ウァレリアヌス帝迫害 - chiba u...(cornelius)martyrio coronaturに確認されるが、...

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ウァレリアヌス帝迫害 (Valerian’ s Persecution of the Church, A.D.257 258) 保坂 高殿 研究史において3世紀中葉に生じたウァレリアヌス迫害の狙いはデキウ ス迫害と具体的措置の細目の点では多少の相違があるとはいえ、「(教会の) 指導者たちを処罰することによって(教会)組織を粉砕する」 という本質的 な点では同一と見なされてきた。実際、257年の第1告示では聖職者の追放 が、翌258年の第2告示では司教、司祭そして助祭に対しては死刑、身分の 高い一般信徒には地位と財産没収が命じられた。しかしデキウス迫害の目的 が教会組織の組織的破壊ではなく、逆に教会に対する民衆の暴力の組織的抑 制、そして抑制を通した社会秩序の回復を目指していたのだとすると、ウァ レリアヌス迫害にも同じ目的を想定することができるのかどうか、迫害の目 的は何であり、その達成のための手段は何であったのか、もう一度史料に即 して正確に規定しなければならない。ウァレリアヌス迫害の真意を解明する ためにはデキウス迫害との連続面と不連続面の両面に注目しなければならな い。デキウス、ガッルスによる迫害期を通して被告キリスト教徒に対しそれ まで市当局者がとった方策には、1)拷問を伴った牢獄監禁 2)追放処分 3)総督法廷送致の三種類があったものの、総督は1)の手段にのみ訴 え、皇帝命令を遂行すべき職務上の理由から2)のように頑強な供犠拒否 者を厄介払いすることはなかった。ところが253年ウァレリアヌスがその子 ガリエヌスと共に帝位に就くとキリスト教徒に対する帝国の対応に微妙な相 E. Schwartz, Kaiser Constantin und die christliche Kirche 1913 (1936 )46 ; G. Th. Oborn, Why Did Decius and Valerian Proscribe Christitanity? Church History 2(1933)67 77 , here 73“crush the power of the Christians by destroying their organization” ; P. Keresztes, Two Edict of the Emperor Valerian, VChr 29(1975)81 95 ,here94 . 教会組織破壊の理由は「キリスト教 会は国家にとって危険だから」。

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ウァレリアヌス帝迫害(Valerian’s Persecution of the Church, A.D.257―258)

保坂 高殿

研究史において3世紀中葉に生じたウァレリアヌス迫害の狙いはデキウ

ス迫害と具体的措置の細目の点では多少の相違があるとはいえ、「(教会の)

指導者たちを処罰することによって(教会)組織を粉砕する」1という本質的

な点では同一と見なされてきた。実際、257年の第1告示では聖職者の追放

が、翌258年の第2告示では司教、司祭そして助祭に対しては死刑、身分の

高い一般信徒には地位と財産没収が命じられた。しかしデキウス迫害の目的

が教会組織の組織的破壊ではなく、逆に教会に対する民衆の暴力の組織的抑

制、そして抑制を通した社会秩序の回復を目指していたのだとすると、ウァ

レリアヌス迫害にも同じ目的を想定することができるのかどうか、迫害の目

的は何であり、その達成のための手段は何であったのか、もう一度史料に即

して正確に規定しなければならない。ウァレリアヌス迫害の真意を解明する

ためにはデキウス迫害との連続面と不連続面の両面に注目しなければならな

い。デキウス、ガッルスによる迫害期を通して被告キリスト教徒に対しそれ

まで市当局者がとった方策には、1)拷問を伴った牢獄監禁 2)追放処分

3)総督法廷送致の三種類があったものの、総督は1)の手段にのみ訴

え、皇帝命令を遂行すべき職務上の理由から2)のように頑強な供犠拒否

者を厄介払いすることはなかった。ところが253年ウァレリアヌスがその子

ガリエヌスと共に帝位に就くとキリスト教徒に対する帝国の対応に微妙な相

1 E. Schwartz, Kaiser Constantin und die christliche Kirche 19131(19362)46; G.Th. Oborn, Why Did Decius and Valerian Proscribe Christitanity? ChurchHistory 2(1933)67―77, here 73“crush the power of the Christians bydestroying their organization”; P. Keresztes, Two Edict of the EmperorValerian, VChr 29(1975)81―95, here94. 教会組織破壊の理由は「キリスト教会は国家にとって危険だから」。

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違が、主に被告を供犠へと導くための戦術面に現れる。本稿ではこの点に着

目して、ウァレリアヌスが即位後に公布した二つの告示の意図、その背景に

ある社会状況および帝の状況判断について詳しく論証したい。

アレクサンドリアのディオニュシオスによればウァレリアヌスの対教会政

策は前半と後半とで顕著な対照を示しており、前半(256年末まで)はキリ

スト教徒が帝室内でも厚遇される程、皇帝は教会全般に友好的であったのに

対し、後半は一転して弾圧に乗り出し2、多くの殉教者を輩出させている。

確かにローマ司教コルネリウスやルキウスなど前半期に受難した教会指導者

も存在し、キプリアヌスからは殉教者と呼ばれたにせよ3、354年の『ローマ

殉教者埋葬暦』に両者の名はなく、『ヒエロニムス殉教者暦』の9月14日の

箇所に「(ローマの)コルネリウス、司教、告白者」との記載が見られるだ

けで、ルキウスについてはどちらの暦にも言及が見られない。両司教とも多

分追放後に病死したものと思われる4。一方、ウァレリアヌス期の迫害を記

した証言や文書、例えばヌミディア/北アフリカで成立した『マリアノスの

殉教』、ヒスパニアの『フルクトゥオスス殉教録』、それにカルタゴの『キプ

2 HE 7.10.1―43 Cyp Ep 61.3episcopum Cornelium beatum martyrem;68.5antecessorum

nostrorum beatorum martyrum Cornelii et Lucii honor gloriosus. Cf. 67.6;69.3.一方で61.1te[=Lucium]confessorem.

4 ルキウスの追放(居住地制限)についてはCyp Ep 61.1[ルキウス宛て]relegationem vestram sic divinitus esse dispositam; ibid episcopus relegatuset pulsus. CatLib [=LibPont I 6f]exul fuit et postea ... incolumis adecclesiam reversus est[後に無傷でローマに帰還]。ILCV 958でも単に「ルキ(ウ)ス、司教」とだけある。しかしLibPont I67―9ではmartyrio coronatur... a Valeriano capite truncatus estと殉教者扱いを受ける。コルネリウスを殉教者と記す資料が一部の碑文ILCV 956a Cornelius martyr ep あるいは文献Hieron Chron 218f[Helm. anno252]martyrio coronatus est; LibPont I64f

(Cornelius) martyrio coronaturに確認されるが、LibPont の初版は6世紀以降の編集であり、コルネリウスの他にもアンテロス、ルキウス、ステファヌス、フェリクス、マルケッリーヌスを殉教者と、ウルバヌスとガイウスを告白者と記す点で4世紀のCatLib と大きな食い違いを見せ、信頼性に乏しい。またILCV 963のダマスス碑文ではエウセビウスが「(ローマ)司教、殉教者に」と、ILCV 967のエピタフィウムではリベリウスが「殉教者」と記されるが、両司教ともCatLib, LibPont では殉教者と見なされていない。エウセビウスは追放地で客死した告白者にすぎず、厳密な意味での殉教者ではない。時代が下るにつれて聖者を殉教者視する傾向が強くなるということだろう。

千葉大学 人文研究 第36号

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リアヌス殉教録』はどれも治世後半の257年以降に生じた事件を伝えたもの

である。アレクサンドリアのディオニュシオス自身が体験した苦難も257年

に想定される5。

ウァレリアヌス帝迫害に共通しているのは聖職者の追放である。皇帝は頑

強な供犠拒否者に対する追放処分を通して一般信徒と聖職者を分離し、そう

して信徒を供犠へ導く戦術をとったようだ。単に投獄および拷問で供犠を強

制するのではなく、追放、より正確に言えば、居住地制限によって聖職者を

遠隔地に分離し、分離することで牧者なき羊の群たる一般信徒の団結を断ち

切り、他方では聖職者自身を「改悛」させ、彼らに一般信徒をローマの帝国

宗教へと導かせる役割を期待したのである。その意味でウァレリアヌス迫

害、特に257年の第1告示は教会に対する粘り強い説得工作への第一歩であ

り、追放、居住地制限、そして鉱山送りの刑を同様に棄教強制の手段として

多用した約半世紀後の大迫害への序曲でもある。

1 第 1 告 示

ウァレリアヌス告示についての証言資料は二つあり、一つはカルタゴでの

法廷尋問を記した『キプリアヌスのプロコンスル文書』(俗に『キプリアヌ

ス殉教録』)、もう一つはアレクサンドリアで行われた法廷尋問を記したエウ

セビオス『教会史』所収のヘルマモン宛て司教ディオニュシオス書簡である6。

前者はキプリアヌスの最期を記録する目的から、第1告示のみならず翌258

5 カエサレア/パレスティナにおけるマリノスの殉教(HE 7.15.1―5)は『教会史』における記事の位置関係からガリエヌス単独統治開始年の260年ととるべきだろう。HE 7.15.1では「平和」が強調される。ガリエヌス告示が公布されたにせよ、即座に帝国の隅々まで効力を及ぼすわけではない。なおHE 13章で260年のガリエヌス告示が引用されながら、14章では再度258年の出来事(ローマ司教シクストゥスの殉教)に話が戻っているが、エウセビオスはシクストゥスの在職期間を「11年」(HE 7.27.1)と思い誤っているいるため(Eus/HieronChron でも256―266年。実際には257―8年の約1年)、このローマ司教の殉教年も260年以降と想定していたと考えられる。 HE の年代表記は信用性に乏しい。

6 HE 7.1; 7.10.2―9; 7.23.1―44.エウセビオスによる抜粋が同一書簡からとすれば執筆はHE 7.23.4「(ガリエヌス)統治第9年目」への言及を根拠に262/3年。

ウァレリアヌス帝迫害

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年の第2告示に基づく法廷審理をも叙述対象とするが、後者は第2告示に

対する言及は一切含まず、またディオニュシオス自身の経験を綴った書簡で

あるため、必然的に自身の最期は叙述対象から外されている。

告示の文面について示唆した章節は以下の通り。カルタゴ駐在のローマ総

督パテルヌスが法廷尋問の際キプリアヌスに語った言葉である。

ActCyp 1.1 Sacratissimi impera-

tores Valerianus et Gallienus,

litteras ad me dare dignati sunt,

quibus praeceperunt eos qui

Romanam religionem non colunt

debere Romanas caeremonias

recognoscere.

