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Title 望の意義について

Author(s) 矢野, 主税

Citation 長崎大学教育学部社会科学論叢, 21, pp.一-一六; 1972

Issue Date 1972-02-29

URL http://hdl.handle.net/10069/33690

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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望の意義について

頭第一群

薄二節

第三節

結  語

次諸説の要約と問題の所在

唐朝の望の意味と用法について

唐朝の望11郡望について

 従来、望の意義については、地唄南朝を中心に越智氏が、北朝を

中心に筆者が、唐代を中心にして、竹田氏及び池田氏が、それぞれ

言及されていて、現在のところそれぞれの時代における望の意義に

ついてはかなり明かにされており、その歴史的意義も一応言及され

ているといってよいであろう(註)。ところが、これらの研究によれ

ば、魏晋南朝と北朝とにおいては、望は人に関して使用されたもの

で、殆んどその点変りないと考えられるにもかかわらず、二代で

は、そのような用法もあるのではあるが、それらと異って、土地に

関して使用された例が極めて多くなってくる。では、そのような唐

代独自ともみられる用法は、魏々南朝或は北朝における用法と全く

無縁なものであろうか、更に、万代のこのような独自ともみられる

用法の出現は、どのような歴史的意味をもつものであろうか、など

の疑問がわくが、これについての研究は現在までのところ行なわれ

ていないようである。筆者は従来の諸説を要約し、その上に立っ

て、当代にみられる土地に関する用法について考えてみたい。

註、望についての各氏の論文は次の如くである。本論においてこ

 れらの論文に言及する場合は、単に「某氏前掲論文」と記す。

 越智重明氏「魏晋南朝の士大夫について」(「東洋史学」第二十九輯)

 矢野「北朝における民望の意義について」((「長崎大学学芸学部社

 会科学論叢」(第六号))、竹田龍児氏「唐代士人の郡望について」

 (「史学」(第二+四巻第四号))、池田温氏「唐代の郡望表上・下」

 (「東洋学報」(第四十二巻第三・四号))。

第一節 諸説の要約と問題の所在

 先ず従来の諸説を要約し、問題の所在を明かにすることからはじ

めたい。

ω珍書南朝の望について。1越智氏所説の要約(前掲論文による)。

 越智氏が魏晋南朝の望について述べられたところを要約すると、

大よそ次の如くである。

 「人物に関して用いられた望という用語には、人々の望みみる人

物、人々から望みみられる人物といった意味をもつものがあるが、

その中には、主としてe政治理念的観点から用いられるものと、口

官界の現実に密着して用いられるものとが考えられる。eの望は、

六朝的な儒教の政治的理念という観点から理解されるもので、例え

ば南窺書(23)の、 「史臣日。……楮渕當年始初運。清塗己顕。数

年之闘。不患無位。昼酒民望御見引。亦随民望三期之。」というの

は、宋の天子がその大権行為の一つとしての人事において、民の望

みによって楮渕を挙用し、又楮渕が民の望みに従って宋王朝を去っ

                        一

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長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号(矢野)

たのを述べたものであるが、この前半は政治理念上天子の行うこと

が、人々の望みに応えるべきものであったことを示唆している。さ

て、魏の州大中正制の出現前においては、郷党におけるその個人に

対する評判一その才徳の評価が、官僚としての資格をきめたので、

州大中正制出現前においては、望についての、政治理念と官界にお

ける現実との一致があったといえよう。ところが州大中正出現後、

家格の固定化が強まり、望をめぐる政治理論は単なる理念と化して

ゆき、ここに望の用法についての、官界の現実の場における変化が

起ったといえる。即ち、口の官界の現実に密着して用いられる望

は、以上のような個人中心から家格中心へという時代の流れの中

で、第一には、望が旧来通りの個人を対象とした用法である場合

は、官僚たる条件の中で望のもつ比重が軽くなるし、第二には、望

が個人を主対象とした用法ではなくなり、家格の高いこと、それに

基く現象を指すようになる、というような変化が起ったと思われ

る。例えば前者については、曝書(79)紅隈伝に、 「石在職。務存

文刻。既無他才望。直以宰相弟、兼有大勲。遂居清顕。」というの

は、陳津軽氏に属する者は、才望がなくても要官につきえたのを示

し、後者については、晋書(66)陶侃々に、 「史黒日。……士行、

望非世界。俗異乙嫁。」とある場合の望は、家柄の高い点といった意

味であろう。」

 越智氏は以上のように主張されているが、氏の意見を更に箇條書

きにしてまとめてみると、

一、望は本来個人を対象としたもので、それは魏晋南朝を通じて用

いられた、

二、州大中正設置以降、それまでの望についての、政治理念と官界

における現実との一致が破れて、現実的には、家格の高さ、或はそ

れに基く現象を指す用法が発生した、

となるようである。ということは、門閥社会の成熟につれて、望の

意味、用法はその本来的なものから、門閥社会的なものへと変化拡

大した、ということになるようである。

ω 北朝の望について。f筆者説の要約(前掲論文による)。

 筆者の小論の内容を要約すると次の如くである。

 「望の半里的な意味は、 「のぞむ」 「のぞみ」 「のぞむところの

もの」 「のぞまれるもの」という如きものであろう。従って、朝に

あれば朝望であり、才があれば才望であり、徳があれば徳望であ

り、或は、職望が職そのものを指すような、単に修辞としての用法

もあった。但し、これらはすべて個人に関する表現である。ところ

が、既に早く三国時代から、一族の格式の高さを示す用法が生じ、

望族とか族望とかの如く、一般的に有力氏族を意味するものは、南

朝にも北朝にも行われていた。北耳茸になると、地方豪族のある階

層を示すものとして用いられることも行われ、例えば、族望、士望

都民望、民望などと呼ばれた社会階層の存在を指摘できる。」

以上の筆者説の要約を、更に草藁書的に示せば、

一、望は本来個人的な資質を示す用法が多く、時には単なる修辞と

 して用いられることもあった、

二、一族の家格を示す用法も魏から南北朝にかけて存在した、

三、北朝では、土着勢力の階層を示すのにも用いられた、

 というようになろうか。

㈲ 唐朝の望について。1池田氏、竹田氏所説の要約(両氏前掲論文

 による)。

 先ず、池田氏の説明をみるに、大体次の如くである。

「望は本来ノゾミミル・ノゾムという動詞であるが、更にこの動詞

の対象となるノゾミミラレルモノ・ノゾマレルモノという意義をも

つ。そして六朝時代の人物評定の基準は全く郷里の人々の評判即ち

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声望に依存した。官人の推薦評定にあたる中正の任は、本人の才識

