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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 91(6): 99-120 URL http://hdl.handle.net/10291/20090 Rights Issue Date 2019-02-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title 法における自由について

Author(s) 亀本,洋

Citation 法律論叢, 91(6): 99-120

URL http://hdl.handle.net/10291/20090

Rights

Issue Date 2019-02-28

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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明治大学 法律論叢 91巻 6号:責了 book.tex page99 2019/03/01 16:12

法律論叢第 91巻第 6号(2019.2)

【論 説】

法における自由について

亀  本     洋

目 次1 ホーフェルドと自由2 ホーフェルド図式3 特権4 自由は不要か5 自由の行使6 許可7 自由の闘争8 特権と自由

1 ホーフェルドと自由

ベンサム(1748-1832)(1)ないしジョン・オースティン(1790-1859)(2)に始ま

る分析法理学の歴史(3)のなかで、法学の内外で今なお頻繁に引用されるホーフェ

(1)とくに Jeremy Bentham, Of Laws in General, edited by H. L. A. Hart, London:University of London: The Athlone Press, 1970; An Introduction to the Principlesof Morals and Legislation, edited by J. H. Burns and H. L. A. Hart with a NewIntroduction by F. Rosen and an Interpretive Essay by H. L. A. Hart, Oxford:Clarendon Press, 1996; Of the Limits of the Penal Branch of Jurisprudence, editedby Philip Schofield, Oxford: Clarendon Press, 2010参照。

(2) John Austin, The Province of Jurisprudence Determined, London: John Murray,1832; Lectures on Jurisprudence or the Philosophy of Positive Law, 3rd ed., vol. 1and 2, edited and revised by Robert Campbell, London: John Murray, 1869参照。

(3)分析法理学の歴史について論じる諸著作のうち、本稿の関心からして、とくに注目に値するものとして、Joseph William Singer, “The Legal Rights Debate in AnalyticalJurisprudence from Bentham to Hohfeld,” Wisconsin Law Review (1982): 975-1059参照。

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法律論叢 91巻 6号

ルド(1879-1918)の画期的な論文「司法的推論で使われる若干の法的基礎概念」

(1913年および 1917年)(4)のもつ絶大な意義は、次の三点に集約することができ

よう。

第一に、裁判、法、法学において広く「権利」(right)と呼ばれるもののなかに、

相手方の「義務」(duty)に対応する狭義の「権利」(right)――「(最も)厳密な

意味での権利」あるいは「請求権」(claim)と呼ばれることもある――のほかに、

「特権」(privilege)、「権能」(power)、「免除権」(immunity)と呼びうるものが

あることを明らかにしたこと。

このことと密接に関連するが、第二に、人がもつ広義の諸権利とその相手方と

の関係を明確に意識して、上記の基礎的諸概念の意味を明らかにしたこと、つま

り、法律関係(jural or legal relation)(5)のなかにそれらを明確に位置づけたこ

と(6)。なかでも、法律関係のなかに、狭義の権利と義務との対応関係、および、こ

(4) Wesley Newcomb Hohfeld, “Some Fundamental Legal Conceptions as Appliedin Judicial Reasoning,” Yale Law Journal 23 (1913):16-59; “Fundamental LegalConceptions as Applied in Judicial Reasoning,” Yale Law Journal 26 (1917): 710-770. 両論文は後に、次の著書に再録された。Wesley Newcomb Hohfeld, FundamentalLegal Conceptions as Applied in Judicial Reasoning and Other Legal Essays,edited by Walter Wheeler Cook, New Haven: Yale University Press, 1919. 以下、本書をFLCと略記する。その紹介・検討として、亀本洋「ホーフェルド図式の意味と意義」法学論叢 166巻 6号(2010年)68~93頁、同『法哲学』(成文堂、2011年)120~155頁参照。ホーフェルドの権利概念の哲学者による応用も含めて、批判的に検討するものとして、亀本洋「法律関係論と権利論」法学論叢 180巻 5・6号(2017年)88~124頁参照。以上の拙稿においても触れたことだが、とくにH. L. A. Hartが “Legal Rights,”idem, Essays on Bentham: Studies in Jurisprudence and Political Theory, Oxford:Clarendon Press, 1982, pp. 162-193(森村進訳「法的権利」H・L・A・ハート(小林公・森村進訳)『権利・功利・自由』(木鐸社、1987年)99~146頁)において提唱した liberty概念の意義を全否定するものとして、Hiroshi Kamemoto, “Liberty in JuralRelations,” Franz Saliger (Hg.), Rechtsstaatliches Strafrecht: Festschrift fur UlfridNeumann zum 70. Geburtstag, Heidelberg: C.F. Muller, 2017, pp. 171-179参照。

(5)その詳細な定義については、亀本洋「中間法律関係」法律論叢 90巻 1号(2017年)67~78頁参照。

(6)イギリス一般法学の開祖ジョン・オースティンがイギリス法を対象としつつも、その概念的整理にあたって、概念的にいっそう整序されたドイツ法学の圧倒的影響を受けたことは周知のところであるが、イギリス分析法理学だけでなく、19世紀後半のドイツ一般法学との関連にも言及しつつ、19世紀末から 20世紀 30年代にかけてアメリカで展開された法律関係論に関する詳細な研究として、佐藤遼『法律関係論における権能』(成文堂、2018年)とくに第 1部参照。

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法における自由について(亀本)

の法律関係の否定であるところの特権・無権利(no-right)関係以外に、権能に関

する法律関係すなわち、権能・責任(liability)関係が存在することを明示するに

とどまらず、この法律関係の否定であるところの免除権・無能力(disability)関

係も存在することを明らかにした点は、多くの論者が高く評価するところである。

とはいえ、ここまでのことの骨格は、すでにニュージーランドの法学者サーモン

ド(1862-1924)の『法理学あるいは法の理論』(1902年)(7)で明らかにされてい

た(ホーフェルドがどれほどの影響を受けたのかは判然としないが)(8)。ホーフェ

(7) John W. Salmond, Jurisprudence or the Theory of the Law, London: Stevens &Haynes, 1902, pp. 217-238, esp. 238参照。

