グラフィックデザイナー 永井...
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FGひろば140号クリエイターズ・アイ
永井 一正氏
グラフィックデザイナー
PROFILE:1929年、大阪生まれ。1951年、東京芸術大学彫刻科中退。1960年、日本デザインセンター創立に参加。現在、同センター最高顧問。〔受賞〕亀倉雄策賞/毎日デザイン賞/毎日芸術賞/通産省デザイン功労賞/芸術選奨文部大臣賞/紫綬褒章/旭日小綬章/ワルシャワ・ブルノ・クロアチア・モスクワ・メキシコ・ヘルシンキ・スイス・香港などの国際展でグランプリ多数。〔著書〕『永井一正』(トランスアート)『生命のうた』(六耀社)など
記念すべき第一回目のゲストは、日本が世界に誇る、グラフィックデザイン界の巨匠、永井一正氏。戦後の急激な経済成長期から、「100年に一度」と言われる現在の世界不況まで、時代を超え、永井氏は半世紀以上にわたりつねに第一線で上質な作品を生み出しながら我が国のデザイン界をリードし続けてきました。その鋭く穏やかな目に、社会情勢の激変に伴うクリエイティブワークの変遷は、どのように映っているのでしょうか。デザイナーの新たな役割や、印刷への期待も含め、自由に語っていただきました。
広告が勢いづいた60年代。日本のデザイン水準を高めるためには、企業とデザイナーの組織的な結び付きが必要だった。
編集部(以下 編 ) 広告が元気な時代というと、やはり高度成長期が思い浮かびますが、当時は商品も売れ、広告にも勢いがあったのではないですか?永井 終戦直後、物資が不足していたときは、とくに宣伝をしなくても、物をつくれば売れるという時代でした。それが50年代に入ると少し落ち着いてきて、デパートなどで展示会が催されたり、それに伴う一連の制作物が必要になったりし始めたわけですね。さらに高度成長期に入ると、いろいろな企業がどんどん宣伝広告に力を入れ始めました。そんなとき、朝日新聞の経団連担当の鈴木松夫が主になり、『数多くの広告が求められているいまだからこそ、大企業と日本のトップデザイナーが組んで共にいいものをつくり上げる努力をしなければ、日本の広告水準は高まらないのではないか』と、日本デザインセンター設立の企画が持ち上がったのです。当時は、亀倉雄策が日本のデザイン界のボス的な存在で、彼に中心になってもらいたいということだったのですが、当人はすでに多くの仕事をこなしていましたから、『何でいまさら新たな組織をつくって苦労しなければならないのか』と、あまり乗り気ではなかったようです。しかし、関係者が『日本の広告の文化的なレベルを高
めていくには、どうしても必要な組織なのだ』と説得し、何とか亀倉さんの参加を得て、原弘や山城隆一が中心になり田中一光たちも参加し、1960年、トヨタ自動車やアサヒビールなど大手企業とデザイナーの共同出資で、日本デザインセンターが創設されました。編 若くして永井さんも設立に参画されたわけですが、50年近く経ったいまも、日本デザインセンターの最高顧問として、設立当初の熱い思いを後世に伝えていらっしゃいますね。永井 創立メンバーも途中で少しずつ入れ替わり、気がついたら辞めるに辞められなくなっていまして(笑)。編 実際、デザインセンターは創立直後から、企業の広告に限らず、国家的なイベントなどにも関わり、大きなデザインムーブメントを起こしていきました。永井 はい。60年代、70年代は、企業にとってもデザイン界にとっても、非常にいい時代、元気な時代だったと思います。大きなイベントが矢継ぎ早に開催され、日本全体が歩調を合わせて発展していました。まず大きなところでは、東京五輪。これは勝見勝(デザイン評論家)を中心に亀倉のシンボルマークがビジュアルのメインになりましたが、単なるロゴなどのデザインだけでなく、五輪全体のデザインポリシーを構築して展開していったんですね。いまで言えば、企業のCIやブランディングという概念です。それまでの五輪にはなかった概念を、世界に先駆けて日本のデザイナーがつくり上げたというのは、意義
デザインも印刷も、「平均化」の時代。その殻を打ち破るのは、人と人との相乗力だ。
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FGひろば140号/CREATOR'S EYE 永井一正氏 ロング・インタビュー
