ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(genaro...

11
1 ビセンテ・グレコ「ガローテ」 齋藤 冨士郎 まえがき タンゴ愛好家を自負する人々の中でビセンテ・グレコ(18881924の名前を知らない人はまずいないだろう。タンゴ草創期のバンドネオン奏 者であり、更に作曲家として今日に残る多数の名作を残し、更にまたタン ゴのセントロへの進出に大きな貢献をした彼の名前は忘れられることはな い。しかし、今日、彼の事績が語られる機会は少ない。それはやはり彼が アローラスと並んで短命であったためであろう。草創期のタンゴ人は一般 にそう長命とは言えないが、2 人は特に短命である。それでもアローラス の場合はいろいろとエピソードが多く、伝記資料もそれなりに記述に富ん であるが、ビセンテ・グレコの場合はエピソードが少なく、ここで利用し Zucchi Ferrer の資料も水増しの感が否めない。それで、ここでは両者の資料と Bates 兄弟の 著書を下敷きにした高山氏の書物をベースに、彼の録音の復刻 LP/CD や作品の演奏例を参考に、ビ センテ・グレコグレコについて何とかまとめてみた。 小型のバンドネオンを手に入れる ビセンテ・グレコ(Vicente Greco)は 1888 2 3 日にブエノス・アイレスのコンセプシオン Concepción)地区で生まれた。父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女 7 人の子 供と共にその地区のコンベンティージョのエル・サランディ(El Sarandi)に居住していた。 父親のヘナロ・グレコの職業はケロセンの街灯を点灯する仕事であった。そういういわばしがない 職業だから一家の経済的事情は当然厳しく、ビセンテ・グレコも幼い頃から新聞売り(いわゆる canillita)などをして家計を支えた。 ビセンテ・グレコは音楽的才能に恵まれており、厳しい経済的家庭環境の中にありながら音楽への 情熱を失わなかった。弟のアンヘル・グレコは兄のことを「音楽のために生まれてきたのだ」と言っ ている。 何歳くらいのことかはわからないが、ビセンテ・グレコが始めに手にした楽器はフルートであっ た。それは殆ど使えなくなった代物であったが、彼はそれから何とか音を出すことに成功したらし い。次に手にしたのはギターで、これも短期間に、独習で、弾けるようになった。そうして 1900 頃(未だ 12 歳である)、親しい人が彼に 45 音の小さなバンドネオンを渡した。それは殆ど玩具であ り、誰もその名前を知らなかった。しかし彼はそれに心酔し、1 ヵ月後にはもうワルトトイフェル

Upload: others

Post on 14-Jul-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

1

ビセンテ・グレコ「ガローテ」

齋藤 冨士郎

まえがき

タンゴ愛好家を自負する人々の中でビセンテ・グレコ(1888-1924)

