戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察*金星 15.124...

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論文 戦前日本軍機の特質 と戦後の 自動車開発に関する 一考察* 佐藤 達男 はじめに 1 2 次世界大戦における日本軍機の特質 (1) エンジン ( 2) 戦闘機 ( 3) 爆撃機 ( 4) 「小型・軽量」であった日本軍機 2 「小型・軽量」機を生んだ戦前航空機工業の特質 (1) 「小型・軽量」設計の背景 ( 2) 「小型-軽量」機製造の陸路 ( 3) 「小型・軽量」設計がもたらしたもの 3 戦後に生きた「小型-軽量」思想一航空機から自動車へ (1) 戦前の日本自動車工業 ( 2) 戦後航空機工業の再編 ( 3) 「小型・軽量」自動車に貢献した航空技術 おわりに はじめに 日本の対米 自動車輸出は 1958 年ロサンジェルスにおける輸入車ショーに始まり, 1973 年およ 1978 年と 二次にわたる石油 ショックを経て急増して日米経済摩擦を引き起こした。 1981 年に はついに 日本側が「輸出 自主規制」を発動せざるを得ない状況にまでになった。それは第二次 世界大戦の敗戦で日本の重工業が壊滅的打撃を受けてからわずか36 年余り のことであった。戦 後日本自動車工業の急速な発展は 当時の通産省のとった保護政策と育成政策の成功によると * 2011 10 19 日受理,小型・軽量,航空機工業,自動車工業,継承,低燃費 ** 帝京大学理工学部 47

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  • 論文

    戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察*

    佐藤 達男日

    はじめに

    1 第2次世界大戦における日本軍機の特質

    (1) エンジン

    ( 2) 戦闘機

    ( 3) 爆撃機

    ( 4) 「小型・軽量」であった日本軍機

    2 「小型 ・軽量」機を生んだ戦前航空機工業の特質

    (1) 「小型・軽量」設計の背景

    ( 2) 「小型 -軽量」機製造の陸路

    ( 3) 「小型 ・軽量」設計がもたらしたもの

    3 戦後に生きた「小型 -軽量」思想一航空機から自動車へ

    (1) 戦前の日本自動車工業

    ( 2) 戦後航空機工業の再編

    ( 3) 「小型・軽量」自動車に貢献した航空技術

    おわりに

    はじめに

    日本の対米自動車輸出は1958年ロサンジェルスにおける輸入車ショーに始まり, 1973年およ

    び1978年と二次にわたる石油ショックを経て急増して日米経済摩擦を引き起こした。1981年に

    はついに 日本側が「輸出自主規制」を発動せざるを得ない状況にまでになった。それは第二次

    世界大戦の敗戦で日本の重工業が壊滅的打撃を受けてからわずか36年余り のことであった。戦

    後日本自動車工業の急速な発展は 当時の通産省のとった保護政策と育成政策の成功によると

    * 2011年10月19日受理,小型 ・軽量,航空機工業,自動車工業,継承,低燃費** 帝京大学理工学部

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  • 技術と文明 17巻 1号(48)

    ころが大である。加えて 日本車の国際競争力の源泉は「小型 -軽量」,その結果としての低燃

    費,低価格にあった。

    日本のもう一つの輸出の柱であった家電製品も「小型 軽量 -高機能jを売り物に高い国際競

    争力を有した。第2次世界大戦後の日本経済は。最初は繊維工業s 次いで自動車工業,電機工

    業に代表される工業製品の輸出で立ち直ったわけで、あるが,その鍵になった特質を絞り込むと ,

    前述の通り「小型-軽量」 1 その結果と しての「省エネルギー」という日本の工業製品に共通す

    る特質であったと考えられる。そしてその特質は戦後に突然発現したものではなく,第2次世

    界大戦以前から日本の工業製品の特質として存在したものであったのではないか。本稿では,

    戦前日本の最重要工業であった航空機工業を例にとり これらのことを考察するものである。

    第2次世界大戦及びその敗戦に至る日本航空機工業の興隆と崩壊に関わる研究は既に多数な

    されている。主要な例を挙げると,戦勝国であるアメ リカによるものとして『米回戦略爆撃調

    査団報告』 (以下,調査団報告),防衛庁防衛研究所戦史研究室による公刊戦史資料である一連の( 3)

    『戦史叢書』シ リJ交 日本海軍航空関係者による 『航空技術の全貌j 産業政策の面からは商( 4)

    工政策史刊行委員会 (通R量産業省)による 『商工政策史』,学術 ・技術的観点からは日本航空学

    術史編集委員会による 『航空学術史jがある。本稿で参考とした他の先行研究は参考文献リス

    トに示すが,これらの先行研究には以下の点で更に研究すべき余地があると考えられる。第ー

    は,日本航空機工業の成果物である日本軍機の性能,特質について交戦相手国であるアメリカ

    機との対比で考察されていないこと 7 第二に日本軍機の特質について,日本的特質という観点

    からの考察がな されていないこと,第三に研究対象が敗戦による戦前航空機工業の崩壊までで

    止まってお り,国の総力を賭けた航空機工業の遺産の戦後への継承という観点での考察がない

    ことである。本稿は,「小型 ・軽量」を日本的特質のキーワードにこれらの点について新たな

    考察を提供するものである。

    1 第2次世界大戦における日本軍機の特質

    表 1 1は第二次世界大戦に投入された日本軍およびアメリカ箪のエンジン,機体 (戦闘機l

    爆撃機)の名称と生産数をまとめたものである。実戦に投入され,概ね1,000機以上製造された

    ( 1 ) 米国戦略爆撃調査団による 『太平洋戦争報告書Jは, 1946年7月以降にまとめられた。全般要約( 3巻),民間方前研究 (11巻),戦争経済研究 (46巻) 軍事方面研究 (48巻)の4大部門に分かれ,合計108巻に上る彪大な歴史的文献である。本稿では, I太平洋戦争報告書jの内,第 l巻 『太平洋戦争総合報告書=』 第15巻 『日本の航空機工業j及び第43巻 『日本の軍需工業jなどを翻訳収録した富永謙吾編 『現代史資料39 太平洋戦争5J (みすず書房, 1975年)から引用した。

    ( 2) 本稿での引用は 1 防衛研修所戦史室『戦死叢書87 陸軍航空兵器の開発 ー生産 ー補給』(朝雲新聞社。 1975年)による。航空関係では他に, 『戦史叢書95 海軍航空概史J(同, 1976年l.n淡史叢書99陸軍軍戦備J(同' 1979年)などがある。

    ( 3) 岡村純也編 『航空技術の全貌』(上)(下)(原書房, 1976年 (1953年刊の復刻))( 4) 商工政策史刊行会 『商工政策史 第18巻機械工業(上)〔戦前編〕』(通商産業省 1 1976年)( 5) 日本航空学術史編集委員会 『日本航空学術史(1910---1945)』(丸善株式会社, 1990年)

    48

  • 戦前日本軍機の特質と院後の自動車開発に|謝する一考察(佐藤)

    表 1 1 第 2次世界大戦時の日米主要なエンジン ー機体生産数

    国名エンジン 戦闘機 爆撃機

    名称 生産数 機種名 生産数 機種名 生産機数

    栄 21.160 零戦 10,425 l式陸攻 2,418

    火星 15.901 l式戦隼 5.753 97式重燥 2064

    金星 15.124 4式戦疾風 3.449 96式陸攻 1027

    瑞星 12,795 97式戦 3,386 銀河 1.008

    日主宰 8.700 3式戦飛燕 3.159 100式重爆呑龍 790

    本寿 7.000 紫電改 1422 4式重爆飛龍 696

    ハ 109 3,554 2式戦鍾雄 1227

    ハ 5 3,431 96M監i淡 982

    ハ-40(水冷) 3.360 雷電 468

    ハー42 2.860 5式戦 396

    R-1830 Twin Wasp 173.618 P-51 Mustang 18.575 B24 Liberator 18 482

    R 2800 Double 125.534 P 47 Thunderbolt 15.686 Bl? Flying Forb・ess 12.371

    V1710(水冷) >70.00D P-40 Warhawk 13、387 B25 Mitchell 9,984

    アVl650(水冷) 55.523 F4U Corsair 12.571 B26 Marauder 5町288

    メR 2600 Cyclone >50、000 F6F Hellcat 12.275 B29 Su perfortress 3.930

    カR-1340 Wasp 34.966 P38 Lightning 10.037

    R 1820 Cyclone9 不明 P39 Airacobr a 9‘584

    R 3350 Cyclonel8 不明 F4F 3 Wildcat 7守722

    R 1300 Cyclone? 不明 P 36 Hawk 845

    (J)日本機の生産数は.日本航空学術史編集委員会編『日本航空学術史(191かー1945)J(丸善, 1990年) 附録第 1表から

    第3表による。( 2)アメリカ機の生産数は。 Wikipedia.the free Encyclopedia (English)の各該当機の記述による。

    主力機種を示した。表からは,エンジン,機体とも l機種当たりの生産数で米国が圧倒的に上

    回っていることが判る。 これは航空機生産力がアメリカの 1/5しかないにも関わらず多数の

    機種を試作した日本軍の無定見による ものである。

    以下,表 1 1に記載したエンジン,戦闘機,爆撃機各機種の諸元 ・性能指標を時系列で比較

    することでアメ リカ軍機と比較した日本軍機の特質を考察する。

    ( 1) エンジン

    航空機の性能を決める最大の要素は 航空機に搭載されるエンジンである。エンジンは当然

    ( 6) 海軍は53の基本型式と112の変種,陸軍は37の基本形式と52の変種,合計して90型式, 164種の飛

    行機を計画1 試作した(前出,「現代史資料39 太平洋戦争 5.I付表第 3の l,pl71)。

    49

  • 技術と文明 17巻 1号(50)

    図1 1 離昇馬力 hp(エンジン) 図 1-2 正面面積当たり 馬力 hp/m2(エンジン)

    図 1-3

    初運転

    名称

    形式

    外径 rn汀1

    会長 打1η1

    ボア径 打1m

    ストローク 行l!TI

    行程容積 l('J y トJレ)

    圧縮比

    離昇馬力 hp

    重量 kg

    過給機

    出力重量比 hp/kg

    リッ トル当たり出力 hp/I

    正面面積当たり 出力 hp/m2

    主な搭1査機

    ( 1 )出典は注7に同じ

    図 1-4 排気量当たり馬力 hp/リットル

    60.0

    500

    崎。 β担当W)