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のあることだったと思います。私は東京五輪に続いて1970年の大阪万博でも一部のデザインで参加し、72年開催の札幌冬季オリンピックと75年の沖縄国際海洋博ではシンボルマークをつくらせていただきました。次 と々ビッグなプロジェクトが動き、腕を振るう機会が多かったということは、デザイナーにとって、恵まれた時代だったと言えるでしょうね。編 日本のデザイナーが、世界から一目置かれるようになった、飛躍の時代でもあったのではないですか?1966年には、第一回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで、永井さんが金賞、続いて銀賞・名誉賞を獲得するという快挙を成し遂げていますね。永井 国際的な舞台で日本人デザイナーが金賞を受賞したのは初めてのことで、私以外にも、その時代には、日本の独特なデザインの感性が世界に認められ、驚きの目で見られることが多かったように思います。編 70年代に入ると、国内でもポスターブームのようなものが起こりましたが、どちらかというとCMなどと連動した、モデルや風景写真などが中心のコマーシャルポスターが主体だったのではないですか? 永井 確かに、コマーシャルポスターが多くなりましたが、海外で評価されるのはむしろグラフィカルなものでした。そうしたオリジナル性の高いデザインが世界で認められたという影響もあって、「商品を売るだけでなく文化性のあるデザインで企業価値を高めよう」という意識が、デザイナーにも大手企業にも徐々に根付いていったのではないかと思います。当時からずっと言い続けていることなんですが、デザインは、「社会性」「文化性」「経済性」の3本柱がなければ成立しない、というのが私の持論です。もちろん企業の活動そのものにも、同じことが言えますね。70年代、大量消費がいいことだと勢いづいていた時代の真っ直中にあっても、私はつねに「売ることよりも、社会における企業の在り方が重要なのだ」と、一貫して主張していました。
いまデザイナーに求められるのは、デザインや造形力だけでなく、企業の考え方を深く理解し形にする力
編 「売るだけでなく、企業の価値を高める」という意識は、80年代のCIブームへとつながっていったのではありませんか?永井 そうですね。CIは、まさに「企業のブランディング」に通じます。CIを展開するには、当然デザイナーも、商品知識だけでなく、企業の考えを深く理解してデザイン提案をしていかなければなりません。私も日本デザインセンター立ち上げ当初は大企業の商品広告を手がけていましたが、「社会性・文化性・経済性」を重んじる気持ちから、CIや文化活動のポスターなどをメインにするようになり、直接的な商品広告からは徐々に手を引いていきました。編 CIの成功事例として鮮烈だったのは、アサヒビールですね。あれだけ企業イメージがガラリと変わるとは、誰よりも社員自身がびっくりしたのではないですか?永井 もちろん、デザインの力だけではありません。肝心の商品そのものに力がなければダメです。デザインによるイメージの刷新と商品開発力の向上、この2つが両輪にならなければ、本当の企業変革は実現しません。ただ、アサヒビールの場合、会社のロゴマークが一新されるのと同時にスーパードライが生まれ、明らかに社員の意識も一新し、それがさらに素晴らしい商品づくりにつながり、いい商品だから売れゆきがよくなり、社員のやる気が高まって、もっといい商品が生まれる、そんな理想的な循環が生まれたのは確かです。それまで10%を切りそうだったシェアが、CI導入後、一気に跳ね上がったのですから、私も嬉しかったですね。デザインには「企業の変革を促す大きな力」があるのだということを、あらためて確信しました。編 その当時とは比べものにならないほど、現在は、歴史的な大不況の中で各企業が非常に厳しい状況にあるわけですが、デザイナーの役割はどのように変化しているのでしょうか。
札幌冬季オリンピックオフィシャルマーク
1971
アサヒビール株式会社1986
三菱UFJフィナンシャルグループ2005
東京電力1988