の名前を知らない人はまずいないだろう。タンゴ草創期のバンドネオン奏

者であり、更に作曲家として今日に残る多数の名作を残し、更にまたタン

ゴのセントロへの進出に大きな貢献をした彼の名前は忘れられることはな

い。しかし、今日、彼の事績が語られる機会は少ない。それはやはり彼が

アローラスと並んで短命であったためであろう。草創期のタンゴ人は一般

にそう長命とは言えないが、2 人は特に短命である。それでもアローラス

の場合はいろいろとエピソードが多く、伝記資料もそれなりに記述に富ん

であるが、ビセンテ・グレコの場合はエピソードが少なく、ここで利用し

た Zucchi や Ferrer の資料も水増しの感が否めない。それで、ここでは両者の資料と Bates 兄弟の

著書を下敷きにした高山氏の書物をベースに、彼の録音の復刻 LP/CD や作品の演奏例を参考に、ビ

センテ・グレコグレコについて何とかまとめてみた。

小型のバンドネオンを手に入れる

ビセンテ・グレコ(Vicente Greco)は 1888 年 2 月 3 日にブエノス・アイレスのコンセプシオン

(Concepción)地区で生まれた。父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ

ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女 7 人の子

供と共にその地区のコンベンティージョのエル・サランディ(El Sarandi)に居住していた。

父親のヘナロ・グレコの職業はケロセンの街灯を点灯する仕事であった。そういういわばしがない

職業だから一家の経済的事情は当然厳しく、ビセンテ・グレコも幼い頃から新聞売り(いわゆる

canillita)などをして家計を支えた。

ビセンテ・グレコは音楽的才能に恵まれており、厳しい経済的家庭環境の中にありながら音楽への

情熱を失わなかった。弟のアンヘル・グレコは兄のことを「音楽のために生まれてきたのだ」と言っ

ている。

何歳くらいのことかはわからないが、ビセンテ・グレコが始めに手にした楽器はフルートであっ

た。それは殆ど使えなくなった代物であったが、彼はそれから何とか音を出すことに成功したらし

い。次に手にしたのはギターで、これも短期間に、独習で、弾けるようになった。そうして 1900 年

頃(未だ 12 歳である)、親しい人が彼に 45 音の小さなバンドネオンを渡した。それは殆ど玩具であ

り、誰もその名前を知らなかった。しかし彼はそれに心酔し、1 ヵ月後にはもうワルトトイフェル

Page 2: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

2

(Waldteufel)(*)のワルツやポルカを弾き、それから数ヵ月間に 10 曲のタンゴを弾けるようになっ

た。彼は歌も上手かったらしい。1903 年頃(15 歳ころか)にはギター伴奏でバリトンの声で歌った

と伝えられている。

貧困の故にビセンテ・グレコは学校に行けなかった。それで子供の頃は字が読めなかった。しかし

彼は強い意志と努力によってそれを克服した。エクトル・バテスとルイス・バテス兄弟(Héctor y

Luis Bates)の「タンゴの歴史(Historia del Tango)」には、彼は通りに出て道行く人に店の看板

の字の読み方を教わることで字を学んだという話が紹介されている(この話は参考資料[3]にも紹介

されている)。これがどの程度本当のことかはわからないが、ビセンテ・グレコの並外れた向学心・

向上心を知る一端になるだろう(**)。

少し後のことになるが、ビセンテ・グレコは学校教師でギター奏者のカルメロ・リスッティ

(Calmero Rizzutti, ピアニストの José María Rizzutti の親類)から音楽理論とソルフェイジを学

ぼうとした。しかし彼は音楽理論よりも作曲により強い熱意があり、結局、ほんの入り口だけでそれ

以上は学ぼうとしなかった。そういうわけで彼は音楽理論の基礎知識が十分ではなく、楽譜が書けな

かった。その彼を助けたのが、後にカルロス・ビセンテ・ヘロニ・フローレス(Carlos Vicente

Geroni Flores)と改名したカルロス・ヘロニ(Carlos Geroni)であり、そのお陰でビセンテ・グレ

コの作品が今日まで残ることになった。

あだ名「ガローテ」の由来-ビセンテ・グレコの兄弟・姉妹

ビセンテ・グレコのあだ名の「ガローテ(Garrote=こん棒)」の由来は良くはわからない。

Zucchi は 3 つの説を紹介している。

第 1 は長兄のフェルナンド(Fernando)に由来する。肉屋を職業とした彼は温和な性格であった

が、腕力には優れており、そのことで「ガローテ」とあだ名された。それでビセンテ・グレコは始め

は「ガローテの弟」と呼ばれていたが、いつしか「ガローテ」がビセンテのあだ名になってしまった

という説。

第 2 はビセンテの弟のドミンゴ・グレコの指の太さに対して与えられた「ロス・ガローテ(Los

Garrote)」からビセンテのあだ名「ガローテ」が来ているという説。

第 3 はビセンテが外見を飾るために持ち歩いていた太いステッキから「ガローテ」のあだ名がつ

いたという説。

どうでもよい話には違いないが、後年、ビセンテ・グレコはタンゴ「エル・ガロターソ(El

garrotazo=棒の一撃)」を作曲し、フェルナンド、ドミンゴ、アンヘルの 3 兄弟に捧げているので、

(*)エミール・ワルトトイフェル(Émile Waldteufel)(1837-1915)は、ストラスブール生まれのフ

ランスの作曲家。ワルツ『スケートをする人々』『女学生』やポルカなどのダンス音楽の作曲家として知

られ、「フランスのヨハン・シュトラウス」「フランスのワルツ王」と呼ばれた。

