タッチフットボール部(現アメリカンフットボール...

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本校の歴史の中で全国制覇を達成したのは、タッチフットボール部(アメリカンフットボール部の前 身)のみ。以下は、『創立八十周年記念誌』より転載。 市西100年つれづれ~市西歴史物語(20) タッチフットボール部(現アメリカンフットボール部) 全国制覇 昭和 32 11. 昭和 30 年に誕生したラグビー部がタッチフットボール部として生まれ変わる。 昭和 33 9.2021 タッチフットボール部が近畿大会に出場。 その後、全国大会にも初出場したが、関学に敗れて第3位。 昭和 34 12. 近畿大会(9 月)で準優勝したタッチフットボール部が全国大会に出場し、第3位に。 昭和 35 1.1 タッチフットボール部から選出された七名のメンバーが東京国立競技場で行われたライスボ ウル(フットボールプレーヤーにとって最高の名誉である東西対抗オールスター戦)に西軍 代表選手として出場。 昭和 36 12.26 タッチフットボール部が藤井寺球場で行われた全国大会に出場。 昭和 37 1.1 タッチフットボール部から選出された七名のメンバーが後楽園球場で行われたライスボウル (東西対抗オールスター戦)に西軍代表選手として出場。 6. タッチフットボール部が、10 日の県大会、17 日の近畿大会の両大会において、204連勝 記録(11 年間)を誇っていた宿敵関学を破って優勝9.2223 タッチフットボール部が池田高校で行われた近畿高校総合体育大会で初優勝。 12.26 タッチフットボール部が、大阪藤井寺球場で行われた第9回全国高校タッチフットボール大 会で初優勝し、全国大会出場五年目にして宿願の全国制覇を達成する。 昭和 38 12.2627 タッチフットボール部(部員20名)が大阪藤井寺球場で行われた第10回全国高校 タッチフットボール大会決勝戦で宿敵関学を破り、優勝。昨年に続き2年連続全国制覇の偉 業を成し遂げる。本年度、同部は 6 16 日の近畿大会決勝戦で関学に破れ優勝をのがした 以外は、連戦連勝、すべての大会で優勝している。 昭和 41 12.26 タッチフットボール部が、藤井寺球場で行われた全国大会で準優勝。 昭和 42 12.27 タッチフットボール部が、第14回全国高校タッチフットボール大会決勝戦で宿敵関学を破 り、昭和 38 年度以来 4 年ぶりに全国制覇。

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本校の歴史の中で全国制覇を達成したのは、タッチフットボール部(アメリカンフットボール部の前

身)のみ。以下は、『創立八十周年記念誌』より転載。

市立西宮高校新聞 第 78号(昭和 39年 2月 27日)より

市立西宮高校新聞 第 79号(昭和 39年 5月 14日)より

市西100年つれづれ~市西歴史物語(20)

