。

5.まとめ

 以上みてきたことは、次の言葉を借りて纏めることができる。

   「ナポレオンの敗北にもかかわらず、すでに支配能力を否認されているドイツの

支配者たちが再び権威を振り回す状態に対して、ハイネは調子がよく、しかも沈

鬱な嘲笑を浴びせ、オポチュニズムとビーダーマイアー的道徳を仮借なく嘲り、

国民主義(ナショナリズム)には、陣営を示すのに、共和的と付こうが、ドイツ

古来のと付こうが大した違いのないことを嗅ぎつけ、理性そのものに反して噴出

するポピュリズムに潜む暗いエネルギーに不安を感じる。このようにして詩人と

しての武器をもって生涯遂行した戦いに活力を与えているのは、インスピレーショ

ンと、啓蒙の普遍主義および個人主義を信じる立場である(....)」32)(下線は筆者)

 ハーバーマスはこのように指摘し、ハイネの著作活動、それを支えたエネル

ギーの源泉は、啓蒙の批判精神であると見定め、その上で、ハイネは紛れもな

く「徹底的な啓蒙家であったし、そうあり続けた」とみる。

 こうしたハイネの批判精神が、時に辛辣に33)、政治や社会に対する異議申し

立てとなって表れるかと思えば、その一方で - コスモポリタニズムの精神に

準拠し - 本来あるべき理想の世界像(合理的ユートピア)を提示し、それを

アンチテーゼとして現実世界に突きつけることは、これまでの論証から明らか

である。  

 このようにみれば、本稿の冒頭で挙げた問い、すなわち、ハイネ受容がなぜ

ドイツではもっぱらネガティブにしか働かなかったか - 比喩的にいえば、ド

イツの「伝統という河川を行く船旅」にとって、ハイネはなぜ「お荷物」

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(Sperrgut)とみなされたか34) - といった問いへの答えが、おのずと見えてく

る。

 それは、現状肯定、つまり、水増しした妥協を行わないハイネの政治的徹底

性 - それは、彼ひとりに限らず、当時のヘーゲル左派の思想全般に認められ

る - が、ときの政治や主導的イデオロギーに、不快感、拒絶の雰囲気を広め

たからである35)。

 実際、ハイネの死後、ドイツではリベラリズムが衰退し、「反動的とまでは

いえないが、保守的な思想や立場」(J.ヘルマント)36)が圧倒的に優勢になると、

ハイネはかろうじて文学史に名前をとどめるか、あるいは、極端な場合、思想

史のコンテクストから名前が消えることになる 37)。

 プロイセン主導のドイツ帝国が成立(1871)すると、それは決定的になる。

 というのは、ハイネは、もはやドイツ精神の遺産に数え入れることはできな

い作家と名指されたからである。この点で、W. ディルタイ(Wilhelm Dil-

they)が - アンチセミティズムもあって - ハイネを「祖国愛のない」人間

と断じ、「わが国民の不変の財産(Besitz)には入らない」 38) と追放したのは

象徴的である。

 国家統一が実現し、こののち、ドイツが列強間の競合に打ち勝つには、なに

よりも国民的な結束が求められる。だが、ハイネが標榜した - 彼のプロイセ

ン批判に見て取れるような - 自由主義思想はそれを促すどころか、「破壊」し

かねない。それゆえ、このような「暴力的な要因(ファクター)」 39) は、ドイ

ツの文化伝統から排除すべきである、と考えられたからである。

 要するに、ハイネは、時流にそぐわない作家として忌避され、以後、ナチ崩

壊(1945)に至るまで、思想史の「アウトサイダー」の位置へ追放されること

になる 40) (もっとも政治や学問から疎んじられても、民衆に愛されることは

ある。ハイネの詩も、この間、愛唱され続けたために、ナチ時代も「ローレラ

イ」の歌は「詠み人知らず」として容認された歴史はあるのだが)。

 このように、ハイネは、ドイツでは - 一九四五年まで - 総じて「拒絶」

され、文学の正典から「排除」されてきたことは明らかである。

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 情緒的な言い方をすれば、ハイネは、死後も数奇な運命を辿った作家である