(**) 同じような話は日本にもある。漫才師のミヤコ蝶々も字が読めなかった。それで相方の男性に通り

の看板などを見て「何という字や」と訊ねることで字を覚えたそうである。それでその相方はそれを自分

の芸名にした。それが「南都雄二」だそうである。

Page 3: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

3

どの説もそれなりにありそうな話である。

ビセンテの弟のドミンゴ・グレコ(Doming Greco)(1891-1938)(*)も作曲家で、ギター奏者、

ピアニストでもあった。彼はギター奏者として 1910 年から「オルケスタ・ティピカ・クリオジャ・

グレコ(Orquesta típica criolla Greco)」に参画し、コロンビア・レーベルでのその最初の歴史的録

音に参加した。彼には多くのタンゴ作品があり、「オルケスタ・ティピカ・クリオジャ・グレコ」に

よる「ケ・ケレース(¿Que queres? )」(el bandoneón EBCD 122)とフアン・ギド楽団による「エ

ソ・エス・バイラール(Eso es bailar)」(A.M.P. TC 1004)の録音がある。

もう 1 人の弟のアンヘル・グレコ(Ángel Greco)(1893-1938)(**)もやはり作曲家、歌手、ギ

ター奏者であった。彼が作曲・作詞し、1933 年に発表された「ナイペ・マルカド(Naipe

marcado)」は今日でもよく歌われている。

音楽家ではないが、姉妹のマリーア・グレコ(María Greco)は教師資格を取得し、ブエノス・ア

イレスにおける最初の女性公認会計士となったということで知られている。グレコ家は皆努力家であ

ったようだ。

バンドネオンを手に入れる

バンドネオン奏者の草分けで、そのエキスパートでもあった「エル・パルド」セバスティアーン・

ラモス・メヒーア(” el Pardo” Sebastián Ramos Mejía)はまだ子供であったビセンテが 45 音のバ

ンドネオンを弾くのを聴いて、その巧みさに大いに驚いた。それでそのような小型ではなく、最大の

音域が出せる本格的なバンドネオンを手に入れることを勧めた。しかし、勿論、当時のグレコ家には

それを可能するだけの資力はなかった。そこでグレコ兄弟は互いに助け合って、ビセンテが新しいバ

ンドネオンを購入できるように資金調達をした。しかし当時、バンドネオンは国内でもまだわずかで

あり、町中を探してもバンドネオンを置いてある店は見つけられなかった。やっと最後にブエン・オ

ルデン(Buen Orden)通りの商店でバンドネオンを見つけ、やっと手に入れることが出来た。

その当時、バンドネオンの演奏を知っていたのは前述のセバスティアーン・ラモス・メヒーアの他

に「ターノ」ポンセ(”Tano” Ponce)、パブロ・ロメロ(Pablo Romero)らがいたが、皆、それを職

業としているわけではなかった。それでもビセンテはセバスティアーン・ラモス・メヒーアからバン

ドネオンの初歩的なレッスンは受けたが、後は独学であった。

ビセンテはバンドネオンを弾くときはいつもコンベンティージョの戸口(それは通りに面してい

た)を開けていた。それでその通りには彼のバンドネオンを聴くためにあらゆる階層の人々が集まる

ようになった。それらの人々の中には詩人のエバリスト・カリエゴ(Evaristo Carriego)、作家・劇

作家のロベルト J. パイロー(Roberto J. Payró)、有名な思想家のホセ・インヘニエロス(José

Ingenieros)が混じっており、彼らは後年までビセンテの親友となった。そうしてビセンテの評判を

聞きつけたリオハ(Rioja)通りとロンドー(Rondeau)通りの角のカフェの主人が客寄せのために

(*) 彼の生年には資料によって 1881 年、1891 年、1899 年頃と、不確定要素が大きいが、ここでは

Cassinellio と Outeda の“Anuario del Tango”に従って 1891 年とした。

(**) Zucchi は 1892 年生まれとしているが、やはり“Anuario del Tango”と Todotango.com に従って

1893 年生まれとした。

Page 4: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

4

ビセンテと契約するまでに至った。

1906 年、18 歳になったビセンテ・グレコは音楽を職業とすることに心を決め、バイオリンのフア

ン・ボルゲーセ「タルギート」(Juan Borghese “targuito”)とギターの「ネグロ」ロレンソ(ロレ

ンソ・マルティネス)(”Negro” Lorenzo (Lorenzo Martínez)とのトリオでコチャバンバ

(Cochabamba)通りとポソス(Pozos)通りの角のサローン・スール(Salón Sur)で活動を始め

た。

フランシスコ・カナロを音楽の道に誘う

グレコ家とカナロ家のコンベンティージョ隣り合っていた。それで両家は親しく交流した。フラン

シスコ・カナロを音楽の道に誘ったのはビセンテ・グレコである。ある日、ビセンテはフランシスコ

に「どうして何か習って稼ぎに出ないのか? 君、音楽は好きではないのか?」と尋ねた。それでフ

ランシスコは当時流行していたマンドリンに取り組み、ビセンテのバンドネオンとギター弾きのルイ

ス・マルティーネス(Luis Martínez)との即席トリオで活動した。1903 年の頃である。3 人ともま

だ少年であった。フランシスコ・カナロがバイオリンに転じたのは 1905 年のことである。(Oscar

Zucchi, “El Tango, el Bandoneón y sus Intérpretes”, Tomo II , CORREGIDOR, 2001, p.559)。