(徳)とならんで郷党の客観的評価たる望を忠実に国権することで

あった。ここにおいて望が個人から特定の家系、更に特定の著姓と

結ばれる。又望は本来郷里と不離の関係にある。従って、望が家

系、姓即ち人間から一転してその出身地をも意味する場合が生まれ

た。このような語義の転化の過程は当然その背景として系譜尊重の

社会或いは中正制度の大きな力を予想せしめるものがある。

 一方門閥の居住地についてみるに、本来郡の賜姓から育った門閥

も、官僚機構に組入れられると共に都に居住するようになるのは必

然の勢で、本貫との結びつきは稀薄化する。竹田氏によれば、壁代

士族は一般に本貫地と現住地とをことにし、亜聖というのは、その

曾ての本貫に他ならない。六朝門閥が拾頭し、姓望の重視と共に、

郡名と姓の結びつきが固定化したのは三世紀頃のことであった。永

嘉の乱後、多くの衣冠の族が江南に逃れるにつれて、抽象的郡望観

念は強まったであろう。姓望として固定化されたその出身の郡名

が、流図などによって現実性を失うや、それ自体が一つの抽象的価

値に変化したのであろう。」

 次に、竹田氏の説明は次のようである。

 「郡望とは元来は郡中の望族の意味であろうが、転じて蟹族達の

そもそもの本拠でもあり本貫でもあった地を称するに至ったものと

思われる。内藤湖南博士は郡望を原籍とされているが、それでは簡

にすぎるので、 『祖先発祥の地』とか、 『一族本来の根拠地」とか

いった風な、一族にとっての由縁の地であることを物語る一種のニ

ュアンスが感ぜられる。史通では郡望という語は用いないで、 『姓

望出つる所の邑里」としているが、この語を邦訳するとすれば、

『昔の本籍』とでもいうより他はなかろう。この郡望を称する風習

は、何時どのようにして起ったかについては、門閥主義の発達と関

望の意義について(矢野)

連させて、起源を後漢に求める説があり、又更に、同姓間の系属関

係を明かにする為でもあったと考えられる。」

 以上の池田、竹田両氏の所説を、更に箇條書きとしてまとめれ

ば、池田氏については、

一、望は本来は個人的資質評価に関する用法であったろう、

二、中正制度下で、郷党の評価たる声望を重視するようになると、

 個人から家系、姓、更には郷里をも意味するように転化した、そ

のような郡と姓との結びつきは恐らく三世紀頃のことであった、

三、東晋以降、士人達の出身難名が現実性を失うと、反って郡望観

 念は強まったであろう、

といえるし、竹田氏については、

一、門閥主義の発達、一族の分派などによって郡望は成立した、

二、郡望とは郡の望族の意であったが、転じてその馬鐸の本拠地を

 さすようになったものであろう、

といえようか。

 さて、このようにみてくると、各氏の説に共通の点があることに

気がつく。それは、

ω 望は元来は個人的資質に関するもので、それは魏晋南北朝、唐

 朝に通ずるものである、

② 更に、門閥社会においては、家格、家系の地位などを示すもの

 としても用いられた、

ということであろう。ところが唐代には、他の時代にみられない用

法があった。それは、いうまでもなく、

.㈲ 「その嘗ての本貫地」という意味の用法が一般化した形で用い

 られた、

ということであった。

 こう考えてくると、魏晋南朝及び北朝においては、実質的には

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長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号

「望u郡望」は存在していたにもかかわらず(この点については、別に

「郡望と土断」なる論文((史学研究」百+三号)で詳細にふれる)、形の

上では、そのような望の用法は全くなかったということになる。で

は、魏晋南朝や北朝においては、実質的に唐代の郡望にあたるよう

な、望の使用は行われなかったと断じてよいのであろうか、若し昔

の本貫地を意味する語としての望11郡望が、始めて唐代において現

われたのであるならば、そのような新しい用法出現の意味はどうい

うことなのか等の疑閥が起るのである。以下、それらの疑問に対す

る解答を考えてみたい。

第二節唐朝の望の意味、用法について

 先ず唐代においても、前代からみる望の用法が依然として用いら

れたことを簡単に述べ、ついで、次節において唐代独自の土地に関

する用法について評論してみよう。

ω 個人に関する用法。

㈲ 人物をさす望について。いま、中州家山遺文、孟頭墓誌銘をみ

 るに、

 「君誹頭字恵。朧西之望也。」というのは、孟頭なる人物が朧西の

望であるといったのであり、文苑英華(269)長府墓誌に、

 「独孤公文徳為天下望。幽閉則従容討論。出血無慮政事。」

とみえ、鄭下家墓遺文、張悸墓誌に、

 「祖哲金紫光禄大夫、恒州刺史。父慶輔国将軍、諌議大夫。並民

 望国華。朝推領袖。」

とみえ、池田温氏著「唐代氏族志の一考察」 (「北海道大学文学部紀

要」(13の2))所引、敦燵名族志櫛巻には、

 「陰氏、随唐已来。尤為望族。……陽祖、郷閾令望。州縣田儀、

 年八十四。」

とみえる。これらの、望、民望、令望が、すべてある人物について

いわれていることはいうまでもないであろう。

働 個人の政治的、社会的地位、或は資質に関するもの。いま、八

 年魚金石補正(65)浬王妃章氏墓誌によるに、

 「妃姓章氏、虚血兆長安人。祖提皇朝中綬大夫。……父昭訓皇朝

 中散大夫。……皆公望。」

とみえる。これは祖や父がそれぞれ公望であるといるのであるか

ら、三公たる資質をもった人物と解してよいであろう。

 或は又、全唐文(705)太中大夫国子祭酒頴川豆蒔国男賜紫金魚袋

贈戸部尚書韓公行状には、

 「未弱冠。以門蔭補宏文生。満歳参調。侍郎達契殉。矯二念正。

 占地望降資。署島影太子陵令。」

とあり、全唐文(368)義成軍節度使贈太保二二翰碑銘にも、

 「以公人才地望。宜副領條。起家云々。」とみえ、全唐文(787)章

斌伝にも、

 「章斌叢生於三門。善性頗歯質。揚地望素高。冠菟特盛。」

とあり、更に八鍵室金石補正(36)衛尉少卿息豆盧孫墓誌にも、

 「衛尉少卿愈愈高華。音容紹令。」           ・

とみえている。これらの地望は、門地、家柄という如きで外それら

の人々の社会的地位を指すものとして誤りあるまい。これに似た用

法に、八環室金石補正(36)太子左衛長史杜延基善悪氏墓誌に、

 コ一当杜延髄、籍望清華。聲芳寓縣。求我令堂。」

とみえる籍望なるものがある。これは豆盧孫墓誌の、「地最高華-」

と同様な表現と考えてよいので、やはり鐘堂杜皇基の家格、社会的

地位について述べているとしてよかろう。

㈲  一族に関する用法。

囚 政治的、社会的地位についての用法。

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 いま全唐文(023)潤州大郷寺故大徳雲禅師碑によるに、

