koreana summer 2015 (japanese)

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ISSN 1975-0617 夏号 2015 VOL. 22 NO. 2 伝統市場 特集 韓国の文化と芸術 韓国の市場:ロマンチックなかつての情景; 夜明けの眠りを覚ます人々: 私の市場物語 ISSN 1225-4592 市場、その歴史と進化

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Koreana Summer 2015 (Japanese)

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ISSN 1975-0617

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韓国の市場:ロマンチックなかつての情景;

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市場、その歴史と進化

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WaterWaterWaterWaterWater

A JournAl of the eAst AsiA foundAtion | www.globAlAsiA.org | volume 10, number 1, spring 2015

us$15.00w15,000

Averting wAter crises in AsiA: essAYs bY

Dipak Gyawali, Hyoseop Woo, David S. Hall & Kanokwan Manorom, Lyu Xing and Ramaswamy R. Iyer

think tAnks, think nets And AsiAA focus on how the industry of ideas has spread in Asia looks at the regional, Chinese and Japanese experience

the debAte: us strAtegY towArd north koreARobert Carlin Squares Off Against Bruce Klingner

pluspradumna b. rana & ramon pacheco pardo Asia’s need to work with the IMF on regional financial securitybrad nelson & Yohanes sulaiman Indonesia’s new maritime ambitions may spell trouble with Chinamichal romanowski The EU’s task in Central Asiarobert e. mccoy History’s lessons for the North Korea nuclear standoff and why the Six-Party Talks stalledbook reviews by Thomas E. Kellogg, Nayan Chanda, John Delury & Taewhan Kim

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A JournAl of the eAst AsiA foundAtion

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韓国のイメージ

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暑い夏に熱をもって熱を制す

参サムゲタン

鶏湯伝統的な韓屋の前に人々の列ができている。みんな袖の短い夏の服

を着ている。真夏に何のお祝いだろう。

屋根の軒先に大きく書かれた看板がこの人々の期待を雄弁に物語っている。「参鶏湯」の専門店。ここの代表的な料理はもちろん参鶏湯だ。大門の横のムクゲの花が描かれた四角い表示は、この食堂が国から公認された模範飲食店であることを物語っている。人気の食堂だ。しかし韓国の参鶏湯の専門店はここだけではなく無数にある。「参鶏湯」は名前のとおり鶏肉と高麗人参を入れて茹でた料理だ。しかし本当はそんなに簡単ではない。若鶏を1羽、もち米、高麗人参、ナツメ、ニンニク、エゴマの粉など、好みに合わせてさまざまな材料が動員される。食べ物と薬を同一の枠の中で考えてきた韓国人の伝統的な信念が作り上げた料理の中の一つが参鶏湯だ。必須アミノ酸の多い鶏肉。高麗人参は体内の酵素を活性化して新陳代謝を促進し、疲労回復を助ける韓国の特産物だ。ニンニクは強精剤、栗とナツメは胃を保護しながら貧血を予防する。それで韓国人はたくさん汗をかいて気力が衰えやすい暑い夏の夏バテ解消に、熱をもって熱を制する料理の一つとして、グツグツと煮えたつ参鶏湯を食べてきた。養鶏技術の発達した今日では、季節に関係なくヒヨコを孵化させるが、昔は春に孵化したヒヨコが夏には500gほどの中位のヒヨコ、つまり「若鶏」になると、そんな柔らかい鶏肉で夏の暑さに打ち勝つことのできる栄養食を作ったのだ。一年の中で最も暑くなる土用の丑の日に参鶏湯を食べるという食文化は、冷蔵庫の普及した1960年代以降に生まれて流行した。一年中、いつでも楽しめる栄養たっぷりの参鶏湯は今や韓国人が大好きな四季を通じたメニューとなった。日本の小説家村上春樹は彼の小説で「参鶏湯は朝鮮最高の食べ物」だと書

いており、以後、日本人が韓国に来ると必ず食べていくという食べ物が参鶏湯となった。そして今や、その後に続いて中国人観光客が列をつくっている。それで夏になると参鶏湯の専門店の前の列がさらにどんどん長くなるのだ。

キム・ファヨン金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

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発行人 柳現錫編集理事 尹錦鎭 編集長 金鍾徳編集諮問委員 裵炳雨 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 emanuel Pastreich Werner Sasse 監修者 嘉原和代翻訳者 坂野慎治 金明順 朴美貞クリエイティブディレクター 金三編集 金貞恩、盧倫永、朴信恵アートディレクター 李栄馥デザイナー 金智賢、李成基、葉蘭敬 編集金熒允編集会社韓国ソウル特別市麻浦区西橋洞385-10. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741Fax : 82-2-335-4743www.gegd.co.kr

印刷三星文化印刷韓国ソウル特別市城東区聖水洞2街278-32Tel : 82-2-468-0361~5

Koreana ホームページhttp://www.koreana.or.kr

価格韓国内:6000ウォン韓国外:9USドル定期購読料:詳しくは『Koreana』80ページをご参照ください。

© 韓国国際交流財団2015『Koreana』に掲載されているすべての記事の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、著作権法により保護されています。『Koreana』の記事を転載する場合には、事前に『Koreana』編集室に電子メール([email protected])かFaX(82-2-3463-6086)で転載許可を申請してください。『Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場合にも『Koreana』からの転載であることが分かるようにクレジットを明示してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『Koreana』や韓国国際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊されています。

「若い時分はこんな物売りはできなかったよ」。全南求礼の市場の道端に座板を広げて腰を下ろし、売り物を並べてお客を待っていたおばあさんが言った。おばあさんが山や野原で摘んできた山菜を売り始めたのは、子育てが終わり、自分も年を取った後であった。おばあさんは「ここに来ると周りのおばあさんとおしゃべりもできるし、小遣いも稼げるし、いいんだよ」と言って微笑む。摘みたての山菜を山積みにしながら、しゃべっているおばあさんの日焼けして皺の深くなった顔が笑っている。市場はどこも世間話でにぎわう。今季夏号の特集「市場 、その歴史と進化」では、韓国の市場にまつわる物語を紹介している。市場にある人々、品物、地域性、そして移り変わる市場模様など。この特集の編集は大変な作業であった。市場を調べるために現場へ行き、記事を作成し、相応しい写真を選んだりする作業は煩雑を極めた。しかしコリアナ編集のために払うべき努力と守るべき原則は、自画自賛に陥

らず、現場をリアルに描写することである。相互の文化交流では、もっとも地域的なことが、ときとしてもっとも普遍的であることを、いつの時代にも変わらないものがあることを我々はと信じているから。このような物語を異なる9か国語で世界中の読者に伝えることはとても難し

いことである。私たちの目標はどのような文化圏や言語圏であっても、「できる限り正確な翻訳」を提供することである。このような目標で毎回コリアナを編集することは大きな問題だけではなく、関係者全員にとってやり甲斐ある挑戦であると思われる。この夏号では伝統市場や他の記事を通して愉快で心あたたまる韓国物語を楽しんでいただきたい。

いつの時代にもありうる物語編集長からの手紙

『市日』ファン・ヨンソン(黄栄性)、1982年、キャンバス・油彩、38×45.5cm。日除けを張った露店と商人など田舎の五日市の様子が、細やかな色調で情感豊かに表現されている。

韓国の文化と芸術 夏号 2015

日本語版編集長 金鍾徳

Published quarterly by The Korea Foundation

韓国国際交流財団ソウル市瑞草区南部循環路 2558

外交センタービル

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特集市場、その歴史と進化

特集 1

韓国の市場ダイナミックな生活とロマンの舞台李昌起

特集 2

テーマ市場の繁栄と衰退 タイムトラベルへのいざない李潤鼎

特集 3

夜明けの眠りを覚ます人々 私の市場物語李明娘

特集 4

市場 地域文化の中心地へ朴恩英

文化遺産の継承者

消え行く旋律をたずねて鄭在淑

アート、レビュー

許しと和解の鎮魂クッ演劇女優ソン・スクの「オモニ」金寿美

オン・ザ・ロード

潭陽、古い森を歩きながら、 人生が伝説の延長線上に あることを悟る郭在九

遠くの目

時をこえて箕輪吉次

グルメを楽しむ

ムック  韓国のスローフード朴賛逸

エンターテインメント

Webドラマは、ドラマ市場の 主流になれるか魏根雨

韓国文学の旅

悲しみの向こうにある光と希望に向かって叫ぶ張斗寧

『窓の向こうは冬』崔恩美

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城南の牡丹(モラン)市場。4日と9日に開かれる五日市で、ソウル近郊の都会の人たちに人気。950の店には平日でも10万人が訪れるほど規模が大きい。

城南の牡丹(モラン)市場。4日と9日に開かれる五日市で、ソウル近郊の都会の人たちに人気。950の店には平日でも10万人が訪れるほど規模が大きい。

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韓国の文�と芸� 5

特集1 市場、その歴史と進化

ダイナミックな生活とロマンの舞台

韓国の市場

すべての伝統には有効期限がある。韓国は5000年という長い歴史を誇るが、受け継ぎ守っている伝統文化の歴史は、それよりもずっと短い。新石器時代の衣食住

の文化などは、誰も伝統とは思わない。またその昔、唐でも流行したという高句麗の羽毛の付いた鳥羽冠(チョウグァン)や幘(さく)のような折風帽(チョルプンモ)をかぶって自慢する者もいない。今、韓国人が伝統の味だと考える食べ物は、わずか50~60年前のものであり、韓服や韓屋も朝鮮時代中期以降のものがモデルになっている。それでは、韓国の伝統的な市場とは、どういうものだろうか。その伝統とは何だろうか。二つの文から探ってみよう。

旅人の目に映る市場の風景「市の立つ日には、各広場に野菜や果物がいっぱい並び、ニンニクやタマネギが無造作に積み上げられる。人々は、一日中声を張り上げ、お喋りしたり歌を歌う。そうしているうちに、けんかが始まったりして、終始声を上げて笑う。気候は穏やで食べ物は安いため暮らしやすく、たくさんの楽しみが、そこかしこに散らばっている」。「普段は静かでうつうつとしている村は、市の日に一変する。色とりどりに賑わい、人の波が寄せては返す。市場へ行く道は、

農夫が売ったり交換したりする品物で、早朝からいっぱいになる。籠に入れたニワトリやブタ、草履や麦わら帽子、木の匙などを担いでいく。何人かは陳列台を準備して絹布、麻布、腰紐、よそ行き用の靴、絹の糸、手鏡、鏡、タバコ入れなどを売る」。最初の文は、ゲーテ(1749~1832)が書いた『イタリア紀行』

の「(1786年)9月17日、ヴェローナ」の一部である(ヴェローナは、ジュリエットが住んでいた街)。二番目の文は、19世紀末に韓国を訪れたイザベラ・バード(1831~1904)が書いた『朝鮮紀行』の一部で日清戦争直後、開城から平壌に行く道すがら立ち寄った黄海道の鳳山(ポンサン)市場を描写したものだ。どこが同じで、どこが違うのだろうか。この二つの文は、洋の東西を問わず人々が思い描く市場への期待を裏切らない。リゾートのきらめくサファイアブルーの波、空と陸が織り成す壮大な夕焼けの秘境、色とりどりのグラフィティで彩られた都市の裏通りといった写真に魅せられた観光客は「1日くらい旅先の平凡な市場を回ってみては?」という高尚なアドバイスによって好奇心旺盛な遺伝子を刺激され、あっさりと忙しい日程を変えてしまうだろう。

農業の発達による市場の拡大この豊かな敍情が今日の市場の伝統だと考えるなら、その伝

イ・チャンギ李昌起、詩人・文学評論家安洪范 写真

韓国の伝統的な市場は、村と村がつながり、人と人が出会う場所だ。遠くへ嫁に行った娘の話を聞くのも、額に汗して作った農産物を必要な日用品と交換するのも市場だった。このように韓国人の暮らしの基盤だった市場が、姿を消そうとしている。今では、きれいで品揃えのいい大きなショッピングセンターやスーパーで買い物をする。私たちは、そこで情緒や思い出を買えるだろうか。

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統的な市場の始まりは18世紀頃と見るべきだろう。研究者によると、韓国の市場は17世紀末から18世紀初に全国に広がったという。まず、その時期に農業生産が大きく増え、続いて農耕をしない民間の手工業が発展し始める。取引が頻繁になり、規模が大きくなるに従って、貨幣経済が発達する。それに伴って自然と居住地も広がり、村も増える。朝鮮時代の地方の市場「郷市(ヒャンシ)」は、一日に歩いて往復できる30~ 40里(1里は約400m)ごとに立ち、5日ごと開かれる五日市は19世紀初に1000カ所を超えていた。「褓負商(ポブサン)」という行商人の組織が登場したのも18世紀中頃だ。そうした社会の変化をもたらした背景には、気温の変化があ

る。いわゆる小氷期が終わったのが、ちょうど18世紀。ヨーロッパの事情も同じだ。生産性の低下でひどい飢饉に苦しんだヨーロッパが、食糧需給の安定を取り戻したのも18世紀。新しい

農業技術が普及し、小麦への依存度が低くなり、代わりにトウモロコシやジャガイモが主な作物となっていく。そのような環境的な要因は、農業をはじめ多くの産業の革命的な変化とともに市場の発達を後押しし、多くの物と人でごった返す豊かな市場というロマンあふれる記憶を人類に植え付けたのだ。私がソウル暮らしに挫折し、何の縁もない京畿道・利川の長湖院(チャンホウォン)に流れ着き、農業を営む人たちの間に紛れて、にわか作家として暮らし始めて20年になる。最初はよそ者ぶって市場を「視察」していたが、今ではすっかりスウェット姿で、手にはきな粉をまぶしたヨモギ餅や手づくり豆腐の入った大きな黒いビニール袋を提げて、あちこちぶらつくようになった。そうして偶然会った隣町の奥さん連中と、冗談交じりのあいさつを交わすようになって久しい。

1 求礼(クレ)市場の鍛冶屋。職人は、今でも火床で焼いた鉄を何度も金槌で打って、かま、爪くわ、草取りかまなどの農具を作っている。

2 竜仁(ヨンイン)市場の魚屋。周りにアパート団地と大型スーパーができ、伝統的な五日市も一時は活気を失ったが、住民の市場活性化運動のおかげで、最近は勢いを取り戻している。

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陸路と水路が交わる場所に市が立ち人が集う昔の賑わいとは比べものにならないが、それでも長湖院市場は他よりも規模が大きい。店も多く、驪州市・占東、陰城郡・甘谷、安城郡・竹山からわざわざ買い物に来る人も多いため、活気にあふれている。有名な利川米の産地であると同時に穀物の集散地で、1930年代にはすでに汽車が通り、銀行に米豆市場ができたという伝統が今につながっている。田舍にある市場の規模を知るには、いくつかの条件を見ると良い。一つ目は、川があるかだ。韓国は山が多く、陸路よりも水路の方が時間もかからず安全だった。そのため、陸路と水路の拠点となる場所に立つ市場は、たいてい規模が大きい。長湖院市場から30㎞ほどの距離にある安城(アンソン)市場は、黄海の牙山湾や平沢を流れる安城川に沿って水路があり、陸路でもソウルへの要所なので、技術者や商人が絶えず集まる代表的な

市場だ。黄海から入ってきた塩や干魚などが、安城と竹山を経て内陸に供給された。すでに100年前から安城の特産物だった真鍮製の器を売る店だけでも50軒以上あったというから、その規模がどれほどのものか察しがつくだろう。長湖院も漢江の支流である清渼川が流れている。水量は少なく見えるが、梅雨には水かさが増し、塩とアミエビの塩辛を積んだ帆船が入ってきた。帰りには米などの特産物を積んで、漢江でソウルに向かった。川の水がなくなる渇水期でも、常に船が出入りできる最後の船着場を「可航終点」と呼ぶ。清渼川を20㎞ほど下ると牧渓(モッケ)の船着場に出る。ここが漢江水運の可航終点だ。牧渓の船着場は長年、仁川港で塩や干魚、塩辛、日用品などを積んできた数十隻の黄布帆船で賑わいを見せていた。そうした品物は、朝鮮半島南側の内陸各地に売られていった。牧渓市場は、塩を積んだ船が着くときに臨時で立つ市で、たいていひと月に3度開

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かれ、市が立つと数日の間続いた。当時は船で働く人だけでも数百人に上り、船着場とつながった牧渓市場はいつも活気に満ちていたという。蟾津江沿いの求礼(クレ)市場と河東(ハドン)市場、栄山江沿

いの羅州(ナジュ)市場と栄山浦(ヨンサンポ)市場、錦江沿いの江景(カンギョン)市場、洛東江沿いの亀浦(クポ)市場が、陸路と水路の拠点に立つ大きな市場だった。二つ目は、牛の市場だ。牛の商人は、普通5頭ほどの牛を売る牛飼いが5~10人で「牛商隊(ウサンデ)」を組んでいた。できるだけ近い道を移動する普通の商人とは違い、牛商隊は遠回りしても坂道を避けながら市場から市場へと移動した。市場は、この牛商隊がとどまって牛市場が開かれてこそ大きくなる。この牛市場の周辺に並ぶ飲み屋は、市場に欠かせない見どころだっ

