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横浜市立大学論叢 自然科学系列第 53 巻第3号
小川恵一教授 退官記念号 (2002 年 10 月 31 日発行)より転載
最終講義「物理に魅せられた私の半世紀」
小川 恵一
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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最終講義「物理に魅せられた私の半世紀」
小川 恵一
(横浜市立大学大学院総合理学研究科)
§1 はじめに
§2 1952-1965
いい先生といい本との出会い
§3 1965-1991
思い出深い研究
1)鉛中の電子の運動
2)Mo/Sb 積層膜と超伝導転移温度 Tc
3)Y 系高温超伝導体
§4 1991-2002
横浜市立大学大学院総合理学研究科
いい同僚といい学生に恵まれて
1)Si(111)面上の Au 粒子
2)Y 系高温超伝導体中の添加元素 Zn
§5 物理は楽しい
1)日常の物理学
2)太陽光から光ファイバーへ
3)原子分子操作
§6 おわりに
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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§1 はじめに
私は 1952 年に東京都立小山台高等学校に入学し、そこで初めて物理という
学問に触れました。それからちょうど半世紀が経ったことになります。私事になり
ますが、§2 から§4 までは年代順に「私の半世紀」を語ってみたいと思います。
「反省記」の思いもこめてです。これは最終講義という性格上お許しいただけるも
のと思います。
私の半世紀は私の性にあった学問である物理学、優れた恩師、いい職場と同
僚、それに素質のある学生に恵まれ、私の人生を豊かにしてくれました。天に深
く感謝したい気持ちで一杯です。
§4 では私の講義の一端をご紹介し、§5 では最終講義に参加してくれた若
い人に向け、日頃感じていることをひとこと(正確には三こと)述べたく思います。
§2 1952-1965
いい先生といい本との出会い
この期間は私が高校、大学、大学院、ポストドクトラルとひたすら勉強をした修
行時代です。そのうち大学院の博士課程は米国のペンシルバニア大学で、ポス
トドクトラルは英国 のケンブリッジ大 学で過ご
しました。
私 が小 山 台 高 等 学 校 へ入 学すると、東京
教 育 大 学 から赴 任 された若 い八 乙 女 盛 典
先 生 に出 会 いました(図 1)。当 時 、八 乙 女
先生は朝永 振一 郎教 授 のお弟子さんという
噂 でした。先 生 とは約 半 世 紀 振 りに同 窓 会
でお会 いしました。そのときの先 生 のお話 に
よると小山台高校の歴史上後にも先にも、た
だ私達の入学年度だけ高 1 の学生に物理
学を教えたとのことでした。私はその高 1
のときたまたま物理学を選択しました。
八 乙 女 先 生 は力 学 の授 業 のとき、力
図 1 高校時代に物理を教えて下さっ
た八乙女盛典先生
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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を直角座標の x成分、y 成分、z成分にひたすら分解して運動方程式をたてれ
ば、全ての問題は解けると言い切っておられました。先生の教えにしたがって練
習問題を解いてみると面白いように解けました。暗記の苦手な私は一挙に力学
の虜 になりました。そして、物 理 学 の魅 力 に
取りつかれるようになった次第です。
当時の東京大学の前期 2 年は教養課程と
称 して、文 系 、理 系 にわたる広 い学 問 分 野
を少 しずつ学 ぶことが求 められていました。
教養課程での成績の片寄っていた私は、人
気 のあった物 理 学 科 や応 用 物 理 学 科 に進
学することはできませんでした。友人の勧めも
あって、後期 2 年間は工学部冶金学科へ進
学 しました。そこでは、物 理 学 科 の教 授 も兼
ねていらした若 き橋 口 隆 吉 教 授 と出 会 い、
卒業論文の指導教授になっていただき
ました(図 2)。
先 生 は当 時 としてはめずらしく、物 質
の性 質 を原 子 あるいは電 子 の運 動 として
理解しようとされていました。これは私が高
校時代に魅せられた物理学のうちの一分
野 、物 性 物 理 学 の研 究 分 野 と重 なります。
橋口研究室で修士課程まで研究を続け、
修士論文「イオン結晶の内部摩擦」をまと
めました。
修士課程を終えると就職か博士課程
進学かに迷いましたが、当時理化学研
究所にいらした木村宏先生(後に
東北大学金属材料研究所教授)の
ご紹介で、ペンシルバニア大学大
図 2 大学時代の恩師故橋口隆吉教授
当時の写真から
図 3 ペンシルバニア大学時代の恩師
R.Maddin 教授
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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学院冶金学研究科(現在は材料科学研究科)へ留学することになりまし
た。指導教授は Maddin 教授(図 3)でした。当時の米国の大学では、
金属、高分子、セラミックスなどを包括
的に取り扱う科学(物質科学あるいは材
料科学)が普及しつつありました。ペン
シルバニア大学で、量子力学、統計力学、
転位論、相変態などいまの私の考え方の
基礎になっている学問を学びました。幸
運も手伝って 2 年間で、Ph.D.の学位
をもらうことになりました。博士論文の
テーマは金属中の格子欠陥に関する透過
電子顕微鏡観察でした。博士課程を終え
ると Maddin 教授の推薦により、ポスト
ドクトラルとしてケンブリッジ
大学冶金学科で研究を続けるこ
と に な り ま し た 。 そ こ で 、
Cottrell 教授に出会います(図
4)。当時のケンブリッジ大学は透過電子顕微鏡観察の黄金期で Hirsch,