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永井 CIが注目され、「企業の価値」が見直されつつあったとは言え、80年代・90年代は、やはりまだまだ「規模や売上」などの数字で企業の価値が判断される傾向はありました。しかし、いまは世界的な大企業であるGMでさえも、この先どうなるかわからないような時代です。そんな中で人々が注目するのは、規模が大きいとか商品が売れているとかよりも、どんなことにどのような考え方で取り組んでいるのか、「企業の活動内容」なのです。だから企業側も、売上やシェアだけに執着しない方がいい。企業は、物を売るだけで永遠に存続していけるわけではありません。大衆に貢献し受け入れられることによって、自らのポジショニングが決まり、存続への土台ができ上がっていく。大衆への貢献というのは、先程も言った社会性であったり文化性であったりするわけですね。いまなら、環境問題などは、間違いなく企業にとっての最優先課題の一つでしょう。そうした取り組みについて企業がどう考えているのかを広告に展開する上で、何をどう表現したら効果的なのか、デザイナーには、企業の考えをより的確に把握する能力が求められていると思います。昔は作家中心主義が根強くあったのですが、いまもなくなったわけではありませんけれど、最近はニーズが非常に多様化しているため、デザイナーも、マーケッターなどと共同で、商品の企画段階から“企業のブランディング”を進めていかなければなりません。デザイン能力や造形力だけでなく、経済・社会そして企業全体を見通す幅広い視点、深い理解力が要求されているということです。
デザイナーと印刷会社は、浮世絵の絵師と摺り師の関係。互いの技術や感性の相乗で、能力の限界を超えられる。
編 現在では印刷業界でも「クライアントの意図を理解した提案」が強く求められてきているのですが、制作の最前線にいるデザイナーにとって、後工程である印刷は、どのような存在なのでしょうか。永井 それは、凄く重要な存在ですよ。絵画などと違いポスターや広告などの場合、印刷されて初めて作品になります。つまりデザインは、建築で言えば設計図のようなもの。どんなにいい設計図があっても、いい腕の工務店がいい材料を選び、図面の意図を理解してしっかりと施工してくれなければ、いい家は完成しないのです。ですから、図面も施工も含めて「建築」だとするなら、印刷も、実はデザインの一部なのではないかと思います。編 デザイナーが狙った表現意図を100%表現するのが、印刷の重要な役割ですね。永井 いや、ときには100%以上、意図以上のものを引き出してくれることもあります。デザイナーと印刷会社との関係は、昔の浮世絵で言えば、絵師がいて、版木の彫り師がいて、摺り師がいる、そんな関係じゃないかと思うんです。同じ絵師がデザインしても、彫り師や摺り師の感性や技術によって、仕上がりの作品がガラリと変わってくるんです
JAPAN 1988
SAVE1997
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ね。北斎や歌麿の肉筆画が発見されるとニュースになりますが、確かに肉筆画は稀少性は高いのだけれども、僕はやっぱり版画の方がいいと思っています。なぜかと言いますと、絵師だけでなく彫り師や摺り師たちの力が拮抗しながら集結されるからです。絵師が描いたレベルより悪くなる危険性も孕んでいますが、その分、それぞれの技量の相乗効果によって、一人の能力の限界を超えられる可能性も秘めています。絵師がデザイナーなら、彫り師や摺り師が製版や刷版にあたるでしょう。編 具体的に、製版・印刷会社は、どのような方法で、彫り師や摺り師のような相乗的な力を発揮できるのでしょうか。永井 たとえば私の場合、自分の意図する色を印刷で再現してもらうのに、随分と苦労した経験があります。しかし、ある時期から、いわゆるプリンティングディレクターが登場し、彼と密接に打ち合わせをするようになって、自分の意図がうまく伝わるようになりました。そして何度も仕事をしていくうちに、彼が、私の狙う色調の傾向などを深く理解してくれるようになり、あえて言葉で説明しなくても、デザインの意図が印刷物に反映されるようになってきたんですね。「これは永井のデザインだから、この絵柄のこのへんのスミは2度刷りでいこう」とか、「2度刷りするなら最初にグレー、次にスミをこれぐらの濃度でのせていこう」とか、インキを少し厚めに盛ったり、逆に、デザインによってはわざと弱めに抑えたり、そうした微妙な指示を的確に、現場に出してくれるわけです。その理解度が勝負になります。プリンティングディレクターが、いかにデザイン意図を理解してくれるか。現場のオペレーターが、いかにその指示の内容
