我が町の災害アーカイブス 調査表 no.3-1我が町の災害アーカイブス 調査表...
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-1 遭難追薦碑
調 査 日 平成 28 年 11 月 15 日 調 査 員 下田 俊哉
市町村名 名栗村上名栗大字穴沢(現飯能市上名栗地内)
発生年月日 1910(明治 43 年)8 月 10 日
関連河川名 入間川左支川
災害の状況
連日の降雨で地盤が緩み居たるものと見え、8 月 10 日午後 8
時 40 分ごろ大鳴動と共に崩壊し山麓に有りたる家屋 13 戸の中
8 戸は土中に埋没し、23 人は無惨にも生き埋めとなり・・・(8
月 14 日付国民新聞)
崩落した斜面は標高 500m 程の東南斜面で高さ 120 間、幅 50 間。
この土砂災害(土石流)で男 7 人、女 10人が亡くなり、行方不
明 5 人(男 3 人、女 2 人)を数えた。この中には 1 歳や 3 歳の
幼児も含まれていた。
出 典 飯能方面湖水の如し‐失われる災害の記憶‐ 飯能市郷土館発
行
概 要
・斜面崩壊~土石流の位置図
・石碑
遭難追薦 E
そ う な ん つ い せ ん
A A E碑 E
ひ
A(昭和 17 年 8 月建立)
遭難追薦碑
斜面崩壊箇所
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-2 吾野明治 43 年水害
調 査 日 平成 28 年 11 月 15 日 調 査 員 下田 俊哉
市町村名 飯能市吾野
発生年月日 1919(明治 43 年)8 月 10 日
関連河川名 高麗川
災害の状況
「飯能方面湖水の如し」の見出しで始まる 8 月 18 日の東京新聞
に「吾野村大字南山岳幅 3 丁(330m)、延長 156 丁(1620m~1730m)
崩壊、3 戸圧倒され圧死及び行方不明者 21、内死体 8 発見。同
村大字坂石の一部は崩壊により渓流を塞ぎ、同大字一面湖水と
変じ深さ1丈5尺に達し、巡査派出所も屋上迄浸水せり。」と報
じている。
出 典 飯能方面湖水の如し‐失われる災害の記憶‐飯能市郷土館発行
概 要
・斜面崩壊~土石流・大岩・河道閉塞個所位置図
・同災害で山から運ばれた大岩(高さ 5m、目通り 22m)
大岩
河道閉塞個所
斜面崩壊箇所
大岩
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-3 吾野駅斜面崩壊
調 査 日 平成 28 年 11 月 15 日 調 査 員 下田 俊哉
市町村名 飯能市吾野
発生年月日 平成11年8月14日
関連河川名 高麗川(右岸斜面の崩壊河への影響は無い)
災害の状況
8 月 13 日から降り続いた雨は 15 日まで降り続け吾野駅の雨量
は 525mm に及び、飯能市内では床下浸水 110 戸のほか、自主避
難 234 人、護岸崩壊、道路被害、崖崩れ等被害が出た。中でも西
武池袋線吾野駅南側斜面の崩壊は幅 100m、長さ 200m に及び、3
万~4 万立方メートルの崩落土石は同線路を埋め、被害発生から
16 日間東吾野~西吾野間が不通となった。
出 典 飯能方面湖水の如し‐失われる災害の記憶‐飯能市郷土館発行
概 要
・位置図
・吾野駅南側斜面の崩壊状況(飯能方面湖水の如しより)
斜面崩壊箇所
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-4 霞川供養碑
調 査 日 平成 28 年 9 月 10 日 調 査 員 木内 勝司
市町村名 入間市黒須
発生年月日 昭和 20 年 6 月
関連河川名 霞川
災害の状況
戦争中の洪水記録は従来知られていなかったが今回の調査で、
入間市黒須の霞川で破堤の記録があった。傍らには亡くなった
人の慰霊のための供養碑もある。
碑文の内容は、「当黒須地区は古来霞川の氾濫による被害が沿
岸随一と言われ、近くは昭和 20 年6月地区民必死の努力も効な
く、堤防は遂に破壊され、家屋の流出のみならず、尊き人命をも
失いたる惨事を惹起しました。幸い国においても霞川改修の必
要を認め、去る 29 年当該地区改修工事を施工するにいたりまし
