ミャンマーの政治経済事情 -...
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ミャンマーの政治経済事情
2019年6月1日
於拓殖大学
ミャンマー日本・エコツーリズム会長、藤村建夫
ミャンマーという国
◼面積:67.7万km2 (日本の約1.8倍)
◼人口:約5,531万人
◼ 135の民族からなる多民族国家
◼ GDP/p:$1298 (2018: IMF)
◼産業構造:GDPの内訳(2016)
農 業:25.3%
工 業:34.9%
サービス :33.3%
◼資源:天然ガス、木材、鉱物資源、農産物、水産物
少数民族の所在地出所:https://xn--w8j5cwinjia
4gw635aukyamykd3u.com
1.Burman=9 ethnics2.Shan=33 ethnics3.Karen=11 ethnics4.Kachin=12 ethnics5.Rakhine=7 ethnics6.Chin=53 ethnics7.Mon=1 ethnic8.Kayah=9 ethnics
Total=135 ethnics
ミャンマーの宗教別人口
1. 仏教 : 89.3 %
2. キリスト教: 5 %
3. イスラム教: 4 %
4. ヒンズー教: 0.5%
5. 精霊教: 1.2 %
ミャンマーを知るには、まず歴史を知ること(歴史外観)
◼ 9世紀中頃:最初の国家としての形成はビルマ族によって作られたバガン王朝(1044~1287)といわれている1299年バガン王朝はシャン族によって滅ぼされるまで、約300年続いた。
◼ その後、小国家が入れ替わり、16世紀になって、ビルマ族がタウングー王朝(1531~1752)を築いたが、18世紀半ばには衰えた
◼ 1752~1885:コンバウン王朝が成立したが、イギリスと3度の戦争で滅亡し、1886年~1941年:イギリスの植民地となる。(55年間)
◼ 1880年代~1930年代:「からゆきさん」350人位の日本人娼婦が存在◼ 1942年~1945年: 日本軍による統治◼ 1948年1月4日に独立。内乱と政治的混乱を経て◼ 1962年~1988:ネ・ウイン将軍による独自の社会主義政権が続いた◼ 1988年のクーデター以降、国家平和開発評議会(SLORC/SPDC)による統治
◼ 1996/97年~国際社会による経済制裁◼ 2010年: 新憲法による総選挙◼ 2011年:テイン・セイン大統領のもと、民主化が促進されるも、未だ貧困層の多い国
ビルマ独立運動と南機関の支援
◼ 1930年代:タキン党によるビルマ独立運動
◼ 1938~1945:日本の「大東亜共栄圏構想」
◼ 1937~1945:日中戦争勃発と英米による、インドービルマ経由での蒋介石支援
◼ 1937年:ビルマがインドから分離
◼ 1941年:「南機関」設立
◼ 1941年:「30人の同士」のビルマ脱出と海南島での軍事訓練
◼ 1942年:援蒋ルート切断のためのビルマ侵略と独立支援
◼ 1942年:ビルマ独立義勇軍(BIA) の設立:アウンサン将軍
◼ 1943年:名目的独立と南機関の解散
◼ 1944年:インパール作戦の失敗
◼ 1945年:ビルマ国軍の裏切りと終戦、独立
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社会主義計画党による“ビルマ式社会主義”
◼ 1947年:アウンサン将軍暗殺
◼ 1948年:独立
◼ 1948~1962年:その後の民主政治の混乱:政党の腐敗
◼ 1962年:ウ・ネウイン大将によるクーデターと革命政府樹立。産業国有化と鎖国導入(インド人、中国人の財産国有化)
◼ 1971年:ビルマ式社会主義計画党による国造り
◼ 1955年:日本のビルマ賠償開始
◼ 1970年代後半:徐々に門戸を開放
◼ Small is beautifulのモデル国(Schumacher)
◼ 1980年代:閉塞的政治の行き詰まり
◼ 1988年:ビルマの動乱と国軍による軍事クーデター
◼ ビルマからミャンマーへ国名を変更
◼ 1990年:総選挙結果の拒否と軍事政権の長期化
1988年8月10日に軍が発砲https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCA.RB4_xcdl8A_DmU3uV7?p=%E3%83
%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC1988%E5%B9%B48%E6%9
C%888%E6%97%A5%E3%81%AE%E9%A8%92%E4%B9%B1&aq=-1&oq=&ei=UTF-
8#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D1484
アウンサン・スーチーの登場Source:https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF8&gdr=1&p=%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%