Whelan,Howie,Kelly,NichoIson などが大活躍をしていました。私も MgO 中
の転 位 について透 過 電 子 顕 微 鏡 観 察 を続 けました。こういった若 手 研 究 者 の
尊敬の的になっていたのが Cottrell 教授でした。彼は講義中やパーティなどの
席で若い人にむかって、Clear thinking and clear presentation、とよく話し掛け
ていました。「明快に発表をしようと思えばその前にはっきりと考えておくことだ」と
いう意味だと思います。決してその逆 Clear presentation and clear thinking で
はないと。
話 は前 後 しますが、私 が橋 口 研 究 室 の修 士 課 程 に在 学 していたときたしか
MIT(マサチュセッツ工科大学)に留学されていた先輩の坂本徹さんがたまたま
帰国され、MIT(?)で使っていた教科書を紹介して下さいました。それは後にポ
ストドクトラルとして留学することになったケンブリッジ大学 Cottrell 教授の執筆に
図 4 ケンブリッジ大学ポストドクトラル時代の恩
師 A.H.Cottrell 教授 (先生の近著 Electron
Theory of Metals のブックカバーより)
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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なる教科書で、Theoretical Structural Metallurgy(理論と物質の構造に根ざし
た治金学)(出版社 Arnold(1948))です。
私はこの本を借りて読み始めると、金属物理学に対する私の見方が一変しま
した。その物理的根拠を電子論や統計力学におく手法の確かさと明快な物理
像(physical picture)にもとづく簡潔な議論に圧倒されました。今になって思うと
これこそ Cottrell 教授のいう clear thinking and clear presentation に外あり
ません。その一例を図 5 に示します。それは両端をポテンシャルエネルギーの壁
で限られた箱の中を運動している電子の物理像です。
図 5(a)は古典的電子像、(b)は量子力学的電子像です。古典論では電子は
原子スケールの領域に局在 化しているのに対 して、量子 力学では箱 全体にわ
たって広がっています。これほど明快な電子の物理像を Cottrell のこの本以外
に見ることは容易ではありません。
こういうわけで、私 は自 分 の修 行 時 代 に良 き師 、八 乙 女 盛 典 、橋 口 隆 吉 、
Maddin、Cottrell の各先生、良き本 Theoretical Structural Metallurgy に出会
いました。出会の偶然性は気になりますが、自分の居場所を変えたことがこの出
会いを可能にしてくれたに違いありません。「犬も歩けば棒に当たる」ということで
しょうか。しかもその棒 は並みの棒 ではなく人 の一 生を左 右する大 黒 柱ともいう
べき棒です。
図 5 電子の古典像(a)と波動像(b)
たて軸はその位置に電子を見出す確率
黒丸は A から B 方向に進む電子の古典像
(a)
(b)
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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§3 1965-1991
思い出深い研究
2 年間のケンブリッジ滞在を終えると、私は東北大学工学部金属材料工学科
へ赴任しました。当時の日本の大学は欧米の大学に比べると教育、研究をサポ
ートする体 制が数 段 劣 っていて、何もかも自 分ですることが求められました。80
名近い学生が聴講している授業でも、いわゆる TA(Teaching Assistant)はつい
ていませんでした。それどころか、TA というコンセプトさえありませんでした。授業
の前に前回の授業の復習かたがた小テストを行っても、次の授業までに全て自
分が採点することになります。まだ 20 代後半だった私は、良心的な教育と自分
の研究を同時に進めたく思いましたが、間もなく不可能であることを悟りました。
教育か研究の 2 者択 1 をせまられたとき、若いときにしなければならないのは研
究だと思い、大学から国立研究 所 である金属 材料技術 研 究所(現物質・材料
研究機構)に移りました。
それから 24 年間、研究一途の生活を送りました。その間に私の興味の中心は
格子欠陥の研究から金属電子論、金属積層膜、超電導などの研究へと広がっ
ていきました。§3 では上記 3 分野から思い出深い研究を各々1 つ紹介します。
1)鉛中の電子の運動
私は橋口研究室で冶金学の研究を始めた当初から、金属中の電子の運動に
ついて、実験的手段を用いて研究してみたいという強い欲望をもっていました。
1970 年代は高均一、高磁場発生用超伝導マグネットが市場に出回り始めた時
期にあたります。この磁場を純金属の単結晶に加えると金属中を飛び回ってい
る電子、いわゆる伝導電子の軌道は磁場により量子化され、ランダウレベルを形
成します。磁場の増減にともなって、ランダウレベルがフェルミ面(伝導電子のう
ち、エネルギーのもっとも高い電子が占めている量子状態の集まり。それらは逆
格子空間では面を形成する)を出入するため、フェルミ面内にある伝導電子の
再分布が引き起こされます。この再分布に対応して、伝導電子の運動状態を反
映している物性は振動的に変化します。とくに伝導電子に基く磁化 M の振動は、
発見者 名に因んでドハース・フアンアルフェン(dHvA)振動 と名づけられていま
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す。この現象を観測することによりフェルミ面の形状を 5 桁の精度で決めることが
できます。
私と共同研究することになった若き研究者青木晴善さん(現、東北大理学部
教授)と一緒に、鉛のフェルミ面を正確に決める研究に取り組みました。実験手
