ケネス・パークのドラマテイズム - osaka city...

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- 26 - ケネス・パークのドラマテイズム 人間行為と社会のあり方を一種のドラマの展開とみなし,それらをドラマ のメタファーにおいて捉えようとする「ドラマテイズム J (dramatism) は, 今日, シンボリック相互作用論の一つの有力な流れを形成し, 具体的現実を明 らかにするに有効なアプローチとして,多くの注目を集めていると乙ろであ る。たとえば, E. ゴ ッフマンは, i 行為者が他の人間の目の前で行為を呈示 するというドラマトゥルギカルな問題J ェイスな小状況場面( encounter など)における人間行為を,他の人間の印象 を方向づけ統制する「印象操作 J (impressionmanagement) や,個人の属性と いうよりは関係のあり方をあらわす「スティグマ J (stigma) ,また他の人間 の期待から相対的距離をおいて行動する人間の「役割距離 J (roledistance) 現象などにおいて具体的に明らかにしている (cf. Goffman 1959 1961 1963) 。また H.D. ダンカンは, i もし社会における行為がドラマ的であると するならば,われわれは社会学者として乙のドラマに関して何が社会的であ るかを考えなければならなしリとして,社会秩序に関するドラマを取りあ げ, i 舞台 J (stage) i 行為 J (act) i 社会的役割 J (social role) i 手段 J (mean) 「社会秩序 J (socia Iorder) 5 つの要素からなる 「シンボリ ックな行為 に関する社会ドラマ・モデル j を構築し,遊び,ゲーム,ハーティ,祭,儀 式,劇,儀礼などの解明をお乙なっている (c f . Du ncan 1962 1968 1969) ドラマのメタファーによる人間行為と社会の研究は,人間と社会現象の微妙 なひだに入りこみ,そ乙におけるさまざまな対立や葛藤,そしてその調和と 統一のあり万を明らかにしようとするものである( c f . Mes !:l inger et a 1 . 1962 Ze itlin 1973 Meltzer etal. 1975 Combs & Mansfield 1976 ,前間征二, 1974 ,船津衛, 1976 ,井と俊, 1977) 乙のようなドラマテイズムの源流は,古くはシェークスピアにまでさかの ぼる乙とができょうが,今日のそれは文芸批評家 K.パ、ークに求められるも のである。(そしてそれは特定の演劇を直接問題とするものではない。 cf. Fergu ( 800) .

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ケネス・パークのドラマテイズム

船 津 衛

人間行為と社会のあり方を一種のドラマの展開とみなし,それらをドラマ

のメタファーにおいて捉えようとする「ドラマテイズムJ (dramatism)は,

今日, シンボリック相互作用論の一つの有力な流れを形成し,具体的現実を明

らかにするに有効なアプローチとして,多くの注目を集めていると乙ろであ

る。たとえば, E.ゴッフマンは, i行為者が他の人間の目の前で行為を呈示

するというドラマトゥルギカルな問題J~L焦点をあて,フェイス・トゥ・フ

ェイスな小状況場面(encounterなど)における人間行為を,他の人間の印象

を方向づけ統制する「印象操作J (impression management)や,個人の属性と

いうよりは関係のあり方をあらわす 「スティグマJ (stigma),また他の人間

の期待から相対的距離をおいて行動する人間の「役割距離J (role distance)

現象などにおいて具体的に明らかにしている (cf. Goffman, 1959, 1961,

1963)。また H.D.ダンカンは, iもし社会における行為がドラマ的であると

するならば,われわれは社会学者として乙のドラマに関して何が社会的であ

るかを考えなければならなしリとして,社会秩序に関するドラマを取りあ

げ, i舞台J(stage), i行為J(act), i社会的役割J(social role), i手段J(mean),

「社会秩序J (socia I order) の 5つの要素からなる 「シンボリ ックな行為

に関する社会ドラマ・モデル jを構築し,遊び,ゲーム,ハーティ,祭,儀

式,劇,儀礼などの解明をお乙なっている (cf.Duncan, 1962, 1968, 1969)。

ドラマのメタファーによる人間行為と社会の研究は,人間と社会現象の微妙

なひだに入りこみ,そ乙におけるさまざまな対立や葛藤,そしてその調和と

統一のあり万を明らかにしようとするものである(cf. Mes!:linger, et a 1. ,

1962, Zeitlin, 1973, Meltzer, et al., 1975, Combs & Mansfield, 1976,前間征二,

1974,船津衛, 1976,井と俊, 1977)。

乙のようなドラマテイズムの源流は,古くはシェークスピアにまでさかの

ぼる乙とができょうが,今日のそれは文芸批評家K.パ、ークに求められるも

のである。(そしてそれは特定の演劇を直接問題とするものではない。 cf. Fergu・

( 800 )

.

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ケネス ・パークのドラマテイズム ー 27

|自らの

I (agent)

(pentad) およびその組合せ(:ratio)

.去作品のユニークな解明を行えまった。今日のドラマテイズムは.パークの

のを自己の出接のベースとして版関されており '.ダンカンのそれは パー

ク・モデルを社会学的タームで組みかえようとしたものであり 唖ゴッフマン

のそれは.パークのパースペクティブをミクロ状況に只体的lζ適用したもの

であるといえる

也万しかし唖パークのドラマテイズムは,あくまで人間の広つシンボル

って住まれる人間の主体性争明らかにしようとするもので

る。乙の乙とをーわれわれは見逃しては位らない。ドラマテイズムは本来人間

のシンボル主体l性の問題に深くかかわりをもつものなのである。 ドラマティ

と社会をドラマとして捉える特殊なやり方である曹というた

だそれだけのζ とであるならば,それほど自己ぞ強く主践しうるものでは丈

い向ドラマ以外のさまざまなメタファーが,.それぞれに特徴lある悦角を従俳

るであろう。しかしノ〈ークがドラマテイズム告舷携するより深い開由l

iEと人間行為の特性をシンボリックなものと考える ζ とのうちに存するので

. Bur:ke事 1968,p.448)。今日のドラマテイズムは,乙の乙とを必ずし

しているわけではない。グンカンの場合,人間の主体-fi:はほと

しろ社会秩序|中心の統合的性格をもった開論とはって』、

たゴッフマンの場合は,つまると乙ろー人間の!Jl'Jミ的社会へlの消;倒的

dの lありJjを問題比しているi乙すぎないものとなっている(<=f. Zeitlin, 1'973,

'A

'

、血-E・・

, 1976 ri.n~ton . 1977b)。

ムの本来的

で.パークの見解を全体的l乙明らかにし, ドフマアィ.ス

定していく乙とがF その主たるけ的となる

1 • 'パーク・ドラマテイズムの

ケネス ・パーク (KennethBurke) は 1897~~三ア メ リカ はぺンシルヴァニア州1

ヒッ ツパーグ,1乙fifまれ,オハイオ州立.A~ 'j"'. , コ口ンヒアλ:?を A再来後 " シ刀

コア〈'子やベニン トン ・カレッツで教鞭を とった文芸批"

しかし唖文ぷ:批評にとどまらず,析すに社会学

-E・E.-nv

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済学,物理学,数学,生物学などきわめて多方面にわたっており,かつまた