(8) Anthony Dickey, “Hohfeld’s Debt to Salmond,” University of Western AustralianLaw Review 10 (1971): 59-64参照。ディキー(ibid., pp. 63-64)は、サーモンドがホーフェルドの権利分析の大半を先取りしていたという事実が法理学の大家によってすら長い間認められなかった原因を二つ挙げている。第一に、ホーフェルド自身がその分析にあたってだれから影響を受けたのかを明言していないこと。第二に、論者が法律関係に関するホーフェルドの分析とサーモンドの分析を比較する際、サーモンド『法理学あるいは法の理論』の初版(1902年)ではなく、第 2版以降の版に依拠したこと。サーモンドは、理由は不明だが、初版第 74節「広い意味での法的権利」にあった「免除権」への言及と、あわせて、「免除権」と題する初版第 77節とを、自分で改訂した第 2版(1907年)ないし第 7版(1924年)において削除した(だが脚注――John W. Salmond, Jurisprudenceor the Theory of the Law, 2nd ed., London: Stevens and Haynes, 1907, p. 194, n. 2参照――では免除権に依然言及した)。最後の点に関し、佐藤・前掲注 (6) 56頁注 100にある「本文中では言及されている」という表現は不正確である。Singer (supra note 3),p. 1050, n. 210; 佐藤・前掲注 (6) 64頁も参照。ディキー(ibid., p. 59, n. 1)はまた、第 12版(Salmond on Jurisprudence, 12th ed., edited by P. J. Fitzgerald, London:Sweet & Maxwell, 1966)の編者が、あろうことか、immunityの概念導入のプライオリティをホーフェルドに帰している(ibid., p. 225, n. (m))点も指摘している。私も勉強不足のため、亀本・前掲注 (4)「ホーフェルド図式の意味と意義」83頁および

『法哲学』142頁で、「免除権無能力関係が権能責任関係の不存在を意味することに、それまでだれも気づかなかった」と明言してしまった。すでに亀本・前掲注 (4)「法律関係論と権利論」91頁注 1で訂正したが、重大な誤りであるから重ねて訂正しておく。ホーフェルド自身は、サーモンドについては脚注(FLC, p. 48, n. 59)でわずかに 1

回触れているだけである。そこでホーフェルドは、論文本文中で引用した先例についてサーモンドの『法理学』(版は不明)に負う、という瑣末な点に言及した後、サーモンドが「義務の反対」(the opposite of “duty”)を表すのに、ホーフェルドの privilegeではなく、libertyという語を採用したことに難癖をつけている(しかもサーモンドの別の著作、Treatise on Torts――The Law of Torts (1907)または 2nd ed. (1910)のことだと思われる――まで引用して)。肝心の immunityには一切言及していない。これらの点から推して、ホーフェルド自身は、サーモンドの『法理学あるいは法の理論』が自分のオリジナリティを低める可能性があることを大いに意識していたと思われる。

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法律論叢 91巻 6号

ルド論文の第三の意義は、権威ある先例および法学者の叙述をふんだんに引用しつ

つ、以上で紹介した広義の権利に関連する法的基礎概念が司法的推論ないし法的推

論においてどのように使われるのかを、少なくとも法学者に対しては(9)説得力を

もって明らかにした点にある(10)。

ホーフェルドが引用し、司法的推論を批判している最も印象深い事例は、クィン

対リーゼム事件(Quinn v. Leathem, [1901] A. C., 495)における貴族院裁判官

リンドリー卿(Lord Lindley)の意見(ibid., 534)である(11)。卿はまず、「原告

〔使用者〕は英国臣民の通常の諸権利(rights)をもっていた。彼は自分の生活の

糧を自由に(at liberty)稼ぐことができた」と述べ、「その自由(liberty)には

他人と取引する自由(liberty)が含まれる」とした上で、そこから「その相関項

(correlative)は、この自由(liberty)の自由な(free)行使を妨げない――各人

の行動の自由が他人の自由の自由な行使を妨げることを正当化する場合を除いて

――万人の一般的義務である」ということを導き、結論として、労働組合員による

取引の妨害行為に対する損害賠償を正当化した。

これに対してホーフェルドは、そこでいう「自由」は彼のいう「特権」と見るべ

きものであって、義務に相関する狭義の権利ではないから、妨害しない他人の義務

を必然的に伴うものではないと批判し、そのような「特権」にそのような「他人の

義務=自分の権利」を随伴させるべきかどうかは「正義と政策」の問題であって、

事件の事情を考慮した上(12)で決定するべき事柄であることを強調した。権利とい

(9)ホーフェルドの権利分析を応用する哲学者や法哲学者にしばしば誤解や曲解が見られる(その具体例については、亀本・前掲注 (4)『法哲学』137~142頁および「法律関係論と権利論」88~91頁、114~123頁参照)原因の一つは、法学上の知識の不足にあると思われる。とはいえ、誤解や曲解それ自体は非難に値するものではない。アイデアを得て勝手に展開するのは自由である。

(10) Cook, “Introduction: Hohfeld’s Contribution to the Science of Law,” FLC, pp. 3-21,esp. 11参照。クックは、免除権も含めてサーモンドがホーフェルドとほとんど同じスキームに達していたのを知っていたが、サーモンドは「免除権を短い脚注に置いている」(ibid., p. 9)という叙述からすると、やはり第 2版以降の『法理学あるいは法の理論』に依拠していたと思われる。初版を読んでいたが、あえて無視した可能性もある。

(11) FLC, pp. 42-43. 亀本・前掲注 (4)「ホーフェルド図式の意味と意義」88頁および『法哲学』153頁でホーフェルドによる引用部分を翻訳しておいた。

(12)もちろん、裁判官がそのような考慮をしていなかったかどうかは、判決を読んだだけではわからない。事件の事情に応じた「正義と政策」を考慮した上で、概念的に必然的に出てくるかのように書くのが判決の正しい書き方だと信じている裁判官もいるであろう。本当の問題

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法における自由について(亀本)

う言葉の曖昧さを利用する言葉の操作によって、実体的議論抜きに、あたかも論理

必然的であるかのように結論を導く司法的推論のあり方を批判したのである。

注目するべきことに、イギリス分析法理学の大家H. L. A.ハート(1907-1992)

は、この同じ先例を、「自由」は「権利」である以上、その行使を保護する(逆に

いえば、その行使の妨害を抑止する)ための権利(請求権)を通常伴うことの一例

として引用している(13)。ホーフェルドと真逆の主張である。

「所有の自由」と呼ばれるものを考えてみよう。日本の民法学では、所有権には

妨害排除請求権が伴うと教えられる。他方で、所有物を自由に使用する――たとえ

ば自分の土地内で犬を飼う――こと自体は、他人との関係が登場しないかぎりで、

法律関係ではないように見える。しかし、所有物の自由な使用によって他人に損害

が生じれば――たとえば犬の鳴き声がうるさくて隣人が迷惑すれば――、場合に

よっては、不法行為に基づく損害賠償請求権が被害者に生じる(つまり、そのよう

な法律関係が発生する)。だが、故意または過失がなければ、そうはならない。さ

らに、「受忍限度」という法律用語があるように、故意または過失に加え、因果関

係のある「損害」があっても、その「損害」を受けないことが法律上保護に値する

利益と認定されなければ、賠償請求権は与えられない。そのかぎりで、被害者の

「自由」ではなく、加害者の「自由」こそが守られていることになる。そこでいう

「自由」とはいったい何なのか。

「自由」という言葉が使われる法律用語には、そのほかに、「契約の自由」、「営

業の自由」、「経済的自由」、「政治的自由」、「言論の自由」、「選択の自由」など、真

剣に考えれば考えるほど、それぞれの場合における「自由」の意味と、それらの間

の異同とが判然としなくなるものも多く含まれる。

本稿は、それらの「自由」の意味を全面的に明らかにすることをめざすものでは

ない。だが、「自由」ないし「自由権」と呼ばれるものの意味の解明の出発点とし

ては、一見明快なホーフェルドの「特権」概念の検討から始めるのが一番よいと私

は考える。本稿は、そこから行けるところまで行ってみようとする試みである。

は、それでいいのか、という点にある。それについては、本稿では立ち入らない。ちなみに、リンドリー卿の意見は、先例との区別において事件の事情をそれなりに考慮しているように見えるが、結論を先取りしている点は争えない。オーソドックスな法律家の議論である。

