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「主体」 「市民」 「公共」 公共、 あるいは公共空間とは何か、 市民社会と いった場合の市民とはだれなのか、 市民とは何な のか。 これらの問題に現在の日本社会は、 明治以 来、 明確に応えることができていません。 それは、 「主体」 「市民」 「公共」 という概念が西欧近代に よって産み出され、 日本は西欧の<近代>を十全 に経験したとはいえない歴史的現実があるからで す。 日本は西欧近代を技術の上では習得し、 先取 りもしてきましたが、 近代の出発点となっている 「主体」 という概念が日本人ひとりひとりに浸透 したわけではありません。 戦後責任にまつわる主 体についての論争 (1) は何度か繰り返されてきまし たが、 決着がついていません。 東洋の仏教的無我 や無私の思想と融和しないこともありますが、 思 想的にも大変難しい問題です。 また 「主体」 が日 本人によって吸収されたからといって、 それで問 題が解決するわけでもありません。 デカルト以来、 西欧近代の規定した主体/客体の二分法が批判的 に乗り越えられないと、 今日、 近代の行き詰まり も打開できないからです。 この哲学的命題が本稿 のテーマではありませんから紙面を費やしている 余裕はありませんが、 いずれにせよ、 私たち一人 一人の問題として今後も熟考しつづけるべき課題 でしょう。 ただ、 西欧近代が産み出した最も優れ たもののひとつに、 批判精神があります。 批判と はまず自己批判のことです。 そして自己批判の精 神が最も公共空間の創出にとって不可欠なもので しょう。 たしかに、 ある意味で日本は、 近代を飛び越え て、 物質が飽和状態に達したポストモダンに遭遇 してしまったというべきなのかもしれません。 日 の丸を振る日本国民としてはすぐイメージが出て きますが、 市民といった場合にどのようなイメー ジとして市民を規定しているのでしょうか。 やは りこの問題は、 これから日本の市民社会、 ひいて は日本の民主主義を熟成していくための土台とし て、 まだまだ考えを掘り下げていかなければなら ないでしょう。 ひとつ滑稽な話がありました。 何年か前に、 日 本のある地方都市の代議員達の教育視察団がフラ ンスに来ました。 保守党議員で占められたこの視 察団の目的は、 フランスでは 「愛国心を教育の場 でどのように教えているのか」 を理解するのが目 的でした。 彼らは対応したフランスの教育委員会 の責任者から、 教育の目的の第一に国民の愛国心 高揚の術を聞けるものと期待していたようです。 ところが、 フランスで教育の目的は何かとの問い に対し、 「市民を育てること」 だという回答が真っ 先に返ってきて、 視察団員はすっかり困惑してし まったのでした。 そもそも彼らは 「市民を育てる」 ことがどういう意味かよく分からなかったし、 愛 国心の一言も聞けなかったからです。 ここでは、 市民の概念は非常に明確です。 社会に対し、 社会 的、 政治的義務と権利の意識を明確に持っている 主体のことです。 フランスの教育現場では、 まず ― 73 ― 特集:東アジアに公共空間を~人々の 『アジア共同体』 を考える~ <公共空間>を市民が奪い返すこと フランスの市民運動の経験を例証として コリン・コバヤシ (ジャーナリスト)

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Page 1: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

「主体」 「市民」 「公共」

公共、 あるいは公共空間とは何か、 市民社会と

いった場合の市民とはだれなのか、 市民とは何な

のか。 これらの問題に現在の日本社会は、 明治以

来、 明確に応えることができていません。 それは、

「主体」 「市民」 「公共」 という概念が西欧近代に

よって産み出され、 日本は西欧の<近代>を十全

に経験したとはいえない歴史的現実があるからで

す。 日本は西欧近代を技術の上では習得し、 先取

りもしてきましたが、 近代の出発点となっている

「主体」 という概念が日本人ひとりひとりに浸透

したわけではありません。 戦後責任にまつわる主

体についての論争(1)は何度か繰り返されてきまし

たが、 決着がついていません。 東洋の仏教的無我

や無私の思想と融和しないこともありますが、 思

想的にも大変難しい問題です。 また 「主体」 が日

本人によって吸収されたからといって、 それで問

題が解決するわけでもありません。 デカルト以来、

西欧近代の規定した主体/客体の二分法が批判的

に乗り越えられないと、 今日、 近代の行き詰まり

も打開できないからです。 この哲学的命題が本稿

のテーマではありませんから紙面を費やしている

余裕はありませんが、 いずれにせよ、 私たち一人

一人の問題として今後も熟考しつづけるべき課題

でしょう。 ただ、 西欧近代が産み出した最も優れ

たもののひとつに、 批判精神があります。 批判と

はまず自己批判のことです。 そして自己批判の精

神が最も公共空間の創出にとって不可欠なもので

しょう。

たしかに、 ある意味で日本は、 近代を飛び越え

て、 物質が飽和状態に達したポストモダンに遭遇

してしまったというべきなのかもしれません。 日

の丸を振る日本国民としてはすぐイメージが出て

きますが、 市民といった場合にどのようなイメー

ジとして市民を規定しているのでしょうか。 やは

りこの問題は、 これから日本の市民社会、 ひいて

は日本の民主主義を熟成していくための土台とし

て、 まだまだ考えを掘り下げていかなければなら

ないでしょう。

ひとつ滑稽な話がありました。 何年か前に、 日

本のある地方都市の代議員達の教育視察団がフラ

ンスに来ました。 保守党議員で占められたこの視

察団の目的は、 フランスでは 「愛国心を教育の場

でどのように教えているのか」 を理解するのが目

的でした。 彼らは対応したフランスの教育委員会

の責任者から、 教育の目的の第一に国民の愛国心

高揚の術を聞けるものと期待していたようです。

ところが、 フランスで教育の目的は何かとの問い

に対し、 「市民を育てること」 だという回答が真っ

先に返ってきて、 視察団員はすっかり困惑してし

まったのでした。 そもそも彼らは 「市民を育てる」

ことがどういう意味かよく分からなかったし、 愛

国心の一言も聞けなかったからです。 ここでは、

市民の概念は非常に明確です。 社会に対し、 社会

的、 政治的義務と権利の意識を明確に持っている

主体のことです。 フランスの教育現場では、 まず

― 73 ―

特集:東アジアに公共空間を~人々の 『アジア共同体』 を考える~

<公共空間>を市民が奪い返すこと

フランスの市民運動の経験を例証として

コリン・コバヤシ(ジャーナリスト)

Page 2: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

市民が基盤であり、 国民 (ナシオン) とは市民の

統一的集合体を意味しますから、 日本で言われる

<国>の概念が市民を先取りして最初に出てくる

ことはないのです。 むろん、 国の統治体制がこう

した認識を左右するのは当然としても、 民主的な

国民国家を想定する中では、 市民意識の熟成は基

本となるでしょう。 そしてそれらを血肉化するに

は、 長い思考と経験の積み重ねなしにはありえな

いでしょう。

日本社会のように集団的抑圧が大きいと、 個人

がなかなか自己表現し、 自己実現できない場合が

多いのです。 それは職業的、 社会的に縦割りの社

会構造になっている要因もあるでしょう。 その意

味では、 まったく新しく水平的な人間関係で、 対

等な人間として応対することが可能な (つまり利

害関係が少ない) 市民団体の中で、 「主体」 「市民」

「公共」 という概念を頭だけで理解するのではな

く、 身を持って体験していくことが可能でしょう。

契機としてのアソシアシオン (NPO) 運動:フ

ランスの例から

これから<公共空間>について触れたいと思い

ますが、 私が言う公共空間とは、 都市計画などで

一般的に言う物理的空間、 公園や道路や公共施設

のことではありません。 私の言う意味は、 市民た

ちが集団的に共有し分かち合いながら、 コミュニ

ケーションし、 <共に生きる時空間>のことです。

そのような意味で、 <公共空間>を創出するた

めには、 集団の中で議論を積み重ねていくという

経験が重層されてこないと、 自分たちで作り出す

ことができません。 ヨーロッパでは、 広場は古代

ギリシャから、 公共空間の最たるものでしたが、

今日、 広場も権力者が上から作って与えても、 公

共空間とはならないのです。 日本の広場の場合は、

残念ながら大半が、 そこは交通の通過点であるに

過ぎません。 そこで話し合いが自然に発生し、 議

論に発展し、 何かの集会や祝祭が主体的に催され

る広場としてはなかなか機能していません。 そも

そも広場のそのような自由な使用を行政当局や警

察がなかなか許さないからです。 しかし、 広場や

公園だけが公共空間ではなくて、 あらゆる場所が

<公共空間>となりうるのです。

こうした<公共空間>創出の経験を積み重ねる

きっかけとして、 NPO という場が、 様々な可能

性のひとつとして有効でしょう。 そこでは、 組織

作りから運営、 活動方針など、 まったく未知の人

たち (血縁、 地縁だけではない人) と協議、 討議

を重ね、 またそうした積み重ねのうちに、 自分の

考えや認識の仕方、 問題意識を新たに持つことも

含めて、 自己を常に問い直していくことなのです。

そして、 自分自身も含め、 プロセスの過程で変化

し展開していく人間関係そのものから、 運動のダ

イナミズムを学ぶことになるのです。 言い換えれ

ば、 文献や書籍によって、 観念的にテーブルの上

で単に一方通行で価値観を学んでいくのとは異な

り、 生成変化していく過程そのものが私たちの経

験になっていくのです。 同時にその流れの中で判

断していくことの困難と重要性も認識するのです。

企業や仕事で働く組織とは異なった、 もっと水平

的な人間関係における集団的活動の貴重な意味が

あります。 しかし、 行動はあくまでも個人個人の

判断と決意と信念にかかっています。 そこにこそ

自己表現と自己実現の最大の契機があるのです。

集団の中で学ぶのですが、 しかし、 もっとも重要

なのは、 集団そのものの活動以上に、 個人個人の

発意であり、 イニシアティヴなのです。

フランスには NPO 法に対応するアソシアシオ

ン法が1901年にできて、 すでに1世紀以上経過し

ています(2)。 フランスのアソシアシオン活動その

ものは、 その百年前のフランス革命前から始まっ

て今日に至っています。 様々な政治結社運動は言

うに及ばず、 人権運動、 協同組合運動、 市民運動

などもそこが出発点となっているのです。 二世紀

半に及ぶ長い市民の間の恊働作業の積み重ねが、

<公共空間>を市民が奪い返すこと

― 74 ―

Page 3: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

政治感覚を高度に洗練させてきたことも事実です。

現在では、 社会福祉、 医療、 文化、 芸術、 スポー

ツ関係すべて含めて、 NPO (フランスでは1901年

アソシアシオン法に基づいて作られた) として活

動するこうした市民団体総体が75万から80万団体

活動しているといわれています。 とりわけ、 1990

年を境に社会活動をする NPO が爆発的に活性化

してきました。 その原因は、 人口問題、 環境破壊、

食糧と水問題、 医療問題、 福祉問題、 貧困、 核、

戦争など、 グローバリゼーションと密接に結びつ

いて、 どれをとっても政府レベルだけではとても

解決できない多くの問題が偏在しているからです。

とりわけ、 環境問題は、 今日の国際社会のあり方、

すなわち生産至上主義、 利潤追求至上主義が引き

起こした矛盾を体現しているのですから、 私たち

の惑星に現れた社会的病の症状、 と見なすことが

できるでしょう。 その症状はたいへん深刻で、 早

期の治療が必要なのです。 とにかく自分の庭にさ

えごみがなければ、 他人の庭にどういうごみが集

積しようが構わないという安易な考えでは、 環境

問題は解決しません。 環境問題には国境はないの

です。 ルイ15世は 「余の死んだ後、 洪水が来ても

知ったことか」 と放言したのですが、 それとは逆

の意味で、 一人一人が社会的責任を持って社会建

設のための生産のヴィジョンを考えていかなけれ

ばなりません。 今までのような金儲け一辺倒のあ

り方、 開発一辺倒のあり方、 とにかく無限成長し

ていくような社会のあり方といったヴィジョンを

変えていかないと、 環境問題は悪化の一途をたど

るでしょう。

NPO運動から国際市民社会の運動へ

ところで、 フランス人は統計によると10人中8

人は何らかの形で、 NPO 活動に関与していると

いわれており、 おそらくそのような経験の積み重

ねこそが、 社会における市民一人一人の主体性と

主権意識を高めているにちがいありません。

世界的に名高い NGO、 グリーンピース、 地球

の友、 WWF などは環境や食料問題に取り組んで

いることは周知の通りです。 近年の狂牛病、 遺伝

子組み換え作物、 鳥インフルエンザなどは、 こう

した運動体に更なる危機感を呼び起こしています。

またアムネステスティ・インターナショナルは世

界的な人権問題や囚人の問題に取り組んでいるこ

ともよく知られている通りです。

こうした活動を通じて、 公共空間を広げていく

ことが、 社会や政治に対する民衆一般の意識を高

めることに役立つことは言うまでもありません。

また、 ATTAC France という ONG が国際的に

ネットワークを広げて、 <もうひとつのグローバ

リゼーション>を目指して運動を展開していま

す(3)。 これは金融投資にトービン税を課税しろと

いうスローガンをもとに始まった運動ですが、 今

日の新自由主義的な世界化に反対して国際的な運

動を作り上げることに成功しました。 この

ATTAC France が提唱してできたのが、 『世界社

会フォーラム』 です。 今日、 毎年開催される世界

社会フォーラムは、 10万人以上の参加者が集まる

巨大な討論会、 反グローバリゼーションの祭典と

なりました。

最近、 フランスやヨーロッパにおいて、

ATTAC France をはじめとするオルター・グロー

バリゼーションの活動家たちが盛んに話している

議論のテーマとして、 「マイナス成長」 がありま

す。 今のような消費拡大社会では持続できないこ

とは明白です。 また世界中がヨーロッパ並みの暮

らしを始めたら、 資源的に地球を維持できないこ

とも同じように明白です。 余剰の生産は行わない、

余分な物質は買わない、 という省エネのライフ・

スタイルを北側の市民は自覚的に普及させるべき

でしょう。

こうして地域的な NPO 運動は、 国際的なネッ

トワークとなっていき, それは無数のクモの糸の

ように結ばれると、 それはひとつの国際市民社会

<公共空間>を市民が奪い返すこと

― 75 ―

Page 4: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

と呼ぶべき、 公共空間を形成することになります。

それらは、 ひとつの国際世論の圧力としてパワー

を形成し得るのです。

市民運動の広がりによって果たせる社会的役割

こうした NPO 活動を展開していく中で、 政府

レベルでは果たせない市民の役割があります。 こ

れは様々な次元で成功しています。 例えば、 地雷

禁止条約の成立なども、 たった2人の個人のイニ

シアティヴから始まって、 世界中の NGO の連携

によって、 オタワ・プロセスが始まり、 成し遂げ

ることができた好例です(4)。

また、 2004年4月、 イラク戦争の当初、 三人の

日本人が拉致された事件がありましたが、 日本政

府がおろおろする中、 複数の市民団体は様々な方

法で、 拉致解放に向け、 素早い行動をとりました。

そして政府ができなかった拉致からの解放を勝

ち取ったのです。 そうしたいくつかの団体のひと

つ、 私を含むパリの 「グローバル・ウォッチ」 と

いう小さな市民のネットワークは、 インターネッ

トを使いつつ、 様々な情報をキャッチしながら世

界状況を見つめようとする小さな組織です。 パリ

にいるイラクの民主化運動 「CONDI」 を通じて、

拉致された人々の情報を流し、 拉致した武装勢力

との間接的なコンタクトに成功し、 早期に彼らの

解放が約束された確実な情報を握りました。 そし

てそれらの情報を日本に発信し続けたのです(5)。

この解放のためのアプローチは、 日本からも、 日

本ビジュアル・ジャーナリスト協会(6)の広河隆一

さん、 映画監督足立正生さん、 ATTAC Japan(7)、

ピースボートなどが敏速に動き、 イラク占領監視

センター(8)、 「フォーカス・オン・ザ・グローバ

ル・サウス」(9)、 ATTAC International、 そして世

界中のそれらの関連団体など多層な NPO や NGO

がネットワークを張りました。 また個人的にも運

動を通じて信頼関係が熟成されていました。 こう

した複数の動きが重層的に功を奏したというべき

でしょう。 拉致された三人がイラク人民の敵では

ないことを拉致当事者達に理解させることができ、

解放に繋がりました。

このように、 市民同士が実践的な活動を通じて

信頼関係が結ばれたとき、 世界的なネットワーク

によって、 思いもかけない貢献が可能になること

があります。 たった2週間ほどの動きでしたが、

成果としては3人の人名を救えたわけですから、

非常に重要な役割を演じることができたと思って

います。 私はこのとき、 世界的な市民パワーの連

帯によって、 市民にもできることがあることを実

感しました。

もうひとつ最近の具体例を上げると、 航空母艦

クレマンソーの事件がありました。 クレマンソー

が廃船になって、 解体作業をインドの安価な解体

業者に頼んだわけです。 船には建材としてアスベ

スト (石綿) が大量に使用されたのですが、 フラ

ンス政府の発表では、 インドに向けて出発する前

に、 115トンが処理されたというのですが、 実際

に調べてみますと83トンだけでした。 残りの30ト

ン近くはどこに行ったのかということは、 政府の

調査レベルでもわかっていません。 解体作業に伴

う不正があり、 それを市民が告発しなければ、 不

透明のままでした。 一番の問題はインドの解体作

業を行う現場がこのような石綿を処理する設備も

なく、 作業員はほとんど素手で作業をするという

のです。 こうした労働条件しかない解体場に、 安

価であるという理由だけで、 発ガン作用のある毒

性の高い石綿がつまった船を解体させるというこ

とが今日のグローバリゼーションの最も劣悪な例

のひとつを象徴しているのではないでしょうか。

しかも船はフランス国家の軍艦でした。

結局、 クレマンソーは牽引船に引かれて、 やっ

とのことでエジプトに許可をもらって、 スエズ運

河を越えてインドまで来たのですが、 インドでも

このようなアクションを行ったのは、 グリーンピー

ス・インターナショナルとフランスのアスベスト

<公共空間>を市民が奪い返すこと

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Page 5: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

被害者たちの会ほか、 幾つかのアソシエーション、

NGO で、 さまざまな働きかけをしました。 イン

ドに対しては裁判所に訴えて最高裁まで判断を仰

いだのです。 結局、 クレマンソーを本国に送還せ

ざるを得なくしたのは市民の力です。 エジプト政

府もインド政府も介さなかったわけです。 とにか

くフランス政府は自国の軍艦の廃棄を自分で処理

する責任感がなかったことが暴露され、 クレマン

ソーは世界中の海で恥をかいたあげく、 フランス

に出戻ったのです。

以上、 3つの例は、 市民のネットワークの形成

はまさに世界的な公共空間の創出であり、 その中

で果たせることのできた実例です。

あらゆる文化的営みを通じて

市民の公共空間をつくっていくという課題で、

あまり語られないのは、 文化を熟成していく点で

す。 文化、 つまり文学、 芸術、 つまり音楽、 演劇、

舞踊や映画などをお互いに分かち合っていく中で、

相互の理解が深まっていく。 そして、 文化は、 時

には必ずしも言語が通じなくてもわかり合えるす

ばらしいものを提供することができるという意味

で、 貴重な人間の営みともいえ、 そこに普遍的な

価値を分かち合いうる場があります。 今後、 東ア

ジア共同体を市民の中でつくっていくためにも、

政治、 社会、 歴史のみならず、 お互いの文化を知

り合うことが大切です。

例えば、 ヨーロッパ、 フランスでは特にドキュ

メンタリー映画の制作が非常に注目を浴びており、

多くの NPO や映画人が、 今日の社会問題をテー

マにして作品を作り、 作品の上映運動が様々な

NPO によって盛んにおこなわれています。

またもうひとつの例は、 食の文化でもいいので

す。 食べる文化は意外とその国の人々の生活や生

き方を映し出す鏡でもあるのです。 お互いにあま

りにも知らないことが多過ぎます。 身近な食を通

じて、 食の文化を理解することによって、 それぞ

れの国の歴史を知ることにもつながることがあり

ます。

ネグロス・キャンペーン委員会や例えば、 最近

の流行でもあるフェアートレードの会社のひとつ、

オルタートレード・ジャパン社がやっている作業

は、 単にフェアートレードというよりは、 もうひ

とつの交易=民衆交易をめざす、 まさにある意味

で農作物を通じた相互理解の試みであり、 民衆の

真の交流と連帯の形成のための努力でしょう。

イタリアには、 『スローフード』 という食の伝

統や歴史に根ざした地域的な食の豊かさを取り戻

そうとする運動で、 農業のあり方や、 生産のあり

方、 食のあり方の原点を問うものとして、 これも

世界的に広まりました。

また2001年からフランス南部で始まった NPO

「農民農業を維持していく会=AMAP」 は、 現在、

フランス全国に運動が広がり、 世界的な運動にし

ようとしています。 近代農業によって、 小中規模

の農家が崩壊し、 都市化が進行することをくい止

め、 有機農業による農作物を生産者と消費者が一

緒になって、 産直提携をするというものです。 日

本の70年代から始まった生協運動にモデルを取っ

たものですが、 会員になっている人々は、

ATTAC France や多くのエコロジストもおり、 新

自由主義のグローバリゼーションに反対しながら

活動しています。

終わりに

東アジアの民衆の共同体は成立しているとはと

ても言えませんが、 多くの組織や個人が努力して

います。 以上あげたようなフランスやヨーロッパ

の例証を学びつつ、 東アジアでも民衆の本当の交

流や連帯の実践、 そして東アジアの<公共空間>

が作れないでしょうか。 こうした民衆の交流や交

通が、 官製のものではなく、 外交辞令なしに、 真

に相互理解が深まる形の率直な話し合いや討論を

広げていくべきでしょう。 縦型のヒエラルキーに

<公共空間>を市民が奪い返すこと

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Page 6: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

よる国力顕示型ではなく、 水平型の市民の横の繋

がりこそ、 真の信頼関係を熟成していくものです。

私たち一人一人の発意と熱意、 アイデアによって、

繋がりを形成し、 それが大きなネットワークになっ

ていくような契機を育てるべきでしょう。 そして

異文化を少しでも理解し、 <ともに生きる>こと

を私たち一人一人が学ぶことの緊急性が問われて

いるのです。

本稿執筆過程で、 中東、 パレスチナ、 レバノン

とイスラエルとの重大な戦争が始まり、 深刻さを

増しています。 このことに少し触れて本稿を閉じ

たいと思います。

問題は、 アメリカ、 イスラエルの帝国的ヘゲモ

ニーのみならず、 民主主義と人権という普遍的価

値を訴えてきた西欧がアラブ世界に対してダブル・

スタンダードを行使し、 この普遍性を公正に擁護

し得なくなってしまっていること、 そしてアメリ

カの帝国主義的な 『世界新秩序』 に, 北側諸国が

ゴーサインを与えていることが、 大きな問題なの

です。

中東のこの危機は、 60年近く、 パレスチナ/イ

スラエル問題を放置してきたことが大きな原因で

す。 ヨーロッパはナチズムの過去に対する自責か

らイスラエルに対して公正で批判的な態度を取る

ことを怠ってきたし、 アメリカはその場その場の

利害で対応しながら、 中東支配の先兵にするため

に、 イスラエルに絶対的なお墨付きを与えてきた

のです。 そのことをはっきり世界の市民たちが批

判しないといけないのです。 民主主義を人間の進

歩と発展のために絶対的に擁護する北側の国々が、

この戦争犯罪をはっきり糾弾し、 戦争を止められ

なければ、 世界的な危機に直面するでしょう。 す

なわち、 それは第三次世界大戦の火種をまく危険

性をも内包しているのです。 こうした状況は、 下

手をすると東アジアでも起こりうるシナリオです。

しかし、 私たち一人一人は何をすべきでしょう

か。 一見、 個人が無力であるという絶望感に打ち

ひしがれてしまうような状況です。 しかし、 現実

が圧倒してしまうこのような時代だからこそ、 な

おいっそうこのような事態を既成事実として受け

入れない、 一人一人が拒否するという態度表明こ

そが不可欠なのです。 そしてそれらの意志を国内

の市民たちと、 また世界の市民たちと分かち合っ

ていく回路を作っていくべきではないでしょうか。

市民の意思を、 国内的には政府へ、 国外的にはあ

らゆる国際連帯行動を通じて、 またあらゆる可能

なメディアを使って表現し、 伝えていくことが必

要です。

(1) 加藤典洋著 『敗戦後論』 講談社、 1997年。

高橋哲哉著 『戦後責任論』 講談社、 1999年。

(2) コリン・コバヤシ編共著 『市民のアソシエー

ション ーフランス NPO 法100年』 太田出

版、 2003年。 参照

(3) ATTAC 著 『反グローバリゼーション民衆

運動』 つげ書房新社、 2001年。 スーザン・

ジョージ著 『オルター・グローバリゼー

ション宣言』 作品社、 2004年。 参照

(4) 目加田説子著 『地雷なき地球へ』 岩波書店、

1998年

(5) グローバル・ウォッチ編集 『日本政府よ!