た。長湖院の牛市場は、嶺南地方(慶尚道)から出発して聞慶セジェの峠を越え、忠州(チュンジュ)市場を経てやってきた牛飼いと隣近の仲買人でごった返した。牛市場に釜をかけて火をたけば、出てくるのは肉のスープ。釜から漏れる湯気と香ばしい匂いが早朝、道を急ぐ人たちの食欲をそそる。牛市場はほとんどが消えてしまったが、長い歴史を誇る有名なクッパ(スープご飯)店や焼肉店は、今なお受け継がれて人々を笑顔で迎えている。

貪官汚吏を追い出して独立万歳を叫ぶ伝統的な市場は、物を売買する機能こそ低下しているが、周

りの人たちを1カ所に集める役割は依然として残っている。農閑期なら売買する物がなくても、市の立つ日には必ず出かけてみ

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五日市が開かれる日、潭陽(タミャン)を訪れた。今ではその

名残は見られないが、1980年代中頃まで、ここは全国で最も

大きな竹物(竹細工)市場だった。当時は、竹で作れない日用

品はないほどだった。遠足や行楽のとき、プラスチック容器に

入れた海苔巻は傷みやすいが、竹の容器なら時間が経ってもお

いしく食べられた。竹には殺菌作用があり、通気性が良くひんやりしているため、冷蔵庫のような

役割もするという。

竹物市場が開かれていた時代には、全国津々浦々から人がやってきた。買付人は、朝7時から

開かれる市に合わせて、近くで1日泊まって早朝から出かけていったという。腕の良い職人の作っ

た品物は、市が開くと同時に売り切れるほどの人気で、先を争って買い求めた。その時代、品物

を大量に仕入れる買付人が貨物トラックを借りたため、潭陽では一時、運送業も栄えた。だが、

プラスチックの登場により、竹物市場はいつの間にか消え去ってしまった。

竹を薄く細く割り、しごいた竹ひごで編んだ箱は、物入れに丁度良い。染色した竹を編んだ「彩

箱(チェサン)」は、たいへん優雅だ。ソ・ハンギュ(徐漢圭、1930~)先生は竹の敷物を作ってい

たが、屋根裏で祖母の嫁入り道具の彩箱を見つけ、その技術を取り戻そうとした。それが契機に

なって、今では重要無形文化財第53号の彩箱匠となった。

しかし実際のところ、職人は竹製品の未来が明るいものではないと感じている。手間隙を考え

ると全く割に合わず、政府の支援もあまりないからだ。ソ・ハンギュ先生には一定の補助金が支給

されているが、4人家族の最低生活費にも及ばない。彩箱の教育・伝授を担当しているキム・ヨン

グァン(金永寛)氏は、浮かない表情で言う。「支援金よりも、国が一定の量を買い上げてくれたら

いいのですが…。私たちは物を作るのに忙しくて、マーケティングや販路の開拓には手が回りませ

ん。政府が彩箱を市民の皆さんに広めてくれたら、支援金より何倍も助かります」。

竹博物館の前でチンソン工芸を営む竹工芸職人のパク・ヒョスク(朴孝淑)氏も、5歳の時から

竹工芸に携わってきた夫と、心を込めて竹細工を作っている。しかし、彼女は子供に継がせた

いとは思わない。「先が見えないのでは、継がせられません。私が大変なのは構いませんが、

未来がないのに跡を継ぎなさいとは言えません」。涼しげな竹製品を見ていると、かつて賑わっ

ていた竹物市場が思い浮かぶ。美しさとは何とはかないものなのだろうと、思わず目をそむけて

しまった。

1 城南・牡丹市場のポン菓子屋。ポンという音とともに、米やトウモロコシなどの穀物を膨らませたポン菓子は、郷愁を誘う懐かしいお菓子

2 潭陽の竹物市場で、手作りの箕(み)を並べて客を待つおじいさん。竹物(竹細工)市場は、プラスチック製品と中国製品による需要減少で1980年代中頃から次第に姿を消し、今では竹製品の店が並んでいる。

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竹とともに生きる人々竹物市場物語

キム・ヒョンジン金賢真、フリーライター

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市の立つ日に出かければ、ニュースでは知ることのできない世の中の動きが分かる。世の中の動きといっても、誰それが耕運機ごとあぜ道から転げ落ちて怪我をしたとか、どこそこの娘が嫁入り前に子を生んだというようなものだ。そこに酒でも入ろうものなら、政治について文句を言い始めるのがお決まりだ。そうした議論に花を咲かせる市場のアゴラの機能は、時には途方もない社会的反響を起こしもする。

る。今でも田舍の人たちの大きな暇つぶしの種だ。韓国には「人が市場へ行くと言えば、種の入ったかごを背負ったまま付いていく」ということわざがあるように、そこまでして行きたいものなのだ。市の立つ日に出かければ、ニュースでは知ることのできない世の中の動きが分かる。世の中の動きといっても、誰それが耕運機ごとあぜ道から転げ落ちて怪我をしたとか、どこそこの娘が嫁入り前に子を生んだというようなものだ。そこに酒でも入ろうものなら、政治について文句を言い始めるのがお決まりだ。そうした議論に花を咲かせる市場のアゴラ(広場を指すギリシア語)の機能は、時には途方もない社会的反響を起こしもする。全羅北道の井邑と新泰仁の間にあるマルモク市場は、1894

年にチョン・ボンジュン(全琫準、1855~1895)が腐敗した役人の圧政に苦しむ農民とともに蜂起した場所として有名だ。この東学革命(甲午農民戦争)は失敗に終わり、多くの無念を残したが、韓国人の心に韓国近代史の重要なひとこまとして刻まれている。天安の竝川(ピョンチョン)市場は、日本の統治に立ち向かっ

た独立宣言書と万歳運動を記念する場所とされている。1919年3月1日から全国各地で万歳運動が起き、竝川でも市の立つ日には多くの群衆が集まって独立万歳を叫んだ。当時、韓国を統治していた日本の警察は、銃剣でそうした運動を阻み、多くの死傷者が出た。そのときに万歳運動を主導し、獄死したユ・グァンスン(柳寛順、1902~1920)は、今日ではジャンヌ・ダルクに例えられ、韓国独立運動のヒロインとして崇められている。竝川に柳寛順烈士紀念館が建てられ、天安に独立紀念館が設けられたのも、竝川市場の万歳運動と無関係ではない。

そうかと思えば、市場は民衆の遊びの場でもあった。市場が新たに作られたり移される場合、それを知らせるために市を開いたのが、いわゆる露天で品物を売る「乱場(ナンジャン)パン」だ。朝鮮相撲、網引き、双六のようなユンノリ、農楽・仮面劇や曲芸などを披露する男寺党牌(ナムサダンペ)ノリなど、あらゆる民俗的な遊びが行われ、行き交う人たちの目を引いた。しかし今や、水路は水利事業と高速道路によって途絶え、牛市場は環境への配慮と市場の近代化という名分によって分離されている。集会やデモは、市場よりも役所の前の広場で行われ、賑やかな市場が主な舞台だった五広大(オグァンデ)ノリ(仮面舞劇)やタルチュム(仮面舞)のような演戯は、都心にある設備の整った劇場で手厚い待遇を受けている。消費者の要求によって、市場の衛生環境や駐車施設は以前よ

りもずっと良くなった。しかし、田舍の市場の見どころや面白み、食べる楽しみは薄れ、品物の量や質も昔より劣っている。周りに観光地がある市場や特産品を扱う市場は、それでも良い方なので、伝統的な市場を生かす方法が全くないわけではないようだ。春は裏山で採った山菜、秋は菜園で収穫した農産物を頭に載

せて出かける。お馴染み同士並んで座り、持ってきたものを市場の片隅でこぢんまりと広げる。人間観察を楽しみ、小遣い稼ぎにもなるが、時には根無し草のような辛さも味わう。こうして物を売る老婆の楽しみも、いつかは消えてしまうのだろう。迷いとさすらいという自由を手に、行く末を決めかねている若い旅人に、そんなことは何でもないというように投げかける、この賢者たちの冗談と温かな視線…。私たちは、いつまで失わずにいられるのだろうか。

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韓国の文�と芸� 11

鎮川(チンチョン)市場でナムル(山菜)を売るおばあさん。春の五日市では、近くの野山で採った山菜を売るおばあさんも多い。

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テーマ市場の繁栄と衰退タイムトラベルへのいざない特定の品物を扱う「テーマ市場」には、取引の機能だけでなく、庶民の苦楽、時間と国境を行き来する物語が込められている。昔ながらの市場は、旅を夢見る者とって時空を超えるおすすめスポットだ。

イ・ユンジョン李潤鼎、京郷新聞週末企画部記者シム・ビョンウ 写真

特集2 市場、その歴史と進化

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韓国の文�と芸� 13

テーマ市場の繁栄と衰退タイムトラベルへのいざない

イ・ユンジョン李潤鼎、京郷新聞週末企画部記者シム・ビョンウ 写真

およそ300年の歴史を持つソウルの薬令市・京東(キョンドン)市場には1000もの店があり、漢方の薬剤ならほとんど手に入る。

腰を痛めたときには、ムカデがいいらしい。お婆ちゃんと一緒に市場へ行くよ」。30年ほど前、崩れた塀を直していたおじは、ひどく腰を痛め

てしまった。病院へは行ったものの、全く起き上がることができなかった。そこで祖母は、腰に良いという薬をあちこち探し求めた。10歳にもならない私を初めて京東(キョンドン)市場に連れていったのは、祖母だった。

薬令市の代名詞、京東市場市場は活気にあふれていた。普通の市場のように、い

ろいろな物を売るたくさんの店が、クモの巣みたいに広がっていた。その中心は薬材を売る店だ。変わった名前のさまざまな形をした漢方薬の原料が、種類ごとに並んでいた。祖母はその中から乾燥ムカデを見付けた。まるごと乾燥したムカデには、たくさんの足がまるで毛みたいに付いていた。店の人は、祖母が選んだムカデを念入りに臼で砕いた。小さなカプセルにつめられる粉状のムカデ。献身的な祖母のおかげだろうか、はたまたムカデが効いたのだろうか。おじは数カ月後、元気な姿で職場に復帰した。子供の頃のことを思い出そうとすると、なぜか京東市場が浮かんでくる。韓国の市場の存在感は、ここ数十年で薄くなっている。大型のショッピングセンターやスーパーがあちこちにでき、インターネットでショッピングすればクリック一つで何でも家まで届けてくれる。そんな中、京東市場は、昔ながらの市場の伝統を守っているのだろうか。

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ソウル地下鉄1号線の祭基洞(チェギドン)駅。路地に入ると、何ともいえない漢方薬の匂いが漂ってくる。頭上には「ソウル薬令市」の看板が堂々と掲げられている。ここから東大門区の祭基洞、竜頭洞、典農洞一帯、約10万㎡にソウル薬令市場、京東新市場、京東旧市場、京東ビル、ハンソル東医宝鑑などがある。薬令市の歴史は、朝鮮第17代国王・孝宗(ヒョジョン)の時代

(在位1649~ 1659)までさかのぼる。全国の漢方薬を集めるため、王命により年に2回、春と秋に開かれたが、単に薬材流通の拠点というだけでなく、困っている人たちを助ける機能もあった。漢陽(現ソウル)には朝鮮時代、貧しい人や病人などを救うための治療所が4カ所、王命によって設置されていた。衣食に事欠く民に食べ物や着る物を配り、病んだ人たちを治療した場所だ。興仁之門(東大門)の外側にある現在の安岩洞ロータリーの普済院(ポジェウォン)、弘済洞の弘済院(ホンジェウォン)などだが、敷地が確認されているのは、薬令市にほど近い普済院だけだ。しかし、日本の統治が終わる頃、薬令市は危機に直面する。独立運動の拡大を阻むために、日本は人・物・情報の交流が活発な薬令市を強制的に閉鎖したのだ。活気を取り戻したのは戦後、1960年代に入ってからだ。清凉里駅と馬場洞市外バスターミナルを中心に、漢方薬を扱う商人が一人、二人と集まって、自然と市場が形成された。全国の漢方薬は現在、薬令市を通じて約3分の2が流通されている。

30年以上ぶりに訪ねた京東市場は、その歴史にふさわしく活気に満ちていた。ソウル薬令市には、祖母が買った乾燥ムカデをはじめウシガエル、栗の渋皮、山椒、月見草など珍しい薬材があふれている。ある店主は「昔ほど繁盛しているわけじゃないけど、やっぱりここが韓国一の薬令市ですからね。最高級の漢方薬がそろっていますよ」と言う。薬令市の向かい側にある東医宝監タワーには、韓医学(朝鮮半島で発達した中国医学系の医術・薬学)の歴史を紹介する韓医薬博物館がある。迷路のように伸びる路地を進むと、野菜、果物、魚などを扱う市場につながっている。漢方薬の匂いに体が癒され、賑やかな市場に心も弾む。

消えゆくテーマ市場京東市場のように今でも昔のままに賑わっているところもある

が、歴史から姿を消していった市場も多い。江華島(カンファド)の伝統工芸である花紋席(ファムンソク、花ござ)の市場も、1990年代に姿を消した。花紋席は、主な材料にイグサに似た莞草(ワンゴル、カンエンガヤツリ)を使い、高麗時代の中頃か

ら江華の家内制手工業として発展した。高麗時代にモンゴルの侵入で江華島が臨時首都になった39年間、王室と官僚のために最高級の花紋席が作られた。朝鮮時代には『世宗実録』『林園経済志』『喬桐郡邑誌』など多くの文献に江華の花紋席について記録されている。実学者ユ・ドゥッコン(柳得恭、1748~1807)は『京都雑誌』に「それなりに良い暮らしをしている両班(特権階級)の家では、花紋席を使っている」と記している。統治の中で民族性を奪おうとした日本も、花紋席は高い品質を認めて奨励した。江華花紋席は、夏は通気性が良く、冬は冷気を防ぐ。また、つやが簡単に消えず、丈夫で長持ちする。花紋席市場の面影を求めて江華に向かった。花紋席体験村が

ある江華郡・松海面・堂山里と花紋席文化館がある陽呉里を訪れた。陽呉里のハン・チュンギョ(韓忠教)先生が約130年前、朝鮮王室の求めでオシドリ、山水、卍模様、民話などからさまざまな模様を生み出した。花紋席の模様は、朝鮮中期まで主に龍、虎、不老長寿を象徴する十長生などで、一般の家庭では無地の

白い物が使われていた。華やかな模様の花紋席は、1980年代まで江華島だけでも年

間4万9千点が生産されていた。当時は江華の農家の3分の1に当たる約4千の家が、花紋席に携わっていた。しかし1990年代に入ると、目に見えて減っていった。堂山里で花紋席体験場を運営するコ・ミギョンさんは「花紋席を作るより、都会に出て給料をもらった方がもうかるから、やめてしまったんですよ。以前は江華の五日市でも、花紋席市場が別に開かれていましたが、取引がどんどん減って、今では全く開かれなくなりました」と言う。江華で花紋席を作っているのは、今では10軒ほどに過ぎない。このように特産品を主に扱う「テーマ市場」は、紆余曲折を経てきた。今でも名品とされる晋州市・金谷面の竹谷麻布(チュッコクサンベ)は、晋州五日市などで主な商品として扱われていたが、今では村の麻布展示館でしか見られなくなった。竹谷里の麻織物の伝統は、1590年代から400年以上続いてきた。「キルサム」という言葉は「糸を紡いでそれを織り、布を作ること」を意

薬令市の歴史は、朝鮮第17代国王・孝宗(ヒョジョン)の時代(在位1649~1659)までさかのぼる。全国の漢方薬を集めるため、王命により年に2回、春と秋に開かれたが、単に薬材流通の拠点というだけでなく、困っている人たちを助ける機能もあった。漢陽(現ソウル)には朝鮮時代、貧しい人や病人などを救うための治療所が4カ所、王命によって設置されていた。衣食に事欠く民に食べ物や着る物を配り、病んだ人たちを治療した場所だ。

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1 ソウル踏十里は1980年代以降、ソウル各地に散らばっていた140ほどの古美術商が集まり、骨董品街になっている。

2 朝鮮戦争当時に始まった釜山・宝水洞の古本屋通り。毎年10月には「宝水洞古本屋通り文化行事」が開かれ、釜山の代表的な文化・観光スポットとして脚光を浴びている。

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味している。麻の茎から取り出した繊維を細く裂き、より合わせて糸にして、布を織って染色するという大変手間のかかる過程は、すべて女たちの仕事だった。金谷面では、30~ 40年前まで村を挙げて機織りをしていたが、2015年現在20世帯に満たない農家だけが伝統を守っている。80歳を超えた作り手は「こんなに大変な仕事は、子供や孫にはさせたくない」と言う。それでも「麻布で孫に服を作ってやると、着心地がいいって喜んでくれてね。だから、大変でもやめられない。麻の服は本当にいいからね」と、丁寧に織られた麻布を撫でる。牛を売買した牛市場も、同じ運命をたどっている。1918年末