「至聖なる皇帝ウァレリアヌスとガ

リエーヌスは私のもとに書簡を書き

送るという光栄を与えて下さった。

その書簡で皇帝方は、ローマの宗教

を奉じぬ者どもはローマの儀礼を認

知せねばならない、と命じられたの

である。」

a)告示発令の時期と端緒

告示は皇帝から属州総督への書簡送付を通して当該属州において公示され

た。アレクサンドリアのディオニュシオスの法廷召喚日は不明だが7、カル

タゴではキプリアヌスが257年8月30日(ActCyp 1.1)に法廷に召喚され

たこと8を考えると、第1告示は257年夏頃、現地の治安状況に関する総督か

らの報告に基づき幾つかの属州でのみ発せられたと考えるのが妥当である。

一方首都においては、治安関連の案件は都警隊や護衛隊の管轄に属するた

め、皇帝自らが、あるいは元老院が直接訴訟を扱う場合を除き、案件は部隊

の長官に委任されたと思われるが9、第1告示下のローマにおいては司教

(ステファノスとシクストゥス)の殉教記録のみならず逮捕尋問記録さえも

欠落していること、また迫害期には集会が開けないため後継司教選が先送り

7 召喚当時の総督M. Aemilianusの在職期間は257―9年の幅があり(下記註84)、召喚年を特定することができない。

8 ウァレリアヌスに与えられた「(権力と)42ヶ月」(HE 7.10.2;黙13.5)を7年間の統治期間の前半と後半それぞれに割り振れば、第1告示発令は257年の年初頃に当たるが、ディオニュシオスは黙示録引用によっておおよその値(月数)を示したにすぎない(v. Harnack Eine bisher nicht erkannte Schrift desPapstes Sixtus II. Vom Jahre257.8.in: TU 13―1,6)。

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にされることが多く、デキウス帝第1告示下における250年1月のファビア

ヌス殉教後は後継司教コルネリウスが251年3月に叙任されるまでの間、集

会が開かれず司教空位期が一年ほど続いたのに対し10、シクストゥスは257

年8月にステファヌスが死去した直後、同月中に叙任され11、かつまた第2

告示発令までの間追放されることなく首都に留まっていた事実があり、アレ

クサンドリアおよびカルタゴの司教とこの点で著しい対照を示している。首

都においては集会を禁じた第1告示は発せられなかった可能性が高い12。

発令の端緒については、これに直接言及した資料は存在しないため推論す

るしかない。殉教録は信徒に対し迫害期における模範的行動を示すことを編

集意図としているため13、通常の場合、叙述は市当局による逮捕か、もしく

は法廷尋問の場面から始まり、告示発令に至る具体的経緯は省略される。告

示が属州においてのみ発令された事実に着目すれば、迫害は現地属州におけ

る民間での騒擾に関し総督が首都に報告書簡を書き送ったことに端を発した

9 ActJust では首都の都警隊長官が、4世紀Maximinus迫害期にはおそらく護衛隊長官が担当した(Cf. HE 9.1.2;9.9a.1―12[Sabinus])。ActApoll ではアルメニア語版および『教会史』版(HE 5.21.1―4)が首都を、ギリシア語版は属州アジアを訴訟地として挙げ、食い違いが見られるため、訴訟形態について確実なことは言えない。

10 Cyp Ep 55.8(迫害の嵐のため)Fabiani locus ... et gradus cathedraesacerdotalis vacaret. 集会および司教選は迫害鎮静化後である(Cyp Ep 55.6persecutione sopita cum data esset facultas in unum conveniendi; 15.1persecutione finita convenire in unum cum clero et recolligi coeperimus)。258年の第2告示下でも集会が開けなかったため、後継司教Dionysiusの叙任まで空位期が約1年続き、この間司祭団が指導にあたった。CatLib ad“Sixtus”

[et presbyteri praefuerunt]a cons. Tusci et Bassi[258]usque in diem XIIkl. Aug. Aemiliano et Basso cons.[259]. 同じく大迫害期にも首都では304年からMarcellusが叙任された307年までの約3~4年間、集会が開けず司教空位期が続いた。CatLib ad“Marcellinus”quo tempore fuit persecutio et cessavitepiscopatum ann. VII m. VI d. XXV. 空位期間を「7年6ヶ月25日」と見積るが正確ではない。

11 無論、叙任が第1告示直前であった可能性もある。12 ローマ司教ステファヌスは257年8月2日に殉教することなく死去した

(LibPontif [Duchesne]67―8ではmartyrio coronaturとあるのに対しCatLibでは殉教に対する言及がない。上記註4)。同月中に後継司教として叙任されたシクストゥスは第2告示発令に至ってから首都で殉教(下記註89)。

13 拙論「殉教者称号の成立と法廷告白奨励の倫理」『聖書の思想とその展開』教文館pp.239―267、特に256以下参照。

ウァレリアヌス帝迫害

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と推測される。それに反しディオニュシオス書簡には、ウァレリアヌス帝に

迫害を強く進言した財務長官(後の簒奪帝)マクリアヌスの逸話が紹介され

ており、多くの研究者はこの逸話に信憑性を認めて迫害の端緒と了解してい

る。しかしマクリアヌス逸話には信用できないことが一点織り込まれてい

て、にわかに側近の進言を告示発令の端緒とは認定するのは困難である。魔

術の精通者で実践者であり、「エジプト魔術師団の会堂長」14と呼ばれたマク

リアヌスが宮廷からキリスト教徒を排除すべことを皇帝に進言する際に以下

の理由を挙げたとディオニュシオスは伝える。

「と言いますのも彼ら(宮廷内のキリスト教徒)は、嘔吐すべき穢れ切った

まじないに敵対し、邪魔をせんとする連中であり、実際のところ臨座し、凝

視し、息を吹きかけ言葉を発するだけで罪深きダイモーンどもの奸計を頓挫

させる能力を過去有していましたし、今現在も有しているからです。」15

財務長官は、キリスト教徒が臨座する所、ダイモーンが逃避してしまって

祭儀に支障をきたすと考えた、という。しかしこの言葉はキリスト教の視座

に立ってのみ発言し得るもので、教会側の民間伝承に属するモチーフだと言

わざるを得ない。理由は、

1)発言は悪霊を祓うキリストの全能を認めており、キリストを認めない異

教徒の発言とは考え難い。古代世界における改宗は総じて当該神の全能の

認知であるゆえ、異教徒ならその全能を認めた時点で、既に“改宗”する16。

14 HE 7.10.4 τω^ν α’π’Αι’γυπτου µαγων α’ρχισυναγωγο . 異教の宗教制度でも「会堂長」という表現は使われ、碑文資料に多く現れるが、これがユダヤ的表現からの借用か否かは不明(Schurer The History of the Jewish People in theAge of Jesus Christ ,3Vols. Revised and edited by G. Vermes, F. Millar andM. Black. Literary Editor: Pamela Vermes1973―1987, II436n.40)。

15 HE 7.10.4 ... και` γα`ρ ει’σι`ν και` ’^ησαν ι�κανοι , παροντε και` ο�ρωµενοι και`µονον ε’µπνεοντε και` φθεγγοµενοι διασκεδασαι τα` τω^ν α’λιτηριωνδαιµονων ε’πιβουλα .

16 多神教的枠内における�改宗�では異神に対する憎悪や排他意識は発生せず、格付けが生じるだけである。フィリップス・アラブスやコンスタンティヌスの場合がこれに該当する。キリスト教徒に対する異教民衆の憎悪は異神礼拝ではなく異教社会への非適応が原因であった。

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元来帝国権力者の動機を推察することは同時代人にも無理であるため、信

徒らは迫害が生じる度に、その端緒や迫害者の動機、そして目的を憶測

し、これを歴史叙述者が叙述の中に取り込んで、事態の推移の説明に利用

するが、キリストの全能のゆえの異教祭儀の頓挫を迫害着手の理由づけに

利用した例は他にも、大迫害に数年先行した軍迫害についてのラクタン

ティウス証言がある17。

2)ウァレリアヌス帝が側近マクリアヌスの進言に動かされて迫害に踏み

切ったという筋書き自体も、ティオクレティアヌスに執拗に教会破壊の決

断を迫ったガレリウス像を提示するラクタンティウスと同じ手法である18。

さらに、

3)マクリアヌスは皇帝に、キリスト教徒を宮廷から排除し、「穢れた秘儀、

不浄な魔術、そして神に喜ばれぬ犠牲を執行し、不幸な子供を屠り、哀れ

17 ダイモーンを無力化するキリストの絶大な力を前提。MorsPers 33.5でも病床のガレリウスに対してアポロンもアスクレピオスも無力であったことが語られる(そして最後にキリスト教の神に望みをかけた、という筋書き)。Eus VC2.50は腸トではなく託宣の不調を迫害原因とする。託宣不調の事例は他にもSoz HE 3.18[聖遺物ゆえの託宣沈黙];VitaPachom 3(PL 75.231D―232A)。悪霊はイエスの名または十字形により祓われた(Athanas VitaAnt 78 Και`ε’νθα το` σηµει^ον του^ σταυρου^ γινεται, α’σθενει^ µε`ν µαγεια, ου’κ ε’νεργει^ δε`

φαρµακεια)。MartCarp 17f[託宣は悪魔の仕業]; Orig c. Cels 8.62. フェニキア地方の祝祭では泉に投げ込まれた犠牲獣が消える奇跡が行われていたが、これも敬虔な信徒Asteriusの祈りによって奇跡自体が生じなくなった、と言われる(HE 7.21.17)。さらにCyp Ep 75.10[教会内セクトに属する女偽預言者が自分には地震を引き起こす能力があり、そうするつもりだと預言]は迫害勃発原因を、キリストの力を脅威と受け止めた異教徒の思い込みに求める。これは迫害勃発に関するキリスト教的な思い込みに従った教会側の解釈である。迫害に着手した皇帝の動機は同時代人にも不明で、憶測されるだけである(Cf.MartPal 9.1[Maximin第2告示について])。なおP.S. Davies, the Origin andPurpose of the Persecution of AD303, JTS 40(1989)66―94, here79は、腸ト不調に関するラクタンティウス証言について、証人(儀式に臨座したディオクレティアヌスの側近)がいたこと、そしてラクタンティウスが記事を捏造することは考えられないこと、この二点を根拠にその信憑性を認めるが、第二点については、捏造ではなく教会伝承の受容を想定すべきだろう。Daviesはまた異教神官等の新宗教に対する不平不満を伝えたArnob AdNat 1.24証言をも引き合いに出すが、これもまた異教文献には見られない証言であり、異教経済に打撃を与えるキリスト教の力を誇示するためプロパガンダ的視点から編集し直された行伝19.23―40の『デメトリオス騒動』記事の残響を感じざるを得ない。

ウァレリアヌス帝迫害

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な両親の子供を犠牲に捧げ、嬰児の内蔵を調査観察し、神の被造物を細か