嘘をつくな!』 作品社、 2004年。

(6) http://www. jvja. net/

(7) http://www. jca. apc. org/attac-jp/japanese/

index. html

(8) http://www. occupationwatch. org/

(9) http://www. focusweb. org/

<公共空間>を市民が奪い返すこと

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Page 7: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

日本では、 被爆者といえば広島、 長崎の原爆投

下による被害者をさす。 しかし、 1980年4月にワ

シントン DC で開かれた 「全米放射線犠牲者市民

公聴会 (National Citizen’s Hearings for Radiation

Victims)」(1) に参加した人々は Radiation Expo-

sures (被曝者) とよばれた。 参加したのは、 被

曝退役軍人、 ネバダ実験場の風下地域の住民、 ウ

ラン採掘労働者、 核物質と核兵器製造工場の労働

者、 太平洋・マーシャル諸島の被曝住民、 スリー

マイル島原発周辺の住民(2)、 在米日系人被爆者と

医療用放射線を過剰に浴びた患者などで、 放射能・

放射線による健康被害を訴え、 アメリカ政府に補

償を求めた。

公聴会は、 核大国アメリカに多数の被曝者が存

在することを明らかにしただけでなく、 ウラン採

掘から核物質 (核兵器と核燃料用) 製造、 核兵器

製造と核爆発実験(3)、 原子力発電などのすべての

過程でヒバクシャ(4) が生みだされることを明ら

かにした。

私はこの公聴会の取材はできなかったが、 1978

年からアメリカの原水爆実験によって被害を受け

たマーシャル諸島住民の取材を始めており、 この

公聴会の開催によってさまざまなヒバクシャが存

在することに驚かされた。 以後、 今日まで、 マー

シャル諸島を主にアメリカや旧ソ連、 イギリスな

どの世界の核実験場やウラン採掘場、 スリーマイ

ル島原発とチェルノブイリ原発などの現場とそれ

らによって生みだされたヒバクシャ、 世界各地で

開かれたヒバクシャ会議などの取材を行った。 25

年以上の取材の中で、 私は、 ヒバクシャは健康だ

けでなく心もむしばまれ、 暮らしの基盤までが破

壊されることを知った。

「被曝による被害」

①心の被害

ヒバクシャは心もむしばまれていることを知っ

たのは、 1984年10月、 サンフランシスコ市で開か

れた 「放射線被曝生存者会議 (Radiation Survi-

vors Congress)」(5) を取材した時である。

マーシャル諸島のエニウェトク環礁で行われた

核爆発実験に参加した元陸軍兵アンディ・ホウキ

ンソンは、 「爆発の閃光が眼にやきついていて、

除隊後から仕事に集中できない。 健康に異常はな

いのだが、 いつも体にだるさを感じる。 妻や近所

の人からはなまけているように見られている。 ま

た、 あの時の被曝の影響がいつ自分に現れるか、

あるいは子供に現れるのではないかと考えると不

安だ」 といった。 会議に参加した被曝治療の専門

医は、 「被曝による精神的被害は、 ヒバクシャ自

身が心の中に封じ込めるため外部の者は知ること

ができない。 外科的治療はできず、 専門のカウン

セラーも少なく、 治療は困難である」 といった。

心の被害は広島、 長崎の被爆者にもみられてい

る。 精神科医の中沢正夫医師は、 「ヒバクシャ全

員は、 歴史上最悪、 最大のトラウマ (外傷) によっ

て重篤な心的外傷後ストレス障害 (PTSD) を60

― 79 ―

論考

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

豊 � 博 光(フォトジャーナリスト)

Page 8: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

年たった今も引きずっている。 ヒバクシャは体験

を語らない、 語らないのではなく語れないのだ。

なぜなら、 ホントのことを語るとあの恐怖の体験

が襲ってくるからである」 と述べている(6)。

私のこれまでのヒバクシャ取材の中で、 特に被

曝退役軍人の中に、 子供に被曝の影響が現れるの

ではないかと心配する者が多く見られた。

②コミュニティの崩壊

1987年9月にニューヨーク市で開催された 「第

一回核被害者世界大会 (First Global Radiation

Victims Conference)」(7) の取材では、 被曝によっ

て故郷の地を失い、 他の地への移住を余儀なくさ

れた結果、 文化や伝統が消滅してコミュニティが

崩壊していることを知った。

証言を行ったのは、 アメリカが1954年3月1日

にマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験の

死の灰 (放射性降下物) を浴びたロンゲラップ島

住民のアイゼン・ティマである。 ロンゲラップ島

住民は死の灰を浴びた後、 アメリカ軍に避難させ

られ、 3年後 (1957年) に帰郷したが、 甲状腺障

害や白血病などのガンが多発したため1985年5月

に全員で約190キロ南の島に移住した。 ティマは

「移住先は故郷の島より小さく、 借地のため、 ヤ

シの実などを勝手に採って食べることができない。

このため、 故郷の島でヤシの実などを採って暮ら

していた時の伝統や文化がすたれ、 故郷の島で成

り立っていた暮らしができなくなった。 他の島へ

移る者が増え、 ロンゲラップ島の伝統的なコミュ

ニティが崩れ始めている」 といった。 ロンゲラッ

プ島には今なお死の灰が残り、 人間の居住は不可

能とされている。

アメリカの核実験場とされて23回の原水爆実験

が行われたビキニ島住民も同様である。 実験が始

まる約3カ月前、 1946年3月に故郷の島を追われ

た人々は、 他のマーシャル諸島の島々を流浪し、

現在は故郷の島から遠くはなれた3つの島に分散

して暮らしている。 ビキニ環礁の島々にも死の灰

が残っているため今もなお人間の居住は不可能と

なっている。 故郷の島を離れてからすでに60年、

故郷の島で育まれた伝統や文化は消滅し、 コミュ

ニティは崩壊している。

③ニュークリアー・レイシズム

この言葉を聞いたのは、 1992年9月、 オースト

リアのザルツブルグ市で世界各地の先住民族の代

表たちが参加して開かれた 「世界ウラン公聴会

(World Uranium Hearings)」(8) を取材した時だっ

た。 ニュークリアー・レイシズムとは造語で、 初

めて聞いた言葉だった。 私は“核による人種差別”

と訳した。

ニュークリアー・レイシズムの例として、 先住

民族の代表たちは以下のような事実をあげた。 ウ

ランの主要生産国であるカナダ、 オーストラリア、

カザフスタン、 ニジェール、 ロシア、 ナミビア、

アメリカ、 南アフリカ、 中国、 ブラジル、 インド

など18カ国の採掘場(9) はすべて先住民族の大地

にあり、 飲料水や食物などが汚染され、 居住地の

環境と聖地が破壊されている。 また、 アメリカの

かつての核実験場ビキニとエニウェトク環礁はマー

シャル諸島住民の島であり、 ネバダ実験場はウェ

スターン・ショショニ・インディアンの大地で、

旧ソ連の主要実験場セミパラチンスクはカザフの

人々の、 イギリスのかつての核実験場イミューや

マラリンガはアボリジニの、 フランスの核実験場

モルロア、 ファンガタウファ環礁はポリネシアの

人々の、 そして中国の核実験場ロプ・ノールはウ

イグルの人々の大地であると指摘し、 死の灰の被

害は実験場周辺に暮らす先住民族の人々に集中し

ているといった。

そして、 「世界のウラン採掘の約75パーセント

はわれわれ先住民族の大地で行われており、 世界

の核実験場のすべてがわれわれ先住民族の大地に

ある。 また、 核廃棄物処理 (投棄) 場も作られよ

うとしている。 核による被害のすべてがわれわれ

先住民族に一方的に押し付けられていることは

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

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ニュークリアー・レイシズムであり、 われわれ先

住民族に対する新たな虐殺である」 とする声明を

発表した。

核兵器の製造や原子力発電の核燃料はウランの

採掘から始まるが、 ウランは危険な放射能であり、

有害な放射線を発する。 核爆発実験もまた死の灰

という危険な放射能を大量に生みだす。 ウラン採

掘や核実験は多数の人々が住む都市から遠く離れ

た地で行われているが、 そこには主に先住民族の

人々が暮らしており、 放射能・放射線の被害が押

し付けられる結果となっている。 抑止力としての

核兵器開発と代替エネルギー源としての原子力発

電がニュークリアー・レイシズムを生みだしてい

ることを初めて知ったのだった。

このほかに、 これまでのヒバクシャ取材の中で

知ったことは、 ヒバクシャに対する差別である。

1985年に取材したロンゲラップ島住民の一人は、

他の島に行った時にその島の住民から 「レディエー

ション、 レディエーション、 レディエーションが

うつるといわれて遊んでもらえなかった。 家の中

にも入れてもらえなかった」 と子供時代の体験を

話してくれた。 1991年に、 チェルノブイリ原発事

故(10) の放射能で汚染されたベラルーシ、 ゴメリ

州の村に住む家族を取材した時、 母親は 「村は危

険といわれて遠く離れた町に移住させられたが、

町の商店では“放射能がうつる”といわれて品物

を売ってもらえず、 仕事場でも同じことをいわれ

た。 仕方なく、 放射能汚染が高い故郷の村に戻っ

て暮らしている」 といった。

「無視され、 すり替えられる被曝被害」

核兵器や原子力発電の核燃料の原料であるウラ

ンの危険性は、 19世紀後半、 ドイツで陶磁器の上

薬用として採掘されていた時から知られていた。

採掘労働者に肺ガンによる死者が多く見られたた

めで、 ウランは、 「致死性の物質」 とよばれた(11)。

ウランからラジウムやポロニウムを発見して1911

年に女性初のノーベル化学賞を受賞したマリー・

キュリーは1934年に亡くなったが、 原因はウラン

の放射線を過剰に浴びたことによる白血病だっ

た(12)。

ウランは、 体内に入ると胃腸管や腎臓、 骨に影

響を与える危険な放射能を含み、 有害な放射線を

発する。 特に危険なものとされるのがラドンから

出るガスで、 大量に吸入すると肺ガンや呼吸器系

の病気を引き起す。 このため、 採掘労働者や採掘

場周辺に住む人々が被害を受ける。 採掘されたウ

ランは、 鉱山に隣接する精錬所に送られて酸化ウ

ランが取り出されるが、 精錬中にウランの粉塵を

浴びる労働者と精錬過程で棄てられる鉱滓 (ウラ

ンに含まれる放射能の85パーセントを含む) によっ

て精錬所の周辺に住む人々もまた被害を受けるこ

とになる。

しかし、 ウラン採掘と精錬の危険性は無視され

続けた。 1942年8月にアメリカがマンハッタン計

画=原爆製造計画を開始した時、 世界では、 カナ

ダ北部のグレイト・ベア湖、 アメリカ南西部のコ

ロラド台地、 チェコとドイツの国境エルツ山地の

ヨアキムスタールとベルギー領コンゴ (現コンゴ

民主共和国) でウランは採掘されていたが、 それ

らの地域で多数の採掘労働者が肺ガンなどで死亡

し、 採掘場周辺の住民にも被害が出ていたことが

明らかになったのは1990年代のことであった。 マ

ンハッタン計画開始以後、 ウラン採掘は世界の各

地で始まり、 戦後は1950年~1980年代までの核軍

拡競争と1970年代に始まった原子力発電によって

急速に拡大し、 多数のヒバクシャを生みだすこと

になった。

一方で、 採掘労働者の肺ガンや呼吸器系の病気

の原因は喫煙にすり替えられた。 1941年から71年

まで、 ナバホ・インディアン居住地内のアリゾナ

州レッドロックで行われたウラン採掘では約

15,000人のナバホの人々が働き、 このうち約半数

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

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Page 10: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

の人々が肺ガンなどで亡くなった。 1980年に取材

した時に出会ったドナルド・ローは20年間採掘労

働に携わり、 肺ガンとなっていた。 「雇われた時、

会社はウランが危険とは一度もいわなかった。 坑

内はいつも埃がひどかったが、 ランチも食べた。

湧き水もよく飲んだ」 と。 また、 28年間働いた夫

を肺ガンで失ったパール・ナハカイは、 「夫はウ

ランが危険なものとはいわなかった。 夫はそのウ

ランに殺されたのです。 会社は、 夫の肺ガンは煙

草が原因だといいましたが、 夫は煙草を吸いませ

んでした」 といった。

もっとも多数のヒバクシャを生みだしたのは核

爆発実験と原発事故だが、 その被害もまたすり替

えられ、 過小評価されている。

1954年3月1日にアメリカがビキニ環礁で行っ

た水爆実験によって東160キロで操業していた

「第五福竜丸」 の乗組員23人、 同180キロのロンゲ

ラップ島住民86人 (4人は胎児)、 同270キロのロ

ンゲリック環礁の島で気象観測を行っていたアメ

リカ兵28人、 同470キロのウトリック島住民166人

(9人は胎児) が死の灰を浴びた。 アメリカ兵は

実験から30時間後に、 二つの島の住民は2~3日

後にアメリカ軍に避難させられたが、 ロンゲラッ

プ島住民のうち64人は死の灰によって半半数致死

量 (175ラド) の放射線を浴び、 下痢や嘔吐、 火

傷や脱毛など重度の急性症状にみまわれていた。

しかし、 米原子力委員会 (現エネルギー省) は3

月11日、 「所定の原爆実験期間中、 28人のアメリ

カ人職員と236人の地元住民が……それぞれ予期

せぬ若干の放射能を浴びた。 火傷はない。 全員元

気である」 とする声明 (一部省略) を発表した(13)。

3月16日付の 『読売新聞』 が母港の静岡県焼津港

に帰港した 「第五福竜丸」 乗組員が死の灰によっ

て重症に陥っていることを伝えると、 同月31日、

米原子力委員会議長は記者会見で、 「(福竜丸) 乗

組員の症状は爆発の際にサンゴ礁が化学的壊変を

起したことが原因とみられる」 (一部省略) といっ

て死の灰による被害を否定した。 この後、 記者と

の質疑応答で、 ある記者が 「水爆の有効性、 効果

がどのくらいのものであるかが理解できない」 と

聞いた。 議長は、 「水爆は一つの都市を破壊でき

る。 ニューヨークでいえば首都圏である」 と答え

た。 記者会見の模様を載せた翌4月1日付 『ニュー

ヨーク・タイムズ』 紙は第一面にマンハッタン島

を中心に水爆による被害範囲を5段階に描いた地

図を載せ、 「水爆はいなかる都市も破壊」 とする

見出しを掲げた。 この結果、 ロンゲラップ島住民

や福竜丸乗組員に見られた水爆実験の死の灰の危

険性は水爆攻撃を受けた場合の都市破壊の問題に

すり替えられ、 世論はソ連の水爆攻撃に対抗する

ために核戦力の増強が必要であるという方向に導

かれていった。 のちに、 質問をした記者と原子力

委員会議長は旧知の間柄であることと、 記者の質

問はあらかじめ仕掛けられていたことが明らかと

なった(14)。

1951年1月にネバダ実験場で核爆発実験を開始

した時は死の灰による風下地域住民への被害を言

葉巧みにごまかした。 1987年、 風下地域の一部の

ユタ州セント・ジョージ市で取材した時に出会っ

たエルマー・ピケットは、 「実験が始まる前、

AEC (米原子力委員会) は “There is no danger.”

(実験による危険は何もない) といった。 1953年

の実験ののち、 羊の大量変死事件が起きると

“No immediate danger.” (すぐには危険ではない)

といった。 私たちは騙されたのです。 この後、 町

の人々に白血病や脳腫瘍などで亡くなる者が多く

見られました」 といった。 エルマーは夫人と妹、

姪など親戚の者13人を白血病で失った。

今年、 事故から20年目を迎えたチェルノブイリ

原発事故の被害については2005年9月に国際原子

力機関 (IAEA)、 世界保健機関 (WHO) などに

よる報告書が公表された。 内容は、 ①事故直後か

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

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ら翌1987年までに消火・除染作業に従事した作業

員、 ②原発から30キロ以内の高レベル放射能汚染

地域から避難した人々、 ③セシウム (胃や生殖器

系などガンを引き起こす放射能) が1平方キロあ

たり5キュリー以上の汚染地域に住む住民など約

60万人を調査対象とした結果、 ガンで亡くなる者

は約4,000人と見積もるとする内容だった。 これ

に対してカナダの計量生物学者ロザリー・バーテ

ル博士は、 報告書はガンによる死者だけを事故の

影響としている、 致死的でない他の病気は事故の

影響ではないとしていることなどをあげ、 被害の

現実を無視したものであると批判した(15)。

私は1990年と翌91年に4回、 主にベラルーシ東

部の汚染地域の町や村を取材したが2つのことに

驚かされた。 ひとつは、 原発の北東約250キロの

モギリョフ州チュジャニ村で、 1平方キロあたり

の放射能量は平均5キュリー以下とされているが、

1平方キロあたり約400キュリーという放射能量

のある場所をみつけた。 このことは、 事故で放出

された放射能は一様に降り落ちたのではなく、 放

射能汚染はまだら模様であることを明らかにした。

第二は、 西隣のベプリン村に住む人々が禁止され

ているキノコや野イチゴなどを食べ続けているこ

とだった。 さらに驚かされたのは、 ペチカの薪に

汚染された樹木を使い続けていることだった。 ペ

チカで燃やされた薪の灰は高レベルの放射線を発

し、 死の灰と化していた。 人々は、 ペチカは調理

にも使い、 寒さのきびしい冬はペチカの上や近く

で寝るのだといった。 IAEA などの報告書は、 放

射能汚染の低い地域で汚染食料を食べ、 ペチカの

死の灰と共に暮らし続けている人々の健康への被

害は調査していないのである。 2004年から2006年

までの日米やヨーロッパの各紙の報道によれば、

ウクライナ、 ベラルーシ、 ロシア南西部の汚染地

域には今なお500万~700万人の人々が暮らし続け

ており、 甲状腺ガン、 水頭症、 リンパ性白血病な

どが多く見られているとしている。

「ヒバクシャの補償」

これまで述べてきたように、 生みだされたヒバ

クシャは体と心をむしばまれるだけでなく、 放射

能汚染による伝統や文化の破壊をともなったコミュ

ニティの崩壊など生存の基盤そのものを破壊され

る被害も受けている。 しかし、 ヒバクシャに対す

る補償を行っているのは日本とアメリカ、 マーシャ

ル諸島共和国の3カ国だけで、 その補償は健康被

害だけを対象としたものである。

日本の被爆者援護法

日本では、 1994年12月に制定された 「原子爆弾

被爆者に対する援護に関する法律」 (被爆者援護

法) によってアメリカによる原爆投下で被害をう

けた広島、 長崎の被爆者に対して健康管理手当や

医療手当などが支払われている。 同法は1957年3

月に公布された“原爆医療法”と1968年5月の

“原爆特別措置法”をひとつにしたもので、 原爆

被爆者だけを対象としたものである。 原爆医療法

は、 1954年3月にアメリカが行った水爆実験で

「第五福竜丸」 の乗組員が被災したことをきっか

けに制定されたが、 福竜丸やその他856隻の被災

漁船(16) の乗組員には適用されておらず、 94年の

援護法でも同様である。 また、 運転中の原子力発

電所で被曝した労働者や1999年9月に臨界事故を

起した茨城県の核燃料加工工場 JCO 東海事業所

の被曝作業員も同様に援護法の対象とはなってい

ない。

援護法では、 ①爆心地からおおむね5キロ以内

で被爆した者、 ②原爆投下後2週間以内に爆心地

から2キロ以内に救援活動や肉親・知人・友人を

捜すために入った者、 ③爆心地から遠く離れた場

所で被爆死した者の遺体の処理にあたった者、 ④

当時、 胎児であった者で、 被爆者健康手帳を持つ

者をヒバクシャとしている (2006年3月時点で約

26万人。 厚生労働者資料)。 このうち、 国は、 の

ちに発症したガンが原爆による放射線被曝が原因

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

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Page 12: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