た。」と記されてあり、被災から工事着手までの年月の長さか
ら、戦争による疲弊が推察される。
出 典 現地の石碑
概 要
・位置図
・写真
霞川治水記念碑→
供養碑↑
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-5 霞川台風 9 号水害
調 査 日 平成 28 年 9 月 10 日 調 査 員 木内 勝司
市町村名 入間市黒須
発生年月日 平成 28 年 8 月
関連河川名 霞川
災害の状況
平成 28 年 8 月 22 日に関東に上陸した台風 9 号による異常降
雨(時間降雨量 100mm を超える)による洪水で、入間市内では不
老川での床上氾濫被害や霞川での護岸等の被災があった。
写真は、入間川合流点付近での被災状況。落差工下流のコンク
リート製の護床工や左岸側の護岸が流出、河岸が大きくえぐれ
た。右岸にあったハーフコーン型の魚道も破壊された。このほ
か、あちこちで護岸の被災が見られた。
出 典 現地の石碑
概 要
・位置図
・写真
霞川・入間川合流点付近の護岸・魚道の被災
供養碑↑
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-6 治水彰功碑
調 査 日 平成 28 年 11 月 8 日 調 査 員 戸井原 章
市町村名 坂戸市 横沼 道場橋坂戸側堤防、落合橋 中堤防
発生年月日 昭和 57 年 9 月 12 日
関連河川名 越辺川、小畦川、入間川(三川合流部)
災害の状況
県内で死者1名、床上浸水 13,760 戸の被害の一部
越辺川、小畔川、入間川の三川合流部では、堤防の決壊はなかっ
たが、内水氾濫により、広大な地域が浸水し、田畑の崩壊も含め
甚大な被害が生じた。
出 典 入間川水系改修工事期成同盟会 設立六十年史、
荒川上流工事事務所 HP
概 要
築堤改修が進み堤防決壊等による災害は減ったものの降雨が
川に戻りにくくなり、田畑も宅地化され、逃げ場を失った水が市
街地に溢れる内水氾濫による水害が生じるようになった。
① 越辺川、小畔川、入間川の三川合流部の氾濫 位置図
入間川水系は記録に残せないほど毎年のように洪水に悩まさ
れ、大正~昭和初期にかけ製紙王大川平三郎が私費を投じ堤防
を築いた。(大川堤)また、坂戸市出身の原次郎(入間川水系の
父)は直轄河川への編入に尽力した
② 大川堤遺跡の碑 ③原次郎先生治水彰功碑
①
②
③
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-7 全洞院
調 査 日 平成 28 年 9 月 2 日 調 査 員 桑島 弘治
市町村名 入間郡越生町黒山
発生年月日 1910 年(明治 43 年)8 月 10 日
関連河川名 入間川支 越辺川
災害の状況 旧梅園村の 8 月の総降水量 1030.6mm
これは 1 年の平均降水量の 60.5%に当たる
大字黒山地内の全洞院本堂半分と閻魔堂流失
流失荒地 45 町 5 反、倒壊家屋 28 棟
流失道路 93 ケ所、流失橋梁 37 橋
出 典 越生町史 自然史編
概 要
位置図
全洞院 現況河川
全洞院
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-8 越生昭和 21 年水害
調 査 日 平成 28 年 11 月 28 日 調 査 員 下田 俊哉
市町村名 越生町
発生年月日 1946(昭和 21 年)8 月 1 日
関連河川名 越辺川
災害の状況
昭和 21 年 7 月末の台風に続く前線性豪雨のため 8 月 3 日朝ま
で雨が降り続き、総雨量は梅園地点で 261.1mmになる。
この降雨で、大量の戦後復興用木材(貯木)が流出、この木材
が次々と橋を壊し、川をせき止め下流域の出水をもたらしたと
いわれる。
この出水で越辺川が氾濫し、一帯の田畑の浸水、家屋を始め
次々と橋が流失するなど大きな被害が出た。
出 典 越生町史自然史編 「越生の自然」 (越生町発刊)
越生町史、越生町地域防災計画
概 要
・位置図
・復旧工として越辺川岸に設置された「川倉」で遊ぶ子供たち
(新宿付近)
氾濫箇所
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-9 越生梅林水害