タッチフットボール部(現アメリカンフットボール部) 全国制覇

昭和 32 11. 昭和 30年に誕生したラグビー部がタッチフットボール部として生まれ変わる。

昭和 33 9.20~21 タッチフットボール部が近畿大会に出場。

その後、全国大会にも初出場したが、関学に敗れて第3位。

昭和 34 12. 近畿大会(9月)で準優勝したタッチフットボール部が全国大会に出場し、第3位に。

昭和 35 1.1 タッチフットボール部から選出された七名のメンバーが東京国立競技場で行われたライスボ

ウル(フットボールプレーヤーにとって最高の名誉である東西対抗オールスター戦)に西軍

代表選手として出場。

昭和 36 12.26 タッチフットボール部が藤井寺球場で行われた全国大会に出場。

昭和 37 1.1 タッチフットボール部から選出された七名のメンバーが後楽園球場で行われたライスボウル

(東西対抗オールスター戦)に西軍代表選手として出場。

6. タッチフットボール部が、10日の県大会、17日の近畿大会の両大会において、204連勝

記録(11年間)を誇っていた宿敵関学を破って優勝。

9.22~23 タッチフットボール部が池田高校で行われた近畿高校総合体育大会で初優勝。

12.26タッチフットボール部が、大阪藤井寺球場で行われた第9回全国高校タッチフットボール大

会で初優勝し、全国大会出場五年目にして宿願の全国制覇を達成する。

昭和 38 12.26~27 タッチフットボール部(部員20名)が大阪藤井寺球場で行われた第10回全国高校

タッチフットボール大会決勝戦で宿敵関学を破り、優勝。昨年に続き2年連続全国制覇の偉

業を成し遂げる。本年度、同部は 6 月 16 日の近畿大会決勝戦で関学に破れ優勝をのがした

以外は、連戦連勝、すべての大会で優勝している。

昭和 41 12.26 タッチフットボール部が、藤井寺球場で行われた全国大会で準優勝。

昭和 42 12.27 タッチフットボール部が、第14回全国高校タッチフットボール大会決勝戦で宿敵関学を破

り、昭和 38年度以来 4年ぶりに全国制覇。

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市立西宮高校新聞 第 78号(昭和 39年 2月 27日)より

