シンガポールの教育事情と日本へのインプリケー...

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海外研究情報子ども社会研究18号/〔"""α/Q/Cノ1//dS/"(/V,lb./8,Jzイ/v,2012:67-79 シンガポールの教育事情と日本へのインプリケーション -調査データに基づく両国の比較を手がかりに- シム・チュン・キャット 1.本稿の目的と構成 本稿では、IEA国際数学・理科教育動向調査('1IMSS)とOECD生徒の学習到達度調査 (PISA)で好成績を残し続けてきたシンガポールの教育事情とその背景(第2節)および教育 に関する研究を紹介したうえで(第3節)、同国と日本で行われた調査に基づく比較を通じて (第4節)、シンガポール教育の特徴を明らかにするとともに日本へのインプリケーションを 提示する(第5節)ことを目的とする。 2.シンガポールの教育事情とその背景 東京都23区ほどしかない国土に508万人(国勢調査Census2010)がひしめくように暮らす 都市国家シンガポールは、土地はもとより、食糧も飲み水までも周りの国々に頼らざるを得 ない「超資源貧乏国」でもある。そのため、優れた人材を中心に人間そのものが活動して富 を構築することを通じてしか、国を存続させることはできないという強い認識が独立時から 国民の間で広く共有されてきており、学校教育などで強化されてもきた。国の人的資源を最 大限に活かすべくシンガポール教育省に充てられる歳出予算が毎年常に全体の2割以上を占 め(')、国防省に次ぐ規模になっていることはそのような認識に基づくものであり、またそれ だけでは足りず、海外の労働力と人材を吸収すべ<シンガポールが移民政策を積極的に推進 し続けてきたことも同じ認識から生まれたものにほかならない。国勢調査2010年によれば、 シンガポールで暮らす総人口のうち、国籍を持つ国民は323万人しかいなく、居住者全体の 65%にも満たないことがその事実を物語っている。 そもそも、中国系76.2%、マレー系15.1%、インド系7.4%とその他の民族1.3%からなる多民 族国家シンガポールでは、三、四世代も遡れば国民のほとんどの祖先も、より豊かな生活を 求めて遥々中国やインドと周りの国々からやってきた移民なのである。最初の移民の多くが 中国とインドのような「場所が変われば言葉も変わる」という「方言大国」から来ているゆえ、 シンガポールにおいて言葉、引いては教育の問題は初めから複雑であった。たとえば、一言 「シンガポールの中国系」といっても、福建系、広東系、海南系、客家系、上海系などとい う非中国系でもわかるような違いもさることながら、同じ福建系でも福州系、福清系、南安 系、アモイ系、安渓系などにさらに枝分かれし、同じ福建語といってもそれぞれ言葉も発音 (シム・チユン・キヤツト日本大学/ll本女子大学) 67

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海外研究情報子ども社会研究18号/〔"""α/Q/Cノ1//dS/"(/V,lb./8,Jzイ/v,2012:67-79

シンガポールの教育事情と日本へのインプリケーション

-調査データに基づく両国の比較を手がかりに-

シム・チュン・キャット

1.本稿の目的と構成

本稿では、IEA国際数学・理科教育動向調査('1IMSS)とOECD生徒の学習到達度調査

(PISA)で好成績を残し続けてきたシンガポールの教育事情とその背景(第2節)および教育

に関する研究を紹介したうえで(第3節)、同国と日本で行われた調査に基づく比較を通じて

(第4節)、シンガポール教育の特徴を明らかにするとともに日本へのインプリケーションを

提示する(第5節)ことを目的とする。

2.シンガポールの教育事情とその背景

東京都23区ほどしかない国土に508万人(国勢調査Census2010)がひしめくように暮らす

都市国家シンガポールは、土地はもとより、食糧も飲み水までも周りの国々に頼らざるを得

ない「超資源貧乏国」でもある。そのため、優れた人材を中心に人間そのものが活動して富

を構築することを通じてしか、国を存続させることはできないという強い認識が独立時から

国民の間で広く共有されてきており、学校教育などで強化されてもきた。国の人的資源を最

大限に活かすべくシンガポール教育省に充てられる歳出予算が毎年常に全体の2割以上を占

め(')、国防省に次ぐ規模になっていることはそのような認識に基づくものであり、またそれ

だけでは足りず、海外の労働力と人材を吸収すべ<シンガポールが移民政策を積極的に推進

し続けてきたことも同じ認識から生まれたものにほかならない。国勢調査2010年によれば、

シンガポールで暮らす総人口のうち、国籍を持つ国民は323万人しかいなく、居住者全体の

65%にも満たないことがその事実を物語っている。

そもそも、中国系76.2%、マレー系15.1%、インド系7.4%とその他の民族1.3%からなる多民

族国家シンガポールでは、三、四世代も遡れば国民のほとんどの祖先も、より豊かな生活を

求めて遥々中国やインドと周りの国々からやってきた移民なのである。最初の移民の多くが

中国とインドのような「場所が変われば言葉も変わる」という「方言大国」から来ているゆえ、

シンガポールにおいて言葉、引いては教育の問題は初めから複雑であった。たとえば、一言

「シンガポールの中国系」といっても、福建系、広東系、海南系、客家系、上海系などとい

う非中国系でもわかるような違いもさることながら、同じ福建系でも福州系、福清系、南安

系、アモイ系、安渓系などにさらに枝分かれし、同じ福建語といってもそれぞれ言葉も発音

(シム・チユン・キヤツト日本大学/ll本女子大学)