    300

    ・!舞(中島};

    20.0 ト一一ー j

    10.0

    1930 1932 1934 1936 1938

    表 1-2 エンジン諸元 ー性能比較

    1932年 1939年 1937 1942年

    R-1830 栄12型 R-3350-53 誉21型

    Twin Wasp (ノト25) Cyclonel8 (ノト45-21)

    空冷 Z)ilj星型14気筒 '.?£冷 2列星型18気筒

    1.222 1.150 1.420 1.180

    1.500 1.472 1,930 1.690

    140 130 156 130

    140 150 160 150

    30.0 27.9 54.6 35.8

    67 7.2 6.9 7.2

    1.200 940 2.200 2.000

    652 530 1.200 830

    遠心式 l段 liili 遠心式 l段 l述 l段 2速 遠心、式 l段 2速

    l制 1.77 1.83 2.40

    40.0 33.7 40.3 55.9

    1.024 905 1.390 1.830

    f4F. B 17. DC-3 零戦 1式戦「隼」 B-29. C-97, A 1 「銀河」「彩雲」「疾風」「紫電改」

    50

  • 戦前円本111機の特質と戦後の自動車IJrl発に関する一考察(佐藤)

    のことながら,軽量・小型で、大出力,高信頼性低燃費であることが要求される。エンジンは

    また,精密機械加工技術の極致ともいうべき精密工業製品で、ある。エンジンの冷却方式には空

    冷と液冷があるが,日本及びアメリカでは,冷媒に不自由せずまた構造が単純で重量軽減に有

    利である空冷エンジンの使用頻度が高く,その多くが冷却用流入空気にシリンダを効率的にさ

    らす事のできる星型エンジンであった。

    エンジンの性能はまず絶対的能力として①出力 (離昇馬力 hp),効率を表すパラメータとして

    は,②前面面積当たり出力 (hp/m2),③出力重量比 (hp/kg),及び④排気量当たり出力 (h1コ/I( 7)

    (リットル)) がある。図 1-1から図 1-4において横ililJJは当該エンジンの初運転に成功した年

    で,西暦年である。縦軸は性能指標で 上方にあるほど性能が優れていることになる。日本製

    エンジンは.,アメリカ製エンジンはOで示しである。

    図を一見して明らかなことは,エンジンの性能指標が一貰して向上していること,アメリカ

    の主要なエンジンシリーズの初運転が実施された1937年まで\すべての性能指標で日本製エン

    ジンはアメ リカ製エンジンの50%程度でしかないことである。このこと,特にエンジンの出力

    で劣ることが日本軍機の特質に大きな影響を及ぼすことになる。その後日本は急速にキャッチ

    アップすることになるが,エンジン設計-製造技術において日本はアメリカに対して 3年から

    4年は遅れていたといえる。日本がアメリカの高性能エンジンに追いついたのは, 1942年の中

    島飛行機「誉」(海軍名)の開発成功によってであった。「誉」は/I]佐昇馬力でほぼ追いつき,正面(8)

    面積当たり 出力,出力重量比,排気量当たり馬力では30%以上アメリカ製エンジンを凌駕する

    ことになった(表 1-2)。「誉」 は「小型 軽量」「高性能」エンジンの極致であったといえる。

    しかし「誉」の開発は時期的にあまりに遅く,生産台数は9,000基に満たず,熟成期間の不足.

    戦況の悪化に伴う材料不良,工作不良で実戦では試作時の性能を発揮できず,信頼性も確保出

    来なかった。これに対してアメ リカは1937年以降主要なエンジンシ リーズの熟成,性能・信頼

    性向上に余裕を持って取り組むことが出来た。

    ( 2) 戦闘機

    戦闘機は敵航空機との空i践を想定して 高い機動性能と対空攻撃力が要求される。一般的に

    攻撃機や爆撃機と比較すると小型 軽量であり,機体の大きさの割に強力なエンジンを搭載し

    ている。運用側から理想的な戦闘機を想定してみると,敵戦闘機,攻撃機,爆撃機より運動性

    (旋[Ii:[,上昇),高空性能に優れ,高速度で武装の威力,破壊力が大且つ自身の防御力が強力で信

    ( 7) 図 1-1~図 1-14および表 1-2から表 1-4まで,データの出典は,日本機は, 日本航空学術史編集委員会編 『日本航空学術史(1910-1945)』(丸善,1990年),附録第 l表及び第2表,航空情報編『日本軍用機の全貌J(目It燈社, 1955年),アメリカ機は, Jane'sFightii1g Aircraft of World War II (Jane’s Publishing Company 1946/1947), Bingham町 Victor守 Majo1Piston Aero E11giues of World War 11 (Airlife Publishing, 1998), White. G1 aham, Allied Aircraft Piston Engines of World War fl (Airlife Publishing, 1995)による。

    ( 8) 機体の空気抵抗を減らす目的から,日本軍はこれを重視した。

    51

  • 技術と文明 17巻 1号(52)

    頼性が高いということになるであろう。これらすべてを同時に満足することはいかに設計技術

    が進歩しようと困難なことであり,どの性能を重視するかに各国の用兵思想、が現れる。性能指

    標として①翼面荷重 (kg/m2),②水平最大速度 (km/h),③武装威力, ④搭載エンジン出力 (馬

    力hp),①全備重量 (kg),⑥航続距離 (km)を図 1-5から図 1-10に示して日本戦闘機の特

    質を考察する。図の横軸は制式化された年で西暦年である。日本軍機は.で,アメリカ箪機は

    Oで示しである。図中(海)は海箪機,(陸)は陸軍機である。

    図 1 5に示す翼面荷重 (kg/m2)は,機体の重量を主翼面積で割った値であり ,この値が小

    さいほど旋回半径が小さく ,小回りがきく 。反面,空気抵抗が大きくなり ,水平最大速度は低

    くなる。戦闘機の性格を最も良く表す数値である。日本陸軍は翼面荷重130kg/m2程度を境界

    として「軽戦闘機 (軽戦)」 「重戦闘機 (重戦)」と区分していた。重戦は速度と攻撃力を重視し

    た機体である。海軍は狭い航空母艦から運用する必要性から,陸軍でいう軽戦的な戦闘機と

    なったが, 一方陸上から運用する機体を局地戦闘機と呼び\これは重戦に近い機体となった。

    図 1 5を見てわかることは 戦闘機の翼面荷重が制式化年とともに急速に増大している (重戦

    化)こと,その増大の仕方は日本とアメリカで明確に相違している ことである。重戦化に伴っ

    て,戦闘様式も近接格闘戦から?高速を利用 しての一撃離脱戦法へと変化した。日本は世界の

    戦闘機の趨勢である重戦化では明らかに後れをとったといえる。

    水平最大速度 (km/h)(図 卜 6)についてみると 日本戦闘機は翼面荷重が低く設定されてい

    たためアメ リカ戦闘機に対して常に劣位であった。第2次世界大戦中期以降,アメリカ軍戦闘

    機の水平最大速度は700km/h程度にまで向上していたが,日本海軍の主力である「零戦Jの水

    平最大速度は559km/hでしかなく 日本戦闘機最速の陸軍4式戦「疾風」でやっと624km/hで

    あった。lOOkm/h以上の速度差があっては,アメリカ軍機の一撃離脱戦法に対抗することは困

    難であった。

    戦闘機の武装 (攻撃兵器)は機関砲 (銃)である。武装威力を20mm機関砲換算の数値として

    図 1-7に示す。「20mm機関砲換算」とは 20ミリ l門は13ミリの 3門,7.7ミリの 6丁に相当

    するとして換算したものである。「零戦」は出現時期としてはアメリカ機を凌ぐ強力な武装を

    有していること, l式戦「隼」は武装が貧弱であったことが判る。ほぼすべての戦闘機が対抗

    機となるアメリカ戦闘機に比し武装威力が劣っていた。

    搭載エンジン出力 (馬力 hp)を図 1 8に示した。戦争のほとんどの期間,日本の主力機は

    1,000馬力から1,200馬力程度のエンジンを搭載していた。戦争末期の海軍「紫電改」,陸軍4式

    戦「疾風」で初めて2,000馬力級のエンジンを搭載できたのである。アメリカは1943年初頭から

    ( 9) 飛行機一機撃墜に必要な命中弾数は弾丸効力に反比例し弾丸効力は一弾の重量に比例した。弾丸効力は20ミリを100とした場合 13ミリは27,7.7ミリは 8であった。また一回の射撃 (3秒間)における発射弾数は, 20ミリの20発に対し, 13ミリは30発' 7.7ミリは50発であった。従って, 20ミリ一門は13ミリの 3門, 7.7ミリの 6丁に相当し,小口径のものほど多銃 (砲)装備しなければ,射撃効果は期待できなかったのである (前出『戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発 ・生産 ・補給J.p275)。

    52

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察(佐藤)

    300

    250

    200

    150

    100

    50

    図 1-5 翼面荷重kg/m2(戦闘機)

    . 96艦載(海

    . 97式戦(陵}

    FW190(担)

    1934 1936 1938 1940 1942 1944 1946

    図1一7 武装威力20mm機関砲換算(戦闘機)5.0

    口FW190(独} 務電改{海)

    4.0

    3.0

    2.0

    云ふ司. 。。

    1934 1936 1938 1940 1942 1944 1946

    図 1-9 全備重量 kg(戦闘機)

    4,000

    3αJO

    1936 1938 1940 1942 1944 1946

    図 1-6 水平最大速度 km/hr(戦闘機)750

    700

    650

    600

    550

    5田

    450 ト1一61一E職一→制• 97~毅〈睦}

    400

    1934 1936 1938 1940 1942 1944 1946

    図 1-8 搭載エンジン出力 hp(戦闘機)

    2,500

    2,300

    2,100

    1,900

    日目

    1,500

    日田

    1,100

    9曲

    7国

    1936 1938 1940 1942 1944 1946

    図 110 航続m~雌 km (戦闘機)

    3 400

    2,91田

    科目。(陸)