段はもちろん dHvA 振動の測定です。磁場を鉛の[110]方向に加えると 2 つの
dHvA 振動が重なって観察されます。それらはα、γと名づけられています。伝
導電子が実際に感ずる磁場はいわゆる磁場 H ではなく、磁束密度 B であるとす
ると、αは B を通してγを、γは B を通してαを感じます。この B を介して(より正
確には B の定義式 B=μ0(H+M)の M を介して)のα、γ軌道間の相互作用
は磁気的相互作用(MI)とよばれています。
詳細は文献 1 にゆずりますが、この MI を調べることにより格子欠陥(ここでは小
角粒界ネットワークによるモザイク構造)の B に及ぼす効果を調べることが可能
になりました。これは思いがけない成果で、私達の実験結果は dHvA 振動のパイ
オニア的研究者である Shoenberg2)のライフワーク「金属における磁気振動」に
数頁にわたって引用されました。門外漢がこのような研究を新たに始めるに当っ
ては多くの先輩研究者のお世話になりました。ご指導を頂いた方々には田沼静
一先生、斎藤好民先生、G.W.Crabtree 博士の名前をあげることができます。私
は§2 で恩師との出会い、良書との出会いを述べましたが、研究を通してもまた
多くのすぐれた指導者と出会うことができます。困難に当面 したとき、自助努力
すると同時に先輩研究者と連絡をとる大切さを知りました。
2)Mo/Sb 積層膜と超伝導転移温度 Tc
金属材料技術研究所で超伝導体の研究を続けてきた浅田雄司さんと出会い
ます。私は第 1 種超伝導体と第 2 種超伝導体の背後にある物理の区別がなか
なかつかめず、浅田さんには超伝 導体の初歩から手ほどきを受けました。超伝
導現象のように一見取付きにくい課題に対しては、先行の研究者が身近にいる
ことは大いに助けになります。彼との関係はさらに高温超電導体(次の 3)参照)、
超伝導体のデータベースの構築へと続きます。
1986 年にべッドノーズとミューラによって、ランタン系の高温超電導体が発見さ
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れるまでは Nb3Ge の超伝導転移温度 Tc(Tc を境にして、それ以下の温度では
超伝導物質は電気抵抗がゼロとなり、弱磁場では完全反磁性を示す)=23K が
チャンピオンデータで、それより高い温度の Tc をもつ超伝導体は存在しないの
ではないかとさえ思われていました。
そこで、浅田さんと組んで、Mo の薄い層と Sb の薄い層を交互に積み重ねた
Mo/Sb 積層膜を作製することにしました。Mo 層と Sb 層の界面(2 次元)で Tc
の高い新超伝導体が形成されるのではないかと考えたからです。
多くの元素の中から Mo と Sb を選んだのは Mo が Tc=0.92K、Sb は超伝導状
態にはならない(Tc=0K)ことが知られていたからです。超伝導の Tc という観点
からみると Mo も Sb も劣等生に分類されます。したがって、積層化により Tc が少
しでも上昇すればそれは容易に検出されることになります。
Mo/Sb 積層膜の Tc と積層周期Λとの関係を図 6 に示します 3)。ここで積層
周期とは積層の単位、すなわち Mo 層 1 層の厚さと Sb 層 1 層の厚さの和として
定義されます。A,B,‥・・E とΛが小さくなるにしたがって、Tc は 6K まで上昇し
ます。このデータを物理学会(1985 年頃でしょうか)で発表したところ、高温超伝
導体発見(1986 年)以前ということもあって、積層化による Tc の上昇はそれなり
の関心を集めました。私達はこのデータを 1986 年秋、ボストンで開催された
材料学会(Materials Research Society、MRS と略される)で発表することにしま
図 6 Mo/Sb 積層膜の超伝導転
移温度 Tc と積層周期Λの関係
3)
左下の挿入画は試料 (A,B,
C,D,E)の電気抵抗比 R/Rn
(ただし Rn は Tc 直上での常伝導
状態の電気抵抗)と温度 T(K)の
関係
図 6 Mo/Sb 積層幕の超伝導転移温
度Tc と積層周期ラムダの関係 3)
左下の挿入画は資料 (A,B,C,D,E)
の電気抵抗比 R/Rn (ただし Rn は
Tc 直上での常伝導状態の電気抵抗)
と温度T(K)の関係
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した。偶然にも私たちが発表した同一会場 で La-Ba-Cu-O の高温超伝導体
(Tc~30K)がホンモノの超伝導体であると北沢宏一教授(東大)から発表されま
した。このあとはご存知のように超伝導フィーバが起こります。1987 年度ノーベル
物理学賞が、高温超伝導体の元祖(La1-XBaX)2CuO4 を発見したベッドノーズと
ミューラに与えられました。
現在の目で見ると高温超伝導体の本質は、Cu と O 原子で構成される導電性
2 次元面が担っています。Mo 層と Sb 層の界面が高い Tc を実現するかも知れ
ないと、私たちが考えたところまではよかったのですが、Cu に注目しなかったの
は致命的でした。私たちは Mo/Sb 積層膜の研究を放り出して、高温超伝導フ
ィーバに巻き込まれていきます。それを次に述べます。
3)Y 系高温超伝導体
1986 年春にべッドノーズとミューラはペロブスカイト系銅酸化物 La-Ba-Cu-O が
Tc~30K の超伝導体となること
を学術誌 Z.Phys.B-Condensed
Matter4)に発 表しましたが、この
研究は発表当初あまり関心を引
きませんでした。しかしこの論 文
に逸 早 く注 目 した田 中 昭 二 教
授 、 北 沢 宏 一 教 授 ら が その 追
跡 実 験 に成 功 すると、この論 文
は一躍世界の脚光を浴びること
になりました。超 伝 導フィーバの
始 まりです。2)で述 べた通 りで
す。
高 温 超 伝 導 体 のもとになる結 晶
構造(図 7)はペロブスカイトとよばれ
ています。それは ABO3 という組 成
(金属原子 A に比べて金属原子 B の
図 7 ペロブスカイト ABO3 の単位胞. A,B
は金属原子、O は酸素原子。O は立方体の