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子ども社会研究18号

も違ってくる。このような背景から、独立した1965年当時、シンガポールではまず北京語

を基準とした「華語」を中国系同士の標準語にし、そのうえでイギリス植民地時代からの行

政用語である英語をシンガポール人同士の共通語にする必要があった。この共通語政策を強

めるため、教育制度にも二言語政策が導入され、中国系なら華語と英語を、マレー系ならマ

レー語と英語を、インド系なら南インドの言葉であるタミル語と英語を学校で学ぶことにな

ったのである。そして、シンガポールにおいて児童・生徒を能力別に分けるトラッキング制

度が導入されたきっかけとなったのも、まさにこの二言語政策であった。

独立から間もない頃に実施された二言語政策のもとで、言語能力の乏しい児童・生徒にと

って学業の負担が重く、そのため学業について行けず学校を後にする者が年々増えていった。

当時の教育省レポーI、(Gohl979)によれば、70年代の半ばにおいてシンガポールの小学校

と中学校における平均中退率がそれぞれ29%と36%にものぼり、高校進学率については14

%という非常に低いレベルにとどまっていた。問題の根源は、二言語政策が強化されるなか

で、85%もの子どもが家で話されない言葉で学校の授業を受けることになり、そのため多く

の児童・生徒が進級できず、学校を中退せざるを得なくなったことにあると同レポートは報

告した。人的資源理論の視点からみれば、そうした小中学校の中退者はいわば教育の「浪費」

(wastage)であるとされ、このような「浪費」を解消するためには二つの方法しか考えられな

かった。一つは教育に「ゆとり」をもたらすべくカリキュラム全般を簡易化すること、もう

一つは潜在的中退者の異なる能力に合わせた別のコースを設置することであった。優秀な人

材の育成を国策の柱とするシンガポール政府が選んだ道は言うまでもなく後者であった。こ

うして小中学校の児童・生徒を主に言語能力別に振り分ける三線分流型のトラッキング制度

が1979年に初めてシンガポールで導入されたのである。したがって、小学校から始まるシ

ンガポールのトラッキング制度は、旧宗主国だったイギリスの一昔前の「11才試験」(11-plus

examination)を受け継いだのではなく、二言語政策を徹底させたことが発端なのであった。

ただし、現首相のリー・シェンロン氏が2004年に就任したことに伴い、シンガポール教

育制度の今後について「少なく教え、多くを学べよ」('1℃achLessLearnMore)という新しい

方向が打ち出され、知識伝達型の教育から脱却すべく、さらに児童・生徒の多様性に対応し

学校教育の柔軟性を高めるために、義務教育段階である小学校におけるコース別のトラッキ

ング制度は2008年を最後に事実上廃止され、その30年間にわたる歴史的な役割を果たし終

えることになった。その代わりに、SubjectbasedBandingという教科別の習熟度編成が導入

され、児童たちは違う形で振り分けられるようになった。能力別の振り分けから児童たちが

完全に解放されたわけではないとはいえ、コース別のトラッキング制度によって生まれるあ

からさまなレッテルがなくなることだけでも、この改革の動きを支持する声が多かった。

一方、義務教育でない中等教育におけるコース別のトラッキング制度は今でも続いており

シンガポール教育省が毎年発行するEducationStatisticsDigestの2011年版によれば、2010

年において中学校レベルでは上位の急行(Express)、中位の普通学術(NormalAcademic)と

下位の普通技術(Normal'1℃chnical)のそれぞれのコースに在籍する中学校一年生の割合は

61.2%、25.5%、13.3%であった。同Digestによれば、小学校修了試験(PrimarySchoolLeaving

Examination、略PSLE)の合格率は毎年およそ98%で、合格した小学生はその後中学校にお

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けるいずれかのコースに入学することになる。もっとも、PSLEに二回以上挑戦しても合格

できなかった小学生は職業計||練系の学校に入る選択肢もある。また、日本と同様にシンガポ

ールでもIntegratedProgrammeという中高一貫教育を行う学校が年々 増えており、その数

は2011年現在の11校から2013年には全体の中学校数の約12%にあたる18校になる計画であ

る。これらの中高一貫校の入学対象者は基本的にPSLEでの成績が優秀で、4年後の中学校修

了試験にあたるGCE$O'レベル(2)を受けずとも優に高校まで進学できると目される小学生で

ある。さらに、多様性(Diversity)と柔軟|生(Flexibility)という新しい教育方針の二つのキー

ワードのもとで、SportsSchool、SchooloftheArtsやSchoolofScience&Tbchnologyなど特

殊分野に特化し、普通言われている「学力」だけを求めないような新しいタイプの中学校と、

情報通信技術を活用し、21世紀型学力を育む「フューチヤースクール」が近年増えつつある

こともここで記しておきたい。

複線型教育制度を展開しているシンガポールにおいて、中学校のコースや成績などによ

っては無論その後の進路が変わってくる。前述した中高一貫校で学ぶ生徒を除き、中卒者

が入学できる公的教育機関は、大学進学を目指させる2年制JuniorCollege(略JC)、もし

くは卒業後の就職を前提とする3年制ポリテクニックおよび2年制技術教育校(Instituteof

'1℃chnicalEducation、略ITE)のみである。卒業生の進路や教育制度における位置づけなど

を日本の制度に照らし合わせて比較すると、JCは日本の普通科進学高校に、ポリテクは日

本の高等専門学校に、ITEは日本の専門科高校に近い性格をそれぞれ持っていると考えられ

る。ただし、中等後教育修了時点で、直接に大学への入学が許されるのは、大学入学資格試

験にあたるGCE$A'(Advanced)レベルをクリアしたJCの生徒とポリテクの優等生だけに限

られる。ITEの卒業生についていえば、進学先はポリテクのみとなる。EducationStatistics

Digest2011によれば、2010年においてJC・ポリテク・nEへの同年齢層の進学率はそれぞれ

27,7%、43.4%、21.0%であった。一方、これらの教育機関に入学しない残りの8%弱の中卒者に

は、軍事学校、民営のホテル学校や情報・ビジネス専門学校に入るか、留学もしくは就職す

るかという道はある。

また、同Digestによると2010年におけるシンガポールの大学進学率はマス段階にとどま

り、日本の半分ぐらいの26%であった。もっとも、この進学率は基本的に公的教育機関への

入学を果たした同年齢層の比率であるため、私的教育機関の教育課程もしくはシンガポール

では盛んである海外留学などを通して学士資格を取得した人は含まれていない。国勢調査に

よれば、国籍もしくは永住権を持つ25~39歳のシンガポール若年層の大卒比率が、1990

年には6.7%であったものの、2000年に21.6%、2010年になると44.7%に上昇したこと

から、近年高学歴の新移民の増加に加え、若いシンガポール人を中心に私立の教育機関や留

学などを通して学士学位を獲得した人も少なくないということがうかがえる。

以上、シンガポールの教育事情とその背景について簡単に述べた。より詳細な説明につい

ては拙著(シム2009)を参照していただければ幸いである。

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子ども社会研究18号

3.シンガポールの教育に関する研究

I、ラッキング制度を貫きながら、TIMSSだけでなく2009年に初参加したPISAでもすべて

の分野で上位を占めたシンガポールの教育制度は、近年ますます注目を浴びるようになり、

シンガポールの教育についての研究も蓄積されてきた。今世紀に出版された書籍に限れば、

それらの研究を以下の五つの分野に大きく分けることができる。

(ア)経済的成功を収めたシンガポールにおける経済発展と教育との関係(例えば、案浦

2001、Leeetal.2008など)

(イ)国際的に高い学力に寄与する教科書、教授法および教員養成制度の研究(例えば、斎

藤編2002,Won92009など)

(ウ)フューチャースクールを推進するシンガポールのICT教育の現状と課題(例えば、

Koheta1.2008、Tayetal.2010=2011など)

(工)二言語政策を展開するシンガポールにおける言語教育および国民統合(例えば、大原

2002、Vaisheta1.2007など)