    241叩

    世間

    1,400 . 900

    400

    1934 1936 1938 1940 1942 1944 1946

    2.000馬力のエンジンを搭載した戦闘機を太平洋戦線に投入した。 日本の設計者は 2倍近い馬

    力を有する機体に設計の工夫,機能の絞り込み (防弾装備の省略?簡略化等)で対抗せざるを得な

    かったのである。

    全備重量(kg)を図 1-9に示した。日本の戦闘機の全備重量はほぼ2,500~3,000kg程度で\

    戦争末期の海軍「紫電改J,陸軍4式戦「疾風」にいたってやっ と3,800kgを越える程度にまで

    増大した。アメ リカ軍戦闘機は1938年の P-36Hawkの全備重量は2,560kgで日本戦闘機と 同程

    度であったが,その後急速に増大し 1942年の P-47Thunderbolt は7,938kgと日本戦闘機最大

    53

  • 技術と文明 17巻1号(54)

    表 1-3 海軍戦闘機諸元 ・性能比較

    制式化 1940年 1944年

    名称 F4F Wildcat 零戦21型 F6F Hellcat 零戦52型

    全幅 m 11.6 12.0 130 11.0

    全長 打1 8.8 9.1 10.2 9.1

    主翼面積 口12 24.l 22.4 31.0 213

    自重 kg 2,610 1,680 4,190 1.894

    全備重量 kg 3200 2.410 5.714 2.733

    エンジン出力 hp 1.200 950 2.0CO 1.130

    翼面荷重 kg/m2 132.8 1070 184.0 129.0

    馬力荷重 kg/hp 2.67 2.54 2.86 242

    最大速度 km/h 537 533 640 559

    航続距離 km/h 1,460 3,110 2.880 1.920

    実用上昇限 口1 12.000 10,250 11,530 11.740

    武装(機関銃 ・砲) 口径 mmx数20mm×2 12.7mm x 6又は 20mm×2

    12.7mm×4 7.7mm×2 20mm x 2 + 12.7mm×4 7.7mm x 2

    ( 1 )出典は注7に同じ

    重量の 4式戦「疾風」の 2倍を超える重量となった。

    航続距離 (km)を図 1-10に比較した。日本陸軍は広大な中国大陸,海軍は太平洋を主戦場

    と想定していたため,戦闘機には長大な航続性能を要求した。従って,海軍「零戦J21型の

    3,llOkm及び陸軍 l式戦 「隼」の3.000kmという航続能力は抜きんでていた。しかし翼面荷

    重を上げて水平最大速度を重視した戦争中期以降の機体ではこの優位はほぼ失われた。

    最後に,数値化が難しい性能として「防御性能jがある。被弾したときに搭乗員を護るため

    の防弾板及び燃料タンクの発火,;爆発を防ぐための防弾タンク,消火設備である。日本軍機,

    特に海軍機は「性能第一主義」で、あっ(払t,その「性能」には防御性能は入っておらず\開戦

    当初の機体はほぼ無防備であった。防御の強化に伴う重量増加,それに伴う性能低下を嫌い,

    運動性,航続能力を優先したのである。戦争が中期に入るに従い,防御力不足による戦闘損耗

    があまりに大きく,防弾板の追加,燃料タンクの防爆対策が為されたが,結果として飛行性能

    は低下した。

    総括すると,アメリカ戦闘機は.高水準にあるエンジン工業を背景に,大馬力エンジンを搭

    載した, 小回りはきかないものの。大馬力にものを言わせ,防弾も強力にした重戦闘機を作り

    上げ,力でねじ伏せる戦法をとった。日本の戦闘機は攻撃を最優先する設計思想、を採り,少な

    (10) 奥平林郎「戦時中の航空機の整備取扱の状況についてJ前出 『日本航空学術史(1910-1945)』(p.368)

    54

  • ii在i1rf円本軍機の特質と戦後の自動車開発に附する一考察(佐藤)

    い馬力のエンジンながら,防弾をも省略して徹底した軽量化を図ることで空力性能を向上させ,

    小回りのきく戦闘機を開発したということである。日本機とアメリカ機の戦闘は2 フライ級の

    ボクサーがヘビー級のボクサーを相手にしている ようなもので,軽量側は戦争初期においては

    格闘戦である程度劣勢をカバーはできても,重量のある側が高速を利用して一撃離脱作戦を講

    じれば,勝つことは困難となる。まして,戦争後半に至っては,戦闘消耗により日本搭乗員の

    操縦技量もアメリカに劣勢となったわけで,航杢戦で敗れることは必然となった。表 1 3に

    開戦当初と末期の日米海箪主力機の比較を示す。1940年当時の「零戦」は水平最大速度がほぼ

    同等,旋回性能は優れており,絡闘戦で有利であった。しかし日本海軍は「零戦」後継機「烈

    風」の開発に失敗して戦争末期に「紫電改」が登場するまで「零戦」改良で対抗せざるを得ず,

    2,000馬力級エンジン搭載機を投入してきたアメリカに対抗できなかったのである。

    なお,参考のため図 1-5から図 1-10には代表的な独軍戦闘機を口 英軍戦闘機をムで示し

    である。日本軍戦闘機との対比では,米軍戦闘機とほぼ同様のことがいえる。

    ( 3) 爆撃機

    爆撃機の任務は,大量の爆弾を長距離,高速で、運搬し目標に正確に投下する ことにある。性

    能指標として①爆弾熔i隊長 (kg)と航続距離(km),②水平最大速度 (km/h)①防御能力とし

    ての武装威力,e全備重量(kg)を図 1-llから図 114に示して,日本爆撃機の特質を考察する。まず,爆弾搭載量 (kg)と航続距離(km)を図 1llに示した。縦IU1!1に;爆弾搭載量,横軸に航

    続距離をパラメータにとってある。右上にプロッ トされた機種ほど;爆撃機としての基本能力が

    高いといえる。爆弾搭載量を見ると,第2次世界大戦期間を通して日本爆撃機は1.000kgが限

    界であったが, 1938年制式化のアメリカ B17は既に3,600kg. 1944制式化され日本本土爆撃に

    使用された 8-29は9,000kgもの爆弾が搭載可能であった。破壊力に格段の差があったといえる。

    日本軍が重視していたこともあって,航続距離では爆弾搭載量ほどの差はなかった。

    図 1-12に見るとおり,戦闘機と同様,水平最大速度は制式化年度とともに増加している。

    日本陸軍の爆撃機は同時期のアメリカ機に比し40km/h程度低速であったが,航続力を重視し

    た日本海軍;爆撃機は更に低速で'. lOOkm/h程度低速であった。

    防御能力は,武装威力と防弾能力の合計で評価できる。武装威力(Ill1 13)は20mm機関砲

    換算で,日本軍機はアメリカ箪機の半分程度であった。防弾性能については,戦闘機の場合と

    同様定量評価は困難であるが,戦闘機と同様に戦争末期まで,ほほ防弾対策はなく,「8-17は

    零戦の20mm昨裂弾で火を喰かないが,「l式陸攻jはアメリカ戦闘機の12.7mm機関銃の一撃

    で火炎に包まれるJといわれるように,格段の差があった。

    全保i重量の比較を図 1 14に示すが,日本軍機はほぼ10,000kg,最大であった陸軍4式重燥

    (11) 前出 『航空技術の全貌J(よ) (pp.403-5)

    55

  • 技術と文明 17巻1号(56)

    図 1-11 ;爆弾搭載量と航続距縦(爆撃機)

    ち下7つ r・・=Fl 二i I I i ト限'"6(;€ ~ i 四・::: l I 1 •. ,. : I I i soo

    ::: i 1 ・叫S叫 !上-\」 :'::~~;~r引~

    図 1-12 水平最大速度 km/hr(爆撃機)

    600

    B 29

    Ju88(独)ロ

    450 世

    羽。一・劃

    ・l唯il+ill-

    %吋|一丈・出?攻陸式

    4叩

    193tl 1936 1938 1940 1942 1944 1946

    図 1-13 武装威力20mm機関砲換算(爆製機) 図 1-14 全備重量 kg(爆撃機)

    f~. I ~ l 60,000

    I B 29

    5既成調。

    。 ' : ー一ーーー→一一一ーー一一一一一」

    Lancast 飛電{陸)見叩 卜一一千ー

    8・17 一240 I I 1式陸 ) 。• !J

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察(佐藤)

    「飛龍Jが13,765kgであった。対してアメリカ軍機は B-17が22,475kg,B-29が54,000kgであり,

    同時期で比較すると 3倍から5倍の差があった。

    大型機は小型機を単純にスケールアップしたのみでは,性能を確保出来ない。性能を確保す

    るにはエンジン,機体での技術革新が必須で、ある。表 1-4に開戦初期と末期の日本, アメ リ

    カ爆撃機諸元の比較を示すが,大型爆撃機の設計製造技術ではアメリカが圧倒していたのは

    明かである。日本はエンジンを 4基搭載した 4発爆撃機を実戦に投入できなかった。日本海軍

    もB-17に相当する規模の大型爆撃機を試作はした。中島飛行機が1944年に試作した陸攻 「連

    山」がそれで\ 4発機で、全備重量30トン近く,最大4トンの爆弾搭載が可能とされたが。試作(12)

    4機のみの製作で実用化前に敗戦となった。

    戦闘機の場合と同様,図 1-11から図 1 14には代表的な独軍;爆撃機を口,英軍爆撃機をムで

    示した。日本軍爆撃機との対比では, 爆弾搭載量,機体規模についてほぼ米軍爆撃機と同様の

    ことがいえる。

    ( 4) 「小型・軽量jであった日本軍機

    軍用機は「性能第一」であることが当然で、ある。 ここでいう 「性能」と は,攻撃,防御,整

    備,補給,運用も含めた兵器システムとしての「システム性能」であるべき だが,日本軍機の

    性能第一主義は「飛行性能第一主義Jであったといえる。相対的に出力の劣るエンジンを使用

    して飛行性能要求を達成するための手法が徹底した「小型 ・軽量」 化であった。「アメリカ軍

    機は軍用機と して計画的に防御及びこれに要する重量及び性能低下を考慮に入れて,正攻法で(13)

