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浄土真宗 真宗大谷派 聖嶽山 浄徳寺 浄 徳 寺 の 諸 堂 お御堂は、前住職日野祐賢と住職日野祐道 (現祐)により建てられる。明治14年2月 より石を築き、6月に柱を立てはじめる。翌 15年に瓦を葺きあげ、12月に仮入仏し、 報恩講を翌1月に延期して行う。工事の支払 いが、牧田川の洪水により滞り、寺録及び日 野家の田畑、山林を売却して工事費に充て る。「大工棟梁・尾張国中嶋郡・吉川甚五郎、 脇棟梁・同国牧村・鈴木松五郎、木こり・美 濃上石津郡牧田村和田・服部長五郎」にて建 て替えられる。畳の大きさで数えると、下陣 は幅実長八間にて三方外に広縁及び落縁、 各々幅一間、裏側の幅は実長十二間半、奥行 きについては実長九間半にて、前面に広縁及び落縁、各々幅一間をもうける。お御堂の落縁と、外 の階段は、大洞谷(上原三谷川の奥)にあった大きな一本の栗の木からとり、木の幹が縁側の板と なり、枝が外の階段になったと伝わっている。 は宝暦5年(1755)に建て替えられる。(浄徳寺の記録と、屋根裏に墨書あり) 格天井の四 脚門にて、明和8年(1771)の旗本五代当主高木貞往公の書状には「大門」との記載あり。 鐘楼堂は、寛文5年(1665)に本山より許可がおり、同年 9月22日に板葺屋根の鐘楼堂建てられる。その後破損す る。享保19年(1734)に、梵鐘は近江国粟田郡(栗東)辻 村の太田西兵衛重次により再鋳。(梵鐘は太平洋戦争に拠出) 鐘楼堂は同年11月在来の通りにケヤキづくりで美麗に再 建される。(修理ともいわれ、それ以降の記録はない。大正 頃に石垣の工事を行う。) 茶所に太鼓楼をのせた建物を楽部屋とよんでいる。江戸時代よりあ ったが、昭和40年代に老朽化の為に建て替えられる。かっては「聖 嶽会館」ともいい、地区の集会場や日曜学校に使用されていた。その 後、水屋を増築する。

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Page 1: 浄土真宗 真宗大谷派 聖嶽山 浄徳寺 - uwahara.com · 15年に瓦を葺きあげ、12月に仮入仏し、 報恩講を翌1月に延期して行う。工事の支払 いが、牧田川の洪水により滞り、寺録及び日

浄土真宗 真宗大谷派

聖嶽山 浄徳寺

浄 徳 寺 の 諸 堂

お御堂は、前住職日野祐賢と住職日野祐道

(現祐)により建てられる。明治14年2月

より石を築き、6月に柱を立てはじめる。翌

15年に瓦を葺きあげ、12月に仮入仏し、

報恩講を翌1月に延期して行う。工事の支払

いが、牧田川の洪水により滞り、寺録及び日

野家の田畑、山林を売却して工事費に充て

る。「大工棟梁・尾張国中嶋郡・吉川甚五郎、

脇棟梁・同国牧村・鈴木松五郎、木こり・美

濃上石津郡牧田村和田・服部長五郎」にて建

て替えられる。畳の大きさで数えると、下陣

は幅実長八間にて三方外に広縁及び落縁、

各々幅一間、裏側の幅は実長十二間半、奥行

きについては実長九間半にて、前面に広縁及び落縁、各々幅一間をもうける。お御堂の落縁と、外

の階段は、大洞谷(上原三谷川の奥)にあった大きな一本の栗の木からとり、木の幹が縁側の板と

なり、枝が外の階段になったと伝わっている。

門は宝暦5年(1755)に建て替えられる。(浄徳寺の記録と、屋根裏に墨書あり) 格天井の四

脚門にて、明和8年(1771)の旗本五代当主高木貞往公の書状には「大門」との記載あり。

鐘楼堂は、寛文5年(1665)に本山より許可がおり、同年

9月22日に板葺屋根の鐘楼堂建てられる。その後破損す

る。享保19年(1734)に、梵鐘は近江国粟田郡(栗東)辻

村の太田西兵衛重次により再鋳。(梵鐘は太平洋戦争に拠出)

鐘楼堂は同年11月在来の通りにケヤキづくりで美麗に再

建される。(修理ともいわれ、それ以降の記録はない。大正

頃に石垣の工事を行う。)

茶所に太鼓楼をのせた建物を楽部屋とよんでいる。江戸時代よりあ

ったが、昭和40年代に老朽化の為に建て替えられる。かっては「聖

嶽会館」ともいい、地区の集会場や日曜学校に使用されていた。その

後、水屋を増築する。

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門・鐘楼堂・本堂の飾りと寺紋

門(上)と本堂向拝(下)