であると認めたヒバクシャを 「原爆症認定被爆者」

として医療特別手当を支給している。 しかし、 爆

心地からの距離で被曝者が浴びた放射線量を推定

するという認定基準を一様にあてはめているため

認定を拒否されるヒバクシャが続出している

(2006年3月時点の認定被爆者は手帳保持者の約

0.9パーセント、 約2,280人にすぎない)。 認定を拒

否されたヒバクシャは認定取り消し訴訟を各地で

起し、 各地の裁判所は 「認定拒否は不当である」

との裁定を下しているが、 国は依然として認定基

準に固執し、 裁定を拒否し続けている。

アメリカのヒバクシャ補償法

アメリカでは、 大気圏内核爆発実験によって約

25万人の被曝退役軍人の存在(17) が明らかになっ

たことから1988年5月に 「放射線被曝退役軍人補

償法 (Radiation Exposed Veterans Compensation

Act)」 を制定した。 この補償法では、 大気圏内核

実験に参加した者と1945年8月6日から翌1946年

7月1日まで広島、 長崎に進駐した者で、 設定し

た13種のガンに罹った者の治療費は全額国が負担

するとした (1992年~2002年に3回改正され、 補

償の対象となるガンは19種に増やされた)。

1990年10月には、 「放射線被曝者補償法 (Radia-

tion Exposure Compensation Act 1990)」 が制定

され、 ネバダ実験場の風下地域 (ネバダ州6郡、

ユタ州8郡、 アリゾナ州北西部の2郡) に1951年

1月27日から1958年10月31日まで (ネバダ実験場

での大気圏内核実験期間) に1年間住んでいた住

民で、 13種のガンに罹った者に5万ドルを支払う

とした。 またウラン採掘労働者で、 1947年1月1

日から1971年12月31日までアリゾナ、 ニューメキ

シコ、 ユタとコロラド州のウラン鉱山で採掘労働

を行った者で、 採掘中の放射線被曝が原因とする

肺ガンと呼吸器系の病気に罹った者に10万ドルを

支払うとした。

同法は2000年7月に RECA2000として大幅に改

正された。 ネバダ実験場の風下地域はユタ州が10

郡に、 アリゾナ州が5郡に拡大され (ネバダ州は

据え置き)、 補償を受けられるガンも19種に増や

された。 ウラン採掘労働者については、 労働期間

が1942年1月1日から1971年12月31日までと改正

されてマンハッタン計画開始以前に行われていた

採掘労働も対象となり、 採掘場もワイオミング、

サウスダコタ、 ノースダコタ、 ワシントン、 アイ

ダホ、 オレゴン、 テキサスの7州が加えられた。

また、 採掘場から精錬所にウランの原石を運んだ

運搬労働者と精錬所の労働者も補償の対象となり、

採掘労働者と同じ条件で10万ドルを受け取ること

ができるようになった。 さらに、 核実験場で働い

た民間人技術者や実験後に実験場の除染作業を行っ

た民間人労働者も補償の対象になり、 19種のガン

に罹った者に7.5万ドルが支給されることになっ

た。

同年10月にはもうひとつの補償法 「エネルギー

雇用労働者職業病補償計画法 (Energy Employees

Occupational Illness Compensation Program Act)」

が制定され、 核物質と核兵器製造工場の労働者と、

特にウラン濃縮工場の労働者とアラスカ州アムチ

トカ島での地下核実験に参加して被曝した労働者

は 「特別被曝集団」 として無条件で、 設定した31

種のガンや疾病に罹った者に15万ドルを支払うと

した。

マーシャル諸島のヒバクシャ補償法

マーシャル諸島では、 1986年10月にアメリカと

結んだ自由連合協定の中の 「放射能補償協約」 に

よって核実験場とされたビキニ、 エニウェトク島

住民と、 1954年3月の水爆実験の死の灰を浴びた

ロンゲラップ、 ウトリック島住民に補償基金とし

て合計1.5億ドル、 これら4島住民の医療保健費

として総額3,000万ドルが支払われることになっ

た。 また、 両政府の合意の下に 「核賠償請求裁定

委員会 (Nuclear Claims Tribunal)」 が設立され、

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

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核爆発実験で被害を受けたマーシャル諸島の住民

個人に対する補償と、 核爆発実験で失った資産の

損害賠償金支払いの原資として4,575万ドルが支

給されることになった。 NCT は、 1946年6月30

日から1958年8月18日 (マーシャル諸島での原水

爆実験期間) までの間にマーシャル諸島の島々に

暮らしていた住民で、 設定した36種のガンや疾病

に罹った者に病症に応じて補償金を支払うとした。

「ヒバクシャの救済か、 放置か」

日本の被爆者援護法とアメリカ、 マーシャル諸

島のヒバクシャ補償法との間には大きな違いがあ

る。 第一は補償法の性格である。 被爆者援護法は、

前文で 「……国の責任において、 原子爆弾の投下

の結果として生じた放射能に起因する健康被害が

他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることに

かんがみ、 高齢化の進行している被爆者に対する

保健、 医療および福祉にわたる総合的な援護対策

を講じ、 あわせて、 国として原子爆弾による死没

者の尊い犠牲を銘記するために、 この法律を制定

する」 (一部省略) としているが、 国家による補

償法ではなく、 被爆者を助ける法律である。 この

ため、 被爆者に支給されている諸手当は国の財政

事情によっていつでも打ち切られる可能性があ

る(18)。 これに対してアメリカの補償法 RECA1990

は、 第6節で 「アメリカ議会は、 ウラン採掘労働

者とネバダ実験場の風下地域の住民の生命と健康

が合衆国の国家安全保障の犠牲になったことを認

める。 議会は政府に代わってこれらの人々とその

労苦に耐えた家族に対してお詫びする」 と明記し

て国の責任を認め、 国家補償であるとしている。

第二は、 ヒバクシャの認知の方法である。 日本

は限定的、 閉鎖的であることに対してアメリカは

補償法の改正を重ねて多くのヒバクシャを認め、

補償を行っている。

しかし、 日本とアメリカのヒバクシャ補償法に

も問題がある。 そのひとつは、 いずれの補償法も

被曝した当事者だけを対象としており、 遺伝的影

響ではないかとされる障害が見られている被曝二

世や三世は補償の対象とされていないことである。

もうひとつは、 放射能・放射線による被害範囲を

限定していることである。 日本の被爆者援護法で

は、 ヒバクシャとしての第一条件に爆心地から5

キロ以内にいた者をあげているが、 その範囲は物

理的な5キロではなく、 行政区単位を基にした5

キロである。 アメリカの補償法 RECA によるネ

バダ実験場の風下地域の範囲も行政区単位を基に

設定されている。 死の灰 (放射能) は行政区単位

で降り落ちることはなく、 行政区単位を基にした

被害範囲はヒバクシャを切り捨てることになる。

RECA2000が施行されて以降、 アイダホ、 ワイオ

ミング、 モンタナ、 ニューヨーク州の住民は、 同

法で設定されている19種のガンが多発しているが

補償の対象とはなっていないとして政府を相手取っ

て損害賠償請求訴訟を起している(19)。

一方、 マーシャル諸島では今深刻な問題に直面

している。 1986年に締結した自由連合協定が2003

年9月に期限 (15年間) 切れとなったことにとも

なって 「放射能補償協約」 も終了し、 補償金が打

ち切られたのである。 アメリカは、 ビキニ環礁と

エニウェトク環礁で合計67回の原水爆実験を行っ

たが、 その総爆発威力は約108メガトン (広島型

原爆=15㌔トンに換算すると約7,200発分) で、

放出されたヨウ素 (甲状腺に影響を与える) はチェ

ルノブイリ原発事故の放出量の約157倍にあたる

63億キュリーであることが明らかにされた(20)。 ま

た、 2004年9月に米議会上院エネルギー・天然資

源委員会に提出され、 公表された米国立ガン研究

所 (NCI) の報告書(21) が、 1954年に行われた

「キャッスル作戦」(22) の死の灰によってマーシャ

ル諸島の全住民が住む21環礁・島が高、 中、 低、

極低レベルの放射能・放射線によって被曝をして

いたことと、 当時の住民約13,940人 (推定人口)

が被曝したことを明らかにした。 これらの事実が

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

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明らかになる前の2000年9月、 マーシャル諸島共

和国政府はアメリカの核実験に関する機密解除文

書などを参考に独自の調査を行って被害がマーシャ

ル諸島全域に及んでいることを知り、 ヒバクシャ

補償の追加として約32億ドルを請求したが、 請求

は今なお受け入れられていない。 2006年4月に取

材した NCT (核賠償請求裁定委員会) の公益仲

裁人ビル・グラハムは、 「補償協約は、 核爆発実

験によるマーシャル諸島の島々と人々の過去、 現

在、 将来まで続く被害を補償するとしているが、

追加請求の拒否は過去の被害さえも補償できない

ことを意味する」 といった。 NCT は、 2005年5

月時点で核爆発実験の被害を受けたマーシャル諸

島住民1,936人を補償金受給資格者と認め、 約

8,700万ドルを支払うことを決めているが、 支払

い原資が底をつき、 約1,600万ドルが未払いとなっ

ている。 2006年3月に取材したビキニ環礁の南東

約590キロのメジット島住民の間に今なお甲状腺

障害と甲状腺ガン、 乳ガンなどに罹る者が多く見

られたが、 補償を受けた者はいなかった。

マンハッタン計画開始以降60年以上におよぶウ

ラン採掘、 核物質製造、 1945年から1998年まで米

ソ英仏中国とインド、 パキスタンによって行われ

た2057回の核爆発実験(23)、 世界各地で運転される

460基の原子力発電所(24) とスリーマイル島、 チェ

ルノブイリ原発事故などによってぼう大な数のヒ

バクシャが生みだされ、 今も生みだされ続けてい

る。 しかし、 世界各地の被曝の実態は明らかにさ

れず、 ヒバクシャのほとんどは補償を受けること

もなく無権利の状態で放置されている。 ウラン採

掘、 核物質と核兵器の製造、 原子力発電、 使用済

み核燃料の再処理、 核廃棄物投棄などによるヒバ

クシャを生みだすサイクルを断ち切って、 すでに

生みだされたヒバクシャの人権回復と補償が急が

れている。

(1) 反核運動や環境保護運動グループの代表、

弁護士などで組織された National Commit-

tee for Radiation Victims によって4月10

日~14日に、 約100人が参加して開催され

たアメリカ最初の被曝者大会。

(2) ペンシルベニア州ハリスバーグにある原発

で、 1979年3月28日に炉心溶融事故をおこ

して大量の放射能を放出したため周辺に住

む約3万人が被曝。 のちに甲状腺障害や脳

腫瘍になる者が多く見られた。

(3) 核兵器開発の実験だけでなく、 爆発威力を

利用して運河の掘削や地下深くにある天然

ガスなどの採掘を目的とした 「平和利用」

実験がある。 H・ワッサーマンなど共著、

茂木正子訳 『被曝国アメリカ』 早川書房、

1983年。

(4) 1980年代中頃から、 広島、 長崎の被爆者も

放射能・放射線による被曝者もヒバクシャ

(HIBAKUSYA) とよばれている。

(5) アメリカ西部の被曝退役軍人、 ウラン採掘

労働者、 核物質製造工場の労働者などで組

織した 「全米被曝生存者協会 (National

Association for Radiation Survivors)」 の主

催で10月12日~14日に開かれ、 約100人が

参加。 日本の広島、 長崎の被爆者も参加し

た。

(6) 池田眞規 「被爆者はなぜ集団訴訟を起した

のか」。 『軍縮問題資料』 2005年10月号。

(7) アメリカ、 カナダやアジア、 太平洋、 イギ

リスや西ドイツなどの被曝者グループ、 反

核運動グループと原水爆禁止日本国民会議

などの共催で9月26日~10月3日に開かれ、

30カ国・地域から約300人が参加。

(8) 1987年にドイツで結成された The World

Uranium Society の主催で9月13日~18日

に開かれ、 30カ国・地域の先住民族の代表

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

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Page 15: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

と科学者や医師、 文化人類学者など約600

人が参加。 日本からは札幌市に住むアイヌ

民族の代表が参加した。

(9) A Joint Report by the OECD Nuclear En-

ergy Agency and the International Atomic

Agency, “URANIUM.” April 1991.

(10) ウクライナ北西部のチェルノブイリ原発4

号炉で1986年4月26日に起きた爆発事故。

放出された放射能は地元ウクライナをはじ

めベラルーシ、 ロシアの一部を汚染したば

かりか、 風にのって北半球のほぼ全域に達

した。

(11) Gordon Edwards, “Uranium: The Deadliest

Element.” “Perception” Volume 10. 1979.

(12) ピーター・ブリングルなどの共著、 浦田誠

親監訳 『核の栄光と挫折』 時事通信社、

1982年。

(13) 1954年3月12日付 『ニューヨーク・タイム

ズ』。

(14) デヴィッド・ハルバースタム著、 金子宣子

訳 『ザ・フィフティーズ (上)』 新潮社、

1997年。

(15) 報告書はプレスリリースされた “Cherno-

byl: the True Scale of the Accident.” バー

テル博士の批判と共に “Nuclear Monitor.”

September 16, 2005に掲載。

(16) 三宅泰雄など監修、 第五福竜丸平和協会編

『ビキニ水爆被災資料集』 東京大学出版会、

1976年。

(17) 国防総省核防衛局 (DOD/DNA) が1979年

10月1日に公表した 『核実験職員再調査』。

(18) 宮崎安男 「今日の被爆者をめぐる状況

(下)」。 『原水禁ニュース』 2002年3月号。

(19) 2005年4月19日付 『ザ・スペクトラム』

(ユタ州セント・ジョージ市の日刊紙)

(20) NCT Annual Report to the Nitijela for the

Calendar Year 2003.

(21) “Estimation of the Baseline Number of Can-

cers Among Marshallese and Number of

Cancers Attributable to Exposed to Fallout

from Nuclear Weapons Testing Conducted

in the Marshall Islands.” Prepared by the

National Cancer Institute, National Institute

of Health, Department of Health and Human

Services. September, 2004.

(22) 1954年3月1日から5月13日までビキニ環

礁で行われた6回の原水爆実験。 3月1日

に実験された水爆ブラボーは15メガトン

(広島型原爆の千倍の爆発威力)。 U. S.

DOE “United States Nuclear Tests- July

1945 through September 1992.” December

1994.

(23) “NRDC Nuclear Notebook.” “Bulletin of the

Atomic Scientists.” September / October

2003. 広島、 長崎への原爆投下は 「戦闘」

目的のため、 また臨界前核実験は含まれて

いない。

(24) “International Herald Tribune” January 25,

2006.

棄てられる日本と世界のヒバクシャ

― 87 ―

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はじめに

2005年11月25日、 白金校舎において 「グローバ

ル化時代の文化・文学の未来を検証する」 と題し

てシンポジュウムが開催された。 これは、 昨年同

じ時期に行なわれたシンポジュウム 「未来を考え

る:グローバル化のさなかの文化と文学」 の延長

線上に構想されたものである。

このプロジェクトの目的は、 グローバリゼーショ

ンという条件のもとで文化と文学というものが一

体どのように構想されるのか、 そのさまざまな挑

戦を幾つかの地域の文化・文学の実際のありよう

に従って検証する。 そしてその知恵をめぐってディ

スカッションを試みるというものである。

今回のシンポジュウムは、 3人の講演者を招聘

して行なわれた。 多くの賞を受賞した The Prac-

tice of Diaspora: Literature, Translation, and the

Rise of Black Internationalism (2003) の著者で黒

人文学、 黒人文化が専門の Rutgers University 助

教授 Brent H. Edwards 氏、 中国系カナダ人作家

で When Fox is a Thousand (1995)、 Salt Fish

Girl (2002) の著者 Larissa Lai 氏、 ポストコロニ

アル文学、 翻訳論が専門の愛知淑徳大学助教授

Beverley Curran 氏である。 エドワーズ氏は、 「ディ

アスポラの未来図」、 ライ氏は、 「ブランド名カナ

ダ・対立図式に基づく政争・グローバルな流れ・

そして未来人」、 カレン氏は、 「英語文学における

架空の翻訳者」 という演題で講演した。 本号では、

エドワーズ氏の 「ディアスポラの未来図」 を掲載

することにした。

題名 「ディアスポラの未来図」 が示すとおり、

この発表においてエドワーズ氏は、 ある特定民族

の歴史 (過去) との関連で語られることの多い

「ディアスポラ」 という概念に新たな解釈を与え

ることによって、 グローバル化にたいする批判的

考察の端緒を見出すことができると論じている。

より具体的には、 アフリカ系アメリカ人の詩人、

ラングストン・ヒューズの1937年の作品 「スペイ

ンからの手紙」 の読解を通じて、 エドワーズ氏は

新たなる 「ディアスポラの詩学」 を提出しようと

試みている。 スペイン内乱のさなか、 敵味方に分

かれて戦う北アフリカ出身の黒人兵士たちに向け

て書かれたこの詩の目指すものは、 離散した 「同

胞たち」 を糾弾することでも放免することでもな

い。 それはむしろ、 他者の他性に心を向け、 他な

るものを他なるままに抱擁しようと努めることで

あり、 それによってディアスポラ的責任が果たさ

れるのだとエドワーズ氏は主張する。 エドワーズ

氏はさらに、 ヒューズのこの考えの背景には、 彼

が同時期に翻訳を試みていたガルシア・ロルカの

詩集 『ジプシー・バラード』 (1928) に実践され

る 「絶対的他者」 への眼差し、 「他テクスト」 へ

の間接的言及があることを、 綿密なロルカ読解に

よって明らかにしている。 ヒューズ、 ロルカ両者

に共通するものは、 グローバル化という、 市場経

済の発展拡大によってもたらされる均一化、 標準

化とも、 あるいは人種の名の下での同盟とも異な

― 89 ―

プロジェクト研究報告

グローバル化時代の文化・文学の未来を検証する

佐 藤 アヤ子(国際平和研究所所員)

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る、 友愛にもとづく新たな普遍性への希望なのだ

とエドワーズ氏は結論する。

〈シンポジュウム講演者〉

Brent H. Edwards: Rutgers 大学助教授 (アメリカ)

Larissa Lai:作家 (カナダ)

Beverley Curra:愛知淑徳大学助教授

〈討論者・司会〉

Roy Miki: Simon Fraser 大学教授 (カナダ)

ムルハーン・千栄子:元イリノイ大学教授

佐藤アヤ子:明治学院大学教授、 国際平和研究所

所員

竹尾茂樹:明治学院大学教授、 国際平和研究所所

原 宏之:明治学院大学助教授

グローバル化時代の文化・文学の未来を検証する

― 90 ―

Page 18: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

This lecture is an attempt to consider whether

the poetics of diaspora can provide a point of entry

to a critical understanding of globalization. This is

not to imply that the terms are necessarily com-

mensurate, much less synonymous: on the contrary,

as James Clifford has reminded us, “diasporic prac-

tices cannot be reduced to epiphenomena of the na-

tion-state or of global capitalism.”(1) The term

globalization, slippery and contested as it is, might

be considered first and foremost “an attempt to

name the present,” whereas the term diaspora

would seem to name a relation to a past, as a des-

ignation for the aftermath of the scattering of a

population.(2) Globalization implies the imposition

of a single mode of exchange everywhere—even if

that standardization is produced by and entails the

proliferation of difference and inequity—whereas

diaspora foregrounds divergence, the “friction of

distance,” the irreducibilty of the specific conditions

that produce transnational movement and trans-

national “sensibilities.”(3)

If diaspora can offer a critical lens into the

condition of globalization, then it must be taken

“not merely as a comparative social or historical

phenomenon, not even only as a predicament shared

by many people or peoples who otherwise have lit-

tle else in common, but as a positive resource in

the necessary rethinking of models of polity in the

current erosion and questioning of the modern na-

tion-state system and ideal.”(4) On the one hand,

this means that diaspora as a framework of inquiry

signals an alternative to the market teleology im-

plicit in economic conceptions of globalization.(5)

One the other hand, an invocation of diaspora must

also remind us, once again, that globalization is it-

self a historical phenomenon stretching back in

many of its key features at least to the sixteenth

century.

Given the historical register implicit in the

term diaspora, my title is meant to be a provoca-

tion. To invoke the “futures of diaspora” should

first of all raise the question of the continuing vi-

ability of the term (at a moment when, by some

accounts, the unchecked proliferation of its use may

have vitiated any critical force it once possessed).

But it also should imply a departure from an ap-

proach that considers diaspora to be essentially a

matter of the past, stressing the work of collective

memory as “foundational” in an uprooted people’s

relationship to a “homeland.”(6) It is to ask whether

diaspora can be said to involve not only a relation

to deprivation and dispossession, but also a particu-

lar approach to futurity.

One of the most disturbing flaws in the schol-

arship that has arisen in the past two decades to

focus on the dynamics of diaspora in a wide

― 91 ―

プロジェクト研究報告

The Futures of Diaspora

Brent Hayes Edwards(Rutgers University)

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variety of “new” contexts is its failure to engage

with the rich and complex history of the term in its

“original” milieu, the Jewish intellectual tradition in

the Hellenistic period. In Jewish discourse, a vision

of futurity is an important component of the condi-

tion of diaspora because it comes to be imbued

with an eschatological dimension: there arises a

dialectical tension between dispersal and return,

loss and restoration, castigation and absolution,

exile and redemption.(7) In fact, although it is al-

most always overlooked in recent “new diasporas”

scholarship, this tension is signaled by the deeply

significant distinction that emerges in the Jewish

intellectual tradition between diaspora (the Greek

term appropriated as a self-designation by Jewish

communities around the Mediterranean basin) and

galut (the Hebrew term for exile).(8) Often diaspo-

ra is used to indicate a state of dispersal resulting

from voluntary migration, as with the far-flung

Jewish communities of the Mediterranean. In this

context, the term is not necessarily laced with a

sense of violence, suffering, and punition, in part

because Jewish populations maintained a robust

sense of an original “homeland,” physically sym-

bolized by the Temple in Jerusalem (strikingly,

Jewish settlements around the Mediterranean were

commonly called apoikiai, or “colonies”).(9) Very

differently, the term exile (galut) connotes “an-

guish, forced homelessness, and the sense of things

being not as they should be,”(10) and is often con-

sidered to be the result of the loss of that geo-

graphic center and imagined home with the destruc-

tion of the Second Temple in 70 CE.(11) It is above

all in galut that there inheres an eschatological di-

mension, in the longing for return and redemp-

tion.(12)

By sketching this history, I do not mean to

suggest that the Jewish diaspora should be consid-

ered to be a paradigm or “ideal type,” as some

scholars of comparative diasporas would have

it.(13) Diaspora is first of all a translation, a foreign

word adopted in the Jewish intellectual discourse of

community. As such, it should serve as a reminder

that there is never a first diaspora: there is never

an originary, single dispersion of a single people,

but instead a complex historical overlay of a vari-

ety of kinds of population movement, narrated and

valuated in different ways and to different ends. As

the historian Erich Gruen has noted with regard to

the Hellenic period, “a Greek diaspora, in short,

brought the Jewish one in its wake.”(14) With regard

to the study of the movement of peoples under

globalization in the contemporary moment, then,

this history of usage should compel us away from

an overarching concern with the movement of

groups considered as discrete or self-contained, and

toward a focus on the ways that the movements of

groups always necessarily intersect, leading to ex-

change, assimilation, expropriation, coalition, or dis-

sension. This is to say that any study of diaspora

is also a study of “overlapping diasporas.”(15)

Instead, I am dwelling on the Jewish case in

order to highlight its consistent linking of the

diasporic condition to futurity—to the prospect of

return and redemption. In more recent, twentieth

century appropriations of diasporic discourse, it has

sometimes been supposed that Zionism—the mod-

ern, nationalist proposition of an indissoluble pri-

macy between a people and a “homeland”—is the

dominant or sole version of a Jewish discourse of

diasporic redemption.(16) But, if anything, as an in-

vasive political project of state-formation, Zionism

is the negation of diasporic experience, and of the

eschatological valence of redemption embedded in

The Futures of Diaspora

― 92 ―

Page 20: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

galut.(17) In what follows, I will attempt to consider

the resonance of this futuristic quality in the dis-

courses of diaspora emergent in the twentieth-

century, particularly in the “interwoven histories”

(histoires entrecroisés)(18) of the African diaspora. It

may seem especially counterintuitive to turn to the

interwar period and to the Spanish Civil War in

particular, where I will track my network of exam-

ples, because we are often told that it is exactly

the sort of internationalism at stake in the 1930s

which has been superseded by the globalization of

the contemporary period.(19) At the risk of being

dismissed as anachronistic, however, I will argue

that the archives of internationalism can be read for

a sensibility—or more precisely, a poetics—that al-

lows diaspora to serve as a critique of the

totalizing pretensions of globalization. I will focus

in particular on the ways that interwar internation-

alism might be read as a reformulation of diasporic

eschatology in the sense I have outlined, especially

through a range of bilingual or multilingual prac-

tices in literature.(20)

It is by now a commonplace to describe

Langston Hughes as a writer of the “African dias

pora.” But one could with equal validity describe

his work as a writerly engagement in the politics

of capitalist globalization. For example, in his 1938

speech to the International Writers Association for

the Defense of Culture in Paris, Hughes argued:

“because our world is. . . today, so related and inter-

related, a creative writer has no right to neglect to

understand clearly the social and economic forces

that control our world.”(21) He had spent a number

of months in Spain during the previous year, work-

ing as a newspaper correspondent for the Baltimore

Afro-American and the Cleveland Call and Post.(22)

He spent most of his time in Madrid and Valencia

with the International Brigades, whose crucial role

in the defense of the republican government during

the Spanish Civil War has been well-documented.