の調査によると、当時の家畜市場は全国で655カ所もあった。そんな全国の牛市場は、今ではなくなってしまったり、規模が小さくなったりして、昔のような風景は見られなくなった。全国的に有名だった清道(チョンド)牛市場も、東谷(トンゴク)五日市の1カ所が残るのみだ。1930年代にできた東谷五日市は、清道の商圏の中心として1960~70年代に大いに賑わった。東谷五日市の牛市場は1959年に始まり、1998年から清道畜産業協同組合に移管・運営されてきた。2010年には電子せりシステムが導入され、すっかり様変わりしている。牛市場の跡地には、道谷洞牛市場や馬場洞肉屋街などのように、昔の賑わいを思い起こさせる牛肉のクッパ(スープご飯)など味自慢の店だけが残っている。

朝鮮戦争後に生まれた新たなテーマすべてのテーマ市場が、衰退の道をたどっているわけではない。朝鮮戦争の後、新たな市場も生まれた。戦時中、釜山は最大の避難先だった。全国から集まった人たちが、狭い地でひしめき合いながら暮らしていた。米軍の軍用物資と釜山港に入ってきた品物が活発に取引され、南浦洞一帯には家電から衣料ま

1 慶尚南道・陜川畜産業協同組合の家畜市場。かつては五日市の規模を測る目安とされた牛市場。電子せりなど近代的な管理システムの導入で、今では昔の面影はない。

2 江華島の花紋席(ファムンソク)市場。花紋席は、染色した莞草(ワンゴル、カンエンガヤツリ)を編んだ花ござ。美しいだけでなく、蒸し暑い夏を快適に過ごせるため、韓国で長らく愛用されてきた。

で何でもそろうトッテギジャン(闇市)の国際市場ができた。忠武洞にある宝水川の河口には、海産物を取引する市場ができ、砂利(チャガル)が多いためチャガルチ市場と呼ばれるようになった。場所を移してきれいに整備されてからは、モンペにエプロン姿で、小さな露店に客を呼び込むおばさんたちも、昔ほどではなくなった。それでも、チャガルチ市場は釜山の象徴に変わりない。近くの宝水洞は、古本屋通りとして有名だ。国際市場の近くの通りで、リンゴの箱に古本を並べて売買したのが始まりだ。宝水洞は現在、かわいらしいブックカフェや色鮮やかなグラフィティアートが加わり、フォトスポットとしても注目を集めている。時代の流れに逆らうテーマ市場もある。ソウル踏十里(タッシ

ムニ)の古美術商店街は、できた当時の1980年代そのままの姿を残している。ソウル都市鉄道5号線・踏十里駅の1・2番出口を出て大通りから少し入ると、朝鮮時代に男性がかぶったカッ(冠)から陶磁器、木の器、民具、古書画、外国で競り落とされた古美術品まで、博物館にあるような骨董品が並んでいる。多くの人は古いものを求めて仁寺洞を訪れるが、本当に古い物に興味があるなら踏十里に行くべきだ。1980年代に清渓川、阿峴洞、忠武路、黄鶴洞などから移ってきた140ほどの古美術商が、踏十里に集まっている。古美術品は骨董品と呼ばれる。社団法人ソウル踏十里古美術会のチョン・セヨン(千歳栄)事務局長は「『骨董』は、骨を煮込んで深い味わいを出す中国の食材を指すそうです。古い物から新たな意味を見出すという意味があるのでしょう」と説明する。また「骨董」は古代中国では、がらくたを指す俗語だったという。手垢がついて古ぼけた物だが、時間が経つと希少価値が生まれ、美術史的な意味を持つ。そうして骨董品は、古美術へと生まれ変わるのだろう。踏十里古美術商店街を歩けば、時代と国を超えるタイムマシンに乗った気分になれるはずだ。

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南大門市場南大門(ナムデムン)市場は朝鮮王朝初期の1414年、漢陽都城の南の正門近くで始まった。その後1911年、親日派の官僚ソン・ビョンジュン(宋秉畯、1858~1925)が朝鮮農業株式会社を設立し、今のような市場へと発展した。1922年には所有者が日本人になり、1936年には朝鮮総督府訓令によって中央物産市場に名称が変わるなど、紆余曲折を経てきた。その当時は、日本の商人の独占によって韓国人の店は減り、何とか残っていた店は塩川橋の方へ追いやられた。1945年の終戦後、日本が撤収すると韓国人が戻ってきて活気を取り戻し始めたものの、1950年6月に起きた朝鮮戦争の影響で商取引はすべて中断してしまった。1968年と1975年には大きな火災が起き、中心部はほぼ全焼した。敷地面積4万2225㎡に58の建物、9265の店鋪数を誇る南大門市場は、代表的な品物を挙げられないほど取り扱っている商品が多く、品揃えも豊富だ。子供服、婦人服、紳士服などを売る衣料商店街をはじめ台所用品、家電製品、アクセサリー、民芸品、土産物、輸入品、日用雑貨、さらにメガネやカメラまで「ないもの以外すべてある」というジョークもあるほど、バラエティーに富んだ品物を売っている。いろいろなものを見て回って満足したら、次はおいしいものを

食べてお腹を満たす番だ。国籍を問わずいつも人でごった返している南大門市場の「モクチャコルモク(うまいもの通り)」を代表する食べ物は、何といってもカルチジョリム(太刀魚の煮つけ)だ。30年ほど前、ある食堂で出した太刀魚の煮つけが人気を集めると、他の食堂もそれ真似たため、今ではすっかり「カルチジョリム通り」へと発展している。おいしい太刀魚を食べようと南大門市場を訪れる人が後を絶たない。歴史が長いだけに紆余曲折のストーリーも特別な南大門市場は、明洞、ロッテデパートとも近く、これからも外国人旅行者に最も人気のある市場であり続けるだろう。

東大門市場お値打ちなプチプラ愛好家におすすめの東大門(トンデムン)市場。ここは一般の客だけでなく、業者も利用する。深夜営業の衣料卸売り専門商店街は、午後8時にオープンする。深夜の0時頃になると、韓国各地から貸切りのバスでやってきた衣料品店の買付人が、大きな包みを肩に担いだまま値引き交渉する姿が見られる。外では、彼らが乗ってきた大型バスがずらりと並んでいる。そんな様子を見ていると、ソウルでここだけが目を覚ましているような錯覚に陥る。東大門市場は、韓国だけでなく東南アジア、南米、ヨーロッパ、ロシアなどの外国人バイヤーや

知っていれば楽しさ倍増-ソウルの市場

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キム・ヒョンジン 金賢真、フリーライター

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観光客にもよく知られた名所だ。鐘路4街と清渓4街から始まり東大門近くまで続く市場と、近代的なショッピングセンターからなる巨大な複合市場。ここは日本統治期には「ペオゲ市場」とも呼ばれていた。1905年に東大門市場と商標登録され、韓国初の近代市場となった。1996年以降いくつかの大規模なファッション・ショッピングセンターが造られ、東大門ショッピングタウン、または東大門ファッションタウンと呼ばれるようになった。ここでは衣料だけでなく、生地や服飾資材など服作りに関する品々が充実している。若いデザイナーが、世界のファッションシーンを目指して熱情を燃やす場所でもある。

広蔵市場正式名称は鐘路広蔵(チョンノ・クァンジャン)伝統市場で、運営している株式会社広蔵は、1904年に設立された韓国で最も古い企業の一つだ。清渓川3・4街にあった広橋と蔵橋の間に市場があったことから、この名前が付けられたという。以前はビンテージ品が手に入ることで有名だったが、最近ではグルメな話題で持ちきりだ。ピンデトク(緑豆チヂミ)、コギジョン(肉チヂミ)、チャンチククス(にゅうめん)、ユッケ、テグタン(タラのスープ)、そして一度食べたら中毒になることから名付けられた「麻

薬キンパプ(海苔巻)」などが人気で、平日でも買い物客や観光客で賑わっている。肩肘張らない韓国の庶民の味を楽しみたいなら、広蔵市場に足を運んでみるといい。きっといい思い出になるはずだ。

芳山市場ソウル旧都心の中心にある芳山(パンサン)市場は、製菓・製パン、各種DIYや手工芸品の材料だけでなく、ラッピング用の包装資材も豊富だ。ホームベイキングなどに関心がある人にはおすすめの市場。各種材料を両手いっぱい買い込んで幸せに浸っても、財布に優しい。クリスマスやバレンタインデーのシーズンには、制服姿の女の子や若い女性がやってきて、瞬く間に華やいだ雰囲気になる。最近女性に人気のアロマキャンドル作りに必要な材料が充実していることでも知られる。食べ物を買うと入れてくれる袋や紙箱のような包装資材も、ほぼここで手に入る。芳山市場は、近くの乙支路一帯で印刷業が発達しているため、小規模印刷に特化した市場でもある。包装資材はもちろん営業に必要な各種印刷物、飾り額、販促グッズなども早く安く作れる便利な場所だ。ここは他のテーマ市場と違って主に業者が対象で、営業は午後6時までになっている。

1 南大門(ナムデムン)市場の韓服店。韓国の伝統衣装・韓服は、時代によってデザインと色合いが少しずつ変わってきた。

2 東大門(トンデムン)ファッションタウン。大きな商店街が31、昔ながらの市場が10、新しくできた卸売商店街が13、複合ショッピングモールなどが8、店舗数はおよそ3万、そこで働く人は10万人に上る。

3 広蔵(クァンジャン)市場。広蔵市場は、さまざまな庶民の味を楽しめるだけでなく、衣類、布地、食品、化粧品、工芸品など600ほどの店がある。

4 芳山(パンサン)市場のアロマキャンドル店。最近のアロマキャンドルブームに乗って、その材料を扱う店が大幅に増えている。3 4

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次は李孝石(1907~1942)の短編小説『そばの花咲く頃』の中で、五日市を渡り歩く行商人を描写している場面である。この小説の日本語訳は大村益夫・長璋吉・三枝寿勝の編訳『朝鮮短編小説選』(下)(岩波文庫、1984)に入っている。

夏場の市は、はなから上がったりで、日はまだ高いのに

市場はもう人影もまばらで、露店の日除けの下でも暑

い日差しがじりじりと背中を焼いている。村の人たち

は、おおかた帰った後で、売れ残った薪売りが通りをうろうろし

ていたが、石油の一瓶か魚の2・3尾も買えば間に合うこの連中

を当て込んで、いつまでも店を広げていることはない。汚らしい

ハエの群れもうるさいヤブカも煩わしい。あばた面で左利き、反

物売りのホ・センウォンは、とうとう相方のチョ・ソンダルに声を

かけた。

「たたむとするか」

「それがいい。蓬坪(ポンピョン)の市じゃ、一度だってまとも

に売れたことなんてありゃしない。あしたの大和(テファ)の市で、

ひと儲けしたいもんだ」

「今夜は、夜通し歩かないとな」

「月が出るだろうよ」

じゃらじゃら音を立てながらチョ・ソンダルがその日の勘定をす

るのを見て、ホ・センウォンは杭から広い日除けを外し、広げて

あった品物を片付け始めた。

(中略)

五日ごとに開かれる市の日には、月よりも正確に村から村へ渡

っていく。生まれは清州だと自慢げに話していたが、国に帰った

ことはなさそうだった。市から市へ渡る道すがらの美しい自然が、

彼の懐かしいふるさとだ。半日も歩いて市の立つ村におおかた

近づいた頃、気の荒いロバがひと声高く嘶(いなな)くと、ことさ

らそれが夕暮れ時で、明かりが夕闇の中でちらちら揺れる頃な

ら、いつものことなのにホ・センウォンは決まって胸が高鳴るの

だった。

若い時分にはまめに稼いで小金を貯めたこともあったが、町

内でうら盆の祭りが開かれた年に、派手に遊んで博打をしたとこ

ろ三日ですっからかんになってしまった。

ロバまで手放すところだったが、そればかりは心が痛んで必死

に思いとどまった。結局、元の木阿弥で行商を続けるしかなか

った。ロバを引いて町から逃げ出した時には、お前を売らない

でよかったと道端で泣きながら背中をさすったものだ。借金をつ

くり始めると、小金をためようなどとは思いもよらず、どうにかこ

うにか食いつなぎながら市から市へ渡り歩いた。

派手に遊びはしたものの、女一人ものにできなかった。女と

いうのは、冷たくつれないものだった。生涯縁のないものと我

が身を嘆いた。そばにいるのは、いつも変わらぬロバだけだ。

だが、たった一度きりの初めての出来事は忘れることができ

ない。後にも先にもない一度だけの妙な縁。蓬坪に通い始めた

若い時分のことだが、それを思い出す時だけは生きる喜びを感

じる。

「月夜だったが、どうしてそんなことになったのか、今考えても

まるで分からりゃしない」

ホ・センウォンは、今夜もまたその話を持ち出すもようだ。チョ

・ソンダルは相方になって以来、耳にたこができるほど聞かされ

てきた。かといって嫌な顔をするわけにもいかない。ホ・センウ

ォンは素知らぬふりで、ただただ繰り返す。

「月夜の晩には、そんな話が似合うもんさ」

『そばの花咲く頃』イ・ヒョソク 李孝石

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チョ・ソンダルの方を振り返ってはみたが、もちろん気の毒に

思ったからではなく、月明かりに感動したためだ。欠けてはいた

が十五夜を過ぎたばかりの月は、柔らかい光を心地よく降り注

いでいた。大和までは80里の夜道で、峠を二つ越えて川を一

つ渡り、野原と山道を歩いていく。道はちょうど長い山腹にさし

かかっていた。真夜中を過ぎた頃だろうか。死んだような静けさ

の中、生き物のような月の息遣いが手に取るように聞こえ、大豆

やトウモロコシの葉が月明かりにひときわ青く濡れていた。山腹

は一面そば畑で、咲き始めた花が塩をふりまいたように快い月

明かりに映えて、息がつまるほどだ。赤い茎は漂う香りのように

はかなげで、ロバの足取りも軽い。道は狭く、三人はロバに乗

って一列になって進んだ。鈴の音が軽やかにそば畑の方へ流れ

ていく。先頭のホ・センウォンの声は、一番後ろのトンイにはは

っきり聞こえなかったが、彼は彼で心地よいすがすがしさに、寂

しくなかった。

「市の立つ、ちょうどこんな夜だった。宿屋の土間ってのは、

蒸し暑くて眠れたもんじゃない。真夜中に一人起き上がって、川

に水を浴びに行ったんだ。蓬坪は、今もその時分もおんなじさ。

見渡す限りそば畑で、川辺はどこもかしこも白い花。砂利の上

で脱いでもよかったが、月があんまり明るいんで、水車小屋に入

ったんだよ。不思議なこともあるもんで、そこでばったりとソンさ

んとこの娘に出くわしたわけさ。蓬坪じゃ一番のべっぴんでな」

「定めってやつだな」

そういうことだと返すと、言い渋るように、しばらくタバコをく

ゆらせるばかりだ。赤紫の煙が香っては、夜の気配に溶けていく。

「俺を待ってたわけじゃないが、かといって他の男を待ってた

わけでもねえ。娘は泣いていたのさ。おおよそ見当はついたが、

ソンさんとこはその頃えらく暮らしに困って、家の物も売りに出そ

うって時でな。家のことだから、娘だって当然心配だったんだろ

う。いいとこさえあれば嫁にもやるんだが、死んでも嫌だって

な……。だが娘ってのは、泣いてる時ほど情にほださるものは

ない。初めは驚いたようだったが、心配事ごとがある時ほど、

なびきやすいものなのか、そうこうするうちに、ねんごろになっ

て……。考えてみりゃあ、怖いほど出来すぎな夜だったよ」

「堤川だかへ逃げていったのは、次の日だったかな」

「次の市の時は、一家そろって姿を消した後さ。市は噂で持ち

切りで、飲み屋にでも売り飛ばされるのがいいところだろうって、

娘のことをああだこうだ言ってたもんだ。堤川の市を何度も探し

回ったんだが、娘の行方はさっぱりさ。娘とは初めが仕舞になっ

ちまった。それからってもの、蓬坪が気に入って、人生の半分も

通い続けているわけだ。人生の半分かけても、忘れられるもん

じゃない」

「運が良かったな。そんな果報、めったにあるもんじゃない。

たいていこぶ付きになって、心配事も増えて、考えただけでもぞ

っとする……。だが、老いぼれるまで市を回って暮らすのも、こ

たえるからな。俺は、この秋で足を洗うとするよ。大和あたりに

小さな店でも構えて、家族を呼ぶつもりだ。年柄年中渡り歩くの

は、並大抵のことじゃない」

「昔のあの娘にでも出会えれば、一緒にでもなるんだが……。

俺は死ぬまで、この道を歩いて、あの月を眺めるさ」

イラストレーション キム・シフン

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どこよりも早く一日が始まる場所。活気あふれる市場では、さまざまな物語を持つ人たちが、同じようでいてそれぞれ違う人生を歩んでいる。その日に売る果物で季節を感じる果物市場の商人は、商売敵でありながらも家族のように寄り添い合って生きている。