ことは間違いない。

 だが、このことは、逆説的ではあるが、ハイネの言説や思想が、<いつの時

代も、所与(das Gegebene)、すなわち目の前の現実に対し批判的に迫り、そ

れを変革する起爆性を秘めている> 証とみることができる。

 その意味では、ハイネは、今日もなお生き続けるわれわれの「同時代人」

(Zeitgenosse)41) であるといって構わない。すなわち、たえず政治の意思形成

に参加し、自己の生活の改善を目指す、言い換えれば、政治をつねに市民の側

に引き寄せたいと願う人々にとって、ハイネは、局面を変えて、「道案内」(ハー

バーマス)になれる人物のひとりであると考えられるからである。 

 一九世紀前半、民主主義社会の成立が、いまだ叶わぬ夢でしかなかったドイ

ツにおいて、ハイネは、誰よりも早く「新たな時代の精マ ン タ リ テ

神傾向」を体現しては、

「ドイツの民主主義を先取り」42)し、その構想を描き出すことができた稀有な

作家知識人のひとりである。

 それだけに、彼の言説のひとつひとつが、こんにち - 民主主義的な議論が

委縮し、極端な排他主義やポピュリズムの動きが高まる中で - 改めてデモク

ラシーの根幹について「反省」する契機になる、というのが、私の解答の試み

である。

 なにしろ、ハイネを読めば、そこには、「民主主義社会の原則(Maxime)、

国家というものによせる期待、そしてまた人間的ユートピア(humane Utopi-

en)が<積極的に>表明されている」43)のだから。

  本文中、ハイネの著作や詩の引用は クラウス・ブリークレープ編纂の Heinrich Heine, Sämtliche Schriften, 6 Bände, München: C. Hanser, 1996-76に拠る(Bと表記の上、

巻数と頁数を記す)。また、ハイネの詩はおもに井上正蔵訳を参照したが、かなり手を加

えた。

1) ユルゲン・ハーバーマスが「ハインリヒ・ハイネ賞」を受賞したおりの記念講演(2012年12月)の一節。 Jürgen Habermas, Zeitgenosse Heine: 》Es gibt jetzt in Europa keine Nationen mehr.《 , in Im Sog der Technokratie (Kleine Politische Schriften XII), Suhrkamp, 2013, S. 57. 邦訳は「同時代人ハイネ - ヨーロッパにもはや国民といっ

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たものは存在しない」 木村高明訳、『思 想』 2014年5月号、岩波書店参照。 ハーバー

マスの「現代ヨーロッパ観」がよく読み取れると同時に、モデルネの知識人ハイネの

本質が見事に捉えられている。

2) Habermas, a.a.O., S. 49 und 52.3) Vgl. Rolf Hosfeld, Heinrich Heine. Die Erfindung des europäischen Intellektuellen. Biographie. München: Siedler Verlag, 2014, S. 100.4) Vgl. B 3, S. 91.(『フランスの状態』序文)原文は „das große Völkerbündnis“ 5) Habermas, a.a.O., S. 47. 6) Vgl. Hosfeld, a.a.O., S. 98.7) 当時ハイネの念頭にあるのは、なによりも圧政と抑圧に苦しむ人々の「解放」であった。

「われわれの時代の大きな課題な何か。それは解放である。アイルランド人、ギリシ

ア人、フランクフルトのユダヤ人、西インドの黒人の解放はもちろん、(....)全世界、

とりわけ今や青年に達したヨーロッパの解放である。」(B 2. 376f)8)-9) 『ロマン派』のなかでハイネは、解放戦争後、ドイツ人の愛国心は、フランス人

のそれに較べて「心が狭く」なり、ドイツ人はもはや「世界市民」(Weltbürger)で

はなく、「外国のものを憎む」狭量な国民に変容した、と指摘する。つまり、ウィー

ン体制下の狭い君主制国家主義のなかで、次第に「偏狭なナショナリズム」がドイツ(人)

全体を覆い始め、「ドイツ人が、従来、作り上げたもののなかで最も見事で神聖な志

向(Gesinnung)」であるコスモポリタニズムの精神に取って代わった、とハイネはみ

る(Vgl. Historisches Wörterbuch der Philosophie, Bd.4,の „Kosmopolitismus“ の項

目)。

 ちなみに、ナショナリズムに対する対抗概念であるコスモポリタニズムについて、

ハイネは『ロマン派』の中で「レッシング、ヘルダー、シラー、ゲーテ、ジャン・パ

ウル」の五名を名指し、この「われわれの偉大な精神の持ち主たち、つまり、ドイツ

の教養人のすべてが奉じた(.....)最も見事で神聖な志向」と讃える(B 3. 379)。 

 またG.ヘーンは、こうしたハイネのコスモポリタニズム志向に「啓蒙の進歩(史)観」

の表れを見て取る。Vgl. Gerhard Höhn, Heine-Handbuch. Zeit, Person, Werk, Stuttgart: J.B.Metzler, 1987, S. 114.