    戦う飛行機を計画していた」のに対して第 2次世界大戦(特に初期)の 日本軍機は軽武装で且

    つ防御を無視して小型・軽量化を図か飛行性能を追求した。徹底した軽量化のために,構造

    強度,剛性も犠牲になか整備性,信頼性の欠如をもたらした。日本軍機は兵器として必要と

    される「撃たれ強さ」「頑丈さ」を持ち合わせていなかったといえる。

    2 「小型・ 軽量」機を生んだ戦前航空機工業の特質

    ( 1) 「小型 ・軽量」設計の背景

    戦前の日本軍機は何故, 攻撃力,防御力を犠牲にしてまで「小型・軽量」にこだわる必要が

    あったのか。そこには,日本の国土 -国情が反映されている。戦前の日本航空機工業の遅れと

    (12) 前出 『日本軍用機の全貌J(p 222)。更に,日本にも B29を凌駕する超大型機の計画はあった。戦局を挽回するため米本土を爆撃するという中島知久平 (中島飛行機創始者)のZ機構想を基にした富畿である。計画諸元は5.0CD馬力エンジン 6基を搭載,全備重量160トン,;爆弾搭載量20トン,航続距離16.000km(『日本軍用機の全貌Ip.261)という,当時の日本の国力では実現不可能と恩われるものであった。当初は陸海軍 トップ他に相手にされなかったが, 1943年秋に陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され,これに軍需省も加わった体制で開発が進められた。しかし 1944年8月計画は中止となった。

    (13) 前出 『航空技術の全貌j(上) (p404)

    57

  • 技術と文明 17巻l号(58)

    それを支えるべき基礎工業の未発達そして軍の用兵思想の遅れと軍内部の対立である。

    日本の産業革命は1880年代中頃に始まり,イギリスより 100年以上遅れて機械化文明が入っ

    てきた。比較的新しい産業である航空機は,欧米では1903年のライト兄弟の動力初飛行を契機

    として航空機会社が設立され,航空機の開発,生産に乗り出すことになる。日本では最初は軍

    が,次いで1917年の中島飛行機 (設立時の名称は「飛行機研究所」)を最初として民間会社が設立

    されることになる。民間会社設立では欧米に遅れること約10年で日本の航空機工業はスター卜

    したことになるが,航空機工業は様々な産業分野が支えて初めて成り立つ総合工業であるため,

    機械化文明の100年の蓄積の差というハンデイを最初から背負うことになった。

    技術後進国が新しい工業を興そうとする場合に取る道は通常3期に分けるこ とができる。ま

    ず製品を完全輸入しその取扱に習熟するのが第 I期 (輸入期) 製品のライセンスと製造設備を

    輸入し且つ技術者を招鴨して設計,製作法を学ぶのが第 2期(模倣}明),最後に自らの技術で

    国土,国情にあった製品を開発,生産するのが第3期 (自立期)である。航空機工業も同様の過

    程で自主開発技術を緬養してきた。林克也に従えば,第 l期は1910年から1915年の 5年間, 第(14)

    2期は1916年から1931年の約15年間,第3期は1932年から1945年の約13年間となる。満州事変

    (1931年)以降が, 我が国独自の開発能力による国産化時期と考えて良いであろう。し か し 国

    産化の中身はといえば,研究設備,工作機械?工場設計,銭装品 (計器,通信機その他),部品 (プ

    ロペラ,燃料関係部品)および材料 (ただし機体 エンジンの構造材料の一部を除く)はまだ完全に外

    国依存か原料 ・部品の輸入ストックでこれが後に戦争中の航空機増産の|盤路となったのであ

    る。つまり, 日本は基礎的な研究に人員と経費をかけず,自立期に入っても外国技術の後追い,

    模倣から抜け出せなかった。日本は.開戦後は革新的な航空兵器を何一つ実用化できず,航空

    兵機の性能向上競争に大きく立ち後れたが その理由は航空技術が本質的には外国技術の模倣

    であったから,外国との技術交流の道が絶たれ,自主開発を要求されるようになっても,その

    技術に発展性が乏しかったためであった。「基礎科学に力を注がず,安易な外国模倣に依存し

    てきた技術開発の姿勢に問題があったといえる。箪用機の開発に当たっては海外の動向が判断

    の基準であり,軍は圏内に芽生えた新技術に関する構想には冷淡で,これを正当に評価し,適(16)

    切に培養しようという熱意に欠けていた。」このような空気のなかでは,自主技術は育ち得な

    かったのである。アメリカ側の評価はどのようであったか。調査団報告は,日本の航空機エン(17)

    ジンとプロペラの大部分は 日本が戦前に特許を買ったアメリカの設計によるものであったと

    (14) 林克也 I日本軍事技術史』(青木書店。 1957年, p.255)(15) 米国政府は目撃事変 l年目の1938年7月頃から公式に航空機部品関連を中心に日本に対する輸出を規制する措置をとっている。

    (16) 前出 I戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発 ・生産 ・補給』(p.524)(17) 戦前に,中島飛行機はアメリカのエンジンメーカーである Pratt& Whitney社及びCUItiss Wright 社から,三菱重工業は Pr副 &Whitney社からライセンスを購入している。両社のエンジンはこれらアメ リカの技術を参考としているのは硲かである。プロペラでは.世界的に普及したアメリカHamilton Standard社の油圧式可変ピッチ プロペラのライセンスを住友金属工業が購入し,零戦. 1 式戦闘機隼など主力機に装備された。日本では 可変ピッチ ・プロペラの独自開発はできなかった。

    58

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に|刻する一考察({/;:Jj長)

    し 日本の航空に関する調査研究は,諸外国に比べれば少なくとも I年ないし l年半おくれて

    おり,生産への適用は更に少なくとも l年連れていた,プロペラの設計は,アメ リカより 5年08)

    以上遅れていた,と評価している。

    次に日本軍の戦略,用兵思想、について考察する。兵器は軍の要求性能に基づいて設計される。

    要求性能の基になるのが,軍の戦Ill告,用兵思想、である。第二次世界大戦における日本軍の戦略(19)

    は長期的展望を欠いた,短期決戦志向であった とされる。アメリカとの国力差を考慮すれば,

    これはやむを得ざる選択ともいえるが 長期戦になったときの展望を日本は持っていなかった。

    この短期決戦志向の戦略は,「一面で攻撃重視,決戦重視の考え方と結びつき,他方で防御,情

    報,諜報に関する関心の低三兵力補充,補給・兵姑軽視となって現れた。海上交通保護の軽

    視,空母,戦闘機 ・攻撃機等の兵器体系も防御という点では技術的に見て著しく不備であっ(20)

    た」。また, 日本軍の戦略策定のプロセスについては,「一定の原理や論理に基づくと言うより

    は,多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。日本軍の戦略策定が状況

    変化に対応できなかったのは,組織の中に論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに(21)

    大きな原因がある」という評価がある。現代戦は 「技術戦」といわれるが, 日本軍では用兵側

    が強く,技術は従属的地位であった。「技術戦」に必要な科学的,論理的思考,実証主義よりは

    精神要素を極度に重視し物的戦力の不足を運用の妙と,訓練の精到を持って補うという日本

    軍の伝統は,深くわが国の基本的国情に基づくものであったといえるが,これが物的戦力を軽

    視する思想、を生みl 技術を従属的に取り扱う傾向を助長させたのである。こうした精神主義は,

    世界的な技術趨勢への適応を妨げる保守性ともなり,先に見た戦闘機における軽戦から重戦へ

    の転換の遅れ,防御軽視の原因ともなったのである。(23)

    図2-1日米民問機生産比率に示すとおり,日本の民問機の製造はほぼゼロで1940年戦時体

    制に移行するまでは民間機比率が70%程度を占めていたアメリカと対照的であった。日本航空

    機工業は専ら軍主導で発展したわけで、あるが 軍内部でも陸海軍の対立が激しかった。対立を

    解消し航空機生産計画を一元化することを 目的に1943年11月には軍需省が発足したが目的は

    達成できず,対立は敗戦まで続いた。日本の航空機工業は,満州事変以降に輸入模倣時代から

    一歩進んで機体,エンジン設計の自立,匡l産化の|時代にはいるのであるが,それは文字通り陸

    海軍聞の断絶状態においてなされた。陸軍は発注,審査に当たるのみで研究,試作は民間専属

    (18) 前出 『現代史資料39 太平洋戦争 5J (pl05, 188, 202を要約)(19) 1940年のアメリカの GNPは日本の10倍。 1941年には12.7倍に拡大した。(20) 戸部良一他 I失敗の本質 日本軍の組織論的研究J(ダイヤモンド社' 1984年,引用は中公文庫.p277)

    (21) 前出 f失敗の本質 日本軍の組織論的研究J(pp.283-9) (22) 前出 『戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発生産 補給J(p 523) (23) 日本全体の民間機生産数はデータがえられなかったので 最大の機体生産会社であった中島飛行機の実績を示した。中島飛行機生産数は 1 『富士重工業30年史』(富士重工業株式会社, 1984年, p52).アメリカ生産数は。字野博二「アメリカにおける航空機工業の発達(その 1)」(『学習院大学経済論集l学習院大学経済学会。第9巻3一号).同「|司(その 2)」(同 |百l,第10巻 3号)記載のデータによる。

    59

  • 技術と文明 17巻I号(60)

    図2 1 日米民|問機生産比率

    l.(氾

    090←一一一一 一一一一一一一一一一一 一一一一一一一一一ωト一千~立止一 一 一 一 一-0.70 ~ A一二 一一一主主「'~0.60ト-/ ‘ ’一一一-•-\~~、問「 - ~ 0.40

    0.30 一一一一一一一一一-,020 I

    | 日本(中島飛行機) ‘ 010 I ー・- .....---- ..__.__ ¥.. ,. 000 L• _ - - - 三士~一一一ー ー・==’=

    1926 1928 1930 19'32 1934 1936 1938 1940 1942 1944

    表 2-1 航空機製造各社と箪の系列

    機体製造 エンジン製造会社名

    陸軍 海軍 陸軍 海軍

    中島飛行機 。。。。三菱重工業 。。。。川崎航杢機 。 。大万洗飛行機 。日本国際航空工業 。立川飛行機 。愛知航空機 。 。日立航空機 。。。日本飛行機 。九州航空機 。川西航空機 。富士飛行機 。昭和飛行機 。