小説や詩にその手を染めてさえいる。乙乙カか〉らノて一クの思考をを?,個々別々 iに乙捉

えるのではなくし,その全体像lκ乙おいて明らカか),κ乙しようとする 「わノ¥一ク学」

(他Bur汀rk刷ω{ology)の提唱すらわお、乙つているほどである(仰Hymanへ1入, 1955,邦訳, 62

頁)。主著には 『永続と変化~ (Permanence and Change) 1935, IW文学形式の哲

学~ (The Philosophy of Lltera ry F orm) 1941, W動機の文法~ (A Grammar of

Motives) 1945, W動機のレトリック ~ (A Rhetho巾 ofMotives) 1950, ~宗教の

レトリック ~ (The Rhethoric of Religion) 1961, Wシンホリック な行為として

の言語~ (Language as Symbolic Action) 1966,などがある。乙れらの著書にお

いて,パークが首尾一貫して強調している主張は,小説や詩などの文芸作品を

人間の行為=シンボリックな行為として捉えるべきであるというととであ

る。

文芸作品を人間のシンボリックな行為として考える ζ とは,その乙とによ

って,一つに, iある場面のなかで,ある行為者によ って行なわれる行為 4 と

して,文芸作品を作者のおかれた環境や自らがかかえる個人的,社会的問題に

かかわらせて分析する乙とを可能とさせる。つまりシンボルを他ときりはな

し,単にそれのみの世界において問題とするのではなく ,ノ ン・シンボリック

なものとのかかわりにおいて考察させる乙とになる。パークは文芸作品の作

者の手紙,日記,ノート,伝記的資料などをできるかぎり利用して, r詩の

『内部』の乙とばが,詩の 『外部Jの個人的,社会的問題状況」 とどのように

結びついているのかを明らかにしようとする (Burke,1966, p.496.邦訳, 165

頁);知識社会学的把握がそ乙においてなされる ζ とになる。しかもそれは

マクロな社会状況との単純な関連づけというよりも,個々の人間の具体的状

況ときめ乙まかにかかわらせて作品を促える,というユニークな知識社会学

であるといえる。乙の点においてまず他の文芸批評家とノてークを区別させ

る。しかし乙の乙とだけの乙とであったならば,従来の知識社会学的研究と

それほど大きな差異はないといえよう。同様な ζ とを c.W. ミルズが試

みているからである (船津衛, 1976, 133 -150貝,参照)。

ノ〈ークのよ りユニークな点は,文芸作品を人間のシンボリ ック な行為とし

て促える乙とによって,さらに,シンボルをシンボル以外のものに単純に還元

してしまうのではなく ,むしろシンボルのもつ力を重視し,その相対的自立

性を強調し,その内的論理!を明らかにしてい乙うとすると乙ろに存してい

る。乙乙からノてークは, r人間関係と人間の動機に関する研究は用語の反復

( 802 ) •

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ケネス ・パークのドラマティ〆ム ー 29-

たその機能についての組織だった研究Kよ勺てなされる j とする

「分析の万法j であり 「用語の批判J一 一それがドラマテイズムであると規

定する (Burkc,1968, P. 445)。文芸作品の作者の状況や問題を一万 iζ考慮し

つつ,他えi'乙,文芸作品のJ*tのさま 5まなrn訟のあり方,その;む味するものを

分析することを通じて,その内部構成を明らかにしてい乙うとするものであ

る。パークがこのようにシンボルをシンボル以外の外的要因にかかわらせつ

つ仇,それによってすべてを説|明しつくそうとしないのは,かれが人間を 「シ

ンボル ( ~使用する ) 動物j であると考えるからである (Burke, 1966, P. 3.

~S,i1~, lOO!~ )。人間は,シンボルをもっ ζ とによって他の動物と区別され, 自

の行為を刺激i乙対する収なる反応としてや起させるような 「環境の反映

物」ではなく,刺激や状況に対し怠|味づけし,それにもとづいて自らに独自

庁行為を構成し展開できる存在である。そして人間の住むtlt界は 'n~'e rシン

ぷル化された l世界であり,そのリアリティの全体像は 「シンボル ・システ

ムの構成物 !なのである (Burke,1966, P. 5. 邦訳,101頁)。

と乙ろが,パークによると ,従来の万法は乙 lの乙とを十分に臼党していな

い。従来の災証主義的,機械論的, |自然科学的方法は,人間の行為を生物

成械と M様l乙 「運動J (rl1otion) として捉え, シンボルをそなえた人間の

行為J (action)として捉えて??ない。それは人間の特性を無視し,のみな

らずゆがめてしまうものである;'かくして,人間の特性を明らかにするため

にはシンボノレそのもの,シンボリックな行為それ自体を前接捉えるアフロー

チが必要で・ある。それがパークのいうドラマテイズムであるという乙とにな

る。ドラマテイズムは,従来のような自然科学的モデルや「刺激,反応,条件

反・射といった機械論的メタファーによって人間行為や人間関係を取扱うやり

万に対する論則的代替物 jとして挺築されたものである (Burkc,1941

PP. l05~-= 106.邦訳, 79頁)。パークによれば.人間は一般の動物や機械と奥な

り,i役割を遂行し,役割jを変更し,参加し,社会的アピールの様式を開発

する」行為者である。そして人間と人間とは.ドラマにおける争いのように競

争と共同を内包するコミュニケーションを通じて互 iとかかわりあう(cf.

Duncan, 1962. P. 11.2)。したがって人間の行為は.物理学者の取扱う「運動

位置Jという領域にあるのではなく ,r行為」と「目的」と いう領域にある

ので.rドラマ|的という言葉によって最も:lfT接的i乙論ずる ζ とができる。そ

して乙の「ドラマ i的という百築によって,シンボノレは「知識」の聞論とし

てではなく .r行為」の理論として最もよく展開しうる乙とになるのである

( 803 )

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(Burke, 1935, p, 274)。パークのドラマテイズムは,一方,c.,シンオルを決し