門の飾りと木鼻 蟇股の「橘」の寺紋(家紋) 鐘楼堂 鐘楼堂の木鼻

聖嶽山 浄徳寺 の 由来

浄徳寺の由来については、浄徳寺住職の宝永7年(1710)の縁起、及び明治に江戸時代の古書類

をもとにつくられた縁起、浄徳寺蔵の(東)高木家御累代過去帳と他をもとにしている。

浄土真宗転派前、天台宗寺院として大神神社との関わり(平安時代から室町時代)

当寺は多良にあり、古くは十一面観音菩薩坐像を本尊とし、天台宗横川首楞厳院の末、多羅山無

染院清浄福徳寺と号して猿海道(上原の上石津地域事務所、グラウンドあたり)に創建されたと伝

えられる。しかし、創建年代について、災害のため記録焼失し定かではない。十一面観音菩薩の制

作年代が、1150 年頃(平安時代の藤原時代)であろうとの事にて、その頃には創建されていたと推

定される。

又、寺の縁起によれば、多良の西、幾里山の半頂に阿弥陀仏がある社あり。大風雨にて山は崩れ

流される。仏像は土中より掘り出され大神神社(延喜式にのる古社・西暦 692 年創建)にてまつら

れ流彦大明神となる。当寺より厚く崇敬しお供えをしていたとのことである。

寛正元年(1460)2月に大震災あり、火災により仏像、経巻及び古書類等すべて灰燼にきす。本

尊十一面観音菩薩の座像一躯、他は石仏、五輪塔の存続のみとなると伝える。康安元年(1361)に

も大震災にて堂宇大破とのこと。

(古来、上石津の時・多良の地は伊勢神宮の荘園であった。その当時の時・多良の寺院は、天台宗、

真言宗であった。その後、それらの寺院は当寺が浄土真宗になった以降の同時代(蓮如上人の時)

に浄土真宗に転派している寺院が多い。その他の宗派、禅宗等は江戸の中期頃が多い。)

木像十一面観音菩薩座像(大垣市重要文化財)

像高56.5センチメートル、寄木造、彫眼像で、今は台座も光背も欠失

しており、右手の先の部分が補作となっている。

面貌は優美で腰細く、華奢な造形である。造形等の様式や特徴から 1150

年頃(平安時代後期・藤原時代)の作である。

浄土真宗になる前、天台宗当時の本尊であると伝えられている。

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浄土真宗としての寺院(室町時代)

天台宗 後の住職であったのが叡岳法師(後に祐信と改名)である。生まれは山城国宇治郡日野

村とも伝える。近江音羽城主蒲生家の家臣であった日野有馬助祐成の弟と伝える。寛正元年(1460)

の地震にて寺が灰燼に帰した後生地に帰り、蓮如上人を訪れ弟子となる。六字名号を下付され、寛

正5年(1464)に教化の為に多良の地へ戻り、浄土真宗となる。寛正6年(1465)叡山の僧兵、本

願寺を焼却せり、これを聞き大津の蓮如上人にお見舞い申し上げる。

〈六字名号について、調査により、青木法蔵館分類の C2 型名号にて蓮如上人の前期型とされる。由

来書と実物とが驚くべきことにほぼ合致、平成 13 年においては美濃域内ではほとんど見受けられな

い現存例とされている。もし、美濃において、寛政期段階で蓮如上人への帰依者が少ないとすると、

西円寺等の有力大寺院と対等な立場で、時・多良衆が直参単立として戦国期に存続し続けた理由が、

初めて判然としてくる。今次調査の大きな成果とされるとのこと。〉

文正元年(1466)に一草庵(念仏堂と称す)を結び、方便法身尊形(阿弥陀如来絵像)を開基本

尊として下付され、直参総道場になったと伝わる。

〈方便法身尊形の裏書をナイトショットにより解読調査される。「大谷本願寺実如(花押)/永正六

年 /濃州石津郡多羅郷/惣道場也」(永正六年・1509 年)とあり。永正期実如の絵像本尊として、

表裏一体と見てよいか、半々で判断に迷うとのこと。〉

又、蓮如上人からは九字、十字名号を下付されたと伝わり、蓮如上人の御影をいただいたとも伝

える。

〈九字・十寺名号の調査により、青木法蔵館分類の、い型名号にて蓮如上人の息子である実如上人

の筆とされる。〉

親鸞聖人御影に裏書現存しないが、「大永三年(1523)癸未十二月十三日多羅郷直参惣道場願主 祐

覚」実如上人の裏書があったとのことである。 天文2年(1532)4月、細川晴元が本願寺を攻め、

第三世遊圓法師は大阪に赴き、戦地にて敵に数度当たると伝わる。

証如上人御影は、証如上人が亡くなられた天文23年(1554)に、又は、天文18年(1549)に

本願寺に行って頂いたとも伝えられている。(証如上人(天文)日記には、多良の名(多郎・多郎直

参衆・多郡)が見える。天正12年(1584)の美濃国惣坊主衆支配定書には「タラ直参衆」の記述

がみられるとのこと)