(13)そのように明言しているわけではないが、Hart (supra note 4), p. 172, n. 53,邦訳 138頁注 53参照。

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法律論叢 91巻 6号

2 ホーフェルド図式

表 1に表したのが、法律関係を記述するホーフェルドの有名な一覧表である(14)。

彼の論文の題名からすると、主要な関心は権利、義務その他の法的な基礎概念にあ

るようにも見受けられる。だが、それはむしろ、相関する二つの基礎概念間の関係

であるところの法律関係(jural or legal relations)にある、と見たほうがよい。

ホーフェルドにおいて、基礎概念は八つ、法律関係は四つである。

法律関係は当然ながら、裁判外、裁判前、裁判後にも存在する。だが、典型的な

民事裁判――日本における債務不履行、不法行為、不当利得等をめぐる(難しい法

律問題が登場しない単純な)訴訟を想定されたい――において、原告と被告がその

存否を争う両者間の法律関係を念頭に置くと、ホーフェルド図式は理解しやすくな

る。

法的対立項権利 特権無権利 義務

権能 免除権無能力 責任

法的相関項権利 特権義務 無権利

権能 免除権責任 無能力

表 1 ホーフェルド図式

法律家に最もなじみ深い法律関係は、債権・債務関係を典型とする権利・義務関

係であろう。これは、表 1の「法的相関項」(jural correlatives)の最初(一番左)

に登場する。たとえば、XがYにお金を貸した場合、「XはYに対して、そのお金

を返済してもらう権利をもつ」(X、Y等は法人格を表す固有名詞。以下同様)、逆

からいえば、「YはXに対してお金を返済する義務を負う」。法的相関項とは、こ

の例でいえば、同一の法律関係においてXの権利とYの義務が対応しているとき

の権利と義務である。同一の法律関係を、相関項のいずれか一つだけを用いて表現

することができる。どちらで表現しても、その内容は同義――たとえば上記かぎ括

弧で囲んだ二つの文は互いに同値――である。Xの項とYの項が互いに法的相関項になっている法律関係には、表 1からわかる

ように、権利・義務関係以外に、特権・無権利関係、権能・責任関係、免除権・無能

(14) FLC, pp. 36 and 65.

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法における自由について(亀本)

力関係がある。前の二つの法律関係は、本稿の主要な関心である「自由」(liberty)

に直接かかわるのに対して、権能にかかわる後の二つの法律関係は「自由」に間接

的にしかかかわらないため、ここでは後二者(ホーフェルド図式の右半分)には立

ち入らず、後に必要に応じ取り上げることにしたい。

なお、すでに触れたように「権利」という語は多義的であり、特権、権能、免

除権も「権利」の一種とされることもある。明確化のため、ホーフェルド図式の

一番左に登場する「権利」をとくにさしたいときは、「権利」に代えて「請求権」

(claim)という言葉を使うことにする。同様の理由で、「無権利」の代わりに「無

請求権」(no-claim)という語を使うこともある。

法律関係論上(厳密な意味での)「権利」の代わりに使われる「請求権」という

術語は、日本の民法学でいう「請求権」とほぼ同じ意味の言葉だと考えてよい。だ

が、その術語が、義務を負う相手方に「請求する権能」とか(15)、裁判を通じて自

分の請求権を「強制実現する(enforce)権能」といった、「権能」概念と一応切り

離されている点に注意されたい。「XはYに対して、Yが pをすることへの請求権

をもつ」(pは、たとえば Z――Xでない場合もあることに注意されたい――への

給付を表す)と書けば、請求権と、請求権を請求したり強制実現したりする権能と

の区別が判然としないが、相関項を使って、「YはXに対して、pをする義務を負

う」という同義の文に書き換えれば、請求権とそれに直接かかわる権能とが――実

務では両者は密接不可分であるにもかかわらず――、少なくともホーフェルド的法

律関係論においては明確に分離されていることが容易にわかるであろう。

他方、法律関係論ないし権利概念論の分野では、ホーフェルドの言う privilege

(特権)は liberty(「自由」または「自由権」と邦訳される)と言い換えられるこ

とが圧倒的に多い。

たしかに、「特権」という言葉は日本語でも英語でも、特定のカテゴリーに属す

(15)亀本洋「Claimについて」法律論叢 90巻 2・3号(2017年)165~187頁参照。なお、この論文において私が主として依拠した二論文、Joel Feinberg, “The Nature and Value ofRights” (1970), idem, Rights, Justice, and the Bounds of Liberty: Essays in SocialPhilosophy, Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1980, pp.143-155;“Duties, Rights, and Claims” (1966), ibid., pp.130-142の邦訳が最近出た。J・ファインバーグ(嶋津格・飯田亘之編集・監訳)『倫理学と法学の架橋 ファインバーグ論文選』(東信堂、2018年)それぞれ第 8章(丸祐一訳)、第 7章(福原正人訳)参照。

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法律論叢 91巻 6号

る人に「特別に」あるいは「例外的に」与えられるという含みが強く(16)、そのよ

うなことと無関係な法律関係上の一地位を表すためにそれを使用することは不適

切であるかもしれない。だが、概念を理解するということと、それにどのような記

号を当てるかということとは別の事柄である。極論すれば、概念さえ正確に理解で

きれば、それを表現する記号はどのようなものでもよい。もちろん、言葉から概念

を容易に想像できるような自然言語があれば、それを用いるほうがよいことは確か

である。しかし、後述(5、7および 8参照)のように「自由」という自然言語の

使用にもそれなりの不都合があることもあり、以下しばらく、ホーフェルド特有の

「特権」という術語を使い続けることにする。

法的対立項(jural opposites)は、法的相関項が二人の人(=法人格)の間の法

律関係に言及するものであったのと対照的に、一人の人、たとえばXの法的地位

――権利、義務、特権等々をさしあたり、そう呼ぶことにする――にのみ言及し、Yの法的地位との関係は消えたわけではないが、背景に退いている。したがって、

法的対立項は、一人しか登場しないので当然ではあるが、法的相関項と異なり、法

律関係を直接に表すものではない。

法的対立項の表においては、互いに否定(=矛盾)関係にある法的地位が各列の

上下に配置されている(前掲表 1の上半分参照)。「権利」と「無権利」を法的対立

項とするのであれば、「特権」の代わりに「無義務」(no-duty)、「無能力」の代わ

りに「無権能」(no-power)、「免除権」の代わりに「無責任」(no-liability)とい

う語を使ったほうが論理的にはより明快になる。

要するに、ホーフェルドは、法的対立項の各列の上下にある概念を互いに否定関

係にあるものとして定義した、というだけである(17)。各列上下のいずれかの概念

(16) FLC, pp. 44-45参照。(17)これに反し、シンガーは、Singer (supra note 3), pp. 1049-1050において、サーモン