て閉じた体系として,その内部の解明のみですべてを理解してしまうのでは

なく,あくまでそれをシンボリソクな行為として,それを行なう人間の状況や

位置,また他者や社会のあり方とかかわらせる乙とによってはじめて十全に

理解されるとするものであり,他方にしかし,シンホルを客観的現実や社会

構造,また生物学的衝動の単なる反映や発散とみるのではなく,むしろそれ -

とは相対的に独立した独自の論理を内K有するものとして考えるものであ

る。その点において,それは単純な知識社会学とは区別され,またシンホル

の単なる内容分析とも大きく異なるユニークなものであるという ζ とができ

る。

乙れらの乙とを具体的に考察するために,パークは1941年に執筆した 『文

学形式の哲学』において,まず,シンボリックな行為が展開する場である

「状況J (situa tion) を問題とする。状況とは「現実的J (real) な状況である

(Burke, 1941, p,l,邦訳, 11頁)。 ζのような状況に関して, しかし,人間は

ただ単にそれに位置づけられ,固定され,それによって規定されるのではな

しそれに対して主体的にかかわるのである。パークはそ ζK状況を包囲す

るための「戦略J (strategy)があるという。乙の戦略を通じて人聞は自己を

状況に関連づける乙とになる。戦略は 「状況を評定し,その構造と主要な構

成要素に名前を与え,状況に対する態度を含んだ形で命名を行なう 」

(Burke, 1941, p,l.邦訳, 11頁)のである。乙 ζにおいて人聞は状況に対し規

定と選択をお乙なう。し、わば状況を主体的に切りとるのである。その ζ とによ

って人聞は,客観的現実とは相対的に独 Ù~な論理にもとづいてリアリティを

構成する ζ とができる。その構成されたもの (シンボル :文学,詩など)を通

じて,人聞は現実的状況に間接的にかかわる ζ とになる。そして乙のリアリ

ティ構成は,現実的状況のストレートな反映によってなされるのではなく,人

間主体の意図や解釈が強く含まれた形においてなされる ζ とを意味する。

乙のような状況と戦略との区別分けによって,パークは人間のシンボル世

界を浮き彫りにしようとしたといえる。そしてこの考えは1945年の著書『動機

の文法』におい守合系的に展開され,シンボル構造の構成要素の明示となっ

てあらわれている。すなわち,パークのシンボル分析に関するドラマテイズ

ムの分析枠組は,場面,行為者,行為,媒体, む目的の 5要素 1組 (pentad) と

その組合わせ (ratio)からなるものとされる。場面とは時間と場所とから成

る行為のシンボル化された状況をさし,行為者とは行為する人間をあらわ

( 804 )

.

• ‘

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ケネス・パークのドラマテイズム ー 31一

し.行為と |は行為者ーによってなされるものを怠昧する。そして媒体とは行為

の際民用いられる手段lζ,臼臼的的収とは断f}《為する硯瑚附H由由31(防iクiκ乙よれれ|ばばばば'.行為は行為者Irとよってなされ,行為者が行為するのl

司1ζおいてであり '.そして一定の場面はおいて行為するためlζ行為者l

~t~Jij しなけ :ればなら

て考えられる場合lζは常民目的をもつものでなければならないということに

る (Burke,1'968., p.446)。 ζ 乙民行為する人間の行為を, 一方IL., 一定仙

乙おける行為として位置づけるとともに.他方IC..行為者の目的とのかかわり

乙おける行為として性格づけるパースぺクティブが提示される乙と H:なる。

そしてその際.場面とは,単なる客観的現実状況をあらわすのではなく,あく

で行為する人間が主体的l乙切りとり構成した状況を窓味するものである。

面は客観的状況とは区別される。客観的状況はストレートに人聞に結びつ

くのではなく.シンボルを閥にはさんで人聞にかかわる ζ とになる。そうする

ζ とKよって人悶の行為は単なる運動 (nlotion)の域を乙えるものとなる。

そ乙では行為は刺激i乙対する反応(;r'esponse)とイコールではな|い。それl

間iζよって主体的に情成されるもの (act:ion) となる。 Ir司様11,乙,人113は単なる

ヨ円吋象 (subjcct)であったり,観察版本 (SI光 cilllen) であったりするのでは丈

く,主体的l乙行為を展開する前鋭的仔在となる。そして蝶・体は道具.の俳

:implernentation) では江く " 目的は標的(targ目)ではないという乙と |ははる

cf.B伽u川1

シンボルの内部梢造を砂明jらカか)H:ζ し'客観的現尖の単なる

映ではない,創造としてのシンボルの内的構成原聞を浮き彫りにしていと

うとするのである。...

.-

1 ] パークはれら社会学者と名のった乙とはー-,立もないが, 1-1:会F321ζ傑く通じ ノ

ク,ワース,リンド夫35,マンハイム,バーソンズらにしばしばパ及し,ときに

. 1. S. l'ζ 寄稿し , また lnternationa:1Encydopedia of (he Social

(1'968)において F 社会的相互作JHJの項目i乙"パーソンズ,ブラウ .ベールス

らとともに執事 |している。もちろんパークの担l~は I ドラマテイズム J である。

そしてハイマンによれば,rパークの分析はすべて社会学的次元をもっ傾向かめ

る ( .I~ynlan, 1955,邦訳,165-- 66:r~)のである '0

(2) 乙のようは尖2iE32鐙批判は量1920年代のミード,1930年代のパーソンズの主振と

( 805 )

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軌をーにするとともに, パークがテクノ ロジーの異常な発達をもたらす科学のあ

り方に早くも疑問を感じた乙とのあらわれであるともいえる (cf. Burke, 1968,

P. 451. )

(3) それは決して個人的なものではない。「状況か個人から個人へ, 一つの歴史上の

時期から他の時期へと重複する限りにおいて,戦略は普遍的な適切さをもらう

るJ (Burke, 1941, P. 1. 邦訳,11貰)のである。

(4) 乙の場合の 「動機」とは,シンボリックな行為の中心的構成要因を意味し,人か

なぜそのような行為をするのかを示すものである。それは行為の 「説明」要因で

もある。そして 「文法」とは,乙のような動機がし、かなる原理によって形づくられ

ているのかを示し,行為の 「説明」原理となるものであ る。「文法」は乙とばの

構成方法ではな く,シンボルの構造全体の構成原理をあらわすものである (cf.

Burke, 1945, PP. xv-xxiii, Zollschan & Overington, 1975, PP. 278-282,

Overington, 1977a, P. 134. )。

2. iシンボル構造」の分析

乙のようなシンボル内部の構成原理について,パークはそれを詩や神話ま

たヒ ットラーの 『わが闘争』などの分析を通して明らかにしようとする。乙

乙では詩の構造の分析を考察してみよう。ノてークにおいて,詩とは批評的あ

るいは想像的色合いをも ったものすべてをさす。そして,言語を行為の一様式

として考察する乙とは,それを詩という見地から考察する ζ とを意味し,詩

は詩を作 った詩人の シンボリック な行為であり (Burke,1945, p.447),また

人ほみな詩人であると考えられる。しかも詩は,部分でもって全体を表現す

る提喰 (s ynecdoche )から成るものとされる。詩の中の一つ一つの用語に含ま

れる内容はより広い範閣の事象にもあてはまる乙とであり,詩には詩人の動

機が表現されているのである。そして さらに詩は, i状況を包囲するために種

々の戦略を採用するものJ (Burke, 1941, P. 1,邦訳,11頁)であり,単なる

客観的現実状況の反映にとどまるものではなく,詩自体のもつ論理によって

とりわけ構成さ れているものである。 詩はその内部にコンフリクト状況を生

みだし,そのコンフリクトをめぐって展開がなされ,やがてその超克によっ

て新たなものに到達するという内容をもつものとして,シ ンボルの中で最も

シンボル性をそなえたものである。

( 806 ) •

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ケネス ・パーク lのドラマテイズム ー 33-

ζ のように考えるパークは,詩の構造の分析を,まず詩のJ~:tにおける用語の

吋(叩ation)から行なう。詩の中l乙散在する智Fイメージを手l乙入れ,何

と何とが!同等か,という等式関係を明らかにする。次lいで詩の始めと終り ,そ

して 「物語 |りの急転のきっかけとなった事件」)(im凶 yor revcrsal)に着目

して.何から何を経て{司氏発展するか,という展開のあり方 (developJnent)