〈証如上人御影をナイトショットにより調査された際、証如上人特有の大きな耳たぶが出てきたの

で証如上人の御影と確定される。裏書欠も絹目が 1cm あたり 17 組前後ならば証如期の寿像の可能

性が大であるとのこと。〉

多良の領主、三輪三人衆を中心とした争乱の時代(室町時代末期・戦国時代)

多良は、三輪三人衆とよばれる小領主がおさめていたと伝わる。浄徳寺第三世住職、遊圓法師に

帰依し、浄徳寺の古小堂を新たに建てなおす。門徒間にて旧地上原猿海道と上多良どちらに建てる

か決まらず。当寺と縁故が深き流彦大明神(現在の大神神社)にて七度くじを引き、全て旧地上原

猿海道と出て、永禄7年(1564)10月に建てられたと伝えられる。高さ一丈(3メートル)の石

垣を四方に二重三重に築廻し、七間四方こけら葺きのお御堂と、台所、書院、御堂門、庫裏の門、

惣門があったとのことである。後に寺が戦渦に巻き込まれたときには、頑丈な門であったために、

持ち去られて大垣城の城門にされたといわれる。寺号を天台宗の時の清浄福徳寺から浄徳寺となづ

ける。又、天台宗の時の跡地には、土地選定の由来により、一の堂としての辻堂を建て、辻堂にて

三輪三人衆と名持百姓二十一人の寄合にて決め事をしていたとのこと。

三輪三人衆の自治が、美濃を領した織田信長の知ることとなり、元亀元年(1570)に織田信長家

臣の大垣城主氏家卜全配下の軍により、三輪三人衆は滅ぼされる。その際に、浄徳寺を占拠し本陣

を置き、堂宇焼却される。門は持ち去られ大垣城の門にされたと伝えられる。又、多良に伝わる伝

抄によれば、羽柴秀吉の軍が、長島(本願寺)方と、猿海道(浄徳寺)近くにて戦い、その地は血

原と呼ばれたそうであり、辻堂より蜂須賀小六が戦いに出たと伝えられている。猿海道の畑を開墾

中に、直刀が数本発掘され、地元の鍛冶屋で打ち直し、農具に使ったといわれている。黄金塚(首

塚)といわれるところがあるが、血原合戦の時の武将の墓ではないかとの事であ

る。

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浄徳寺の旧地・猿海道(左写真・現存せず) 猿海道には、昭和の中頃まで、辻堂風呂の井戸跡といわれる場所があった。猿海道に石垣や、石

仏、五輪塔があったが、開発やそれに伴う移転等により現存せず。ごく一部は当寺に移される。

旧猿海道の石仏(右写真)

猿海道より現在の寺地に移された 石仏・五輪塔

多良の領主・多良藩三万石の大名であった関一政との関係、大災害の時代(安土桃山時代)

多良の地は天正10年(1582)から天正16年(1588)にかけ伊勢国に住んでいた関一政の領と

なり、夫婦しばらく当寺にてすごされ、長男が産まれたと伝わる。又、関ヶ原の戦い(1600)の直

前に多良藩三万石の大名となって多良を治めていたが、関ヶ原の戦いの時には旧縁を慕って当寺に

宿営し出陣したとも伝わる。

慶長元年(1596)7月12日から翌日にかけての大震により山は崩れ禿げ山となる。細々とした

溝川であった牧田川は土砂によりせき止められ(時と多良の間にある谷部か)南北長流の大川とな

り、地震湖をつくる。ついには時村より押し流し当寺旧地念仏堂の土地を破壊し川の中心となる。

慶長7年(1602)7月19日より11日間の大雨にて多良川(牧田川)はあふれ、あたり一面小

湖水となり、川の流れがかわる。年代は定かでないが当寺は高台の現在地に移転再建される。

領主、旗本東高木家の菩提寺として(江戸時代初期・前期)

関ヶ原の戦いの後、多良を領した旗本の一つに東高木家がある。高木一族は浄土真宗(本願寺)

の門信徒であり、本願寺第十二代法主教如上人に対面している東本願寺(真宗大谷派)の門信徒で

ある。多良に居を構えて住む交代寄合の旗本として領し、東高木家の初代高木貞友公が当寺を菩提

寺とした。(東)高木家の累代の惣墓と高木貞友公(万冶2年(1659)死去)及び内室(慶長3年

(1598)死去、葬所は不明)、二代目当主の内室、子供の墓等を建て、江戸時代初期から前期を中

心とした、墓数九基の墓所となっている。

慶長年間(1601 年~1614 年頃)に教如上人より木仏寺号(寺号は旧来の通称である浄徳寺と届

け許可されると伝える)御免となる。泉龍寺は教如上人の命により諸国を巡り、関東にあった恵心

僧都の作(後の時代の作のようである)と伝わる木仏が本山にあるとのことにて、上京してもらい

受けるようにと言われる。上京し泉龍寺(粟津右近)に申し上げ、教如上人へ御披露されて、木仏

をもらいうけたと伝わる。元和7年(1621)に聖徳太子、七高僧の絵像を下付される。元和9年(1623)