二年連続全国制覇 タッチ部

苦闘の六年間 今度は追われる立場に

本校タッチ・フット部は、昨年 12月 26日、27日の両日、大阪藤井寺球場で行なわれた第 10回全国高

校タッチ・フットボール大会において、64-0で豊中高、56-8で八幡商を連破、決勝で宿敵関学

高と対戦12-0のスコアで破り、一昨年につづき、連続〝日本一〟の王座についた。一昨年 6月当時、

204連勝の関学高を破って以来破竹の快進撃をつづけ、一昨年は 13戦連勝、昨年新チーム結成以来 14戦

して 13勝 1敗、わずかに 6月 16日に行なわれた近畿タッチ・フットボール春季大会の決勝戦において、

ライバル関学高に0-8の小差で破れ優勝をのがした以外、連戦連戦すべての大会に優勝という好成績

を納めている。

タッチ・フットボール部は昭和 32 年 11 月、当時のラ

グビー部より転向創立、翌 33年には早くも全国大会に出

場、関学高に0-12で破れ 3 位、その後常に常勝関学

高につづく強豪チームに急速な成長をしつづけ、35年 10

月には王者関学高と6-6の引き分け試合を演じ、以後

も全国大会に出場、決勝に進出して関学高の連勝記録に

挑みつづけたが関学高の堅城ゆるがず、王者の前に幾度

となく敗れ去ったが、ついに 37年(創立以来 5年)6月

兵庫県総合体育大会において関学高が 11年間守りつづけ

てきた連勝記録にストップをかけた。実に 205 連勝目の

土であった。本校として対関学高 20試合目のことであっ

た。以後は本校の快進撃が始まり、同年 12月に行われた

全国大会にも優勝、そして昨年も連続全国大会の王座に

ついたのである。

フットボールはグランドに 5 ヤードごとにラインがひ

かれ、ここで攻・守両方にはっきり別れ対戦、攻撃側チ

ームは 4ダウンの攻撃が出来、その間に 10ヤード前進す

ればフレッシュダウンが得られ攻撃を続行、前進出来な

ければ攻守交代。このようにして相手チームのエンドゾーンにボールを持ち込めば得点できる。その間

のパスプレーなどがこのスポーツの妙味である。現在タッチ・フットポールは関西 18 校、関東 12 枚、

広島 1校の 31校の高校で行なわれている。県下では関学高、星陵高、本校の3校がタッチ・フット部を

もっている。しかし大学ではかなり多くのところがもっている。全般に日本では盛んでない。その理由

について藤村先生は「フットポールは日本に入ってきてからわずか 17年にしかならないので、他のスポ

ーツと比較するのはおかしい。フットボールも 50年後にはどうなっているかわからな

い。現在日本で普及しない一番の理由は、道具が非常に高価である。例えばボールにしてもヘルメット

にしても、スパイク以外のどれをとってもアメリカからの輸入品である。金額にして 1 人分 3 万円以上

はかかる。それと非常にはげしいスポーツであるから敬遠されるむきが多いからだ。その上よき指導者

が少ないのも一つの理由といえる。しかし少しずつ地方にも広まりつつある。」といっておられる。

現在部員は 20人で、毎日寒風の吹くグランドで来シーズンめざし激しい練習を行っている。連続王座

についた本校タッチ・フット部は、追われる立場になった。そしてその王座を守るべく、練習は一応オ

フ・シーズンの今も毎日遅くまで行われている。藤村先生は「優勝したから練習が厳しくなるというこ

とはない。むしろ楽になったくらいだ。」そして来季ももちろん三連覇目指して、とお聞きすると「ス

ポーツは試合に勝つために努力しなければならない。一戦一戦勝ち進んだものが優勝ということになる

のだ。」と先生のお考えをお話くださった。

創立わずか5年にして、〝日本一〟になった。その陰にはやはり、部員たちの苦しい練習にたえぬい

たこと、藤村先生のフットボールへの激しい情熱とすぐれた指導と、そして先輩・後輩一丸となった歴

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史こそ浅いが、ボールマンの造りだした伝統

の力があったからこそ、なし得た偉業であ

る。藤村先生は「ほとんどのチームが私立で、

しかも大学の付属高校であるから、大学チー

ムといっしょに練習をやっている。練習面に

おいても、技術面においても選手の素質、層

の厚さにおいても、非常にすぐれている。そ

んな中にあって公立の高校が勝つことは大

変むずかしいことである。それに勝つために

は、多角的な練習と特殊のフォーメーション

を組むことしかない。またスポーツマンはすべて自分との戦いであって、まず自分に打ち勝たなければ

ならない。」と話して下さった中に、その秘密が含まれているように思う。

2年連続優勝という快挙はこのようにして成し遂げられたのである。過去六年、それは実に苦闘の歴史

であったといえる。そしてそれだけこの記録はずばらしく、立派であるといわねばならない。筆者は顔

前に体ごと砂袋にぷつかってゆく姿や、ボールに向かって全力疾走している練習風景を見、しかもその

間たえず力強いかけ声をかげている。そこにたくましい男の姿をみつけた。藤村先生は「運動部の練習

がどんなものか、君も一週間いっしょに練習に参加して、体で感じとって記事にしてみたらいいんだ…

…。」といわれた。たしかに我々が外面からみているものは氷山の一角にすぎないのである。その苦し

さは彼らのみが知り、彼らのみが耐えているのである。それだけに勝利を得た時の感激は、彼らのみに

しかわからないすばらしいものであるにちがいない。よく苦しい疎習に耐え、わが市西を〝日本一〟に

した彼らに深く敬意を表したい。そして我々市西生は、また個々の立場で彼らにつづき、追いぬく義務

を負っていることを知らねばならない。

優勝メンバー(第 10回大会)

顧問 藤村重美・坂本房雄

LE 丹波谷重一③ 80

〃 中島 正昌① 84

RE 宮越 昭③ 81

〃 木下 昌弘① 82

LT 島中 光博② 72

〃 北野 鴻昌① 73

RT 平野 孝雄③ 71

〃 吉田二三夫① 74

LG 川口 勝彦② 60

〃 堤峯 二郎① 62

RG 田中 修吉② 61

C 小椋 憲三③ 59

〃 白井 義則② 51

QB 奥井 捷弘③ 10

〃 株元 秀治① 12

UH 青井 竜治② 21

RH 犬上幸次郎③ 20

〃 佐々木厚根② 22

FB 遠藤 秀治③ 30

〃 柳田 智弘① 31

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『西宮高校新聞』昭和 38年 2月 28日 第 72号

タッチフット部全国初制覇の記事

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《当時のタッチフットボール部監督 藤村重美教諭について》

① 藤村 重美(ふじむらしげみ)先生の略歴(1931~2007年)