㈱多民族国家シンガポールにおける民族・社会階層と教育との関係(例えば、Chang

2002a、シム2009など)

ただ、分野によって研究の多寡の差が大きく、田村(2010)が拙著への書評の中にも指摘

しているように、「日本でもシンガポールでもこれまでの研究の多くは、教育をシンガポー

ルの多様な言語状況を克服する国民統合の手段、また経済発展や国家建設に果たす役割とい

う視点からの分析がほとんど」であり、上記の五つの分野についていえば、研究の蓄積が最

も乏しいのは最後の㈱分野であると言わざるを得ないというのが現状であろう。多民族国家

であり、トラッキング制度を積極的に実施しているシンガポールであれば、(利分野に関する

調査研究も多く行われているのだろうと考えられよう。だが、現実はその逆である。

シンガポールの教育に関する社会学的研究の乏しさの理由の一つとして、まず教育への政

府による中央集権的な統制の強さが挙げられる。完全独立した1965年から今日に至るまで、

シンガポールは事実上の一党支配体制を維持させてきた。そのため、与党・人民行動党のコ

ントロールが社会の隅々にまで行き渡っており、政府の定めた政策は、何の反発もなく即刻

完全実施という態勢が存在している。当然ながら、この傾向は政治・経済面のみならず、教

育界や学校現場にも及んでしまう。Chang(2002b,pp、15)も指摘しているように、基本的に

「シンガポールの学校はそれぞれの名声、ランキングおよび教育省との関係について非常に

慎重であるため、研究者によるアカデミックな調査にはあまり協力したがらない」のである。

また、Chang(2002a,pp.144)はその著書にも教育の領域でシンガポールの研究が他国に比べ

て劣り、弱い分野として挙げていたのが、階層・民族などの問題と密接な関係にあるとされ

る「能力別トラッキング制度」(AbilityTracking)と「学校風土」(SchoolClimate)であった。さ

らに、シンガポール国内唯一の教員養成機関で、教育に関する研究が最も盛んに行われてい

る国立教育学院(NationallnstituteofEducation)のホームページの中の「Research@NIE」に

アクセスして、そこでリストアップ。されている300件を超える近年の研究プロジェクトにつ

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いて調べても、社会階層や民族問題に関する研究がほぼ皆無に近く、上述のような傾向が今

でも残っているということがうかがえる。このような背景の一つとして、シンガポールでは

教育に限らず、民族問題とそれに連動する社会階層の問題は常に「センシティブ」なものと

されてきたことが考えられる。多民族国家なのに、ではなく、多民族国家だからこそ民族・

階層と教育およびトラッキングとの関係についての研究が「センシティブ」という理由から

乏しいのである。

しかしながら、例えば各民族の教育達成に関する情報を国民はまったく知らないと考え

るのは早計である。なぜなら、これまで本稿でも何度か言及してきたEducationStatistics

Digestの中にも、小学校修了試験、GCE$O'レベルとCA'レベルの民族別合格率および公的

中等後教育機関への民族別進学率が掲載されており、シンガポール教育省のホームページで

簡単に閲覧できるだけでなく、各新聞社も毎年の最新データを公に報道したりしているから

である。さらに、下位校ITEにはマレー系生徒が少し「過大代表」されていることも周知の

事実である。そのため、研究者や研究機関などによって調査されるまでもなく、民族間の教

育格差、ひいては階居間の教育格差の存在は明明白白であり、それゆえにシンガポールで

研究的にも政策的にも重要なのは、国民に知れ渡るそれらの格差を「告発」することではな

く、政策面や教授法などを通じていかにしてそれらの格差を縮小していくかということであ

る。現実に、メリトクラシーを擁護しているシンガポールは、民族を問わず教育機会が制度

上は均等に保証されているとされているため、結果の不平等は個人のメリット(能力十努力)

によって説明される社会でもあるのである。このような背景を考慮すれば、シンガポールの

教育に関する国内外の研究のなかで、教育機会の平等を図ろうとする政策や学校教育のあり

方についての分析や研究が多い反面、結果の平等・不平等を階層や民族などの視点から問う

ような調査が少ないということも理解できよう。しかしまさにこの理由から、民族と教育に

ついての研究はもちろん、階層とトラッキングという、選抜理論の中心的課題すらシンガポ

ールではまだ十分に明らかになってないのが現状である。

4・シンガポールの教育と日本との比較

以上述べてきたシンガポールの教育事情と研究環境を踏まえて、この節では筆者が関わっ

てきた、シンガポールと日本の高校教育に関する二つの研究の結果の一部を引用・参考する

ことによって、シンガポールの教育のあり方をより鮮明にするとともに、両国の比較を通じ

て日本の教育の特徴を浮き彫りにすることを目標とする。

4]下位高校と上位高校についての比較

まず、シンガポールと日本における下位高校と上位高校に焦点を当てた研究をもとに両国

の教育のあり方について検討を行うこととする。ここで用いるデータは、耳塚寛明・お茶の

水女子大学教授を代表とし'3'、「メリトクラシー規範の比較教育社会学」を研究課題として実

施した共同研究の一部によるものであることを記しておく。調査の概要は表1-1に示す通り

である。

0-71ノ」

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子ども社会研究18号

表1-1調査概要

シンガポール調査 日本調査

時期

対象

2002年8~9月

下位校ITE最終学年の生徒573人(女性数

215)と上位校JC最終学年の生徒371人

(女性数199)

2002年lO~12月

北陸地方A県B地区の専門学科下位校3年

生221人(女性数78)および普通科下位校

3年生183人(女性数90)と普通科上位校

3年生228人(女性数126)#

質lAj紙による集団|÷|記式調査方法インターネットを通じてのオンライン自記式

英文質問紙調査

#日本の対象校のランクづけは生徒の中学成績(自己申告)に基づいて行われたが、校長を含む学校関係者の間

での評判と一致していた。

表1-2生徒プロフィール (%)

日本 シンガポール

ド位校上位枝下位校ITE上位校JC

中学時成績上位0.2

(シン:中学校コース)中位32.0

下位58.4

無回答9.4

(日本:***,シン:***)合計lOO

経済的 豊かさ豊か5.4

(シン:世, 滞 月 収 壽 ) や や 豊 か 2 6.7

豊かでない47.2

わからない10 . 9

無回答9.7

(日 本: -,シン:***)合計10()

父職専門・管理・事務職24 .8

その他54.9

無回答2().3

(日本:***,シン:承**)合計lOO

父学歴大卒かそれ以上13. 8

それ以下71.2

無回答14.9

(日本:***,シン:***)合計l OO

ケース数404

3881ゞ62|心98-839-676

32030-6497Ⅱ叩一団詔凹叩一蛤諏田、一詔

810-331-2

1写

1-

1』

5311-910

01350-268

540-35

・IIL”

8534.’39

88020-161

440-252

1-

8-875-696

一■■。

00-8000-891O-l

O-540{260-7

1-

1写

1-3

-307-342

130-8010-4410-3

0-270-90-7

1.