の「時多良家付之帳」に「御堂一間」とあり、「御堂」の伽藍を持っていたことがわかる。

浄徳寺は高木貞友公の養女(末女)をもって、その婿に西美濃末寺を統制する触頭の五ヶ寺の一

つ横井永徳寺の弟、祐怡をむかえる。祐怡は寛文3年(1663)9月下旬に兄永徳寺慶運に連れられ、

本山に上京して常如上人に言上し、先代に続き飛檐出仕と浄徳寺住持職許可される。新堂入仏の祝

法会、並びに祐怡入寺の祝儀として触頭の平尾村真徳寺

(願證寺)招請して同年11月23日、24日法会施行

相済けり。

旗本東高木家初代当主高木貞友公を含む

江戸初期から前期を中心とした東高木家墓石群

東高木家初代、高木貞友公は永禄7年(1565年)

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今尾城主高木貞久の五男として生まれ万冶2年(1659年)4月17日、96歳にて多良の地で

死去。初代の墓は左から二基目、石碑及び位牌については浄土真宗にのっとり「法名慈航院釋圓済」

と書かれている。又、多良入卿前に死去の初代当主の内室の墓と(東)高木家累代の惣墓を新たに

つくったとのこと、位置からして墓石がない(石仏がある)墓であると思われる。二代目当主の内

室、子供を含め墓数は九基ある。

他の高木家をみると、旗本西高木家においては当初は墓所に墓石がなく、墳墓を葺石で囲むのみ

にて、18世紀後半以降に石碑、供養塔、石仏が建てられたとのことである。(名古屋大学附属図書

館 2015 年春季特別展より)

当地時・多良と多賀の間の山間(滋賀)の浄土真宗の村々では、埋墓のみで参り墓を持たなかっ

たとの事である。浄徳寺住職家においては、昭和 40 年代まで墓石はなかった。

東高木家においては享保 14 年(1729)の浄徳寺宛の高木貞往の書状に「石牌と位牌」の記述あり。

西美濃の触頭が五ヶ寺から一ヶ寺(掛所)になる(江戸時代中期)

延宝8年(1680)に、東高木家より祖先墓地守護の為に、石高一石八升四合を代興され免租とな

る。親鸞聖人御絵伝は、天和3年(1683)に下付。 元禄元年(1688)に、向拝四本柱の許可本山

よりおりる。 貞享5年(1688)に東高木家二代目当主が禅宗寺院の本堂寺を建立し、二ヶ寺を菩

提寺とする。(他に、5代・6代当主は江戸の芝三田功運寺、7代当主の奥方は松の木にあった浄土

宗の浄法寺にて葬られる)