ドからの大いなる前進だとして、ホーフェルドの法的対立項の一覧表を異様に高く評価している。その根拠としてシンガーは、サーモンドが「対立」(opposite)ではなく「不存在」(absence)という言葉でホーフェルドの「法的対立」に「わずかに言及しているだけだ」(Salmond (supra note 7), p. 236参照)という点を挙げている。しかし、ホーフェルドの言う「対立」とサーモンドの言う「不存在」とがともに論理的な意味での「否定」――ホーフェルドはこの言葉も使う(たとえば、後述 3におけるホーフェルドからの長い引用文章第二段落参照)――を意味することが理解できる読者であれば、「わずかな言及」で十分だと思われる。ホーフェルドも、彼の「対立」がサーモンドの「不存在」と同義であることを正確に理解していたことの証拠として、前掲注 (8)の最終段落で引用

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法における自由について(亀本)

が理解でき、かつ、否定という論理的関係が理解できる人であれば、ホーフェルド

図式中のすべての概念を理解することができるはずである。

3 特権

とはいえ、特権(=無義務)の使い方については注意が必要である。特権の内容

には二種類あって、混乱を誘いやすい。特権には、何か(以下、pと表記する)を

する特権と、それをしない特権とがあり、法的対立項の定義によれば、前者は「p

をしない義務がない」、後者は「pをする義務がない」と言い換えられる。法律関

係の正確な表記のため、だれからだれへの特権かという点を補って、表 1の法的相

関項の欄の左半分を書き換えたのが表 2である(特権の項目は縦に二分されてい

る)(18)。この表が正しいことの証拠として、ホーフェルドから引用しておこう。

Xの権利=Yの義務 

Xのする特権=XがしないことへのYの無権利

Xのしない特権=XがすることへのYの無権利

法的相関項

XがYに対してもつ、Yがpをすることへの権利 YがXに対して負う、Yがpをする義務   

XがYに対してもつ、pをする特権(=XはYに対して pをしない義務を負わない) YがXに対してもつ、Xが pをしないことへの無権利(=YはXに対して、Xが pをしないことへの権利をもたない)

XがYに対してもつ、pをしない特権(=XはYに対してpをする義務を負わない)YがXに対してもつ、Xが pをすることへの無権利(=YはXに対して、Xが pをすることへの権利をもたない)

表 2 権利・義務関係と特権・無権利関係(「=」は同値を表す)

「XがYに対して、YがXの土地に入らない(stay off)ことへの権利をもって

したホーフェルドの「義務の反対(opposite)」という文言がある。(18) David M. Adams, “Hohfeld on Rights and Privileges,” ARSP 71 (1985): 84-95, at

87にほぼ同様の叙述がある。ただし、義務から特権への論理的含意(entailment)の関係は除く。

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明治大学 法律論叢 91巻 6号:責了 book.tex page108 2019/03/01 16:12

法律論叢 91巻 6号

いるとすれば、その相関項(かつ同値項 equivalent)は、YがXに対して、その

土地に入らない義務を負っているということである。」(19)

「特権は、義務の対立項であり、『無権利』(no-right)の相関項である。上の

例でいえば、Xは他人であるYがXの土地に入らない(stay off)ことへの権利

(right)または請求権(claim)をもっているが、XはXの土地に入る(enter)特

権をもっている。同じことだが、XはXの土地に入らない義務を負っていない。入

る特権は、入らない義務の否定(negation)である。……ある特権が義務の単な

る否定であると言われるときはつねに、その義務とは、いうまでもなく、その特権

の内容と正反対の内容をもつ義務をさしている。たとえば、何らかの特別な理由に

より、XがYとの間で自分の土地に入って行く契約を結んだとすれば、XがYと

の関係で、その土地に入る特権と、その土地に入る義務との両者をもっていること

は明らかである。その特権と、そのような義務とは完全に整合的である。後者は、

特権と同一の内容をもっているからである。しかし、Yとの関係で、Xの入る特権

が、入らない義務のまさしく否定であることも依然確かである。同様に、AがB

との間でBのために何らかの仕事をすることを契約していないとすれば、Aの仕

事をしない特権は、仕事をする義務のまさに否定である。この場合も、義務は、特

権の内容と正反対の内容をもっている。」(20)

グランヴィル・ウィリアムズは、「する義務」の否定は「しない特権」であるか

ら、「特権」と「義務」を対置させるホーフェルド図式の法的対立項の表記には欠陥

があり、「特権」の代わりに「しない特権」と書くべきだと主張している(21)。だ

が、ホーフェルドがそのことを十二分にわかっていたことは、上記引用文章からも

明白であり、瑣末な批判と言うべきであろう。

ウィリアムズは、多少なりとも興味深いことも述べている(彼はホーフェルドの

「特権」に代えて「自由」(liberty)を使うので、以下しばらく彼の用語法に従う)。

(19) FLC, p. 38.(20) FLC, pp. 38-39. 原文のイタリックは、反映させなかった。(21) Glanville Williams, “The Concept of Legal Liberty,” Columbia Law Review 56

(1956): 1129-1150, at 1135 and 1138参照。彼もまた、彼が換位表(conversion table)と呼ぶ二つの四辺形のなかに各概念を書き込んで、本稿の表 2と同内容の結論に至っている。ホーフェルド図式と同様、だれからだれへの関係かが明示されていないので、わかりにくいが。

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法における自由について(亀本)

ホーフェルドの「自由」の定義によれば、「父親は自分の子どもを叱らない義務を

負わない」という文は「父親は自分の子どもを叱る自由をもつ」という外形上まっ

たく異なるように見える文に書き換えられる。ウィリアムズは、これを「言葉の魔

法」と形容する(22)。

「言葉の魔法」と言うのであるから、ホーフェルドの定義を批判するのかと思っ

たら、ウィリアムズは、その定義を全面的に肯定するのである。ホーフェルドが

発明した「無権利」(no-right)という言葉は、「無犬」(no-dog)と同様、笑うべ

き言葉だとしてさんざん批判されてきたが、「自由」という言葉は、(否定が二つ

も付いた)「しないことの無義務」という意味なのに、だれも嘲笑しないではない

か(23)、と。

ウィリアムズがそのような結論に至るのには、彼が刑法学者らしく、「自由」に

ついてホーフェルドと微妙に異なるように見える定義を採用しているからである。

ウィリアムズによれば、「自由とは、……行為(act)または不行為(omission)が

義務違反にならない場合をいう」(24)。やや紛らわしい文であるから、正確に言い

換えると、「する自由とは、することが義務違反にならない場合を、しない自由と

は、しないことが義務違反にならない場合をいう」ということである。「父親が自

分の子どもを叱らない義務を負わない」場合、父親が子どもを叱っても義務違反に

ならないから、「父親は自分の子どもを叱る自由をもつ」。ウィリアムズの頭のなか

では、こういう理屈が展開されていたのであろう。しかし、叱らない義務がなけれ

ば、叱っても義務違反にならないのは当然であり、ホーフェルドの定義を説明して

いるように見えて、実は何もしていない。

それよりも、私は彼の「言葉の魔法」という言葉から示唆される(彼は感じな

かったが私は感じる)違和感をここでは覚えておきたい。

4 自由は不要か

すでに述べたように、ホーフェルドによれば、特権・無権利関係は権利・義務関

(22) Ibid., p. 1136参照。(23) Ibid., p. 1139参照。(24) Ibid., p. 1129.