調 査 日 平成 28 年 9 月 2 日 調 査 員 桑島 弘治
市町村名 入間郡越生町大字堂山
発生年月日 1947 年(昭和 22)年 9 月 14 日~15 日
関連河川名 荒川水系 越辺川
災害の状況
・カスリーン台風被害等 梅園村総降水量 451.6mm
(埼玉県8番目の降雨量)
被害状況
死者 1 名、倒壊家屋 28 棟、床上浸水 101 棟
流失田 50 町、流失畑 76 町、冠水畑 358 町
橋梁流失 3 橋、道路崩壊 16 ケ所
出 典 越生町史 自然史編
概 要
位置図
現在の梅園
越辺川 越生梅林
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-10 大観山地滑り
調 査 日 平成 28 年 11 月 28 日 調 査 員 下田 俊哉
市町村名 越生町
発生年月日 1971(昭和 46 年)7 月
関連河川名 越辺川流域 大観山東斜面(地滑り)
災害の状況
昭和 46 年 7 月、旧越生小学校(現保健センター・中央公民館等)
西側(大観山東斜面下)で地滑りが発生(約 1.5ha)した。
この地滑りは、前年度に行われたグランド拡張工事に伴う山裾
の掘削が原因と考えられ、その後、鋼管杭、集水井、擁壁等によ
る地滑り対策工事が実施された。
この地滑りで、一部校舎、トイレなどが被害をうけ、他校等へ生
徒の移動を行った。
出 典 越生町史自然史編 「越生の自然」 (越生町発刊)
越生町史、越生町地域防災計画
概 要
・位置図
・地滑りの発生状況(越生町史自然史編 「越生の自然」より)
地滑り箇所
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-11 越生平成 11 年水害
調 査 日 平成 28 年 11 月 28 日 調 査 員 下田 俊哉
市町村名 越生町
発生年月日 1999(平成 11 年)8 月 14 日
関連河川名 越辺川
災害の状況 8 月 13 日から 14 日にかけ熱帯性低気圧により県西部は豪雨
となり、越辺川上流域では土砂崩れや道路の路肩が洗掘される
などの被害が出た。また、黒山地区では土砂災害の恐れから 6 世
帯が自主避難、床下浸水は 20 棟に及ぶ被害が発生した。
出 典 越生町史自然史編 「越生の自然」 (越生町発刊)
越生町史、越生町地域防災計画
概 要
・梅園水位観測所の水位と雨量
・越辺川決壊による畑の被害状況(新井久雄氏撮影)
様式―2
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-12 東松山明治 43 年水害
調 査 日 平成 28 年 11 月 17 日 調 査 員 宮田 信一
市町村名 東松山市(明治 43 年 8 月当時 高坂村、唐子村)
発生年月日 明治 43 年 8 月 1~16 日
関連河川名 都幾川、越辺川
災害の状況 二つの台風と低気圧の停滞による大風雨で埼玉県下に未曾有の
大水害をもたらした。山間部から平野部に出た至る所で堤防が決
壊、荒川(左岸の熊谷北部から右岸、吉見等)で破堤・氾濫した水
が支川都幾川、越辺川等の氾濫水(荒川流域内の堤防決壊は 178 箇
所、延長約 10Km)及び、利根川の洪水と合わせ埼玉県内の平野
部全域を浸水させ(埼玉県内で堤防決壊 314 箇所、死傷者 401 人、
住宅の全半壊流出 18,147 戸(荒川上流河川 HP)東京下町にも甚大
な被害をもやらした。
出 典 「東松山市史」資料編4巻
概 要
降り続く降雨は越辺川、都幾川で増水し必死の水防に努めたが、
堤防上 2 尺以上の越水、上流よりの家屋等漂流などもあって 10 日
には葛袋から早俣、正代にかけて 14 か所の堤防が決壊する大氾濫
となった。
高坂村では、8 月 12 日に県に破堤の急水止工事施工を申請・災
害復旧経費の全額補助、堤防高の嵩上げ増幅施工を陳情。
この時の大水害は・舟運の衰退による河川修復の立ち遅れ・上流
林野の開畑による保水機能の低下等社会的矛盾が自然災害を契機
に露呈、抜本的な防水工事の必要性を明らかにしたもの。それ以降
県費による河川工事が進められていった。