面心位置に、A は角に、B は体心位置にあり
ます。
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原子半径が大幅に小さい。O は酸素です。La-Ba-Cu-O 系の場合、La,Ba 原
子が A に、Cu が B に相当します)の酸化物に広くみられる構造です。高温超伝
導体はそれを変形した構造として理解できます。
高温超伝導体 La-Ba-Cu-O 系の場合、La,Ba の酸化物層 2 枚と CuO2 層 1
放とが
積層した構造をとります。La,Ba 酸化物層は CuO2 層へホールを供給する役割
を果たし、ホールは CuO2 面内で正電荷のキャリアとして働きます。このホールが
Tc 以下の温度で超伝導状態となります。
La-Ba-Cu-O 系が発見されるや世界中の研究者は CuO2 面をそのまま保持した
上で La-Ba 酸化物層に代る物質の探索にしのぎをけずり、Tc の向上に努力し
ました。
私たち金属材料技術研究所の仲間 5)は La より原子半径のやや小さい Y を
La-Ba の代りに選び、Y,Ba,Cu の相対的割合を振り、新物質を合成しては超
伝導転移温度 Tc を測定していました。大部分は超伝導どころか、絶縁体という
ありさまでした。しかし 1987 年 3 月 1 日の日曜日の夜に、ついに Tc=77K の物
質の合成に成功しました(図 8)。温度測定が正しいことを確かめるために、液体
窒素(沸点 77K)中にこの物質を浸け電気抵抗が実際にゼロとなることを確かめ
ました。また、超 伝 導 状
態であるかどうかを確認するため強い磁場(1.5 テスラ)を加え、超伝導状態がこ
われるのを電気抵抗測定で確かめました(図 9)。これだけの確認実験を徹夜で
した上で、3 月 2 日(月)の朝、液体窒素 77K で超伝導になる物質を発見した旨
図 8 試料 Ba0.5 Y0.5 CuOⅩ
の 電 気 抵 抗 率 対 温 度 曲
線 5 ) 現 在 では超 伝 導 相
の組成は YBa2Cu3O7‐δで
あ る こ と が 知 ら れ て い ま
す。
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中川所長に報告しました。その結果は広く報道されるところとなりました。
この Y 系の高温超伝導体は現在ではその組成は YBa2Cu3O7‐δで結晶構造も
知られています。残念ながら、この Y 系の発見は米国や日本の他の研究者に先
行されていることが後に分かりました。これは新発見が同時、多発的に起るいい
例だと思います。そういう現場に、自分も立ち会えた幸せをしみじみと感じていま
す。
§4 1991-2002
横浜市立大学大学院総合理学研究科
いい同僚といい学生に恵まれて
私の日常的な付き合いの範囲は 1955 年に大学に入学して以来 1990 年まで
は主として自分の専門分野かそれに近い人に限られていました。
1991 年に金属材料技術研究所から横浜市立大学大学院総合理学研究科
図 9 試料 Ba0.5 Y0.5 CuOⅩ
の 温 度 を 一 定 ( RT ( 室
温 ),85K,78.4K)に保 持
して測 定 した電 気 抵 抗 率
対磁場 H(単位テスラ、正
確 に は 磁 場 で は な く 磁 束
密度)曲線 5)。温度 78.4K
の とき, 磁 場 を 加 え る と電
気 抵 抗 率 は急 に増 加 しま
す。
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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に移りました。総合理学研究科は既存専門分野の壁、すなわち数学、物理、化
学、生物間の壁を取払った新しいコンセプトの大学院です。そこで大学院生を
中心に研究、教育活動の展開できることに大きな魅力を感じました。総合理学
研究科では私の予想に違わず自分の専門の内外ですぐれた同僚と出会います。
修士論文発表会や博士論文発表会では、出席を重ねるにしたがって異分野の
研究の面白さに目覚めていきました。中でも生物系の研究に興味を引かれ、自
分もその分 野で共 同 研 究をしてみたいとすら思うようになりました。しかし、その
欲望は果たせぬまま定年を迎えることになりました。もう少し若い時期 にこういう
機会に恵まれていたならばと悔やまれます。
次に私が研究指導することになった学生(学部 4 年生、修士、博士課程大学
院生)について若干触れたく思います。私は大学院専属教員ということで、学部
教育に直接 には携わらなくてもよいという恵まれた状況にありました。学部の卒
業論文の学生については、ある限度内で受け入れてもよいという理学部側の寛
大 な取 計 らいもあり、総 合 理 学 研 究 科ではリベラルな雰 囲 気 のもとで研 究 、教
育活動を展開することができました。
私が赴任した 1991 年 4 月には早くも 4 年生の学生 2 名が、私のところで卒業
研究をしたいと申出てくれました。それは仙石直久君と星野政陽君の 2 名です。
仙石君には始め走査型トンネル顕微鏡観察(STM 観察)、後にレーザ蒸発法
による Mn 系ペロブスカイト薄膜の研究をしてもらいました。星野君には急冷した
Si(111)面上に形成される 7×7 構造の核形成、成長過程について STM 観察を
してもらいました。その後仙石君は大学院に進学し修士、博士課程の 5 年間、
さらにポストドクトラルの 1 年間、学部時代から数えて合計 7 年間を私のところで
研究しました。星野君は修士課程を了えて就職しました。
このガッツにあふれた 2 人が来てくれたため、私は研究室を順調に立上げるこ
とができました。彼等が卒業研究生として私の研究室に配属された赴任当初は
まだ STM 装置も納入されておらず、時間をもて余す始末でした。そこで、私はそ
の時間を活用して Tabor の名著 Gases,Liquids and Solids6)を彼等と一緒に週
2 回輪講し、原子、分子などの微視的スケールから出発してマクロな性質を理解
する手法を徹底的に教え込みました。