を明らかにする 。「文学は進行の形式をとるものだから,等記号の問題はい

つでも安印記ザの問題となるJ (Burke, 1941, ]p. 75. 邦訳, 61頁)のである。

してそ乙民一つの構造が浮き彫りにされる。それは,多くの場合,詩人の

かれのおかれた状況s かれの個人的,社会的問題と深くかかわりをも

っている 。たとえば.パークによれば.イギリス ・ロマン派の詩人コールリ

ッジ (Coler:idge,S.τ., 177.2~1834) 1の作品のなかには,かれのかかえる美学

的問題,結婚問題,政治問誌:)麻薬Fi3j11の問題,形而ーと学的問題などがもち

こまれ.E3331乙よって表現されている。その作品 『エオリアの怪琴Jl(ζおい

ては,個人と宇宙との悶の完全な交わり 1('乙ついてのかれの考えの中氏示され

ている主観 ・客観の融合.プレイするものとプレイする乙ととプレイされる

のとの統合などの美学的問題が表現されている。すなわち,

, Iまくらの内H:"そして外Kひそむ一つなる生命ブJl;;t,

守のなかの光,光のなかの官

うらゆる思考のなかのリズム l,iiijく満ちる高びとなる

• • • • • • • • • •

そして,もし145ある |自然のすべてカ

いろいろな形K作られた有機的な竪琴であって,

の上を形成力のある膨大な知性のそよ風カ ,

のおのの塊であり ,すべてlの神である風が,

吹主 lわたるときに思考錠仰を炎でるのだとしたら,どうだろう

た失敗におわったかれlの結婚生活が,そ乙において謝罪の乙とばとえιつ

であらわれている。

だが,おお愛する!J:.土.ノ

じめな眠|は,おだやかなとがめの視線を投げかけ る

iはぼく lのほんやりした,~4t塑ならさ'る思想を大 I~ ,乙みてく れて,

fこfご, う,命ずるのだ。

リスト家政の柔和なる娘土.ノ

( 807 )

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よくぞ言ってくれました。乙の罪深い心の

迷妄を清らにもたしなめてくれました (以上森常治訳)

そしてかれの不朽の名作 『老水夫行~ 'eは,最初と最後の部分'e,結婚に

背をむけるコ ールリッ ジの姿がみごとに投影されている。

畑る目をもて彼はとらへぬ。 婚涯の客しづかに立ちて

三歳児のととく耳を傾く。 水夫は望みをかなへたるなり。

. . . . . . . . . . . . . . .

いやたのし,披露の宴よりも, うるはし く善き伴侶とうちつれ,

ともども教会に行く乙とは, われにとり遥かにたのし。(以上斉藤 勇訳)

そして乙の 『老水夫行』全体が,かれの麻薬常用をつぐなう儀式となってい

るのである。またかれの未完成の詩 『クリスタ ベル』では,麻薬の良性作用

と悪性作用が主人公たちの役割の変化のうちに明確にあらわれている。

乙女あはれ/意識うすれ, かのもののほカイ可ものも見ず.ノ

たばかりもなく罪なき乙女が いかなればかは吾れ知らねども,

いと恐ろしくもかの目なざしに, かの蛇の細き自に

ま乙とに深く酔ひしれしかば なべての面貌みな失せ果てて

かの映像のみ心に残り 思はず知らず真似にしは

かの鈍くして不信なる憎悪願書、のまなざしなりき.ノ

されば斯くて姫は立ちけり,眼舷みて我を忘れ,

無意識のうちに強ひられし感応ゆえにぜひもなく

なほも横目のかのまなざしを描くがごとく写しつつ,

父君の白の真人前にーー かの無邪気なる青い目に

あり得むかぎりの斯のまなざしにて.ノ (大和資雄訳)

信心深いクリスタ ベルは,自分が森の中で救った女,実は父の敵の娘,不

可なジェラルダインの特徴を帯びてしまうのである。

また同様にパークは,イギリス・ロマン派の最後の詩人キーツ (Keats,

1., 1795 1821 )の作品 『ギリシャ市慈のうたJのなかに,かれの健康問題

(肺結核)が, 19世紀ロマン主義とのかかわりにおいて持ち込まれていると考

える。パークによれば,ある特殊な肉体的な動機が,キーツにおいて符情的

な状態を拡大し,強化している。キーツの思考の強烈な活動が何であれ,か

れの身体状況である肉体の熱(pathos) が存在している。キーツが,精神や

肉体のいかなる変化を経験したにせよ,かれの病気がー樺の体質的基体とし

てあり,それによって病気のあらゆる症状が一つの共通基盤からの派生物に

( 808 ) .

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ケネス l・パークのドラマテ'イズム ー 35-

仕ってしまっているのである (Burke,1945, p.452)。

ζのよう 11じてーク は詩の知識社会学的考察をおζなう。詩人コ ールリッジ

コ主ーツの作品は,シンボリックな行為として"現t夫との主体的かかわりを

のとなっている。そ乙lζ合まれるものは,コールリッジやキーツ

自身の個人的問題であるとともに空間的F 時間的K広がりをも った社会的問

題でもある。詩は現実の反映であり ,詩人の想いや悩みがそ乙 l'乙乙められて

るものなのである 。

:註

(1 ) 神話の分析1I乙ついては, Burke, 196札仰.380-409.l乙おいて

争」の分析l乙ついては, Burke! 1941, PP,.191-:220. (邦訳,205

Tこ(Fわか

におい

てなされている。乙れl乙ついては,山口日↓!JJ,1975, 17--50U,および1974,.7

110貞lζおいて検討されている。

(2) パーク Kよれば詩iζは3つの lものが合まれる。 1つは f夢j (drearn)であり ,

2つは ;析り j (pray町)

であり ,ζれは詩の伝達的機能をあ らわす,0 3 つは f チャート ~ (,charl)で

九状況を現実的lζ 測りとるものである (Bu:rke"1 '941 'J PP. 5~~6. 邦訳 .. 14

3幻) i,ι

コJ:れれわれのf仔3F5在の片ヰ中:1J心心的価!悩t白iiにζたいへん近いものだという主図が'パークの

ののすべてを買いているoJ(Hy:rnan, 1955,邦訳,100民

とは'.パークによれば..r部分で全体をl・全体で部分を,特器-で内容ゐ

コす出取|的表現法 jである。そし

的なもの .t,ごとパークは符える (Burk

1941.pp.25-26. 邦訳, 281'l > 。 そして,パークは~.喰を 「 取なる諮の技法とし

てではなく . 思考のJj法iζ拡大解釈~ (tf18J忠介, 1973" iP. 6'9)しているので

る。

代在式関係lLFf12121それ臼{本の客観的.f'fli立j-i乙よって明らかにされている制圧関L

ることによって帰納的に fq乙人れられる j ものである (Burke,194.1,

p.70. 邦訳, 58!-!) '0

) たとえば,起1:式,分水鎖的瞬間,特別式など (Burke,1941, p.71.邦訳"5

ム,。(7) 的問題郷をつくろうと夢みp またそのための

( 809 )

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結婚もしたが,計画は失敗し,結婚生活もかれの麻薬常用のためうまくゆかなか