夜明けの眠りを覚ます人々私の市場物語

特集3 市場、その歴史と進化

イ・ミョンラン李明娘、小説家安洪范 写真

私は永登浦(ヨンドゥンポ)で生まれ、そこにある青果物卸売市場で育った。一時期、果物屋をしていたこともある。ある日のこと、仕事をしていると、一人の男が私の前に立ちはだかった。靴底がすり減ったビ

ニールっぽいスニーカーに、腕の辺りに真っ黒な染みが付いた古いカーキ色のジャンパー。その男は、どうすれば仲買人になれるのかと尋ねた。すると、私のそばにいた市場の仲間が次々に答えた。「ここでかい? ずぶの素人でも大丈夫さ!」「ここで仲買人になりたいなら、大学を出てないとだめですね。難しいですよ」全く正反対の答えに、男は面食らったようだった。その後、この話は市場の語

り草になった。だが、その答えは二つとも正しい。私が生まれ育った永登浦青果物市場には、

小学校も出られず無学な人から、大学で博士号を取った人までさまざまな人がいる。それだけに暮らしぶりも千差万別だ。それでも皆に共通するのは、その日に入ってくる果物によって生活が決まるという点だ。それは誰でも同じなのだ。イチゴが入ればそれを売り、モモが入ればそれを手入れし、スイカが入れば何時間もそれを積んでいく。だから、市場で働く者にとって最も重要なのは、その日ごとにどんな果物が入ってくるかということだ。市場では季節の感じ方も他とは違う。イチゴが入ると春、スイカが入ると夏、ミカンが入ると冬が始まる。そうやって季節を繰り返し、同じ器でマッコリを回し飲みしながら、一緒に年を重ねて生涯をともに過ごす。

「みんなの子」として育つ市場の子供たち私は、市場で働く人たちの子供として育った。学校のテストで一番になって帰

ると、母が営む食堂でご飯を食べていたおじさんたちが、100ウォンだとか1000ウォンずつ小遣いをくれた。公園で夜遅くまで遊んでいると、通りかかった近所のおじさんにこっぴどく叱られたりした。どこの家の子ではなく、市場全体

江西(カンソ)農産物卸売市場の青果物卸売店。入ったばかりのスイカを皮の厚さや熟れ具合によって選別している。

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の子という認識なのだ。市場の子供たちは、早朝から親と一緒に市場に行かな

ければならない。まだ歩けない子は果物の空き箱を寝床にして、泣いたり笑ったり、ぐずったりしながら、大人の仕事が終わるのを待つ。歩き始めた子供たちは、市場を縦横無尽に駆け回る。母親のそばに座っていたかと思うと、目を離した隙にそこのバナナ屋に行き、バナナ屋にいたかと思ったら、すぐに売店の奥へとちょこまか走り回る。やんちゃで何をしでかすか分からないから、大人はいつも目が離せない。時には、かごに盛っておいたモモを一つ取って逃げたり、値の張るハウスミカンの箱からミカンをくすねて、叱る間もなく食べてしまったり…。それなのに市場の人たちは、悪さをする子供を叱るどころか、埃まみれの小さな肩をぎゅっと抱きしめる。皆が果物を売って生計を立て、互いに大変なのは分かっているからだ。市場の子供たちは、親に手をかけてもらうことはなく、市場を遊び場にして走り回る。そうして遊び疲れたら、店の奥に無造作に置かれたリンゴ箱に入って静かに眠る。これが市場の子供たちの一日だ。だからなのか、どんなにやんちゃなことをしても、果物箱の中ですやすやと眠っている子を見ると、憎たらしさは吹き飛び、毛布をそっとかけてやりたくなる。子供の頃、私がビニール袋を売る店で商品をぐちゃぐち

ゃにしたり、値の張るハウスミカンを食べたりすると、市場のおばさんたちは、目を吊り上げて叱ってみせた。でも、私が「うんち、うんち」と言いながら顔をしかめると、トイレに連れていってくれる。転んで泣いていると、起こしてアイスクリームを買ってくれる。名前入りの黄色いTーシャツを着せてくれる…。それは皆、市場のおばさんだった。だから私にとって、市場のおばさんは皆お母さんで、私は皆の娘なのだ。今の市場の子供たちも昔の私のように、父・母の日になると市場のおじさん・おばさん

江西農産物卸売市場のせりは、果物と野菜に分かれている。果物は深夜2時半から、野菜は午後8時半から30分単位で行われる。

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夜も明けぬうちに、共同販売場の前に仲卸業者が詰めかけている。男の背くらいに積み上げられたリンゴの箱。その前で「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう!」と手やりと呼ばれるサインで数字を示したり、入札の品を確かめたりする人で慌ただしい。仲卸業者が全員せり台に並んで、リンゴ箱を見下ろしている。今日は固定せりから始まるようだ。せりには固定せりと移動せりがある。前者は仲卸業者が全員せり台に並んで、陳列台を通過する見本を見ながら行われる。主にリンゴやナシ、カキのように長持ちするもの、移動させても大きく痛まないものを扱う。後者は、品物を動かさず仲卸業者とせり人が品物に沿って移動しながら行われる。主にイチゴや熟柿、ブドウのような痛みやすい果物を扱う。「ちょっとどきな」「どうして同じ物ばっかり競り落とそうとするんだ?」人ごみに割って入る人、リンゴ箱を開けて手に

取って品定めする人…。仲卸業者が押し寄せるリンゴ箱の前は、てんやわんやだ。押し合いへし合い、足を踏まれ、押し出されてしまう人もいる。「永川のイ・ボクスンのアオリンゴ、50個入り

10箱!」威勢のいい声が響く。今日のアナウンスは、荷

下ろし担当のパクさんだ。せり人がせりを始める前に、どこの誰の物で品目は何か、何個入りがどれだけ入ってきたのかなどを前もって伝える。特別な技術は必要なさそうに見えるが、誰でもできるわけではない。荷下ろし担当のベテランの中でも、役職が班長以上で、声が良くて頭の回転の速い者3~4人が交互に務める。「あー、永川のイ・ボクスンのアオリンゴ、50個入り10箱!」台の上のせり人が、アナウンスの声を受けて、

もう一度繰り返す。リンゴ箱の後ろに立っている仲卸業者は、腕抜きをして、手首のマジックテープをしっかり締める。「 あー、3万! あー、3万1千! あー、

3万2千、3千! 5千、8千、9千! 4万!」せり人が40個入りを3万ウォンから始めると、

すぐに良い品物を安く買おうと意気込む商人が、互いに負けじと指を突き上げる。「さあさあ、4万いないか。3万9千で702番!」せり人が足で台をドンドンと踏み鳴らす。落札

されたという意味だ。このせり人は、品物が落札されると、足を踏み鳴らして表現する。落札時のパフォーマンスだけでなく、口上もせり人ごとに違う。このせり人は「あー、3万!」というが「さあ、また3万!」とも言い、「カックン、カックン、カックン、3万!」と言うこともある。それぞれが言いやすい言葉、口をついて出る表現で叫んでいるようだ。「永川のイ・ボクスンのアオリンゴ、80個入りが

30箱!  あー、7千!  あー、8千!  あー、9千!」せり人の口上に、商人たちは大忙しだ。商人

ごとに、必ず買わなければならない品物は違う。果物問屋は、主にどんな品物を買うかによって、三つのタイプに分けられる。一つ目は、価格はいくらになろうが、品物が良ければ商売する。二つ目は、良くも悪くもない品物ばかりを主に扱う。最後は、とにかく安さ、安ければ手早く買っていく。ではちょっと、ここでクイズを一つ。そうした卸売商の中で、得意先が一番多いのは、どのタイプ?正解は、三つすべて。卸売は、品物が良いからといって、お得意さん

が多いわけではない。良い品物だけを売る小売商は、おのずと良い品物を扱う卸売商を訪ねる。飲み屋の店主は、値段も手ごろで状態も悪くない品物を扱う卸売商と取引する。また年中、マクワウリでもリンゴでも品目や相場に関係なく、一箱3千ウォン以上の品物は絶対に買わない商人は、夏でも冬でも安い物を扱う卸売商の前に台車を押していく。今日も、市場の夜明けは慌ただしい。せりが終わると、すぐに一日分の品物を持って、息つく間もなく店に帰っていく。そんな商人の背には、希望があふれている。

彼らの市場物語

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の胸に手作りのカーネーションを飾るのに忙しくしているかもしれない。血のつながらない者同士だが、親兄弟よりも親しく生きる…。そんな永登浦市場が私の故郷だ。しかし、そんな故郷も今は変化の波にのまれ、永登浦を離れて少し郊外にある江西(カンソ)市場へと移ってしまった。市場で果物が取引されていた共同販売場は、一時期ある政党の本部だったが、今ではショッピングモールとして生まれ変わるために工事が進められている。

「いつ何が起こるか分からないのが人生」場所を移しても、商人は相変らず早朝から市場に出て果物を売り、生計を立

て子育てもしている。昔も今も「いざとなったら何でもする」と「いつ何が起こるか分からないのが人生」という言葉を繰り返しながら…。否定的な言葉のように聞こえるかもしれないが、市場の人たちの生き様を見ていると、この言葉の本当の意味が分かる。市場で働く人の中に、チェさんと呼ばれるおじさんがいる。お金には縁がなさ

そうな人相をしているが、実は市場で一番もうけている人だ。もともと電気技術者だったが、アジア通貨危機で職を失った。そんなある日、果物でも落ちていないかと市場をぶらついていたところ、仲買人の一人が自分の店の前で小売りでもしたらどうかと、無条件で場所を貸してくれたのだ。その後、チェさんは「いつ何が起こるか分からないのが人生」が口癖になった。いつ何が起こるか分からないから、いい加減に生きるというのではない。明日は何が起こるか分からない人生だからこそ、今日も一生懸命生きようという意味だ。市場には、チェさんと同じくらい有名な人がもう一人いる。それが「いざとな

ったら何でもする」という言葉の生みの親「ダンボールお婆さん」だ。このお婆さんはダンボールを拾いに来ると「これ、持っていってもいいでしょうか」と丁寧に承諾を得る。ダンボール箱の中にゴミや腐った果物などが入っていたら、持ってきたゴミ袋に入れて、きちんと持ち帰る。その行動一つ一つが、いかにも品がある。どう見てもダンボールを拾い歩く人のようには見えないと言うと、お婆さんはにっこり笑い、こう答える。「いざとなったら何でもやらないと…」いざとなれば何でもできる人。人生の一寸先は闇だということをあまりにもよ

く理解しているため、与えられた今日という一日を誰よりも誠実に生きる人。誰より早く起きる人…。そうした人たちが集まる場所、それがまさに市場なのだ。今日もまた一日、市場の早い朝が彼らとともに始まっている。

永登浦(ヨンドゥンポ)青果物市場。明け方の卸売りだけでなく、昼間も小売りをしているので、質の良い果物を買いに来る人が絶えない。

市場の商人は、同じ器でマッコリを回し飲みしながら、一緒に年を重ねて生涯をともに過ごす。血のつながらない者同士だが、親兄弟よりも親しく生きる…。そんな永登浦市場が私の故郷だ。

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市場地域文化の中心地へ

特集4 市場、その歴史と進化

薄暗い灯り、不衛生な陳列台、狭苦しい道…。これが市場の一般的なイメージだろう。市場は、昔の地域社会では中心地だったが、しだいに客足は遠のいていった。しかし今、落ちぶれてしまったその地に、再び明るい光が差している。新進作家と若い店主が、市場に関心を持ち始めたのだ。きらめくアイディアと若い情熱によって、過去の光栄を取り戻した市場を訪ねる。

パク・ウニョン朴恩英、フリー編集者シム・ビョンウ 写真

韓国の文化体育観光部は2008年から2013年にかけ、市場の活性化のために門前成市プロジェ

クトを推進した。市場本来の意味を見つめ直し、それぞれの市場の特徴に合ったプログラムを作ろうという事業だ。文化体育観光部の関係者は、このプロジェクトによって市場が地域の文化芸術空間に変貌し、今では若い人たちも訪れる名所になったと評価している。一方、その過程を見守った人たちは「見せかけだけで、成果ばかり追いかけていた」と言う。しかし、このプロジェクトが良い影響を及ぼしたのは確かな事実だ。若者が少しずつ市場に関心を持つようになり、若者ならではの文化を反映した市場を形作っているからだ。

文化芸術空間へと生まれ変わる市場代表的な成功例が、全州の南部(ナン

ブ)市場にある青年(チョンニョン)モールだ。南部市場は、今や全州では絶対に外せないほどホットな場所だといえる。経営に行き詰まり一つ二つと空き店舗が増えたことで、暗く沈んでいた南部市場2階の商店街。そこが明るさを取り戻し始め

たのは、起業を夢見る若者に安く貸し出すようになってからだ。市場に若い客を呼び込むには、若い力が必要だった。フランスで造形芸術を専攻した店主が運営するデザイン小物の店。月に1度海外旅行をして収集したものを売る店。大学で代替医療を勉強した治療師の健康診断室。それ以外にカクテルバー、タコス店、定食屋など、店の種類もさまざまだ。青年モールが話題になり、従来の市場

の売上げも10~ 20%ほど伸びた。毎週金曜日と土曜日の午後6時から12時まで開かれる夜市では、食べ物や手工芸品の販売だけでなく、小規模の展示会や公演などの文化行事が催され、老若男女を問わず誰もが楽しめる今までにない市場になった。南部市場は、今や韓屋村とともに全州のおすすめ観光スポットになっている。

新進作家との共生を選んだ商人工場や賃貸マンションなどが密集する

アメリカ・ニューヨークのソーホーやチェルシー、中国・北京の大山子789芸術区などは、お金のない若い芸術家が安く借りられる場所を求めて移り住んだ。その

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1 新堂(シンダン)創作アーケードにある若いアーティストのアトリエ。ソウル市は、新堂地下商街をリモデリングして若い芸術家に提供し、すたれた商店街に活気を与えている。

2 全州・南部(ナンブ)市場の2階にある青年(チョンニョン)モール。他にはない色とりどりの品物は、個性を重視する若者の間で大人気になっている。

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影響で周辺にはショップやギャラリーができて人が集まり、カフェやレストランなども増えて地域文化が形作られた。ソウルでは弘大、カロスキル(街路樹通り)、梨泰院などが、それに当たる。芸術家のアトリエが集まる街は、ほどなく人気の街になるという公式のようなものが存在する。そんな公式が市場に適用されたら、どうなるだろうか。黄鶴洞のソウル中央市場の地下には、新堂(シンダン)創作アーケードという若い工芸家やデザイナーのコミュニティーがある。元々は1970年代に作られ、地下商店街として賑わっていたが、市場を訪れる人が減り、いくつかの店鋪だけが残っていた。ソウル市は2009年、ここを補修・改装してアトリエとして提供した。2坪あまりの小さな空間だが、入居したデザイナーは家賃や管理費を心配することなく、創作に没頭できた。だが、地下だけに留まってはいなかった。ソウル中央市場の古株の商人と交流するために、地上に上がったのだ。店の看板をデザインしたり、市場でイベントを開いたりした。そうしたイベントは、観光客に焦点を合わせていることが多いが、彼らのイベントはともに働く商人との交流に重点が置かれ

ていた。新進作家と商人の出会いによって市場

が活性化した例として外せないのが、光州広域市の大仁(テイン)市場だ。2008

年に光州ビエンナーレのキュレーターだったパク・ソンヒョン(朴珹玄)氏は、芸術が暮らしに溶け込むべきだと考え、新進作家に市場の空き店鋪をアトリエとして使うことを提案した。商人も安価で提供してくれた。こうして30人余りの新進作家と苦楽をともにして得た最大の収穫が、2010年以降ひと月に2度開かれている夜市「別場(ピョルチャン)」だ。何かを楽しむ文化空間がほとんどなかった街に、たちまち噂が広がった。売り場を遊び心いっぱいに飾り付け、体験イベントを増やし、規模は2倍近くに成長した。2013

年夏には、大仁市場に創作スタジオがオープンし、アートフェアや作品の競売・展示など、若い作家の活動がさらに活発になった。市場が彼らのアトリエとして、またデビューの場として積極的に活用されたのだ。しかし、期待とは裏腹に、店の収益には大きな変化がなかった。週末には1日に1000人ほどが訪れるが、市場で買い物をする客は多くないからだ。観光客は、