(参考)明治政府は、荒川を国の直轄事業として改修すべき河川と
し、岩淵水門から放水路を新たに開削する「荒川放水路事業」に明
治 44 年に着手(昭和 5 年竣工)している。
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-13 S22.9 カスリーン水害
調 査 日 平成 28 年 11 月 22 日 調 査 員 宮田 信一
市町村名 東松山市 高坂 唐子
発生年月日 昭和 22(1947)年 9 月 13 日
関連河川名 都幾川、越辺川
災害の状況
戦後最大と言われる昭和 22 年のカスリーン台風は秩父で総雨量
611mmを記録し、15 日荒川で決壊(田間宮村[鴻巣]で 65mに渡り
堤防が決壊したのに続き久下[熊谷]でも 100mに渡り決壊)し、そ
の濁流が中小河川を次々と破堤し南下。17日には利根川の決壊に
よる濁流と合流して更に被害を拡大させ、多くの市町村を飲み込ん
だ濁流が東京湾に達したのは 5 日後の 20 日午後。荒川に係わる埼
玉県内の被害調書では死者行方不明数 16 名、全半壊流出家屋 509
戸、床上床下浸水 28,520 戸であった。
出 典 荒川上流河川資料 東松山市史資料編第 5 巻
概 要
・越辺川筋旧高坂村川辺の洪水の様子
『大洪水 昭和二十二年。前日から降り続いた雨が増々強くなり
中々やみません。烈しくなるばかりです。強い台風が向かっている
とラジオが報道しています。「越辺川の水がうんと増えた」という
ので急いで家中で水あがり(洪水の時水に混さないように品物を上
にあげて片付ける事)をしました(略)。其の時の大洪水は、床上に
一メートル五十センチ余り上がりました。色々の物が水に浸り、水
に流され、お勝手の戸棚もひっくり返って壊れたり仏壇も動き出し
ていたり、お位牌も水あがりをして上げて置いたから流されないで
済んだのですが今にして思えば背筋が寒くなる心地がします。しか
し租の様な大損害の中で、家族の一員も同じの我が家の働き手、朝
鮮産の耕牛が助かった事は何よりも有難い事で、明るい一つの喜び
だったのです(略)』
(この地の住民金子こう氏の体験記「ある農婦の手記」より)。
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-14 嵐山町昭和 41 年水害
調 査 日 平成 28 年 9 月 9 日 調 査 員 小林 一夫
市町村名 比企郡嵐山町大字菅谷、大蔵
発生年月日 1947 年(昭和 41)年 9 月 25 日
関連河川名 荒川水系 都幾川
災害の状況
・台風 26 号被害等
死者 1 名 負傷者 2 名
住宅全壊 15 棟 住宅半壊 10 棟
橋梁流失 2 ヶ所(資料では 1 橋しかわからない)
出 典 嵐山町史、菅谷村報道
概 要
・位置図
・被災状況
・現在の学校橋(7 径間単純 PC ポステン桁橋)/上流を望む
被災箇所
現橋
流失した橋
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-15 S22.9 カスリーン水害
調 査 日 平成 28 年 9 月 9 日 調 査 員 小林 一夫
市町村名 比企郡小川町
発生年月日 1947 年(昭和 22)年 9 月 14 日
関連河川名 荒川水系 槻川
災害の状況
・カスリーン台風(台風 16 号)被害等
流失家屋 3 棟(小川町 1 棟、大川村2棟)、浸水家屋 1,700 棟
余り、豚舎 1 棟豚 2 頭流失、牛舎 1 棟牛 1 頭流失、農地埋没3
町歩、東武鉄道根古屋線流失(小川町駅から小川町大字腰越間
約 4.3km)槻川駅流失
出 典 小川町史
概 要
・位置図
・昭和 22 年9月 17 日発生3日後の槻川空撮
・槻川現況写真
被災ヶ所
下流を望む。現在、右岸側が親水公園
被災ヶ所
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-16 鳥羽井沼(前沼)
調 査 日 平成 28 年 10 月 7 日 調 査 員 小林 安雄
市町村名 比企郡川島町鳥羽井
発生年月日 1780 年 6 月(安永9年 6 月)
関連河川名 荒川
災害の状況