 「俗姓申氏。其先、魏都之望。出於士爵。」とあるが、これは申氏

の祖先が魏都の望であったことを示すもので、算氏の社会的地位を

示す記録であろう。このような用法は唐代には極めて多い。例え

ば、八環金石補正(38)南週令孟貞墓誌銘によるに、

 「鞘組貞字君漢。河内人也。帝顎頚之苗冑。周文王胤緒。望重河

内。」

とみえ、全唐文(487)福建観察使鄭公墓誌銘には、

 「夫人萢陽盧氏、著作郎侑之女也。望申北州。徳成公家。」

とみえる。これらの望は、 「望は河内に重し」とか、 「望は北州に

申べ、徳は公家を成す」という表現からみるに、河内或は北州にお

けるそれぞれの家の社会的地位を示しているとみるべきであろう。

これらと同様な例は、文苑英華(439)頴川郡太夫人陳氏神道士に、

 「両州接縣。二門斉望。」

という斉望もそうであろう。碑文によってみると、雷州の陳玄の家

と、羅州の楊暦の家との二門が、その社会的地位を斉しうしたとい

うものである。

 これに対して、文苑英華(319)空々州都督王仁忠神道碑には、

 「尋黙示近姻戚、申出衣冠。価加朝散大夫。試本寺丞。」

とみえるが、この望は門地に対するものとして用いられて,いるよう

であるから、社会的地位に対する政治的地位を示しているとすべき

であろう。そのような用法は、文苑英華(009)唐贈太子太師諸公神

道碑をみるに、

 「魏以荷陳為盛挙。南朝以王謝為高望。」

といっている高望にもみられよう。もっとも、この高望は政治的、

社会的地位をくるめての高望というのかも知れない。

 ところで、そのような望は、先述門望の場合にみた如く、一種の

 望の意義について(矢野)

歴史的伝統的性格をもつものであることを思わせる記録がある。そ

れは鄭下家墓遺文翠玉、段子墓誌に、

 「君諜子字謙。其先出自武威。因官河北。今為安陽縣人。氏何由

命。、因京邑廃寺。望何箇興。自都護而著族。」

とみえるものである。ここに、「望は何によってか興る、都護より

して族を著わす。」といっているのをみれば、望とは、その祖先のう

ちのある有力者によって獲得せられて、今日まで伝えられた家格、

政治的或は社会的地位をさすと考えてよいものであろう。

 このような望と熟した一、二の例をあげてみよう。

。望族の例。望族という用法は可なり一般的であるが、それは恐ら

くは、例えば文苑英華(388)贈太尉斐行倹神道碑に、

 「魏晋聖代。諺為盛門。八戸八王。聲振海内。三子尊為三祖。望

 高士族。」

とみえて、魏晋時代の斐氏を「望高士族」としている如き意味で用

いられているものであるとしてよかろう。時には、全唐文(……)昭

義軍節度使辛公神道碑に、

 「辛氏於朧西為望家。」

という如く、望家という用法もあったようである。

 さて、以下に王族の用例についてみるに、全唐文(……)故朝州大

夫検校尚書吏号砲兼御史申丞賜紫金魚袋清河縣開国男贈靴師崔公神

道碑によるに、

 「昔為手族。今為八柳。天爵人爵。蔚然両尊。」

とみえる。この神道碑の冒頭をみるに、

 「太師諦唾字平仲。清河東武城人。……墨画之子伯基始居清河。

 又十五葉生炎。為魏名臣。又心葉生休。仕後蚊為七兵尚書。七兵

 之弟日寅。為楽安太守。公卿楽安八代孫。始以閥閲授鄭州参学。

 ……突変四姓。崔為之冠。」

                        五

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長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号

とあるのによれば、この清河仁心は自らを一流の門閥と考えていた

に相違なく、それが望族とか影壁とかの表現となったものであろう。

 或は又、鄭下家墓遺文、杜欽墓誌に、

 「直諌本字敬恵。五族長安杜康之胤。」

とみえ、八曖室金石補正(65)浬王妃章氏墓誌には、

 「妃即准陽府君之第四女也。自心置今。門為望族。」

とみえ、文苑英華(309)慶王府司馬徐府君碑に、

 「夫人賛皇縣君趙郡李氏。北州望族。」

とみえる。これらの心逸は、新唐書(……)柳沖融車引柳芳氏族論

に、 

「江左定氏族。凡郡上姓第一思為右姓。耳糞、以郡四姓為右姓。

 斉浮屠曇剛類例、細動門為右姓。周建徳氏族、以四海通望為右

 姓。.階馬下氏族、以上品茂姓為右姓。唐貞観氏族志、凡第一塾則

 為右姓。華氏著聞略耳翼門為右姓。柳沖姓族系録、凡四海下智則

 為右姓。」

とみえているところの右姓即ち各時代第一等の家格とされている四

海の.望族、という如き意味に用いられているとしてよいであろう。

 このように、望はその一族の社会的地位或は政治的地位を示す場

合に用いられたが、玉代のように、一族が多くの分派に分れ、門流

は独立したような時代となると(筆者著「門閥社会史」その他長崎大学

学芸学部社会科学論叢発表の拙稿、「重氏研究稿」「章氏研究」 「鄭氏研究」

等参照のこと。)そのような社会的評価はそれぞれの門流について行

われたようである。例えば新唐書(95)高倹伝に、

 「後房玄齢、魏徴、李動復與昏。故望不減。辛労書眉其房望。錐

 一姓中。高下縣隔。」

とみえるのは、 「一つの姓の中でも、分派としての房の中には高い

望の房もあれば、低い房もあって、一説中でも分派の社会的評価に

                        六

は高下のへだたりがあった」ということであろう。従って、望族、

望家といわれた場合でも必ずしも一族全体を指していっているので

はない場合も可なりあったと考えねばなるまい。

・族望の例。いま全唐文(116)丞相礼部尚書文公権徳送文集序をみ

るに、

 「公諦徳二字載之。天水人也。族望祖宗之遠。當官行己軸組。語

 在國史。銘於墳而碑於途。此不当詳。」

とみえ、或は太平廣記(481)氏族類、李積の條に、

 「宣言酒泉樹果談姪孫。門戸第一而有清名。常以、爵位不心事

 望。官至司封郎中、懐州刺史。與人書札、唯称朧西李積。」

とある。これらの族望は、李積の行動によって明かな如く、官爵も

及ばないものであり、或は祖先代々うけつがれたものであり、更に

現在の官がおのれ一身にかかわるものとは異っているといわれ.てい

ることで明かな如く、その一族の伝統的な社会的地位をさすものと

してよいようである。

 更に、後漢書(列伝33)朱暉伝穆の條に、 「黄門侍郎一人。傳下

書奏。皆奉射族。」とあるが、これに対する県界賢注は、

 「引用士人有族望者」

としており、姓族とは士人中の家格の高い者というのであろうか。

又、全唐文(906)唐故監察御史贈尚書左翼射王公神道碑に、

 「達意、北海劇人。遂著為族望。」

とあるのは、王氏が北海の著名な家柄となったことを示すものであ

ろう。

圖 社会階層を示す用法。

 全唐文(512)臨卯縣令封君遺愛碑によれば、

 「菓年以太夫人集去職。於時公之覆始遍年 。然三載考績。是用

 未成。百姓影響。人士瑳浴。威云我々去 。而人埣 。郷望、

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 老人、前某宮等五百絵人。或金隈之秀、玉宇之英。並服美於寛