    商工政策史刊行会『商工政策史第18巻機械工業(上)[戦前編Jj(通商産業省, 1976年)第130表から作成

    工場に任せており,海軍は直轄工廠により研究,設計をも行ったが,その製作はほとんどが民

    間専属工場によってなされた。表 2-1に示すように陸海軍の専属工場は三菱と 中島を例外に

    他は全く陸海軍に分断され しかも大部分はエンジンと機体に専門化されていた。陸海軍聞に

    おける技術の交流が曲がりなりにも実現したのは 軍需省が発足した1943年になってからで

    あった。

    ( 2) 「小型 ・軽量J機製造の監路

    航空機製造には当然、のこととして そのための材料が必要である。エンジン,機体の主たる

    材料はアルミニウム合金と合金銅を初めとする鋼合金であるが,小型 軽量化にはその中でも

    高強度材料が,更にエンジン製作には多量の耐熱鋼が必要となる。日本は資源小国で、あり,ア

    ルミニウムの原料であるボーキサイト 鋼材の原料となる良質の鉄鉱石及び合金鋼の成分であ

    る希少金属 (クロム ニッケル,コバルト タングステン。バナジウム,チタニウム, モリ ブデン等)

    をほぼ戦前の備蓄と輸入に頼っていた。戦況が悪化するにつれて生産増大に伴う備蓄の減少,

    制空権・制海権の喪失による輸入途絶とな り,材料の不足,品質の悪化に悩まされることに

    なった。まずアルミニウム合金であるが陸海軍は1942年に l機当たりの所要量を4.5トンと

    推定し 1943年には1944年の予定所要量を l機当た り約5.5トンに高めた。実績は1942年6.4ト

    ン,1943年5.3トン, 1944年3.8トン, 1945年2.2トンで1944年中には,航空機工業に対するアル

    (24) 前出 『商工政策史第18巻機械工業(上)〔戦前編〕』(p427)

    60

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察 (佐藤)

    ミニウムの割り当ては,最低所要量以下に落ちていた。しかも これはアルミニウム供給総量の

    内,航空機工業に向けられた割合が益々大きくなり, 1944年は89%, 1945年には100%に達した

    にもかかわらずそうだ、ったのである。また益々多量に再生アルミニウム(屑アルミニウム)が使

    用され,品質,強度低下を招いた。

    鋼材については,高度抗張力を持つ特殊合金銅製造に必要な合金資材の貯蔵が少なく且つ入

    手量も十分でなかった。特殊鋼の生産高は,普通鋼鋼材の生産低下にもかかわらず上昇したが,

    その質は希少金属の代わりに代用品を使用していたため低下した。その結果,エンジン,着陸

    装置,エンジン ・マウン ト,端末結合金具の製造に使用する合金銅の品質が低下するに至っ(26)

    た。エンジン性能の低下,着陸装置の不良等による飛行機の破損,生産能率の低下は,これら

    鋼の品質低下によるのであった。

    加工技術については,航空機用エンジンは,シ リン夕、内面等にミクロン (1 /lOCOミリ)単位

    の精密加工精度が必要となる。機体の製作でも,厚板,鍛造,鋳造等の素材から最終形状にす

    るためには機械加工が必要となる。軽量化のためには出来る限り余肉を少なくする必要がある

    ので切削加工量も多くなる。日本では,こうした加工をこなす高性能の工作機械が性能面でも,

    数の面でも不足していた。1935年初め頃,エンジン工場の設備工作機械の内,高性能・高精度

    機のほとんどは欧米製であったが, 1939年の第 2次世界大戦勃発,翌1940年のアメリカの工作

    機械対日禁輸措置により,輸入は極めて困難になった。陸海軍は,国産化の遅れていた研削盤,(27)

    歯車切削,・研削機,自動盤などに集中的に資金,資材,労働力を投入したが,成果は不十分で、(28)

    あった。また,歯車生産に欠かせない歯切り機械は全く国産化できなかった。日本は,工作機

    械という基礎工業では自立化が出来ていなかったのである。日本最大級であった中島飛行機武

    蔵製作所の機械台数推移を表 2 2に示した。1938年に50%をアメリカ製工作機械が占めてい

    たが, 1944年にはその比率が23%にまで低下している。

    国産工作機械の性能について,奥村正二は「国産工作機械の摺動面の摩耗は米国機械の摩耗

    の十数年分に匹敵した。精度は 1 2ヶ月で急速に低下した。カタログにある最大回転数を出

    すと機械は振動し軸受は加熱した。同番数の舶来機が十分耐える重切削に於いて,国産機は

    振動し換歯車は折損したり曲がったりした。油圧ポンプや電気部品は故障が続出した。材質の

    不良,加工の不正確,これに起因する耐久力及び精度の不足が歴然としていた0 ・ー米国製ド

    リルが楽々と穿つ穴を和製のドリルは数倍の時間をI喰い,次から次へと折損していくというよ(30)

    うな例が多かった」と述べている。『戦史叢書Jでは,工作機械に万能式が多いため生産能力が

    (25) J B コーへン著,大内兵衛訳 『戦時戦後の日本経済上巻』(岩波書店, 1950年' p324) (26) 前出 『戦時戦後の日本経済上巻J(p.326) (27) 長尾克子「日本工作機械工業の歴史第20回 航空機とエンジン[ I]」(『機械技術』第47巻第13号 p.93)

    (28) 奥村正二『技術史をみる限』(技術と人間, 1975年' p.64) (29) 同上(p65)(30) 前出『戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給J(p.385)

    61

  • 技術と文明 17巻 i号(62)

    表 2 2 中島飛行機エンジン工場の概要

    機械台数 機械台数

    製作所名 時期敷地 建物

    従業員数 当たり千rn2千rn2 総数 内米国製

    米国製

    比 率 従業員数

    荻窪 1938年 4月 258 50 1,140 570 0.50 5、495 4.8

    1938年 4月 231 66 360 180 0.50 759 2.1 武蔵野

    1941年11月 231 102 1674 560 033 9.108 5.4

    多摩 1941年ll月 152 70 1.300 560 0.43 4 251 3.3

    武蔵 1943年11月 559 238 4400 1,140 0.26 27.800 6.3

    武蔵 1944年 3月 559 238 4,854 1,120 0.23 34 000 7.0

    ( 1)武蔵野製作所と多摩製作所は1943年11月に合併して武蔵製作所となった。( 2)中川良一 水谷総太自rs『中島飛行機エンジン史j(酎燈社。 1985年I pp.105-7)による。

    表2 3 日米軍用機生産数

    1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 計

    日本 5.088 8守861 16守693 28.180 11 066 69.888

    日本指数 100.0 174.2 328.l 553.9 217.5

    対アメリカ上ヒ 0.26 0.18 0.18 0.28 0.23 0.23

    アメリカ 19,433 49,445 92.196 100 752 47,714 309.540

    アメリカ指数 100.0 254.4 474.4 518.5 245.5

    (1)米国の機数にはグライダーを含む

    ( 2).1 B.コーへン著 大内兵衛訳『戦前戦後の日本経済(上)J(岩波書店' 1950年)p.304による

    表 2 4 日本の航空機体i エンジン,プロペラ生産数

    1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 計

    機体 5.088 8.861 16.693 28.180 11,066 69,888

    戦闘機 1.080 2.935 7,147 13.811 5,474 30.447

    爆盤機 1,461 2,433 4189 5.100 1.934 15、117

    偵察機 639 967 1.048 2,147 855 5.656

    練習機 1.489 2.171 2 871 6.147 2.523 15.201

    その他 419 355 416 975 280 2.445

    エンジン 12.151 16‘999 28‘541 46.526 12.360 116,577

    対機体比率 2.39 1.92 1.71 1.65 112 1.67

    プロペラ 12.621 22、362 31.703 54、452 19,922 255.331

    ( 1 )富永謙吾編『現代史資料39 太平洋戦争 5J(みすず書房 1975年)p.101p.298から{乍成

    ( 2)その他には飛行艇.輸送機 グライダー及び特攻機を含む

    ( 3 )1945年は8月まで( 4)対機体比率はエンジン生産数/機体生産数を示す(1機当た りのエンジン

    割り当て可能数)

    62

    月産台数

    95

    34

    200

    127

    933

    1.914

  • 戦前日本軍機の特質とlfiH去の自動車開発にI到する一考察(佐藤)

    表2-5 航空機工業従事者数(単位千人)

    1941年12月 1942年12月 1943年12月 1944年4月 1944年12月

    機体及び組立 200 400 600 614 800

    日本 エンジン及びプロペラ 114 233 291 315 410

    合計 314 633 891 929 1,210

    1941年 1942年 1943年 1944年アメリカ

    航空機同部品 347 832 1.346 1 297

    ( 1 )日本のテータは 富永謙吾編『現代史資料39 太平洋戦争5J(みすず啓房 1975年)p.132付表第2の3による( 2)米国のデータは!宇野博二「アメ リカにおける航空機工業の発達(その2)」表 6による

    表2 6 航空機労働者の比率

    (1944年半ばの状況)

    種類 比率

    常傭工 15 40%

    徴用工 20-30%

    学生 30-40%

    兵士 10-15%

    富永謙吾編『現代史資料39 太平洋戦争 5J(みすず住房.1975年)p.136による

    表2 7 下請依存の状況(単位千人)

    区分 1944.2. 1 1945. 2. 1

    機体 405 574

    機体下請 112 122

    エンジン 200 267

    エンジン下請 34 53

    プロペラ 25 35

    プロペラ下請 3 5

    構成部分製造 170

    構成部分製造下請 58 308

    1,005 1364

    家庭工業 90 136

    iロb、雪ロ十I 1,095 1.500

    (内下請,家庭工業) 297 624

    富永謙吾編『現代史資料39 太平洋戦争5J(みすず書房.1975年)。p132付表第2の4による

    1945年4月

    831

    427

    1258

    1945王ド

    788

    低く,取扱に熟練を必要としたこと,設計が不良で部品を加工困難な形状にしたこと,更に鋳

    鍛設備の不備が,能率の悪い機械による直接の切削加工,自由鍛造等の多用を余儀なくしてい

    たことを指摘している。これらはいずれも生産性を阻害する要因であった。

    労働力について述べる。表 2-3に日米航空機生産数の推移,表 2-4には日本の機種別生産

    内訳とエンジン,プロペラの生産数を示した。こうした航空機増産のためには労働力の増強が

    必要なのは当然で、’航空機工業従事者数も急増した。表 2-5は日本とアメリカの航空機工業

    従事者数推移を示すものである。日本は開戦時の314千人から1944年12月には1,210千人と約 4

    倍に増加 した。ほほ同時期にアメリカも347千人から1,297千ノLと3.7倍に増加している。では,

    労働力の中身はどうだったか。高橋泰隆は 「日本は潤沢な熟練労働力による航空機生産が基

    本であった。 しかし (1937年の)日中戦争以降は労働事情が「労働飢飽」と呼ばれるまでに急

    63

  • 技術と文明 17巻 l号(64)

    変した。1943年頃は,工員は熟練工,多能工から素人工的な単能工に移り,その大部分は20歳

    前後の少年工であり,加えて学徒動員の学生や女子勤労挺身隊なる女子労働力の徴用すら存在

    した。徴兵年齢の引き下げ (20歳から19歳)に加えて技術者や熟練工の応召が重なり,労働力(3!)