巡業先で重傷を負う

ビセンテ・グレコがプロの道を歩み始めた頃、ブエノス・アイレス州とロサリオの人気のある娼家

に向けての巡業の話が舞い込んだ。

筆者は以前、エドゥアルド・アローラスの評伝を本機関誌に寄稿した(Tangueando en Japón,

No.46 (2019))が、その中でアローラスが 1911~12 年頃ブエノス・アイレス州の娼家を巡業して回

ったことを書いた。その時には「アローラスって変な奴だなあ」と思ったが、どうもそういうことで

はなかったようだ。当時のブエノス・アイレスでは、駆け出しの、すなわち未だカフェなどで働く程

には一人前でないタンゴ演奏家が手っ取り早く稼ぐ手段は娼家回りであったとういうのが実態であっ

たらしい。こうした巡業では決まったギャラがあるはずはなく、女目当ての客からの祝儀だけが収入

源であったと想像する。そういう人たちは金回りも良いはずだから、祝儀もそれなりに良く、一方

で、演奏の巧拙が直接収入に反映したとも思われる。しかし 20 歳そこそこの若者にとって娼家は

「誘惑の塊」でもあっただろう。それでそれらの娼家巡りをしたタンゴ演奏家たちの中にはたっぷり

稼いだ者もいた一方で、立派な「お土産」を貰って戻ってくる者もいたという。

そんな事情で、未だ駆け出しのタンゴ演奏家であり、アローラスよりははるかに真面目人間であっ

たと思われるビセンテ・グレコもその話に乗って娼家に向けての巡業に出た。この巡業でビセンテは

結構な評判と収入を得るとともに、その後の彼の音楽に顕著な影響を与えた多くのタンゴ人と知り合

うことが出来た。それらの人々とは「エル・ジョニー(El Johnny)」とあだ名されたピアニストの

プルデンシオ・アラゴーン(Prudencio Aragón)、バイオリン奏者で「ラ・クラバーダ(La

clavada)」の作者でもあるエルネスト・サンボニーニ「エル・レンゴ」(Ernesto Zambonini “El

Rengo”)、ギター奏者で「ラ・パロマ(La Paloma)」の作者でもあるホセ・グアルド(José

Guardo)、「ロス・ロサリーノス(Los Rosarinos)」とあだ名されたニカシオ(Nicasio)とエミリオ

(Emilio)のロドリーゲス(Rodríguez)兄弟らである。ビセンテはプルデンシオ・アラゴーンにタ

Page 5: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

5

ンゴ「エル・ピーベ(El pibe)」を献呈した。

この巡業でビセンテ・グレコは勿論「お土産」は貰わなかった(と思う)が、その代わりに最終的

には彼の寿命を縮める遠因となる大きな事故に巻き込まれた。ビセンテらのトリオがサン・ペドロ

(地名)での演奏中に大喧嘩が原因で演奏席が倒壊し、そのあおりでビセンテは重傷(打撲傷?)を

負ってしまった。オラシオ・フェレールはこれを 1902 年のこととしているが、その記述は些か疑わ

しい(恐らく 1907~8 年)。この重傷は静養を経て一応回復するのであるが、彼の泌尿器(腎臓?)