・鳥羽井沼(前沼)は、荒川堤防が鳥羽井村で 70 間(概ね 127m)
決壊したことによってできた面積は、1 町 2 畝 17 歩(概ね
1.02ha)の「おっぽり沼」で、この場所は、天明元年(1781 年)
2 年、3 年にも決壊した。
・同年には、荒川堤防が出丸下郷村で 40 間(73m)、入間川堤防
が釘無村で 40 間(73m)破堤し大きな被害をもたらせた。
・なお、各年度の被害状況は、災害年表に記載した。
・現在、鳥羽井沼自然公園として地域住民の憩いの場となって
いる。
出 典 川島郷土史 川島町史(通史下巻)
概 要
・位置図
・写真
手前が前沼で奥が中沼(後に出来た)前沼と中沼の間の九頭龍神社。現在は、
自然公園・釣り堀として地域住民の憩いの場となっている。
鳥羽井沼(前
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-17 鳥羽井沼(中沼)
調 査 日 平成 28 年 10 月 7 日 調 査 員 小林 安雄
市町村名 比企郡川島町鳥羽井
発生年月日 1802 年 9 月(享和 2 年 9 月)
関連河川名 荒川
災害の状況 ・鳥羽井沼(中沼)は、荒川堤防が鳥羽井村で 80 間(概ね 145m)
決壊したことによってできた面積は、1 町 3 反 9 畝 14 歩(概
ね 1.38ha)の「おっぽり沼」で、安永 9 年にできた鳥羽井沼
(前沼)と瓢形をなす。
・両沼の間に九頭龍神社(水防の神様の九頭龍大権現・水難除け
の守護神である一目連大明神を祀る)がある。この場所は、文
政 6 年、文政 7 年にも決壊した。
・なお、各年度の被害状況については、災害年表に記載した。
・現在、鳥羽井沼自然公園として地域住民の憩いの場となって
いる。
出 典 川島郷土史 川島町史(通史下巻)
概 要
・位置図
・写真
奥が中沼で手前が前沼。前沼と中沼の間の九頭龍神社。現在は、自然公園・
釣り堀として地域住民の憩いの場となっている。
鳥羽井沼(中沼)
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-18 鳥羽井沼(新沼)
調 査 日 平成 28 年 10 月 7 日 調 査 員 小林 安雄
市町村名 比企郡川島町鳥羽井
発生年月日 1907 年 8 月(明治 40 年 8 月)
関連河川名 荒川
災害の状況
・鳥羽井沼(新沼)は、荒川堤防が鳥羽井村で 50 間(概ね 91m)
決壊したことによってできた面積は、1町 7 反 8 畝(概ね
1.8ha)の「おっぽり沼」である。
・この年は、市野川堤防が中山地内正直で 2 箇所 50 間(概ね
91m)が決壊し、この濁流によって翌日には川島領内が一大湖
水となり大きな被害が発生した。
・現在は、個人所有地として釣り堀に造成されている。隣接する
鳥羽井沼自然公園とともに地域住民の憩いの場となってい
る。
出 典 川島郷土史 川島町史(通史下巻)
概 要
・位置図
・写真
新沼と背後に迫る堤防。現在、個人所有の釣り堀となっている。
鳥羽井沼(新沼)
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-19 金剛院前の馬頭観音
調 査 日 平成 28 年 10 月 7 日 調 査 員 小林 安雄
市町村名 比企郡吉見町大字今泉 351
発生年月日 1742 年 8 月 1 日(寛保 2 年 8 月)
関連河川名 荒川
災害の状況
・寛保 2 年の大水害。荒川・市野川が大出水し堤切所 6 箇所及
び欠所 3 箇所が発生し久保田村領内が湖水のようになる。
・荒川で 11 箇所破堤(中曽根・上砂・一ツ木・今泉・北下砂・
蚊斗谷・荒子・地頭方)する。
・死者 165 人、流家 25 戸、馬の流死 191 頭、浸水家屋 1549 軒
等の被害が発生し、今泉金剛院前に流死した馬 24 頭の供養塔
が残る。
・田畑の被害状況は、年表に記載した。
出 典
近世における荒川中流域の水害と治水 吉見町史(下巻) 荒川
総合調査報告書(人文Ⅱ) 荒川上流改修 60 年史 吉見郷土史
研究会資料等
概 要
・位置図
・写真
今泉の金剛院 金剛院前の馬頭観音(馬 24 頭の供養塔)
金剛院