 允。厳祇於教義。」

とみえるが、この郷望は、老人、前某官等と並べてある以上、郷党

における有力者をさすこと誤りあるまい。或は又、全唐文(……)梓

州郭縣兜率寺浮図碑によるに、

 「乃於寺内建浮図一所。某年月日。郷望磐田基宏願。継発浄因。」

とある郷望もこの寺の支持者である地方の有力者を指すと解してよ

いのではあるまいか。

㈹ 土地に関する用法

 これについては節を改めて説明を加えたい。

第三節 唐朝の望11郡望について。

 さて以上にみた望は、すべて人に関するものであった。これらは

魏晋南北朝を通じての使用法でもあった。ただ僅かに北朝末に、四

書経籍志に土地に関する用法として、「本望」(前記竹田氏論文参照)

なる用法があったに過ぎない。ところが、この殆ど用いられなかっ

たところの、土地に関する望の用法は、唐代においては極めて普通

の用法であったのである。

 このような用法としての望は、郡望ともよばれた(「元和姓纂」序

文にみえる。)。後世では寧ろ郡望という用法が一般化している(例え

ば、「八環室金石補正」の注に引用せる、近代史家の按文をみよ。)。

この郡望がどのようなものかについては、既に竹田氏の説明を引用

しておいたが、いまここに、竹田教授が挙げられた資料のうち、お

もなものをあげると次の如くである。

ω 新唐書(341)元結伝。 「上授著作郎。益著書作。自惚日。河南

 元期望也。結元子名也。茸山結算筆。世業載国史。世系在家諜。」

ω 元標長慶集(55)贈左散心身侍斐公墓誌。 「筆墨某、字某。河

望の意義について(矢野)

 東妻壁勢望也。」

㈲ 太平廣記(05L)定数類。 「卒之日。果四月八日也。後方悟、萢

 陽即鷹母型也。」

竹田教授は、これらにみえる望は単に望とあるけれども、所謂郡望

の意であろう、即ち、「祖先発祥の地」 コ族本来,の根拠地」とか

いう意味で、いわば「過去の本貫」の意味であろうとされている。

 いま、同様な例をあげてみるに、中州家墓遺文、司馬論墓誌銘に

 「君諦論、……河内至也。……司馬公、因心馳族。遂錫司馬□

菜杢。河内其望。□ロロ祖□□、任揚州戸曹。」

とみえる。司馬氏はいうまでもなく、元来は河内温縣出身の名門、

その流に属するという司馬論について、 「河内其望」といわれるの

は、 「河内は司馬氏にとって大切な、祖先発祥の地」ということで

あろう。それは宛も竹田教授のあげられた、 「河南、元氏望也」と

いうのと全く同様の表現とみられる。そうすると、ここで問題とな

るのは、土地に関する用法としての望には、どのような旦ハ体的用法

があったか、それらはすべて「祖先発祥の地」というような用法で

あったのかどうか、前代にみえないそのような用法は、どのように

して発生したものであろうか、などの事であろう。

e、望及び本望について

 囚、第一の意味について。さて、八書室金石補正(70)高平郡郡

公墓誌銘字母に、

 「典軍諦蹴出字元甫、望出高平。万年縣人也。」

とあるが、この郡才志は現在は万年県の人であるが、望は高平であ

るとするものであろう。更に、鄭下家墓遺文、張士高墓誌銘には、

「張士高、本望南陽。相州林情人也。」

とみえる。すると、この張心高は現在は相州林慮の人であるが、本

望は南陽であるということになろう。このように、現在の住所に対

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長崎大学湯育学部社会科学論叢 第二〇号

して、望なり本望なりが用いられているということは、望、本望に

昔の本貫地の意があるとすべきであろう。

 ところがこれに対して、郭下家墓遺文、廻心興墓誌をみるに、

 「藷氏之先、蘭陵人也。……因官遂為相州安八人也。」

とあり、同じ郷下家墓遺文、唐故高君墓誌銘に、

 「君諦爾字行仁。其先渤海人也。……遂留相土。今着帯陽人焉。」

とみえる。この蒲氏、高氏は共に現在は相州安陽の人であるが、先

祖は蘭陵、渤海の人であったという。とすれば、その蘭陵が爾氏の

望であり、渤海が高卑にとって望であるということになろう。望或

は本望とは、そのような祖先のいた、以前の本貫地ということであ

ろう。このような旧本貫地と現本貫地との関係を示すものとして、

全唐文(ア57)唐故楚州兵曹国軍劉府君墓誌銘井序の、

 「公本殿辛子嵩、望美彰城。家寄々邑。」

というものがある。この望は家と対置して記してあるので、現在京

邑に居住し、そこの人となっているのに対し、以前は彰城にいた、

というように解することができよう。即ち、この望は旧い本貫地と

考えてよいであろう。

 以上のことは、元和姓纂にみえる記事からも察せられる。例え

ば、元和姓纂(1)廃氏の條をみるに、

 京兆 状云、本望南安。漢心尉廃参考。今居京華。

 代郡 状云、本望安人。

とみえ、又全書(9)敬氏の條に、

 河東 状称、望平陽。雲華砲畢太守敬帰

とあり、全書(10)弍氏の條に、

 弍氏 瓢虫州有弐氏。望出河南。

とみえ、全書(8)宋氏の條には、

 楽陵 堂塔、本望出団平。唐三州都督宋君明生捷、覧弼。

 河南 周廣化令宋道状云、本瓦平人。

とみえ、全書(9)暢氏の條には、

 陳留風俗伝有暢悦。河東人。状云、本望魏郡。

とあり、全書(6)呂氏の條には、

 京兆 後魏定州刺史萢陽公呂祥状云。本出東平。

 至愚 状云、本望東平。後馬薦翔蒲城北。

とみえている。これらによってみるに、鷹氏の場合、いま京兆にい

る一派の本望は南京であるとし、代郡にいる一派はもと南安の人で

あったという。宋氏の場合も、楽陵の一派も本望は廣平であるとい

われ、河南の一派も、もともと甚平の人であるという。これらの記

事は、このように、もといた場所が望、本望であったことを明かに

する外に、これらの記事について注目されるのは、離氏では「本望

南安」と「本南安人」、宋氏では「本望出廣平」と「古謡平人」、

黒氏の場合は「本葉東平」と「本望東平」という表現がみえること

である。すると、本望南安は本望出南安と書かれることもあったで

あろうし、侵出東平は本望出廣平と書かれることもあったであろう

と思われる。従って、本南安人とか本廣平人というのは、 「本望出

南安人」とか「本望出廣平人」の略と考えてみてもおかしくないと

いえよう。前記暢氏の條に、「状云、本望魏郡」というのは、 「本

望出魏郡人」と考えてよいであろう。

 このように、本南安人、本廣平人という如き表現が、本望即ち祖

先の本貫地皿郡望を示すとすると、一般に、史書に「本某処人」と

書いてある時は、それはその人の郡望を示すものと考えてまず間違

いないといえよう。

 例えばいま、全唐文(565)検校尚書用達射右語草湛湛劉公墓誌銘

によれば、

 「公諄昌商字光達。本革婦人。……大述懐赦……為太原晋陽令。

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 再世官北方。楽其土俗。遂著籍太原之陽曲。 日自吾為事芝居可