に大きな後遺症を残し、それが結果として彼の命を縮めることになる。

ブエノス・アイレスでの新たな活動の開始

1909 年頃、ビセンテ・グレコは弟のドミンゴのギターとリカルド・ガウデンシオ(Ricardo

Gaudenzio)―「エル・チュペーテ(El chupete)」の作者―のバイオリンとのトリオでネコチェア

(Necochea)通りとピンソン(Pinzon)通りの角のカフェ「ラ・トゥルカ(La Turca)」で活動し

た。

その後、数年間、ビセンテ・グレコは楽団メンバーの交代を交えながらボカでのカフェティンを回

って活動した。これらのカフェティンにいくつかはウェイターをアテンドさせていた(ということは

店のレベル乃至は格式がそれなりに高かったという意味であろう)。

スアーレス(Suárez)通りとネコチェア通りの角にあったカフェ「デル・グリエゴ(Del Griego=

ギリシャ人の)」にはビセンテ・グレコ、ドミンゴ・グレコ、「エル・トゥエルト」アルトゥーロ

(“El Tuerto”(*) Arturo)のトリオで出演した。このカフェの正式名称は「ロジャル(Royal)」で

あったが、店主がギリシャ人であったことからそれを意味する Del Griego が通称になったという。

「エル・グリエゴ」はビセンテ・グレコの処女作「エル・モロチート(El morochito)」が初演され

たことで知られている。この曲はビセンテの作品の記譜を引き受けたカルロス・ヘロニ(C. V. G. フ

ローレス)に献呈されたという。

「デル・グリエゴ」に引き続いてビセンテ・グレコは「ラ・マリーナ(La Marina)」、「テオドロ

(Teodoro)」、「エデーン(Edén)」、「ラ・ポプラール(La Popular)」などで活動した。その傍ら、

彼はバンドネオン教室を開いて収入を稼いだ。後にグレコ楽団のメンバーになるロレンソ・ラビシエ

ル(Lorenzo Labissier)もこの教室の出身者である。

タンゴのセントロ進出への契機となった「ロドリーゲス・ペニャ」

ビセンテ・グレコは 1910 年から 1912 年まで、タンゴのセントロへの進出を目標に活動を続け

た。彼の最も輝かしい成功は「サローン・ロドリーゲス・ペニャ(Salón Rodríguez Peña)」として

より知られていた「サローン・サン・マルティン(Salón San Martín)」において得られた。このサ

ローンにビセンテは彼のバンドネオン、リカルド・ガウデンシオとホセ「パリト」アバテ(José

“Palito” Abate)のバイオリン、マルコス・ラミーレス(Marcos Ramírez)のピアノからなるクア

(*) Tuerto は「独眼の人」を意味する。昔のタンゴの世界ではこのように身体的欠陥をあだ名にしている

例は多い。現代の視点からすれば「差別」であるが、当時としてはむしろ親しみを込めてのあだ名であっ

たと思われる。

Page 6: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

6

ルテートで出演した。そこでの或る夜に初演されたビセンテの新作タンゴに聴衆は熱狂し、演奏者た

ちを担架のような台に乗せてコリエンテス(Corrientes)通りまで引き出した。このタンゴは店の名

前に因んで「ロドリーゲス・ペニャ(Rodríguez Peña)」と命名された。参考資料[3]には、この夜

以後、ブエノス・アイレスのいかなる頑固親爺も息子や娘がタンゴを踊ることに文句は言わなくなっ

た、と記述されている。実際はそんな簡単な話ではなかったと思うが、少なくともこの曲がタンゴの

セントロ進出への足掛かりになったことは確かだろう。

ビセンテ・グレコは更にカフェ「エル・エストリーボ(El estribo)」にも進出した。ここではビセ

ンテのバンドネオンに加えてフランシスコ・カナロとホセ・アバテのバイオリン、アグスティン・バ

ルディのピアノ、ビセンテ・ペッシ(Vicente Pecci)のフルートの 5 人編成で活動した。店は大繁

盛し、入りきれなかった群衆を整理するための警官が必要なほどであった。店の名前に因んだビセン

テ・グレコの作品「エル・エストリーボ(El estribo)」は店のオーナーのマリオ・スコルピーニ

(Mario Scolpini)氏に献呈された。

この他にビセンテ・グレコが出演したカフェやサローンとしては「ロ・デ・ラウラ(Lo de

Laura)」、「ロ・デ・マリーア・ラ・バスカ(lo de María la Vasca)」、エル・サローン「ル・カブー

ル(Le Cavour)」、「バル・イグレシアス(el bar Iglesias)」などの名前が挙げられる。

1912 年、ビセンテ・グレコは楽団を率いてキャバレー「アルメノンビル(Armenonville)」の開

店のためのこけら落としに参加した。この後、1918 年頃までビセンテ・グレコ楽団はカーニバルの