    不足は明白であった」と述べている。特に,軍部に合理的徴兵免除政策についての配慮が欠け

    ており,技術者や熟練工が,戦争末期まで徴兵除外を認められなかったことは,作業能率の低

    下と不良品増大の要因となった。表 2-6は19叫年半ばにおける労働者の内訳である。常用工

    は僅か15%~40%しかいなかったのである。熟練工の割合は更に少なかったものと考えられ(32)

    る。残りは,徴用工,学生,兵士であった。また日本航空機工業は多数の下請企業に頼ってい

    た。表2 7に示す通り ,1944年 2月時点で航空機工業従事労働者の約30%, 1945年 2月では

    実に40%が下請企業あるいは更に零細な家庭工業で働いていたのである。これら下請企業は技

    術,設備.労働者の質とも航空機製造会社に比べて劣っていたのは当然で、あった。

    ( 3) 「小型 ・軽量j設計がもたらしたもの

    戦争中期以降になると,「小型 ・軽量Jを第 lとした巧綾な当時の生産現場の状況では実現

    困難な設計の結果として。試作段階では到達していた性能.品質水準が量産では確保できない

    という問題が明らかになった。主たる要因は先に述べた材料品質の劣化と代用品の使用,精密

    工作技術の劣化及び熟練工不足に伴う加工-組立技術の劣化によるものといえる。労働者の未

    熟練を補う治工具類の整備,標準化の遅れも大きな要因であった。具体例として海軍の艦上偵(33)

    察機「彩雲jの性能低下と品質低下がある。まず飛行性能では 試作機に比べて量産機で、は水

    平最大速度が28ノット (52km/h)低下した。飛行試験の結果判明した速度低下の内訳は,エン

    ジン及び排気管の粗製により 10ノット程度 主翼の工作不良で 6ノット程度,胴体その他の部(34)

    分の工作不良で4ノット程度,操縦法の不適切により 5ノット程度であった。搭載エンジンで

    ある「誉」の出力低下については,高度6,000m付近での毎分2.900回転時に出力がl,300Hp内外

    でしかないことが確認されている。エンジンの保証値を25%も下回っていたのである。品質の

    低下についても,「小型 ・軽量」 化が大きく影響いていたのは明かである。奥平鵡郎は「戦争の

    進むにつれ,あらゆる部面に故障が続出し 潜在していた無理が現れ始めた。整備取扱の上か

    ら言っても,また生産面から言っても,要求性能のうち小型で、あることが,直接的間接的にあ

    らゆる困難をもたらした0 ・・・・・ 0 「ガタ」の発生,亀裂,折損,漏油等が各部に現れ,殊にエン

    (31) 高橋泰隆 『中島飛行機の研究J(日本経済評論社, 1988年,pp.135-7要約)(32) 荒川憲一「日本の戦時工業労働力一航空機工業を中心に」 (『防衛学研究』日本防衛学会,第26巻.p.49)によれば.中島飛行機武蔵野製作所 (エンジン製作)の熟練工の割合として 5%という数字を挙げている。

    (33) 中島飛行機が開発。1944年6月から実戦に投入された。「誉」を搭載し.日本最速といわれた。生産機数は398機である。

    (34) 前出「戦時中の航空機の整備取扱の状況について」 (p374)(35) 前問孝則 『マンマシンの昭和伝説(上)J (講談社。 1993年. p 136)

    64

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考祭(佐藤)

    表2-8 日本,アメリカ, ドイツにおける航空機生産効率

    労働者一人, 一日当たり機体生産量(lb) 対アメリカ比

    アメリカ 日本 ドイツ 日本/アメリカ ドイツ/アメリカ

    1941年7月 1.42 0.63 1.15 0.44 0.81

    1942年7月 1.88 0.63 1.30 0.34 0.69

    1943年7月 1.88 0.71 1.50 0.38 0.80

    1944年7月 2.76 0.71 1.25 0.26 0.45

    1945年7月 2.36 0.42 018

    ( 1 )富永謙吾編『現代史資料39 太平洋戦争5J(みすず書房, 1975年)付表 lの4. p.105から作成

    ジンに至っては致命的にも, その信頼性を全く失ってしま った」と指摘している。まず,小型

    化という寸法面での制限は製造時の加工及び組立,部隊運用での整備取扱を困難にし,更に軽

    量化が加わって,強度・問I]性不足,耐久性不足となって現れたのである。結果は実戦での稼働

    率低下であった。(37)

    日本軍機の稼働率は,戦局の悪化とともに低下した。正確な数字は残されていないが,海軍

    機では,「南京渡洋爆撃時代から太平洋戦争の初期にあっては80%以上であったが,次第に機

    材不良と整備不良が主な原因となり,この比率は低下し昭和19年頃には50%以下,敗戦当時(38)

    は20%程度に低下した」と奥平職郎は述べている。また,粟野誠一は,戦争末期の稼働率は30(39)

    ~40%程度であったとしている。稼働率の低下は,工場出荷品質の低下,整備員の技量低下,

    補修部品の不足等がその主な原因であるが根源的には軍の指導及び「小型・軽量J設計思想、

    に起因したものといえる。軍の指導に関しては 「航空兵器の信頼性に対する着意が不十分で、

    あった。性能向上に走って設計が巧綴に過ぎたこと 新機種の出現を急いで、審査期間を短縮し

    たこと,量産に走ってその品質管理に徹底を欠いたことなどがその要因であるJと戦史叢書は

    総括している。

    ここまでに述べてきた様々な要因のため 日本の航空機生産効率はあまり良くなかった。調

    査団報告は,戦時中にアメリカの航空機資源統制局が開発した比較能率指数を用いて日本, ア(41)

    メリカ, ドイツにおる航空機生産効率を表 2-8に示す如く 算出している。比較指数は,すべ

    ての既知の変数を考慮に入れ,従業員 l人の 1日あた りの作業で生産した機体の重量(ポンド)

    の数字で示されるものである。開戦前の1941年 7月では日本の生産効率は0.63でアメ リカの

    44%であった。3年後の1944年 7月には日本の生産効率は0.71と13%向上したが,アメリカは

    (36) 前出「戦時中の航空機の整備取扱の状況について」 (p369)(37) 保有機数と実際戦力となり得る機数の比。(38) 前出「戦時中の航空機の整備取扱の状況についてJ(p.371) (39) 粟野誠一「エンジン」 前出 『日本航空学術史(191か-1945)J (p.411) (40) 防衛庁防衛研修所戦史研究室『戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発 ・生産 ・補給』(朝雲新聞社,1975年, p.524)

    (41) 前出 『現代史資料39 太平洋戦争 5J (p.106)

    65

  • 技術と文明 17巻 I号(66)

    同期間に94%も生産効率を向上させたのでアメ リカ比の生産効率は26%にまで低下した。1945(42)

    年7月には生産効率が0.42と極端に低下したが これは原材料pの枯渇 アメリカ軍の空襲及び

    それに伴う工場疎開のために操業を停止した工場が多かったためである。

    生産効率が低かった原因としては!先に述べた熟練労働者の不足。少年工,女子労働力の徴(43)

    用による技能低下があり ,これは調査団報告も指摘しているところである。 しかし航空機工

    業におる労働力の質については,アメ リカでは女性労働者の割合は1943年11月には36.6%,日本(44)

    では1944年初めでは30%といわれており むしろアメリカの方が女性労働者の割合が多くなっ

    ていたのである。従って,当時の日本の生産性の低さを議論するには,後に述べる設計上の問

    題とともに,未熟練労働者を如何に短期間に訓練し,効率的に使って生産性を上げるかという

    経営管理(労務管理),生産管理面での日本の遅れも忘れてはならない。アメリカは専用工作機

    械を多用し,且つ作業を細分して単純化守標準化して未熟練労働者の効率を上げたのに対し

    日本は使用に熟練を要する汎用工作機械が多く,その上熟練を要する作業に未経験の労働者を

    そのまま投入した。アメ リカの生産方式は所謂「流れ作業方式」で自動車産業をはじめ,アメ

    リカの多くの産業分野でよく知られていた方法を, 1940年頃から航空機産業に導入したもので(45)

    ある。日本の生産方式は 「半流れ作業職場方式」といわれるレベルに止ま っていたのである。

    設計に関しては「用兵側が強く 技術は従属的地位であ った」 また 「航空機工業がほぼ

    100%軍に依存していた」状況から軍の「性能第一」とする指導に従わざるを得なかったわけで\

    設計の狙いが飛行性能の向上に偏り,航空機の生産性や整備性に関する配慮、が甚だしく不足す

    ることになったのは,やむを得ないことであった。軽量化のため機体は繊細なものとなり,工

    芸的ともいえる加工が必要となって,そのために工数が不当に増加し 設備の整わない戦地の

    部隊での整備を困難にした。中口博は「設計上のこのような不備には,設計者のみに帰せられ

    ない事情があった。すなわち,飛行機の使用者は,当然のことながら,開発時点ないし将来の

    技術水準で、得られるであろう最高の性能を要求し,設計者はできるだけ要求を満足する機体を

    作るように努力することになる。この間の議論では生産性や整備性への配慮はしばしば二の次

    の問題になり,機体は繊細で.武人の蛮用に適さないものになった。米国の軍用機は,我々か

    (42) アメリカ軍による民間航空機工場への最初の空襲は, 1944年11月24日,中島飛行機武蔵製作所に対するものであった。軍工廠に対するものを含め 敗戦までに航杢機工場へは合計90回の直接攻撃がなされ,約16.300トン (全投下爆弾量の約9.7%)の爆弾が投下された(前出 I現代史資料39 太平洋戦争 5J p.1214)。日本の航空機生産は原材料の枯渇で既に1944年9月をピークに減少に転じており.杢袋とその後の工場疎開による混乱はこれに止めを刺したといえる。