く切り刻む」よう進言したとされるが(HE 7.10.4)、これはエウセビオ

スが僣主マクセンティウスを罵倒する際にも利用した、いわばステレオタ

イプの言い回しで19、歴史的信憑性はほとんどない。

4)ウァレリアヌスがマクリアヌスの進言を受け入れ、後のディオクレティ

アヌスと同様、伝統的祭儀の正常化を目指して迫害に踏み切ったとするな

ら、何よりもまず宮廷内の信徒を排除するために首都ローマで告示を発令

しなければならない。

迫害が属州から始まったという事実は既に、ウァレリアヌスによる第1

告示発令の端緒のみならず、その真の意図が何であったのかについての示唆

を与えているが、その点について考察する前に、まずは証言テキストの文言

を詳しく分析し、ここから引き出せる限りの情報を収集しておかなければな

らない。

b)religionem Romanam colereとcaeremonias Romanas recognoscere

引用文中、「ローマの宗教を奉じる」と「ローマの儀礼を認知する」とい

う二つの行為が対比されているが、対立点は正確にどこにあるのだろうか。

18 Lact MorsPers 10.6; 11.4. アウレリアヌスは逆に助言者の進言により迫害を踏み留まったと言われる(HE 7.30.20)。ウァレリアヌスが元老院の篤き信望を享受した“善帝”であったため(HA Valeriani duo 5.1[全会一致の皇帝推挙];5.4―8[監察官推挙。元老院内の歓呼];Zos1.11[元老院からの信望])、マクリアヌス画策伝承が教会内で生み出されたのかも知れない。ネロやドミティアヌスという悪帝のみが教会を迫害したとするモチーフはメリトンに遡り(HE 4.26.5―11)、テルトゥリアヌスに受け継がれた(Tert Apol 5.3―8)。Cf.Davies Origin and Purpose esp84―9[側近の助言に基づく迫害決断および善帝と悪帝の区別を「弁証文学のモチーフ」に数え入れ、史料証言の信憑性に疑義を呈する]。

19 HE 8.14.5µαγικαι^ ε’πινοιαι τοτε` µε`ν γυναι^κα ε’γκυµονα α’νασχιξοντο ,τοτε` δε` νεογνω^ν σπλαγχνα βρεφω^ν διερευνωµενου λεοντα τεκατασφαττοντο και τινα α’ρρητοποιια ε’πι` δαιµονων προκλησει και`α’ποτροπιασµο`ν του^ πολεµου συνισταµενου・[魔術的な思いから、妊婦の腹を切り裂き、嬰児の内蔵を調査し、ライオンを屠り、ダイモーンを呼び出して戦争を回避するために口にするのも憚るほど破廉恥な儀礼を行う]。魔術的行為としての開腹処置は好んで政敵に対する非難の材料にされた(Philastrat VA8.4[少年の犠牲])

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ローマ人にとって宗教religioとは儀礼行為caeremoniaeの総体以外の何もの

でもなく、文献資料でもしばしば両者が同一概念として並置されることが非

常に多い20。強いて両者を区別するならreligioは人と神々との関係性を、も

しくは宗教儀礼によって成立する民族間の同盟関係を21、それに対して

caeremoniaはその関係を維持するための諸々の儀礼、ということができる。

ローマ宗教にとって信心といった純粋な内面性は概して疎遠であるが22、時

にreligioが包摂する畏怖の感情に言及され、外面的行為としての

caeremoniaから区別されることもある23。とすれば対立点はむしろ、

religionem Romanam colereが「ローマ宗教」に自己のアイデンティティを

見出しつつ畏怖畏敬の念をもってそれを「信奉する」ことを意味するのに対

し、caeremonias recognoscereは純粋に外面的かつ外交的な行為としての

供犠行為の「認知」(および実行)を意味する点に求められる24。

このようなローマ公職者による、供犠行為における献身性と外交性の区

別、および献身の強制に対する差し控えの姿勢は他の殉教者文書からも読み

取ることが出来る。その点最も明瞭に、かつ雄弁に語っているのは、ディオ

クレティアヌス帝による大迫害期に当たる304年にモエシアで生じた退役軍

人ユリウスの殉教を記録した文書の一節であろう。ここで総督は皇帝告示に

基づきユリウスに供犠を実行させようと、以下のような言葉で説得する。

20 Cic ND 3.5.119sacra caerimonias religionesque defenderem; Cic Leg 1.43in deos caerimoniae religionesque tolluntur;2.25;2.55; Cic Orat 1.39他多数。

21 Cic Balb 10contra foedus enim, id est contra populi Romani religionem etfidem

22 Lact Inst 4.3.1Deorum cultus ... nec habet inquisitionem aliquam veritatis,sed tantummodo ritum colendi, qui non officio mentis, sed ministerio corporisconstat.

23 Cic Invent 2.22.66religionem eam, quae in metu et caerimonia deorum sit.24 なお通常「religioを信奉する」という場合、 ラテン語では動詞としてamplector、

teneo、sequor、tueorなどが用いられ、coloが用いられた例は少ないが、異教文献、キリスト教文献、それぞれに確認される(この点についての拙著『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』46頁註43の指摘には誤りがある)。CicFonteio 33humanis hostiis eorum[=deorum]aras ac templa funestant, utne religionem quidem colere possint, nisi eam ipsam prius scelereviolarint? MartCrisp 2.4Cole religionem Romanam.

ウァレリアヌス帝迫害

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「もしおまえが供犠を罪と考えるなら、それ(罪)は私が引き受けよう。(す

なわち)私はおまえを(供犠へと)強制してやる。そうすればおまえは自分

の判断で(供犠に)同意したとは(教会の同僚からは)見られることはなく、

後には安心して自宅に帰ることができる」25。またウァレリアヌス迫害に先立

つデキウス迫害の時期にパンフュリア/小アジアで成立した『コノン殉教録』

にも、供犠行為を純粋に形式的で外交的な行為と表象する総督の思いが表白

している。「私はおまえに『犠牲を捧げろ』とは言わない。この種のことは

しなくてもよろしい。ただほんのちょっとの香と葡萄酒と枝を取れば、それ

でよろしい」26。

Caeremonias recognoscereを純粋に外交的な供犠行為の実行と解す解釈

は実はウァレリアヌス第1告示の執行に際してアレクサンドリア総督アエ

ミリアヌスが被告に語った言葉からも支持される。総督は教会指導者を法廷

に召喚し供犠の実行を求めたにせよ、キリスト教信仰を捨てローマ宗教に帰

依することは求めず、儀礼的で形式的な行為を要求しただけであった。総督

は司教を宥めて言う、「自然本性上神々である(われわれの)神々と共にこ

の(キリスト教徒の)神を…あなた方が跪拝することを誰が妨げようか」27。

ここでの「跪拝する」は『キプリアヌス殉教録』の「奉じる」に対応する、

内面性を伴った実質的宗教行為であろう。総督はreligionem Christianam

colere「キリスト教を奉じる」ことを許可し、同時にcaeremonias Romanas

recognoscereを要求したのである。これは多神教固有の思惟から発する行

政命令である。

先に引用紹介した『コノン殉教録』の一節の後にはしかし、上の解釈とは

一見相容れない、総督の棄教勧告ともとれる言葉が続いている。「そして『至

高なるゼウスよ、この群を救い給え』と言いなさい。こう言うなら、他には

25 ActJul 2.5 si uptas esse peccatum, me assequatur. ego tibi vim facio, nevidearis voluntate adquievisse. postea vero securus vadis in domum tuam ...拙著『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』72頁註111参照。

26 MartConon 4.4 ου’λεγω σoι Θυ^σον, α’λλ′ου’δε τι τω^ν τοιουτων ποιησονµονον δε` λαβε λιβανον βραχυ`ν και` ο^’ινον και` θαλλο`ν.

27 HE 7.11.9τι γα`ρ υ� µα^ κωλυει και` του^τον ... µετα` τω^ν κατα` φυσιν θεω^νπροσκυνει^ν;

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何もお前に求めるつもりはない。お前に対する私の勧告を聞き入れ、そして

下賤極まりない(キリスト教の)礼拝から遠ざかれ」28。たとえ形式的であれ、

そして外交的であれ信仰者にとってキリスト教徒にとって供犠行為は背教を

意味する。それゆえディオニュシオスは先の総督命令について、「われわれ

がキリスト教徒であってはならぬことを狙いとし、信仰から離れるよう命じ

た」と、総督は棄教を勧告しなかったにもかかわらず、こう解釈したのであ

る29。それと同じ事態を『コノン殉教録』にも想定することができれば、

MartConon 4.4―5の総督命令はキリスト教徒の視点から解釈し直された編

集の言葉であると理解できる。デキウス帝迫害期に敢えて「供犠を求め」ず

形式的な焼香その他の儀礼だけを要求した総督の姿勢からは棄教要請とい

う、被告にとっては苛酷な強い厳重な措置は期待できない30。

c)追放の意図

ActCyp 1.4Poteris ergo secundum praeceptum Valeriani et Gallieni, exsul

ad urbem Curubitanam proficisci?

「ならば汝はウァレリアヌスとガリエヌスの命令に基づきクルビス市に亡命

者として出発することができるか。」

最初の法廷尋問の際、カルタゴ総督パテルヌスの供犠要請を頑なに拒否し

たキプリアヌスに対し、総督が被告による供犠拒否の自発性を確認した後に

続く言葉が上の引用文である。ここで総督は興味深いことに、被告に「(亡

命地クルビスへ)出発する」用意があるか否かを問い、「出発」は両帝の命

令であることを告げる。この点はディオニュシオス書簡でも明言される31。

28 MartConon 4.4―5 και` ει’πε ∆ιε πανυψιστε, σω^ζε το` πλη^θο του^το. του^τοει’πε, και` ε� τερον ου’δεν σε ε’παγω. ε’µου^ α’κουσον παρακολου^ντο σε και`φυγε τη`ν α’σεµνοτατην θρησκειαν.

29 HE 7.11.4.30304年の『クリスピーナ殉教録』における総督命令「ローマの宗教を奉じよ」

(2.4)、「迷信は捨てよ」(1.4,6)、「ローマの神々の祭壇で跪拝せよ」(1.4)、「ローマの神々に香をたけ」(2.4)も「(キリスト教の)礼拝に復帰する」(2.1)という目的が記されているため、同様の事態を想定することができる。

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皇帝告示は供犠拒否者の投獄や拷問ではなく、追放(exilium=relegatio「居

住地制限」)32という措置を命じたわけで、投獄拷問が追放に取って代わられ

たのである。そして追放が投獄拷問と同一の目的を持っていたと考えるなら

ば、この告示は皇帝が追放を棄教強制手段として用いたことを証す最初の証

言となる。ではより正確に言って、何を根拠に追放処分は棄教強制手段と言

えるのか、そして追放は誰の棄教に狙いを定めていたのだろうか。まず最初

に第二点から説明する。

聖職者限定 当該史料を読む限り、逮捕者、そして審問の対象者は聖職者

に限られたようだ33。『キプリアヌス殉教録』で総督は他の聖職者を逮捕する

ため司教に対し、司祭の名を明かすよう説得する34。アレクサンドリアでも

同様に法廷に召喚されたのは司教ディオニュシオス35の他に司祭マキシム

ス、それに助祭のファウストゥス、エウセビオス、カイレモンであった36。

また第2告示に基づく総督審理においてカルタゴ法廷に召喚されたのも追

放地から呼び戻された司教アガピウスと、同じく司教セクンディヌス、それ

に読師マリアヌスとデキウス帝迫害期に告白を貫いた助祭ヤコブであり37、

ヒスパニアでも「司教フルクトゥオススと執事(助祭)二名アウグリウスと

エウロギウスが逮捕された。」38それに対し、ウァレリアヌス帝期に遡りなが

31 HE 7.11.10. おそらくキプリアヌス、ディオニュシオス共に司教であると同時に市参事会員という高い身分にあった(Pontius VitaCyp 14[友人に多くの元老院身分者];Stuiber Cyprianus 463―4; Eck Eindringen 385n.21)ために当局の狙い目にされたのだろう。

32 Cyp Ep 76.1me quoque ob confessionem nominis relegatum; Ep 80.1 inexilium relegantur.

33 既に3世紀前半Maximinus I の迫害時で聖職者だけが逮捕、処刑された(HE6.28.1)。迫害が小規模であったとのオリゲネス証言(Orig c. Cels 3.8 ο’λιγοικατα` καιρου` και` σφοδρα ε υ’αριθµητοι υ� πε`ρ τη^ Χριστιανω^ν θεοσεβειατεθνηκασι)に符合する。迫害端緒は地震か(Orig Comm in Matth 24.9;CommSerm 39)。

34 ActCyp 1.5 volo ergo scire ex te qui sint presbyteri qui in hac civitateconsistunt?

35 オリゲネスを師とし、ヘラクレスの後継司教で在位247/8―264/5年。洗礼志願者研修学校の学頭も勤めた(Hieron VirIll 69; HE 6.29.4)。

36 HE 7.11.3,6.37 MartMarian 3.1 in his ergo ab exilio suo perducebantur ad prasidem

Agapius et Secundinus episcopi praedicandi;4.1,6.