’二

1-5

***:().1%水準で有意

#:シンガポールの世帯月収については:SS2000未満=豊かでない、S$200()~S$7()()0=やや豊か、S$700()以

上=豊かとした。

表1-2は、質問紙調査から得られた、両国の上・下位校生徒の中学時の成績、家の豊かさ、

父職および父学歴を示している。

表から、両国の下位校生徒の中学時成績は同国の上位校生徒に比べると、非常に低いこと

が読み取れる。厳しいトラッキング制度を施すシンガポールでも、明確なトラッキング制度

のない日本でも、学校間の学力差は一目瞭然である。言い換えれば、トラッキング制度の早

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シンガポールの教育事情と日本へのインプリケーション:シム・チュン・キャット

表1-3学校での学習(「とてもあてはまる。まああてはまる」と答えた生徒の比率) (%)

日本 シンガポール

普通下位専門下位上位下位ITE上位JC

授業はおもしろい

自分で考えたり、調べたり、問題を解決する

授業が多い

学校の授業のなかで、仕事についたときに、

すぐ.に役に立つ知識や技術を身につけている

先生は勉強やテストが重要だと強調している

先生はわたしがよい成績をとることを期待し

ている

先生は学問的にとても優れている

39.9

27.4

37.1

38.4

64

9643

79.0

92.0

39■ら

9948

1

2

31.649.13 8.491.9"34.9

45

43

7652

53.9

27.1

86.3

49.1

78●◆

6687

89

4398

17.549.185.385.788.46

注)無回答は除いた

晩と教育選抜度の高低に関係なく、学力と成績で進学先が決まる限り、高校教育段階では学

力の低い生徒が集中する下位校は自ずと存在することになる。

家庭の経済環境については、日本生徒の場合は統計的に有意ではないものの、シンガポー

ルの下位校ITE生徒と同様に、日本下位校生徒の家はやはり相対的に豊かではないことが表

からわかる。また、同国の普通上位校生徒のプロフィールに比べると、両国の下位校生徒で

は父学歴が低く、父職をみても威信の低い職業が多くなっている(4)。このことは、いかなる

メリトクラティックな教育制度といえども、教育達成における階層間の平等を実現すること

は困難であり、学校の選抜度と出身階層との間には常に強い関連性がみられる(苅谷2001な

ど)という従来の研究が指摘してきたことと一致する結果でもある。

なお、表1-2をみると、無回答の比率が日本の生徒で、とりわけ日本下位校の生徒でかな

り高いことがわかる。特に父職についての日本下位校生徒の無回答率が2割を越えているこ

とに注意されるべきであろう。

シンガポールと日本の下位と上位の高校でどのような教育が行われているのかを把握する

のに、授業および教師に対する生徒側の見方をみることによって手がかりを得ることができ

る。表1-3からはいろいろ興味深いことが読み取れる。まず、「授業はおもしろい」と答えた

日本上位校生徒の肯定率(49.6%)は下位校生徒と同じく5割を切ってはいるものの、それは

シンガポールの上位校生徒に関しても同じなのである(JC生徒の肯定率49.3%)。国を問わず、

進学勉強が中心となる上位校では、授業がおもしろいと思う生徒は少ないようである。しか

しこのことよりも、シンガポールの下位校にあたるnEだけ、生徒の8割近くが「授業はお

もしろい」と答えたことに注目されるべきである。さらに、学校のランクに関係なく「自分

で考えたり、調べたり、問題を解決する授業が多い」と答えた日本人生徒がシンガポール生

徒に比べると非常に少ないということも注目に値するであろう。

つぎに、残りの質問項目について日本の場合では「学校の授業のなかで、仕事についたと

きに、すぐに役に立つ知識や技術を身につけている」という項目以外に、ほかのすべての項

目に対して上位校生徒の肯定率はいずれも下位校生徒のそれを大きく上回っていることが表

から明らかである。日本上位校の生徒のほとんどが大学進学を目指していることを鑑みれば、

7コ

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子ども社会研究18号

表1-4学校外での一日の学習時間の分布 (%)と平均

しない30分まで30-60分1時間以上平均(分)ケース数

日本

普通下位

専門下位

普通上位

13.3

12.0

3.6

16.1

7.8

88.2

29.9

17.4

190.6

57.8

71.0

1.8

823

296

1 180

217

221

シンガポール

ITE

JC

17.1

11.1

J6

74

1 11.5

8.1

54.2102.6 573

ワイ 6.2136.5 369

学校の授業を通じて仕事に就いたときにすぐに役立つ知識や技術を身につけていると答えた

生徒の割合が低いのも納得できる。実際に、同じ項目についてシンガポールの上位校にあた

るJCの生徒の肯定率(34.9%)も、下位校ITEの生徒の割合(91.9%)に比べると非常に低いこ

とが表からわかる。そのことよりも日本の場合では、下位校とはいえ専門科高校でさえ「学

校の授業のなかで、仕事についたときに、すぐ.に役に立つ知識や技術を身につけている」と

答えた生徒が半分にも満たないことが課題であろう。一方、「先生はわたしがよい成績をと

ることを期待している」と答えた日本上位校の生徒の割合(49.1%)が同じ項目に対するシン

ガポール生徒の肯定率(JC83.9%、TTE76.8%)に遠く及ばないものの、日本下位校生徒の肯定

率(普通下位26.3%、專門下位27.1%)の倍近くはあることも表から読み取れる。さらに、「先

生は勉強やテストが重要だと強調している」、「先生は学問的にとても優れている」と肯定的

に答えた日本上位校生徒の割合がシンガポール生徒のそれに匹敵するほど高く、日本の上位

校では下位校より教師と生徒との関係が良いことが垣間見える。

最後に、両国の下位校生徒と上位校生徒の学校外での一日の学習時間の分布を表わしてい

るのが表1-4である。

まず、一日の平均学習時間(5)をみると、日星両国とも上位校生徒の学習時間が予想通りに

下位校生徒のそれより長いことが表から明らかである。しかし日本下位校生徒の平均学習

時間(普通下位29.9分、専門下位17.4分)が上位校生徒の190.6分よりはるかに短いのに対し

て、シンガポールについてはITE生徒の平均学習時間(102.6分)は上位校JCの生徒の学習時

間(136.5分)より34分だけ短いにすぎない。また、シンガポールの下位校ITEでは家でまっ

たく勉強しない生徒が17.1%しかいないのに対して、家での学習時間がゼロである日本普通

下位校生徒と專門学科下位校生徒の比率がそれぞれ57.8%と71%となっていることも見て取

れる。全体的にみれば、シンガポールでは、少しの差があるものの上位校のJC生徒も下位

校のITE生徒も勉強に時間を費やしているのに対して、日本の場合では学習時間に関して学

校ランクによる差が非常に顕著であることがわかる。

42高校教師の仕事についての比較

つぎに、日本とシンガポールの高校教師を対象とした質問紙調査に基づいて、両国の教師

の教職観や学校と仕事に対する考え方の違いを見てみよう。ここで用いるデータは、樋田大

二朗・青山学院大学教授を代表とし(6'、「単線型教育体系における多様化政策の課題」を研究

74

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シンガポールの教育事情と日本へのインプリケーション:シム・チュン・キャット