About 35,000 volunteers from more than fifty

countries and colonies joined the fight against

Franco’s invading fascist forces. This number in-

cluded 3,300 Americans, of which some 100 were

African Americans.(23)

Hughes was struck by the implications of the

Brigades as an integrated fighting force that

brought African Americans into contact with what

he called “wide-awake Negroes from various parts

of the world” including South Americans, Caribbe-

ans, and Africans.(24) His writings about the black

volunteers do not attempt to force them into a

common project, but instead emphasize the extraor-

dinary variety of their paths to the anti-fascist

struggle. Over and over again, he emphasizes indi-

vidual faces, individual stories: the “brownskin boy

from the Canary Islands in a red shirt and a blue

beret” whom Hughes and the Cuban poet Nicolás

Guillén meet on the train across the border; the

Puerto Rican from Harlem who recognizes Hughes

at a cafe in Barcelona; the “ebony-dark young man,”

a Guinean, Hughes speaks to on the beach in Va-

lencia; the crowd of “several Spanish-speaking Ne-

groes and a colored Portuguese” at a nightclub; the

Cuban boxer Raul Rojas just back from the front

lines at Belchite; a “French Algerian Negro named

Frazal”; the Cuban musician El Negro Aquilino,

playing jazz in besieged Madrid; and dozens and

dozens of named African Americans. “Who were

they?” Hughes asked rhetorically. “I put their

names in my notebooks. Yet their names cannot

tell us who they really were, nor could any addi-

tional pages I might write about them.”(25) But for

Hughes, the very fact of such disparate engagement

The Futures of Diaspora

― 93 ―

Page 21: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

in a voluntary struggle was a clear sign of the ar-

rival of peoples of African descent on the stage of

world politics: here, “history turned another page.”(26)

Hughes was enticed not because the Brigades

seemed to pose the African diaspora in a romantic,

masculine context of internationalist anti-fascism,

but precisely because the Spanish Civil War under-

cut any such identification. For there were “men of

color fighting on both sides.”(27) Franco’s coup

began in July 1936 not in Spain itself but in the

Spanish protectorate in North Africa, and his forces

were commonly referred to as the “Army of

Africa,” which included both Foreign Legionnaires

and tens of thousands of Moroccan soldiers.(28) The

first modern airlift of troops involved these

Africanos, delivered by Nazi planes across the

Mediterranean to Seville at the end of that

summer.(29) Hughes came to write about the com-

plicated dynamics of race, color, and colonialism in

the war, and aimed to portray black Loyalist sol-

diers and “Moorish” fascist soldiers as ironic adver-

saries who were nonetheless members of a single

“colored” diaspora:

Why had I come to Spain? To write for the

colored press. I knew that Spain once be-

longed to the Moors, a colored people ranging

from light dark to dark white. Now the Moors

have come again to Spain with the fascist ar-

mies as cannon fodder for Franco. But, on the

loyalist side there are many colored people of

various nationalities in the International Bri-

gades. I want to write about both Moors and

colored people.(30)

This is to say that Hughes wanted to explore the

tensions of interactions in the European metropole

between transnationally mobile African Americans

and what one might call the subjects of the new

“new diasporas”: colonial Africans and Asians con-

scripted into European conflicts. He especially

wanted to consider the ways war propaganda and

nationalist discourses on both sides were being

racialized, in a heated “African” invasion that had

raised the specter of the Arab domination of Spain

centuries earlier.(31) Hughes hoped to assemble a

book, to be called Negroes in Spain, from the col-

umns he was writing in the fall of 1937 for the

Afro-American and for the Volunteer for Liberty,

the organ of the International Brigades.(32)

Biographer Arnold Rampersad has argued that

“Hughes’s art seemed to decline in his most radical

years,” and goes so far as to characterize the

poems he wrote during his stay in Spain as “prol

etarian doggerel.”(33) But I want to return to one of

the poems Hughes wrote in 1937. Rather than ei-

ther applauding the work’s revolutionary commit-

ment or decrying its insufficient artistry, I read it

to take seriously the poet’s contention, in the

speech in Paris he gave the following year, that

“the best ways of word-weaving, of course, are

those that combine music, meaning and clarity in a

pattern of social force.”(34)

In November 1937, Hughes published an epis-

tolary ballad called “Letter from Spain” (subtitled

“Addressed to Alabama”) in The Volunteer for Lib-

erty.(35) It opens with a heading and date: “Lincoln

Battalion, / International Brigades, / November Some-

thing, 1937.” A specific setting and time, although

the openness of the date would seem to imply a

metonymic reach, the aim of the poem to stand in

for a broader set of circumstances. Hughes would

explain later that he wrote the poem to “try to ex-

press the feelings of some of the Negro fighting

The Futures of Diaspora

― 94 ―

Page 22: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

men” with regard to the “irony of the colonial

Moors” fighting for Franco,(36) and the poem is

framed as the address of a black soldier writing

home. It opens:

Dear Brother at home:

We captured a wounded Moor today.

He was just as dark as me.

I said, Boy, what you been doin’ here

Fightin’ against the free?

He answered something in a language

I couldn’t understand.

But somebody told me he was sayin’

They nabbed him in his land

And made him join the fascist army

And come across to Spain.

And he said he had a feelin’

He’d never get back home again.

Historian Robin Kelley, quoting only the first

stanza, comments brusquely that “Of course, the

problem was much more complicated.”(37) But the

poem attempts to suggest that complication. First,

although a link is posited between the African

American and the North African, it is articulated

through comparison rather than identity (“He was

just as dark as me”). The initial rhetoric of recog-

nition in the encounter is tempered by incommens

urability—first of all, due to linguistic difference:

“He answered something in a language / I couldn’t

understand.” If this encounter marks a diasporic in-

stance, it implies that a diaspora is necessarily

translated and mediated—troubled transport—across

an irreducible discrepancy or décalage.(38)

In the subsequent stanzas, the letter-writer

reads the Moor’s confusion and homesickness to be

auspicious, the burgeoning of an anticolonial con-

sciousness. The poem continues:

He said he had a feelin’

This whole thing wasn’t right.

He said he didn’t know

The folks he had to fight.

And as he lay there dying

In a village we had taken,

I looked across to Africa

and seed foundations shakin’.

Cause if a free Spain wins this war,

The colonies, too, are free—

Then something wonderful’ll happen

To them Moors as dark as me.

I said, I guess that’s why old England

And I reckon Italy, too,

Is afraid to let a workers’ Spain

Be too good to me and you—

Cause they got slaves in Africa—

And they don’t want’ em to be free.

In the drab surroundings of a military triage tent,

the soldier’s prediction of “foundations shakin’” in

the colonies seems a bit bright-eyed, even grandi-

ose. This is the moment in the poem that edges

closest to a black internationalism, one capable of

imagining Morocco linked to subsaharan Africa be-

ginning to reject the impositions of European colo-

nization. Of course, the poem figures this articula-

tion of the diaspora in the way that the letter-writer

The Futures of Diaspora

― 95 ―

Page 23: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

mis-writes “seed” in the place of the simple Eng-

lish simple past “saw”—in other words, it is the

vernacular “mistake” that inserts the spore, the

principle of unification, into his gaze across the

Mediterranean. Cary Nelson has noted in this re-

gard that this use of dialect is not simply an appeal

to a popular audience in the United States; it also

makes the “political point” that “the common sense

possessed by oppressed people gives them an ap-

propriate experiential basis for understanding inter-

national politics.”(39)

But it is crucial to recognize that this interpre-

tation, triumphant as it would seem, cannot be

communicated to the Moorish soldier, “as he lay

there dying.” The poem concludes on a note of

radical difference, with even the simplest communi-

cative gesture falling flat. Stirred by his reverie, the

African American speaks again:

Listen, Moorish prisoner, hell!

Here, shake hands with me!

I knelt down there beside him,

And I took his hand—

But the wounded Moor was dyin’

And he didn’t understand.

Salud,

Johnny

The extended hand, that is, signals the African

American soldier’s attempt to translate his epiphany

into a gesture—a “handshake” emerging out of the

vision of those colonial foundations “shakin.’” It is

not quite as grand as an offer of “alliance politics,”

as Nelson would have it, but it certainly is an at-

tempt to exchange mutual recognition and respect

in the context of the differential exploitation of

peoples of African descent.(40)

The most striking word in the poem is the

closing salutation before the signature: Salud. The

Spanish word is not commonly used as a greeting

(like salut in French), but was adopted as a habit-

ual, even ritual, salutation during the war among

the republican forces—as Hughes pointed out else-

where, it was “the word with which the loyalists

greet one another,” and in this sense carried nearly

as much weight as another well-known catch

phrase of the period, No pasarán (They shall not

pass).(41)

If one reads it as “salvation,” Salud serves to

index a watchword from the violent ideological

struggles in Spain over the valences of Catholicism.

Whereas the loyalists hailed each other with Salud,

Franco’s nationalists were just as keen to claim a

Christian heritage—even as they took the country

with a largely North African, Muslim army.(42) Ad-

dressed to Alabama, Salud here is a reminder that

the vernacular idiom must be understood to be a

place of crucial ideological work, the “site of inter-

minable translations” among these valences.(43)

The other meaning of Salud is “health” (both

as a concept and as a salutation or toast: “to your

health”). And in this light we must also hear in the

term the African American’s attempt to translate

his encounter with the Moor in the simplest sense

of the word translation: the “miming of the respon-

sibility to the trace of the other in the self.”(44) To

sign off wishing “health” to his “Brother at home”

is also, subtly, to point at what can’t be helped in

the encounter, what can’t be changed: that the

North African is dying. It takes a term for what

cannot be passed over in the hospital handshake—

salubrity, salvation, solidarity—and sends it back

The Futures of Diaspora

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Page 24: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

home. The poem “forges and seals” a multiplicity

of languages into a single idiom, and thus com-

memorates the singularity of the encounter.(45) “Let-

ter from Spain” thus strives to instantiate diasporic

responsibility in the strong sense: neither by con-

demning nor absolving, but by attempting to attend

to—and embrace, and carry home—the alterity of

the other. Of course, it is crucial to add that the

letter doesn’t sign off with, say, Arabic (i.e.,

bisah’tak, “to your health,” or simply s’ahha,

“health”) which would simply fix that alterity as an

essence. Diasporic responsibility can only be sig-

naled here at a distance, in the specific instance of

encounter, through the specific interface of commu-

nication: the war in Spain and the particular Span-

ish idiom it engenders.

But this is to assume that “Salud” is written in

Spanish—that “one can know in the final analysis

[en dernière instance] how to determine rigorously

the unity and identity of a language, the decidable

form of its limits.”(46) The word is not cushioned or

contextualized (except by its position as the closing

“salutation” in a letter), nor indeed is it italicized

to indicate that it is a foreign word.(47) I am sug-

gesting, in other words, that the singular idiom of

“Salud” is grafted into the letter in a manner not

just to carry over and commemorate that singular

instance in Spain, but also and thereby to transform

the contours of English, and of “brotherhood” at

home.

Of course, we read the “richness” of this spe-

cific poetic instance above all in a layering of

readings (that is, we read the “brother at home”

reading the soldier’s reading of the encounter with

the Moor, in which they each attempt and fail to

read the other’s attempts at communication).

Whether interlingual or not, this effect still involves

a procedure that has something to do with transla-

tion. Although translation necessarily involves “do-

mestication,” it does not necessarily thereby reify

the lexicon of the home or target language: on the

contrary, it can also “decenter” or “redirect” that

lexicon.(48) As Maurice Blanchot puts it, translation

is transformational because the translator comes to

“possess” the home or target language “sur un

mode privatif et riche cependant de cette privation

qu’il lui faut combler par les ressources d’une autre

langue, elle-même rendue autre en l’oeuvre unique

où elle se rassemble momentanément” (“in a mode

that is privative and yet rich with this privation,

which the translator must fill using the resources of

another tongue, itself rendered other in the unique

work where it is momentarily gathered”).(49)

Critics who disparage this poem as “maudlin”

have not given sufficient attention to the ethical

subtlety of “Salud” in its last lines.(50) But the

charge also bespeaks a dissatisfaction with the

poem’s ballad form: “Letter from Spain” is “maud-

lin,” that is, due to its recourse to a cloying meter

and rhyme scheme that would seem to simplify and

sentimentalize the encounter it records. But there

may be a different reason that the poem risks its

particular music. While he was in Spain, Hughes

was not only writing his own poetry but also trans-

lating. During the months in the fall of 1937 when

he wrote “Letter from Spain,” he was working on

a version of Federico García Lorca’s Gypsy Bal-

lads.(51) We might hear in Hughes’s adoption of the

ballad form in the “Letter” an attempt to adopt the

mode of the 1928 book by García Lorca, who was

one of the best-known casualties of the civil war

—and thus, another attempt to translate, on yet an-

other register. The formal choice simultaneously re-

minds us of Hughes’s contention that “word-

The Futures of Diaspora

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Page 25: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

weaving” involves not just “clarity” and “social

force,” but also a certain practice of “music.”

It is important to recognize the discontinuity

even at this apparent level of correspondence. The

original title of García Lorca’s book is Primer

Romancero gitano (First Collection of Gypsy Bal-

lads), and the poems in the book, vivid and power-

ful portraits of Andalusia, are adaptations of the

classic Spanish form of the romance, an octo-

syllabic form in which the even-numbered lines

rhyme with the same assonance. Although some-

times referred to in English as a “ballad” or “Span-

ish ballad,” this form differs markedly from the

sing-song of the alternating quatrameter and

trimeter lines of the ballad stanza in English em-

ployed by Hughes in “Letter from Spain.”(52) The

similarities are associative and contextual rather

than formal: both romances and ballads are ver-

nacular modes linked with oral recitation, with

music, and with narrative. There is also something

of a parallel in mood. Sterling Brown, perhaps the

most accomplished African American practitioner of

the folk ballad, writes that as appropriated in black

culture, it is geared to “tell a story with economy,

without sentimentality,” and often with a pro-

nounced sense of the “tragic.”(53) García Lorca like-

wise connects the romance with storytelling and

with a particular kind of suffering: regarding The

Gypsy Ballads, he writes that the poems are in-

fused with

anguish [pena], dark and big as the summer

sky, which percolates through the bone mar-

row and the sap of trees and has nothing to

do with melancholy, nostalgia, or any other af-

fliction or disease of the soul, being more

heavenly than earthly. Andalusian anguish,

which is the struggle of the loving intelligence

with the incomprehensible mystery that sur-

rounds it.(54)

He liked to say that he considered “anguish”

[pena] to be the “protagonist” of the book, and

called one character (Soledad Montoya in the “Ro-

mance de la pena negra” [“Ballad of the Black An-

guish”]) the personification of “anguish with no

solution.”(55) Both romances and ballads, then, deal

with hurt, not so much physical injury as spiritual

deprivation and ill-fated love; both involve a poet-

ics of irredeemable loss.

A number of critics have commented on

García Lorca’s fondness for what Christopher

Maurer terms “stylization,” the deliberate reference

to other art forms or to the work of other artists

(with a poem titled a “song” [canción] or a “theo-

ry” [teoría], for instance), in an “allusion so persis-

tent that it inscribes the work within another,

secondary allusive system.”(56) In other words, if

Hughes’s epistolary poems allude to García Lorca,

they allude to writing that is already itself allusive,

already itself pointing elsewhere—in this case, to

the folk culture of Andalusia, the region of south-

ern Spain associated both with gypsy culture and

flamenco, and with the Moorish occupation of the

country during the middle ages. So this poetics of

an encounter of African others during the Spanish

Civil War makes reference to a prior poetics of

otherness within Spain itself, a literature of the re-

current “mystery” of alterity in which, as one critic

puts it, “what we think we recognize is often un-

dercut by what we cannot decipher.”(57) One might

term this allusion a species of translation on a for-

mal level. What Hughes finds in García Lorca is a

poetics that continually strives to figure absolute

The Futures of Diaspora

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otherness, using abrupt shifts in register, tone, and

image to force the reader into a confrontation with

alterity.

Interestingly, if in García Lorca’s writing even

the guitar “weeps for distant / things” [llora por

cosas / lejanas],(58) one of the recurrent figures for

that distance turns out to be the New World, and

specifically the black cultures of the Americas. In

one letter, he refers cryptically to his Poema del

cante jondo (Poem of the Deep Song), a series of

poems that take up the modes of flamenco singing,

as an “American puzzle.”(59) In his most famous

essay, the extraordinary 1933 “Play and Theory of

the Duende,” García Lorca compares the flamenco

singing style of Pastora Pavón, known as “La

Niña de los Peines” (the Girl of the Combs), with

the ecstasy of Afro-Cuban ritual:

As though crazy, torn like a medieval mourn-

er, La Niña de los Peines leaped to her feet,

tossed off a big glass of burning liquor, and

began to sing with a scorched throat: without

voice, without breath or color, but with

duende. She was able to kill all the scaffold-

ing of the song [matar todo el andamiaje de

la canción] and leave way for a furious, en-

slaving duende, friend of sand winds, who

made the listeners rip their clothes with almost

the same rhythm as do the blacks of the Antil-

les when, in the lucumí ritual, they huddle in

heaps before the statue of Santa Bárbara [que

hacía que los oyentes se rasgaran los trajes,

casi con el mismo ritmo con que se los

rompen los negros antillanos del rito lucumí

apelotonados ante la imagen de Santa Bárba-

ra].”(60)

Langston Hughes also saw Pav?n perform while he

was in Spain, and tellingly he also draws a connec-

tion between flamenco and New World black ex-

pression, now to the blues:

Shortly, without any introduction or fanfare,

she herself sat up very straight in her chair

and, after a series of quavering little cries,

began to half-speak, half-sing a solea—to

moan, intone and cry in a Gypsy Spanish I

did not understand, a kind of raw heartbreak

rising to a crescendo that made half the audi-

ence cry aloud with her after the rise and fall

of each phrase. . . . This plain old woman could

make the hair rise on your head, could do to

your insides what the moan of an air-raid siren

did, could rip your soul-case with her voice. I

went to hear La Niña many times. I found the

strange, high wild crying of her flamenco in

some ways much like the primitive Negro

blues of the deep South. The words and music

were filled with heartbreak, yet vibrant with

resistance to defeat, and hard with the will to

savor life in spite of its vicissitudes.(61)

Again, as in “Letter from Spain,” these connections

are posited not at the level of identity (that is, a

direct musical filiation between flamenco and blues)

but at the level of a formal parallel: both musics

privilege the point where the voice pushes beyond

itself, “scorching” or “ripping” its technical quali-

ties to find another register of expression, a register

Nathaniel Mackey has termed an “eloquence of an-

other order, a broken, problematic, self-problematizing

eloquence.”(62)

In García Lorca’s romances, that breaking or

doubleness is pursued through a writing that at-

The Futures of Diaspora

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Page 27: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

tempts to meld the transport of lyric into the tradi-

tional narrative of the folk form.(63) In Hughes’s

“Letter from Spain,” as a sort of translation of that

formal effect in García Lorca, it is sought not only

through the incongruity between the epistolary and

the musical, but also in the shift between English

and Spanish, between the intimacy of black South-

ern vernacular and the peculiarity of that grafted

idiom, Salud. García Lorca argues in “Play and

Theory of the Duende” that the duende—as the

term in flamenco for that haunting force or bedev-

iling muse that grants inspiration at the moment of

collapse— “enjoys fighting the creator on the very

rim of the well [los bordes del pozo],” and that in

that struggle, the duende “wounds.” “In the healing

of that wound, which never closes,” he continues,

“lies the strangeness [lo insólito], the invented qual-

ity of a man’s work.”(64) It is through the open

wound that the duende “draws near the sites where

forms fuse together into a yearning [se funden en

un anhelo] superior to their visible expression.”(65)

In “Letter from Spain,” one might suggest that the

foreign language functions to open a “wound” in

this exact sense, in the interest of indexing that

greater longing.

If “Letter from Spain” seems all too sche-

matic, even dogmatic, in its scrupulous instancing

of an ethics of diaspora through an emblematic

face-to-face encounter, one should recall that

Hughes employs a bilingual poetics to very differ-

ent ends in some of his other Spanish Civil War

poems. I will briefly consider one other in particu-

lar, titled “Moonlight in Valencia: Civil War”:

Moonlight in Valencia:

The moon meant planes.

The planes meant death.

And not heroic death.

Like death on a poster:

An officer in a pretty uniform

Or a nurse in a clean white dress—

But death with steel in your brain,

Powder burns on your face,

Blood spilling from your entrails,

And you didn’t laugh

Because there was no laughter in it.

You didn’t cry PROPAGANDA either.

The propaganda was too much

For everybody concerned.

It hurt you to your guts.

It was real

As anything you ever saw

In the movies:

Moonlight. . . .

Me caigo en la ostia!

Bombers over

Valencia.(66)

The poem encapsulates an insufficiency of re-

sponse, the inadequacy of language to speak to the

experience of death in war. With its use of simple

sentences and its address to a second person “you,”

the poem attempts to project the reader into the

imagination of a death in which one is disallowed

the solace or pretension of any secondary signifi-

cance (whether heroism, humor, or propaganda) that

would transcend or alleviate the banality of physi-

cal suffering. The poem eschews enjambment with

the exception of its conclusion, where a simple

sentence (“It was real”) is distended from a stark

declaration into a more ambiguous comparison: “It

was real / As anything you ever saw / In the mov-

ies.” The realism of the moment breaks or exceeds

our expectations of the “real” to the degree that it

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is only comparable to the extreme artifice of cin-

ema.

“Moonlight in Valencia” recalls “Letter from

Spain” in its recourse to Spanish as a means of

marking the singularity of idiom and historical con-

text. The “wound” in form effected by the linguis-

tic shift is, here, the only way to index that singu-

larity. One might go so far as to claim that in

Hughes’s work, formal discontinuity and disjuncture

are the paradigmatic indexical effect (recall for in-

stance that in the passage from Hughes’s autobiog-

raphy quoted earlier, if Pastora Pavón’s voice is

remarkable in its intensity, part of that power is its

ability not just to penetrate the “soul-case” but also

to reference the penetrating environment of war:

she sings with “the moan of an air-raid siren”).

At the same time, the two poems strive to in-

stance that effect at starkly different registers.

Rather than the staging of diasporic incommensura-

bility in “Letter from Spain,” through its imbedding

of reading practices, in “Moonlight in Valencia” we

are left with a host of questions that seem simpler,

if more perplexing: Just who is speaking, here?

How does one come to terms with this poetics of

direct address, which seems at once to tug the

reader into the singularity of that past scene (“It

hurt you to your guts”) and to distance the reader

irrevocably outside its blunt artifice (as precisely a

“you” that could not have experienced this death).