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らも、皇帝告示には基づかない、民衆の暴動を端緒として発生した迫害にお

いて民衆の告発により法廷に召喚されたのは、例えばカルタゴでは「ルキウ

ス、モンタヌス、フラウィアヌス、ユリアヌス、ウィクトリクス、プリモル

ス、レヌス」であり、さらに洗礼志願者ドナティアヌスやヤヌアリスも含ま

れていたように39、皆一般信徒であり、この点で告示に基づく法廷審理と対

照的であった。

司教キプリアヌスは告示に基づき逮捕、法廷召喚された後に供犠要請を拒

否したため、同じ告示に基づきクルビスへ追放処分にされたが、同じくアレ

クサンドリアのディオニュシオスも「告示に基づき」供犠拒絶後リビアのケ

ファロに流されている40。つまり告示はデキウス帝第1告示のような単なる

一般的な供犠命令ではなく、聖職者のみを念頭に置き供犠拒否者に対し一義

的かつ明示的に死刑ではなく追放(居住地制限)を規定した命令であった41。

ここで問いたいことは、告示は追放をもって終了する一つの完結した行政措

置ではなく、追放を通してある一つの目的を達成しようとしたのではないの

か、つまり目的に対する手段ではないのかという点である。前にも後にも、

供犠という国家的要請を拒否した者はほぼ例外なく死刑(時に鉱山懲役労働)

に処せられてきたのに対し、ここでは死刑ではなく追放(居住地制限)が明

示的に指定されているからである。

聖職者と一般信徒の分離 追放以前の段階で逮捕および供犠要請が聖職者

に限定された事実は既に指摘したが、その事実の背景には総督の一つの認識

が、すなわち一般信徒は聖職者が供犠を行うところを見たならば聖職者に倣

うはずだという認識があった42。第2告示後の殉教を描いた『フルクトゥオ

スス殉教録』MartFruct でも総督は一般信徒が聖職者の言うことに聞き従

38 MartFruct 1.1. 追放には言及されず。39 MartMontan 2.1; 9.2. この殉教録に民衆による信徒の逮捕および(法廷連行

を伴った)告発への言及はなく、民衆から働きかけられた総督もしくは兵士により信徒が探索され逮捕された。その点で177年のリヨン迫害の状況と類似する。

40 HE 7.11.10.41 追放地の決定は現地総督の裁量に委ねたようである(HE 7.11.10του^τον γα`ρ

το`ν τοπον ε’ξελεξαµην ε’κ τη^ κελευσεω τω^ν Σεβαστω^ν η� µω^ν)。42 HE 7.11.4και` του` α’λλου ε� ψεσθαι µοι νοµιξων.

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い、畏敬し、崇め奉り、軍隊的な縦の命令系統が正確に機能していることを

認知し、これでは神々そして皇帝が崇められなくなることを危惧した、との

憶測がなされる。そして法廷に召喚された助祭アウグリウスに対し、「フル

クトゥオススの言葉に聞き従うな」と諭す43。同じく第2告示に基づくヌミ

ディア/北アフリカで259年初頭に発生した信徒迫害を叙述した『マリアヌ

ス殉教録』MartMarian はより直截に、「一般信徒は聖職者から引き離され

れば世俗の誘惑や彼ら(=ローマ公職者)の脅迫により屈服するであろうと

(総督は)考えた」44、と指摘する。以上はどれもキリスト教側の憶測である

が、しかし当事者としての正確な観察に基づく憶測として、――帝国側の史

料が現存していない現在の状況では――蓋然性が非常に高いと言わねばなら

ない45。

カルタゴ総督パテルヌス、アレクサンドリア総督アエミリアヌス、両者の

狙いは共に、第一義的には一般信徒を聖職者から引き離すことにより一般信

徒を供犠の実行(キリスト教徒にとっては背教)へと導くことにあったと考

えられる。もちろん聖職者自身の棄教をも意図したことは間違いなく、『キ

プリアヌス殉教録』ActCyp にそのことが明言される。翌258年追放地から

呼び戻され尋問を受けた司教に対して総督は以下のように言う、「敬虔にし

て至聖なる皇帝であられる正帝ウァレリアヌスとガリエヌス、および高貴な

る副帝ウァレリアヌスは汝(=キプリアヌス)を彼ら(皇帝)の祭儀に呼び

戻すことができなかった」46。しかしそれは「見せしめ」と言われているよう

に47、信徒集団の棄教を誘うための手段であり、総督は一般信徒の棄教とい

43 MartFruct 2.6Hi audiuntur, hi timentur, hi adorantur; si dii non coluntur,nec imperatorem vultus adorantur. Aemilianus praeses Augurio dixit: Noliverba Fructuosi auscultare.

44 MartMarian 10.3 ut laicos a clericis separatos temptationibus saeculi etterroribus suis putaret esse cessuros.

45 一般信徒と聖職者の分離は前者の屈服に寄与すると総督が考えたのに対し、キプリアヌスは逆に、分離は異教徒からの暴行の抑制に役立つと考え、デキウス帝迫害の時期自発的にカルタゴを去った。Cyp Ep 7.1 ne praesentia nostriinvidiam et violentiam gentilium provocet et simus auctores rumpendaepacis. Cf. Cyp Ep 59.6totiens ad leonem petitus in circo; Pontius VitaCyp 7

(Cypianus)ad leonem postularetur.

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う最終的な目的のために聖職者棄教を勝ち取るべく両者の地理的分離を試み

たのである。総督は司教ディオニュシオス他の聖職者を「今までにその名す

ら聞いたこともなかった」48ケファロという寒村に追放し、一般信徒から分

離した後でも、現地での集会を禁止し、一般信徒との交流を切断する努力を

継続する49。しかしアレクサンドリアその他のエジプトの諸地域から信徒の

一団が聖職者たちに追って来、集会が開かれ(§12)、ある程度の異教徒改

宗に成功したため、総督はさらなる措置を講じ、ディオニュシオス、ガイウ

スそしてペテルスの3名を「兄弟や正しい人々を欠く」「よりリビア的な地」

コリュティオンに隔離した50。

一般信徒への対処 聖職者が僻地に追放された後、都市に残った一般信徒

はどのような扱いを受けたか。グレゴワール他は第1告示に基づく弾圧は

聖職者に限定されたと断定するが51、第2告示と同様に第1告示の目的も聖

職者からの分離により一般信徒を屈服させることにあったとするなら、分離

後都市残留一般信徒は苛酷な法廷審問において投獄や拷問の苦しみを受けた

ことが予想される。そして現に文献資料はそのような事態についての証言が

存在するのである52。ActCyp は司教にのみ焦点を当てて叙述を進める事情

から、カルタゴ残留の一般信徒の経験には全く言及しないが、キプリアヌス

書簡はその点を明言し53、ディオニュシオス書簡にもアレクサンドリア残留

46 ActCyp 4.1 nec te pii et sacratissimi principes Valerianus et GallienusAugusti, et Valerianus nobilissimus Caesar, ad sectam caerimoniarumsuarum revocare potuerunt. Cf. ActScil 14 ad Romanorum moremredeundi ; MartApoll 13και` ζη^ν σε µεθ’η� µω^ν

47 ActCyp 4.2eris ipse documento his quos scelere tuo tecum aggregasti. アレクサンドリアについては上記註42参照。

48 HE 7.11.15.49 HE 7.11.10. アレクサンドリアにおける集会禁止と墓地訪問禁止については既

に報告記事冒頭の4節で言及される。50 HE 7.11.16,14,23. ガイウスとペテルスの職名は不明。51 H. Gregoire, Les persecutions dans l’empire romain, Academie Royale de

Belgique, Memoire Tome46,1950,50f.52 Keresztes[註1]84.53 Cyp Ep 76.1pars adhuc in carcerum claustris sive in metallis et vinculis

demoretur;76.2fustibus caesi prius graviter et adflicti per eiusmodi moenas;78.1[Lucius→Cyp]recepimus in vinculis laxamentum.

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組の受けた試練についての示唆が見出される。「総督は今に至るまで絶え間

なく法廷に召喚された者たちを、時には残酷に殺害し、時には拷問により引

き裂いたり、あるいは牢獄で鎖に繋いで凌辱したりした」54。そして追放処分

を受けた助祭エウセビオスは密かに都市に戻り、「恐れることなく投獄され

た告白者の世話をし、危険を顧みずに勝利した至福なる殉教者の屍を埋葬す

るという任務を遂行した」と伝えられる55。なお殉教者文書にも一般信徒に

対する残酷な仕打ちへの言及があるが、当該史料の物語年代は258年以降で

あるゆえ、後述する。

d)集会および墓地使用の禁止

告示は墓地立ち入りおよび集会の禁止を明示的に禁止する規定を含む56。

それゆえ一部の研究者は、帝国は教会を危険な存在として認識しており、告

示は何よりも第一にこのような組織としての教会の解体もしくは破壊を目的

としていた、と推定する57。2世紀末以来の初期キリスト教徒は墓地で死者

を、とりわけ殉教者を追悼するための礼拝を、宴形式で行っており58、その

意味で墓地は信徒間の連帯を深めるために重要な集会の場所という性格を

持っていた。墓地使用禁止は集会禁止の一部と考えられる。しかし教会破壊

説はいささか単純すぎよう。実際アレクサンドリア司教ディオニュシオスは

告示の主たる目的について書簡で以下のように報告している、「アエミリア

54 HE 7.11.25και` γα`ρ µεχρι νυ^ν ου’κ α’νιησιν ο� η� γουµενο του` µε`ν α’ναιρω^ν..., ω’µω^ τω^ν προσαγοµενων, του` δε` βασανοι καταξαινων, του` δε`φυλακαι^ και` δεσµοι^ ε’κτηκων.

55 HE 7.11.24 τα` υ� πηρεσια τω^ν ε’ν ται^ φυλακαι^ γενοµενων ο�µολογητω^ν’εναγωνιω α’ποπληρου^ν και` τα` τω^ν σωµατων περιστολα` τω^ν τελειων και`µακαριων µαρτυρων ου’κ α’κινδυνω ε’κτελει^ν.