表2-1調査概要

日本調査 シンガポール調査

時期

対象

2009年11月~2010年3月

北陸地方A県と東北地方B県の上位校篝

7校の教師299人と下位校10校の教師380人

職員室での質問紙の配布と回収

2011年5~6月

上位校JC2校の教師218人と下位校ITEI校

の教師217人

各校の担当者による質問紙の配布と回収方法

#日本の場合、.上位校と下位校の分け方については、同じ時期に実施した生徒対象質問紙調査で得られた生徒の

中学成績(自己申告)に基づいて行われた。

ゞシンガポールの調査対象校が少ないのは、後期中等教育段階においていずれの学校もマンモス校だからである。

」Cでは、対象校の1校が教職員数216人、最終学年生徒数1169人で、もう1校が教職員数126人、最終学

年生徒数72()人であった。ITEの対象校に関しては、教職員数575人、最終学年生徒数43()()人であった。

表2-2採用・訓練及び配置の違い

日本の教師 IC・ITEの教師

教員養成

と採用

・大学で必要な単位を修得し、各都道府県が

実施する採用試験に合格すること

・採用前の職務経験を問われないのが原則

・教員免許さえ持っていれば、採用後すぐに

教壇に立つことができる

。勤務しながら、法定の初任者研修を受ける

・基本的に採用された者だけが教師になるた

めの研修・訓練を受講

・訓練期間中でも一般教職員として有給

・採用前の職務経験は、とくにn、Eの場合で

は重要

・JC教師は大学レベルの教員養成・研修を扱

う国立教育学院で、ITE教師はITE本部や

勤務校で、フルタイムの計||練やOJT研修を

受講

・本人が要請もしくは辞職しない限り、人事

異動は基本的になく、勤務校や教える生徒

のタイプは原l1リ的に不変

学校への

川rI.『と1.l-Iul屋JQ

1 r 可 に 五 J

採用される前、どのようなランク・レベル

の学校に|咄置されるかは不明

定期''1りな人事異動あり

表2-3高校教師の男女比率と年齢構成の比較 (%)

日本 シンガポール

全隆I(公立) IC ITE

女性教師の割合

年齢:

三・打!

32702

78740

22332

57.3

70.4

16.3

13.3

35.()

38.()

24.()

38.0

40歳未満

40代

50歳以上

平均

20年以上

勤務年数

16.2 37.0

堂魁

日本:平成19年度学校教員統計調査

JC:Edllcati()nStatislicsDigest2011

ITE:ITE本部・C()rl)()l・ateAfiairsDivisionへの問い合・わせによる2()11年度現在の数字

テーマとして実施した共同研究の一部によるものである。本節の分析対象は、表2-1に示す

調査結果である。

まず、比較分析を行う前に、表2-2が示すように両国の教師についてはその養成と採用・

研修から学校への配置まで大きな違いがある。とりわけ、人事異動がほとんどないシンガポ

ールにおいて、特定のタイプ°の生徒に対して指導経験を長年積み上げられることが日本との

大きな相違点であるといえる。

さらに、表2-3に示したのが両国の教師の男女比率および年齢構成の比較である。表から

75

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子ども社会研究18号

表2-4本節で用いるデータ (%)

日本 シンガポール

全体上位校下位校 IC ITE

女性教師の割合

年齢:

6-669-082

■一■■■■e■●

2-387-612

3-233-126

0-253-344

■一●■■二G年①

6-063-810

5-711-522

9-531-578

■・■■■一■●■

0-504-521

5-333-423

1-208-433

■画■凸●・■■●

3-405-711

3-153-27

2-065}820

凸一■■■。④?●

2-199-225

3-323-225

一満

一未

満上一滴鋤上

未以一未へ以

歳代歳一年年年

000-000

445-112

教職経験年数

表2-5学校や仕事に対する考え方の違い 「とても・まあそう思う」の割合(%)

日本 シンガポール質問項目

上位下位JCITE

勤務校では、全体で問題を受け止めようとする雰囲気がある

勤務校では、自分の仕事が正当に評価されていると感じる

教師としての自分の能力に自信がもてない

教師としての力を高めるために自分は学び続けている

教師は、社会の人々から尊敬されている仕事である

自国の高校教育は良い方向に向かっている

仕事上で強いストレスを感じる

65.2

74.7

28.8

87.2

43.1

21.7

48.0

63.6

72.0

36.2

81.7

40.0

21.5

63.2

4477768

4487258

889775

84.2

86.4

3.7

100.0

88.4

89.4

54.8

注)無回答は除いた

言えるのは、シンガポールのJCとITEに比べると日本の公立高校における女性教師の割合が

低く、また40歳未満の若い教師も非常に少ないことである。後者の点については、日本の

高校教師の平均勤務年数が20年を超えていることからもうかがえる。それに対して、シンガ

ポールのJCにおいて40歳未満の若い教師が特に多いのは、採用前の職務経験が求められ中

途採用の多いITEとは違い、JC教師の多くが大学を卒業してすぐ教育省に採用されるためで

ある。そのうえ、シンガポール教育省のホームページ(7)にも掲載されているように、シンガポ

ールの教師は一般的に‘'1℃achingTrack'のほかに、管理職を目指すための@LeadershipTrack'

と教育開発のスペシャリストになるためのGSeniorSpecialistTrack'のキャリアルートも選択

できるため、定年まで教職の仕事を続ける教師は日本より少ないと考えられる。

本節で用いるデータにおける教師の女性割合、年齢構成および教職経験年数を示したのが

表2-4である。表2-4に示されている数字は概して表2-3の全国値に近いものの、日本の場合

では上位校のほうが下位校より40歳未満の若い教師の割合が低く、また20年以上の教職経

験を持つ教師の割合が高い傾向にある。逆に、シンガポールでは上位校JCに若い教師が多く

20年以上の教職経験を持つ教師の割合は下位校ITEより少ない。

一方、調査データにおけるITEの女性教師の割合が全国値よりやや高いのは、本研究にご

協力いただいたITEの対象校では、女性教師のほうが多い傾向にあるというBeauty'I11erapy

HairFashion&Design、NursingやBusinessStudiesなどの商業・サービス業コースがほかの

ITE校よりも多く設置されているためであると、調査対象校の担当者から説明を受けた。

76

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シンガポールの教育事情と日本へのインプリケーション:シム・チュン・キャット