In coming to terms with these questions, of course,

one is forced to wonder about the interjected Span-

ish: Is it the same speaker, exclaiming in another

language to mark a mortal wounding—a “year-

ning” towards alterity, in other words, that registers

the sole and singular idiom of that experience of

moonlight in Valencia? Or is it another voice, one

never tied down to a speaking subject: an invasive,

other voice, overriding, possessing the speaker’s

voice and breaking its tongue, finding inspiration

—the voice of that singular moment—in that break-

ing, in a tearing of the simple-sentence English ad-

dress that is something like a parallel to the formal

tearing of duende in flamenco? Or, quite differ-

ently, is it instead the “you” who speaks, here, who

transgresses the space of address with the exclama-

tion of “your” singular, untransferrable suffering?

In the notes to Hughes’s Collected Poems,

Arnold Rampersad glosses the Spanish line by

claiming that it translates as “I feel it in my

bones!”(67) This is clearly incorrect (the word for

“bones” is huesos). In fact, the line is an extremely

vulgar exclamation that takes liberties with the

rhetoric of Catholicism. Me caigo en la ostia!

means literally “I fall into the host,” the eucharistic

bread in the Catholic communion ceremony (ostia

here is misspelled or rendered phonetically; the

word is normally written hostia). To an English-

language reader who has looked up the words, this

might come across as an appropriate—even passio

nate—phrase to invoke at the moment of mortal

suffering. In fact, though, the phrase is a phonetic

elision of a common oath that is much more ob-

scene: Me cago en la hostia!, or literally “I shit on

the host.” (This tempering is not unfamiliar in Eng-

lish: it is akin to saying “Shoot!” instead of “Shit!”

or more precisely, “Gosh darn it!” in the place of

“God damn it!”). That is, as an interjection, the

elided curse bespeaks the altogether mundane ob-

scenity of death in war. Moreover, as a defamation

of the Eucharist in particular, it marks an impa-

tience with any discourse of salvation (Salud),

whether bodily or spiritual. In their formal strate-

gies, then, “Moonlight in Valencia” and “Letter

from Spain” strive differently to invect a discourse

The Futures of Diaspora

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Page 29: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

of the transcendental.

The poetics of diaspora is above all the task

of instancing such a yearning of the particular, tak-

ing the measure of its distances. To read a diaspora

means to strive to move between these levels, to

activate the interval between them. One might sug-

gest that in this poetics, such an invection—a

speaking against the grain of Christian salvation in

particular—is the way that the discourse of the Af-

rican diaspora translates the eschatological content

carried by the term galut in the Jewish tradition,

and refigures it into what may be the only form

(elsewhere, otherwise, against the grain) of an eth-

ics that eschews grounding in a prior transcenden-

tal. I do not mean that this effect somehow cap-

tures the exact force bound up in galut. On the

contrary, in translating the eschatological quality of

diaspora, the poems transform the meaning of “re-

demption,” in a manner that may be instructive for

an understanding of diaspora as a critical lens into

the condition of globalization. In “Letter from

Spain,” as I have pointed out, the exchange be-

tween the African American and the North African

fails to result in any sort of internationalist collab

oration—much less salud in the sense of salvation.

The closing salutation “Salud” is, more simply, a

sign of the speaker’s accommodation to the idiom

of the encounter, sent home. It does not indicate

some sort of “redemption” of that home (African

American) audience, of course, but it does use the

trace of the encounter in Spain to announce a po-

tential internationalist solidarity shared among Afri-

can Americans. And in this sense, Hughes’s poem

attempts to produce the same effect as his speeches

and articles about Spain in the African American

press, which call for solidarity and internationalist

consciousness.

There is another level of transformation im-

plicit in Hughes’s discourse of diaspora. If it is not

exactly a matter of redemption, neither is it exactly

a matter of return. Though it necessitates

transnational mobility and involves a negotiation of

African heritage, diaspora here involves an encoun-

ter among “similars”(68) (“just as dark as me,” as

the poem puts it) in a place that is “home” to nei-

ther—in other words, in what Edouard Glissant

would call a “shared elsewhere.”(69) In July 1937,

on his way to Spain, Hughes gave a brief speech

at the Second International Writers’ Congress in

Paris that is one of his most memorable public in-

terventions. He told an audience including luminar-

ies such as Malcolm Cowley, Alejo Carpentier,

Nicolás Guillén, Louis Aragon, André Malraux,

Mikhail Koltsov, Stephen Spender, W. H. Auden,

and Pablo Neruda that he came before them as a

representative of “the Negro peoples of America,

and the poor peoples of America—because I am

both a Negro and poor.” “We are the people,”

Hughes proclaimed, “who have long known in ac-

tual practice the meaning of the word Fascism—for

the American attitude towards us has always been

one of economic and social discrimination.”(70)

Hughes denounced the spread of Fascism “on a

world scale,” and then spoke of the significance of

the crowd gathered before him—which some might

have dismissed as “only” a meeting of writers.

Why was there such intense, worldwide political

persecution of writers and activists? he asked, nam-

ing the Indian Raj Anand, the Haitian Jacques

Roumain, and the African American Angelo Herndon,

among others. It was because the “reactionary and

Fascist forces of the world” were fully aware that

such writers and activists

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Page 30: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

represent the great longing that is in the hearts

of the darker peoples of the world to reach

out their hands in friendship and brotherhood

to all the white races of the earth. The Fas-

cists know that we long to be rid of hatred

and terror and oppression, to be rid of con-

quering and being conquered, to be rid of all

the ugliness of poverty and imperialism that

eat away the heart of life today. We represent

the end of race.(71)

In its adoption of the description “the darker peo-

ples of the world” (a phrase most often associated

with the work of W. E. B. Du Bois), there is some-

thing like a discourse of racial diaspora in this pas-

sage. Yet the passage closes with a seeming

conundrum, that it is precisely the coalition among

people of color—what today would be termed the

global South—that represents the “end of race.” It

is tempting to hear “end” in both senses of the

word: that is, if it means the abolition or overcom-

ing of racial logic (and the persecution race en-

ables), it also seems to mean the goal or aim of

that very same logic—for it is precisely through

race consciousness (the alliance of the “darker peo-

ples of the world”) that it is possible to imagine a

future of universal “friendship and brotherhood.”

Clearly this discourse of diaspora is inflected by its

moment—above all in its complex negotiation with

the now largely discredited discourse of interna-

tional communism—and yet it is a stance that still

resonates today, in the current conjuncture of neo-

imperialism, in which accumulation by disposses-

sion continues to be justified by blatant racism.(72)

Again, this is neither redemption nor return, but it

is a political stance that finds in diaspora the

ground of a critique of globalization. It is a critique

without guarantees, however. Like the poem, it rep-

resents its “end” in a gesture: a longing to reach

out hands to shake.

(1) James Clifford, “Diasporas,” Cultural Anthropol-

ogy 9, no. 3 (1984): 302-338. Collected in

Routes: Travel and Translation in the Late

Twentieth Century (Cambridge: Harvard Univer-

sity Press, 1997), 244.

(2) Michael Denning, Culture in the Age of Three

Worlds (London: Verso, 2004), 24.

(3) See Gayatri Chakravorty Spivak, Death of a Dis-

cipline (New York: Columbia University Press,

2003), 72, and especially Stuart Hall, “The Local

and the Global: Globalization and Ethnicity,” in

Culture, Globalization and the World-System:

Contemporary Conditions for the Representation

of Identity, ed. Anthony D. King (Minneapolis:

University of Minnesota Press), 28-29, in which

Hall reminds us that, in Marx, capitalism ad-

vances not simply through homogenization but

“on contradictory terrain.” The phrase “the fric-

tion of distance” comes from David Harvey, The

New Imperialism (New York: Oxford University

Press, 2003), 94, where he argues that in capital-

ist accumulation, a “space economy” emerges as

an attempt to minimize the effects of geographi-

cal distance on global exchange.

(4) Jonathan Boyarin and Daniel Boyarin, Powers of

Diaspora: Two Essays on the Relevance of Jew-

ish Culture (Minneapolis: University of Minne-

sota Press, 2002), 5.

(5) On the “teleology of the market” as the master

narrative of globalization, see Michel-Rolph

Trouillot, Global Transformations: Anthropology

and the Modern World (New York: Palgrave

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Page 31: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

Macmillan, 2003), 48.

(6) Khachig Tölölyan “Rethinking Diaspora(s): State-

less Power in the Transnational Moment,” Dias-

pora 5, no. 1 (Spring 1996): 13; William Safran,

“Diasporas in Modern Societies: Myths of

Homeland and Return,” Diaspora 1, no. 1

(Spring 1991): 83; Erich S. Gruen, “Diaspora

and Homeland,” in Diasporas and Exiles:

Varities of Jewish Identity, ed. Howard Wettstein

(Berkeley: University of California Press, 2002),

18.

(7) See for instance Yosef Hayim Yerushalmi, “Exile

and Expulsion in Jewish History,” in Crisis and

Creativity in the Sephardic World, 1391-1648 ed.

Benjamin Gampe (New York: Columbia Univer-

sity Press, 1997), 5; Walter Brueggemann, “A

Shattered Transcendence? Exile and Restoration,”

in Biblical Theology: Problems and Perspectives.

In Honor of J. Christiaan Beker, ed. Steven J.

Kraftchick et. al. (Nashville: Abingdon, 1995),

169-182.

(8) Diaspora is a Greek word used in the Septuagint

(the Greek translation of the Hebrew Torah com-

pleted around 250 BCE). Much “new diasporas”

scholarship tends to assume that diaspora trans-

lates a range of Old Testament Hebrew words

relating both to scattering and to exile. However,

as scholars of the Hellenic period have long

pointed out, the Greek word never translates the

important Hebrew words for exile (such as galut

and golah). In fact, the concordances to the Sep-

tuagint indicate that diaspora mainly translates

derivations of the Hebrew root pvtz (“dis-

perse”), in passages that describe processes of

scattering, separation, branching off, departure,

banishment, or winnowing.

For one influential instance of this error in

“new diaspora” scholarship, see Khachig Tölöly

an’s otherwise brilliant “Rethinking Diaspora (s):

Stateless Power in the Transnational Moment,”

11. For reminders of the distinction between

diaspora and galut in Jewish discourse, see

W. D. Davies, The Territorial Dimension of Ju-

daism (Berkeley: University of California Press,

1982), 117 n. 1; Erich S. Gruen, “Diaspora and

Homeland,” 39 n. 20. And see the relevant en-

tries regarding instances of the Greek diaspeirein

and diaspora in the Septuagint in Edwin Hatch

and Henry A. Redpath, A Concordance to the

Septuagint and Other Greek Versions of the Old

Testament (Including the Apocryphal Books) 2nd

Ed. (Grand Rapids, MI, 1998), which lists the

Hebrew terms translated by those Greek words.

For a summary of this issue, see my entry for

“Diaspora” in Keywords of American Cultural

Studies, ed. Bruce Burgett and Glenn Hendler

(New York: New York University Press, forth-

coming 2005).

(9) See Gruen, “Diaspora and Homeland,” 26-27;

James M. Scott, “Exile and the Self-

Understanding of Diaspora Jews in the Greco-

Roman Period,” in Exile: Old Testament, Jewish,

and Christian Conceptions, ed. Scott (London:

Brill, 1997), 189-193; Yerushalmi, “Exile and

Expulsion in Jewish History,” 7.

(10) Howard Wettstein, “Introduction,” in Diasporas

and Exiles: Varities of Jewish Identity, ed.

Wettstein (Berkeley: University of California

Press, 2002), 2.

(11) As Haim Hillel Ben-Sasson explains, “Only the

loss of a political-ethnic center and the feeling

of uprootedness turns Diaspora (Dispersion) into

galut (Exile).” Ben-Sasson, Galut s.b., Encyclo-

pedia Judaica Vol. 7 FR-HA (Jerusalem, n.d.),

The Futures of Diaspora

― 104 ―

Page 32: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

275.

(12) There is an enormous literature on the term

galut; some of the indispensable starting points

include Yitzhak Baer, Galut, trans. Robert

Warshow (New York: Schocken Books, 1947);

Arnold M. Eisen, Galut: Modern Jewish Reflec-

tion on Homelessness and Homecoming (Bloom-

ington: Indiana University Press, 1986);

Diaspora: Exile and the Contempoary Jewish

Condition, ed. Etan Levine (New York:

Steimatzky, 1986); Jacob Neusner, Self-fulfilling

Prophecy: Exile and Return in the History of Ju-

daism (Atlanta: Scholars Press, 1990).

(13) See Safran, “Diasporas in Modern Societies:

Myths of Homeland and Return,” 83.

(14) Gruen, “Diaspora and Homeland,” 19.

(15) Earl Lewis, “To Turn as on a Pivot: Writing Af-

rican Americans into a History of Overlapping

Diasporas,” American Historical Review 100,

no. 3 (June 1995): 786-787; I also discuss this

approach in my “The Shadow of Shadows,” Po-

sitions 11, no. 1 (Spring 2003): 11-49.

(16) For example, in African American intellectual

work, one might point to the writings of W. E.

B. Du Bois as he edged towards the founding of

the Pan-African movement in 1919. In one arti-

cle, he writes that “the African movement means

to us what the Zionist movement must mean to

the Jews, the centralization of race effort and the

recognition of a racial fount. . . [T] he ebullition

of action and feeling that results in an ameliora-

tion of the lot of Africa tends to ameliorate the

condition of colored peoples throughout the

world.” Du Bois, “Africa, Colonialism, and Zi-

onism,” The Crisis 17 (February 1919), collected

in The Oxford W. E. B. Du Bois Reader, ed.

Eric Sundquist (New York, 1998), 639-640.

(17) For other versions of this argument, see Jonathan

Boyarin and Daniel Boyarin, Powers of Dias-

pora, 12-13; Eliezar Don-Yehiya, “The Negation

of Galut in Religious Zionism,” Modern Judaism

12, no. 2 (1992): 129-155; and Jacqueline Rose,

The Question of Zion (Princeton: Princeton Uni-

versity Press, 2005).

(18) Edouard Glissant, Le discours antillais (Paris:

Seuil, 1981), 28.

(19) See for instance Michael Denning, Culture in the

Age of Three Worlds, 17, and Peter Waterman,

“Internationalism Is Dead! Long Live Global

Solidarity?” in Global Visions: Beyond the New

World Order, ed. Jeremy Brecher, John Brown

Childs, and Jill Cutler (Boston: South End Press,

1993), 257-261.

(20) My interest here is in some ways consonant with

Walter D. Mignolo’s call for an attention to what

he terms “bilanguaging” in his Local Histories/

Global Designs: Coloniality, Subaltern Knowl-

edges, and Border Thinking (Princeton: Princeton

University Press, 2000), 250: “The celebration of

bi or plural languaging is precisely the celebra-

tion of the crack in the global process between

local histories and global designs, between ‘mu

ndializatión’ and globalization, from languages to

social movements, and a critique of the idea that

civilization is linked to the ‘purity’ of colonial

and national monolanguaging.” My example may

also seem to be reminiscent of the recent work

of Doris Sommer, as in Bilingual Aesthetics: A

New Sentimental Education (Durham: Duke Uni-

versity Press, 2004). But Sommer tends to argue

for the use of bilingualism in a national context:

she suggests that in a multicultural society, bilin-

gual instances (especially jokes) can serve as a

useful approach to the training of citizen-subjects

The Futures of Diaspora

― 105 ―

Page 33: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

in ethical “responses to strangeness” (74).

(21) Langston Hughes, “Writers, Words and the World,”

speech at meeting of International Writers Asso-

ciation for the Defense of Culture, Paris, France,

July 25, 1938, in The Collected Works of Langston

Hughes, vol. 9: Essays on Art, Race, Politics,

and World Affairs, ed. Christopher C. De Santis

(Columbia: University of Missouri Press, 2002),

199.

(22) See Michael Thurston, “‘Bombed in Spain’:

Langston Hughes, the Black Press, and the Span-

ish Civil War,” in The Black Press: New Liter-

ary and Historical Essays, ed. Todd Vogel (New

Brunswick: Rutgers University Press, 2001), 140-

158.

(23) The black volunteers in the Abraham Lincoln

Brigades came to Spain at the beginning of 1937

for a variety of reasons, some as committed

Communists, some out of a frustration at the

lack of an international response to Italy’s inva-

sion of Ethiopia the year before, in a fascinating

dynamics of detour: as one soldier put it fa-

mously, “This ain’t Ethiopia, but it’ll do.” See

the collection of materials from the Lincoln Bri-

gades Archives at Brandeis University in African

Americans in the Spanish Civil War, ed. Danny

Duncan Collum (New York: G. K. Hall, 1992),

as well as Robin D. G. Kelley, “‘This Ain’t

Ethiopia, But It’ll Do’: African Americans and

the Spanish Civil War,” in Race Rebels: Culture,

Politics and the Black Working Class (New

York: The Free Press, 1994), 124, 136, and

Arnold Rampersad, The Life of Langston Hughes,

Volume 1: 1902-1941: I Too, Sing America (New

York: Oxford University Press, 1986), 347.

(24) Hughes, “Negroes in Spain,” Volunteer for Lib-

erty 1 (September 1937): 4, collected in Hughes,

The Collected Works of Langston Hughes, Vol-

ume 9: Essays on Art, Race, Politics, and World

Affairs, ed. Christopher C. De Santis (Columbia:

University of Missouri Press, 2002), 156. See

also Kelley, 139.

(25) Hughes, I Wonder as I Wander: An Autobiographi-

cal Journey (New York: Hill and Wang, 1956),

384. The descriptions of individuals I have cited

are just a few among many in the chapters de-

voted to Spain (321-400).

(26) Hughes, I Wonder as I Wander, 384.

(27) Hughes, I Wonder as I Wander, 327.

(28) As Hughes described it later, “The Moorish

troops were colonial conscripts, or men from the

Moroccan villages enticed into the army by of-

fers of what seemed to them very good pay.

Franco’s personal bodyguard consisted of Moor-

ish soldiers, tall picturesque fellows in flowing

robes and winding turbans.” Hughes, I Wonder

as I Wander, 350. Other contemporary coverage

includes Thyra Edwards, “Moors in the Spanish

War,” Opportunity 16 (March 1938): 84-85.

(29) Hugh Thomas, The Spanish Civil War (1961; re-

vised edition, New York: Modern Library,

2001), 91, 357.

(30) Hughes, “Hughes Finds Moors Being Used as

Pawns by Fascists in Spain,” Afro-American (Oc-

tober 30, 1937), collected in The Collected

Works of Langston Hughes, Volume 9, 161.

(31) “The Moors—los Moros—had always been vil-

lains in Spanish fairy stories: they now became

the focus of terror throughout south-west Spain.”

Thomas, The Spanish Civil War, 360.

(32) Arnold Rampersad, The Life of Langston

Hughes, Volume 1, 339. Although Negroes in

Spain was never published, Hughes drew on

many of these newspaper articles for his second

The Futures of Diaspora

― 106 ―

Page 34: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

autobiography, I Wonder as I Wander.

(33) Rampersad, 339, 351.

(34) Hughes, “Writers, Words and the World,” 198-

99.

(35) Hughes, “Letter From Spain Addressed to Ala-

bama,” The Volunteer for Liberty (November 15,

1937): 3, collected in Langston Hughes in the

Hispanic World and Haiti, ed. Edward J. Mullen

(Hamden, C.T.: Archon Books, 1977). 156-157.

Cary Nelson reproduces the full-page illustrated

reprint of this poem (along with two of Hughes’s

other epistolary ballads from the period) that

was published in The Daily Worker in January

1938; see Nelson, Revolutionary Memory: Recov-

ering the Poetry of the American Left (New

York: Routledge, 2003), 204-205.

(36) Hughes, I Wonder as I Wonder, 353.

(37) Robin D. G. Kelley, “‘This Ain’t Ethiopia, But

It’ll Do,’” 147.

(38) Léopold Sédar Senghor suggests that the African

diaspora is structured in décalage in his “Prob-

lématique de la Négritude” (1971), in Liberté III:

Négritude et civilisation de l’universel (Paris:

Seuil, 1977), 274. I have elaborated the implica-

tions of Senghor’s term in Edwards, “The Uses

of Diaspora,” Social Text 66 (Spring 2001): 64-

66.

(39) Nelson, 202. This broader argument has been

elaborated most fully by Robin Kelley in Ham-

mer and Hoe: Alabama Communists during the

Great Depression (Chapel Hill: University of

North Carolina Press, 1990), especially chapter

five, “Negroes Ain’ Black—But Red!: Black

Communists and the Culture of Opposition,” 92-

116.

(40) Nelson, 202.

(41) Hughes, “Pittsburgh Soldier Here, but Too

Bashful to Talk,” Afro-American (January 15,

1938), collected in The Collected Works of

Langston Hughes, Volume 9, 189. On its adop-

tion into the vernacular during this period, see

for example Hugh Thomas, The Spanish Civil

War, 447, 465; and Salud!: Poems, Stories and

Sketches of Spain by American Writers, ed. Alan

Calmer (New York: International, 1938).

(42) This situation led to a number of moments of

absurd rhetorical contradiction. For example, at

the Feast of the Assumption in Seville on

August 15, 1936, the religious invective of one

monarchist poet named José María Pemán was

forceful enough to obscure his view of the Mo-

roccan soldiers in Franco’s Army of Africa,

which was at that very moment battling its way

toward Madrid. “Twenty centuries of Christian

civilization are at our backs,” he intoned, even

describing the war being fought with North Afri-

can troops as “a new war of independence, a

new Reconquista, a new expulsion of the

Moors!” Quoted in Hugh Thomas, The Spanish

Civil War, 403.

(43) Vicente Rafael, Contracting Colonialism: Trans-

lation and Christian Conversion in Tagalog So-

ciety Under Early Spanish Rule (1988; rpt.

Durham: Duke University Press, 1993), xv.

(44) Gayatri Chakravorty Spivak, “The Politics of

Translation,” in Outside in the Teaching Ma-

chine (New York: Routledge, 1993), 179.

(45) Jacques Derrida, “Shibboleth, for Paul Celan,” in

Midrash and Literature, ed. Geoffrey Hartman

and S. Budick (New Haven: Yale University

Press, 1986), 325.

(46) Jacques Derrida, “Des Tours de Babel,” trans.

Joseph F. Graham, in Difference in Translation,

ed. Graham (Ithaca: Cornell University Press,

The Futures of Diaspora

― 107 ―

Page 35: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

1985), 173. The French original appears on page

217 in the same volume.

(47) Regarding literary strategies of cushioning and

contextualization (aiming to mediate the reader’s

experience of a foreign word with a definition or

contextual information in English), see Chantal

Zabus, The African Palimpsest: Indigenization of

Language in the West African Europhone Novel

(Amsterdam: Rodopi, 1991), 157-164.

(48) Lawrence Venuti, The Scandals of Translation:

Towards an Ethics of Difference (New York:

Routledge, 1998), 82.

(49) Maurice Blanchot, “Traduire,” L’Amitié (Paris:

Gallimard, 1971), 72.

(50) Rampersad, The Life of Langston Hughes, Vol-

ume 1, 351.