っfニ。

3 .シンボルの内的論理 『弁証法』

ノてークにおいて,詩人の現実的問題とのかかわりにおいて 「詩の構造」の分

析がなされる。しかし,かれの分析は乙乙で止まるものではない。かれはさ

らに,詩そのものの内的論理を克明に追求していく乙とに力をそそぐ。かれに

よれば,詩の中にはさまざまな対立や矛盾が含まれている。それは単に現実の

反映されたものというよりも,シンボルのもつ否定の原理によって生みださ

れたものである。シンボルをもっ乙とによって人聞は否定形の発明者とな

る。シンボ、ルには自然界に存在しない否定形をあらわす能力がそなわってい

る。「否定形はシンボル・システムのみがもちうる機能である J (Burke,

1966, p.9.邦訳, 106頁)。それによってシンボル内部に,たとえば,自由に

対する不自由,平等に対する不平等,秩序に対する無秩序,美に対する醜,

平和K対する戦争などのように,ある一定のものに対する反対物を生みだす

ζ とができる。シンボルの構造全体としては,そ ζiζ対立や矛盾の存するも

のを同時に内包する乙とになる。そして乙れらの対立物はその理想状態にし

たがってならべられ,ヒェラルヒーを形づくる。しかし, ζ のヒェラルヒー

はその内部において対立や矛盾を含むと乙ろから,その統合や秩序化が不可

避となる。そしてひとたび秩序が確立すると,それに反したり,またそれか

ら逸脱したものには統制が加えられる。統制は秩序維持のために必要不可欠

な処置である。パークはこれを,シンボルのもつ完全性(perfection )を求める

特性 (エンテレヒー)によって生ずる 「スケーフ0 ・ゴート 」現象であると表

現している (山口昌男, 1974, 78-110頁,参照)。

他方,しかし, ζの対立や矛盾はいつまでもそのままに放置されるわけで

はない。そのままであるならば,シンボル自体の分裂や解体が生じてしま

わしたがって対立や矛盾は克服されふシンボルは反対物を統合し,矛盾

を超克する論理を有しているのである。パークは乙れを「弁証法J (dialec-

tic) と呼ぶ。弁証法とは,ノてークの場合,シンボルの内に存する相矛盾する

論理を止揚し,それを超えた新たな論理を生みだすシンボルの作用をあらわ

すものである。 ζの弁証法によって新しい統一が成しとげられる。乙の統一

( 810 ) •

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ケネス ・パークのドラマテイズム ー 37-

は以前のものとは全く異なるものである。少なくともそれは現実的状況が単

ζ匝映されたものではない。むしろその現実的状況を新た位地平において解

し,ふくらまし変容させたものを意味する。それはし、わぱ 「創造

的反映」とでも呼ばれるべきものである。パークは ζのようなシンボルの•

り万を解明する万法がドラマテイズムであるとする。パークのドラマテイズ

ムけ rのように,対立の発生,その克服への努)J,そして新たな展開という

シンボルの弁証法を明らかiζする乙とを内容的には意味するのである(cf.

Bu:rkc, 1'941! PP. 107--109.邦訳lt 79 . 81fl)。

シンボルi乙は.たとえば科学シンボル民おける慨念化と抽象化.そ

して普泌化lの作用が存するというような指簡がなされてきたが.パーク |の ,.-

うな形での複雑な論理ーを詳細に解明したものはほとんど仔在|しないと lいって

いであろう。シンボルlの内的論聞は乙れによってかなり到!解口J能なものと

仕ろう。かくして,乙乙lζシンボルのもつ相対的に独立な間有の論珂が捉え

られるならば,シンボルをもっ動物としてlの人閲は,したがって,現実的rの単なる反応物として考えられる乙とがゆるされなくなる。人間は,現に.

的状況のシンボル化を通じて,現実的状況を新たl乙構成しうる積極的でヨミ

的な存在である,というイ

ような人悶のイメ -:'/,t

ーンが前凶j'C:登場して乙t,.e(

自然科学的万法ではなく ,

ロ一子氏よってのみ具体的に確定 うるのである。

i乙

庁 lい。乙の

ドラマ的アフ

そしてパークは,乙のような 「弁説法 ;からなるシンボルの内的論型の解明

を , かれ自身実際にお乙ない曹 コールリッジやキーツの詩の分析を具体的に~・

行|している。乙乙では1'941年の蒋出 『文学形式の哲学Jにおいて IJ1 .t心的"r.~

扱われてじるコールリ :J:,/1の詩 「老水夫行』の 「詩の情造 :をみてみる乙と

i乙しよう

7 ail 625 行の民|謡調の詩篇である 『名水夫行~ Iは,老水夫が師寺本しに向う'れ

を強引に呼ぴとめて自分の過よaのi;=if来引を語りきかすーとlいう形式で占かれ

ている。水犬lの船は"i歓呼のうちに船iiiして !まも往く凪はおそわれ,術

振近くにまで流されてしまt、,そ乙で乗組此たちはl訴と認と氷になやまされ

る。その時

i乙ー羽のlあはうど りん,

リスト{J名・の魂 (たま)なる如く , ~~名 (みf

ーると向。の周りの泣くは砕け た南風が吹いて船l

( 811 )

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た。と乙ろが,その老水夫がし、うには, r一t(よく)をもてわれ鳥を射しな

り」 と。それ以後乗組員は, r銅色 (あかがねいろ)のあっき空に血のごと赤

き太陽 (ひ)Jのもと,飢えと渇きになやまされ続け,さらに得体の知れぬ

幽霊船との出会いののらに,仲間の乗組員がみな死んでしまう 。

二百iζあまる生ける人々, (吐息もうめきも聞えぎりしか)

どうと音立て,生なき魂と, 彼等倒れぬ,ひとりひとりに。

ただひとり生き残った水夫は祈る ζ ともできず,死人の自の呪いを 7日7

夜うけ続け,死中の生の苦痛をなめたのである。しかしやがて月光のもとに

あらわれた海蛇に出会う。本来いまわしいものであるそれは,水夫の自には

真に美しいものとして映った。

我等が船の影のうちには 燦然たるその粧ひぞ見ゆ。

つややかに背 く, 天鷲級 (ぴろうど)と黒く,

姥局 (とぐろ)を巻きつ,滋び廻り つ, 行く 所, 一閃,金色の炎。

本当に幸わせ多き生きものよ/どんな人でもその美し念を述べるζ とがで

きないであろう。そ乙で水夫は,その海蛇を祝福した。

愛の真清水心にあふれて, 思はずわれは彼等を祝しぬ

わが聖者われを慣れみしか, 思はずわれは彼等を祝しぬ。

そのとき水夫は祈る乙とができた。罰として首に吊るされていたあほうど

りも解きはなされて海に沈んだ。そして船は順風にのって港K帰ってきた。

そ乙で船は突然沈没したが,水夫は水先案内人に助けられ, rげにわが故郷

に足踏みしめてわれは立ちたり 」。 そしてかれは水先案内人とともに迎えて

くれた隠者に過去を餓悔する。それからというものは各地に餓悔と説教の旅

に出ている,というストーリーである。

ノてークはこの 『老水夫行』を,作品それのみにおいて分析したり,またコー

ルリッジの他の詩を参照しながら分析したり,そしてかれの手紙やノートや

記録を利用しながら分析したりする。まず乙の詩において,海蛇がいまわしい

ものから美しく祝福されるものに変わる乙とに注目する。また老水夫が太陽

のもとで罪lζ苦しみ,月の光の下で解放される乙とに着目する。そ ζでパー

クはいくつかの等置しうる用語一一太陽と神と復讐,間抜け (Ioon) と月

(moon) と宅の (silly)ノてケツなど ーーを発見する。次いで,詩の初めの部分

で結婚問題があらわれ,終りの部分で結婚よりも教会が前面'etf¥ている ζ と

を指摘する。そして,コールリッジの他の詩を参照してみると,罪,時間の太

陽,結婚問題のように等置しうる用語が存する ζ とを見い出す。たとえば

( 812 ) .