 也。書聖彰城。」

とみえる。これによれば、 「劉昌商はもと彰城の人であったがへそ

の祖父巨赦の時に太原晋陽の令となってから、遂に太原の陽曲に籍

をうつした。そしていうには、自分から後は陽曲の人である、何も

祖先以来の彰城の名にこだわることはなかろう。」ということになろ

うか。すると、この劉氏は彰城から太原難曲に本貫をうつしたので

あり、彰城は遙かな、なつかしいだけの土地ということになろう。

従って、本彰城の人といわれているのは、「以前の本貫地はそこで

あったのだが」、という意味で記されているとしてよいであろう。

これと相似た例は数多く見えるが、例えば、全唐文(781)鎮軍大将

軍行左鷹揚衛大将軍兼賀豊州都督上号音上国公園芯府君碑銘井序を

みるに、

 「君諦明字若水。本手武威姑藏人置。……今属聖霊永昌縣。以光

 盛業焉。」

とみえ、中州家墓遺文、王揮墓誌にも、

 「曾祖論家本晋州洪洞縣人。……自匪徒編章州共城縣。」

とみえる。これらの家も現本貫は他に移っているとみえるから、

「本」というのは望、本望と解してさしつかえないであろう。

 ところで先述「唐船高峯墓誌銘」をみるに、「其先渤海人也。…

 …遂留相手。今為安陽人界。」

とあったし、更に、鄭下家墓遺文苑策合遷誌によれば、

 「君鞘管字子昂。其先武陽人望。因子宅此。為林慮豊州。」

とみえる。これらは何れも、その祖先は渤海や武陽の人であったが

今は相州上陽や相川林慮の人となっているというもので、本貫が

移っていると解してよいであろう。すると、 「其先某処人」という

のは、 「本某処人」というのと全く同じであり、従って、 「其先」

望の意義について(矢野)

という表現によって、その望、本望を示していると解してさしつか

えないであろう。このことは前述したところでも推定されるのであ

るが、も一度ここでたしかめておいた。

 以上のように、単に「本」とあっても、それは望、本望を意味す

ると考えてよいと考えたが、事実そのようなことを示す適例がある

のであげておきたい。中州野墓遺文、聖地慶墓誌銘をみるに、

 「府君誰従慶。本望北海劇人。世為名儒。……以大駈二年十二月

 有四日駆上於孟伊上壁土臨時坊之私第。……以大中四年十二月十

 七日。護県単之儀。帰葬干縣之南帰思郷南李村。従先螢之左。示

 終制礼也。」

とある。この場合、従慶の現住所は黒鼠河陰縣であり、而も代々の

墓地も亦河陰陰にあったとすると、本貫は既に黒塗縣にうつってい

たと解してよく(「史通」(5)邑里篇参照)、従って、北海劇県はそ

の旧い本貫地であったに相違なく、それが本望として表現されてい

る。即ち、一般には「本北海人」と記されるものが、ここでははっ

きりと、「本望北海人」と記されているわけである。

 ところが、中州家墓遺文、周年墓誌によるに、

 「君誹虚字伯庸。南陽上薬人也。本望於汝(南)。因官厘遷。或

 錫土蕉郡。或開封金水。」

とある。この記事をどう読むべきかはっきりしないが、 「本望」と

読めないことはたしかである。 「もと汝南に望す」とよむか、或は

「望を汝南に本つく」とよむかの何れかであろう。しかし、内容と

しては、「今は南陽上腿の人であるが、もともとは汝南に望をもっ

ていた」と解すべきであろう。こう考えると、前に本望とよんだ元

和姓纂にみえる記事の如きも、例えば、 「本望二南安一。」とか、「本

望二東平一。」とか読めないことはない。けれども、元和姓纂宋氏の

條の、「本望出廣平」というのは、やはり本望と考えるほかはな

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長崎大学教育学部社会科学論叢  (矢野)