10) マレンゴの戦場は、実際、当時の馬車ルートからは外れており、ハイネは訪れていな

いと考えられる。それゆえこのくだりはハイネの「フィクション」と考えられるが、

作品の核心部分であることは間違いない。 Vgl. Hosfeld, Heinrich Heine [Anm.3], S.200. 11) ハイネは、ナショナリズムが「時代の基軸」であった当時(一九世紀前半)、すでに<

ナショナル>なものの限界、すなわち、偏狭な排他主義に陥る危険を見抜き、<ポスト

ナショナル>な視点から「未来」世界の見取図を描き出していたと考えられる(Vgl. Hosfeld, Heinrich Heine, S.100f.) もっとも、こうしたハイネのコスモポリタン的願

望は、「ナショナルなものが統合の原理になる」ことへのユダヤ人ハイネの危機感の

表れ、言い換えれば、当時、ユダヤ人に焼き付けられた蔑視の烙印である「スティグ

マからの(ハイネ自身の)逃走の試み」という見方もできる(木庭宏『ハイネの見た夢』

(日本放送出版協会)79頁参照)。 

12) Vgl. B 3, S. 91. ハイネは「諸国民の神聖同盟」(die Heilige Allianz der Nationen)と言い換えてもいる: 「われわれが、大衆に現代を首尾よく理解させることができれ

ば(.....)壮大な諸国民の連合、すなわち、諸国民の神聖同盟が成立し(.....)われわ

れは、常備軍の剣や馬を田畑の耕作に活用できるであろう。そして<平和と福利と自

由>を獲得できるであろう」(『フランスの状態』序文)

13) Vgl. Hosfeld, Heinrich Heine, S.98.  こうしたハイネのユートピア的な世界像は、先

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の『フランスの状態』序文はもちろん、『ドイツ。冬物語』第一章、あるいは『ドイ

ツ宗教哲学史考』などさまざまな箇所で謳われている。一見、それらは、抽象的な表

現で(「われわれはこの地上でかならず / 天国を作り出そう」とか、「私はきっとこの

地上で(....)至福(Seligkeit)を作り出したい」といったように)語られてはいる - ブリークレープはここにサン・シモニズムの影響を見て取る(B 3, 945) - が、理想

主義的であるがゆえに、むしろ現実世界への対案を掲げて対決しようとするハイネの

意欲を感じさせる。 

14) ハイネのコスモポリタニズムについては木庭宏氏の数々の論究を参照。ここでは上掲『ハ

イネの見た夢』第三章以降参照。 

15) Habermas, Zeitgenosse Heine [Anm.1].(邦訳『思 想』2014年5月号参照)。

16) Jürgen Habermas, Heinrich Heine und die Rolle des Intellektuellen in Deutschland, in Eine Art Schadenabwicklung, Suhrkamp, 1987, S. 36.(邦訳「ハイネとドイツにお

ける知識人の役割」轡田收訳、『思 想』1987年12月号参照)

17) 三月前期における<文学と政治>の問題について、詳細は拙論「三月前期における文学

の機能転換 - ベルネ、ハイネ、プルッツを中心に」(学習院大学文学部研究年報第40輯)。さらには、一九世紀ドイツの知の変容問題について論究した「ヘルマン・ヘッ

トナーとその時代」(防衛大学校紀要第111輯、2015)も併せて参照。

18) Habermas [Anm. 16], S. 30.19) Vgl. B 4, S. 926. ブリークレープはこの詩を「感覚主義(Sensualismus)の立場からの

挑発の頂点」とみる。

20) Vgl. B 4, S.898. また、この『新詩集』が巻き起こした反響については Heinrich Heine. Von Jan-Christoph Hauschild und Michael Werner. Deutscher Taschenbuch Verlag, 2002, S. 104ff. 参照。 ハイネの言動が、当時の時代状況および思想状況全体を

踏まえてよく整理されており、ハイネ研究のガイドブックとして便利である。

21) Vgl. Wolfgang Preisendanz, Heinrich Heine, München: UTB Fink Verlag, 1973, S. 129.