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ケネス・パークのドラマテイズム ー 39ー

行1で|は,あほうどり リスト信者の魂なる如く Jと るカ

別の詩rェオリアの竪琴」のなかでは,詩人の妥サラは 「キリスト家族におl

と呼ばれている。乙乙から,あほうどりとサラとは等位される

( Burke~ 1941, p.71.邦訳"58頁)。したがって,あほうどり殺しは結婚生活の-

HCつながる。 ζれはコールリッジ自身が経験した問題なのである。またカ

の手紙や記録を見ると,コールリッジは麻薬常用による苦しみと快楽をと

i乙味わっている。かれは麻捺常用 ζ そ, r自分の家族を残忍|にもないがしろ

乙した原因J であると述べており '!I その悪性|の作用は 「休む乙ともなくーと

ぐろを巻いたりほどいたりして|いる蛇でできた艇で,私を背後からifiいたて

るような言うに己われぬ恐怖」となってあらわれ,その良性の作用は「牒病的

で構成的な J 気持にさせるものであると持いている (cf. Burke, 1941

PP. 71ー 72.邦訳, 58=5'9rJ)。それはまさに海蛇の lありさまと等罰されるもので

lる。そして,パーク H:'よれば,梅蛇を祝福した行為は 「額面どおりの祝福

であるとともに,普通の祝福とは奥なったものとなる 合んでい

.めるJ乙とでる1 (Burke普1'941型 p.53.邦訳,45頁)0r祝福する l乙とl'

DるnJもしコールリッジの麻悲常用が乙 ζで 『祝福

t15!!王子ごとすれば.われわれは乙の U高11R214が払つ

ている悪の1

1:を十分に説明で

Burke, 1941" p.54.邦訳,46i.i)という乙とになる。

しかし,パークによれば,その ζ とによって 「再創造の決定的

ーる乙と Kなる (Burke,1941, lP. 63.邦訳,52民)。そ乙 l乙詩の

附における r--から~へ lの腿闘をみる乙とになる。海蛇を祝福する乙と

jじて呪|いがとかれる。 71<夫はもはや元の水

とができる。そして,,~告あがないつつ旅そし , 斡遍的愛を説いてまわる人間

lζ つっている。

c らば別れ台。ただ乙の

人を lも応をも,はた欧を

1|lζ告げたし

る,1 く祈る人。

大いなる,小さき,なべてのものを いと普く愛するはいと将く祈るハ。

るゆかしき神は すべてを巡りJi.愛すれば。

'.

そ乙 l乙対立物を克服する「弁証法 J が民Hf~ さ れているのである。かくし

て「名引く犬行よは,あほうど |り,その殺;!?,海蛇,その祝制などを lトピック

から始まって,その破駿,麻薬常j刊による感性の作用と良性の

["(:月1 rtこな人118の形成という形で展l

813

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ているという乙とになる。乙の詩は,一方,C,コールリッジのおかれた現実的

状況に強くかかわっているとともに,他方,C,その現実的状況とは相対的に

独立なシンボルの論理が作用して,新たなリアリティを構成するものとなっ

ているのである 。

ノてークはまた, w動機の文法~ (1945)の付録において,キーツの 『ギリ

シャ古饗のう た』についても,キーツの病気がそ乙に反映されつつも ,肉体

の熱が冷たい精神にかわっていくという詩独自の展開のあり戸を明らかにし

ている。すなわち,その詩は最初に 「見分けがたい」熱ではじまり,それが

肉体の熱と精神の熱とに分離され,前者が置き去りにされて後者にとって代

られる乙とになる。

さらに幸福な恋よ, なお注らに,さらに幸福な恋よ。

永遠にさめず, いつも悦びとなる恋よ。

永遠に端ぎながら,いつまでも若々しい恋よ。

やる瀬ない思いに 満たされた胸,燃える額,

灼けただれた舌を残す すべての生きている

人間の情熱にも はるかにまさる恋よ。(出口泰生訳,以下同じ)

肉体の熱はキーツの病気の悪しき側面であり,精神の熱はその良き側面で

ある。そして,乙の展開の過程において悪しき熱はのり越えられ,良き熱,す

なわち 「知的な昂揚」があとをひきつぐ。そしてそれは次に冷たい精神K変

わっていく。

静かな あなたの形は 永遠がそうするよう K

我々を考え込ませ ぼんやりさせてしまう。

冷ややかな牧歌よ。

乙の時点,乙の昂揚の段階において,熱はすでに冷たさにとって代られてい

る。しかしその冷たさは良きものである。あらゆるものが今や精神的行為

(mental action) となっている。精神的行為が肉体の熱から既に離脱している

のだから,熱から冷たさへの変化は 「がまんできない苦しみ」ではない。そ ζ

には 「地上の矛盾の法則がもはや通用しない次元」が登場している。そして

乙の詩は乙の「まったく良性の次元」でおわっているのである (Burke,

1945, pp.458 462)。

(1) パークは ζの乙とをベルグソ ンの 『創造的進化~ (1907)のなかにある 「無の観

( 814 ) •

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ケネス ・パークのドラマテイズム - 41 -

ゆ 1 からひきだす。そして人閲は,ベルグソンのいうように,r無 (nothing)の

念j はもてないが, r否 (no)の観念」はもてると主張する (Burke,1966,

pp.9-10邦訳, 106-107頁, Burkc, 1968, p. 450 )。

(2) rシンボルは 『うつわ』として論盟的反対物を統合できる。同じシンボノレが親,

子,要,成功,期待,恐れなどの怠味ぞ含みうるJ(合ff]恵介,1973, 67頁)。

(3) r反対物の統合は状況κ対する新しい解釈を可能にする。それは,より高次の視

5から状況を再定義する。新しい現実があらわれたのであるJ(合間恵介,1973,

67頁)。

(4) パークは1945年の著作 『動僚の文法』の付録において, ドラマテイズムの方法は

打サfj詩を扱えないという批判iζ抗して,キーツの持情詩 『ギリシャ古誕のうた

を分析している。そ ζ において病いと愛,肉体と精神との対立とのりとえを,

「場面J,r行為jおよび 「行為者」の構成要素のかかわりにおいて促え,新しい

場面」 としての冷静な精神の形成を明らかにしている (Burkc, 1945, PP.