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法律論叢 91巻 6号

係の否定すなわち不存在である。存在しない法律関係をなぜ法律関係に含める必

要があるのか。この点を徹底的に突いたのが、ホーフェルドと同時代のアメリカの

法理学者コクーレク(1875-1952)である(25)。

もしXがYを、根拠のない権利(=請求権)に基づいて裁判に訴えたのなら、Y

はその請求権の存在を否認するか、債務不存在の抗弁を提出すれば十分であろう。

「私には、その請求権に相関する義務を履行しない特権(=自由)がある」などと

主張する被告はいないであろう。裁判でXがYに、Yがすでに返済した借金を支

払うよう要求してきたら、Yは返済したという事実を抗弁として提出するであろう

が、「私は支払わない特権をもっている」などとは言わないであろう。

若干の例を出しただけだが、特権ないし自由という言葉は、実務では一般に不要

と言ってよいであろう。前述のリンドリー卿の意見に対するホーフェルドのコメ

ントに見られるように、「自由」という言葉を使うからこそ、混乱や議論のごまか

しが生じるのであるから、「自由」や「特権」という言葉は、むしろ使わないほう

がよい。他方、法理学者が論じる法律関係論の観点からみても、ホーフェルドによ

れば、特権に言及する文はすべて、義務と否定を使って言い換えることができるの

であるから、「特権」と「自由」という概念はいっそう不要である。権能・責任関

係の否定であるところの免除権・無能力関係も含めて、法律関係の否定は法律関係

ではない(26)、と考えるのが素直であろう。

そうだとすると、特権ないし自由は、不要な法律関係を表すということになる。

しかし、(する、またはしない)義務がないことと、(しない、またはする)自由と

は同じと考えてよいのだろうか。ホーフェルドの定義からは生じないはずの疑問

――前述 3の最後に触れた違和感に通じる問題――がどうしても残る。

(25) Albert Kocourek, Jural Relations, Indianapolis: The Bobbs-Merrill Company,1927, pp. 92-94, 127-128, 364-376, 378-382, and 393-426参照。コクーレクの法律関係論の紹介・検討として、亀本・前掲注 (4)「法律関係論と権利論」102~110頁、亀本・前掲注 (5) 67~78頁、佐藤・前掲注 (6) 81~96頁参照。コクーレクによるホーフェルドの特権概念批判の紹介として、Singer (supra note 3), pp. 991-993参照。

(26)亀本・前掲注 (4)「法律関係論と権利論」100頁参照。

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法における自由について(亀本)

5 自由の行使

「自由」(liberty)に言及するに英語論文を読んでいると、「自由を行使する

(exercise)」という表現に頻繁に出くわす。ところが、ホーフェルド的「自由」で

は同じことを意味するはずの「しないことの無義務(no-duty-not)を行使する」

という表現は見たことがない。もっとも、「しない義務がないことを行う」という

同義の表現に転換すれば、不自然さはなくなるであろう。しかし、そうすると、そ

れが「(する)自由の行使」と同義であることが、かえってわかりにくくなる。

注意するべきことに、ホーフェルドにおいて、「自由」は「しない義務がないこ

と」であるのに、「自由の行使」と言ってしまうと、「しない義務がないことを行

う」と翻訳せざるをえず、「行う」という余計なものがくっついてきてしまう。「行

う」とか「行わない」とかは、ホーフェルド図式の埒外にある。もっと正確にいえ

ば、「何かを行う自由」、「行わない自由」は、ホーフェルド図式に入ってくるが、

「自由を行う(=行使する)」はホーフェルド図式の関知しないところである。「自

由を行使する」とは、何かを実際に行うこと(あるいは、「しない自由を行使する」

とは、何かを実際には行わないこと――以下では、こちらのほうの話は原則として

省略する)をさす。

「実際に行う」こと自体は事実問題であって、権利問題ではない。ホーフェルド

が「自由」という用語を嫌い、「特権」が優るとした理由はまさにその点にある(27)。

「特権」であれば、それが事実を表す概念だと誤解するおそれは少なくなる。「無義

務」のほうがもっとよいが。

(27)ホーフェルド自身はFLC, pp. 49-50において、privilegeが libertyに優る理由として、後者が法律関係としてではなく、物理的または人身の自由(すなわち物理的拘束の不在)という意味で使われる可能性が高いことと、特定の二人の人の間の特定の関係と区別される 

一  •

般  •

的  •

な 政治的自由(圏点は原文イタリックに対応)という含みが非常にしばしばあることとを挙げている。また、licenseを privilegeの同義語として使うことが不適切な理由として、それは、精

神的または物理的事実をその事実によって発生する法律関係と混同する一例にほかならず、licenseについていうと、その言葉を正確に使う場合、それは特定の特権が発生するための諸事実の集合をさす、ということを挙げている。要するに、法律関係以外のものをさす可能性が高い言葉と、事実をさす可能性が高い

言葉とを避けたい、ということである。

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法律論叢 91巻 6号

6 許可

批判法学の陣営に属するシンガーによると、ホーフェルドにおいて、「『特権』と

は、一定の仕方で行為する許可(permission)であって、そのように行為しても、

他人に対する損害賠償責任を負うこともないし、他人が国家権力に訴えてその行為

を阻止することもできない、そのような許可である」(28)とされる。

「他人に対する損害賠償責任を負うこともない」は、無義務を意味するから、ホー

フェルドの特権の定義に忠実である。「他人が国家権力に訴えてその行為を阻止す

ることもできない」は、「国家権力に訴えて」の部分に(法律関係としての)「権能」

が含まれるから、「他人には差止請求権がない」と言うほうが正確であるが、ここ

では大目に見てさしつかえない。だがそれは、他人の無権利を意味しているだけで

あり、法律関係としては同義であるところの相関項を通じて特権を説明しようと

するものであるから、特権の直接的定義ではない。問題は、「許可」(permission)