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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教えるという行為は不思議なもので、知り尽くしているはずの Tabor の本から
私自身が新たに学ぶことが次から次へと出てきました。教えるためには、10 を知
ってその 10 を教えることはできず、その内の 1 だけを教えることが出来るのだとい
うことを悟りました。これは私にとって大きな驚きでした。
この 2 人のお陰で、定年までの 11 年間にわたる研究、教育活動の礎を築くこ
とができました。この 11 年間に、卒業研究のみを了えたもの 6 名、修士課程を了
えた者と博士課程を中途退学したものは 15 名、博士課程を了え、博士号の授
与された者は 3 名、合計 24 名の学生が私の研究室を巣立ったことになります。
紙面の制約上本大学における研究については私が定年退職する最後の年
度、すなわち 2001 年度の 2 人の学生についてのみ触れることにします。修士課
程の三谷和昭君と博士課程の山本幸生君の 2 人の研究です。
1)Si(111)面上の Au 粒子
三谷君は短冊状の Si 単結晶(面積の一番大きな面を(111)面とする)のまわり
に細い Au 線を一まわり
だけ巻きつけ、それを超高真空中で加熱し、Au 原子の広がり具合を走査型電
子顕微鏡(SEM)と STM で観察しました。
図 10 は 1200℃で 10 秒間急熱加熱、急冷(フラッシング)した試料の SEM 像
です。図の右下に白い横棒-がありますが、それは 100μm=0.1mm の大きさを
図 10 Si(111)面 上 に
巻きつけた Au 線をフラ
ッシング(1200℃、1 秒
間 通 電 加 熱 )処 理 した
後 に撮 影 した Si(111)
の SEM 像。
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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表しています。右側の矢印は電流の流れる方向、十、一は電圧の極性を表して
います。図の右寄りにたて方向に走っている明るいコントラストの太い線は短冊
状 Si 試 料 の側 面 を表 しています。その線 の左 側 全 体 が Si(111)面 です。Si
(111)面 の中 央 、水 平 方 向 に走 っている中 間 コントラストの太 めの線 分 は、Au
線が巻きつけてあったもとの場所です。そこでは Au 線はフラッシング処理により、
Si と共晶組成の液体(融点 643K)を形成したものと思われます。その液体は+
電極方向(電流Ⅰと反対方向)に向かって、川のように流れているのが認められ
ます。川の先端部分は枝分れして広がり、明るいコントラストになっています。
この現象の驚くべきことは、マクロな量の Au 原子が 4V という比較的低い電圧
の影響のもとで、+電極方向に向ってのみ流れるということです。一番簡単な説
明は、Au-Si 共晶組成の液体が-に帯電していると考えるのが自然ですが、本
当に帯電しているか否か確かめる実験が必要です。図 10 でははっきりとは見え
ませんが、その原版では Au 線や共晶組成の“川”を縁取るように弱いコントラスト
の領域が観察されます。この領域を STM 観察すると、√3×√3 あるいは 5×2
構造として知られている Au 原子の表面再構成相(Au 原子が、Si(111)表面上
に周 期 的に配 列 した状 態)が観 察 されます。表 面 再 構 成 相 の広がりには“川”
状コントラストにみられた電圧方向依存性が全く観察されません。Au 原子は表
面再構成相では一個一個ばらばらに分布しているのに対して、“川”状コントラ
スト領域では、Au 原子は Si との共晶組成の液体となって存在していたはずです。
Au 原子の存在状態の差がなぜ極性依存性の有無を生じさせたのかは、現在
のところ分かりません。
三谷 君の結果を学内 の研究 会で紹介したところ、化学の塚田 先 生から“川”
のような枝分かれ現象は非線形相変態現象で知られているフィンガリング(手の
指のように分かれる)でないかという指摘をいただきました。その場合、“川”の極
性依存性は“川”を流れる Au-Si 共晶組成液体の表面張力と関係している可
能性もあります。
このように大学院生と-緒に行う研究には確実な成果というよりは、何が飛び
出してくるか分からないテーマを大胆に取り上げることができます。この種の研究
は将来の大発見につながる可能性を秘め、大学院における教育、研究活動の
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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「知る人ぞ知る」特徴の一つだと思います。
2)Y 系高温超伝導体中の添加元素 Zn
山本君はレーザ蒸発法により頭と尾、それに 3 対の脚をもった‘げじげじ’状の
YBa2Cu3O7‐δ(YBCO と略す)薄膜試料(図 11)を作製し、その電気抵抗を精
密に測定しました。図 11 の斜線を施した部分が YBCO 薄膜試料です。頭ある
いは尾に当る部分が A,B,3 対の脚の部分は CG,EF,DH です。A,B,‥・H
の上にある四角形のパッチは銀の蒸着膜で、電流測定用(A,B)あるいは電圧
測定用(C,D,・‥H)電極として使用します。
レーザ蒸発法で作製した私たちの試料は組成、膜厚共にきわめて均一であ
図11 レーザ蒸発法で作製したYBa2Cu3O7‐δ薄膜の形状と端子名A,B,
C,‥・H.YBa2Cu3O7‐δにZn あるいはNi 原子を添加した試料も同一形
状。
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小川 最終講義 「物理に魅せられた私の半世紀」
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ることが確かめられています。この試料に端子 A、B を使って電流を流すと端子
GH 間、端子 CD 間に発生する電圧は等しいと思われます。実際に測定してみ