56 ActCyp 1.7Praeceperunt etiam, ne in aliquibus locis conciliabula fiant, neccoemeteria ingrediantur; HE 7.11.4. 総督は追放地でも信徒の集会を禁止し、聖職者と一般信徒との交流を切断する努力を継続した(HE 7.11.10)。

57 Keresztes[註1],94「教会破壊は…告示の主たる目的」。58 ILCV 1265refrigerium feci; Aug conf 6.2; Ep 22.6; De Moribus 34[75]「死

者たち(が埋葬されている墓)の上で実に豪勢に飲んでは屍に食事を供え、埋葬された人々の上に自らをも(霊的意味で)埋葬し、自分らの大食・酩酊を(キリスト教の)宗教に叶ったものと思い込んでいる者どもが多くいるのを私は知っている」。

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ヌスは私に対して何よりも『集会を開くな』とは言わなかった。彼にとって

この言葉は重要性が低く、最後にでも言って差し支えない言葉であったから

だ。彼は第一(の目的)を目指していた。つまり彼が言うべき言葉は、他の

信徒を集会に呼び寄せるべきではないことについてではなく、われわれはキ

リスト教徒であってはならないということについてであった」59。ここで「キ

リスト教徒であってはならない」とは先述した通り、「異教の神々に供犠を

実行する」の言い換え表現である。皇帝も総督も集会禁止措置を追放措置と

全く同じく供犠強制のための一手段と認識していた。集会禁止の目的は追放

処分のそれと同様、聖職者と一般信徒との、そして一般信徒間の意志疎通を

切断して連帯感を削ぎ、一般信徒を不安定な心理状態に陥れることで平和裏

に供犠へと導くことにあった。それに対応するかのように、皇帝は追放と集

会禁止の双方とも第1告示の中で明言をもって言及しながら、第2告示で

は一切これに触れていない。物語年代が第2告示執行年(258年)以降の文

献資料に集会禁止については言及は見られないのである60。

2 第 2 告 示

e)帰 還 理 由

ActCyp 2.1 Tunc Paternus

proconsul iussit beatum

Cyprianum episcopum in exsilium

deportari. Cumque diu ibidem

当時プロコンスルのパテルヌスは幸

いなる司教キプリアヌスを追放の身

として流刑に処していた。(司教が)

長期現地に滞在した後、プロコンス

59 HE 7.11.4 Αι’µιλιανο` δε` ου’κ ε^’ιπεν µοι προηγουµενω 《µη` συναγε》.περιττο`ν γα`ρ του^το ’^ην αυ’τω^ και` το` τελευται^ον, ε’πι` το` πρω^τον α’νατρεχοντι・ου’γα`ρ περι` του^ µη` συναγειν ε� τερου ο� λογο ’^ην αυ’τω^, α’λλα` περι` του^ µηδ′αυ’του` η� µα^ ε^’ιναι Χριστιανου .

60 なおActCyp では1.7で集会禁止に言及した後、以下の文章が続く。‘Si quisitaque hoc tam salubre praeceptum non observaverit, capite plectetur’「人もしこのかくも癒し多き命令に従わないなら、斬首される」。殉教録編集者は禁止令を供犠強制のための手段ではなく独立した命令と見たため、禁令違反に対する処罰規定を書き添えたと推測される。

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moraretur, successit Aspasio

Paterno proconsuli Galerius

Maximus proconsul, qui sanctum

Cyprianum episcopum, ab exsilio

revocatum, sibi iussit praesentari .

de civitate Curubitana ...

regrederetur, ex sacro praecepto

in suis hortis manebat, et inde

cotidie sperabat veniri ad se ...

ルのアスパシウス・パテルヌスの後

をガレリウス・マキシムスが継い

だ。彼は聖なる司教キプリアヌスを

追放から呼び戻し、自分のもとに出

頭するよう命じた。(司教は)クル

ビス市から帰還し、聖なる(皇帝)

命令に基づき自分の領地に留まり、

毎日(法廷への)呼び出しが来るよ

う願っていた。

258年キプリアヌスは追放地よりカルタゴに帰還した。帰還理由は上記

Hartel(CSEL)版のテキストによると後継総督の命令(“revocatum”およ

び“ex sacro praecepto”)が出たことだが、Musurillo版はライツェンシュ

タインReitzensteinに従って斜体部分をインタポラティオとして削除してお

り、司教は自発的にカルタゴに戻ったと理解する。総督交代については続く

2節で言及されており、 斜体部分を重複と見た結果のテキスト校訂である。

確かに斜体部分のテキストを挿入することにより、1章の追放処分から2

章の法廷召喚への唐突な場面変化にある程度の滑らかさが生まれ、経緯説明

の欠如部分が穴埋めされる。挿入は後代の編集に遡源すると考えて良いだろ

う。

しかしテキストはMusurillo版を受け入れるにしても、ここでは史実もテ

キストの記述通りと理解して良いかどうか考えねばならない。Musurillo版

テキストによると、司教は新任総督による呼び出し以前の段階で、つまり出

頭要請なしに自発的にカルタゴに帰還し、自己の領地内で出頭要請を待って

いたという筋書きになる。助祭クラスの聖職者なら密かに追放地を去り都市

内に身を隠すことは可能であろうが61、司教、しかも総督の厳しい監視の下

に置かれたボス格の人物の逃避は非常に難しい62。迫害がまだ終了していな

いこの時期においてはキプリアヌスの判断に従っても教会指導者は異教徒の

視野外にいた方が無用な挑発を避けるためにも有用である63。しかも、殉教

61 たとえばアレクサンドリア教会の助祭エウセビオス(上記註55)。

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を熱望して自宅などで法廷召喚を淡々と待ち望む殉教志願者の勇気ある英雄

的な姿は殉教者文書が特に強調したい点であり、かつこの勇姿はバイアスが

かかった記述を多く含む『ポリュカルポス殉教録』やディオニュシオス書簡

にも現れているゆえ64、史実としては帰還は総督命令に基づくものであった

ことは間違いない。総督命令に基づく追放地からの帰還事例は他にもある65。

史実には合致しないMusurillo版『キプリアヌス殉教録』が元来のテキスト

形態を保存しているのは、既にアルケトゥプスにおいて殉教物語が殉教を賛

美する視点から脚色づけられていたからである。

f)第2告示の内容

第2告示のテキストは現存していない。それゆえ第2告示の内容を明か

にするためには遠大な遠回りをせねばならない。258年ウァレリアヌスは元

老院からの問い合わせに応じて返書を書き送り、キリスト教徒の扱いについ

ての自身の基本方針を伝え、返書の末尾に属州長官宛の書簡――すなわちこ

れが第2告示の内容を伝える文書である――を添付している。キプリアヌ

スは情報収集のためローマに使者を派遣し、近隣教会司教スケッスス宛て

『書簡』80の中で、元老院宛皇帝返書の概略を記しているが、返書に添付

された属州長官宛書簡の写しはこの時点ではまだカルタゴに届いていない。

したがって今日の研究者はこの返書を基に皇帝の属州長官宛書簡、すなわち

第2告示の内容を憶測するが、しかし当の返書原本も書簡原本も現存しな

62 司教ディオニュシオス等の教会指導者は沿道沿いに住居を指定されたが、それは総督が随時呼び出すことができるようにとの配慮からであった。HE7.11.14 η� µα^ δε` µα^λλον ε’ν ο�δω^ και` πρωτου καταληφθησοµενου ε’ταξεν.’ωκονοµει γα`ρ δη^λον ο� τι και` παρεσκευαξεν ι� να ο�ποταν βουληθειη συλλαβει^ν,παντα ε ’υαλωτου ε’χοι.

63 上記註45参照。64 ディオニュシオスは特にこの点を強調。デキウス帝告示公示後4日間彼は逃避

せず自宅待機し、兵士に逮捕されるのを待ち続けたが、指名手配犯が自宅に留まることなど兵士は信じることができなかったため逮捕を免れた、というエピソードを自身の書簡の中で披露する(HE 6.40.2)。MartPolyc 5.1; 7.1; HE6.41.8[自宅で逮捕されたセラピオン]

65 MartMarian 3.1 ab exilio suo perducebantur ad praesidem Agapius etSecundinus episcopi.

ウァレリアヌス帝迫害

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い。現存するのはカルタゴに帰還した使者がもたらした情報を基にキプリア

ヌスが元老院宛皇帝返書の内容を憶測し『書簡』80に書き付けたものだけ

であり、キプリアヌス書簡だけを根拠にウァレリアヌス帝第2告示の文面

や目的を自明のものと了解することはできず、この点は慎重さを要する。

まず最初に、ウァレリアヌスが257年の告示とは別の告示を発令したこと

が史実であるか否かの点についての議論から始めるために、当該テキストと

翻訳を以下に掲げる。

Cyp Ep 80.1(Successo fratri)

� Ut non vobis in continenti

scriberem, frater charissime, illa

res fecit, quod universi clerici

sub ictu agonis constituti,

recedere istinc omnino non

poterant, parati omnes pro animi

sui devotione ad divinam et

coelestem gloriam. Sciatis autem

eos venisse quos ad Urbem

propter hoc miseram , ut

quomodocumque de nobis

rescriptum fuisset, exploratam

sibi veritatem ad nos perferrent.

� Multa enim varia et incerta

opinionibus ventilantur. Quae

autem sunt in vero ita se habent.

Rescripsisse Valerianum ad

senatum

キプリアヌス『書簡』80.1

(司教スケッスス宛て)

� 私があなたがたに直ぐに書き送

らなかったのは、親愛なる兄弟

よ、以下の理由からだ。すなわち

聖職者全員は苦難の真っ只中に置

かれおり、この状況から逃れるこ

とが全くできなかったのである。

われわれ全員は自らの魂の献身性

のゆえに、神的で天的な栄光を得

るための用意ができている状態に

あるのだ。われわれに関して(皇

帝が元老院に対して)どのような

文言で返書したか、どのような事

でも明らかになった真実をわれわ

れのもとに書き送るよう、私が母

市(ローマ)に派遣した人々が帰

還したことを知って欲しい。

� 多くの不確実で種々多様な事柄

が人々の意見内容として取り沙汰

されている。しかし真実のところ

事態は以下のようである。

ウァレリアヌスは元老院に対し以下

のように返答した。

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� � ut episcopi et presbyteri

et diacones in continenti

animadvertantur,

� senatores vero et egregii

viri et equites Romani digni-

tate amissa, etiam bonis spo-

lientur; et, si ademptis facul-

tatibus christiani esse per-

severaverint, capite quoque

mulctentur;

� matronae vero, ademptis

bonis, in exsilium relegen-

tur;

� Caesariani autem quicum-

que vel prius confessi fue-

rant vel nunc confessi fue-

rint, confiscentur et vincti in

Caesarianas possessiones

descripti mittantur.

� Subjecit etiam Valerianus im-

perator orationi suae exemplum

litterarum quas ad praesides

provinciarum de nobis fecit:

quas litteras quotidie speramus

venire ...