質問紙では、学校や仕事に関する質問項目について「とてもそう思う」「まあそう思う」「あ

まりそう思わない」「全くそう思わない」の4点尺度で教師達に答えてもらった。「とてもそう

思う」と「まあそう思う」の割合を足した結果を、国別・学校ランク別に示したのが表2-5で

ある。

表2-5を上から見ていくと、以下の4点を指摘することができる。

(ア)勤務校について、「全体で問題を受け止めようとする雰囲気がある」及び「自分の仕

事が正当に評価されていると感じる」と答えた教師の割合は、学校ランクには関係がな

く、またどちらもシンガポールのほうが肯定率が高い。

(イ)つぎに、日本の場合では「教師としての自分の能力に自信がもてない」と回答した教

師の割合がシンガポールより高いのとは逆に、「教師としての力を高めるために自分は

学び続けている」と答えた教師の割合はシンガポールよりも低い。

(ウ)さらに、「教師は、社会の人々から尊敬されている仕事である」と思っている日本教

師の割合がシンガポールの半分程度にとどまっているだけでなく、「自国の高校教育は

良い方向に向かっている」と答えた日本教師の割合も、シンガポールに比べるとはるか

に低い。

(エ)最後に、「仕事上で強いストレスを感じる」と答えた教師の割合は両国ともに5~6

割程度であるものの、その割合がシンガポールでは学校ランクによる差異がそれほど見

られないのに対して、日本においては上位校と下位校で大きな開きがある。

5.結論と日本へのインプリケーション

前節の二つの分析結果は、両国の教育、とりわけ高校教育のあり方について以下のような

論点を示唆している。まず、両国の上下位高校生のプロフィールからは、シンガポールの複

線型教育制度においても日本の単線型教育制度においても、教育達成における出身階層の影

響を完全に除去するのに限界があることが示された。トラッキング制度の有無にかかわらず、

少なくとも高校レベルでは学校の選抜度と生徒の出身階層との間にはやはり強い相関関係が

あることがいま一度確認された。しかしながら、両国の下位校では生徒のタイプが学力的に

も階層的にも似通っているものの、学校の授業のおもしろさ、そして授業を通して生徒に考

えさせたり、実用性の高い知識や技術を身につけさせたりする要素などの面において、シン

ガポールの下位校ITEに比べると日本の下位校は生徒への働きかけが不足しているような印

象を受ける。また、シンガポールの高校と比較するまでもなく、日本の上位校と比べても日

本の下位校生徒からみれば、学校の教師は勉強やテストが重要だと強調したり、生徒がよい

成績をとることを期待したりもしないことから、日本の下位校において教師と生徒との関係

があるべき姿からかけ離れていることが示された。日本下位校における授業のあり方およ

び教師生徒間関係は、生徒の学校外での学習時間がすべての調査対象の中で最も低いという

ことにも関連しているのではなかろうか。さらに「先生は学問的にとても優れている」とい

う質問項目についても日本の下位校生徒の肯定率だけが目立って低く、反対に教師調査では

「教師としての自分の能力に自信がもてない」「仕事上で強いストレスを感じる」という質問

ワワノノ

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子ども社会研究18号

項目の肯定率が最も高いのも日本下位校の教師たちであったことから、日本の下位校がとり

わけ様々な課題を抱えていることは想像に難くない。

二つの調査で明らかになったのは、シンガポールのITE生徒と比較すると日本の下位校生

徒が少なくとも三つの面でレフトアウト(Left-Out、孤立無援に)されているということであ

る。まず、日本の下位校では、授業をおもしろくさせる努力も、生徒の学習意欲を向上させ

る努力もほとんどみられないことが実証データにより確認されたため、日本の下位校生徒は

学校内部においてレフトアウトされているといえる。つぎに、進学希望のn、E生徒が学費の

低い国立のポリテクを進路とするのに対し、進学を希望する日本の下位校生徒のほとんどが

目指すのが学費の高い短大や専門学校などの私立教育機関であることを考えれば(シム2009)、

出身階層の低いITE生徒が国から手厚く保護されているのとは逆に、同じく出身階層の低い

日本の下位校生徒が進学先においてもレフトアウトされていることにほかならない。さらに、

シンガポールのrTEとポリテクのカリキュラムが大学教育につながっているのに対し、日本

の短大.各種専門学校のカリキュラムのほとんどが4年制大学教育に連続しないことを比較

すれば、シンガポールにおける「敗者復活ルート」のほうがわかりやすく、逆に同じく教育選

抜の「敗者」ともいえる日本の下位校生徒が政策的にもレフトアウトされていると言わざるを

得ない。

学校での学習意欲は将来につなぐための「やる気」や活力にも関係すると考えられる。昨今、

日本では、仕事をせず教育も職業訓練も受けない「ニート」や就職してもすぐにやめてしまう

若者が増えていると多くの研究が指摘している。この問題に、学校、とりわけ多くの課題が

集中する下位校が無関心ではいられまい。せっかく入学してくるこれらの若者を「レフトア

ウト」してしまうのは、シンガポールの視点からみればまさに教育の「浪費」となろう。これら

の生徒が卒業した後にこちらから出向いてアウトリーチの取り組みを行うよりも、彼らが高

校にいる間にシンガポールのITEのように積極的に働きかけたほうが効率的でかつ効果的な

のではなかろうか。様々な課題が山積する下位校であるからこそ、教育セーフティネットと

してだけでなく、生徒が卒業後に良い社会生活を送れるように将来を見据えた社会的セーフ

ティネットとしての機能と役割も果たすべきなのではなかろうか。

単線型と複線型とを問わず、教育選抜が行われる以上「勝者」とともに多数の「敗者」が生

み出されてしまう。生徒の学力が高く出身階層も概して高いという上位校よりも、生徒のプ

ロフィールが多くの場合においてその逆になるという下位校のあり方のほうがその国の教育

の本質を反映しているといえる。本稿が、シンガポールの教育事情およびそれが示唆する日

本へのインプリケーションについての理解を深めるための、または「自国の高校教育が良い

方向に向かっている」と答えた教師がたったの2割強しかないという日本の閉塞ムードを打

開するための一助となることを、強く願う。

(1)

(2)