447-468. )。

(5) 但し,w文学形式の哲学』が出版された時点では,パークのドラマテイズムの 5

E索すべてが出てきているわけではなく ,主として 「場面」と 「行為」が取扱わ

れている。

(6) なお,w老水夫行~ ,ζおける fspiritualな世界氏関する罪,前,和解j の moral

~:W~の研究については,柴山稔, 1'960.,参照。

4 .シンボルの伝達 レトリ ''Jク

ノ〈ークは 「詩の構造j の分析を通じて詩の内的論理,シンボノレのもつ相対

的K独自な論理!~ I明らかにした。それは現実的状況の単なる反映ではなく ,

その質的|転換をそ乙に含むものである。対立物の克服という「弁証法J,r.よ

って新たな論理が生みだされるという創造性が存している。乙のようなシン

ボルをもっ乙とによって人間は一般の動物とは区別さ れ, 駁倒的で主体的な

存在となる。シンボル動物としての人間の特性がそ乙にあらわれている。乙

のようなシンボノレによって人間は現実的状況を変容させ,新たな世界を偶成

できる。現実的状況における対立や矛盾を超克しうる乙とになる。もちろん

誌において,また文学においては,そのζ とはあくまでシンボルの世界,人

|聞の内的世界においてなさ れる乙とを意味する。したがってその乙とはシン

(815 )

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ボル以外のと乙ろ,人間の外的世界において現実的にあらわれてくるものと

ならなければならない。

ノ〈ークはシンボルの構造を,ただ単l乙シンボルの内的解明で、もって乙れ足

れり とするのではなく.それを具体的現実 とかかわらせて考察しようとす

るつ乙乙にパークのすぐれた特質が仔している。かれによれば,現実的状況は

シンホ、ル化によって「詩」としてあらわれてくる 。詩はしかしシンボリックな

行為として,逆に現実に対して質的転換を迫るものとなる。現実的状況におい

てマイナスの事態か存するならば,シンホルはマイナスの論理,およびそれ

に加えてフラスの論理をもち,さらに両者を乙えた新しい論理を創出する乙

とによって,現実を再構成するものとなる。シンボルは現実的状況を人間主

体の意図に沿って切りとり再編するとともに,その内部において対立 ・矛盾

とその克服の「弁証法」を有する乙とによ って,現実への新たな光を照ら

し,それにもとづいて現実的状況への切り乙みをおζなう。シンボルは現実

を消極的に反映するのではなく,逆iζシンボル作用によって現実に対し積極

的に働きかけるものである。 シンボルの質的転回は内的世界の問題におわる

のではなく,シンボリックな行為として再び現実的状況にかかわってくる。

他者や社会にかかわるシンボリックな行為は,行然,シンボルの内的論理を

他者や社会とのかかわりにおいて具体的に展開させるものとなる。シ ンボル

化を通じて形づくられたリアリティは, シンボルの論理によって改変される

可能性を有する。そ乙ではすでにシンボル内部の問題で、はなく,シンボルと現

実との強いかかわりが考察の対象となっている。

シンボルの乙のような現実関連について,パークはかれのレトリックに関

する論議 ー その集大成が動機のレトリ ック~ 1950である ー において問題にす

る。シンボルの内的論珂が外部の世界にかかわるあり方,それがレトリック

である。パークによれば,シンボルは常に他者 (audience) を前提として構成

される。文芸作品は,作者のシンボリ ックな行為として,自己を他者に表現す

るものであり,不可避的に他者にかかわる。他者とのかかわりにおいてシンボ

ルは具体的にその姿をあらわす乙とができるのである。レ トリ ックはそこに

おいて自己の役割を果す乙とになる。レトリ ック は,他者に話しかけ(ad-

dress) ,他者とコミュ ニケー トし,他者を説得 (persuade)するものである。レ

トリックの主たる存在意義は,他者l乙対していかにうまく説得しうるかとい

うことに仔している。

レトリックは,乙の説得過程において同一化(iden tifica tion )と分化(divi-

(816 )

ー 一一ーー園田園園周...

.

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ケネス ・パークのドラマテイズム - 43 -

ion)を行なう :,とパークは考えるゆurke,1950, pp.19-27., 55--59, 149

154)。同一化は{中間と思われるものを結びつける機能を意味するが,それは

他方Ir..frf1,間以外のものを排除する ζ とを結果する。それが分化である。パー

クはそ乙I'r.r犠牲j の原則をみる。他方,多様なものが並べられてー艇のヒ

ェラルヒーが形づくられる。 ヒェラルヒーの内部iζは当然コンフリクト状況

が生ずるが,その克服を通じて再同一化(re.ident:ifica tion)が可能とな る。す

たわら.そ乙で変換(transfornlation)や再生 (rebirth)が成し遂げられた乙と

比なる。乙れらのζ とを通じてシンボルは他者|にかかわり,他者を説得し,

他者を変容させる働きをもつものとなる。パークはヒットラーの 『わが闘

が乙のレトリックを最もよく表現し,人rYとを|同一化,分化,そして改

宗l'ζ向かわせた卓越した作品で・あると評している (Bu:rke,1941, pp.191-220.

事却し 205ιー223ハ '0

レトリックを通じてシンボルは他者にかかわり ,そ乙においてシンボルの

つ相対的に独自な論理を現実的状況に結びつけ,現実を変容させることが

できるようになる。乙乙において,新しく生まれたシンボノレの|論理を外部の

現実世界におよぼすというシンボリックな 「行為」のあり方が問題とされる

乙とになる。 S..E. ハイマンlζよれば, パークの初期の著作では 「シンボ

リックなJ行為が強調され,後期の著作では乙のシンボリックな 「行為 I:が

強調される (Hy.man,1955,邦訳, .3頁)。そして「最後|にパークはシンボルの

世界から現実の世界へと建設的にもどっているJ (.Hylna:n, 1955,邦訳, 17

のである。しかもパークのシンボル論,シンボリックな行為についての

研究は,社会のダイナミックなイメージの形成を促がすものとなっているの

である '0

ζのようなシンボルのもつ力について,乙れほど積極的K,また乙れほど

1/定的l乙解明したものは,パーク以外iζlあまり多くはないであろう。パーク 11,

まさにシンボルの内的・外的解明の統ーを行なった比類なき人物であると t

える。シンボルがただ単l乙現実|的状況の反映であるならば,パークの業績は

それほど意識あるものではないであろう。それは自然科学的な解明氏肢を明

けわたすかもしれない。しかし, シンボルのもつ現実への邸極的怠裁が問わ

れ,それによる人間と人間行為lの独自性が問題になる時,パークの接近法は

くの乙とをわれわれに与えてくれるものとなる。またパークのドラマテイ

ズムは乙の脈絡において改めて期解される必要があろう。

( 817 )

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(1 ) ハーク によれば,詩は本来 「作者や読者のために 『何かをするJように意図され