京都大学在中は選手として活躍。ポジションンはRG、FB。

卒業後、西宮市立西宮高等学校の教壇に立ち、タッチフットボール部を創設。創部5

年目の 1962年 6月 10日、当時、公式戦 11年間無敗、204連勝中の関西学院高等部を

12-0でくだす。同時に、1962年、1963年と2年連続全国制覇を達成。

1958年、兵庫県高等学校体育連盟にアメリカンフットボール競技が加盟するとも同連

盟アメリカンフットボール部の初代委員長として組織の礎を築く。高校フットボールがタッチフットボ

ールチからアメリカンフットボールへと移行する過程で、日本の高校フットボールの牽引者として普及

に貢献。

1966年 3月、西宮市立西宮高等学校を退職し、同年 4月より国立舞鶴工業高等専門学校に任官。

また、1965 年京都大学監督に就任、京大フットボールのバックボーンを築き、その精神は水野弥一監督

に受け継がれ、関学・京大二強の時代を迎え、今日のアメリカンフットボールの普及、隆盛に大きな貢

献を果たした。

2016年、 日本アメリカンフットボールの殿堂に第 3回顕彰者として殿堂入りされました。

②『スポーツニッポン 昭和 39年 2月 6日』

見出し「執念でみごと〝打倒関学〟 特攻訓練で連続の全国制覇」

「燃える不屈の闘志 人造りに限りない愛着」 藤村重美(市立西宮高タッチフットボール部)

昭和 37 年 6月 10 日、本誌後援のもと行われた第 9回西宮ボウルの試合前、つめかけていた観衆がド

ッとわいた。それは高校タッチフットボール界の常勝関学高が敗れ、驚異の連勝記録がストップされた

からである。関学高の 205 連勝を阻んだのがほかならぬ市立西宮高だったのである。関学に挑戦するこ

と 20回、やっとつかんだ初勝利、藤村監督の念願と、チーム結成の目標が結実したときでもあった。

市立西宮高のタッチフットボールは、昭和 32年同監督の指導のもとにはじまった。「当時関学高は破

竹の勢い、連戦連勝で記録は伸びる一方、それをなんとか自分のチームで阻止してみたかった」という

のが、部を結成した動機だそうだ。

日本フットボール界の名将、米田監督に率いられていた関学高は実に強かった。力と技がミックスさ

れたチーム力は、大学級の折り紙さえつけられていた。このチームへの〝挑戦〟に目標をおいた藤村監

督の意図にはこんな裏話がある。同監督が現役時代(京大)後輩に頼まれて愛知高(滋賀)をコーチし

たことがあった。自分自身現役のバリバリだから、指導ぶりは凄いの一語につきた。青竹をくりぬき、

千数本合わせた特製のダミー(タックル台)が2、3日で砕けたことなど、ほんの一例にすぎないとい

う猛練習。市西宮高の練習もこれに輪をかけたもので、これならという自信をもって関学に当たったの

だったが、関学の前には全く通じなかったという。

「なんとかして関学を打倒したい」市西宮高の監督になったとき、藤村さんはフットボールの執念の

鬼となった。なみなみならぬ苦労もいとわず、ありったけの情熱を部員育成のために注いだ。ユニフォ

ーム用具を購入するため、同監督のサラリー袋はいつの間にかカラ。タックル台になったり、選手の〝

当たり〟を胸で受けとめたり…シーズン中の同監督の体には、青黒いアザがいくつも出来るほどだった。

このことでもわかるように自然練習は激しい。負傷しても痛いという言葉は禁句になるほど…いわば〝

特攻訓練〟である。それほどしながらも関学高には歯が立たなかった。わずかな慰めは、1引き分けを

演じたということだけ…。藤村監督は「こうなれば勝つまでは結婚は見合わせだ」と心に誓った。この

〝根性〟は自然選手にも浸透〝やらずにはおれない〟ムードがチームにみなぎり、コンプレックスを払

い、不屈の闘志を身につけだした。この精神が遂に 20戦目に関学を倒す遠因となるのである。そして 37、

8年の2年連続全国優勝に飛躍するのだ。

「口だけの指導じゃダメだ。選手の中にまじって、体で教えることだ。グランドだけではなく、あら

ゆる機会に選手に接し各選手の〝すべて〟を知ってやることが必要だ」選手の心に密着することが、チ

ーム作りの基礎だという。

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さらに「選手と同じ苦しみを味わってやることだ。私は選手に、練習になれば〝おのれに勝つ〟こと