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-20 善長寺の馬頭観音
調 査 日 平成 28 年 10 月 7 日 調 査 員 小林 安雄
市町村名 比企郡吉見町大字荒子 695 付近
発生年月日 1910 年 8 月 1 日(明治 43 年 8 月)
関連河川名 荒川
災害の状況
・明治 43 年の大洪水。荒川は、大里郡吉見村玉作で 45 間(概
ね 82m)が破堤し洪水が横見郡(現吉見町)に氾濫、東吉見村
は内郷に氾濫発生。
・市野川流域では、死者 42 人、負傷者 24 人、水死家畜 46 頭、
家屋流失 226 戸、浸水家屋 5474 戸等の被害が発生する。
・馬の流死が多く発生したことから馬の供養のため荒子の善長
寺、地頭方法永寺(廃寺)等に馬頭観音が建っている。
・荒川では、大里から吉見領にかけて数十か所が決壊し多くの
被害をもたらせたことから荒川改修の機運が一気に高まった
と言われる。
出 典 荒川上流改修六十年史 吉見町史(下巻)吉見郷土史研究会資料
概 要
・位置図
・写真
荒子善長寺 荒子善長寺横の馬頭観音等
(馬の供養塔)
善長寺
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-21 鳩山明治 43 年水害
調 査 日 平成 28 年 11 月 8 日 調 査 員 戸井原 章
市町村名 鳩山町 赤沼 石坂
発生年月日 明治 43 年 8 月 8 日~11 日
関連河川名 越辺川
災害の状況
県内被害 破堤 945 箇所、死者・行方不明者 347 人、
住宅の全半壊・破損・流出 18,147 戸、床上浸水 25,232 棟
の一部。鳩山町でも越辺川の氾濫により川筋が変わり、家屋の流
出、田畑の崩壊等多数あり
出 典 入間川水系改修工事期成同盟会設立六十年史
概 要
越辺川の氾濫により川筋が変わり、坂戸市側に取り残された
地域が随所に現存している。
・位置図
・鳩山町 赤沼、石坂地内
現況写真
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-22 砂防発祥地の記念碑
調 査 日 平成 28 年 11 月 8 日 調 査 員 戸井原 章
市町村名 ときがわ町 大野
発生年月日 明治 43 年 8 月 8 日~11 日
関連河川名 都幾川 七重川
災害の状況
台風による長期にわたる降雨で、大規模な土石流により山地が
崩壊した。七重川だけの被害記録は残されていないが、県内全域
では、山地崩壊 2,870 箇所、死者・行方不明者 347 人という未
曾有の大水害であった。
出 典 埼玉の砂防
概 要
明治 43 年に被災してから、大正5年に岐阜県墨俣の石積み職人
の指導を受け砂防工事が開始された。
これが埼玉県の砂防発祥である。現地には「埼玉の砂防発祥地の
記念碑」と「選奨土木遺産」の碑がある。
位置図 七重川堰堤群
埼玉の砂防発祥地の記念碑 選奨土木遺産の碑
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-23 東秩父台風 16 号水害
調 査 日 平成 28 年 9 月 14 日 調 査 員 桑島 弘治
市町村名 秩父郡東秩父村大字安戸
発生年月日 昭和 49 年 9 月 16 日
関連河川名 荒川水系 槻川
災害の状況 ・台風 16 号の降雨による槻川安戸地先の左岸護岸が延長 30mに
わたり崩壊し、安戸郵便局の隣の土蔵が流失した。
出典 教育委員会根岸課長口伝、東秩父村史「思い出の記録写真」
概 要
・位置図
・槻川左岸 当時の増水による家屋被害の状況
・現況
氾濫ヶ所
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-24 二二九沢土砂災害
調 査 日 平成 28 年 11 月 30 日 調 査 員 浅見 優
市町村名 横瀬町大字芦ヶ久保
発生年月日 1947(昭和 22 年)9 月 15 日
関連河川名 横瀬川支川 横石沢(二二九ニ フ ク
沢)
災害の状況
カスリーン台風の豪雨により芦ヶ久保地区の横石沢で発生した
土砂災害でこの付近にある人家 7 戸はたちまちにして流出し、