ている Jものであり,したかつて詩の構造は詩の機能を常に考える乙とによ って最

も正確に記述されうるのである (Burke,1941, p.89.邦訳, 70頁)。

(2) パーク は,レトリ ック を,詩 (文学)の 3要素 (夢,祈り,チャート )のうちの

「祈り 」と同一視している。

(3) パーク は, Ii老水夫行Jにおいて,水夫のシンボリック な行為が結婚式の客の態

度をかえさせる乙とを示している。

しかし今や婚鐘の客, 身を花笠の戸iζそむく。

客去り行くや,気も遠 く, 人心地せず見えたれど,

翌くるあしたは更にまじめに 更に賢き人とはなりぬ。

5 .パーク・ドラマテイズムの問題点

ノてークのドラマテイズムは,人間行為と社会のあり方をドラマのメタファ

ーにおいて捉えようとするものである。しかしそれはただ単に人間行為と社

会をドラマになぞらえて表現するというものではない。何よりもそれは,従

来のやり方である自然科学的方法をきびしく批判し,人間のシンボリックな

動物としての性格づけ, シンボルのもつ積極的な意義を具体的に明らかに

し,それによる人間の主体性を浮き彫りにしてい乙うとするものである。す

なわち, パーク はシンボルの内的論理として矛盾 ・対立の克服と新しいもの

の形成 (f弁証法J) を明らかにし,のみならず,そのシンボルの新しい論理

の現実におよぼすあり方 (fレトリック J) を問題とする (ダンカンは,そのシンボ

ルの弁証法を社会秩序のドラマの解明氏応用し,ゴッフマンはそのシンボルのレトリ

ック をミク ロな具体的状況に適用したのである)。まさにそれはシンボル分析の

ユニークにして最適の形態であると いえる。シンボルをシンボル以外のもの

に還元してしまう従来の自然科学的やり方からは少しも明らかにされないシ

ンボルの内部構造およびその独自の論理,そしてその積極的機能を具体的K

示しているからである。

その意味において,パークは G.H. ミードと並ぶシンボリック相互作用

論の偉大な先駆者であり,見方によってはミードを超えるものであるとさえ

いえる。つまり, 1つに, ミードがもっぱら調和自悦i:会のイメージにとらわ

( 818 ) ,.

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ケネス ・パークのドラマテ イズム - 45ー

t.対立や矛盾の問題をそれほど自覚的民取りあげなかったのに対し,ノマー

クは自己の考えlの I~:qζ対立や矛盾を明確に取り入れている。 2 つ,c:., ミード

は臼我lの積極的側面で‘ある「主孜J('1 )の概念を提示したが,その内容会

いまいなままに放置したのに対し,パークは乙の r3:.技J,乙相当するもの

(:H. ブルーマーの「解釈過粍J)の|論煙構造を具体的に明らかにして lいる。 3

つに.パークはそれが現実,'eおよぼすあり万を問題とした。またノ?二クのド

ラマテイズムはF 科学的解明を放棄した W. ジ,子、ームズの自殺論,f限定、識

の問題iζのみ乙だわった J. フロイトの精神分析蚕拡大し発展させたもので

あるともいえる。パークへの脚光は今日より一層強められる必怒があろう。

しかし, パーク のドラマテイズムは,現在のと乙ろ,いくつかの点におい

て人びとを十分K納得させるものとなっていない。第 1は, ノてークのいうシ

ンボルにおける反対物の発生,およびそれによって生まれるシンボノレのヒエ

ラルヒーはs現実的状況とどうかかわるかという乙とである。シンボノレにおけ

る反対物の発生は, もちろん現実的状況とは相対的民独立な論理によるもの

であるが,現実的状況lζおける対立や矛盾と何の関連も有しないのであろう

か。またシンボルのヒェラルヒーは現実的状況のヒェラルヒーと全く無関係

l乙存しうるものだろうか。むしろ現実的状況とのかかわりにおいてそれらカ e

てし,具体的に展開されるものであろう。シンボルにおける対立やヒェラ

ノレヒーを生みだす現実的状況の論却を明らかにし,それとのかかわり Kおし

てUL罰づけ性格づける乙とが必要となろう。 ζの点の解u児が不十分な場合,

シンボルlの対立やヒェラルヒーの超克 (弁証法)が,現実の対立やヒェラル

ヒーの克服と安易にイコールなものとされるおそれが存している。災際その

例として,われわれはダンカンの秩序志向の統合的主担社i上:会ドラマ.モデデ、ルをみる

乙とができる|ののである (船η搾l 符衛~, 1叩97幻7,6ι6

E況と lはPまま相対的iκ乙独立なもので lああるとしても,そ乙l乙なんらかの関連をみな

いわけにはいかない。シンボルの 「弁証法」は,その現実的状況の矛盾 ・y、

工を合んだ上で展開される弁証法であり ,その集約的表現であるべきであろ

つ。~ 2 Je,パークがシンボルと現実とのかかわりを示すものとして考える

レトリックJは,内容的"乙は結局.i他者の説得」という程度の乙とを怠味す

るにすぎないのではないか.という乙とである。パークのいう「レトリック

は,桜雑な様相をもっ現実の社会ヒェラルヒーの存在を前挺としたシンボル

と現災とのかかわりのあり方を必ずしも怠味するものではな lい。シンボルの

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内部において新たなリアリティが構成されたとしても,それをシンボルの外

部において具体的,現実的に実現していく乙とは容易ではない。少なくとも

その乙とは単なる 「他者の説得」によって真に可能とされるものではない。

もちろん 「他者の説得」があらゆるもののスタートを形づくる乙とはいうま

でもないが,それのみによる実現方法にはあまり大きな期待をもてないもの

であろう。乙の 「レトリック問題」において,ゴッフマンによって引き継が

れたパークの楽観的でプラグマティックな小状況主義があらわれているとい

う乙とができる。

結局,パークの問題とその視野はシ ンボル内にとどめられたものであり

(市川雅, 1972, 187-189頁,参照),したがってシ ンボ、ルと現実とのズレ・断層,

それによる歪みを問題とするものとなっていないのである。パーク自身,実

際的行為と シンボリック な行為とは,家を建てる乙とと,それについて詩を書

く乙と,結婚して子供をつくる ζ とと,それについて詩を書く乙とのちがし、

であると説明している (Burke,1941, PP.ト 9.邦訳, 16頁)が,そのちがし、乙

そがむしろ現実的に生活している具体的人間にとってきわめて重要な問題と

なっているのである。

ノてークのドラマテイズムというシンボル分析は, ミードの主我概念を内容

的に明らかにし,ブ、ルーマーの解釈過程の論理構造を具体的に示し,その現実

的関連を問題としたものとして,シンボリ ック相疋作用論を一歩前進させる

ものであるといえる。しかしパークの関心と視野がシンボル内にとどまった

ため,なお不十分な解明におわっている。シンボルの研究には,社会構造的

現実を直接明らかにする研究一一物象化論など一一一の成果をとり入れ,それ

との結びつきや統合,その弁証法的展開が必要となろう。

(1) パークはしづ, iミード・の社会心理学の全体的調子は,進歩と進化を伝じていた

幸福な時代の未来洋々たる気分で満たされているJと。 (Burke,1941, p.381.

邦訳, 324頁)

(2) ジェームズは「主我」を科学的に捉えられないとして,その解明を放棄し,哲学

的に宗教を考察する乙とにその関心を移していったのである。

(3) ハークによれば,フロイトは¢複雑なものを単純なエッセンスで説明してしま

い,②父権だけを強調し,また③詩巻単i乙夢としてのみ捉え,複雑なものをそれ

ぞれの比重でみる戦略,母権のシンボルへの注目,詩を祈りやチャートとしてみ

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ケネス ・パークのドラマテイズム - 47 -

る乙とにまで至らなかった (Burke,1941, p.284..邦訳, 271頁)。

(4) 乙の点H:関連して,われわれは, 古くは時枝誠記の 「言語過程説

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