� � 司教、司祭そして助祭は遅

延なく処罰される。

� 元老院議員、高貴なる人

士、ローマ騎士身分の者たち

は官職を失い、かつ資産も剥

奪される。そして、もし財産

を没収されたにもかかわらず

キリスト教徒であることに固

執したならば、死刑にも処せ

られる。

� マトローナは資産を没収さ

れ追放され居住地指定を受け

る。

� 一方、皇帝家の者たちは誰

であれ、(キリスト教信仰を)

以前に告白したか、あるいは

今告白したならば、財産没収

の上、皇帝領に送致される。

� 皇帝ウァレリアヌスは(返書中

で)意見陳述部の後に、われわれ

についての属州長官宛書簡の写し

を添えた。われわれはこの書簡の

到着を毎日待ち望んでいる…

258年夏の時点でウァレリアヌスはローマから離れていたため66、キリス

ト教徒の扱いについての元老院からの請訓に対し書面で返答した。元老院宛

66 遅くとも258年5月にはアンティオキア/シリアに滞在。CI 9.9.18(=5.3.5)‘Accepta id. maiis, Antiochiae, Tusco et Basso Coss.’Cf. F. Millar, TheEmperors in the Roman World(31BC―AD 337), London19922(19771)570n.24.

ウァレリアヌス帝迫害

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皇帝返書の成立の歴史的経緯は不明である。とりあえず史実として確認でき

るのはこの、返書が元老院に送り届けられたという事実だけである。した

がって、上記� �―�を、カルタゴ総督のもとに送り届けられた第2告示

の文言と等価だと断定するには以下の三つのハードルをクリアしなければな

らない。

� 上記� �―�の文言はローマに派遣された信徒が現地で聞き込み等の

調査をした結果得られた未確認情報(�および�)を基に編集されたもの

であるゆえ、実際の元老院宛返書の内容と一致する保証はない。

書簡中� �―�にはウァレリアヌス帝の判断とは明らかに相容れない

文言が幾つか見られる。

� � “in continenti”「遅延なく」「即座に」

この文には「供犠要請を拒否したならば」という条件節が欠如し、聖職

者集団に対し供犠要請を行わずに彼らを「即座に」処罰することを規定し

ているが、これは皇帝が257年の告示に見られた棄教誘導意図と相容れな

い67。現に総督がパテルヌスからガレリウス・マキシムスに交替した258

年以降の段階でもキプリアヌスは供犠を強要され、258年以降の事件を記

録した他の殉教者文書でも同じく供犠要請が証言され、しかも258年以降

の法廷審理が依拠した皇帝告示は257年のものと、史料上ほぼ同一の文言

を含み、要求事項は供犠実行であった68。未確認情報の内容に大きな誤り

がないと考えた場合、“in continenti”という定式には教会側に特有の視

67 第1告示下のアレクサンドリアでも総督の何よりも重要な目標は「キリスト教徒であってはならぬこと」、 すなわちキリスト教徒による供犠の履行であって、集会禁止措置はそのための手段にしかすぎなかった(HE 7.11.4)。上記註59参照。なお大迫害の開始を告げる303年のディオクレティアヌス帝第1告示(HE 8.2.4; MartPal praef.; Lact MorsPers 13.1)が命じた教会堂破壊と聖書焚書(没収)もそれ自体帝の究極の目的ではなく、警告的意味を持つにすぎなかった。

68 ActCyp 3.4Iusserunt te sacratissimi imperatores caeremoniari ; MartFruct2.3 (imperatores) praeceperunt deos coli ; MartMontan 19.2 utpraesumptione deposita sacrificaret interdum[友人の勧告].

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点が反映していると考えられる。キプリアヌスにとって供犠実行を条件と

した放免は決して歓迎すべき事態ではなく、それどころか彼が忌み嫌うと

ころであったため、未確認情報を基に元老院宛返書の文言を再構成して

『書簡』で報告する際、条件節を省略し“in continenti”と書き記したの

かも知れない69。『マリアヌス殉教録』の叙述からは総督による供犠要請が

意図的に外されている点に注意されたい70。

257年の法廷審理には見られたが258年以降には確認できないことは聖

職者の被告が法廷尋問後供犠を拒否した場合の追放処分である。ここでは

追放されることなく処刑された。もし仮に第2告示が実際に存在し公示

されたとするならば、“in continenti”と再現された元来の文言は「追放

せずに」等であり、供犠誘導の努力なくしての「即座に」ではなかったは

ずである。

� � “senatores vero et egregii viri et equites Romani”「元老院議

員、高貴なる人士、ローマ騎士」

� “matronae”「マトローナたち」

社会上層身分の一般信徒に対する処置は聖職者に対するそれ同様、ここ

でも問答無用の処罰(財産没収)となっており、これまた拷問を用いた供

犠要請(および要請受託者の釈放)を証言している関連史料と全く整合せ

ず、教会側の視点からの憶測としか理解し得ない。しかも彼ら上層一般信

徒がキリスト教徒であるか否かの尋問(すなわち供犠要請)を受けるのは

69 Keresztes[註1], 93もキプリアヌスの用語法を「問題多い」と断じるが、その理由を、「キプリアヌスの使者がローマで情報収集した時の雰囲気がパニックに近かった」点に求める。

70 マリアヌスは実際総督から神々への供犠といった具体的要請を受けたにもかからわず(2.3)、その殉教録はローマ側の要求事項および判決事由については叙述から外し、教会側の視点から信徒の行動のみに焦点を当てて語る。e.g.MartMarian 4.9 mox interogati, cum in fortissima nominis confessioneperstarent, deducuntur in carcerem;8.5omnes vos qui in carcere habemini,si obnixe perstabitis, manebit poena capitalis. 裏から言えば、供犠要求に屈服するなら死刑は免れる、ということ。

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財産没収後とされ(�「そして、もし財産を没収されたにもかかわらずキ

リスト教徒であることに固執したならば」)、こうした事態はどの史料にも

証言されていない71。史料に証言されているのは一般信徒が聖職者から分

離された後、(身分の差別なく?)虐待を受けたことであり、この点は既

に述べた(上記15頁)。なお「高貴なる人士」というローマ騎士身分の高

官に対する尊称72を「ローマ騎士」と並置し、表現から正確さを剥奪して

いることも、入手情報の未確認性を物語る。

上級聖職者、下級聖職者、一般信徒への異なった対処法 ローマ政府は

258年以降も257年当時と同様、聖職者と一般信徒とに対する対応の点で

区別を設けていた。民衆の暴動に端を発して生じたモンタヌスらに対する

迫害は例外として73、ヒスパニアで成立した『フルクトゥオスス殉教録』

でも74、ヌミディア/北アフリカで成立した『マリアヌス殉教録』でも75、

そこに描かれた迫害において最初に逮捕、投獄されたのは皆最上級の聖職

者(司教)であり、ウァレリアヌス迫害期におけるカルタゴ最初の殉教者

も司教キプリアヌスであった76。もちろん上級聖職者逮捕の後には下級聖

71 元老院議員アストュリウスによる殉教者マリヌスの手厚い埋葬(HE 7.16.1)はおそらくガリエヌスによる平和回復後のことと思われる。上記註5参照。

72 Seek, s.v.‘egregiatus’RE V―2,2006―10.73 MartMontan に描かれた迫害の直接のきっかけは皇帝告示の公示ではなく、民

衆の暴動であり、信徒迫害が生じたのは暴動の翌日であった(2.1)。とはいえ、逮捕されたフラウィアヌスを助けようとした会衆は彼は助祭ではないと偽証したこと(12.2)から考えて、聖職者を狙い打ちした257年告示の影響をここに認めることができる。なお3.1では「われわれは逮捕され、(地方政府の)役人たちのもとで監禁された時、兵士たちが(属州)長官の意向を告知するのを聞いた、すなわち昨日、われわの身体を焼却するつもりであると(長官は)言っていたとのことである」と言われるが、事情聴取なしの即決処刑はにわかには信用できない。

74 「司教と助祭たち」が259年1月16日に逮捕され、同月21日に判決を受けた(MartFruct 1.1f; 2.1)。なお迫害当時ヒスパニア・キテリオールの総督はAemilianusで、その娘はキリスト教徒であったと伝えられる(Prudentperisteph 6filia eius christiana)。

75 最初に二人の司教アガピウスとセクンディヌスが追放地にて総督法廷への出頭要請を受け(MartMarian 3.1)、次に殉教録主人公の読師マリアヌスと助祭ヤコブスが市当局者によりムグアスからキルタに連行された(4.6)。司教だけが総督法廷に呼び出されたことは興味深い。

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職者および一般信徒も拘束・尋問され投獄された。しかし三者に対する対

応には微妙な違いがあった。この点は『マリアヌス殉教録』所収の下級聖

職者の言葉から明かである。

「一般信徒は自らの戦いに対する誉れを享受できたのに対し、われわれには

勝利はゆっくりした、そして遅延した状態にあり、留保されている」77。

キプリアヌス『書簡』80では皇帝家一族の一般信徒に対してのみ条件

(供犠実行)付きの処罰が規定されていたが(下記� �)、ウァレリア

ヌス期に成立した殉教者文書ではむしろ逆に、聖職者に対して、より執拗

な供犠要請がなされ、一般信徒は比較的に簡略的な方式で処刑されたよう

だ。『マリアヌス殉教録』の著者は聖職者に対する処分の遅延原因を総督

の「一般信徒攻撃への熱中」(10.1)に求める。総督は聖職者から引き離

された一般信徒を屈服させ犠牲を実行させることができると思ったが、当

てが外れて次々と処刑していったのだろう。と同時に、聖職者に対しては

十分に時間をとって説得するつもりでいたことも事実である。同じく『モ

ンタヌス殉教録』78でも当初の逮捕・投獄者のうち、「他の人々、すなわち

ルキウス、モンタヌス、ユリアヌス、ウィクトリクスに対しては判決が読

み上げられたが、フラウィアヌス(だけ)は再度(獄に)戻された」、と

言われる79。ここに言及された5名のうち、聖職者に属することが確実な

のは助祭フラウィアヌスだけであり80、彼は牢獄に戻された後友人から犠

76 MartMontan 21.3 cum adhuc ... episcopus noster[sc. Cyprianus]soluspassus fuisset ...「まだわれわれの司教が(カルタゴでの)唯一の受難者であった頃…」。

77 MartMarian 10.3 laicis certaminis sui laude perfunctis sevaretur sibi tamlenta et tam sera victoria. 一般信徒の殉教例はその他MartMarian 10.1;11.5;MartMontan 2.1f;12.3.

78 文書成立は、キプリアヌスの殉教(21.3―5)およびその後の「多くの人々の受難」(21.6, 8)が前提されていること、またキプリアヌス殉教後の司教空位状態が継続していたこと(23.4フラウィアヌスによる司祭ルキアヌスの司教叙任)から考えて、ウァレリアヌス迫害期間中の259年と推測される。

79 MartMontan 12.3 in ceteros, id est Lucium, Montanum, Iulianum,Victoricum, dicta sententia est, Flavianusque rursum receptus est.