(51) The volume would eventually be published as

Federico García Lorca, Gypsy Ballads (1928),

trans. Langston Hughes, Beloit Poetry Journal 2

(Fall 1951). See Rampersad, 386. A more recent

bilingual edition is available in Federico García

Lorca, Collected Poems, ed. Maurer (New York:

Farrar Straus Giroux, 2002), 545-613. In his

autobiography, Hughes says that he was aided in

his translating by Rafael Alberti and Manuel

Altolaguirre. See I Wonder as I Wander, 386.

(52) See Dorothy Clotelle Clarke, “Romance,” Prince-

ton Encyclopedia of Poetry and Poetics, ed.

Alex Preminger, Enlarged Ed. (Princeton: Prince-

ton University Press, 1974), 712-713; Albert B.

Friedman, “Ballad,” Princeton Encyclopedia of

Poetry and Poetics, 62-64.

(53) Sterling A. Brown, “Folk Literature,” in The

Negro Caravan (1941), reprinted in Brown, A

Son’s Return: Selected Essays, ed. Mark A. Sand-

ers (Boston: Northeastern University Press,

1996), 221.

(54) García Lorca, Deep Song and Other Prose,

trans. Christopher Maurer (New York: New Di-

rections, 1980), 105, quoted in Mauer, “Introduc-

tion” to Federico García Lorca, Collected Poems,

xxxviii.

(55) Ian Gibson, Federico García Lorca: A Life (New

York: Pantheon, 1989), 136.

(56) Maurer, “Introduction” to García Lorca, Collected

Poems, xli.

(57) C. Brian Morris, Son of Andalusia: The Lyrical

Landscapes of Federico García Lorca (Nash-

ville: Vanderbilt University Press, 1997), 313.

(58) García Lorca, “The Guitar,” trans. Cola Franzen,

in Poema del cante jondo (Poem of the Deep

Song) (1931), in Collected Poems, 100-101.

(59) García Lorca, letter to Adolfo Salazar (January

1922), quoted in Morris, 183.

(60) García Lorca, “Play and Theory of the Duende”

(1933), in In Search of Duende, translated by

Christopher Maurer (New York: New Directions,

1998), 53 (translation modified). The original is

García Lorca, “Juego y teoria del duende,” in

Conferencias Vol. 2 (Madrid: Alianza Editorial,

1984), 97. On this passage, also see Nathaniel

Mackey, “Cante Moro,” in Sound States: Innova-

tive Poetics and Acoustical Technologies, ed.

Adalaide Morris (Chapel Hill: University of North

Carolina Press, 1997), 196.

(61) Langston Hughes, I Wonder as I Wander, 332-

333. These are not the only such comparisons.

In a 1954 review of a flamenco recording, Ralph

Ellison comments that “the nasal, harsh, anguished

tones heard on these sides are not the results of

ineptitude or ‘primitivism’; like the ‘dirty tone’

of the jazz instrumentalist, they are the result of

an esthetic which rejects the beautiful sound

sought by classical Western music.” Ellison,

The Futures of Diaspora

― 108 ―

Page 36: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

“Flamenco,” in Living with Music: Ralph Ellison’s

Jazz Writings, ed. Robert G. O’Meally (New

York: Modern Library, 2001), 99.

(62) Nathaniel Mackey, “Cante Moro,” 195.

(63) See Morris, 321; Gibson, 136.

(64) García Lorca, “Play and Theory of the Duende,”

58 (translation modified); “Juego y teoria del d

uende,” 104.

(65) García Lorca, 59; 105.

(66) Hughes, “Moonlight in Valencia: Civil War,” in

Seven Poets in Search of an Answer, ed. Tho-

mas Yoseloff (New York: B. Ackerman, 1944),

reprinted in The Collected Poems of Langston

Hughes, ed. Rampersad (New York: Knopf,

1994), 306.

(67) See Rampersad’s note, The Collected Poems of

Langston Hughes, 652.

(68) I am thinking of the French word semblable, so

powerfully employed in Baudelaire, for which

there is no English equivalent.

(69) Glissant invokes the notion of an “Ailleurs

partagé” (in rather more dismissive terms than I

am here) in Le discours antillais, 36.

(70) Hughes, “Too Much of Race,” Crisis 44, no. 9

(September 1937): 272, in The Collected Works

of Langston Hughes, vol. 10: Fight for Freedom

and Other Writings on Civil Rights, ed. Christo-

pher C. De Santis (Columbia: University of Mis-

souri Press, 2001), 221. This speech was also

printed in the Volunteer for Liberty (August 1937).

(71) Hughes, “Too Much of Race,” 223.

(72) The phrase “accumulation by dispossession” is

taken from David Harvey; see the chapter of

that title in The New Imperialism, 137-182.

The Futures of Diaspora

― 109 ―

Page 37: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

はじめに

イランとアメリカの長期的な対立構造は非常に

複雑で、 単純に核開発のみで考えることはできな

い。 この30年の間に、 人権やテロ、 イスラム、 経

済制裁、 資産凍結、 ホメイニー師による 「イスラー

ム革命 (1979年2月)」 の中東諸国への輸出等が

アメリカから指摘され実施された。

1950年代から革命前までに対立の種をまいたの

は、 モサッデク首相 (当時) による石油の国有化

運動とその西アジアへの波及効果と言わる。 1953

年から始まるイランの市民とナショナリスト的な

運動を抑えるため CIA がイランでクーデターを

起こしたという事件は、 イランで起きることに対

するアメリカの過剰な反応を示している。 石油国

有化運動にしても、 革命にしても、 核問題にして

も、 すべてのテーマがイラン一国の問題でなく、

西アジア地域全体に対して波及効果があるからで

ある。

革命の背景

1979年の革命は、 元々市民的な革命であった。

しかし、 どこかの過程でイスラム的革命になった。

私はそれを 「イランにおける不思議なイスラーム

革命」 と呼んでいる。 結局、 イラン革命の本質を

変えたり、 アメリカとの関係を複雑にしてきたの

はアメリカ大使館人質事件 (1979年11月) である。

この出来事は市民革命をイスラム革命に変えていっ

たと同時に、 アメリカと周辺国との関係をますま

す複雑にしてきた。

1980年代

次にイラン・イラク戦争である。 この戦争は明

らかにイラクから仕掛けられた戦争で、 東西各国

の介入と死の商人達の活動がなければ半年で終わ

るはずだった。 しかし結果的に、 世界対イラン戦

争となったため8年間かかった。 アメリカ、 ロシ

ア、 フランス、 中国、 イギリス等はイラクに協力

をしてきた。 イラン革命をつぶしていこうという

ことが、 アメリカを中心に世界的な目的だった。

しかし、 イランはなかなか倒れず、 逆に民族主義

が高まって聖職者たちの立場が強化された。

イラン・イラク戦争に対し国連の対応

この8年間でイラン・イラク戦争に対して17回

ぐらい安保理事会の決議が出されたが、 一回もイ

ラクが批判されることはなかった。 結果として、

国連の決議に対してイランの信頼はなくなった。

一方では、 イラクは世界の国々の協力でのおかげ

で軍事化され、 サッダーム・フセインによる侵攻・

クウェートの悲劇 (1990年8月) が起きたという

ことになる。

1990年代

1991年にクウェートの悲劇が終わり、 石油資源

をめぐる新しいパイプラインの問題がイランとア

メリカの90年代の中心的なテーマになった。 旧ソ

― 111 ―

公開勉強会

イランの最近の情勢~対立の構図を読む

ナギザデ・モハマド(国際平和研究所所員)

Page 38: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

連の崩壊により、 中央アジアの石油・ガス資源を

パイプラインを通じて紅海に持っていくための最

短距離は、 カスピ海からペルシャ湾に入っていく

道だが、 アメリカは遠回りして3000キロ走って地

中海まで持っていく。 要するにパイプライン戦略

を通じて、 アメリカがイランに対して間接的に経

済制裁を発動した。

アメリカとタリバーンとの関係

この時期の一番の問題はアメリカとタリバーン

の関係である。 資源獲得の為にタリバーンをタリ

バーンにしたのはやはりアメリカとパキスタンで

あり、 CIA である。 アメリカはパイプライン政策

の為、 タリバーンを応援しアフガニスタンを安定

させて、 中央アジアからアフガニスタン、 パキス

タンを通じて、 イランを避けてインド洋にパイプ

ラインを持っていく。 しかし1997年にはタリバー

ンとアメリカの関係は悪化し、 パイプライン戦略

からはずれたタリバーンとアメリカとの協力関係

は完全に崩壊してしまった。 日本ではタリバーン

といえばテロの問題として取り上げられるが、 ア

フガニスタンはパイプライニスタン (Pipe-

linistan !) と言われているほど、 実際のところは

資源獲得の問題である。 そのためイラン現政権に

間接的に経済制裁をかけるという話になる。

イラン改革派の登場とアメリカの対応

1997年、 イランでは選挙によってハタミー師が

大統領となり、 改革派的な政権が誕生、 イラン国

民を含む世界に楽観的なムードが高まり、 アメリ

カとの関係改善が期待された。 しかしクリントン

大統領が逆に経済制裁を復活させ、 イランに対し

ての外国投資も含めて制裁を発動した。

ブッシュ大統領になった時、 「悪の枢軸」 とい

う発言は、 イラン社会における波及効果が大きかっ

た。 その後、 イラン国内では改革派に対して風当

たりが厳しくなってきた。 改革派であってもアメ

リカはなかなか認めてくれないため、 アメリカの

新保守的な政権に対してイラン国内での新保守派

が形成され動きが激しくなってきた。 そして改革

派の方が低迷状態になっていく。

イラク戦争とイラン・アメリカの関係

次にイラク戦争である。 イラン・イラク戦争で

アメリカが全面的に協力したイラク政権を今度は

侵攻する。 戦後日本との関係のように、 マッカー

サーのような管理者をイラクに派遣すれば、 すぐ

に諸問題が解決し親米的なムードが広がり、 イラ

ンへの侵攻の足場が固まると思った。

アフガニスタンとイラクにおけるアメリカ軍の

駐在は、 一方ではイランとアメリカとの利害関係

を益々深刻化させた。 他方ではロードマップの失

敗や選挙によるHAMAS 等の登場によって西アジ

ア地地域における、 一般市民の間でのイランに対

する関心と影響力が拡大した。

イラク占領後のイランとアメリカの関係を見て

みると、 2003年3月にイラクを押さえて、 足場を

固めてから5月にイランに戦争を仕掛けるコロナ

計画という秘密的な戦略的なプランができ上がっ

ていたそうだ。 しかしイラクの混乱のため実施さ

れず、 それどころか、 新イラク政権も殆ど親イラ

ンメンバーになってしまった。 例えば、 反対され

て首相をおりたジャファリー氏の代わりに首相に

なった、 マリキ氏も、 イランに10年間も亡命して

いた人物である。

そのほかに、 ガス、 石油、 通貨の問題もある。

サダム・フセインも石油をユーロと取引したいと

言っていたが、 今はイランも言い出している。 ド

ルからユーロにしていくということはアメリカの

経済・政治支配力にとって大変厳しい問題である。

核の問題

その後は核の問題が指摘された。 この問題の背

景を見ると、 イランにとっては新しいことではな

イランの最近の情勢~対立の構図を読む

― 112 ―

Page 39: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

い。 40~50年前から行われている。 当時、 アメリ

カの援助によってテヘラン大学の物理学部の附属

機関で原子力の実験場が60年代には出来上がって

いた。 私はそのときにはテヘラン大学の学生だっ

た。 そして革命前も、 フランスのウラン会社

Urudif にイランは10億ドルも融資をしており、 い

まだに Urudif の株の10%をイランが持っている。

当時イランの原子炉施設建設にあたっては、 欧

米関係の競争が激しかった。 ドイツにするのか、

アメリカにするのか、 フランスにするのかと。 最

終的には革命前、 ドイツの企業シーメンスに委託

された。

核開発問題に対する国内の様々な立場

核開発に対する国内体制派には四つの考え方が

ある。 まず、 ウランの高濃縮をやるべきだという

考え方である。 2番目は、 平和的な利用は権利で

あるとする考え方である。 核拡散防止条約

(NPT) のメリットあるいはインセンティブは

NPT に加盟することによって平和的に核開発に

対する権利が生まれてくることだ。 加盟しても平

和的な開発ができなかったら加盟する必要はない。

撤退するべきだという考え方である。 3番目は濃

縮の技術のみを獲得できるようにしていこう、 た

だし、 原爆を製造するのは反対。 ブラジルやアル

ゼンチン、 韓国、 日本が同じことをやっているよ

うにと。

4番目は、 技術を獲得するとともに原爆も作る

というグループがいるかも知れない。 このような

考え方があるとすれば極めて少数である。 現在イ

ランの東側のアフガニスタンでは米軍、 イギリス

軍が、 イランの西側のイラクではアメリカ、 イギ

リス、 韓国、 オーストリア、 イタリア、 ルーマニ

ア、 ポーランド、 グルジア、 日本軍等が、 イラン

の南側 (ペルシャ湾) では米海軍、 イランの北側

(カスピ海) ではロシア海軍がいる。 アゼルバイ

ジャンとトルコも NATO の一員になっている。

イランの政権は完全に包囲されていると言える。

現体制の正当性を別にして、 体制として国が包囲

されるという恐怖を抱いている。

すると正軍や革命防衛軍の過剰反応の可能性が

ないとはいえない。 特にインドもパキスタンもイ

スラエルも核能力を持っており、 イランも持つべ

きだという考え方が軍の中に出てきても不思議で

はない。

特に最近はアメリカのインドへの接近と原子力

協力がある。 インドは NPT に加盟にしていない

にもかかわらず、 原子力開発を進めており、 日本

もそれを支持している。 このことはイランの新保

守派に刺激的な影響を与えていると思われる。

核開発問題に対する国外のイラン反体制派の立場

核問題に対するイラン国外の反体制派に四つの

考え方がある。 一つはイラク、 アフガニスタン、

そして戦後日本のようにアメリカの行動を期待し

ている王政派である。 2番目は、 イランへの経済

制裁や軍事行動に対して反対するグループである。

3番目は、 イラン政府にもアメリカ政府にも反対

するグループ。 これは左派的なグループであり、

沈黙を保っている。 そして4番目は、 1、 2とも

対立し、 3にも距離を置いており、 非常に積極的

に行動するグループ。 彼らはイスラム抜きの世俗

的な共和国を目指している。

イラン核開発問題に対する現政権の立場

まずイラン体制が目指していることだが、 第1

に、 体制の保全とその正当性を目指している。 イ

ラン体制が力を持っていないと、 アメリカに太刀

打ちできない。 包囲されているから、 軍事力を持

つことによって体制を保全していこうという考え

方である。 世界的にもイラン国内にも現体制に対

してその正当性について様々な議論がある。 宗教

やシーア派を強調し過ぎているからである。 イラ

ンではスンニ派、 キリスト教、 ユダヤ教、 イスラ

イランの最近の情勢~対立の構図を読む

― 113 ―

Page 40: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

ム以前の文化やゾロアスター教等もある。 ある意

味では多宗教や多民族的な国家である。 第2に、

国民と反体制派の支持を得るために1953年のよう

にイランの石油国有化運動を再現したいというこ

とである。 ナショナリズムをあおることによって、

現体制が非常に力をつけるのではないかという印

象を与えることができる。 第3に、 国際原子力機

関 (IAEA) の NPT 枠内で平和的な利用の必然的

な権利を強調しているということである。 第4に、

国内の諸問題を国外にずらすということである。

今、 イランでは約500万人の失業者がおり、 原子

力開発や原爆開発のほうにナショナリズムをあお

ることによって国内の諸問題を外国にずらすとい

う考え方があると思われる。 第5に、 西アジア地

域におけるイスラム人民の同情を得るということ

である。 今、 アラブ世界には人民の支持を受ける

指導者はあまりいない。 この間エジプト大統領が

発言したように、 西アジアにいるイスラム人は自

分の国を愛するよりもイランを支持するというこ

とにもなっている。 アラブ世界の中でも表面的に

はイランが原爆を持つことを反対しているが、 内

心的にはイスラエルとの関係でイランは原爆を持

つべきだと考える場合もある。 それから第6に、

先程も指摘したように国連の安保理事会はイラン

では信頼されていない。 イラン・イラク戦争の時、

イランの被害性は認められなかったためである。

第7に、 危機的な状況と緊張はイランの現体制の

生命線である。 危機が続けば続くほど現体制の生

命が延びるのではないかと思っているということ

である。

イラン核開発問題に対する他国の立場と新冷戦戦

争時代の始まり

アメリカの立場だが、 この国は戦後一貫して世

界戦略的にイランでは反米体制を許してはいない。

戦後と冷戦時代にアメリカの二つの基本的な戦略

と地政学的な柱は日本とイランに対しての政策で

あった。 冷戦時代が始まったのは中国や朝鮮半島

の問題でなく、 旧ソ連が1946年からイランの北側

から撤退しなかったため始まったと考える。 アメ

リカが旧ソビエトに近い国、 特に日本とイランに

は反米的な体制を許さなかった。 これが一貫した

アメリカの基本的な戦略である。 そういう意味で

も今の反米的なイスラム体制は崩壊するしか道が

残されていないのである。

アメリカが期待しているのは、 イラクとアフガ

ニスタンのように海外のイランへの反体制派の力

をかりて現体制を崩壊の方へ導くという考え方で

ある。 あるいは、 平和に対する脅威、 破壊、 侵略

行為に対する行動 (軍事的措置) を規定した国連

憲章七章等を使って世界平和への脅威という名目

でイランを攻撃したと考えている。 アメリカのも

う一つの期待はイスラエルに、 いわゆる中東の和

平へのロードマップを承認して協力してもらいた

い。 そういう意味ではアメリカの立場ははっきり

している。

イランに対して日本の立場はサンドイッチのよ

うになっている。 イランとも切り離せないし、 ア

メリカの言うことも聞かないといけないという、

非常に苦しい立場になっている。 イランと融和す

るか反融和的になるか。 この50年間、 日本とイラ

ンとはさまざまな意味では友好的な関係があった。

しかし、 アメリカはそのような融和的な政策は日

本の国益に反すると日本政府に言い続けている。

ロシアと中国は表面的にイランを支持する。 こ

の支持が本当だとすれば、 単にイランの石油やガ

スの為ではなく、 戦略的に非常に重要な場所にあ

るイランをメンバーとして上海協力機構の方向へ

持っていきたいと思っているからである。 イラン

が上海協力機構メンバーになれば、 ロシア、 中国、

そしてその他の中央アジアの国々のペルシャ湾に

おける影響力が拡大する。 温かい海にまで手を伸

ばしていくということはロシアの19世紀以来の狙

いである。 新々世界秩序ということになりつつあ

イランの最近の情勢~対立の構図を読む

― 114 ―

Page 41: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

るのかも知れない。

開発途上国の D8 (インドネシア、 イラン、 エ

ジプト、 トルコ、 パキスタン、 マレーシア、 ナイ

ジェリア、 バングラデシュ) は世界人口の7分の

1を抱えている。 D8はイランを応援しており、

核の平和利用はイランの権利であると主張してい

る。 ヨーロッパもイランの最大の貿易国であり、

イランとの貿易額は160億ドルとなっている。

南米も最近反米的な政権が続々誕生している。

1970代のように新資源ナショナリズム政策が再現

されている。 ボリビアもガスを国有化したし、 ベ

ネズエラも同様である。 ある意味でイランの1953

年の石油国有化のような動きである。 資源を外国

資本の手から解放したいという考え方だ。 グロー

バル化の正反対の動きかも知れない。

上海協力機構が形成され、 ロシアと中国が中心

になり中央アジアの国々が加盟し、 プーチン大統

領の冷戦後の軍事競争が終わったというのは早過

ぎるという発言を考える、 とニューコールドウォー

(新冷戦戦争) の始まりではないかと思っている。

まとめ

イランの核問題は、 技術的とか国際法の問題で

なく、 イランとアメリカとの政治・戦略的な関係

の問題である。 もしイランの核開発問題が解決し

たとしても、 翌日には人権問題が取り上げられ、

その翌日にはまたテロというふうに問題が次々取

り上げられる。 イランの現体制が続く限り、 緊張

と対立はイランとアメリカの間に built-in されて

いる。 核の問題は単なる一つのカードでしかない。

アメリカ政府の予算編成で、 レジーム チェン

ジ オブ イランという名目で7億ドルぐらいの予

算が計上され、 反イラン、 反体制派を応援してい

る。 イランにとっては、 現政府が崩壊するのか、

あるいは親米的になるのかという選択肢しか残さ

れていないと思われる。

意外なことには、 イランとアメリカは直接対話

すべきだという意見が最近増えている。 ブレジン

スキー、 キッシンジャー、 オルブライト (前国務

長官)、 モハマド・エルバウダイ (現 IAEA 長官)、

それからJ・ロックフェラー等はアメリカとイラ

ンが直接対話するべきだということを主張してい

るが、 ブッシュは受け入れない。 直接交渉はイラ

ン政権に国際的な正当性を与えるからである。 ラ

イス国務長官もイランの体制を保存することはで

きないとはっきり述べている。

ジスカールデスタン元仏大統領のいうように

「イランに決してウラン濃縮をするな」 と求める

のは適切ではない。 私自身は、 直接対話するべき

だと思う。 イランとアメリカとの対立が長期化す

れば、 イランの経済社会は傷んでいくし、 国際平

和にも非常に危険だと思う。 失業者が500万人、

これは大変なことである。 テヘラン大学の6割は

女性だが卒業しても仕事がないということになっ

ている。 原油依存型の経済がますます遅れてしま

うと思う。

質疑応答

Q イランは非アラブ的な社会で、 イスラム革

命が起こったのはかえって不思議なくらいだとい

うことでしたが、 その後出てきたハタミ前大統領

や 『文明の対話』 という本がありますが、 今のイ

ランではどうなっているのですか。

A 結局あの路線の終点駅はやはり市民社会の

形成であった。 そこで聖職者は危機感を唱えてい

た。 やはり宗教派はそれを許せなかったというこ

とです。

それからもう一つは、 「悪の枢軸」 という、 ア

メリカとの軋轢の存在です。 アメリカの大統領の

発言は重みがあるはずです。 それをブッシュ大統

領が気楽にあれこれ言うことによって、 改革路線

も大きな悪影響を受けて、 逆に反動的な勢力や新

保守的なグループの形成に貢献したと思います。

イランの最近の情勢~対立の構図を読む

― 115 ―

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Q 母親がイスラエル人で、 たまに帰ることも

あるのですが、 そのときすごく感じるのは、 イラ

ンと対極にあるもともとのユダヤ国家は、 すごく

宗教的な国をまとめ上げるイデオロギーを持って

いる。 一方で若い世代は民主的な方向に変わらな

くてはいけないという動きがある。 私の家族、 周

辺もどちらかというとその立場にあるのですが、

先ほどのお話の中で、 今の大統領は一部の学生に

支持されているというお話がありました。 実際、

国民の中でもう少し民主的な方向に変わらるべき

だという雰囲気というのはありますか?