22) この点は次の研究参照。木庭宏『民族主義との闘い-ハインリヒ・ハイネ「ドイツ・

冬物語」研究』(松籟社)。

23) Vgl. B 3, 21.24) ハイネの歴史学派批判については拙論「反歴史主義の出発点 - H. ハイネの歴史主義

批判」(学習院大学文学部研究年報 第41輯)で詳述してある。併せて参照(特にS.193ff)。25) 上記注24の論考参照。

26) Habermas [Anm. 1], S. 59.27) この詩は、ハイネがルカ福音書の一節を「応用」し、彼の時代の「現代」を風刺した

と捉えられる (Vgl. B 6/II, 56)。 28) ハーバーマスは、ハイネ晩年の創作態度について次のように指摘し、ハイネの「批判

精神」に、生涯、陰りはみられないとする。

 「ハイネの宗教的転向をどのように理解するとしても、ひとつだけはそれにあたり

ません。つまり、現実世界の改善を求める要求のデフレなどではないのです。」

(Habermas, Zeitgenosse Heine [Anm. 1], S. 62.)29) Vgl. Karl Kraus, Heine und die Folgen, in Heine in Deutschland. Dokumente seiner Rezeption, 1834-1956, Tübingen: Niemeyer (Deutsche Texte, Bd.36), 1976.30) Theodor W. Adorno, Die Wunde Heine, in Heine in Deutschland. Dokumente seiner Rezeption, 1834-1956, Tübingen: Niemeyer (Deutsche Texte, Bd.36), 1976,31) Habermas [Anm. 1], S. 48.

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32) Habermas [Anm. 16], S. 30f. 引用は、轡田收訳に従った。

33) Vgl. Elvira Grözinger: Heinrich Heine. Deutscher Dichter, streitbarer Publizist, poli-tischer Emigrant. Berlin: Hentrich & Hentrich, 2006, S.9.

34) Habermas [Anm. 16], S. 36.35) Habermas [Anm. 16], S. 36.36) Vgl. Jost Hermand, Geschichte der Germanistik, Reinbek: Rowohlt Taschenbuch

Verlag, 1994, S. 52f.37) たとえば、フィルマー(A.F.C. Vilmar)の『ドイツ国民文学史』 - 愛国心を鼓舞する

ようなナショナリスティクな論調が広く支持され、二〇世紀初頭に至るまで版を重ね

た文学史である - を参照。一八六四年の第一〇版をみれば、ハイネは、詩作の「音色」

は斬新だが、結局、「ポエジーに何一つ救済をもたらすことができない」詩人といっ

たレッテルが貼られ、僅か数行の解説で片づけられる。ハイネの人気を考えれば無視

するわけにはいかないが、社会を騒がし、外国へ亡命したような作家は評価に値しな

いとでもいいたげな論調である。Vgl. August Friedrich Christian Vilmar, Geschichte der deutschen National-Literatur. Zehnte vermehrte Auflage. Marburg/Leipzig: N.G. Elwertsche Universitäts-Buchhandlung, 1864, S. 559.

あるいはヘットナー(Hermann Hettner)の『一八世紀ドイツ文学史』(1862-70) - ドイツ最初の「精神史」の構成とみなされる大著。一八世紀から一九世紀前半までの

ドイツ精神界で活躍した作家、思想家たちの功績を讃えたいわば偉人録である - をみても、ハイネは、直接、扱われてはいない。プロイセン・ナショナリズム全盛の時

代状況の中で、自由主義者ハイネに言及することはためらわれた、と推察できる。

Vgl. Hermann Hettner. Geschichte der deutschen Literatur im 18. Jahrhundert. 2 Bände. Berlin/Weimar, 1979.

38)-39) Vgl. Wilhelm Dilthey. Gesammelte Schriften, XV. Band, Göttingen: Vandenhoeck&Ruprecht, 1970, S.244. また、この点の指摘は轡田收「ドイツでおきた「カノン論

争」」 (上・下)(『学鐙』丸善1997年第九号から連載)参照。

40) Habermas [Anm. 16], S. 35. 41) Habermas [Anm. 1] の表題ならびに Hosfeld [Anm.3], S. 7f. 42) Habermas [Anm. 1], S. 63.43) Vgl. Manfred Windfuhr, Zum Verhältnis von Dichtung und Politik bei Heine, in

Heine-Jahrbuch 1985, S. 120. またヴィントフーアは「ハイネの作品においては批判と

ユートピアが密接に一体化しており、それらは互いに切り離すことは許されない」と

みる。