を求める。普通のときのわたしは酒が好きで、一晩中でも飲んでいる。だがシーズンに入れば一滴もや

らない。好きな酒をやめる苦しさ、ここに〝自分との戦い〟があって選手にも徹底する限り、私も率先

しなければならないと考えている」

「藤村先生はスポーツの指導だけでなく、担当の人文地理の研究も立派なものを残している。必要と

あれば、元旦からでも補修授業を行なう。昔流にいえば文武両道に達した士ですな」と井貫校長は、同

監督の生活態度の立派さ、努力ぶりを語る。

「注目される〝独創性〟 常に新しいものを求める」

藤村監督の指導理念は「理論より〝ヤル気を持たせること〟だ。それには一つの目標を与えることだ。

その意味で〝関学〟があったことは、技術向上のために恵まれていた」と精神面を重視してる。「練習

でもフォーメーションでも、常に〝新しいもの〟を求める態度が必要だ。チーム力の内容は常に変わる

からだ。能力に応じた独自のフォーメーションを毎年考える」同監督の持論である。

現在、大学でもフォーメーションは、アメリカのチームの踏襲がほとんどであるが、藤村監督の〝研

究心〟〝フットボールの独創性〟は注目されてよいだろう。エンド・リバース・パスなどの独自のプレ

ーは大学水準を越え、非常に高度だ。関学高とは異なった面での独創性が、関学を破り、全国制覇の道

をひらいたとはいえないだろうか。

市西宮高チームは、忠実なプレーをすることが特徴であり、強みとなっている。というのも自分の与

えられたポジションにおける責任を完全に果たすように導いた藤村監督の方針が徹底している証拠だ。

どんな場合にもあわてず、落ち着いて対処できる人間を造るという同監督のスポーツを通じての〝人造

り〟根本理念にほかならない。

「チーム作りは苦しいが楽しい。入部したての選手は彫刻でいえば素材だ。そこから〝作品〟を創造

する。スポーツや人間を創造することにおいて芸術である。チーム作りの楽しさもここにある」とスポ

ーツの人造りにおける役割をこう説明する、と同時に藤村監督は精神力の優先を強調する。

海が好きだという同監督、海の持つ無限の包容力にあこがれる同監督の人間性の一端がうかがえる。

七転び八起きした気力の秘密が、ここにあるのではないか。

③ 『デイリースポーツ 昭和 40年 2月 4日』 話題を追って

「惜しまれて去る藤村スパルタ監督 市立西宮高タッチフットボール部」

4日、市立西宮の藤村重美教諭(34)は同校タッチフットボール部の監督を辞任した。同教諭は時流にさ

からう超スパルタ練習で市立西宮イレブンを鍛えあげ、関学高の連勝記録を 204 でストップさせたのを

はじめ全国大会で 2 度優勝するなど、タッチフットボールの発展に尽くした人。当初は、周囲の無理解

から孤立、随分つらいめ目に会ったが、いまではスパルタ教育のよさを認識され、このたび惜しまれな

がら去っていく…。

「部員、父兄の信望一身に」「アラシの批判を乗り越えて…」「身ゼニを切って〝生活〟を犠牲」

シーズンが深まると市立西宮高タッチフットボール部の練習は、授業が終わる午後三時ごろから夜の

八時、ときには九時までつづけられる。淡い投光器の照明の中で、石灰をぬった長円形のボールを追う

選手は一様にグロッキー。「練習が終わると、もうなにもできない」(藤村教諭の話)状態にある。内

容もきびしい。同チーム出身者で、いま関大アメリカン・フットボール部のコーチをしている土井は、

高校二年のとき打撲で左ヒザに水がたまり、その周辺が丸太のように張れあがった。「先生、医者に見

せたら、入院しないと関節がくさるというんです」痛みを訴える土井を、スパルタ教師は一カツした。

「外傷がない限り悪くはならない。いまの医者は大事をとりすぎ、かえって病気を作るんだ。練習をつ

づけていくうちに、そんなものは必ず直る!」

「野球のように、将来プロにはいれる可能性があるならともかく、一文のトクにもならないタッチフ

ットボールで、なぜ狂ったように練習させるのか」という打算的な父親。「帰宅が遅くなるうえ、疲れ

ているので、勉強の時間がない。このままではウチの息子はダメになる」と憂う教育熱心な母親。「あ

んなにきつい練習をやらせてもし大事な生徒に大ケガでもさせたら、責任問題になるぜ」と冷淡な同僚

教師。周囲の批判はアラシのように、藤村教諭をゆさぶった。この状態を心配した同教諭の父親は「フ

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ットボールをやめないと勘当だ」と強く説得。母校京大の恩師は「つまらないことに血道をあげず、教