A 非常にいい質問です。 先ほどの大統領に対

して学生たちの支持は、 核開発の平和利用は必然

的な権利であるとする立場である。 民主主義的な

運動は今でも学生だけでなく、 女性、 労働者、 知

識人たちの間に盛んです。

しかし、 西アジア全体に対するアメリカの態度

やパレスチナに対するイスラエルのやり方等は、

若者にはアメリカやイスラエル式の軍国的民主主

義の悪影響を与えていると思います。 イランにお

ける市民運動の歴史は古い。 西アジアにおける多

くの国々が独立国家として出現する前にイランで

は1905年に立憲革命が起きた。 1952や1979年にも

市民社会運動が盛んだったし現在も続いている。

ただ、 残念ながらイラン社会では長い間、 イス

ラム文化とペルシャ文化が対立している。 イラン

では、 イスラム文化はペルシャ文化・文明の上に

乗っかっているから、 聖職者は何か安心できない。

アラブ社会ではすべてはイスラムから始まるかも

知れませんが、 イランは違います。 例えば、 日本

の仏教が神道に乗っているようにペルシャ文化と

イスラム文化の融和が必要です。 しかし、 イラン

では日本のように融和が出来ていない。

Q その聖教者たちは後発組だから、 つまり後

からできたイスラムに乗っかっているからペルシャ

文明に脅威を感じているのですか?

A そうです。 例えばイランの正月は3月20日

で、 3000年間の歴史をもっているイスラム以前の

祭りです。 その正月に対し聖職者たちは猛烈に反

対し、 逆に預言者の誕生日がイランにとっては大

事だと強調している。 しかし国民はいまだに3月

20日を正月として祝っている。

政治や核の問題がテーマでしたが、 最後は、 イ

ラン社会の最大問題であるイスラムとイスラム以

前のイラン文化の対立とその融和的な解決の可能

性になってしまいました。 これはイラン政治・社

会、 又は経済を研究するに当たっては非常に大事

であること強調したかったのです。 この100年間、

イラン政治・社会運動を観察すればその対立が証

明されると思います。

*本稿は、 2006年5月24日 (水) に開催された国

際平和研究所主催公開勉強会の記録に基づいて

います。

イランの最近の情勢~対立の構図を読む

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今日、 世界で5歳の誕生日を迎える前に命を落

とす子どもは年間1000万人あまりに上る。 その原

因の多くは、 予防接種や安全な水供給で防ぐこと

ができるものである。 そのような基本的なサービ

スを提供することすらままならない国は今もなお

存在し、 先進国から途上国への援助はとどまると

ころを知らない。 援助の実態はこれまでさまざま

な角度から報告されてきたが、 本書 『国境を越え

た医師』 は、 ハーバード大学医学部教授のポール・

ファーマー医師が学生時代にはじめたハイチでの

医療協力活動の経緯とその変遷を、 ファーマー個

人の人生の遍歴をたどりながら紹介することで、

援助の原点を効果的に問いかけている。 本稿では

ファーマーの援助活動を簡単に紹介するとともに、

その原動力の源を探り、 援助のあり方について考

えてみたい。

国境を越えた医師の活躍

ファーマーは学生時代にハイチを訪れ、 ある病

院で医療ボランティアとして働いていた。 ある日

そこに、 マラリアで昏睡状態に陥った若い妊婦が

運び込まれてきた。 妊婦の家族には治療費を支払

う余裕がなかったため、 妊婦は適切な処置をして

もらえなかった。 その結果、 妊婦も胎児も命を落

とした。 この出来事を目の当たりにしたファーマー

は、 病院が貧しい人たちのために存在するのでは

ないことに愕然とした。 しかし、 ファーマーはそ

れだけで終わらなかった。 自分の病院をつくるこ

とを決意したのである。 しかも、 それは医師にな

るどころか、 医学部に入学する前のことである(1)。

それ以来、 ファーマーはハイチと米国を行き来

することになる。 ハーバード大学医学部入学後も

多くの時間をハイチですごした。 普通では考えら

れないが、 臨床実習のときだけ米国に帰国すると

いうような医学生生活を送った。 成績優秀な彼の

このような振る舞いを教授陣は許した。

ファーマーは、 医療サービスはその受益者のニー

ズに合ったものでなければならないと考え、 まず

健康調査に取り組んだ。 そのかたわら、 教会の診

療所建設を手伝った。 最大の転機が訪れたのはそ

れから5年後のことであった。 篤志家の出資によ

り Partners in Health (PIH) という慈善団体を

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書 評

トレーシー・キダー 『国境を越えた医師』 (小学館プロダクション、 2004年)

市 川 政 雄(筑波大学大学院人間総合科学研究科助教授)

竹迫仁子訳

2004年

小学館プロダク

ション

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設立、 これにより活動が大きく前進する。 PIH

はハイチに無償で診療を行う総合病院を設立し、

その周辺には学校や住宅を建設した。 水道も敷設

し、 全住民の衛生管理を徹底した。 すべての子ど

もにワクチンを接種し、 女性の識字率も高めた。

これらの多岐にわたる活動はどれも健康を獲得

するうえで必須であると、 30年近く前にプライマ

リ・ヘルスケア (PHC) の礎であるアルマ・ア

タ宣言(2)に謳われている。 それにもかかわらず、

実際にこれらのサービスを包括的に提供すること

は縦割り行政下において困難であることが 「常識」

だった。 しかし、 PIH はその常識を覆し、 実に

大きな成果を挙げた。 たとえば PIH が設立した

病院の通院圏内では、 成人の死因の第一位である

結核で死亡する人がいなくなった。 HIV の母子

感染率をアメリカにおける感染率の半分にまで下

げることにも成功した。 これらは驚異的な実績で

ある。

PIH の活動はのちに周辺諸国のペルーやメキ

シコ、 さらにはロシアにまで及んだ。 さらに、 詳

細は本書に譲るが、 結核対策においては世界的に

極めて重要な役割を果たし、 世界保健機関

(WHO) の戦略にまで影響を及ぼした。 そして、

PIH の活動は今もなお続く。

援助の原動力

これだけの活動を展開するには何か特別な原動

力があったはずである。 本書からは、 ファーマー

には社会の不公正に対する強い憤りと途上国の立

場に立った当事者意識があったと読み取れる。 そ

れは彼の医療行為の端々にあらゆる形で表現され

た。

歩くのもままならないほど衰弱した十六歳の少年

がやって来た。 ……ファーマーは潰瘍が原因と診

断した。 「体が飢餓状態にすっかり慣れてしまって

いる。 もっと強くしてやらないと」。 ファーマーは

栄養食……を手に取った。 「これは効くぞ。 一日に

三缶与える。 つまり二〇〇ドルかけるってことだ。

費用をかけ過ぎているといわれるだろうが、 構う

もんか」 (35-36頁)

貧しいハイチ人に抗レトロウィルス新薬を投与す

ることは、 通常では考えられない。 いや、 貧しい

国で、 この病気にかかっている貧困層の患者を治

療しようとする医師は、 ほとんどいないのだ。 ……

エイズ新薬の使用は、 ザンミ・ラサンテ (クレオー

ル語で PIH の意) にとって、 患者ひとり当たり年

間五千ドルの支出を意味していた。 それもかかわ

らず、 ファーマーは数人の患者にトリプル療法

(二剤以上の抗 HIV ウィルス薬に、 プロテアーゼ

阻害薬を加えた療法) を始めていた。 (42頁) (括

弧内は筆者注)

これらのファーマーの医療行為はそれだけをとっ

てみれば不信感を抱かせるものである。 途上国で

1人に5000ドルを使うのと、 10人に500ドル、 あ

るいは100人に50ドル、 もしくは1000人に5ドル

を使うのではどちらが有効か。 多くの人が1人に

5000ドルを使うことに反対するのではないだろう

か。 費用に対してもっとも大きな効果のある医療

サービスや治療を優先するのが、 医療経済学の教

えであり、 一般的にも理にかなっているからだ。

しかし、 これは多くの場合、 自分が5000ドルの治

療を受けさせてもらえる当事者でないことを前提

にしている。 もし自分がその当事者だとしたら、

反対するだろうか。

ファーマーの医療行為はそうした当事者意識に

基づいている。 そのことは以下の出来事にも現れ

ている。

ある日、 鼻咽腔癌を患ったジョンをハイチから

米国ボストンにあるマサチューセッツ総合病院に

搬送することになった。 その費用は2万ドル。 実

はこうした前例をつくることに難色を示したファー

トレーシー・キダー 『国境を越えた医師』 (小学館プロダクション、 2004年)

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マーだったが、 のちにこのように述懐している。

どうして若いアメリカ人医師は、 「おやおや、 おれ

の給料は、 ジョンの搬送費用の五倍もあるじゃな

いか。 しかも、 まだ弱冠三十歳だぞ」 と言わない?

それは、 こういったことを口に出すと阿呆のよう

に思われるからさ。 ……もし君が 「二万ドルでぼ

くはなにができただろう?」 と言えば、 聞いてい

るほうは、 君のことを思慮深く、 まともで、 理性

的で、 合理的だと考える。 ……だが、 こんなふう

に指摘したらどうだ? 「だけど、 若い勤務医は、

二万ドルどころか十万ドルを稼いでいる。 少年の

命を救おうとしてかかったコストの五倍じゃない

か」 すると、 君は阿呆に思われてしまう。

(401頁)

話はわき道にそれるが、 この書評を執筆中に、

多臓器移植手術を受けるため米国に渡った1歳の

少女が手術から5ヶ月で亡くなった。 移植の費用

は1億3千万円、 それだけの多額の募金が約2週

間で集まったという。 わが子を救うためなら1億

円でも2億円でもかけて救いたい、 その気持ちに

多くの日本人が賛同し、 募金した。 当事者意識を

もったがゆえである。

同じことを途上国でやってなぜ悪い、 というの

が同じ当事者意識をもつファーマーの主張である。

この主張の背景には先進国と途上国の格差、 こと

にその格差を先進国がもてあそんでいることに対

する苛立ちがあった。

「財源は常に限られている」。 国際保健の世界では、

この言葉が圧倒的な力をもっていた。 費用対効果

分析の審査を通過しても、 この言葉を突きつけら

れるのだ。 ……だが、 たいてい、 財源がある特定

の場所において、 限られることになったいきさつ

については不問にされている。 (242頁)

経済的に余裕のある先進国では、 同じ命を助け

るのに募金や税金で10万円賄おうとも100万円賄

おうとも誰も異を唱えることはない。 しかし、 経

済的に余裕のない途上国ではそうはいかない。 被

援助国である途上国は援助国である先進国に費用

対効果分析を押し付けられているからだ。 それゆ

え、 個人の命の重さと国民全体の健康とが常に天

秤にかけられる。 健康問題に順位がつけられ、 そ

の結果、 順位の低い健康問題を抱える人たちは、

先進国にいたならば治療を受けていたに違いない

のに、 途上国では後回しにされるか、 相手にもさ

れない。 私たちはそれをお金がないのだから仕方

ないと考える。 当事者でないから、 そのように考

えることができる。

援助の公平性と自立

ファーマーは当事者意識をもって、 偶然出会っ

た患者に最高のサービスを提供してきた。 しかし、

その機会に恵まれなかった人たちがファーマーや

PIH に対し妬むことはないのか。 前述の鼻咽腔

癌を患ったジョンをハイチからボストンに搬送す

るような場合はとくに問題となる。 もちろん、 そ

のような援助の公平性に関する議論は PIH でも

なされてきたが、 地元の反応は意外なものであっ

た。

ジョンのことを知った親たちがザンミ・ラサンテ

に押しかけて、 病気の子どもをボストンに連れて

行けと要求するのではないかと心配していたが、

そんなことは起こらなかった。 ……この件につい

て近隣の人たちはなんと言っているか尋ねてみた。

みんなその話をしていますよ、 と彼は答えた。 「……

『こんなにもおれたちのことを考えてくれている』 っ

てね」 (384頁)

これは、 住民の総意ではないかもしれないが、

PIH が思いやりをもってハイチの人たちを援助

トレーシー・キダー 『国境を越えた医師』 (小学館プロダクション、 2004年)

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してきた証しである。 援助の 「専門家」 の目には

不公平な援助あるいは費用対効果分析を無視した

無駄な援助としてしか映らないかもしれないが、

現地の人たちには誠意として映る。 それには訳が

ありそうだ。

前述したが、 PIH はこれまで基礎保健やそれ

に関連するサービスに重点を置き、 広域にわたり

サービスを提供してきた。 PIH はこうした地道

な活動を通じて現地の人たちと強い絆を培ってき

たのである。 PIH のハイチに対する慈しみは、

きっと援助の公平性など議論の的にならないくら

い、 現地の人たちに伝わっているのであろう。 そ

れゆえ、 援助に対する評価基準は専門家と PIH

の援助の恩恵に与ってきた現地の人たちとでは大

きく異なる。 援助を第三者が評価する場合にはこ

の点に十分注意しなければならないだろう。

それでは、 こうした PIH の援助はどこまで続

くのか。 援助は通常、 その受け手に依存心を植え

つけないよう自立を求め、 持続的発展を目指す。

たとえば、 受益者負担を求め、 それを回転資金に

サービスを持続させる。 そうした 「専門家」 の主

張は正しく聞こえるし、 理想的にも見える。 しか

し、 PIH にそのような配慮はあまりない。 それ

もそのはず、 経済的にも政治的にも混迷を極める

ハイチにおいて、 自立や持続的発展はあまりにも

非現実的だからである。 ハイチで人びとの健康を

改善していくためには、 援助に依存するしか道は

残されていない。 それに異論をはさむ人は、 社会

の底辺に押しやられている人に自立を求める前に、

そのような社会を支配する人にどれだけ態度を改

めるよう働きかけたか、 まずはそのことを自問す

べきであろう。

後年、 ファーマーはこう書いている。 「村人は、 か

つて禁じられていたことを話題にするばかりでな

く、 新しい切り口で過去の話をするようになった」。

乳幼児の下痢はバイ菌のせいなのか尋ねるだけで

なく、 バイ菌があるのは水が汚いせいなのか、 と

尋ねるようになった。 そして、 「水が汚いのは、 金

をほしがってばかりの政府が無能で、 なにもして

こなかったからじゃないのか?」 (135頁)

社会の被抑圧者は、 援助を通じた人との交わり

により、 着実に自立へと向かっていく。 世界の不

公正に立ち向かうには、 こうした小さな変革を積

み重ね、 それらを大きな力にしていく。 これが

PIH の基本姿勢のようだ。

国境も格差も越えたファーマーの稀有な情熱、

行動力に牽引され、 PIH は活動を継続、 拡充し

ている。 援助に関する議論をさらに深める材料は

http://www.pih.org で提供されている。 ぜひ参

照されたい。

(1) 米国では通常、 学士号取得後に医学部に入

学する。

(2) 1978年、 旧ソ連のカザフ共和国の首都アル

マ・アタに世界140カ国以上の代表が集ま

り、 採択した宣言。 「西暦2000年までにす

べての人に健康を」 という目標を定め、 そ

のための世界戦略として PHC という理念

を打ち出した。

トレーシー・キダー 『国境を越えた医師』 (小学館プロダクション、 2004年)

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1. PRIME 国際シンポジウム

テーマ:「東アジアに公共空間を~人々の 『アジア共同体』 を考える~」

日 程:2006年2月25日 (土) ~26日 (日)

会 場:明治学院大学白金校舎 本館10階大会議場

主 催:明治学院大学国際平和研究所 (PRIME)

後 援:ル・モンド・ディプロマティーク友の会 (ASSOCIATION LES AMIS DU MONDE

DIPLOMATIQUE)

2月25日 (土)

14:00-14:10 主催者挨拶 勝俣 誠 (PRIME 所長)

14:10-15:10 基調講演 「東アジアの平和と公共空間-市民社会の持つ可能性」

講演:西川 潤 (早稲田大学)

司会:竹内 啓 (PRIME 所員)

15:30-16:30 セッション1 「現状分析 (1) 中国・韓国から見た東アジア認識 ~市民社会の実践

を手がかりに」

司会:孫 占坤 (PRIME 所員)

15:30-17:00 報告者

櫛渕万里 (ピースボート共同代表) 「日韓共催クルーズから展望される東アジア」

齋藤一晴 (明治大学) 「東アジアにおける共通教材作成の可能性と課題」

寺西俊一 (一橋大学) 「環境共同体としての日中韓」

コメンテーター

宋 立水 (PRIME 所員)

コリン・コバヤシ (フランス・ジャーナリスト、 アーティスト)

熊岡路矢 (日本国際ボランティアセンター JVC 代表)

17:00-18:00 質疑応答・全体討論

2月26日 (日)

10:00-12:30 セッション2 「現状分析 (2) 先行事例から学ぶ東アジア認識」

司会:寺田俊郎 (PRIME 主任)

10:00-10:10 前日の議論の振り返り

10:10-11:10 報告者

阿部 望 (PRIME 所員)

ベルナール・モレル (フランス・エックスマルセイユ第一大学教授、 人間総合科学

地中海センター所長)

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2005年度 国際平和研究所活動報告

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アルマンド・マーレイ Jr. (フィリピン大学)

11:10-12:30 質疑応答・全体討論

14:00-16:30 セッション3 「総括セッション ~東アジア共同体構築の課題」

司会:吉原 功 (PRIME 所員)

14:00-15:45 発題者

櫛渕万里 「市民が 『主役』 の東アジア共同体創設を ~NGO/NPO のチャレンジ」

コリン・コバヤシ

イヨンチェ (慶応大学) 「アジアメディアセンターによる市民ネットワークの形成」

涌井秀行 (PRIME 所員) 「日中の歴史認識―戦争責任日本とドイツ」

寺田俊郎 (PRIME 主任) 「世界市民精神の普遍性と地域性」

勝俣 誠 (PRIME 所長)

竹尾茂樹 (PRIME 所員)

15:45-16:50 質疑応答・全体討論

16:50-17:00 閉会挨拶 勝俣 誠 (PRIME 所長)

2. 研究所主催講演会、 公開セミナー、 その他

4月27日 (水) 公開勉強会 「日韓問題~歴史的背景の理解を通して考える」

講師:秋月 望 (PRIME 所員)

5月24日 (火) 公開勉強会 「人間の安保から見た開発と環境 ―あるエクアドルの知事の闘い」

講師:アウキ・チトゥアニャ (エクアドル・インバブラ県・コタカチ郡知事)

5月25日 (水) 公開勉強会 「日中問題」

講師:宋 立水 (PRIME 所員)

講師:田中正治 (新庄水田トラスト代表)

6月22日 (水) 公開勉強会 「考えながら、 参加しながら学ぶ教育 ―教育立国スウェーデンからの報告」

講師:広瀬智子 (元遠山真学塾講師)

6月29日 (水) 公開勉強会 「人間開発指標を問い直す ~ 「貧困」 とは?」

講師:原後雄太 (PRIME 主任)

7月15日 (金) 「同性婚という問題を知ってますか? セクシュアル・マイノリティーたち、 人権を求め

つづけて」

講師:サンダース・宮松・敬子 (ジャーナリスト)

7月20日 (水) 「55年バンドン会議から何が始まったか? ―アフリカの独立運動のお話―」

講師:北沢洋子 (国際問題評論家)

10月19日 (水) 国際シンポジウムに向けた研究会 「東アジア共同体構築の可能性について」

講師:孫 占坤 (PRIME 所員)

11月28日 (月) 国際シンポジウムに向けた研究会 「東アジアの平和構築と市民社会」

講師:櫛渕万里 (ピースボート共同代表)

*平和研提供科目・公開授業に引き続き、 18:30~公開研究会。

2005年度 国際平和研究所活動報告

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11月30日 (水) 公開研究会 「ブルキナファソにおける教育 ―都市部 (ワガドゥグ) と農村部 (ゾーゴ)

の一例」

講師:バレリー・ウエドラオゴ (ハンガー・フリー・ワールド)

2006年

1月10日 (火) 公開授業 「ベネズエラの社会改革について」

講師:イシカワセイコウ (ベネズエラ大使)

2月1日 (水) 故原後雄太主任の使命を受け継ぐ学習交流会

原後雄太主任のご尊父をお迎えし、 日本ブラジルネットワーク、 バイオマスネットワー

ク関係者他とともに、 原後主任が国際平和研究所で行われた研究活動について学びのひ

とときを持った。

3月31日 (金) 公開研究会 「平和学における人間の安全保障分析手法について」

講師:峯 洋一 (大阪大学)

チ・スンフ

3. プロジェクト研究会等

1) 市場移行と平和プロジェクト

4月27日 (水) 「ロシア:資本制経済のかたち」

講師:塩原俊彦 (高知大学)

5月25日 (水) 「アメリカ一極支配と国際価値規範の相克」

講師:岡田裕之 (法政大学名誉教授) (市場移行プロジェクト)

12月7日 (水) 「中国の政治制度とその改革 ―歴史の視点から」

講師:潘 維 (北京大学国際関係学院教授)

2) グローバル化と平和プロジェクト

5月23日 (月) 「エクアドルにおける持続可能な発展モデルの形成と課題 ―銅山開発による脅威をどの

ように考えるか」

講師:アウキ・チトゥアニャ (エクアドル・インバブラ県・コタカチ郡知事)

原後雄太 (PRIME 主任)

11月29日 (火) 公開研究会 「ルワンダ虐殺からの復興と平和 ~ワンラブ・プロジェクトを通じて」

講師:ルダシングワ・吉田真美 (通訳) (ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェ

クト)

2006年

1月11日 (水) 「中国の軍と教育事情 ―国防奨学生の紹介」

講師:弓野正宏 (早稲田大学)

2月14日 (火) 「アジアとアフリカにおける内発的発展 ―タイと東アフリカの事例」

講師:伊藤香奈子 (TICAD 市民社会フォーラム)

2005年度 国際平和研究所活動報告

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2月21日 (火) 「欧州の若者と文化・平和・戦争」

講師:Antonin Morel (ヨーロッパ映画製作スタッフ・レポーター)

2月23日 (木) 「ヨーロッパ連合と市民社会 ~ヨーロッパはどこに行くのか? 市民社会の動きを分

析~」

講師:ベルナール・モレル (フランス・プロヴァンス大学教授)

勝俣 誠 (PRIME 所長)

コメンテーター:コリン・コバヤシ (パリ在住ジャーナリスト)

2月24日 (金) 「欧州の若者と文化・平和・戦争」

講師:Antonin Morel (ヨーロッパ映画製作スタッフ・レポーター) (21日と同内容)

3月12日 (日) 「NGO 国際連帯会議 (フランス) の参加報告会」 <後援>

主催:オルタモンド

講師:田中徹二 (オルタモンド事務局長)

「グローバル格差・貧困をどうなくすか、 そのための資金をみつけよう」

3) Shaping the Future in the Era of Globalization

11月25日 (金) 国際シンポジウム 「グローバル化時代の文化と文学の未来を検証する」

共催:教養教育センター付属研究所

講師:Brent Edwards (ラトガース大学教授)

「ディアスポラの未来図」

Larissa Lai (作家)

「ブランド名カナダ:対立する政治問題・グローバルな流れ、 そして移民」

Beverley Curran (愛知淑徳大学助教授)

「グローバル英語における架空の翻訳者」

ディスカッサント:Roy Miki (サイモン・フレイザー大学教授・詩人)

ムルハーン・千栄子 (元イリノイ大学教授)

司会:佐藤アヤ子 (PRIME 所員)、 竹尾茂樹 (PRIME 所員)

4) グローバル社会における核軍縮構想研究プロジェクト

7月14日 (木) 「Will Japan Remain Calm to North Korean Nuclear Weapons? Probing the Puzzle

from Japan's Historical Sensitivity towards Korean Peninsula」

講師:Dr. Kim Seung Young (Lecturer, Department of Politics and International

Relations, University of Aberdeen, Scotland)