を理解してくれるか。それによって、印刷の仕上がりはまったく変わってきます。いい方向にも、悪い方向にも。絵師や摺り師の共同作業と同じことですね。編 そうした相乗効果は、高度にデジタル化された現在でも発揮され得るものなのでしょうか。デザイナーはMacを駆使し、製版・印刷現場でも先進のシステム機器がフル稼働する状況において、人と人との感性を相乗させることが難しくなってきているようにも見えますが。永井 確かに現在はコンピュータの力で、たいていのことはできてしまいます。手作業が主体だった昔は、とんでもなく稚拙なデザインもあったけれど、飛び抜けて美しいデザインも多かった。いまはデジタル技術によって平均化され、誰にでもある程度のものがつくれてしまうかわりに、心を打つデザインは明らかに減っていると感じます。それは印刷物にも言えるのではないでしょうか。さまざまなシステムのおかげで、あまりにひどい仕上がりがなくなった分、目を見張るような印刷物も少なくなったという印象があります。これはデザインワークに限ったことではありませんが、コンピュータに頼りすぎていると、人間の能力はどんどん低下していきますね。人間の脳と手は直結しているので、道具が不自由なほど、頭はよく働きます。思い通りにならないと、集中力が一気に高まりますから。集中力が高まるということは、つまり、創造力が高まるということ。コンピュータでの作業があたりまえになったと言ったって、人類の長い歴史を1日に置き換えれば、まだ、何秒にも満たないのではないですか。人間とは元々、不便な方が創造力が高まるようにつくられているのです。
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新たなる創造は、自己破壊から起こるもの。同じ次元で同じことを繰り返していると、やがて自己模倣に陥ってしまう。
編 しかしいまさら、不便な状況をつくり出してデザインワークをこなすのは難しいのではないでしょうか。永井 意識の問題ですね。コンピュータによって、心を打つ作品が生まれにくくなっているという現状の中、そうした殻を打ち破って新しい美的価値を創造しようという志を、クリエイターが持てるかどうかということです。量は少なくてもいいから、そうした美的価値の高い作品を世の中に残し続けていくことで、全体のデザイン水準は上がっていきます。すべてのクリエイターに要求はしませんが、志ある者は、そういう努力をしてほしいですし、しなければいけないと思います。それは印刷物にも言えるかもしれません。受注したすべての仕事で飛び抜けた品質を追求するのは難しいでしょうが、たとえ一部分でも、志を高く持って最高の水準を達成していけば、それが刺激になって、やがて全体のレベルも高まっていくのではないでしょうか。編 デジタル作業の便利さに馴れてしまい意識が鈍ってしまえば、平均化の中に埋もれてしまうということですね。永井 同じ意識で同じことを繰り返していては、本当の創造にはつながりません。ある意味で「自己破壊」を起こして初めて次の創造が起きるのです。職人さんは、同じ技術を徹底的に磨き続けることで技の練達ということもあるのでしょうが、クリエイティブというのは、同じことを繰り返していると自己模倣に陥っていくんですね。私も、ある時期突然、それまでの抽象的な幾何学パターンから具象的な方向に転換したことがありました。周囲が驚きましてね。世界的にもいちおう「抽象の永井」で通っていましたから、いきなり具象に転じたら「前はよかった」などと言われかねません。しかし、意識を変えて新たな創造を起こすためには、過去にとどまっていてはいけないのです。
編 永井さんの場合、「幾何学」から「動物」へという形で、「抽象」から「具象」へ、大胆に転換されたわけですが、それにしてもいきなり「動物」とは、周囲が驚いたのも無理はないと思います。しかし、形があるなしは関係なく、どちらにも東洋的な宇宙観・生命観のようなものが通底しているように感じるのですが。永井 それはあるかもしれませんね。初期の頃は、幾何学的構成によって、大げさに言うと、完全に抽象化された宇宙の摂理を表現したかったのです。人間の外の世界から宇宙的なものを問うてきたわけなんですが、よくよく考えてみれば、一人ひとりの人間の中へどんどん入り込んでいくと、一人ひとりが宇宙を持っているんじゃないか。それぞれが違う個性の宇宙を抱えているんだけれども、もっと掘り下げていけば、井戸が地下水に辿り着くように、人類共通、もっと言えば生き物共通の地下水、それは命というものの成り立ちのような水脈、そんなものに突き当たるんだろう。その生き物共通の地下水を汲み上げてデザインしていきたいということで、自分がまったく描いてこなかった「生物」に挑戦してみようと考えたわけです。「共生」とか「命の大切さ」を、動物や植物に代わって自分が発言していこうと、これまでずっと手がけてきたのが『ライフ』というシリーズです。