師としての勉強をしろ。そうでないと出入り禁止だ」とおどかした。だが藤村教諭はフットボールをや

めなかった。その理由を「信念を持っていたが、あの当時はやはりつらかった。何度も投げ出そうかと

思った。それをしなかったのは、周囲の全部が敵だったからだ。ひとりでも味方がいたら、その人に甘

えて、信念を曲げていたかもしれない」と語っている。

藤村教諭を、フットボールにおけるスパルタ教育にかりたてたのは、当時の関学高フットボール部の

強さと、現代っ子の精神面のモロさ。同教諭は京大時代、滋賀県愛知高の臨時コーチとして、同校タッ

チフットボール部を藤村流で鍛え、関学高と対戦、大敗した。「戦うまで自信があったが手合わせをし

て関学高の底力に敬服した。この関学高を破る心身ともたくましい選手を自分の手で育てようと誓った」

のがきっかけ。二十九年、市立西宮高に赴任、現代っ子の生態をみているうちに「これではいけない。

バックボーンをとおさなければ…」と決意を固め、三十二年に鍛練の場であるチームを作った。最初の

ころは父兄の反対や選手の根気のなさから、練習はなかなか軌道に乗らなかったが、三十四年ごろから

選手が心服するようになり、三十七年〝打倒関学〟に成功。同年と翌三十八年には全国大会で2連勝し

た。

さる四日、佐賀商野球部の主力選手が「監督のきつい練習にはついていけない」と監督をボイコット

する事件があった。同じスパルタ練習でありながら、なぜ市立西宮高にだけ花が咲いたのか。いま三年

生の吉田君はいう。「藤村先生はボクらの成績が悪いと、二晩でも三晩でも徹夜で勉強を教えてくれる。

こわいけど、やさしい先生です。だからどんなにきつい練習でもついていけるんです」藤村教諭に共鳴、

数年前から協力している坂本房雄教諭(49)の話を聞くと、さらに理由がのみ込める。「藤村先生の月給

のほとんどは、近くの食堂のツケの支払いになってしまう。選手に〝腹が減ったら食ってこい!〟と、

ひと月に何度もふるまうからです。奥さんもりっぱ。せっせと内職して、主人の月給を当てにしない。

生徒にそれだけの情をそそぐ教師は、ほかにはいないでしょう」

昨年夏の合宿のこと。一年生の橘君が練習で頭を打ち、意識不明のまま病院へかつぎ込まれた。もち

ろん重体。女手一つで育てた母親あさ江さんは血相かえて飛んできた。うなだれたまま、ものもいえな

い藤村教諭。「いくらでも責めてください」と覚悟を決めたスパルタ教師に、あさ江さんはいった。「先

生、息子がこのまま死んでも

私は恨みません。もし元気になれば、やはりフットボールをつづけさせます」とけなげに語った。あさ

江さんの話では、橘君は片親育ちの少年にありがちな暗い、消極的な、勉強のできない子供だった。そ

れがタッチフットボールをやるようになって、明るい性格になり、自発的に勉強もするようになった。

「先生、本当にありがとう!」あさ江さんの感涙の弁を聞いて「私は間違っていなかった」と、練習の

鬼は男泣きに泣いたという。橘君は経過がよく無事退院、いまは中心選手だ。「もう私がやめても、市

西宮に芽ばえたタッチフットボールの精神は変わらない。安心して行けます」この春、舞鶴工専へ転任

する藤村教諭を、学校や父兄たちは「惜しいなあ」と嘆息している…。