青年モールが話題になり、従来の市場の売上げも10~20%ほど伸びた。毎週金曜日と土曜日の午後6時から12時まで開かれる夜市では、食べ物や手工芸品の販売だけでなく、小規模の展示会や公演などの文化行事が催され、老若男女を問わず誰もが楽しめる今までにない市場になった。南部市場は、今や韓屋村とともに全州のおすすめ観光スポットになっている。

ただ別場のイベントや公演を楽しむだけだ。それでも市場の人たちは、若い作家が市場に腰を落ちつけてくれたことで客層が若くなり、しばらく忘れられていた市場が賑わっているだけでもうれしいのだ。ソウル麻浦区・延南洞にある東震(トンジン)市場は、ずいぶん前に市場の機能を失って放置され、近くの店が倉庫のように使っていた。注意していなければ思わず通り過ぎてしまうほど小さく静かな市場に活力を吹き込んだのは、文化と市場に関心のある若いプランナーとデザイナーだ。去年から開かれている東震市場の七日市では、捨てられた木材で家具を作る若い作家らと商人によるワークショップやイベントが行われている。おかげで周りの街も息を吹き返した。最近ではカフェやレストラン、本屋、アトリエ、ギャラリーなどが軒を連ね、弘大近辺で最も人気のエリアとなっている。

デザインで殻を打ち破った蓬坪市場江原道・平昌郡の蓬坪(ポンピョン)市場は、地方自治体の積極的な取り組みと商人・企業の協力によって変貌を遂げた代表的な例だ。数百年もの間、全国で最も大きな市場の一つとされてきた蓬坪市

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1 光州・大仁(テイン)市場のアクセサリー店。市場が若いアーティストの創作と販売の場になり、訪れる若者も増えている

2 ソウル黄鶴洞のソウル中央市場。新堂創作アーケードのアーティストとの交流によって、市場が装いを新たにしている。

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場。今でも70以上の店鋪が並ぶ常設市場があり、2日と7日の五日市には100

人以上の商人が集まって市場を守っている。蓬坪は、市場を渡り歩く行商人の人生や苦楽を描いたイ・ヒョソク(李孝石)の短編小説『そばの花咲く頃』の舞台としても有名だ。そのため、ソバの花が咲く9月になると観光客でいっぱいになる。しかし、観光地やイ・ヒョソク文学館からわずか100mのところにある蓬坪市場は、閑散としていた。江原道庁は、蓬坪市場など地域の市場の未来について思案に暮れていた矢先、現代カードの力を借りることを思い付い

た。小規模事業者のための店舗リニューアルや経営改善プログラムなどを支援する現代カードの「ドリーム実現プロジェクト」によって、市場を活性化しようとしたのだ。現代カード・デザインラボは、江原道庁とともに市場本来の機能を発揮し、自立できる持続可能なシステムを作ろうと努めた。「新たに何かを作ったり加えなくてもできること」を考えた結果、五日市になくてはならないテントを利用して環境改善を図ることにした。農産物は緑、水産物は青、衣料は紫、食べ物はオレンジのストライプなど、業種ごとにテントの色を変え、店には店主の顔写真と店や商

品のストーリーを載せた小さな看板をかけた。江原道庁は、このプロジェクトのために店主に対して、商品の原産地や価格の表示だけでなくディスプレイやカラーコーディネートなどについても教育を行った。しかし何十年もの間、自分なりのやり方で商売して来た人たちだ。数回の教育だけでは、それまでの慣習を簡単に変えられなかっただろう。新進作家とともに運営する他の市場とは違い、蓬坪市場は広報イベントや文化行事が多くない。しかし、長い歴史を持つ市場と地域の人たちの素朴で飾り気のない姿こそ大きな魅力だ。

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青年モールにあるポッタリ団は、南部市場に活気をもたらすため、多彩なイベントを企画する集まりだ。「地域の文化ターミナル」というビジョンの下、フリーマーケットの企画・運営、地域ブランドのセレクトショップ運営、ワークショップ開催などの活動をしている。しかし、最近市場に人が集まるようになると、あちこちから資本の力も押し寄せてきた。市場1階とその周辺にはフランチャイズの店が増え、長年続いてきた店が商売できないこともある。もろ刃の剣のように避けられない結果かもしれないが、残念なことだ。

キム・チェラム 金彩藍、全州南部市場・青年モール・ポッタリ団代表

「 市場に人が集まり、 資本の力が押し寄せてきた」

大仁市場では現在、約20グループの若者が市場で店鋪を運営している。そうした活動によって特に去年から、市場を訪れる客層が目に見えて若くなり、全国的に知られるようになった。長年ここで商売してきた人たちも、そのような変化にかなり好意的だ。若い店主は「全国で唯一の芸術市場」を育てていくことに誇りを感じ、市場と芸術、店主と新進作家、若い店主が共存する芸術市場として、この先も活発に運営していけるよう取り組んでいる。

チョン・サムジョ 鄭三曹、光州大仁市場・別場総監督)

「 全国で唯一の芸術市場という自負」

1 新堂創作アーケードの画家のアトリエ。2坪ほどと小さいが、若いアーティストが芸術に没頭するには十分だ。

2 全州・南部市場の青年モールの夜。運営主体のポッタリ団によって、毎週土曜日に音楽会やフリーマーケットなど多彩なイベントが行われている。

3 光州・大仁市場の商店街。市場のアーティストが店の出入口に絵を描いて、道行く人たちの目を引いている。

4 ソウル大学路のマルシェ。ソウルの代表的なフリーマーケット・マルシェは、生産者と消費者との出会いの場。若い生産者に自分のブランドを知ってもらう大切なチャンスでもある。

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イギリスでファッション・アクセサリーのデザインを学んで帰国し、自身のブランドを立ち上げた。昨年、ソウルの上岩洞で開かれたフリーマーケットに初めて参加した。以後ソウルや釜山など全国各地でフリーマーケットに参加して、ブランドを広めていった。そうして6カ月ほど経ったある日のこと、現代百貨店のマーチャンダイザー(MD)から新進デザイナーのポップアップストアに出店してくれないかという依頼が舞い込んだ。今ではソウルと大邱の主な百貨店に出店するほど、立派なブランドに成長した。フリーマーケットは、新進デザイナーにとって単に物を売るだけでなく、格好のデビューの場になっている。

ソン・ユンギ 宋潤気、Susurrus代表兼デザイナー

「 フリーマーケットは、 新進デザイナーのデビューの場」

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MBCラジオのチェ・サンイル(崔相一)プロデューサーはジャーナリストというよりは韓国民謡の収集家であり、研究者というほうが相応しい。MBCでの25年間は『韓国の旋律をたずねて』全国津々浦々を歩き回った日々だった。停年を1年後に控えた彼に残されたもの、それは生涯をかけて収集してきた民謡1万8千曲だ。彼は今、韓半島を越えてアジアの民謡を収集することに、第2の人生の夢を託している。

文化遺産の継承者

消え行く旋律をたずねて

チョン・ジェスック鄭在淑、中央日報論説委員兼文化専門記者趙志映 写真

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自分の家の寝室を改造して作った資料室で録音資料を聴いている崔相一Pd。彼は新しく録音してきた資料を聴く瞬間が一番幸せだという。

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1 村のおばあさんたち 慶尚北道高霊郡パクシル村のおばあさんたちが民謡の録音を終えた後、庭に出て農楽を楽しんでいる。MBCの民謡取材チームが訪れた村ではいつもこんな風景が見られる。

2 草刈り  江原道三陟の山の中腹にある畑で昔していたように草を刈りながら「草刈りの音」を録音している。このように草を短く刈って積み重ねておけば、畑の有機肥料となる。化学肥料が使われだしてからは見られなくなった光景だ。

3 モンゴル西部ホブド地方の草原で遊牧民の歌を録音する場面

アジア大陸を飛び回り、各国の民謡を思う存分録音することが崔相一Pdのこれからの夢だ。

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崔相一プロデューサー(58)の声は多くのラジオリスナーに親しまれている。一日に2、3回は聞こえてくる彼の太く、温かい声は、時間をかけて熟成した味噌のよう

に確かな味がある。「韓国の旋律をたずねて。この旋律はどこどこ村の今年80歳の誰々さんが、うず高く積まれた稲むらから稲の束を降ろしながら歌う民謡です」

1991年に最初の放送が流れてから24年、8160回の放送という長者記録も打ち立てた『韓国の旋律をたずねて』は太くてよく通る彼の声がなければ、もうとっくの昔になくなっていたかもしれぬ番組だ。口から口へと伝わる口承民謡の一節を40秒に圧縮して放送する「スポット」形式の番組は時間は短いながら非常に強烈な伝播力で、聞く人の胸に飛び込んでくる。

消えゆくものへの郷愁「京畿道驪州の田舎者の私がソウルに来たのは小学校5年生の時でした。なんでもパルリパルリと急がなければならず、人と競争しなければならない都会の気質が私には合いませんでした。子供の頃から屋根裏部屋に閉じこもったり、ロウソクを灯してぼーっと部屋の中で遊ぶのが好きでした。1970年代後半の大学生の頃、江原道原州の農村へ農業活動に行った際に、あるお婆さんが畑の草取りをしながら歌っていた歌が耳に刻まれ、それはやまびこのように長い間響き渡り、心に残りました。それが土俗民謡『アラリ』だったことは、ずいぶん後になって知りました」文化放送に入社した彼は1日単位でめまぐるしく変化する日常が肌に合わず、分秒を争う放送の周期にも適応できなかった。何かを積み重ねていくことの好きだった彼は、空中に揮発してしまうような放送が嫌だったのだ。長い呼吸、こつこつと蓄積する仕事を欲した彼はラジオFM所属の音盤資料室の司書となって蟄居した。音盤形式がLPからCDに変わろうとしていた時期だった。彼は資料室に積み重なっていたありとあらゆる音楽を手当たり次第に聴いていった。数百枚に過ぎなかった国楽の音盤もすべて席巻した。そんな中で彼を驚愕させた音盤があった。アメリカへの初期の移民たちから聞き取った記録音盤で全50巻だった。彼は200年の歴史しかない国がこのような証言を残していることに驚き、アメリカ人の周到さに感動した。

「頭の中のもやもやとしたものが消え去った瞬間でした。私のすべき仕事が見えたという気がしました。しばらくの間、労働組合の仕事をしてから、再び現場に復帰し、その時に企画案を出しました。ずいぶん前に聞いた『アラリ』が耳元で聞こえていました。だんだんと忘れ去られていく土俗の民謡を探す番組を作ろうと。それが1週間に1度放送された週末番組の『韓国民謡大典』でした」仕事に慣れると今度は、より強力でインパクトのある民謡番組

を作りたくなった。ある先輩が企業の協賛を受けてキャンペーンをしてみてはどうかというアイデアを出した。そして製薬会社が広告主となり『韓国の旋律をたずねて』が誕生したのだ。直接原稿を書き、進行までするようになると、だんだんと度胸もついて、アドリブの言葉も入れられるようになり、内容はさらに充実していった。公益面で高い評価を得ると聴取率も高くなり、1日に3、4回放送されるようになった。1年単位で放送の内容をCDに記録し、そのCDを公共機関や大学の関連学科に寄贈すると、放

民謡は口から口へと伝わる一種の労働の歌であり、民衆の暮らしの歌だ。口承されるので変化の速度も遅く、地域の特色もよく保存されている。単調ながら胸に染みわたり、素朴ながら深い意味を含んでいる。辛い労働をする時には自らを励まし、隣人と酒を酌み交わしながら口ずさむものなので逞しい歌が多い。歌を歌う人々の顔から苦痛が消え、歓喜があふれるのを彼は幾度も目撃してきた。

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送局でもこの番組の意味を理解し積極的な支援をしてくれるようになった。

民謡は時代と暮らしの宝庫全国各地を歩き回り民謡を収集する日々が続いた。もともと登山好きだったので、1年の半分以上を地方出張に費やす生活も苦にはならなかった。時計屋をしていた父に似ているのか、機械にも親しんでいた。民謡収集が主に野外や防音の効かない厳しい環境のもとで行われる為、性能の優秀な録音機に対する彼の欲求は果てしなかった。新製品が出れば必ず買い求め、マイクは直接改造して使っていた。民謡収集チームは崔相一PD以外にもエンジニアが二人、記録と写真係がそれぞれ一人ずつ、研究員一人、運転手の合計7人のチームで構成されており、全員がマイクロバスに乗り移動した。「冗談で、私が死んだら祭祀には最新の録音機と十分に充電

したバッテリーを供えてくれと言ったこともあります。今でも時々、現場で録音できていないのに気付かず、放送の直前に気付いて絶望する夢を見ることがあります」民謡紀行は考古学の発掘に通じる点がある。老人たちの頭の中に保存されている民謡が解き放たれると、その時代の生々しい生活史が自然と現われる。大きな村に行くと村の公民館にお年寄り20,30人が集まって、後から後からたくさんの土俗民謡を歌ってくれる。昔の共同体文化を歌を通じて聞いていくようなものだ。親しい人を招いて、素朴な酒の肴にマッコリを傾け、農作業が終わり気分が良ければ、相撲をとったり、宴会を開い

たり。そんな生き生きとした情にあふれた共同体の精神が土俗民謡の歌詞には染み込んでいる。専門の歌手が歌う大衆歌謡的な民謡とは違い、土俗民謡は口

から口へと伝わる一種の労働の歌であり、民衆の暮らしの歌だ。口承されるので変化の速度も遅く、地域の特色もよく保存されている。単純ながら胸に染みわたり、素朴ながら深い意味を含んでいる。辛い労働をする時には自らを励まし、隣人と酒を酌み交わしながら口ずさむものなので逞しい歌が多い。歌を歌う人々の顔からは苦痛が消え、歓喜があふれるのを彼は幾度も目撃してきた。「私が民謡の収集を始めた1990年代の初めには土俗民謡を伝え聞いたお年よりが一人、二人と亡くなる時期でした。あせりました。彼らが亡くなってしまったら、民謡も失われてしまうのですから。後で大まかに計算してみたところ、120の市と郡の900

あまりの村を回って延べ2万人に会い、1万8千曲の民謡を録音

崔相一Pdの資料室にある各種打楽器と鐘と鈴。彼には目に見える世界よりも耳に聞こえる世界がより身近だ。

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しました。もう少し始めるのが遅れていたら、たぶんこの半分も収集できなかったことでしょう。私が会った人々は大部分が70代以上でしたから。録音・採集から数ヵ月後に再び訪ねた時、すでに亡くなっていたという方もいました」

アジアの土俗民謡をたずねて停年退職まであと1年を残して、彼は第2の人生を設計に忙

しそうだ。聖公会大学で『韓国の民謡、韓国の文化』『韓国の伝統文化の潜在力』というテーマで講義をし、本を書くための資料の整理に忙しい。民謡収集の集大成として一種の民衆自叙伝形式の歌い手列伝を書こうとしているのだ。『韓国文化の家』が企画した『盤楽、その男の音盤物語』公演に出演し、民謡に関する話を聞かせたりもしている。北漢山のふもとにある彼の家は放送局からそれ以上保管できないと言われた様々な録音テープの貯蔵庫に変身中だ。寝室のクローゼットの中には服の代わり

に多数の民謡の記録が保存されている。これらがどんな形で私たちの前に再び姿を現すのか、楽しみだ。そこは音盤全集の資料が熟成しながら新たな出番を待っているチャンドク台(訳者注:キムチの甕の並んでいる場所)のようだ。北韓の土俗民謡音源3千曲を苦労して集めてだした『北韓民謡全集』のように、クローゼットの中の音源も新たな衣装を纏い登場する日が来ることだろう。「これからはアジア各国の奥地に行き、彼らの伝統音楽と民謡を収集する計画を立てています。アジアの少数民族の音楽も同じように消え去ってしまうのではないかと心配です。誰かがこの貴重な人類文化を記録しなければなりません。今の速度だと、それらの民謡も、韓国の民謡のように消滅してしまうかもしれません。一人の力では難しいのでチームを組んでプロジェクトとして続けて行きたいと思います」彼は新しい道路が通るのが一番怖いという。アジアの奥地を歩き回りながら新しい道が通り、自動車が行き来するようになると、必ず伝統は崩壊し、民謡は消えていった。だから今や、私のもの、あなたたちのものだといって黙って見ている時ではないというのだ。韓国もアジアの一員として他の国、他の民族の文化を理解し、共に歩んでいくべきだという。「中国では祭りや宴会の時に若者たちも土俗民謡を歌います。今20代の若者層がこれから数十年は歌い続けるでしょう。中国のミャオ族(苗族)の乙女たちの歌う飛歌は鳥の飛び上がる姿を歌で描写しています。ラオスでは踏み臼を搗きながら歌う労働歌が依然として歌われています。こんな旋律を録音できると、本当に幸せです。こんなに面白い仕事を、他の人々はなぜしないのか不思議でたまりません」彼は家にある膨大な量の資料を整理し、誰でも活用できるよ