ると YBCO 試料(Zn は添加していない)では実験誤差の範囲内で一致します。
ところが、Zn を数%(0.5-2%)添加した試料では超伝導転移点近くで一変
します(図 12)。Zn を添加すると測定点はたて軸と横軸を 2 等分する直線から大
きくずれてしまいます。これに対して無添加(0%)の試料では測定点は 2 等分線
上にきれいに乗っています。紙面の都合上示すことはできませんが、Cu より原
子番号の 1 つ若い Ni を添加(0.5-2%)をした試料では、いずれも測定点は 2
等分線上に乗ります(Zn は Cu より原子番号が 1 つ大きいことに注意)。
Zn 添加と Ni 添加のこの大きな差は何に由来しているのでしょうか、これが私達
の解くべき課題でした。そのとき、偶然手にした Nature 誌に「Zn 原子が Bi 系高
図 12
YBa2Cu3O7‐δに Zn
を添 加 したとき端 子
GH と CD を用いて
測 定 し た 電 気 抵 抗
率 ( そ れ ぞ れ ρ XX
(GH),ρXX(CD)に
対応)プロット。右上
が Tc より高い温度
に対応し、左 下はほ
ぼ超 伝 導 状 態 に対
していま す。 その 中
間 は超 伝 導 転 移 過
程 に 対 応 し て い ま
す。
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温超伝導体の超伝導状態をきわめて効果的にこわす」という報告を見つけまし
た 7)。そして、それ以前の報告 8)によると、Zn とは対照的に Ni 原子は超伝導状
態をほとんどこわしません。いずれも、低温 STM 観察と STS(走査型トンネルスペ
クトロスコピー)を合せ用いた画期的な実験で、電子状態については直接的証
拠に近いものです。さらに、最近の報告によると大きさが約 3nm の微細な超伝導
ドメインが非超伝導相の中に埋め込まれていて、超伝導状態ではこれらの超伝
導 ドメインが相 互 にコヒーレントな状 態 になるというものです 9 ) 。この状 態 を
Zaanen は、お酢と油が細かくミックスしたサラダドレッシングに例えています 10)。
私は山本君のデータ、すなわち図 12 の 2 等分線上からのずれに及ぼす添加
元素 Ni と Zn の大きな差は、上で述べた STM/S の結果と対応しているとしか思
えてなりません。そのことを強く主張するためには、添加元素の分布状態、膜質
の吟味などさらなる実験が必要です。三谷君のデータと同様、山本君のデータ
も思いがけない成果が得られています。残念なことに、山本君はポストドクトラル
として他大学に就職がきまっています。三谷君は企業に就職です。そして私は
2002 年 3 月で定年退職です。大学院生があるサイクルで入れ代わるのはメリット
である反面、継続性という点からは大きなデメリットであることを痛感させられまし
た。
§5 物理は楽しい
この章ではまず 1)で近角聰信先生の詩を借りて物理学に対する私の考えを
述べます。続いて 2)と 3)でこの精神をふまえた私の講義の一端を駆け足で紹
介します。とくに 3)では今後のテクノロジーに対する見通にも触れたく思います。
1)日常の物理学
この見出しは近角聴信先生によるエッセイ集の書名です(東京書籍、1983)。
その本には序にかえてと題して、「物理は楽しい」という詩が載せられています。
始めの 2 節だけを引用します。
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物理は楽しい-序にかえて-
物理は楽しい。なぜかというと、
物理は正直だからだ。
誰が考えても、間違えさえしなければ、
物理は皆と同じ結論に導いてくれる。
物理は楽しい。何故かというと、
物理には夢があるからだ。
遠い宇宙の出来事にも、原子の中の出来事にも、
物理の推論は限りなくのびて行く。
と続いていきます。私は物理学に対するこの素直な考え方が気に入 り、その拡
大コピーを研究室の実験台の前の壁面に張付けました。研究室の学生にはぜ
ひ目を通してほしいと思ったからです。
近角先生と言えば私はもう一つ思い出すことがあります。学生時代に、先生の
お書きになった教科書、強磁性(裳華房、現在では上、下 2 巻に拡充されてい
ます)を購入し、夢中になって読んだことです。§2 で述べた Cottrell の本とどこ
か通ずるところがあり、その後の私の考え方に大きな影響を与えてくれました。最
後にもう一冊久保亮五著、統計力学(共立全書)をあげておきたいと思います。
このコンパクトな本は統計力学の面白さを思う存分伝えてくれるからです。
2)太陽光から光ファイバーへ
最終講義では OHP シートを 11 枚使って話をしたのですが、ここではただの 1
枚に限ります。まず、放射エネルギーⅠ(単位波長当り)と波長λとの関係を温
度の関数として示したものが図 13 です。温度 T が上がるにしたがって、全放射
エネルギー(Ⅰ対λ曲線で囲まれた面積が目安)は急激に上昇します。実際に
Ⅰは T の 4 乗に比例して増加します(ステファン・ボルツマンの法則)。これはたき
火などでよく経験するところです。火力がだんだんと強くなり火の温度が上がると、
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最初は顔がほてり、やがて火から顔を背けたくなります。
図 13 放射エネルギ
ーと波長の関係を温
度 の関 数 としてプロ
ットした曲 線 .3K は
宇 宙 の 温 度 、 300K
はほぼ地球の温度、
6000K は 太 陽 の 温
度 に対 応 。(小 尾 信
彌 、 ビ ッ グ バ ン っ て
何 だろう(ダイヤモン
ド 社 、 1987 ) よ り 引
用)。
図 13 のもう一つの特徴は温度 T の上昇とともに、放射エネルギーⅠの最大値
となる波長λが短い方向に移って行くことです(ウィーンの変位則)。これもたき
火でよく経験するところで、火の起こし始めは暗赤色だった火は火力が強まるに
したがってオレンジ色、そして白っぽいオレンジ色へと移って行きます。これは光
の主成分となる波長λが温度の上昇とともに短い方向に移っていくことに対応し
ます。
たき火の火を太陽表面とみなすと、図 13 を参照すれば温度 6000K のⅠ-λ