という言葉である(29)。

シンガーは、ホーフェルドの特権を説明するために「許可」という言葉を使うこ

とを正当化するためもあってか、ホーフェルドが「許可する」(permit)という言

葉を使用する箇所を引用している(30)。再引用しておこう。

「 •許  

•可  

•す  

•る 法のルールは、 

•禁  

•止  

•す  

•る 法のルールと同様、リアルなものである。同

様に、『法がある特定の行為をXに、XとYの間で •許  

•可  

•す  

•る 』ということは、『法が

ある特定の行為をXに、XとYの間で •禁  

•止  

•す  

•る 』というのとまったく同じく真正

な法律関係を述べているのである。そうであることは、前者の種類の行為が『合

法』(lawful)、後者の種類の行為が『不法』(unlawful)と通常呼ばれるという事

(28) Singer (supra note 3), p. 986. シンガーの論文については、船越資晶『批判法学の構図――ダンカン・ケネディのアイロニカル・リベラル・リーガリズム』(勁草書房、2011年)49頁注 36に言及がある。ちなみに、同書 41頁にある「ホーフェルドの誤謬(HohfeldianError)」という訳語は、「ホーフェルドが誤っている」という意味ではないから、「ホーフェルドが指摘する誤謬」、「ホーフェルド派のいう誤謬」または「ホーフェルド派から見た誤謬」のほうがよいと思う。ケネディが紛らわしい表現をわざと使ったので、そのレトリックに忠実に、という趣旨かもしれないが、普通の読者は誤解する可能性が高い。

(29) Adams (supra note 18), p. 89もまた、「特権」を「許可」(permission, permitted)によって説明しようとしている。

(30) Singer (supra note 3), p. 991.

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法における自由について(亀本)

実によって、ある程度確認されるように思われる。」(圏点はホーフェルドの原文イ

タリックに対応)(31)

最後の文からすると、合法か違法かという刑法の話をしているかのようにも見え

るが、決してそうではない。前半にある二重かぎ括弧で囲んだ二つの文のなかにと

もに「XとYの間で」という文言が周到に組み込まれていることからわかるよう

に、法律関係の話をしているのである。シンガーは省略しているが、この文章は、

法は命令(「しない命令」であるところの「禁止」も含む)からなるという通念に

邪魔されて、特権・無権利関係をリアルでないとする立場に反論する文脈で書かれ

ている。それゆえ、「法がある特定の行為をXに、XとYの間で禁止する」という

文は、「YはXに対して、その行為の差止請求権をもつ、あるいは少なくとも、そ

の行為に対する損害賠償請求権をもつ」という意味に解さなければならない。他

方、「法がある特定の行為をXに、XとYの間で許可する」という文は、「YはX

に対して、その行為の差止請求権も、その行為に対する損害賠償請求権ももたな

い」、同じことであるが「XはYに対して、その行為をする特権をもつ」という意

味に解さなければならない。要するに、ホーフェルドには、特権を「許可」によっ

て説明する意図は豪もないのである。

ホーフェルドが法律関係を表すために、特権に代えて「許可」という言葉を用いる

ことは決してない。「許可」を、何かを「許されている」(permitted, permissive)

または「してよい」(may)地位などと言い換えても(32)、法律関係の表記にとっ

て得るところはない。それらの言葉は、上記ホーフェルドの周到な叙述にもかかわ

らず、合法の意味に直結しやすく、XとYの間の法律関係をさすという最も重要な

(31) FLC, p. 48. n. 59.(32)たとえば、L. W. Sumner, The Moral Foundation of Rights, Oxford: Clarendon Press,

1987, pp. 22-23参照。かつて私は、亀本・前掲注 (4)「ホーフェルド図式の意味と意義」84~86頁および『法哲学』146~149頁で、義務様相を用いてホーフェルド図式を解釈するサムナーの試みを紹介し、高く評価していた。だが今では、ほかの論者によるものも含め、義務論理学の中途半端な応用は、法律関係論にとっても、法学全般にとってもあまり役に立たないと考えている(ここでは立ち入らないが)。義務様相(obligation)を導入して規範を解明する古典的な試みとして、Alf Ross, Directives and Norms, London:Routledge & Kegan Paul, 1968, chaps 5 and 6参照。ただし、義務についてはホーフェルドも、shouldを使って記述しているが、義務様相としてではなく、要求を表す助動詞として使っているだけである。たとえばFLC, p. 41参照。

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法律論叢 91巻 6号

点を表しにくい。「許可」という言葉には、それ以外にもいくつかの欠点がある。

敷衍しておこう。XがYに、自分の土地に立入ることを「許可」(英米法では license, licenceと

いう法律用語を使うが、同義と考えてよい)したら、Yは、Xに対して(33)今まで

負っていた立入らない義務がなくなる、つまり立入る特権をXに対してもつこと

になる。XがYに対して「入っていいよ」と言うなどして「許可する」という行為

自体は、事実であって、法律関係ではない。法律関係の変化をもたらす事実ではあ

るが(34)。

その点を少し補っておこう。XがYに立入りを許可する行為によって、YがX

に対して負っていた立入らない義務が消滅する前提として、XがYに対してその

ような権能をもっているということ、したがって、そのような権能・責任関係が法

律上存在するということがある。権能は法律関係に属するが、注意するべきこと

に、権能の行使、ここでは「許可する行為」は事実である。

ちなみに、権利・義務関係では、行為する(または行為しない)のは義務を負う

者であったのに対して――したがって、「する義務」、「しない義務」とは言えても、

「する権利」、「しない権利」とは言えない――、権能・責任関係では、行為するの

は権能をもつ者である点にも注意されたい。責任を負う者は、何も行為せず、権能

が行使された場合、その法律効果が及ぶというだけである。先の例でいえば、XがYに立入りを許可したら、Xとの関係で、Yに立入る特権が生じることを称して、

「YはXに対して責任を負う」といういささか奇妙な言い方をするのである。

さらに補うと、XがYに立入りを許可した結果、Xとの関係でYに立入る特権

が生じたとしても、Xには、Yを立入らせる義務はない。逆からいえば、YはXに

対して、XがYの立入りを阻止しないことへの請求権をもっていない。Xが土地

の周りに壁を立て鉄条網を張って、Yの侵入を断固阻止しても、Yは裁判に訴え

て、立入りを勝ち取ることはできない。Yには、立入る特権はあっても、立入る権

利(正確にいうと、「Xに立入りを妨害されない権利」)はない。

(33)ちなみに、Yは、所有権者である(正確にいうと、権原をもつ)X以外の人に対しては、Xの土地に立入らない義務を負わない、つまり立入る特権をもつ。X以外の人は、Xの土地にYが立入らないことへの請求権をもっていないからである。このことから、法律関係としての「特権」が「合法」に直結しないことが理解されよう。

(34)前掲注 (27)第二段落参照。

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法における自由について(亀本)