7月28日 (木) 「North Korean nuclear crisis and the future of east Asian security」

講師:池上アンダーソン雅子 (ストックホルム大学太平洋アジア研究センター所長)

報告:イーヴォ・スラウス (ザグレブ、 ルジェ・ボスコヴィッチ研究所教授)

2005年度 国際平和研究所活動報告

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5) 平和教育研究プロジェクト

4月16日 (土) 公開研究会 (1) 「紛争解決教育の理論と実践:構造的暴力を乗り越える 「子ども集団

づくり」 に視点を当てて

講師:楠 凡之 (北九州大学助教授、 人格発達・教育指導)

コメンテーター:柏村みね子 (東京大学大学院、 「新英語教育」 編集長、 英語教育・

紛争解決教育)

5月14日 (土) 公開研究会 (2) 「大学の異文化間コミュニケーション教育での紛争解決教育の理論と

実践:コロンビア大学流交渉術より」

講師:鈴木有香 (亜細亜大学・桜美林大学非常勤講師、 異文化間教育コンサルタント)

コメンテーター:伊藤武彦 (トランセンド研究会、 和光大学教授)

5月29日 (日) 公開研究会 (3) 「ハワイ州の伝統文化を重視した幼児教育と初等教育における平和教

育」

講師:ジュディ・ダニエルズ (ハワイ大学教授・カウンセリング心理学)

司会・通訳:野田文雄 (大正大学・多文化間精神医学)

コメンテーター:原後雄太 (PRIME 主任・環境政策、 資源管理)

6) 学生プロジェクト

カフェ・ドゥ・プリム (学生と教員の対話の場づくり)

*基本的には、 毎週火曜日昼休み12:30~13:20 横浜校舎821教室にて。

第1回 4月12日 (火) 第2回 4月19日 (火)

第3回 4月26日 (火) 第4回 5月10日 (火)

第5回 5月17日 (火) 第6回 5月24日 (火) 孫占坤 (所員)

第7回 5月31日 (火) 第8回 6月7日 (火)

第9回 6月14日 (火) 宮地 基 第10回 6月21日 (火)

第11回 6月23日 (木) 吉原 功 (所員) 第12回 6月28日 (火)

第13回 10月4日 (火) 新政権と憲法・前編 勝俣 誠 (所長)

第14回 10月11日 (火) 新政権と憲法・後編 平山 恵 (国際学部)

第15回 10月19日 (水) 寺田俊郎 (主任) 第16回 11月15日 (火)

第17回 11月30日 (水) 第18回 12月13日 (火)

第19回 12月21日 (水)

12月18日 (日) 「Marines Go Home ―辺野古・梅香里・矢臼別」 ドキュメンタリー映画上映会

講師:藤本幸久 (映画監督)

共催:ピースリング (明学学生グループ)

NO BASE HENOKO TOKYO

連続ティーチ・イン沖縄実行委員会

2005年度 国際平和研究所活動報告

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7) パグウォッシュ・ライブラリー・プロジェクト

所蔵資料の整備を行い、 パグウォッシュ・ライブラリーに所蔵されている文献を、 平和研に図書

登録を行い、 図書館などを通じて貸し出せるようにした。

4. 教育活動

1) 研究所科目 「平和・開発・人権」 開講

総合教育系科目 現代世界と人間 平和・開発・人権① (広島・長崎講座) 春学期横浜木曜5限

コーディネーター 高原孝生 (PRIME 所員)

総合教育系科目 現代世界と人間 平和・開発・人権②秋学期白金月曜5限

コーディネーター 吉原功 (PRIME 所員)

■広島・長崎講座概要■

4/14 イントロダクション 高原孝生 (PRIME 所員)

「今、 ヒロシマ・ナガサキをふりかえる意義」

4/21 核兵器とはどのようなものか 小沼通二 (PRIME 研究員、 慶應大学名誉教授、 元パグウオッシュ

会議評議員)

「原爆、 水爆とは。 「通常兵器」 とどこが違うか。」

4/28 原子雲の下で何があったか 橋爪文 (詩人、 広島被爆者)

「被爆体験と、 体験者からのメッセージ」

5/12 核兵器に反対する運動と科学者たち 小沼通二 (PRIME 研究員、 慶應大学名誉教授、 元パグウ

オッシュ会議評議員)

「ラッセル=アインシュタイン宣言とパグウオッシュ会議の活動」

5/26 あるアメリカ人倫理学者の原爆投下批判―なぜ核兵器使用は不正なのか

寺田俊郎 (PRIME 主任、 法学部教員)

「「正義論」 から核兵器を考える」

6/2 国際法から見た核兵器 孫占坤 (PRIME 所員、 国際学部教員)

「国際人道法と核兵器。 国際司法裁判所勧告的意見とは」

6/9 核実験の脅威 大石又七 (元第五福竜丸乗組員)

「ビキニでの被爆と事件後の体験」

6/16 原発をどうとらえるか ミランダ・シュルワーズ (メリーランド大学準教授)

「環境という観点から見た 「原子力の平和利用」」

6/23 今日の広島から何を発信するか 湯浅一郎 (核兵器廃絶をめざすヒロシマの会)

「軍港呉の存在と広島の平和活動」

6/30 ヒロシマ・ナガサキと平和憲法のアプローチ 高原孝生 (PRIME 所員)

「戦後国際政治の中の核兵器をふりかえって学ぶべきこと」

2005年度 国際平和研究所活動報告

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■平和・開発・人権②概要■

テーマ:沖縄・東アジア・AALA の現在

9/26 「イントロダクション」 吉原 功 (PRIME 所員)

Ⅰ 沖縄

10/3 「読谷村の平和・文化村つくり」 ゲストスピーカー 小橋川清弘 (前読谷村史編集室係長)

10/17 「ヘリ事故、 辺野古、 日米安保」 ゲストスピーカー 伊波洋一 (宜野湾市長)

10/24 「人類館事件と近現代日本」 ゲストスピーカー 金城 馨 (沖縄文庫)

11/7 「沖縄の自律と統合」 竹尾茂樹 (PRIME)

Ⅱ 東アジアと日本

11/14 「日中関係の歴史的背景」 宋 立水 (PRIME)

11/21 「日韓関係の歴史的背景」 秋月 望 (PRIME)

11/28 「<コリア・ジャパン未来クルーズ>から展望される東アジア」 ゲストスピーカー 櫛渕万里 (ピー

スボート共同代表)

Ⅲ AALA の新潮流

12/5 「アフリカを変える人々」 勝俣 誠 (PRIME 所長)

12/12 「中南米の環境と文化を守る人々」 ゲストスピーカー 中村あすみ (国際学部3年生)

12/19 「世界社会フォーラムーもう一つの世界の模索」 吉原 功 (PRIME 所員)

2) 戸塚まつりへの参加

▼戸塚まつり

6月5日 (日) テーマ:世界がもし100人の村だったら ワークショップ

5. 刊行物

『PRIME』 第22号 (2005年11月)

『PRIME』 第23号 (2006年3月)

『南を考える』 第8号 (2006年3月)

6. 共催、 協力、 後援

*共催

4月29日 (金) <共催>シンポジウム 「みんなで考えようアフリカの食料問題、 国連ミレニアム開発目

標達成をめざして~アフリカの人々は飢えにどう立ち向かおうとしているのか」

基調講演:「飢えているのはだれか」 吉田昌夫氏 (AJF)

発 言 者:Mr. Yakobo Tibamanya (Tanzania)、 遠藤保雄氏 (FAO 駐日連絡事務所

代表)、 村上一枝 (CARA)、 志和地弘信 (東京農業大学) 他

2005年度 国際平和研究所活動報告

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共 催:アフリカ日本協議会 (AJF)、 国連食糧農業機関 (FAO)

後 援:朝日新聞

6月25日 (土) 「反日運動と日本の反中国言説」 <共催事業>

パネリスト:莫邦富 (ジャーナリスト)、 唐亜明 (作家)、 田島英一 (慶応大学)

コーディネーター:内海愛子 (恵泉女学園大学)

主 催:アジア太平洋資料センター (PARC)

11月20日 (日) TICAD 市民社会フォーラムシンポジウム<共催>

*後援

11月27日 (日) ピープルズプラン研究所シンポジウム<後援>

「中国と日本 遠くて近い未来の仲間 WTO より良い 「私たち」 の関係を見つけよう」

パネリスト:孫歌、 加々美光行、 アポ・リョン、 金子文夫、 ラオ・キンチ

7. その他

NAPSNet daily report (米国ノーチラス研究所) を通じての情報発信

米国ノーチラス研究所が発行している NAPSNet daily report (NORTHEAST ASIA PEACE AND

SECURITY NETWORK DAILY REPORT) への翻訳協力を実施。

■ノーチラス研究所のウエブサイト http://www.nautilus.org/

■NAPSNet daily report のウェブ最新版 http://www.nautilus.org/napsnet/dr/index.html

北東アジアの安全保障問題に関する短信が主な内容で、 現在はおよそ月~木の毎日発行。

2005年度 国際平和研究所活動報告

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国際平和研究所購入図書一覧(2006年1月~6月)

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文献表題 副 題 著 者 出版社

朝鮮半島を見る眼 「親日と反日」 「親米と反米」 の構図 朴一 藤原書店

フィリピンバナナのその後多国籍企業の操業現場と多国籍企業

の規制中村洋子 七つ森書館

アメリカ占領下沖縄の労働史 支配と抵抗のはざまで 南雲和夫 みずのわ出版

環境共同体としての日中韓 東アジア環境情報発伝所編 集英社

子どもたちが生きる世界はいま 豊田直巳 七つ森書館

食・農・環境の経済学 河野直践 七つ森書館

暗闇のなかの希望 非暴力からはじまる新しい時代レベッカ・ソルニット著

井上利男訳七つ森書館

戦争はペテンだバトラー将軍に見る沖縄と日米地位

協定吉田健正 七つ森書館

世界は変えられるⅡ 戦争の被害者って?加害者って? TUP (監修) 七つ森書館

ピープルの思想を紡ぐ 花崎皋平 七つ森書館

核問題ハンドブック和田長久、

原水爆禁止日本国民会議編七つ森書館

高木仁三郎著作集 1 脱原発へ歩みだすⅠ 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 2 脱原発へ歩みだすⅡ 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 3 脱原発へ歩みだすⅢ 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 4 プルートーンの火 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 6 核の時代/エネルギー 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 7 市民科学者として生きるⅠ 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 8 市民科学者として生きるⅡ 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 9 市民科学者として生きるⅢ 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 10 鳥たちの舞うとき 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 11 子どもたちの未来 高木仁三郎 七つ森書館

高木仁三郎著作集 12 論集 高木仁三郎 七つ森書館

ゆらぐ食 食べる前に知っておきたいこと 日本消費者連盟編 七つ森書館

ひとりひとりのいのち、 ひとりひと

りの人生佐高信 七つ森書館

この子を残して 永井隆 七つ森書館

時代を刻む精神 鎌田慧 七つ森書館

ネオリベ現代生活批判序説 白石嘉治、 大野英士編 新評論

ラテン・アメリカは警告する 「構造改革」 日本の未来 内橋克人、 佐野誠編 新評論

沖縄戦世 美ら海を守る 浅見裕子

朝鮮半島と日本の同時代史 東アジア地域共生を展望して 同時代史学会編 日本経済評論社

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国際平和研究所購入図書一覧

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文献表題 副 題 著 者 出版社

人間の安全保障の射程 アフリカにおける課題 望月克哉編 アジア経済研究所

平和を拓く 安齋育郎教授退職記念論集安齋育郎教授退職記念論集編集委員

会編かもがわ出版

生きる意味「システム」 「責任」 「生命」 への批

イバン・イリイチ著 D.ケイリー編

高島和哉訳藤原書店

ハンセン病とともに 岡部伊都子 藤原書店

黒いアテナ上古典文明のアフロ・アジア的ルー

ツ 2 考古学と文書にみる証拠

マーティン・バナール著

金井和子訳藤原書店

黒いアテナ下古典文明のアフロ・アジア的ルー

ツ 2 考古学と文書にみる証拠

マーティン・バナール著

金井和子訳藤原書店

子ども戦世のなかで 大石芳野写真集 大石芳野 藤原書店

石牟礼道子全集 不知火 第10巻 石牟礼道子 藤原書店

いのちの秩序 農の力 たべもの協同社会への道 本野一郎 コモンズ

危ない健康食品から身を守る本 シリーズ安全な暮らしを創る 13 植田武智 コモンズ

KULA (クラ) 貝の首飾りを探して南海をゆく 市岡康子 コモンズ

有機農業法のビジョンと可能性 有機農業研究年報 vol.5 日本有機農業学会編 コモンズ

歩く学問ナマコの思想鶴見俊輔池、 澤夏樹、 吉岡忍他著

埼玉大学共生社会研究センター編コモンズ

日本の植民地図書館 アジアにおける日本近代図書館史 加藤一夫、 河田いひこ、 東條文規 社会評論社

原子爆弾は語り続ける ヒロシマ六〇年 織井青吾 社会評論社

東アジアに 「共同体」 はできるか 分析と資料 東海大学平和戦略国際研究所編 社会評論社

日米安保と沖縄問題 分析と資料 東海大学平和戦略国際研究所編 社会評論社

市民社会とアソシエーション 構想と経験 村上俊介、 石塚正英、 篠原敏昭編著 社会評論社

アソシエーション革命へ 理論・構想・実践田畑稔、 大藪龍介、 白川真澄、

松田博編著社会評論社

樺太(サハリン)・シベリアに生きる 戦後60年の証言 小川�一編著 社会評論社

東アジア・交錯するナショナリズム石坂浩一、 塩沢英一、 和仁廉夫、

小倉利丸社会評論社

韓国獄中34年元北朝鮮従軍記者の手

朝鮮戦争従軍、 パルチザン、 獄中か

ら 「希望」 へ

李仁模記録 シン・ジュニョン整理

小林爽子訳社会評論社

アメリカの戦争と在日米軍 日米安保体制の歴史 藤本博、 島川雅史編著 社会評論社

トービン税入門新自由主義的グローバリゼーション

に対抗するための国際戦略ブリュノ・ジュタン著 和仁道郎訳 社会評論社

台湾・少年航空兵 大空と白色テロの青春記 黄華昌 社会評論社

子どものねだん バンコク児童買春地獄の四年間マリー=フランス・ボッツ著 ジャ

ン=ポール・マリ協力 堀田一陽訳社会評論社

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国際平和研究所購入図書一覧

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文献表題 副 題 著 者 出版社

日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の

対応佐野通夫 社会評論社

通貨・金融危機と東アジア経済 伊藤修、 奥山忠信、 箕輪徳二編 社会評論社

レーニン 革命ロシアの光と影 上島武、 村岡到編 社会評論社

ある日本兵の二つの戦場 近藤一の終わらない戦争 内海愛子、 石田米子、 加藤修弘編 社会評論社

人間の安全保障 正義と平和の促進のために上智大学社会正義研究所、

国際基督教大学社会科学研究所共編サンパウロ

中国における共同体の再編と内発的

自治の試み江蘇省における実地調査から 宇野重昭、 鹿錫俊編著 国際書院

沖縄芸能の可能性 沖縄国際大学公開講座 14 沖縄国際大学公開講座委員会 編集工房東洋企画

ナミイ! 八重山のおばあの歌物語 姜信子 岩波書店

沖縄ストーリーズ 砂守勝巳ヴィレッジブック

うるまネシア第7号 島ぐるみ運動の発火点 21世紀同人会

西表島の民俗 星勲 友古堂書店

唄う舟大工 奄美 坪山豊伝 中村喬次 南日本新聞社

奄美だより 浦島悦子 現代書館

奄美戦後史 揺れる奄美、 変容の諸相 鹿児島県地方自治研究所編 南方新社

うたまーい 昭和沖縄歌謡を語る 知名定男 岩波書店

おとーり 宮古の飲酒法 平良一男編 ぷからすゆうの会

沖縄染色文化の研究 南島文化叢書 3 上村六郎 第一書房

奄美、 沖縄本の旅 南島本、 とっておきの七十冊 神谷裕司 南方新社

奄美、 もっと知りたい 増補版 ガイドブックが書かない奄美の懐 神谷裕司 南方新社

奄美シマウタへの招待 かごしま文庫 55 小川学夫 春苑堂出版

空想音楽大学 小泉文夫 青土社

挿絵で見る 「南島雑話」 奄美文庫 5名越佐源太著 鹿児島県立大島高等

学校南島雑話クラブ訳

財団法人奄美文化

財団

輝く奄美の島唄 Beautiful Amami island folk songs 郡山直編訳 北星堂書店

奄美食 (うまいもの) 紀行 蔵満逸司 南方新社

奄美民俗雑話 かごしま文庫 63 登山修 春苑堂出版

奄美女性誌 人間選書 13 長田須磨 農山漁村文化協会

奄美と開発 ポスト奄振事業と新しい島嶼開発鹿児島大学プロジェクト 「島嶼圏開

発のグランドデザイン」 編南方新社

南のくにの焼酎文化 豊田謙二 高城書房

再発見、 からいもの魅力 南日本新聞社編 南方新社

奄美学の水脈 奄美沖縄ライブラリー 2 南海日日新聞社編 ロマン書房本店

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文献表題 副 題 著 者 出版社

村落共同体崩壊の構造トカラの島じまと臥蛇島無人島への

歴史皆村武一 南方新社

奄美の歴史とシマの民俗 先田光演 まろうど社

奄美まるごと小百科 奄美をもっと楽しむ146項目 蔵満逸司 南方新社

「対話」 の文化 言語・宗教・文明 鶴見和子、 服部英二 藤原書店

豊年を招き寄せる ヒラセマンカイ 「奄美大島」 比嘉康雄 ニライ社

島唄の風景 奄美復帰50年企画 南日本新聞社 南日本新聞社

奄美 1962 2005 甦る風景の記憶 沖本平九郎 新風舎

奄美、 吐�喇の伝統文化 祭りとノロ、 生活 下野敏見 南方新社

民俗芸能研究 第17号 民俗芸能学会編集委員会 民俗芸能学会

奄美・沖縄哭きうたの民族誌 酒井正子 小学館

奄美民謡とその周辺 内田るり子 雄山閣出版

奄美島唄ひと紀行 籾芳晴 南海日日新聞社

新版 シマヌジュウリ 奄美の食べものと料理法 藤井つゆ 南方新社

ムンユスィ 魂のふるさと奄美の素顔 山川さら しののめ出版

改訂新版 奄美の歴史と年表 弟三版 穂積重信編著 徳之島郷土研究会

沖縄・奄美の生業 2 漁業・諸職 名嘉真宜勝、 出村卓三 明玄書房

沖縄・奄美の祝事 誕生・婚姻・年祝い 崎原恒新、 恵原義盛 明玄書房

奄美民俗の研究 南島叢書 75 登山修 海風社

名護市誌 名瀬市誌編纂委員会編名瀬市誌編纂委員

名護市誌 中巻 名瀬市誌編纂委員会編名瀬市誌編纂委員

名護市誌 下巻 名瀬市誌編纂委員会編名瀬市誌編纂委員

新沖縄フォーラムけーし風 第49号新沖縄フォーラム

刊行会議

うるまネシア 第6号 21世紀同人会

新沖縄フォーラムけーし風 第48号新沖縄フォーラム

刊行会議

水俣病 20年の研究と今日の課題 有馬澄雄 青林社

きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記 日本戦没学生記念会編 岩波書店

核爆発実験と原子力発電によるヒバ

クとヒバクシャ豊崎博光 たんぽぽ舎

食べものと農業はおカネだけでは測

れない中島紀一 コモンズ

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国際平和研究所購入図書一覧

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文献表題 副 題 著 者 出版社

儲かれば、 それでいいのか グローバリズムの本質と地域の力 本山美彦、 山下惣一他著 コモンズ

森のゆくえ 林業と森の豊かさの共存 浜田久美子 コモンズ

『マンガ嫌韓流』 のここがデタラメ 朴一、 太田修他著 コモンズ

グローバリゼーションとはなにか こぶしフォーラム 8ウェイン・エルウッド著 渡辺雅男、

姉歯暁訳こぶし書房

マルクスのエコロジー こぶしフォーラム 9ジョン・ベラミー・フォスター著

渡辺景子訳こぶし書房

社会主義か野蛮か アメリカの世紀

から岐路へこぶしフォーラム 10

イシュトヴァン・メーサロシュ著

志村建、 福田光弘、 鈴木正彦訳こぶし書房

アメリカ帝国主義とは何か こぶしフォーラム 12レオ・パニッチ、 サム・ギンディン

著 渡辺雅男訳こぶし書房

ブームとバブル 世界経済の中のア

メリカこぶしフォーラム 13

ロバート・ブレナー著

石倉雅男、 渡辺雅男訳こぶし書房

アメリカ帝国主義と金融 こぶしフォーラム 14レオ・パニッチ、 サム・ギンディン

著 渡辺雅男、 小倉将志郎訳こぶし書房

気候変動 水没する地球ディンヤル・ゴドレージュ著

戸田清訳青土社

世界史の瞬間 クリス・ブレイジャ著 伊藤茂訳 青土社

階級社会 グローバリズムと不平等ジェレミー・シーブルック著

渡辺雅男訳青土社

テロリズム その論理と実体ジョナサン・バーガー著

麻生えりか訳青土社

イスラム 対話と共生のために

ディヤーウッディーン・サルダール、

メリル・ウィン・デービス著

久保儀明訳

青土社

世界の貧困 1日1ドルで暮らす人びとジェレミー・シーブルック著

渡辺景子訳青土社

この国で〈精神の自由〉を求めて哲学は抵抗たりうるか? 前夜ブッ

クレット高橋哲也 NPO 前夜

未来への記憶こくはく敗戦50年・明治学院の自己

検証明治学院敗戦50周年事業委員会 ヨルダン社

世界の貧困を解決する50の質問 途上国債務と私たちダイアン・ミレー、 エリック・

トゥーサン著 大倉純子訳柘植書房新社

Page 60: <公共空間>を市民が奪い返すことprime/pdf/PRIME24-2.pdf · した認識を左右するのは当然としても、 民主的な 国民国家を想定する中では、

明治学院大学国際平和研究所について

明治学院大学国際平和研究所 (International Peace Research Institute, Meiji Gakuin University=

PRIME) は、 1986年4月、 明治学院大学国際学部設立と共に、 同学部の付属研究所として発足し、 そ

の後、 1988年4月には、 全学の研究所となりました。 世界平和の諸条件の学問的解明と、 学内外の平和

研究の振興を主な目的に活動しています。 とくに、 普遍的視点からの地域問題への取り組み、 社会性あ

るいは時代性のある研究、 学際性の高い研究に重点を置いて、 研究者ばかりでなく、 広く市民に開かれ

た平和研究の拠点となることを目指しています。

PRIME (プライム) 第24号 2006年10月31日発行

[発行人] 勝俣 誠

[発行所] 明治学院大学国際平和研究所

〒108-8636 東京都港区白金台1-2-37

TEL:03-5421-5652 FAX:03-5421-5653

URL:http://www.meijigakuin.ac.jp/˜prime/

[編集委員] 勝俣 誠、 上條直美、

孫 占坤、 高原孝生、

寺田俊郎、 吉原 功

[表紙デザイン] 新川 梓

[印 刷] ヨシダ印刷株式会社 TEL:03-3626-1301