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牲を捧げることで自分の身の安全を確保するよう勧告されながらもこれを

拒み、仲間から二日遅れて殉教死している。この2日間、総督代理は民

衆の意向を考慮しつつ「拷問にかけることでフラウィアヌスからその自発

的な意思を削ぐことができる」と考え、執拗に尋問を繰り返し、犠牲の実

行を迫ったのである81。

� � “Caesariani autem quicumque vel prius confessi fuerant vel

nunc confessi fuerint”「以前に告白したか、あるいは今告白し

たならば」

一般信徒の中では宮廷家一族に対する場合のみ処罰が条件づけられる。

書簡テキストには当局の具体的要求事項(供犠要請)についての記述がな

く、キリスト教的視点から“翻訳”して「告白」と言い換えている点は『マ

リアヌス殉教録』と同じ(上記註68)。特に眼につくことは「以前告白し

たか、あるいは今告白したならば」という条件節の曖昧な82文言で、この

文言に従えば当局者は現在の法廷における供犠拒否者ばかりではなく、

(法廷では供犠を実行した)“前科犯”をも問題視していることになる。

2世紀初頭トラヤヌス帝以来、法廷で所定の供犠を実行した棄教者=前

科犯に対し処罰をもって臨んだ皇帝は存在しない。過去を問題視したのは

民衆だけであった83。デキウス帝に至っては過去の行状に関しては特別の

検査なしに被告自身の自己申告に任せて、過去を執拗に問う民衆の暴行か

80 MartMontan 12.3; 20.2. モンタヌスおよびルキウスを聖職者ととる研究者もいる(『殉教者行伝』キリスト教教父著作集22 教文館、328)が、内的証拠はない。彼らの逮捕時、その中には洗礼志願者さえ含まれていた(2.1)。

81 MartMontan 20.1 eum a proposito voluntaits suae vel tormentis possedeponi. ただしこれは民衆の考えとして紹介されている。しかし6.4fでは総督代理自身、策略を用いて被告を屈服させるべく思案していたことが記される。

82 Keresztes[註1],92‘obscure’.83 HE 5.1.33[177年リヨン迫害期]. そのため被告キリスト教徒は法廷で過去の

教会所属を否認することもあった。Plin Ep 10.96.5 qui negabant esse seChristianos esse aut fuisse; HE 6.41.12[デキウス迫害期]το` µηδε` προτερονΧριστιανοι` γεγονεναι.

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らキリスト教徒を保護しようとしたのである。「以前に告白したか、ある

いは今告白したならば」という条件節にはこうしたキリスト教徒の焦燥感

が明確な形で反映していると見て良いだろう。

以上、元老院宛皇帝返書の文言についてローマで収集された未確認情報

を基になされたキプリアヌスの定式化について幾つかのコメントを付し

た。全体的に見て『書簡』テキストにはキリスト教徒の不安な気持ちが色

濃く滲み出ており、定式文は帝国政府の、整合的であるべき対キリスト教

政策を正確には反映していないと結論づけられる。とりわけ1)処罰の

問答無用性 2)一般信徒に対する身分別の差別的対応 3)教会所属経

験の問題視―以上の三点は諸史料からの裏付けが得られない。

� キプリアヌスが到着を待ち望んでいた「属州長官宛書簡の写し」(�)

が元老院宛返書と同一の文言で記されていた保証はない。

� 属州長官宛書簡(=第2告示)が実際カルタゴの属州総督に送付され

て、これに基づきキプリアヌスが逮捕、尋問、処刑されたとしても、書簡

はアレクサンドリアに届いていない。これをどう説明するかは非常に困

難84。

聖職者を含むキリスト教徒に対して何らかの処置を命じた書簡がアレク

サンドリアに届いていたとするならば、ディオニュシオスを初めとする聖

職者たちは確実に出頭命令を受けて追放地から呼び戻され、殉教していた

に相違ないからである。実際ディオニュシオス書簡の報告によれば、彼自

身は追放地で出頭命令を受けることなくガリエヌスによる平和回復直後の

260年に至って初めてアレクサンドリアに無事帰還している85。同じく257

84 カルタゴの場合(ActCyp 2.1)とは異なり、アレクサンドリア総督は257年から(少なくとも)259年10月まで同一のアエミリアヌス(L. Mussius Aemilianus)が務めた。総督交代がなかったを理由に第2告示の公示がなかったと想定するのは困難。PIR2, M 757; A. Stein Die Prafekten von Agypten in derromischen Kaiserzeit, Bern1950,143―5; idem, s.v.‘Mussius’RE 16.1.901f.258年9月24日付けの二言語パピルスPOxy IX 1201(PIR2では「29日」)にMussius Aemilianus, v(ir) p(erfectissimus) praef(ectus) Aeg(ypti), ο�λαµπροτατο διεπων τη`ν η� γεµονιαν[原テキストでは与格形]の表現が見られ、このδιεπων την ηγεµονιανという表現はHE 7.11.6,9,10にも現れる(「総督代理」と解す解釈もある)。POxy 1468,1fも参照。Millar[註66],569.

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年の告示で追放されたマキシムスはディオニュシオスの死後、264/5年

に司教座を継承し86、また当時助祭で追放処分を受けたエウセビオスは帰

還後ラオディケイア/シリア司教に昇格している。さらに助祭ファウス

トゥスもウァレリアヌス迫害を生き抜き、大迫害期に至って斬首され殉教

者に列せられている87。

以上諸史料から確認された事実を総合して、258年の第2告示の内容につ

いてはどう評価されるべきであるか、次に検討する。両時期の出来事を以下

に表形式で列挙する。

257年 258/9年

HE 7.11

(Alexandria)

総督の要求

拒否者処置

供犠実行

司教追放

(要求なし)

(要求なし)

ActCyp

(Carthago)

総督の要求

拒否者処置

供犠実行

司教追放

供犠実行

司教処刑

MartMontan

(Carthago)

総督の要求

拒否者処置

(ActCyp に同じ)*1

(ActCyp に同じ)*1

供犠実行*2

司祭助祭説得後処刑

一般信徒処刑

MartMarian

(Numidia)

総督の要求

拒否者処置

(叙述対象外)

司教追放*3

供犠実行*4

司教呼戻して尋問後処刑

助祭読師説得後処刑

一般信徒処刑

MartFruct

(Hispania)

総督の要求

拒否者処置

(叙述対象外)

(叙述対象外)

供犠実行*5

司教処刑

*1 MartMontanはActCypが描くキプリアヌス殉教の後の司教空位期間にカルタ

ゴで生じた事件を叙述対象とする。その点でActCypの補完的作品。*2友人からの供犠実行勧告(MartMontan19.2)が間接的証拠。*3 MartMarian3.1は司教アガピウスとセクンディヌスの追放地からの呼び戻し

に言及。*4 MartMarianに明言はない。総督尋問と投獄(9.5)や一般信徒「屈服」の試み

85 HE 7.21.1.86 HE 7.28.4[ガリエヌス統治の第12年].87 HE 7.11.24.

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(10.2)からの推論。*5 MartFruct2.3,6で命じられた神々および皇帝への崇拝の言い換え。

Cyp Ep 80.1の記述とは異なり、他史料では258/9年にも供犠実行が求

められ、実行者釈放の方針が貫かれていたことは既に述べた。257年と258/

9年における総督の措置の相違はただ供犠拒否者に対する対応の点だけに

存する。すなわち、以前には例外なく追放に処せられた司教は今度は追放地

から呼び戻されて(あるいは257年に追放処分を免れた司教は追放されるこ

となく)処刑される一方、司祭以下の下位聖職者が説得対象に据えられ、一

般信徒より後に処刑される。明らかに司教に対する説得工作が失敗したた

め、それを認知した上で対象を司教から司祭以下に移行したのである。した

がって第2告示は最小限以下の事項を含む。

1)司教の追放地からの呼び戻し、法廷召喚、供犠要請、拒否した場合の

処刑および財産没収。これは司祭以下の下位聖職者に対する見せしめ的

意味を有した。

2)司祭以下の下位聖職者の法廷召喚、供犠実行への執拗な説得工作、拒

否した場合の処刑および財産没収。財産没収は説得工作の前ではない。

没収の告知は説得のための手段である。

3)一般信徒の法廷召喚、供犠要請、拒否した場合の処刑および財産没

収。財産没収は説得工作の前ではない。没収の告知は説得のための手段

である。供犠実行強制が法廷尋問の本来の目的であり、財産目当ての弾

圧でない以上88、過去の教会所属(もしくは過去の信仰告白)は問題視

されない。さもなくば、現在の法廷での説得工作は意味をなさなくな

る。また一般信徒の身分別差別的対応規定については史料的裏付けが今

のところなく保留せざるを得ない。

ただしアレクサンドリアには公示されず、ラテン語西方地域でのみ公示、

執行された(理由不明)。

88 ウァレリアヌス迫害を「純粋に財政的」観点から説明しようとする説が今日では優勢。この点については下記32頁以下「h)発令の端緒と意図」。

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g)告示発令に至る経緯

以下に第2告示の存在を前提して258/9年の歴史的推移を再構成する。

その際特にCyp Ep 80に記された事実に注目する必要がある。Ep 80ではシ

クストゥスの殉教が前提されながら首都において第2告示はこの時点で公

示されておらず、司教の死はデキウス帝期の司教ファビアヌスの場合と同

様、民衆の手によるも暴行の結果であったと考えられる89。司教の殉教が告

示に依拠した逮捕、尋問、処刑の道を辿ったのであれば、告示は皇帝の通常

の所在地(パラティウム)の、万人の眼に触れ得る場所に掲示されていたわ

けであるゆえ90、カルタゴから派遣された使者はそれを筆記転写でき、この

89 Cyp Ep 80.1Xistum autem in cimiterio animadversum sciatis octavo iduumaugustarum die. シクストゥスが「墓地で処罰された」と言われるが、これは公式の判決執行ではなく、墓地周辺で集会中の参加者に対する物理的攻撃で、その「墓地」とはローマ教会最古のカリスト墓地(L. Bayard, Saint Cyprien,Correspondance [Les Belles Lettres]1961, 320; V. Saxer, Morts martyrsreliques en Afrique chretienne aux premiers sie`cles. Les temoignages deTertullien, Cyprien et Augustin a` la lumie`re de l’archeologie africaine

(Theologie Historique55), Paris1980,95)のことであろう。「公の場所」locuspublicusに墓石設置が許されないように(Cic Leg 2.58)、墓地という「宗教的場所」locus religiosusでの、しかも教会所有地内での行政執行も考え難い(Cf.Mommsen StR II49)。処刑場‘victimae locus’(MartMontan 13.1;23.6)はヌミディアでは「河川の両側に聳え立つ峡谷に位置する」(MartMarian 11.9)、カルタゴでは「セクストゥスの野」(ActCyp 5.2‘ager Sexti’)であった。ローマではマルスの野、帝政期にはエスクィリアエ丘(Suet Claud 25; Tac Ann2.32; Mommsen StrR 914)が一般的だが、墓地での死刑執行の事例はない。‘Animadvertere’は公職者の懲戒発動あるいは公式の判決執行とは限らず、懲罰一般を指す。Tac Germ 7 neque animadvertere neque vincire nisisacerdotibus permissum. なお、シクストゥスが民衆の手で殺害されたとすると、司教は第1告示による追放処分を受けていなかったことになり、これはすなわち第1告示はローマに公示されなかったことを示唆する。CatLib(LibPont 6f)はコルネリウスやルキウスの追放について語っているが、シクストゥスのそれについては沈黙している。Xystus ann. II mens. XI d. VI.Coepit a consulatu Maximi et Glabrionis usque Tusco et Basso, et passus estVIII id. aug. それに対しLibPont 25 (ed. Duchesne I 155)ではhicconprehensus a Valeriano et ductus ut sacrificaret demoniis . qui contempsitpraecapta Valeriani; capite truncatus estという供犠要請拒否ゆえの処刑(斬首)の逸話が挿入されている。Millar[註66],569.