逆の事態を考えると、Yが空から落下傘で降りるなどして、違法行為も不法行為

も犯すことなく、壁で閉じられたXの土地に侵入した場合、Xが許可を撤回――

撤回権能の行使――しないかぎり、Yには立ち入る特権が依然ある以上、Xは裁判

に訴えてYを追い出すことはできない。特権に権利が伴わない二種類の事態のう

ち、シンガーが注目するのはこちらのほうである。

7 自由の闘争

先ほどのリンドリー卿の事件に関連づけていうと、もし自由(特権)に、その行

使の妨害をやめさせる権利(ほとんどの場合、請求権)――以下しばらく、叙述の

便宜のため、厳密には請求権でないものも含めて、非常に広い意味で「妨害排除請

求権」と呼ぶことにする。それには、物権的請求権だけでなく、損害賠償請求権、

詐欺・脅迫による意思表示の取消権(正確には取消権能だが)、公序良俗違反の法

律行為の無効の主張、権利濫用の主張等々も含めることにする。――が伴わないの

ならば、経営者には、非組合員を雇う自由がある一方で、労働組合員がそれを妨害

しないことへの権利はない。そのかぎりで、労働組合員は、そのような妨害を行う

自由を経営者に対してもつが、それをまた妨害する自由を経営者は労働組合員に対

してもつことになる。お互いに、そのような自由を行使すれば、対立抗争が生じる

であろう。

シンガーの関心は、このような自由と自由の闘争にある。しかし、正確にいえ

ば、お互いに自由を行使した場合の対立、すなわち二つの行為の事実的な衝突で

あって、法律関係としての自由(特権)相互の対立ではない。Yに対してXがも

つ、Xが pをする(たとえば非組合員を雇用する)自由と、Xに対してYがもつ、Yが qをする(たとえば非組合員の雇用を妨害する)自由とは、pと qの内容が別

物である以上、法律関係上の関係をもたない。

くり返すが、シンガーの関心は、ホーフェルド的「自由」の行使が、他人のホー

フェルド的「自由」の行使を妨害しても、他人に妨害排除請求権がない以上、合法

的に損害を与えることができ、事実、そのような損害が往々にして生じる(たとえ

ば、前述 1で触れた不法行為法によって救済されない「損害」のことを考えればよ

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法律論叢 91巻 6号

かろう)ということにある。そのかぎりで法律関係に関心がないシンガーは、法律

関係上は最も重要な「だれからだれへの」自由かについてはまったく触れない。む

しろ、万人の万人に対する「自由」のことを考えているのである。

たしかに、ホーフェルドの特権(自由)の定義は、妨害排除請求権から切り離さ

れている。だが、特権(自由)をもつ人に、それとは別の権利として妨害排除請求

権をまったく与えないか、与えるとしてどのようなものにするかは、シンガーも知

るとおり「正義と政策」(35)の問題であって、法律関係論や権利概念の分析から答

えが出てくるような問題ではない(36)。

これに対して、シンガーは次のように考える。ホーフェルド(正確にはサーモン

ド(37))より前は、各人は、他人に損害を与えないかぎり、他人に妨害されずに自

由に行為する権利があるという自由主義の幻想が法の分野でも幅を利かせていた。

そのようなイデオロギーは、自分の領域と他人の領域の区別が可能であることを前

提にしているが、その境界は実際にははっきりしない。自分の領域を狭くとると、

自分の自由は減少してしまう。そのこと自体が、自分のホーフェルド的自由の行使

の妨害である。他方、強力な妨害排除請求権を各人に与えると、各人の自由が拡大

するかに見えるが、同じ権利は他人にも与えられるから、必ずしもそうはならない。

各人がホーフェルド的自由を行使すれば、闘争になり、勝者と敗者が生まれる。法

の分野にも及ぶ上記の自由主義イデオロギーは、そのことを隠蔽してきた(38)。

このような隠蔽の暴露に(自由と請求権を分離した(39))ホーフェルドが最も

貢献した、というシンガーのいかにも批判法学派的な解釈は独創的であるものの、

ホーフェルドにそのような意図がなかったことだけは確かである。ともかく、シン

ガーが「自由」という言葉を、行動の幅が広まるとか狭まるとか、損害を与えると

か与えられないとか、ほとんどすべて、事実のレベルで語っていることに注意され

たい。

(35) FLC, p. 43.(36) Singer (supra note 3), pp. 993-994参照。(37) Ibid., pp. 1042 and 1046-1047参照。(38)上記シンガー論文全体の、ここで必要なかぎりでの要約。(39)シンガーは、Singer (supra note 3), p. 987で、「ホーフェルドの中心的な目標は、法的

自由と法的権利の根本的な違いを明らかにすることであった」とさえ言う。ホーフェルドを読めば、そうでないことは、だれにでもわかる。とはいえ、私は、そのようなシンガー流の読み方はなかなか鋭いと思う。

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法における自由について(亀本)

シンガーの見解でむしろ注目するべき点は、ホーフェルドの時代より前の自由主

義イデオロギーを、ミルの『自由論』(1859年)に注目して「自分だけに関係する

行為(self-regarding acts)の原理」というかたちで明快に把握した点にある。シ

ンガーによる『自由論』からの引用(40)をくり返しておこう。

「人間の行為の中で、社会にしたがわなければならない部分は、他人に関係する

部分だけである。自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶

対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者で

ある(41)。…… ……とすると、今まで述べたことが、人間の自由に固有の領域な

のである(42)。」

実際には明確な境界線などないのに、自由が「領域」として把握されている点に

注意されたい。それは、土地所有権のメタファーでとらえることができる。土地な

らば動かないから、侵入を排除すること(妨害排除請求権)だけを考えておけばよ

い(43)。不動の土地をどう利用するかは所有権者の自由である。そのかぎりでは他

人との関係は登場しないから(「自分だけに関係する行為」)、「自由の行使」は、法

律上の「自由」ではなく、単なる事実の問題である。しかし、人間の自由の領域

は、動くから、他人の領域と交錯し、事実の問題として闘争が始まる。ミルの見解

は、このことを忘れさせるのに貢献した。

シンガーは、「自分だけに関係する行為」の原理を土地所有権のメタファーでと

らえているわけではない。にもかかわらず、私があえてそうしたのは、そのよう

な権利のイメージは、日本では(ホーフェルドの出現にもかかわらず、おそらく

西洋諸国でも)いまだに強いと考えているからである。「権利」の説明を所有権か

ら始める多くの教科書が、その証拠である。法理学上の証拠は、すでに触れたが

(前述 1参照)、自由を、その行使を保護する各種の法的義務(私法上の広義の「妨

(40) Ibid., p. 995.(41)早坂忠訳「自由論」関嘉彦編『中公バックス 世界の名著 49 ベンサム J. S.ミル』(中

央公論社、1979年)225頁。(42)同書 227頁。(43)ノージックの有名な「横からの制約」(side-constraint)は、そのようなものである。

Robert Nozick, Anarchy, State, and Utopia, New York: Basic Books, 1974, p. 29,嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア』第 7版第 1刷(木鐸社、2004年)45頁参照。

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法律論叢 91巻 6号

害排除請求権」に相関する義務による保護だけでなく、刑法的ないしは行政法的

義務の賦課による保護も含まれる)と結びつけて定義するハートの「自由・権」

(liberty-right)の見方に見られる(44)。ミル以来の自由主義イデオロギー恐るべ

し、と言うべきか、法理学の退歩と言うべきか。

ところで、シンガーのいう「自由」は、それを行使される側から見ると、「殴ら

れたら殴られっぱなし」というイメージである。これを表すのに、ホーフェルド

は「無権利(無請求権)」という言葉を用いた。それに先立ち、サーモンドは「責

任」(liability)という言葉を用いた。彼は、権能の相関項でも同じ言葉を用いたの

で(45)、イェール学派として、ホーフェルドの学問的地位を高めることを狙うW.