シンガポールの国家予算の詳細については、シンガポール財務省が所管する以下の@Singapore

BudgetArchives'で調べることができる:http://app.mof.gov.sg/singapore-budget_archives・aspx

シンガポールでは、一般的に急行(Express)コースの中学生は卒業時にTheSingapore-Cambridge

78

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シンガポールの教育事情と日本へのインプリケーション:シム・チュン・キャット

GeneralCertificateofEducation-OrdinaryLevel(GCE@O'レベル)を受けるのに対して、普通

(Normal)コースのI|!学生はGCE、N'(Normal)レベルを受けることになる。.N'レベルで良い成績を

収めた生徒は中学5年に進級し、一年後にGCE&O'レベルの試験にチャレンジすることもできる。

(3)同研究は2001年~2003年度H本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(B)(l))を受けて実施され

たものであり、研究会におけるほかの分担者および協力者は、岩木秀夫、樋田大二郎、苅谷lill彦、

金子真理子、大多和直樹、堀健志、荒川葉の各氏である。

(4)日本の上・下位校生徒の間の差について、父学歴と父職とで有意差が認められているのに、家の豊

かさでは認められない理由の一つとして、日本語質問紙のほうでは世帯月収ではなく、「家の豊か

さ」という解釈のあいまいな指標が用いられたことが挙げられる。

(5)「(一日あたり)家での勉強時間」をたずねた質|§Njをもとに、「しない=0分」「30分以下=15分」「30分

から1時間=45分」「1時間から2時間=90分」「2時間から3時間=150分」「3時間から4時間=210

分」「4時間から5時間=270分」「5時間以上=330分」とした。

(6)同研究は2009年~2011年度日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(B))を受けて実施された

ものであり、研究会におけるほかの分担者および協力者は、岩木秀夫、耳塚寛明、苅谷剛彦、金子

真理子、大多和直樹、堀健志、岡部悟志、中西啓喜の各氏である。

(7)http://www.moe.edu.sg/careers/teach/career-info/(2012年5月30日に閲覧)

<参考文献〉

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大原始子2002『シンガポールの言葉と社会一多言語社会における言語政策』(改訂版)三元社

斎藤里美・上條忠夫伽2002『シンガポールの教育と教科書-多民族国家の学力政策』明石書店

シム・チュン・キャット2009『シンガポールの教育とメリトクラシーに関する比較社会的研究』東洋館

出版社

田村慶子2010「(書評)シム・チュン・キャット『シンガポールの教育とメリトクラシーに関する比較社

会的研究』」『アジア研究』アジア政経学会第56巻第1.2号、pp.91-94

Tay,IEe-Ybng,LimCher-Ping,KhineMyintSwee(eds.)2010ASc"00臆ノり"γ"ey2"勿娩cF"畝γaResgαγc〃勿

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Won9,Khoon-YOng,LeePeng-Yee,BerindelieetKaur,FoongPui-Yee,NgSwee-Fong2009Mathematics

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79

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拳冒T17Eヨロ’

多賀太編著

『揺らぐサラリーマン生活一仕事と家庭のはざまで』(ミネルヴァ書房2011年)

高橋均(光塩学園女子短期大学)