曲線が太陽に対応します。Ⅰが最大となるλは 4800Å(オングストローム、1Å=
0.1nm)で、これは黄色の波長に対応します。真昼の太陽光が黄色っぼく見える
のはそのためです。スクールバスでよく見かけるように危険を示すゼブラゾーンは
黄色と黒色の縞模様です。それは太陽光の反射として、黄色が最も強いからで
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す。
図 13 の物理的意義は次の事実にあります。Ⅰ一λ曲線はλの大きい方で減
少するばかりでなく、小さい方でも減少します。詳しくは述べられませんが、後者
は光の粒子性(量子性)によること、前者は空間的に許される同一波長λの光
の分布数(エントロピー)によります。図 13 に慣れ親しむことは量子論と熱力学
の入門に通じます。
いま熟年を迎えていらっしやる方は、若き日に運転した自動車のヘッドランプ
のことを思い出して下さい。ランプの色はいまのようにまぶしいばかりの白色では
なく、もっと黄味がかっていました。それだけでなくランプのフィラメントはしばしば
断線し、夜間の対向車線には、片方のヘッドランプしか点灯していない車に出
会ったものです。現在ではそのような車に出会う確率はきわめて少なくなりました。
フィラメントの長寿命化対策が講じられているためです。その秘密はハロゲン入り
ランプです。
ハロゲン(例えば塩素 Cl2)がランプの中に入っていると、フィラメント(材料はタ
ングステン W)が高温状態になると Cl2 とフィラメントの W が反応して WCl2 となり、
WCl2 分子は気化します。そのとき消費されるフィラメントの W の量はごくわずか
です。いま W フィラメントのある部分が蒸発などで局所的にやせ細ったとすると、
その部分の電気抵抗は増大し、過剰のジュール熱が発生し、そこではフィラメン
トの蒸発が加速されます。そしてついに、フィラメントは一瞬バッと明るくなって断
線します。これはランプ内にハロゲンガスの入っていない場合の断線です。この
場合、フィラメントに流す電流値を抑制ぎみに使用し、ランプの長寿命化をはか
っていました。昔のヘッドランプの光が黄味を帯びていたのはそのためです。
ところが、ハロゲンランプではランプ内に存在する WCl2 ガス分子が熱運動によ
りフィラメントと衝突を繰り返しています。局所的に加熱された部分にたまたま衝
突すると WCl2 分子は W と Cl2 ガスとに熱分解します。熱分解した W はフィラメ
ントの過熱部分-そこはやせ細っています-に付着し、その分フィラメントが太く
なり電気抵抗が下ることになります。その結果、フィラメントは正常状態へと自己
修復をしていきます。フィラメントの温度という観点からみると WCl2 の熱分解は温
度に対してネガティブ・フィードバックのかかつていることに相当します。その結果、
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ハロゲン入りランプのフィラメントでは単なるタングステンランプに比べると大電流
を流すことができ、より白っぽく輝かせることができるのです。これはウィーンの変
位則の結果に外ありません。
75 ワットのタングステンランプ(透明ガラス球の)と、市販の 75 ワットハロゲンラン
プを並列につなぎ、スライダックで電圧を徐々に上げていくと、両フィラメントの温
度差を白っぽさの程度の差として目で追うことができます。最終講義では皆さん
の前で実演をしてご覧にいれました。
このあとに続く光 の話 は紙 面 の関 係で粗 筋 にとどめます。まず光 の波 長 λの
観点から空 はなぜ青く、朝日、夕日 はなぜ赤いかを取り上げ原子,分 子による
レーリー散乱について触れます。その上で、現在の光ファイバーではその中を通
る光信 号の減衰 値は究 極の値に近 く、それはガラスの密度 のゆらぎ(原 子スケ
ールでの)によるレーリー散乱に帰されることを述べます。この講義では太陽光、
空の青さ、光ファイバーへと結びついていくことが意外なのです。この意外さこそ
が講義をする者にとっての醍醐味であり、物理の推理が限りなくのびて行くゆえ
んだと思います。
3)原子分子操作
私は最近の科学(物理、化学、生物などを含む)の流れを大局的、かつ正確
に、しかも私 の持ち時間 が許す範囲 内で把握したいという虫のいい欲望 をもっ
ています。それを満足させてくれる雑誌として Nature 誌を購読しています。1990
年の Nature 誌に Eigler と Schweizer による驚くべき結果が報告されました 11)。
それは冷却された金属表面上に、キセノン(Ⅹe)原子をばらばらと吹きつけ吸着
させた後、STM でⅩe 原子を観察しながら STM の探針を使ってⅩe 原子位置を
移動させ、Ⅹe 原子で IBM と書いてみせたのです(図 14)。すなわち、原子分子
を人工的に操作して、人工物‘IBM’を作り上げたのです。この Eigler の研究に
刺激されて、その後多くの研究者が原子分子操作と取り組むようになりました。
Eigler たちは原子分子操作の技術を使ったこの実験をさらに発展させ
ました。すなわち銅表面上にまず鉄原子を丸く配列し、その円陳の中に
電子の定在波を立たせることに成功したのです 12)。
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電子波の振巾はわずか 0.01Åの程度に過ぎません。STM による原子分子操
作の技術はついに電子の運動状態を制御できるところに達したのです。現在の
ところ電子状態の制御はまだ基礎的な段階ですが、人工的に制御された原子
分子スケール電子素子出現も遠い夢ではなくなりました。
一方、生体超分子 DNA(デオキシリボ核酸)には 4 つの塩基 A(アミン)、G(グ
アニン)、T(チミン)、C(シトシン)でたんばく質の設計図(アミノ酸の配列)が書き
込まれています。この設計図では A,G,T,C のうち 3 文字を一組(多少の重複
を許す)にして、その各々に各種のアミノ酸を対応させています。この対応関係
はコードと呼ばれています。設計図(DNA)に書き込まれた順番にコードを読み
図 14 金属表面上に
吸着させたキセノン
原子(この STM 像で