うなデータベースを作ることに希望をかけている。そうやって仕分けをしたら、土俗語の宝の倉庫である民謡から取り出して民謡辞典をつくる考えだ。国語辞典にも出ていないそんな単語と語彙を明らかにすれば、韓国語はさらに豊かな言語になるだろう、想像しただけでも胸が躍ると言う。「地球レベルで記録しよう。それが今、私の夢見ている世界です。私は音楽を聞いていると自然に笑みがこぼれます。それだけではありません。音楽を聴いていると、今歌っている人の顔の表情まで浮んできます。無駄な人生などありません。生きている人間の言葉、民謡から学んだ真理です」

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デビューから50年以上たつ韓国を代表する演劇俳優の孫淑。李潤澤がシナリオを書き演出した演劇『オモニ』の主人公として彼女は15年間舞台に立ち続けてきた。

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アート・レビュー

劇作家・演出家のイ・ユンテク(李潤澤)の長期公演作品『オモニ(母)』は韓国の演劇界では、よくドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの『肝っ玉お母とその子供た

ち』、またはロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの長編小説『母』と比べられる。『オモニ』は1996年に初演され、その後、劇団「演戯団コリペ」が1999年に再演してから15年間、ほとんど毎年公演されてきた作品だ。韓国を代表する演劇女優ソン・スク(孫淑)が50代で初めてこの作品の主人公をつとめて以来、70

代となった今でも依然として『オモニ』として舞台に立っているという点でも意味深い作品だ。

実際の人生をモティーフとしている世の中のすべての母の普遍性は家庭の安全と平和を守ろうと

いう強靭な男性性と家族に対する無限の犠牲という女性性だと言える。それで私たちは母を中性的な存在として把握することが多い。しかし李潤澤は『オモニ』で中性的な性質を帯びる以前の、少なくとも女性としてのアイデンティティがはっきりしていた乙女時代を重要な出発点としている。自分の名前で呼ばれ、好き嫌いをはっきり口に出せた時代には彼女たちもまた自由で幸福な一人の女性として存在していた。しかし母という大きく重い名前は彼女たちからその時代の痕跡を拭い去ってしまった。

作家は歳月が過ぎ、意地悪で無愛想な慶尚道のオモニにも恥じらいのある17歳の少女時代があったこと、一生忘れられない初恋の甘酸っぱい思い出があることを思い出させてくれる。さらに女性に対する差別が一般的だった時代に、自分の名前三文字を学ぶ機会さえ与えられず、生涯それを胸に秘めて生きてきた

母の悲しい心情にも思いをはせている。貧困と戦争で二人の子供を失い、他の女が産んだ子を自分の息子として育て、その出生の秘密を生涯胸に秘めて生きる悲しさは歳月が流れても到底癒されることがない。家族を養うことなく生涯あちこち放浪した挙句に死んだ夫の霊魂は周辺をさ迷い、簡単にあの世にいくこともできずにいる。片や死んだ息子のことを忘れられない母は骨壷の中に遺骨の粉を入れて生涯、それを枕元に置いて生きている。毎晩夢の中に出てきた夫と仲直りし、息子の為の鎮魂クッ(巫俗の儀式)を行った母は思い残すことのないさっぱりした表情でこの世を去る。『オモニ』の劇作家で演出家でもある李潤澤は、自分の母をモデルとしただけでなく、劇中の人物と事件もまた母が聞かせてくれた話をもとに再構成したと語っている。彼の母は日本の植民地時代に貧農の娘として生まれ、植民地時代、独立、戦争という受難の時代を全身で受け止めて生きてきたので、母の家族史はまさに民族の受難史でもあった。李潤澤は自分の母についてこんな風に回想している。「母の話は生きている私たちの母国語だった。むしろ文字を知らなかったために文語体の硬い形態にとらわれなかった。いわゆる新教育を受けられなかったので、韓国伝統の想像力とリズムとイメージをそのまま保有していたのだ。」(李潤澤「生きているあいだは毎日お祭り」1999)新教育を受けられなかった李潤澤の母は「生涯、胸に秘めて生きてこなければならなかった密かな自分の話」を物書きの息子に聞かせたという。毎日繰り返される話にうんざりした息子は智恵を絞り、母に録音機をプレゼントした。ある日、録音された母の話しを聞いていた息子はそれ自体が演劇の素材となると直感

韓国の現代史を全身で受け止め生きてきた一人の女の70年の人生を描いた演劇『オモニ(母)』。この作品を通じて私たちは男女の愛と執着、家族間の愛憎と和解というテーマと出会い、一方では人間の生と死の意味と価値を考えてみることになるだろう。

「オモニ」

許しと和解の鎮魂クッ演劇女優ソン・スクの

キム・スミ金寿美、演劇評論家

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する。「ただの、ありきたりの」母の話が本物の演劇となったのだ。初演はキム・ミョンゴン(金明坤)が演出し、ナ・ム二(羅文熙)

が出演した劇場トンスンホールの公演だった。初演から4年後の1999年に李潤澤は「オモニの話」を直接演出する勇気を出した。彼は自分の母が暮らしていた密陽を空間的な背景として再設定した後、密陽出身の女優ソン・スク(孫淑)と手を組んだ。作品の中には韓国の伝統的と演戯的な要素がちりばめられている。機織、ろくろ、伝統婚礼、チョマンジャクッ(招亡者クッ)、サムルノリなどが適材適所に配置されているだけでなく、演劇は生と死、過去と現在の間を自由に行きかう。おかげでストーリーは一人の女の人生に過ぎないが、作品の幅は一つの国の歴史と文化が溶け込んで、広がりを見せている。世紀末の憂鬱で不安な気運の中で人々は母の力が必要だった

のかもしれない。チョンドン劇場で幕を開けるや公演は1週間で客席がいっぱいになり、その後2ヶ月間高い客席占有率を持続して成功を重ねた。

孫淑のオモニでなければならなかった理由ソン・スク(孫淑)は私たちがよく思い浮かべる温かくて、ふっく

らとした、穏やかなイメージのお母さん女優ではない。彼女は痩せた体躯で声も小さいうえに、姿勢もまた固く、都市的で知的なイメージが強い。そんな彼女に李潤澤は性格も荒く、方言もきつい慶尚道の母の役をさせた、その理由はなんだろう。李潤澤にとって韓国近代史を生き抜いてきた母の人生は消極的で防御的なものだった。植民地の貧しく、力もない母であった彼女たちは腹をすかせた子供たちのために砂糖水を求め、古い毛布の一枚を手に入れるためにぺこぺこした。ブレヒトの『肝っ玉お母とその子供たち』での肝っ玉母さんは戦争の中で息子を失い、生になお一層執着しながら強靭な執念と積極的な意志を示すが、李潤澤の母は戦火の中で失った息子の霊魂が哀れで、生涯、枕元において守り通す消極的で防御的な姿だ。孫淑の痩せた体つきとか細い声はこのような母を表現するの

にピッタリだ。淡白なトーンの声音と仕草からは逆説的に井戸のように深い悲しみが伝わってくる。格調ある女優が淡々と吐き出す慶尚道方言はまったく予想できなかった人間味を感じさせる。

「私はあの世を信じない。あの世に行きどんな想に生まれ変わろうと、私は私のことが分からないだろう。それでも私は前世を信じる。人間が生きていくには前世というのがある。胸の奥にしまい口にはできない歴史、それが転生だ。だから、私たちはみんな、今、来世を生きているのではないか。真昼に、これもすべて来世だ」

1 『オモニ』2004年COEXアートホールでの公演場面 オモニの辛い昔話を聞いて涙を流す嫁(キム・ソヒ)2 『オモニ』1999年 チョンドン劇場での公演場面 息子(キム・ハクチョル)と楽しそうに話をしているオモニ3 『オモニ』2015年 明洞芸術劇場での公演場面 戦争中、飢えて死にかけている息子(キム・アヨン)を胸に抱いて絶叫するオモニ

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©Street Theatre Troupe

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演劇人生50年間、150余本の作品に出演した孫淑はあるインタビューで「春香も、ジュリエットもやったことがないまま、年をとったらオモニ だけしている」と笑っていた。チョンドン劇場の公演を終えた後、演戯団コリペの『オモニ』はすぐにモスクワのタガンカ劇場に招待された。そしてこの作品でその年の百想芸術大賞で主演女優賞を受賞した。そのおかげで『オモニ』はより一層有名になり、孫淑は初演当時「これから20年間力を注ぐ作品としてオモニを選んだ」と誓ったほど、この作品との縁は格別だ。

太初にすべては一つだった『オモニ』のセリフの中にこんな言葉がある「私はあの世を信じない。あの世に行きどんな想に生まれ変わろうと、私は私のことが分からないだろう。それでも私は前世を信じる。人間が生き

ていくには前世というのがある。胸の奥にしまい口にはできない歴史、それが転生だ。だから、私たちはみんな、今、来世を生きているのではないか。真昼に、これもすべて来世だ」死にゆく先が地獄であれ天国であれ関係ない。ただ現在が真昼のように明るく輝いている理由は知りたい。それが辛い時代の悲しい歴史、胸に秘めた過去の記憶のおかげだということを知らなければならないということだ。暗闇なしに光の存在を知ることができないように、痛みのない喜びもなく、死なくして生の実態を知ることもできず、消滅なしに生成の価値を知ることもない。太初には一つであったそれらがこのように『オモニ』という名前で互いを理解し、和解する。骨壷にいれて生涯傍らにおいていた息子たちを結局川に流してやり、亡霊となって現われた夫には晩御飯を作って差し出しながらも、大したおかずがないことを心配していた母の教えはまさにこれだったのだろう。

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©Myeongdong TheaTre Choi yong-seok

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オン・ザ・ロード

風の吹く日の竹綠苑(チュクノグォン)。「竹の本場」潭陽(タミャン)では、いたるところで1年中緑の竹を見ることができる。

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潭陽(タミャン)は、竹林の間を吹き抜ける風、澄んだ水、温かい日光の本場だ。家々の裏庭に竹が育つ土地、人々はその竹を切って彩箱(チェサン:竹を編んで作った籠)を作って、その中に娘の嫁入り道具を入れて送り出した。また潭陽はあずま屋の本場だ。谷間の風道にあずま屋を建てて、人生に陰りが見えてくると、身と心を休めた粋人の想いが我々を誘う。

潭陽古い森を歩きながら人生が伝説の延長線上にあることを悟る

クァク・ジェグ郭在九、詩人李翰九 写真

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人生の節目で選択を強いられる運命の瞬間がある。1989年の春、私は7年半の教員生活に終わりをつげた。1日24時間のすべてを詩に捧げるために。教える

かたわら詩を書くこともできたが、専業作家の道ではなかった。妻の手にわずかな貯金と退職金を握らせながら、「3年だけ時間をくれないか」と言った。ありがたいことに妻は私の提案を受け入れてくれた。夫婦ともども当もなく世の中の流れに身を任せる格好となった。3、4ヶ月くらいまでは何とかやってきた。中国の敦煌(ドゥンホワン)と樓蘭(ロウラン)にも行ってきたので傍から見ると派手な無職生活だった。しかし、半年が過ぎて、また1年が過ぎたあたりから物事は変わり始めた。まず、通帳の貯蓄が半分に減った。詩集を4冊出版したことはあるが、1年に発表できる詩はせいぜい5本程度なのでその原稿料を全部集めても20万ウォンにもならなかった。そのお金で子供一人を含む3人家族が1年間生活していけるところは地球上のどこにもないはずだ。学校を辞める時の自信とは裏腹な寂寞感に襲われて、自分にできることなんて、何にもないように思われた。そんな時、私は歩いた。私が住んでいた光州(クァンジュ)市は山に囲まれていたが、私は市内バスに乗って郊外の終点に降りたっては足の向くまま気の向くままにぶらついたものだ。ぶらつく間に風も吹き、花も咲き、雨粒がちらついた。そのように立ち向かった時間が心の中に穏やかな川水一つを作った。その川岸に腰を下ろして詩を書き、本を読み、音楽を聴いていたら一日が経ち、日が暮れるとそっとその場を離れて家に帰ってきた。

運命のケヤキとの出会い当時、私は 潭陽の寒峙(ハンジェ)という町を歩いていた。屏

風に囲まれたような山を背景にこぢんまりとした小学校が一つある小さな町だった。小学校からチャイムの音が聞こえた。果てしなく平和なチャイムの音につられて学校のグラウンドに足を踏み入れた。子供たちがボール遊びや縄跳びをしたりしながら駆け回る姿をぼんやりと眺めていたら、ふとグラウンドの一角に目が留まった。10人あまりの子供たちが両手をつなぎ合って一本の木を抱え込むのが見えた。子供たちが木を抱えながら笑う姿が明るくて気持よかった。子供たちのそばに行き、私も子供たちと一緒に木を抱きかかえたいと思った。子供たちが教室に戻った後、一人でじっと抱えてみた。樹齢6百年をこえるケヤキ。高さ26m、直径8.31m。天然記念物284号。木はかっこ良く何よりも木陰が広かった。木を抱きかかえると瞬時に心が限りなく安らいでくる。その後、気が落ち込むたびにその木を見に行ったある日、町の老人に木にまつわる伝説を聞かせてもらった。朝鮮王朝の太祖・李成桂(イ・ソンゲ)が新しい国を建国するために、全国の運気が強い地を捜し求めて祈りを捧げていたときに、この町に立ち寄って町の裏側にある三人山(サムインサン)で祈りを終えた後、植えた木がこのケヤキだという話だった。伝説はそれを受け入れる人の心に新しい夢模様を刻む。私は老人の話が気に入った。一国の王朝を建てたいという大きな夢を抱いたある人物が精誠を尽くしたところ。詩を書いて世の中を生きていきたいという切望する私の夢が彼の伝説の真っただ中に位置しているような気がした。無職生活3年目。いよいよ通帳残高が底をついた。ある夕暮れどきに私は再びこのケヤキを訪れた。そのケヤキをじっと抱いていたら、今は亡き母の声が聞こえてきた。母は私に祖母の話をした。祖母は、子供を12人産んだ。母はその中の9番目だっ

1 瀟灑園(ソセウォン)のあずま屋。韓屋(ハンオク)の扉は持ち上げる開放型となっているため、暑い夏日に風の通り道を作ってくれる。

2 無等山(ムドゥンサン)の谷水を引き込んで岩の間を流すようにした瀟灑園は、自然の中で世の中の道理を考えた朝鮮時代の士人たちの理想郷をうかがわせる。

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1 竹綠苑(チュクノグォン)の竹林を歩く夫婦。真夏にも竹林の中は涼しい空気が立ち込めている。

2 潭陽の人々が楽しむ竹蒸しご飯。竹を切って作った器の中に米を入れて蒸す。

3 重要無形文化財第53号の彩箱(チェサン)の職人・徐漢圭(ソ・ハンギュ)。竹を薄く割って染色して作る彩箱は、非常に手の込んだ貴重な細工品だ。

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た。第2次世界大戦の真っただ中、日本軍の招集を逃れて子供たちはみんなバラバラになった。祖母は毎日未明の祈りを捧げた。町の裏山の中腹に小さな泉があったが、毎日早朝その若水を汲み、町の神木のケヤキの元で子供たちの安寧のため真心を込めて祈った。ある未明、泉で水を汲んでいたら向かい側の森から二つの大きな光が閃いた。虎だった。祖母は慌てずにおもむろに立ち上がって、「山神様のお恵みによってうちの子供たちをお守りください」と、虎に向かって落ち着き払った姿勢で祈りを捧げた。すると何事もなかったかのように平然とケヤキに戻って、普段通り精誠を捧げて祈ったという。真心を尽くせば必ず奇跡が起こる。小学校時代、母は祖母の話をしながらそのように言った。

その日、帰宅して私は一編の童話を書き始めた。小さい雀一羽が成長して、あらゆる敵を打ち破って雀の王国を建てるという筋の童話だった。新しい王国を建てるというモチーフは朝鮮の太祖・李成桂から借用したもので、大きな金色のケヤキは雀王国のシンボルだった。半月で童話が出来上がった。私はこの童話原稿をある出版社に送った。何の対策もないままに第2子が産まれ、同じ日に童話『雀の雛・チク』が世の中に出た。本は重版を重ねて、私はその印税で小さいマンションを購入した。怖さを吹き飛ばして、専業作家の生活も延長できた。これはいずれもこのケヤキとの出会いによるところが大きい。ハンジェ村から水北面を経て潭陽邑(タミ