バイレや様々なサロン、キャバレー、クラブ、ホテルに出演した。

1916 年にビセンテ・グレコはロサリオ市のポリテアマ(Politeama)劇場でのカーニバルのバイ

レに出演するためにフランシスコ・カナロとの共同大楽団を編成した。これは現代のような PA シス

テムが無かった時代に、非常に騒がしい大衆の中で大音量を実現するための方策であった。そのメン

バーはバンドネオン:ビセンテ・グレコ、ロレンソ・ラビシエリ、ペドロ・ポリト、オスバルド・フ

レセド、バイオリン:フランシスコ・カナロ、ラファエル・リナルディ、フランシスコ・コンフェッ

タ、ハーモニウム(リードオルガンの一種):ホ

セ・マルティネス、フルート:ビセンテ・ペッ

シ、コントラバス:レオポルド・トンプソン、リ

ハ(Lija、楽器の名称らしいが詳細不明):パブ

ロ・ライセ、クラリネット:フアン・カルロス・

バサーンで、総勢 12 名の大所帯であった。

ビセンテ・グレコの録音活動

ビセンテ・グレコは 1911 年にコロンビア・レ

ーベルに録音を開始した。但し、録音年について

は 1910 年とする説もある。レコードのレーベ

ルにはオルケスタ・ティピカ・クリオジャの名

称が印刷されている。参考資料[1]によればこの

時の楽団編成はビセンテ・グレコ(バンドネオ

ン)、フランシスコ・カナロ(バイオリン)、ド

後列:向かって左からフランシスコ・カナロ、ビセンテ・

ペッシ、ホセ・アバテ

前列:左からビセンテ・グレコ、ドミンゴ・グレコ、ロ

レンソ・ラビシエル 出処:el bandoneón EBCD 122

Page 7: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

7

ミンゴ・グレコ(ギター)、ビセンテ・ペッシ(フルート)の 4 人編成である。その後、楽団は第 2

バンドネオンにロレンソ・ラビシエル、第 2 バイオリンにホセ・アバテを加えた 6 人編成に拡大さ

れた。前頁に掲げた写真がそれであろう。なおこの写真については左右が反転した画像も諸資料に見

出され、どちらが正しいかはっきりしないが、バンドネオンの空気抜きのレバーの位置やバイオリン

やフルートの持ち方から見てこの方が正しいであろうと判断した。ビセンテはその後更にギターをピ

アノで、フルートをコントラバスに置き換え、オルケスタ・ティピカの基本構成を完成した。1914

年には「キンテート・クリオジョ・ガローテ(Quinteto criollo Garrote)」の名称でアトランタ・レ

ーベルでの録音を開始した。表 1 に参考資料[1]をベースに作成したディスコグラフィを掲げた。但

し、90 年も以前のことなのでデータは貧弱であり、各録音における楽団構成の詳細も不明である。

まとまった復刻例としては CD の el bandoneón EBCD 122 が恐らく唯一であり、あとはいろいろな

LP や CD に散発的に復刻されているのみで、その数も少ない。

1910 年代前半は当然アコースティック録音で、録音技術もそれぞれの楽器の音が分離して聴き取

れるほどには進んでいなかったように思われる。実際、復刻例を通して聴いた限りでは、ビセンテの

バンドネオンの音は良くは聴き取れない。録音によってはフルートの音ばかりが響く。フランシス

コ・カナロのバイオリンに至っては全く聴き取れない。そんなわけでビセンテ・グレコの録音復刻は

とても鑑賞の対象にはならず、精々、参考データ程度である。

疑義のある写真

駆け出しの頃のサン・ペドロでの重傷事故は

徐々に、ビセンテ・グレコの健康状態を確実に損

なってゆき、演奏活動は次第に断続的になってい

った。1921 年のコルドバでのカーニバルのバイレ

での公演が彼の最後の活動になった。1924 年 10

月 5 日、ビセンテ・グレコは尿毒症で世を去っ

た。享年 36 歳。

右に掲げた写真は Roberto Daus, “EL TANGO

MEDIO SIGLO EN IMAGENES” (ALMENDRA

MUSIC S.I. 1998)という写真集に“Orquesta

Típica Greco”として掲載されているものである

が、筆者にはバンドネオンの 2 人のどちらもビセ

ンテ・グレコには見えない。以前に石川浩司氏に

このことをお尋ねした時に氏は「向かって左がビセンテ・グレコではないか」と言っておられたが、

その風貌は参考資料[1]に記載されていることとはかなり違っている。この写真について詳しい情報

をお持ちの方がおられたらご教示願いたい。

作曲家としてビセンテ・グレコ

復刻例はあるもののとてもあまり鑑賞向きではないので、我々にとってビセンテ・グレコは演奏家

というよりは作曲家としてのイメージの方が強い。表 2 は参考資料[1]に基づいた作成したビセン

Orquesta Típica Greco 出処:Roberto Daus, “EL

TANGO MEDIO SIGLO EN IMAGENES”