    (43) 前出 f現代史資料39 太平洋戦争 5J (pl06) (44) 佐藤千登勢「第二次世界大戦の航空機工業における女性労働」 (社会経済史学会第69回全国大会での報告,zcoo年10月)より

    (45) 前出 「日本の戦時工業労働力一航空機工業を中心に」 (p51,52)によれば,第2次世界大戦中における航空機の職場生産方式は次のように類型化される。「機種別職場」方式『「半流れ作業職場」方式,「i流れ作業職場」方式である。日本の航空機生産方式を。機体生産の発展過程としてみると, 第一期 (1931~37年)は「単体管理方式」,第二期 (1937~41年)は,「機種別職場」方式,第三期 (1941~45年)は「半流れ作業職場」方式の時期といえる。

    66

  • 戦前円本軍機の特質と戦後の自動車開発に|刻する一考察 (佐藤)

    ら見ると必要以上に頑丈で、重いが,性能の低下は出力の一回り大きいエンジンを搭載すること

    で、補うという考え方をとっていた。これは蛮用を許すために必要な余裕であったのであろう」

    と述べている。エンジン設計についても同様で、,「誉」に代表されるように,「小型 ・軽量」で

    大出力という高性能化を図るために 航空機工業の実情を無視した無理を重ねた設計となって

    いた。結果として,信頼性,耐久性を犠牲になか整備性も悪いものとなった。総括すれば,

    当時の日本の総合的な工業レベルでは,「小型 ・軽量」と生産性,信頼性,耐久性整備性のす

    べてを満足させることは不可能であった。

    3 戦後に生き た 「小型 ・軽量」 思想-航空機から自動車へ

    ( 1) 戦前の日本自動車工業

    戦前日本の自動車工業も航空機工業と同様に 軍事的要請から国家の保護により発展した。

    そして,機械工業特に工作機械の未発達,基礎となる関連工業の不足と技術の後れ,原材料工

    業の不十分という工業的基礎体力の不足は航空機工業のそれと共通するものであった。必要と

    される産業基盤,技術基盤からは自動車工業がまず発展し次いで、航杢機工業へというのが一

    般的な産業発展のJil買序であるが, 日本の場合は航空機工業の方が技術的にも生産力的にも世界

    水準にまで発展したのに対して,'~'動車工業は後進国のままであるという特異な状況であった。

    戦前の自動車工業について詳述する紙数はないが,1930年から戦後の1949年までの日米自動車

    生産数を表3-1に示した。単年度で見ると,開戦の1941年の日本の生産高は約5.4万台,アメ

    リカは約480万台で対アメリカ比は約 1/90. 1941年から1945年の 5年間合計では日本約16万台,

    アメ リカは同期間に約805万台で対アメリカ比は 1/50である。この数字は,航空機工業の日米

    比 (約1I 5)と比較にな らない貧弱な日本自動車工業の生産力を示している。しかも,この間

    にアメリカ 自動車工業は航空機生産へシフ トしていたのである。更に車種別の生産台数を見る

    と,日本は圧倒的にトラック・パスの生産台数が多く.乗用車が主体であったアメリカ自動車

    工業と対照的である。戦前の日本では 乗用車市場が未発達であったこ との証左であるといえ

    る。

    第二次世界大戦中に参戦各国とも航空機の大増産対策として技術 ・設備的に近い自動車工

    業を活用した。日本の自動車工業の未発達は この点において日米臥の差異を際だたせること

    になった。表3 2に示すとおり,日本では機体の製造に関わった自動車製造会社は皆無で,

    エンジンは当時の日産自動車,盛田自動車(現在のトヨタ自動車)が生産したが,その数は戦争

    中日本のエンジン総生産台数116.527台に対して僅か1.793台(015%)であった。日本航空機工

    業は,欧米の航空機工業が受けることのできた,当時最も量産技術の進んで、いた自動車工業の

    支援を受ける ことができなかったのである。それは,日本では航空機工業が披行的に発展した

    (46) 中口博「設計技術に|品lする反省」前出 f日本航空学術史(191かー1945)J(p386)

    67

  • 技術と文明 17巻 l号(68)

    表 3-1 日米自動車生産台数(1930~1949)

    日本 米国

    西暦トラック ー トラ ック ー

    乗用車ノt ス 合計 輸入車 輸出車 乗用車 J ~- ス

    1930 1.650 458 2.108 23曾878 2 784.745 57L421

    1931 1.754 434 2.188 23守200 L973.090 416.648

    1932 3.060 696 3、756 15.787 1,135,491 235.187

    1933 4.398 1.055 5.453 16.353 1,573.512 346.545

    1934 6,648 1.077 7.725 31.309 349 2177.919 575.192

    1935 15 938 1,206 17.144 32 731 1 361 3.252,244 694.690

    1936 21.384 5、019 26.403 33 175 3.998 3.669.528 784 587

    1937 28.162 7.683 35.剖5 33.939 3.413 3町915.889 893,085

    1938 23.680 14.031 37.711 21.100 2118 2,000守985 488,100

    1939 15,986 29.248 45.234 500 7.064 2,866.796 710.496

    1940 15.418 42.106 57.524 4 915 3 717.385 754,901

    1941 11.100 42.867 53.967 2,210 3.779.682 1.060.820

    1942 8‘532 34.841 43‘373 1180 222.862 818.662

    1943 5.519 24町068 29.587 1.599 139 699,689

    1944 2守748 21.498 24.246 213 610 737 524

    1945 864 6.808 7.672 69.532 655.683

    1946 5,670 14,795 20.465 2.148,699 940 851

    1947 14 605 11 319 25.924 2 3,558.178 1 239.744

    1948 36.336 20.094 56.430 22 3.909.270 1.376句155

    1949 46,406 18,741 65.147 569 5 108,841 1129.247

    ( 1 )住吉弘人『日本自動車工業の沿革と歴史的特質j第l表 第3表第4表から筆者が作成

    表3-2 自動車会社による航空機製造

    機体 lエンジン|プロペラ 製造会社

    日本 1.793 日産自動車豊田自動車

    アメ リカ I27.000 I 455.522 I 255,518 I Ford, GM, P武 kard等( 1)日本生産数は,富永謙吾編『現代史資料39 太平洋戦争 5J(みすず瞥房1975)p274による

    ( 2)アメ リカ生産数は 宇野博二「アメリカにおける航空機工業の発達(その

    2)」p13記載のデータによる。

    ことの証左でもあった。

    ( 2) 戦後航空機工業の再編

    iロLきロまiレ

    3,356.166

    2,389.738

    1,370.678

    1.920.057

    2.753,111

    3.946 934

    4.454.115

    4.808.974

    2.489.085

    3,577,292

    4.472 286

    4.840.502

    1.041,524

    699 828

    738,134

    725、215

    3.089、550

    4.797.922

    5.285.425

    6.238 088

    1945年 8月15日の第 2次世界大戦の敗戦によって日本は連合国軍の占領下に置かれ, 旧陸海

    軍, 4大財閥(三井, 三菱,住友,安田),そして航空機工業は徹底的に解体された。以降1950年

    6月25日の朝鮮戦争勃発によるアメリカの対日占領政策変更を受けて, 1952年 3月8日に

    GHQが兵器,航空機,艦艇の生産禁止を解除するまでの足かけ 7年間, 日本の航空機工業の空

    68

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察(佐藤)

    図3 1 中島飛行機と立川飛行機の戦前から戦後

    1915 nU 2

    9

    1

    1925 1930 1935 1940 1960 1965

    白期間が続くのである。この間に多くの航空技術者は転身せざるをえなかった。航空技術者が

    他の産業に移ったことによって,戦前に高度に発達した航空技術が他産業に広く波及し,モノ

    不足時代の民需の発展に大きく貢献した。なかでも特筆すべきは 大量の航空関連技術者が参

    入した土木建設工業,陸上車車両工業,鉄道車!I刺F 電気通信工業の分野で,それぞれ道路,橋梁,

    自動車,新幹線,ラジオ, レーダーなどの発展に尽くしたことである。

    戦後日本の航空機工業は, GHQによる解体,企業再編,1952年の航空再開を経て現在の,機

    体は三菱重工業,川崎重工業 (川崎航空機の継承),富士重工業 (問中島飛行機), 新明和工業(同

    川西航空機), 日本飛行機の 5社,エンジンは三菱重工業,川崎重工業,石川島播磨重工業の 3

    社体制に収赦していった。三菱重工業は戦前からの自動車製造会社でもあったが,新たに自動

    車製造に進出したのが,航空機専業会社であった中島飛行機の継承である富士重工業と立川飛

    行機の継承である東京電気自動車 (後,プリンス自動車)であった。そして,自動車技術に革新

    をもたらしたのふ航空機技術者が主体となった,この 2社であった。中島飛行機,立川飛行

    機の再編状況を図 3-1に示す。

    中島飛行機は機体生産で日本第 l位,エンジン生産では日本第2位,従業員数25万人を超え

    る日本最大の航空機製造会社で 敗戦直前の昭和20年4月には第一軍事工廠となった。1917年

    の創業から敗戦までに 1式戦闘機「隼」, 4式戦闘機「疾風」,艦上偵察機「彩雲J,艦上攻撃

    機「天山」,ジェット推進の局地戦闘機「橘花」など25,935機の機体と46,726台のエンジンを製

    造した。中島飛行機は敗戦と同時に富士産業(株)と改称し民需品への転換を図ったが,日本

    の軍需産業の象徴として GHQの直接指示下で企業解体を受けた。最終的には1950年5月31日

    に富士産業(株)の再建整備計画が認可され,同社の出資を受けて 7月から 8月にかけて12の第

    (47) 日本航空宇宙工業会『日本の航空宇宙工業50年の歩み』 (日本航空宇宙工業会, 2003年, p8)

    69

  • 技術と文明 17巻 i号(70)