編 もちろん、他にも企業CIや広告、ポスターなどを多彩にこなしながらのライフワークであるわけですが、同じ動物を描いても、なぜか年ごとに印象が変わっていますよね。永井 モチーフが同じ動物であっても、そのとらえ方は、私自身の中で刻 と々変化しています。最近では、『生命のうた』と題して、あり得ないが、あり得るかもしれないような不思議な世界観を、あえて銅版画で表現しているのですが、エッチングなので、若い頃以上に体力を使います(笑)。450年前に発明されてからいまも変わらない、すごく手間がかかる手法なんですが、コンピュータの便利さとは対極にあり、1カ月に1枚とか2枚、ようやく完成したときの喜びはひとしおですね。編 「道具が不便なほど創造力が働く」という話がありましたが、まさにそれを実践なさっているわけですね(笑)。
LIFE1999
LIFE2002
LIFE2007
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一人ひとりの意識が変われば、企業は生まれ変わる。そのためには自分の仕事に誇りを持ち、高い志を持つこと。
編 さて、真の創造は自己破壊にあり、デジタル化による平均化を打ち破るには、意識を変えていかなければならないということはわかりました。しかし、デザイナーとは違い製版や印刷のオペレーションには、職人的な部分もあり、クリエイティブの要素もあり、意識の変革が難しい面もあるかと思います。永井 意識を変革するには、どんな仕事であれ、自分の仕事に誇りを持つことですね。先程もお話ししたアサヒビールのCIで、私が一番驚いたのは、ロゴマークが変わり一人ひとりが誇りを持って仕事をし始めると、どんどん全体の意識が変わっていったということです。製造も販売も、それまでと同じ社員なのに、仕事に誇りを持って志が高まると、まるで別人のようになる。一人ずつの意識が変わると、会社全体が別の企業のように生まれ変わっていくのです。編 意識の持ち方ということで、レンガ職人の譬え話を思い出しました。レンガを積んでいた3人の職人に、通行人が「何をしているのか」と質問をすると、一人目は「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるのだ」と答えます。二人目は「1時間10ドルで働いているのさ」と返事をしました。永井 一人目の職人よりは、目的意識がありますね。編 そして3人目は、目を輝かせて「はい。天下の大聖堂をつくっているんですよ」と答えたのだと。永井 それが仕事に対する誇りなんですよ。何だかよくわからずレンガを積んでいるのか、自分が大聖堂づくりに参加しているという意識を持っているかで、恐らくレンガの積み方も違ってくるでしょうね。人間がやることだから、変わってくるのです。印刷物の場合も、その役割の重要さを、もっと意識して
みてもいいのではないでしょうか。印刷物というのは、歴史もあり、何より文化に直結しています。町や駅に貼られているポスターや、商品カタログなどを見れば、ある程度、その国ごとの文化水準がわかるほどです。編 昔に比べ、現在は、やはりテレビやインターネットの勢いに押されて印刷物の影響が小さくなってきているということはありませんか?永井 テレビのCMやインターネット広告などに対し、量で比べたら、たとえばポスターは何万枚刷ったとしても、露出度ではまったく敵いませんよね。しかし、企業の価値がいまや規模や売上で語れないのと同じように、数に頼るだけではいけないと思います。数が多ければ多いほど、平均化されていくということ。平均化されると、記憶に残りにくくなります。CMも大量に流されれば、そのときどきには目を引きますが、よほどのインパクトがなければ、時間と共に忘れ去られてしまうのが普通です。しかし、たった1枚のポスターでも、その美しさが見る者の心に感動を与えると、その影響は、いつまでも残ります。そうした体験の積み重ねが、本人の人間形成に役立つこともあり、後々、その人の影響を別の人が受けるということもあります。たとえ少部数であっても、いいデザイン、いい印刷物には、優れたコミュニケーションの力があり、社会的・文化的・経済的に多大な影響力があります。ですから私たちデザイナーも、そんな影響力の大きさを認識し、印刷会社の皆さんが誇りを持って取り組めるようなデザインを生み出していかなければなりませんし、製版・印刷現場の人たちはデザイナーの意図を深く理解し、デザインの付加価値をさらに高めるよう、品質を追求していただきたいですね。機械ではなく人間同士が行なうことだからこそ、ときには、思いもかけない相乗効果が生まれてくるのですから。