Page 8: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

8

テ・グレコの作品リストとである。短い生涯の割にはかなり多くの作品を残しており、今日でも演奏

される曲も多い。この表の中で Alma portena, La milonguera, La percanta esta triste(これはガ

ルデルによって初演された。ガルデルはこれを 1921 年に録音もしている), Pobre corazoncito の 4

曲についてビセンテ・グレコは作曲のみならず作詞もしている。彼は文才もあったようだ。

再び「ロドリーゲス・ペニャ」

最近の我が国のタンゴ・ファン(タンゴ聴く人)の間では短調で書かれた哀愁とセンチメンタリズ

ムに富んだタンゴに圧倒的な人気がある。それで明るくて陽気な Rodríguez Peña の人気はイマイチ

のようである。何が好きで何が嫌いかはその人の勝手で、それをどうこう言うことは全くない。しか

し Rodríguez Peña は何と言ってもビセンテ・グレコの代表作であり、それがタンゴの歴史の中で果

たした大きな役割を考えれば、好き嫌いは別にして、皆がもう少しこの曲に敬意を払っても良いので

はないかと思う。筆者がタンゴを聴き始めた昭和 20~30 年代は Rodríguez Peña は今よりももっと

しばしば聴かれていたように思う。そして筆者は今もって Rodríguez Peña は好きである。

ビセンテ・グレコが活躍した時代、広く言えばグアルディア・ビエハの時代のタンゴはその後の時

代に比べれば総体的に明るかったと思う。それはその時代にタンゴがどういう場所で演奏され、聴か

れていたかを考えれば理解できる。マレーボたちや酔客が大勢たむろする居酒屋や好き者が集まる娼

家でセンチメンタルなタンゴが好まれるわけがない。そんな場所でセンチメンタルなタンゴを演奏し

たら「出ていけ!」とばかりに追い出されるのが関の山であろう(フィリベルトが Caminito を発表

した 1924 年はすでにグアルディア・ビエハの時代ではなかったが、それでもその初演は失敗だっ

た)。タンゴはそうした時代背景の中で育った。それを考えれば「あのタンゴは明るいからダメだ」

と一概に言うことも無いのではないか。

参考資料

[1] Oscar Zucchi, “El Tango, el Bandoneón y sus Intérpretes”, Tomo I , CORREGIDOR, 1998,

pp.246-275

[2] Horacio Ferrer, “Libro de Tango” Tomo II , ANTONIO TERSOL, 1980

[3] 高山正彦、『タンゴ』、新興楽譜出版社 1954 年

[4] 大岩祥浩、『アルゼンチン・タンゴ —アーティストとそのレコード―』(改訂版)、ミュージッ

ク・マガジン社、1999 年

Page 9: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

9

表 1-1

レコード番号 曲名 作者 曲種 マトリス番号 録音年 復刻LP,CD

T-215 Rosendo Genaro Luis Vázquez tango 55400 1911 (e)

Don Juan Ernesto Ponzio tango 55401

T-216 El morochito Vicente Greco tango 55402 1911 (a)

El pibe Vicente Greco tango 55403 1911-1914 (a)

T-217 ¿Qué hace de noche? N. Braun tango 55404 1911-1914 (a)

Hotel Victora Feliciano Latasa tango 55405 1911-1914 (a)

T-218 Cara dura Ernesto Ponzio tango 55406 1911-1914 (a)

La cara de la luna Manuel Campoamor tango 55407 1911 (a)(b)

T-219 El incendio Arturo De Bassi tango 55408 1911 (a)

Ahí nomás Manuel Campoamor tango 55409 1911-1914 (a)

T-220 La mascota Gerardo Metallo tango 55410 1911-1914 (a)

El otario Gerardo Metallo tango 55411 1911-1914 (a)

T-221 Queca Modesto Ocampo tango 55412

Joaquina Juan Bergamino tango 55413 1911 (d)

T-222 El talar Prudencio Aragón tango 55414 1911-1914 (a)

La paloma José Guardo tango 55415 1911-1914 (a)

T-223 Tamburín ? polca 55416

Francia Octavo Barbero vals 55418

T-224 Amar es vivir ? vals 55417

Invernal P. Martí vals 55419

T-225 Polilla Rosendo Mendizábal tango 55420

Venuspor la Banda del reg.1°

de Infantería valsvals

T-618 El estribo Vicente Greco tango 57017 1912 (e)

El garrotazo Vicente Greco tango 57018 1911-1914 (a)

T-619 Bubuchy Vicente Greco tango 57020

Los patos Vicente Greco tango 57024

T-685 Los muchachos Vicente Greco tango 57025

Chochita Vicente Greco tango 57026

T-686 Vicencito Agustín Bardi tango 57027 1911-1914 (a)

Pulmonía doble José Abate tango 57028 1911-1914 (a)

T-687 Pachequito Vicente Greco tango 57019 1911-1914 (a)

Don Pedrito Domingo Greco tango 57029 1911-1914 (a)

T-688 Palito Vicente Greco tango 57021 1911-1914 (a)

La muela cariada Vicente Greco tango 57022 1911-1914 (a)

S-2017 Estoy penando Vicente Greco tango 57023 1911-1914 (a)

Que querés Domingo Greco tango 57030 1911-1914 (a)

171 La viruta Vicente Greco tango

Vamos a ver Francisco Canaro tango

172 El estribo Vicente Greco tango

La clavada Ernesto Zambonini tango

Discos Colombia    Vicente Greco y su orquesta típica criolla

Discografía de Vicente Greco

Discos Altanta Quinteto criollo "Garrote" director V. Greco

Page 10: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

10

表 1-2

レコード番号 曲名 作者 曲種 マトリス番号 録音年 復刻LP,CD

173 La muela cariada Vicente Greco tango

Pura uva José Martínez tango 1913 (e)