ャンウプ)への道のりは、メタセコイア街路樹が鬱蒼と茂っている。メタセコイア並木通りは、潭陽のランドマークだ。一見ヒマラヤ山脈のモミの木のように見える落葉広葉樹のこの木は、冬に葉が落ちて、春に若葉が萌える。秋になって葉が黄金色に変わる頃、大勢の人々がこの並木通りを訪れて、写真を撮ったり、カタツムリのようにゆったりと歩いたり、恋人たちは2人乗り自転車を楽しんだりもする。官防堤林(クァンバンジェリム)は、潭陽邑を貫通する林道の名前だ。全国の数多くある林道の中でも、風景の美しさは断トツだ。樹齢2百年から4百年にもなる老巨樹430本あまりがぎっしりと立ち並んでいる。一本一本の木が町の神木になれるような品格を兼ね備えた樹木が一同に集まって、人間の住む世の中を覗き込むような姿は温かくて美しい。1648年当時、潭陽府使(プサ・朝鮮王朝時代の地方官)が初めて木を植えており、1854年にも潭陽府使が2回目の植樹を行ったといわれる。ケヤキとエノキ、ムクノキのような落葉広葉樹が風になびく林道の姿は、韓国美の典型を見せている。もし、あなたが1ヶ月間韓国を歩き

旅をして、自然と森、人々の暮らす生活を見たいと思うならば、真っ先に潭陽の官防堤林に足を運ぶことをお勧めする。

竹林を吹き抜ける風の音、竹林で聞く牡丹雪の音林道前の枝川を渡ると、「竹綠苑(チュクノグォン)」という名前

の竹林を散歩することもできる。昔から潭陽の人々は、自宅の裏庭に小さな竹林を造った。彼らは竹を特別に「神竹」と呼んだが、それは神様が宿る竹という意味だ。風が吹くと裏庭の竹林から聞こえる風の音はサラサラと、人々の心を清らかにし、雪の降る日に竹林で聞く牡丹雪の音を最高の詩情と思った。木の葉に落ちる雨音が聞き取れるならば、あなたは竹の葉にしんしんと降る牡丹雪の音も聞くことができる。その牡丹雪の音を聞きながら、人々は竹ですべての生活用品を作って、長い冬を過ごした。30~40年前には韓国の竹細工品のほとんどが潭陽で生産されたと言っても間違いではないだろう。 潭陽の人々は、竹の器にコメを入れて蒸した竹蒸しご飯をよく食べて、お酒も竹の香り

を生かし醸した竹桶酒を楽しんだ。春には竹の子にタニシを混ぜて酢和えをした竹の子刺身は、酒の肴の最高品だ。2015年9月潭陽では、世界竹祭典が開かれる。世界の竹で作った民芸品が一堂に会する祭典だ。官防堤林と竹綠苑を歩いてお腹が空くと林道の一角にある素麺食堂街に立ち寄って、一杯の素麺を食べるのもおすすめポイント。素麺は韓国人が好きな庶民的料理だ。特別な具なしの麺に朝鮮伝統醤油を溶かしたカタクチイワシの出汁をかけて食べる素麺はあっさり味でとてもおいしい。一杯の素麺と竹桶酒一杯を飲みほして、目の前に広がるメタセコイアの並木通りに沿ってあてもなく歩く旅は、韓国旅行の醍醐味と言える。潭陽邑内の紙砧里(ジチムリ)の旧名は孝子里(ヒョザリ)だった。この町のハン姓の女性がチョン家に嫁に行った。子供を産む前に夫がこの世を去り、妻は日雇いの仕事をし女手一つで忘れ形見を育てながら暮らした。成人した息子は、ある日未明、母が台所でスカ

人生に行き詰まったとき、私は潭陽の田舎道を歩いた。数百年の樹齢を誇る老巨樹に涼しい木陰を与えられて、人生の曲がり角を曲がるたびに夢に向かって挑戦し続ける勇気を与えられた。チシル町のあずま屋と瀟灑園(ソセウォン:韓国の伝統様式が息づく朝鮮時代の代表的な民間庭園)を眺めながら、人間の最も根源的な人生の夢は、自然だということにも気づいた。自然こそがわずか一瞬たりとも憎めない人生の朋友なのだ。潭陽の道すがら私は人生が伝説の延長線上にあることを悟った。

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ートを乾かしている姿を目にする。翌日の夜、息子は母の跡をつけたが、母は隣町の寺小屋の先生である男やもめにこっそり会って、未明に戻ってくるためスカートの裾が露に濡れていたのだった。翌日息子は、母が歩いていく林道の草をきれいに刈って、母のスカートが濡れないようにし、二人が一緒に暮らせるようにした。町の人々がそのことを知って、町の名前を孝子里と名付けた。サムジネはスローシティに指定された町だ。好奇心旺盛なあなたが名前だけ聞いてこの町を訪れたら、ややがっかりするかもしれない。町の長い石垣を除けば、ここがスローシティ精神とどのように結びつくのか理解できないはずだからだ。大規模な韓屋(ハンオク:韓国伝統家屋)はにわか作りの感があり、民宿や飲食店の姿はどう見てもゆっくり、静かに生きていく人々の姿とはかけ離れている。スローシティに指定されずとも、昔の姿をそのまま残しているならば、あなたは快くこの町で一晩泊まって行って良いだろう。

澄んだ渓谷に設けられたあずま屋南面(ナムミョン)のジャコクリは、潭陽郡の最南端に位置した町だ。チ

シルという旧名が懐かしいこの町は、無等山(ムドゥンサン)の麓に位置しており、澄んだ水が絶え間なく奏でる谷間に、東洋画に見られる詩情深い楼亭が位置している。環碧堂(ファンビョクタン)、獨守亭(トクスジョン)、醉歌亭(チガジョン)、息影亭(シクヨンジョン)などが隣り合う町の松江亭(ソンガンジョン)や俛仰亭(ミョニャンジョン)のようなあずま屋と調和をなした佇まいは、静かな朝の国のシャングリラと呼ぶに値する。私が学校を辞めてぶらぶら歩いていた時、このあずま屋は真昼に立ち寄ってセミの声を聞きながら昼寝をするのにぴったりだし、ひらひらと舞うシジミチョウを眺めながら数行の詩を書く上でも居心地良い場所だった。その中で私のお気に入りのあずま屋は息影亭だった。影が一休みできるところ。すべての生命あるものは影を持つ。光がなかったり、生命がなかったりすると影は存在しない。息影亭の主人は、自分の存在を、熱望を、叶わぬ夢を休ませたかったのだろう。朝鮮王朝時代、権力から遠ざけられた士人たちが、山深く水の澄んだここチシルで、詩と風流を楽しむことしかなかった現実が息影亭という名前に表れている。詩一本やりの生活をしたいと思ったその日、

潭陽郡昌平面(チャンピョンミョン)のサムジネ町。「スローシティ」に指定されたサムジネ町には、昔の面影を残した伝統的家屋と路地が石垣でつながっている。

潭陽への行き方

自動車 乗用車を利用すれば、ソウルから潭陽まで3時間30分くらいかかる。ソウルから潭陽までは約300km。高速バス ソウル盤浦洞(バンポドン)に位置したセントラルシティターミナル(hticket.co.kr)で高速バスを利用すれば、潭陽まで3時間45分かかり、午前8時10分から3時間おきに1日4回運行する

列車を利用する場合 1) KTX:龍山(ヨンサン)駅から光州(クァンジュ)の松亭(ソンジョン)駅まで1日22回、光州松亭駅まで2時間くらいかかり、約30分おきに運行する。光州松亭駅を降りて、光州総合バスターミナルに移動した後、潭陽行きバスに乗り換える。2) ムクンファ号(木槿)、ITXセマウル号:龍山駅から光州駅まで運行する。列車によって4時間―4時間30分くらいかかる。詳しくは韓国鉄道公社(KORAIL)のホームページ(korail.com)で確認できる。光州駅前から潭陽の竹綠苑(チュクノグォン)、瀟灑園(ソシェウォン)などへ行くバスに乗れる。

航空便 大韓航空(koreanair.com)とアシアナ航空(flyasiana.com)が金浦(キムポ)-光州航路を運行。大韓航空が1日2回、アシアナ航空が1日3回運行する。料金は曜日によって異なり、航空会社のホームページで確認、予約できる。

高速道路KTX

航空便

潭陽

龍山駅金浦空港

光州駅

ソウル

ソウル→潭タミャン

潭陽の地図

瀟灑園息影亭

竹緑園メタセコイア街路ハンジェ村

韓国竹博物館市外バスターミナル

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私の夢も結局は命の影をしばらく休ませたいと思ったことなのかもしれない。朝鮮中期の文人・鄭澈(ジョン・チョル、1536-1593)は、ここ

の星山(ピョルメ)町に泊まって、『思美人曲(サミインコク)』、『星山別曲(ソンサンビョルコク)』のような美しい歌詞を書いた。その歌詞の中心には自分を見捨てた王に対する懐かしい気持ち、降り注ぐ星の光が山をなしたかのような自然の美しさと凄然たる寂しさの中で悩みが深まる内面を歌ったものがある。あなたはこれから瀟灑園に足を運んでみるのも良い。息影亭

から瀟灑園までカタツムリの歩き方で歩いても1時間かからない。瀟灑園は、朝鮮中期の士人・梁山甫(ヤン・サンボ、1503-

1557)が造成した園林だ。無等山のある斜面を流れ落ちる谷水を園林の中に引き込んで、主人が寝起きする「雨上がりの空の青くて澄んだ月」という意味の霽月堂(チェウォルタン)と、旅人が泊まる別棟の「雨上がりの日差しの間を吹き通る風」という意味の光風閣(クァンプンガク)の間を流れるようにした。谷水は、夜通し主人と旅人の夢とともに清らかに流れていく。15年前、私は小説家・朴婉緖(パク・ワンソ、1931-2011)氏一行とともに、梁山甫氏子孫の配慮で、光風閣で一夜を過ごしたことがある。夜もすがら月の光がよかったし、竹林に吹く風の音が清らかだっ

た。その中でも白眉は断然谷水の音だった。朝目を覚ましたら、朴氏はすでに森の鳥のさえずりに心酔していた。「よく眠れましたか」と声をかけたら、霽月堂の水の音があまりにも清らかだったのでなかなか寝付かれず、未明にようやく浅い眠りにつくことができたと話された。今は亡き朴氏は、星になって、瀟灑園での一夜を懐かしく思うかもしれない。ここ谷のサルスベリは初夏から秋まで咲く。赤と青の混ざった色調の花は、神仙の庭園に咲く花のようだ。鄭澈は、サルスベリが咲く谷川の水を紫薇灘(ジァミタン)と呼んだ。潭陽歩く旅の最後にあなたの目の前にひらひら揺れるこの花びらの一つが数百年前の朝鮮士人の歌だったということを考えると、なんて不思議なことだろう。人生行き詰まったとき、私は潭陽の田舎道を歩いた。数百年

の寿命を誇る老巨樹が涼しい木陰を提供してくれ、人生の曲がり角にさしかかるたびに、夢に向かって挑戦し続ける勇気を与えてくれた。チシル町のあずま屋と瀟灑園(ソセウォン:韓国の伝統様式が息づく朝鮮時代の代表的な民間庭園)を眺めながら、人間の最も根源的な人生の夢は自然だということにも気づいた。自然こそたった一瞬たりとも憎めない人生の朋友なのだ。潭陽の歩く旅先で私は人生が伝説の延長線上にあることを悟った。

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遠くの目

ソウルオリンピックの前の年に赴任した。大学の周辺は山と田畑だけで、夜は、空から星が降りそそぐようであった。学生に恵まれたと、つくづく思う。着任した日、宿舎に多くの学生が待っていた。みな

日本語で話しかけ、とりわけ、たくさん日本語で話しかけてきた学生が、自分の日本語はどうかと尋ねたので、下手ですと答えた。今から思うと、こういう場合、日本人としては別の言い方をするのではないかと思うのだが、なぜであろうか、私は感じたまま、率直に答えた。清音が強い音で、発音が聞きとりにくかった。本人は傷ついたであろう。その学生には、卒業後、何度も会う機会があり、ある時、その時の話しをして、あやまった。また一人の学生は、翌日からほとんど毎日私の傍らにいて、生活をともした。暫くして、髪の毛を切らなくてはと思い、その学生に床屋に連れて行ってくれと頼んだ。ところが、彼は床屋はダメですといい、美容室に行きましょうと言った。美容室に行くのが、当時の日本では、女性だけであったこともあって、男がなぜ美容室に行かなければいけないのかと、押し問答の末、結局、連れて行ってはもらえなかった。さらに髪の毛が伸び、さすがに、美容室でもどこでいいから行って、切らなければと思いはじめた頃になって、学内に学生用の床屋があるのにようやく気が付いて、そこに連れて行ってもらった。美容室に行こうと彼が言ったことの意味を知ったのは、なおしばらくしてからである。10年ほど前、学内に美容室ができたので、今はそこに通っている。美容室で女子学生を見たことがない。今はあまり飲まないが、前はコーヒーが好きだった。インスタントではなく、本当のコーヒー

が飲みたくて、他の学生に相談した。コーヒーが飲めるところはないかと。なにごとか、深刻に考えているようだったが、ある日の夜、行きましょうということで、麓の町に行った。インスタントコーヒーであった。なぜ夜なのか、それが分かったのも、しばらくしてからである。ことばを訳しただけでは、意が通じない。ことばには、文化や社会、歴史が内包されていると、実感として知った。今は、学内にも、大学の周辺にも、コーヒー専門店がたくさんある。学生とよく旅をした。智異山などの山にも登った。ほぼ全国を旅した。朝鮮通信使関係のも

のを書くようになってから、普段は忘れているのだが、まだ行ったこともないのに、脳裏から離れない地名がいくつかあった。朝鮮通信使ゆかりの韓国内の地である。1682年、通信使一行は、旧暦11月11日、聞慶を発ち、聞慶鳥嶺を越えて安保に至った。峠を越える前、龍湫の滝で休憩をした。その時、通信正使である尹趾完が李錫予に命じて岩に詩を書かせた。従事官朴慶後も五言絶句を書いたという。その時の詩を刻むなどして、今に残っているかもしれない。いつか、その地を訪れてみたいと思っていた。

時をこえて 箕輪吉次みのわ・よしつぐ、慶熙大學校外國語大學 敎授

学生とよく旅をした。智異山などの山にも登った。ほぼ全国を旅した。朝鮮通信使関係のものを書くようになってから、普段は忘れているのだが、まだ行ったこともないのに、脳裏から離れない地名がいくつかあった。

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大邱で学会があった時、同僚や学生と聞慶鳥嶺を訪れた。第一関門から渓流沿いに登ると、復元された交亀亭の近くに滝があり、岩肌に龍湫と刻んであった。詩は残ってはいなかった。おそらくは、渓流の水を筆に含ませ、岩肌に書いただけなのであろう。墨で書いたとしても、一雨降れば、消えてしまう。それより上には登ることはしなかったのだが、あるいは復元された交亀亭よりさらに登ったところの滝であったのかもしれないと、今になって思いはじめている。せめて、峠まで登ったならとも思うが、しかし、後日の楽しみでもある。詩そのものは、金指南が使行録に書き留め、今に伝えられている。倭館があった釜山の龍頭山公園周辺には、しばしば行くことがある。昨年、冬、学会の翌日、

古館のあった東区区庁から龍頭山まで学生とともに歩いた。草梁客舎の跡だという蓬莱初等学校にも立ち寄ったのだが、記念碑を見つけることはできなかった。日曜日で門は鎖されていた。1月、平日、妻とともに釜山に行き、蓬莱初等学校を再び訪れた。学校の守衛さんに尋ねたところ、校内、門の脇に記念碑があるという。校内に入る許しを得て、ようやく目にすることができた。客舎の近くに訳官の詰め所があって、言葉を学ぶため、雨森芳洲が毎日のように通っていたのだと思うと、感慨深いものがあった。海が荒れると波をかぶることもある道だった。その道を、龍頭山周辺に豆毛浦から倭館が移

転した1678年から200年近くもの間、訳官も、対馬の通詞も、毎日のように通っていたのである。立場を異にし、時に紛糾することがあっても、交渉が途切れることはなかった。互いに率直に意見の交換をしていたようである。海は埋め立てられた。道も広く整備され、昔の面影はない。江戸時代の絵図、明治以降の

地図、絵葉書などの写真、埋め立て図や現在の地図を見くらべても、昔のことは何一つはっきりしない。1954年冬の大火災以降、公園周辺が整備され、一帯は大変貌を遂げた。今残っているのは、館守家に通じる石段だけのようである。かつて陸の孤島のようであった大学から、乗り換えることもなく電車一本でソウル市内に行け

るようになった。市内に入ると駅は地下である。目印になるような建物があるはずもなく、西も東もわからない。案内表示なしには地上に出ることすらできない。地上で、自分の足で歩いた所は、赴任した当初に一度しか行ったことのないところでも、今でも確実に覚えていて、ほとんど忘れることがない。実際に行けば、何もわからないだろうが。散策した葡萄畑や水田、星が降り注ぐ夜空は記憶の中にしかない。大学の前は、巨大な街となった。卒業生も、赴任した当時の私の年齢をとうに越えてしまった。歳月は流れたのに、会えば、お互い、昔のままである。人は、私にとって宝である。