    二会社が分離独立した。その後,分割された12社のうち 5社 (富士工業,富士自動車工業, 大宮富

    士工業東京富士産業l 宇都宮車両)が共同出資して1953年7月に富士重工業を設立, 1955年4月

    l日に富士重工業が5杜を吸収合併して中島飛行機 (富士産業)第二会社の大同団絡が完成す(48)

    ることになる。有力な第二会社であり,中島飛行機のエンジン部門を引き継いだ富士精密工業

    (東京工場と浜松製作所を母体)は既にブリジストン(株)の資本が入り,立川飛行機の後継である

    プリンス自動車との合併交渉が進んでいたため,合併には加わらなかった。合併前の主製品は,

    富士工業(三鷹 ・太田工場を母体)がラビットスクーター,富士自動車工業 (同伊勢山奇工場)がパ

    スボディー,大宮富士工業 (同大宮工場) が各種エンジン 宇都宮車両 (同字都宮工場)が車胴製

    造,東京富士産業 (富士産業が設立した商事会社)は第二会社の製品を扱っていた。富士自動車は

    乗用車への,宇都宮車両は航空機への進出を狙っていた。大宮富士工業はジェットエンジンの

    開発に乗り出していた。合併後は乗用車 (スノりレ)と航空機が主力製品となっていくのである。

    立川飛行機は1924年に石川島飛行機製作所として石川島造船所が主たる出資者で設立され,

    1936年に立川飛行機に社名を変更した。陸軍機専用メーカーで,機体製造では第4位であった。

    中島飛行機の「隼J「疾風j「呑龍jやロッキード 14L輸送機などのライセンス生産 (転換生産)

    を行っていた。長距離輸送機のライセンス生産 -開発などを通じて技術を取得し戦争末期に

    は高高度戦闘機キ94(敗戦のため完成せず)の開発も担当した。敗戦後,事業を閉鎖, 工場は

    GHQに接収された。1949年に第2会社 (現在の新立川航空機)を設立し,航空機製造を再開しよ

    うと練習機の試作を行ったが,成功しなかった。本体は1955年に立飛企業(株)に商号を変更し

    て現在に至っている。第二会社設立以前に,立川飛行機は民需転換の一環でアメリカ軍の自動

    車修理を請け負っていたが この自動車部門は1947年に約200名が参加して「東京電気自動車」

    として独立した。その後社名は1949年に「たま電気自動車」, 1951年に「たま自動車」,1952

    年に「プリンス自動車」 と変更され, 1954年には富士精密工業と合併して「富士精密工業」と

    なった。そして1961年に再び社名は「プリンス自動車工業」となった。従って,プリンス自動

    車工業のエンジンは富士重工業と同じく中島飛行機の流れをくむものである。設立時に発売さ(49)

    れた電気自動車「たま号Jは 最高速度35km/h,航続距離65kmと当時の電気自動車の中で群

    を抜いた性能であった。しかし朝鮮戦争勃発に伴うアメリカ軍特需でバッテリーの市場価格

    が高騰したため電気自動車が価格競争力を失ってしまい,ガソリ ン自動車生産への転換を計り,

    後のプリンス ・セダン,スカイライン発売につながっていくのである。

    ( 3) 「小型 ・軽量J自動車に貢献した航空技術

    1949年に GHQが乗用車生産制限を解除した。次いで朝鮮戦争勃発によるアメ リカ軍発注

    (48) 富士重工業株式会社社史編纂委員会 『富士重工業三十年史J.富士重工業株式会社, 1984年,pp.54 75を要約)

    (49) 日本自動車技術会『日本の自動車240選j

    70

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察 (佐藤)

    「特需」を契機に日本経済は急速に拡大,自動車需要も拡大した。日本の自動車工業は,パスや

    トラックについては戦前に自立可能の技術レベルに達していたものの,乗用車についてはほと

    んど製造経験を持たず, 一段と低い技術水準で、あった。乗用車製造技術を強化するため, 1952

    年に通産省は「乗用自動車関係提携及び組立契約に関する取扱方針」を策定した。これに対応

    して 欧米車のライセンス生産による技術取得を選択したのは日産自動車,日野ヂーゼル (後

    に日野自動車),いすず自動車,来月三菱重工業(同三菱自動車)であった。一方独自技術開発にこ

    だわったのはトヨタ自動車,航空機工業から新規参入したプリンス自動車工業,富士重工業で

    あった。

    本稿の趣旨から,航空技術者が主体となったプリンス自動車工業と富士重工業が戦後初めて

    開発した乗用車について以下に考察する。両社が革新的な自動車を開発できたのは,戦前にお

    いて航空機工業の発展を妨げていた要因がなくなったことが大きかったと考えられる。第ーに

    は,すべての面で干渉した陸海軍の存在がなく,技術者が自由な発想、で自ら商品計画を立て,

    設計できたこと。第二には,平和の報酬として自動車先進国の技術資料が自由に入手でき j 機

    械設備,生産技術,部品管理技術,品質管理技術の導入且つ高品質部品,材料の入手性が向上

    したことである。こうした産業環境の改善により,戦前の日本航空機工業に見られる日本的綴

    密な「小型 ・軽量」設計が実現可能となった。

    航空技術の特徴は,空力構造 装備エンジン材料 ・工作,電子・電気,安全性 -信頼

    性などの技術を含む総合技術であり 技術の先導性波及効果が高いことである。更に,技術

    革新の速度が速いz 性能的な要求が厳しく,経験のみでなく原理的に掘り下げて考える必要が

    ある,故障が即ち人命に関わるので安全性が極めて重要,運用環境が広くて非常に厳しいこと

    も挙げられる。当時の自動車工業との関連では,特に車体の軽量化技術,高性能エンジン技術,

    車体形状の空力設計技術を挙げることができる。航空技術者の特質としては,特に「新技術へ

    の取組意欲」の強さ,「飛行(走行)性能」と「重量管理」に対する意識の強さが挙げられる。こ

    れらの特質故に航空技術者が主体となって開発した乗用車,例えばプリンス自動車のプリン

    ス・セダン,スカイラインあるいは富士重工業の軽自動車スバル360は,当時としては革新的

    な自動車となったのである。

    初期の国産小型乗用車4車種 (トヨタ自動車,プリンス自動車)の性能諸元を,発売年を基準に

    並べて表3 3に比較した。プリンス ・セダンは 戦後初の国産1500ccセダンとして1952年に

    登場した。エンジンは富士精密工業製で排気量1484cc,国産小型乗用車として初の OHV

    (Over Head Valve)で,出力は45ps,最高速度はllOkm/hと当時の国産乗用車中傑出した性能で

    あった。本格的な乗用車用シャーシ,4速シンクロメッシュ・ ギアボックス,コラムシフト,(50)

    油圧ブレーキの採用は日本初であった。航空技術者が初めて開発した乗用車が戦前からの白動

    (50) 前出 『日本の自動車240選』

    71

  • 車 名 小型自動車規格

    (道路運送車両法)メーカー

    発売年

    全長 (mm) 4.7C D以下

    全幅 (mm) 1.700以下

    全高 (mm) 2,000以下

    車体重量 (kg)

    乗車定員

    エンジン型式

    排気量 (cc) 1.500以下( 4)

    最高出力 (ps/rpm)

    駆動方式 (1)

    最高速度 (km/h)

    ( 1 ) FR Front Engine Rear Dnve

    ( 2)発売時は「たま自動車j

    技術と文明 17巻 l号(72)

    表 3 3 初期の国産小型自動車

    トヨベ y トプリンス ・セダン

    SA型

    トヨタ自動車 プリンス自動車( 2)

    1947 1952

    3.8~0 4守290

    1.590 1.596

    1.530 1.633

    l.170 1.254

    4 6

    水冷直列 4気筒 水冷直列4気筒

    995 1.485

    27 /4.000 45/4,000

    FR FR

    87 llO

    ( 3)諸元等データは 日本自動車技術会『日本の自動車240選』による

    ( 4)現在は2,000cc以下

    トヨペットクラウン スカイライン

    RS型 ALSID-1

    トヨタ自動車 プリンス自動車

    1955 1957

    4,285 4.280

    1.680 1.675

    1.525 1.535

    1.210 1.310

    6 6

    水冷直亨lj4気筒 水冷直)ii)4気筒

    1.453 1.484

    48/4.000 60/4.400

    FR FR

    108 125

    車メーカーの乗用車を性能面で上回ったのである。1957年には,更に性能を向上したスカイラ

    インが発売され,一時代を築くことになる。

    小型乗用車は,当時の国民所得では簡単に手に入るものではなく,主としてタクシーなどの

    事業用として使われた。軽自動車の規格は1949年 7月に制定され,その後1955年4月の改訂で

    全長は3.0m,全幅はl.3mに,エンジン排気量は360ccに拡大されたが,この規格内で満足な乗

    用車を製造することは業界内で困難視されていた。こうした状況のなか, 1955年 5月,通産省

    の立案になる「国民草育成要綱案」が日経新聞のスクープ記事として報道された。国内各自動

    車メーカーは「実現不可能jと消極的な反応が多かったが,これに本格的に取り組んだのが富

    士重工業であった。

    富士重工業は,自動車工業への進出に当たって合併前の富士自動車工業が1952年に小型乗

    用車 p1 (すばる1500)を開発していた。性能・諸元はプリンス ・セダンに近いものであったが,

    生産設備と販売網作りに莫大な資金を要するという理由から商品化を断念した経緯があった。

    合併後の核となる高付加価値製品として富士重工業は,軽自動車への進出を決断する。計画進

    捗中にスクープされたのが「国民車育成要綱案」であった。同社は軽自動車 (計画名称 K-10)の

    開発目標を,表3 4に示す如く国民草構想、の技術基準の達成に置き,小型車並みの実用性能(51)

    を持つ理想的な軽自動車を開発することとしたのである。K10試作の主要課題は,車体の軽

    (51) 前出 I富士重工業三十年史J(p.95. 96)

    72

  • 戦前日本軍機の特質と戦後の自動車開発に関する一考察 (佐藤)

    表 3-4 軽自動車と国民草構想

    軽自動車規格 |国民草育成要綱案(国民草構想)| スバル360(K-10『試作計図書』要点)

    (1947年 7月~l I (1955年5月l I (1956年 3月)

    1949年 7月 軽自動車の規格 | 人が搭乗した状態で時速100I 「軽自動車」の枠内とする。

    が制定さ