174 El perverso Vicente Greco tango

Quién sabe? Samuel Castriota tango

175 Estoy penando Vicente Greco tango

Vicencito Agustín Bardi tango

176 Muy de la bombonera Ángel G. Villoldo tango

Hospital San Roque Vicente Greco tango

177 La flor de pago Francisco Canaro tango

María Angélica Vicente Greco tango

178 El Maldonado Carlos Hernani Macchi tango

Pabellon de las rosas Jose Felipetti vals

179 La barra fuerte Francisco Canaro tango

Que querés Domingo Greco tango

180 Una noche de garufa Eduardo Arolas tango 1914

Esultanza ? mazurca

181 Predente del brazo nena Ángel G. Villoldo tango (1)

Galerita (por la Rondalla

Firpo)E. L. Tulasne tango

810 Oro viejo Francisco Canaro tango

Agarrame que me caigo M. E. Mignot tango

811 El divorcio B. La Scalea tango

Pinta brava Francisco Canaro tango

846 Rl riojano Francisco Canaro tango

Pochochón ? tango

847 La querencia Francisco Canaro tango

Mi pasión ? mazurca

848 El pial Agustín Bardi tango

Amelia Vicente Pepe polca

857 Los inseparable Francisco Canaro tango

Amame Vicente Pepe vals

858 El gavilán Francisco Canaro tango

Nicolasito Vicente Pepe polca

859 Zorro viejo Francisco Canaro tango

Albión Vicnete Pepe polca

860 Clavel blanco Francisco Canaro tango

Tina Vicente Pepe polca

861 Alma gaucha Francisco Canaro tango

Aretusa J. Canavesi mazurca

862 El chimango Agustín Bardi tango

Marta Vicente Pepe polca

復刻LP

(1) AZUR S.D.S. 22.521

復刻CD

(a) el bandoneón EBCD 122, (b) A.M.P. CD-1106, (c) A.M.P. CD-1254, (d) A.M.P. CD-1278

(e) Antrogía del Tango Rioplatense, INSTITUTO NACIONAL DE MUSICOLOGIA "CARLOS VEGA"

Page 11: ビセンテ・グレコ「ガローテ」webtango.web.fc2.com/vicentegreco.pdf父親はヘナロ・グレコ(Genaro Greco)、母親はビクトリア・サ ント(Victoria Santo)で共にナポリ人の血を引くイタリア移民であった。夫婦はその男女7

11

表 2

録音例 録音例

1 Alma porteña (*)C. Gardel,

el bandoneón EBCD 5332 La paica

2 Argentina 33 La percanta está triste (*)

3 Ausencia 34 La regadera

4 Barba de choclo 多数 35 La viruta 多数

5 Bubuchy 36 Los muchachos

6Criollo viejo (Por

criollo y por cantor)

C. Di Sarli,

A.M.P. TC 1012

A.M.P. ESR-2003

A.V. ALMA CTA-502

37 Los patos

7 Chochita 38 Los soñadores

8 De raza 39 Luna de invierno

9 El anatomista 40 María AngélicaA. A. Pérez (Pocholo)、

      A.M.P. CD-1186

10 El cuzquito 多数 41 Máskara dura

11 El chicotazo 42 MontarázO. Pugliese, EMI 6160,

OBRAS COMLETAS Vo. 22

12 El eléctrico 43 Noche brava

13 El enamorado 44 Ojos negros 多数

14 El estribo 多数 45 PachequitoV.Greco,

  el bandoneón EBCD 122

15 El flete 多数 46 PalitoV.Greco,

  el bandoneón EBCD 122

16 El garrotazoV. Greco,

el bandoneón EBCD 12247 Pobre corazoncito (*)

17 El mejicano 48 Pobre medrecitaF. Canaro,

   A.V.ALMA CTA-5057

18 El morochito 多数 49 Popoff

19 El pangaré

Cuarteto "Los Ases",

     LP/CD復刻例多数

R. Firpo,

  el bandoneón EBCD 145

Vicente Loduca,

  el bandoneón EBCD 126

50 Pueyrredón

20 El pato de la Z

H. Varela,

EURO RECORDS EU 18005

BATC 83916

51 ¡Qué nene!

Cuarteto Centenario,

     RCA CAL-3242

J. Maglio,   CBS 20-918

  el bandoneón EB-CD 36

21 El perverso 多数 52 Racing Club 多数

22 El pibe (El Yoni) O.T.V.,    A.M.P. CD-1165 53 Rodríguez peña 多数

23 Estoy penando 多数 54 Saladillo

24 Hospital San Roque 55 Tiene la parabla

25 Kikí 56 Tita

26 La canota 57 Zazá

27 La chicha

28 la gaucha 58 La ciega

29 La Infanta

30 La milonguera (*) 59 El amor es cosa juerte

31 La muela cariadaV. Greco,

  el bandoneón EBCD 122(*) Musica y Letra de Vicente Greco

Canción

Canción cuyana

Obras de Vicente Greco

Tango Tango