女房講中御書 「真如上人正徳二年(1712)七月三日御免」との記録あり。

《浄徳寺の祐怡は正徳 2 年(1712)死す。浄徳寺と姻戚関係にあった横井永徳寺は、触頭から除外

され、真徳寺(願證寺)一ヶ寺の力が強まることに反発し、寛延元年(1748)に真宗高田派に転派

する。そのようなこともあってか「横井のあゆみ」という本には、今でも「永徳寺は西美濃御坊に

格上げされるようになっていたが、不破郡垂井町平尾御坊に変わった。」と語り継がれているとの事

である。他の西濃諸寺においても住職の自害や転派があり。さらに安永二年(1773)年に真徳寺が

願證寺に寺名を改め寺格が高くなると、西濃諸寺は本山に不当を訴えたが、本山は 300 余の寺院に

訓戒を下し、住職の蟄居命令が下る寺もあった。その後大垣藩は平尾願證寺にかわり、大垣掛所願

證寺(開闡寺・大垣別院)を統率の中心にしようと本山に何度も嘆願を行う。嘉永5年(1852)に

許可が下りる(西濃諸寺以下はウイキペディア参照)》

明和元年(1764)頃に庄左衛門という者が、水戸の磐船願入寺(開基は親鸞聖人の孫の如信上人。

江戸時代に徳川光圀の養女とし、門首の子を婿に迎え住職としている)の本山への上京の途中に、

浄徳寺(中山道から離れているが)に伴って来て滞在する。その際に目をかけて仏法を説かれたこ

とに対し、近隣の寺に水戸の者達の安心を乱すということにて本山に訴えられる。又、幕府の笠松

代官所に訴える者あり。それを嫌い明和5年(1768)に本山に飛檐の免状(位)を辞して、西派本

願寺(本願寺派)に転派する。しかし、旗本高木家が従来より東本願寺(真宗大谷派)に由緒深き

ことにより、帰派するように説得されすぐに帰派し、翌年には実弟に住職がかわる。住職がかわる

にあたり、一時住職不在となるために本山(東本願寺)預かりの寺となる。

東高木家について、天保4年(1833)の本山関係の書状覚書には「一統帰宗にあたり本山直末化

望むゆえ執り成し願うにつき」「門主懸命により帰宗ゆえ融通了承願うにつき」とある。又、旗本西

高木家の高木家文書には「高木氏東本願寺より西派へ帰依につき書状」とある。《東高木家の本願寺

改派問題》

明和8年(1771)に五代当主高木貞往公の内室(明和6年に、松の木にあった浄土宗の浄法寺に

葬られる)の遺物を納められる。同じく、「高木藤兵衛貞友公(初代)小田原合戦及び朝鮮征伐のと

き矢筒におさめ供奉せしめものなり。」と伝わる、東高木家初代の念持仏である浄土真宗の阿弥陀佛

絵像一軸(教如上人に裏書き(現存せず)を後に書いていただく)を納められる。

幕藩体制、旗本東高木家、武家と公家と東西両本願寺とのかかわり(江戸時代後期・幕末)

東高木家六代当主高木貞歳公は 1800 年前後に、子や妾(大名以外は、側室を妾と呼ぶとの事)

の墓を建てる。文政9年(1826)に、浄徳寺第十三世住職祐義は旗本の東高木家の高木貞教の姉君

(天保7年(1836)死去)を内室にむかえる。文政12年(1829)4月には旗本の東高木家が願主

となり「餘間昇階(本山に旗本東高木家が礼金50両を約束している)」となる。天保11年(1840)

に、八代当主高木貞直公の妾(側室)の息女が浄徳寺にて命終える(墓は当寺にない)。

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祐賢は天保8年(1837)に祐義の養子となる。それと共に「宰相」の官命をもらったようである。

同年本山の上納目録の宛名に「浄徳寺 宰相殿」と官命あり。祐賢は天保13年(1842)に、近江

彦根の西派本願寺(本願寺派)の明照寺(全国に9ヶ寺あった別格寺院(別格別院という名称、規

定は明治期のもの)の内の 1 ヶ寺、別格別院は第8代蓮如上人の直系子孫らが開山又は復興し、蓮

如上人の血縁を汲むものが歴代の住職を務めてきた有力寺院。 大谷宗家に準じる連枝として特別の

待遇が与えられ、寺院そのものも多くの末寺を抱え、本願寺に準じる「中本山」として権力を誇っ

た。)より内室を迎える。又、弘化2年(1845)に権大納言を勤めた坊城俊明(名家の家格を有す

る公家。藤原北家勧修寺流)の猶子(苗字が変わらない義理の親子関係)となり、翌年に第十四世

住職になる。本山にて、文久元年(1861)の宗祖親鸞聖人六百回御遠忌法要において十弟子役を勤

める。その功により、同年3月に「緞子呪字袈裟水浅黄紐」着用許可される。天保年間にも乗如上

人の年回忌法要にて十弟子役を勤める。

元治元年(1864)10月に本山より「内陣出仕昇階」、及び「濃翠袍裳」着用許可。旗本東高木

家の高木貞教より濃翠袍裳及び法服を寄付される。

祐賢の次兄は、尾張徳川家の家老職であった石河家より妻をもらっている。

祐賢の長男、祐道(弘化4年(1847)生、幼名・阿薭丸、官名・中将、幼名改め・管山、法名・

祐道、後に現祐)得度は安政7年(1860)。本山の書状には「浄徳寺 中将殿」の官命みられる。

祐道(現祐)の姉は天保15年(1844)生れ、伊勢国中津原村行順寺の田代氏方に嫁ぐ。

本山の書状に関して

(右写真)

浄徳寺住職祐賢は、本山にて、文久元

年(1861年)に宗祖親鸞聖人六百回

御遠忌法要、及び天保年間に乗如上人年

回忌法要にて十弟子役を勤める。

まとば

寺の南下に「まとば」とよばれる所あり。(南から

参道へ続く道の入口のまわり、及び右奥一帯の平地)

江戸時代に、旗本東高木家の殿さまが参詣の時、馬

を降りて留めた所、「馬留場」が「まとば」になった

のではないかといわれている。

高札場

浄徳寺参道表口(北側)の外に、江戸時代には「高札

場」があった。高札場とは、幕府・領主が決めた法度や

掟書などを木の板札に書き、人目の引くように高く掲げ

ておく場所である。 上原集落は、旗本の東高木家領の

他に、天領、旗本の青木、別所領があった。

幕藩体制の終焉と東本願寺(真宗大谷派)とのかかわり(明治時代)

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祐道は、明治5年2月に尾張徳川家家老であった美濃中嶋郡駒塚村の石河光晃(第一次長州征討