本書は、ジェンダー・男性学研究に取り組んできた多賀太氏の編著によるものである。氏

は、『男らしさの社会学一揺らぐ、男のライフコース』(2006、世界思想社)において、従来自

明とされてきた男らしさの「揺らぎ」を指摘している。その続編に当たるといえる本書は、不

安定化する1990年代以降の日本社会における「サラリーマン」の生活実態(職業生活・家庭生

活)を明らかにしたものである。

サラリーマンの生活実態に焦点を当てた研究には多くの蓄積があるが、本書の特長として、

以下の三点を挙げることができる。第一に、サラリーマンの具体的な生活事例と生の声を重

視している点、第二に、サラリーマンの生活を職業生活と家庭生活(私生活)の相互関係のな

かで捉えている点、第三に、サラリーマンを取り巻く現実をジェンダーやヘゲモニー支配の

視点から捉えようとしている点である。

以下、本書の構成に沿い、各章の内容について整理しよう。

序章「揺らぐ労働規範と家族規範一サラリーマンの過去と現在」では、俸給生活者=「サ

ラリーマン」が、大正期以降、新中間層として次第にひとつの社会集団を形成していく歴史

的過程が概観される。次に、戦後の日本社会における男性の標準モデルとされてきたサラリ

ーマン像が1990年頃を境にして揺らぎ始め、サラリーマンとして生きることがもはや当たり

前のことではなくなり、働き方の多様化が進行していること、そのようなサラリーマンの非

標準化が、結婚・出産・子育て(家族内の性別役割分業)にも多様化をもたらし、不確実性が

強まる社会となりつつあることが指摘される。

第1章「変わる働かされ方、働き方一労働法制の変化と自己責任の論理」では、労働法制の

変化に焦点が当てられ、「自己責任」をキーワードに、長時間労働に従事する近年のサラリー

マンを取り巻く雇用環境や社会的背景について分析がなされる。労働の長時間化の流れが強

められる一方で、今日のサラリーマンに対して、「育児休業の取得推進やワーク・ライフ・

バランスの充実など、仕事から家庭へと押しやる力も強力に作用」している現状が指摘され

る。「自己責任論」は、仕事と家庭というふたつの磁場を調整しつつ、結局はサラリーマンを

仕事へと引き込んでいく「隠れ蓑」として機能しているという。

第2章「キャリアパターンの持続と変容一「新人類」世代以降の事例から」では、日本の社会

経済体制が大きく変化を遂げる1980年代後半以降に仕事を始めた、いわゆる「新人類」世代以

降の男性4名の生活史事例をもとに、グローバル化がサラリーマンのライフコースに与えた影

響についての検討がなされ、揺らぐ現代社会をどのように生き抜くべきか、その指針が示さ

れる。従来のキャリアパターンの持続例である国家公務員2名の語りからは、仕事と生活のバ

ランスがとれないことに不安を抱えている姿が浮き彫りにされる。また、日本型大企業から

転職をしてキャリア形成をしてきた事例として取り上げた2名の語りからは、従来のキャリ

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子ども社会研究18号

アパターンが変容しつつある様子が浮き彫りにされる。筆者は、これらの事例の検討を通じ、

もはや将来に対して希望を抱くことを前提にできない今日の社会にあっては、将来への不安

がさらに新たな不安を増'隅するという「負のサイクル」に陥ることなく、「自己の将来を模索す

る際に、極度に理念的にも現実的にもなることのない中庸な思考で、ひとまず目前の課題を

設定して取り組むというシンプルな姿勢」(98頁)を生きる指針とすべきであると説く。

第3章「育児するサラリーマンー育児ができないつらさ、仕事ができないつらさ」では、5

人の父親たちの生活事例の分析をもとに、父親たちが仕事と育児の両立をめく.ってどのよ

うな葛藤を経験し、それにどのように対処しているのかが明らかにされる。「仕事のせいで

育児ができない」父親たちには、「家庭における稼ぎ主として長時間労働を避けることができ

ず、他方で、働きたいのに育児のために働けない妻への申し訳なさから育児を妻に任せっき

りにしてしまうわけにはいかない」という葛藤が、「育児のために仕事ができない」父親たちに

は、「仕事の量や時間を減らして育児に参加してはいるものの、それによって自己実現や社会

的成功のチャンスが少なくなる」(99頁)という葛藤が存在するという。筆者は、こうした父

親たちの葛藤は、都市中流階層のサラリーマンの父親に典型的なものであるとし、今日の父

親たちが、伝統的役割と非伝統的役割の二重負担によって多忙化し、精神的に追い詰められ

ていることを指摘する。

第4章「教育するサラリーマンーチューターとしての父親像の台頭」では、近年、サラリー

マンを主な読者層とする商業雑誌において喧伝されるようになった、父親が子どもの学校選

択や受験勉強の支援などに積極的にかかわるべきとする「チューターとしての父親」言説が台

頭する社会的背景について検討し、そうした言説が父親たちによってどのように受け止めら

れ、父親たちの生活にどのようなインパクトを与えているのかを考察している。筆者は、サ

ラリーマン家庭の父親たちの生活事例の検討をふまえ、こうした新しいタイプの父親の家庭

教育言説が台頭する背景に、「子どもの階層下降を防止したいと願う父親たちのニーズ」と「男

女平等へと向かうジェンダー構造の変化への対処戦術」、そして「学歴主義社会の勝者として

保有している自らの資源を用いて権威を保つ」(151頁)という、父親のヘゲモニー維持戦略

の存在をみている。

第5章「ポスト会社人間のメンタリティー仕事の私事化と私生活の充実」では、いわゆる「会

社人間」世代と「新人類」世代以降では、サラリーマンとしてのライフスタイルやメンタリティ

にどのような変化がみられるのかが検討される。筆者は、ライフスタイルの「個人化」という

特徴を持つ1990年代以降のサラリーマンを「ポスト会社人間」として位置づけ、その特徴を

明らかにし、「会社との間に一定の心理的な距離を保とうとしている点」が、ポスト会社人間世

代のサラリーマンの第一の特徴であると指摘する。本草で取り上げられるポスト会社人間の

事例からは、長時間労働に従事しながらも、仕事の意味を個性・能力の発揮に見いだし、仕

事を楽しみ、自己実現の手段とするサラリーマンの姿が浮び上がる。筆者によれば、ポスト

会社人間世代のサラリーマンの第二の特徴として、「会社以外の世界に居場所を確保しようと

努めている点」を指摘できるという。1990年代以降のサラリーマンは、「仕事に支障をきたさ

ない範囲で家事・育児に参加し、家庭での居場所を確保」しているが、筆者は、このような

ポスト会社人間的ライフスタイルやメンタリティは、「彼らが独自に選択したものであるとい

82

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書評

うよりも、彼らを取り巻く環境の変化に彼らが適応していった結果」(184頁)として生じた

ものであるとし、いつ戦力外通告されるか分からない会社に依存するというリスクを回避す

る、ポスト会社人間世代のサラリーマンの生存戦l略をみいだしている。

第6章「個人化社会における「男らしさ」のゆくえ-サラリーマンの今とこれから」は、全体

のまとめにあたる章であり、ライフコースの個人化が進行するなかで顕在化してきた、さま

ざまな男性の生き方モデル同士の勢力関係について考察がなされる。筆者によれば、今日の

男性雇用労働者における非正規化の進行のなかで、新卒で正規雇用に就き、長期安定雇川と

年功序列賃金に守られながら定年まで同じ組織で長時間労働に励むという、旧来のサラリー

マンの働き方は、「相対的にその実現可能性が低まることで、むしろ男性の生き方モデルにお

ける威信を高め」(190頁)、逆説的にもサラリーマンは、より「男らしい」働き方としての意

味づけを強めているという(193頁)。さらに、本章では、サラリーマンの「近代モデル」(伝統

的な雇用労働者の労働パターン)と「ポスト近代モデル」(個人化された労働パターン)とが類

型化され、インタビュー調査をふまえつつ、「自らのキャリアを自律的にコントロールしなが

ら、より高いリスクと引き替えにより高い地位と収入を手にする、より個人化された働き方」

(201頁)をする、サラリーマンの「ポスト近代モデル」が、今日の多様化する男性の雇用形態

のうちで、ヘゲモニックな位置を占めつつあるとの指摘がなされる。

みてきたように本書は、いまや男性がサラリーマンとして働いたとしても、予測可能な未

来を保証する安定した収入は見込めず、結婚し、家族を形成する標準的ライフコースをたど

ることすら容易ではないこと、すなわち、男性の標準的な生き方が、今日大きく揺らぎをみ

せつつある実態を明らかにしている。本書が提出する知見は、今を生きるサラリーマンに対

するインタビュー調査によって得られた貴重な生の声から導き出されたものであるがゆえに、

十分な説得力を持っている。また、現状分析に留まることなく、サラリーマンとして不安定

な社会を生き抜くための指針(処世術)が提示されている点も、本書(とくに第2章)の特長で

ある。本書は、研究害という枠を越え、今を生きるサラリーマンが現状を相対化・客観化し、

システムに絡めとられることから一定の距離を保つことに寄与する対抗言説を提示するとい

う意義を持っているといえよう。

このように良耆の名にふさわしい本書ではあるが、「学歴、職業上の地位などの点で日本の

平均的な男性よりも恵まれた層」(230頁)がインフォーマントの中心であり、そのサンフ°ル

には偏りがある(もっとも、この点については筆者らが自戒を込めつつ述べており、本書の

価値をいささかも艇めるものではない)。近年、離婚率が上昇し、それに伴い父子家庭も増

加しつつあることが指摘されている。このことは、サラリーマンの職業・家庭生活が分化し、

サラリーマン層内部での階層化がよりいっそう進行することを示唆しよう。本書(第6章)が

指摘するように、今日、サラリーマンの「ポスト近代モデル」のヘゲモニーが打ち立てられつ

つあるなかで、支配的ヘゲモニーヘの対抗戦略は、どのように展開されていくのであろうか。

本書に続く作業として期待されるのは、今日の不安定化する社会における、非正規雇用の男

性、父子家庭のサラリーマンなど、一枚岩ではない男性の職業・家庭生活の諸相を捉え、多

様な「ヴォイス」の交差からなる重層的な全体像を描き出していくことであろう.

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