い。従って、本望という用法を否定するわけにはいかぬので、やは、

り郡望のことを、望とも本望とも表現していたと考えておくのが妥

当であろう。

 ところが注目すべきは、同じく元和姓纂に次のような記録がみえ

ることである。即ち、全書(8)茜氏の條に、

 「二塁鹿太守茜強、呉郡太守菌珍、丹陽人。今望扶風。」

とみえる。これは、茜氏は本望丹陽の人であるが、輿望は扶風であ

る、という意味であろう。勿論、 「今望扶風」は、「今は空風に望

す」とよんでもよいし、むしろそう読む方が適切であるようにも思

うが(後述、第二の意味についての條参照)、 一方、「今望は夕風であ

る」とよめないこともない。もしそう読むとすると、旧い本貫地を

望又は本望といったのに対し、現住所を今望といったこともある、

といえそうである。即ち筆者は、本望、望は一般には郡望即ち旧本

貫地をさすものとして考えてさしつかえないけれども、■一方、現在

の住所をも望といった、換言すれば、望とは単純に、本貫地とか、

現住地とかいうべきものではなくて、根本的にはそれらに通ずる、

「ある土地に根拠地をかまえる」という如き意味があるのではない

か、と考えるのである。この第二の内容が、次の「第二の意味につ

いて」である。

 (B) 第二の意味について

 望には上述のように、 「昔の本貫地」という土地に関する用法が

あったのであるが、更にもう一つの、土地と関連のある別の用法が

あったようである。例えば、元和逸楽(3)陳氏の條をみるに、

 「嬬姓。……周痛楚雨音二胡公満於陳。後追楚所滅。以国為氏。・

 出頴川、汝南、下面、廣陵、東海、河南六望。」

とみえ六道なる表現があるが、これは前引した元和姓纂にみえた本

望とか、或は同じく元和姓纂(9)武氏の條の

一〇

 「漢又有祭酒武忠。望出太原d」

とか、同書(5)早算の條の、

 「望出廣陵」

とか、全書(10)去氏の條の、

 「或云、望出平原」

などにみる望とは多少異る如くである。元和姓纂に一般的にみる

望、本望は、前述の如く「祖先発祥の地」 「以前の本貫地」と解す

べきであると思うが、この毒忌の條は、「頴川、汝南、下京、廣

陵、東海、河南の六趣を出した。」と読むべきことは、いうまでもな

く他のものが、 「望出二太原一」と読むのと比ぶれば、全く異った望

であると考えられ、少くともこれらは、六つの「祖先発祥の地」と

いう如きでないことは明かであろう。

 では一体、このような望は何を意味するものであろうか。そもそ

も元和姓纂の作製の意味をその序文によって伺うに、

 「(上略)閻子上重日……。而封乖本郡。恐非旧曲ハ。翌日、上謂

 相国趙公。有司耳隠。不可再也。宜穿通儒番士。辮卿大夫之族

 曝者。綜修姓纂。署三省閣。筆使條芝原系。考其群論。子孫職

 位。並宜綜修。毎加爵邑。則令士爵。庶無事謬 。 (下略)」

とみえる。即ち、閻某から、封が本郡にたがうのは旧事にもとるの

ではあるまいか、という上言があったのに対して、その氏の系統を

たつね、その蛇卵を明かにし、再び同様なあやまりを犯さぬように

する為に作られたということのようである。従って、元和姓纂の記

述の方法は、始めに姓氏の由来を記し、次に分派の所在地に分けて

、説明を加えてゆく方法をとっている。即ち、逆にいえば、ある個

人は、ある分派のどの位置にあり、その分派はどのような歴史をも

つ姓氏に属するかを明かにしているわけである。この場合、分派は

その現住所-現本貫地によって区別されているのである。

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 こう考えてくると、陳氏の場合、頴川、野南、下郵、山陵、東

海、河南の六つの分派があり、それぞれの土地に定着していたこと

を示すものであろう。ということは、この場合の望は、旧い本貫地

という如き意味ではなくて、分派、分流を意味するものというべき

であろう。

 このような分派、分流を意味する望の存在についてもう少し且ハ体

的説明を加えると、例えば、中州家墓遺文補遺、翌週夫婦合祀墓誌

によるに、

 「鄭球遊、自今皇封舅之地。因而氏焉。別派五流。渕源一□。是

 以榮陽之望。得為首唱。」

とみえる。これによれば、鄭氏は五流に分派したが、三三は一つで

ある、その中、榮陽の望が最高である、といっているのであろう。

即ち、鄭氏五流の中の榮陽の一派が榮陽の望と呼ばれているわけで

ある。こう考えると、魏書(45)杜錠伝の

 「京兆人。……世祖……謂司徒崔浩日。天下諸杜。何処酔眼。浩

 対置兆為美。」

というものは、一面ではその社会的地位が高いと解しうるが、この

鄭氏の例から推測すれば、この望は分派と解することもできよう。

即ち、「天下の各地に分派している杜氏の中で、何処の分派が最も

有力か、京兆こそ最高です。」という風にも解しうるであろう。

 次に、ブリィティッシュニくユージアム所藏の、S五八六一號文

書(池田温氏「唐代素望表」所引による)によれば、

 宋姓三望

               ウコ

 一

梭齟寥S宋  河内郡宋  廣亜 一

    マこ

陽画亡帝

望の意義について(矢野)

 中山読了   榮陽郡陽   河 一

 車姓二望

 河内郡車   魯国郡車

 頁姓三望

 河東郡質   平陽郡質   武 一

とみえる。この表は、宋、陽、車、質の各姓について、それぞれ分

派している郡を明示しているのであるが、これによれば、明かにそ

れぞれの分派を一つの望として考えているとすべきであろう。

 このように、望H分派という考え方が可能であると思うが、ただ

実際にはそれらの分派、分流は、それぞれの分派地i居住地をもつ

わけで、そこに分派しているわけであるから、この望においても、

土地の要素を抜いて考えることは出来ないといえよう。

 例えばいま、全唐文(4q6)内侍一軍中尉彰一項神道碑をみるに、

 「公諄献忠字碕夫。……至孫業。避漢末之乱。寓居朧西裏武縣。

 因・地分・望。傳諸歴代。淫中、刈上推辞右族。派口綿遠。冠蓋

 等厚。貴二黒繁。乃附上陽。今嘱望兆三原人也。」

とある。これによれば、 「現在京兆三原人である彰献忠の祖先は、

国忌晦-西霧武縣に寓居したが、その後、地によって望を分かち、

何代かたつうちに、淫事、朧上の分派が右族となった、云々。」とい

う。即ち、地によって望を分かつというのは、新しい土地に新しい

望をたてる一それが浬上、嘩上などであるが一ということになるの

で、望の成立は土地をぬきにしては考えられないのである。

 こう考えてきた時、例えば全唐文(1り05)南平郡王高崇文神道碑を

みる.に、

 「公諄崇文。其先三太公之冑。自敬仲旧姓。而三二於渤海一。及

容止奔燕。評家二才萢陽一。今則為幽路人也。」

とあるが、ここの望は、あとの萢陽に家すに対するものであるから

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長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号

「望す」と読むべきであろう。すると、崇文の祖先が、昔渤海に居

住地を定め、そこに一派を成立せしめた。今は華美の人となってい

る、というように解しうるであろう。若しそう解しうるとすると、

先引周顕墓誌にみた、 「本望於汝(南)」というのも、この高崇文

神道碑のよみ方にならって、「もと汝南に射す」と読むのが正しい

ということになるかも知れない。すると、この周顕墓誌の「望す」

は、必ずしももとの本貫地という考え方にとらわれないで、「もと

もとそこに一族をたてていた」と解してもさしっかえないであろ

う。即ち、この場合の「望」の意味は、単に分派が汝南に居住した

という如きではなく、一族が元来その地に居住していた、という如

きものがあるといえないであろうか。換言すれば、時代の如何を問

わず、望の基本的な意味の中には、 「根拠地をかまえる」という如

き意味があり、昔の根拠地についていう場合はおのつから旧本貫地

という意味が強く、分派して新しく設けられた根拠地(現本貫地)