に、征長総督の徳川慶勝に従い出陣。敗れた長州藩の山口城の破却にあたり、監視のために総督の

名代として、藩主毛利元徳の陳謝を受ける。明治元年、東幸する明治天皇を佐屋川に出迎える。明

治5年、旧領駒塚に移住した。)の次女を内室にむかえる。旧臣である一之瀬の桑原權之助宅に一

泊して、朱塗りの駕籠に乗り入興する。明治8年に長男、管亮(後に、住職継承前年時に現亮と改

名)を生む。明治10年駒塚の実家にて療養中に死去。当院に帰り葬儀行う。

同年明治5年に、祐道(現祐)は浄徳寺第十五世住職となる。本山の命により、明治12年、鹿

児島(薩摩藩の時代は浄土真宗が禁止され「隠れ念仏」としてひそかに信仰されていた。そして明

治の廃仏毀釈によりすべての寺がなくなっていた)に布教の為に行く。13年~14年にかけ鹿児

島の知覧、川辺及び勝目、鹿籠村説教場に行く。その後長崎・熊本・久留米へ行く。明治26年に

北海道の函館相続講、明治27年に青森県下相続講に行く。同年に真宗大谷派の「北海道慈善会」

の特別会友となる。

祐道は明治28年に当時の御門首、現如上人の名より一字拝領し、現祐と改名する。

駕籠(左写真)

尾張徳川家家老であった石河光晃の御息女が、

旧臣である一之瀬の桑原權之助宅に一泊して、

朱塗りの駕籠に乗って輿入れされたとのことである。

お御堂襖絵(川地寿山)

明治45年(1912年)5月3日、

上石津上原に生まれる。本名は絹夫とい

った。浄徳寺門徒である。 晩年には大

垣美術家協会の参与として活躍してい

る。昭和58年死去。 昭和37年の親

鸞聖人 700 回御遠忌法要の為に描かれ

た、お御堂襖絵である。

浄徳寺に関する伝承

「上石津 ふるさと噺(はなし)」より

風 呂 の 井 戸 (室町末期~戦国時代) 頃は戟国の世、正親町天皇の姫君が御病気になられ、いろいろと手を尽されましたが、なかなか治

りませんでした。ところが風のたよりに、三輪という三人の祈祷師が大和にいることが天皇のお耳

に入り、さっそく呼びよせられ祈祷をされたところ、たちまちに御全快になられました。天皇はと

てもお喜びになり、三輪三人衆に多良・時の地を賜わり、三輪佐度は樫原に、豊前は名及に、筑後

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は小山瀬に住まわれることとなられました。この三人は特に佛法を信仰し、上原に浄徳寺を建て、