E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%8C%96%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8
6%99%E7%9C%9F#mode%3Ddetail%26index%3D3%26st%3D324 ミャンマー民主化への道筋
◼ 1996/97年:欧米諸国による経済制裁の発動 ODAと貿易の縮小◼ 1997年:ASEANへの加入と民主化圧力◼ 2003年:7段階民主化ロードマップによる民主化推進◼ 2008年:新憲法の策定と国民投票による承認◼ 2010年:総選挙による新議会と新政権の設立
新政権は軍事政権の傀儡か?◼ 2010年アウンサン・スーチー女史の自宅軟禁解放
NLDの政党再登録スーチー女史の国会議員補欠選挙への立候補
◼ 2011年:テイン・セイン大統領による新政府の設立と民主化推進宣言◼ 2012年1月:政治犯釈放◼ 2012/13年:経済制裁の解除(ODA借款の再開)◼ 2014年のASEAN議長国承認◼ 2015年のASEAN域内の人と物の自由な流通◼ 2015年11月の総選挙でNLDが圧勝◼ 2016年3月:NLD政権が誕生:スーチー氏が国家顧問・外相・大統領府相兼務
新政治体制出典:アジア経済研究所 夏季セミナー資料、2011年8月
◼ 7地域:ビルマ族ー7州:少数民族、大統領、副大統領(2)制
◼連邦議会(人民代表院と民族代表院で構成)、地域・州議会、議員の25%は軍人議員
◼政党:USDP(連邦民族発展党)、国民統一党(NUP)、国民民主勢力(NDF)、国民民主連盟(NLD)
◼選挙結果:USDPが80%近い議席を獲得
◼特長:大統領と国軍司令官に権力が分割、地方議会・地方政府の設置、国軍の世代交代
新政治体制出典:アジア経済研究所 夏季セミナー資料、2011年8月
国軍
れn知事
州政府
連邦議会
人民代表院民選議員 軍人議員
民族代表院軍人議員 民選議員
大統領
副大統領 副大統領 副大統領
任命
国防・内務・国境大臣任命
副大統領2
連邦政府
副大統領から連邦議会で選出
その他大臣
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ミャンマーの高い開発ニーズ
(1)ミャンマー連邦の国家としての統一と平和と安定の達成
◼ 政治的安定と他民族国家の統一: 異なった文化、宗教を持った少数民族の自治要求を受け入れた和解が必要:これに不満足な20の反乱軍と.ラカイン州のロヒンギャ―
(2) 都市と地方の格差のない社会の構築(RegionとState)
◼ 有望な地方の地場産業の開発(含エコツーリズム)
◼ 都市と地方をつなぐインフラの整備
(道路、鉄道、通信、電力等)
City Mart (super-market) in Yangon
Market in Local Townshipミャンマーの高い開発ニーズ
(3)環境と調和した開発の推進
◼ 環境を破壊せず調和した投資
(天然資源の開発とエコツーリズム)
◼ 人材の養成
(政府行政官、企業家、エンジニア、教師、 研究者、
医師、看護士等 )
◼ 投資を誘導し市場を開放するための制度的改革
(FDI法、会社法、私有財産を保証するための法律と規則の
制定 etc.)
◼ 近代的な技術の導入
(農業、工業、IT技術、知的財産権の法律等)
ミャンマーの実質GDP成長率の推移(出所:JETRO)
(悪路の中、20フィートコンテナー車が通過)
(タイ側国境)
(%)
スーチー政権発足
SEZ法施行(2014年1月)
ミャンマー大洪水
米国経済制裁の全面解除
(2016年10月)
(出所)IMF
(年)
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外国直接投資認可件数の推移(出所:JETRO)
(悪路の中、20フィートコンテナー車が通過)
(タイ側国境)
(件)
(年度)
【2017年度の業種別認可件数】
(注)・本統計は、ティラワSEZへの投資やMIC認可の必要ない投資は含まれておらず、ミャンマーへの外国投資全体を表したものではない。・2015年度は4月~翌年2月期まで数字となっている。
(出所)Directorate of Investment and Company Administration (DICA)
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15 16
17 18
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ミャンマー日本商工会議所(JCCM)会員数の推移(出所:JETRO)
(年度末)
(機関数)
(注)運輸部会は2014年度に新設(53社)
7.2倍増