についていう場合は、おのつから分派の独立という面が強調された

といえるのではなかろうか。従って、分派した望の場合は、新しい

居住地と新しい門流という二つの要素が、常に、ごにして一なりと

いう如き形で統一されていたように思われる。

或は又、全唐文(835)劉府君神道碑銘井序に、

 「公詳太真字仲適。族二瀬城一。皿沼嘉末。衣冠南渡。遂為金陵

人。」

とみえ、八曖室金石補正(73)陳少公悪霊氏墓誌には、

 「夫人族本二楽安一。」

とみえる場合を考えてみよう。これらによれば、 「昔は彰城に干

し、今は金陵の人である」とか、 「夫人は結婚前、族は楽安に本つ

いていた。」とかいうのであるから、この場合、族を望とおきかえて

もおかしくない。すると、望の内容としては、一族というものも含

一二

まれていたとしてよく、それは先述周顕の場合にも考えた如く、必

ずしも分派のみと考える必要はないであろう。従って、望とは、一

族或は一派がある土地に根拠地をかまえ、独立の社会的地位をもつ

という如き内容を含むものであろう。

 何れにしても、望という時、時代の如何を問わず、その一族一派

の社会的独立性と居住地という、分つべからざる要素を含んでいる

と考えてよいと思う。いまそのことを更に別の面から説明してみよ

う。全唐文(027)鎮国大将軍王榮神道碑をみるに、

 「将軍姓王氏。諄栄字榮與。本太原人也。………及漢昌邑申尉吉

 博。……生二子。長日覇居太原。次日駿居郷郡。公争覇之後 。

 ……子孫雄琴者。為江東盛族。其不往者。代有賢豪。」

とみえて太原王氏と邸郡王氏の分離について述べている。この場

合、一族が分派して一定の地に土着し、そこにその分派一門が栄え

たということになる。これと同様な分派について、崔氏の場合は、

全唐文(976)唐故號州刺史贈礼部尚書崔公墓誌銘井序に、

 「公講元黒字晦叔。其先出於炎帝。……漢初野分。為清河、博陵

 二祖。故其後称博陵人。」

とみえている。この二三というのは、清河、愚子二派をさすことい

うまでもないが、祖というのはこの場合祖先の意であろう。既に前

述した如く、墓碑銘などに、「其先某地人也」という表現がみえた

が、 「其先」というのは、先祖の意であることは、八曖室金石補正

(75)太子舎人裡夫人某氏墓誌の中に、

 「夫人誰娩字順美。我先祖渤海蕎人也。」

とみえるところで明かである。ところが「其先」は罫引墓誌銘にみ

た如く、「本」とか「本望」などと表現されている。即ち、「其先」

が直ちに「祖先発祥の地」に通ずるということは、祖先が望を成立

せしめた人であり、その先祖の居住地が本望であったことを意味す

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るものであろう。従って、王氏の二子、崔氏の労祖というのは、土ハ

に二望といいかえてもよいのではなかろうか。例えば、八環室金石

補正(70)書舗太子洗馬博陵崔明君墓誌平井序の條の案文に引用せ

る、志磐石華には、「有博陵、清河二巴。評言陵崔也。」とあって、

崔氏の二巴を二望といいかえている。

 以上のように考えてくると、土地に関連のある望の中には、祖先

の出身地、旧本貫地を示す場合と、そこから独立した分派をさす場

合とがあったようである。しかし、何れの場合も、一族、一門はそ

の居住地と常に一体をなすという意味を含むものとして理解すべき

であると思われる。

口 旧望、姓望について

 さて、元和姓纂(5)劉氏の條をみるに、

 「丹陽、蘭陵、将秋、滞国君縣、宣城、陳書、雲丹陽以下、検未

 獲。以上劉氏二十六郡要旨望。」

とみえ、

とあり、更に、△⊥書(8)路氏の條には、

 頴川、石趙有揚州刺史路水。嚢城、陳留、安定並旧望。云温野之

 後。

 東陽、梁天監十八州譜路氏一巻。東陽劔鹿譜旧望。」

とみえている。これらによれば、旧望という表現がみえるが、それ

らは或る郡を旧望といっているらしい。では旧望とはどのようなも

のであろうか。いま、史通(5)刑罪の條の原註によるに、劉知幾

は、 

「時修国史。予直配野望髪癖伝。瑛家於魏州至楽。己経三代。因

 主義談魏州昌楽人也。監害者大笑。以為深軍需体。 遂依李氏旧

 望。改為朧尊号紀人。」

望の意義について(矢野)

と述べている。これは劉知幾が国史編修の時李義淡を受け持たされ

、李義淡をその現住地によって魏州昌楽の人と記したところ、それ

は男体にそむくとされ、李氏の「旧態」によって朧西成紀人と改め

られたというのである。この以西成紀という土地は、実は唐子には

実在しない地名で、そのことについて劉知幾は、史官(5)巴里篇

で、

 「作者為人立者。毎云某所人也。黒地皆労旧號。光明於今。欲求

 実録。磁壁難手。」

と記し、更にそれに注して、

 「近代史為王氏立伝云、榔郡臨沃人。為李氏伝日。朧西成紀人之

 類是也。非惟王、李二族久離本居。亦自当時無此郡縣。皆是書晋

 魏己前旧名號。」

といっている。これによれば、朧西成紀は李氏の旧望であるが、朧

西成紀というのは出離以前の郡県名で、磐代には全くないものであ

るし、又李氏はそこに現住するわけではない。それにもかかわらず

伝を立てるのに旧郡縣名が用いられていると非難しているようであ

る。すると旧望というのは、所謂郡望であって、過去の本貫地をさ

すといってよいわけである。前引の元和堅魚にみた旧望も亦同じ意

味と考えてよく、ただ旧望をいうに郡を単位として数えているとい

えるようである。

 勿論、旧望には、新図書(95)高倹伝に、

 「先宗室。後外戚。怪々門。進旧望。右膏梁。左寒駿。合二百九

 十三姓。千六百五十一家。為九等。二日氏族志。」

という場合の、有力な家柄を指すと考えられる場合もある。これが

今ここにいう旧望と異ることはいうまでもない。

 さて、この郡望と同意の旧望に対して、同じ意味をもつ姓望とい

う用法もあった。いま、史通(5)邑里の條をみるに、

二二

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長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号