貧しい人々に衣食をほどこし、人々にしたわれていました。しかし、天下の大将織田信長は仏教を

信ずる者をきらい、この三輪三人衆も罰せられることになりました。これを聞いた百姓たちは、三

輪の屋敷に兵糧を持ち寄ってつめかけ、三輪の殿様を守って一緒に戦う構えをしました。これを聞

いた信長は計略をめぐらし、公役として十五才より六十才までの男は、その人々の力相応に竹束を

つくり、決めた日に必ず持ってくるようにと、きびしいおふれを出しました。計略とは夢にも知ら

ぬ村の人々は、これはきっと戦でも始まるのであろう、公役ともなれば仕方がないと、村人残らず

それぞれに竹をかつぎ、役所へ持って行きました。これを見届けた信長は、家来に命じて、男共の

いなくなった多良へ大勢の兵を押し入らせました。三輪の殿様三人をたちまち生捕り、寵に乗せあ

みを打ちかけて大垣へ送りました。勢に乗った兵士たちは、三輪の屋敷家財残らず散々に打ちこわ

し、それから上原村の浄徳寺に入りました。そして、「此の寺の門は非常に丈夫である。山中よりの

土産として、こわして持って帰れ」と、たちまち門をこわし、大垣へ持っていってしまいました。さ

て、こんなこととは知らぬ百姓共は、帰ってきてびっくり仰天、だまされたことを知り怒りなげき

ましたが、あとのまつりでした。

捕えられた三輪の殿様三人は、大垣の柳原で切腹の刑に処せられました。あとに残った三人の奥

方は、辻堂により合い、黒髪をそって尼の身に姿を変え、若君や姫君たちも風呂に入り身を清めて、

従う者含めて十五人、百姓たちと名残りを惜みながら、時山越えで諸国巡礼の旅立ちをされました。

この時より玄海戸(さるかいと)辻堂の池を、風呂の井戸と呼ぶようになったといい伝えられてい

ます

血 原 合 戦 (戦国時代) 頃は永禄という年のこと、これは伊勢の長島攻めにまつわる話です。羽柴秀吉は信長の命を受け

て、七百騎の軍勢をひきいて合戦にのぞみました。しかし、敵は思いのほか強く、一旦退いて援軍

を求めようと、北伊勢の方へ分け入りました。そして、勢州街道を北へ向かい、打上の渡瀬を過ぎ

て時の湯葉権現で、しばらく休息をとりました。ここで秀吉公が、戦いの疲れをいやすため入浴を

されたので、湯谷とここを呼ぶようになったといわれています。それより横欠けを越え多良村に入

り、松之木上の平にひとまず陣を張った。この時軍勢が、馬の背のように打ち続いて乗りこんだの

で、この地を馬背 (馬瀬)と名付けたといいます。しかし、馬背からは見通しがきかないので、上原

前の出張山に陣を構えました。それで、ここを城山(じょうやま)とよんだといいます。この城山

より前の野に見張りを立て、敵は攻めてはこないだろうか、また、援軍が早く到着しないだろうか

と遠見をしていました。この兵士たちは、日の光と霞のため、陣にもどってからもしばらくは、眼

がボーッとして見えない状態であったので、ここを盲が平(めんくらだいら)と呼んだといわれてい

ます。さて一方長島の軍勢は、遂にこの多良の地へ押しよせてきました。秀吉の軍は、これを城山南

西の河原に迎え討ち、七日七夜、敵味方入りみだれて戦いました。やがて加勢の蜂須賀小六の騎馬

隊が玄海戸(さるがいと)の辻堂より、ときの声を上げて敵中へ突入すると、この勢いに長島勢は、く

もの子を散らしたように逃げまどいました。このとき、合戦の場所となった宮の下から前夫下(ぜ

んぶした)まで、一寸のすき間もないほど赤い血に染まったので、ここを血原(ちばら)と呼ぶように

なったといいます。

「上石津 ふるさと噺」には「蛇渕」の話が2つにわかれて書かれているが、

本来は1つの話にて、別の古い本においては次のように1 つの話に書かれている。

蛇 渕 (江戸時代初期) 下幾里に蛇渕という大層深い淵があったと。今はかわりかわって浅くなっている。

慶長五年関ヶ原戦争のあった時、三輪佐太夫親貞さんという者が此の戦から逃れて、多良に入り宮に住んで

いた。其の後高木三家がご入村になったので、居を井の尻に遷して住んでいた。

親貞さんは狩が大変好きで、或る日幾里山へ友達と猟に行き、渕の上で昼食をとりお腹のふくれたのと疲れ

で、ぐっすりと昼寝をしてしまった。

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すると愛犬がしきりに吠えるので目を覚ましふと頭を上げると、大きな蛇が今にも親貞さんに近寄り、一気