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ミャンマーのエコツーリズムのポテンシャルSDGs: No. 11, 13, 14, 15
◼ BS: Bird Sanctuary (鳥類保護区):5
◼ NP: National Park (国立公園):3
◼ PA: Protected Area (保護地区):3
◼ WBS: Wetland Bird Sanctuary(湿地鳥類保護区):1
◼ WP: Wildlife Park (野生動物公園):1
◼ WS: Wildlife Sanctuary (野生動物保護区):17
◼ RG: Elephant Range (象放牧地):1
Eco-tourism
potential sites
出所:Myanmar Potentials
in Eco-Tourism
Aung Din, Chairman,
The Nature Lovers Group
Culture of Myanmar Ethnic people
NLDの政策マニフェスト出所:工藤年博
1.少数民族問題と国内和平の実現
2.全民族が安全に平和に手をつないで生活でき
る保障を与える憲法の創出
3.国民に公正・平等に保護を与えられる行政シス
テムを構築(司法制度、国防・安全保障、外交)
4.自由で安全に発展するようNLDは率先して実施
(経済、農民、畜産、水産、労働者問題、教育、
保健、エネルギー、環境保全、女性、若者、
通信、都市開発)
少数民族との和解促進の現状
国レベルの停戦協定: 8 groups
二者間の停戦協定 :
7 groups
停戦協定未署名:
5 groups
Source : Myanmar
Times October 16,
2015
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21 22
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少数民族とビルマ族との紛争の根本原因
◼ “Divide and Rule Policy”:植民地政府の「分割統治」政策
社会・経済構造 (“communalism”による強化)
⚫上流階層: British
⚫中間階層: Indian/Chinese (Manager, land owner/
money lender)
⚫下層: Minority ethnic people
⚫最下層: Burmese farmers/labourers
軍・警察・行政組織
⚫ 上級将校: British
⚫ 下士官クラス: Indian/Chinese
⚫ 兵隊: Indian (Punjab) + Karen, Kachin, Chin people (Christians)
ラカイン州における民族紛争問題の根本原因
◼ アラカン王国の時代、領土はチッタゴンの辺りまで及んでいた。このためモスレムと仏教徒は平和的に共存していた。
◼ イギリスの植民地時代になると、数十万人のインド人やベンガル人、中国人がビルマに連れてこられて、労働者、商人、金貸し、行政官、兵隊として働くようになった。
◼ 植民地政府の農業政策や金貸しによって、多くのラカイン族が土地を失った。
◼ 1930年代になって、モスレムの本が仏教を中傷する記述を
載せたため、若い仏教徒が怒って、モスレムとの間で紛争
が起こるようになった。
ラカイン州におけるロヒンギャ―問題
(1)第二次世界大戦中 (1942年の悲劇)
◼英軍はロヒンギャ(ベンガル人)に武器弾薬を与えて日本軍と戦うように支援したが、彼らはラカイン人を襲撃して殺した。
◼他方、日本軍はラカイン人に武器弾薬を 与えて英軍と戦うように仕向けたが、ロヒンギャ―(ベンガル人)部隊と戦闘した結果、約20,000人のラカイン人が殺害されたと言われている。
ラカイン州におけるロヒンギャ―問題
(2) 1948年の独立以後
◼ ベンガル人は自らを「ロヒンギャ―」 “Rohingya”少数民族であると言い始め、ラカイン州のマウンド―、ブチダウ
ン地域の自治を要求したが、連邦政府も州政府もこれを認めなかった。
◼ 1954-55 のチッタゴン地区の大洪水のため、数十万人のベンガル人が北部ラカイン州に逃げ込んできた。
◼ 1972年、バングラデッシュ独立戦争の時に、戦火を逃れ
て、数十万人のベンガル人が北部ラカイン州に逃げ込んできた。
ラカイン州におけるロヒンギャ―問題
◼ ミャンマー政府(当時はビルマ社会主義共和国)は1978年にベンガルからの不法移民をバングラデッシュに強制的に送り返したが、非人道的であるとの理由で、UNHCRが仲介してミャンマーに戻ってきた。
◼ 1982年に国籍法が制定された。この時に、書類を持っていないため、不法移民とみなされたベンガル人はミャンマーの国籍を与えられず、無国籍者となった。
ロヒンギャー多数居住地域
ラカイン州のロヒンギャ―居住地域
ロヒンギャ―少数居住地域
ARSA
AA
Rohingya: 1 Million
Rakhine: 2 Million