W.クック(1873-1943)から、二つの概念の相関項として一つの言葉を用いるの

はいかがなものか(46)、という瑣末な批判を受けた。

だが私は、liabilityのほうが先のイメージに近いと思う。さらに、自由(特権)

も権能も、それを行使する(つまり行為する)のは、自由(特権)または権能をも

つ者であり、相手方は何もしないのであるから、共通の言葉を用いるのには理由が

ある、と考える。サーモンドよりホーフェルドのほうが優れている、などという言

説を簡単に信じてはいけない(47)。

(44) Hart (supra note 4), pp. 166-167, 邦訳 104~106頁参照。それに対する批判として、亀本・前掲注 (4)「ホーフェルド図式の意味と意義」87頁、『法哲学』152頁、「法律関係論と権利論」114~116頁、Kamemoto, pp. 177-179参照。「法律関係論と権利論」120~123頁で取り上げたヒレル・スタイナーも、哲学の分野でではあるが、権利を土地所有権的に把握しているから、同様の一例となる。Hillel Steiner, An Essay on Rights,Oxford: Blackwell, 1994,浅野幸治訳『権利論 レフト・リバタリアニズム宣言』(新教出版社、2016年)参照。法理学の分野でも、ハートの悪影響というべきか、「自由」を、それを保護する義務と

一体化させた「権利」として定義する傾向は依然根強い。一例として、Andrew Halpin,“Bentham’s Limits and Hohfeld,” Guillaume Tusseau (ed.), The Legal Philosophyand Influence of Jeremy Bentham: Essays on Of the Limits of the Penal Branch ofJurisprudence, London and New York: Routledge, 2014, pp. 196-223, esp. 212参照。ホーフェルドがあえて分離した「する自由」と「しない自由」を、権利と「選択の自由」を不可分なものとするハートに倣って、結合させている点は嘆かわしい。

(45) Salmond (supra note 7), p. 236参照。(46) Cook (supra note 10), FLC, p. 11参照。(47)前掲注 (8)および (17)も参照。

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法における自由について(亀本)

8 特権と自由

デイヴィド・アダムズは、ホーフェルドの批判者たちがホーフェルドの「特権」

を誤解する一因が、彼らのほとんどが「特権」に代えて「自由」という言葉を用い

ることにあると指摘した上で(48)、次のように述べている。

「『私には pをする特権がある』(I am “privileged” to do p)という主張からは、

『私には pをする自由がある』(I am “at liberty” to do p)という主張は出てこな

いように思われる。後者は、より強い主張をするものであるように思われる。『私

には何かをする自由がある』ということは、①『私はそれをすることを許されてお

り、それをしないことも許されている』と、②『この許された行為は、他者に課せ

られたそれを妨害しない義務によって保護されている』との両方を示唆する。」(49)

そこで「出てこない」とされる主張こそ、前述(1および 7ならびに注 (44) 参

照)のハートら(50)の主張にほかならない。自由という言葉は、「したいようにで

きなければ私は自由ではないから、することも、しないことも、できなければなら

ない」、また「したいことを他人に妨害されたら私は、それだけ自由でなくなるか

ら、妨害排除請求権も当然に伴う」ということを「言葉の魔術」によって含意する

のであろう。

そこでは、「自由」は、第一に、主として身体的・物理的自由を中心に観念され、

自分の欲望との関係で定義されている。第二に、そのような自分の自由の行使(す

なわち自分のしたい行為の遂行)が他人によって妨害されることが自由の減少とみ

なされる一方で、「自由」自体は、自分だけに関係するものとしてとらえられてい

る。いずれにせよ、そこでいう「自由」は事実を表す概念である。「しない義務が

ない」というホーフェルド的「自由」が、事実の世界ではなく、義務の世界に存在

するのと対照的である。

「無義務」も「自由」もホーフェルド的特権を意味するとして、「無義務」と言

(48) Adams (supra note 18), p. 87.(49) Ibid., pp. 87-88.(50) Ibid., p. 91, n. 18 and n. 19に何人か挙げられている。前掲注 (44)で挙げたHalpinも

ハート派の一人である。

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法律論叢 91巻 6号

えば、その義務の内容(「pをしないこと」、「pをすること」等々)の実行が連想さ

れにくいのに対して、「自由」と言えば、その自由の内容(「pをすること」、「pを

しないこと」等々)の実行(とその結果の享受(51))が連想されやすい。実行され

れば、純粋に自分だけにかかわる行為など存在しないのであるから、事実的な衝突

が生じるであろう。それに法が介入することもあるし、介入しないこともある。

どちらがよいかは「正義と政策の」問題であり、その際、当然事実が考慮され

る。ホーフェルドを援用する哲学者のなかには、そうした政策判断を権利概念の定

義に含ませて、自分が支持する政策判断に有利なデフォルトをあらかじめ作ろうと

する人が多い(52)。それは、裁判と法学が今日までずっと行ってきたのと同じ試み

でもある。ホーフェルドは、権利と特権の区別によって、それが結論先取り論法に

陥りがちであることを明らかにした。

「自由」を何と考えるにせよ、それを法によって保護したければ、各人の自由の

拡大が各人の自由の減少を招くことに留意して、自由保護のための請求権その他の

法的手段の内容を思案するしかないのであって、それを「自由」という言葉や権利

の構造的定義によって正当化しようとするのは、法哲学的には不毛な試みである。

(明治大学法学部教授)

(51) Halpin (supra note 44), p. 212参照。(52)枚挙にいとまがないが、前掲注 (32)で挙げたサムナー、前掲注 (44)で挙げたスタイナー

のほか、たとえばGeorge W. Rainbolt, The Concept of Rights, Dordrecht; Springer,2006がある。ハートの「自由・権」(liberty-right)と同じく、「する自由」と「しない自由」と「妨害排除請求権」をパッケージにして「自由・権」(liberty right)とした上で、最低所得への権利も「自由・権」と同じ構造をもつという。後者は、一定額の所得をもつ自由、一定額の所得をもたない自由、そして、私がその所得額をもっていない場合、他人が私に一定額の所得を与える請求権――「妨害しない義務」を「助ける義務」に読み換えればよい――のセットだという(ibid., pp. 30-31参照)。

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