全くの救助の策もなく尊い人命の犠牲は 7 名にのぼった。この
災害により砂防事業への機運が高まった。
出 典 横瀬町地域防災計画、「埼玉の砂防」パンフ
概 要
・「二二九沢」と言う名は、住民が当時の被害を忘れないため、
発生年月を通称の沢名としたといわれる。沢沿いに犠牲者を
供養する「漆ヶ崎地蔵尊」が建つ。
・位置図
・写真
横石沢
漆ヶ崎地蔵尊
漆ヶ崎地蔵尊 国道 299号に架かる橋の親柱奥
に堰堤群が見える
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-25 安政 6 年洪水の碑
調 査 日 平成 28 年 11 月 1 日 調 査 員 宮原 進
市町村名 秩父郡皆野町大字下田野
発生年月日 江戸時代 1859 年(安政 6 年)7 月 25 日
関連河川名 荒 川
災害の状況
安政 6 年 7 月 23 日~25 日にかけての大風雨による洪水で、荒
川上流の秩父郡大滝村の三峯と大久保組で家ごと押流され、10
名、秩父で 1 名の死者が出ている。荒川は、長瀞の岩畳のある
付近で狭窄部になっていて、右岸の皆野町大字下田野の住宅石
垣の根石に水位を刻んだ碑が残っている。
出 典 荒川総合調査報告書「荒川 人文 Ⅱ 」埼玉県
概 要
・長瀞の岩畳付近は、左岸の岩畳が川に突き出た地形となって
おり、一時的に洪水が逆流して水位が上がったものと思われ
る。河原は、小滝と呼ばれ急流になっている。石垣の根石には
「安政六未年七月二十五日大水これまで付」と、この時の水位
を刻んだ碑が残っている。
・昭和 60 年の調査では、碑の位置は、A.P144.7m であった。
・位置図
・写真
洪水の碑
安政 6 年の洪水を記す石碑 文字を書き写したもの
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-26 寛保洪水位磨崖標
調 査 日 平成 28 年 8 月 13 日 調 査 員 浅見 優
市町村名 長瀞町大字野上下郷
発生年月日 江戸時代 1742 年(寛保 2 年)〈旧暦〉8 月 1 日
関連河川名 荒川
災害の状況
8 代将軍吉宗の治世、寛保 2 年に関東各地に未曾有の災害をもた
らした大洪水を示す史跡である。旧暦で 7 月 27 日から 4 昼夜に
わたる豪雨で、荒川の水位は最高に達し当所で 60 尺(18m)と言
われる。この付近一帯は水底に没した。大きな被害を出した野上
下郷では流出家屋 10 軒とある。この時に荒川岸近くの岩の上に
立っていた滝野神社が流出してしまい近くの高台に移された。
出 典 長瀞ひとり歩き(長瀞町教育委員会・長瀞町文化財審議委員会発行)
概 要
・この水位磨崖標は後日地元の有志 2 人によって当時の水位を
長瀞第 2 小学校裏山麓の岩肌に刻んだもので、大きく「水」
の1字、下に寛保二年壬戌年八月亥刻、大川水印迄上、四方田
弥兵衛、滝上市右衛門と刻まれた。現在は削落し、大きい「水」
の字以外は判読が困難である。昭和 9 年に「寛保洪水位磨崖
標」として県指定文化財(史跡)になった。
・位置図
・写真
寛保洪水位磨崖標
当時の水位を学校の塀に表
示、道路面より+3.65m
岩に刻まれた水の文字
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我が町の災害アーカイブス 調査表 No.3-27 切石積堰堤
調 査 日 平成 28 年 12 月 4 日 調 査 員 浅見 優
市町村名 小鹿野町大字飯田
発生年月日 1907(明治 40 年)8 月 21 日
関連河川名 赤平川支線川 栗尾沢
災害の状況
長雨、暴風雨による土砂災害のため旧三田川村の被害は死者 4
名、行先不明 2 名、流失埋没家屋 5 戸、倒潰家屋 2 戸、同旧小
鹿野町 1 戸の大災害となった。国道 299 号が栗尾沢を渡る箇所
に架かる勘定木橋のたもとには亡くなった方を供養する地蔵尊
が立つ。これを機に栗尾沢に県内最初の砂防堰堤が造られた。
出 典 小鹿野町誌
概 要
・位置図
・写真
栗尾沢 切石積堰堤
明治 40 年水害供養地蔵 「埼玉の砂防発祥の地」の記念碑
県内で最初(大正 5 年)に造られた堰堤(切石積)