1 釜山龍頭山 館守家に通じる石段 2 草梁客舎 記念碑(蓬莱初等学校内)

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グルメを楽しむ

ムック(澱粉をゼリー状に固めたもの)は思い出の食べ物だ。幼い頃、外祖母がソバの実で作ってくれたメミルムック。胡麻油と醤油で合えただけでも、その香ばしく淡白な舌触りは今でもはっきり覚えている。大人になって民俗酒店でマッコリのつまみとして食べたドングリで作ったトトリムック、18世紀の朝鮮王、英祖が党派間の勢力均衡を図ろうとしたタンピョン政策と関連して、歴史の時間に学んだタンピョンチェ(蕩平菜)。最近になり、このムックが再び私たちの暮らしの中に戻ってきた。ウェルビングの熱風と、思い出に浸りたい熱望に乗って返り咲いたムック、健康と思い出の一石二鳥だ。

韓国のスローフード

パク・チャニル朴賛逸、料理研究家、コラムニスト安洪范 写真

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韓国の文�と芸� 55

民族間の食文化の違いから時として、「もっけの幸」なことがある。今は遠い昔の話になってしまったが、西洋のいくつかの国ではナマコを食べないので東洋の移民たちにとって、もっけの幸いと捕り放題の時期があった。ワラビやドングリも同様だった。欧州でもドングリを良く見か

けるが、自然を損なわない範囲で韓国人にとってドングリは非常に魅力的な食材となったものだ。私も外国に住んでいたときに、村の裏山でワラビを採ったり、ドングリ拾いをした経験がある。

ムックは冷えたら出来上がりムックはドングリやソバ、緑豆などの材料の澱粉が固まる性質を利用して作る。西洋料理ではこのよ

うな食感を出したい時には、ほとんどの場合、動物性の材料を使う。魚の骨や動物の副産物からコラーゲンゼリーを抽出するのだ。フランス料理のパテやテリーヌ、そして多彩な前菜料理と菓子にはゼラチンが使われる。ムックは材料だけ見ればその他の炭水化物と似ているが、出来上がりが全く違うのでその味も異色だ。例えば、緑豆でクッス(麺)料理も作るが、緑豆がムックになると全く違った形態と食感を持つことになる。ムックは固める時にその形態を様々に変化させることができるので、その料理はさらに立体的に変身する。ムックとは平凡な粉を高級料理に変える魔法のような技術だと言える。ムックと西洋のゼラチン料理には一つだけ共通点がある。材料が冷えると固まるという物理的な性質が利用されている点だ。韓国のムック料理はムックを切って調味料で味付けをして食べる。しかし西洋ではゼラチンは透明なので中に何かを詰めれば視覚的にも美しく、食感も良いので、中に何かを詰める方式が使われている。

真冬の思い出-メミルムック私は子供の頃に何種類かのムック料理を食べたことがある。都市で暮らしていたのでムックを直接作

って食べることはあまりなかった。ムックは非常に大変な労働を伴う料理だ。ドングリのムックであるトトリムックを例にあげると、ドングリを拾ってきて蒸し、一つ一つその皮を剥いてから水につけてその渋みを取る。その際に水を少なくとも10回以上取りかえてタンニンを出来るだけ除去する。そしてそれを乾燥させて粉にする。この粉がムックを作る材料になる。「ムックを作る」と言う言葉は、腰が折れるほどかまどの火を絶やさないように立ってかき混ぜるという意味でもある。固まって味をつける段階に至るまでには、本当に長い時間と複雑な工程が必要だ。それで我が家ではムックは主に買って食べるこ

韓国のスローフード

1 トトリムックは山で拾ったドングリの皮を剥いで乾燥させて粉にし、さらに再び水につけてふやかし弱火で長時間煮詰めて、冷めて固まったら出来上がりという非常に手間のかかる工程を経て作られる。カロリーが低くタンニン成分が脂肪の吸収を抑制する効果があるというので、最近ではダイエット食品として人気を集めている。

2 緑豆の粉で作るチョンポムックは昔、王室や貴族の家の祝いの膳に上がった貴重な食べ物だった。

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56 Koreana 夏号 2015

とが多かった。冬の夜長にお腹が空いてくると夜食として、ソバの実で作ったメミルムックを食べた。冬の夜に「メミルムック!」と売り歩く行商人の声が聞こえてくると私は父のために、すぐに上着をひっかけ、買いに飛び出して行ったものだ。凍てつくように冷たい冬の夜、だいたいは学費の足しにしようという大学生らが行商をしていたので、父はときにはお釣りももらわずに学生たちを励ましていた。メミルムックは庭に埋めた甕の中で熟した、ちょっと酸っぱくなったキムチと一緒に食べた。私の記憶ではトトリムック(ドングリのムック)は都市ではそんなに見かけるような食べ物ではなかった。

トトリムックは1970年代までは非常に「田舎臭い」食べ物だった。私が始めてトトリムックを口にしたのは大学時代、当時流行していた民俗酒店や「学士酒店」(大学生が主要顧客)でのことだった。70年代末から80年代の初めにはこのような需要を受けて偽のトトリムックが登場した。ドングリの粉をほとんど使わずに、色と食感だけを真似て作られたものだ。ドングリの粉をほとんど使っていないので値段が安く、そのためトトリムックは当時、若者たちに非常に人気のメニューだった。悪徳なるも美徳となりうるということだ。

庶民の友-メミルムック、貴族の祝い膳-チョンポムック緑豆の粉で作られるチョンポムックも最近ではトトリムックのようによく見かける。しかしチョンポムッ

クは昔、大金持ちや貴族の家の祝いの膳でしか見られないような非常に貴重な食べ物だった。伝わるところによると朝鮮時代の英祖(在位期間1724-1776)が四色党派の争いを調整しようという意志を込めて臣下に食べさせたのが「タンピョンチェ(蕩平菜)」という名のチョンポムック料理だったという。タン(蕩)とは倒すという意味で、ピョン(平)も切って平らに整えるという意味なので、混迷する政局を正す

パク・モグォル(朴木月)は『寂寞な食欲』という詩の中でメミルムック(そば寒天)を「淡白で香ばしく、崩れていても素朴で礼儀正しく、田舎の祝い事の日に八角膳にのり、娘の嫁ぎ先の両親をもてなすもの」と詠っている。それでいてマッコリとの相性もピッタリだと言っている。ムックはマッコリのような民族酒にも良く合う、軽くても腹持ちの良い、民衆の食べ物だった。

1 ムックの主材料であるドングリの粉、そば粉、緑豆の粉と色をつけるのに使われるクチナシの粉

2 メミルムックを細く切り、下味をつけて炒めた牛肉、セリ、海苔を二杯酢で合えたタンピョンチェは昔は肌寒い春の夜に食べた料理だ。

3 トトリムックやメミルムックに軽く味をつけたものをご飯にかけて、そこに水を注いで食べるムックパブはもともと山の多い内陸地方で庶民が食べていた素朴な料理だ。

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という意味だった。しかしこの話の信憑性はそれほど高くはない。『朝鮮王朝実録』や、そのほかの王朝の記録物にはそのような内容は出てこない。とにかく王家や高官たちの食膳にチョンポムックが上ったということだけは確かなようだ。前述したメミルムックは高級料理のタンピョンチェとは正反対に位置するものだ。メミルムックは、簡単に手に入るそば粉を使って手早く料理して食べた庶民の食べ物だった。ソバは今は小麦よりもはるかに高い穀物になってしまったが、朝鮮時代には手軽に手に入る食材だった。朝鮮時代には小麦は生産量が極めて少なく、富裕層だけが食べられるものだった。それに対してソバは粉食の核心だった。ソバは強い生命力でどんな貧弱な悪条件の土壌でもよく育った。焼畑農業の山間部でも栽培が可能で、ひどい日照りや極寒の寒さにも強く、飢饉を救う作物として庶民の飢えをしのいでくれた。ソバは水車や挽き臼などでその皮を剥き、粉にして水を加えて熱し、冷ましさえすればムックになった。料理研究家ハン・ボクジン教授の著書『私たちが本当に知っておかなければな

らない飲食100-2』の「ムック料理」の章には詩人パク・モグォル(朴木月)の話が出てくる。朴木月は『寂寞な食欲』という詩の中でメミルムック(そば寒天)を「淡白で香ば

しく、崩れていても素朴で礼儀正しく、田舎の祝い事の日に八角膳にのり、娘の嫁ぎ先の両親をもてなすもの」と詠っている。それでいてマッコリとの相性もピッタリだと言っている。最近になりムックが再び全盛期を迎えている。すぐに満腹感を味わえ、カロリーが低いのでダイエッ

ト効果が大きいと言われているからだ。ムックは味付けに塩分をたくさん使いさえしなければ、非常に健康に良い素晴らしい食べ物だ。私の両親の故郷は慶尚北道の内陸地方だ。海が無く、栽培する畑の作物もあまりなく、料理文化も発達していない。そんな田舎の郷土料理にムックパブがある。昔はこの地方でだけ食べられていたと言われるムックパブが最近では全国的に人気を集めている。トトリムックやメミルムックを調味料で味付けし、ご飯を少し入れて水を注ぐだけの、いたってシンプル、簡単素朴な料理だが、最近ではむしろウエルビング時代にピッタリの食べ物だと脚光を浴びている。素朴さ、それで尚更好ましいムックの特性はどこか韓国人の情緒に通じるような気がする。

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エンターテインメント

今年2月、地上波放送局のKBSは、ダウムカカオ(韓国の巨大IT企業)が運営する韓国2位のインターネット検索ポータルサイト・DAUMとWebドラマ育成事業に

向けたMOUを締結した。その後、公開されたラインアップの『恋愛探偵シャーロックK』と『プリンスの王子』にはそれぞれアイドルグループ・INFINITE(インフィニット)のソンギュとGirl's Day(ガールズデイ)のユラなどが主役を演じる。KBS側は、今年1年間だけで10本あまりのWebドラマを制作すると明らかにした。昨年1年間で10本以上の作品が公開されて新しい映像メディアとして注目を浴びたWebドラマは、今では地上波でも積極的に取り組むほど市場でその価値が認められている。Webドラマがこのように急激に成長できた秘訣は何か。

Webドラマとは、文字通りWeb上で放映されるドラマのことだ。

米国ではすでにフルドットコム(www.hulu.com)が人気テレビドラマの全体バージョンあるいは、編集バージョンをサービスしたりもしたが、韓国のWebドラマはもっぱらWebだけで提供されるドラマを意味する。あえて比較すると、ネットフリックスで放映されたオリジナルシリーズ『ハウスオブカード』と似たような概念だ。2014年1月、まだ名前も馴染んでいないWebドラマという概念を一気に大衆文化のキーワードとして位置づけた『後遺症』と『恋愛細胞』、『看書痴列伝』などがNAVERを通じて、『好感を持ち合う男女』などがポータル検索サイト2位のDAUMを通じてそれぞれサービスされた。

20分あまりの短いランニング・タイムにもかかわらず、『後遺症』はWeb漫画を原作とした作品にふさわしく、交通事故の後遺症で超能力を持つようになった少年の話をテレビドラマより簡

Webドラマは、ドラマ市場の主流になれるか ウィ・クヌ

魏根雨、Webマガジン『IZE』記者

ドラマといえばまず思い浮かぶのはテレビドラマ。ところが、もっぱらPCやスマートフォンのみで見れるドラマが登場する。まさにWebドラマ(web dramas または web series)だ。2014年1月、韓国最大手のポータルサイト・NAVERに韓国初のWebドラマ『後遺症』が公開され、4週間で再生回数350万回を突破した。次いで、『ずば抜けた器量の女性』と『恋愛細胞』などが高い再生回数を記録し話題となった。2014年、もっとも目に見えて成長したこの新しいメディアは、果たして韓国の大衆文化市場をどのように再編するのだろうか。

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1 ソ・カンジュン、パン・ミナ主演の『最高の未来』。2014年10月28日初放送。

naVer TVcast放送2 チョン・ウヒ、アン・ジェホン

主演の『ずば抜けた器量の女性』。2014年8月5日初放送。naVer TVcast放送

3 キム・ヨングァン、サンダラ・パク主演の『Dr. Ian』。2015年3月29日初放送。

NAVER TVcast放送

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潔かつ吸引力のあるストーリー仕立てになっている。さらに、韓国の代表的な独立映画監督として才気あふれる作品を制作していたユン・ソンホ監督は、SBSの恋愛リアリティー番組『チャク(ペア)』をパロディ化したコメディ『好感を持ち合う男女』でテレビでは見られなかった現実的な恋愛感情を生かした演出を披露。このように面白くて気軽に楽しめるWebドラマの人気は、モバイルプラットフォームならではの特性によるところが大きい。

手のひらサイズのTVモバイル・デバイス現在、韓国はスマートフォンとインターネットの普及率で世界

トップレベル。ソウルの主要な地域では誰でも無料で利用できる公衆無線LANスポット(Wi-Fiスポット)があり、スマートフォンにコンテンツをダウンロードしながらストリーミングで再生できる最適なネットワーク環境を実現している。韓国のWebドラマは、このようなネットワーク環境に支えられて急ピッチで成長できた。現在、1話あたりのランニング・タイムが20分くらいの短いWeb

ドラマは、スマートフォン・ユーザのニーズにぴったりのコンテンツだ。消費者のコンテンツ消費がモバイル中心に再編される流れは、PC中心にサービスしていたポータルサイトだけの課題ではない。ここ40年間、もっとも影響力あるメディアだったテレビも、もはやモバイル市場を視野に入れなければ生き残れない時代となった。今まではケーブルチャンネルや総合編成チャンネル(総編・ケーブルテレビ・IPTVなど地上波以外のメディアを使って放送する新聞社系チャンネル)と競合してきたが、今ではモバイル市場が手ごわい競争相手として浮上したからだ。さらに、CM

の主要ターゲット層である若い視聴者たちのTVプラットフォーム離れが日増しに進んでいる。20~ 30代の視聴者たちは、今は

主にインターネットのVOD(ビデオオンデマンド)サイトを利用して、自分が好きな時間に目当ての番組を視聴し、10代はスマホを利用してコンパクトに編集されたビデオクリップを楽しむ。実はポータルサイトよりお尻に火がついたのは放送局だ。

新しい市場はコンテンツの発展をリードするだろうかWebドラマは、既存のコンテンツ・プラットフォームのモバイル市場に対するアクセス、そしてスマートフォン・ユーザのニーズを満たす上で最適のコンテンツといえる。そのため、市場が速いスピードで成長している。9人組ボーイズグループ・ZE:A「帝国の子供たち」のキム・ドンジュンが『後遺症』で主役を演じた時、Webドラマはまだその可能性が検証されていない舞台だったとしたら、今ではWebドラマは多くの人気アイドルたちが主演デビューする舞台になるほど注目されている。2NE1のサンダラ・パクは、モデル出身俳優のキム・ヨングァンとともに『Dr. Ian』に出演し、サムスングループ制作の、累積クリック数1,000万件の大台を突破した『最高の未来』には、Gir l 's Dayの珉娥(ミナ)が出演した。同名のNAVER・Webトゥーンを原作とした『恋愛細胞』には、主演ではないが、張赫(チャン・ヒョク)、金宇彬(キム・ウビン)などのトップスターたちが出演して話題となった。そのため、KBSのWebドラマ進出には象徴的なものがある。

これからは大手キー局もインターネットに再編されるメディア市場で生き残るためには、Web基盤コンテンツへ事業領域を拡大していかなければならない。果たして、従来のコンテンツ市場の生産者たちはモバイル向けに特化されたコンテンツを望むユーザのニーズに応えられるだろうか。これから彼らが作り出すWeb

ドラマがその行方を占う決め手になるに違いない。

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80 Koreana 夏号 2015

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Averting wAter crises in AsiA: essAYs bY

Dipak Gyawali, Hyoseop Woo, David S. Hall & Kanokwan Manorom, Lyu Xing and Ramaswamy R. Iyer

think tAnks, think nets And AsiAA focus on how the industry of ideas has spread in Asia looks at the regional, Chinese and Japanese experience

the debAte: us strAtegY towArd north koreARobert Carlin Squares Off Against Bruce Klingner

pluspradumna b. rana & ramon pacheco pardo Asia’s need to work with the IMF on regional financial securitybrad nelson & Yohanes sulaiman Indonesia’s new maritime ambitions may spell trouble with Chinamichal romanowski The EU’s task in Central Asiarobert e. mccoy History’s lessons for the North Korea nuclear standoff and why the Six-Party Talks stalledbook reviews by Thomas E. Kellogg, Nayan Chanda, John Delury & Taewhan Kim

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韓国のイメージ

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ISSN 1975-0617

春号

2015vo

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韓国の文化と芸術

韓国の市場:ロマンチックなかつての情景;

夜明けの眠りを覚ます人々:

私の市場物語

春号

2015 vol. 22 n

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w.koreana.or.kr ISSN 1225-4592

市場、その歴史と進化