90 Millar[註66],254. 属州ならプラエトリウム(ILS 206)、あるいは「(当該都市において)地に立った状態で良く見えるところ」(Jos AJ 19.5.3[291])に掲示された。

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使者を通してキプリアヌスは告示の文面を正確に知ることができたはずであ

る。しかしカルタゴ司教は憶測で物を言っている。

首都ローマで258年8月6日に司教シクストゥスが殉教したが、告示公示

前の時点における殉教には民衆暴動など何らかの首都でのアクションが前提

となる。これより少し後の時期カルタゴでもヌミディアでも暴動が発生、も

しくは民衆の告発が行われ、信徒迫害はこの時点から始まっている91。民衆

の不穏な動きに対し元老院はこれに対処せんとして東方遠征中のウァレリア

ヌスに問い合わせの書簡を書き送ったが、皇帝の元老院宛返書が首都に届く

前にローマ教会の最高責任者シクストゥスが民衆の手でリンチ処刑された。

そして返書は同時にカルタゴ、そしてそれより数ケ月遅れてランバエシスへ

も送られ、同年9月にキプリアヌスが、そしてその後ヌミディア地方教会

の司教アガピウスとセクンディヌスが、それぞれの追放地より呼び戻され法

廷尋問の後処刑され、さらに聖職者の殉教にはMartMonatan および

MartMarian が描く司祭以下の聖職者および一般信徒の殉教が司教のそれに

続いた、となる。これを表形式に年代順に整理すれば以下の通り。

258年5~6月頃 ・首都および西部属州において信徒に対する民衆の暴行が横行

・元老院、外地滞在中の皇帝に書簡で問い合わせ

8月6日 ・民衆の暴行(リンチ)によりローマ司教シクストゥス殉教

8月中旬 ・元老院宛皇帝返書が首都に到着

・シクストゥス殉教の報せがカルタゴ教会に届き92、使者派遣

8月下旬 ・新たな皇帝告示に関する未確認情報がカルタゴ教会に届く

・キプリアヌス『書簡』80の執筆

9月初旬 ・第2告示ローマで公示

・第2告示カルタゴで公示

91 MartMontan 2.1; MartMarian 4.6.92 ローマはカルタゴから航路で早くて「3日目」に到着可能―Plin NH 15.74f“Atqui tertium ... ante diem scitote decerptam Carthagine”. オスティア・アフリカ間は最速で「2日目」―Plin NH 19.4 herbam esse quae Gadis abHerculis columnis septimo die Ostiam adferat et citeriorem Hispaniamquarto, provinciam Narbonensem tertio, Africam altero. FriedlaenderSittengeschichte I341.

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9月13日 ・キプリアヌス法廷召喚93、翌日殉教

(時期不明)・ヌミディア

第2告示公示

二司教アガピウス、セクンディヌス総督法廷へ。殉教94

二日後下位聖職者らキルタの都市役人のもとへ送致

・カルタゴ

暴動発生。モンタヌスら市役人の下に告発される

259年1月初旬 ・第2告示タラコ/ヒスパニアで公示

1月16日 ・司教フルクトゥオスス他聖職者逮捕

1月21日 ・フルクトゥオスス殉教

5月6日95 ・ヌミディアで読師マリアヌスと助祭ヤコブス殉教

5月23日96 ・カルタゴでルキウスとモンタヌス殉教

h)発令の端緒と意図

3世紀迫害も民衆の暴動から始まる。憎悪からの民衆暴動はしばしば無

目的であるゆえに敵対者の死をもってしか収束し得ないため、当局が介入す

ることになる。もちろん目的意識をもってキリスト教徒に市民的義務として

の異教礼拝を求めた異教徒もいたことだろうが、暴動という形態で迫害が勃

発した場合、多くの異教徒は自身の暴力を制御し得ない状態に陥る。第2

告示もこうした状況への元老院および皇帝の介入であり、特に「純粋に財政

的」97理由から教会財産を狙ってイニシアティブをとったわけではなかった。

たしかに帝国政府はこの時期財政破綻に近い状態にあり、通貨の貴金属含有

93 キプリアヌスの追放地クルビスはカルタゴの西約50マイル(2日行程)の距離。94 殉教日不明。カルタゴ殉教者暦5月13日の行に“Secundiani”とあるが、これ

はMartMontan 3.1; 4.1; 11.1の“Secundinus”とは別人だろう。この時期カルタゴ教会はキプリアヌスが殉教したため司教空位の状態が続いていた。さらにカルタゴ殉教者暦の“Secundiani”に「司教」の文字はない。おそらくセクンディヌスはランバエシスの司教と思われる。

95 カルタゴ殉教者暦上の日付。逮捕から殉教まで長期間に及んだと考える根拠はMartMarian 10.3. 次註も参照。

96 カルタゴ殉教者暦上の日付。逮捕から殉教まで長期間に及んだのは彼らが数ヶ月間「幽閉されていた」(MartMontan 12.2)ため。殉教の時点でキプリアヌスの命日からかなりの月日が流れていたことはまたMartMontan 21,3,6f. からも明白。

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率もデキウス帝期に50%から40%へ、ウァレリアヌス帝期に16%、14%へ、

そしてガリエーヌス帝期には2%へ、逓減の速度を早め98、260年頃には含

有率の低下した通貨の表示価値での流通を強制する市公職者の命令も発令さ

れている99。また弾圧対象も社会的身分による区別がなされ、元老院身分の

者には財産没収も規定されていた100。しかし1)教会財産は戦費を賄なうに

十分であったかどうかは疑わしく101、2)第2告示公示前の時点でローマ司

97 Gregoire[註51]52. 他にもAllard Les dernie`res persecutions 36―57; idem Lechristianisme 107―10; W.H.C. Frend, Martyrdom and Persecution in theEarly Church, Oxford1965,422“one reason for Valerian’s measures”. フレンドが示す根拠はアレマーニー人のミラノ侵入、カルピ人のダキア侵攻、ゴート人のギリシア侵攻、ドゥラ・エウロポス陥落等による戦費増大と教会財産の富。財政的理由を想定することからマクリアヌス教唆説を退ける。これらの説は3世紀に横行した国庫充実のための不当な財産没収の事実を指摘したRostvtzeff, Social and Economic History 333―41,367―9,395―411に多分に依拠。強力に反対するのがOborn Decius and Valerian esp.73―4. 迫害は確かに経済的危機によって引き起こされたが、皇帝は直接的に国庫充実化を狙ったのではなく、教会組織そのものの破壊によってこれを克服しようとしたと解釈する。財政的理由および政治的理由の両方を重視するのがKeresztes Two Edicts 91.なおLaurentiusの殉教伝ではウァレリアヌスの貪欲さが強調されるが(Cf.Ambros De Officiis Ministrorum 2.28.140―1[PL 16.140B―C])、証言自体信憑性に欠ける。

98 F.M. Heichelheim, Wirtschaftsgeschichte des Altertums I, Leiden1938f,685ff.; Gregoire[註51],49

99 POxy 1441. ただし「(260年という)年代は必ずしも完全に正確というわけではない」(Gregoire[註51],118)

100上記��“senatores vero et egregii viri et equites Romani. それに対応してPontius VitaCyp 14Conveniebant interim plures egregii et clarissimi ordiniset sanguinis, sed et saeculi nobilitate generosi[司教に逃避を勧告するために訪れてやって来た身分高き人々]。

101例えばカルタゴ教会は3世紀の段階で教会所有の共同墓地を所有していなかったと思われる。キプリアヌスの遺骸は財務官所有の墓地に埋葬されたが(ActCyp 5.6areas Macrobii Candidiani procuratoris ...deductum est)、このMacrobiusが異教徒か信徒かは不明だが(H. Musurillo, Acts of the ChristianMartyrs. Introduction, texts and translations, Oxford 1972[Reprint 2000],CXIIIはキリスト教徒を想定するも特別な根拠はない)、ウァレリアヌス期の殉教者たちがそれぞれ異なった墓地に埋葬された事実(Successus positus inTertulli, Libosus in novis areis positus, Leucius in Fausti positus.; Saxer[註89],93―5; G. Mercati, D’alcuni sussidi 180)は教会が信徒専用墓地を所有していなかったことを物語る。信徒がそれ以前の時期からもareaと呼ばれた地上墓地(s.v.“area”RAC 1.645―6)に埋葬されていたことはTert AdScap 3.1cum

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教シクストゥスは民衆の手で殺害されており、この事実は司教が第1告示

に基づき追放されることがなかったこと、すなわち第1告示はローマには

公示されなかったことを証明している102。財産目当てなら第1告示を何より

もローマに公示し、おそらく当時最大規模を誇ったローマ教会の財産を没収

するのが最も有効であるはずである103。そして3)そもそも財産目当てで弾

圧しようとしたなら、絶対的権力を持つ皇帝は半ば問答無用に没収を敢行す

るか、あるいは相手側が受け入れられないような条件を突きつけて皇帝側か

らの要求をあえて拒否させ、確実に目的を達せんとしたことであろう104。し

かし政府の眼に信徒の供犠実行は十分な可能な事態であり、それゆえ投獄や

拷問を執拗に行いながら説得工作を継続したのである105。

de areis sepulturarum nostrarum acclamassent:‘Areae non sint!’から分かる。

102上記註89参照。103ローマ教会の信徒数についてはHE 6.43.11[ローマ司教Corneius書簡―司祭46

名、助祭7名、副助祭7名、侍祭42名、祓師、読師、門衛計52名、寡婦および困窮者1,500名以上]。A.v. Harnack, Die Mission und Ausbreitung desChristentums, Leipzig19153 II 255―6はこの数から信徒数を「3万以上」と推測(T.D. Barnes, Constantine and Eusebius, Harvard UP1981,53がこれに同調)。2世紀末のコンモドゥス期に富裕な市民の教会流入が生じ(HE 5.21.1τω^ν ε’πι`�Ρωµη ε^ ’υ µαλα πλουτω

�και` γενει διαφανω^ν「富と生まれゆえに

ローマで名声を得ていた人々」)、300年の時点でローマ教会は40以上のバシリカ聖堂を有していた(Opt2.4)。

104マキシミヌスの事例(HE 8.14.15)。貴婦人(RufinusによればDorothea)の追放、財産没収の際、何らかの理由をつけたと思われるが、詳細は不明。またマクセンティウスは民衆を煽って「数え切れない程の数の」元老院議員を殺害させ財産を没収したと言われる(HE 8.14.3―4)。

105なお教会を危険視した帝国が教会組織の破壊を目的として二つの告示を発令したというKeresztes[註1]、94の説も受け入れ難い。上記16頁以下「d)集会および墓地使用の禁止」参照。帝国が教会を危険視していなかった点については拙著『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』559の索引項目「キリスト教徒」「政治的無害性」参照。

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