は白丸に見える)で
書いた文字 IBM11)。
キセノン原子を吹き
つけ吸着させた状態
(a)から出発して、順
次原子位置を移動さ
せて(b,c,・‥e)、文
字 IBM を完成させる
(f)。過程 c,d,e で
STM 像が 2 重に見え
るのは、STM の探針
最先端部が単一でな
く分枝しているためと
思われる。
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取り、その 3 文字に対応したアミノ酸を順次反応させると設計図通りのタンパク
質が合成されます。これはまさしく分子操作であり、それが体内というおだやかな
環境(36℃、水溶液中)のもとで行われているのが特徴です。
最近の川合知二先生らの研究(私信、2002 年)によると STM で DNA の塩基
配列が区別されるようになりました。30 億年ともいわれる生命の歩みの中で進化
に進化を重ねてきたタンパク質の設計図 DNA が、ようやくナノテクノロジーと結び
つこうとしているのです。この段階になると原子 分子操作も体内という日常の物
理現象とつながります。これからの進展が大いに期待されている研究分野です。
§6 おわりに
きわめて個人的な体験ですが半世紀もの間、科学技術の流れを眺めています
と一つのことに気がつきます。それは微細加工技術の驚異的進歩です。私の学
生時代はトランジスターが真空管にとって代ろうとしていました。集積回路(IC)
は 1970 年代に入ってようやく出現しました。この 30 年程の間に集積度は飛躍
的に上昇し、Si 単結晶のディスク(またはチップ)上に 1μm あるいはそれ以下の
スケールで電子回路を組むところまでになりました。1μm のもう一つ下の単位が
1nm(ナノメートル)です(1nm=10-3μm です)。1nm は原子の大きさの数倍に過
ぎません。集積回路や§5 の最後で述べた、原子分子操作の技術を介した、生
命科学とナノテクノロジーの融合こそが、21 世紀の世界経済を牽引していくもの
と予想されます。
日進月歩の競争社会では好むと好まざるとにかかわらず、その社会で生き抜
くことが求められます。最後にそのための知恵を三つ述べて私の最終講義を了
えることにします。
第一番目は冬から春にかけて半年近くも咲き続ける白い花、ノースポールから
得た教訓です。花を咲かせ続けるといっても一つの花が咲き続けるわけではあり
ません。一つの花が終る頃には別の背のより高い茎に新しい花が咲き始め、古
い花はその下に隠れるようにして寿命を全うします。この新しい花の寿命が終る
頃にはさらに背の高い別の花が咲き始めます。このプロセスが繰り返されると見
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かけ上 花壇 はいつも満 開 状態となります。秋になると古い花から落ちた種子が
発芽し、世代交替が始まります。研究もこの花と似た側面があるように思います。
一つの研究が開花期を迎えるとその背後で次の開花を待っている研究が必ず
あるのです。
すぐれた研究室(COE)では研究成果という花がノースポールのように次から次
へと順番に咲き続けます。ノースポールの花を一つだけ眺めていると、一年で一
回 2-3 週間咲くだけですが、花壇全体をマクロに見ると半年間も満開状態が
続くのです。この花の咲き続けるからくりが COE といわれる研究室の状態に似て
いるのです。
私の個人的経験ですが研究者の活動期間を仮に 30 年とすると、この 30 年の
間に 5 回ほど自分の研究テーマを選ぶことができます。場合によっては選ばさせ
られます。したがって、一つの研究テーマの寿命は 6 年ということになります。長く
ても 10 年です。これは思ったより時間をかけて研究に取り組んでよいことを示し
ています。研究の日進月歩に惑わされてはなりません。これが花から得た教訓で
す。
第二番目は上で述べたことと符合して「自然は急がない」という事実です。この
言葉は山本有三が石碑(栃木市役所)に刻んだ言葉です。例えば私が取り組
んだ高温超伝導体の研究では、その発見当初からフィーバになりましたが(§3
の 3)参照)、現在に至っても高温超伝導の機構は解明されていません(§4 の
2)参照)。じっくりと取り組んだ人が結局高温超伝導機構を解明するものと思え
てなりません。
第三番目に若き諸君に大木実の短い詩を贈ります。
前へ
少年の日読んだ
「家なき子」の物語の結びは、
こういう言葉で終っている。
―――― 前へ。
僕はこの言葉が好きだ。
-
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私の青春時代はまぶしいばかりのアメリカをお手本にすれば、大局的な判断
を誤ることはまずありませんでした。しかし、21 世紀は違います。人類はどこへ行
くべきか、アメリカも含め世界中が暗中模索を続けている不透明な世紀です。私
の最終講義を聴いて下さった若い諸君が、この不透明感に怖じけることなく、い
ちるの光明を求め歩みを「―――― 前へ」進めることを願います。結果は付い
てくるものです。
参考文献
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2)D.Shoenberg:Magnetic Oscillation in Metals(1984).
3)Y.Asada,K.Ogawa:Solid State Comm.60(1986)161.
4) G.J.Bednorz,K.A.Muller:Z.Phys.B-Condensed Matter 64(1986)189.
5)A.Matsushita,T.Hatano,T.Matsumoto,H.Aoki,Y.Asada,K.Nakamura,
K.Honda,T.Oguchi,K.Ogawa:Jpn,J.Appl.Phys 26(1987)L332.
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12)M.F.Crommie et al.:Science 262(1993)218.
§1 はじめに§2 1952-1965§3 1965-1991§4 1991-2002§5 物理は楽しい§6 おわりに