 「且自暴重高門。人軽宴曲。競寒寒望所出邑里聖廟。」

とみえる。この姓望について、池田氏は、 「各署の顕著な家系の出

身地即ちその本籍地名。一般的に郡名であらわされる。例えば、太

原は王氏の姓望(単に望ともいう)である。」 (「二代の郡望表」下、

(東洋学報42の4))と説明されている。史通によるも、門閥社会にお

いて出身地が重視された状態における終漁であるから、これは郡

望、望と同じものと考えてよいであろう。

一四

のような点が明かになったと考える。即ち、第一には、郡望、昔の

本貫地を意味する場合があり、第二には分派、分流を意味する場合

があった。しかし、何れの場合においても、その生活している土地

と、そこに住む一族一派と、という二つの要素が、常に望の内容と

して含まれていたといってよい。如何なる時代においても、この両

者は実は分離すべからざる形において望を形成していたとい.沈るよ

うに思われる。

日 族望について

 唐代に用いられた族望には、前述のように、一族の家柄とか社会

的地位とかを示す用法もあった。しかし、一方土地に関する族望も

見える。例えば、八産室金石補正(56)大安国寺尼恵隠塔銘に、

 「禅師俗姓榮、京兆人。其家第四女也。族望北平。」

とか、全唐文(427)興銀東莞亜聖夫人周氏墓誌銘に、

 「夫人姓車庫。其族望本於汝南。今為陽画中江里人也。」

とかみえる族望は、明かに所謂郡望をさすと考えてよいであろう。

ただ、前者は「族は北平に望す」とよめないことはないが、後者は

やはり、 「その族望は江南に本つく」としかよめないから、族望と

いう用法があったとしてさしつかえあるまい。

 ところが、族と望とを対置して用いている場合があった。例えば

郷下家墓遺文、梁方墓誌に、

 「夫人張氏白水人返。軸承西耀。漢相留瓦之苗。望秩南陽。晋宰

 相之葉。」

と圏あるが、これはこの張氏が観相張良、晋の張華の子孫であること

をいっているのであろう。従ってこの族や望は、一族一派を意味す

ると考えられ、所謂郡望を意味するものではないと思われる。

 さて、以上に土地に関連ある望について考えてきたが、大よそ次

 既に述べた如く、魏晋南、北朝にみる望の用法は、すべて人に関

連したものであり、僅かに階書経籍志に一ケ所だけ、土地に関係す

る用法がみられた。これはいわば例外的な用法の如く思われる。

 ところが唐代においては、前代にみた人に関する用法は勿論あっ

たが、更に土地に関連する用法も亦極めて普遍的であった。では、

唐代でそのような用法が盛行したのは、どういう意味をもっている

のであろうか。即ち、その出現の歴史的意味について考えてみた

い。

 この場合はっきりさせておかねばならぬことは、望が土地関係の

「望」として用いられたのは唐墨に始まったとしても、以前にその

ような実状がなかったわけではない、ということである。即ち、例

えば、唐代の所謂郡望なるものは南北朝時代の士人階級はすべて意

識していたのであり、どのように居住地を変更しても、その旧い、

祖先の出身地をいつまでも称していたことは、南北朝時代の正史の

列伝を一瞥しただけで明かである。既に述べた如く、池田氏はこの

ような郡望の存在を指摘すると共に、それらが固定化するのは三世

紀ごろのことかと主張されている。

 (この点については、前掲拙稿「二塁と土壌」参照)

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 しかし、それにもかかわらず、そのような実体はありながらも、

南北朝以前においてはそれらを現わすに望なる語は用いられなかっ

たのである。では何故に、唐代に及んで急にそのような表現が用い

られるようになったのであろうか。

 さて、これまで述べてきた望の意味用法の変化について、既に第

一節において各氏の意見をあげておいた。越智氏の意見は、

 「州大中正の出現後、家格の固定化が強まり、元来個人中心であ

った望の用法についての変化が起った。即ちそれは、個人中心から

家格中心へという時代の流れの中で、個人を主対象とした用法か

ら、家格の高いこと、それに基く現象をさすようになる。」

という如く要約できるだろう。又、池田氏の意見は、

 「六朝時代の人物評定の基準は全く郷里の人々の評判即ち聲望に

依存していた。ところが門閥社会或は中正制の盛行と共に、望は個

人から特定の家系、更に特定の著姓と結ばれた。更に望は本来郷里

と不離の関係にあり、その故に望が家系、姓即ち入間から一転して

その出身地をも意味する場合が生まれた。」

と要約できるであろう。両者に共通する意見は、望の意味用法が元

来個人中心であったものが、門閥社会の成立と共に、家格中心へと

変化したという点であり、筆者もこれに異論はない。一方、異って

いるのは、越智氏は望の土地に関する用法については全くふれてい

ないのに対し、池田氏は、門閥社会盛行の時期にも出身地を意味す

る場合があったとされている点である。

 ところで、筆者が今まで述べたところを振り返りながら、この点

について考えてみるに、魏晋時代においては望に土地に関する用法

はみられなかった。従って、池田氏の説をそのまま承認するわけに

はいかぬ。ただしかし、池田氏が望が出身地をも意味する場合が生

まれた、とされることに関して考えるに、筆者は、単に人に関係し

望の意義について(矢野)

ただけの、或は少くとも、人に関する場合が主であったと考えられ

てきた魏晋南北朝の望にも、唐代と同様に、ある一族の社会的独立

とその居住地、という二つの要素があると考うべきであることを指

摘した。望というものは、本来そのような、ある一族なり、一門な

りがある一定の居住地において、社会的、政治的地位を確立すると

いう内容を含んでいると考えてよいであろう。ところで門閥社会の

成立期においては、それら一族は多くの場合ある一定の居住地にか

たまり、一族の団結を謀りながら、自らの政治的、社会的地位の向

上を目指すから(守屋美都雄氏「六朝門閥の一研究」)、おのつから家柄

家格という望の一面が表面にでたであろう。

 ところが、筆者が従来明かにしてきた如く (拙著、「門閥社会史」

その他、長崎大学社会科学論叢にのせた、「張氏研究稿」、「重氏研究」「鄭

氏研究」等参照)門閥社会の動揺期に入ると、それらの一族は各門流

に分裂し、各地に分派を成立せしめ、既に南朝時代において、榔耶

王氏、陳馬面氏の如き一流門閥中にも黒門、寒詣の別が生じ、唐代

に入るや、そのような門流の独立性は顕著であった。そのことは新

馬書高倹伝に、一荷中の房望にも高下の懸隔があったとしているこ

とによっても明かであろう。かくてそれらはその現住地において社

会的独立性を獲得してゆく。そうなると、それらの門流は、その居

住地旺現住地によってのみ、自らを一族の他の門流から区別するこ

とができる。

 従って唐代においては、望の二要素のうち、その居住地の面がよ

り強調され、その独立性が確認されるということであったであろう

。従って、魏晋南北朝時代にも、その居住地を尊重するという実体

はあったのであること、例えば魏書(45)杜鎗伝の、「天下諸杜。

何処望高。浩対京兆為美。」という場合の望を、社会的地位と解しよ

うが、或は分派とみょうが、それらにかかわりなく、ヨ天下の諸子

一五

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長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号

一六

のうち、京兆が最高」というのは、京兆という土地をこの一派の根

拠地、めじるしとした、ということによって推察できるであろう。

しかし、それにもかかわらず、魏晋南、北朝において、土地に関す

る望の用法が現われてこないのは、まだそれほどまでには、門流の

独立化が社会的に強調されていなかったが故であろうか。ところが

唐代に入るや、そのような土地に関する望の用法が極めて一般的と

なった。即ち、郡望が出現したのであるが、このことの意味は、以

上によって考えれば門閥社会が崩壊し、官僚社会が確立しつつあっ

たことの証拠といってよいのではあるまいか。

〔本論文は、「郡望と土断」(「史学研究」百十三号)と共に、昭和四十六年

度文部省科学研究費補助金による、「南朝の成立」の研究の一部である。〕

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   正  誤  四

望の意義について 矢野主税

          偶数ページ一行目

    正

長崎大学教育学部社会科学論叢    第一=号

    誤

長崎大学教育学部社会科学論叢    第二〇号

           一〇頁一回目

    正

             り     り   

長崎大学教育学部社会科学論叢    第一=号

    誤

長崎大学教育学部社会科学論叢    (矢野)