に呑み込もうとしているさまだった。親貞さんはびっくりして腰の太刀を抜いて、一声のもとに太い首をゾボ

リと斬りおとしてしまった。首は飛んでこの深い淵に落ち込み、渕は血の海となってしまった。

親貞さんは友達に向かって心配そうに「蛇の頭は後にたたりがあるから、渕から首を探し出そう」と呼びか

けた。 けれども余りの物凄さに、友達たちは震えあがってしまって淵に入ろうとはしなかった。

親貞さんは自分から淵に飛び込んで、探したけれども、どこへ行ってしまったのか首をみつけることは出来

なかった。がっかりしてそのままにして帰ってしまった。

何事もなく日が過ぎて、翌年の十一月二十七日になった。上原の浄徳寺では報恩講が行われている時だった。

親貞さんはその晨朝に参詣し帰る途中城山の下まで来ると、鏡のように澄んだ淵に鮎がたくさん群り泳いでい

るのを見かけた。 狩の好きな親貞さんは胸をわくわくさせて急いで家に帰り、早速網を持って淵に走り、ぱ

っと淵一杯に網を打ちこんだ。すると鮎の姿は一時に消え失せ、渕の面には波紋だけが残っていた。 がっか

りして親貞さんが網を引き上げよう としたが、どうしたことか重くて重くて網は上がってこない。全身の力

を込めて引っ張ると引っ張るほど重くなり、とうとう網も

ろともに淵に引きずり込まれてしまった。 この話を聞いた人々は、きっと大蛇の首が鮎に化けたのに違いな

いと語ったと。

天 狗 と 浄 徳 寺 の 縁 板 (明治初年) 多良の上原に大洞(おおぼら)というところがあり、そこには、むかし天をつくような大きな栗

の木があって、そのあたりは昼間でもうっすらと暗いほどであったといいます。そこには天狗が住

んでいて、鳥のように自由自在に、あっちの山やこっちの谷へと跳びまわっていました。さてある

年のことです。多良村の上原では浄徳寺の本堂を建立することになり、この栗の木を切りたおすこと

になりました。そこで、村一番の木こりといわれる縫治郎という人が伐りに行きましたが'急に天候が

わるくなり大あらしとなりました。夕方になっても縫治郎が帰ってこないので'村人たちは心配して

みんなでさがしに行くと、縫治郎は木も伐らずに、この栗の大木の下ですでに死んでいました。「こ

れはきっと天狗のしわざにちがいない」と、村人たちはおそれ、だれもこの栗の大木を切ろうとはし

ませんでした。ところが、それを伝え聞いた和田の長五郎という人が、「それなら私が伐らしてもら

いましょう。だが私一人では困るので、浄徳寺の御縁住(ごえんじゅう)と一緒に伐りましょう」と

いうことで、いよいよ伐ることになりました。二人は栗の大木のそばへ行くと、御縁住はうやうや

しくお経を読みはじめました。長五郎も一礼すると、静かにお経に合わせて木を伐りはじめました。

こうして二人は、一生けんめい力を合わせて大木を伐りました。そして三日目さしも大きいこの栗

の木も、あたりをゆるがす地ひびきと共に倒れました。するとどうでしょう。ものすごい風とともに

大きな天狗があらわれ西の山へと飛んでいったといいます。この時、天狗が西の山へ空を飛んでい

くのを見た村人は、数人いたといわれています。さて、伐りたおした栗の大木は、三丈ほどもありま

した。浄徳寺の本堂の縁の板は、この木一本だけでできており、上がり段はその枝だけで出来たと

いわれています。いかに大きな栗の木であったかということが想像できます。

上原集落 浄徳寺 よもやま話

浄徳寺の山号は「聖嶽山」という。

当寺の奥にそびえる養老山地の 高峰は「笙ヶ岳」という。当寺に伝わる、明治ごろと思われる

作者不詳の「遊浄徳寺并詩」という漢詩の一節には、「勢江ノ二別ツ界トス 其ノ 高峰名ケテ聖嶽

曰ウ 聖嶽ノ麓ト梵宇(寺院)有 浄徳寺ト曰ウ」とある。「笙ヶ岳」のことを「聖嶽」と呼んでい

たようである。又、明治後期生まれの住職の書には「笙嶽」とあり。隣村の一之瀬にも、雨乞い場

の跡に「笙嶽神社」あり。

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「笙ヶ岳」一帯には土着の信仰や言い伝えにかかわる地名がみられる。

昔、当寺と関係があった大神神社の言い伝えに「壬申の乱・天武天皇」のことがある。笙ヶ岳に

も「天武天皇」に関係する地名、「馬糞谷」「鞍懸岩(別説あり)」がある。又、山頂近くには、「地

獄谷」という、死んだら地獄に落ちると言われている岩や、天狗が住んでいたといわれる「神さん

松」という古い松があった。そして、川を挟んだ養老山脈の尾根にて、昭和になって梵字の書かれ

た五輪石が掘り出されている。当寺にも「天狗と浄徳寺の縁板」という伝承がある。

笙ヶ岳には「踊りこば(方円こば)」というところがあって、古くはここに雨乞いの願をかけて踊

ったという。そして、多良の北側にある別村、和田においては、かって養老山地の谷の奥にある天

狗が住んでいるという「三ツ岩」いう大岩までのぼり、雨乞いの行事をしていた。「笙ヶ岳」に住む

竜を怒らせ、雨を降らせるというものであった。 「聖嶽」の名からは、古い土着の信仰が感じら

れる。

宮・旧旗本高木家陣屋跡近くより上原(笙ヶ岳・浄徳寺・猿海道)を望む

左上

笙ヶ岳(標高 908.3m)

左下 右下

上原の集落 猿海道

(右端高台 (小段丘上)

・浄徳寺)

「猿海

道」は、

河岸段

丘上の

段丘面

に あ

り、北

側と西

側は段

丘崖、東側から南側にかけては丘となっている。又、北側は三谷川の溝川である。南側に小さな溝

川が流れ、西側の段丘崖の下の川に続いている。水利が悪く、浄徳寺が上原の集落に移動してから

は、開墾して畑が作られたようである。昭和50年に国道365号線のバイバスができるまで、畑

地にて家等はなかった。水場は、「風呂の井戸」と呼ばれているところがあった。昔は、猿海道を通

って伊勢へ抜ける街道があったとの事である。

道標「右山道・左上原道」(左写真・猿海道から北側に外れた場所にある道標)

作家「隆慶一郎」著の「風の呪殺人」という戦国時代を題材とした小説の中に、「門徒衆が浄徳寺に

一揆の旗を掲げている。」と書いている。

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年中行事

1月 1日 修正会

3月 1日 ~ 3日 春季永代経

3日 平太郎経

7月 2日 ・ 3日 虫供養

3日 お内仏報恩講

9月 2日 ~ 4日 秋季永代経

11月22日~24日 報恩講

25日 女人講(報恩講)

アクセス

自動車:関ケ原インターより

10km 15 分

電 車:JR 関ケ原駅より

11.5km タクシー 20 分

JR 岐阜羽島駅よりレンタカー

名神大垣インター経由 29km 40 分

JR 米原駅よりレンタカー

名神関ケ原インター経由 31.5km35 分

真宗大谷派 聖嶽山 浄徳寺 〒503-1622 岐阜県大垣市上石津町上原 360