出所https://search.yahoo.co.jp/image
/search;_ylt=A2RCL5pV1fxcfyg
AnxiU3uV7?p=%E3%83を加工
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ラカイン州におけるロヒンギャ―問題
◼ 1991~1992, 1996~1997の期間に数十万人の不法移民のベンガル人が国軍によって、バングラデッシュに帰還させられた。
◼ 2012年6~7月に、仏教徒の女性がモスレムの男たちにレイプされたという事件が起こり、モスレムと仏教徒の大きな衝突事件が発生した。この結果、モスレムと仏教徒との間に大きな相互不信と緊張感が生まれた。
◼ これを機に、アラカン・ロヒンギャー救世軍(Arakan
Salvation Army (ARSA) )が、過激なロヒンギャーの若者によって、組織された。
Advisory Commission on Rakhine State の設置(chaired by late Mr. Kofi Annan)
◼ 国家顧問 Daw Aung San Suu Kyi は、ラカイン州のモス
レムと仏教徒の衝突問題を解決するために、元国連事務総長の Mr. Kofi Annanを議長とする助言委員会を設置した(2016年9月)。
◼ ASSK は国際社会から、問題解決に努力していないと、非難されている。
◼ 他方、仏教徒の大多数は国軍の作戦を支持し、「不法移民のベンガル人がバングラデッシュに帰った」ことを良いことだと考えている。何故なら、ベンガル人はミャンマーの法律を遵守しないから。
例: 十代での早婚; 4人の妻と家族を持つ;結婚したパー
トナーにイスラム教徒になることを強制する等。
ラカイン州におけるロヒンギャ―問題
◼ 2016 年10月~11月に ARSAは治安部隊の国軍と国境警察、警察署の 3 箇所の基地や出先事務所を襲撃し、武器を奪いました。治安部隊はこれに直ちに反撃して、ARSAの根拠
地や訓練施設を探索、破壊しました。この掃討作戦では北部ラカイン州のベンガル人の村々が攻撃と探索を受け、住民の逮捕、尋問、放火、人権侵害等の被害が報告された。
◼ この結果66,000人の ベンガル人がバングラデッシュに逃れたとUNHCRは推定した。(政府側は30,000人と把握)
ラカイン州におけるロヒンギャ―問題
◼ 2017年8月25日、 ARSA は動員された村人と共に治安部隊の30カ所の基地、拠点、派出所を襲撃して武器弾薬を強奪した。
◼ 治安部隊は直ちに反撃し、ARSAの拠点とこれを支援している
と疑われたベンガル人の村々を対象に掃討作戦を展開した。この結果、約74万人のベンガル人がバングラデッシュに逃亡した
。ベンガル人の多くが放火で家を焼かれ、暴力行為で被害を被ったと述べている。
◼ 国連人権委員会の調査報告は多くの人権侵害や国際人道法違反があり、GenocideやEthnic Cleansingがあったと報告。
◼ 2019年1月、Arakan Army (AA)が突如、治安部隊への攻撃を開始し、国軍との戦闘は中部ラカイン州以北全体に広がった。
◼ このため、ラカイン州の治安は急速に悪化し、複雑になっている
ミャンマーの開発のデイレンマ
◼ 1st Goal: 少数民族との合意停戦によって、真の国家統一を達成し、平和と安定が継続する。
(未達成)
◼ 2nd Goal: 全ての少数民族の公平な開発を達成する。 (未達成)
◼ 3rd Goal: 成長のエンジンである民間部門、特に海外からの直接投資(FDI) による民間投資が継続的に導入される。 (やや停滞)
ミャンマーの開発のデイレンマ:ロヒンギャー難民の帰還は可能か?
◼ 国際コミュニテイーは、ミャンマー政府は、ロヒンギャ―(ベンガ
ル人)の避難民が帰還するための努力を十分行っていないと、非難している。
◼ ARSAはミャンマー政府がロヒンギャ―(ベンガル人)の避難
民に国籍と移動の自由を直ちに与えるべきであり、それらが得られなければ、帰還すべきでないと、主張し、もしも帰還を強行すればひどい目に会わせると脅している。
◼ UN 機関とIOM は、避難民の帰還後の治安の保証がないので、帰還すべきでないと言っている。
◼ ラカイン州と連邦の仏教徒の大多数は、ベンガル人は不法移民であり、国籍(市民権)を与えるべきでないと反対している。
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岸田外相が強調した日本の協力
◼ ミャンマー訪問中の岸田外相は2016年5月3日、アウン・サン・スー・チー国家顧問・外相と1時間会談した後、以下の6分野で協力を行うと記者会見で述べた。
◼雇用機会の創出
◼保健
◼教育
◼農業
◼ インフラ整備
◼財政・金融
出所:JICA
対ミャンマー経済協力方針(2) 出所:JICA 出所:JICA
ご清聴ありがとうございます!
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